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クリスティ再読さん |
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平均点: 6.39点 | 書評数: 1419件 |
No.339 | 6点 | モルダウの黒い流れ- ライオネル・デヴィッドスン | 2018/05/18 13:11 |
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デヴィッドスンの処女作兼ゴールダガー初受賞作。とってもイギリスらしい地味スリラーで、ユーモア青春冒険小説、ってノリの作品。「部屋に通ってみると、《小豚》のやつ、書類のなかに首をつっこんで、顔をあげようともしなかった」で小説が始まる、そういう感じ。
主人公の父は戦争前にはチェコでガラス工場を経営して羽振りがよかったのだが、戦後チェコの工場は社会主義政府に没収されて、父がイギリスで作った商社の、パートナーとは名ばかりの金詰りの境遇に主人公は置かれていた。そこに「カナダの叔父が亡くなり遺産が...」の連絡を弁護士から受けたのだが、実はそれは主人公を誘い出して、チェコに核開発を巡る機密書類を運ばせようとする罠だった!主人公は途中でその罠に気づいたために、プラハでチェコ秘密警察に追われる身になった...イギリス大使館に飛び込もうとするが、監視の目は厳重だ。どうする? という話。本作は梗概をまとめても作品のテイストが全然伝わらない。主人公は幼いときにプラハで過ごしていたこともあって、懐かしさを感じつつ土地勘を生かして逃げ回るし、チェコ語はネイティヴ級。逃亡者としては恵まれてる。派手なアクションは皆無で、ひたすら後半逃げ回るプロットを追っても仕方がない。それよりもちょっとしたキャラ描写の面白味とか、洒落た感じのデテールとか、そういうものをのんびり楽しむタイプの作品である。 「不均衡な微笑」に主人公が魅かれるモーラ、「大きな単純な動物」と形容される大女のヴラスタ、お姫様育ちで現実が見えてない主人公の母マミンカと、その母を崇拝し「仕える」かのような老人ガブリエル...とキャラは印象的で、主人公の「ノンキな若さ」みたいなものがみょうに眩しい。 間もなく、ぼくは話しだした。母の聞きたがることは、ぜんぶ、くわしく話してきかせた。彼女の眼は、憶い出によって、生きいきと輝いた。時折り、感動した叫び声をあげながら、ぼくの手をにぎってはなさなかった。母のマミンカに話をすることは、いつもぼくの楽しみだったが、こんなにまで感動して聞いてもらったのははじめてだった。もちろん、例の「秘密保護法」に違反するようなことまでは語らなかったが。 うん、こんな小説である。キャラは人間臭くて生彩がほんとうに、あるな。 デヴィッドスンのゴールドダガーは本作でコンプ。あと「チベットの薔薇」くらいは何とかしようとは思うんだが....要するにこの作家、間歇的に日本の翻訳家とか「面白い!」となって入れ込んで紹介するんだけど、日本の読者に面白味が伝わりやすい作風じゃないこともあって、全然売れず知名度がない、ということになっているようだ。捻ったイングリッシュ・テイストが体質にあう人は面白く読めると思う。CWA獲った作品だとやはりベストは「シロへの長い道」だと思うので、「シロへの長い道」をお試しで読むのがよろしかろう。 |
No.338 | 6点 | ぎろちん- コーネル・ウールリッチ | 2018/05/15 20:57 |
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ウールリッチの短編集って、創元は営業配慮でアイリッシュ名義だし、創元とハヤカワで出てる短編をごっちゃにして白亜書房から生誕100周年記念の高価い短編集はウールリッチだし...と、別名管理がちゃんとできない本サイトだと、ウールリッチとアイリッシュと同じ作品がバラバラに登録されるということも起きてるね。まあ仕方のないことなのだが。
でこの短編集は「ぎろちん」「万年筆」「天使の顔」「ワイルド・ビル・ヒカップ」「穴」「ストリッパー殺し」の6作を収録。こういう短編集があちらである、というものではなくて、訳者の稲葉明雄が自分で選んでいろいろな雑誌掲載用に訳したものを、ポケミスの1巻としてまとめたらしい。どの作品も結構読ませる。 だから、白亜書房版の別巻「非常階段」が、稲葉明雄名訳選として「別巻」扱いで編まれたこともあって「ぎろちん」「天使の顔」は「非常階段」で重複する。個人的な好みでもこの2作がポケミス「ぎろちん」でもツートップの出来のように感じるな。「天使の顔」は弟の死刑を回避するために真犯人のもとに潜入する姉の話。「天使の顔」はその姉の美人設定の形容。 表題作「ぎろちん」はねえ、評者とかだと「赤い花と死刑執行人」だなあ。昔そういうタイトルで子供向け翻訳があったんだよ。死刑確定の愛人を救うために「死刑執行人が執行日に来れなければ釈放」という特例を実現してやろうじゃないの、と策謀する情婦の話。死刑執行人の朝食のクッキーに毒を盛ったので、死刑執行人が体調不良を押して刑場へ向かう姿が息を飲ませる。子供向けだと「情婦」はマズいので、子供になってた記憶がある。けどこれ子供心にも妙なエロチシズムを感じて困ってたな。ギロチンって不思議とエロチックな刑具だと思う... あとこの本、訳者は「稲葉由紀」になっていて、あとがきも女性として、ウールリッチへの愛を告げちゃっているけど、稲葉明雄訳なんだよね....(ぼそっ)女装訳。 |
No.337 | 7点 | 第八の地獄- スタンリイ・エリン | 2018/05/14 23:16 |
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「鏡よ、鏡」のminiさんの愚痴に評者も同感。エリンっていやあ「特別料理」か本作でしょうよ。それが常識、ってもんです。MWAも獲った本作、一応ハードボイルド、ということにされてはいるんだけども、評者的にはハードボイルドの真逆みたいな私立探偵小説だと思う。だから逆に、今風の私立探偵小説に近いといえばそうかもしれない。
主人公は探偵事務所を旧上司から実力で引き継いだオーナー社長。秘書もいれば社員の捜査員も登場するだけで3人、と極めてリアルな「私立探偵小説」。引き受けた事件も警官の汚職容疑を晴らす、なんだけども主人公もクライアントの無実をあまり信じていないし、警官の婚約者に横恋慕してしまって、汚職容疑を固める方につい力がはいってしまう..とリアルには違いないけど「卑しい街を行く騎士」でもなければ「アメリカの悲劇を見つめる質問者」の柄でもなくって、ヒーロー小説でもアンチヒーローでもない「私たちと似たり寄ったりの人間」な私立探偵を描いた小説である。今になってみれば「私立探偵小説」にハードボイルドとは別な水脈を導入したような意義があるんじゃないかな。 けどね、本作とっても小洒落たセンスがあって、そういう当たり前な人間を描いても、とってもオシャレな小説のうまさがある。ここらが短編の名手エリンらしいあたり。リアリズム、ってクソ真面目ということじゃないんだよ判るかな? |
No.336 | 9点 | 運命- ロス・マクドナルド | 2018/05/08 10:28 |
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いやこれヘヴィ級の名作だよ。ロスマク読んでて本作くらい感銘の深い作品も少ない。本当に1日の出来事か、というくらいに濃密な事件が立て続けに起きるが、その分全体から見るとシンプルで晩年のバロックで冗長なあくどさはないし、本当はアーチャー自身の「罪」が事件への微妙なきっかけを与えていることが最後に明らかになって、「探偵倫理」みたいなものからも非常に趣が深い。
また本作、「Yの悲劇」みたいなもので、幕開きにすでに死んでいる人物こそが、家族への「禍を告げる者」として実に甚大な影響を与えていることがある。 彼女の残した死の遺産を考えていると、彼女の運命の司(ドゥームスターズ)を信じてもいいような気になってきた。もし現実の世界に存在していないとしても、それはあらゆる人間の内部の海の深部から夜の夢のように優しく、はげしい力で潮を截ってあらわれるのだ。男と女はおのがじしおのれの運命の司であり、おのれの破滅をひそかに記す者であるという意味のなかに、おそらくそのドゥームスターズが存在する。 なので事件上の犯人にアーチャーは「俺は君を憎んではいないよ。反対だ」と告げるのだが、この事件の全体はアーチャー自身の罪さえも巻き込みながら、宿命論的ななりゆき、としか言いようのない暗澹とした結末を迎えざるをえなかったことの結論みたいなものだ。評者もアーチャー同様に、本当に犯人に何か萌えるものがあるなあ。この犯人が過ごした時間、「ぞっとする冷気に灼かれて横たわり、時計をみつめ、一晩じゅう時刻を打つ音を一つひとつ数えていた」時間というものが、それこそ「テレーズ・デスケールー」に近づいている感を受けるほどに、だ。 ただしこの地獄絵図は、やや明るい結末を迎える。家族の生き残りはこの事件ですっかりと悪因縁が落ちただろうし、アーチャー自身の有罪を証す人物にも救いがある。評者の好みからいくと、ロスマクは後期じゃなくて本作あたりの中期後半が全盛期じゃないのかなぁ、と思うよ。本作とか「ギャルトン事件」とかもう少し読まれてもいいんじゃないかしら。 ちょっと追記。本作の中田耕治の訳に不満を述べる人が多いけど、評者に言わせると、ロスマクは「ハードボイルドから徐々に独自のアーチャーの物語に移行していった人」なのであって、本作だとそういう移行の真っ最中の時点のわけだ。本作だとそれこそ「俺の拳銃は素早いぜ」なオスタヴェルトみたいなキャラもいて、アーチャーの殴り・殴られも何回か、ある。中田訳のアーチャーのイメージが、後期のアーチャーのイメージとズレているのは、リアルタイムでのハードボイルドの受容を証してるようなものだと思うんだが、いかがなものだろうか。まあ中田耕治って妙な意訳でスラングに置き換える傾向があるけど、適度な下品さってハードボイルドには必須なように感じるよ... |
No.335 | 8点 | 成吉思汗の後宮- 小栗虫太郎 | 2018/05/05 00:31 |
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今の人は「黒死館」しか読まないのかねえ....小栗虫太郎は黒死館のあとも人気作家の座を守り続けて、戦時色が強くなっても海外を舞台とした西洋伝奇から秘境小説へとスケールの大きな冒険譚を書き続けたのだけど...
で、本作は講談社大衆文学館のシリーズで読んだが、元は虫太郎復興の立役者だった桃源社が編んだ同題の作品集から約半分の、西洋伝奇~秘境小説を7作収めた短編集。ネタの豊富さでは無尽蔵では?と思うほどにさまざまな擬史を題材に燃焼度の高いロマンを紡ぎ出している。天明期の日本人が沿海州に渡って覇王の座につきかける話「海螺斎沿海州先占記」、右翼崩れの流れ者のドイツ人が雲南の紅軍(「完全犯罪」と同じような舞台だ)と行動を共にする「紅軍巴蟆を超ゆ」、ナポレオンの末裔と噂される数学者がロシア革命に乗じて帝位を窺う「ナポレオン的面貌」、ジンギスカンの末裔らしき青年が大陸浪人たちに担ぎ上げられ..「成吉思汗の後宮」、ロンドン塔に幽閉された謎の男の脱獄の話「破獄囚『禿げ鬘』」、フランス革命の最中、王党派の闘士「百合家の騎士」vsジョセフ・フーシェ&暗号解読家カドゥーダルの「皇后の影法師」、バスコ・ダ・ガマの航海✕それを妨害するハンザ同盟の陰謀✕ピラミッドの謎=「金字塔四角に飛ぶ」...と題材の広さ、発想の豊かさ、それに独特の名調子と合わせて、比類のないエンタメになっている。黒死館だと言葉で説明するだけだったエピソードが、きっちり絵に仕上げられているようなものだから、その豪華絢爛さには絶句する。 ただし長所はまた弱点でもあって、この人、書きたいシーンしか書かないんだな。なのでどれもダイジェスト的な印象がどうしてもつきまとう。本当にどの短編をとっても、1冊の大長編が書けるようなネタなのである。それをぎゅっと圧縮し抽出し尽くした最上の一滴を味わう贅沢さ、をどこまで味わえるかを試してみるといいだろう。 しかし、すぐうち消した。覇業半ばで死ぬ。云いようのない淋しさがやってきた。海は鳴っている。彼はじぶんがここを抜けでて、巌頭に立っている、幻をみた。この海参威の岬の鼻でヒュッと喚声をあげ、たかい潮煙をおどらせ巌礁を飛沫かせるその波は、はるばるここまで来た、国の波ではないのだろうか。そうだ、俺はくだけた。 ね、黒死館よりずっと読みやすいでしょう? しかしこの独特のテンションの高さ、熱っぽさが評者はたまらなく好きである。 |
No.334 | 7点 | 軍旗はためく下に- 結城昌治 | 2018/05/04 23:44 |
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直木賞というと、一時期ミステリの受賞が不当にも拒まれていた頃があって、ミステリ系の作家でも「非ミステリ」な作品で受賞していたことがあった...大実力派だった結城昌治でも、直木賞受賞は本作。ミステリ仕立てもある戦記に取材した反戦小説である。
5つの短編がそれぞれ、「敵前逃亡・奔敵」「従軍免脱」「司令官逃避」「敵前党与逃亡」「上官殺害」と軍法上の罪状がタイトルになり、それぞれの罪状を犯した経緯が語られる。もちろん結城昌治の油が乗っていた時期なので、巧妙な語り口もそれぞれ変えてつつも、それぞれ狙いがことなる短編になっている。 ・「敵前逃亡・奔敵」は臆病でグズという評判の下士官が失踪したが、数カ月後に出頭してきた...その理由は?という一種のホワイダニット。 ・「従軍免脱」は上層部にはびこる不正を告発した兵士を無理矢理に罪に落とす組織的な腐敗の告発。 ・「司令官逃避」は捨て駒に指名された中隊を恫喝する口実でしかない。 ・「敵前党与逃亡」は事情不明のまま判決だけが記載された戦没者連名簿の事情を巡る「藪の中」。 ・「上官殺害」は横暴な小隊長を小隊ぐるみで殺害したという、軍隊でも究極の犯罪。 と中支・フィリピン・インパールなどを舞台に、大戦末期の統制が崩壊した軍隊の中での悲惨な出来事を、戦後の「生き延びた人々」の視点で描いている。語り手たちはみな後ろめさを抱え込んでいるのが印象に残る。みな悲惨な出来事を思い出したくもないのだが、心に焼き付いて離れないのだ。最後の「上官殺害」は生きて帰ったが失明して温泉で按摩をして生きている男と、上官殺害の話を聞きに来た男との会話と、本音の独白とをカットバックした構成で、小説的には評者はこれが好きだ。 結城昌治のベスト、というわけではもちろんないのだが、それでも実力の堪能できる広義のミステリ、くらいの作品である。 |
No.333 | 7点 | 夜来たる者- エリック・アンブラー | 2018/05/04 00:02 |
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遺作の「The Care of Time」が未訳なので、訳のある長編小説としては評者としても最後になる。本作はアンブラーの作品の中でも、ドキュメンタリに近い肌触りでかなり異色だ。
舞台は実質インドネシアの一部である「スンダ共和国」。その奥地のダム建設に従事していた主人公が、帰国間際にクーデターに遭遇する話である。ドキュメンタリ風だが、小説的な構成や仕掛けがしっかりあって、 1. 主人公が一時滞在のために借りた部屋が放送局のビルの上階にあって、まさにその部屋が反乱軍の秘密司令部に接収されてしまい、捕虜まがいの待遇を受けつつも反乱司令部の動きを直接見聞できる。 2. イギリス人の主人公だけなら単身脱出もあるかもしれないが、一緒にいたガールフレンドが欧亜混血で人種差別から気まぐれにでも殺されかねない懸念があって、心ならずも反乱軍に協力せざるを得ないこと。 3. 反乱軍の一員にダム工事で知り合った少佐がいるのだが、その少佐、どうも政府軍がわに通じているらしい... と小説的な興趣のポイントがいろいろあって、ただリアルなだけではない芸の細かさを見せる。たしか実際のクーデータ事件をアンブラー自身現地取材に行って書いたんじゃなかったっけ。そんな話を読んだ記憶がある。 反乱軍との駆け引きが後年の「グリーン・サークル事件」を連想するとか、クーデターの背景などが「武器の道」でも採用されているとか、それまでどっちか言えば東欧に強い印象のあったアンブラーがアジア・ラテンアメリカの旧植民地国へ視点を広げるきっかけになっている作品であるとか、アンブラーの折返しポイント的な重要作である。アンブラー論をするならまさに必読の作品。 本作でアンブラーもとりあえずコンプ。ベスト5は「インターコムの陰謀」「武器の道」「シルマー家の遺産」「ドクター・フリゴの決断」「グリーン・サークル事件」。要するにね、今更「墓碑銘」とか「ディミトリオス」なんてお呼びじゃないと思うんだよ。戦後のアンブラーって戦前と比較したら2ランクくらい作家的実力がアップしている感があるわけで、戦前の作品なんて歴史的な価値くらいしかないと思うんだがいかがだろうか? |
No.332 | 6点 | 関東軍謀略部隊- 川原衛門 | 2018/05/03 23:26 |
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日本で実録系のスパイ小説って何かないか...と思っていたら、父親の蔵書にいいのがあった。本作は満州で活動した「外人部隊」のうち白系ロシア人で作られた「浅野部隊」と興安嶺の少数狩猟民族のオロチョン人を組織しようとした野上大尉の活動に取材した実録小説である。タイトルに「関東軍」と入っているが、日本軍の満州駐屯軍だった関東軍の所属ではなくて、「満洲国軍」の所属だから本当はタイトルに偽りがあるが、まあ仕方がない。両部隊とも実質的な活躍はなくて、関東軍の崩壊とともにあっけなく消滅したから、戦史上の意義は薄いのだが、スパイ小説として読むとある意味リアルのきわみ、だろう。
白系ロシア人部隊はその政治的な立場からも、実に戦意旺盛だが、南方戦線が悪化して関東軍から部隊が引き抜かれ弱体化すると、ソ連を無用に刺激しないように...と政治的にややこしい部隊として持て余されることになる。ソ連参戦で関東軍が崩壊すると、この部隊の一部はあくまでゲリラ戦を挑んだらしい。 興安嶺に住む狩猟先住民のオロチョンをうまく組織できないか、という任務を帯びて単身野上大尉が派遣されて、オロチョンの部族とともに暮らしている。オロチョンの馬術と射撃は人間離れしているので、野上は豊富な物資を報酬に、オロチョンに軍事的な訓練をするのだが、野上の思い虚しく日本軍の形勢が不利になるととたんに...と両部隊とも日本軍の思惑どおりにはまったく動かなかったあたりが、民族問題のややこしいところである。 歴史の影に隠れてしまった戦史のエピソードなのだが、本作だったら一応ちゃんとしたリアルな「軍事スパイ小説」の範囲に収まるような内容である。本作では扱われていないが、たまたま樺太にいたために日露戦後の南樺太割譲で「日本人」になっちゃったニブヒやウィルタを、旧軍が徴用して諜報に使った話もあるしね。 評者どうも北方少数民族に妙な憧れみたいなものがあるんだよ...同系統の沿海州の少数民族を扱ったドキュメンタリ小説だと「デルス・ウザーラ」(黒沢明が映画にしている)がある。 |
No.331 | 7点 | 虚栄の女- ウィリアム・P・マッギヴァーン | 2018/05/03 11:03 |
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作家コンプ中心に読んでいくと、最後の方ってどうしても入手困難作が多くなるし、入手困難=不人気、ってことが多いから、あまり面白さをアテにできない...のが覚悟の上なんだけども、逆に面白かったりすると「わ、世の中に知られてない儲けモノみっけ!」と気分が高揚するのがご褒美みたいなものだ。
さて、マッギヴァーンも大詰め「虚栄の女」。儲けモノの部類である。好きな作家なればこそ、うれしい。第二次大戦中のシカゴ社交界の花形だった女性、メイ(ま要するにクルチザンヌである)。彼女が戦時中の政財界の裏面暴露の日記を出版しようとしている、という噂がたち、シカゴの政財界に静かなパニックが走った。身に覚えのある実業家ライアダンは、同時に戦時中の不正を暴く上院の委員会の標的となって、調査団を迎えることになった。調査団とメイ、この両面からの脅威を押し戻すため、ライアダンは広告代理店と契約した。主人公はその担当者となって、ライアダンと対策を協議しつつ、主人公旧知のメイとの交渉にあたるのだが....がその最中メイが殺害されて戦時中の日記が消え失せた! 企業などの不祥事、というと謝罪会見で会社幹部が妙に尊大な態度をとって炎上しまくる...というのがこのところ続いていて「危機管理がなってない」とか評されるわけだけど、とくに日本は「アドバタイジング」と「パブリック・リレーションズ」が混同されるきらいがあって、正しい意味での「PR(パブリック・リレーションズ=社会との関係)」が定着していない風土であるから、「なんで広告代理店?」となる読者も多かろうが、本作の広告代理店と主人公の仕事は、まさにこの「PR」である。ライアダンの記者会見を主人公は見事に仕切ってみせる。評者とか真似したいくらいにナイスな設定だと思うのだが、いかがだろうか。 でまあ、この実業家は実のところ絵に描いたような悪党で、仕事とは言いながら主人公は葛藤する。別居中の妻も同僚で、主人公を見守って離婚するかどうかを考慮中だったりする。 きみの忠誠心は、売りに出ていたものなのだ。それをわたしが買ったのだ。粉骨砕身、きみに働いてもらうつもりである。たとえわたしが詐欺師であろうと、正直な人間であろうと、それには何のかかわりもないことなのだ。これだけいえば満足してもらえるかな? いやあ、マッギヴァーンらしさ全開だね。道徳的トラブルを抱えながら、事件の真相を追いかけて、自らの道徳的葛藤にも決着をつける。犯人もうまく隠せているし、手がかりは会話の中の齟齬みたいなものだから、かなり難度が高いけど、まあフェアかな、くらい...と若干パズラー的興味もある。 父親は粗悪な小銃を政府に納入して儲けるが、その息子は戦争で手柄を立てて「英雄」なんだけども、戦争神経症を患って戦後は無為徒食のまま父親に反抗しつづけるし、主人公の妻は仕事で主人公が成功すればするほど「嫌な奴」になってくるのに耐えれなくて別居→離婚を考えているなど、サブキャラもなかなかうまく書けている。あっけなく殺される影のヒロイン、メイの存在感というか、「なぜ暴露本を出そうとしたか?」はミステリ的な謎というよりも、キャラの性格から説明されるとか、小説的な厚みがあって、これはいい小説である。先行する「囁く死体」「最後の審判」は今一つだったのと比較すると、マッギヴァーンらしさが本作で早々と開花している印象だ。次作はもう「殺人のためのバッジ」だもんなあ。 マッギヴァーンのコンプ記念でベスト5を選ぼうか。「殺人のためのバッジ」「最悪のとき」「明日に賭ける」「ファイル7」「けものの街」...まあこの人の場合ベスト5選びはほぼ定番に落ち着いて全然面白みがない。 |
No.330 | 7点 | 恐怖のパスポート- エリオット・リード | 2018/05/02 22:49 |
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エリオット・リード名義の全5作も、本作で完了、ということになるのだが、リードの手の内が分かってきて、しかもタイトルが悪くて読む気をソソらないものだから、ずっと後回しにしてきた作品なんだけど....いや、本作面白い。他のリード作品とは違って、「武器の道」とか「ダーティ・ストーリー」とか「ドクター・フリゴ」との関連性がずっと強いから、それこそアンブラー名義で出ても全然不思議じゃない。リード名義は本当に本作と「反乱」だけ読めばいいくらいだ。
主人公は金策のため、兄の援助を求めに兄の住むグァテマラ(たぶん)に旅立った。兄は考古学の研究で訪れたグァテマラでの発掘で得た出土物を保護するために、現地に土地を買い、コーヒー園を経営していたのだった。しかし、兄との連絡が全く取れない...主人公は不審に思いつつも兄の農場に到着する。そこで迎えたのは兄の妻の兄妹を名乗る男と、衰弱しきった瀕死の兄、それとなぜか行きの飛行機で乗り合わせた兄の妻を名乗る女だった...兄の農園は妻とその兄弟の手に渡り、なぜか主人公は農場に監禁されることになってしまった。不用意に主人公がその娘に会いに来るように手紙を送ってしまったために、何も知らない娘もまもなく到着すれば、同じように監禁されることが目に見えている。主人公は脱出を決意した。 という話。ジャングルを越える逃避行が戦前のアンブラーの定番だった脱出行を彷彿とさせる。前半のサスペンス、中盤の冒険小説風、後半の主人公の娘とそれを張り合う二人の青年を巡る軽妙なロマンティック・スリラーの味、しかも大詰めでクーデター事件まで盛り込んだノンストップな面白さである。主人公の娘を張り合う青年の一人が、南米の大鉱山所有者の息子で、主人公の娘の失踪は警察に取り合ってもらえないのに、娘に恋して娘の行方を捜す男が自分で動くと、その青年の安否のために警察が動いて捜査の端緒となるとか、クーデターの予兆を操作の結果つかんだ警部が、警視総監に報告するがどうやら総監もクーデター派のシンパで取り合ってもらえないのが、もう一人の恋敵はオペラ歌手のくせにその父が政府の要人で、娘の奪回のために協力して軍を動かすとか、中南米で「ありそう」な皮肉なプロットも面白い。中南米で横行した山岳ゲリラってこんなもんなんだよねぇ。 |
No.329 | 8点 | エラリー・クイーンの新冒険- エラリイ・クイーン | 2018/05/02 22:12 |
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クイーンも本作やって一区切り、と考えているのだが、この「新冒険」、「冒険」よりもずっと面白いな。あの評判の悪い第二期での最大の傑作じゃないかしら。
「神の灯火」はあとでちゃんと触れるが、ポーラ・パリス登場のハリウッドシリーズ系作品は、30年代のアメリカの都市住民のエンタメ感覚をうまくキャッチできているように感じる。小説として実に小洒落ているな。「ハートの4」とかの長編がムリして書いてる感が強かったわけだけど、最後の4短編あたりキュートにまとまった都市小説の良さを愉しめる。「トロイヤの馬」なんてそれこそ詩的正義、というものだ。最初の4本が代表するホームズ的短編からの脱皮がこの作品集の只中で行われたようなものである。 で問題の「神の灯火」だが、ライナッハは要するに「十日間の不思議」のディートリッチの原型みたいなキャラで、「奇蹟」というものの人間理性に対する在り方を問うような狙いがある。本作は大技が注目されるあたりだけど、本当は手品的な大技がミスディレクションでしかないあたりに、本作の真の価値がある。「奇蹟」という神の手品に対して、信仰と理性がせめぎあうさまを、後期クイーンは何度も繰り返すことになるのだ... 一応クイーンの真作長編+冒険+新冒険でのコンプを記念して、ベスト5を選ぼうか。「十日間の不思議」「シャム双生児の秘密」「ガラスの村」「Xの悲劇」「第八の日」。ごめんね異端なのはわかってるよ。 |
No.328 | 5点 | 囁く死体- ウィリアム・P・マッギヴァーン | 2018/04/29 23:32 |
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マッギヴァーンって何故か同じネタで2作書く傾向があるみたいだ。本作と「ゆがんだ罠」がペアになるし、元刑事復讐譚だったら「ビッグヒート」と「最悪のとき」、悪徳警官なら「悪徳警官」と「殺人のためのバッジ」、閉鎖空間でのパワーゲームなら「ファイル7」と「明日に賭ける」..でどうしても比較になるのだが、本作は「ゆがんだ罠」とだと歩が悪い。雑誌編集部内の人間模様の描きっぷりも、パズラーとしてのフェアさも、もう一つ。あ、本作は「ゆがんだ罠」同様に「巻き込まれ型パズラー」といった体裁のもので、ハードボイルドでも警察小説でもなくって、サスペンスと言うほどでもないからきわめて消極的に「本格」枠が適切。
どうみても「ゆがんだ罠」が本作の上位互換なので、そっちを読むことを薦めるが、被害者がイヤなヤツでも、イヤなヤツなりの屈折が描けているあたり、完全な悪人も完全な善人もいないマッギヴァーンらしい世界ではある。 さて残りは本はキープ済の「虚栄の女」になった。さすがに「1944年の戦士」は戦記物だしなあ....いいだろ。 |
No.327 | 7点 | スパイを捕えろ- アンソロジー(海外編集者) | 2018/04/28 10:40 |
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アンブラーが編んだスパイ小説短編のアンソロである。ただし、収録作品は「アシェンデン」のエピソードから(モーム)、「ディミトリオスの棺」のエピソードから(アンブラー自身)、「薔薇と拳銃」(007)と、容易に入手できるものが大部分で「お買い損」なアンソロなんだが...それでもね、このアンソロの「売り」はアンブラーによる序文「ごく短いスパイ小説史」が必読級に示唆的なことと、日本ではほぼ未紹介のコンプトン・マッケンジーの「最初の特使」(これ自体長編「三人の特使」の1/3ほどのエピソード)が素晴らしいことである。
序文は「スパイは人類でも最古の商売であるにもかかわらず、なぜ19世紀末にならないとスパイ小説は登場しなかったのか?」という「謎の提示」が素晴らしい。「スパイ行為」は「軍人の名誉」ともっとも対蹠的な概念であるがゆえに、小説家が着目しなかった、という説を述べている。つまり、スパイ小説での最大のテーマはアンチヒーローにならざるを得ない「主人公のモラル」なのだ。 この視点を徹底的に敷衍したのが実は「最初の特使」であり、多分本作がこのアンソロのメインディッシュで、編者的にはあとの作品はオマケなんだろう....「最初の特使」の主人公は第一次大戦中の中立国ギリシャで活動するイギリスのスパイ網の現地担当者である。中級幹部、ということになるから、アシェンデンみたいな末端でもなく、スマイリーみたいな中央官僚でもなく、同盟国のフランスの諜報担当者とも交渉しつつ、自由裁量もある程度はあって主体的に作戦を立てていく。ドイツ側に付きたい国王派と、英仏に付きたい政治家とが暗闘している最中に、ドイツ側になるべく失点をつけてギリシャを英仏側に立たせようと主人公は画策する。状況は非常にドラマチックなのだが、本作はプロットを軸にした作品というよりも、「アシェンデン」風の皮肉で気の利いた日常描写主体の作品で、大したプロットがあるわけではない。「最初の特使」の最後で主人公は「砂はえ熱」で高熱を出して寝込む。高熱による錯乱を利用して主人公は副官に自身の真情を吐露する...これこそが「スパイ小説」の最大のテーマである「主人公のモラル」を表現しきった内容なのだ。 今、この瞬間、この俺にはっきりしていることがある。それは、ここの国民をドイツとの戦争にかりたてる何の権利も、われわれは持っていないということだ。この地獄のような帝国主義はみんな悪だ。 「最初の特使」と序文だけでも、本作は読む価値アリ。 |
No.326 | 6点 | 恐怖へのはしけ- エリオット・リード | 2018/04/26 13:29 |
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「スカイティップ」「危険の契約」とイマイチな作品に当たって少し心が折れかけたが、本作はまあまあ面白い。以前「あるスパイへの墓碑銘」について、クリスティ「NかMか」と大まかなプロットが同じことを指摘したけど、意外かもしれないがアンブラーとクリスティってテイストが似ているところがあるんだよね。ぽっかりと予定の空いてしまった主人公が田舎に戻って奇怪な事件に遭遇するとか、地方色の丁寧な描写とか、ボーイミーツガール的なロマンス要素とか...そう特殊なものではないが、悠揚迫らざるのんびりした語り口と合わせて、共通点が意外なほど多い気がする。訳者だってクリスティの訳が多い加島祥造である。さらにそういう印象が強まる。
本作は飛行機で乗り合わせた美女とおせっかいな男から、主人公の医師がトラブルに巻き込まれる話である。おせっかい男は主人公と無理やり同宿した夜に、謎の失踪を遂げる。主人公はおせっかい男が封筒を隠したのを目撃していたので、その封筒を回収するのだが、失踪した男はフランスで死体となって発見された。主人公は尾行されているようだ... うん、本当に標準的なスリラーで、特色とか感じない平凡なプロットである。しかしね、舞台となるロンドン近郊の沼沢地帯の描写とか、主人公たちが立てこもる風車小屋の情景とか、そして何よりヒロインのツンデレさがいい。 日本だとどうも「アンブラー=墓碑銘orディミトリオス」という捉え方をされがちなんだが、実際のところ戦後のアンブラーは作家として進化を遂げてしまって、戦後の作品の方が戦前のそれと比較にならないくらいに、いい。だから「戦前みたいなスリラーを」と書肆から要望されたときに「アンブラー名義じゃあ...」となって「エリオット・リード」が誕生したのでは、という推測を巻末解説の都筑道夫が書いているが、まあそれも当たってるだろうね。 |
No.325 | 6点 | 地中の男- ロス・マクドナルド | 2018/04/21 23:23 |
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後期ロスマク、ということになるのだが、どうも「別れの顔」以降は進歩というよりも、今まで登場した要素が複雑化してバロックなほどに肥大化の途を辿っているような印象だ。
作中で「大人子ども」というような言い方をされているが、これは一時流行った「アダルト・チルドレン」といった方がわかりやすいのだろう。まあこの概念も意味があるのかないのか微妙なものと感じるのだが、殺人を目撃するなど深いトラウマを抱えたまま成長した「大人子ども」が4人も登場して、さすがに食傷する...「大人子ども」たちとその親たちの間を、アーチャーが往復するので「誰がどの...」と読んでいて混乱するんだよね。ふう。ちょっとした描写でキャラを性格付けするのが上手なチャンドラーと比較すべくもなくて、ロスマクってキャラ造形はそう上手と思えない(すまぬ)。ロスマクのキャラで印象に残るのはあくまでもプロットが割り当てた役割が印象的だ、ということの結果ではなかろうか。 まあそれでも二人の逃避行を軸に読者を引っ張る「読ませる力」みたいなものはあるけどねえ。袋小路な印象の方が強いかな。背景でずっと燃えている山火事があくまで雰囲気作りだけで、プロットに直接絡まないのも若干不満である。 |
No.324 | 6点 | 蒸発- デイヴィッド・イーリイ | 2018/04/15 21:06 |
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銀行の上級幹部の主人公は、死んだと聞いている友人からの電話に耳を疑った...それは、地位も家族も捨て、別人として新しい人生を歩むことへの誘いだった。社会的成功とは裏腹に、満たされない思いを抱いていた主人公は、その誘いに乗ってしまった。至れり尽くせりで「会社」が用意してくれた新しい自分は、別天地カリフォルニアでの画家としての生活だった。そこは同じような「転生者」たちの村なのだが、「転生者」たちが相互に監視しあっているように主人公は感じた....
と、こういう話、当然主人公は転生に「失敗」する。読んでて「会社」の「営業」は薄々気がついてくるので、会社を困らせる馬鹿なことばっかりしている主人公への同情の余地も、あまりない。それこそ星新一だったらショートショートで終わらせるのでは?という話なのだが、プロセスをしっかり書き込んであるので、怖い描写はゼロでも、「本当は...」の想像から徐々に怖くなっていくあたりがこの人の芸というものか。 |
No.323 | 7点 | アシェンデン- サマセット・モーム | 2018/04/13 17:02 |
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モームの実体験に基づいたスパイ小説である。とはいえ、本作ではプロットはさほど重要ではなく「スパイという視点からのスケッチ」という雰囲気の連作である。まあ小説家というのも、「人生というものをスパイの視点から見る」ような職業のわけで「劇作家を隠れ蓑にスイスに駐在するイギリス情報部員」なんだけど、ついつい小説家視点で関係者を観察するあたりがいろいろ面白い。
だが正直のところ、彼のような雑魚にとっては、特務機関の一員であることも、一般に考えられているほど冒険心を満足させるものではなかった。アシェンデンの仕事は市役所の事務と同じように、整然として単調だった。一定の期間ごとに、自分のスパイと出会い、給料を払う。新しい人間を手に入れると、スパイとして契約し、指図を与えてドイツに送り込む。 なので本作では明確なオチやはっきりしたプロットがあるわけでもなく、アシェンデンがスパイ活動を通して出会った人々の運命が綴られる。ただの中間管理職だから作戦の末端で全貌もわからず人の手配をするだけのことだ。スリーパーらしい老嬢の臨終に居合わせるが、情報らしいものが手に入るわけではないし、結果的に暗殺を指示することになるが、誤殺に終わることもあるし...とスパイ管理職のルーチンワークを淡々とこなしていく。身元を偽るスパイ、というのもあり、感情移入を一切排したカメラアイ的な描写が続く。不条理さの漂う上等のハードボイルド小説を読んでいるような印象である。焦らずじっくり読んで楽しむべし。 |
No.322 | 7点 | 超男性- アルフレッド・ジャリ | 2018/04/08 11:23 |
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「わけの分かる」ものだけを面白いと感じる読者もいるのだろうが、評者とかは「わけが分からないがそれでも抜群に面白い」というのを積極的に面白がろうと思うのだ。というわけで本作。白水社のuブックスでは「小説のシュルレアリスム」で纏められたシリーズに入っていて、シュルレアリストに愛された作品なのだが、ブルトンの「ナジャ」とかヘンリー・ミラーみたいな「シュルレアリスム小説」ではないし、SFなのかポルノグラフィーなのかヒーロー小説なのか、なんとも分類できないヘンテコ小説である。だが、それがいい。
本作の主人公マルクイユは、一見冴えない鼻眼鏡・猫背の有産階級の男である。しかしその姿は擬態であって、彼こそは実は「超男性」だった。彼のパーティでマルクイユは2つの挑戦をすることを公にする。「永久運動食」によって強化された5人乗り自転車チームと機関車とのパリ~イルクーツク往復競争を出し抜いて、両者に自転車で勝つこと。それと「テオスフラトスの称賛する、ある種の植物の力を借りて、一日に70回以上(性交を)行ったインド人の記録」を破ること。この2つの肉体的偉業である。 ..まあだから、本作はマンガみたいな話なのである。5人乗り自転車と機関車に対しては、幽霊のような乗り手としてそれに並走してついには抜き去るし、この競争の発案者のアメリカの実業家の令嬢と、医師立ち合いのもとに一日70回を超えた82回の記録を樹立してしまうのである...最終的には1万ボルトの電流にも勝利し「機械の方が人間に恋をしている」状態に至る。 そういう超人の話である。もちろんこの超男性には内面などという曖昧なものは一カケラもなく、機械の厳しい正確性があるばかりだ。そういう意味で、本作もたとえばハードボイルド・ヒーローたちとともに、特にフランス20世紀の広義のノワールの原型の一つと言えるだろう。評者は「超男性」をゴダールの「勝手にしやがれ」の主人公の祖父くらいにいつも感じるんだよ。 誰も信じないからあたしは信じるのです...馬鹿げたことだから信じるのです...ちょうど神を信じるように! 本作は 1902年という20世紀の本当にトバ口で書かれた小説なのだが、本作こそが、ある意味「20世紀」を体現した作品のように感じるな。(機械の精神が骨の髄まで入っているせいか、本作はナルシスティックだけど全然エロくないですよ。ミョーな期待はしないでくださいね) |
No.321 | 7点 | シロへの長い道- ライオネル・デヴィッドスン | 2018/04/05 09:14 |
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本作の主人公は文献学者で、死海文書などの研究者だったりする。だから本作は「文系冒険小説」とでも言うべき作品。ナグ・ハマディ文書とか近いところではユダの福音書を巡る騒動を見ても、学者の功名争いと投機的な古文書ブローカー、それに国家遺産として所有権を主張する出土地の文化機関が三つ巴四つ巴となって、スパイ小説まがいの暗闘を現実に繰り返してきたあたりを見るにつけ、本作の世界はリアリティが結構、ある。
七肢の燭台メノーラはユダヤ教を象徴する聖具だが、西暦70年のユダヤ戦争の結果、ローマに略奪されたとされている。しかし奪われたのは偽物で、本物はその最中に地下に埋められて隠蔽されたのだ、とする記録文書が出土した。イギリスの文献学者の主人公はその「勘の良さ」を買われてイスラエルの某筋に、メノーラの捜索に雇われた。その記録文書の記述は曖昧で、いろいろと矛盾もしている。同じ文書がほぼ同時にヨルダン側にも渡ったようだ。主人公にも妨害の手が伸びてくる... という話である。主人公は学者だが、ヨルダン側のメノーラ捜索隊の侵入を撃退する戦争小説風の部分もあり、巻き込まれスリラー並みの肉体アクションもあり、暗号解読の妙味あり、荒涼たるユダヤの地の物珍しい風土描写あり、といろいろな興味を詰め込んだお買い得な作品。死海にぷかぷか浮かびながら主人公が逃亡するのがクライマックスで、これが印象的。 キャラ造形・デテール描写の上手な作家なので、大学教授の知性もきっちり小説の中に再現できている。イギリスでのゴールド・ダガー受賞は納得の出来だが、日本でも多少ユダヤ・キリスト教の知識があると面白く読めること間違いなし。 |
No.320 | 8点 | ギャルトン事件- ロス・マクドナルド | 2018/04/02 18:13 |
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本作とか「運命」とか、ロスマクの転回点として重要作になるのだけど、なぜかポケミスでしか出なくて文庫にならなかったんだよね。「さむけ」とか「ウィチャリー家」とかがミステリ文庫の初期の目玉の扱いだったのと、なんでこんなに差のある扱いなんだろうか....というわけで、ちょいと判官びいきの点をつけます。
文庫にならなかった理由は本当に不明。一応本作は70年代あたりだとロスマク代表作級の扱いを受けてた記憶がある。文庫になるならないで知名度に差が出ちゃった...としか言いようがない出来。巨額の財産を継承すべき20年前に失踪した息子を探せ、という依頼を受けたアーチャーが、その息子?の死体が発見された件、依頼をした弁護士の使用人殺し、そしてその息子の息子が見つかるが、その身元に疑念が...というあたりの謎を解いていくことになる。 本作の一番いいのは、その孫息子の身元疑惑とその解決なんだよね。これ意外に小説として難しい「謎」で、「ほんもの」だと周囲の事件と絡ませにくいし、「ニセモノ」だと小説としての捻りがないし...とこの隘路を小説としてかなり上手に処理できていること。パズラーじゃないので殺人が結構行き当たりばったりで、ワルい奴らが右往左往しているけども、かえってそのくらいの方がハードボイルドらしくてイイように感じるよ。「一瞬の敵」みたいな家族・血統の中だけの話になると、因果話みたいになって閉塞した感じになるから、このくらいのオープン感が評者は好きだな。 (あれ、今 amazon で何となく検索したら、ボッタクリな高額出品以外ひっかからないや...そんなに入手性が今悪いのかしら。もったいない) |