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ミステリの祭典

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レイ・ブラッドベリへさんの登録情報
平均点:7.30点 書評数:33件

プロフィール| 書評

No.33 6点 火刑法廷
ジョン・ディクスン・カー
(2019/08/21 15:44登録)
 〔 カー の 作品を 初めて読み通しました 〕

 ビブリア古書堂の五浦君は 「 本を読めない体質 」 だそうだが、そういう自分は「 カーを 読めない体質 」 だった(笑)

 そのことに気付いたのは ずっと昔の学生時代 ―― 通学電車の中で だった。

「 帽子収集狂 」 か 何かを読もうとしていたのだが、出だしの数ページから先に進めず、毎日 同じところを繰り返し 眺めていた。

 そしてある時、「 ああ、おれは カーが 読めないんだな 」と悟ると、網棚の上に そっと本を置いて、高崎線の電車から降りたのだった。


 何しろ カー と言えば その当時、 「 本格もの御三家 」 の一人に 数えられていた。

 「 ミステリ の 通 」 ( つう ) といえば 「 カー 」 と言うくらいのものだった ( ウソ です。 笑 )

 それを読めないと知ったとき、 「 オレはもう、立派なミステリ 者 ( もの ) には 成れないんだな 」 という、諦めのような寂しさを感じたのである(笑)

 そして、音楽評論家の中山康樹さんの表現を借りると、 「 それまで密かに身に付けていた 『 ミステリ者 養成ギプス 』 を ガチャリと外し 」、以後、カ ー の作品から遠のくことになったのだ。


 ところで五浦君の方は、栞子さんの適切な指導もあってか、 「 事件手帖 第 4 巻 」 では 「 乱歩の短編を 3 つ、一気に読むことができた 」 というように体質改善をしている。

 ならば 自分も カー を読めるようになったかもしれないと思い立ち、試しに、この作品を読んでみることにした。

 すると、―― 筆者も いたずらに馬齢を重ねたわけではなかったようだ ―― カ ーの 「 読みにくい文章 」( 失礼 ! ) にも耐えきって、どうやら 完読することができたのだ。

 ともあれ これで自分も、晴れて ( 一冊だけだが ) 「 ジョン・ディクスン・カーを読んだ男 」 に成ったわけである(笑)


 〔 探偵小説での『 謎 』とは ? 〕

 ところで、先ほどの本の中で、五浦君が こういう質問をしている ――

 「 本格推理って、具体的に どういう小説のことを言うんですか ? 」

 栞子さんも 一応の説明をしてくれているが、ここは やはり、探偵小説の大御所、乱歩氏に お伺いを立てることにしよう。

 乱歩氏は 『 幻影城 』 の 「 探偵小説の定義と類別 」 で、次のように述べている。

 「 探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に徐々に解かれていく経路の面白さを 主眼とする文学である 」

 ―― 乱歩氏によると、探偵小説には まず 「 謎 」 があること。
 そして それが 「 論理的に解決されていく経路 」 を楽しむものだという。

 それでは、この定義に従って 『 火刑法廷 』 を見てみよう。


 この作品では、次の大きな謎が提示される。

 ① 毒殺者と思われる女性の、密室からの消失

 ② 毒殺されたと思われる死体の、密室 ( 地下霊廟 ) からの消失

 それに加えて、ストーリー全般の底流をなす ③ 主人公の妻の正体 ( ? ) である。


 ―― これらについて、読後の感想を書きます。

 以下、筆者の思い込みに過ぎないのかもしれませんが、激しくネタバラシをしているので、未読の方は ご注意ください。


 【 ネタバラシ しています 】

 まず、 ① の 謎解きは 「 密室 」 と思われた部屋と、そこにある家具、および登場人物の 立ち位置を示す図があれば 分かりやすい。
 それで密室の謎が 一目で理解できる。

 しかし ② の謎解きは、見取り図では説明できない。
 なぜならば、その謎 自体が 「 言葉 」 で作られているからである。


 具体的に言うと、これは 「 密室から死体が消失した謎 」 の 物語ではない。

 書き方の工夫により 「 密室から 死体を消失させる過程 」 を読ませる物語なのだ。

 そのポイントは 「 記述の省略 」 と 「 記述の分割 」 にある。


 〔 記述の省略 〕

 地下霊廟からマイルズの遺体が消失した事象を、作者は次のように書いている。

 1. マークたち 4人が 、地下室入口の封印を はがして 霊廟に入る。

 2. マイルズの遺体を納めた棺が 空であることを発見する。

 3. 近くにある 他の棺にも、遺体が入っていないことを確認する。

 4. 脚立を持ってきて、霊廟の高い段にある棺を調べ、そこにも入っていないことを確認する

 5. 大理石の壺をひっくり返して、中が 空であることを確認する。


 さて、作者が上記 1 と 2 の記述に費やしたのは、紙面の枚数で言うと 87ページから 101ページまでの 15 枚。 ( 筆者は 早川書房刊の 【 新訳版 】 を使っています )

 一方、上記 3 から 5 までの説明は 102 ページ の 1 枚のみ 。

 実際には こう記されている ――

 「 一時間後、彼らが よろめきながら階段をのぼって 清々しい外気に触れたときには、ふたつのことが わかっていた 」

 以下、作者は 上記 3、 4、 5 の事実の要点のみをまとめて、文字通り 「 箇条書き 」で 記している。

 この記述量の アンバランスさには、作者の ある意図が秘められている。

 ――現象の結果だけを述べ、それを見つけ出した過程の記述を省略することで、読者に、ある重要な事実を伏せているのだ。


 具体的に言うと……

 前述した 1 から 5 までの作業は、連続して行なわれたのでない。

 「 4.脚立を持ってきて 」と書かれている 『 脚立 』 は、マーク・デスバードの屋敷に置いてあり、霊廟に入った 4人のうちの 2人が、これを取りに屋敷に戻っている。

 また、他の 1人は ウィスキーを飲むため、2人に同行している。

 ――結果として 「 マークが 霊廟の中に 1人でいる 」 時間が 生じていたのだ。

 そして作者は、この時点では、その事実を記していない。


 〔 記述の分割 〕

 この物語が 半ばほど進んでから語られるのだが、マイルズが亡くなったとき、その死因に不審を持つ者により 「 あれは毒殺だった 」 との告発状が 警察に届いていた。

 これを受け、警察はマークたちを密かに見張っていたのだ。

 そして、4人が霊廟に入り、遺体の探索を終えて 一時間後に出てくるまでの全ての行動が、外にいた観察者によって記録されていたのである。


 この事実が、本文の 208 ページ に こう書かれている――

 「 12時 28分、ドクター・パーティトンと、ミスター・スティーブンスと、ヘンダーソンが霊廟から文字通り飛び出してきて、尾行者は 何か おかしなことが起きたかと思い、付いていった 」

 「 3人 は 屋敷に引き返して、脚立を ふたつ持ち、 12時 32分に霊廟に戻った 」


 ―― 霊廟の中で、遺体の消失が確認されるまでの経緯の一部が ( マークを除く 3 人が、一時的に霊廟から出ていたことが )、 ここで 初めて、さりげなく記述される。

 もっとも この部分を、遺体消失発見と並行して書いてしまうと、ほとんどの読者が、 「 霊廟の中で 一人きりになったマークが、何か 仕掛けたな 」 と疑うと思うのだ。


  ―― この 「 記述の分割 」 ( 事実の後出し ) については、作者も多少、後ろめたく思っていたようだ。

 一応の解決がなされる第Ⅳ章の最後で、作者による 「 原注 」 が施されている。

 「 原注1 : 疑わしいと思う読者は、102ページと208ページを確認していただきたい。

 前者には 事の経過、後者には それらが起きた実際の時刻が 記されている 」

  ―― これは 「 私は すべての手がかりを、ちゃんと提示していますよ 」 という、作者のフェアプレイ宣言なのである(笑)


 【 この物語における「 犯罪 」とは ? 】

 ここで一点、注意を喚起しておきたい。

 果たして、この物語における 「 犯罪 」 とは、一体 何だったのだろうか ?


 「 罪体 」 という言葉がある。

 辞書には 「 犯罪の対象である物体 」 と載っている。

 殺人罪に問うには 「 殺害された死体 」 が、また、放火罪には「 焼失した家屋 」 の存在が必要だということだ。

 しかしこの物語では、罪体が明示されていない。

 「 毒物を飲んだ死体 」 が見つかっていないのである。

 毒殺されたとする死体が消失していて ( 恐らく焼かれてしまった )、その実行犯と思われる人物も逃亡し、最後まで発見されていない。

 また、毒を飲ませたとされる人間も、頑なに犯行を否認し続けている。

 これでは 犯罪 ( 毒殺事件 ) が 行われたということを立証できないのだ。


 唯一 確認できるのは、物語の最終部で 探偵役を務めた人物の 「 服毒死事件 」 である。

 しかしこれも、その場の状況から犯人とされた人物の、決定的な証拠が見つかっていない。

 最終的に この物語は、 「 地下霊廟からの遺体消失の謎 」 から、 「 その謎を解明した ( と思われる ) 探偵役の服毒死 」 という事件で収束する。


 〔 エピローグの評価 〕

 この作品の特徴は、印象的な 「 エピローグ 」 にある。

 そして それが、この作品の評価を二分しているらしい。

 話が変わるが、 「 リドル・ストーリー 」 という形式の小説がある。

 作中で提出された謎が明らかにされないまま、物語が終了するものである。

 その代表的なものに、 F・R・ストックトンの書いた 『 女 か、 虎 か 』 がある。

 ―― 公開された処刑場で、王女が指さした箱から現れたのは、果たして 女 か ? 虎 か ? という話である。

 作者は ただ、ポンとこの問題を投げかけただけで 物語を終わらせている。

 その答えを、読者に委ねているのだ。

 
 筆者は、 この物語は 読んだ人の 「 ジェンダー観 」 を あぶり出すものだと思っている。

 すなわち、
 「 虎が 出てきたのに決まっているよ。 そして男は食い殺されたのさ。 女って、そんなもんだろ ? 」

 あるいは
 「 美女が出てきたんです。 そしてその男は、幸せな人生を送ったのです。 女の人って、そう考えますよね ? 」


 では 『 火刑法廷 』 は リドル・ストーリーなのだろうか。


 冒頭にも書いたが、この物語で提出されたのは、次の 3つの謎である。

 ① 毒殺者と思われる女性の、密室からの消失

 ② 毒殺されたと思われる死体の、密室 ( 地下霊廟 ) からの消失

 それに加えて、ストーリー全般の底流をなす ③ 主人公の妻の正体 ( ? )


 ―― 最終部のエピローグで ③ の解答が ( 暗示的に だが ) 記されている。

 それを読んで、筆者が理解した範囲では、どうやら 「 奥様は 魔女だった 」 らしい。

 もし、そうだとすると、探偵役が 法廷で ( 本格ミステリ 風に ) 解き明かして見せた ① と ② の謎も、どうやら怪異現象によるものだということになる。


  それにしても、作者は、なぜこのような構成を持つ小説を書いたのだろう ?


 これは、全くの筆者の妄想なのだが……

 ―― もしかして作者には、 「 一見、 本格ミステリ のように思えて、実は 怪奇サスペンスだったという小説を書いてやろう 」 との思惑があったのかもしれない。
 
  そうだとしたら、それを実現してみせた作者の、小説家としての力量は認めることにしよう。

  しかし、狭量な了見しか持ち合わせていない筆者には、何ら、そのことへの 「 意義 」 を 見い出せないのである。


No.32 7点 アルカトラズ幻想
島田荘司
(2015/02/22 18:28登録)
作者の島田荘司さんはビートルズがお好きだと、あるエッセイで読んだことがある。
井上夢人さんと一緒に、ビートルズのナンバーを何曲も歌い続けたことがあるそうだ。
(「ホントか? なら、その出典をだせよ!」とのツッコみはご勘弁ください。
  昔の事なので、何で読んだかは、もうスッカリ忘れてしまいました。汗)

島田さんの作品「ネジ式ザゼツキー」には、ビートルズのアルバム「アビーロード」に入っている曲名と
同じ名前の「サン・キング」なる人物が登場する。
また、「ネジ式―」の冒頭には、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」の歌詞を連想させる
幻想的なシーンが描かれている。
(この本―自分は講談社ノベルス版を持っているのだが―の奥付の前のページに
 作者は日本音楽著作権協会の許諾を受けて ”LUCY IN THE SKY WITH DIAMONDS” の歌詞を
 使用したことが明記されている)

それからビートルズには「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」という名曲がある。
彼らはこの曲を、アレンジやテンポを変えて何回かレコーディングした。
最終的には「テイク7」を採用と決定したが、その数日後、作曲したジョン・レノンが
「前半はテイク7のままとし、後半部をヘビーな音の『最終テイク』にしたい」と要求したそうだ。
ところが、最終テイクのものはスピード感を出すために、キーを半音上げて演奏している。
また、チェロやトランペットも使ってサウンドに厚みを加えている。
――キーもテンポも違う二つのテイクをどのようにして一つの曲とするのか?

この難題をプロデューサーのジョージ・マーチンは見事に解決した。
後半部のテープスピードを徐々に下げていき、キーが合ったところで二つのテイクを繋いだのだ。

この曲をよく聞いてみると、開始から一分後にベースギターがなくなり、チェロのフレーズに変わっている。
またギターのアルペジオもなくなっている。

しかし、それらが何の違和感も感じさせず、最初から計算したアレンジであるかのように自然な曲に
仕上がっている。


さて、以上で「長い長い前ふり」は終わりです(笑)

ここから、ようやくこの作品の感想となります。

実はこの物語も、作者はある個所で、二つのものを「繋いで」います。
それが何とも巧妙に、また、ひっそりとなされているので、読者はすっかり「パンプキン王国」の存在を
信じる(?)ことになります。

では、その「繋いだ」箇所とは一体どこなのか?
なくなった「ベースギター」に相当するのはどれで、現われた「チェロ」はどの部分なのか?
――そのようなことを探してみるのも、また一興だと思います。

それから自分の読後の感想は、まさにkanamoriさんの書かれたものと同様です。
(手を抜いたわけではありません。全く「そのとおり」だと同感致します)

最後にひとつ……

島田荘司さんといえば「剛腕」とか「驚愕の物理トリック」などの褒め言葉が浮かびますが……
……自分はそれに加えて、「とても文章が上手な」「叙述トリックの名手」という一面もあると思っています。


No.31 7点 ビブリア古書堂の事件手帖3
三上延
(2013/03/11 22:11登録)
 このシリーズ、ドラマ化されてテレビで放映していますが、これが大層面白い。毎週欠かさず観ています。ドラマを観たあとで本を読んでいますが、やはり原作の方が、舞台設定など細かく説明されているようです。
例えば、この作品の語り手である「俺」こと五浦君の実家は大船、という設定になっています。また、ビブリア古書堂は「横須賀線・北鎌倉駅の近く、小袋谷(こぶくろや)の踏切の南東」にあることになっています。

 ……全くの私事で恐縮ですが、勤務先の事業所のひとつが大船にあり、転勤で三年ほど住んだことがあります。小袋谷の交差点の近くに社宅があり、そこで単身赴任の日々を過ごしていました。そんなこともあって、この作品世界がとても身近に感じられます(笑)

 ドラマ化された作品の大半が、原作と、ストーリーや登場人物を少なからず変えているようです。3月4日に放映された「たんぽぽ娘」もそうでした。

 ところで、ロバート・F・ヤングの「たんぽぽ娘」には、ヒロインが語る「決めゼリフ」が出てきます。

 これが、本の方では次のように紹介されています。

   「彼女は毎日その丘に現れるわけですね。
   初対面の主人公に向かって、彼女はこう言うんです」
  
   栞子さんは内緒話をするように、俺に顔を寄せた。
   間近で見る彼女の瞳は、興奮を物語るように輝いていた。

   「おとといは兎を見たわ。きのうは鹿、今日はあなた」

 それから、大船駅の階段を下りたところにある和風居酒屋で、「俺」と栞子さんがお酒を飲むシーンがあります。そこでほろ酔い加減の栞子さんが、もう一度この台詞を言います。

   「……なんで兎なんですかね」
   「来年の干支(えと)、だからじゃないですか」
   「あ、なるほど」
   確かに2011年は卯年(うどし)だ。
   でも、ちょっと分かりにくくないか。

   「……おとといは兎を見たわ。きのうは鹿、今日はあなた」
   日本酒のグラスを握りしめたまま歌うようにつぶやいて、
   にこっと得意げに笑った。
   うまいこと言った、みたいな顔をされても困る。

 やはりこの台詞は、うら若い娘さんが何の邪気もなく、そっとつぶやくのが似合っているようです。

 一方、ドラマの方はこうです。

 作中に井上太一郎という古書店主がでてくる。これがまことに狷介で固陋な人物なのです。佐野史郎さんが、この見るからに憎々しげな初老の男を好演しています。
 さて、この井上氏が、能面のような無表情で、「ズイッ、ズイッ」とビブリアの店内に入ってくる。
そして「ついに見つけたぞ!オマエら、もう逃げも隠れもできないからな!」とばかり、ゆっくりと、ねちっこく、この台詞を言うのです。

 「……おとといは兎を見たわ。きのうは鹿、今日は、あ・な・た!」

 ……ん? これはいったい何の演出なのだ?
言っている内容と場面とが、全然関連してないじゃないか?

 どう考えても、この脚色はハズレだよな。
あの決め台詞を、こんなタイミングでこのような人物に語らせるとは……

 ドラマを見た人が、後に「たんぽぽ娘」を読んでこの台詞にふれた時、あの佐野史郎さんの表情と言い回しを思い起こしたら、一体どうするんだ?
と、余計な心配をしてしまいました(笑)

 あとは余談ですが、「たんぽぽ娘」はkanamoriさんと同じく、「年刊SF傑作選2」で読みました。その後、持っていた本は処分したので、もう手元にはありませんが……

 それから……。何年か前に、小林泰三さんの「門」を読んだとき、
「ああ、これは『たんぽぽ娘』だな。それも辛口バージョンの……」
と思いました。
 そして、二人で手を取りあって家路につくラストシーンを、懐かしんだ記憶があります。


No.30 5点 イニシエーションラブ
乾くるみ
(2011/12/23 23:54登録)
【ネタばれしています】

 この作品のキモになる部分を明かしています。未読の方はご注意下さい。
それから作者に、あれこれインネンをつけて絡んでいます。
不快に思うかもしれないので、既読の方もご注意下さい。

1.「解説サイト」へのお礼 

 「ネタバレしています」と大見得を切ったけど、実は読んだ後、どういう話なのかサッパリ分からなかった。その後「解説サイト」というのがあることを知り、それを見て初めてこの作品の仕組みが理解できた。

 解説サイトに感謝します。
ネタバレの部分は、全てこのサイトの記事に負っています。
(【ゴンザの園】というサイトの、「謎解き『イニシエーション・ラブ』」という記事です)
(…なんかこの『ミステリの祭典』で、他のサイトについて触れるのは滑稽ですが…)

2.自力では見破れなかった真相

 最初は「ある女の子の恋愛とその後日談が、side-Aとside-Bの2章で語られている話」だと思った。だが、解説サイトでは時系列を揃えて、この男2人と女1人の話が書かれていた。

 ①side-A・Bの男性は それぞれ別人だった
 ②side-A・Bの話は ほぼ同時進行だった

「ふーん この作品はこんなストーリーだったのか。じゃあ作者はなぜ、このような書き方をしたのだろう…。

…この前読んだ「独裁者の掟」は動機と行為が並行して語られ、それが結末でひとつに結びつくことで感動をより深いものにした。
それに比べ、この作品は、叙述の技法を駆使して緻密な物語を紡いでいても、なんら読後の感動は深まらない。きっと元の話が陳腐なものだからなのだろう。
 そして、ことさら作者から、「同時進行だったのですよ!」と強調されると、この女の子が、とんでもなく悪いことをしたかのように思わされる。
 
 作者はきっとこう言いたいのだろう。
 
「女性が失恋後、新たな男性と交際を始めるのは構わない。
だが同時に二人の男と付き合うのは絶対に許されないぞ!
それって人倫に悖(もと)る鬼畜同然の行為だ!」
(…あ、そこまでは言っていないか)

――尤もこんな風に思うのも、自分が若い頃に持っていた(であろう)「潔癖さ」みたいなものが、歳と共に薄れていったせいかもしれない。

 それにしても本作の仕掛けは、何故こんなにも分かりにくいのだろう?

3.叙述物における「謎」とは?

 通常の推理小説では作者がストーリーを語り、「犯人は誰か」「どのように行ったのか」と問いかける。
読者は作中の探偵と同等の立場で事件の説明を受け、手掛かりを探し、作者の出した謎に挑む。
読者は登場人物と物語世界を共有し、解明すべき謎について共通認識を持っている。
(それゆえ読者は探偵役が解き明かす真相に耳を傾け、それに同意することになる。また探偵役も読者が抱く疑問についてはよく理解しており、時には占星術教室の黒板に、一万円札の図まで書いて説明してくれる)

 一方叙述物では、解明すべき謎が明示されない。
作者が問うのは“ Who?”でも“How?“でもない。
それは「この作品に仕掛けたものを見破ってみろ」という漠然としたものだ。
そのため読者は、解き明かす謎自体を自ら探し出さなくてならない。
 またこの「仕掛け」は作中で語られる事件についてのものではなく、小説そのもの――あるいは小説の構成要素(例えば作中の人物や場所・時代など)に関するものが多い。
作者は、作中の世界の一部について読者が誤認するように導く。
作中での出来事が正しく、読者は何らかの誤認をさせられて物語を読んでいるように導く。
(これが最後の「騙された」という感想につながる)。

叙述物では元々両者の認識がずれたまま開始される。
作者が語る世界、作中の人物には自明である事実が、実は読者だけが誤認している。

 叙述物においては、読者は登場人物と物語世界を共有していない。読者の抱く疑問は、登場人物にとっては謎ではなく自明の事実なのだ。
だから叙述物では、探偵役は読者の抱いている疑問を知りえない。
登場人物にとっては自明なことなので、読者が違和感を抱いていることに気付かない。(気付くことが出来ない)。
従って探偵役は、作者の仕掛けを読者に説明することは出来ない。

……それゆえ読者は、探偵役の次のような指摘は聞くことが出来ない。

「皆さんは彼女のことを『木綿のハンカチーフ』に歌われている女の子みたいだと思っていたでしょう。でも本当は、そうではないのです」…

 よく出来た叙述物においては、種明かしをされた瞬間、「何が起きたのか?」という戸惑いを覚える。
これまでのストーリーが破綻したかのように感じる。
(例えば、死んだはずの男が突然生き返り、大手を振って街中を歩くシーンに遭遇する)。
だが読み直してみると「なるほど、そうだったのか」と頷くことになる。
叙述物では作者の手で仕掛けが明かされ、登場人物と物語世界を共有したときに作品は終幕となる。 

4.叙述物 での解決編とは?

(1)探偵役は謎の解明を出来ない。そもそも読者が謎と思っていることを知りえない。

 叙述物ではそのトリックがシンプルであることから「解決編」――というか「種明かし」のシーンは短いものが多い。作者は物語の最後でサラリと事実を書いて、あとは読者の「気付き」に委ねる。

(2)すべての作者は、だれもが自作解説をしない

 本作の仕掛けは2つある。そのうちの①は本文の「最後の2行」で作者から明かされる。
だが作者は②の事実を明示していない。②については「作中に書かれた事から読者自身が読み取れ」と言っているのだ。

 ……だが、この仕掛けに気付く読者は、先ずいないだろう。
仕掛けが二段構えになっている場合、普通の読者の心理として、仕掛けの一方に気付いた時点で解読を中止してしまう。その先にもうひとつの仕掛けがあるとは思わない。だから②の仕掛けがあることを知らないまま、この本を読了してしまう人も多いに違いない。

――だが、これは作者にとって不本意なことだろう。せっかく苦労して仕込んだ仕掛けに、気付いてもらえないのだから。

作者は、もし出来ることなら『日本昔話』を語るように「その娘っこは二股をかけていたのだとさ。めでたし、めでたし」と「本当の」種明かしをして楽になりたいのだろうが、そうはいかない。
それでは『ロートレック荘』の作者が散々叩かれたように、読者が許してくれないだろう。

(3)本作での気付かれない真相――解説サイトの意義

 そこで登場人物でもなく作者でもない「第三者」による種明かしが必要となる。
ここでいう第三者とは「作者の仕掛けに気付いた読者」であり、彼らが発信する解説サイトだ。この場合、彼らは本来はタブーである「ネタバレ」というよりも、作品本来の狙いを伝えてくれる「解説」の役割を果たす。

 この解説サイトは、物分りの悪い読者である自分にとって大いに有用だった。だが作者にとっても大いに幸運だったに違いない……少なくとも改めて自作解説をしないで済んだのだから(笑)

 それから……。読者が自力で解明できないような仕掛けを含んだ作品は、このような解説サイトの記事とセットにし、共著の合本として出版して欲しい。そのとき、解説の部分は是非とも「袋綴じ」にして貰いたいものだ(笑)。

5.終わりに

 それにしても、この②の仕掛けには全く気付かなかった。
 
 ぼくは平安遷都や鎌倉幕府が滅びた年代は、まだ辛うじて覚えている。だが、この作品に出てくる出来事やテレビ番組が「何年」のものだったかは、スッカリ忘れてしまっている。(いや、そんなことは覚えようともしなかった)。
 だけど「いつの事だったのか」を知らないと謎を解くことが出来ないのなら、これからは各時代の出来事の年代を記した参考資料を手元に置くことが必要になるだろう。

 推理小説には「時刻表もの」というジャンルがあるそうだ。今ではもう廃れてしまったらしいが…。だが、もしかしたらこの作者は、「歴史年表もの」という新しい分野を開拓したのかもしれない。

(時事風俗を中心に据えた作品は、時の経過と共に瞬く間に風化する。作者もそんなことは百も承知なのだろう。
 だが敢えてそれを行ったのは、作者の「潔さ」なのかもしれない。
…と書いてみたけど、果たしてフォローになっているのかどうか…)


No.29 7点 海を見る人
小林泰三
(2011/04/24 10:53登録)
 この短編集では不思議な物理世界を設定し、その中で生きる人間像を描いている。

 「門」は3章・60ページからなる短編。
地球から1000光年の距離にある「コロニー」と呼ばれる宇宙基地での話。

 第1章ではこの時代の人類が手にしている「宇宙航行の技術」について語られる。
もしこれがショートショートなら、「24世紀の半ば、人類は10光年の距離を数時間で移動する技術を獲得していた」と一言で片づけて本題のストーリーに入るものを、さすがはハードSF、「私にはそんな結論だけお伝えするという安易なことはできません。人類が400年かけて発展させてきた宇宙航行に関する理論と技術の歴史を3世代に分類し、キッチリ語らせてもらいます」とばかり丸々1章、14ページをかけて書いている。読む方が、「あの、そこの所はもう結構です……あとはひとつ穏便に」と泣きを入れても、「いや、ここまでは未だ量子テレポートの基礎概念しかお話していません。次は運動量問題の解決となった負性質量について説明しましょう」と赦してくれない。真面目なのだ。硬いのだ。ハードSFとはそういうものなのだ。(ホントか?)

 それでようやく第2章からストーリーが始まる。
1年ほど前に地球から宇宙戦艦がやってきた。コロニーに住む主人公の少年は、この若く勇敢な女性艦長の顔から目を離せない。
それからいろいろあって、章の終わりで艦長と別れることになる。
「どっちが先についても、あの席で待ってることにしない? そのとき、苺ミルフィーユぐらいは奢ってよね」

 第3章では再び現在のシーンに戻る。
少年はコロニーの女性リーダーと一年前の事件について久し振りに話をする。
「(救命艇に)僕が乗るのも決まっていたのですか?」「ええ」
「何のために?」「彼女(女性艦長)への餞(はなむけ)です」
(いくら人類のためとはいえ、一人の女性が1000光年の距離と200年の時間を旅するのはあまりにも苛酷だ)
 そして少年と一緒に、僕らはポカンと口をあけたままフィナーレを迎える。
これはハッピーエンドなのか、そうではないのか。よく判らないまま、変てこな感動を残しつつ物語は完結する。
「……そうそう。苺ミルフィーユをここのメニューに付け加えてもらわないといけないわね」

 「独裁者の掟」は「宇宙空間を亜光速で移動しながら確実に滅亡へと向かっている世界」での話。ちなみにtoukoさんがいう「ミステリにはよくある手法」とは、シーマスターさんがある海外作品について「『〇〇』型の〇ットバック」と評されたものだ。(『〇〇』は国内ミステリのタイトル。「〇ットバック」はビートルズの曲名ではない)。
この手法を使うと少し読み難くなるため物語の世界に入り込むまで時間が掛かるのだが、最後に読者へ与える効果は強烈なものとなる。
……ということに気がついたので、次回は『イニシエーション・ラブ』の感想を書きます。(いつになるかは自分でも分からないけど)。


No.28 7点 永遠の0
百田尚樹
(2011/02/20 15:12登録)
 もし、このサイトの管理人さんから、「あなたは神を信じますか?」と訊かれたら……
あ、すみません、ジョークです。管理人さんがそんなこと言うはずないし……元へ。

 もし、このサイトの管理人さんから、「あなたはこの作品をミステリと断言できますか?」と訊かれたら……少し伏せ目がちとなる自分がいるなあ。
 まあ、聞いてください、ストーリーの概要はこうです。
現代を生きる姉弟が、太平洋戦争で亡くなった祖父の人物像を究明するため当時の関係者を訪ねて証言を集める。
彼らの話から浮かび上がってくる、祖父の多様な姿…
そして最後には一転、祖父は死を決意するが、その理由とは?

 どうです、ハードボイルドみたいな構成でしょう?
(…すみません。僕はハードボイルドといわれるものはほとんど読んでいません。知ったかぶりをして、自分の適当なイメージで言ってみました)。
 それから最後には意外な犯人…じゃなかった、意外な証人も出てきます。そして解決編…じゃなかった、最終章では、さりげなく書かれたこれまでの伏線が綺麗に収束し「ああ、そうだったのか!」という感動の結末を迎えます。
というわけで、「この作品はミステリです」と確信して感想へ移ります。

 この物語では「孫」にあたる青年が語り手だが、主人公は紛れもなく「祖父」の方だ。そして主人公が生きた時代背景として、「太平洋戦争での日本海軍の主要な戦い」が描かれてる。また主人公が搭乗していた零戦(「れいせん」あるいは「ぜろせん」)という戦闘機と、その空中戦の有様が詳細に書き込まれている。
それぞれが相当なボリュームを占めているので、この種のものに興味がない方は読みづらいかもしれない。タイトルである「永遠の0」の 0 は「ゼロ」で、零戦のことを指している。

 ところで、清水政彦氏の「零式艦上戦闘機」(新潮選書)によると、零戦の最大の欠点は「補助翼の舵利きの悪さ」だったそうだ。
飛行中に「ロール」(胴体部を軸として機体を回転させる)するには操縦桿を横に倒して補助翼を上下させる。ロールは飛行機の方向を変えるにも、旋回するにも、急降下するにも、初動として必ず行う運動だ。だが零戦は補助翼の舵の利きが悪く、特に高速時には操縦桿が重くなり制御不能となったそうだ。このため、急降下して逃げる敵を追おうとロールに入っても、動作が緩慢なために時間がかかり、しばしば逃してしまったとのことだ。
 作中、主人公が壊れた機銃の銃身を片手で持ち上げて、腕力を鍛える場面がある。(この銃身は、主人公の部下が両手でようやく持ち上げられた物だ)主人公の操縦技術は超一流だが、その強い腕力で零戦を制御していたのだ。

 それから、この作品ではアメリカ海軍が使用していた「F4Uコルセア」を「シコルスキー」と書いているが、先ほどの清水氏の本によると、当時の日本では確かにそのように呼称していたそうだ。

それから……
(ハッと我に返り、気がつくと)こちらを見る管理人さんの視線に力が……

 この本の巻末に、児玉清さんが解説を書かれている。
それはまさに、この作品の素晴らしさを言い尽くしている。
今さら僕なんかの駄文を重ねることはない。第7章以降は、涙を拭くティッシュ・ペーパーの箱を手放せなかった。

 主人公が特攻に出撃するのを見送った男の、
「あの時、奴の目は死を覚悟した目ではなかった」という言葉と、
主人公が、最後に妻に残した言葉、
「必ず生きて帰ってくる。たとえ死んでも、それでも、ぼくは戻ってくる」の意味がわかったとき、僕はティッシュの箱のおかわりをしたものだ。

 読後の感想は、体感温度(?)では文句なしの10点だったけど、「笑点」の大喜利メンバーが「しまった!はずしたな…」と思ったときは自主的に座布団を返上するように、なんとなく「後ろめたさ」のある自分も3点ほど減点しておきますね。


No.27 5点 無限ループ
大村あつし
(2010/10/30 17:58登録)
 シーマスターさんの書評を見て、すかさず読んでみました。
「少し長めのショートショートだな」という感想でした。

 それで、本題の「サイボーグ009のラスト」ですが…(すみません。ぼくが食いついたのは、ここのところなのです)
 ご存じない方もいると思うので念のために書きますが、「サイボーグ009のラスト」というタイトルの本はありません。ここでいうのは、石ノ森章太郎氏の「サイボーグ009 地下帝国ヨミ編」でのラストシーンのことです。
 このラストがもたらす感動の要因は、「他者への純粋な善意」なのでしょうか。正義のヒーローたちが、わが身を犠牲にしても悪との戦いに駆りたてるものは何なのか、その胸中を窺い知ることはできません。だがそれはおそらく、 だれもが心に秘めている「すべての人が幸せになれるように」という願いを具現化しようとしているのでしょう。

 ところで石ノ森氏の描いたこのラストシーンは、アメリカのある短編SFを元にしているといわれています。星新一氏もこの作家がお好きだったそうで、短編集が日本で翻訳される前に原書をペーパーバックで入手し、外国語に強い今日泊亜蘭氏に頼んで、これをテキストに英語を習いながら読み進めたそうです。そしてSFファンの会合などで、この小説を披露したそうです。
 以下は野田昌宏氏の述懐です。
「星さんが原書を読みながら、みんなに紹介してくれたんですが」
(そういってこのSFのあらすじを語った後に)
「最後の部分を星さんが、“Make a wish, Make a wish”っていいながらしびれていたなあ。みんな、なんだか感動してしまって、すごいなあって感想をいいあったものです」
(最相葉月 「星新一 1001話をつくった人」 新潮社)

 これも「サイボーグ009のラスト」と同じように「星に願いを」の物語です。だが、こちらの作品の感動がどこからくるものなのか、よくわからない。どうも「正義への意志」とか、「他者への善意」の物語ではないようです。
 でも、アメリカの青年が書いた一編のSFの、たかだか4行ほどのラストシーンに、星氏や石ノ森氏などの日本の青年がしっかりと詩情を感じ取ったことについて不思議な感慨にとらわれます。
 そしてフィクションのもつ大いなる力に、少し感動してしまいます。


No.26 6点 十角館の殺人
綾辻行人
(2010/06/05 12:38登録)
【おもいっきり ネタバレしています】

 とりとめのない感想ですが、この作品の犯人にふれていますので、未読の方はご注意下さい。
(…でも「未読の人」っているのかな?)


1.体を張った、大がかりな「アリバイ作り」の話だと思った。

 「江南くん。ボクがこちら側にいた事は、きみも知っているよね」というわけだ。
ただし、探偵役が鮮やかなアリバイ崩しを見せてくれるわけではない。解明のための手がかりは殆どなく、むしろ真相から遠ざけようとする作者の企みがあるからだ。

だから江南くんには、
「キミはこのところ、すごく疲れているみたいだけど、ちゃんと寝ているのかい?」位の台詞を言わせれば良かったのに(笑)

2.「隔絶された孤島で、不気味な予言に従って何者かに一人ずつ殺されていく」という設定は、クリスティの大発明だそうだ。

 これを踏襲して面白くないわけがない。
ましてや登場人物はアパートに住み、ティーバッグの紅茶を何杯も飲みながら、夜を徹して友だちと語り合う学生たちだ。
そこに重厚なドラマがなくとも、読む者の充分な共感を得るに違いない。
 そういえば「十角館」は “Ten Little Niggers” と 数をそろえてあるのだな。
もっとも十角館は満室ではなかったけれど。

3.嵐の孤島に閉じ込められた者は、誰もそこから脱出することはできない。

 同様に島外の人たちも、救援に向かうことは出来ない。
豪雨と強風、逆巻く波が両者を隔てているからだ。
でもこのときの状況は「嵐の孤島」ではなかった。
閉じ込められたのは、ただ単に船がなかったためだ。

4.最初に読んだとき、エピローグの内容が理解できなかった。

 島の外にいる人間には、島での出来事は分らなかったはずだ。
事件の経過を書いた記録が見つかったわけでもないし…。
それなのにエピローグの中で、探偵役が、いろいろと思わせぶりなことを言うのだ。
だから「こいつ、島にいなかったくせに何がわかったというのだ!」と思ったのだ。
…でも今はこう考えている。
探偵役は桃太郎の話から、事件の構図を連想したのではないかと…。

 「鬼が島で、大量の鬼の死体が見つかった。どうやら鬼どもの内紛があったらしい。
でも本当は内紛ではなく、外から桃太郎がやって来たのではないのだろうか。
もしそうだとしたらその詳細……どのように殺したのか、その理由は何なのか、
(…それは鬼退治のためである…)
については、後からゆっくり桃太郎に問いただせばよい。」

(島外の人間にとって、この島は閉ざされた空間ではなかったことを思い起こして頂きたい。
また、普段は無人のこの島で、合宿している者たちがいることを知っている人間は限られている)
そこで探偵役はカマをかけてみる。「〇〇くん、キミは桃太郎なのだね…」

5.あの一言も、「あれ?同じ名前のヤツが二人いたのか?」としか思わなかった。

 ぼくは「名前なんて他と識別するための記号だ」、位にしか考えていないカタブツなので、こんな所に仕掛けがあるなんて思いもしなかったのだ。後でこのことを聞いて、「そんな所から仕掛けてくるのか。油断も隙も無いな」と思った。

 でも読み直してみると「明礬」「鉄輪」「安心院」など、地元の人でないと読めないような地名や、「金雀枝」「雪柳」「更紗木瓜」という難しい植物名が、読み仮名をふられて出てくる。
(「いや、私は全部、すらすら読めました」という人もいると思うが、今回もご容赦願うことにして……)。
 この流れの中では、ふり仮名つきの変てこな名前の人物が出てきても「そんな人もいるのか」と何となく受け入れてしまう。

 だいたいK**大学ミステリ研究会の連中も、根性がないのだ。
こんな「日本姓名大事典」(そんな事典があるのか?)にも絶対に載っていないヘンな名前の新人が入ってきたのだぞ。
たとえ本人が、「ベンスンがどうした、グリーン家がこうした」と熱く語ったとしても、
「いーや、お黙りなさい!何と言おうと、お前さんは〇〇〇〇でキマリです!」と決めつけるくらいの気概がなくてどうする!

6.このミスリードには、今までのミステリにはない軽快さを感じた。
だが、決して本格的とは思わなかった。

 子供のころ流行ったクイズに、こんなものがある。
「ある春の日のことです。太郎君はカゼを引いて寝込んでいました。
その窓辺に牛がやって来て“モー”と鳴きました。そこへ蝶も飛んできました。(なんかシュールな光景だ)
さて太郎君の病名はなんでしょう?」

 空さんの書評によると、ゴメスの名はゴメスだが、乱歩氏の本名は平井太郎だそうだ。 
筆名は推理小説の始祖といわれる“アラン・ポー”に因んだのだという。
ネーミングとは本来、そのようなものなのだろう。
決して「モーチョウ」なんかではないのである。


No.25 10点 Yの悲劇
エラリイ・クイーン
(2010/02/20 00:38登録)
〔推理小説の古典〕
 一昔前までこの作品が海外推理小説ベストテンの常連だったのは、乱歩氏の強い推薦があったためという。
作中、奇怪な事件が連続するような印象があるが、実際は四つの(地味な)事件しか起きていない。 ①服毒(たまたま死ななかった) ②殴打(撲殺ではない。たまたまショック死してしまった) ③放火(ボヤである。目的は皆目不明) ④(それから二週間ほどおいての、全く唐突とも思われる)毒殺だ。
 これらの事件を通して、薬物についての豊富な知識と緻密な計画性から、高度な知性をもつ犯人像が窺われる反面、「すべすべした、やわらかな頬」や凄惨な犯行現場にはそぐわない甘いヴァニラのにおい、殺傷には至らない弱い力によるマンドリンでの殴打など、多くの「なぜ?」をまき散らしながら、事件はよろよろと進行していく。

〔仮説演繹法〕
 この作品では第一の事件が発端となり、第二の奇妙な殺人事件をめぐって数々の謎が提出される。その少ない手掛かりから、犯人と犯行の動機を解き明かすのは無理だろう。いくつかの仮説はたてられるが、それはあくまでも「仮説」であり、ひとつの可能性でしかない。
 そこで事件の状況から犯人像の仮説をたて、「その仮説が正しければ、このようなことが行われたはずだ」との推論を行い、その推論を検証することで当初の仮説の正当性を証明しようとする。(仮説演繹法の適用)
 この作品を読み返してみると、探偵が「あるもの」の存在を推論して遺族に確認し、かかりつけの医者を訪れ、実験室で待機するまでの一連の行動が全て「検証」の作業であったことがわかる。そしてその検証結果が正しかったことにより、沈痛な思いで「最悪の犯人」を受け入れている。

〔マンドリンについて〕
 ぼくが再読した集英社文庫によると、当時中学生だった北村薫氏が初めてこの作品を読んだとき、「実際の〇〇〇はこんなに△△ではないぞ!」と憤慨されたそうだ。例の「マンドリンの選択」についてである。でも、ビートたけしさんが戸田奈津子氏と対談した本で知ったのだが、アメリカでは外国映画を上映するとき、つい最近まで「吹き替え」が当たり前だったそうだ。字幕が使われたのは、1990年の「ダンス・ウィズ・ウルブズ」でのインディアンの台詞が最初らしい。アメリカでは今も、文字を読むことに対して強い拒絶反応があるそうだ。
 それに対し、「寺子屋」の伝統がある日本では、字幕(文字)を読むことは全く苦にはしていないようだ。(日本語が「漢字」という表意文字を中心とすることもあるのだろう)。 それらも合わせてアメリカ人の識字率のことを聞くと、あのマンドリンも「充分ありうることだなあ」と納得できるのだ。

〔時代と地域を越えた普遍性〕
 この物語では殺人事件の起きた私邸を警護するため、警察官が四人、交代で泊り込む。そして屋敷の専属料理人から三度の食事を提供される。文中に「人身保護法」という言葉がでてくるように、当時のアメリカではこのような警護が普通のことだったのだろう。
 登場人物はエッグノッグ(玉子酒と訳されている)やバターミルクを日常的に飲み、子供の菓子としてヴァニラ・パウダーなんかが自然と生活に溶け込んでいる。また三階建ての大邸宅には私設の図書室や化学の実験室があり、その図書室に泊まりこんだ警部は、ボトルに入ったウィスキーをちゃっかり、寝酒として失敬している。
 これらの日常は、現代の我々には想像しにくいものだ。
(「いや、私は毎日エッグノッグを飲んでます」とか、「うちの家にも化学の実験室があります」という人もいるかもしれないが、今回はご容赦を願うことにして…)。
 これらが珍しいものではなかったあの時代に、彼の地で書かれた推理小説という文脈で読めば、風俗習慣の違いや時代的な科学知識の誤謬などは、瑣末な事柄として受け入れられよう。そしてプロット全体を貫く骨太のロジックは、今なお普遍の力をもって我々に迫ってくる。
 この作品を「本当に良く出来た推理小説だ」と評価するのは、あながち乱歩氏による洗脳のためだけではないはずだ。


No.24 5点 レベッカ
ダフネ・デュ・モーリア
(2009/11/28 20:36登録)
 高校のとき、英語の授業のサブリーダーに、この作品のダイジェスト版が使われた。テキストに選んだのは、定年退職を控えた独身の女の先生だった。
本の内容は古雅な趣を持つ上品なサスペンスだったが、この先生も銀髪を短くまとめられた穏やかな方だった。

 この作品は1938年にイギリス人の女性によって書かれている。だから読んでいるうちに、いろいろな意味で古臭さを感じるかもしれない。そこで、よりコンテンポラリな英語に触れさせようと、サリンジャーの「バナナフィッシュ日和」を副読本に選んだ先生もいたそうだ。
だがこれは新婚旅行で宿泊しているホテルの一室で、ベッドに眠っている新妻を後目に、自分のこめかみをピストルで撃ち抜く男の話である。
 ぼくは「レベッカ」を読み終えて、ヒロインの不安に満ちた新婚生活の謎が解けたことに安堵したのだが、「バナナフィッシュ…」を読まされた生徒たちの感想はどんなものだったのだろう。自分たちには解きようもない謎を扱った解決編のないミステリを、いきなり突きつけられたような気持ちだったかもしれない。


No.23 7点 ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!
深水黎一郎
(2009/06/21 11:35登録)
【ネタバレを含んでいます】
…でも的外れで、僕だけがそう思っているのかもしれませんが…(笑)
一応、未読の方はご注意を。

 この作品は作家である「私」と、「香坂誠一」なる男性が主な登場人物。
「私」は作中で新聞小説を連載しており、その小説には香坂氏が書いた手紙と手記が
そのまま書き写されている。
作中後半で香坂氏は死亡するが、実はこの新聞小説の(不特定多数の)読者が
犯人であったというもの。

 「読者が犯人って、まあこんなものだろうな」と思った。
犯人である「読者」とは作中の「新聞小説の読者」
であり(私やあなたなどの)「本作の読者」ではないのである。
またその殺害トリックも
「作者がそう言い張るんならオレはそれでもいいや」と思う位のものだった。
でも読後、なんとなく引っかかるものがあり最初から読み直してみることにした。

 本作は「私」と香坂氏の一人称で記述される。
そして「私」が掲載している新聞小説には日常で起きたことがそのまま書いてあり、
いわゆる私小説のような内容なのだ。
そのため新聞小説内の出来事と、本作での出来事がはっきりと区分できず、
読んでいるうちに少し不安な気持ちになっていく。
それでこの小説の本文と、新聞小説の部分がどこなのか、確認してみることにした。

 作中で「私」が、「何ページと何ページは『新聞小説』の箇所です」と指摘している。
(もちろん、そのページ数は講談社ノベルスで出版された本作のものであり
作中の新聞小説のものではない)。
そして「私」が明言している文脈で読むと、どの箇所もすべて新聞小説のように思えるのだ。

 そこで視点を変えて「章立て」に着目した。
本作はⅠ章からⅤ章までで成り、それぞれが1、2のように数字の節に分かれている。
だが Ⅳ章の4節の後と、Ⅴ章の1節と2節の間に ’***’ で区切られた節が
挿入されているのに気がついた。
特にⅣ章では
「私と香坂氏とは他人である」というこれまでの書き方に反して
「誠一よ、どうするつもりだ?」と心配そうに呼びかけている。
…きっとこの2ヶ所が本作の「地の文」なのだ。

 でもそうだとすると、本作の全文318ページのうち
「小説としての本文はわずか7ページ」ということになるではないか。
(のこりの大半は、すべて作中作ということになる!)
これは一体どういうことか…

 本作では作中作が入れ子のように重なり合っている。
すなわち
①私やあなたの住む世界>②本作の小説世界>③新聞小説の世界>
④新聞小説の中の香坂氏の手紙と手記の世界
の4層構造となっている。

 そのような構造においては、作者の「小説としての地の文を記述しない」という意図により、
②の「本作の世界」が希薄化することになる。
そしてこのために①の世界の私たちは、直接、③の新聞小説を読んでいるような錯覚に陥る。
 また④の香坂氏の手紙も一人称で書かれており、その文中で、しきりに
「あなた」と呼びかけている。
これは本来、新聞小説を読んでいる読者(②の世界の読者)に向けてのものなのだが、
②の世界の希薄化により、①の世界の読者(=私やあなた)に語りかけているように思えてくる。
 ここにおいて「作中の読者」と「本作の読者」とが重なりあい、
現実世界の「私やあなた」が犯人となってしまう(ように思わされる)
 すなわち作者が狙ったのは「トリックを成立させるための被害者の設定」ではなく、
記述の力で「読者を犯人」と思わせることだったのだ。

 ところで本作の「私」の氏名と、作中の新聞小説の題名は明記されていない。
しかし前述したように「本作と作中作の境界線を消滅させ、
作中作をそのまま作品内容とする」ことが
作者の企図したものだとするならば、自ずとその作品の題名と「私」の名前は想像できるだろう。
そしてそれを明記せず、読者の想像力(僕のは妄想力)に委ねるのは、
作者の意図によるものなのだろう。

 これは「メタ」を巧妙に取り扱った「叙述ミステリ」だと思った。


No.22 8点 湖底のまつり
泡坂妻夫
(2009/05/06 01:32登録)
 皆さんの辛口批評のなか
「僕はとても感動した」と書くのは、いささか気が引けます。
でも臆面もなく言うならば…切ない恋愛小説を読んだような気がします。

 心に受けた大きな傷に追い立てられるように旅に出て
苦しみを癒してくれる人と巡りあい、突然訪れた別れ。
この地で起きたすべての出来事の儚さと頼りなさ。
異郷の里の祭りの中に一人で残された心細さ…。
 そしてこともあろうに泡坂氏は
この舞台となる山奥の村とそこに伝わる奇祭を
まるごとダムの水底深く沈めてしまいます。

 …それから作者は、最終章で奇跡を行います。
ダムの奥深く沈んだ村を再びこの地に引き上げて、あの祭を復活させます。
鳴り続く笛や鉦の音と共に。

 微かな期待と共に、この地を再訪した人の胸に宿る再会への予感…
そしてこの奇跡に出会った彼女が叫ぶ一言に
それまで抱えていた喪失感の深さと
あきらめていたものへ再会できた喜びの大きさを見てしまいます。
 これは泡坂氏の新たな一面を窺い知ることができる
僕のとても好きな一編です。


No.21 7点 亡国のイージス
福井晴敏
(2009/03/28 02:25登録)
 精神の侏儒…。

 たかだか三尺足らずの矮躯から見える風景は、自ずと三尺足らずの視点からの貧しいものにちがいない。歪んだ鏡は歪んだ景色しか映しださない。
 一見辛辣なようでいて、そのくせ何の謂われもない独善的な貶め言(おとしめごと)が、それを吐き出す自分の有能さを証してくれるわけではないだろう。
反面どんなに易しい言葉であっても、偽りのない心からの讃歌(ほめうた)は、聴く者の心を明るくする。

 政略のせめぎ合い…。いかに「悪」になれるかの戦い…。

 彼等が説くところの「国家」や「正義」とはフィクショナルな存在であり、「もの」としてしっかりと手中に把握できる実体はない。一方、これらを語る人間は、その身体の一部を弾丸に擦られるだけで、悲鳴をあげて床を転げまわる即物的な存在である。
 いかに強靭な精神力も銃の前には無力である。武装した敵に立ち向かうには、まずそれに対抗できる武器を手にすることだ…そして素手で戦いを挑むことの愚さを、何度も何度も語る…。

 …こうして人々は「精神」と「物質」の間を繰り返し行き来する。

 しかしこの本は、「銃口を人に向けて引き金を弾く時には必ず躊躇(ためらい)が生じる」ことを書いている。
そして、その躊躇いこそが「人が人であることの証なのだ」ということを、切々と語っている…ような…気がする…。


No.20 7点 花嫁のさけび
泡坂妻夫
(2009/03/21 02:02登録)
 テレビ・ドラマとして放映されることを知り、当日は早めに夕食を済ませて、テレビの前に座りました。本の方はもう何年も前に読みましたが、その後処分しており、内容もすっかり忘れていたので、新鮮な気持ちで観ることができました(笑)。
 犯人の独白を聞いて「ああ、そうだったのか!これはぜひ、もう一度読まなくては…」とばかり書店に走りましたが、既に絶版のためか、店頭には全く見当たりませんでした。その後も気にはかけていたのですが、先日、たまたま駅前のブック〇フで見つけたので早速購入し、読み直す機会を得ることが出来ました。

 初読の時からずうっと「『レベッカ』の設定を借りているのか」と思っていましたが、再読してみると、なんと、それすらもミス・ディレクションだったことに気づいてビックリ。
それからこの作品を一編の本格推理小説としてみた場合、(あの古典的作品を語るように)確かに「フェア/アンフェア」の議論は成立すると思います。
 でも、それらも含めて、とにかく小説としての構成が素晴らしいと思いました。
この物語をどの視点で描くのか。どのように書き出してどう展開するのか。読者に何を語り何を隠すのか…。
 これらについて本当にすみずみまで計算し尽した、技巧を凝らした作品だと改めて感心したのです。


No.19 8点 星を継ぐもの
ジェイムズ・P・ホーガン
(2008/09/07 02:24登録)
 この本は、扱っている謎も舞台も道具立ても、すべてガチガチのSF。
 しかし構成をみると、「事件の発生と探偵の招請・手掛かりの提示・仮説の構築と検証・(だが深まりゆく謎…)・突然訪れた解決の着想・謎の解明」とオーソドックスな本格物。その内容も、ストーリー性には乏しいが、謎解きに徹した面白い「ミステリ」だと思った。
 特に“チャーリー”が持っていた日記兼用の手帳から、“ルナリアン語”を解明していく過程は極めてロジカルで、納得がいくものである。解読された「数字」を元に、手帳の一部を〇〇〇〇〇と仮定して推論していくところは、とても新鮮に思った。(でもそこはSFのこと、物理常数やe(自然対数の底)の値なんかが手掛かりとなるのだが…)

 ガニメデ星上で解明のヴィジョンを得た探偵は、しばらく放心してから我に返ると、木星に向かって、「ありがとうよ、兄弟。そのうちきっと、何かの形でこの礼をさせてもらうよ。」なんて呟く。…いやにクールなのだ。路上でインスピレーションを得た日本の探偵のように、突然、「おおお…」と吠えたり、「僕は実にバカだった!」「僕を笑いたまえ。そこを行く君、僕を笑ってくれたまえ。許す。」みたいな面白いことは言わないのだ。

 その後、探偵が関係者を集めて、「さて皆さん…」と謎の解明を始めるところは、凡百のミステリの中でも特にワクワクさせられるシーンだ。そして、そこで示される解答は極めてシンプルである。本当に「〇は〇だった」と一言で語られる位シンプルだが、それは“ルナリアン”の日記の謎を、全て明快に説明するものである。
 そしてこの解答を読むと、原題(Inherit The Stars)がこの壮大なトリック(?)の種明かしになっていることに気づく。(…でもなぜ「Stars」と複数形なのだろう…)

 最後の場面。これで大団円と思われた打ち上げの席上、突然、生物学者が、コーラの入ったグラスを片手に、唯一未解決であった“チャーリーの進化の謎”について自説を語り始める。そして、延々と4ページ半にも渡って進軍ラッパとも思える演説をぶちあげる。その思い入れたるや「こいつ、コーラでも酔っぱらえる異常体質なのか?」と疑うほど熱烈なのだ。 
 このアジテーションの締めくくりを読んで、改めて原題が「星々」と複数形であったことを理解する。それはこの小説のトリックを示唆したものではなく、まさに作者の「信念」であったのだ。(でもその主旨は、この人たちの祖先が唱えた「王権神授説」と同じく、身勝手なものではないかと訝るのだが…)。そしてこの作品が「極めてタフで、したたかな欧米人」によって書かれたSFであることを思い知る。

 (…日常の世界においては、喫茶店の卓上にある小さな砂糖壺の中にも、人の悪意は込めることができる。そして隣の席には、それを懲らす正義もまた存在する。しかしこの宇宙には、何の悪意も、何の善意も存在しない。ただ人の強烈な「意志」があるだけなのだ)。


No.18 7点 殺人交叉点
フレッド・カサック
(2008/07/06 02:14登録)
 「サプライズ・エンディングものの傑作」との紹介があったので読んでみた。
「でもこれって、フランス人の書いたミステリだよな。このまえ読んだ『シンデレラの罠』みたいな“フランス風のエスプリの効いたシャレた物語”だと良くわからないし…。オレでも、ちゃんと驚けるのかな。」と思いながら、おそるおそる読んだのだが、最後の種明かしでビックリ出来てホントに良かった(笑)。

 典型的な〇〇モノだった。いや、それどころか、(僕はこの種のミステリは余り読んでいないので詳しくは知らないのだが)この本って、この種のトリック(?)としては「草分け的」な存在じゃないのか?
解説を読むとこの作品は1957年の刊行とある。国内のアレやソレなんかよりズッと早いんだよな。やっぱりそうなのかな?

 この種のモノは(結局は)ワン・アイディアの勝負となってしまうので、作者はつい余分な世界観や薀蓄を織り交ぜて、小説として厚みをつけようとしがちだが、この作品はトリックだけを際立たせる書き方をしていて潔い。中篇として簡潔に纏まっている印象を受けた。

 それから…。あとはもう全く個人的な感想となるのだが、全般的にこの種のトリックのものを読むと…。
作者が、自身の持っている作文技術を駆使して、読者に一生懸命「あのように」思わせておきながら、最後になって「いや、あれは実はこんなんだったんですよ」と得意げに言われると、何か文芸上の詐欺に遭ったような気がして…(笑)。
 いまだに本格モノを信奉する、保守的で生真面目な一読者としては、「なんで今頃そんなこと言い出すんだよ、オレは元のままでいいよ。大体どっちでも、物語としてはちゃんと成立するんだろ?」と作者にカラミたくなる時もあるのだ。(むろんジョークである。笑)。

 それはそうと、この本に併載されている「連鎖反応」や、「シンデレラの罠」もそう思ったのだが、フランス人の奔放な男女間のおつきあいの有様にはビックリしてしまい、いまだに古くさい儒教的倫理観を引きずっている東洋のキマジメな一読者としては、「オマエら、そんなコトばかりやっててイイのか!」とツッコミのひとつも入れてみたくなるのである(笑)(…少しホンキである)。


No.17 7点 シンデレラの罠
セバスチアン・ジャプリゾ
(2008/05/27 22:00登録)
 子供の頃「一人四役」に煽られて読んだのだけど、何だかよく理解できなかったので「オレってこんな本、読まなかったんだ」って事にして、記憶を封印してしまった作品。
その後、これって本格モノではないと知って再読した今、「一人四役ってこんなんです」と言われれば、即座に「了解!」と快諾することにヤブサカでないのは、やはり相応にオトナになったのだろう(笑)。

 「で、結局アンタは誰なんだよ?」という件については、(なんせ本格モノじゃないんで)確固たる論理的帰結があるわけでもなく、ひたすら当人の記憶が戻ることを待つしかないのだが、幸い最後の一ページに来てようやく思い出したみたいだ。
 しかし、コイツはとてもじゃないが「イイ奴」とは思えないので「記憶を取り戻したのはいいけど、ちゃんとホントのこと証言したんだろうな」という疑いは残るのだが、最後に本人しか知らないことを言っているので、まあここは信用してもいいのだろう。
 
  だが(いかんせん本格モノではないので)、犯行方法とか共犯関係についての説明がほとんどなく、裏側で何が仕組まれていたのか釈然としない。大体この本のタイトルも、何を意味するのかもうひとつハッキリせず、苦し紛れに辞書を引いてみると「シンデレラへの罠」とも読めるので、「シンデレラっていったい何の喩えなんですか?」と鯨統一郎さんの解釈を聞いてみたい気がした。
 そして今も相変わらず「オレってこの本、ちゃんと理解できたのかな…」と思わせるヘンな作品だけど、まあそれなりに面白かったような気がする(本格モノではないけれど)。


No.16 10点 テロリストのパラソル
藤原伊織
(2008/04/28 22:47登録)
確かに偶然の出会いが多いけど、登場人物たちも自ら
あきれたように言っていることだし、しかも何回も。
まあ小説作法上のドラマツルギーだということで…(笑)
それにしても「蒼きパラソルくるくる回すよ」か。
僕はこれからも、夜中にヨッパラってこの本を読み
泣くんだろうな、この短歌が描く晴れた日の光景に(苦)


No.15 7点 涙流れるままに
島田荘司
(2008/04/01 23:38登録)
 主人公が幼い女の子を抱きしめる場面で
思わずオイオイと
呼びかけたのでもなく ツッこんだのでもなく
泣いてしまったのは 父性を掻き立てられたためか。
 庇護してくれる存在がいるべきことも知らず
ただひたむきに健気に生きていく幼子を見て
胸を揺さぶられない男はいないだろう。

 自分の人生が 堪らなくみすぼらしいものに思えたとき
このような存在を知ってひとしきり泣いたあと
なおまた己が生きていく力を与えられたことに気づいて
これを護るため 犯罪に手を染める男が現れても
それは充分理解できる。

 だがまあ主人公も 女の子だから抱きしめたのであり
これが男の子だったなら 「人生 けっこうハードだぜ。
くじけずに生きろよな」位ですませたのかもしれない。
と あわてて冷淡さを装ってみる。


No.14 10点 ロートレック荘事件
筒井康隆
(2008/03/15 12:59登録)
 職業作家が〇〇を書くとこういうものが出来る、という巧緻きわまる作。
夢中になって読んでいると、いつの間にか換わっていた。だが読み返してみると、作者は親切にも、ほんの少し違和感を持つように書いている。「転」の章ではあからさまに転じているのに、全く気づかなかった。
 アンフェアとは思わない。食事前の場面では、作者は大胆にも種明かしをしているし。
 ただ〇〇の性質上、仕方がないのかもしれないが、作中の人物を介さずに、作者が直接、読者に解説をするのは、一時的にせよ物語への集中をそいでしまう。惹句でいう「前人未到のメタ・ミステリー」とはここのところか?

 とはいえ何という切ない読後感だろう。
「雨夜の品定め」というゆかしい言葉もでてくるように、これはまぎれもなく上質な〇〇小説であったことに気づく。(ここは伏字でなくてもよかったか)

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