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ミステリの祭典

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平均点:6.73点 書評数:1602件

プロフィール| 書評

No.1562 7点 ブルックリンの八月
スティーヴン・キング
(2023/02/18 01:20登録)
本書は短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の最終巻である。モダンホラーの帝王と評されるキングだが、本書はそれまででもホラー以外の様々なジャンルの短編が収録されていたが、最終巻の本書でもそれは変わらない。

クライムノヴェルあり、ホームズ物のパスティーシュ(!)あり、ハードボイルドあり、そしてノンフィクションあり、そして詩に童話とこれまでで一番ヴァラエティに富んだ作品集となった。何しろキングの十八番であるホラーが1編もないのだ。そしてそれらはまさにその道の作家が憑依したかのような出来栄えである。いやはやキングの才能の豊かさに驚かされるばかりだ。

さて本書のベストは「ヘッド・ダウン」を挙げたい。ホラーでもなく、フィクションでもない、作者自らがエッセイと述べているノンフィクション作品は自分の息子が所属していたリトル・リーグ・チーム、バンゴア・ウェストが勝ち上って1989年度のメイン州リトル・リーグ・チャンピオンになるまでの足取りを描いた作品だ。
時にスポーツはフィクションを超える感動をもたらすが、本作もそうで、まともなユニフォームさえもない地方の一少年野球チームがコーチ3人の指導の許、勝ち上がっていく様子が実に楽しい。
そしてこんな劇的な出来事を目の当たりにしたキングはこのことを書かずにはいられなかったのだろう。記憶に留めるだけではなく、記録に留め、そして親バカと云われようが、作家と云う特権を活かして読者に触れ回りたかったに違いない。まさに親バカ少年野球日誌。しかしそれがまた実に面白いのだから憎めない。

次点として「ワトスン博士の事件」を挙げる。キングによるホームズ物のパスティーシュである―おまけに密室殺人事件を扱った本格ミステリ!―という珍しさもあるが、実によく出来た内容で驚かされた。ホームズ物のパスティーシュでは正典で書かれなかった理由もまた1つの趣向であるが、本作はそれもまたきちんと設定されており―まあ、ありきたりではあるが―、内容もなかなかに読ませる。キングの文体は情報量が多いのが特徴だが、それが逆に改行の少ない古典ミステリにマッチして違和感を覚えさせなかった

今回これほどまでにヴァラエティに富んだ短編群を読んでキングのどうにも止まらない創作意欲の熱をますます感じてしまった。そしてホラーやファンタジーだけのキングよりも私は短編群で見せた様々なジャンルの彼の作品が好きである。
やっぱりキングは短編もいいよなぁと思わされた。この後も短編集は分冊形式で訳出されているが、願わくばこの流れは決して止めないでいただきたい。


No.1561 7点 少し変わった子あります
森博嗣
(2023/02/16 00:32登録)
何とも不思議な小説である。
毎回行くたびに場所が変わる店名のない料亭。そこは女将だけが応対し、1人が切り盛りしているように思える。
そしてそこで毎回異なる女性と主人公が食事をする。たったこれだけのシチュエーションの話が繰り返される。
水戸黄門の方がもっとヴァリエーションあると思ってしまうほど毎回同じ展開なのだ。

しかしこれがなぜか面白い。
そして読んでいる私もこんな料亭があれば行ってみたいと思わされるのである。

そんな料亭での一番のご馳走であり、読みどころであるのは小山が毎回一緒に食事をする女性たちなのだ。
それは大学生のような普段着の女性だったり、眼鏡をかけた知的な若い女性だったり、30を越えた女性だったり、地味な女性だったり、異国風の女性だったりと様々だ。そしてその誰もが接客を仕事にしているような女性ではないように見えるのが共通している。
最初のうち、小山は現れる女性たちの食事をする美しい所作に見とれてしまう。いやそれもまたご馳走の一部として味わうのだ。

ただそこにいるだけ。ただ一緒に食事をしているだけ。ただ一緒に月を見つめるだけ。しかし相手が洗練され、無駄がなく優雅であるならばもうそれだけで胸がいっぱいになり、心は、魂は充足されるのである。
私は思わずため息が出た。なんて素晴らしいのかと。
この究極なまでに研ぎ澄まされた無駄を一切排除した能弁な沈黙と空間の濃密性に羨ましさを感じられずにはいられなかった。

本書は森氏の思弁小説だろう。
小山と磯部と云う2人の大学の教官の口を通じてその時々の考えが述べられる。そしてその考えに呼応するように女将の店で女性に遭い、2人で過ごした時間や聞いた話を思い出し、思索に耽るのだ。
時にはあまりに色んな話を聞き過ぎてあれは幻だったのかと思ったりもする。多すぎる話は逆に印象に残らないということだろう。

この小説のシチュエーションが実に面白かったのはまさに私の趣向にマッチしていたからだ。様々な女性の様々な性格、様々な生き様や様々な事情。それらを共有する時間のなんと愉しいことか。そして時に心揺さぶられることのなんと愉しいことか。

女性と食事をすることの愉しさと怖さを知らされる小説だ。
できれば怖さは知らぬままにいたい。そう、夢は夢のままが一番いい。ただ私が感じている孤独は小山のそれと同種であると自覚しているだけに多分私もいつか消えてしまうかもしれない。

ま、それもまた一興か。


No.1560 7点 歴史街道殺人事件
芦辺拓
(2023/02/14 00:25登録)
本書は1995年、つまり平成7年に刊行された作品だが、この題名『歴史街道殺人事件』とはなんとも古めかしく昭和のノベルス全盛期に刊行された推理小説群を彷彿させる。
本書も最初はトクマ・ノベルスの版型で刊行されたことから、恐らくはかつての島田荘司氏がそうであったように、当時新本格ブームで続々とデビューする新米作家たちに少しでも固定読者を付けようと敢えて俗っぽい『〇〇殺人事件』の名をつけ、そしてトラベルミステリ風に味付けしたものを版元が要求したように思われる。そしてあとがきではまさにそのことが書かれていた。このベタな題名が生んだ功罪についても。

本書は宝塚、天王山、奈良、伊勢でバラバラに切断された死体が発見されるショッキングな内容でこの殺人ルートを解明するミステリである。

本書にはいくつか物理的なトリックが登場するが令和の今では懐かしさを感じさせる。ダイヤル式の電話やワープロの特徴を活かした文章トリックはまさにそうだ。
あとパソコン通信も歴史を感じさせるが、これはまだ親近感を覚えるが、さすがにワープロ通信には驚いた。私もこれは知らなかった。既に歴史の遺物と化しているようだが。

しかし読んでてて真相は何とも背筋が寒くなる思いがした。上に書いたように本書はサラリーマンが通勤中に読むようなノベルスで刊行された推理小説だが、この犯行内容は通勤中に読むにはショッキングすぎるではないか。

しかし事件の真相から立ち上るのは味原恭二、白崎潤、稲荷克利、本庄静夫という4人の男の中心にこの事件の最初の被害者川越理奈という女性がいたことだ。そして彼女は非の打ちどころのない、知り合えば魅了されてしまうほどの魅力を備えた女性だったということだ。
歴史街道を軸に1人の女性に魅せられた男たちと1人の男性の才能に魅せられた1人の女性の物語であったのだ。


No.1559 7点 メイプル・ストリートの家
スティーヴン・キング
(2023/02/12 01:20登録)
『ドランのキャデラック』、『いかしたバンドのいる街で』に続く短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の3冊目の訳書である。

普通小説、ホラー、モンスター小説、侵略物のSF小説、ジュヴナイル。しかし各編は左に書いたジャンルを見事にミックスさせて一括りにできない作品に仕上げている。
いやだからといって全くストーリーは複雑ではない。寧ろシンプルだ。しかしシンプルなストーリーに複数のジャンルを放り込んでいるのだ。

さて本書におけるベストは表題作の「メイプル・ストリートの家」だ。
なかなか懐けない継父との確執が募る4人の兄妹たちの鬱屈を、最後に家ごと吹っ飛ばすことで解消すると云う何とも豪快な結末に溜飲が下がった。

とにかくキングはどんなジャンルの話も書けるのだという思いを強くした。
この短編集では普通小説も収録されている。これは逆に他の作品も読める短編だからこそ著したのだろう。
さすがにキングのビッグネームでもこの手の普通小説は長編では盛り上がりに欠けて売れ行きも芳しくならないだろう。
さて“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”もあと1冊。次はどんな悪夢が、どんな風景を見せてくれるのだろうか。


No.1558 9点 素晴らしき世界
マイクル・コナリー
(2023/02/10 00:18登録)
『レイト・ショー』で登場した新シリーズ・キャラクター、レネイ・バラードとハリー・ボッシュが早くも共演!

ひょんなことから2人で捜査に当たることになったのは9年前に起きた未解決事件だ。それはデイジー・クレイトンという当時15歳で亡くなった街娼をしていた少女の殺害事件だ。
これがなんと前作『汚名』の囮捜査で知り合った薬物依存症の女性エリザベス・クレイトンの娘が亡くなった事件であることが判明する。
いやあ、まさかあの作品の最後にエリザベスに誓った事件の捜査を読めることになろうとは、コナリーは本当に読者のツボを押さえる術をよく知っている。

しかしそちらは余技的なもので、昼勤のボッシュが担当する事件は14年前に起きたサンフェルナンドを牛耳るギャング、サンフェル団のボス、クリストバル・ベガ殺害事件だ。

このシリーズを読む醍醐味の1つとして警察というものの生態が実に肌身に迫るように感じられることが上げられる。
カードに詩を残した警官は詩人のように自殺した。
また未解決事件の捜査で当時の担当刑事に状況を尋ねると自分が解決できなかったのだから誰も解決できないと決めつけて素っ気なく応対する刑事もいる。

物語はバラードの章とボッシュの章が交互に語られる。この構成が2人の刑事を対比させ、そして胸に沁み入りさせる。

レネイ・バラードはまだ若い女性刑事だ。上司に逆らった廉で深夜勤務専門の刑事となっているが、彼女はそれを自分の中で大切なものとしている。彼女の周りにはしかし彼女を理解する者がいて、彼女を陰ながら応援している。

一方ボッシュは定年を過ぎ、サンフェルナンド市警の予備警察官という無給の刑事だ。しかし彼は長年行ってきた規則から逸脱した捜査の仕方が身に沁みついており、その強引さゆえに過ちを犯し、そしていつもクビになるリスクを伴う。ボッシュの周りにはいつも仲間が、連れが去り行くのだ。

この老いた男性刑事と若き女性刑事の境遇はまさにカードの表と裏のような関係だ。

さて今回の作品の原題は“Dark Sacred Night”、つまり『暗く聖なる夜』だ。それは既にボッシュシリーズ9作目、原題“Lost Light”で使われている。この原題はルイ・アームストロングの名曲“What A Wonderful World”の歌詞の一節であることから訳者は逆に曲の題名を少し変えて『素晴らしき世界』と名付けたことだろう。しかしこの一節、実は作中にも出てくる。
それはバラードがゴミ集積場の中から行方不明者のバラバラ死体を昼勤の刑事が捜すのを手伝い、無事遺体が見つかった時にお互いに「なんてすてきな世界だ」と言葉を交わすのだ。これが即ち原文ではルイ・アームストロングの題名そのままであり、ここから訳者は邦題を採ったと思われる。どうもコナリーはこの歌が大好きのようで確か作中でもボッシュがBGMで流した場面があったと記憶している。今後原題が“What A Wonderful World”になったら、訳者はどうするのだろうか。

ボッシュはバラードに刑事としての激しさを、何があっても前に進み続ける強さを見出したからだ。
ボッシュとバラード、カードの表と裏、そして陰と陽、警察の外側と内側。
そんな2人は実は相反することなくいつも背中合わせの存在なのだ。

今まで何人もの相棒と組み、または育ててきたボッシュにとってレネイ・バラードは最後の切り札になるのだろうか。
これから書かれるであろう2人のコンビとしてのシリーズ作を愉しみにしようではないか。


No.1557 7点 レタス・フライ
森博嗣
(2022/09/07 00:05登録)
森氏の第5短編集。森氏の短編は長編に比べて抒情的な作品が多く、また作中で解かれない謎が隠されている。はてさて今回はどうだろうか。

5冊目となる本書は上に書いたように既に4つのシリーズを経ており、従って収録された短編もそれらのシリーズキャラが登場するものが増え、それぞれのシリーズのボーナストラック的な内容となっており、ファンには嬉しい贈り物となるだろう。
従って本書では10作品中シリーズ物の短編が2つ入っており、従来入っていたS&Mシリーズ物はなく、VシリーズとGシリーズ物になっている。但しGシリーズは犀川と萌絵が再登場しているシリーズなのでどちらかと云えばS&MシリーズはGシリーズに移行したと考えるのが妥当だろう。
そして最後の「ライ麦畑で増幅して」はネタバレサイトでこれが後のXシリーズに出てくるキャラクタ2人だというのが判明した。またもこの短編集は別のシリーズへの橋渡し的役割を果たしていたわけだ。

本書のベストを挙げると「コシジ君のこと」と「刀津野診療所の怪」になる。
前者は実にシンプルで泣かせに来ているのは判っていても、こういう話に私は弱い。コシジ君をかつての自分の同じようなクラスメイトに重ねてしまうからだ。そして彼が夢の中でも冴えない風貌で冴えない仕事を一生懸命している姿が主人公に自分のことを訴えかけているように思えた。
後者はもうこれまでのシリーズが見事なまでに結びつく、特にまだVシリーズとS&Mシリーズの関係性を知らなかった頃に読んだ短編「ぶるぶる人形にうってつけの夜」が伏線となっていたことが判明するこのカタルシスが堪らなかった。森博嗣氏はシリーズ読者を裏切らない!いや寧ろ幸せにしてくれる!そう感じた短編だ。

あと珍しく犀川の駄洒落が聞いていた。
「ふうん」「何ですか、ふうんって」「漢字変換する前」は実に見事!爆笑してしまったし、佐々木睦子の「カナダの首都みたいな顔をしている」「トロントしている」も誤ってはいるが実に面白い!

とまあ、さすがに短編集も5集目になると1集目のようなそれぞれの短編に込められた濃度の高さは低くなったが、逆にここまで来るとシリーズ読者、いや森作品読者にとってのサプライズと思いがけないプレゼント、即ち読んできた者だけが判るご褒美をシリーズの短編で感じるようになった。

しかし毎回思うが以前書かれた作品の伏線が数年後に活かされ、そしてそれらが矛盾やパラドックスなく繰り広げられる物語世界の広さと深さを思い知らされる。

森作品は1作1作のミステリの深度は浅いが、作品を重ねるごとに著作全体に仕掛けられた謎やリンクが立ち上り、むしろそちらの深みこそが醍醐味だろう。森作品は1作1作がコラージュの1片1片に過ぎなく、それらが集まって壮大な絵が描かれるのだ。

読めば読むほど天才性が際立つ作家だ。


No.1556 7点 地の果ての燈台
ジュール・ヴェルヌ
(2022/08/06 00:16登録)
ヴェルヌ晩年の作品である本書はヴェルヌ執筆後、息子の手によって加筆修正され発表された。なお本書で扱われているエスタードス島の燈台は実在するようだ。
ヴェルヌはSFを中心にこれまで様々なジャンルの作品を著してきたが、本書のような1つの島を舞台にした冒険小説は少なくない。
いわば孤島小説ともいうべきジャンルを複数書いてきたヴェルヌが晩年に書いたのは南アメリカ大陸の最南端、マゼラン海峡に浮かぶ島々の1つ、エスタードス島に建設された燈台を舞台にした冒険小説である。その島に居付いていた強盗一味と彼らによって仲間を殺された1人の燈台守との闘いを描いた、まさにど真ん中の冒険小説なのだ。

この通称<地の果ての燈台>は世界の船乗りの悲願だったようで、風向や潮の流れが複雑であり、なおかつ島々が群存するマゼラン海峡、ルメール海峡はまさに航海の難所であったようだ。それをアルゼンチン政府自らが建造し、最初の燈台守たちの仕事が始まるところから物語が始まる。そう、本書の主人公はアルゼンチン人なのだ。
そしてこのエスタードス島は、航海の要所である場所として灯台建設の場所に選ばれたようだが、なんと河川がない。そのため動植物が多く生育していなく、その代わりその複雑な海流ゆえに豊富な魚が獲れる。燈台守は3ヵ月交代であり、その間の食糧は主にブエノスアイレスから運び込まれた缶詰である。なんとも生活に苦難を強いられる場所である。

一方、燈台守たちの脅威となる海賊コングレ一味たちの成り立ちにもヴェルヌは筆を割く。主要な人物は一味の首領コングレとその片腕カルカンテ、船大工のバルテスの3人。彼らは絞首刑になるところを辛くも脱してマゼラン海峡の港町からフェゴ島に辿り着き、そこで生活するうちに難破船が多いことに気付いて漂流物をくすねる強盗となり、やがて仲間を増やしていったのだった。しかし彼らは金銀財宝や食糧は豊富に持ちながらもそこから脱出する手立てがなく、燻っていたところに燈台建設が同じ島の反対側でなされることが転機になった。
ヴェルヌは面白いことにこの海賊一味のことも均等に物語に描く。例えば彼らが難破したスクーナー船を手に入れるが、転覆の恐れのある船底の修理を行うために燈台守たちのいるエルゴール湾を乗っ取るために沈没の危険と隣り合わせに湾へと向かう描写もまるでこの海賊たちが主人公たちのようにスリリングに描くのだ。読者の側としては彼らはこの物語の元凶であるのだが、なぜか彼らの危なかしい航海の成功を応援したくなるのである。

少年少女に夢を与える空想科学小説を書いてきたヴェルヌの作品はある種の教訓が作品に含まれているが、冒険小説である本書もまた同様だ。
たった1人で極悪非道な海賊たちと立ち向かうことになったバスケスはやがて難破したアメリカの帆船<センチュリー号>の生き気球に乗って五週間残りジョーン・デイヴィス副船長という新たな仲間を得て、隠れ逃れる生活から海賊たちへ立ち向かう姿勢へと変わる。
小さなことでも、2人という小さな力でも最後まで諦めずに足掻けば道は拓けるというメッセージが込められている。

さて本書は電子書籍しかなく、地元の図書館に蔵書があったことで読むことが適った作品である。販売中の作品、図書館や古本でどうにか手に入れて読んできたヴェルヌ作品は本書が最後になる。しかしまだまだ過去に翻訳刊行されながらも絶版となった作品は山ほどあるのが残念だ。

今まで何度も繰り返してきたこの言葉を最後に添えてこの感想を終えよう。
いやあ、ヴェルヌ作品は大人になってからも、いや大人になったからこそ面白い!


No.1555 7点 ひまわりの祝祭
藤原伊織
(2022/04/12 23:31登録)
1997年刊行の本書。23年前の、しかも前世紀の作品だが、その時既に社会人だった私にとってはさほど前の話のように思えなかったが、やはりところどころに時代を感じさせる。
例えば本書ではオリックスではイチローがまだ活躍しており、デザイン会社での記憶媒体ではMOが主流となっている。いやはや懐かしい。USBメモリーやSDカードが主流になっている現在、MOなんてもう時代の遺物だ。私も当時使用していたが、今の若い子たちはMOなんて知っているだろうか。
更に驚いたのは携帯電話の最初の3桁が030であり、そして番号が10桁であることだ。PHSが050だったっけなどと思い出した。
またタクシーに自動車電話がついてるなどという描写もあり、私もずいぶん昔から生きている者だなぁと思い知らされた。

ゴッホの知られざる8枚目のひまわりの絵を巡る美術ミステリであり、冒険小説でもあるが、読み終わった今、実に類型的な作品であるなとの印象が拭えなかった。

まずゴッホの知られざるひまわりの絵の存在を巡るまでの道のりは本格ミステリ的興趣もあり、実に面白い。
主人公秋山秋二のモラトリアムな生活に突如介入してきた、かつての上司村林のカジノへの誘いをきっかけに彼の周りで彼を見張る者たちが現れたり、また自殺した妻に似た女性が絡んできたりと主人公の身に何が起きているのか不明な点が学芸員をしていた亡き妻英子の遺品に遺されていたメモからゴッホの知られざる8枚目のひまわりの存在に至る、この見事な展開はそれまで何が謎なのかが解らなかっただけに、目の前の靄が一気に晴れる思いがした。

さらにゴッホが8枚目のひまわりを書いていた可能性についてもゴッホ生前の創作姿勢から可能性の高い“あり得る話”だと思わされるし、何よりも主人公の亡き妻英子とゴッホ8枚目のひまわりの存在をアメリカ人美術コレクター、ナタリー・リシュレとの交流から繋げていく流れは実に読み応えがある。
歴史秘話的な興趣に満ちており、恐らく藤原氏は美術が好きで造詣が深いのだろう。でないとこんな話は浮かばない。

ただここからがいけない。登場人物たちやプロットが非常に類型的になっているのだ。
モラトリアムな主人公が事件に巻き込まれ、望むと望まざるとに関わらず、銀座の中心に住みながら家とコンビニの往復でしか毎日を過ごさなかった日々から一転して赤坂のカジノや京都の亡き妻の弟の家まで行く羽目になり、そこから晴海の倉庫で銃撃戦へと展開していく。
原田という謎めいたカジノのマネージャーが味方に付き、記憶力と洞察力が高い上に身なりは優雅、さらに格闘能力も高く、おまけにゲイであるというなんとも作られたような便利な登場人物に、亡き妻の英子に似たヒロイン加納麻里は21歳の若さにしては世間だけでなく、アメリカ社会のことまで知っており、フランス語まで解する。さらになぜか主人公を気に入り、最後は命を懸けてまで主人公の危機を救い、散っていく。

また一介の元サラリーマンが暴力団と手を組み、さらに一介の零細中古ディーラー元社長が一流の拳銃使いとなっている。
とにかくそれぞれの登場人物に設定を盛り込みすぎなのだ。年齢と持っている能力の高さ、成熟度が釣り合わない気がした。いわばプロットを成立させるために登場人物たちに設定を押し込めている感じだ。また人間関係も狭すぎる。このバランスの悪さが読書中、常に頭に付きまとってしまった。

このように中の餡子は非常に美味しいのに昔子供の頃に食べた質の悪い外側の皮がパサパサな饅頭のような作品になったのは誠に残念だ。まさに昭和の味わいといった古めかしさを感じた。
既に鬼籍に入っており、今はもう数限りある残された作品を愉しむしか術はないが、江戸川乱歩賞受賞後、直木賞受賞後の1作としてはこのプロットはなんとも類型的すぎる。刊行年の年末ランキングにランクインしなかったのも頷ける。彼の作品は全て持っているのでそれらが藤原伊織という名を刻むだけの価値あることを強く望みたい。


No.1554 7点 月蝕島の魔物
田中芳樹
(2022/03/26 00:21登録)
最近では老境に入ったこともあり、それまでずっと棚上げされてきたシリーズの完結に勤しんでいる田中氏だが、本書はその前に書かれた19世紀のヨーロッパを舞台にした、実在の人物を登場させた冒険活劇が描かれていたが、本書もそのうちの1つ。
作者あとがきによればこの後『髑髏城の花嫁』、『水晶宮の死神』と続き、全部で三部作となるようだ。

で、私はこの田中氏の19世紀のヨーロッパを舞台にした冒険活劇は実に楽しみにしている作品である。なんせこの前に読んだ『ラインの虜囚』が無類に面白く、久々に胸躍る童心に帰って冒険活劇の躍動感に胸躍らせたからだ。
さてそんな期待を抱きながら繙いた本書もまた『ラインの虜囚』とまでもいかないまでも実に楽しい冒険小説となっている。

まず本書にはあの有名な文豪チャールズ・ディケンズと童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが登場する。デンマークの作家アンデルセンがディケンズの許に遊びに来ているという設定で、なんとこれは作者自身のあとがきによれば史実のようだ。
その2人の冒険に巻き込まれるのは語り手であるエドモンド・ニーダムとその姪メープル・コンウェイの2人だ。
ニーダムはクリミア戦争からの帰還兵で元々ジャーナリストであったが帰還後、彼の勤めていた会社は既に倒産しており、幸いにしてその社長が紹介してくれた貸本会社ミューザー良書倶楽部の社員に姪と一緒に雇われることになる。この2人が実在の人物であるかは不明である。
そんな2人が社長の命でディケンズの世話をすることになり、そしてディケンズのスコットランドのアバディーンへの旅行に随伴することになる。そしてその地でディケンズと因縁深いゴードン大佐と再会し、彼の所有する月蝕島に行くことになる。そしてそこで彼ら街の権力者であるゴードン大佐とその息子クリストルと対決することになるのだ。

まず貸本屋が当時一大産業として成り立っていたというのに驚く。主人公2人が就職するミューザー良書倶楽部は会員制の貸本屋で客層は上流階級で会員費で潤沢な資金を得て話題のある、内容的にも評価の高い本を扱っていた。19世紀当時はまだ本は買うものではなく借りる物だったのだ。
従って作家連中は自作を貸本屋に置いてもらわないと死活問題であったため、貸本屋は売れる本を書くよう作家に指示できる立場であったのだ。いわば編集者も兼ねていたとのことだ。
また逆に売れる作家に対しては将来への投資として旅行費の立替なども行い、まさに今の出版会社と変わらぬ役割を果たしていたようだ。

さて今回ニーダム一行が月蝕島を訪れるきっかけとなったのは新聞で氷山に包まれたスペインの帆船が流れ着いたというニュースが入ったからだ。しかもその帆船は16世紀にイギリスに攻め入って返り討ちに遭い、帰国の途中に行方知れずとなったスペインの無敵艦隊の1隻だともっぱらの、しかし確度の高い噂が流れていたからだ。

ここでまた田中氏によってこのスペインの無敵艦隊について蘊蓄が語られるわけだが、イギリス侵略に失敗したスペインの無敵艦隊は西方の英仏海峡にイングランド艦隊が待ち受けていた関係でなんと東からグレートブリテン島を北上し、アイルランドへ回って帰還するしかなかったと述べられている。そしてそれほどの距離を航行する予定ではなかったため、食糧が尽き、おまけに北の暴風と嵐に巻き込まれて130隻中67隻が帰還し、残りの63隻のうち35隻が行方不明のままだったとのこと。
つまり田中氏はこの史実に基づいて氷山に包まれたスペインの無敵艦隊が200年の時を経てスコットランド沖の月蝕島に流れ着くという実に劇的なシーンを演出する。

そしてこの月蝕島の成り立ちがまたすごい。この島の領主リチャード・ポール・ゴードン大佐は暴君とも云える存在で財力に物を云わせ、農民から土地を巻き上げ、借地料や借金を払えない農民たちを強制移住させて追い出していた。さらに安い賃金で雇い長時間労働をさせて過労で次々と死なせていた。また月蝕島を買い取ると島民たちが生業にしていたガラスの材料となる海藻取りを、海の中まで自分の土地だと宣言して禁じ、貧困にあえがせていた。それは彼の目的のためだった。彼は月蝕島から島民を追い出し、囚人の流刑地にするつもりだったのだ。しかも1万人もの囚人を送り込み、そこで飢餓と寒さに晒すことで自然死させ、そして再び1万人の囚人を送り込んでは死なせを繰り返してイギリスから悪党を一掃しようと企んでいたのだった。

やはり都会よりも歪んだ思想を持つ権力者が幅を利かせる田舎の方が怖いというがまさにゴードン大佐の支配するその街はその典型だ。

ちなみに私は昔からイギリスの小説で大佐という肩書の登場人物が出ることに違和感を覚えていたが、今回の田中氏の説明でその疑問が解消できた。
貴族や爵位の持たないが、広大な土地を所有する大地主などを「郷紳(ジェントリー)」と呼ぶらしく、そしてそういう身分の人物が軽傷で呼ばれたいときに使うのがコロネルという位であり、これを「大佐」と訳していたわけだ。つまり大佐とは決して軍人の階級を示すわけではないのだ。しかしこれは今回初めて知ったが、やはり大佐という肩書は軍人を想起させるので解ったと云えど違和感は当分払拭できそうにないだろう。

またこの悪辣な親にして子もまた同じく心底悪党である。
次男のクリストルは長身でハンサムだがプライドが高く、またすぐに女性が自分になびくものだと思っており、メープルに対して異様な執着を持つ。さらに剣の名手であり、力量の劣る敵を自らの剣で思う存分傷つけ、嬲り殺そうとする異常な性格の持ち主だ。さらに彼は過去自分になびかず兄を好きになったメイドに腹を立て、その報復として身分違いの恋を父親にリークして親と共に兄のラルフを月蝕島の断崖からメイドと共に突き落として殺害した過去を持つ。さらには気に入った女性を島まで連れて行ってはお気に入りの服を着させてもてあそび、飽きてしまえば殺してはまた新しい女性を物色して連れてくるを繰り返していた卑劣漢だ。

またその犠牲となったラルフは運よく生き残ったが恋人のメイドは死んでしまい、彼は身分を変え、新聞記者マクミランとなり、父親と弟への復讐を企てる。彼がディケンズ一行に同行したのはその目的のためだった。
しかし彼もまた歪んだ性格の持ち主で、父親への復讐は彼をひと思いに殺さず、有名人であるディケンズとアンデルセンを殺し、その罪を父親と弟に着せ、一笑殺人犯の烙印を背負って生きさせるためだった。つまり彼も自分の復讐のためにニーダム達一行の命を利用しようとしていたのだ。

そんな悪党親子と立ち向かうディケンズ一行の面々もまた個性的だ。
ディケンズは貧しい家庭の出であることにコンプレックスを抱いているが、情に厚く、自分が気に入った者たちへの支援を怠らない人物だ。
翻ってアンデルセンは大人になって子供で少しのことで狼狽え、嘆き、そして喜ぶ。ちょっとした知的障碍者のように描かれている。
そしてメープル・コンウェイはおじのニーダムに憧れ、将来ジャーナリスト志望の若き娘で作家の悪筆を見事に読み取る能力があり、それを買われてミューザー良書倶楽部に雇われる。そして女性の地位向上、識字率向上に努力を惜しまず、また悪党クリストルにも一歩も引かない気の強さを見せつける。
そして主人公のニーダムは案外深みのあるキャラクターであることが次第にわかってくる。彼は戦争から帰還後貸本屋の従業員として雇われ、また姪に対して気の良い兄的存在のいわば“いいお兄さん”的存在なのだが、クリミア戦争の後遺症で神経症を患っていることが明かされる。
桂冠詩人アルフレッド・テニスンの、彼が従軍したクリミア戦争のバラクラーヴァの会戦をテーマにした詩吟を聴いている最中に戦争の血生臭い死線の中を生きるためだけに潜り抜けた忌まわしい記憶が想起され、気を喪ってしまう。それは600騎中生き残ったたった195騎の中の1人であった彼の壮絶な記憶だった。そしてそれは彼に類稀なる戦闘術を与えることになり、腱の名手のクリストルとの一騎討ちで見事相手を打ち負かせてしまう。

とまあ、ヒーローとヒロイン、ボス的な存在であるディケンズと道化役のアンデルセンと冒険仲間としては典型的でありながらも申し分ない面々以外にも『カラブー内親王事件』の張本人メアリー・ベイカーも加わる。さらに周辺では先に述べた桂冠詩人アルフレッド・テニスンや『月長石』の作者ウィルキー・コリンズなど実在の人物が登場するのもこの田中氏の19世紀冒険活劇の特徴である。

そしてタイトルにある「月蝕島の魔物」とは悪辣な領主ゴードン大佐を指すものではなく、漂着した氷山の中に閉じ込められていた6つの目を持ち、海藻の塊のような風貌で口から一気に生物を凍結させる冷気を吐く、グリーンランドの先住民の間で伝わるキワコウ・ヌークシワエという怪物だ。そしてクライマックスはこの怪物との対決だ。

とまあ、実在する人物が実にのびのびと動き、さらに胸をむかむかさせる悪党が登場し、意外な人物の正体が明かされながら、なじみのない西洋の近代史の蘊蓄も散りばめられ、さらに最後は怪物の対決とエンタテインメントてんこ盛りの作品だ。

そして本書の隠れたテーマとはやはり教科書で学んだ歴史の裏側や教えられない当時の人々の生活やイギリスの社会や風習などを事細かく盛り込み、そしてその時代の人々に命を与えることだろう。
例えばゴードン大佐は急速に発展したイギリスの産業革命によって生み出された、一大財を成し、その資金力を己のエゴのためだけに使ってきた悪魔のような権力者であり、社会の高度経済成長の暗部でもある。

また教科書では決して学ばない当時の人々の生活様式や風習を書き残すことで読者が興味を持ち、次世代の歴史小説家が生まれることを期待しているのではないだろうか。

本書を書いた当時、作者田中氏は59歳。そしてこれが三部作の第1作目であることを考えると、やはり後続のまだ見ぬ作家の卵たちに向けた花束ではないだろうか。
本書の巻末には本書の登場人物が生まれる1789年から1907年の年表と数えきれないほど膨大な量に上る参考文献が載っている。やはりこのことからも田中氏が自分の趣味だけでこのシリーズを書いているわけではないことが判るというものだ。


No.1553 7点 スティール・キス
ジェフリー・ディーヴァー
(2022/03/13 00:02登録)
リンカーン・ライムシリーズ12作目の本書ではリンカーンはNY市警を辞め、大学で鑑識技術の講義を行っている。従っていつものようにアメリア・サックスとコンビを組んでの捜査とはならず、それぞれがそれぞれの事件を追っている。

いつもながらディーヴァーは色んなテーマを扱い、我々の生活と彼の対峙する敵の犯罪が実に近いところで繋がっていることを知らしめてくれるが、本書ではさらにその距離が縮まっている。今回の敵、未詳40号が殺人に利用するのは我々の生活を便利する通信技術だ。スマートフォンのアプリで遠隔操作するシステムの穴から潜り込み、誤作動を起こさせて人を殺す、なんとも恐ろしい敵だ。
まずはエスカレーターの乗降板を意図的に開放させ、人を落としてモーターに巻き込んで殺害。
次に家庭のガスコンロを意図的にガス漏れさせ、ガスが室内に充満したところで点火し、住民を丸焼きに。
そして大型テーブルソーを誤作動させて腕をスパッと切るかと見せかけて電子レンジの出力を何倍にも上げておいて温めていた飲み物とマグカップの中に含まれている水分を水蒸気爆発させる。
さらには自動車の制御システムも遠隔操作して猛スピードで逆走させ、衝突事故を起こさせて渋滞を招き、アメリアの追跡を交わす。
生活が発展し、便利になるとそれを悪用する輩も出てくる。スマートフォンのアプリで色んなことができ、色んなものとリンクすることが可能になったが、ウィルスを侵入させて壊したり、スパイウェアを侵入させて個人情報を搾取したりと枚挙にいとまがない。
しかしハッキングを駆使して遠隔操作を自由自在にこなす完全無欠の犯罪者の正体は社会的弱者とも云える存在なのだ。

本書の犯人だったアリシア・モーガンとヴァーノン・グリフィスは共に理不尽な社会の犠牲者だった。彼女は事故当時、夫が飲酒していたことでUSオートを有罪に追い込めず、和解に応じざるを得なかった。またヴァーノンは虐められて自殺した弟の復讐とマルファン症候群という特殊な病気のために変わった体型になったというだけで馬鹿にされ続けた人生だった。
普通に生きていただけなのに、謂れのない誹りを受けてきた人、もしくは本来罰されるべき相手が罰されず、妥協することを強いられた人。

そんな犯人たちの境遇に呼応するかのような主人公2人の結末だった。
人生全てが順調ではなく、万全ではない。生きていれば一度や二度、挫折もし、苦汁を舐めさせられることもある。しかしそれを乗り越えて生きてこそ、人はまた成長し、そしていつかは笑って話せる過去へと消化できるよう、心が鍛えられるのだ。

今回色々な悪が描かれてきた。
巨大企業のビジネス優先主義によって製品の欠陥を隠匿しようとした悪。
その犠牲になり、復讐のために次々と人を殺してきた悪。
自らの犯行を正当化し、かつての友人や恋人を騙してまで大金をせしめようとした悪。
それぞれの悪が円環のように巡り、そして殺しの連鎖を導く。人が利己的にならなくなった時に犯罪は無くなるのだろうか。

スティール・キス。
それは便利さの裏側に潜む甘美な罠。
もう我々はスマートフォンなしでは生活できなくなってきている。我々の便利な生活が危険と隣り合わせであることをまざまざと痛感させられた。便利と危険は比例することを肝に銘じよう。


No.1552 7点 モロー博士の島
ハーバート・ジョージ・ウェルズ
(2022/02/23 00:43登録)
マッドサイエンティストによる禁断の研究というテーマで一番有名なのはメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』だろうが、本書は舞台を絶海の孤島に設定し、そして狂える科学者によって次から次へと半獣半人の怪物たちを生み出すワンダーランドにして、更に発展させた作品だ。この魅力的な設定が映画人を刺激し、何度も映画化されている。そう、ウェルズ作品は実は映画ネタの宝庫なのだ。

モロー博士の島はフリークスのパラダイスだ。
猿男にゴリラ男やナマケモノ男、豚男に牛男、狼男に豹男、牡牛人間にセントバーナード男、などから複数の動物を掛け合わせたハイエナ豚男、猿と山羊を合わせた精霊サテュロスのような獣人、馬犀人間、熊牛人間、男だけでなく豚女に狐熊女と次から次へと登場する。
これら獣人たちから仮面ライダーの敵のような怪人を想起するが、もしかすると仮面ライダーの敵はこの作品から着想を得たのかもしれない。なぜなら仮面ライダー自体がバッタと人間を組み合わせた人造人間なのだから。

このマッドサイエンティストの住まう孤島と怪人たちが数多く出現し、そこで九死に一生を得た科学者の物語という今や数多く作られたモチーフの原点ともいうべき作品だが、決してそれは既視感を覚えるものではなく、今なお考えさせられるテーマや感心させられる着想に富んでいる。

まず獣から人を作るモロー博士の実験はいわば自ら生命の進化を生み出そうとした科学者の夢だとも云える。しかし上に書いたように人工的に生み出した進化は真の意味での進化ではなく、自然の摂理に逆らった暴挙であることを証明するかの如く、最終的には彼らは獣に戻っていく。つまり退化していくのだ。
また知性を備えた獣人たちがどのように人間社会で暮らしていくべきなのか、そしてそれを受け入れる土壌があるのかと云えば、それはまだない。つまり『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』といった鳥山明氏が描く人間と獣人が混在したような世界は程遠い、いや未来永劫、実現しない社会であると云えよう。

そして面白いことに最初は違和感と嫌悪感を以て獣人たちを観ていたプレンディックも次第にその姿と彼らの所作に慣れてきて親しくなっていくのだ。特に漂流していた彼を救って島へと連れてきたモンゴメリーは人間よりも獣人たちと一緒にいることを好み、先に述べた獣人ム・リンが唯一無二の友人で彼が獣たちの“買い出し”に行くときも一緒に連れていくほどの中だ。但し2人の仲は上に書いたモンゴメリーのやけっぱちな軽はずみの行動によって悲劇を迎えるのだが。
そしてその慣れはプレンディック自身にも妙な潜在意識を植え付けることになる。島を脱出し、3日間の漂流の末に助けられた彼は普通の人間の男女が獣人に見えてしまい、恐れおののくようになるのだ。彼に対する好奇の目や親切心からの問いかけなどに彼は尻込みし、対人恐怖症となるのである。それは獣が人間になるのなら、人間もまた獣になるのではという恐れである。また一方でこれはしかしプレンディックが覚える違和感はロンドンの住民が一様に無表情で無関心である、いわば死んだ目をした虚ろな人間にしか見えないというウェルズの現代人に対する皮肉でもある。

やはり今の数多くある物語の源流を成すウェルズの作品の内容が決して今なお古びれてないことにまたもや驚かされた。
短編集3作を経て初の長編を読んだ今ではウェルズはSFの父というよりも偉大なる智の巨人であったという感を抱いた。


No.1551 7点 いかしたバンドのいる街で
スティーヴン・キング
(2022/02/09 23:59登録)
短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の本書は6作が収録され、総ページ数は330ページ強。1冊目が7作収録で320ページ弱だったから2冊合わせて13作と650ページほどの分量だ。
しかもまだ半分なのだから、キングの短編集の分厚さには驚かされる。

2冊目の本書には貧困層の黒人夫婦の息子が作家になった秘密、洗面所から出てきた動く指に悩まされ、格闘する男の話、トイレの決まったブースに入っている白いスニーカーの持ち主に纏わる話、迷った挙句に辿り着いた街の恐怖、一家の長を喪った女性の一大決心と世界の終末の話、田舎町を訪れた若いカップルを襲った怪異現象の正体などがテーマになっている。

そしてそれぞれの物語のアイデアは単なる思い付きに過ぎないものも多い。

ろくに教育も受けていない両親から生まれた子供が作家になった。
もし排水口から人間の指が覗いていたら怖いなぁ。
いつもあのトイレのブースに同じ靴があるんだよな。
折角の旅行だから知らない道を通って“冒険”しようじゃないか!
我が身に起きた不幸のために世界の終りだと感じた時、本当の世界の終りが来たら?
空からヒキガエルが大量に降ってきたら気持ち悪いよな。

それらは我々の周囲にもよくある話だったり、またふとしたことで頭に浮かぶふざけ半分のジョークのような思い付きだったりする。
しかしキングがすごいのはその思い付きからその周辺を肉付けしてエピソードを継ぎ足して立派な読み物にすることだ。

そんなことが起こる人々、そんな奇妙なことに直面する人たちはどんな人だったら物語が生きるか、その人たちは職業に就き、どんな生い立ちを辿ってきたのか、独身か結婚しているのか、家族と暮らしている子供か、それとも一人暮らしなのか恋人と同棲しているのか、とどんどん肉付けしていく。そして普通の生活をしている我々同様に彼らは自分たちに襲い掛かる災厄に対して信じようとせず、一笑に附することで最悪な結末を迎えることになるのだ。

そんな中、「自宅出産」は本書における個人的ベストだ。
まずは典型的な父長制である家族が頼りにしていた父親が死に、その代わりとなる夫もまた死ぬことで身重である女手一人で生きていくファミリードラマ風の展開から一転して世界中で死者が蘇る怪奇現象に見舞われるという全く予想もつかない展開に思わず声を挙げ、そしてネタバレになるが、死んだ夫が蘇るに至り、それを我が身に宿る我が子のために撃退して生きていく決意をする主人公が頼りない娘から逞しい母親へと変わった姿になんだか胸を打たれる。
こんな奇妙な女細腕奮闘記、キングにしか書けないだろう。

これほどまでに物語を紡ぎながらも我々の心の奥底にある恐怖を独特のユーモアを交えて掻き立てるキングの筆致はいささかも衰えていない。
さてようやく半分の折り返し地点である。次はどんなイマジネーションを見せてくれるのだろうか。


No.1550 7点 模造人格
北川歩実
(2022/02/03 00:13登録)
本書の謎は1点に尽きる。それは木野杏菜と名乗る女性は本物なのか?

彼女に関わる人物が次から次へと登場し、色々な証言が出てくるが、そのどれもが信憑性があり、そしてそのどれもが疑わしい。
この1人の女性、木野杏菜の正体が本人なのか、それとも木野杏菜の記憶を刷り込まれて作られたコピー、即ち模造人格を植え付けられた別人なのかがはっきりしないのは渦中の人物である木野杏菜が記憶喪失であるからだ。
謎自体はシンプルながらデビュー作同様、とにかくこの北川歩実という作家はこの1つの謎をこねくり回す。

再び現れた木野杏菜、即ち外川杏菜は本人ではなく、木野茜が外川の遺産を横取りするため外川杏菜の記憶を刷り込ませた別人だ。
いや、4年前に殺された杏菜は別人で、彼女こそは交通事故で記憶喪失になった本当の外川杏菜だ。
この2つの選択肢を行ったり来たりする。

しかし我々の記憶というものは何とも薄弱なものだろうか。これは単に物語の上での話ではない。
例えば仕事でも自分のミスを認めようとしたくないがために、やっていないことをやったと記憶をすり替える。
また声の大きい人が語った根拠もない話を事実だと受け止めようとする。

それほど我々の記憶というのは薄くて弱くて脆いものなのだ。
では自我を形成する人格とはいったい何によって立脚しているのだろうか?
自分が自分であることの根拠はそれまで歩んできた人生という記憶ではないか。
しかしその記憶が薄くて弱くて脆いものであるならば、いとも簡単に人の人格は変えられてるのではないか。
これが本書の語りたかったことだろう。

もし貴方が貴方であると訴えても周囲が信じようとしなかったら、貴方は貴方であることを自分自身が信じていられるだろうか?
結局我々の現実というのは自分だけの確信だけで成り立っておらず、それを支持する他者の意見によって補強され、そして確立しているのだ。

どれだけ自分を信じてもそれを他人が受け入れなければ、そして他人が頑なに信じたことを押し付けれれば、そしてそれが多数を占めれば我々一己の存在などすぐにでも上書きされてしまう。
なんともまあ、恐ろしいことを見せつけてくれたものである、北川歩実氏は。

この作品を読んだ後、貴方は確かに貴方自身であると胸を張って証明できるだろうか。
正直私は自信が無くなってきた。


No.1549 7点 ウェルズSF傑作集2 世界最終戦争の夢
ハーバート・ジョージ・ウェルズ
(2022/02/02 00:02登録)
SFの父と称されたウェルズだが、光文社古典文庫がウェルズの肩書にこだわらず、むしろ意外な一面とばかりに彼のユーモア小説家としての側面にスポットライトを当てた作品を編んでいたが、東京創元社のこの創元SF文庫においてもSFに囚われない内容の作品群が集められた。

本書に収められた作品はある意味ジャンル分けができる。
例えばモンスター小説だ。未知なる生物の脅威を描いたホラー小説として人食いアリを扱った「アリの帝国」に人の血を吸う蘭が登場する「めずらしい蘭の花が咲く」、海から上がって来た人肉の味を覚えたタコの化け物の話「膿からの襲撃者」、逃げた女を追っていつの間にか巨大なクモの巣喰う谷に紛れ込む「クモの谷」の4編。

そして人間の悪事の失敗を描いたものとして「森の中の宝」、「ダチョウの売買」の2編。

また奇妙な話として盲人たちのコミュニティに紛れ込んだ健常者の悲劇を描いた「盲人の国」に人格入れ替わりの罠に陥った青年の手記として語られる「故エルヴシャムの物語」、赤むらさきのキノコを食べたことで人生が一変する「赤むらさきのキノコ」3編。

寓話的な話として「『最後のらっぱ』の物語」の1編にあと分類不能な物として「剥製師の手柄話」と表題作の「世界最終戦争の夢」の2編。

一応このように分類できるが、その多種多彩な内容はウェルズ=SFの既成概念を打ち砕くほどヴァラエティに富んでいる。

以前読んだ短編集でも感じたが、ウェルズには独特のユーモアと云うかシュールさがある。既読作である「めずらしい蘭の花が咲く」や「赤むらさきのキノコ」もそうだが、本書でも世界各国で〈最後の審判の日〉が訪れることで神の姿を目撃する「『最後のらっぱ』の物語」ではそれがどうしたといわんばかりの日常がそのまま続く結末のクールさだったり、「クモの谷」の、巨大なクモが次々と襲ってきて、自分の身を犠牲にしてまでも主人を救った部下を顧みない主人に怒りを覚えるもう1人の部下との争いを経てたった1人生き残った主人の最後のセリフの脱力感―女に今度は逃げられないよう自分もクモの巣を張っておこう―。
やはりこの作家、どこかネジが1本外れているように思える。

そんな中、本書のベストは「盲人の国」だ。我々の当たり前が覆される様を見事に描いた作品だ。
目の見えている健常者が通常盲目の方よりも生活に不便を感じず、むしろ助ける方だが、盲人ばかりの国では長く目の見えない生活をしていたがために、むしろ彼らの方が神経が研ぎすまされ、暗闇の中でも気配や物音で相手が何をしているのか、どこにいるのかを察知し、健常者の方が躓いたり、倒れたりと無様になる。
彼らには“見る”という概念がなく、また渓谷の奥深くに長らく住んでいるから、世界はそこにある岩の屋根が全てであり、健常者が見ている世界を寧ろ戯言と断じて信じようとしない。やがて目が見えながらも盲人たちに太刀打ちできない健常者は自分こそが間違っていたと認めるのである。
そして目があるからこそ変なことを云い、人間として不完全だと決めつけられ、1人の盲人の娘と結婚するには目を潰さなければならないと迫られる。
発展途上国に紛れ込んだ先進国の人間が文明後進国の人民を蔑んでいたのが、そこで住まう環境や気候で苦しみ、長らくそんな過酷な環境で住んでいた国民たちに生活の仕方を教わる、そんな優位性の逆転を仄めかした痛烈な風刺小説だ。

次点で「故エルヴシャムの物語」を挙げる。人格入れ替わり、若者の身体を手に入れて永久の命を生きようとする老人といった現代では使い古された設定に最後入れ替わった青年が亡くなることで奇妙な余韻を残すことに成功しているからだ。
しかも私が上手いと思ったのは人格が入れ替わった青年は老人の身体に魂が入り、彼はそれまで全く知らなかった生活を強いられるわけだが、それがゆえに住んでいる場所が判らない、自分の身の回りの世話をする召使たちの名前も知らない、屋敷の中にどこに何があるのか判らない、筆跡は自分のものだから莫大な財産を持っていても小切手も切れないという事実が周囲に痴呆症に罹ってしまったと結論付けさせるのに十分な説得力を与えていることだ。
従って手記を読んだとしてもこれが痴呆老人の妄想の賜物であると判断されてもおかしくないところにこの作品の妙味を感じた。

「ダチョウの売買」もシンプルながら最後のオチは思いもよらなかった。ダチョウの売買という珍しい設定が上手い目くらましになっている。ショートショートのアンソロジー選出に推薦したくなる作品だ。

あとウェルズがSFの大家であることを感じさせるのが表題作で語り手の男が夢に見る未来で空を飛ぶ戦闘機械の件だ。この作品が書かれたのが1901年であり、ライト兄弟による飛行機が誕生したのが1903年となんと2年も前のことである。さらに戦闘機が誕生したのは1915年にフランス空軍が飛行機に固定銃を装備したことがきっかけとなった出来事である。
つまりウェルズは戦闘機はおろか飛行機が生まれる前に空を飛ぶ戦闘機械の存在を予見していたことになる。しかもそれらの形状は槍の穂先のようで後ろにプロペラがついている金属製の機械であると、プロペラをアフターバーナーに置き換えれば現代でもおかしくは感じないデザインである。この想像力の凄さには驚嘆すべきものがある。

やはりウェルズは巨匠である。SF以外の物語も多々書きながらも、まだ見ぬ未来を描かせれば一つも二つも抜きん出た創造力を発揮する。

彼の作品は決して少年少女の読み物ではない。ヴェルヌ同様、大人になってから読むと判る妙味と驚嘆があることが判った。


No.1548 7点 慟哭
貫井徳郎
(2022/01/18 23:30登録)
1993年の鮎川哲也賞の候補になり落選しながらも刊行されることになった貫井徳郎氏デビュー作である本書はその年の『このミス』で12位にランクインするなど好評を以て迎えられた作品だ。
そんな期待値の高い中で読み進めた本書だったが、最後まで読み終わった感想は微妙というのが正直なところだ。それについては後ほど述べよう。

さて本書は北村薫氏をして「書きぶりは練達、世も終えてみれば仰天」と驚嘆させたと当時評判だったが、確かにその内容と筆致はとても新人の作品とは思えないほどどっしりとした重厚な読み応えを備えた作品だ。

本書は幼女連続誘拐殺人事件の捜査を進める警察の話と心に大きく空いた穴を埋めるために新興宗教へとのめり込む30代の男性の話が並行して語られる構成で進む。

まずメインの警視庁捜査一課のキャリア出身の佐伯課長が陣頭指揮を執る捜査の内容は新人とは思えないほどの抑えた筆致で、キャリアとノンキャリアの確執、もしくはキャリア同士の確執、さらには佐伯の微妙な生い立ちと現在の立ち位置など縦割り文化が顕著な警察組織の中で軋轢を上手く溶け込ませ、よくもデビュー前の素人がここまで書けたものだと感嘆した。
それは後者の新興宗教にのめり込む30代の男、松本の話も同様で、新興宗教の内情とそこに所属する人々の描写は実に迫真性に満ちている。この細やかな内容は経験しないと判らないほどリアリティに富んでいる。

そんな実に読み応えある作品なのだが、読後感が微妙だった理由は大きく分けて3つある。

第一に本書の真犯人についてあまり腑に落ちなかったのだ。
そして2番目の理由は最も微妙な読後感を残す、主人公佐伯が捜査していた連続幼女誘拐事件が解決されないということだろう。
この結末をどう捉えるかで評価は大きく分かれるだろう。ミステリとは即ち謎が解け、事件が解決する物語である。しかし貫井氏はなんとデビュー作でそのセオリーを破ったのだ。つまりある意味読者の先入観を裏切った形の斬新なミステリを書いたのだ。
私は恐らくこの警察が捜査していた事件が解決されないと云う結末が鮎川哲也賞を受賞できなかった理由ではないかと推察する。

ただこの構成には説明がなされなかったことが多すぎて、それが十全に納得できない理由にもなっている。
まず佐伯が今回捕まるのは自身の後任の捜査一課長の娘を誘拐しようとしたことだ。彼もまた同じように娘を誘拐され、殺されているのになぜ同じようなことをするのか、それがよく判らない。

そして3番目の理由はこの佐伯という男が全くの見掛け倒しであることだ。
ヴェテラン刑事の部下丘本からは時折見せる鋭い眼光と本質を見抜いた的確な指示から一目置かれていたが、結局捜査は遅々として進まず、次から次へと犠牲者を出し、最後には自分の娘もその犠牲者になってしまう張り子の虎のような無能な指揮官である。
特に妻から家を見張る不審な人物の話を受けても、警察を一個人のために貸し出せないと拒否し、さらには娘が帰ってこないと泣き叫ぶ妻の声に動揺しながらも事件の陣頭指揮を執ろうと自分の娘の捜索に警察官を動員しようとしない、杓子定規なやり方にはその愚かさに思わず罵倒の声を挙げてしまった。
特にフリージャーナリストの愛人篠伊津子との関係を知られてもマスコミに弁解もせず、そのせいで娘が幼稚園でいじめられるようになることに思い至らない身勝手さ、さらにはその愛人に娘を思う気持ちを悟られ、自分が子供ができない身体であることを打ち明けられて別れを切り出されたりと、相手に対する配慮に欠ける傍若無人さばかりが目立つ。
これほど読者の共感を得られない主人公も珍しい。

タイトルの慟哭とは娘を喪った佐伯の心の慟哭を意味する。しかしその慟哭に対して誰が共感できようか、誰が同情できようか。
哭きたければ勝手に哭け。これほどまでに突き放したくなる主人公に出会ったのは初めてだ。
自分が経験した慟哭をなぜ他の夫婦に強いるのか。微妙な読後感の後に訪れたのは一人の身勝手で無能な男に対する大いなる憤りだった。


No.1547 7点 ドイル傑作集Ⅲ 恐怖編
アーサー・コナン・ドイル
(2022/01/18 00:01登録)
最後の三冊目にしてやっと通常の読物として満足できるものが揃い、ほっとした。
「革の漏斗」、「サノクス令夫人」以外はどれも標準点である。特に最後の「ブラジル猫」は友人を地下墓地に巧みに迷い込ませた「新しい地下墓地」のパターンを応用し、ひっくり返させ、更に夫人の振舞いにダブル・ミーニングを持たせてアクセントをつけている。
異形物の「大空の恐怖」、「青の洞窟の怪」は『ロスト・ワールド』の作者である面がよく出ており、物語作家ドイルの面目を保った感がある。
これでドイルの作品は最後になるが、全般的な感想を云えば、世評の高い『バスカービル家の犬』、『緋色の研究』や短編「まだらの紐」、「銀星号事件」などよりもあまり巷間の口に上らない『恐怖の谷』の方が読物としてレベル的にも断然面白かったのが非常に印象に残った。
やはりホームズ譚は世の中に紹介されすぎなのだろう、世評高いものはもはや手垢が付きすぎた感があり、新鮮味に欠ける。
そしてまた『緋色の研究』や『四つの署名』、『恐怖の谷』に挿入される犯人判明後の挿話がすこぶる面白かったのも新たな発見であった。この挿話では文体から既に別人と化しており、本質的にこの作者が何を書きたかったのかをあからさまに示しているようだ。
最後に最も残念だったのが悪訳の多い事。日本語で読みたいのだよ、私は。21世紀でもあるし、改訳するのが潮時でしょう。


No.1546 5点 ドイル傑作集Ⅱ 海洋奇談編
アーサー・コナン・ドイル
(2022/01/15 00:51登録)
近代ミステリの祖としても名高いドイルだが、何故かこのようなホームズ以外のアンソロジーには秀作が少ない。
海洋奇談編と名付けられた本書は、その名の通り海や航海に纏わる話(小噺?)が集められている。ホームズ譚では見られなかった海洋物を6編とは云え、物していたとは不思議な感じがし、昔は1つのジャンルを成していたのだろうと推測する。
さて個々の作品についての詳細については措いておくとして、全般的には小粒な印象。『恐怖の谷』、『緋色の研究』などの長編にエピソードとして添えられる冒険譚のようなものは『ジェ・ハバカク・ジェフスンの遺書』ぐらいなもので、最後の『あの四角い小箱』なぞはしょうもないオチの小噺でこれが棹尾を飾るとは何とも情けない。文章も現在ではかなり読みにくく、日本語の体を成してないとも思える。我慢を強いられる読書だった。


No.1545 5点 ドイル傑作集1 ミステリー編
アーサー・コナン・ドイル
(2022/01/13 23:58登録)
ホームズの出てこないドイルのミステリーという事でかなり期待していた。というのも『緋色の研究』、『恐怖の谷』で私が大いに愉しんだのはメインの謎解き部分よりも犯行の背景となった1部丸々割いて語られるエピソードに他ならない。
という意味でも今回は期待していたのだが、なんとまあ、よくもこれだけの駄作を集めて出版しようとしたものだと、商魂逞しいというか、阿漕な商売するなぁとまでもいうか、下らない作品の多い事。
「甲虫採集家」などはまだしも「漆器の箱」、「悪夢の部屋」などは三流コントのネタに過ぎず、特に前者は物語のプロットにさえなっていない。
惜しいのは「ユダヤの胸牌」。最後にもう一つ捻りがあれば現代にも通ずる物になっていた筈だ。

率直に云えば、ここまで本書に対する評価はかなり低かったのだが、最後の「五十年後」で点数を増やした。ネタはよくあるものだが私自身がこういう“悠久の時”ネタに非常に弱いのだ。展開や結末が解ってても胸にグッと来る。
だから本音を云えば、本書はこれ1つだけあれば十分なのだ。


No.1544 7点 ドランのキャデラック
スティーヴン・キング
(2021/12/21 23:50登録)
キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目。しかし1冊の短編集が4冊に分かれて刊行されるのは出版社の儲け主義だと思われるが、キングの場合、逆にこれくらいの分量の方が却っていいから皮肉だ。

その内容は妻を殺された男の復讐譚、ある発明をした弟を殺した小説家の告白文、厳格な教師の哀しき末路、吸血鬼の連続殺人事件を追う記者が出くわした真の恐怖、ギャンブルで抱えた多額の借金を返済するために子供の誘拐を請け負った男が辿った悲惨な結末、人を食うと噂される屋敷の歴史、ゼンマイ仕掛けの歩く歯の玩具を貰い受けた男がカージャックに遭う話とこの1巻目だけで実にヴァラエティに富んでいる。

そんな中、収録作中3作が怪物を扱った作品だ。この頃キングは45歳。この年になるとサイコパスなど人間の怖さを扱う作品が多くなりがちで、なかなか怪物譚などは書かなくなると思うのだが、キングは本当にモンスターが好きらしい。

またキング作品のおなじみのモチーフであるサイキック・バッテリーとしての家の物語や“意志ある機械-正確には今回は器械だが―”の話もあり、初心を忘れないキングの創作意欲が垣間見れる。

しかしそれらおなじみの、いわばパターン化した作品群であるが、成熟味を増しているのには感心した。

例えば怪物譚で云えば「幼子よ、われに来たれ」ではいわば厳格な教師に従わない生徒に直面して精神の異常を覚える話か本当に生徒は怪物だったのかと不穏な余韻を残して幕を閉じれば、「ナイト・フライヤー」の鏡に見えない吸血鬼が小便を、しかも血の小便をするシーンは戦慄を覚える。

「丘の上の屋敷」ではキャッスルロックの数少ない年老いた住民たちの群像劇と彼らの会話が延々と続く中で、彼らの話題の中心となっている丘の上の屋敷を主のいない今誰が増築しているのかと語ることでもはや家自体が自ら増築していることを仄めかされる―この作品は2回読んだ方がいい。1回めではキングの饒舌ぶりも相まってとりとめのなさが先に立ち、作品の意図を掴むのが難しい―。

そして最後の「チャタリー・ティース」ではゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃが新しい主を待ち受けていることが判るのだが、なぜそのおもちゃが彼を選んだのかは不明だ。

そう、作家生活19年にしてキングの描く恐怖はさらに磨きがかかっているのだ。しかもそれらが映像的でもあり、また鳥肌が立つような妙な不可解さを感じさせる。

西洋人の恐怖の考え方はその正体の怖さを語るのに対し、日本人は得体の知らなさそのものの恐怖を語る。つまり恐怖の正体が判らないからこそ怖いというのが日本式恐怖なのだが、本書のキング作品もどちらかと云えば後者の日本式の恐怖を感じさせる。

そんな円熟味を感じさせる作品集のまだ4分冊化されたうちの1冊目なのだが、早くもベストが出てしまった。それは「争いが終わるとき」だ。
この作品は最初何を急いで書き残そうとしているのか判らないまま、物語は進む。つまり物語自体が謎であり、メンサのメンバーになっている両親から生まれた兄弟の生い立ちが語られ、どこに物語が向かっているのか判らない暗中模索状態で読み進めるとやがて強烈なオチが待ち受けていたという構成の妙が光る。そしてそのオチが見事に手記の形態で書かれていたことにも繋がっており、久々唸らされた作品だ。

短編が売れない昨今の出版事情の中、敢えて短編集を出すのは彼には大小さまざまな物語を書かずにはいられないからだ。
そしてそれは今なお続いており、つい先日も『わるい夢たちのバザール』という短編集が分冊で訳出されたばかりである。

ちなみに冒頭にも述べたが本書は“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”、即ち“悪夢と夢のような情景たち”と題された短編集の一部である。つまり本書刊行後、28年を経てもなおキングの悪夢は続いているのだ。
それではその悪夢を引き続き共有しようではないか。


No.1543 3点 鎧なき騎士
ジェームズ・ヒルトン
(2021/12/03 23:36登録)
牧師の息子として生まれたエインズリー・ジャーグウィン・フォザギル、通称“A・J・”という男の数奇な運命を通じて日露戦争からロシア革命の頃のロシア情勢を語った作品だ。

このフォザギルという男。特段何か特技や特徴があるわけでもない、ごくごく平凡な男である。しかしなぜか彼の周りには人が集まり、そしてそのたびに彼は名を変え、身分を変え、そして国籍さえも変えて窮地を脱するのだ。

ところで人はいつ自分の使命を知るのだろう?いや自分の生きる使命を知る人間がどれだけいるのだろう?
自分がここに生きる意味、誰かのために生きている、もしくは生かされていると悟る人はそれほどいるとは思えない。
このエインズリー・ジャーグウィン・フォザギルという男は最初は我々のようなごく普通の人物に過ぎなかった。
これが次第に人間味を帯びてくる。彼がそれまでただ成り行きに身を任せ、どうしてか判らないがとんとん拍子に物事がうまく運ぶ、流されキャラだったのがアドラクシン伯爵夫人との邂逅で変わっていく。
最初彼は彼女を赤軍に引き渡すために彼女の旅程の助けをしているだけだったが、次第に彼女の魅力にほだされ、そして彼女と共に生き延びたいとまで思うようになる。そこから彼は主体性を以て動き出す。彼の生きざまにアドラクシン伯爵夫人と云う軸ができるのだ。

奥ゆかしくも運命に流されながら、時に抗い、生きてきたエインズリー・ジャーグウィン・フォザギルという男の波乱万丈の人生物語だ。
彼はジャーナリストとして夢を抱いてロシアに飛ぶが、求められた記事を書かなかったことで帰国を命じられる。その後はただ出遭う人の申し出に乗って色んな職に就き、また時には周囲の勘違いから政府の役人になったという偶然の連続で生き延びた男だった。そう、彼は自ら選んだ道では上手く行かず、周囲の要請や提案に従ったことが彼を生かした。

何とも奇妙な男である。当時のロシア革命真っただ中の、赤軍と白軍、つまり社会主義派と反革命派がそれぞれの街で拮抗する特異な情勢の中でその場その場を潜り抜けるには流れに身を任せるのが唯一の生存手段だったのかもしれない。

自分の意志を貫こうとすれば叶わず、周囲に流されることで自分が生かされた男フォザギル。巨万の富を得ても結局彼には愛すべき者は得られなかった。なんと虚しい男であることか。
題名の鎧なき騎士とは彼のことを指すのだろうが、個人的にはいささかピンと来ない。

確かに彼は無防備に戦い、守るべき者を守っていったが、最後はいずれも叶わなかったではないか。寧ろ彼は自分の意志を鎧で隠した男であった。彼が鎧を脱いだ時、すなわち彼の本心が出た時こそ彼の望みが潰えた時であったのだ。
彼は妻を娶らずに死んだ。それこそは騎士の生き様であろう。虚しき騎士の物語、それがこの物語に相応しいと思うがどうだろうか。

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