Tetchyさんの登録情報 | |
---|---|
平均点:6.73点 | 書評数:1631件 |
No.1591 | 7点 | ZOKUDAM 森博嗣 |
(2024/09/22 14:11登録) あのお騒がせ集団ZOKUが還ってきた。しかしどうも時制は前作よりも遡るらしい。なぜなら前作のメンバー、ロミ・品川とケン・十河、そしてバーブ・斉藤が初対面であるからだ。 いやしかしどうも読み進めると同じ設定と人物を使った別の世界の作品のようにも思えてくる。これは即ち3人組の悪党たちと2人組の男女の正義の味方という設定だけを踏襲したタツノコプロアニメと同様、人物設定だけを同一にした全く別の話だと思うのが正しいようだ。 そして組織の名前はZOKUではなく今回はZOKUDAM。そう、あの国民的巨大ロボットアニメを彷彿させるように本書では巨大ロボットが登場する。 巨大ロボットと怪獣が戦う設定のロボット物と思わせながら、実は怪獣との戦闘シーンはおろか、TAIGONとZOKUDAMそれぞれの巨大ロボット同士の戦いも出てこない。描かれるのは巨大ロボットに乗って操縦することを任命された2人のサラリーマンが出くわす不満と日常風景である。つまり本書は巨大ロボット物の設定の下で描かれる日常小説なのだ。 そしてそんな特殊状況下にある2人が直面する問題や日常風景が妙にリアルで面白い。 そして最終話に至っていよいよ決戦の火蓋が落とされる。それまで状況に翻弄され、何が悲しくてOLをしていた自分が巨大ロボットに乗って敵と戦わなければならないのかと環境の犠牲者とばかりに嘆いていたロミ・品川も決戦の日が近づくにつれ、訓練の充実度が増し、そしてケン・十河に抱いていた悶々とした欲望やバーブ・斉藤たちに抱いていた嫌悪感などが次第に雲散霧消していき、敵と戦うちいう1つの目標に心身が純化していくところは実に清々しい。 もはや悟りの境地にまで達した2人にとって戦いの結果などはもうどうでもいいのだろう。したがって 最後の連載打ち切り感的な結末も敢えて狙ったものだろう。私はこの結末に対して残念感や嫌悪感を抱かなかった。寧ろこれでよかったと純粋に納得してしまった。 最後まで読むと本書は結婚適齢期を逃し、会社の人事に翻弄されたロミ・品川という女性の物語だったことに気付く。だからこそ彼女がそれまで抱え込んでいた人生の鬱屈や煩悩が消え去り、純化されたことでこの物語は終わりなのだ。 案外私は森作品の中でもこのシリーズが一番好きなのかもしれない。 次の『ZOKURANGER』も愉しみだ。もうタイトルからして今度はアレのパロディなのだろうから、またもや世代ど真ん中なのである。 |
No.1590 | 5点 | εに誓って 森博嗣 |
(2024/09/02 00:32登録) Gシリーズ4作目の本書ではそれまでの事件と違い、リアルタイムで進行する。なんと加部谷と山吹2人のメインキャラクターが那古野市への帰りのバスでバスジャックに遭ってしまうのだ。 本書はまさにそれだけの話と云っていいだろう。 一方バスジャックの車中で山吹といる加部谷もなぜ自分たちがこうも事件に巻き込まれるのかを疑問に思い始める。 この件は正直面白いと思った。なぜならミステリのシリーズキャラクターというのは得てして他の一般人と比べても事件に遭遇する頻度は高くなるし、そうでないとシリーズとして成り立たないからだ。この不自然さについてシリーズキャラクターに疑問を持たせることが素直に面白い。 そして今回もまた数々の謎を残して物語が終える。 恐らくこのGシリーズはシリーズ全体を通してようやくそれぞれの事件の真相、裏側に隠された意図や出来事が判明するのだろう。つまりそれぞれのシリーズ作品はそれら1つの大きな事件を構成する断片にしか過ぎないのではないか。従ってこれら解明されなかった謎の真相がどこかで一気に説明がなされるのではないだろうか。 しかしそれは非常に読者にストレスを感じさせる。通常の大河小説ならば前作に残された謎は継承され、そして新たな謎が生まれるような、読者の好奇心を牽引していくようなスタイルであるのに対し、このGシリーズはその作品で残された謎は放置されたままだからだ。 エピローグで加部谷が呟くように問題は先送りにされるのだろう。それが生きるということだと述べる。これはまさに森氏の実に現実的なスタンスだ。 しかし謎が解決されてこそミステリなんだけどなぁ。やっぱり今回もモヤモヤが残ってしまった。 |
No.1589 | 4点 | 裏切りの塔 G・K・チェスタトン |
(2024/08/10 01:58登録) 東京創元社が編んだ日本オリジナル短編集。 本書に収録されている「高慢の樹」と「裏切りの塔」はそれぞれ「驕りの樹」と「背信の塔」という題名で『奇商クラブ』に収録されていたため、既読済みなので今回の感想から省くとして残りの2編「煙の庭」と「剣の五」と戯曲「魔術―幻想的喜劇」について述べる。 まず『煙の庭』は実にオーソドックスなミステリだと感じた。雰囲気はあるものの、幻想味や逆説の妙を感じさせなかったからだ。 ただ本作の犯人である博士の心情は私も理解できる。きっちりと生活をしている人ほど秩序を重んじ、そしてそれが適正に保たれていることを好む。しかしそれが叶わない時は心的疲労を抱えて尾を引くのだ。 そしてこの作品のミソは粗野な船長と知的階級の博士2人と並べているところだろう。この労働者階級の人間と知的階級の人間を対比させることで夫人を鋭利なもので突き刺して毒殺した犯人像を前者に引き寄せることが出来るからだ。本書のパラドックスを挙げるとすれば、この2者のイメージギャップということになるだろうか。 そして「剣の五」もチェスタトンにしてはいささかパンチが弱いと感じた。 決闘による討ち死にと見せかけた殺人だったという真相と放蕩息子だと思っていた被害者が実は父親の会社を護るために世界的に有名な出資会社が稀代の詐欺集団であることを見抜いた慧眼の持ち主だったと云うパラドックスはしかし、価値観の逆転として昨今ミステリ小説のみならず子供向けのファンタジーやドラマでもよく使われているため、今となってはインパクトが弱く感じた。 そして本邦初訳の戯曲だが、これはミステリではなく、サブタイトルにあるように幻想的喜劇だ。 妖精や魔法を信じていた若き女性が森の中で出くわした男性が自らを妖精と名乗り、そして奇術師であると告白し、実は魔術師だったと正体を二転三転させていく。最後、その娘に自分が恋をしたことを告白するが、娘は逆に彼が本当の魔術師であったことを知り、それまで彼女の中で育んできた御伽噺の終焉を悟る。これは即ち彼の求愛を受け入れて、もう箱入り娘のような生活ではなく、伴侶として生きていくことを選択し、そして決意したと云う意味ではないか。つまり彼女はようやく大人になったのだ。つまりこれは幻想的喜劇と見せかけて幻想的ロマンスが正確だろう。 しかし今回も痛感したのは古典作品の読みにくさ。いや自分の理解のしにくさと云った方が正解か。 とにかく改行がなく、古い云い回しが続く古典作品は本書のように新訳での刊行となってもその内容をきちんと把握するためには1回きりの読書では十分理解できないだろう。 またチェスタトンは各課題に対するヒントを実に上手く物語に散りばめているが、最初に読んだだけではそれが煙に巻かれたかのように頭に入らないのだが、物語を要約するために読み返すことで手掛かりが判り、本来の物語が見えてくるのだ。つまりはチェスタトン作品を十二分に堪能するには二度読み必須であることを再度感じた。 |
No.1588 | 7点 | 魔力の胎動 東野圭吾 |
(2024/07/31 00:39登録) 『ラプラスの魔女』に登場した羽原円華の前日譚とも云える本書は連作短編集とも云うべき構成で彼女のその驚異的な能力を活かした物語と『ラプラスの魔女』で彼女と関わり合いを持つ泰鵬大学准教授青江修介の名刺代わりの事件が繰り広げられる。また『ラプラスの魔女』で雇われるボディガード役の武尾徹とお目付け役の桐宮玲も登場する。 今回羽原円華の不思議な能力の一端に直面するのは鍼灸師の工藤ナユタ。彼は80歳を迎える師匠が抱える顧客の依頼を受けると日本全国出張して鍼を打っているのだが、その行く先々で羽原円華と出くわす。 本書で扱われているエピソードを読んで思い出してほしいのはこれらはかつて東野氏自身が初期の作品でテーマとして扱った題材であるということだ。 スキージャンプは『鳥人計画』、ナックルボールを投げる投手と捕手の物語は『魔球』、植物人間となった息子に対する両親の思いを描いたのは『人魚の眠る家』、性同一性障害を描いた作曲家のエピソードは『片思い』をそれぞれ想起させる。 ただそれらが二番煎じになっていないところに東野氏のストーリーテラーとして卓越ぶりを感じさせる。 扱っている題材の専門的な知識やアプローチが真に迫っているのだ。 また面白いのは流体の流れを正確に把握する羽原円華がそれぞれのエピソードでスーパーコンピュータ並みに計算して解き明かす一方で、最終的にそれぞれの登場人物の問題を解決するのはそんな数式やロジックではなく、各々の心に発破をかけて思いの力で克服させる、いわば論理よりも感情に働きかけていることだ。 それらは結局物事と云うのは論理や計算などでなく、困難を克服しようとする人の心の持ちようなのだと、いや人の心の力は論理や計算を凌駕する力を持っているというのが円華からのメッセージなのだ。 円華は自分が他の人にはない能力を持っているからこそ、それぞれのエピソードに登場する人物のタレントを状況のせいにして容易に諦めることが我慢ならないのだと思う。 連作短編集のような構成になっている本書だが、一応全体を貫く縦軸の物語はある。 それは羽原円華が自身の母親を巨大竜巻の事故で亡くした苦い過去から竜巻のみならず、ダウンバーストなどの異常気象のメカニズムを解き明かすために乱流の謎を解き明かすため、北稜大学の流体工学の准教授筒井利之の許を訪れていることと、青江が登場する最終章、いや『ラプラスの魔女』に登場する敵、水城義朗の死と甘粕才生へのエピソードへのつなぎ役となっていることが判明する工藤ナユタの再生だ。前者については結局本書では解決しないが後者については本書で一応の決着がなされる。 連作短編集のような本書を読んだ感想はこの羽原円華の特殊能力を活かした物語をシリーズ化するのは五分五分と云ったところだろうか。彼女の自然現象を論理的に解析して予測する能力を活かしたエピソードが本書では5つのエピソードのうち2編のみであることを考えると、ヴァリエーションはいくつか出来るものの、シリーズ化となると流石に厳しいのではと思ってしまった。 しかしもっと成立条件に制約のあるマスカレードシリーズについては東野氏は光明が見えたと述べているから、もしかしたらこの羽原円華の物語もシリーズ化するかもしれない。 万物の理を見切る特殊能力者を主人公に据えた東野作品としては珍しい設定であり、彼女に関わる人間の心を動かす、情理の両輪を両立させた物語だけに新たな作品がどんなものになるのか、大いに期待したい。 |
No.1587 | 2点 | トーノ・バンゲイ ハーバート・ジョージ・ウェルズ |
(2024/07/26 00:45登録) これはポンダレヴォー家の栄光と挫折の記録である。 トーノ・バンゲイという奇妙な題名は人の名前を指すのではなく、語り部のジョージ・ポンダレヴォーの叔父エドワードが発明した一種の強壮剤の名前だ。そしてこの薬は彼らに巨万の富を生み出し、あれよあれよと事業を拡大していく様が描かれる。 本書は数多くの名作を書いたH・G・ウェルズの作品群の中でもほとんどの人に知られていない作品だろう。しかし本書は『タイム・マシン』や『宇宙戦争』、『モロー博士の島』と並んで英ガーディアン紙の読むべき1000冊に選ばれた作品の1つなのだ。 上下巻に別れた本書は上巻では主人公で語り部のジョージ・ポンダレヴォーの恋愛物語が語られる。いや彼の女性遍歴の方が正確か。 下巻からは事業者としてのジョージ・ポンダレヴォーとエドワード・ポンダレヴォーの物語へと展開する。強壮剤として売り出したトーノ・バンゲイをブランド名にして養毛剤、目に効く濃厚トーノ・バンゲイ、疲労回復剤として錠剤やチョコレートまで生み出し、ヒットを連発して事業を拡大していく。 冒頭にこの物語はポンダレヴォー家の栄光と挫折の記録であると書いたが、同時にこれは青年ジョージ・ポンダレヴォーの半生の記録である。彼が育った地方の金満家での暮らしとロンドンでの享楽の日々、そして彼の恋愛変遷とトーノ・バンゲイを中心とした叔父エドワード・ポンダレヴォーの片腕として経営に携わった彼の波乱に満ちた物語である。 色んなことに興味を持ち、そして色んな分野に事業を拡大し、そして様々な階級や分野の人間に出遭えるロンドンで人付き合いもしながらも、これほどまでに人脈が得られない人物も珍しい。最後の最後まで彼は独りなのである。 しかしなかなか内容が入ってこない作品だった。使われている漢字が旧字体であるのも一因だろうが、最初のうちは戸惑うものの、慣れてくればさほど問題ではなくなってくる。 また下巻では新字体になっていることから決して字面に由来するものではないだろう―しかし下巻が新字体に改められているのなら、上巻も修正すればいいのでは。これは下巻の訳出が上巻刊行の7年後になったことが関係しているのだろうか―。 問題は物語に起伏が感じられないのと、語り部のジョージ・ポンダレヴォーの思考が見開き2ページにぎっしりと書かれた文字によって語られ、その内容がなかなか頭に入って来づらいのだ。 ポンダレヴォーは最後、自分で書いた自叙伝めいたこの物語の草稿を振り返って激しい活動と無理な推進とそして空しい不毛との物語だと評し、更に「トーノ・バンゲイ」という題名よりも「空費」とした方がよかったと述べる。 まさに私にとっても空費の読書体験であった。 |
No.1586 | 7点 | 東野圭吾公式ガイド 作家生活35周年ver. 事典・ガイド |
(2024/07/24 00:24登録) 本書は2012年に東野圭吾25周年祭りというイベントの一環で刊行されたガイドブックの増補改訂版である。 前回よりもマイナーチェンジしたのが読者投票による人気ランキングの記事だ。これが25周年記念の時の再録で、しかも前回が20位までの紹介とそれ以降のランキングが載っていたのに対し、今回は10位までの紹介に留まっているのが残念だ。正直前回から10年経っていることを考えると読者層も広がっているだろうから、再度読者投票のイベントをした方がよかったのではないだろうか。ただコロナ禍でそのような大々的なイベントが出来なかったのかもしれないが。 このように内容としては前作に若干デコレーションが施されたようなものだが、それでも今回加わった記事の中には興味深いものもあった。 まずはなんといっても東野氏がマスカレードシリーズの続編を考えていることが判ったことが大きい。一流ホテルへの潜入捜査という限られたシチュエーションのこのシリーズだが、その制約の大きさゆえに『マスカレード・ナイト』までが限界だろうと思われたが、東野氏は『~ナイト』を経たことでシリーズとしての今後の可能性が見えてきたとのこと。 あと『素敵な日本人』は私が推測したように当初は季節ごとの短編ミステリを書くことにしていたのが、別の注文として受けたSF短編が評判が良かったため、結局企画が破綻してしまったとのこと。多分触れられているのは「レンタルベビー」のことだと思うが、私は逆にそれで良かったように思う。 あとは本書で私がこれまでの作品で気付いていたミッシングリンクについても触れられていたのは残念だ。そのリンクについては敢えてここでは触れないでおこう。 あとやはり巻末に据えられたロングインタビューは非常に興味深く読めた。 なぜこれほどまでに出せば売れる作家になったのかについてその前と後の違いが聞けているのが素晴らしい。スノボで自身の大会を開くまでになっていたことやスノボを通じて様々なジャンルの人々と出会い、ネットだけでは築けなかったであろう人間関係についても触れられており、共感を持てるところもあった。 またベストセラーを次から次へ生み出す東野氏が生まれる萌芽となったきっかけが1997年に空白期間を敢えて設けたことが明かされている。 それまで年間5,6冊ぐらい出版していた作者が敢えてここで白紙に戻したのは出版しないことで自らの存在感を読者に抱かせるための戦略だったと明かされる件はかなり驚いた。 東野氏が今なおベストセラー作家であるのは、彼が人と交流し、そして関心を常に外に向けているからだ。彼は自作が売れることで出版社が潤い、そして他の売れない作家たちの作品の出した損失を補填していることを十分理解している。だからこそ彼は使命感を持って臨んでいるのだろう。 しばらく東野圭吾氏はトップの座を譲りそうにない。本書を読んでその思いを強くした。 |
No.1585 | 5点 | デスペレーション スティーヴン・キング |
(2024/07/21 01:35登録) 今度のスティーヴン・キングが舞台にしたのはネヴァダ州の砂漠にある小さな鉱山町デスペレーション。チャイナ・ピットと呼ばれるアメリカ最大の露天掘りの銅鉱山の町だ。そこにいる狂える警官によって狩られる旅行者たちの物語だ。 物語はしかし最初は田舎の町を独裁する警察官の横暴の数々が描かれるため、悪徳警官小説だと思われた。 よく田舎の町ほど恐ろしいところはないという。なぜなら田舎には町を牛耳る権力者がいれば、その者こそがその町の秩序であり、法となり全てを思いのままに支配することが出来るからだ。つまりいわゆる世間一般の常識が通用しなくなる。 そしてこのデスペレーションでは警官コリー・エントラジアンこそが法である。 しかし物語が進むにつれてこの巨漢の悪徳警官が次第にこの世ならざる者、即ち異形の者であることが判明していく。 物語の半ばで判明するのは鉱山町デスペレーションのある黒歴史だ。銅鉱だけでなく、金や銀も取れていた時代にさらに深く坑道を掘り進めるために緩い岩盤の中を掘っていくのを恐れた白人の鉱夫たちの代わりに雇った中国人労働者たちが落盤事故のために生き埋めになってしまったのだった。その数は白人の現場監督と工程主任を入れた57人。そして鉱山技術者とオーナーたちは救出のために落盤事故を誘発するのを恐れ、結局発破をかけて坑道を閉じてしまったのだった。 狂える殺人警官コリー・エントラジアンは腐っていく身体を人質の1人エレン・カーヴァーを一緒にチャイナ・ピットに連れて行くことで彼女の身体を乗っ取って入れ替わる。もはやコリー・エントラジアンという存在ではなく、殺人鬼は“それ”という存在に呼称も変わる。 本書は善なる神と邪悪な神との戦いへと変貌していくのだが、それはキング作品ではこれまで見られなかったほど、伝奇的色合いが濃くなっていく。鉱山という特殊な舞台ゆえか田舎町に残る言い伝えや呪いの類が本書の恐怖の根源となっている。恐らくは世界各地にある鉱山に纏わる逸話なども盛り込まれているのだろう。 正直この最後の結末を含めて私は本書を十分理解できなかったように思える。さて次は本書の姉妹編であるリチャード・バックマン名義の『レギュレイターズ』を読んで本書で腑に落ちなかった部分を補完してみよう。 |
No.1584 | 7点 | 2021本格ミステリ・ベスト10 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2024/07/12 00:35登録) 『このミス』と本書2つはランキングが似通ってきたのだが、この年のランキングについて両者を比べてみると『このミス』2位であった阿津川辰海氏の『透明人間は密室に潜む』がランキングを制しており、一方『このミス』1位の『たかが殺人ではないか』は4位となっている。やはり本格ミステリに特化したランキングだけに本格ミステリとしての純度の高い方が数多くの支持を得ているようだ。しかしだからといって両者の特色が色濃く表れているわけではなく、例えば本書内のランキングと『このミス』のランキングを先述の2作を除いて()内に記してそれぞれ比べてみると 2位『蟬かえる』(11位) 3位『名探偵のはらわた』(8位) 4位『楽園とは探偵の不在なり』(6位) 6位『ワトソン力』(20位圏外) 7甥『欺瞞の殺意』(7位) 8位『鶴屋南北の殺人』(20位) 9位『法廷遊戯』(3位) 10位『エンデンジャード・トリック』(圏外) と10位内に重複する作品が8作もあり、また両者とも10位圏内の作品も6作もあると、やはり投票者が重なっていることと、それぞれのランキング本の趣旨を理解して選出作を意識して変えている投票者が少ないこと、もしくは投票者の多くが本格ミステリ好きが多いことがその要因のようだ。 11~20位を見てみると両者のランキングでも20位圏内の作品は『立待岬の鷗が見ていた』(20位)『巴里マカロンの謎』(19位)、『あの子の殺人計画』(16位)と3作品とかなり重複作が少なくなる。つまりこれは11~20位内のランキングの方に本格ミステリ度が高くてマニアの支持を得ている作品が多いように思える。 さてやはり驚愕なのは阿津川辰海氏の1位獲得だろう。僅かデビュー4年目にしての1位獲得はでデビュー作がいきなりランキング1位を獲得した今村氏、2年目の井上氏に次ぐ快挙である。本書に阿津川氏のインタビューが載せられており、そのことについては後述するが、東大卒でもあることからかなり頭のいい作家なのだろう。『このミス』でも既に彼の作品が毎年ランクインしているが『本格ミステリ・ベスト10』ではデビュー作以降全てがランキングしている。 また海外のランキングは『このミス』同様ホロヴィッツの『その裁きは死』が2位に2倍近い得票差を付けて断トツの1位。個人的にはこのホーソーンシリーズ、本格としての端正さは認めるものの、主人公のホーソーンのキャラクターが好きになれないため、あまり手放しで喜べないのだが。 2位以下の作品で『このミス』のランキングと重複しているのが2位『網内人』(14位)、5位『死亡通知書 暗黒者』(4位)、6位『指さす標識の事例』(3位)、7位『カメレオンの影』(12位)、8位『死んだレモン』(16位)、9位『ザリガニの鳴くところ』(2位)、10位『時計仕掛けの歪んだ罠』(8位)と8作、10位圏内が5作とこちらも似通っている。ただ2020年はコロナ禍により新訳の海外ミステリの点数自体が激減しているため、母数自体が少ないのだからこれは致し方ないかと云える。 さてその他の企画や特集だが、まず何といっても阿津川辰海氏のインタビューだろう。先述のように今の彼の作品の質が圧倒的な読書量に裏打ちされていることが判る内容となっている。彼はずっとミステリを読んで育ってきたようでとにかく読書量が凄い。しかも新本格のみならず古典ミステリにも触れた、かつて綾辻氏や法月氏と云ったミステリの申し子の本格ミステリ作家とも云える人物である。第2の米澤穂信氏になるような、本格ミステリの旗手となることを期待したい。 この年はやはりコロナ禍というこれまでにない社会状況の変化ゆえか、投票者も書店に行く機会が減ったことでずいぶん情報制限がかかったランキングになったのではないか。 例えば文芸誌や週刊誌で取り上げられた、話題の作品には目を通すがそれ以外の書店に行かないと見つけられない作品などはあまり俎上に上がらなかったのではないだろうか。 また海外ミステリの出版点数の少なさには特異な状況とはいえ、何とも云えない哀しさを感じる。寧ろ逆にこれまで絶版となっている傑作・佳作の数々を新訳版として出してくれるといいのだが。 このコロナ禍という特殊な世相での年末ランキングとなった本書を読んで、やはりこのような企画本はその年その年の世相を映す鏡の役割を果たすのだと強く感じた。 数年後、いや願わくば3年後ぐらいに本書を読み返したときに、ああ、こんな時もあったなぁと思うことだろう。 |
No.1583 | 3点 | 神々の糧 ハーバート・ジョージ・ウェルズ |
(2024/07/07 01:45登録) H・G・ウェルズが今回テーマにしたのは食すと巨大に成長する〈神々の食物〉と呼ばれたヘラクレオフォービアなる食物を巡る話だ。2人の科学者ベンシントンとレッドウッドによって生み出されたこの食物は正直云ってどんな風に作られ、そして量産されているのかは詳細に語られない。ただその食物は作られ、そして与えられ、そして自然界に流出してやがて生物が巨大化していく。 いわばモンスター小説の様相を呈してくるのだが、実はウェルズはモンスターパニック小説のような単純明快な物語に展開しない。 本書の着想の妙はなんといっても通常ならば動物実験に留まるべきこの〈神々の食物〉を発明した科学者の1人レッドウッドが発育が思わしくないからという理由で自分の子供に分け与えるところにある。私はこの展開を読んだときに何とも短絡的な人物だと驚嘆した。しかしその後の展開からそうではなく、これは科学者としての性を描きながらも、二極化する人類の物語なのだと気付いた。 やがてヘラクレオフォービアによって巨大化する子供たちも増えてくる。科学者たちの友人コッサーは自ら2人に頼み込み、ヘラクレオフォービアをお裾分けしてもらって3人の息子たちに与えて育てる。 また実験農場の管理人だったスキナー夫婦のうち、スキナー夫人は騒ぎが大きくなる前にヘラクレオフォービアを盗み出し、近所の子供キャドルズに食べ与える。 更にはレッドウッドの専属医でかつての教え子だったウィンクルズ博士は王家かかりつけの医者となり、遺伝的に背の低いその王家の王女殿下にヘラクレオフォービアを食べ与えて、巨大な王女に育てる。 更にこのヘラクレオフォービアは非常に作りやすい食物であることから世界中へ広がっていき、世界各地で巨人の子たちが続々と生まれて、やがて青年となっていく。そう、本書はその間の20年もの歳月が流れる物語なのだ。 この<神々の食物>は色んなメタファーと捉えることが出来るだろう。それを直接摂取する人間にとっては害はないが、それによって巨大化した人間たちは普通の人間たちが決めた法律や権利にがんじがらめになり、それがストレスとなって暴走する。 私は<神々の食物>とは新興宗教のようなものだと解釈した。麻薬は摂取する人に害を及ぼすのでこれとは異なる。しかし新興宗教は信ずる者は救われる。しかしそれを強引に布教しようとする人間によって普通の人々は拉致され、もしくは生活を脅かされるようになる。その名前からして宗教めいた雰囲気を備えている。 巨人たちの点描にはマイノリティの迫害や複雑化したシステムや法律に対する皮肉、そして身分違いの恋物語とヴァラエティに富んだエピソードが盛り込まれている。 巨大生物の誕生から異なる2種族の生存を掛けた戦いへと物語の表情を変え続けた本書はどこか収拾がつかないまま放り出されたような感じだ。実は本書の結末の直前でレッドウッドはこれは夢ではないか、自分は夢を見ているのではないかと思案に耽るシーンがある。もしかしたらウェルズは本書を夢オチで片付けようとしたかもしれないのだ。それほどまでにこの物語の結末の付け方には難儀したのだろう。最後にレッドウッドの息子が巨人たちに行う演説も自分たちの存在価値を、将来像を高らかに述べて終わり、正直困惑してしまう結末だ。 つまりこの困惑は後の冷戦に繋がる列強国の憂鬱そのものではないだろうか。 つまりこの巨人たちは核兵器のメタファーではないだろうか。科学者によって開発され、どんどん増え続けて地球を何万回も破壊するほどの数を持ってしまい、それを使うと世界が滅ぶことから使用できず、かといって自国の防衛のために確保しておかねばならない。まさに世界各国が持て余している核兵器そのものではないか。 本書が書かれた1904年にはまだ原爆さえもなかった時代だ。だから作者が核兵器を念頭に置いて本書を著したとは思えない。しかし奇しくも本書は巨人たちの存在がその後の核兵器を準えるようになってしまっている。本書の巨人たちの行く末がきちんと書かれていないこともまた今なお核兵器が存在し続けていることを示唆しているようにも思える。 本書のウェルズが結末を見出さなかったように、複雑化した社会がシンプルに変わるのはまだまだ遥か彼方のことのようだ。 |
No.1582 | 7点 | ミステリアム ディーン・クーンツ |
(2024/07/05 00:31登録) 名作『ウォッチャーズ』のアインシュタインを彷彿とさせる人語を解する知能の高い犬が再び登場するのが本書である。 しかもそれは1匹だけでなく、何頭も登場する。ごく僅かな人間しか知られていない高度な頭脳を有する犬たち、すなわちミステリアムが存在する世界を描いている。 作中、ミステリアムの1匹キップを飼っていたドロシーがこの犬たちについて遺伝子工学の産物ではないかと話すシーンがある。彼女は画期的な実験で生み出された犬が研究所から逃げ出したのではないかと述べる。 『ウォッチャーズ』は知性ある犬アインシュタインの子供たちが生まれ、主人公がそれら遠くへ巣立っていき、そしてアインシュタインの子孫が広がっていくと述べて閉じられることから、このミステリアム達の存在はアインシュタインの子孫たちと思って間違いないだろう。従って本書は『ウォッチャーズ』から33年を経て書かれた続編と捉えることが出来よう。 クーンツはもしかしたらキングが『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』が36年後に書かれたことに触発されて本書を著したのかもしれない。クーンツはいつもキングを意識しているように思えるので。 しかしやはり読書というものは不思議なものだ。今回の敵の1人リー・シャケットは古細菌を取り込んだゆえに超人的な能力を手に入れた人狼になり、人々を次々と噛み殺していくが、この前に読んだ田中芳樹氏の『髑髏城の花嫁』もまた敵の正体は人狼であった。 しかし、幕切れは何とも呆気ない。 その後物語はダイジェスト的にその後のブックマン親子たち仲間の行く末などが語られて閉じられる。これらはなんと560ページ中最後の50ページ強でバタバタと片付けられるのである。 またもやクーンツの悪い癖が出てしまったように感じる。 圧倒的なまでに強大な敵を仕立て上げ、到底敵わないと思わせながら最後は101匹ワンちゃん大襲撃的力技で物語を片付けてしまう強引さ。特に敵の1人ロドチェンコが極度の犬恐怖症だったことで数多くの犬に囲まれて恐怖のあまりに全てを自白することで発覚すると云う低次元の情報漏洩なのだから苦笑せざるを得ない。 今回は題材が良かっただけに本当にこの終わり方は勿体ない。 |
No.1581 | 7点 | 髑髏城の花嫁 田中芳樹 |
(2024/06/30 01:52登録) 今回エドモンド・ニーダムとメープル・コンウェイが訪れるのはイギリス北部のノーザンバーランドに聳える髑髏城が舞台でしかも登場する怪物は人狼。 但し1作目もそうだったようにこのシリーズは田中氏オリジナルの味付けがなされた怪物が登場するのが特徴で、本書も通常の人狼物とは異なり、水族と翼族と2種類がおり、前者が水の中に棲む人狼であり、後者が翼を持つ人狼である。 さて髑髏城と聞いて私はすぐにディクスン・カーの『髑髏城』を想起した。カーの髑髏城は本書のダニューヴ河畔ではなくライン河畔、本書ではかつての東ローマ帝国が舞台なのでルーマニアになろうか。そしてカーはドイツで微妙に位置は異なるがほぼ似たような地方である。 そして本書の髑髏城の主ドラグリラはワラキアの貴族であり、ワラキア公国と云えば、吸血鬼ドラキュラのモデルとなった串刺し公ヴラド・ツェペシュである。つまり吸血鬼の系譜であるのだが、敢えて田中氏はそうせずに人狼の種族を持ってきているところは安直な方向に進まないという田中氏なりの矜持なのか。 ただ本書に登場する岩塩の山をくり貫いて髑髏の形に仕立て上げた髑髏城はさすがに作者の創作のようだ。上に書いたように吸血鬼伝説の色濃いルーマニアを舞台にしているからこそさもありなんと思わされるが。 ただ本書の物語の展開は唐突感が否めない。なんせニーダムとメープルはライオネル・クレアモントの依頼でノーザンバーランドの荘園屋敷に図書室や書斎を作るために訪れたのにいきなりそこで集めた血族たちを殲滅して富と権力を独占しようという大量虐殺に巻き込まれる展開が理解し難かった。 目的の異なる人物たちを集めること、つまり人狼たちと普通の人間たちをなぜ一堂に集める必要があるのか。他の賓客たちが人狼であることは追々露呈するだろうから、その席に図書室や書斎、書庫のプロデュースを依頼した者に下見に来させることがおかしい。つまり手段と目的の辻褄が合わないのだ。 そんなちぐはぐな印象の中で一気に物語は荘園屋敷で人狼たちの殲滅作戦が行われ、それに巻き込まれたニーダムとメープルの2人が自身の生き残りを賭けて、ライオネルと対決するようになり、物語が一気に結末へと向かう。 ここら辺はどうもやっつけ仕事のように感じてしまった。 主人公のエドモンド・ニーダムはクリミア戦争のバラクラーヴァの激戦を生き残った銃の名手というキャラ付けがなされているものの、書中の挿画に描かれた穏やかな風貌の英国紳士というイメージが怪物たちと渡り合うタフなヒーローへ結びつかないのだ。そして好奇心旺盛なこよなく書物を愛する姪のメープル・コンウェイもまたその書物愛とジャーナリスト志望という芯の強さだけが特色で、苦境を乗り越える線の太さを感じない。 つまり一般人に少しばかり特徴づけられた主人公2人に対して、相対する出来事が怪物や人外の者との遭遇と戦いというスケールの大きさと釣り合わない違和感をどうしても覚えてしまう。 とはいえ、本書ではその辺のバランスの悪さにこだわるよりもやはり田中氏の博識に裏付けられた裏歴史のエピソードや次々と登場する歴史上の人物、しかもこれまたイギリス文壇の著名人やウィッチャー警部ら学校では習わない有名人たちとの織り成す物語に素直に浸る方がいいのだろう。 |
No.1580 | 10点 | グリーン・マイル スティーヴン・キング |
(2024/06/28 00:37登録) スランプ状態から抜け出したスティーヴン・キング復活の作品と云えば先の『ドロレス・クレイボーン』でもなく、私は本書を挙げる。 作者自身の前書きにも触れているが、本書はキングにとって刑務所を舞台にした2作目の小説である。1作目は映画『ショーシャンクの空に』の原作中編「刑務所のリタ・ヘイワース」で、長編としては2作目になる。そのいずれもが傑作であり、しかも映画も大ヒットしている共通点がある。実は刑務所小説はキングにとっても相性がいいのではないだろうか。 そして「刑務所のリタ・ヘイワース」がそうであるように本書もまた傑作である。いや、もしかしたらキング作品の中で一番好きな作品が本書なのかもしれない。 キングは時々魔法を掛ける。それもワンダーとしか呼べないほどの。 とにもかくにも登場人物のキャラクターが立ちまくっている。語り手の刑務所看守主任ポール・エッジコムはじめ、看守ディーン・スタントン、ハリー・ターウィルガー、ブルータス・ハウエル、そしてパーシー・ウェットモア。 一方で囚人たちもまた粒揃いのキャラクターが揃っている。 エデュアール・ドラクレア、〈荒くれ(ワイルド)ビル〉ことウィリアム・ウォートン、そして何よりも物語の中心となる囚人ジョン・コーフィの造形が素晴らしい。 ポール・エッジコムら他の看守にとって目の上のたん瘤であり、また悩みの種であったパーシー・ウェットモアとウィリアム・ウォートンがまさかこんな形で片付けられようとは。なんという始末の付け方だ。 私はこのシーンを読んだときにキングに神を見た。 最後の最後まで驚きと感動が詰まった作品だった。前書きでキングは結末まで考えてなく、読者同様作者もどんな結末になるか解らないと書いてあるが、それが信じられないほど、全てが収まるべきところに収まり、そしてそれがこれまでにない素晴らしい物語となっていることに驚く。 やはりこれはジョン・コーフィにキングが書かされた物語ではないか、そんな風に思わされてしまう。 前書きに描かれているが、本書は難産だったらしい。しかしその苦労が報われるほどの素晴らしいお話が降りてきていた。生みの苦しみの末に出来上がった本書は現時点で私の中でキング最高作品となった。 久々に読後ため息が漏れ、世界に浸れた物語だった。やはりキングはすごい。まだこんな物語を書くのだから。 そしてその後も傑作を生みだしていることを考えると、本書がまだ彼の創作の途上に過ぎないのだ。 いやあ、もう言葉にならないね、凄すぎて。 グリーン・マイル。それは電気椅子に至る廊下がライム・グリーンのリノリウムが貼られていたことで付けられた俗称だった。 しかしこの言葉は最後に語り手のポールが嘆き呟くように、人生の最期に至る道のりを示すのではないか。 私のグリーン・マイルはまだまだ遠くにある。そして104歳のポールと異なるのは彼がそのことを絶望しているのに対し、私はまだそのことに安堵していることだ。 まだまだ読みたい本がたくさんあり、まだまだ人生を楽しみたい。 私がグリーン・マイルを歩むとき、全て成し終えたと笑顔であるように祈っている。 |
No.1579 | 7点 | オクトーバー・リスト ジェフリー・ディーヴァー |
(2024/06/22 01:36登録) ジェフリー・ディーヴァーの久々のノンシリーズ作品である本書は実に変わった構成の作品だ。なんと終章36章から始まるのだ。そう、本書は物語を逆行して語られる。 しかしこれがまたこれまでにない先入観をことごとく覆す展開になっていく。 例えば味方だと思っていた人物の家に血に塗れた死体が転がっている描写があり、実はシリアルキラーで危険な人物なのではと思わされるとさらに章を遡ると彼がオンラインゲームにハマっていて先ほどの死体はゲームの中でのことであることが解る。 いわば本書は時間を逆行することで物語の前提条件や人物設定が後から判明していき、先入観が覆される構成になっている。本書はそんな小技の効いたどんでん返しが数々散りばめられている。 しかしそれでもやはりこの作品は読みにくかった。時系列を逆行することで前章の結末から次章への繋がりがスムーズになされないからだ。例えば30章が終わると次の29章の始まりはその30章へとつながる箇所の数分前とか1時間前に設定されているため、物語の展開が唐突すぎて頭に素直に入っていきにくいからだ。 あと最後に付される目次に書かれた各章題を見ながら、各章の写真を見るとまた別の意味が立ち上ってくるのも憎らしい演出だ。 特に第9章の馬の写真と章題「サラ」は1章を読んだ後だと笑えるし、第14章の骸骨が砂の中から出ている写真と章題「ダニエルの最初の仕事 一九九八年ごろ」を照らし合わせると228ページ3行目からのエピソードが別の意味を伴ってくる。 とこのように様々な仕掛けが読後に立ち上ってくる作品である。 従って本書は読み終わった後に色んな読み方ができる作品だと云えよう。例えば今度は1章から読むと感じ方も変わるだろうし、また同じように第36章から読み返すとさりげない伏線や描写の数々にほくそ笑むことだろう。また目次の章題を照らし合わせながら読むとそれまで気付かなかった写真や文章の意味合いに気付かされることだろう。 |
No.1578 | 7点 | 鳥居の密室 世界にただひとりのサンタクロース 島田荘司 |
(2024/06/20 00:33登録) 最近の島田氏は実在する企業をモデルにしている作品が多く、例えば『ゴーグル男の怪』では臨界事故を起こしたジェー・シー・オーを、『屋上』ではお菓子会社のグリコをモデルにしているが、その会社が関係する場所は前者が東海村であるのに対し、福生市にしていたり、後者が大阪道頓堀でありながら川崎にしていたりと微妙に細工を加えているのが特徴だが、本書の舞台は鳥居が両脇の建物の壁を突き破って突き刺さっている京都の錦天満宮そのものを事件現場として、しかも鳥居が突き刺さっている両方の建物を密室殺人事件の舞台としている。 実在する場所をピンポイントで殺人現場にしているのだから、きちんと許可を取っているのか気になるところではあるが。 一方でもう1つ宝ヶ池駅近くにある振り子時計が多く飾られている喫茶店「猿時計」は作者の創作らしい。 さて今回の密室殺人は正直解ってしまった。 またその事件が起こった錦天満宮界隈で住民たちが一様に夜中に目が覚め、不眠症に悩まされている原因も解った。 しかし、なんとも身悶えしてしまう事件である。特に冤罪にて服役することになった国丸信二の心情が痛い。 いわばこれは献身の物語でもある。島田版『容疑者xの献身』ともいうべきか。 しかし本書の舞台を御手洗潔の若き日にしたことで、昭和という時代性が色濃く出ている。 つい先日テレビの番組で昭和時代の常識について触れることがあった。それは例えば信じられないほどの満員電車での通勤風景だったり、また分煙化が成されていない時代での駅のホームの煙だらけの風景やオフィスの机に灰皿が堂々と置かれている状況だったり、はたまたテレビ番組中に出演者自身が煙草を吸いながら進行している映像だったりと今の常識とでは眉を顰めるような違和感が横行していた。しかしそんな時代だったのだ、昭和は。 本書においてもいわば男尊女卑の意識が根強い家父長制度が横行しているそれぞれの家庭のことが書かれている。 夫が怒るからクリスマスプレゼントは上げられないと云った夫の暴力を恐れて自己催眠を掛ける妻の意識だったり、親の選んだ道を行くことを子供は望まれ、本当に進みたい道を選べなかったり、夫の稼ぎよりも自分の自営の仕事の方が収入がいいことを認めると夫が機嫌を悪くするので敢えて黙っていたり、もしくはそれを夫があてにして乱費するのを黙って我慢したりと女性は常に男に従って生きてきた、そんな時代だ。 それらは確かにこの令和の時代にも残っている考え方や風習だろう。しかしそれらが古臭く感じるのもまた事実なのだ。 齢70にしてまだ密室殺人事件を扱う作品を書く島田氏の本格スピリットには畏敬の念を抱かざるを得ない。私でさえ年を取れば読書の傾向は変化していき、昔はガチガチの本格が好きだったのが、ハードボイルドや警察小説などトリックよりも人の心の綾が生み出す物語の妙にその嗜好は変わっていきつつあるが、島田氏は一貫して本格ミステリへの愛情が尽きていない。 そして私が彼の作品を今なお読み続けるのは彼が物語を重視するからだ。物語の復興こそ今必要なのだと単にトリックやロジックを重視しがちな本格ミステリ作家ではない存在感を示しているところに魅了されるからだ。 本書の構成もドイルのシャーロック・ホームズの長編の構成を踏襲している。事件を探偵が解き明かすパートと犯人側の事件に至った背景の物語が描かれている。 率直に云えば事件解決のパートだけならば中編のボリュームだろうが、犯人側のパートを描くことで物語に厚みを与えているのだ。 そう、島田氏は本格ミステリを書いているのではなく、本格ミステリ小説を書いているのだ。このドイルから連綿と続く文化を継承しているからこそ、私は彼の作品を読まずにいられないのだろう。 島田氏が綴る市井の昭和年代史ともいうべき作品だ。私も昭和生まれだが、いつの間にか平成時代の方が長く生きていることになった。 そして今は新たな元号令和の時代だ。昭和は既に遠くなりつつある。昭和という時代に生きた日本人の価値観を今後に語り継ぐ意味でも本書のような作品は書かれ、そしていつまでも読み継がれてほしいものだ。 |
No.1577 | 7点 | 本格力 本棚探偵のミステリ・ブックガイド 事典・ガイド |
(2024/06/12 00:38登録) ミステリ誌『メフィスト』で足掛けなんと9年掛けて連載されたブックガイドであり、なんと「第17回本格ミステリ大賞(評論・研究部門)」まで受賞したのが本書。 私の意見は授賞に値するブックガイドであり、評論であったと素直に認めよう。 まえがきによれば今の本格ミステリ好きな読者はいわゆる乱歩の影響を受けて海外の本格ミステリに触れて、自身で本格ミステリを書き始めた、いわゆる新本格と呼ばれるミステリ作家たち、乱歩チルドレンの紡いだ作品に触れるのみで、海外の古典と出会うチャンスが減っているのではないかと思い、そんな〈新しい古典の読者〉のために古典ミステリを紹介したいとの意図で書かれたもので、興味を惹くために単なる古典ミステリのガイドブック的な紹介に留まらず、全てが統一されているわけではないが、一応5つのコーナーで手を変え品を変え、面白おかしく書かれている。 鉛筆でなぞる本をパロッた 「エンピツでなぞる美しいミステリ」、相田みつをの詩集をパロッた「ほんかくだもの」、あと自分が気に入ったミステリ作品の一シーンをイラストにした「勝手に挿絵」(これも北上次郎氏の『勝手に文庫解説』のパロディかもしれない)、本格ミステリの研究家坂東善博士と女子高生のりこが本格ミステリについて語り合う「H-1グランプリ」と最後は妻国樹由香氏が語る夫喜国氏について語る「本棚探偵の日常」である。 本書のメインであるH-1グランプリは、それまでの他のコーナー同様、タイトルはM-1~、R-1~のパクリだと思われるが、坂東善博士と女子高生りこの冗談も交えながらの対談形式で進められているが、内容的にはそれまでのガイドブックや評論では見られなかった観点からの鋭い指摘もあり、なかなか骨太である。 俎上に挙げられる作品は有名どころから無名な作品、もしくは現在入手困難なものまで多岐に渡っており、しかも女子高生のりこに与える本も喜国氏の蔵書からなので、例えば新訳が出ているものでも旧訳版、もしくは既に倒産している出版社のものだったりと、恐らく古書マニアにとっては堪らないアイテムが登場する―現代教養文庫の『ミステリ・ボックス』シリーズまで登場する―。 このコーナーではミステリ初心者である女子高生のりこに先入観なく世評高い古典ミステリの傑作とされる作品を読んで率直な感想を忌憚なく語ってもらう趣向になっており、その内容はその趣旨を一切違えることなく、本当に遠慮のない感想が書かれているのが面白い。 例えばクロフツの『樽』はさほどでもなく、クリスティーの『そして誰もいなくなった』はあっさりしすぎと酷評である。りことクリスティーの相性は悪いようで、『オリエント急行の殺人』では登場人物が多すぎて頭に入らないとこれまた酷評。 りこのこの一気にたくさんの登場人物が出てくる作品は苦手という傾向はこのH-1グランプリでは終始一貫して変わらないため、世の傑作で同様の作品は押しなべて評価が低い。個人的にはセイヤーズで一番好きな『学寮際の夜』も同様の理由で酷評だったのにはガックリきたし、一方で私としてはさほどでもない『ナイン・テイラーズ』を高く評価しているところに驚かされた。あの難解な鳴鍾術をよく理解できたな、と。しかしカーの特集では個人的ベストである『曲がった蝶番』が全てが好みであると評価したのは素直に嬉しい。 一方でエラリー・クイーンの1932年の奇跡の傑作4作については全てにおいて評価が高いのはさすがというべきか。 また回を重ねるごとにりこの本読みとしてのスキルが伸びていくのが判るのも面白い。視点の話や有名なカーの『三つの棺』に収録されている密室講義の分類が今読むと甘い、『薔薇の名前』を一番面白いと思う―映画を観ていたことが助けになったとはあるが―、などなど。 あと意外とミステリの豆知識が放り込まれているのも思わぬ収穫だった。 リレー小説の『大統領のミステリ』では当時の大統領ルーズベルトが自分の考案したミステリのネタの解答が思いつかないことから世のミステリ作家に解決してもらおうと発端で、しかもそのプロットが前もってあっただけに一番面白く読めたこと―リレー小説の回はとにかく散々な結果でベスト選出はなかった。私は昔からリレー小説に懐疑的であったが本書でその判断が正しいことを確認した―などがそれにあたる。 またりこが読書量が増すにつれ、りこがそれまでのガイドブックや評論家が気付かなかった見方を示してくる。これが実に意外であり、さらには全く新しい着眼点であることに気付かされるのだ。 例えば『エジプト十字架の秘密』はエラリーがいなくとも解決できた作品だったとか、『三つの棺』の密室講義が実は密室が主眼でないことを隠すために書かれたミスリードだったとの慧眼を示したり、ブランドの『暗闇の薔薇』の図に隠された騙しのテクニックを見出したりと次から次へと新説を開陳するのだ。 坂東善博士は喜国氏そのものと思ってはいたものの、女子高生のりこは最初は喜国氏が対談形式のミステリ評論をするために生み出した架空の存在だと思っていたのだが、読み進めるうちに斬新な切り口でミステリを語るので実は本当に女子高生に読ませて感想を云わせているのではと思ったくらいだ。 実際どうなのだろう。 例えばカーの『火よ燃えろ!』の警視が惚れる女が女のイやな部分だけを誇張したようで鬱陶しいとか『ビロードの悪魔』の主人公の恋の鞘当て行動が気に入らないとか―個人的には『ビロードの悪魔』はカー作品の中でもベスト5に入る傑作なのだが―。 またガイドブックでありながら課題図書を全て読み切れずに途中で断念しているものもあるのもこの作家の特徴か。 カーの『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』とルブランの『813』の訳が気に食わないと云って『続813』は未読と案外自由奔放だ―ところでハヤカワ文庫がルブラン全集を出すと云って数冊で終わっていることに触れているのは小気味よかった―。 あとは歴史に残る作家は全てが平均点を出す作家よりも傑作と凡作が混在する作家の方が記憶に残るといった意見やピーター卿シリーズであった、登場人物に関心がないとシリーズを追うごとに発展していく2人の関係性などは全くどうでもいいなども考えさせられた。 ここに1人の本格ミステリ好きがミステリをこよなく愛して色々な試みをして、存分に楽しんでいることを見ると一ミステリ読者としては喜国氏のバカバカしくも楽しい企画を後押ししたくなる。私もやはり若いミステリ読者は歴史を学ぶように古典ミステリは読むべきだと思うし、また出版社も古典ミステリを絶やしてはいけないと思うからだ。 確かに古典ミステリを読むことは現代ミステリのリーダビリティと比べると華やかさや読書のけん引力に欠け、いわゆるお勉強と云われるような苦難を強いられるかもしれない。 しかしその中には確かに現代まで評価される何かが潜んでいるのだ。しかし正直世評ほど面白いかどうかは各人の好みによるだろう。本書においても私が好きな作品が酷評された機会が案外あった。 本書は確かにこれから読む古典ミステリの中で面白いものを選ぶ指針にはなろうが、本書の評価が全てではない。 これから古典ミステリを読まれる読者は読むときに自分の感想と本書の内容を比較してみてはどうだろうか? 貴方は自分の評価はりこと同じかどうか、比べてみるとそれもまた楽しいではないか。 それを可能とするためにも出版各社は翻訳本の存続を続けてほしいと切に願う次第である。 いやあそういう意味では本書が「本格ミステリ大賞(評論・研究部門)」を受賞したのは意義があったのだ。 天晴! |
No.1576 | 4点 | 月世界旅行 ハーバート・ジョージ・ウェルズ |
(2024/06/10 00:49登録) 月世界旅行といえばジュール・ヴェルヌの小説を想起させるが、なんとH・G・ウェルズもまた同じ題名で人類が月に向かう物語を書いていた―但し原題は“The First Men In The Moon”、即ち『月世界最初の人間』でこの題名で刊行されているものもある―。 しかも作中でウェルズは登場人物の口からヴェルヌの小説について触れていることから、どうやらヴェルヌ作品に触発されて書いた作品のようだ。 しかしヴェルヌの小説では結局月の周りを廻って帰ってくるだけだったのと異なり、本書では主人公たち2人が実際に月に降り立つのだ。しかも月面着陸ではなく、月の地下にも潜入する。さらにはそこで月人とも邂逅し、接触するのだ。 さてヴェルヌが巨大な砲弾のような宇宙船を巨大な大砲で打ち上げて月を周回したのに対し、ウェルズは前述の“不透明”な物質ケイヴァーリットという架空の膜状物質を球形の宇宙船―作中では球体と呼ばれている―を包み込んで月を目指す。 私は本書の元祖であるヴェルヌの『月世界旅行』と『月世界へ行く』を読んで失望したクチである。というのも昔のフィルムで大砲で打ち上げられた砲弾型の宇宙船が微笑みを湛えた擬人化した満月の顔に突き刺さるシーンを幼き頃に見ていただけに、てっきり主人公バービケインたちは月へ着陸するものだと思っていたが、2冊に亘って、しかも続編が5年後に刊行されながらも結局月を周回して帰還するだけに留まったので大きく失望をしたが、上にも書いたようにウェルズは月面着陸のみならず、月人との接触まで描いている。しかし私にはそれもいささか退屈に思えた。 SFでは地球によく似た環境の銀河系外の見知らぬ惑星に着陸して、宇宙人や宇宙生物と出くわして戦いや冒険が繰り広げられる作品は数多あるが、ウェルズはそれを我々のよく知る月を舞台にして描いたためにこの辺の違和感がどうしても拭えなかった。 1901年の本書発表から遅れること122年を経て、21世紀の今、民間人の月旅行が2023年以降に実現しようとしている。しかしそれはヴェルヌの小説のように月を周遊するだけで月面着陸は含まれていない。その旅行費は1人当たり7470万ドル、即ち80億円以上になるが、それでも月面着陸はできないのだ。しかし本書を読むと月面着陸は決して楽しいものではない。月に生命体がいることは現在確認されていないが、もしいたとしたら本書のような囚われの、しかも興味本位の見世物動物のような扱いになるのだろうか。 ヴェルヌの描いた『月世界旅行』と対極的なテイストの本書はイギリスの作家が書いたとは思えないほど、夢のない悲惨な結末であった。 |
No.1575 | 8点 | ローズ・マダー スティーヴン・キング |
(2024/06/04 00:19登録) 本書は長年夫に虐待を受けていた女性がある日突如思い立ち、夫のキャッシュカードを手に逃亡するお話だ。もちろん夫はそれまで支配していた妻の反抗を許すわけがなく、妻の行方を追ってくる。 今まで数多書かれた不幸な女性が困難に立ち向かう話だが、キングが秀逸なのは虐待夫を刑事にしたことだ。つまり本来ならば自身が受けたDVを通報する相手である警察が敵の仲間なのである。 主人公の夫ノーマンがまたひどい人物なのだ。 まず物語は彼が癇癪を起して妊娠中の妻を襲って流産させると云うショッキングな出来事から幕を開ける。 更にはライターの炎でロージーの指先を焙ったり、鉛筆の尖った芯でひたすらロージーの皮膚を無言で突く。血が出ない程度に延々とそれを続けるのだ。 もっとひどいのはロージーの肛門にテニスのラケットを突き刺して悦んでさえいたのだ。 とにかく過剰なまでの女性蔑視者であり、服従していた妻が自分のキャッシュカードを盗んで逃亡したと云う事実に屈辱を覚え、代償を払ってもらうために彼は彼女の行方を執拗に追うのだ。 そして最大の特徴は彼が噛みつくことだ。彼は人の皮膚を、肉を噛みたくて仕方がない衝動に駆られる。 ただこれまでは歯形が着く程度に噛みついていたのだが、妻のロージーが逃げてからはこれが顕著になり、相手の皮膚を突き破って口から血を滴らせるまでになる。さらには人を噛み殺すまでに至る。 また少しでも気に食わないことがあればすぐにその人物を完膚なきまでに叩きのめしたり、銃で撃ち殺したいといった破壊衝動に駆られるのだ。 まさにパラノイアである。 一方で玄関のドアに3つも鍵を取り付け庭には侵入者探知センターを取り付け、自分の車には盗難防止アラームを取り付ける用心深さを持つ。 更には警察としても実績を挙げており、クラックの全市密売網の一斉検挙で最功労者となり、出世し、周囲から一目置かれている存在なのだ。 一方被害者のロージーだがどうも周囲から見下されるオーラを纏っているようだ。逃亡先の街に到着してバスを降りるなり、飲んだくれの男に卑猥な言葉を向けられる。優しく道案内してくれる老人と話せば、少し道筋が知ってることを示せばムッとされる。 彼女にきつく当たるのは男性だけかと思えば手押し車の太った女に虐待された女性たちのセーフハウス〈娘たち&姉妹たち〉への道のりを尋ねると痛烈な罵声を浴びせられ、更に若い妊婦にもきつい言葉を掛けられた挙句に突き飛ばされる。永らく夫に虐待されていたことに由来する自信の無さゆえに負のオーラが滲み出ているのだ。 なんせ結婚してから14年間も虐待されてきたのに加え、ほとんど外出することもなかったのだから無理もない。しかも彼女の家族、両親と弟は結婚して3年後に交通事故で亡くなっており、彼女には駆け込み寺となる場所が、人がいなかったのである。 また彼女が流産したことを悲しむ反面、安堵を覚えるのはもし子供が生まれたら、夫が子供にどんな虐待をするのか想像するだに恐ろしいからだ。自分の流産を、しかも夫の暴力によってなってしまった不幸ごとをそのようにして安堵する彼女が何とも不憫でならない。 さて〈娘たち&姉妹たち〉という安寧の場所を得たロージーは人間らしい生活を取り戻すことで次第に人並みに笑い、そして振舞うことが出来るようになってくるが、彼女を決定的に変えるのが≪リバティ・シティ質&金融店≫での丘の上に立つ女性の後姿を描いた絵との出遭いである。 彼女は絵の中の女性を絵の裏に書かれていた文字から赤紫色を意味するローズ・マダーと名付け、事あるごとに彼女の心の支えになる。 さて今回の敵ノーマン・ダニエルズこの刑事という捜査技術と知識を備え、更に巨躯と怪力と人を殺すこと、傷つけることを厭わない、いや寧ろその衝動が抑えきれない最凶のサイコキラーだが、絶望的に強いわけではなく、ロージーが所属する〈娘たち&姉妹たち〉が開催したイベント会場では護身術と空手を身に付けた巨漢の黒人女性ガート・キンショウに撃退されるのだ。しかも馬乗りになった彼女に小便を引っ掛けられ、ほうほうの体で逃げ出す始末。 つまり誰も彼もが抵抗できないほどの悪党ではないのだ。ここがクーンツとの違いだろう。クーンツの描く悪党は周到な準備をして、どんどん主人公を追い詰めていき、更にはどんな抵抗も効かないほどの圧倒的な力を誇り、どうやっても勝てないと思わせる絶望感をもたらすのに物語の終盤では大したことのない方法や手法で簡単に撃退され、ものすごく肩透かしを食らうのだ。 またこのノーマン・ダニエルズ自身も幼い頃に父親から虐待を受けて育った被害者でもあり、更に女性蔑視の精神も父親に叩きこまれていた。従って彼は女性に抵抗される、自分より弱い者に抵抗されるとすぐに動揺と恐慌を覚える精神の弱さも持つ。 このノーマンの最期はロージーが購入した絵の世界でローズ・マダーによって無残な姿になって殺されてしまうのだが、このノーマンが一般の人でも撃退されたシーンを描いたことで超常現象でしか問題が解決しない訳ではないことを示したのは救いを感じる。 夫の虐待からの逃避と生還といったオーソドックスな物語に絵の世界に入って夫を葬り去ると云うスーパーナチュラルな設定を盛り込んだキングが結んだ物語の結末は、虐待をされた人間のその後をも描き、それを静謐な森の中というファンタジーのように終える。 私はどうにもこのローズ・マダーの絵の話は余計だったように思う。永らく虐待を受けていた女性が救われる話ならば、やはり切りのいい終わり方をしてほしいのだが、キングは安直なハッピーエンドを用意せず、最後にしこりを残して終えるのだ。 キングは常々家庭内暴力、家庭の中で圧倒的な支配力を持つ夫や父親を描いてきた。本書はそれまで物語の背景やエピソードとして書かれてきた設定をそのままテーマにした物語である。だからこそすっきりと終ってほしかったのだが、このようなしこりの残る終わり方をしたことはキング自身にとってまだこの家庭内暴力、虐待のテーマは素直に決着を付けられない根の深いものだと云うことだろうか。 この令和の今でも社会問題になっている虐待。確かにその中に取り込まれた者たちには虐待をする者だけでなくされた者も人生において終わりなき代償が必要なのだとキングは云いたかったのかもしれない。 |
No.1574 | 7点 | ソリトンの悪魔 梅原克文 |
(2024/05/25 00:45登録) 本書の「ソリトン」とは海が舞台であるからギリシア神話に登場する海神トリトンのことを指しているかと私は思ったが、違っていた。 ソリトンとは粒子性を持つ孤立波のことである。 減衰もせず、形も崩れない、そして粒子性であるがゆえにソリトン同士が衝突しても打ち消しあわずにそのまま通り抜ける、バランスの取れた半永久的に存在する波動である。そして今回主人公たちや東シナ海にある海洋建造物や油田採掘設備、潜水艦や軍用艦などと戦いを繰り広げる相手がこの波で出来たソリトン生命体なのだ。 海の全容はまだまだ謎が多く、未知の領域であることから考えると本書に登場するソリトン生命体のように地上の生物の尺度をはるかに超えた生物がいてもおかしくないのだ。一応その成り立ちについても本書の中で述べているのはやはりこの作者が根っからのSF脳であるからだろう。 主人公たちが遭遇するソリトン生命体は全長約100メートルほどの巨大な平べったい蛇のような外形から通称〈蛇(サーペント)〉と呼ばれる物と直径200メートル、高さ100メートルもの冷水塊の表面を覆いつくすゲル状の生物タイタンボールが登場する。 そして今回の敵、即ちタイトルにもなっている「ソリトンの悪魔」となるのが〈蛇〉だ。この敵はとにかく破壊によって生じる正弦波を食糧にして生きるため、海洋構造物である海底プラットフォームや潜水艦や潜水艇、軍用艦や海上支援船をマッハディスクという衝撃波を放って破壊しまくる。 さて本書の舞台は2016年の世界。そして本書が刊行されたのが1995年。そう、本書は近未来小説なのである。そして今更ながらに本書を読んだ私は既に2016年を8年も前に経験しており、哀しいかな、近未来小説にありがちな相違点に思わず苦笑せざるを得なかった。 まず台湾が地下鉄を作らずに光ケーブル・ネットワーク網を発展させ、国民のほとんどが在宅勤務を行っており、オフィスビルは空きがたくさんあり、朝の交通ラッシュもほとんど見られなくなっていると書かれている。これは日本人も同様らしいが、さすがにまだそこまで至っていないが、2020年のコロナ禍で日本の東京など大都市では在宅勤務が推奨され、実際に行われている事実があることを考えると実に先見的な話である。 そして日本では在宅勤務が定着して若い日本人がいわゆる3K仕事を選びたがらなくなっているとの記述はもしかしたらそう遠くない未来の日本の姿なのかもしれない。 また本書によれば2016年の時点では既に北朝鮮はとっくに無くなってしまっているらしい。 そして21世紀ではコンピュータの操作にはもはやマウスは使われず、多関節アームで固定された3Dペンを使って立体的映像の中で3次元的に操作しているとあるが、これもまだそこまでは行っていない。マウスはまだ健在である。 エイズ予防のCMが流れているのにも苦笑してしまった。 また台湾も反日派の中国から流れてきた国民党の台頭が21世紀になって世代交代によって勢力が衰えたとあるが、2021年の現在ではまだまだそんな平和は訪れていない。 但し、一方で作者の先見性や知識に驚くべき点はいくつかあり、例えば光ケーブルによるネットワーク網が発達していると書かれている点。今では当たり前だが、1996年の時点ではまだADSLの前のIDSNが普及している時代である。ADSLが2000年に普及し、ブロードバンド元年と云われたそのまだ前にその次の光回線をこの時点で謳っていることがすごい。 更に軍用艦の内部のディスプレイにLEDが使われているとの記述だ。20世紀でLEDがディスプレイ照明の主流になっていると既に考えていることに驚嘆した。 また倉瀬厚志の娘美玲が8歳にしてオンラインでリカちゃん人形フルセットとデコレーションケーキを勝手に注文しているシーンが登場するが、これが今では、いや2024年の時点では全く以ておかしくない現代っ子あるあるであることに驚かされる。 梅原氏の作風は実にハリウッド映画的である。このソリトン生命体のイメージをハリウッド映画『アビス』として想起した。 ポリウォーターと称される年度の高い水に変異するソリトン生命体は『アビス』に登場する不定形の未知の生命体のようだ。ちなみにこのポリウォーターは実際に旧ソ連の科学者ボリス・デルヤーギンが発表した新物質であるが、再現できなかったため現在では存在が否定されている。つまりこの存在しないであろう物質を作品世界で再現した、当の科学者にとっては科学者冥利に尽きる設定である。 またこれら未知なる深海の生命体との戦いを描く海洋アクション小説である側面と、一方で未知なる生命体とのコンタクトに成功する映画『未知との遭遇』を彷彿とさせるようなハートウォーミングな側面を持っている。 次から次へと危機また危機を畳みかけながら、それに対してアイデアで難局を乗り越えていく、しかも何気ないエピソードが伏線となって機能するといった緻密な構成さえも感じさせるエンタメ要素満載の本書だが、登場人物それぞれにあまり好感が持てないのが難点だ。 エピローグで描かれる、人類がソリトン生命体と共存し、ポリウォーターが技術として色んなものに適用される社会は実に興味深い。 作者梅原氏の科学に関する知識とそれを応用した未来像は魅力的であり、その想像力と創造力には素直に感心する。これで登場人物が魅力的であったらなぁとそればかりが残念でならない。 しかし本書はハリウッドのSF超大作に匹敵する、アイデアが豊富に溢れた一大エンタテイメント小説であるのに、今なお映像化の話が浮上しないのは残念でならない。現代技術で2016年ではなく、もっと未来の日本を舞台にしたこの作品の映像作品を見てみたいものだ。 |
No.1573 | 2点 | こころ 夏目漱石 |
(2024/05/21 00:12登録) 九州の田舎から出てきた大学生が出遭った先生なる人物。彼は結局、私にとってどんな役割を果たしたのだろうか? 物事を常に達観しているかのように、あるいは諦観の体で常に振舞い、何事においても熱くならず、厭世家のように振舞うこの先生。 かたやまだ社会を知らぬ人生経験の薄い身である私が、彼の、どことなく掴み処がなく、常に世の中を斜めに見ているような視座、そして自らを人生の敗北者だと語るその姿勢に自分にない物を見出し、師事していったに違いない。 そしてその出逢いは彼にとって人生の糧になったのかどうか、最後の結末を読んで判断するに、どうも時間の浪費でしかなかったのではないだろうかと思わざるを得ない。 先生という人物が、物語の約半分に渡って告白する手紙で語られる彼の半生を読むにつけ、正直とても人の尊敬を得られるような人格者ではないことが解ってくる。親の財産を叔父に騙し取られた過去を持ち、その怨みを忘れないとしながらも、実際には何も行動しない男。自らの嫉妬心ゆえに親友とも云える人物と同じ女性を好きになってしまい、終いには親友を出し抜いてその女性を手にし、自殺へと追い込んでしまう、そんな輩だ。 浄土真宗の坊さんの息子という非常にストイックな家庭に育ち、自らも全ての欲望を絶って、己の魂を高め、清める事を人生の目標としているような男、友人K。 しかし環境が彼の性格を変える。恐らく先生と同居した家に住んでいたお嬢さんは彼にとって出逢った事の無い魂の平安をもたらしたのだろう、彼は初めて女性を愛するようになる。 その心情を親友である先生のみに打ち明け、お嬢さんには告白をしない。それは己の教義とのせめぎ合いだったはずだ。そして間接的に親友がお嬢さんを貰うことを知らされる。 そして彼は命を絶つ。 その動機は一体なんだったのだろう? 友人の自分に対する裏切りを怨んでの事か、世を儚んでのことか、敗北者として潔く去る事を選んだのか、それは解らない。私は自らの信念を曲げてまで女性を愛そうとしたKが、その愛を得られないことを知ったことで、漠然とした不安が眼前に広がり、自らの信ずる道がそこで失われたから命を絶った、そう思う。 しかしその行為が生き残った人たちにもたらした、特に先生にもたらした効果は絶大で、彼はその後の人生を破棄してしまう。そして長年隠しておいた彼とKとの因縁を打ち明かしたとき、彼がこの世に別れを告げるその時になってしまった。 この明治という時代、人は斯くも純粋かつストイックだったのかと驚くばかりだ。 これに同調・共感することは私には出来ない。なぜならば出てくる登場人物全てが前向きではないからだ。 たったこれしきの事で何故命を絶つ? そう問わずにはいられない。 登場人物全てがそれぞれと心を通い合わせることが出来ないまま物語は閉じられる。 先生と私、先生とその妻、先生と友人K、私と両親。 結局、本当の意味で分かち合える人間関係など気付けないものだ、人の心はその人のみしか解らないのだ、そんな風に突き放しているかのような小説だった。 |
No.1572 | 7点 | 新世界傑作推理12選 アンソロジー(海外編集者) |
(2024/05/16 00:34登録) 日本人読者向けに編んだ『世界傑作推理12選&ONE』がよほど好調だったのか、続いて編まれたのが本書。但し前回の「&ONE」に当たる編者クイーン自身の短編は収録されておらず、代わりに日本人作家、当時日本を代表していた夏樹静子氏と松本清張氏からそれぞれ1編ずつ収録されているのが特徴的だ。 訪問すれば本格ミステリの巨匠として手厚くもてなされる日本人はクイーンにとっては実に愛すべき読者、ファンだったのだろう。 また前のアンソロジーとは異なって日本人作家の作品がたった12の席のうち2席をも占めるまでになったのは日本人読者に対するサーヴィス精神の表れだろう。 その中身は今回もまたヴァラエティに富んでいる。 殺人事件の犯人捜し、自分を逮捕する潜入捜査官探し、復讐譚に脱税、浮気相手との結婚を考えた妻殺し、窃盗、主婦の妄想恋愛、詐欺、そして冤罪。様々なヴァリエーションを駆使して質のいいミステリを提供している。 クイーンが日本人ミステリ読者のために向けて編んだアンソロジーだけあって実に粒揃いであるが、その中でベストを挙げるとすればルース・レンデルの「生まれついての犠牲者」とピーター・ラヴゼイの「レドンホール街の怪」、夏樹静子氏の「足の裏」になるか。 次点でドナルド・オルスンの「汝の隣人の夫」とを挙げる。 特に面白く感じたのはまだこの頃は機械的なトリックを扱った本格ミステリが書かれていたことだ。また意外性を放つどんでん返しの作品、特に運命の皮肉めいた作品が多くあり、そしてそれらのアイデアは秀逸である。 本書収録作品は1976年から1980年と古典と呼ぶにはまだ早い時期の作品群が連ねているが、この頃はまだアイデアがそれぞれの作家で潤沢にあったのだろう。ほとんどの作家が鬼籍に入ったアンソロジーは、かつての名声を馳せた作家たちの最盛期の実力を知るにもってこいだった。 しかしクイーンのアンソロジーに日本人作家の作品が2作も選ばれたことを考えると、日本のミステリも一旦は世界に認められ、世界に近づいたのだ。 しかし現代の日本人作家のミステリが劣るかと思えば、必ずしもそうではない。クイーンのような世界に発信する人物が欠如しているだけなのだ。 世界のどこかで本書のようなアンソロジーが編まれるとき、そこに日本人作家の作品が収録され、やがて日本人作家の作品ばかりで編まれたアンソロジーが世界で広まることを夢見て、本書の感想を終えよう。 |