home

ミステリの祭典

login
Tetchyさんの登録情報
平均点:6.73点 書評数:1631件

プロフィール| 書評

No.1171 7点 追憶のカシュガル
島田荘司
(2015/02/21 00:31登録)
日本の古都京都はその永き歴史ゆえに様々な言い伝えや伝承が今なお息づいており、点在する名所や史跡にはそれらが成り立った理由や逸話が残っている。
そんな古都にまさか御手洗潔が住んでいたとはミタライアンでも驚愕の事実であっただろう。しかも京大の医学部出身だったとは。横浜の馬車道を住処にしていた御手洗が関西ならば神戸辺りが適所だと思うが、京都とは意外だった。そんな京大時代に御手洗は休学し、海外放浪をしていた。そして京大を目指す予備校生サトルを相手にその時に出遭った人々の話を始めるというのがこの連作短編集だ。

特徴的なのは御手洗潔の短編集でありながら本書では御手洗潔は推理をしない。つまりミステリとしての謎はなく、御手洗はあくまで彼が海外放浪中に出逢った人々から聞かされた話をサトルに語るだけなのだ。謎を解かない御手洗の姿がここにある。
しかしこれら彼が経験した出逢いは御手洗にとって人間を知る、歪んだ社会の構図を知る、そして島国日本に留まっているだけでは理解しえないそれぞれの世界のルールを知り、その後快刀乱麻の活躍ぶりを発揮する名探偵としての素地を形成するための通過儀式のように思える。社会的弱者に対する優しき眼差しはこの放浪で培ったものなのだ。

今や社会は弱者に対して優しくなったと思う。バリアフリーは進み、知的障害者に対する理解も増え、学校では支援学級が必ず存在するようになった。また外国人への規制も緩くなりつつあるし、さらにはトランスジェンダーへの理解も広がり、性同一障害者がテレビをにぎわすほどにもなった。
しかしそんな社会もかつて虐げられた人々の犠牲の上にごく最近になって築かれてきた理解の賜物であることを忘れてはならない。この御手洗潔が語る弱者への容赦ない仕打ちこそがほんの10年位前にはまだ蔓延っていたのだ。
本書は御手洗の海外放浪記であるとともに世界の歴史の暗部を書き留めておく物語でもある。人間の卑しさを知った御手洗がその後弱者の為に奔走する騎士となる、そんなルーツが知れるだけでもファンは読み逃してはならない。


No.1170 7点 魂をなくした男
ブライアン・フリーマントル
(2015/02/15 01:49登録)
『片腕をなくした男』から始まる三部作の完結編である本書は相変わらずそれぞれの部門長の椅子の安泰と自らの進退を賭けたディベート合戦で幕が開く。

複雑な様相を呈する一連の事件の真相が解る3部作の完結編という重要な位置にある作品にしては実に動きのない話である。何しろ展開されるのはまず亡命したマキシム・ラドツィッチへのMI6による尋問と同じく亡命したイレーナ・ノヴィコワに対するCIAによる尋問、そしてナターリヤ・フェドーワに対するMI5からの尋問、そしてロシアに拘束されたチャーリーのロシア連邦保安局による尋問、そして英国官房長官アーチボルト・ブランドを議長にする危機管理委員会におけるMI5部長オーブリー・スミスとMI6部長ジェラルド・モンズフォードを中心としたそれぞれの立場と自尊心を賭けたディベート合戦なのだ。

しかしやはり三部作の最後を飾る本書はそんな退屈なシーンを我慢するに値するサプライズが待ち受けている。下巻の230ページで明かされる衝撃の一行。それはロシアの元KGBの大物マクシム・ラドツィッチが実は別人であったという事実。それまでの全ての記述がそのまさかのサプライズを裏付けていく。

ただし、それでも小説全体の評価は傑作とまではいかなかった。それはやはり前述したように物語自体が全体的に動きに乏しかったこともそうだが、今回の訳は日本語として体を成していない文章がところどころ目立ったことも大きな一因である。訳者は昨今のフリーマントル作品の訳を担当している戸田裕之氏なのだが、中学生や高校生が教科書に書かれた構文をそのまま訳しているような、実に解りにくい文章が散見させられた。原文がどう書かれているかは知らないが、せめて日本語として文章を書くのであれば作者の意図する内容を噛み砕いてほしいものだ。

しかし最後の最後まですっきりとしない物語だ。私はこの三部作こそが長きに亘って書かれたチャーリー・マフィンシリーズの終幕として著された作品と思われたが、どうやらそうではないらしい。窓際の凄腕スパイ、チャーリー・マフィンを世界は必要としている。

“Show Must Go On.”


No.1169 10点 獣たちの墓
ローレンス・ブロック
(2015/02/05 23:27登録)
『倒錯三部作』の掉尾を飾る本書では2人組のレイプ・キラーをマットが見つけ出す物語。

そんな陰惨な事件に今回は前回登場したスラムに住む少年TJが大活躍する。電話会社から公衆電話の番号を訊き出す方法だったり、ジミー・ホングとデイヴィッド・キングという凄腕ハッカーを紹介して犯人の行動範囲を限定したりとする。
特に次の誘拐事件が起きた時には犯人の顔と車のナンバーを抑えるなど八面六臂の活躍を遂げる。正直前作に登場した時はただの小生意気なスラムの少年だとしか思えなかったが、この活躍で一気に彼が好きになった―特に400ページのTJの台詞はこの暗鬱な物語の中で思わず笑い声を挙げたほど爽快な一言だ―。
今回ミック・バルーは警察からの嫌疑を免れるため、アイルランドに逃亡中で不在であったため、物語の面白味が薄れるかと思いきや、TJがその代役を果たしてくれた。マット・スカダーを取り巻く世界はますます濃厚になっていく。

これら三部作で語られる事件は魂が震え上がる残酷な事件ばかりだ。従って事件も展開もアクティブになっていく。私は『墓場への切符』の感想で“静”のスカダーから“動”のスカダーに切り替わったと述べたが、それはただ人に便宜を図る程度の捜査ではこれら社会に蔓延る強烈な悪意の塊のような輩には到底立ち向かえないからだ。だからこそマットも動き、人と人との間を歩くのではなく、駆けずり回らなくてはならない。特に本書ではハッカーを使ってまで犯人の行動を摑んでいく。これは以前のスカダーシリーズでは全く考えられなかったことだ。
そしてもはやこれほどまでに強大な悪には1人の力では立ち向かえない。前作ではミック・バルーと云う犯罪者の力を借りて敵を討った。そして今回は麻薬ディーラーの持つ闇の繋がりを以て敵と相見える。悪を以て悪を征する構図は本書でもまた引き継がれたのだ。

“狂気の90年代”とはクーンツが当時盛んに取り上げたテーマだったが、1992年に書かれた本書もまた同じだ。『倒錯三部作』とは時代が書かせた作品群だったのだろう。

私はこれら3作が『倒錯三部作』と日本の書評家たちが勝手に名付けたことがどこか心に引っかかっていたが、それはこれらの3作品が性倒錯者による陰惨な犯罪にマットが立ち向かう作品群であり、個の戦いから仲間と巨悪との戦いへの変遷であると書いてきた。しかし本書を読んでからはエレインとの再会で始まり、エレインへのプロポーズで終わる三部作でもあるのだと気付かされた。
全ては地続きで繋がっている。このマット・スカダーシリーズを読むとその感慨が一層強くなる。1作目から読んできたからこそ味わえるマットに訪れた安寧を我が事のように思いながらしばし余韻に浸りたい、そんな気分だ。


No.1168 7点 巡礼のキャラバン隊
アリステア・マクリーン
(2015/02/03 00:00登録)
北上次郎氏の『冒険小説論』によればマクリーンは冒険小説に謎解きの要素を加えた作家であるとのこと。確かにそうだが、以前から感想で述べていたようにマクリーンは読者をいきなり物語の渦中に投じ、人物背景や設定などを一切語らずにストーリーを進め、それら自体が謎となっているため、開巻してしばらくは非常にすわりの悪い読書を強いられるが、本書もまたその手法に則って書かれているおり、ジプシーのキャラバン隊の指揮者チェルダが一員のアレクサンドルを追跡の末、殺害する顛末が描かれるプロローグはこのチェルダという男がただの巡礼者でなく、ある秘密の目的を持っていることが分かるものの、いきなり彼らジプシーたちに命を狙われることになるネイル・ボーマンの逃走劇に何の前知識もないまま付き合わされることになる。
その逃走劇自体は非常に映像的でわかりやすく、なおかつスリリングであるのだが、やはり物語の前置きがなく、状況がよく解らないままに進むため、なんとも居心地の悪い思いをしながらの読書となった。

今ではマクリーンは『ナヴァロンの嵐』を最後に、作品の質は下り坂を辿り、後期の作品には読むべき物はないとされている。北上次郎氏は前掲の評論で自身の作風に固執して時代の流れに乗りきれなかった作家として切り捨てている。
特に冷戦の緊張緩和、CIAのスキャンダル発覚でもはやスパイやエージェントがヒーローで無くなった時代になってもなおエージェントを描いて空回りしているのがまさにこの頃のマクリーンで、確かに本書も親の莫大な遺産を引き継いだ有閑人として登場したボーマンとキャラクターの濃いクロワトール公爵が、それまでマクリーン作品を読んできた読者の大方の予想通りにエージェントであったこと、そして歯の浮くようなハッピーエンドで幕を閉じるなど、当時の時代背景を考えると一種お伽噺のような感がしないでもない。
しかしそれでもなお絶壁での逃走劇に荒ぶる巨牛との闘牛シーン、さらにはボートによる海上での戦いなど随所に盛り込まれるアクションシーンの迫真性はやはりこの作家ならではのりアリティに溢れている。


No.1167 7点 封印再度
森博嗣
(2015/01/24 23:53登録)
このサイトで大半を占めるように、私も萌絵の非常識さに辟易・憤慨しました。
叔父が愛知県警の刑事本部長と云う地位を利用して他人の殺人事件に土足でずかずかと入り込んでくる無神経さがどうも気に入らない。いや押しなべてミステリに登場する探偵とはそのような物だが、西之園萌絵の場合は本部長の叔父が快く思っていないのにこそこそと事件に関わってくること、自分の容姿が他人の目を惹くことを知っているため、それを利用して事件に介入すること。
最たるは不治の病に侵されていると嘘をついて犀川の気を惹こうとしたことの何たる幼さ!それが契機になって萌絵との結婚を決意し、婚姻届さえ書いた犀川の徒労は計り知れない。世の中にはついていい嘘と悪い嘘があるが、そんな分別がつかない我儘娘はどうにも合わない。

壺と箱のトリックの真相は50/50といったところ。壺から箱への部分は思わずすごい!と声を挙げたが、箱から壺への部分は、(物の再現性と被害者の気力も含め)こんなに上手く行くんかいな?と納得できない感が残った。
事件の真相もなんだか煙に巻いたようではっきりしないし。

ストーリー、トリックの点数は3点。本書の神髄はタイトルにある。これはまさに秀逸。同じ発音をしながら意味は違えどどちらも物語の本質をついているまさに見事な題名。これで+4点とした。


No.1166 10点 倒錯の舞踏
ローレンス・ブロック
(2015/01/16 23:07登録)
『倒錯三部作』の第2作。前作ではマットとエレインがかつて刑務所に送り込んでいた殺人鬼との決闘を描いたが、本書ではスナッフ・フィルム、即ち殺人の一部始終を映したポルノフィルムが扱われている。その内容も過激で思わず怖気を震ってしまった。

とにかくこのスナッフ・フィルムの犯人バーゲン・ステットナーとその妻オルガの造形が凄まじい。世の中にこれほどまで人格が捻曲がった夫婦がいるのかと思えるほど、理解し難い人物だ。
こんな世界をブロックはマット・スカダーの叙情的で淡々とした筆致で描いてなお、読者の心の奥底に冷たい恐怖を植え付けていくのだから畏れ入る。

ここで今までのシリーズを振り返ってみると、『聖なる酒場の挽歌』までのマットは依頼者の災いの種を頼まれるがままに探り、問題を解決してきた。時には己の正義に従って鉄槌を下すこともあったが、それはあくまで彼が関わってきた他者のためだ。またそれらは依頼者の過去に向き合い、忘れ去られようとしている事実を掘り起こして白日の下に曝す行為であった。それはまた物語に謎解きの妙味を与え、意外な犯人、意外な真相と云ったミステリ趣向も加味されていた。
そして前作『墓場への切符』では一転して彼の過去の亡霊が現代に甦って自身とエレインに立ち塞がり、それを打破するために立ち向かう物語だった。つまり彼自身の事件であり、彼を取り巻く世界に現れた脅威との戦いの物語だった。従ってそれまでとは違い、敵は明確であり、物語はどのようにマットが決着を着けるのかが焦点となった。
そして本書はそれまでのシリーズの持ち味を合わせた内容となっている。過去に見たスナッフ・フィルムが今マットが依頼された事件と交錯し、意外な像を描く。そして彼の眼の前に明確な敵が現れ、マットはそれと対峙していく。
しかしこの敵はマット個人とはなんら関係がない。むしろ関わりを持たずに暮らすことも全く可能だった。しかしマットはたまたまAAの集会のメンバーから渡されたビデオテープで見てはならない社会の醜悪な病理を知ってしまい、その根源と出遭ってしまったことで、無視できなくなってしまった。そう、本書でマットが向き合った相手は複雑化する社会が生み出したサイコパスだった。

自分の正義に従ってきたマットが本書で行き着いたのは社会で裁かれない悪を悪で以て征することだった。そしてマットは決して傍観者に留まらず、自らもその渦中に飛び込み、そして自身も手を血に染める。

このようにマット・スカダーシリーズは作を追うごとに新たなる試みと進化と深化を遂げていく。『八百万の死にざま』でアル中探偵マットが酒を止めるという大きな変化に到達し、その後マットの古き良き時代の物語『聖なる酒場の挽歌』を経て、シリアル・キラーとの対決と云う新たなる進化を遂げた『墓場への切符』をさらに本書で越えてみせたブロック。1作ごとに新たなる高みに向かうこのシリーズが次にどこに向かうのか、その答えが本書の最後の1行にある。これこそ作者自身にも解らないほどの物語を紡いでしまった感慨の表れだろう。しかし幸いなことに我々はこの後もなおシリーズが進化していくのを知っている。


No.1165 8点 流星の絆
東野圭吾
(2015/01/12 00:27登録)
ストーリーは単純ではあるが、プロットは実に用意周到だ。特に唸らされたのは功一たちの生業が詐欺師であることだ。これが実に効果的に物語に働きかけている。主人公の3人は容易に警察に協力を求められないのだ。この辺の必然性は実に上手い。

物語の約1/3の辺り、泰輔が幼き頃に見た犯人を視認した後の物語の疾走感は半端ではなかった。積年の恨みを晴らすために3人兄弟のブレイン功一が策を練り、カメレオン俳優の泰輔と静奈がそれを演じ、接近していくがなかなか上手く進まない展開に忸怩たる思いを抱きながらも、先の読めない展開にハラハラし通しだった。詰将棋のように容疑者を犯人に仕立てるために仕掛けを施していく3人兄弟のマジックが、521ページ辺りからはまさに怒涛の展開だ。読者はまさに東野氏の掌の上で踊らされるだけになってしまう。

それだけに事件の真相が悔やまれる。動機はありがちなメロドラマである。この単純さが実に残念だった。

しかし腑に落ちないのは防犯カメラの存在を全く作者が無視していること。両親殺害事件で刑事が訊き込みに行くコンビニで、全く防犯カメラの映像提供について触れないのはおかしい。『使命と魂のリミット』でも病院の受付用紙の中に犯人のメッセージが潜り込んでいたシーンでも当然大病院にあるであろう防犯カメラについては一切触れなかった。防犯カメラは東野ミステリ世界では存在しないかのようだ。一工夫理由を考えればクリアできると思うのだが、どうしてだろうか?


No.1164 7点 荒鷲の要塞
アリステア・マクリーン
(2015/01/04 18:48登録)
難攻不落の要塞への進入行と云えばやはり『ナヴァロンの要塞』を思い起こさずにはいられないだろう。再びマクリーンが極寒の地にある要塞を舞台にした物語は拉致されたアメリカ高官の救出劇。
作者も『ナヴァロンの要塞』との区別をつけるために色んな特色を出している。まず物語の目的は『ナヴァロンの要塞』が巨大な砲台の破壊だったのに対し、本書は上に書いたような救出劇であり、しかも『ナヴァロンの要塞』が男ばかりのチームだったのに対し、本書は女性のメンバーも加えていることが目新しい。
さらに吹雪の中でケーブルカーの屋根に捕まって要塞に潜入したり、また同様に敵と戦かったり、さらにはバスで豪快に脱出したりとまあ、何とも映画化を意識した作りになっている。

後期のマクリーン作品は評論家によればスパイ・冒険小説と謎解きの融合が特徴であるらしく、唐突に物語が始まり、主人公の意図、目的が示されないまま、進行し、中盤以降でようやく主人公の意図が見えてくるという趣向もまたミステリの様式を汲んだものとして捉えられるが、今まで書いてきたように、個人的には成功しているように思えず、手放しで評価できなかった。
しかし本書の前に読んだ『北極基地/潜航作戦』は特にその色合いが濃く、前半は極寒の地での潜入劇、後半は潜水艦内で起きる連続殺人の犯人を突き止めるという本格ミステリのテイストが盛り込まれていた。
本書はその流れに沿うような形で、極寒の山頂に聳え立つ難攻不落の要塞への潜入劇とその任務の中で起きる仲間の不審死の謎と構造は全く以て同じと云っていいだろう。
しかしマクリーンはもう1つそこに味付けを加えている。それは読んでのお楽しみと云う事で。

ただ本書では全てがスミス少佐の掌上で展開した感があり、派手で手に汗握るアクションシーンが連続しても全てスミスの思惑が的中して、読者に一体この後どうなるのかという不安を抱かせるような構成になっていないのが玉に瑕である。例えば敵国の要塞の只中にいるにも関わらず、敵国の軍服を着ており、ドイツ語を話せるスミスは敵に見つかるたびにナチス高官を装って、煙に巻くし、ところどころで事前の仕込が全て有機的に働いて危難をスマートに切り抜ける。いうなればスミス少佐はハリウッド映画が描く超人的な体力と技能を持つスーパーヒーローなのだ。

特にハリウッドアクション映画色が濃い本書でもやはり極寒の地での潜入劇の迫真性や銃器、兵器などの専門的な知識に裏付けられた詳細な描写はマクリーンならではのリアルさに溢れている。


No.1163 7点 エディ・フランクスの選択
ブライアン・フリーマントル
(2014/12/29 01:00登録)
競争心。それはお互いのプライドと克己心を育て、向上心を伸ばす。しかしそれが行き過ぎると斯くも歪んだ大人になってしまうのかをこの作品は思い知らせてくれる。
イタリア系移民の家族に育てられたユダヤ人エディ・フランクスとその家族の長男ニッキー・スカーゴウ、この2人のある原初体験が物語の軸となっている。

ナチスの、執拗なユダヤ人狩りからの逃亡生活の末、アメリカに流れ着いたアイザック・フランコヴィッチの息子エドマンド・フランコヴィッチはエディ・フランクスと名を変え、エンリコ・スカーゴウに引き取られて、彼の実息のニッキーと常に競わされ、比較されながら育てられた。そのため彼にはニッキーに対して拭いきれない劣等感を抱えており、いつか彼を見返してやるというのが彼の成功の原動力となった。
これはイタリア系民族の、父親が絶大なる権威を誇る典型的な家系ゆえの慣習なのだろうが、この原初体験が逆にエディとニッキーの生活を脅かす結果になる。

マフィアによって会社を犯罪に利用された男が報復を恐れて裁きの舞台に立つことを制止する家長らの反対を押し切って戦いを挑む物語。
通常であれば苦難を乗り越えた主人公がどうにか勝ちをもぎ取り、悪に鉄槌が下るのが定石だが、やはりフリーマントルは一筋縄ではいかなかった。

母国イギリスでは“スパイ小説界のルース・レンデル”と呼ばれていないのだろうか。しかしため息が出る結末だ、本当に。


No.1162 7点 詩的私的ジャック
森博嗣
(2014/12/21 21:57登録)
S&Mシリーズ第4作目の本書もまた密室殺人を扱ったものだ。もしかしたらこのシリーズは密室殺人事件のみを扱ったシリーズなのだろうか。

しかし本書では密室の謎がメインではない。冒頭2つの密室は早々に解かれる。本書のメインの謎とはこれら密室を作るための至極面倒な手順を何故犯人は行い、密室を形成したのか?だ。

このWhyの解は個人的には予想を超えて非常に興味深い物だった。どこか泡坂妻夫の歪んだ論理を思わせる。ただそれに比して犯人の動機の弱さにはまいってしまった。どなたかが書かれていたが、矛盾していると思うからだ。

本書の意義は建築の知識を前3作にも増してふんだんに使っているところにある。ジェットセメント、エポキシ樹脂などは常日頃建築の仕事に携わっている物にしてみれば珍しくもなんともない代物だ。
痛快なのは数多あるミステリに登場する建物や館の珍妙さを専門家の視点から嘆いているのが実に面白い。特に推理小説は建築基準法や消防法のない世界なのだと萌絵が吐露する件は思わず何度も頷いてしまった。

そういう意味で考えれば本書における密室殺人は全て建築の知識を用いて成された物。それが故に犯人も建築学科の大学院生であったわけだが、つまりはきちんとした建築の知識があれば密室などはいとも簡単に作れるということを暗に示しているように感じた。見た目は閉じられているが、板一枚簡単に外れるし、そこには隠れた抜け穴があるのだという、建築業界にとっては至極当たり前のことを本書では素人相手に示したことに意義がある。

ただまだ私には西之園萌絵の無神経で厚顔無恥ぶりには抵抗を感じる。本書では自分の甘えを痛感するといった場面もあったが、もう少しどうにかならない物だろうか?
シリーズ物はいかにキャラクターに親近感を覚えるかがカギなので、この先のシリーズで萌絵が成長してほしい。私に免疫が出来るのとどちらが先だろうか。


No.1161 7点 007 白紙委任状
ジェフリー・ディーヴァー
(2014/12/16 23:45登録)
あのディーヴァーが世界的有名なスパイアクションシリーズである007シリーズを手掛けるニュースを聞いた時は正直期待半分不安半分だった。私自身007は映画は観ていたものの、小説は未読だったのもあったし、ライムシリーズやキャサリン・ダンスシリーズと云う2つの看板シリーズを持っているディーヴァーにそれらと差別化できる特色が出る作品が果たして可能なのかと疑問視していた。
しかしそれは杞憂だった。ここには007シリーズを想起させながらも新たなジェームズ・ボンドがいる。若々しく、スマートフォンとアプリを使いこなす現代のスパイとしてのボンド像をディーヴァーは創り出した。そうでありながらも彼のボスはMであり、スパイグッズの発明家Qも出てくるし、ボンドカーと彼を取り巻く美女がきちんと配され、ファンが期待するボンドの定番も忘れられていない。

さてディーヴァー版ジェームズ・ボンドの相手となる敵は巨大ゴミ収集企業グリーンウェイ・インターナショナルの代表取締役セヴェラン・ハイトとその相棒で冷酷な殺し屋ナイアル・ダン。
今なお創られる007シリーズ映画の敵はもはやソ連の秘密組織や戦争を企む武器商人などではなく、世界を牛耳る巨大企業による、その得意分野に特化した世界征服の野望を持つ狂える企業人であるが、本書もその流れを汲む物だ。
しかしただのゴミ回収業を営む一企業人がスーパー・エージェント、ジェームズ・ボンドの敵になり得るのかと疑問を持つだろうが、そこはやはりディーヴァー、この業界が実に世界を脅かす恐るべき存在になり得ることを見事に示した。
まず今回は死体愛好家であるセヴェラン・ハイトが相棒のナイアル・ダンと企む「ゲヘナ計画」が何であるかを突き止めるのが今回のボンドの使命。それは近いうちに行われるある大量虐殺計画を示唆しているが、場所も日時も不明。ボンドはアフリカ各地で行われている民族大量虐殺の跡地を“クリーン”にする事業を請け負っているダーバンの起業家ジーン・セロンに成りすましてハイトに近づき、計画の正体を探ろうとするのが物語のメインだ。
そして明らかになるのは我々の想像を超える恐るべき計画だった。これは実際に本書を当たって確認してほしい。
私はこの発想の妙には唸らされたし、実現可能性の高さから戦慄さえ覚えた。

そしてディーヴァーの持ち味であるどんでん返しもまた健在。ただ本書はそっちの真相の方がいささか迫力不足と感じた。それほど上の敵のインパクトが強すぎた。

ディーヴァー版007。その出来栄えはまずは及第点と云ったところか。アクション満載のスーパーエージェントの活躍が愉しめるものの、ディーヴァー特有のどんでん返しが今回はあまりストーリーの面白さに寄与しなかったように思えたのが痛かった。


No.1160 7点 北極基地/潜航作戦
アリステア・マクリーン
(2014/12/07 23:04登録)
極寒の地での冒険小説はもはやマクリーンお得意のシチュエーションであり、最も彼の筆致が生きる題材と云えよう。本書は突然消息を絶った北極の気象観測基地の作業員たちを救うべく、アメリカ最新鋭の原子力潜水艦で極寒の地に赴くという、これぞマクリーン!とも云うべき作品だ。
しかし本書はそれに加え、ゼブラを、ドルフィン号を襲う謎の魔の手がいる。つまり本書には犯人捜しと云う謎解き興味も盛り込まれているのだ。

まずは過酷な状況下で不可能とされる任務を遂行しようとする主人公カーペンターと彼の協力者である潜水艦の乗組員の苦闘はいつもながら心胆寒からしめる迫真性に満ちており、10作目になってもマクリーンのアイデアは尽きることがない。

ただ本書の最後の最後で明かされるバックストーリーは、どうもとってつけたような感は否めない。確かにマクリーンは物語のそこここにカーペンターが真相を見抜いたかのように行動する様を描いているが、最終章にて長々とそれまで語られなかった全く別の話が唐突に繰り広げられるのでバランスの悪さをどうしても感じてしまう。これが現代のミステリならば、プロローグでそのことに関するエピソードを語るなどして、読者に記憶させる手法を取るだろう。この辺がマクリーンがプロットをストーリーに結び付ける力が不足しているように思わせる弱点だろう。

しかしそれは瑕疵と云えよう。本書は何よりも実に読みやすいのが面白味を増しているように思う。
極限状態の中にあって、一歩間違えば死の状況に幾度も遭い、満身創痍の状態になりながら軽口を叩いて、眼前の危難を乗り越えていく。さらには本書には連続殺人を犯す犯人探しの興趣さえも盛り込まれている。繰り返しになるが、本書は私が期待していた「これぞ、マクリーン!」と快哉を挙げたくなる作品だ。


No.1159 7点 読み出したら止まらない!国内ミステリーマストリード100
事典・ガイド
(2014/12/07 00:06登録)
本書に挙げる書物を挙げるにあたり、選者の千街氏はいくつかの縛りを設けている。
それまでのアンケート方式で綴られたオールタイムベストのガイドブック50位以内に選ばれた作品は殿堂入り作品として取り扱わない、毎年行われるランキング本で選ばれる作品の内、上位5位までの作品は対象外とする、しかも現在でも入手可能な作品とする、というこの3つの縛りに基づいて選ばれている。

確かにこれまでこの手のガイドブックは数多出版されているので、それらと一線を画すためにこのようなルールを設けるのは面白い趣向だと思う。
しかしそれが故にどこか選ばれた作品に閉塞感を覚えてしまうのも事実で、なぜこの作家のこの作品?と云うのがところどころあったのは否めない。
例えば綾辻作品で『迷路館の殺人』が選ばれているが、これは『時計館の殺人』だろう、とか髙村薫の作品がなぜ『李歐』?とか、真保作品は『震源』よりも他にあるだろう、とか東野圭吾で『天空の蜂』もいいが、世評では『悪意』だろう、などと個人的に思うことは多々あった。

また一方で千街氏ならではの選書もあり、例えば野阿梓氏の『兇天使』や高野史緒氏の『ムジカ・マキーナ』などは彼でないと選ばない作品だろう。

そういう意味ではかなり選者の好みが出たガイドブックである。ただ冠に「マストリード」とあるにしては、ちょっとその言葉の強さに比べて選ばれた作品の価値が等価であるかどうかは首を傾げてしまう所があると正直に云っておこう。また杉江氏同様、挙げられなかった作品を補完して紹介する第Ⅱ部の方がその筆致が熱いのには思わず苦笑してしまったが。


No.1158 9点 墓場への切符
ローレンス・ブロック
(2014/12/06 00:08登録)
マット・スカダーシリーズが今日のような人気と高評価を持って迎えられるようになったのはシリーズの転機となった『八百万の死にざま』と本書から始まるいわゆる“倒錯三部作”と呼ばれる、陰惨な事件に立ち向かう“動”のマットが描かれる諸作があったからだというのは的外れな意見ではないだろう。

本書が今までのシリーズと違うのはそれはマットの前に明確な“敵”が現れたことだ。彼の昔からの友人である高級娼婦エレイン・マーデルをかつて苦しめたジェイムズ・レオ・モットリー。錬鉄のような鋼の肉体を持ち、人のツボを強力な指の力で抑えることで動けなくする、相手の心をすくませる蛇のような目を持ち、何よりも女性を貶め、降伏させ、そして死に至らしめることを至上の歓びとするシリアル・キラー。刑務所で鋼の肉体にさらに磨きをかけ、スカダー達の前に現れる。

これほどまでにキャラ立ちした敵の存在は今までのシリーズにはなかった。確かにシリアル・キラーをテーマにした作品はあった。『暗闇にひと突き』に登場するルイス・ピネルがそうだ。しかしこの作品ではそれは過去の事件を調べるモチーフでしかなかった。

しかし本書ではリアルタイムにマットを、エレインをモットリーがじわりじわりと追い詰めていく。つまりそれは自身の過去に溺れ、ペシミスティックに人の過去をあてどもなく便宜を図るために探る後ろ向きのマットではなく、今の困難に対峙する前向きなマットの姿なのだ。
それはやはり酒との訣別が大きな要素となっているのだろう。過去の過ちを悔い、それを酒を飲むことで癒し、いや逃げ場としていたマットから、酒と訣別してAAの集会に出て新たな人脈を築いていく姿へ変わったマットがここにはいる。

特に過去に関わった女性に対して思いを馳せるに至り、マットは自分には常に自分の事を想う女性がいたと思っていたが、実はそんな存在は一人もいなかったのではないか、ずっと自分は孤独だったのではないかと自身の孤独を再認識させられる件には唸らされた。実に上手い。

本書にはある一つの言葉が呪文のように繰り返される。それはAAの集会で知り合ったマットの助言者であるジム・フェイバーによって勧められたマルクス・アウレリウスの『自省録』という書物の一節、「どんなことも起こるべくして起こるのだ」という一文だ。
これが本書のテーマと云っていいだろう。どんなに用心していようがいまいが起こるべきことは起こるのだ。モットリーの襲撃も結局スカダーは防げず、エレインはその凶刃に掛かってしまった。

しかしその後にはこう続くことだろう。起こってしまったことは仕方がない。問題はそのことに対してどう振舞い、対処していくことかだ、と。

マットが住む世界ほどではないが、我々を取り巻く世界とはいかに危険が満ちていることか。地震や津波であっという間にそれまでの生活が一変する事を我々は知ってしまった。しかしそこで頭を垂れては何も進まない。そこから何をするかがその後の明暗を分けるのだ。本書で描かれた事件はそんな天変地異や大災害のようなものではないが、書かれていることはいつになっても不変のことだ。


No.1157 7点 ダイイング・アイ
東野圭吾
(2014/11/29 23:27登録)
本書は長年お蔵入りしていた作品として発表時に宣伝文句として謳われていた作品だ。

記憶喪失の主人公が過去を探る話と云うのはそれこそ世にゴマンとあるが、それが過去に起こした交通事故、しかも相手は亡くなっている事件であることが東野氏の着想の妙と云えよう。通常ならば周囲の人間が勧めるように早く忘れた方がいい記憶であり、それが襲われたとはいえ、忘れる事が出来るのは非常に幸運なことだろう。実際、私の立場ならば忘れたままに放置するだろう。だから私はドラマの主人公に不向きであると云える。

それはさておき、過去を探っていくことで、寝た子を起こすことになるのは物語の常であるが、雨村の捜査をきっかけに彼の周囲にも変化が訪れる。
同棲相手の失踪、ファム・ファタールの出現、そして被害者岸中美菜絵の幽霊の出現と物語は一種オカルトめいた様相を呈していく。

銀座に高級バーを持つ男、事件をきっかけに大金をせしめて夢を叶えようとする男、社長令嬢の婚約者という玉の輿に乗ったゼネコン社員と社会の勝ち組(になろうとする人)たちへ慎ましくも幸せな暮らしを送っていた一介の主婦の怨念の乗り移った目こそが下した正義の鉄槌の物語は思いの外、心寒からしめる物語であった。


No.1156 7点 笑わない数学者
森博嗣
(2014/11/28 23:28登録)
このシリーズはミステリの定型を見事に擬えている。奇妙な館に特異な人物、もしくは特殊な実験室があり、そこで起きる密室殺人。事件に関係する人物たちの尋問と隠された過去の因縁や事件が明かされる。さらには謎の真相に貪欲な西之園萌絵は好奇心を抑えられず、犀川の目の届かない所で冒険に挑み、危難に遭う。
本書を読んでいるとアーロン・エルキンズのギデオン・オリヴァーシリーズを呼んでいるような錯覚を覚える。それほどこの両者の物語構成は似ている。それはまさに数学の証明問題を解くが如く、ミステリのセオリーをなぞっているかのように見える。

肝心のオリオン像消失はまさかと思ったが、そのまさかの真相だった。やはり大胆な消失トリックはもう出尽くしたのだろうか?

しかし最大の謎は天才数学者天王寺翔蔵そのものかもしれない。
特に最後現れる子供と戯れる謎の老人は事件後の真賀田四季の生存を髣髴させるエピローグではないか。

本書の中で特に印象的だった言葉がある。

人類史上最大のトリック……?
(それは、人々に神がいると信じさせたことだ)

このあまりに鮮烈な2行は見えない物を見ようとし、謎に翻弄される本書の登場人物に対して見えない物を信じ、縋る人々の存在とは非常に対照的だ。
内と外、見える物と見えざる物。本書はその対立する2つの項を行き来する人間の愚かさを描いた作品か。そして心理を見抜く者は目で見た物を信じない。それは本書の真犯人がオリオン像消失のトリックをいち早く見抜いていたことがその証左と云えよう。我々が見ているのは現か幻か。なんだ、本書は実は江戸川乱歩に捧げた書だったのか!


No.1155 7点 スペース・マシン
クリストファー・プリースト
(2014/11/27 13:03登録)
クリストファー・プリーストと云えば『逆転世界』、『魔法』や『奇術師』など我々の価値観を超える世界観を提供し、物語世界を理解するのが困難な物が多いが本書はなんとH・G・ウェルズの代表的な2作、『タイム・マシン』と『宇宙戦争』を本歌取りし、1作のSF作品として纏めた労作なのだ。非常に知られた題材であるせいか、非常に読みやすいのにびっくりした。

しかしただの本歌取りに収まらず、そこここにプリーストならではの味付けが成されている。
また火星の描写はプリーストならではの奇想に満ち溢れている。赤い植物壁に金属のまばゆいばかりの塔などはまだしも、人間に似ながらもどこか違う火星人の風貌、半球状の透明なドームに囲まれた都市―スティーヴン・キングの作品『アンダー・ドーム』はこれに由来するのか?―に三本足で“歩く”走行物に直径7mもある雪を降らせる大砲は実は地球に向けて宇宙船を発射する巨大な発射砲であることが後に解ってくる。
さらにこの2人に途中で関わってくるウェルズ氏。哲学者と云う設定だが、彼こそ後に『タイム・マシン』と『宇宙戦争』を著すH・G・ウェルズ氏である。そう、本書はこの2つの名作が氏の体験によって創作された物としているのだ。

ところで本書は邦訳されている他のプリースト作品に比べても格段に読みやすく、またモデルとなった小説があることから非常に解りやすいのが特徴だが、その後のプリースト作品の萌芽となるアイデアが垣間見られる。
それはスペース・マシンという時空を旅することが可能なマシンが持つ特徴だ。時間を旅することは勿論だが、空間、すなわち異なる次元に移動することで存在を希薄化し、周囲から見えなくすることが出来るのだ。これは数年後に発表される『魔法』で見せたグラマーという能力の原点ではないか。さらに「瞬間移動」を得意とする2人の奇術師の戦いを描いた『奇術師』もまたここから発展した着想であるように思える。即ちこのスペース・マシンこそがプリーストがその後の作品のテーマとしている存在や実存という確かであるがゆえに不確かな物を作品ごとに色んな趣向を凝らして突き詰めていく源だったのではないだろうか?
そういう意味では私を含めたSF初心者の諸氏には名作と名高い『魔法』や『奇術師』にあたるよりもまず本書こそがプリースト入門に相応しいと思える。せっかく復刊されたこの機会を利用しない手は、ない。


No.1154 6点 溺死人
イーデン・フィルポッツ
(2014/11/03 19:19登録)
フィルポッツと云えば21世紀現在でも古典ミステリの名作として『赤毛のレドメイン家』を著した作家としてその名を遺しているが、実は彼にはそれ以外にもミステリの諸作があって、本書は私が前出の作品を初めて読んだ大学生の時には既に絶版で長らく手に入らなかった1冊である。実に初版から30年経ってようやく復刊フェアにてその姿を手にすることが出来た。

報われない人生を歩んできた一介の旅芸人が自殺のために訪れた断崖の洞窟で別の溺死体を発見したことがきっかけで、死者に成りすまし、別の人生を送る。よくある、特にウールリッチの諸作に見られる設定の本書で、特に目新しさは感じないが、これがまず1931年に書かれたことを考えると、いわゆる身代わり殺人というモチーフの原型ではないかと思われる。

しかしそんな入れ替わりも早々に破綻してしまう。なんと4章目にして失踪者ジョン・フレミングは追跡者メレディスによって発見されてしまうのだ。全12章のたった1/3を過ぎたあたりだから、これはかなり早い段階だ。
そしてそこから新たな謎が生まれる。ではジョン・フレミングが成り替わった死体とは一体誰の死体なのか?そしてなぜ彼がダレハムの断崖で亡くなっていたかとさらに謎が重なってくる。たった300ページ弱の厚みに謎の連鎖が詰まっている。

しかし最後まで読むと本書はミステリなのかと疑問を抱えてしまう。上に書いたように確かに謎は連鎖的に連なっていくが、肝心要の溺死人を殺害した犯人は探偵の推理ではなく、犯人からの自白で判明する。

そして最終章の章題は「われわれも、おもしろがってはいないが」と掲げられている。これはつまり人の死をミステリと云う謎解きゲームの器に盛ったミステリ作家たちは罪を犯すことの意味という最も根源的な事を忘れて、知的ゲームに興じているのではないかという作者からの警句なのだろうか。
これは誰も裁かれない物語だ。いや唯一裁かれたのが溺死人であった。つまり被害者自身のみが裁かれるべき者であったという実に特異な物語だった。

本書の原題は“Found Drowned”。つまり『溺死人発見』が正確な意味だが、溺れた者とはミステリというゲームに溺れた作家たちを指すのかもしれない。
本書で唯一裁かれたのが被害者であり、人に害なす恐喝者を始末した殺人者は善悪の観点から裁かれずに終わる。これはフィルポッツが犯罪とは一体何なのかという原理原則を問うた作品ではないか。犯人を解き明かすことだけが犯罪を取り扱うミステリの使命ではないと謳っているように感じられてならない。そう考えると本書の題名はミステリ作家に対して何とも痛烈に響くことか。
本格ミステリの雄であるエラリイ・クイーンがロジックとパズルに淫した後に行き着いた先を既にフィルポッツは1931年の時点で警告していたと考えるとやはりこの作家は『赤毛のレドメイン家』のみで語られるべき作家ではない。文豪はやはり文豪と云われるだけの深みがあることを再認識させられた。


No.1153 7点 慈悲深い死
ローレンス・ブロック
(2014/10/29 21:46登録)
今回マットが関わるのは2つの事件。1つはインディアナ州で車のディーラーを経営しているウォーレン・ホールトキから失踪した女優志願の娘ポーラの捜索。もう1つは上にも書いたAAの集会で知り合った友人エディ・ダンフィの死の真相だ。

前者の結末は田舎から出てきた女優志願の若き女性の末路としては言葉にならないほど哀しくも無残な結果。都会の片隅ではこんな死がゴマンとあるのだろうか。

後者は意外な犯人とそれを知ったスカダーの心情を思うと実に心が痛む。ここにもまた心を病んだ者がいる。

しかしこれは非常に危うい物語だ。断酒をして3年以上のマットだが、いつまたアルコールに手を出すのか終始冷や冷やさせられる。原題“Out On The Cutting Edge”は作中の台詞でもあるように「刃の切っ先に立っている」状態、即ち断酒をしながらもいつまた酒を飲むか解らない不安定な心理状況を謳ったものだ。そして“Out”とはつまりそこから堕ちることを意味している。
そんな彼の前には飲酒で誘う因子が捜査の過程に付き纏う。例えばミッキー・バルー。アイルランド系の用心棒から成り上がった通称“ブッチャー・ボーイ”と呼ばれたこの男はニューヨークの闇社会でドンと呼ばれる男の1人だが、かつての溜り場での常連だった縁ゆえか、長い間盃を酌み交わす―マットはコーラだが―ことで親密な関係を築き上げていく。それは酒飲みだけが分かち合える時間と空間。そんな雰囲気がマットに酒への憧憬を甦らせる。
常に果たしてまたマットは酒を口にするのか?『八百万の死にざま』で前後不覚になり病院に運ばれたマットに待ち受けるのは死であることを知っている読者は心中穏やかでない。

私には『過去からの弔鐘』でマット・スカダーという元警官の無免許探偵を見つけたブロックはその後3作の物語でこの男がどんな男なのかを探り、『八百万の死にざま』で彼がアル中でありながらそれを認めようとしなかった弱い男だったことを解き明かす、それがこのシリーズの流れのように思える。そして『聖なる酒場の挽歌』でアルコールを介して知り合った仲間のエピソードを語ることでアルコールへの未練を断ち切り、過去を振り返っていた男が未来に向けたマットの物語をブロックが進行形で描き出したのが本作。

過去の過ちから酒に逃げていた男の物語として始まったマット・スカダーの探偵物語。云わばマットと云う人物の根幹を成す設定を敢えて放棄することで物語を紡ぐことは作家にとってかなり大きな冒険であろう。その後シリーズは巻を重ねていること自体が今さらながら驚かされ、しかもそれらの作品群がシリーズの評価を高めているのだから畏れ入る。逆に枷を着けることで作者のチャレンジ精神が昂揚したということか。何はともあれ、シリーズの新たな幕明けとなったいわばマット・スカダーシリーズ第2部が楽しみでならない。


No.1152 7点 天の方舟
服部真澄
(2014/10/17 22:55登録)
世界の黒い構造にメスを入れる服部真澄が今回その刃先を向けたのはODA、政府開発援助を巡る汚職の世界。その利権に群がる日本の開発コンサルタントとゼネコンのピカレスク小説だ。

まず本書は主人公が逮捕されるという実にショッキングなシーンから始まる。40歳前後という若さで日本大手の開発コンサルタント会社の重役に登りつめ、ビジネス誌でも現代のジャンヌ・ダルク扱いの取材を受けた黒谷七波に一体何があったのか。このたった9ページの導入部でいきなり物語に引き込まれる。

しかしこの手の物語を読んで思うのは、最後に罰が下るとはいえ、彼らの蜜月は実に長く、その対価にしては釣り合いが取れないのではないか、と。確かに彼らの今後の行く末にはきつい道のりが待ち受けているだろうが、それでも彼らは誰もが羨む生活を送れたのだ。実は得するのは悪の側なのではないか。真面目にやっている人間ほど馬鹿を見るのがこの世の中の構図ではないかと実に虚しさを感じてしまう。
ところで服部作品と云えば実在する社名が頻出することが特徴だが、題材が生々しいだけに本書では架空の社名で物語は進む。何しろゼネコンによる政治献金、裏金工作、架空請求など企業詐欺のオンパレードだからさすがに配慮は必要だろう。
しかし本書の一連のODAに纏わるゼネコンの贈賄と政治家との癒着の歴史を開発コンサルタントの女傑黒谷七波とゼネコンの裏資金調達人宮里一樹2人を軸に当時の世情を絡めて追って行けたのは同じ業界の一端に触れているわが身にとっても非常に勉強になった。海外のみならず日本でさえ、新幹線、東名高速や名神高速、黒部第四ダムなど日本のインフラの根幹をなす事業が海外諸国の国際援助によって建設されたことなど、恥ずかしながら本書で知った次第だ。
私自身一時期海外赴任をしていたが、この裏歴史を上っ面のみでしか知っていなかったあの頃は何とも初な人間だったことかと恥ずかしく思う。発展途上国のインフラを整備し、豊かな生活を提供する一方で、巨額のブラックマネーを動かすゼネコン。この清濁併せ持つ業界に対してぶれない軸を持って接するために、本書は良き参考書となった。
しかしこのような歪んだ社会の構図はいくら暴かれ、断ざれようとも新たな汚職の構図が描かれ、同様の巨額のリベートが動くシステムが気付かれていくのだろう。それは発展途上国を一見日本が食い物にしているように見えながら、その実欧米諸国に日本が食い物にされているのかもしれない。アジアの雄である日本、しかし欧米諸国はその悠久の歴史を持つゆえか、百年に跨って自国に有利に働く国際社会の絵を描くという。上には上がおり、そして民族や風習の違いから生まれる我々が想像だにしなかったカラクリが今後も、いや今そこに潜んでいるのかもしれない。またも服部真澄は社会の暗闇にメスを入れてくれた。そしてまたもやその読後感は苦かった。

1631中の書評を表示しています 461 - 480