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ミステリの祭典

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Tetchyさんの登録情報
平均点:6.74点 書評数:1617件

プロフィール| 書評

No.1317 10点 ボッコちゃん
星新一
(2017/05/07 22:34登録)
星新一珠玉のショートショート集。私が作者の作品に出会ったのは中学校の教科書だった。そこに収められていた「友好使節」が私を星作品の虜にした。
その作品は第2集の『ようこそ地球さん』に収録されているが、本書は作者が選出した物が収められているだけあって外れ無し。
現在を予見した内容と風刺に満ちている。敢えてお勧めは挙げないが読んで損なしの1冊です。


No.1316 8点 ラインの虜囚
田中芳樹
(2017/05/04 23:33登録)
2003年から16年に掛けて講談社が企画した少年少女たちのための小説シリーズ<ミステリーランド>。本書は田中芳樹がその企画のために書き下ろした1作であるが、まさに少年少女が胸躍らせる一級の娯楽冒険小説となっている。
なおタイトルはライン川に聳える塔に幽閉された人物を指しており、決して某SNSに依存している人々を指しているわけではない(笑)。

デュマが同行し、更に一人の少女に彼を含めた3人のお供。そのうち2人は剣と銃の達人とくれば、これは『三銃士』以外何ものでもない。本書ではデュマはまだ駆け出しの作家だが、本書には明確に書かれていないものの、彼が経験したコリンヌとの冒険をもとに『三銃士』を著した、というのが裏設定ではないだろうか。
更に18世紀に流布していた『鉄仮面』伝説にコリンヌ達の時代にドイツで話題となっていた「カスパール・ハウザー事件」など後のデュマの作品のモチーフや当時の謎めいた逸話も盛り込まれ、まさに学校では教えてくれない世界史の、面白いエピソードに溢れている。

とにかくどんどん物語は進んでいく。この流れるような冒険の展開はヴェルヌの一連の冒険小説を彷彿とさせる。田中氏特有の19世紀当時のフランスを筆頭にしたヨーロッパ各国の情勢、はたまた海を渡ったアメリカとカナダの状況などがほどなく平易な文章で織り込まれており、物語を読みながらそれらの知識が得られる贅沢な作りになっている。特徴的なのは通常このような蘊蓄を盛り込む際、田中氏は自身の見解を皮肉交じりに挿入するのだが、本書では読者対象が少年少女であるためか、そのような文章は鳴りを潜め、むしろ教科書に載っていない歴史の面白さを教える教師のような語り口であるのが実に気持ちいい。

大人の視点から読むとコリンヌを取り巻くラフィット、モントラシェの2人の無双ぶり、またミスマッチと思われた作家デュマもその巨体を生かしたアクションであれよあれよと敵と互角に立ち向かうことで少しも主人公たちが窮地に陥らないところに物足りなさを感じるものの、本書が収められた叢書<ミステリーランド>のコンセプトである、「かつて子どもだったあなたと少年少女のために」に実に相応しい読み物であった。子供の頃に嬉々として冒険の世界に浸った読書の愉悦に浸ることが出来た。
氏の未完結のシリーズ作品の今後が非常に愉しみになる、実に爽快な読み物だった。


No.1315 8点 デッド・ゾーン
スティーヴン・キング
(2017/05/01 23:05登録)
哀しき超能力者の物語。
本書は『シャイニング』を皮切りに特別な能力を持つ特定の人を扱った、つまりシャイン―かがやき―と称される能力を持つ者たちの系譜に連なる作品でもある。
主人公ジョン・スミスは脳の一部を損傷するほどの交通事故に遭い、約5年に亘る昏睡状態から目覚めてから能力が発動する。
彼はその能力ゆえに人から畏怖され、時には、いや往々にして関わりを持ちたくないと嫌悪の対象になる。

触れられるだけで自分の内面を丸裸にされるような思いがさせられ、周囲はジョンがサイコメトリーを発揮した後ではよそよそしい態度を取るようになる。また新聞記者はジョンの能力に興味深々であるものの、触れないでくれとはっきりと告げる。
更に連続殺人事件の犯人逮捕の援助を頼んだ保安官はジョンが発見した真相に嫌悪感を示し、その真実を認めようとせずに罵倒する。
卒業パーティーの会場が落雷によって大火事に見舞われることを予見し、パーティーの取り止めを促すが、人々はせっかくの晴れの席を台無しにされたと怒り、彼を非難する。そして実際に火事が起こるや否や、人々はジョンの能力に感謝するどころか畏怖し、あまつさえ実はジョンが超能力で着火したのではないかとまで云う―ここで「小説の『キャリー』みたいに」と自作を宣伝するのが面白い―。

人に触れることでその人に関する未来や過去をヴィジョンとして捉える能力はしかし本書でも述べられているように、現実世界では人間はことが事実になるまでは本当に信じる気になれないのが世の常であり、人々はことが起きた後でその正しさを心に刻み込む。従って未来を正確に予見できるジョンは常に異端者であり、場合によっては忌み嫌われる存在になるということだ。『ザ・スタンド』の舞台となった人類のほとんどが死に絶え、明日が見えない世界においてはこの能力を持つ者は導き手として崇められるが、では現実世界ではどうかというと逆に恐怖の存在となる。
苦悩する理解されない救世主の姿が本書では描かれているところに大きな特徴があると云えるだろう。

ただ唯一の救いは作者は決してジョン・スミスをただの狂えるテロリストとして片付けなかったことだ。あくまで孤独な、報われない世界の救世主として描かれる。世界を救おうとして殉じた男は最後の最後までたった一人、同じ高校教師の同僚だったセーラを愛していた愚直な青年だったことも胸に打つ。結婚後にセーラが自宅を訪れ、共に愛を交わし合った一度限りの夜はジョンには何ものにも代え難い思い出であったことだろう。

さて2016年アメリカは第45代大統領にドナルド・トランプ氏を選出し、そして2017年就任した。この実業家上がりの大統領が本書で後にアメリカ大統領となり、全面核戦争の道へアメリカを導くと恐れられたグレグ・スティルマンと重なって仕方がなかった。
現実問題としてトランプ大統領は北朝鮮に対して核戦争も辞さぬ挑戦的な態度を取り続けている。本書はもしかしたら今だからこそ読まれるべき作品かもしれない。彼らが選んだ大統領はスティルマンのように一種狂宴めいた騒ぎの中で選んだ過ちではなかったのか。1979年に書かれた本書は現代のまだ見ぬ過ちを予見した書になる可能性を秘めている。実は本書のタイトル“デッド・ゾーン(死の領域)”はスティルマン選出後のアメリカをも示唆しているのであれば、まさにそれは今こそ訪れるのかもしれないと背筋に寒気を覚えるのである。


No.1314 9点 このミステリーがすごい! 2017年版
雑誌、年間ベスト、定期刊行物
(2017/04/30 00:35登録)
今年は海外赴任中で海外で読むと容易に手に入れられない分、読書の欲求が普段よりも否応に増す思いがした。

さて今年の最大のサプライズは国内1位を大ベテラン、しかも本格ミステリ作家の竹本健治氏の『涙香迷宮』が飾ったことだろう。実にマニアックでコアなファンを持つ作家だから、この結果には本当に驚いた。内容は「いろは歌」による暗号物らしいが、48首もの数が収められているらしい。まさに究極の暗号小説で、逆にそんなマニアックな作品が1位を飾ることが『このミス』らしくもあり、またらしくなくもある。ポーの『黄金虫』の時代からミステリファンの暗号好きは変わらないということだろうか。またこの1位が呼び水となって氏の未文庫化作品がどんどん文庫化されるといいのだが。まずその皮切りとばかりに『かくも水深き不在』が文庫化されたのは素直に嬉しい。

今年は新顔の活躍が目立つ。常連陣は先に述べた作家以外では宮部みゆき氏、法月綸太郎氏、雫井脩介氏ぐらいである。この新人上位のランキングはこれまでの『このミス』の歴史でもあったことなので、単純に世代交代の時期にあるとは云えないだろう。ただ前年同様、選者たちの青田買い、新し物好きに拍車がかかっているような傾向もみられる。特にデビューして3年すれば顧みられない作家たちが多いと感じる。恐らくはフレッシュが故の新人の自由な着想が印象に残ったのであろうが、それでも作品は新人・ベテランの区別なく平等に評価してほしいものである。

さて海外作品は読後、絶対今年も1位と確信したドン・ウィンズロウの『ザ・カルテル』は惜しくも2位。この情念の傑作を見事蹴落としたのはアンデシュ・ルースルンド&ステファン・トゥンベリの『熊と踊れ』だった。この作品は各誌の年間ランキングでも絶賛されており、食指が思わず伸びてしまう作品である。
さてこの1位の作品は北欧ミステリであるがランキングを見ると今年は本書以外では11位のジョー・ネスボの『その雪と血を』の2作ぐらい。
逆に国内編とは打って変わって常連陣がランキングを占める。昨今の海外ミステリ翻訳事情の厳しさから厳選された作品が訳出されていることを考えると、これら常連陣は今なおクオリティの高い作品を出しているということになる。特にキングの3位はもう唖然という外ない。

その他本書の内容を観てみると、嬉しいのが座談会の復活だ。しかも覆面座談会だ。これがないとやはり『このミス』ではない。ただ往年に比べるとやや大人しめか。次回も開催されることを期待しつつ、もっと奔放にミステリを論じ、こき下ろし、そして賞賛してほしいものだ。
さらに海外短編オールタイム・ベスト選出も嬉しい企画だった。短編は案外読んでいるので選者たちの選出には既読作品が多いのも嬉しかった。しかしこれらオールタイム・ベスト選出は選者の黄金体験に特化されるため、どうしても古典が上位にランキングしがちだ。
その中で16位と18位に選出されたシーラッハの2作と19位のローレンス・ブロックとジェフリー・ディーヴァーのそれぞれ1作のランクインはそんな凝り固まった既成概念を吹き飛ばすほどの力を持った作品として高く評価されるべきだろう。ちなみにランクインしたディーヴァーの「三角関係」はホント傑作です。

今回は今までたびたび不満不平として挙げていた中身の薄さがどんどん解消され、また全く読まない「このミス」大賞受賞者の短編が排除されたことも嬉しい限り。ただ惜しむらくはジャンル別のコラムが2編しかなかったこと。コラムを次回はもっと増やして今回のような座談会に特別企画があるともう云うことなしなのだが、次回は30周年ということでその辺の充実ぶりを大いに期待しよう。


No.1313 8点 さよならドビュッシー
中山七里
(2017/04/23 22:39登録)
どんでん返しの王と云えば現代の海外ミステリ作家ならばジェフリー・ディーヴァーだが、日本では最近中山七里氏の名が挙がるようになった。実際「どんでん返しの帝王」という異名もついているらしい。本書はそんな彼がデビューするに至った第8回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作である。

まさに新人離れした筆致とストーリー展開であれよあれよという間に物語に引き込まれる。
本書に織り込まれたクラシックの曲調に対する描写が実に絵的で美しく、頭の中で音が奏でられるように錯覚する。私はクラシックには疎いのだが、それでも聞いたことのある題名から知らない曲名までもがなぜかその描写によって曲が自動再生させられていく。音の躍動感、またきらびやかさが粒のように空気に舞い、弾け、そして溶け合い、人々の耳に余韻として残る。それら一つ一つの音符やメロディに感じるのは中世・近代の名のある音楽家たちが譜面に込めた情熱や美、そして常に新しい技を生み出そうとする研鑽の姿だ。そしてそれらを譜面を通じて理解し、どうにか再現しようと、そしてそのメッセージと喜びを観客と共に分かち合おうとする演奏者の思いが神々しいほどに美しい描写に込められている。常に頭の中で音楽が奏でられ、思わず眼前にリサイタルが成されているかの如く錯覚に陥ってしまった。後でその題名でググって実際の曲を聴いてみると全く違っているのが常だが、中には合っているものもあったりして、この作家の表現力の豊かさを頭ではなく心で感じる思いがしたものだ。

そんな物語である本書はミステリというよりもなんとも清々しい青春小説、いやビルドゥングス・ロマンなのだろうという思いで読んだ。
しかし読み進めるうちに次のような作品だと思った。これは戦いの物語なのだ、と。
突然業火に包まれ、全身大火傷という重傷を負い、皮膚移植をされた一人の女子高生が、ピアノを通じて松葉杖を突き、5分以上の演奏ができない不具の身体でコンクールを勝ち抜く。社会の障害者に対する偏見と好奇の目に晒されながらも敢えてその逆境に挑み、岬洋介という素晴らしいピアニストを師に迎えて音楽という雄大に広がる宇宙を具現化させることに執着し、そしてその世界観を一人でも多くの聴者に届けようと苦心する一人の女子高生の戦いだ。
そしてまた彼女の師、岬洋介もまた戦う男だった。法曹界にその名を轟かせた凄腕の検事正を父に持ち、また自身も司法試験でトップ合格するほどの頭脳と適性を持ちながらピアノの夢を捨てられずに片耳が不自由とハンデを持ちながらも再び音楽家の道を歩み、新進気鋭のピアニストとなった男。ハンデを持つがゆえに世間の残酷さを知っているからこそ、障碍者の遥にも甘い言葉を掛けず、社会の厳しさを教え、その覚悟を常に問う。お坊ちゃん風の穏やかな風貌をしながらも心の中に太くて強い芯を持つ男だ。彼は音楽を究めんとしようとする者を後押しし、援助を拒まない。それが犯罪者であっても。
本書はこの2人の音楽の求道者がそれぞれ抱えた肉体的ハンデと戦い、そして世間と戦う物語なのだ。

これほどまでに犯人に対して憎しみどころか潔さや気持ちの良さを感じたミステリはない。本書に収められたどんでん返し最後の真相なのかもしれないが、本当のどんでん返しはこの気持ちよさにあると思う。


No.1312 8点 ブラック・アイス
マイクル・コナリー
(2017/04/23 00:40登録)
本書のテーマはずばり麻薬。メキシコで安価に生産される新種のドラッグ、ブラック・アイスを巡って殺害された麻薬課刑事の絡んだ事件にボッシュは挑む。

メキシコが麻薬に汚染され、警察や司法までもが麻薬マネーによって牛耳られていることは先に読んだウィンズロウの『犬の力』、『ザ・カルテル』で既に知識として織り込み済みなため、ボッシュが彼の地の捜査で苦心惨憺するのは想像がついた。

ボッシュという男は自分の人生にどんな形であれ関わった人間の死に対してどこかしら重い責任を負い、犠牲者を弔うかの如く、加害者の捜査に没頭する傾向がある。前作『ナイトホークス』ではかつての戦友のウィリアム・メドーズを殺害した犯人を執拗に追い立て、今回はたまたま自分の担当する事件の情報を得るために接触した麻薬取締班の警部が自殺に見せかけて殺害されたことで彼は仇を討たんとばかりに捜査にのめり込む。
それは多分彼がヴェトナム戦争を経験しているからだろう。昨日まで一緒に飯を食い、冗談を云い合っていた連中がその日には一瞬のうちに死体となって葬られる。一時たりとも肩を並べた相手が翌日も同じように肩を並べるとは限らない、そんな生と死が紙一重の世界を経験したからこそ、袖振り合うも多生の縁とばかりに彼は自分の身内が死んだかのように捜査にのめり込む。それが彼の流儀とばかりに。

驚くべきはこの2作目にして後の別のシリーズの主人公『リンカーン弁護士』ことミッキー・ハラーに纏わる過去が描かれていることだ。
またムーアの葬儀を行う会社はマカヴォイ・ブラザーズという。これも後に出てくるジャック・マカヴォイと何か関係があるのだろうか?シリーズをリアルタイムで読んでいたら多分このようなことには気付かなかっただろうから、シリーズが出た後で読んだ私は後のシリーズのミッシング・リンクに気付くという幸運に見舞われているとも云える。まだまだこのようなサプライズがあるだろうことは実に愉しみだ。

本書の題名となっているブラック・アイスは今回の事件のキーとなるメキシコから流入している新種の麻薬の名でもあるが、もう1つ意味がある。
ある人物から語られる“黒い氷”というエピソードなのだが、この“黒い氷”の警句が今回の事件の本質を見事に表している。

しかし今回の物語の中心となる人物2人はウィンズロウの『犬の力』、『ザ・カルテル』に登場するアート・ケラーとアダム・バレーラその物ではないか!もしかしたらウィンズロウは本書からあの2作の材を取ったのでは?とも思わされる。

ボッシュは今回もどうにか失業の危機を免れるが、さらに今後はもっと困難を極めそうな予感だ。個人の正義と組織の正義の戦いの中で彼が今後も自分の正義をどこまで貫いていけるのか。ボッシュが背負った業が重いゆえにこのシリーズが極上の物語になっているのがなんとも皮肉なのだが、それを期待してしまう私を初め、読者諸氏はなんともサディスティックな人たちの集まりだろうと今回改めて深く思った次第である。


No.1311 4点 人形は眠れない
我孫子武丸
(2017/03/30 23:50登録)
1991年に刊行された本書。開巻直後の舞台は銀座での立食パーティに2次会が六本木でのディスコ、そして三高の男子―ところで今“三高”なんて言葉が解る人がいるのだろうか。背が“高く”、“高”学歴、“高”収入の意味なのだが―、スポーツカーに乗って海辺の道をドライブし、プレゼントは赤いバラの花束にティファニーのネックレス―やはりオープンハートか?―と非常にバブルの香りが漂う内容である。当時の世相を表しているという意味では非常に貴重な資料にもなりうるだろう。

また時代が変われば価値観も変わるのか、睦月の恋愛感情について今の女性では一種理解しがたい部分が出てくる。
絵に描いたように三高の男性関口になぜか気に入られるようになった睦月。朝永のことを思っていることもあり、関口の誘いを断り続けるが、それでもしつこく関口はモーション―この言葉ももはや死語だなぁ―を掛けてくる。どうやって調べたか解らないアパートの電話番号に毎日の如く電話をし、なかなか逢えないと見るや近所と思えるスーパーの前の喫茶店に有休を採ってまで張り込みをして3日目にとうとう睦月を待ちかまえて捕まえる。自分なんかのためにそんな苦労を掛けたと睦月は関口に対して心が揺れるのだが、これは現代ではもはやれっきとしたストーカーだろう。現代の女性ならば気味悪がって身の危険を感じるはずであるのに、逆に睦月は心を動かれるのだ。これはもはや喜劇である。

このシリーズはあと1冊の短編集が最終巻となっている。作者もそれを意図してか人形を介して推理を披露する腹話術師という奇抜さが先行した朝永嘉夫のルーツも描いており、戯画的なキャラクターから友人の犯罪を機に二重人格を持つようになった哀しい過去を持つ一人の男として人間味を与えている。加えてそれまでただ何となく一緒に行動を共にするような感じでしかなかった妹尾睦月との関係もより踏み込んでいっている。
しかしこれらは云わば物語の縦の軸でありバックストーリーである。主軸となるミステリの部分、色々散りばめられた謎の部分が全く別々に進んで実に纏まりに欠けている。放火犯の疑いを抱かせたストーカー関口の設定と連続放火事件、朝永の重い過去などがそれぞれ独立したエピソードになっているだけで、交わらずそれぞれが別のベクトルを向いて物語が結末を迎えるだけだ。何とも散漫な印象しか残らなかった。

しかしさすがにバブル臭漂うこの物語は今読むとかなり辛いものがある。軽めのミステリであるが、バブル時代の浮ついた感じと朝永嘉夫と妹尾睦月という大の大人2人が腹話術人形の鞠小路鞠夫にいじられているだけであり、何か物語として心に残る芯がないのである。実『人形は眠れない』もそれまでのシリーズのタイトルと比べるとシリアスで意味深だが、読み終わった今、結局何を意味しているのかがよく解らない。

全てにおいてちぐはぐな印象で何か一つ突き抜けないミステリだった。


No.1310 7点 雪煙チェイス
東野圭吾
(2017/03/28 23:41登録)
感想一番乗り!の気分は本書に擬えると新雪のパウダースノーを滑降する気分のよう。

このシリーズも早や3作目。新たなシリーズとして定着しつつある。

このシリーズでは今まで『白銀ジャック』、『疾風ロンド』で見られたように読者にページを早く捲らせる疾走感を重視したストーリー展開が特徴的だが、本書も同様に冤罪の身である大学生の脇坂竜実と彼の協力者で友人の波川省吾の2人が警察の追手から逃れて無実の罪を証明する「女神」を一刻も早く捕まえなければならないというタイムリミットサスペンスで、くいくいと物語は進む。
ウェブでの感想を読むと謎また謎で読者を推理の迷宮に誘い込むのではなく、非常に解りやすい設定を敢えて前面に押し出してその騒動に巻き込まれる人々の有様を描いているこのシリーズに対する評価は賛否両論で、特にストーリーに深みがないと述べている意見も多々見られるが、それは敢えて東野氏がこのシリーズをスキーまたはスノーボードの疾走感をミステリという形で体感できるようにページターナーに徹しているからに他ならない。それを念頭に置いて読むと実に考えられたミステリであることが判る。単純な設定をいかに退屈せずに読ませるか、これが最も難しく、しかもこのシリーズでは最後の1行まで演出が施されていて飽きさせない。もっと読者は作者がどれだけ面白く読み進めるように周到に配慮しているか、その構成の妙に気付くべきである。東野氏は数日経ったら忘れてしまうけれど、読み終わった途端に爽快感が残るような作風を心掛けていることだと理解すべきである。

またただ軽いというわけではない。東野氏がスキー場を舞台にしたミステリを文庫書下ろしという形で安価に提供する目的として自らもスノーボードを嗜む氏が経営困難に瀕している全国のスキー場に少しでも客足が向くように読者に興味と関心を与えていることだ。

しかし何とも甘い結末である。ウェディングの代役を務めた根津と千晶がとうとう結婚を決意するのはシリーズの読者としては大団円としていいものの、まさか刑事の小杉が旅館の女将とのお付き合いを決意しているとは思わなかった。やはりゲレンデは恋の生まれる場所ということか。リゾートの恋は長続きしないから気を付けないと、などとついつい余計なことを思ってしまった。
根津と千晶の結婚でこのシリーズが終焉を迎えるかは解らないが、シリーズの舞台はあくまでスキー場。東野氏がウィンタースポーツを愛する限り続いていくような気がする。さて次はどんな事件がゲレンデで起こるのか。不謹慎ながらも次作を期待して待とうとしよう。


No.1309 10点 新・冒険スパイ小説ハンドブック
事典・ガイド
(2017/03/27 23:53登録)
これぞガイドブックと褒め称えたい。納得のヴォリュームと内容充実度である。そして何より編集に携わった人々の冒険・スパイ小説に対する愛に満ちている。

まず他のハンドブックと一線を画すのはガイドブックに載せるお勧めの作品を選出するのに、架空の冒険・スパイ小説全集全二十巻をつくる企画としているところにある。この内容が座談会形式で実に40ページに亘って掲載されているのだが、これが実に面白い。それぞれの選者の好みと拘りがぶつかり合い、時に敵に、時に味方につけて選考が白熱していく模様が描かれている。まさに冒険・スパイ小説好き、いや本好きには堪らない座談会であり、選者のそれぞれが至福の時を過ごしているのが行間から滲み出ている、ではなく、ドクドクと脈打つように流れ出ている。
選者は北上次郎氏を筆頭に霜月蒼氏、関口苑生氏、古山裕樹氏、吉野仁氏といずれも豊富な読書量を誇る冒険・スパイ小説好きで、その知識に裏打ちされた論理展開、時に北上氏の声の大きい好みの押し付けもありながら、どんどん全集が出来上がっていく様は実に面白い。他のハンドブックに見られなかった選考作を愉しみながら選ぶ様が描かれ、読んでいて実に心地よい。翻って他のハンドブックでは早川書房が自社の作品を選考したウェイトが大きかったため、実に恣意的な選び方だとWEB読者の声も多かったし、私も正直その感じは否めなかったが、本書においてはそれは皆無。今後ガイドブックを作る時は本書の形式を踏襲して、透明性のある選考を行ってほしいものだ。

そんな目利きの選者たちの選んだ逸品たちは恐らく前回のガイドブックにも挙げられたであろう定番中の定番もあれば、他のガイドブックでは見られない作品もふんだんに盛り込まれていてまさに百花繚乱。
更に後半は冒険小説好きの作家によるエッセイと作家論が220ページも占める充実ぶり。内容は各作品の解説の転用がほとんどであったが、それでもその作家自身の作品を俯瞰するのに実にいい資料となっている。

いやあ、やはりガイドブックはこうあるべきである。片手間で作るガイドブックには編者の愛が感じられず、そのようなガイドブックで読者層を広げようと思っている出版社こそが読者を呼び込む努力を怠ったがための現在の出版危機の諸悪の根源だと思われても仕方がなかったが、本書のように編者の愛情と血が通ったガイドブックが編まれていたことでその懸念はやや解消された。
前にも書いたがこれからのガイドブックは本書をお手本にして編んでほしいものだ。それが読み手の食指をそそり、色んな作品に手を伸ばしていこうとする意欲に繋がるのだから。


No.1308 8点 死のロングウォーク
スティーヴン・キング
(2017/03/26 23:11登録)
ロングウォーク。それは全米から選抜された14~16歳の少年100人が参加する競技。ひたすら南へ歩き続ける実にシンプルなこの競技はしかし、競技者がたった1人になるまで続けられる。歩行速度が時速4マイルを下回ると警告が発せられ、それが1時間に4回まで達すると並走する兵士たちに銃殺される。
最後の1人となった少年は賞賛され、何でも望むものが得られる。
この何ともシンプルかつ戦慄を覚えるワンアイデア物を実に400ページ弱に亘って物語として展開するキングの筆力にただただ圧倒される。

また印象的なのはこの生死を賭けたレースを通り沿いにギャラリーがいることだ。時に彼らは参加者を応援し、思春期の少年たちの有り余る性欲を挑発するかのようにセクシーなポーズを取る女性もいれば、違反行為と知りながら食べ物を振る舞おうとする者、家族で朝食を食べながら参加者に手を振る者もいる。さらに彼らが口にした携帯食の入れ物をホームランボールであるかのように記念品として奪い合う者、参加者が排便するところをわざわざ凝視して写真を撮る者もいる。死に直面した若い少年たちを前に実に牧歌的で自分本位に振る舞う人々とのこのギャップが実は現代社会の問題を皮肉に表しているかのようだ。
今目の前に死に行く人がいるのにもかかわらず、それを傍観し、または見世物として楽しむ人々こそが今の群衆だ。テレビを通して観る戦争、その現実味の無さにテレビゲームを観ているような離隔感、リアルをリアルと感じない無神経さの怖さがここに現れている。彼らはこの残酷なレースを行う政府を批判せずに年一度のイベントとみなしている時点でもはや人の生き死にに無関心であるのだ。

シンプルゆえに考えさせられる作品。解説によればこれを学生時代にキングは書いた実質的な処女作であるとのこと。だからこそ少年たちの心情や描写が実に瑞々しいのか。この作品が現在絶版状態であるのが非常に惜しい。復刊を強く求めたい。


No.1307 8点 ナイトホークス
マイクル・コナリー
(2017/03/24 23:08登録)
人が正しいことをしようとすることはこれほどまでに痛みを伴うことなのか。

マイクル・コナリーデビュー作にしてMWA賞の新人賞に輝いた今なお続くハリー・ボッシュシリーズ第1作の本書は読後そんな感慨が迫りくる物語だ。
一匹狼の刑事、ヴェトナム戦争のトラウマ、男と女のロマンス。このように本書を構成する要素を並べると実に典型的なハードボイルド警察小説である。しかしどことなく他の凡百の小説と一線を画するように思えるのはこのボッシュという人物に奥行きを感じるからかもしれない。

仕事の終わりに片持ち梁構造の、金持ち連中が住まう一軒家でハリウッドの景色を眺めながらジャズを流してビールを飲むことを至上の愉しみとしている。読書にも造詣が深く、自分の名前の由来が高名な画家であることがきっかけかもしれないが、絵画にもある程度の知識を持つ。ボッシュがエレノアと魅かれるのも彼女の自宅にある蔵書と彼女の家に掛かっている一幅の絵のレプリカが自分との精神的つながりを見出すからだ。こんな描写に単純なタフガイ以上の存在感を印象付けられる。

捜査が進むにつれて時に反目し合い、時に長年の相棒のように振る舞いながらボッシュとエレノアは長く2人でいる時間の中でお互いの人間性を確認し合い、そして個人的なことを徐々に話し出していく。2人での語らいのシーンは数多くあるが、その中で私は2人で強盗グループが襲撃すると目される富裕層相手の貸金庫会社に張り込んでいる時に車中で訥々と語り合うシーンが好きだ。その時の2人は長く流れる時の隙間を埋めるための会話を考えるような関係ではなくなり、沈黙が心地よくなっている関係となっている。張り込みの最中でお互いの人生の分岐点になった過去の出来事を語り、そしてその出来事で自らが思いもしなかった心情について述べられる。そして初めてその時にボッシュはエレノアを仕事上のパートナーから人生のパートナーとして意識し、その責任感に身震いする。一匹狼の敏腕刑事の男が連れ合いを意識したときに初めてそれを守っていく勇気と怖さを目の当たりにするのである。何とも味わい深いシーンだ。

元ヴェトナム兵士による銀行強盗が貸金庫に押し入ってからの攻防が実に写実的だ。それはまさにスローモーションで自ら誤った推理でボッシュを監視していたルイスが無数の弾幕に死の舞踏を踊らされ、ガラスを打ち破って落下する様、事態の急変に呆然と佇むクラークが凶弾にて同行していた会社の支配人を道連れに倒れ行く様、その銃火の中をボッシュが必死に応戦し、強盗の1人に手傷を負わせる様が描かれる。本書のクライマックスと云っていいシーンだ。

本書に登場する人々に全て共通するのはヴェトナム戦争だ。かの戦争で普通の生活が出来なくなり、犯罪に関わる生活を繰り返す者、混乱に乗じて一攫千金を得る者、またそれに一役買って社会的地位を得た者、その渦中に取り込まれて無残な死を遂げた者、愛する者を喪った者、もしくはそんな過去を振り払い、己の正義を貫く者。十人十色のそれぞれの人生が交錯し、今回の事件に収束していったことが判る。

本書の原題は“Black Echo”。これはボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いを示している。何とも緊迫した題名だ。

翻って邦題の“ナイトホークス”とは画家エドワード・ホッパーが書いた一幅の絵のタイトル“夜ふかしする人たち”を指す。街角のとある店で女性と一緒にいる自分を一人の自分が見ているという絵だ。この絵のレプリカが捜査のパートナーとなるFBI捜査官エレノア・ウィッシュの自宅に飾られており、しかもボッシュ自身も好きな絵であった。そしてその訪問がきっかけとなって2人が急接近する。

つまり原題ではボッシュがヴェトナム戦争の暗い過去との対峙と、かつて戦友だったウィリアム・メドーズとの、忌まわしい戦争と一緒に潜り抜けた男への鎮魂が謳われているのに対し、邦題では事件を通じてパートナーとなるボッシュとエレノア・ウィッシュとの新たな絆を謳っているところに大きな違いがある。
そしてこのパートナーの名前がウィッシュ、つまり“望み”であることが象徴的だ。邦訳ではしきりに「ボッシュとウィッシュは」と評され、決して「ハリーとエレノアは」ではない。それはまだお互いがファーストネームで呼び合うほど仲が接近していないことを示しているのだろうが、一方でボッシュの捜査には、行動には常に“望み”が伴っているという風にも読み取れる。原文を当たっていないので正解ではないのかもしれないが恐らくは“Bosch and Wish ~”とか“Bosch ~ with Wish”という風に表記されているのではないだろうか。そう考えると本書は下水と呼ばれる最下層のハリウッド署に埋もれる“堕ちた英雄”の再生の物語であり、その望みとなるのがエレノアというように読める。つまりエレノア・ウィッシュこそはハリー・ボッシュの救いの女神であったのだ。だからこそ邦題はエレノアとボッシュの関係を象徴する一幅の絵のタイトルを冠した、そういう風に考えるとなかなかに深い題名だと云える。

その後に刊行される作品が『ブラック・アイス』に『ブラック・ハート』であることを考えると統一性を持たせるために『ブラック・エコー』とすべきだろうが、私は邦題の方が本書のテーマに合っていると思う。最後のエピローグがそれを裏付けている。

しかしだからこそ真相の辛さが響くのだが。

いわゆるハリウッド映画やドラマ受けしそうな典型的な展開を見せながらも、実はそのベタな展開こそが物語の仕掛けである強かさこそが数多ある刑事小説と、ハードボイルド小説と一線を画す要素なのかもしれない。とにかく作者コナリーが本書を著すに当たって徹底的に同種の小説のみならずエンタテインメントを研究しているのがこのデビュー作からも推し量れる。

さて今なお続くハリー・ボッシュサーガの幕開けだ。じっくり味わっていこう。


No.1306 6点 殺人鬼
綾辻行人
(2017/03/12 23:26登録)
まさに王道のスプラッター・ホラー。綾辻氏のスプラッター・ホラー好きはつとに有名だが、その趣味を前面に満遍なく筆に注ぎ込んだのが本書だ。

まずこの手の連続殺人鬼による殺戮劇にありがちなセックス中の殺人で幕を開けるところが笑える。しかしその笑いも束の間でその死にざまの惨たらしさに思わず目を背けたくなる。
都合15ページ亘って描写される殺人鬼による殺戮ショーの凄まじさはまさに戦慄ものだ。木杭で下半身同士を打ち付けられ、身動き取れないまま、男は首を斧で刈られ、女はまず左足を太腿から切断された後、左腕を肘から切られ、そして首を刈られるという凄惨さ。その描写が実にリアルで凄まじい。

その後も綾辻氏による殺戮ショーは続く。この徹底した残酷さはなかなか書けるものではない。生半可な想像力ではこれほど凄まじい殺人方法が浮かばないからだ。それを着想し、生々しい描写で執拗に描き続ける綾辻氏。本書を書くとき、彼の中に一己の殺戮マシーンが心に宿っていたのではないだろうか。つまり作者自身が殺人鬼になり切っていた。そう思わせるほどの怖さと迫真さに満ちている。

ただ最後のサプライズは果たして必要だったのか、甚だ疑問だ。典型的なスプラッター・ホラーを綾辻行人が書くわけがない、何かあるはずだと期待して読んだのだが、その期待が最後で萎んでしまった。むしろ逆にシンプルに徹底したB級ホラーぶりを愉しむが如く、存分に筆を奮ってほしかったくらいだ。最後の真相を読むとなおさらそう思う。


No.1305 8点 ミステリーの書き方
評論・エッセイ
(2017/03/12 00:02登録)
100の作家があれば100通りの創作作法あり。その言葉を裏付けるかのように本書ではミステリ・エンタテインメント作家43名によるそれぞれの創作の秘訣が開陳される。

自身の創作作法を書いた作家の中にはなるほどと思えるものもあれば、逆に全く参考にならないような単なるエッセイもどきの物もあり、玉石混淆といったところ。

例えば東野圭吾氏の場合は1つのあるテーマから派生して色んな物語を紡ぎ出す様が書かれている。犯罪者を身内に持った者の物語が『手紙』であり、犯罪者によって身内を殺された者の物語が『さまよう刃』、そして犯罪者が自分の身の内から生まれる経過を語った物語が『殺人の門』といった具合に犯罪者というキーワードからそれぞれの立場を当てはめることでそこから想像の翼を広げ、作品へと繋げる様が書かれている。

あと最も有効な手段として乙一氏が挙げたシナリオ理論は実に合理的かつ明快で実に読み応えがあった。この方法に倣えば確かに小説が書けそうだなと私でも思わず錯覚した。

また文体については北方謙三氏の話が実に深かった。文体を削ぎ落すことこそが文学であり、どこまで極限的に辿り着けるかを目指している。しかしこれはプロが更なる高みに行くための書き方だろうが実に興味深く読めた。

またリアリティを強調するのが共通の主張であることも興味深かった。福井晴敏氏はやはりまず人間を描くことが大事だと説き、山田正紀氏は複数のジャンルを跨ぐときはリアリティのレベルを統一することが大事と述べる。船戸与一氏の場合はさらに特殊でまず自分の身を小説の舞台においてその空気を、匂いを感じ、そしてそこにいる人間たちと交流することで自らに人を住まわせる。更に一切メモも写真もとらず、自らの肌に、脳裏に焼き付かせてそれを筆に落とし込むのだという。

また官能小説家の神崎京介氏まで載せられているのには驚いた。しかも女性のことを官能的に書くことが出来るだけのかなりの経験を積んでいると胸を張って云えるとまで書いてある。いやはやこれは皆が参考に出来るアドバイスではないなぁ。

本書のエッセイの中にはインタビュー形式のものもあり、それが実に内容、特に作品に対する内容の掘り下げが深く、興味深かった。特に宮部みゆき氏の『魔術はささやく』のプロットを23のシーンに分解して語る北上次郎氏のインタビューは実に明快で面白く読めた。しかしそんな北上氏の深読みに対して宮部氏自身がそんな風に考えるのかと他人事のように眺めているのが非常に面白いところではあったが。
更に北上氏は大沢在昌氏へのインタビューで『新宿鮫』シリーズ各作品を詳細に分析し、シリーズの変化と主人公鮫島の変化を事細かに述べているが、これもまた大沢氏自身が他人事のように聞き手に回っているのが実に面白く、終いには北上氏が自分の理想とする新宿鮫の展開を大沢氏に強いるまでになる。これはなんとも苦笑せざるを得ないが、逆にこれは書評家の重鎮である北上氏だからこそできる業だろう。

さて本書を読んで、これで私も一丁ミステリでも書くか、などと錯覚するのならば書かない方が無難だろう。それは結局技術に頼ったどこかで読んだ物語になるに過ぎないからだ。
寧ろ本書の最後に掲げられている各作家の作家志望者に向けるアドバイスに多く書かれているように、書きたいものがないのなら書くべきではないというのが正解だろう。
己自身の身の内から湧き出てくる創作意欲に身を任せ、その熱情をペンに、いや現代ならばキーボードに叩きつけるかの如く、指を走らせる、それくらいの意気込みがないと作家にはなれないだろう。
本書はそんな人たちに対するプロの作家たちからのささやかなアドバイスであると受け取るべきだ。「とりあえず」ここに書かれていることに倣って書いてみました、では到底無理だし、よしんば作品をこの世に出すことになったとしてもその後が続かないだろう。

そういう意味で本書の題名は実にいやらしい。これを読めば誰もが簡単にミステリーが書けると勘違いする人間を容易に生み出す甘く危険な罠だからだ。ここに書いているのは確かに「ミステリーの書き方」だが、作家になる方法ではない。そして作家になるには方法はなく、一生続けていくという覚悟がいることをこの本の中から読み取ることが在野の作家志望者にとって肝要だ。

そう、逆に本書は自分が作家になった時にこれから生み出す物語をどのようなヴァリエーションで著すか、その方法を模索するのには最適な書物だろう。ここには43人の作家による創作作法が書かれている。つまり少なくとも43種類の方法で物語を作ることが出来る。しかしそれにはまず己の中にある創作意欲という宝の珠を外へと向かうほどに大きく育てていかねばなるまい。それを無くして物語を、小説を書くことは仏作って魂入れずに過ぎない。

綾辻氏も本書で最後に述べている。作家志望者へのアドバイスとして
「『ミステリーの書き方』のようなHow To本は当てにしてはならない」
と。


No.1304 7点 シャドウ・ストーカー
ジェフリー・ディーヴァー
(2017/03/10 23:28登録)
キャサリン・ダンスシリーズ3作目の本書は休暇中に旅先で遭遇する友人のミュージシャンのストーカー事件に巻き込まれるという異色の展開だ。従って彼女の所属するカリフォルニア州捜査局(CBI)モンテレー支局の面々は登場せず、電話で後方支援に回るのみ。彼女の仲間は旅先フレズノを管轄とするフレズノ・マデラ合同保安官事務所の捜査官たちだ。しかしリンカーン・ライムシリーズも3作『エンプティ―・チェア』ではライムが脊髄手術で訪れたノースカロライナ州を舞台にした、勝手違う地での事件を扱っていたので、どうもシリーズ3作目というのはディーヴァーではシリーズの転換期に当たるようだ。

さてストーカー行為は現在日本でも問題になっており、それが原因で女優の卵や若い女性が殺害される事件が最近になっても起こっている。一番怖いのはストーカーが自己中心的で相手を喜ばそうと思ってその行為を行っており、しかも彼ら彼女らが決して他人の意見や制止を認めようとしないことだ。自分の信条と好意に狂信的であり、しかもそれを悪い事だと思ってない。実に質の悪い犯罪者と云えよう。
そして作中にも書かれているようにストーカーのようにあることに対して妄信的に信じて疑わない人々、また嘘を真実のように信じて話す人々には人間噓発見器のダンスが得意とするキネシクスが通用しない。

余談になるが、このキャサリン・ダンスシリーズは彼女の得意とするキネシクスがほとんど機能せずに物語が進む。つまりダンスは自身のシリーズになるとただの優秀な捜査官に過ぎなくなり、“人間噓発見器”としての特色が全く生きないのだ。一方のリンカーン・ライムシリーズがライムの精密機械のような鑑定技術と証拠物件から真相を見破る恐るべき洞察力・推理力を売り物にしているのとは実に対照的である。

また本書ではディーヴァーお得意の音楽業界を扱っているところもポイントだ。ディーヴァー自身が元フォーク歌手を目指していたことはつとに有名で、本書で挿入されるカントリー歌手ケイリーの歌詞ではその片鱗を覗かせている。
またこのケイリー・タウンだが、私の中では彼女をテイラー・スウィフトに変換して読んでいた。特にケイリーがカントリー・ミュージック協会の最優秀賞を受賞したときのある事件のエピソードに関してはテイラーの2009年のグラミー賞に纏わるカニエ・ウェストとの騒動を彷彿させる。そうするとまさにぴったりで、後で調べたところ、作者自身彼女をモデルにしているとの記述があり、大きく頷いてしまった。

ただやはり題材が古いなぁという印象は拭えない。今更ストーカーをディーヴァーが扱うのかという気持ちがある。たまたま今まで扱ってきた犯罪者にストーカーがなかったから扱ったのかもしれないが、今までの例えばウォッチ・メイカーやイリュージョニストを経た今では犯罪者のスケールダウンした感は否めない。遅すぎた作品と云えよう。

読了後、ディーヴァーのHPを訪れ、本書に収録されているケイリー・タウンの楽曲を訊いてみた。いやはや片手間で作ったものではなく、しっかり商業的に作られており、驚いた。書中に挿入されている歌詞から抱く自分でイメージした楽曲と実際の曲がどれほど近しいか確認するのも一興だろう。個人的には「ユア・シャドウ」は本書をけん引する重要な曲なだけあって、イメージ通りの良曲だったが、かつて幼い頃に住んでいた家のことを歌った感傷的な「銀の採れる山の近くで」がアップテンポな曲だったのは意外だった。物語と共に音楽も愉しめる、まさに一粒で二度おいしい作品だ。稀代のベストセラー作家のエンタテインメントは文筆のみに留まらないのだなぁと大いに感心した。


No.1303 5点 灰色の部屋
イーデン・フィルポッツ
(2017/02/27 23:18登録)
「人を殺す部屋」という怪奇じみた設定は古典ミステリではよく用いられたテーマで、代表的なのはカーター・ディクスンの『赤後家の殺人』だろう。しかしミステリアスな設定ゆえに逆に真相が判明すると、なんとも肩透かしを覚えるのも事実である。
そんな謎を英国文壇の大御所フィルポッツが扱ったのが本書だ。

過去に2人の死人を出した灰色の部屋。一見ごく普通の部屋だが、宿泊した人物はどこにも外傷がないまま、事切れた状態で発見される。そしてその話を聞いた娘の花婿が周囲の制止を振り切って泊まって絶命し、更に捜査に訪れた名刑事は白昼堂々、部屋の調査中にたった1時間ほどで絶命する。更に花婿の父親は神への強い信仰心を武器に立ち向かうがこれも敢え無く同じ末路に至る。立て続けに3人も亡くなる驚きの展開である。

この怪異現象に対して文学畑出身のフィルポッツらしく、単なるミステリに収まらない記述が散見される。
特に息子トーマス・メイを灰色の部屋で喪った牧師セプティマス・メイが人智を超えた神の御手による仕業であるから、信仰心の厚い自分が部屋で一晩祈りを捧げて邪悪な物を一掃しようと提案してからの館主ウォルター卿と係り付けの医師マナリングとの押し問答が延々17ページに亘って繰り広げられる。
その後も信仰心の権化の如きメイ牧師と合理的解決を試みる刑事もしくは館主の甥のヘンリーとの問答が繰り広げられる。

オカルトかミステリか?その両軸で揺れながら物語は進み、結論から云えばミステリとして一人のイタリア人の老人によって合理的に解決がされる。

正直この真相には驚いた。上に書いたように往々にして怪奇めいた謎は大上段に構える割には真相が陳腐な印象を受けるが、本書は歴史の因果が現代に及ぶもので、しかもそれらの経緯もそれまでの物語で館主の人となりと一家の歴史でさりげなく説明が施されている。まさにこれは犯人不在の「人を殺す部屋」だ。さすが文豪フィルポッツの手になるものだと感心した。

しかしそれでも訳がひどすぎた。およそ会話としてしゃべるような言葉でない文章でほとんど占められており、しばしば何を云っているのか解らず何度も読み返さなければならなかったし、また眠気も大いに誘った。さらに誤字も散見された。そんな記述者の些末なミスや技量不足で本書の評価が貶められていることを考えるとなんとも哀しい。この悪訳ゆえに今まで長らく絶版だったのではないか。奥付を見ると1985年に3版が出て以来の復刊である。実に30年以上も絶版状態にあったわけだ。
できれば新訳で読みたかった。


No.1302 8点 祈りの幕が下りる時
東野圭吾
(2017/02/26 23:10登録)
加賀恭一郎の父親との確執は彼が初登場した『卒業 雪月花殺人ゲーム』の時点で明らかになっており、その原因が仕事に没頭し、家庭を顧みない父の母親の仕打ちに対する嫌悪であったことは書かれていた。しかし父隆正との確執については書かれるものの、離婚した母親のことはほとんど何も書かれなかった。そして今回初めて離婚して消息知れずとなった加賀の母親、田島百合子に焦点が当てられた。

謎めいた母親の過去と滋賀の1人の女性の東京での不審死。この何の関係のない事件が16年の歳月を経て交錯する。決して交わることのないと思われた2つの縦糸が1人の謎めいた男性を横糸にして交わっていく。実質的な捜査担当者である捜査一課の刑事で加賀の従兄の松宮と図らずも母の過去の男と対峙することになった加賀。彼らが事件の細い繋がりを1本1本解きほぐしていくごとに現れる意外な人間関係。次々と現れる新事実にページを捲る手が止まらない。この牽引力はいささかも衰えず、まさに東野圭吾の独壇場だ。

また『天空の蜂』で当時ほとんどの人が注目していなかった原発の恐ろしさを声高に説き、その18年後、改めて東野圭吾は原発の恐ろしさを別の側面で説く。身元不詳の誰もが簡単に原発で働けていたという怖さと彼ら原発従事者が一生抱える後遺症の恐ろしさを。
実は私にはここに書かれなかったもう1つの真実があると思うのだ。なぜ加賀の母親田島百合子は亡くなったのか?その死因については語られない。彼女の後見人であった宮本康代の話で綿部俊一と付き合うようになってから体調を崩すようになり、店も休みがちになった、そしてとうとう彼女は衰弱死してしまうとだけ書かれている。

そして加賀シリーズには他の東野作品にない、一種独特の空気感がある。自身の肉親が事件にも関わっているからか、従弟の松宮も含め、家族という血と縁の濃さ、そして和らぎが物語に備わっているように感じるのだ。だからこそ物語が胸に染み入るように心に残っていく。
この和らぎは加賀が抱えていた父隆正への蟠りが『赤い指』にて解消されたからではないだろうか。彼は家族の中の問題に踏み込むことこそが事件を真に解決するのだと『赤い指』で述べる。そして父に逢わずに看護師の金森登紀子を介して将棋を打つ。それが彼が父と最後にした「対話」だった。
そう、加賀恭一郎シリーズが持っている独特の空気感にはどこか昭和の匂いが漂うのだ。人形町、水天宮、日本橋、そして明治座。日本橋署に“新参者”として赴任してきた加賀が相対してきたのは過ぎ去りし昭和の風景、忘れ去られようとしている情緒や風情だ。そして今回の事件の発端となった角倉博美の人生を変えるようになった事件が起きたのは30年前。まだぎりぎり昭和だった時代だ。このシリーズはまだ地続きで残っている昭和の残滓を加賀が自分の家族のルーツと共に探る物語となっている。

本庁の捜査一課に戻って加賀はまたどんな事件と遭遇し、どんな人生とまみえるのか。いやそれに加え、父の死を看取った金森登紀子を1人の女性として、伴侶として迎えるのか。そしてその時の加賀は?次作への興味は尽きることがない。暗い事件が多いから、哀しい人々が多いから、父と母の死を乗り越えた加賀の明るい未来に希望を託そう。


No.1301 9点 ザ・スタンド
スティーヴン・キング
(2017/02/25 22:24登録)
全5巻。総ページ2,400ページ弱を誇る超大作である本書は1978年に発表されたが、当時約400ページもの分量を削られた形で刊行された。そしてキングは再び1990年に拡大版として当時削られた分を復刻させ、発表したのが本書である。その際にカットされた全てを加えたものではなく、内容を吟味して加味したとのこと。しかし内容にはほとんど手を加えていないというのがキングの弁。但し内容を見ると1990年を舞台にしている辺り、時代に関しては修正が加えられているようだ。

神は細部に宿るという言葉がある。本来はドイツの建築家ミース・ファンデル・ローエが云った言葉で、何事も細部まで心を込めて作れという意味であるが、それを実践するかの如く、物語の創造主であるキングもまたディテールを積み重ねていく。キングは作家もまた神であることを自覚し、本書の登場人物たちを丹念に描く。
これだけの分量を誇るだけあって込められた物語は5作分以上の内容が込められている。両親を亡くし愛する妻をも結婚18か月で亡くした孤独な男。しがないギタリストがひょんなことから自分の作った曲が全米でヒットしていき、人生を狂わせつつある男。町でも男たちが振り返るほどの美人の娘が妊娠してしまい、母親との軋轢に悩む。聾唖の青年がアメリカの放浪の旅の途中で助けられた保安官によって保安官代理を務める。マフィアのヤクを奪い、逃走中のチンピラが立ち寄ったガソリンスタンドで反撃に遭い、ブタ箱に押し込められる。色んな犯罪に名を変えて関わってきた“闇の男”。
1冊の本が書けるほどの個性的な登場人物たちが軍が開発したウィルスによって崩壊したアメリカを舞台に会する。


キングは本書でもたらしたのは複雑化してしまい、もはや何が悪で善なのか解らない世界を一旦壊してしまうことで人々が善と悪に分かれて戦う、この単純な二項対立の図式だ。そう、これは世紀末を目前にした人類による創世記なのだ。善対悪、天使対悪魔の全面戦争の現代版なのだ。

こんな長い物語を読み終えた今、胸に去来するのはようやく読み終わったという思いではなく、とうとう終わってしまったという別れ難い思いだ。
2,400ページ弱の物語が長くなかったかと云えば噓になるが、それでもいつしか彼らは私の胸の中に住み、人生という旅を、戦いを行っていた。

実はまだまだ語りたいことが沢山ある。なにせ色々な物が包含され、またそのままの状態で終わった物語であるからだ。ナディーン・クロスに寄り添っていたジョー、即ちリオ・ロックウェイのこと、本書で登場する玉蜀黍畑は短編「トウモロコシ畑の子供たち」でも意志ある存在として不気味なモチーフで使われていたが、アメリカ人、いやキングにとって玉蜀黍畑とは何か特別な意味を持っているのだろうか、等々。
しかしそれはおいおい解ってくるのかもしれない。今後の壮大なキングの物語世界に浸ることでそれらの答えを見つけていこう。


No.1300 2点 CANDY
鯨統一郎
(2017/01/22 23:19登録)
本書は祥伝社の企画で全て書下ろしの400円文庫のうちの1冊として刊行されたもの。
いわゆるバトル系の物語なのだが、本書はそんなストーリーよりも鯨氏の言葉遊びを楽しむのが正しい読み方だろう。

とにかく言葉遊びが全編に亘って横溢しており、正直に云って3つの世界のうち1つを救うための戦いというメイン・ストーリーはもはやどうでもいいくらいで、鯨氏が次から次へと繰り出すナンセンスギャグを楽しむのが吉だろう。しかし読者自身を現在住んでいる地球とは異なるパラレルワールドに引き込むために二人称叙述を選択したようだが、あまり成功しているとは云えない。なぜなら主人公の主観がかなり物語に入っているからだ。つまり「あなた」という名前の主人公の三人称叙述のようにしか読めなかった。

しかし前回読んだ『千年紀末古事記伝ONOGORO』でもそうだったが、下ネタ、特にセックスネタが鯨氏の作品にはよく登場する。本書でも必ず出てくる女性はグラマラスかつ美人で、物語の分岐点では意味もなくセックスが介在する。安っぽい三文小説を読んでいるかのようだ。
駆け出し作家が出版社からの執筆依頼に全て応えていた頃に書かれた走り書き小説の類というのは酷評過ぎるかもしれないが、正直何を書きたかったのか作者のテーマがはっきりと見えない作品だった。


No.1299 7点 ビブリア古書堂の事件手帖
三上延
(2017/01/20 00:06登録)
私は熱心なライトノヴェル読者ではないのでそれほど同ジャンルの作品を数多く読んでいる訳ではないのだが、色んなメディアから見聞きした昨今の業界事情から考えるとキャラクター設定としては決して突飛なものではなく、ミステリを中心に読んできた私にしてもすんなり物語に入っていけた。
人見知りが激しいが、いざ書物のことになると饒舌になり、明敏な洞察力を発揮する若き美しい古書店主というのは萌え要素満載だが、いわゆる“作られた”感が薄いのが抵抗なく入っていけた点だろう。また古書店主というのが本読みたちの興味をそそる設定であることもその一助であることは間違いでないだろう。

しかし扱っているテーマは古書というディープな本好きには堪らないが普段本を読まない中高生にはなんとも馴染みのない世界であるのになぜこれほどまでに本書が受け入れられたのだろうか。
こういった古書ミステリに登場する古書収集狂は最後のエピソードにしか出てこないことが大きな特徴か。
本に纏わる所有者の知られざる過去が判明する第1話。その文庫しかないある特徴を上手く利用した、本自体を物語のトリックとして使用した第2話。夫が大事にしていた本を突然売ることになったことでそれまで隠されていた過去が判明する第3話と、1~3話まではいわゆる本を中心に生きてきた狂人たちは一切出てこらず、我々市井の人々が物語の中心となっていることが特徴的だ。従って古書を扱っていながらも所有者の歴史を本から紐解くという趣向がハートウォーミングであり、決してディープに陥っていない。

しかしそれでも1話目から作者自身が恐らく古書、もしくは書物に目がないことは行間から容易に察することができる。従って作者は話を重ねるにつれて読者を徐々にディープな古書の世界へと誘っていることが判ってくる。例えば1,2話では現存する出版社の本であるのに対し、3話目からは青木文庫、砂子屋書房と今ではお目に掛かれない出版社の書物を扱ってきており、そこからいわば古書ミステリのメインとも云える収集狂に纏わる事件となっていく。
しかしそれでも作者自身もこれほどまでに世間に受け入れられるとは思っていなかっただろう。なぜならば本書にはシリーズを意図する巻数1が付せられてなく、また話も五浦の出生に纏わる過去が最後で一応の解決が成され、更に五浦がビブリア古書堂を去るとまでなっていることからも本書で一応の幕が閉じられるようになっていたことが判る。
しかしその作者の予想はいい方向に裏切られ、順調に巻を重ねる人気シリーズとなっている。これはビブリオミステリ好きな私にとっても嬉しいことだ。

ラノベという先入観で手に取らなかった自分を恥じ入る次第だ。このシリーズがたくさんの人々に古書の世界への門戸を開くためにバランスよく味付けされた良質なミステリであることが今回よく解った。次作も手に取ろうと思う。栞子さん目当てでなく、あくまで良質なビブリオミステリとして、だが。


No.1298 8点 月世界旅行
ジュール・ヴェルヌ
(2017/01/18 23:58登録)
未知なる大陸であったアフリカ大陸への気球での冒険、地の底への冒険を経て次のヴェルヌの冒険の舞台はなんと月。19世紀当時、まだまだ世界には見知らぬ世界があったにも関わらず、ヴェルヌは早い時期に興味は地球から飛び出し、月へと向いていた。これはまさに慧眼すべきことだろう。
そして月へと行く方法としてヴェルヌが夢想したのはなんと大型の大砲によって人を巨大な砲弾に乗せて月に向けて発射するという物。恐らく誰しもが見たことあるのではないだろうか。白黒映像で大砲を発射した途端に微笑んだ擬人化した月の顔面に砲弾が突き刺さっている映像を。あの原型が本書である。
もうこの件だけで本書が実に荒唐無稽な空想読物であると一蹴される方々もいるだろうが、それは早計というものだ。実は本書には後に米ソが本格的に月へ人間を送り込む月着陸競争を繰り広げた宇宙開発プロジェクトに盛り込まれたアイデアがふんだんに盛り込まれているのだ。いや当時の宇宙開発プロジェクトにこのヴェルヌの小説が実に参考になっていることが解説によって書かれている。

現在ヴェルヌの月世界旅行物として現在流布しているのは創元SF文庫から出ている『月世界へ行く』だが、実はそれは続編でその前日譚が本書である。現在では1999年に出版されたちくま文庫版が最新だが、既に絶版であるため、ヴェルヌの月世界物は創元SF文庫の作品が唯一と思われており、実は私もそうだった。

本書が他の文庫と一線を画すのは[詳注版]、つまり詳細な注釈が加えられている点だ。これはウォルター・ジェームス・ミラーによって編纂されたヴェルヌの完訳本を元本としているためだが、この注釈がその名の通り、詳しい、いや詳しすぎる。
何せ注釈を書き加えるために上下二段組みで本文が構成されており、上段が本文、下段が注釈となっているが、この注釈が時に本文の上段を侵食するほど長すぎるのだ。これには思わず笑ってしまった。
しかしその緻密な解説はしかしこの21世紀において実に有益な資料となっている。特にヴェルヌの先見性については瞠目に値することばかりである。

実現可能性と荒唐無稽性を兼ね備えたハイブリッド小説。これは全てのSF小説に当て嵌まるコピーだろうが、その先駆者たるヴェルヌが当時考えうる月へ、いや宇宙への旅の方策を盛り込んだ彼の類稀なる想像力が結集した小説である。
しかし本書はバービケイン一行が月に到達したかどうかが不明のまま物語は閉じられる。その結果は続編『月世界へ行く』に持ち越されているのだ。なんとも気になる幕引きではないか。続編への期待が否応でも高まる結末。ヴェルヌはやはりただの科学好きの作家ではない。読者を喜ばせ、興奮させる術を熟知したエンタテインメント作家であることが本書からも判る。実際この続編は当時3年の歳月を経て日の目を見ることにな
ったようだ。その間の読者のフラストレーションとはいかがだったことだろう。しかし今ではすぐに読めることができる。そういう意味では幸せなのだが、逆に続編が手に入りやすく、その前編に当たる本書が絶版でもはやその存在すら忘れられている状況は何とも悲しい限りだ。知る人ぞ知る作品ではなく、ぜひとも復刊してほしい。本書には19世紀の知識人が月への旅を実現させるために当時の知識と科学を総動員した男たちとロマンが詰まっているのだから。

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