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ミステリの祭典

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Tetchyさんの登録情報
平均点:6.73点 書評数:1603件

プロフィール| 書評

No.1303 5点 灰色の部屋
イーデン・フィルポッツ
(2017/02/27 23:18登録)
「人を殺す部屋」という怪奇じみた設定は古典ミステリではよく用いられたテーマで、代表的なのはカーター・ディクスンの『赤後家の殺人』だろう。しかしミステリアスな設定ゆえに逆に真相が判明すると、なんとも肩透かしを覚えるのも事実である。
そんな謎を英国文壇の大御所フィルポッツが扱ったのが本書だ。

過去に2人の死人を出した灰色の部屋。一見ごく普通の部屋だが、宿泊した人物はどこにも外傷がないまま、事切れた状態で発見される。そしてその話を聞いた娘の花婿が周囲の制止を振り切って泊まって絶命し、更に捜査に訪れた名刑事は白昼堂々、部屋の調査中にたった1時間ほどで絶命する。更に花婿の父親は神への強い信仰心を武器に立ち向かうがこれも敢え無く同じ末路に至る。立て続けに3人も亡くなる驚きの展開である。

この怪異現象に対して文学畑出身のフィルポッツらしく、単なるミステリに収まらない記述が散見される。
特に息子トーマス・メイを灰色の部屋で喪った牧師セプティマス・メイが人智を超えた神の御手による仕業であるから、信仰心の厚い自分が部屋で一晩祈りを捧げて邪悪な物を一掃しようと提案してからの館主ウォルター卿と係り付けの医師マナリングとの押し問答が延々17ページに亘って繰り広げられる。
その後も信仰心の権化の如きメイ牧師と合理的解決を試みる刑事もしくは館主の甥のヘンリーとの問答が繰り広げられる。

オカルトかミステリか?その両軸で揺れながら物語は進み、結論から云えばミステリとして一人のイタリア人の老人によって合理的に解決がされる。

正直この真相には驚いた。上に書いたように往々にして怪奇めいた謎は大上段に構える割には真相が陳腐な印象を受けるが、本書は歴史の因果が現代に及ぶもので、しかもそれらの経緯もそれまでの物語で館主の人となりと一家の歴史でさりげなく説明が施されている。まさにこれは犯人不在の「人を殺す部屋」だ。さすが文豪フィルポッツの手になるものだと感心した。

しかしそれでも訳がひどすぎた。およそ会話としてしゃべるような言葉でない文章でほとんど占められており、しばしば何を云っているのか解らず何度も読み返さなければならなかったし、また眠気も大いに誘った。さらに誤字も散見された。そんな記述者の些末なミスや技量不足で本書の評価が貶められていることを考えるとなんとも哀しい。この悪訳ゆえに今まで長らく絶版だったのではないか。奥付を見ると1985年に3版が出て以来の復刊である。実に30年以上も絶版状態にあったわけだ。
できれば新訳で読みたかった。


No.1302 8点 祈りの幕が下りる時
東野圭吾
(2017/02/26 23:10登録)
加賀恭一郎の父親との確執は彼が初登場した『卒業 雪月花殺人ゲーム』の時点で明らかになっており、その原因が仕事に没頭し、家庭を顧みない父の母親の仕打ちに対する嫌悪であったことは書かれていた。しかし父隆正との確執については書かれるものの、離婚した母親のことはほとんど何も書かれなかった。そして今回初めて離婚して消息知れずとなった加賀の母親、田島百合子に焦点が当てられた。

謎めいた母親の過去と滋賀の1人の女性の東京での不審死。この何の関係のない事件が16年の歳月を経て交錯する。決して交わることのないと思われた2つの縦糸が1人の謎めいた男性を横糸にして交わっていく。実質的な捜査担当者である捜査一課の刑事で加賀の従兄の松宮と図らずも母の過去の男と対峙することになった加賀。彼らが事件の細い繋がりを1本1本解きほぐしていくごとに現れる意外な人間関係。次々と現れる新事実にページを捲る手が止まらない。この牽引力はいささかも衰えず、まさに東野圭吾の独壇場だ。

また『天空の蜂』で当時ほとんどの人が注目していなかった原発の恐ろしさを声高に説き、その18年後、改めて東野圭吾は原発の恐ろしさを別の側面で説く。身元不詳の誰もが簡単に原発で働けていたという怖さと彼ら原発従事者が一生抱える後遺症の恐ろしさを。
実は私にはここに書かれなかったもう1つの真実があると思うのだ。なぜ加賀の母親田島百合子は亡くなったのか?その死因については語られない。彼女の後見人であった宮本康代の話で綿部俊一と付き合うようになってから体調を崩すようになり、店も休みがちになった、そしてとうとう彼女は衰弱死してしまうとだけ書かれている。

そして加賀シリーズには他の東野作品にない、一種独特の空気感がある。自身の肉親が事件にも関わっているからか、従弟の松宮も含め、家族という血と縁の濃さ、そして和らぎが物語に備わっているように感じるのだ。だからこそ物語が胸に染み入るように心に残っていく。
この和らぎは加賀が抱えていた父隆正への蟠りが『赤い指』にて解消されたからではないだろうか。彼は家族の中の問題に踏み込むことこそが事件を真に解決するのだと『赤い指』で述べる。そして父に逢わずに看護師の金森登紀子を介して将棋を打つ。それが彼が父と最後にした「対話」だった。
そう、加賀恭一郎シリーズが持っている独特の空気感にはどこか昭和の匂いが漂うのだ。人形町、水天宮、日本橋、そして明治座。日本橋署に“新参者”として赴任してきた加賀が相対してきたのは過ぎ去りし昭和の風景、忘れ去られようとしている情緒や風情だ。そして今回の事件の発端となった角倉博美の人生を変えるようになった事件が起きたのは30年前。まだぎりぎり昭和だった時代だ。このシリーズはまだ地続きで残っている昭和の残滓を加賀が自分の家族のルーツと共に探る物語となっている。

本庁の捜査一課に戻って加賀はまたどんな事件と遭遇し、どんな人生とまみえるのか。いやそれに加え、父の死を看取った金森登紀子を1人の女性として、伴侶として迎えるのか。そしてその時の加賀は?次作への興味は尽きることがない。暗い事件が多いから、哀しい人々が多いから、父と母の死を乗り越えた加賀の明るい未来に希望を託そう。


No.1301 9点 ザ・スタンド
スティーヴン・キング
(2017/02/25 22:24登録)
全5巻。総ページ2,400ページ弱を誇る超大作である本書は1978年に発表されたが、当時約400ページもの分量を削られた形で刊行された。そしてキングは再び1990年に拡大版として当時削られた分を復刻させ、発表したのが本書である。その際にカットされた全てを加えたものではなく、内容を吟味して加味したとのこと。しかし内容にはほとんど手を加えていないというのがキングの弁。但し内容を見ると1990年を舞台にしている辺り、時代に関しては修正が加えられているようだ。

神は細部に宿るという言葉がある。本来はドイツの建築家ミース・ファンデル・ローエが云った言葉で、何事も細部まで心を込めて作れという意味であるが、それを実践するかの如く、物語の創造主であるキングもまたディテールを積み重ねていく。キングは作家もまた神であることを自覚し、本書の登場人物たちを丹念に描く。
これだけの分量を誇るだけあって込められた物語は5作分以上の内容が込められている。両親を亡くし愛する妻をも結婚18か月で亡くした孤独な男。しがないギタリストがひょんなことから自分の作った曲が全米でヒットしていき、人生を狂わせつつある男。町でも男たちが振り返るほどの美人の娘が妊娠してしまい、母親との軋轢に悩む。聾唖の青年がアメリカの放浪の旅の途中で助けられた保安官によって保安官代理を務める。マフィアのヤクを奪い、逃走中のチンピラが立ち寄ったガソリンスタンドで反撃に遭い、ブタ箱に押し込められる。色んな犯罪に名を変えて関わってきた“闇の男”。
1冊の本が書けるほどの個性的な登場人物たちが軍が開発したウィルスによって崩壊したアメリカを舞台に会する。


キングは本書でもたらしたのは複雑化してしまい、もはや何が悪で善なのか解らない世界を一旦壊してしまうことで人々が善と悪に分かれて戦う、この単純な二項対立の図式だ。そう、これは世紀末を目前にした人類による創世記なのだ。善対悪、天使対悪魔の全面戦争の現代版なのだ。

こんな長い物語を読み終えた今、胸に去来するのはようやく読み終わったという思いではなく、とうとう終わってしまったという別れ難い思いだ。
2,400ページ弱の物語が長くなかったかと云えば噓になるが、それでもいつしか彼らは私の胸の中に住み、人生という旅を、戦いを行っていた。

実はまだまだ語りたいことが沢山ある。なにせ色々な物が包含され、またそのままの状態で終わった物語であるからだ。ナディーン・クロスに寄り添っていたジョー、即ちリオ・ロックウェイのこと、本書で登場する玉蜀黍畑は短編「トウモロコシ畑の子供たち」でも意志ある存在として不気味なモチーフで使われていたが、アメリカ人、いやキングにとって玉蜀黍畑とは何か特別な意味を持っているのだろうか、等々。
しかしそれはおいおい解ってくるのかもしれない。今後の壮大なキングの物語世界に浸ることでそれらの答えを見つけていこう。


No.1300 2点 CANDY
鯨統一郎
(2017/01/22 23:19登録)
本書は祥伝社の企画で全て書下ろしの400円文庫のうちの1冊として刊行されたもの。
いわゆるバトル系の物語なのだが、本書はそんなストーリーよりも鯨氏の言葉遊びを楽しむのが正しい読み方だろう。

とにかく言葉遊びが全編に亘って横溢しており、正直に云って3つの世界のうち1つを救うための戦いというメイン・ストーリーはもはやどうでもいいくらいで、鯨氏が次から次へと繰り出すナンセンスギャグを楽しむのが吉だろう。しかし読者自身を現在住んでいる地球とは異なるパラレルワールドに引き込むために二人称叙述を選択したようだが、あまり成功しているとは云えない。なぜなら主人公の主観がかなり物語に入っているからだ。つまり「あなた」という名前の主人公の三人称叙述のようにしか読めなかった。

しかし前回読んだ『千年紀末古事記伝ONOGORO』でもそうだったが、下ネタ、特にセックスネタが鯨氏の作品にはよく登場する。本書でも必ず出てくる女性はグラマラスかつ美人で、物語の分岐点では意味もなくセックスが介在する。安っぽい三文小説を読んでいるかのようだ。
駆け出し作家が出版社からの執筆依頼に全て応えていた頃に書かれた走り書き小説の類というのは酷評過ぎるかもしれないが、正直何を書きたかったのか作者のテーマがはっきりと見えない作品だった。


No.1299 7点 ビブリア古書堂の事件手帖
三上延
(2017/01/20 00:06登録)
私は熱心なライトノヴェル読者ではないのでそれほど同ジャンルの作品を数多く読んでいる訳ではないのだが、色んなメディアから見聞きした昨今の業界事情から考えるとキャラクター設定としては決して突飛なものではなく、ミステリを中心に読んできた私にしてもすんなり物語に入っていけた。
人見知りが激しいが、いざ書物のことになると饒舌になり、明敏な洞察力を発揮する若き美しい古書店主というのは萌え要素満載だが、いわゆる“作られた”感が薄いのが抵抗なく入っていけた点だろう。また古書店主というのが本読みたちの興味をそそる設定であることもその一助であることは間違いでないだろう。

しかし扱っているテーマは古書というディープな本好きには堪らないが普段本を読まない中高生にはなんとも馴染みのない世界であるのになぜこれほどまでに本書が受け入れられたのだろうか。
こういった古書ミステリに登場する古書収集狂は最後のエピソードにしか出てこないことが大きな特徴か。
本に纏わる所有者の知られざる過去が判明する第1話。その文庫しかないある特徴を上手く利用した、本自体を物語のトリックとして使用した第2話。夫が大事にしていた本を突然売ることになったことでそれまで隠されていた過去が判明する第3話と、1~3話まではいわゆる本を中心に生きてきた狂人たちは一切出てこらず、我々市井の人々が物語の中心となっていることが特徴的だ。従って古書を扱っていながらも所有者の歴史を本から紐解くという趣向がハートウォーミングであり、決してディープに陥っていない。

しかしそれでも1話目から作者自身が恐らく古書、もしくは書物に目がないことは行間から容易に察することができる。従って作者は話を重ねるにつれて読者を徐々にディープな古書の世界へと誘っていることが判ってくる。例えば1,2話では現存する出版社の本であるのに対し、3話目からは青木文庫、砂子屋書房と今ではお目に掛かれない出版社の書物を扱ってきており、そこからいわば古書ミステリのメインとも云える収集狂に纏わる事件となっていく。
しかしそれでも作者自身もこれほどまでに世間に受け入れられるとは思っていなかっただろう。なぜならば本書にはシリーズを意図する巻数1が付せられてなく、また話も五浦の出生に纏わる過去が最後で一応の解決が成され、更に五浦がビブリア古書堂を去るとまでなっていることからも本書で一応の幕が閉じられるようになっていたことが判る。
しかしその作者の予想はいい方向に裏切られ、順調に巻を重ねる人気シリーズとなっている。これはビブリオミステリ好きな私にとっても嬉しいことだ。

ラノベという先入観で手に取らなかった自分を恥じ入る次第だ。このシリーズがたくさんの人々に古書の世界への門戸を開くためにバランスよく味付けされた良質なミステリであることが今回よく解った。次作も手に取ろうと思う。栞子さん目当てでなく、あくまで良質なビブリオミステリとして、だが。


No.1298 8点 月世界旅行
ジュール・ヴェルヌ
(2017/01/18 23:58登録)
未知なる大陸であったアフリカ大陸への気球での冒険、地の底への冒険を経て次のヴェルヌの冒険の舞台はなんと月。19世紀当時、まだまだ世界には見知らぬ世界があったにも関わらず、ヴェルヌは早い時期に興味は地球から飛び出し、月へと向いていた。これはまさに慧眼すべきことだろう。
そして月へと行く方法としてヴェルヌが夢想したのはなんと大型の大砲によって人を巨大な砲弾に乗せて月に向けて発射するという物。恐らく誰しもが見たことあるのではないだろうか。白黒映像で大砲を発射した途端に微笑んだ擬人化した月の顔面に砲弾が突き刺さっている映像を。あの原型が本書である。
もうこの件だけで本書が実に荒唐無稽な空想読物であると一蹴される方々もいるだろうが、それは早計というものだ。実は本書には後に米ソが本格的に月へ人間を送り込む月着陸競争を繰り広げた宇宙開発プロジェクトに盛り込まれたアイデアがふんだんに盛り込まれているのだ。いや当時の宇宙開発プロジェクトにこのヴェルヌの小説が実に参考になっていることが解説によって書かれている。

現在ヴェルヌの月世界旅行物として現在流布しているのは創元SF文庫から出ている『月世界へ行く』だが、実はそれは続編でその前日譚が本書である。現在では1999年に出版されたちくま文庫版が最新だが、既に絶版であるため、ヴェルヌの月世界物は創元SF文庫の作品が唯一と思われており、実は私もそうだった。

本書が他の文庫と一線を画すのは[詳注版]、つまり詳細な注釈が加えられている点だ。これはウォルター・ジェームス・ミラーによって編纂されたヴェルヌの完訳本を元本としているためだが、この注釈がその名の通り、詳しい、いや詳しすぎる。
何せ注釈を書き加えるために上下二段組みで本文が構成されており、上段が本文、下段が注釈となっているが、この注釈が時に本文の上段を侵食するほど長すぎるのだ。これには思わず笑ってしまった。
しかしその緻密な解説はしかしこの21世紀において実に有益な資料となっている。特にヴェルヌの先見性については瞠目に値することばかりである。

実現可能性と荒唐無稽性を兼ね備えたハイブリッド小説。これは全てのSF小説に当て嵌まるコピーだろうが、その先駆者たるヴェルヌが当時考えうる月へ、いや宇宙への旅の方策を盛り込んだ彼の類稀なる想像力が結集した小説である。
しかし本書はバービケイン一行が月に到達したかどうかが不明のまま物語は閉じられる。その結果は続編『月世界へ行く』に持ち越されているのだ。なんとも気になる幕引きではないか。続編への期待が否応でも高まる結末。ヴェルヌはやはりただの科学好きの作家ではない。読者を喜ばせ、興奮させる術を熟知したエンタテインメント作家であることが本書からも判る。実際この続編は当時3年の歳月を経て日の目を見ることにな
ったようだ。その間の読者のフラストレーションとはいかがだったことだろう。しかし今ではすぐに読めることができる。そういう意味では幸せなのだが、逆に続編が手に入りやすく、その前編に当たる本書が絶版でもはやその存在すら忘れられている状況は何とも悲しい限りだ。知る人ぞ知る作品ではなく、ぜひとも復刊してほしい。本書には19世紀の知識人が月への旅を実現させるために当時の知識と科学を総動員した男たちとロマンが詰まっているのだから。


No.1297 7点 報復
ブライアン・フリーマントル
(2017/01/04 01:09登録)
本書の裏表紙の概要にはシリーズ第9作というのは実は間違いで本書は10作目に当たる。9作目の“Comrade Charlie”は未訳なのだ。そしてどうもそれがいわゆるそれまでのシリーズの総決算的な内容で、正直本書からはシリーズ第2部とばかりにキャラクターも刷新されている。

まずチャーリーのよき理解者であったイギリス情報部々長のアリスター・ウィルソン卿は2度の心臓発作により部長職を退き、ピーター・ミラーが上司となり、さらに直接の上司として女性のパトリシア・エルダーがチャーリーの指導に当たる。
また相手側も実際に解体されたソ連からロシア連邦となっており、まだ政治的な混沌の中での国際的対応が強いられている様子。そしてシリーズ1作目から登場していたチャーリーの宿敵ベレンコフが既に失脚しているという状況。第8作ではベレンコフがチャーリーと縁のあるナターリヤを使って罠を仕掛けようと不穏な空気を纏った中で物語が閉じられるので、いきなりのこの展開には面食らった。なぜ第9作が訳されなかったのだろうか。これは大罪だなぁ。

そんなソ連が解体された時代1993年に発表された本書の舞台は中国。まだ西欧諸国にとって未知で理解不能、しかも明らかに容貌が違うためにどこに行くのにも目立ってしまう西洋人にとって自分たちの原理原則論が全く通じないワンダーランドである中国に潜伏しているフリーランスのエージェントに中国の公安の者と思われる人物より嫌疑がかけられているとの情報を得て、チャーリーが育てた新任のジョン・ガウアーが単身中国に乗り込む。

情報を扱う任務に携わっている人々は自らの保身、また昇進という野心のために上司の身辺を調査することが英露両国とも共通しているのが面白い。日本でも上位職の人たちの人事に目を配り、どこのポストに空きが出来、そしてそこに収まった時に誰が上司になっているのかと想像を巡らすサラリーマンはいるものだが、本書に出てくる登場人物がどこまでのリアリティを持っているかは解らないけれど、常に虚実の入り混じった情報を相手にし、国際政治を左右する状況に置かれている任務に携わっている人々はこのように自分の職場での立場を少しでも優位にするために上司のプライヴェートまで踏み込んでいくのかもしれない。いやはや人間不信にたやすく陥る職業である。

ただ今まで東ドイツ、旧ソ連と東側の大敵を相手にしてきたフリーマントル作品が、東西ドイツ統合、旧ソ連の解体と歴史的転換期を迎えたことで確固たる敵を見失っているような感じが行間から感じられた。
今回フリーマントルが選んだ新たな敵は中国であるのだが、この全く風貌の異なるアジアの国で西洋人がスパイ活動をすることの難しさが述べられるだけで小説としてはなんとも実の無さをストーリー展開に感じざるを得ない。つまりこの中身の薄さは作者自身が中国の情勢と文化に造詣があまり深くないからではないだろうか。
それを裏付けるように本書の前後に書かれたのは米国のFBI捜査官とモスクワ民警の警察官が手を組む新シリーズカウリー&ダニーロフがあり、本書の次のチャーリー・マフィンシリーズ『流出』はロシアを再び舞台を移して西側への核流出を阻止するために米露の情報部と手を組むという、自らの得意領域に再び戻っているからだ。
この後も中国を舞台にした作品が見受けられないことを考えるとやはり冷戦後の安定期に移りつつある世界情勢でスパイ小説の書き手たちが題材に迷っていたが、フリーマントルも例外ではなかったということのようだ。

何はともあれ、ようやく未訳作品を除いて本書にて全てのチャーリー・マフィンシリーズを読むことが出来た。2006年1月25日に第1作の『消されかけた男』を手に取って足掛け約11年。実に長い旅であった。『魂をなくした男』以降のシリーズ作品が出るかは作者の年齢との相談にもなるだろうが、とことん最後まで付き合っていくぞ!


No.1296 7点 トウモロコシ畑の子供たち
スティーヴン・キング
(2017/01/01 23:52登録)
キング初の短編集『ナイト・シフト』の後半に当たる本書は前半にも増してヴァラエティに富んだ短編が揃っている。

未来に賭けて超高層ビルの手摺を一周回ることに同意した男。
奇妙な雰囲気を漂わせた芝刈り業者の男。
98%の確率で禁煙が成功する禁煙を専門に扱う会社。
常に自分の望むものを叶えてくれる不思議な学生。
バネ足ジャックと呼ばれた連続殺人鬼。
生い茂ったトウモロコシ畑を持つゴーストタウン。
幼い頃、共に干し草の上にダイブして遊んだ美しい妹の末路。
恋人に会いに行く幸せそうな男。
豪雪で忌まわしき村に迷い込んだニュージャージーから来た家族。
死の間際にいる母親を看る息子の胸に去来するある思い。

前巻も含めて共通するのは奇妙な味わいだ。特段恐怖を煽るわけではないが、どこか不穏な気持ちにさせてくれる作品が揃っている。
またクーンツ作品とは決定的に違うのは災厄に見舞われた主人公が必ずしもハッピーエンドに見舞われないことだ。生じた問題が解決されることはなく、また主人公が命を喪うこともざらで、救いのない話ばかりだ。
それは―どちらかと云えば―ハッピーエンドに収まった作品でも同様だ。何かを喪失して主人公は今後の人生を生きることになる。人生に何らかの
陰を落として彼ら彼女らは今後も生きていくことを余儀なくされるのだ。

個人的ベストは「禁煙挫折者救済有限会社」か。煙草は案外アメリカでは根深い社会問題になっているみたいで『インサイダー』なんて映画が作られたほどだ。作中にも書かれているが、刑務所で煙草の配給を廃止しようとしたら暴動が起きただの、昔ドイツで煙草が手に入りにくくなったときは貴族階級でさえ、吸い殻拾いをしていただのと中毒性の高さが謳われている。
そんな代物を辞めさせるには家族を巻き込まないことには無理!というのが本書に含まれたブラック・ジョークだ。しかし本書の面白いところはその手段が喫煙者に単なる脅しではなく、行使されるものであるところだ。まさか夫の喫煙のために妻がさらわれないだろうと思いきやさらわれるし、また禁煙による体重増加を禁止するために妻の小指を切断するというのも単なる脅しかと思いきや最後の一行に唖然とさせられる。つまり本書は煙草を辞めることはこれぐらいしないとダメだと痛烈に仄めかしているところに妙味がある。しかし本当にこんな会社があったら怖いだろうなぁ。

次点では「死のスワンダイブ」を挙げたい。これはとにかく田舎で農家を営む両親の下で育った兄弟の、納屋での、70フィートの高さから干し草の上にダイブする禁じられた遊びのエピソードがなんとも胸を打つ。そしてそのダイブで起きた事故で兄の咄嗟の機転によって奇跡的に助かった美しい妹が大人になるにつれて辿る不幸な人生とのコントラストがなんとも哀しい。そして彼女が最後に頼ったのはあの時助けてくれた兄だった。もう人生に落胆した彼女はまた兄が助けてくれることを信じてもう飛ぶしかなかったのだ。でもそんなことはありはしない。そんな切なさが胸を打った。

また前巻と合わせて本書でも『呪われた町』の舞台となったジェルサレムズ・ロットを舞台にした短編が収められている。2編は外伝と異伝のような合わせ鏡のような作品だが、どうやら本書においてこの忌まわしい町に纏わる怪異譚については打ち止めのよう。その後も書かれていないことを考えるとキングが特段この町に愛着を持っているというよりも恐らくはアマチュア時代から書き溜めていたこの町についてのお話を全て放出するためだけに収録されたのではないだろうか。

本書と『深夜勤務』は『キャリー』でデビューするまでに書き溜められていた彼の物語を世に出すために編まれた短編集だと考えるのが妥当だろう。とするとこのヴァラエティの豊かさは逆にキングがプロ作家となるためにたゆまなき試行錯誤を行っていたことを示しているとも云える。単純に好きなモンスター映画やSF、オカルト物に傾倒するのではなく、あらゆる場所やあらゆる土地を舞台に人間の心が作り出す怪物や悪意、そして人は何に恐怖するのかをデビューするまでに色々と案を練ってきたことが本書で解る。つまり本書と『深夜勤務』には彼の発想の根源が詰まっているといえよう。特に『呪われた町』の舞台となるジェルサレムズ・ロットを舞台にした異なる設定の2つの短編がそのいい証拠になるだろう。あの傑作をものにするためにキングはドルイド教をモチーフにするのか、吸血鬼をモチーフにするのか、いずれかを検討し、最終的に吸血鬼譚にすることを選んだ、その発想の道筋が本書では追うことが出来る。そんなパイロット版を惜しみなく提供してくれる本書は今後のキング作品を読み解いていく上で羅針盤となりうるのではないかと考えている。

しかし本書を手に入れるのには実に時間と手間が掛かった。なぜなら絶版ではないにせよ置かれている書店が圧倒的に少ないからだ。2016年現在でも精力的に新たな作風を開拓しているこの稀有な大作家が存命中であるにも関わらず過去の作品が入手困難であるのはなんとも残念な状況だ。既に絶版されている諸作品も含めて今後どうにか状況改善されることを祈るばかりである。


No.1295 3点 千年紀末古事記伝 ONOGORO
鯨統一郎
(2016/12/25 23:51登録)
さほど古事記、日本書紀に詳しくない私でも昔話等で語られる天照大御神が天岩戸に閉じこもる話、ヤマタノヲロチ討伐の話、因幡の白兎の話についてはある程度知識があったが、本書ではそれらが微妙に異なっている。
しかし物語はどんどん進む。どんどん神々は誕生し、どんどん時代が過ぎ去っていく。

ただ本書は歴史ミステリよりも別の目的で書かれたのではないだろうかと推察する。
稗田阿礼によって語られる神々の営みはほとんど全てが男女との交合(まぐわ)いによって構成されているからだ。
日がな一日、来る日も来る日もセックスに明け暮れ、子を産んではまたセックスと、交合ってばかりだ。次第に神も余計な物を敢えてつけて伊邪那岐が寝ている最中に伊邪那美と交合う。更に伊邪那美は自分の生んだ神々とも交合い、更に子を産む。

私は神の物語と称して一種のポルノ小説を書くことが鯨氏の本当の狙いだったのではないかというのが感想である。

問題作?いやいや鯨氏特有の壮大な冗談話でしょう。しかも物凄い量の知識と情報を収集した上で語られるジョークだ。この作品の登場人物を全て確認したとき、鯨氏がこの冗談話に費やした労力に恐れ入ることだろう。これぞバカミスの真髄とも云うべき作品か。労力の割には評価に繋がらないところが非常に残念ではあるのだが。


No.1294 2点 墜ちていく僕たち
森博嗣
(2016/12/23 23:53登録)
連作短編集のような体裁を持った短編集だが、共通しているのは食べると性別が入れ替わるという不思議な効用のあるインスタントラーメンというアイテムだけだ。ただだからといって男女のジェンダーの在り様とかそもそも男とは?女とは?といった大上段に構えたような性差論が繰り広げられるわけではなく、全て当事者の一人称叙述で森氏独特のくだらない独り言のような話し方で物語の顛末が語られる。

正直なんだかよく解らないと云うのが率直な感想だ。
なんだかよく解らないと云うのは結末はあるもののそこにオチが特段あるわけではない。ヤマ無し、オチ無し、意味無しの三拍子揃った「やおい本」なのだ。

中で一つ気になったのは「どうしようもない私たち」の最後の一行だ。これは全国の和子さんに失礼だろう。謝罪すべきだ。

これをまた商業ベースで出した集英社もまたスゴイ。ということはそれを買った私もまたスゴイということか。
タイトル同様、墜ちきるところまで墜ちたのが本書なのか。ここまで墜ちれば、後は浮上するのみである。次作以降に期待しよう。


No.1293 8点 闇に香る嘘
下村敦史
(2016/12/20 23:23登録)
やはり本書の最たる特徴は盲目の主人公が私立探偵張りに兄の素性調査を行うところだ。主人公和久の一人称叙述で書かれているため、目が見えないことによる情報量の不足がそのまま読者にとっても情報量の不足に繋がり、いつも読んでいるミステリと比べて非常に居心地の悪さを感じた。これが本書における最大の売りであることは解るものの、どうにもまどろっこしさを感じた。
また物語の節目節目に挿入される、匿名の人物から送られる点字で書かれた俳句の内容も暗鬱なものばかり。しかも主人公の身に覚えのないことばかりと、終始落ち着かない気分で読み進めることになった。
そんな居心地の悪さや違和感は物語の最終局面に一気に開放される。

上に書いたように盲目の主人公による調査行は非常にまどろこっしく、また中国残留孤児が現在抱える問題もまた重い物ばかりで正直読んでいる間は辟易する部分もあった。しかし最後になってみると作者が実に上手くその設定を活かして、盲目であるがゆえに成り立つトリックを巧みに織り交ぜてあることに気付かされる。

本書の核となるミステリはずばり“家族”である。戦時中の日本政府の政策で満州に移住し、新天地で生きていく希望を与えられた日本人が敗戦によって逆に祖国に帰ることが困難になり、帰りうる者と帰られない者とが引き裂かされた悲劇が生じた家族に生まれた謎だ。いわば戦争秘話とも云うべき物語だったが、現在なお日中の間に横たわる中国残留孤児問題の中に実際に本書のような話が実在するのかもしれない。

戦後日本はまだ終わりぬ。そんな感慨を抱いた作品だった。


No.1292 8点 嘘に抱かれた女
ブライアン・フリーマントル
(2016/12/16 22:47登録)
これは東西ドイツ統一という時代の変換期に、自らの恋愛を翻弄されたなんとも哀しい女の物語だ。
仕事は優秀で見た目も美人だが、既に38歳となり結婚適齢期は過ぎてしまったキャリアウーマンであるエルケ・マイヤー。昔付き合った男との間に生まれた自閉症の娘ウルスラを精神病院に預け、毎週日曜日に訪問しては絶望に暮れる日々を送っている。従って結婚願望はおろか、もう長らく男性との火遊びからも遠ざかっている、いわゆる日干し女だ。
独身生活が長いせいで単調な生活の繰り返しに安定を見出している。決まった手順で行動し、いつもの場所に駐車し、いつもの店のいつもの席でいつものメニューを食べ、いつもの時間に出勤する。食事中に愛車が傷つけられていないか不安で周囲を確認し、何もないことで安堵する。これら一連の“儀式”を重んじ、そこに安心を覚える、半ば強迫観念に縛られたような性格の持ち主である。

そんな彼女に目を付けたKGBが放ったセックス・スパイ(昨今ではもはやハニー・トラップでこの存在が珍しくなくなってきたが。ちなみに男性のセックス・スパイは“カラス”と呼ばれ、女性のそれは“ツバメ”と呼ぶらしい)オットー・ライマンはかつて東ドイツへのスパイ作戦で成功を収めたリーダー、ユッタ・ヘーンの部下であり、そして現在は夫で結婚後もKGBで働いている。かつての部下と上司の関係から妻ユッタはオットーに対して常に精神的優位性を示し、夫が服従することを好んでいる。オットーはそれに表向きはそのことに不満を示していないが、時折公私に亘って妻が見知らぬことを知ることで優位に立つことに喜びを感じている。

KGBの狙いはベルリンの壁が崩壊した後の東西ドイツ統一に向けてドイツ側、とりわけ西ドイツの中枢であるボン政府が社会主義側だった東ドイツとどのように協調していくのかを探ることだった。特にNATOとワルシャワ条約機構との結合を試みて新たなる政治的脅威になるのかが焦点であった。
特に物語の中盤以降、ソ連側がオットーに渡した3ページ以上に亘る膨大な調査内容のリストは―真実かどうかわからないが―当時のソ連がかつて第二次大戦で猛威を奮ったドイツの復活をいかに恐れていたかを示唆している。

この2人が出逢うのはなんと180ページを過ぎたあたりから。物語としてはおよそ1/3辺りである。それまでは延々とエルケの日常とオットー・ライマンの作戦準備が語られる。

一流のスパイとして女性を籠絡させる術を知り尽くしたオットー・ライマンの内面心理描写は女性心理、いや女性に限らずあらゆる人の心理を自由に操る術が豊富に織り込まれている。じっくり対象を観察し、あらかじめイメージを作り上げ、そのイメージがするであろう振る舞いや受け答えを想定し、対応する。そして自分が望む方向に導くのだ。
エルケの心の隙に付け入るべく、彼女の厳格なまでの単調な生活の繰り返しによる心の安定を切り崩して刺激を与えていく。例えば連絡先を教えても、掛かってきた電話には応えず、逆に自分の都合で連絡し、安堵を与える。必ず約束の時間には遅れていくし、相手がもう少し一緒にいる時間を延ばしたいと察すると理由をつけて退場する、2人の関係に絶対の自信を持たせない、自身の存在を当たり前に感じることは許さない、といった具合だ。今なら一流のメンタリストといったところか。
そんな駆け引きをしてようやくオットーがセックス・スパイの本領を発揮するのが物語も半分を過ぎた375ページ辺りだ。なかなかに長い前戯ではないか。

また面白いのはそれまで男に縁がなく、平日は仕事と自宅の往復、土曜日は姉とのランチ、日曜日は自閉症の娘への訪問と一つたりとも違うことなく、同じことの繰り返しだった灰色のエルケの日常がオットーとの出逢いを境に好転していくことだ。
まず首相府事務次官付きの秘書の立場から閣僚委員会の一員に抜擢され、更に政府の中枢に加わるようになり、昇進する。
さらに上司の事務次官ギュンター・ヴェルケの好意を買うことになり、たびたびデートに誘われるようになる、といった具合に一気にエルケの人生が色めき立つのだ。“あげまん”という言葉は知っているがオットー・ライマンはその逆の“あげちん”である(本当にこんな俗語があるらしい)。

そして当然ながらエルケが変わるように相手側も変わる。あくまでプロフェッショナルを貫き、エルケを対象物として捉えていないと自負していたオットーはエルケの精神的拠り所になった後でも彼女に自分がスパイであり、自分なしでは生きられないのなら情報を漏洩しろと強制することを拒む。あくまでエルケとは恋人同士の関係で接しながら彼女の小出しにする情報を基にドイツ側の内情を構成し、報告するにとどめる。そしてもはや妻ユッタに愛情を感じず、エルケを心底愛するようになっていく。

やはりこれが人間なのだ。仕事と割り切ってクールに振る舞えないからこそ人間なのだ。そこに感情が、特に愛情が絡むことで論理的に組み立てられた作戦は綻びを生み出す。人間が介在するからこそ古今東西の作戦が失敗に終わり明るみに出ることになっているのだ。

恋愛を武器にした諜報活動は物語が始まった時から誰かが傷つく結末になるのは約束されていた。しかし登場人物に対して容赦のないフリーマントルは全ての登場人物に不幸を負わせる。

相思相愛でありながら政府の最高機密に携わっていた孤独な女性と、一流のセックス・スパイでありながら恋に落ちてしまった男。このハーレクインロマンス的な設定も皮肉屋フリーマントルが描くと現実の厳しさと運命の皮肉さがたっぷり盛り込まれた、なんとも苦さの残る話へと料理される。仕事のために嘘をつき続けた男とスパイであることを教えてくれればいくらでも情報漏洩をしたと誓った女。男は別れを恐れるために嘘をつき、女は別れたくないために真実を知り違った。これが男と女の違いであり、だからこそ悲恋の物語が今なお書かれ、尽きることがないのだろう。

ふと考えてみると本書はKGB側も描いており、作戦決行までのゼロ時間への準備段階から描かれているが、逆に書き方次第では実に面白いミステリになったかもしれない。
描写をエルケ側に絞って無味乾燥した毎日を描いたところに、かつて付き合っていた男とそっくりの男性との偶然の出逢いからラヴロマンスに至り、そこから急転してスパイ物に変転する語り方もあったのではないか。しかしそれをやるともはや本当のロマンス小説になってしまうのか。だからフリーマントルは敢えて正攻法で臨んだのかもしれない。

しかし重ね重ねエルケが不憫でならない。人目を惹く容姿で仕事もできるバリバリのキャリアウーマンであり、それ相応の男の好意を惹き付けながら、なぜかその恋が成就しない。人生のボタンを常に掛け違えてしまう女性である。孤独を紛らすために決まった時間、決まった場所、決まったイベントをこなすことで精神の安定を覚えている。
彼女はまたこの無味乾燥した毎日を過ごすかと思うとなんとも遣る瀬無い気分になってしまうのだ。いつか彼女が正しくボタンを掛けられることを願って本書を閉じよう。


No.1291 7点 深夜勤務
スティーヴン・キング
(2016/12/15 23:49登録)
はしがきにも書かれているようにデビュー作『キャリー』以来、『呪われた町』、『シャイニング』と立て続けにベストセラーのヒットを叩き出した当時新進気鋭のキングが、その溢れんばかりに表出する創作の泉から紡ぎ出したのが本書と次の『トウモロコシ畑の子供たち』に分冊された初の短編集である。
今まで自分の頭の中で膨らませてきた空想の世界が世に受け入れられたことがさらに彼の創作意欲を駆り立て、兎にも角にも書かずにいられない状態だったのではないだろうか。
その滾々と湧き出る創作の泉によって語られる題材ははしがきで語っているように恐怖についてのお話の数々だ。

古い工場の地下室に巣食う巨大ネズミの群れ。
突如発生した新型ウィルスによって死滅しつつある世界。
宇宙飛行士が憑りつかれた無数の目が体表に現れる奇病。
人の生き血を吸ったことで殺戮マシーンと化した圧搾機。
子取り鬼に子供を連れ去られた男の奇妙な話。
腐ったビールがもとでゼリー状の怪物へと変わっていく父親。
殺し屋を襲う箱から現れた一個小隊の軍隊。
突然意志を持ち、人間に襲い掛かるトラック達。
かつて兄を殺した不良グループが数年の時を経て再び現れる。
忌まわしき歴史を持つ廃れた村に宿る先祖の怨霊。

これらは昔からホラー映画やホラー小説、パニック映画に親しんできたキングの原初体験に材を採ったもので題材としては決して珍しいものではない。ただ当時は『エクソシスト』やゾンビ映画の『ナイト・オブ・リビングデッド』といったホラー映画全盛期であり、とにかく今でもその名が残る名作が発表されていた頃でもあった。

しかしこの着想のヴァラエティには驚かされる。今ではマンガや映画のモチーフにもされている化け物や怪異もあるが、1978年に発表された本書がそれらのオリジナルではないかと思うくらいだ。

本書の個人的ベストは「やつらはときどき帰ってくる」だ。この作品は少年時代にトラウマを植え付けられた不良グループたちが教師になった主人公の前に再びそのままの姿で現れ、悪夢の日々が甦るという作品だが、扱っているテーマが不良たちによる虐めという誰もが持っている嫌な思い出を扱っているところに怖さを感じる。無数の目が体に現れたり、小さな兵隊が襲ってきたり、トラック達が突然人を襲うようになったりと、テーマとしては面白いがどこか寓話的な他の作品よりもこの作品は誰もが体験した恐怖を扱っているところが卓越している。

また最後の短編「呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>」は長編とは設定が全く異なることに驚いた。一応長編の方も再度確認したが特にリンクはしていないようだ。ただ後者は全編手記によって構成されるという短編ゆえの意欲的な冒険がなされ、最後の一行に至るまでのサプライズに富んでおり、長編の忍び来る恐怖とはまた違った味わいがあって興味深い。

本書は最初に述べたようにキング初の短編集でありながら、次の『トウモロコシ畑の子供たち』と分冊して刊行された。いわば前哨戦と云ってもいいかもしれない。それでいて現在高評価されている漫画家へも影響を与えたほどの作品集。次作もキングの若さゆえのアイデアの迸りを期待したい。


No.1290 7点 地底旅行
ジュール・ヴェルヌ
(2016/12/02 00:01登録)
ヴェルヌ2作目の冒険先はなんと大胆にも地の底だ。アフリカという未開の地への冒険をテーマにした前作『気球に乗って五週間』はまだ現実的な冒険であったが、2作目にしていきなり現代人でも未踏の地である地底世界へ向かうという荒業には正直驚いた。

地中探検の窓口はアイスランドのスネッフェルスという火山にある火口と現代でも馴染みのない場所である。
まず冒険のきっかけが実に面白い。教授が古書店で買ってきた本の中からルーン文字で書かれた羊皮紙が見つかる。それは錬金術師サクヌッセンムによって書かれた暗号文でそれを解読すると地球の中心に繋がる道がアイスランドにあるとのこと。何とも冒険心くすぐる発端ではないか。ハリウッド映画を見ているかのような幕開けである。

そこからすぐに地底世界への旅になるかと思いきや、いつものヴェルヌらしく冒険に際しての準備が実に詳細で周到である。特に3ページに亘って詳細に書かれる準備品の数々―寒暖計、圧力計、精密時計、羅針盤、夜間望遠鏡、etc―は冒険者、探検者にとってもバイブルのような内容に富んでいるのではないだろうか。

延々と続く洞窟の中の探索行。暗闇ばかりを黙々と進む3人の男たち。冒険行としてはこれほど地味な物はないのだが、それが実に面白い。とにかくその詳細な描写が素晴らしい。時刻、日付、気圧、気温、方角、高度、距離を都度正確に描写するのだ。そして正しい道を歩いているか否かを地層の地歴を見ながら判断する。あたかも作者ヴェルヌ自身が鉱物学者化のような精緻ぶりだ。
ヴェルヌの博学な知識と冒険のリアリティを裏付ける随所に挟まれた詳細な地質学、鉱物学の知識。飲み水が無くなっていく絶望感の中、案内人の活躍によって九死に一生を得たり、暗闇の大洞窟の中で甥のアクセルがはぐれたりと実に波乱万丈だ。
しかし物語の山場は一行が地底に存在する大きな海に到達してから迎える。そこには雲もあり、そして太陽ではないが光も差す実に幻想的な世界が広がる。周囲にあるのは高さ10メートルを優に超える巨大キノコの森。一行は渡海を目指して手製のいかだで乗り出し、釣り糸を垂らしてみれば原始時代の海に生息していた化石魚がわんさかと釣れ、彼らの食料となる。更にプレシオザウルスやモササウルスを思わせる魚竜と蛇頭竜の戦いまでが出てくる。まさにこれこそドイルの『失われた世界』に匹敵する圧倒的イマジネーションが生み出したスペクタクルだろう。

う~ん、実に映画的だ。当時も今もこのジェットコースター的物語展開は胸躍らすことだろう。
読後にこれは映画『センター・オブ・ジ・アース』の原作ではないかと気付いた。しかし実は同映画では本書をバイブルとして地底探検をする主人公たち一行の姿が描かれていたのだ。この映画は既に観ていたのに本書が重要なカギとなっていることをすっかり忘れていた。
逆に本書を読むことで『センター・オブ・ジ・アース』をもう一度観たくなった。現代ハリウッドの一大冒険映画がどのように本書にリスペクトしているのか、確認することにしよう。

この歳になっても愉しめるクオリティ。改めてヴェルヌの偉業に感じ入る次第である。


No.1289 4点 今夜はパラシュート博物館へ
森博嗣
(2016/11/30 23:45登録)
第1、第2短編集では長編では見られない抒情性が豊かで実に私好みの話が多く、俄然期待値が高まったこの第3短編集の内容はしかし抒情性は薄まり、どちらかというと解る人以外には全く解らないミステリの仕掛けが尖鋭化してきているようだ。
物語のメインの謎よりも聡い読者しか気づかない仕掛けに力点が一層置かれており、ますます森氏独特のミステリ趣味が特化してきており、気づかない読者は置いてけぼりを食らってしまうのだ。
それらについては後に述べるとして、私の期待に応えてくれたのが「卒業文集」であり、「素敵な模型屋さん」だ。

「素敵な模型屋さん」は趣味を持つ者が誰しも抱く願望を描いた美しい作品。最後に夢のような模型屋に出くわした少年自身が模型屋の老主人になるところは実に心温まる。
また小学生の作文で構成された実験的な作品である「卒業文集」がなかったら本書の評価はかなり下がっただろう。素朴でかつサプライズに満ちたこの作品がなかったらもっと評価は下がっていた。



以下、蛇足めいたネタバレ。



例えば小鳥遊練無が登場する「ぶるぶる人形にうってつけの夜」では3つの大学棟の平面図が付されているが、これが実はアルファベットになっており、それを繋げると…。
個人的に最も嫌いな「ゲームの国」は虫暮部さんご指摘のように各所にアナグラムが隠されている。

さらに「恋之坂ナイトグライド」は出逢ったばかりの男女の夜中のランデヴーのお話のように思えるが、実は主人公たちは鳥だったというオチ。

これらはウェブで調べれば識者が教えてくれるが、本書では全く明かされず、解らない人は未来永劫そのままだろう。


このような仕掛けを面白いと思うか否かは読者次第だろうが、私はそこまで付き合っていられないので、次の短編集への期待が下がってしまった。


No.1288 7点 魔剣天翔
森博嗣
(2016/11/22 23:46登録)
正体不明の美術専門窃盗犯であった保呂草潤平に危機が訪れるのが面白い。
また本書ではサブストーリーとして小鳥遊練無の恋にも触れられている。
今回は女装をせずに物語に登場する。憧れの存在の前では逆にその行為が恥ずかしくてできないということなのだろうかと思っていたが、最後にやはりそれは彼女に成長した自分を見せたかったこと、そして冒頭の会話のシーンから察するとやはり彼女の前では一人の男でありたかった、関根杏奈を恋人として迎える一人前の男になったことを見せたかったのだろう。

物語後半で明かされる関根朔太と西崎勇輝、そして関根杏奈出生の秘密は非常にオーソドックスな真相だろう。
名もない女性の持つ人生の覚悟の前に保呂草は屈する。
関根杏奈がスカイ・ボルトは人の命を奪うほど価値があるものなのかという祖父江七夏の問いに対して頷き、その後にこのように云う。
「人の命なんて、大したものではない。命をかけるものが、あるからこそ、人は生きているんです」
この言葉はそのまま彼女の母親の生き様に繋がる。自身の人生を捨て、命を関根朔太の作品を描き続けることが彼女にとって自分の命よりも大事だったことなのだ。奇しくも2人は同じ覚悟を持って人生を生きていることに気付かされる。ここに2人の強い絆を感じた。

そんな背景が明らかになっていく本書の全く不可思議な事件の真相は航空ショーのように実にアクロバティックだった。たった2人しか入ることの出来ない飛行機のコクピットという極限的に狭い密室殺人でこのようなすっきりとした解答が得られる森氏のミステリスピリットは非常に素晴らしいと思うのだが、また今回も犯人の動機が不明なまま終わるのが不完全燃焼でがっかりである。
多分森氏が「人が人を殺す理由は他人には到底わかるものではないから敢えて書かない」というスタンスを崩さない限り、私は彼の作品を高く評価することはしないだろう。前にも書いたがそれは我々が生きる社会の中では至極当たり前であるが、せめて作り物の物語の中くらいははっきり答えが出てもいいではないかと思うからだ。割り切れない世の中を生きているからこそ答えのある世界を欲しているのだ。

さて本書の隠されたテーマは全ての章題に付せられた「形」というキーワードか。森氏はエッセイでも述べているように無類の飛行機好きでその形に機能美を超えた美しさを感じているようだ。その心情は本書のプロローグで遺憾なく開陳されているが、本書では飛行機の形だけでなく、家族の形、過去の形、友人たちの形と人と人を繋いで形成されるものを指しているのではないだろうか。保呂草が冒頭に述べる多少の演出を交えた形が本書の物語であり、最後に瀬在丸紅子の笑顔を求める形と述べている。つまりそれらの形がその人の生き様を、人生を作る。即ち人生とは形の集合体であるということだろうか。
そうであるならばまだ形は変わっていく。今回の形はこの事件が起きた時の形だ。シリーズが最終作に至る時、どんな形を描くのだろうか。その形こそがこのシリーズの最大のミステリなのかもしれない。


No.1287 10点 オーブランの少女
深緑野分
(2016/11/18 23:53登録)
いやはやこれまたすごい新人が現れたものだ。洋の東西を問わず、しかも現代のみならず近代から中世まで材に取りながらも、まるで目の前にその光景があるかのように、さらには色とりどりの花木や悪臭などまでが匂い立つような描写力と、それぞれの時代の人間たちだからこそ起きた事件や犯罪、そして悲劇を鮮やかに描き出す深緑野分の筆致は実に卓越したものがある。

プロットとしては正直単純であろう。表題作は美しい庭に纏わるある悲劇の物語で、次の「仮面」は不遇なメイドの救済のための殺人計画と思わせた殺人工作。「大雨とトマト」はある雨の日の出来事で「片想い」は女子高生の淡い友情物語。そして「氷の皇国」は流れ着いた死体に纏わるある悲劇の物語。既存作品に着想を得て書かれたものだとも解説には書かれている。

しかしこれらの物語に鮮烈な印象を与えているのは著者の確かな描写力と物語を補強する数々の装飾だ。そして鮮烈な印象を残す登場するキャラクターの個性の強さだ。従って単純な話であっても読者は作者の目くるめくイマジネーションの奔流に巻き込まれ、開巻すると一瞬にしてその世界の、その時代の只中に放り込まれ、時を忘れてしまう。濃密な時間を過ごすことが出来るのだ。
それはまるで作者が不思議な杖を振るって「例えばこんな物語はいかがかしら?」としたり顔で微笑みながら見せてくれるイリュージョンのようだ。

収録された5編は全て甲乙つけ難い。どれもが何らかのアンソロジーを組めば選出されてもおかしくないクオリティに満ちているが、敢えて個人的ベストを選ぶとすると表題作の「オーブランの少女」と「片想い」の2作になろう。
この2作に共通するのは女性の友情を扱っている点にある。表題作はまさに死線を生き長らえた2人の女性が決意の上、秘密の花園を生涯かけて守り抜き、そして彼女たちに悲劇を与えようとした女性の長きに亘る復讐という陰惨さがミスマッチとなって得難い印象を刻み込む。
後者は何よりもなんとも初々しい昭和初期の女子高生たちが築いた友情が実に眩しくて、郷愁を誘う。
多感な時期に得た友情は唯一無比で永遠であることをこの2作では教えてくれるのだ。

他の3作も上で述べたように決して劣るものではない。「仮面」ではアミラという女性に隠された過去に非常に興味が沸き、「大雨とトマト」の場末の安食堂の主人の家族に起こるその後の騒動を考えると、嵐の前の静けさと云った趣が奇妙な味わいを残す。掉尾を飾る最長の物語「氷の皇国」の北の小国で起きたある悲劇の物語も雪と氷に囲まれた世界の白さと氷の冷たさに相俟って底冷えするような余韻をもたらす。
そしてこれら5作に共通するのは全て少女が登場することだ。それぞれの国でそれぞれの時代で生きた少女の姿はすべて異なる。

ある意味これらは少女マンガ的題材とも云えるが、繰り返しになるが一つ一つが非常に濃密であるがゆえに没入度が並大抵のものではない。どっぷり物語に浸る幸せが本書には詰まっているのだ。
物語の強さにミステリの謎の強さが釣り合っていないように思えるが、それは瑕疵には過ぎないだろう。私は寧ろミステリとして読まず、深緑野分が語る夜話として読んだ。ミステリに固執せず、この作者には物語の妙味として謎をまぶしたこのような作品を期待したい。
もっと書きたいことがあるはずだが、今はただただ心に降り積もった物語の濃厚さと各作品が脳内に刻んだ鮮烈なイメージで頭がいっぱいで逆に言葉が出てこないくらいだ。

こんな作者がまだ現れ、そしてこんな極上の物語が読めるのだから、読書はやめられない。実に愉しい読書だった。


No.1286 7点 ハイスクール・パニック
スティーヴン・キング
(2016/11/15 00:02登録)
スティーヴン・キングがもう1つの筆名リチャード・バックマン名義で発表した作品。これがバックマン名義での第1作となる。
つい先日もオーランドのナイトクラブで銃乱射事件が発生したようにアメリカのハイスクールでの無差別銃乱射事件は多く、一番有名なのは映画にもなった1999年に起きたコロンバイン高校の銃乱射事件だろう。本書はそれに先駆けること1977年に発表されている。これは1966年に起きたテキサスタワー銃乱射事件を材に取ったと思われるが、その後コロンバイン高校の惨劇を想起させるということでキング本人が重版を禁止した作品でもある。過激な内容を扱いながらも無差別銃乱射事件を美化したような内容が逆に同様の事件を助長させていると作者自身が懸念したからかもしれない。
そう、美化したような内容というのはいわゆる銃社会アメリカでたびたび起きているような無差別殺人を本書が扱っていない点にある。ライフルを持った一人の頭のおかしい生徒が同級生たちを人質にして教室に立て籠もる。そう聞くと息詰まる警察と狂人の駆け引きと、1人、また1人と生徒たちが亡くなっていくデスゲームのような荒寥感を想起させるが、本書はそんな予想を裏切って、籠城状態の教室という特殊空間の中で高校生たちの日常生活に隠された仮面を次第に剥がして本音をさらけ出して語り、もしくはぶつけ合うという実に意外な展開が広がるのだ。
正直この発想は全くなかったため、非常に驚いた。

とにかく色んな読み方の出来る小説だ。
読了後まず想起するのはスクールカーストの変転を扱った実に特異な小説と読めることだ。
一見銃を手にした一生徒の反逆の物語と見せかけながら、彼の行った籠城行為によって生徒たちが大人への反発心を開花させる物語でもあるのだ。原題の“Rage”は主人公チャールズ・デッカーの反逆だけでなく、彼の同級生全ての大人に対する反逆心の芽生えも指している。
また学校一の人気者が、同級生による銃を持った立て籠もりという異常な状態ゆえに、日常的に抑えてきた感情が非日常によって解放されたことで通常ならば触れるべきでないことを告白しだす。それは彼らの両親が行っているクラスメイトの両親に対する噂話だったり、初体験の告白だったり、
そんな秘密の暴露がされる中で学校一の人気者が丸裸にされ、その地位が陥落する様は実に面白い。ハンサムで落ち着きがあり、フットボールの花形選手でありながら突然辞めたという絵に描いたようなヒーロー。そのミステリアスな雰囲気は想像が想像を呼び、クラスメイトそれぞれの心にある偶像を形成させていたのだろうが、それが彼の秘密を知る生徒たちによって偶像が壊れていき、次第に普通の生徒へ、いやそれ以下のクラス全員の反感を買う存在となってしまう。

このテッドの凋落は我々の世界で得ている地位や名誉という物は実に不確かなもので、ちょっとした特異な状況で容易にひっくり返されてしまうのだという警句と受け取れる。
一方、変わり者としてみなされていた主人公チャールズ・デッカーはいきなり銃を持ち込んで先生を2人撃ち殺し、降伏するよう説得を試みる校長先生、学校担当の精神科医、そして駆け付けた警察署長らを見事に出し抜くことで人質である生徒たちの尊敬を集めていく。
そういう意味ではストックホルム症候群を扱った小説ともいえる。この症候群の名の由来となったストックホルムで起きた銀行人質立てこもり事件が1973年。そして本書が発表されたのが1977年だから当時キングがこの起きたばかりの事件に由来した新たな症候群を知っていたかどうかは疑わしい。もし知らなかったとすると同様の状況を扱った本書の、いやキングの先駆性は驚くべきものがある。

鬱屈した高校生の反逆の物語。スクールカーストが無残にも崩れ去る物語。犯人に同調する集団意識の変転の恐ろしさを描いた物語。
そのどれもが当て嵌まり、どれもが正解だろう。
しかし私はここからさらに次のように考える。
これは意味のないところから意味を生み出した物語なのだ、と。
つまりチャールズの行った籠城には何の意味もなかったのだが、クラスメイト達が思い思いに胸の内を打ち明け、それぞれが抱えていた秘密を暴露することで共通の敵を見出すという意味を持ち、それに復讐する目的を確立する。

たった300ページ足らずの、しかも舞台は高校の教室内で繰り広げられるというのになんとも中身の濃い小説ではないか。但し現代のような銃立て籠もり事件が頻発する昨今、犯人であるチャールズ・デッカーを反逆のヒーローとして描く本書は確かに読んだ者の心に危うい発想を生み出す危険性を孕んでいることは頷ける。
現在絶版であるのは非常に惜しいと思いながらも、それを決断したキング本人の想いもまた理解できる、読んでほしいにも関わらず復刊することには躊躇を覚えるジレンマに満ちた作品である。


No.1285 7点 名門ホテル乗っ取り工作
ブライアン・フリーマントル
(2016/11/09 23:12登録)
フリーマントルがジョナサン・エヴァンス名義で発表した企業小説。新進気鋭のホテル・チェーンがイギリスの格調高い由緒ある豪華ホテル・チェーンの買収に乗り出すマネーゲーム小説だ。
億単位、いや数十億単位の金が動くマネーゲーム。誰もが甘い汁をすすろうと金のあるところに集る。

さてフリーマントル作品の醍醐味は目の覚めるようなアクションではなく、やはり知と知のぶつかり合いの高度なディベート合戦にある。企業小説である本書では役員会議や非公開の役員同士の密談などが多々挿入されているが、株主総会とラッドが仕掛ける会社登録法違反の裁判が本書の白眉であろう。
まず株主総会ではギャンブルでの損失を会社の小切手で返金し、家族の友人を愛人として会社の所有する宿泊施設で囲っていることを暴かれた≪バックランド・ハウス≫会長イアン・バックランドの解任を求められるが、圧倒的な不利の中、完璧な理論武装と弁護士を同席させるというラッド提案の奇手によって有利に進め、見事提案を退ける。こういう議論のシーンが実にフリーマントルは上手い。ただそこには大口株主のファンド・マネージャーの支持が少なかったというスパイスも忘れない。ここに一流のジャーナリストだったフリーマントルのシビアな視点を感じる。このような茶番劇では海千山千の投資家の目はごまかせないと暗に示しているのだ。
そしてそれを証明するかのように一転して乗っ取りを仕掛けたラッドによる会社登録法違反の疑義を申し立てる起訴裁判では株主総会で雄弁に切り抜けたバックランドの答弁はメッキが剥がれるが如く、次々と論破されていく。残されたのは由緒ある貴族階級の一族の裏に隠された数々のスキャンダルの山。伝統と格式に飾られたバックランド一族の装束は容易に剝ぎ取られ、ギャンブルと女遊びにうつつを抜かす一人の裸のお坊ちゃんがいるだけとなる。
後半は株主総会、役員会議、裁判のオンパレードだ。企業小説であり、しかもやり手の若手会長が自社と買収先の株価の大幅下落というリスクを負いながらも血眼になって買収を成立させようと東奔西走する作品であるから仕方がないかもしれないが、ディベート合戦がフリーマントル作品の妙味だと云ってもこの繰り返しはいささか辟易した感じがある。

結果的に勝者のいないマネー・ゲームとなる本書。やはり今回もフリーマントルは決して甘い夢を見させてはくれなかった。


No.1284 8点 夢幻花
東野圭吾
(2016/11/09 00:06登録)
本書でも書かれているが、飲料会社のサントリーが青いバラを開発して話題になったが本書では現在存在しない新種の黄色いアサガオを巡るミステリだ。そしてタイトルの夢幻花もこの黄色いアサガオの異名から採られている。追い求めると身を滅ぼすという意味でそう呼ばれているらしい。
しかし黄色いアサガオはかつては存在したようで、本書にも取り上げられているように江戸時代にはアサガオの品種改良が盛んで黄色いアサガオの押し花が現存している。ではなぜ現代では無くなったのか。それもまた興趣をそそる。

メインの物語は刑事早瀬亮介側の捜査と秋山梨乃と蒲生蒼太の学生コンビの捜査が並行して語られるわけだが、とにかく秋山梨乃と蒲生蒼太の人捜しの顛末が非常に面白かった。今どきの学生らしくメールやグーグルなどのITツールを駆使し、友人のネットワークを使って秋山周治の死に関係する黄色いアサガオの謎と蒼太の初恋の女性伊庭孝美の行方を追っていく。特に秋山梨乃の大胆さには蒲生蒼太同様に驚かされた。
高校時代に友人の伝手で伊庭孝美の所属する大学と研究室を突き止めた蒼太がその後の行動に悩んでいたところ、いきなり研究室に行ってドアを開けて孝美のことを尋ねる行動力。そしてアドリブでテレビ番組の取材だと云いのける不敵さ。梨乃の突飛な考えと行動はこの物語にある種ユーモアをもたらしている。そしてこの若い2人の探索行が読んでいて実に愉しい。もし自分が彼らと同世代だったらこのように行動できただろうかとそのヴァイタリティに感心してしまった。

そんな2人の探索行も含めて思うのは相変わらず東野氏は物語運びが上手いということだ。次から次へと意外な事実が判明してはそれがまた新たな謎を生み、ページを繰る手が止まらなくなる。以前私はある東野作品を謎のミルフィーユ状態だと評したが、本書もまさにそうだ。

後半になってもその勢いは止まらず先が気になって仕方がない。祖父の死をきっかけに彼の遺した黄色いアサガオの写真の謎を追うと、謎めいた男蒲生要介と出逢い、捜査を辞めるように忠告され、それがきっかけで蒲生蒼太と出逢い、ひょんなことから彼の初恋の相手を捜すようになる。そして足取りを辿っていくとなんと蒼太自身の母親の出生に関わる連続殺人事件に行き当たるという、まさに謎の迷宮に迷い込んだかのような複雑な様相を呈してくる。

しかし改めて思うが、実に複雑かつ壮大な物語である。黄色いアサガオから始まり、中学の頃の初恋相手との突然の別れから思わぬ再会、家族に隠されたある秘密、さらにはあるハリウッド女優の死までが絡んでくる。黄色いアサガオはいわば都市伝説的なモチーフであり、初恋相手の別れと再会は実に身近な出来事であり、家族に隠された秘密は江戸時代からの幕府の禁止令から昭和のある犯罪に繋がる深淵なるもの、ハリウッド女優の死は生前の出来事である私たちにしてみれば歴史上の出来事と感じられる。これら一見無関係な要素を無理なく絡ませて読者を予想外の領域に連れていく。実に見事な作品だ。
このような複雑な謎の設計図を構築する東野氏の手腕はいささかも衰えを感じない。識者が作成したリストによれば本書は80作目とのこと。これだけの作品を重ねてもなおこんなにも謎に満ちた作品を、抜群のリーダビリティを持って著すのだから驚嘆せざるを得ない。特にそれまで東野作品を読んできた人たちにとって過去作のテーマが色々本書に散りばめられていることに気付くだろう。原子力の件では『天空の蜂』が、被害者秋山周治の実直な性格は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の浪矢雄治の面影を、秋山梨乃と蒲生蒼太のコンビやホテルの描写では『マスカレード・ホテル』の舞台と山岸尚美と新田浩介の2人の影を感じるなど、それまでの蓄積が本書でも活かされている。

印象に残るのは蒲生蒼太と伊庭孝美の恋の結末だ。中学の時に一目惚れし、突然消えた伊庭孝美。その後も現れては消え、消えてはまた意外な場所で姿を見かける彼女は蒲生蒼太にとっての夢幻花だった。だからこそ2人はお互いの出逢いをいい思い出にしたのだろう。

2014年10月10日、サントリーが青いバラに続いて黄色いアサガオの再現に成功するというプレスリリースがなされた。はてさてこの夢幻花に対して警察はどのように動くのか。本書を読んだ後では手放しで喜べなくなる。そんな錯覚を覚えてしまうほど面白いミステリだった。

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