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ミステリの祭典

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Tetchyさんの登録情報
平均点:6.74点 書評数:1617件

プロフィール| 書評

No.1397 10点 暗く聖なる夜
マイクル・コナリー
(2018/06/24 22:10登録)
ハリー・ボッシュシリーズ9作目はボッシュがハリウッド署を、刑事を辞めて私立探偵になった初めての事件。ボッシュ自身の過去の事件に決着をつけた後の『トランク・ミュージック』がシリーズ第2期とすれば、本書はボッシュシリーズ第3期の始まりの巻だと云えるだろう。
そして本書はボッシュの一人称叙述で語られる。つまりこれはボッシュが私立探偵となったことでこのシリーズが今までの警察小説ではなく、私立探偵小説となったことを宣言するために意図的にコナリーが選択したことだろう。

上で本書はボッシュシリーズ第3期の幕開けと書いたが、それぞれのシリーズの幕開けには常にこのエレノア・ウィッシュが登場する。デビュー作は無論のこと、『トランク・ミュージック』はエレノア再会の作品で、結婚を決意する物語。そして本書は別れた妻と再会する物語だ。つまりボッシュの人生の節目にエレノアは綱に現れる。いやボッシュがエレノアを見つけ出すと云った方が正確か。何にせよエレノア・ウィッシュはこのシリーズの“運命の女”だ。

今回の原題“Lost Light”は前作『シティ・オブ・ボーンズ』で登場した言葉だ。“迷い光―個人的には“迷い灯”の方がしっくりくると思うのだが―”と訳されたその言葉はボッシュがヴェトナム戦争でトンネル兵士として暗いトンネルの中にずっと潜んでいた時に見た光のことを指す。つまりそれは埋もれた過去の未解決事件という暗闇に新たな光が指すことを意味しているのだろうが、今回は邦題の方に軍配を挙げたい。
ルイ・アームストロングのあまりに有名な曲“What A Wonderful World”の一節“Dark And Sacred Night”から採られているが、この曲が本書では実に有効的に、いやそんな渇いた表現はよそう、実に胸を打つシーンで使われているからだ。
絶望の中にも聖なる夜はある。暗いながらもそこには希望がある。そんなことを想わせる、実にいい邦題である。

しかし毎度のことながらこのシリーズのストーリーの緻密さには恐れ入る。上に書いたように3つの事件がきちんと整合性をとって結ばれることは勿論のこと、上述した以外にも物語に散りばめられたエピソードが有機的に真相に至るピースとなって当て嵌まっていくのだ。単なる蘊蓄かと思っていたくだりさえも、これがある些細な違和感を解き明かすカギとなるのだから畏れ入る。
いつもながら勝手気まま、傍若無人ぶりな捜査で周囲を傷つけ、そして仲間を得ては失っていくボッシュが妻と娘と云う愛し、護るべき存在を新たに得たことでどんな変化が訪れるのか。
私の心には既にボッシュシリーズが深く刻まれている。そしてそれは当分消えそうにない、エレノアが「心に刻まれたものは決して消えない。」と云ったように。


No.1396 7点 タリスマン
スティーヴン・キング & ピーター・ストラウブ
(2018/06/17 11:45登録)
キングとストラウヴがその豊富なアイデアを惜しみもなく注ぎ込んだファンタジーとロードノヴェルとを見事に融合させた1000ページを超える大著。
2人が初めて共作した作品はいわば典型的なファンタジー小説と云えるだろう。女王の命を狙う敵から守るためにタリスマンを手に入れる旅に少年が旅立つ。

ただ異世界だけを舞台にしているのではなく、我々の住む現実世界とテリトリーと呼ばれる異世界とを行き来しながら冒険するところが特徴だ。
しかしこの設定も2018年現在では全く新しいものではない。むしろ現実世界と異世界を行き来する話は既にいくらでもあり、例えば現実世界とは地続きであるが、世界的大ベストセラーとなった『ハリー・ポッター』シリーズもまたその系譜に繋がるだろう。
またこの現実世界と異世界という設定は我々が日常で利用しているウェブ社会と考えれば親近性を持った設定である。分身者は即ち、今でいうアバターである。
ただ本書は1985年に書かれた作品である。当時はインターネットすらなく、パソコン通信の創成期といった時代である。キングとストラウヴ両者がこの新しい技術を当時知っていたかは不明だが、そんな時代にこのような二世界間を行き来する作品を描いていたことは実に興味深いし、先見性があると云えるだろう。

毒にも薬にもなる存在、タリスマン。私は核爆弾を象徴していると思った。癌に侵され、死にかけた母親を救うためにジャックが求めたのはこのタリスマン。強大な力を持つこの球体が核爆弾を象徴しているというのは荒唐無稽に思われるが、自分なりの解釈を以下に述べたい。
本書が書かれた1985年は各国が競って核爆弾を所有し、アメリカでは頻繁に核実験が行われていた頃だ。
他国が持っているから自国も所有して他国からの侵略に対して備え、安心しようとする。それは国にとっては防御力ともなるが、暴発すれば自国をも滅ぼす死の兵器である。そしてそれを各国が手放すことで真の平和が訪れる。そして黒い館に至る道のりにある焦土は火の玉が飛び交い、それに触れると放射能に侵されたような症状になることもまたそれを裏付けている。
しかしそのタリスマンこそが最後ジャックの母親の命を救い、そして消え去る。それは核による世界の浄化を示しているのではなく、やはり核の廃絶こそが世界を救うのだと考えたい。
ちょうど非核化対策が注目された米朝首脳による初会談の行われた時にこの作品を読んだからそう思ったのかもしれないが、いやそれだけではないだろう。私はまたも本に引き寄せられたのだ。

2人のホラーの大家がタッグを組んだ本書には物語を愛し、その力を信じる2人の情熱が込められている。色々書いたが、本書は愉しむが勝ち。それだけのアイデアが、多彩なイマジネーションが溢れている。そう、本書そのものがタリスマン―本を読む者へのお守りであり、読者を飽きさせない不思議な力を持っている。


No.1395 8点 朽ちる散る落ちる
森博嗣
(2018/06/12 21:23登録)
シリーズのセミファイナルとなる本書では7作目に舞台となった土井超音波研究所が再び物語の舞台となる。従って付された平面図は『六人の超音波科学者』同様、土井超音波研究所のそれとなっている。2作で同じ平面図を使うミステリは私にとっては初めての経験だ。

今回の謎は飛び切りである。
まず研究所の地下室に二重に施錠された部屋から死体が見つかる。どちらも船室で使われる密閉性の高い中央にハンドルのついた重厚な鉄扉で、最初の扉は内側からフックのついた鎖で止められ、外側からは解錠できないようになっている。次の扉は床にあり、開けると昇降設備がなく、梯子か何か上り下りできるものがないと降りられず、更に入る部屋からしか閉めることが出来ない。その床下の部屋に白骨化した死体が横たわり、その死体は何か強い衝撃で叩きのめされたかのように周囲には血が飛び散っている。

さらに1年4ヶ月前にNASAの人工衛星の中で男女4人が殺される密室殺人が起きる。男3人は小型の矢のような物で無数に刺され、女性は絞殺されていた。
しかもこの人工衛星の密室殺人事件と研究所の地下の密室事件には関係があるという、島田荘司氏ばりの奇想が繰り広げられる。

起伏が激しく、そして謎めいた物語。それぞれの謎はある意味解かれ、ある意味解かれないままに終わる。

更に私が感嘆したのは前々作『六人の超音波科学者』の舞台となった土井超音波研究所が本書のトリックに実に有効に働いていることだ。いやはや同じ館で異なる事件を扱うなんて、森氏の発想は我々の斜め上を行っている。

そしてシリーズの過去作に纏わると云えば小鳥遊練無が初登場したVシリーズ幕開け前の短編「気さくなお人形、19歳」でのエピソードを忘れてはならない。『六人の超音波科学者』も纐纈老人との交流が元でパーティに小鳥遊練無は招待されたが、本書では更に纐纈老人との交流が物語の背景として密接に絡んでくる。読んだ当時はただの典型的な人生の皮肉のような話のように思えたが、練無が代役を務めた纐纈苑子、即ち藤井苑子が本書でテロリストのシンパで妻となって登場することで全くこの短編の帯びる色合いが変わってくる。もう一度読むと当時は気付かなかった不穏さに気付くかもしれない。

本書では奇跡的な偶然が示唆されている。それはやはり小鳥遊練無が纐纈苑子に酷似していたことだ。彼女と彼が似ていたからこそ、全ては始まったのだ。シリーズが始まる前のエピソードから全てが始まったのだ。
さてとうとうVシリーズも残り1作となった。S&Mシリーズの時には全く感じなかったのだが、このシリーズに登場する面々は実に愛らしく、別れ難い。もっと続いてほしいくらいだ。


No.1394 7点 赤いべべ着せよ…
今邑彩
(2018/06/10 14:57登録)
日本のとある地方都市、昨今の都市開発による都会化と昔ながらの田舎の風景が残る夜坂で起きる子供たちの連続殺人を扱っている。
その町に昔から伝わる平安時代末期に桜姫という公家の娘に纏わる子取り鬼の伝承、それに由来する廃寺に祀られた子取り観音。その伝承を擬えるような幼い子供の殺人事件。これらは見事なまでに本格ミステリの見立てである。

何とも人の業の深さを痛感させられる物語であった。
本書における怖さとは何か?次々と何者かによって我が子を殺される未知の恐怖。それも確かに恐ろしい。
しかし事件が起こることで起きる友人たちとの軋轢。いや一枚岩だと思われた友情が脆くも崩れ去り、謂れのない憎悪を向けられること、これが最も怖い。
その対象となるのが東京から出戻ってきた主人公の相馬千鶴だ。
つい先ほどまで22年ぶりの再会を喜び、娘がいなくなればお互いに励まし合い、一緒に探してもくれた幼馴染が災厄が自分に降りかかることで一変する恐怖。近しい人たちの裏切り。人間の心の弱さこそが本書において最も大きな恐怖だと感じた。
更に我が子を亡くすことで憔悴し、狂人のように変わっていく母親。さらに自分たちの都合のいいように解釈し、証拠もないのに怪しいと云うだけで殺そうと企む集団心理の怖さ。

本書の前に読んだ『ダ・フォース』も悪漢警察物とホラーと全く異なるジャンルながら、物語の根底にあるのは厚い友情で結ばれた者たちがあるきっかけで脆くも崩れていく弱さと共通している。片や2017年に刊行され、こちらは1992年刊行と25年もの隔たりがあるが、いつの世も人間の根源と云うのは変わらず、そして進歩がないものだと思わされる。

洋の東西、そして古き新しきを問わず、我々の正気と云うのはいわゆる安心の上で成り立っていることがよく解る。しかしその安心はいつまでも続く、つまり今日無事だったから明日も、1年後も、5年後も、10年後も、いや死ぬまでそうであると思いながら、実は実に脆い薄い氷のような物であることが知らされる。そしてその安心という支えが、基盤が無くなった時、なんと我々は文化人から野蛮人へと豹変するものかと痛感させられる。友情や愛情はすぐに疑心暗鬼、憎悪に変り、不安定な地盤に立つ自分と同じように人を引き摺り込もうと企む。
それは単に資産が無くなったり、家族が喪われると云った大きな危難に留まらず、例えば子供が云うことを聞かない、試験に自分の子だけ受かっていない、なぜうちのところに他所の家族を住まわせなければならないのかというちょっとした日常の不具合から容易に生じる。今邑氏はそんな日常にこそ狂気の種が既にあると仄めかしている。
以前も思ったが今邑氏の作品には常に無駄がない。人の悪意、心の根底になる妬み、嫉みと云った負の感情を、殺人によって表層化させ、全てが物語に、そしてミステリの謎に寄与し、登場人物たちの行動もさもありなんと納得させられるエピソードが散りばめられている。しかもそれぞれの登場人物たちが抱く負の感情が的確な表現で纏められ、人が大なり小なり些細なきっかけで容易に罪を犯すことを悟らされるのだ。

作中、登場人物の1人、高村滋が自宅の靴について語るシーンがある。彼が帰って三和土を見ると靴が減っていることに気付く。かつては校長だった父親の靴があり、母の靴、妻の靴、そして娘のみちるの靴で三和土はいっぱいだった。しかし父は愛人の許を去った際に母親は父の靴を全て燃やしてしまい、みちるは1年前の事件で亡くなり、後を追うように母も亡くなり、彼女たちの靴はもう玄関先にはない。高村家は靴が無くなるごとに暗鬱さを増し、そしてそれが住まう人々へ悪意を募らせているように見える。
そんな家に加わったのが千鶴と紗耶の靴。しかしこの母娘も狂ってしまった郁江に襲われた際に命からがら逃げ出すのに靴を置いて裸足で逃げだす。

私はこの悪意の棲む家に新たに靴が増えたことは何を意味しているのかと考えた。それは千鶴たちが悪意から逃れるために必要だったからではないか。靴が無くなることは即ち更に悪意が募ること。つまり彼女たちは悪意を持ち出すことを意味しているのではないか。
そう考えると最後に彼女がまず靴を買わなければいけないと思ったと敢えて作者が書いたことにある答えがある。それは夜坂に戻って晒された悪意からの解放を象徴しているのではないか、そして彼女は自分の足で再び立つことを決意したのだ。しかも靴を履く、つまりは外へ出ることを。夜坂を出る、そして社会に出ることを。

300ページにも満たない長編ながら、幼馴染という最初のコミュニティの絆の脆さ、我が子を喪うことで容易に陥る人間の狂気、1つの母子家庭の自立など、色んなテーマを孕んだ濃い内容の作品だった。


No.1393 9点 ダ・フォース
ドン・ウィンズロウ
(2018/06/05 23:43登録)
『犬の力』、『ザ・カルテル』で犯罪のどす黒さを存分に描いたウィンズロウが次に手掛けたのはニューヨーク市警特捜部、通称“ダ・フォース”と呼ばれる荒くれ者どもが顔を連ねる市警のトップ中のトップの野郎たちの物語。つまりは昔からある悪漢警察物であるが、ウィンズロウが描く毒を以て毒を制す特捜部“ダ・フォース”には腐った現実を直視させるリアルがある。

従って通常の警察小説とは異なり、文体や雰囲気はハードボイルド然としておらず、オフビートなクライム小説の様相を呈している。音楽に例えるなら、同じ警察を描いているマイクル・コナリーがジャズの抒情性を感じさせるとすれば、ウィンズロウの本書はどんどん速さを増すアップテンポの、畳み掛けるような怒りにも似た激しいヒップホップのビートを感じさせる。だから原題“The Force”をそのまま日本語にした邦題が『“ザ”・フォース』でなく、『“ダ”・フォース』なのだ。
そう思っていたら、やはり主役のマローンはジャズよりもラップを、ヒップホップを好む男だと描かれる。彼の生きている世界には抒情よりも本音をぶつけてくる攻撃的な音楽が似合うからだ。

デニー・マローン率いる“ダ・フォース”は社会の毒を浄化するための毒だ。必要悪とも云える。濃度の高い酸は濃度の高いアルカリでないと中和できない。それはどちらも人体にとって毒となる。それが彼ら“ダ・フォース”だ。
彼らには法を超えた法がある。単に悪人を逮捕するだけではダメなのだ。彼らが相手にしている悪は道徳的観念に欠けた正真正銘のワルばかりだ。無学でヤクを売りさばくことでしか、人を安い金で殺すことでしか生活できないチンピラから、商売敵、無能な部下、いや有能すぎて自分の地位を虎視眈々と狙う部下を疑い、殺すことでしか生きていけない無法のディーラーたちこそが彼らの相手。そんな人の命をクズとしか思わないやつらに道徳は通じない。
だから彼らは逮捕した時に徹底的にボコボコにする。顔の形が変形するほどに。そうしないと舐められるからだ。なんだ、逮捕されてもこの程度か、と。全然大したことないな、と。
“ダ・フォース”の面々が生きる世界は力こそが正義であり、そして治安のみならず自分の身を護る鎧なのだ。そんな世界をウィンズロウは色々なエピソードを交え、語っていく。

しかし毒はどんな理由であっても毒に過ぎない。マローンはヤクの売人との司法取引で弁護士に検事を巻き込んで無罪に持ち込むために賄賂を渡しているところを隠し撮りされたのを見せられ、ニューヨーク州南地区連邦検察局の連邦検事イゾベル・パスとFBI捜査官たちの汚職弁護士、検事たちを差し出すための囮、つまりネズミになることを強要される。家族と自らの保身のため、それを呑むことになってからはまさにマローンの人生は転落の一途を辿る。

これは王の凋落の物語。しかしその王は汚れた血と金でその地位を築き、恐怖で支配していただけの王だった。従ってその恐怖に亀裂が入った時、堅牢と思われた牙城は脆くも崩れ去る。
デニー・マローン達は確かに正義の側の人間。彼が取り締まっていたのは通常の遣り方では捕まえることの出来ない者ども。しかし上にも書いたように、ただ捉え方が違うだけで実質的にはやっていることは同じ。同じ穴の狢だったのだ。

やがてマローンはそれまで協力していたFBIに逮捕されるに至り、家族も担保に入られて絶体絶命の状況になった時に全てを供述して、自らも法の下に処罰されることを選ぶ。その時初めて彼は自分のやっていたこと、どこで間違い、そして堕ちていったのかを悟るのだ。
それからの展開は非常に辛い。最高の、そして最強のチーム“ダ・フォース”は分解をし始める。

昨日の友は明日の敵。友情は厚ければ厚いほど、裏切られた時の失望と怒りもまた深い。作用反作用の法則。命を預けられるほどの信頼で結ばれた仲間の絆は深く、そのために絆が剥がれる時、お互いの命を蝕むほどに根深く、そして傷つけるのだ。
やはり悪い事はできないものだと思いながらも、それまでどうにか切り抜け、ネズミになりながらも矜持を失わないように踏ん張るマローンを応援する自分がいた。そして彼が自分の悪行を悟って初めて彼もまた悪人である、毒であったことを知らされた。つまりはそれまで彼らの悪行を正当化するほどにこのデニー・マローン初め、フィル・ルッソ、ビッグ・モンティ、デイヴ・レヴィンの面々が魅力的だったということだ。

いやそれだけではない。
汚いことをやりながらもマローン達は自分たちの正義を行ったことだ。マローンはこの町が大好きで、人を愛し、空気を、匂いを愛したのだ。だからこそどんなことをしてでも町の平和を護ってやる、それが王の務めだと思っていたからだ。

後悔先絶たず。そんなことはいつも自分の心を隙間を突かれて堕ちていく人間が最後に行き着く凡百の後悔の念に過ぎず、謂わば単なる言い訳である。しかしそんな弱さこそがまた人間なのだ。

作中、マローンの恋人クローデットがこんなことを呟く。
「人生がわたしたちを殺そうとしている」

生きると云うことは苦しく、厳しいものだ。いっそ死ねたらどんなに楽か。本書では登場人物たちの生死によってその後の運命を見事に分っている。
悪行の報いと云ったらそれまでだろう。自分たちだけの正義を貫き、まさに生死の狭間に生きている警察官という仕事。そんな彼らに対する待遇が恵まれていないからこそ、このような負の連鎖に陥るのだ。
悪い事をしている奴らが使いきれないほどの金を持っており、一方それを捕まえる側は子供の養育費でさえヒイヒイ云いながら賄っている、この割の合わなさ。

そんな現実が良くならない限り、この“ダ・フォース”達は決してなくならないのだ。
それでも自分の正義を信じて生きていく彼らはまさに人生の殉教者。
ニューヨークの、いやアメリカの平和は少しでも衝撃を与えれば壊れてしまう薄氷の治安とバランスの上で成り立っている。そんな現代の深い絶望を感じさせる異色の警察小説だった。

そして私の中に流れる音楽がヒップホップからいつしか胸に染み入るバラードへと変わっていたことに気付いた。


No.1392 7点 謎物語 あるいは物語の謎
評論・エッセイ
(2018/06/03 21:36登録)
稀代の読書家でもあるミステリ作家北村薫氏。彼は“日常の謎”系ミステリの開拓者でありながらも実は生粋の本格ミステリ原理主義者、つまりガチガチの本格ミステリ傾倒者であった。

そんな彼が語る“謎”についてのエッセイ。ミステリにおけるトリックから始まり、やがて物語自体が孕む謎について論は進んでいく。

読み進むうちに北村氏がかなり本格ミステリの格の部分に傾倒していることが解ってくる。
曰く、トリックが驚天動地のものならば小説としての結構はどうでもいいではないか。
曰く、トリックが思いついたら書きたくなるのが人情ではないか。
曰く、人の死なないミステリ、特に日常性の中の謎、などといったタイプの作品に出会うとうんざりする。
ん?最後の文章は本当に書かれているのである。本格ミステリの地平に“日常の謎”系ミステリという新たな地平を築いた本人が。もう飽きたとまで云っているのである。

また北村氏がかなりの読書家であることも本書から伺える。古今東西のミステリ、それもほとんどマニアしか読まなかったであろうミステリはもとより、作曲家の服部公一氏のエッセイからも紹介されているのには驚いた。どれだけ守備範囲の広い人なのかと。

読書とはやはり自分の世界を広げる、実に楽しい行為であることを確認できるのが本書である。そして人によって新たな解釈が生まれ、それが新たな物語を生み、そして書かれ、更にそれを読んだ読者によってそれが連綿と受け継がれていく。読書の海は、いや宇宙はどんどん広がっていくのである。そしてそれは読む量が多いほど解釈する種が増え、思考は広がっていく。
謎物語、つまり謎を持つ物語を読むことで読者は思考し、解釈する。そしてそれは物語自体の謎へとベクトルが向き、物語の本質へと突き進んでいく。
ああ、また明日も本を読もう。そして物語の謎に浸ろう。そんな気持ちにさせてくれるエッセイだった。


No.1391 7点 オンブレ
エルモア・レナード
(2018/05/14 22:31登録)
2008年に『ホット・キッド』と『キルショット』の文庫化以来、翻訳が途絶え、2013年に逝去したレナードの作品はもう訳出されることはないだろうと諦めていた。だからまさに青天の霹靂だった。10年ぶりに未訳作品が刊行される、しかも訳者は村上春樹氏!何がどうしてこんな奇跡が起こるのかと不思議でしょうがなかったが、兎にも角にもそれは実現した。

しかも村上春樹氏が数あるレナード作品から選んだのは既出の作品の新訳版でもなく、はたまたレナードがベストセラー作家となった以後の作品でもなく、彼がまだデビュー間もない頃に書いていたウェスタン小説というのもまた驚きだ。特にこの手の作品はレナードが犯罪小説の大家として名を成していたために初期の作品については決して訳されないだろうと思っていただけに、三重の驚きだった。

そんな本書『オンブレ』には中編の表題作と短編の「三時十分発ユマ行き」の2編が収められている。
表題作は白人とメキシコ人の混血で、3年間アパッチと共に暮らした“オンブレ”の異名を持つジョン・ラッセルの物語。
このジョン・ラッセル、まだ21歳ながら、蛮族として白人連中に忌み嫌われていたアパッチと3年間共に生活をしていた経験から、白人たちとは異なった価値観、考え方を持つ。人の命を優先しがちな白人たちと違い、彼は常に自分の命を優先して物事に当たる。というよりも最大限に仲間の命が助かる道を選ぶ。従って1人のために皆に危機が訪れることは選択しない。それが時には非情に映るようになる。
つまり彼は無法の地で生きていくために身に着けることになった考え方、そしてアパッチたちとの生活で培ったサヴァイバル術を実践し、自分の考えに従って行動しているだけなのだ。
その一方でアパッチに対する敬意も深く、野蛮だ、忌まわしいと一方的に忌み嫌う人々には容赦ない眼差しを向ける。
彼は決して気高い男ではない。但し常に冷静な頭で考え、行動する。そうやって生きてきた男だ。作中こんな言葉が出てくる。
 “ラッセルは何があろうと常にラッセルなのだ”
これほど彼を的確に表現している言葉もないだろう。誰にも干渉されず、従わない。しかしなぜか皆が頼りにしてしまう男、オンブレがジョン・ラッセルなのだ。

そんな人の心の弱さを見せつけられる中、一人正論を吐き、常に気高くあろうとするマクラレン嬢の存在はある意味、本書における良心だ。アパッチに襲われ、1カ月以上行動を共にした17、8歳の女性は、恐らくはその地獄のような生活で凌辱の日々を過ごしながらも道徳心を保ち、そしてそれに従って生きようとする。
しかしこの荒野や悪党どもとの戦いの中ではそれらが実に偽善的で自己満足に過ぎない戯言のように響く。正しいことをすることで被る犠牲や危機がある、それがこの無法の地であることをこの正しき女性マクラレン嬢を通じて我々読者は痛感するのである。
そして正しきことをすることで訪れるのは哀しい結末だ。それが西部開拓時代のアメリカの姿なのである。

もう1編の短編「三時十分発ユマ行き」は3時10分に訪れる列車に乗せる囚人を預かった保安官が孤軍奮闘して囚人を救出しようと町に訪れる彼の仲間たちの襲撃を退け、無事列車に乗せるまでの顛末を語った物語だ。
保安官補スキャレンもまた西部の男の1人。彼は任務のため、仕事のために命を張る。その頭に過ぎるのは3人の子供と女房。家族のことを思いながら家族のために命を賭ける。死ねば何も意味はなくなることは解っていながら、そう簡単に割り切れない。なぜならそれを彼が求められたからだ。そんな不器用さが滲み出てて実に好感が持てる。

この2編を読んで思わず出たのは「男だねぇ」の一言である。

チャンドラーに続き、これが村上氏によるレナード作品訳出の足掛かりとなって今後もコンスタントに氏の訳で出版されることを望みたい。私はそれにずっと付いていくとここに宣言しておこう。


No.1390 7点 チェイシング・リリー
マイクル・コナリー
(2018/05/12 00:05登録)
まず驚くのがコナリー作品とは思えぬほど、全体的に輕みがあることだ。それは本書の主人公ヘンリー・ピアスはこれまでのコナリー作品では考えられないほど、浅薄で未成熟な人物として映ることに起因していると思われる。

技術オタクの若造が社会不適合者ぶりを発揮して自己中心的に振る舞い、周囲の目に気付かずに狼狽する様子がアクセントとして織り込まれ、ユーモアを醸し出しているため、私はてっきり彼が追っているリリーも元締めによってどこかで消されたと思わせつつ、物語の最終で元気な姿で登場し、そしてこのサエナイ君と最後は恋人となる予感をはらませてハッピーエンドを迎えると云うお気楽ミステリのように考えていたが、やはりコナリー、そんな非現実的なロマンティック・コメディを一蹴する。

さてコナリー作品にはハリー・ボッシュシリーズを軸にしたいわゆるボッシュ・サーガが繰り広げられるが、ノンシリーズである本書も例外でなく、まずリリー殺害の容疑を掛けられた主人公のヘンリー・ピアスが紹介される弁護士はジャニス・ラングワイザーである。彼女は『エンジェル・フライト』でボッシュと組んだ後、『夜より深き闇』でボッシュが手掛けた事件の次席検事補として登場し、華々しい活躍を見せ、読者に強い印象を残した人物。その後彼女は検事を辞め、刑事弁護士に転職したことが判明。

しかしシリーズのリンクはそれだけでなく、もっと驚くのピアスがなんとドールメイカー事件と関わりがあったことが判明することだ。彼の姉イザベル・ピアスはドールメイカー事件の被害者だったのだ。
ボッシュシリーズ第1作目から尾を引き、そして第3作目の『ブラック・ハート』でケリが着いた事件だったが、実は被害者の関係者ではまだ事件が終っていないことを本書では示唆している。ピアスの中では姉の死はいまだに尾を引き、父親に頼まれて失踪した姉が無残な姿で見つかったことが、今回のリリー失踪に対してもただ同じ電話番号を持っているというだけの繋がりで放っておけなくなり、そして彼女の無事な姿を確認するまで捜索を続ける動機付けとなっている。
このことから本書は実はボッシュが関わる事件の被害者家族の1人にスポットを当てた作品であり、その他大勢として片付けられる人物にも一つの人生があり、そしてその人の死によって人生を変えられた人がいることを1つの作品として描く。やはりこれは9・11の同時多発テロで多くの尊い命が奪われたことに対する、コナリーなりの追悼の書と云えるだろう。大量死の中に埋もれた人々に名を与え、そしてその人の人生と遺族の人生を語ることを強く意識していると思われる。

そして一連の事件の真相が明かされると私はある古典名作を想起した。
チャンドラーを敬愛し、その影響を包み隠さず自作に反映し、そしてロス・マクドナルドばりのアクロバティックなサプライズを物語に取り込む、まさに現代ハードボイルド小説の雄コナリーが本書で挑んだのはある名作の変奏曲。
意外にもこれについては色んな人の感想を読んだが言及されてなく、不思議に思った。このことに気付いたのがもし私だけならば一度コナリーにその真偽について聞いてみたいものだ。

本書を最後にノンシリーズは書かれていない。いわばボッシュシリーズを幕を下ろそうとして新たな作風を模索していた頃の作品だ。この後リンカーン弁護士シリーズという新たな地平を見出し、ボッシュシリーズと並行して書いていく。本書はコナリーがそこに至るまで暗中模索、試行錯誤しながら著した非常に珍しい作品だ。現代ハードボイルド小説の第一人者として名高いコナリーもそんな時期があったことを示す貴重な作品としてファンなら読むべきであろう。


No.1389 10点 このミステリーがすごい!2018年版
雑誌、年間ベスト、定期刊行物
(2018/05/08 23:59登録)
30冊目のメモリアルに相応しく、本書は質・量ともに近年にないほど充実していた。
まず驚くのはなんと第1冊目の誕生号がまるまる1冊収録されていることだ。もうこれだけで『このミス』1冊読んだのと同じくらいの気分になれた。

新本格勃興期の綾辻行人氏を筆頭に第1次新本格作家たちが出てき出した頃の新本格ブームの中、船戸与一氏の南米三部作の掉尾を飾る『伝説なき地』と原尞氏のデビュー作でハードボイルドの傑作『そして夜は甦る』が1,2位を抑えるという冒険小説、ハードボイルド小説、本格ミステリそれぞれが勢いを増し、切磋琢磨していた時代の凄さが紙面に溢れている。
海外も同じでトレヴェニアンの叙情豊かな警察小説『夢果つる街』が1位となれば、2位はリーガル・サスペンスの傑作トゥローの『推定無罪』が、そして3位はイギリス本格ミステリの重鎮P・D・ジェイムズの『死の味』が鎮座ましますとこれまた物凄いランキングである。
また投稿者のコメントもミステリ愛が深く、正直最近の『このミス』以上に読み応えがあり、紹介されている作品に食指が伸びて伸びて仕方がないほどの魅力と魔力を持っている。

更にはパソコン通信のミステリを話題にした「会議室」の紹介もあったりと時代を感じさせながらも、当時も昔もミステリに対する愛好者の愛の強さは変わらないのだと感じさせられた。いやどちらかと云えば、古くから古典ミステリに親しみ、云わばミステリの系譜を連綿と受け継いできた当時の読者諸氏の方が、それら名作を読まずに新本格以後からの作品しか読んでいない人が多い昨今のミステリファンよりも愛情は深く、そして広範な知識に裏付けされた遊び心があるように感じた。

しかし本編も今年は負けず劣らず、非常に注目が高いランキングとなった。
まず驚くのは今村昌弘氏の『屍人荘の殺人』が堂々1位を獲得したことだ。新人でしかも本格ミステリ作品での1位である。今までにない快挙だ。2位は伊坂氏の復活を告げる『ホワイトラビット』。自身デビュー30冊目の記念碑的作品らしい。3位はもはや常連と化した月村了衛氏の『機龍警察』シリーズの『機龍警察 狼眼殺手』、そして4位がこれまた本格ミステリ、貴志祐介氏の『ミステリークロック』、5位も本格ミステリ出身の古処誠二氏の『いくさの底』と、本格ミステリが中心の中、一人怪気炎を吐く月村氏の『機龍警察』シリーズが食い込み、誕生号とは対照的なランキングとなって興味深い。

海外編ではやはり『フロスト警部』シリーズ最終作『フロスト始末』が1位と有終の美を飾った。このシリーズ、過去の『このミス』でも上位5位圏内にランクインしている高品質ミステリ。いつか必ず読みたいシリーズだ。
しかし海外ランキングはこれ以外では波乱含みのランキングとなった。新進気鋭のケイト・モートンの『湖畔荘』は下馬評の評判通り4位という好位置につけたが、それ以外ではボストン・テランの『その犬の歩むところ』が8位、マーク・グリーニーは13位、アーナルデュル・インダリダソンが15位、ヘレン・マクロイが16位、ジェフリー・ディーヴァーが17位と下位圏内にひしめく状況で、上位は本邦初訳、もしくは2作目訳出の作品がランキングを席巻する状況となった。
特に驚きなのは第2位を射止めた陳浩基氏の『13・67』である。中国ミステリが初ランクインでしかも2位という快挙だ。それ以外にもオーストラリア、フランス、アイスランドと多国籍化が進み、以前の英米主流からますますグローバル化へ拍車がかかった。いやあ、今回のランキングは本当に海外ミステリの大転換期であると大いに感じた。その中で古参の『フロスト警部』シリーズが1位を獲得した意義は実に大きい。

また今回は以前のスタイルに戻ったことが大きい。ランキング結果が最初に出され、その後にランキング本の解説がなされている。やはりこの方が読みやすい。
更には座談会が充実しており、実に読みごたえがあった。宮部氏×綾辻氏(しかし綾辻氏は老けたなぁ)、恩田陸氏×宮内悠介氏、新鋭作家大座談会と、それぞれの時代のそれぞれの読書遍歴、作風スタイル、交流などが垣間見れて非常に興味深かった。特に新鋭作家の皆さんは若いだけあってSNSを非常に活発に活用されているのが印象に残った。
コラムも充実しており、これぞ『このミス』といった納得の内容だった。30冊目という記念だからの充実ぶりだとしたら、それは哀しい。やはりその年一年のミステリシーンを概観し、総括するムックならばこれだけやって当然なのだ。

今回の『このミス』はどんどん読み進みたいのに読み終わりたくなくなるほどの面白さだった。迷わず10点を献上しよう。毎年『このミス』はこうであってほしい。『このミス』と出逢ってミステリ読者となった一読者の心の底からのお願いである。
今年もいいミステリが生まれ、そして年末に更に面白い『このミス』と出逢えることを祈りつつ。30周年記念号、大いに期待してます!


No.1388 7点 リヴィエラを撃て
高村薫
(2018/05/06 21:13登録)
物語の冒頭、日本の汐留インターで転がっていたIRAのテロリスト、ジャック・モーガンの死体、その事件前に見つかった東洋人女性の射殺体と、その直前に警察に入った女性の声でジャック・モーガンが捕まり、リヴィエラに殺されるとの一報から警視庁外事一課、手島修三がこの事件を捜査が始まる。
しかし物語はそこから様々な国の諜報機関が追う謎の人物リヴィエラの捜査に向かうのではなく、手島がかつてイギリス大使館時代にリヴィエラを通じて知り合ったスコットランド・ヤード副総監のジョージ・F・モナガンの手紙を辿るように、このIRAのテロリスト、ジャック・モーガンの生い立ちへと飛ぶ。

物語の中心は《リヴィエラ》という白髪の東洋人とだけが判明している謎の人物である。しかしこの謎の人物は姿を見せず、この殺害されたジャック・モーガンの、死に至るまでがメインに語られる。つまり彼の死から始まるこの物語は詰まるところ、主人公の死から始まる物語と云っていいだろう。東京の高速で見つかった異国人の波乱万丈の人生に昔彼に関わった男がその過去へと踏み込んでいく。《リヴィエラ》という名を手掛かりにして。
複雑に絡み合った人物相関。それらは最初には明かされず、上に書いたようにジャック・モーガンの生い立ちに沿って現れてくる数々の登場人物がジャックに語ることで次第に明らかになってくる。

髙村氏の描く諜報の世界で生きる者たちは物語当初は第三者の目を持って物事を見つめ、決して主体的になるわけではなく、覚めた視座で物事を見、分析をする、そんな冷静冷徹な様子を醸し出している。平常心を保つために、ある者はユーモアを常に持ち、またある者は折り目正しい姿勢を保ち続ける。
しかしそんな男たち女たちも人間であるかのように次第に感情を露わにしてくる。露わにしてくるといっても、彼ら彼女らは決して本意を悟られないように表に出さない。表面は凪いだ海のように平静を装いながら、心中は嵐のように波立たせて。
友情、そして愛情。諜報の世界に住む人々にとって決して抱いてはいけない人間的感情だ。しかし彼らは正気を保つためにそれを大事にする。
スパイやエージェントたちが常に客観的に物事を見据え、死と隣り合わせの世界で生きていくために冷静を強いられるのは、逆に云えばプライヴェートな部分で冷静さをかなぐり捨てたがゆえに既に過ちを犯したことを教訓にしているからかもしれない。だからこそ任務で私情を交えた時、それは彼の諜報の世界で生きる人間の運命の終焉になるのだろう。

政治家、諜報機関はなんとも些末な事実を隠すために事を荒立て、多くの命を犠牲にしてきたのか。そして恐らく21世紀の今も更に多くの国を巻き込んで、こんな不毛な命のやり取りを伴った諜報戦が繰り広げられているのに違いない。髙村氏の作品は今回もまた私を憂鬱にさせてくれた。


No.1387 7点 ラプラスの魔女
東野圭吾
(2018/04/29 23:01登録)
受験生だった頃、また仕事に行き詰り、先行きに不安を覚えた時、こんな風に思ったことはないだろうか?
全てが見通せる、全知全能の神になりたい、と。
本書はまさにそんな能力を持った人間の物語である。

本書の題名に冠されている耳慣れない言葉「ラプラス」、私はこの名前を中学生の頃に発売されたゲームソフト『ラプラスの魔』で初めて知った。ホラー系のゲームだったため、従ってそのタイトルに非常に似た本書もホラー系の小説かと思ったくらいだ。この両者で使われているラプラスとはフランスの数学者の名前で全ての事象はある瞬間に起きる全ての物質の力学的状態と力を知ることが出来、それらのデータを解析できればこれから起きる全ての事象はあらかじめ計算できる決定論を提唱した人物で、それを成し得る存在を“ラプラスの悪魔”と呼ばれている。
羽原全太朗博士が中心となって手掛けている、人間の脳が備え持つ予測能力を最大化させる謎とその再現性を目的にしたラプラス計画はこの数学者から採られており、そして突出した予測能力をこの計画によって得た甘粕謙人が「ラプラスの悪魔」であり、羽原円華こそがタイトルになっている「ラプラスの魔女」なのだ。

そんな最先端の脳研究によって生み出された類稀なる予測能力を持つことになった甘粕謙人と羽原円華。彼らはいわば究極の犯罪者だ。結局甘粕謙人が行った硫化水素中毒殺人はその日その時の天候、風向き、気温、湿度などの条件がその場所で揃わないと起こらない、天文学的確率の上での犯行だからだ。しかもそれを予測できるのは彼ら2人のみ。これがファンタジーでなく、近い将来に生まれてくる特殊能力を備えた人間ならば、まさに彼らの行う全ての行為は再現性不可能であり、完全犯罪が容易に成し得る存在となる。

まだまだ未知なるものが多い世界。しかしそれらが徐々に解明されつつある。
しかし全てが解明された果てに見える景色は決して幸せなものでないことを本書はまだ10代後半の女性を通じて語っている。我々の見知らぬ世界に一人立つ彼女がどことなく厭世的で諦観的なのが心から離れない。悪に転べば誰も捕まえることの出来ない究局の犯罪者となる、実に危うい存在。
見えている風景がどんなものであれ、羽原円華は生き、そして立っている。その強さをいつまでも持っていてほしいと危うくも儚さを感じる彼女の前途が気になって仕方なかった。


No.1386 7点 限界点
ジェフリー・ディーヴァー
(2018/04/29 00:42登録)
久々のディーヴァーのノンシリーズ作品である本書は警護のプロと<調べ屋>と称される殺し屋との攻防を描いたジェットコースター・サスペンスだ。
主人公は連邦機関<戦略警護部>の警護官コルティ。6年前の事件で師であるエイブ・ファロウを殺害された警護のプロ。
対する敵はヘンリー・ラヴィング。凄腕の<調べ屋>でコルティの師ファロウを拷問の末に殺害した男。

そんな2人の極限の攻防はまさにターゲットの死を賭けた精緻なチェスゲームのようだ。ディーヴァー作品の特徴に専門家と違わぬほどのその分野の専門的知識が豊富に物語に盛り込まれることが挙げられるが、本書でもこの警護ビジネスに関する知識がコルティの独白を通じて語られる。
また本書がこの敵と味方の攻防をチェスゲームのように描いているのは作者も意図的である。コルティの趣味はボードゲーム。プレイのみならず古今東西のボードゲームの蒐集も行なっている。さらにコルティは大学院で数学の学位を取得中にゲーム理論をかじっており、これを自分の仕事に活かしている。本書ではこのゲーム理論がところどころに挿入され、それがさらに本書のゲーム性を高めている。

また追う者と追われる者のハンターゲーム以外にも、もう1つの謎としてライアン・ケスラー刑事を標的にした依頼人の目的が不明なことだ。金融犯罪を担当する彼が扱っている2件の事件について調べていくうちに、意外な展開を見せていくのもまたミステリの妙味となっている。
実は本書はこのケスラー一家殺害を命じた依頼人の意図がどんでん返しとなっているのだが、その内容が次第に尻すぼみしていくのだ。最近のディーヴァー作品は意外性を狙うがゆえに、結末がチープになるという、どんでん返しの「手段の目的化」が散見されるのが残念だ。

題名の『限界点』も正直何を指すのかよく解らないし、原題の“Edge”に関してはラヴィングとコルティが得意とする、目的を完遂するために利用する周囲の人々の弱みを握る、つまり打ち込む楔を指しているが、それ以外にもそのマーリーと口づけを交わした川に面する崖の縁を示しているように思われる。これの表す意味については本書を当たってもらうと実に浅薄であることが解るのでここでは敢えて書きますまい。
返す返すも残念な作品だ。


No.1385 7点 南十字星
ジュール・ヴェルヌ
(2018/04/24 23:50登録)
ヴェルヌの小説は大きく分けて2つある。地底世界、海底、月世界とまだ誰もが行ったことのない世界を舞台にした空想の世界を舞台にしたものと、世界と地続きである当時未開の地だったアフリカを皮切りにアジア、ユーラシア大陸などさほど知られていない場所を冒険する物語である。本書は当時ダイヤモンドの採掘ラッシュで世界中から一獲千金を夢見て人が訪れた南アフリカを舞台にした後者の側に位置する物語である。
南アフリカでの金採掘を巡る話といえば、私は高校生の頃に読んだシドニー・シェルダンの『ゲームの達人』を思い出す。誰もが他人を出し抜いてダイヤの原石を追い求める物語はもしかしたらこの作品が原型なのかもしれないとも思った。

当時ヴェルヌが南アフリカを訪れていたか否かは寡聞にして知らないが、とにかく相変わらず細部に亘って非常に詳しく南アフリカの各地方の風景や民族、風習が描かれている。そしてダイヤモンドラッシュに沸く当地の煩雑な情景が目に浮かぶように鮮やかに描かれている。アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、イギリスのみならず中国からも一獲千金を夢見て訪れ、ある者は太いコネクションを得て次から次へと採掘し、成り上がる者。上手くいかず、夢破れて去る者、命を落とす者。そんな混沌な南アフリカの喧騒は、物語の舞台として実にマイナーだけにあまり語られることのなかった舞台を知る、しかもその当時の状況を知る意味でも歴史的資料としての価値も高い。

そして何よりも興味を惹かれたのは世界に侵出し、次々と世界各国の未開の地を植民地にしていった西洋人の彼の地での傲慢さが際立っていることだ。特に現地人、そしてアジア人である中国人へのからかいぶりはもはや悪戯を通り越して悪質な虐めである。
ヴェルヌの作品には大航海時代以来、世界を股に掛けてきた欧州人たちの傲慢さが端々に見られるのだが、まさにこのアジア人、現地人への迫害は、高校生、中学生のいじめっ子がいじめられっ子に行うくらいの未熟な精神性で行われ、習慣として悪戯、虐めを行っており、読んでいて気持ちがいいものではない。

さて当時の南アフリカのダイヤモンド・ラッシュに群がる西洋人たちの欲望と喧騒を描いたこの物語は、実は一介のフランス人の鉱山技師シプリアン・メレが現地で出会ったアリス・ワトキンズといかにして結婚するかという物語である。1つの愛を成し上げる男の苦難と苦闘の物語である。荒くれ男どもの汗臭く、泥臭い鉱山を舞台にしながら、軸となっているのはあくまで高潔であろう、そして1人の女性への一途な愛を貫こうとした不器用な男のラヴストーリーというのはなかなか心憎い演出である。今まで未知の地での冒険がメインで、男女の色恋沙汰についてはほんの添え物としてしか語られなかったヴェルヌ作品において、一途な愛を前面に押し出した本書は実に珍しい。

冨の象徴ダイヤよりも愛こそが尊い。幻となった巨大ダイヤよりも愛こそが確かなものとして結論付けた本書はヴェルヌの中でも異色なまでにロマンティックな物語ではないだろうか。


No.1384 7点 シティ・オブ・ボーンズ
マイクル・コナリー
(2018/04/22 23:43登録)
今回の捜査において古い骨の鑑定が据えられている。これは恐らくアーロン・エルキンズのギデオン・オリヴァー教授シリーズの影響でもなく、またジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズのヒットによる影響でもなく、当時大いにヒットしていたTVドラマ『CSI:科学捜査班』の影響があったのではないだろうか。

家庭の中に隠された悲劇がボッシュは自身の捜査で明るみに出される。虐待された少年の遺体から家族の中で隠され、守られてきた秘密が明かされる。
この辺の展開は今までコナリーが敬意を払っているレイモンド・チャンドラーの諸作品よりもむしろハードボイルド御三家の1人、ロス・マクドナルドの作風を彷彿とさせる。

また本書が発表された時期にも注目したい。本書の原書が刊行されたのは2002年。そう、あのニューヨークの同時多発テロが起きた翌年である。本書にも言及されているが、3000人もの人が瓦礫に埋もれて亡くなったテロ事件である。
そんな大量死の事件を経たからこそ、30年前に埋められた身元不明の少年の死の真相を探る事件が敢えて書かれたのではないか。
いわば一己の人間という尊厳が失われる大量死が実際に起きたからこそ、敢えて名もない少年の、30年前に埋められた少年の素性を探り、そしてそこに隠された真実を追い、そしてその骨を埋めた犯人を捕まえることがその少年の尊厳を守ること、そしてその死体に名を、人間性を与えることになるからだ。ニューヨークの世界貿易センタービルの下には今なお瓦礫に埋もれて忘れ去られようとしている名を与えられていない遺体が沢山いることだろう。コナリーはそんな人たちへの鎮魂歌として掘り出された骨の、かつて人間だった少年を殺した犯人を探る物語を描いたのではないだろうか。
これはまさに笠井潔氏が唱えた『大量死体験理論』の正統性を裏付けるかのようだ。やはり大量死の発生が1人の人間の死の真相を探り、尊厳を与えるミステリが書かれる原動力となるのかもしれない。

本書のタイトルもまたこの大量死から生まれたように感じる。
シティ・オブ・ボーンズ。骨の街。
本書では埋められた子供の骨が見つかった丘を方眼紙で区分けして骨が見つかった場所をプロットしていく作業を鑑識課員の1人がまるで道路やブロックを置いていくようで街を描いているように感じるから、骨の街と名付けたと話している。
しかしこの名前は同時多発テロ後のその時だからこそ付けられたタイトルではないだろうか?テロが起きたニューヨークの街は3000人もの人が亡くなった街だ。それはつまり数限りない骨が埋められた街を指している。舞台はロサンジェルスだが、このような無差別テロが起きるアメリカはどこも骨の街であり、また骨の街になり得るのだと哀しみを込めてコナリーが名付けたように思える。


No.1383 3点 死の舞踏
評論・エッセイ
(2018/03/26 23:16登録)
1993年に福武書店から刊行された、1981年に発表されたキングのエッセイ。長らく絶版だったがこのたびちくま文庫にて再々刊された。しかも本書は2010年及び2012年にそれぞれ刊行された増補改訂版を底本にした最新版である。しかしキングはエッセイさえもリメイクするとは驚いた。

しかし大著である。あとがきを含めると720ページもある。エッセイさえも雄弁に語る、いやエッセイだからこそ彼の雄弁さに歯止めがかからないのか、これほどまでの分量のエッセイは今まで見たことも読んだこともなかった。

キングのホラーの定義、彼の生い立ちが彼の作品に大いに影響していること、それまでの諸作の源泉や意図したことなど、キング自身について方々で語られているエピソードの源泉が本書にあるのだが、前半のパートはキングの恐怖に関する考察、分析などが独特の語り口で繰り広げられ、なかなか興味深い話もあった。しかし後半の映画・小説に関する更にディープに踏み込んだ内容になってくると、もう何を読んでいるのかが解らなくなった。キングが選出したそれぞれ好みの作品に付いて詳細に語っていくが、それもあまり纏まっているとは云えず、それぞれ書きたいことをどんどん放り込んでいるかのようで、とにかく語り出したら止まらない様相を呈している。正直後半については私は半分も理解していないだろう。

とにかく「語りたがり」のキングが自身のリミッターを外して存分に恐怖について語った本書。冒頭に挙げた映画から小説、さらにはラジオドラマまで存分に思うがままに書き連ねているエッセイは文章がとめどめなく溢れるかのようで実際少し、いやかなり読みにくい。湧き出てくる考えや感想をそのまま垂れ流すかのような筆致である。
正直に云って本書を読む限りキングは小説巧者であるが、エッセイ巧者ではないと断言しよう。しかしホラー、殊に「恐怖」に対する関心は並々ならぬ物があることを感じるエッセイである。

私にとってはキングの能弁な語り口に「踊らされた」エッセイだった。まさしくそれは舞踏のように。


No.1382 7点 尋ねて雪か
志水辰夫
(2018/03/25 23:58登録)
志水辰夫最初期の長編で4作目に当たる。高知出身の彼はなぜか北国を舞台にした作品が多く、本書も舞台は札幌。しかしこの氷点下の気温で雪が降りしきる北の街が志水作品にはよく似合うのである。

物語は盗まれた土地売買の契約書を取り戻してほしいと依頼されたヤクザの佐古田史朗が弟分の島と共に犯人を追って札幌に向かうが、当の本人はマンションで既に殺され、目当ての書類も無くなり、地元のヤクザとの対決に発展していくという話である。
彼が土地売買の書類を取り戻しに行ったのは捨てた故郷の北海道は札幌で、偶然にも捨てた継母とその娘、そして失踪した父親と出くわすという、昔ながらの運命の悪戯を絵に描いたようなお話である。

数十年経ってからの贖罪。しかもこれは自分勝手な贖罪だ。自己満足にしか過ぎない贖罪だ。しかし昭和の男とはこんな身勝手に生き、そして不器用だったのだ。

そして舞台は北海道は札幌。タイトルにもあるように物語全編に亘って雪が降りしきる。史朗が外に出る時は常に雪が降っている。
雪。それは史朗の心に降り積もる過去の澱。父親同然に自分を育ててくれた家族を捨てた後悔の念が強くなるにつれて雪の降る度合いも増えてくる。雪は史朗の行く手を阻むかのように降りしきるので、史朗は目指すところに常に遅れてしまう。大金をせしめて追われる弟を、その弟の行方を追う妹を、その恋人を探すのだが、常にその道行には雪が降りしきる。
訪ねる先は常に雪。それは彼にとって過去を償うための障害だった。

久々に読んだ志水作品は非常に泥くさく不器用な男と北の寒さと雪が終始舞う寂しい物語だった。幾分消化不良気味だがそれもシミタツの味として今は余韻に浸ろう。


No.1381 7点 必死の逃亡者
ジュール・ヴェルヌ
(2018/03/12 23:34登録)
フランス人でありながら自国に固執せず、様々な国を舞台に、そして様々な国の人々を主人公に、登場人物にして数々の物語を紡いできたヴェルヌが本書の舞台に選んだのはなんと中国。しかも登場人物も中国人という、異彩を放つ物語だ。

しかもこの話、実に奇妙である。物語の構成としては1人の富豪の中国人が奇妙な仲間と中国全土を旅するという、ヴェルヌ定番の冒険物であるのだが、その目的が実に変っている。
31歳にして巨万の富を手に入れ、もはや世の中に飽き飽きしていた金馥という富豪がある日突然アメリカの銀行から破産宣告を受ける。それをきっかけにもはや生きる意味がないと判断した彼は反政府組織の元太平党員だった家庭教師、汪に自分を殺害するように依頼する。しかし汪は承諾するものの、それを実行しないまま消えてしまう。その直後に再びアメリカの銀行から手紙が届き、破産は偽のニュースで逆に資産が2倍に増えているという知らせを受ける。そのことで金馥は再び生きることを選択し、許嫁との結婚も決意するが、今度は自分の暗殺を依頼した消えた汪に依頼の取り消しをするために捜索の旅に出るという、実に歪な内容なのだ。正直上記のように内容を纏めていてもどこかちぐはぐな箇所があり、ツッコミどころ満載なプロットである。

この辺の物語の妙味はかつてのヴェルヌにはなかったものだ。どちらかというと旅に主眼を置いた物語展開で、その目的や動機付けに関しては正直二の次で諸国漫遊物語と云った色合い、もしくは都市の発展、無人島生活の発展といった細部にこだわった作風が多かった。

さて従来ヴェルヌ作品には有能な召使いが登場するが先に読んだ『征服者ロビュール』に登場したフランコリン同様、今回登場する金馥の召使い孫は実に無能な人物だ。むしろその役割は自社の保険金を守るために金馥の旅にボディガード役として同行した保険会社の探偵クレイグとフライがその役割を担っていると云えるだろう。
顧客の安全を守るためには命を落とすことも厭わず、危機を素早く察知して機転を利かせて即応し、サメが襲ってこようものなら、ナイフ片手に立ち向かい撃退するなど、金馥の命を幾度も救う。
よくよく考えるとこの旅の一行の構成は『水戸黄門』そのものである。金持ちの金馥が黄門様こと水戸光圀、彼を守る有能な保険会社の探偵クレイグとフライがそれぞれ助さん、格さん、間抜けだが愛嬌のある召使いはうっかり八兵衛とぴったりと当て嵌まる。紅一点のお銀に当て嵌まる人物がいないのは仕方がないが、古今東西、旅の仲間の構成は変わらぬと云うことか。

実にヴェルヌにとっては異色の作品だ。西洋人がいない東の大国を舞台にした一風変わった冒険行の物語。そして物語を読み終わった時、改めて何の変哲もない本書の題名を読むと、そこに隠された意図が見えてくることに今更ながら気付かされた。
一度も中国を訪れずに本書を物にしたヴェルヌ。しかしその本音は最後の一行こそに込められているのではないだろうか―それを見るには、中国に行く必要がある!―。


No.1380 10点 夜より暗き闇
マイクル・コナリー
(2018/03/11 23:07登録)
本書の献辞にはこう書かれている。
“(前略)ふたりは第二幕が存在することを証明してくれた”
つまり本書はシリーズ第二幕の開幕を告げる作品なのだ。またその意気込みを見せるかのようにコナリーはノンシリーズの『わが心臓の痛み』の主人公、元FBI心理分析官テリー・マッケイレブ、同じくノンシリーズの『ザ・ポエット』の新聞記者ジャック・マカヴォイを登場させ、ボッシュと共演させる。まさにオールスターキャスト出演の意欲作である。
しかもこれが単なるファンサービスによる登場ではない。テリー・マッケイレブの捜査はハリー・ボッシュが扱う事件と同じ比重で描かれている。つまり本書はテリー・マッケイレブシリーズの第2作目であるとも云える。

まずボッシュは最初冒頭の1章に登場し、そこからはテリー・マッケイレブの許に殺人事件の資料の分析の依頼が来るところから幕を開ける。 そこからも主にマッケイレブの捜査にページが割かれ、主人公のボッシュは自分が挙げた殺人事件の犯人で映画監督のデイヴィッド・ストーリーの裁判に出廷する様子が断片的に描かれるだけである。
読者は果たしてこれはボッシュシリーズの8作目なのか、もしくはテリー・マッケイレブの第2作目の作品なのかと戸惑いながら読み進めていくと、上巻の後半にとんでもない展開が待ち受けている。
なんとテリー・マッケイレブが事件をプロファイルして絞り込んだ犯人はハリー・ボッシュだというのだ。
とうとう作者コナリーはシリーズ主人公をも容疑者にするという驚きを読者に与えてくれたのだ。

しかし毎回このコナリーという作家はどれだけ緻密な物語世界を作っているのかと唸らせられる。今回マッケイレブがジェイ・ウィンストンに請われて調べる事件の被害者エドワード・ガンは『ラスト・コヨーテ』でボッシュがパウンズ警部補を殴り、強制ストレス休暇を取る羽目となった、パウンズが誤って解放した取り調べ相手だった。
私も読みながらボッシュが取り調べをした事件に既視感を覚えていたが、まさかあの事件だったとは。
更にコナリーが素晴らしいのはボッシュが売春婦の息子であることの出自、そして母親を何者かに殺されたことで―なおこの事件は『ラスト・コヨーテ』で解決し、真犯人も捕まっている―、かつて正当防衛とはいえ、娼婦を殺害したエドワード・ガンに対して母親殺しの犯人をダブらせているなど、更に常に反目しあっていた元上司パウンズが亡くなっており、それが早々にボッシュが嫌疑から外れていることなどの諸々がボッシュ=犯人として有機的に絡み合ってくる。
更に本書において特に強調されるのは闇。人の死を扱う刑事、心理分析官は犯人の闇を見つめつつ、自らもまた闇から見つめられていることに気付く。それはまさに魂を削られていく作業で、それが殺人を追う仕事であれば延々と続く。そしてボッシュはかつてヴェトナム戦争でトンネル兵士として常に暗闇を見つめていた男。その後もサイコパス達を相手にし、闇を見続けている。こんな第1作からの設定が8作目にしてなお効果的に働き、そしてボッシュが容疑者に置かれるという最高のピンチを生み出すことに成功している。シリーズ作品を余すところなく料理し、1つも無駄にせず、その醍醐味を味わさせてくれるコナリーの構成力の凄さには7作目にしてなお驚き、そして惜しみない賞賛を送らざるを得ないだろう。

さて今後ボッシュはダークヒーローの道を突き進むのか。また今回は単に物語のアジテーターの役回りに過ぎなかったジャック・マカヴォイは、ボッシュとマッケイレブ双方に縁があることが解ったわけだが、今後も彼らに関わっていくのだろうか。
常に読者の予想を超えるストーリーとプロットを見せてくれるコナリー。そして次はどんな物語を我々に披露し、そして驚かせてくれるのだろうか。


No.1379 8点 金閣寺に密室 とんち探偵一休さん
鯨統一郎
(2018/03/03 00:01登録)
本書はまさに掘り出し物だった。
一休との出逢いは子供の頃に放映されたTVアニメ「一休さん」が最初だったように思う。その後も一級のとんち話を集めた本を図書館などで読んだ記憶があり、子供心に一休さんの聡明ぶりにいつも胸躍らせたものだ。
本書はその聡明な坊主一休が金閣寺で起きた足利義満の密室殺人事件を解く話。しかしとんちの効いた一休さんがその賢い頭脳で探偵役を務めるという安直な設定ではなく、一休さん、即ち一休宗純の隠された出自に纏わる将軍家との暗闘や当時の絶対君主だった足利義満の異常なまでの好色ぶりに端を発する義満に仕える士官たちの苦難と屈辱が織り込まれ、足利義満を死に至らしめるまでのそれぞれの思惑がじっくりと描かれる。
まずは今に伝わる一休の聡明ぶりを示す数々のとんち話が挿話として織り込まれ、過去に「一休さん」の名で親しんだ人は勿論のこと、初めて読む人もその頭の冴えが愉しめるような話の運びになっている。

そして何よりも今回驚いたのは前掲したTVアニメの「一休さん」がその出自を含めて忠実に描かれていたところだ。ただアニメの一休さんよりも年上の15歳であることから、一休を慕う少女がさよちゃんなのが茜であること、一休さんと一緒に修行に励む坊主の名前も微妙に違うこと、一休さんが仕えている寺がアニメでは貧乏寺である安国寺であるが、そこは幼き頃にいた寺で本書では臨済宗の高位に当たる建仁寺にいること、従って和尚もアニメでは外観であり、本書では慕哲龍攀であることなど設定に微妙な違いはあるものの、蜷川新右衛門や将軍様の足利義満は同じで、一休さんが母上様と慕っている実母がなぜ逢えないのかもきちんと再現されている。一休さんは後小松天皇の庶子であり、つまり皇族の一員なのだが、足利義満の皇位簒奪によって出家させられたことになっている。勿論アニメではそれには触れていない。
そして一休をとんちで打ち負かそうとする将軍様こと足利義満は単に一休をギャフンと云わせることを生き甲斐にしているように思えるが、実は皇位簒奪者である義満は一休が天皇家の跡取りの権利があることを危惧し、一休が聡明な坊主であるとの評判を聞きつけて絶対的君主である自分のところに謁見させる栄誉を与えると共に、目の前で無理難題を吹っかけて粗相をさせることを大義名分として打ち首にしようとしていたのだった。つまりあのアニメの「一休さん」は毎回一休さんのとんち比べととんちを武器に質の悪い大人たちを懲らしめる勧善懲悪的な面白さを見せながら、実はとんちによってその命を生き長らえるという九死に一生を得るスリリングな毎日が描かれていたと本書を読むことで読み取ることが出来る。

本書はただの歴史ミステリのように思えるが、本書が優れているのはこの謎の解明に鯨氏は先に述べた有名な一休のとんち話を巧みに絡めて、それを推理の手掛かりとして有機的に結び付けるという離れ業をやってのけているところだ。
これには脱帽。どんどん真相が明かされていくたびにそれぞれのエピソードがぴたりぴたりと事件の背景、犯人の動機に収まっていく。もうこれは見事としか云いようがない。一休の賢さを引き立てる演出としてのエピソードが、しかも誰もが知っているであろうとんち話を密室殺人に絡めていく発想の妙とそれをやり遂げる構成力に甚だ感服した。

数多の歴史文献のみならず、巷間に流布する一休さんのとんち話をもミステリの枠に取り入れ、足利義満殺害、しかも犯行現場は世界に名だたる観光名所の金閣寺、更に密室殺人という三重のミステリ妙味を備えた長編を料理して見せた手腕は実に美事としかいいようのない。

そして奇遇なことに本書の冒頭で六郎太と静が森女を訪ねる大徳寺に私はこの正月、初詣に京都に行った際、ついでに訪れたのだ。それも偶々バスから降りた場所の近くに大徳寺があり、そこで枯山水を見たのだった。お土産に大徳寺納豆を買いもした。まさになんというタイミングでの読書であったことか。
題名が実に平凡であることで本書は大いに損をしていると思う。帯に掲げられた「宮部みゆき氏絶賛!」の惹句は決して伊達ではない。天晴、一休!そして天晴、鯨統一郎!と声高に称賛しよう。


No.1378 7点 迷宮百年の睡魔
森博嗣
(2018/02/27 23:40登録)
エンジニアリング・ライタのサエバ・ミチルと相棒のウォーカロン、ロイディの2人がルナティック・シティに続いて訪れるのは周囲を海に囲まれた巨大な建造物からなる島イル・サン・ジャック。そう、もうお分かりであろう、フランスのモン・サン・ミシェルをモデルにした島が物語の舞台である。
本書の時代設定は2114年。前作は2113年だったからルナティック・シティの事件から1年後の話となる。既にクロン技術も確立され、ウォーカロンというアンドロイドが一般的に導入され、労働力にもなっている森氏による近未来ファンタジー小説の意匠を纏ったミステリである本書はその世界そのものに謎が多く散りばめられている。

以下大いにネタバレ!

永遠の生を与えることが最大の奉仕と思っていた女王。しかし与えられたものは感じたのは永遠の命を持っていることの恐ろしさ。その恐怖が彼を死を魅力的だと思うようになった。従って彼は死を選び、その瞬間、なんとも云い難い爽快感を得た。それは永遠の命という鎖から解き放たれた解放感と云えるだろう。人は押しなべて永遠に生きることを選ぶとは限らないのだ。
この生き方、死に様から本書はサルトルの「実存主義」について語ったミステリであると云えるだろう。作り物の躰を借りて頭脳だけの存在になった物は果たして存在していると云えるのだろうか?本来人間は実存が先にあり、そして本質を自分の手で選び取っていかなければならないとされていたのに、実存さえもないのに、本質を自分の手で選び取っていくのは果たしてどこに存在があるというのか?
存在しながらも非在であるというジレンマがここにはある。

それは既に人間というデータであり存在ではない。しかしウォーカロンという器で現実世界に存在している。それは今や貨幣からウェブ上での数字でやり取りされる金銭と同じような感覚である。お金として存在はするのに実存せずとも数字というデータで取引が出来、そして実際に現物が手に入る。この電脳空間で実物性がない中で実物が手元に入る感覚の不思議さを森氏はこのシリーズで投げ掛けているように思える。
金銭でさえもはや数字というデータでやり取りされ、成立するならばもはや人間も頭脳さえ維持されれば個人の意識というデータで生き、そして躰はウォーカロンという器でいくらでも取り換えが利くようになる。それは人間が手に入れた永遠だ。しかしそこに存在はあるのか。その人は実在しているのか?そのジレンマを象徴しているのがサエバ・ミチルであり、そして本書の登場したイル・サン・ジャックの人々なのだ。

2018年現在、人工知能の開発はかなりの進展をしており、かつては人間が勝っていた人工知能と将棋の対戦も人間側が勝てなくなっている。そして人間型ロボットの開発もかなり進歩しており、見た目には人間と変わらない物も出てきている。更に人工知能の発達により今後10~20年で人間の仕事の約半分は機械に取って代わられると予見されている。
2003年に発表された本書は既に15年後の未来を見据えた内容、描写が見受けられ、読みながらハッとするところが多々あった。特に本書に登場する警察は人間の警官はカイリス1人であり、その他の部下はウォーカロンである。このようにいつもながら森氏の先見性には驚かされる。
そしてこの世界ではもはや人間は働く必要はないほどエネルギーは充足している。つまりもはや人間の存在意義や価値はないといっていいだろう。永遠なる退屈と虚無を手に入れた人間は果たしてどこに向かうのか?ユートピアを描きながらもその実ディストピアである未来の空虚さをこのシリーズでは語っている。

森氏の著作に『夢・出逢い・魔性』というのがある。これは即ち「夢で逢いましょう」を文字ったタイトルでもある。また日本の歌にはこのような歌詞のあるものもある。

“夢でもし逢えたら素敵なことね。貴方に逢えるまで眠りに就きたい”

メグツシュカが作り出したイル・サン・ジャックに住まう人々は永い夢の中で生きる人々なのかもしれない。彼らはそんな夢の中で永遠の安息と変わりない日々、つまりは安定を得て、日々を暮らし、そこに充足を感じている。それがメグツシュカが描いた理想のコミュニティであれば、なんと平和とは退屈なものなのだろうか。
無敵と化した人間の実存性を手に入れた代償が永遠なる退屈と虚無であり、そしてそのことを悟った人間の選択が自殺であったという実に皮肉な真相だった。

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