Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.73点 | 書評数:1631件 |
No.1411 | 10点 | 終決者たち マイクル・コナリー |
(2018/09/16 23:02登録) ボッシュシリーズ新章の開幕である。何度この言葉を書いたことだろうか。刑事を辞し、私立探偵を営んでいたボッシュはロス市警が新設した復職制度を利用し、刑事に復帰する。配属先はロス市警未解決事件班。ドラマにもなっているいわゆる「コールド・ケース」と呼ばれる未解決事件を取り扱う部署で過去の事件に取り組むことになる。 相棒は元部下のキズミン・ライダーで、班長は年下ながらボッシュに深い理解を示しながら、チームを掌握し、団結心を鼓舞するリーダーシップを持つエーベル・プラット。更に班内は署の精鋭ばかりが集まっている。つまりボッシュはこれまでに比べて恵まれたチームで働くことが出来、そして捜査も自然チームワークが主体となる。一匹狼として独断捜査をしていたそれまでのボッシュとは異なっている。 しかし未解決事件を扱う班に配せられたというのは皮肉なことだ。なぜならこのボッシュシリーズは過去の闘いの物語だからだ。彼は常に過去に向かい、そして新たな光を当てることに腐心している。失われた光をそこに見出そうと過去という闇の深淵を覗く。そしていつも闇からも自身が除かれていることに気付き、取り込まれそうになるところを一歩手前でこらえるのだ。 自身が抱える闇と対峙し、そして事件そのものが放つ闇に向き合う。何年も前に埋められた骨が出てきても諦めずその過去に挑む。それがこのハリー・ボッシュという男の物語だ。 もう1つ忘れてならないのはアメリカに根深い人種差別問題がテーマになっていることだ。 コナリーは黒人に暴行を加えた白人警官が無実となったことで勃発したロス暴動を扱った『エンジェル・フライト』以降、同じくロスを舞台に刑事として働くボッシュの活躍を通じて人種差別根強いロスを描いてきた。そしてそのネガティヴなイメージを払拭させようと躍起になっているロス市警を舞台に1988年というまだ差別の風潮が根強いロスを描くことで、コナリーは人種差別によって引き起こした事件を深堀している。それは浄化という名の下で、不名誉をリセットしようとしているロス市警、いやロサンジェルスと巨大都市自体を風刺しているかのようだ。根本的に変わらないと悲劇はまた起きると痛烈に警告するかのように。 未解決の殺人事件が当事者に及ぼす影響とはいかなものだろう。ボッシュとライダーが当時の関係者に事情聴取のために訪ねると、一様に彼ら彼女らはまだレベッカの事件のことを覚えており、開口一番に犯人が見つかったのかと尋ねる。つまりそれは皆の中で事件が終っていないことを示しているわけだが、それがまたそれぞれの人生の転機となっていることが見えてくる。 しかし上に書いたようにいくら犯人が捕まろうがその事件の当事者たちには終わりはないのだ。区切りはつくだろう。しかし彼ら彼女らはその人の理不尽な死を抱えて生きていかなくてはならない。 罪を憎んで人を憎まずというが、本当に愛する者を奪われた人たちがそんな理屈では割り切れない感情を抱えて生きていけるわけがないと本書の結末は大声で訴えかけてくるが如く、苦い。 今までのシリーズ作は常に過去に対峙するボッシュシリーズの特徴を踏襲しており、ボッシュ自身の過去から今に至る因果が描かれていた。 ボッシュに関わった人物たちが過去に犯した罪や過ちが現代に影響を及ぼし、それがボッシュ自身にも関わってくる、もしくはボッシュの生い立ちに起因する様々な事柄が事件に思わぬ作用をもたらす、そこにこのシリーズの妙味と醍醐味があると思っていた。 しかし本書の読みどころは過去の事件に縛られた人たちの生き様だ。そしてそれ自体がそれまでのシリーズ同様の読み応えをもたらしている。 ボッシュ自身の過去に固執することなくボッシュが事件を通じて出遭う人たちを軸に濃厚な人間ドラマが繰り広げられることをコナリーは本書で証明したのだ。 しかしこれだけの巻を重ねながら毎度私にため息をつかせ、物思いに浸らせてくれるコナリーの筆とストーリーの素晴らしさ。 物語の最後、容疑者の殺害に意気消沈するボッシュにライダーが次のように云う。 「あなたがなにをするつもりであろうと」(中略)「わたしはあなたについていくわ」 私もコナリーが何を書こうともずっと付いていこう。そう、決めた。 |
No.1410 | 8点 | 謎のギャラリー 名作博本館 評論・エッセイ |
(2018/09/14 23:55登録) 北村氏が自身の読書遍歴の中からそれぞれリドルストーリー、中国公安小説と日本最初の本格ミステリー、こわい話、ギャンブル、ゲーム小説、恋愛物語、謎解き物について語ったエッセイ。 まず驚かされるのは北村氏の驚くべき読書量。古典から現代、そしてもちろん国内のみならず中国までも包含したミステリのみならず純文学や大衆小説まで精通している。従って本書で語られる作品は多種多様。『円紫師匠と私』シリーズの主人公「私」は呼吸するように本を読むほどの本好きとして描かれているが、それはまさにこの作者北村氏本人に他ならないという思いを新たにした。 こういったいろんな本について語りたいエッセイではどうしてもその本の内容に触れなければならないが、単に粗筋を書いただけではその作品の本質に触れることが出来ないこともざら。従ってどうしても物語の核心に触れることを余儀なくされるのだが、本書では挙げられた作品の核心に触れる時は、ストップマークとしてジャンケンのパーのマークが挿入され、核心に触れる部分が終るところには「もういいよ」を示すチョキマークが挿入されるという親切設計となっている。 読者をしている人が行き当たる命題の1つは「人生にどれだけ本が読めるだろうか?」ということだろう。その命題に対し、まず明らかなのは誰もが世にある全ての本を、小説を、物語を読むことはできないということだ。でも読みたい本はたくさん目の前にあり、が、しかし時間は限られている。私も40を半ば過ぎて後残りの人生での時間を考えることが多くなった。 そんな限られた時間で人はせっかく読むのだから面白くない本を読んで時間を浪費したくないと考え、年末のランキング本で上位に入った作品を選んだり、ベストセラー本を選んで、時間の浪費リスクを極力回避しようとする。また気合の入った読書家であればそれこそ寝る間を惜しんでいついかなる時も本を携え、空き時間が少しでもあれば本を開いて読むことだろう。または速読のスキルを磨いて1冊に掛ける時間を短縮し、多くの本を読むようにする、とこの命題に対する人の答えは様々だ。 そしてこういった本に纏わるエッセイ、そしてアンソロジーを編むためにあれこれ色んな作品を挙げては話をするエッセイもまたこの命題に対する答えの一助となっていることだ。 知らない作者が多く、まだまだ自分の読書量が少ないものだと思い知らされた。北村氏が感じ入った作品がどんなものかを知るのも興味の1つだが、やはり自分が手に取らないであろう作品を読む機会を得ることがこういったエッセイを読む1つの意義だと思う。 北村氏の物語への愛情と、編集者とのちょっとお茶目なやり取りがアクセントとなったエッセイは私にまた物語への興味を掻き立ててくれた。 ああ、1日が30時間あればいいのに。このようなエッセイを読むと、いつもそう思う。 |
No.1409 | 6点 | アップフェルラント物語 田中芳樹 |
(2018/09/12 23:57登録) オーソドックスだが、宮崎駿の映画を観ているような筆捌きは見事! |
No.1408 | 7点 | 十五少年漂流記 ジュール・ヴェルヌ |
(2018/08/16 23:51登録) ヴェルヌの代表作の1つで児童文学の傑作として今なお読まれている名作。私の父親が子供の頃に読んで大変面白かったと云っていた本書。そして今なお子供の夏休みの読書感想文の課題図書の1つに挙げられている本書を40も後半の歳になって初めて今回手に取った。 まずヴェルヌのこの不朽の名作が『地底旅行』や『月世界旅行』、『海底二万里』、『八十日間世界一周』といったビッグネームと比べて後の年に書かれていることに驚いた。ヴェルヌ御年60歳の1888年に発表され、作家としては円熟の領域からやや下った時期に書かれている。 そして本書は明らかに児童を、少年少女を対象にして書かれているのが明確であり、先に書かれた『神秘の島』のジュヴナイル版といった趣である。 いかな名作であってもこの歳になってこのような児童文学を読んで果たして愉しめるかと思っていたが、それはまったくの杞憂であった。 面白い、実に面白い。そして次から次へと創意工夫で困難に立ち向かう少年たちに胸躍らされてしまう。とにかく彼らの生活力の豊かさが凄いのだ。 彼らの無人島生活は悲惨さよりもむしろ楽しさが強調され、全く悲愴感がない。 但し全く問題がないかと云うとそうでもなく、15人の仲間たちの軋轢が存在し、やがて顕在化してくる。 また思春期の少年たち特有のスクールカーストが備わっており、それぞれ自分の能力に自負を持つ生徒たちとの対立があり、派閥が生まれている。 私はこのような危難に遭遇した少年たちは、生き延びるという大目的のためには一致団結して困難に立ち向かうと思っていただけに、この15人の中での分裂が盛り込まれていることに驚いた。ヴェルヌはいわゆる学校生活で起こる、このような仲良しグループたちの反発をこの漂流した少年グループにも持ち込むことで、少年たちのリアルな世界を作っている。これを1888年に盛り込んでいることに驚かされるのである。 本書の原題は『二年間の休暇』というように彼ら15人の少年が無人島で過ごし、故郷に帰り着くまでに要した期間は2年という長きに亘ってであった。 「男子三日逢わざれば刮目して見よ」という言葉があるように、少年たちにとっての2年は飛躍的に成長を遂げる期間だ。 なんと清々しい物語だったことか。やれば出来ると少年少女たちを励ますのに実にいい物語だ。親元を離れて無人島で子供たちだけで暮らすという絶望的な状況を彼らは持ち前の陽気さと知恵と勇気で乗り越える。今年も夏休みの読書感想文の課題図書の1つに挙げられていたが、今なお読まれるだけの価値はあるし、そしてこんなに面白い本を読むことが宿題として与えられている子供たちはそれを選んだ先生、そして何よりも作者のヴェルヌに感謝すべきだろう。 今頃になって本書を初めて手に取ったが遅きに失したという思いは一切ない。寧ろ少年時代に戻ったかのような冒険心が蘇ってきたことに感謝したいくらいだ。 本書は人生で読むべき作品の1つとして是非とも皆に読んでもらいたい名作だ。 |
No.1407 | 7点 | 骸骨乗組員 スティーヴン・キング |
(2018/08/12 23:49登録) キング自身による序文によれば本書に収められている短編の書かれた時期は様々で18歳の頃に書かれた物もあれば、本書刊行の2年前に書かれた作品もあったりとその時間軸は実に長い。 勢いだけで書かれたようなものもあれば、じっくりと読ませる味わい深い作品もあったりと様々だ。 本書に収められた6編のうち、5編は短いものでは8~12ページのショートショートと云えるものや、20~30ページの短編の中でも短いものが収録されている。しかし最後の1編「霧」は220ぺージを超える中編であり、やはりどうしても抑えきれない物語への衝動が感じさせられる―しかしこの作品も含めて残り3冊を1冊の短編集として刊行するアメリカ出版界の短編集不振が根深いことが想像させられる―。 しかしこの6編、実に多彩である。 各編については敢えて触れないが、やはり本書のメインは中編の「霧」になるか。 作者自身のB級ホラー趣味を存分に盛り込んでいるのだが、それだけではなく、ショッピングセンター内で起こる人間ドラマも濃密だ。閉鎖空間で生まれる人同士の軋轢、異常な状況で首をもたげてくる人々の狂気を描いたパニック小説の様相を成し、やがて最後は決して安息をもたらさない霧から逃げきれないままの主人公たちを描いたディストピア小説として終わる。まさに力作である。 全く以て1つに括って語れないキングならではの短編集。 本書に収められた「カインの末裔」の如く、思わぬ不意打ちを食らい、「死神」のように見てはいけない物を覗き、そして「ほら、虎がいる」のようにページを捲った先には虎に遭遇するかもしれない。それはまさに「霧」のように、残された2冊の内容も全く先が読めないようだ。 キングの云うことに従って彼の手を離さぬよう、次作も彼の案内されるまま、奇妙で不思議な、そして恐ろしい世界へと足を踏み入れよう。 |
No.1406 | 7点 | ナ・バ・テア 森博嗣 |
(2018/08/03 23:50登録) この『スカイ・クロラシリーズ』、前作同様、端的な描写と独特の浮遊感を湛えた文章で紡がれる。それはクサナギの一人称を通じた戦闘機乗りの、そしてキルドレという特殊な人間の思いだ。その思いは断片的で、実に恣意的だ。つまりこのシリーズはミステリではなく、ジャンル的には純文学に近い。 中心となって描かれるのはクサナギが任務に就いている時の戦闘シーン。短文と改行を多用し、極力無駄を配したリズミカルな文章で紡がれるそれは、数ページに亘り、ページの上部のみに文字が集約され、そして短文であるがために下部が白紙であることで、さながら文章自体が空の雲と空を飛ぶ様子を表しているような感覚を与え、読者が実際に空を飛び、そしてクサナギの感じるGすらも体感するように思える。 また戦闘機乗りの独特の死生観も実に興味深い。 彼らは相手と戦うために飛ぶ。そして実際に相手を撃墜して還ってくる。そのまた逆も然り。 しかしそれが彼らの仕事であり、人生であると悟っている。命を賭けた仕事という重い職責を負いながらも死と生とは切り離し、純粋に飛行機に乗って戦うことをゲームのように楽しんでいる。ゲームに敗れて死ぬことは任務を、与えられた人生を全うしたことであり、だから飛行機に乗らない人たちになぜ死ぬかもしれないのに戦闘機に乗るのか、怖くないのか、なぜ戦うのか、相手を撃墜することに躊躇いはないのかと、いわゆる一般的な生殺与奪の観点で職務について問い質されること、そして撃墜した死んだことに対して可哀想だと同情されることを嫌う。 自分たちはやるべきことをやって死んだのだからこれほど幸せなことはないと誇りを持っているのだ。唯一残る悔いは相手よりも自分が未熟であったという事実を突きつけられること。命を賭けた勝負の世界に生きる戦闘機乗りの心情とは本当にこのような物なのだろう。 時間軸で云えば2作目の本書は過去へと向かっている。ミステリが既に起きてしまった事柄の謎を探る、つまり過去に遡る物語であることを考えれば、第1作は序章だ。 私は文庫版で読んだがその橙一色に染め上げられた表紙は恐らく黄昏時の空を示しているのかもしれない。恐らく草薙水素が絶望に暮れる夜に至る前の物語だという意味が込められての色なのか。 夕暮れ時はどこか切なく哀しい思いにさせられるが、本書の中の草薙水素はまだ元気だ。None but Air。空以外何もない。今日も草薙水素は空を飛ぶ。絶望に明け暮れるその日が来るまで。 |
No.1405 | 7点 | 震源 真保裕一 |
(2018/08/02 23:42登録) しかし気象庁と地震とは真保氏はまたもや何とも地味な主人公の職業とテーマを選んだものだ。こんな地味な題材を用いながらしかし、真保氏はエンタテインメントを紡ぐことに成功している。 とにかく話が進むうちに新たな謎が次から次へと出てくるため、全く先が読めない。 しかし江坂の行動原理に対して設定の甘さを覚えてしまう。一介の気象庁の人間である彼が森本を執拗に追うのは、彼がかつては気象研究所への席を争った相手であり、愛人問題で仕事のミスが多かったことで当直しないように忠告しながら、それをさせてしまったことが、彼をその椅子から蹴落とすことになったことで責任を感じている思いからである。 しかしそれは森本も云うように彼自身の自己責任の問題であり、江坂には全く非がない。それにも関わらず自身にも責任の一端はあるとしてそれに固執して森本の世話を焼くのは単に自分に酔っているとしか思えない。 江坂は自分が納得したいから行動するというが、それも自分の辞職を掛けてまで行うことかと首肯せざるを得なかった。江坂がここまで執心する性格付けとして火山の観測業務は地味な作業の積み重ねで手間暇かけて調べることに慣れているからだとなされているが、この執念はちょっと異常だ。 更に森本のプライヴェートに介入し過ぎである。元仕事仲間が家庭崩壊の原因となった愛人問題について別れた家族に訊くという不躾さに、更にその愛人の居所をその家族から訊くという厚顔さ。また森本の娘靖子に、頑なな心を少しでも柔らかくするためとは云え、やたらと自分の過去を話すところは、下心も透かして見えるほどである。しかも亡くなった森本の身元確認を行った翌朝にも自分と父親とのことを持ち出して話をするところによほどこの男は靖子に好かれていると自信があるのだなと思ったくらいだ。 また上に書いたように35にもなって独身で父親への反抗心が残っている彼はどこか幼い感じを覚えてしまう。特に上に書いたように辞職を決意してまで、納得したいからと云って人の苦い過去を掘り起こしてまで、プライヴェートに介入するやり方はちょっと度が過ぎる。しかも彼が自身の好奇心を満たせば満たすほど、当事者は傷ついていく。 さらに後半は奄美大島の西の東シナ海沖で海上保安庁と海上自衛隊が合同で行っている秘密の演習の謎を探るために気象庁へ辞表を提出してまでそれを取材している雑誌記者と行動を共にして、かつて趣味でやっていた登山の経験を活かして、怪しいと思われる硫黄鳥島に潜入しようとまでする。もはや一介の気象庁の職員というレベルを超えた行動力と活躍を見せる。正直ここまで人生を賭けてまで調査する江坂の行動は度が過ぎると思った。 しかしそんなことを云っていると本書の物語自体が成り立たないのだが。 また物語の渦中にある森本俊雄が50にもなって愛人を作った理由が明かされなかったのも心残りだ。家庭のある身でありながら、なぜこの歳で若い女性に溺れたのか。実直な仕事ぶりを見せていた彼なりの理由が知りたかった。それが十分語られず、自らの過ちで家族が取り返しのつかないことになり、離婚するまでに至った彼の行動の真意が知りたかった。 読み終えた今、感じるのは実に複雑な構成の物語だったということだ。脇役に至るまで細かな背景を描き、1人の行方知れずの人物を捜すために福岡と鹿児島を往復し、人から人へと訪ね歩いて、細い一本の糸を辿るような私立探偵小説の様相を呈しながら、一転して東シナ海沖で隠密裏に動いている海上保安庁、海上自衛隊の演習の謎を探るためにセスナを使っての調査、そして夜間の硫黄鳥島への潜入行と冒険小説へと転身させ、最後は日本に巣食うスパイの正体を探る諜報小説で終わる。目まぐるしく変わる小説のテイストに戸惑いを隠せない。 そして何よりも一抹の割り切れなさを抱えて終わることが実に勿体ないと感じる。 1人の男の辞職の真意を自分が納得したいからという理由で追い求めた男が始めた行動によって失われた代償はあまりに大きかったと思うのは私だけだろうか。 少なくとも日本の隠されたもう1つの貌を知った江坂の明日は今までのそれとは違うはずだ。それを彼が本当に望んだことなのか、それを考えると彼は知り過ぎてしまったのかもしれない。知ることの恐ろしさと虚しさを感じた作品だった。 |
No.1404 | 7点 | 痩せゆく男 スティーヴン・キング |
(2018/08/01 23:50登録) 肥満の問題は現代社会の最大の関心事と云っていいだろう。もう実に数十年に亘って数々のダイエットが紹介され、そしてダイエット本がベストセラーの上位に上ってきたが、今なおそれが続くのは決定的なダイエット方法がないからだ。 そう、現代人が最も悩まされているのは肥満なのだ。 しかし本書の主人公ウィリアム・ハリックは全く逆。彼は食べても食べても瘦せていってしまう。 この現代社会の抱える問題とは真逆を行くウィリアム・ハリック。 この食べても食べても太らず、むしろ痩せていく男ウィリアム・ハリックはまさしく羨望の的なのだが、これがキングの筆に掛かるとこの上ないホラーになる。彼はジプシーの老婆を誤って轢き殺すことでそのジプシーの老人に痩せていく呪いを掛けられてしまうのだ。 本書はこのウィリアム・ハリックが徐々に瘦せゆく過程を描いたホラーでありながら、タイムリミットサスペンスの妙味も含んでいる。通常タイムリミットサスペンスとは、全てが手遅れになる「その日」、もしくは訪れるべき「その日」に向けて、日数がカウントダウンされるのだが、本書ではウィリアム・ハリックのどんどん減っていく体重の数値がその役割を果たしている。この辺の着想の妙はまさにキングならではだ。 本書はリチャード・バックマン名義で刊行された作品で、開巻されて目に入るのは妻への献辞。その妻の名はクローディア・イーネズ・バックマンとなっている。 知っての通り、キングの奥さんの名は作家でもあるタビサ・キングである。そう、キングは自身がバックマンとは別人であると欺くために架空の奥さんの名を仕立て上げたのだ。しかも作中人物に「まるでスティーヴン・キングの小説みたいだ」と云わさせるまでして別人であることを主張している。 それでも世間の目はごまかせず、ファンの間ではキング=バックマンではと噂され、とうとう自白したとのこと。いやあ、なかなか文体や雰囲気などは変えられないのだろう。本書はそのきっかけとなった作品で本書刊行翌年の1985年にキングはリチャード・バックマンを封印したとのことだった。 ウィキペディアによれば元々は当時の1年1作家1作品というアメリカ出版界の風潮に、多作家であるキングが別名義を仕立てることで2冊出そうとしたらしいが、既にベストセラー作家になっていたキングが別名義でどれだけ売れるのか試したかったとも云われている。しかし上に書いたように本書刊行後、キングであることを明かすとこの作品の売上が上がったそうだ。 作品の質よりもビッグ・ネームに読者は惹かれる。作中、人生はツーペーだ、つまり釣り合いは取れてるとハリックはタドゥツに云う。彼が娘を轢き殺し、その代償で痩せていく呪いを掛けられた。これがツーペー。だからおしまいにしようと。しかしタドゥツ・レムキはそんなものは存在しないと否定する。 上に書いたようにバックマン名義よりもキング作品であったと知られたことで売り上げが伸びるのであれば、やはり世間はいい作品であれば売れるといったほどツーペーではないようだ。そういう意味では本書はキング自身の人生をも証明した予言の書と云える、と考えるのはいささか考え過ぎだろうか。 |
No.1403 | 8点 | 2018本格ミステリ・ベスト10 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2018/07/31 23:49登録) 今年も年末恒例の企画として刊行された『本格ミステリ・ベスト10』。特に2017年は新本格ミステリが30周年を迎えた年としてその特集号となっている。 まずはその新本格30周年を迎えた記念すべき年のランキングを制したのはなんと『このミス』同様、鮎川哲也賞受賞作である新人、今村昌弘氏の『屍人荘の殺人』だった。これで本作はなんと週刊文春の年間ベストランキングも制し、新人のデビュー作にして初の3冠達成という偉業を成したことになる。今までそんな作品はヴェテラン作家でさえ成し得なかったことだ。これはまさに30周年に相応しい“事件”だと云えよう。 そしてその後のランキングは、まさに「本格ミステリ」に焦点を当てているだけあって、『このミス』とは異なるランキングとなっているのが嬉しい。近年本格ミステリが台頭してきて『このミス』とのランキングの近似性が目立っていただけにこのオリジナリティは実に楽しい限りである。 今回の特集に目を向けると、やはり上に述べたように新本格30周年の特集が光る。法月綸太郎氏、三津田信三氏、青崎有吾氏の本格三世代座談会は実に世代性が色濃く出て、実に面白かった。同じ本格ミステリを書きながら、読書歴は異なるところ、特に青崎氏は法月氏ら新本格第1世代からの読者であることや海外ミステリから入っていきながらも昨今の出版状況で絶版が多くて法月氏のように十分に読みたい本が読めないことなどが述べられていて、私ですら世代差を感じた。 更に新本格の30年の歩みとして発表作品の変遷、更に30年間で生み出された本格ミステリの各カテゴリーにおける傑作や扱われたテーマなどについてコラムが付されており、まさにミステリ濃度100%の内容だった。もっとページを増量して更にディープに特集してもいいくらいだと思った。 今回も例年通り、内容の充実ぶりにたっぷり堪能させられた。 やはり自分の中には本格ミステリへの渇望感が常にあるのだ。毎回このムックを読むとこの本格ミステリ好きマインドが胸を焦がし続ける。 そんな積読本が多い状態でまたも無視できない新人が登場した。今村昌弘氏の作品はもう私の本棚の一画を占めることが決まったも同然だ。 そしてまた私は増え続ける蔵書を前に途方に暮れるのである。それでもなお今年もまた読み逃せない傑作が生まれることを期待しよう。 とにかく読まねば、読まねば。 |
No.1402 | 9点 | 天使と罪の街 マイクル・コナリー |
(2018/07/29 23:32登録) ボッシュシリーズ記念すべき10作目はこれまでコナリーが発表してきたノンシリーズが本流であるボッシュシリーズと交わる、いわばボッシュ・サーガの要をなす作品となった。恐らく作者も10作目という節目を迎え、意図的にこのようなオールスターキャスト勢揃いの作品を用意したのだろう。 ノンシリーズで登場した連続殺人鬼“詩人(ポエット)”が復活し、その捜査を担当したFBI捜査官レイチェル・ウォリングが再登場し、また『わが心臓の痛み』で登場して以来、『夜より暗き闇』で共演した元FBI心理分析官テリー・マッケイレブが交わる。しかしなんとそのテリー・マッケイレブは既に亡く、ボッシュが彼の死の真相を探る。 とにかく全てが極上である。味のある登場人物たち、物語の面白さ、謎解きの妙味。ミステリとしての謎解きの味わいを備えながら、シリーズ、いやコナリー作品全般を読んできた読者のみ分かち合えるそれぞれの登場人物の人生の片鱗、そして先の読めない、ページを繰る手を止められない物語自体の面白さ、それらが三位一体となって溶け合い、この『天使と罪の街』という物語を形成しているのだ。 まず触れておきたいのは自作の映画化についてのことだ。 テリー・マッケイレブと云えばクリント・イーストウッド監督・主演で映画化された『わが心臓の痛み』(映画題名『ブラッド・ワーク』)が想起され、今までコナリー自身が作中登場人物にその映画について再三触れているシーンがあったが、本書では更にそれが加速し、随所に、なんとそれぞれ映画で配役された登場人物がこの映画について触れている。 私は幸いにして『わが心臓の痛み』読了後、BSで放送のあったこの映画を観ていたのでこれらのエピソードを実に楽しく読めた。ボッシュ(=コナリー)が云うように、私自身大きな賛辞を贈った原作が映画になると何とも淡白な印象になるものだなと残念に思っていたからだ。 詩人に敗れ、命を落としたマッケイレブの遺品と遺したメモを手掛かりにボッシュは犯人の足取りを辿るのだが、それらは断片的に遺された、ほとんど暗号に近い内容だ。それをじっくりと読み解いていくプロセスはまさにミステリにおける謎解きの醍醐味に満ちている。物語の中盤、上巻から下巻にかけて詩人がどのように被害者たちを狩っていたのか、その足取りを辿る件は久しぶりに胸躍る思いがした。 なおコナリーは2003年から2004年に掛けてMWA、即ちアメリカ探偵作家クラブの会長を務めていた。本書は前作『暗く聖なる夜』と本書がまさに会長職にあった頃の作品だが、ウィキペディアによれば前作がMWAが主催するエドガー賞にノミネートされたものの、会長職にあるとのことで辞退している。 また本書ではイアン・ランキン、クーンツのサイン会が書店で開かれたことや、初期のジョージ・P・ペレケーノスの作品は手に入れにくい、などとミステリに関するネタが盛り込まれている。これはやはり当時会長としてアメリカ・ミステリ普及のために、細やかな宣伝行為を兼ねていたのではないだろうか。そういえば前作ではロバート・クレイス作品の探偵エルヴィス・コールが―その名が出ていないにしても―カメオ出演していた。こういったことまで行うコナリーは、自分の与えられた仕事や役割を、個性的なアイデアで遂行する、几帳面な性格のように見える。 今回もコナリーは期待を裏切らなかった。 ただ惜しむらくは本書はあまりに『ザ・ポエット』の続編の色を濃く出しているため、作者が明らさまに『ザ・ポエット』の内容と真相、真犯人を語っている。従って『ザ・ポエット』の内容を知りたくないならば本書を読む前に是非とも読んでおきたい。 |
No.1401 | 7点 | アドリア海の復讐 ジュール・ヴェルヌ |
(2018/07/25 21:41登録) 作者ヴェルヌによる冒頭の献辞がアレクサンドル・デュマの息子に捧げられているように、本書はヴェルヌ版『巌窟王』、『モンテ・クリスト伯』である。 聡明かつ勇気溢れる主人公、怪力や話術を誇る快男児、そして主人公を心酔する明るい青少年といった藤子不二雄のマンガのように―もしかしたら藤子不二雄氏がヴェルヌから逆にこの定番キャラの着想を得ていたのかもしれないが―、ほぼ固定キャラで統一されていたヴェルヌの物語において、このヴァラエティ豊かさは今までにない内容の濃さである。女性陣はしかしそれまでの作品同様の典型的なヴェルヌ作品のヒロイン像であり、今どきこんな献身的な女性がいるかと思うくらい、尽くすタイプ、苦難に耐え忍ぶ女性ばかりが登場する。 物語の途中から登場する国境なき名医アンテキルト博士。 彼もまたその財力によってアンテキルタ島を買い、そこに自分の要塞を築いているのが、ヴェルヌ作品のある人物と重なるのだ。 それは『海底二万里』に登場するネモ艦長である。彼もまた何処とも知れぬ島を所有し、そこを根城にして世界中の海を巡り、活動の場を陸から海へと移し、そこで衣食住から動力源まで賄い、世捨て人として隠匿生活をしていた男だ。 しかしこのどこか誰にも邪魔されない島で自分の王国を築き、そして復讐をするという設定をこうも繰り返すヴェルヌは、これら2人が自身の潜在意識に救う理想像のように思えてならない。被圧迫民族解放の擁護者であった彼はやはりその内なる意志を作品のこれらの人物に込めていたようだ。 解説の北上次郎氏も述べているように、100年経っても色褪せない作品というものはある。今なお読まれるべき作品の1つとして本書を挙げておこう。 |
No.1400 | 7点 | 赤緑黒白 森博嗣 |
(2018/07/15 23:25登録) &Mシリーズでもシリーズ1作目の犯人が最終作で再登場したように、このVシリーズでも同様の趣向が採られている。 保呂草潤平に成りすました殺人鬼、秋野秀和が拘置所の中で瀬在丸紅子と面談するのだ。この辺は『羊たちの沈黙』のレクター博士とクラリスの面会シーンを思わせる。 私は今回の真犯人は予測していたので特に驚かなかった。しかしそれでもあの文字トリックには気付かなかった。この辺の文字トリックは森氏は実に巧い。 この犯行動機、ミステリならば納得のいかない物だろう。しかしこの現代社会においては実に多い動機だ。 誰でもいいから殺したかった。 むしゃくしゃしていたから誰か殺そうと思った。 人を殺して驚かせてやろうと思った。 昨今の犯罪の動機は上のような稚拙の動機がいかに多い事か。何度もこのような理不尽な理由で殺人が行われている報道を耳にする。ストレス社会と云われる現代社会の闇。逆にこのドライさ、単純さ、無邪気さを森作品ではミステリに敢えて取り込んでいるように思う。 ミステリのようにいつも理由があって、意外な動機があって人を殺すわけでなく、案外人を殺すのは至極単純な理由でしょ?そんな風に森氏が片目をつぶってニヤリとする顔が目に浮かぶようである。 本書でも保呂草による関根朔太の初期の作品≪幼い友人≫の盗難事件がサイドストーリーとして出てくる。その方法はサイドストーリーというほどには勿体ないくらい凝っており、むしろメインの殺人事件よりも緻密である。 また本書は人を殺す、罪を犯すことについてそれぞれの人物が深い考えを述べているのもまた興味深かった。 さて哀しいかな、瀬在丸紅子、保呂草潤平、小鳥遊練無、香具山紫子ら楽しい面々ともこれでお別れである。S&Mシリーズでもそうだったがシリーズの幕切れとは思えないほどただの延長線上に過ぎないような締め括りであるが、一応それぞれの関係に終わりはある。 保呂草は自分の紅子への思いを清算するため、潔く紅子の許を離れる意味でもあった。最後に彼は紅子にかしづき、手に口づけをするが、これはまさに『カリオストロの城』でのルパンとクラリスを思わせ、ニヤリとしてしまった(そういえば上に挙げた『羊たちの沈黙』のヒロインの名前もクラリスだった。森氏はこの名前に、いやこの2人のヒロインに何か特別な思い入れがあるのだろうか?)。 しかし最後に謎の人物も登場したりと逆に謎が深まる様相を呈している。 新たな謎を残してVシリーズ、これにて閉幕。 |
No.1399 | 9点 | 秋の花 北村薫 |
(2018/07/12 23:58登録) 人の死というのは押しなべて非常にショッキングな印象を与えるが、特に若い命が喪われるそれは殊更に人の心に響く。本書では3つも年が違い、中学、高校時代には一緒の学校にいることのなかった後輩の死が扱われるわけだが、それでも「私」にとって小学生時代に同じ登校班にいた記憶がいまだに鮮明であり、そして何よりも自分より若い子の死が心に響いてくる。 更に誰もが経験したであろう高校生活。だからこそ事件が起きた高校の描写は私を含めて読者をその時代へと引き戻してくれることだろう。特にテーマが文化祭と云うのが憎らしい。あの特別な時間は今なお記憶に鮮明に残っている。 本書はそんな雰囲気を纏って私の心に飛び込んでくるから、なんとも云えないノスタルジイに浸ってしまうのである。 本書に描かれる高校生活は何とも瑞々しく、読んでいる最中に何度も自身の思い出に浸らせられた。それは良き思い出もあれば、後悔を強いる悪い思い出もある。読中、何度自分のやらかしたことを思い出し、読む目を止めたことか。 さて日常の謎系のミステリにおいて初めて人の死が扱われたわけだが、だからと云ってそのスタンスはいつもと変わらない。 探偵役を務めながらも「私」はごく普通の女子大学生だ。だから探偵や警察のように事故の起きた現場、つまり津田真理子が墜落した場所へは怖くて行きたいと思わないし、身分を偽って学校を訪れ、ずかずかと人の心のテリトリーに分け入るわけでなく、あくまで自然体に接する。彼女は昔から知っている子の先輩として憔悴する和泉利恵を助けたいがために行動しているに過ぎないのだ。 秋は夏に青く茂った葉が色褪せ、散り行く季節である。そして木々たちは厳しい冬を迎える。しかしそんな秋にも咲く花はある。秋桜しかり、そして秋海棠もまた。 本書の題名となっている秋の花とは秋海棠を指す。その別名は断腸花と何とも通俗的な感じだが、人を思って泣く涙が落ちて咲く花と最後に円紫師匠から教えられる。 秋海棠の花言葉を調べてみた。片想い、親切、丁寧、可憐な人、繊細、恋の悩みと色々並ぶ中、最後にこうあった。 未熟。 高校生とは身体は大人に変化しながらも心はまだ大人と子供の狭間を行き交う頃だ。大人びた考えと仕草を備えながら、一方で大人になることを拒絶している、そんな不安定で未熟な人々。 この作品は是非とも高校生に読んでほしい。貴方たちの世界はまだまだ小さく、そして未来は無限に広がっていること、そして「生きる」とはどういうことかを知ってほしい。 若くして亡くなった津田真理子は明日を無くしただけだったのか?彼女が生きた証はあるのか?という問いに対する答えがここに書いてある。 ただ生きると云うだけでその人の言葉や表情、仕草が心に残るのだ、と。 そしてそれは真実だ。私には夭折した友人のことが今でも記憶に鮮明に残っている。 だから精一杯生きて青春を、人生を謳歌してほしい。苦いけれど哀しいけれど、本書は高校生たちに贈るこれからの人生への餞の物語だ。 |
No.1398 | 7点 | 長く暗い魂のティータイム ダグラス・アダムス |
(2018/07/01 22:37登録) 今回ジェントリーが挑むのは密室殺人。しかも相手は“神”?という、初っ端から飛ばす訳の分からない作品だ。 1作目もそうだったが相変わらずその内容は取っ散らかっており、どこに向かって物語が動いているのか、途中まではさっぱり解らない。 最初に起きる事件とはニューヨーカーでありながらもニューヨークにほとんど住んだことがない旅行記事のフリーライターであるケイト・シェクターが出くわす突然のヒースロー空港での爆破事件。 次はダーク・ジェントリーが依頼人の許を訪れると、そこには依頼人の首なし死体があり、その首はレコードのターンテーブルに乗っており、しかも犯行現場は密室状態なのだ。 更に元秘書ジャニス・スミスがチェックイン・カウンターの受付をやっており、それが事件後行方不明になっている。 このように本格ミステリと失踪人捜しと云う私立探偵小説の2つの要素が組み合わさったど真ん中のミステリ的展開と思いきや、早々にその期待を裏切るかのように人外の者が現れる。 今回は事件のカギを握る人物の独白で真相が語られるというお粗末な内容となったのは否めない。 アダムスの逝去でたった2作で完結を迎えたダーク・ジェントリーシリーズ。こんなカオスな探偵小説を書き継げる作家はいないだろう。まさにワン・アンド・オンリーの探偵小説だった。 |
No.1397 | 10点 | 暗く聖なる夜 マイクル・コナリー |
(2018/06/24 22:10登録) ハリー・ボッシュシリーズ9作目はボッシュがハリウッド署を、刑事を辞めて私立探偵になった初めての事件。ボッシュ自身の過去の事件に決着をつけた後の『トランク・ミュージック』がシリーズ第2期とすれば、本書はボッシュシリーズ第3期の始まりの巻だと云えるだろう。 そして本書はボッシュの一人称叙述で語られる。つまりこれはボッシュが私立探偵となったことでこのシリーズが今までの警察小説ではなく、私立探偵小説となったことを宣言するために意図的にコナリーが選択したことだろう。 上で本書はボッシュシリーズ第3期の幕開けと書いたが、それぞれのシリーズの幕開けには常にこのエレノア・ウィッシュが登場する。デビュー作は無論のこと、『トランク・ミュージック』はエレノア再会の作品で、結婚を決意する物語。そして本書は別れた妻と再会する物語だ。つまりボッシュの人生の節目にエレノアは綱に現れる。いやボッシュがエレノアを見つけ出すと云った方が正確か。何にせよエレノア・ウィッシュはこのシリーズの“運命の女”だ。 今回の原題“Lost Light”は前作『シティ・オブ・ボーンズ』で登場した言葉だ。“迷い光―個人的には“迷い灯”の方がしっくりくると思うのだが―”と訳されたその言葉はボッシュがヴェトナム戦争でトンネル兵士として暗いトンネルの中にずっと潜んでいた時に見た光のことを指す。つまりそれは埋もれた過去の未解決事件という暗闇に新たな光が指すことを意味しているのだろうが、今回は邦題の方に軍配を挙げたい。 ルイ・アームストロングのあまりに有名な曲“What A Wonderful World”の一節“Dark And Sacred Night”から採られているが、この曲が本書では実に有効的に、いやそんな渇いた表現はよそう、実に胸を打つシーンで使われているからだ。 絶望の中にも聖なる夜はある。暗いながらもそこには希望がある。そんなことを想わせる、実にいい邦題である。 しかし毎度のことながらこのシリーズのストーリーの緻密さには恐れ入る。上に書いたように3つの事件がきちんと整合性をとって結ばれることは勿論のこと、上述した以外にも物語に散りばめられたエピソードが有機的に真相に至るピースとなって当て嵌まっていくのだ。単なる蘊蓄かと思っていたくだりさえも、これがある些細な違和感を解き明かすカギとなるのだから畏れ入る。 いつもながら勝手気まま、傍若無人ぶりな捜査で周囲を傷つけ、そして仲間を得ては失っていくボッシュが妻と娘と云う愛し、護るべき存在を新たに得たことでどんな変化が訪れるのか。 私の心には既にボッシュシリーズが深く刻まれている。そしてそれは当分消えそうにない、エレノアが「心に刻まれたものは決して消えない。」と云ったように。 |
No.1396 | 7点 | タリスマン スティーヴン・キング & ピーター・ストラウブ |
(2018/06/17 11:45登録) キングとストラウヴがその豊富なアイデアを惜しみもなく注ぎ込んだファンタジーとロードノヴェルとを見事に融合させた1000ページを超える大著。 2人が初めて共作した作品はいわば典型的なファンタジー小説と云えるだろう。女王の命を狙う敵から守るためにタリスマンを手に入れる旅に少年が旅立つ。 ただ異世界だけを舞台にしているのではなく、我々の住む現実世界とテリトリーと呼ばれる異世界とを行き来しながら冒険するところが特徴だ。 しかしこの設定も2018年現在では全く新しいものではない。むしろ現実世界と異世界を行き来する話は既にいくらでもあり、例えば現実世界とは地続きであるが、世界的大ベストセラーとなった『ハリー・ポッター』シリーズもまたその系譜に繋がるだろう。 またこの現実世界と異世界という設定は我々が日常で利用しているウェブ社会と考えれば親近性を持った設定である。分身者は即ち、今でいうアバターである。 ただ本書は1985年に書かれた作品である。当時はインターネットすらなく、パソコン通信の創成期といった時代である。キングとストラウヴ両者がこの新しい技術を当時知っていたかは不明だが、そんな時代にこのような二世界間を行き来する作品を描いていたことは実に興味深いし、先見性があると云えるだろう。 毒にも薬にもなる存在、タリスマン。私は核爆弾を象徴していると思った。癌に侵され、死にかけた母親を救うためにジャックが求めたのはこのタリスマン。強大な力を持つこの球体が核爆弾を象徴しているというのは荒唐無稽に思われるが、自分なりの解釈を以下に述べたい。 本書が書かれた1985年は各国が競って核爆弾を所有し、アメリカでは頻繁に核実験が行われていた頃だ。 他国が持っているから自国も所有して他国からの侵略に対して備え、安心しようとする。それは国にとっては防御力ともなるが、暴発すれば自国をも滅ぼす死の兵器である。そしてそれを各国が手放すことで真の平和が訪れる。そして黒い館に至る道のりにある焦土は火の玉が飛び交い、それに触れると放射能に侵されたような症状になることもまたそれを裏付けている。 しかしそのタリスマンこそが最後ジャックの母親の命を救い、そして消え去る。それは核による世界の浄化を示しているのではなく、やはり核の廃絶こそが世界を救うのだと考えたい。 ちょうど非核化対策が注目された米朝首脳による初会談の行われた時にこの作品を読んだからそう思ったのかもしれないが、いやそれだけではないだろう。私はまたも本に引き寄せられたのだ。 2人のホラーの大家がタッグを組んだ本書には物語を愛し、その力を信じる2人の情熱が込められている。色々書いたが、本書は愉しむが勝ち。それだけのアイデアが、多彩なイマジネーションが溢れている。そう、本書そのものがタリスマン―本を読む者へのお守りであり、読者を飽きさせない不思議な力を持っている。 |
No.1395 | 8点 | 朽ちる散る落ちる 森博嗣 |
(2018/06/12 21:23登録) シリーズのセミファイナルとなる本書では7作目に舞台となった土井超音波研究所が再び物語の舞台となる。従って付された平面図は『六人の超音波科学者』同様、土井超音波研究所のそれとなっている。2作で同じ平面図を使うミステリは私にとっては初めての経験だ。 今回の謎は飛び切りである。 まず研究所の地下室に二重に施錠された部屋から死体が見つかる。どちらも船室で使われる密閉性の高い中央にハンドルのついた重厚な鉄扉で、最初の扉は内側からフックのついた鎖で止められ、外側からは解錠できないようになっている。次の扉は床にあり、開けると昇降設備がなく、梯子か何か上り下りできるものがないと降りられず、更に入る部屋からしか閉めることが出来ない。その床下の部屋に白骨化した死体が横たわり、その死体は何か強い衝撃で叩きのめされたかのように周囲には血が飛び散っている。 さらに1年4ヶ月前にNASAの人工衛星の中で男女4人が殺される密室殺人が起きる。男3人は小型の矢のような物で無数に刺され、女性は絞殺されていた。 しかもこの人工衛星の密室殺人事件と研究所の地下の密室事件には関係があるという、島田荘司氏ばりの奇想が繰り広げられる。 起伏が激しく、そして謎めいた物語。それぞれの謎はある意味解かれ、ある意味解かれないままに終わる。 更に私が感嘆したのは前々作『六人の超音波科学者』の舞台となった土井超音波研究所が本書のトリックに実に有効に働いていることだ。いやはや同じ館で異なる事件を扱うなんて、森氏の発想は我々の斜め上を行っている。 そしてシリーズの過去作に纏わると云えば小鳥遊練無が初登場したVシリーズ幕開け前の短編「気さくなお人形、19歳」でのエピソードを忘れてはならない。『六人の超音波科学者』も纐纈老人との交流が元でパーティに小鳥遊練無は招待されたが、本書では更に纐纈老人との交流が物語の背景として密接に絡んでくる。読んだ当時はただの典型的な人生の皮肉のような話のように思えたが、練無が代役を務めた纐纈苑子、即ち藤井苑子が本書でテロリストのシンパで妻となって登場することで全くこの短編の帯びる色合いが変わってくる。もう一度読むと当時は気付かなかった不穏さに気付くかもしれない。 本書では奇跡的な偶然が示唆されている。それはやはり小鳥遊練無が纐纈苑子に酷似していたことだ。彼女と彼が似ていたからこそ、全ては始まったのだ。シリーズが始まる前のエピソードから全てが始まったのだ。 さてとうとうVシリーズも残り1作となった。S&Mシリーズの時には全く感じなかったのだが、このシリーズに登場する面々は実に愛らしく、別れ難い。もっと続いてほしいくらいだ。 |
No.1394 | 7点 | 赤いべべ着せよ… 今邑彩 |
(2018/06/10 14:57登録) 日本のとある地方都市、昨今の都市開発による都会化と昔ながらの田舎の風景が残る夜坂で起きる子供たちの連続殺人を扱っている。 その町に昔から伝わる平安時代末期に桜姫という公家の娘に纏わる子取り鬼の伝承、それに由来する廃寺に祀られた子取り観音。その伝承を擬えるような幼い子供の殺人事件。これらは見事なまでに本格ミステリの見立てである。 何とも人の業の深さを痛感させられる物語であった。 本書における怖さとは何か?次々と何者かによって我が子を殺される未知の恐怖。それも確かに恐ろしい。 しかし事件が起こることで起きる友人たちとの軋轢。いや一枚岩だと思われた友情が脆くも崩れ去り、謂れのない憎悪を向けられること、これが最も怖い。 その対象となるのが東京から出戻ってきた主人公の相馬千鶴だ。 つい先ほどまで22年ぶりの再会を喜び、娘がいなくなればお互いに励まし合い、一緒に探してもくれた幼馴染が災厄が自分に降りかかることで一変する恐怖。近しい人たちの裏切り。人間の心の弱さこそが本書において最も大きな恐怖だと感じた。 更に我が子を亡くすことで憔悴し、狂人のように変わっていく母親。さらに自分たちの都合のいいように解釈し、証拠もないのに怪しいと云うだけで殺そうと企む集団心理の怖さ。 本書の前に読んだ『ダ・フォース』も悪漢警察物とホラーと全く異なるジャンルながら、物語の根底にあるのは厚い友情で結ばれた者たちがあるきっかけで脆くも崩れていく弱さと共通している。片や2017年に刊行され、こちらは1992年刊行と25年もの隔たりがあるが、いつの世も人間の根源と云うのは変わらず、そして進歩がないものだと思わされる。 洋の東西、そして古き新しきを問わず、我々の正気と云うのはいわゆる安心の上で成り立っていることがよく解る。しかしその安心はいつまでも続く、つまり今日無事だったから明日も、1年後も、5年後も、10年後も、いや死ぬまでそうであると思いながら、実は実に脆い薄い氷のような物であることが知らされる。そしてその安心という支えが、基盤が無くなった時、なんと我々は文化人から野蛮人へと豹変するものかと痛感させられる。友情や愛情はすぐに疑心暗鬼、憎悪に変り、不安定な地盤に立つ自分と同じように人を引き摺り込もうと企む。 それは単に資産が無くなったり、家族が喪われると云った大きな危難に留まらず、例えば子供が云うことを聞かない、試験に自分の子だけ受かっていない、なぜうちのところに他所の家族を住まわせなければならないのかというちょっとした日常の不具合から容易に生じる。今邑氏はそんな日常にこそ狂気の種が既にあると仄めかしている。 以前も思ったが今邑氏の作品には常に無駄がない。人の悪意、心の根底になる妬み、嫉みと云った負の感情を、殺人によって表層化させ、全てが物語に、そしてミステリの謎に寄与し、登場人物たちの行動もさもありなんと納得させられるエピソードが散りばめられている。しかもそれぞれの登場人物たちが抱く負の感情が的確な表現で纏められ、人が大なり小なり些細なきっかけで容易に罪を犯すことを悟らされるのだ。 作中、登場人物の1人、高村滋が自宅の靴について語るシーンがある。彼が帰って三和土を見ると靴が減っていることに気付く。かつては校長だった父親の靴があり、母の靴、妻の靴、そして娘のみちるの靴で三和土はいっぱいだった。しかし父は愛人の許を去った際に母親は父の靴を全て燃やしてしまい、みちるは1年前の事件で亡くなり、後を追うように母も亡くなり、彼女たちの靴はもう玄関先にはない。高村家は靴が無くなるごとに暗鬱さを増し、そしてそれが住まう人々へ悪意を募らせているように見える。 そんな家に加わったのが千鶴と紗耶の靴。しかしこの母娘も狂ってしまった郁江に襲われた際に命からがら逃げ出すのに靴を置いて裸足で逃げだす。 私はこの悪意の棲む家に新たに靴が増えたことは何を意味しているのかと考えた。それは千鶴たちが悪意から逃れるために必要だったからではないか。靴が無くなることは即ち更に悪意が募ること。つまり彼女たちは悪意を持ち出すことを意味しているのではないか。 そう考えると最後に彼女がまず靴を買わなければいけないと思ったと敢えて作者が書いたことにある答えがある。それは夜坂に戻って晒された悪意からの解放を象徴しているのではないか、そして彼女は自分の足で再び立つことを決意したのだ。しかも靴を履く、つまりは外へ出ることを。夜坂を出る、そして社会に出ることを。 300ページにも満たない長編ながら、幼馴染という最初のコミュニティの絆の脆さ、我が子を喪うことで容易に陥る人間の狂気、1つの母子家庭の自立など、色んなテーマを孕んだ濃い内容の作品だった。 |
No.1393 | 9点 | ダ・フォース ドン・ウィンズロウ |
(2018/06/05 23:43登録) 『犬の力』、『ザ・カルテル』で犯罪のどす黒さを存分に描いたウィンズロウが次に手掛けたのはニューヨーク市警特捜部、通称“ダ・フォース”と呼ばれる荒くれ者どもが顔を連ねる市警のトップ中のトップの野郎たちの物語。つまりは昔からある悪漢警察物であるが、ウィンズロウが描く毒を以て毒を制す特捜部“ダ・フォース”には腐った現実を直視させるリアルがある。 従って通常の警察小説とは異なり、文体や雰囲気はハードボイルド然としておらず、オフビートなクライム小説の様相を呈している。音楽に例えるなら、同じ警察を描いているマイクル・コナリーがジャズの抒情性を感じさせるとすれば、ウィンズロウの本書はどんどん速さを増すアップテンポの、畳み掛けるような怒りにも似た激しいヒップホップのビートを感じさせる。だから原題“The Force”をそのまま日本語にした邦題が『“ザ”・フォース』でなく、『“ダ”・フォース』なのだ。 そう思っていたら、やはり主役のマローンはジャズよりもラップを、ヒップホップを好む男だと描かれる。彼の生きている世界には抒情よりも本音をぶつけてくる攻撃的な音楽が似合うからだ。 デニー・マローン率いる“ダ・フォース”は社会の毒を浄化するための毒だ。必要悪とも云える。濃度の高い酸は濃度の高いアルカリでないと中和できない。それはどちらも人体にとって毒となる。それが彼ら“ダ・フォース”だ。 彼らには法を超えた法がある。単に悪人を逮捕するだけではダメなのだ。彼らが相手にしている悪は道徳的観念に欠けた正真正銘のワルばかりだ。無学でヤクを売りさばくことでしか、人を安い金で殺すことでしか生活できないチンピラから、商売敵、無能な部下、いや有能すぎて自分の地位を虎視眈々と狙う部下を疑い、殺すことでしか生きていけない無法のディーラーたちこそが彼らの相手。そんな人の命をクズとしか思わないやつらに道徳は通じない。 だから彼らは逮捕した時に徹底的にボコボコにする。顔の形が変形するほどに。そうしないと舐められるからだ。なんだ、逮捕されてもこの程度か、と。全然大したことないな、と。 “ダ・フォース”の面々が生きる世界は力こそが正義であり、そして治安のみならず自分の身を護る鎧なのだ。そんな世界をウィンズロウは色々なエピソードを交え、語っていく。 しかし毒はどんな理由であっても毒に過ぎない。マローンはヤクの売人との司法取引で弁護士に検事を巻き込んで無罪に持ち込むために賄賂を渡しているところを隠し撮りされたのを見せられ、ニューヨーク州南地区連邦検察局の連邦検事イゾベル・パスとFBI捜査官たちの汚職弁護士、検事たちを差し出すための囮、つまりネズミになることを強要される。家族と自らの保身のため、それを呑むことになってからはまさにマローンの人生は転落の一途を辿る。 これは王の凋落の物語。しかしその王は汚れた血と金でその地位を築き、恐怖で支配していただけの王だった。従ってその恐怖に亀裂が入った時、堅牢と思われた牙城は脆くも崩れ去る。 デニー・マローン達は確かに正義の側の人間。彼が取り締まっていたのは通常の遣り方では捕まえることの出来ない者ども。しかし上にも書いたように、ただ捉え方が違うだけで実質的にはやっていることは同じ。同じ穴の狢だったのだ。 やがてマローンはそれまで協力していたFBIに逮捕されるに至り、家族も担保に入られて絶体絶命の状況になった時に全てを供述して、自らも法の下に処罰されることを選ぶ。その時初めて彼は自分のやっていたこと、どこで間違い、そして堕ちていったのかを悟るのだ。 それからの展開は非常に辛い。最高の、そして最強のチーム“ダ・フォース”は分解をし始める。 昨日の友は明日の敵。友情は厚ければ厚いほど、裏切られた時の失望と怒りもまた深い。作用反作用の法則。命を預けられるほどの信頼で結ばれた仲間の絆は深く、そのために絆が剥がれる時、お互いの命を蝕むほどに根深く、そして傷つけるのだ。 やはり悪い事はできないものだと思いながらも、それまでどうにか切り抜け、ネズミになりながらも矜持を失わないように踏ん張るマローンを応援する自分がいた。そして彼が自分の悪行を悟って初めて彼もまた悪人である、毒であったことを知らされた。つまりはそれまで彼らの悪行を正当化するほどにこのデニー・マローン初め、フィル・ルッソ、ビッグ・モンティ、デイヴ・レヴィンの面々が魅力的だったということだ。 いやそれだけではない。 汚いことをやりながらもマローン達は自分たちの正義を行ったことだ。マローンはこの町が大好きで、人を愛し、空気を、匂いを愛したのだ。だからこそどんなことをしてでも町の平和を護ってやる、それが王の務めだと思っていたからだ。 後悔先絶たず。そんなことはいつも自分の心を隙間を突かれて堕ちていく人間が最後に行き着く凡百の後悔の念に過ぎず、謂わば単なる言い訳である。しかしそんな弱さこそがまた人間なのだ。 作中、マローンの恋人クローデットがこんなことを呟く。 「人生がわたしたちを殺そうとしている」 生きると云うことは苦しく、厳しいものだ。いっそ死ねたらどんなに楽か。本書では登場人物たちの生死によってその後の運命を見事に分っている。 悪行の報いと云ったらそれまでだろう。自分たちだけの正義を貫き、まさに生死の狭間に生きている警察官という仕事。そんな彼らに対する待遇が恵まれていないからこそ、このような負の連鎖に陥るのだ。 悪い事をしている奴らが使いきれないほどの金を持っており、一方それを捕まえる側は子供の養育費でさえヒイヒイ云いながら賄っている、この割の合わなさ。 そんな現実が良くならない限り、この“ダ・フォース”達は決してなくならないのだ。 それでも自分の正義を信じて生きていく彼らはまさに人生の殉教者。 ニューヨークの、いやアメリカの平和は少しでも衝撃を与えれば壊れてしまう薄氷の治安とバランスの上で成り立っている。そんな現代の深い絶望を感じさせる異色の警察小説だった。 そして私の中に流れる音楽がヒップホップからいつしか胸に染み入るバラードへと変わっていたことに気付いた。 |
No.1392 | 7点 | 謎物語 あるいは物語の謎 評論・エッセイ |
(2018/06/03 21:36登録) 稀代の読書家でもあるミステリ作家北村薫氏。彼は“日常の謎”系ミステリの開拓者でありながらも実は生粋の本格ミステリ原理主義者、つまりガチガチの本格ミステリ傾倒者であった。 そんな彼が語る“謎”についてのエッセイ。ミステリにおけるトリックから始まり、やがて物語自体が孕む謎について論は進んでいく。 読み進むうちに北村氏がかなり本格ミステリの格の部分に傾倒していることが解ってくる。 曰く、トリックが驚天動地のものならば小説としての結構はどうでもいいではないか。 曰く、トリックが思いついたら書きたくなるのが人情ではないか。 曰く、人の死なないミステリ、特に日常性の中の謎、などといったタイプの作品に出会うとうんざりする。 ん?最後の文章は本当に書かれているのである。本格ミステリの地平に“日常の謎”系ミステリという新たな地平を築いた本人が。もう飽きたとまで云っているのである。 また北村氏がかなりの読書家であることも本書から伺える。古今東西のミステリ、それもほとんどマニアしか読まなかったであろうミステリはもとより、作曲家の服部公一氏のエッセイからも紹介されているのには驚いた。どれだけ守備範囲の広い人なのかと。 読書とはやはり自分の世界を広げる、実に楽しい行為であることを確認できるのが本書である。そして人によって新たな解釈が生まれ、それが新たな物語を生み、そして書かれ、更にそれを読んだ読者によってそれが連綿と受け継がれていく。読書の海は、いや宇宙はどんどん広がっていくのである。そしてそれは読む量が多いほど解釈する種が増え、思考は広がっていく。 謎物語、つまり謎を持つ物語を読むことで読者は思考し、解釈する。そしてそれは物語自体の謎へとベクトルが向き、物語の本質へと突き進んでいく。 ああ、また明日も本を読もう。そして物語の謎に浸ろう。そんな気持ちにさせてくれるエッセイだった。 |