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ミステリの祭典

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Tetchyさんの登録情報
平均点:6.73点 書評数:1603件

プロフィール| 書評

No.1383 3点 死の舞踏
評論・エッセイ
(2018/03/26 23:16登録)
1993年に福武書店から刊行された、1981年に発表されたキングのエッセイ。長らく絶版だったがこのたびちくま文庫にて再々刊された。しかも本書は2010年及び2012年にそれぞれ刊行された増補改訂版を底本にした最新版である。しかしキングはエッセイさえもリメイクするとは驚いた。

しかし大著である。あとがきを含めると720ページもある。エッセイさえも雄弁に語る、いやエッセイだからこそ彼の雄弁さに歯止めがかからないのか、これほどまでの分量のエッセイは今まで見たことも読んだこともなかった。

キングのホラーの定義、彼の生い立ちが彼の作品に大いに影響していること、それまでの諸作の源泉や意図したことなど、キング自身について方々で語られているエピソードの源泉が本書にあるのだが、前半のパートはキングの恐怖に関する考察、分析などが独特の語り口で繰り広げられ、なかなか興味深い話もあった。しかし後半の映画・小説に関する更にディープに踏み込んだ内容になってくると、もう何を読んでいるのかが解らなくなった。キングが選出したそれぞれ好みの作品に付いて詳細に語っていくが、それもあまり纏まっているとは云えず、それぞれ書きたいことをどんどん放り込んでいるかのようで、とにかく語り出したら止まらない様相を呈している。正直後半については私は半分も理解していないだろう。

とにかく「語りたがり」のキングが自身のリミッターを外して存分に恐怖について語った本書。冒頭に挙げた映画から小説、さらにはラジオドラマまで存分に思うがままに書き連ねているエッセイは文章がとめどめなく溢れるかのようで実際少し、いやかなり読みにくい。湧き出てくる考えや感想をそのまま垂れ流すかのような筆致である。
正直に云って本書を読む限りキングは小説巧者であるが、エッセイ巧者ではないと断言しよう。しかしホラー、殊に「恐怖」に対する関心は並々ならぬ物があることを感じるエッセイである。

私にとってはキングの能弁な語り口に「踊らされた」エッセイだった。まさしくそれは舞踏のように。


No.1382 7点 尋ねて雪か
志水辰夫
(2018/03/25 23:58登録)
志水辰夫最初期の長編で4作目に当たる。高知出身の彼はなぜか北国を舞台にした作品が多く、本書も舞台は札幌。しかしこの氷点下の気温で雪が降りしきる北の街が志水作品にはよく似合うのである。

物語は盗まれた土地売買の契約書を取り戻してほしいと依頼されたヤクザの佐古田史朗が弟分の島と共に犯人を追って札幌に向かうが、当の本人はマンションで既に殺され、目当ての書類も無くなり、地元のヤクザとの対決に発展していくという話である。
彼が土地売買の書類を取り戻しに行ったのは捨てた故郷の北海道は札幌で、偶然にも捨てた継母とその娘、そして失踪した父親と出くわすという、昔ながらの運命の悪戯を絵に描いたようなお話である。

数十年経ってからの贖罪。しかもこれは自分勝手な贖罪だ。自己満足にしか過ぎない贖罪だ。しかし昭和の男とはこんな身勝手に生き、そして不器用だったのだ。

そして舞台は北海道は札幌。タイトルにもあるように物語全編に亘って雪が降りしきる。史朗が外に出る時は常に雪が降っている。
雪。それは史朗の心に降り積もる過去の澱。父親同然に自分を育ててくれた家族を捨てた後悔の念が強くなるにつれて雪の降る度合いも増えてくる。雪は史朗の行く手を阻むかのように降りしきるので、史朗は目指すところに常に遅れてしまう。大金をせしめて追われる弟を、その弟の行方を追う妹を、その恋人を探すのだが、常にその道行には雪が降りしきる。
訪ねる先は常に雪。それは彼にとって過去を償うための障害だった。

久々に読んだ志水作品は非常に泥くさく不器用な男と北の寒さと雪が終始舞う寂しい物語だった。幾分消化不良気味だがそれもシミタツの味として今は余韻に浸ろう。


No.1381 7点 必死の逃亡者
ジュール・ヴェルヌ
(2018/03/12 23:34登録)
フランス人でありながら自国に固執せず、様々な国を舞台に、そして様々な国の人々を主人公に、登場人物にして数々の物語を紡いできたヴェルヌが本書の舞台に選んだのはなんと中国。しかも登場人物も中国人という、異彩を放つ物語だ。

しかもこの話、実に奇妙である。物語の構成としては1人の富豪の中国人が奇妙な仲間と中国全土を旅するという、ヴェルヌ定番の冒険物であるのだが、その目的が実に変っている。
31歳にして巨万の富を手に入れ、もはや世の中に飽き飽きしていた金馥という富豪がある日突然アメリカの銀行から破産宣告を受ける。それをきっかけにもはや生きる意味がないと判断した彼は反政府組織の元太平党員だった家庭教師、汪に自分を殺害するように依頼する。しかし汪は承諾するものの、それを実行しないまま消えてしまう。その直後に再びアメリカの銀行から手紙が届き、破産は偽のニュースで逆に資産が2倍に増えているという知らせを受ける。そのことで金馥は再び生きることを選択し、許嫁との結婚も決意するが、今度は自分の暗殺を依頼した消えた汪に依頼の取り消しをするために捜索の旅に出るという、実に歪な内容なのだ。正直上記のように内容を纏めていてもどこかちぐはぐな箇所があり、ツッコミどころ満載なプロットである。

この辺の物語の妙味はかつてのヴェルヌにはなかったものだ。どちらかというと旅に主眼を置いた物語展開で、その目的や動機付けに関しては正直二の次で諸国漫遊物語と云った色合い、もしくは都市の発展、無人島生活の発展といった細部にこだわった作風が多かった。

さて従来ヴェルヌ作品には有能な召使いが登場するが先に読んだ『征服者ロビュール』に登場したフランコリン同様、今回登場する金馥の召使い孫は実に無能な人物だ。むしろその役割は自社の保険金を守るために金馥の旅にボディガード役として同行した保険会社の探偵クレイグとフライがその役割を担っていると云えるだろう。
顧客の安全を守るためには命を落とすことも厭わず、危機を素早く察知して機転を利かせて即応し、サメが襲ってこようものなら、ナイフ片手に立ち向かい撃退するなど、金馥の命を幾度も救う。
よくよく考えるとこの旅の一行の構成は『水戸黄門』そのものである。金持ちの金馥が黄門様こと水戸光圀、彼を守る有能な保険会社の探偵クレイグとフライがそれぞれ助さん、格さん、間抜けだが愛嬌のある召使いはうっかり八兵衛とぴったりと当て嵌まる。紅一点のお銀に当て嵌まる人物がいないのは仕方がないが、古今東西、旅の仲間の構成は変わらぬと云うことか。

実にヴェルヌにとっては異色の作品だ。西洋人がいない東の大国を舞台にした一風変わった冒険行の物語。そして物語を読み終わった時、改めて何の変哲もない本書の題名を読むと、そこに隠された意図が見えてくることに今更ながら気付かされた。
一度も中国を訪れずに本書を物にしたヴェルヌ。しかしその本音は最後の一行こそに込められているのではないだろうか―それを見るには、中国に行く必要がある!―。


No.1380 10点 夜より暗き闇
マイクル・コナリー
(2018/03/11 23:07登録)
本書の献辞にはこう書かれている。
“(前略)ふたりは第二幕が存在することを証明してくれた”
つまり本書はシリーズ第二幕の開幕を告げる作品なのだ。またその意気込みを見せるかのようにコナリーはノンシリーズの『わが心臓の痛み』の主人公、元FBI心理分析官テリー・マッケイレブ、同じくノンシリーズの『ザ・ポエット』の新聞記者ジャック・マカヴォイを登場させ、ボッシュと共演させる。まさにオールスターキャスト出演の意欲作である。
しかもこれが単なるファンサービスによる登場ではない。テリー・マッケイレブの捜査はハリー・ボッシュが扱う事件と同じ比重で描かれている。つまり本書はテリー・マッケイレブシリーズの第2作目であるとも云える。

まずボッシュは最初冒頭の1章に登場し、そこからはテリー・マッケイレブの許に殺人事件の資料の分析の依頼が来るところから幕を開ける。 そこからも主にマッケイレブの捜査にページが割かれ、主人公のボッシュは自分が挙げた殺人事件の犯人で映画監督のデイヴィッド・ストーリーの裁判に出廷する様子が断片的に描かれるだけである。
読者は果たしてこれはボッシュシリーズの8作目なのか、もしくはテリー・マッケイレブの第2作目の作品なのかと戸惑いながら読み進めていくと、上巻の後半にとんでもない展開が待ち受けている。
なんとテリー・マッケイレブが事件をプロファイルして絞り込んだ犯人はハリー・ボッシュだというのだ。
とうとう作者コナリーはシリーズ主人公をも容疑者にするという驚きを読者に与えてくれたのだ。

しかし毎回このコナリーという作家はどれだけ緻密な物語世界を作っているのかと唸らせられる。今回マッケイレブがジェイ・ウィンストンに請われて調べる事件の被害者エドワード・ガンは『ラスト・コヨーテ』でボッシュがパウンズ警部補を殴り、強制ストレス休暇を取る羽目となった、パウンズが誤って解放した取り調べ相手だった。
私も読みながらボッシュが取り調べをした事件に既視感を覚えていたが、まさかあの事件だったとは。
更にコナリーが素晴らしいのはボッシュが売春婦の息子であることの出自、そして母親を何者かに殺されたことで―なおこの事件は『ラスト・コヨーテ』で解決し、真犯人も捕まっている―、かつて正当防衛とはいえ、娼婦を殺害したエドワード・ガンに対して母親殺しの犯人をダブらせているなど、更に常に反目しあっていた元上司パウンズが亡くなっており、それが早々にボッシュが嫌疑から外れていることなどの諸々がボッシュ=犯人として有機的に絡み合ってくる。
更に本書において特に強調されるのは闇。人の死を扱う刑事、心理分析官は犯人の闇を見つめつつ、自らもまた闇から見つめられていることに気付く。それはまさに魂を削られていく作業で、それが殺人を追う仕事であれば延々と続く。そしてボッシュはかつてヴェトナム戦争でトンネル兵士として常に暗闇を見つめていた男。その後もサイコパス達を相手にし、闇を見続けている。こんな第1作からの設定が8作目にしてなお効果的に働き、そしてボッシュが容疑者に置かれるという最高のピンチを生み出すことに成功している。シリーズ作品を余すところなく料理し、1つも無駄にせず、その醍醐味を味わさせてくれるコナリーの構成力の凄さには7作目にしてなお驚き、そして惜しみない賞賛を送らざるを得ないだろう。

さて今後ボッシュはダークヒーローの道を突き進むのか。また今回は単に物語のアジテーターの役回りに過ぎなかったジャック・マカヴォイは、ボッシュとマッケイレブ双方に縁があることが解ったわけだが、今後も彼らに関わっていくのだろうか。
常に読者の予想を超えるストーリーとプロットを見せてくれるコナリー。そして次はどんな物語を我々に披露し、そして驚かせてくれるのだろうか。


No.1379 8点 金閣寺に密室 とんち探偵一休さん
鯨統一郎
(2018/03/03 00:01登録)
本書はまさに掘り出し物だった。
一休との出逢いは子供の頃に放映されたTVアニメ「一休さん」が最初だったように思う。その後も一級のとんち話を集めた本を図書館などで読んだ記憶があり、子供心に一休さんの聡明ぶりにいつも胸躍らせたものだ。
本書はその聡明な坊主一休が金閣寺で起きた足利義満の密室殺人事件を解く話。しかしとんちの効いた一休さんがその賢い頭脳で探偵役を務めるという安直な設定ではなく、一休さん、即ち一休宗純の隠された出自に纏わる将軍家との暗闘や当時の絶対君主だった足利義満の異常なまでの好色ぶりに端を発する義満に仕える士官たちの苦難と屈辱が織り込まれ、足利義満を死に至らしめるまでのそれぞれの思惑がじっくりと描かれる。
まずは今に伝わる一休の聡明ぶりを示す数々のとんち話が挿話として織り込まれ、過去に「一休さん」の名で親しんだ人は勿論のこと、初めて読む人もその頭の冴えが愉しめるような話の運びになっている。

そして何よりも今回驚いたのは前掲したTVアニメの「一休さん」がその出自を含めて忠実に描かれていたところだ。ただアニメの一休さんよりも年上の15歳であることから、一休を慕う少女がさよちゃんなのが茜であること、一休さんと一緒に修行に励む坊主の名前も微妙に違うこと、一休さんが仕えている寺がアニメでは貧乏寺である安国寺であるが、そこは幼き頃にいた寺で本書では臨済宗の高位に当たる建仁寺にいること、従って和尚もアニメでは外観であり、本書では慕哲龍攀であることなど設定に微妙な違いはあるものの、蜷川新右衛門や将軍様の足利義満は同じで、一休さんが母上様と慕っている実母がなぜ逢えないのかもきちんと再現されている。一休さんは後小松天皇の庶子であり、つまり皇族の一員なのだが、足利義満の皇位簒奪によって出家させられたことになっている。勿論アニメではそれには触れていない。
そして一休をとんちで打ち負かそうとする将軍様こと足利義満は単に一休をギャフンと云わせることを生き甲斐にしているように思えるが、実は皇位簒奪者である義満は一休が天皇家の跡取りの権利があることを危惧し、一休が聡明な坊主であるとの評判を聞きつけて絶対的君主である自分のところに謁見させる栄誉を与えると共に、目の前で無理難題を吹っかけて粗相をさせることを大義名分として打ち首にしようとしていたのだった。つまりあのアニメの「一休さん」は毎回一休さんのとんち比べととんちを武器に質の悪い大人たちを懲らしめる勧善懲悪的な面白さを見せながら、実はとんちによってその命を生き長らえるという九死に一生を得るスリリングな毎日が描かれていたと本書を読むことで読み取ることが出来る。

本書はただの歴史ミステリのように思えるが、本書が優れているのはこの謎の解明に鯨氏は先に述べた有名な一休のとんち話を巧みに絡めて、それを推理の手掛かりとして有機的に結び付けるという離れ業をやってのけているところだ。
これには脱帽。どんどん真相が明かされていくたびにそれぞれのエピソードがぴたりぴたりと事件の背景、犯人の動機に収まっていく。もうこれは見事としか云いようがない。一休の賢さを引き立てる演出としてのエピソードが、しかも誰もが知っているであろうとんち話を密室殺人に絡めていく発想の妙とそれをやり遂げる構成力に甚だ感服した。

数多の歴史文献のみならず、巷間に流布する一休さんのとんち話をもミステリの枠に取り入れ、足利義満殺害、しかも犯行現場は世界に名だたる観光名所の金閣寺、更に密室殺人という三重のミステリ妙味を備えた長編を料理して見せた手腕は実に美事としかいいようのない。

そして奇遇なことに本書の冒頭で六郎太と静が森女を訪ねる大徳寺に私はこの正月、初詣に京都に行った際、ついでに訪れたのだ。それも偶々バスから降りた場所の近くに大徳寺があり、そこで枯山水を見たのだった。お土産に大徳寺納豆を買いもした。まさになんというタイミングでの読書であったことか。
題名が実に平凡であることで本書は大いに損をしていると思う。帯に掲げられた「宮部みゆき氏絶賛!」の惹句は決して伊達ではない。天晴、一休!そして天晴、鯨統一郎!と声高に称賛しよう。


No.1378 7点 迷宮百年の睡魔
森博嗣
(2018/02/27 23:40登録)
エンジニアリング・ライタのサエバ・ミチルと相棒のウォーカロン、ロイディの2人がルナティック・シティに続いて訪れるのは周囲を海に囲まれた巨大な建造物からなる島イル・サン・ジャック。そう、もうお分かりであろう、フランスのモン・サン・ミシェルをモデルにした島が物語の舞台である。
本書の時代設定は2114年。前作は2113年だったからルナティック・シティの事件から1年後の話となる。既にクロン技術も確立され、ウォーカロンというアンドロイドが一般的に導入され、労働力にもなっている森氏による近未来ファンタジー小説の意匠を纏ったミステリである本書はその世界そのものに謎が多く散りばめられている。

以下大いにネタバレ!

永遠の生を与えることが最大の奉仕と思っていた女王。しかし与えられたものは感じたのは永遠の命を持っていることの恐ろしさ。その恐怖が彼を死を魅力的だと思うようになった。従って彼は死を選び、その瞬間、なんとも云い難い爽快感を得た。それは永遠の命という鎖から解き放たれた解放感と云えるだろう。人は押しなべて永遠に生きることを選ぶとは限らないのだ。
この生き方、死に様から本書はサルトルの「実存主義」について語ったミステリであると云えるだろう。作り物の躰を借りて頭脳だけの存在になった物は果たして存在していると云えるのだろうか?本来人間は実存が先にあり、そして本質を自分の手で選び取っていかなければならないとされていたのに、実存さえもないのに、本質を自分の手で選び取っていくのは果たしてどこに存在があるというのか?
存在しながらも非在であるというジレンマがここにはある。

それは既に人間というデータであり存在ではない。しかしウォーカロンという器で現実世界に存在している。それは今や貨幣からウェブ上での数字でやり取りされる金銭と同じような感覚である。お金として存在はするのに実存せずとも数字というデータで取引が出来、そして実際に現物が手に入る。この電脳空間で実物性がない中で実物が手元に入る感覚の不思議さを森氏はこのシリーズで投げ掛けているように思える。
金銭でさえもはや数字というデータでやり取りされ、成立するならばもはや人間も頭脳さえ維持されれば個人の意識というデータで生き、そして躰はウォーカロンという器でいくらでも取り換えが利くようになる。それは人間が手に入れた永遠だ。しかしそこに存在はあるのか。その人は実在しているのか?そのジレンマを象徴しているのがサエバ・ミチルであり、そして本書の登場したイル・サン・ジャックの人々なのだ。

2018年現在、人工知能の開発はかなりの進展をしており、かつては人間が勝っていた人工知能と将棋の対戦も人間側が勝てなくなっている。そして人間型ロボットの開発もかなり進歩しており、見た目には人間と変わらない物も出てきている。更に人工知能の発達により今後10~20年で人間の仕事の約半分は機械に取って代わられると予見されている。
2003年に発表された本書は既に15年後の未来を見据えた内容、描写が見受けられ、読みながらハッとするところが多々あった。特に本書に登場する警察は人間の警官はカイリス1人であり、その他の部下はウォーカロンである。このようにいつもながら森氏の先見性には驚かされる。
そしてこの世界ではもはや人間は働く必要はないほどエネルギーは充足している。つまりもはや人間の存在意義や価値はないといっていいだろう。永遠なる退屈と虚無を手に入れた人間は果たしてどこに向かうのか?ユートピアを描きながらもその実ディストピアである未来の空虚さをこのシリーズでは語っている。

森氏の著作に『夢・出逢い・魔性』というのがある。これは即ち「夢で逢いましょう」を文字ったタイトルでもある。また日本の歌にはこのような歌詞のあるものもある。

“夢でもし逢えたら素敵なことね。貴方に逢えるまで眠りに就きたい”

メグツシュカが作り出したイル・サン・ジャックに住まう人々は永い夢の中で生きる人々なのかもしれない。彼らはそんな夢の中で永遠の安息と変わりない日々、つまりは安定を得て、日々を暮らし、そこに充足を感じている。それがメグツシュカが描いた理想のコミュニティであれば、なんと平和とは退屈なものなのだろうか。
無敵と化した人間の実存性を手に入れた代償が永遠なる退屈と虚無であり、そしてそのことを悟った人間の選択が自殺であったという実に皮肉な真相だった。


No.1377 7点 少女には向かない職業
桜庭一樹
(2018/02/23 23:15登録)
地方のどこにでもある町に住む女子中学生2人、大西葵と宮乃下静香の、中学2年に体験した、青くほろ苦い殺人の物語。この2人はそれぞれの家庭に問題を抱えている。
美人でかつて東京で働いていた母親を持つ大西葵は学校ではいつも周囲を笑わせるムードメーカー的存在だが、父親を5歳の時に病気で亡くし、再婚した漁師の義父は1年前に足を悪くして以来、漁に出なくなり、毎日酒浸りの日々。もはや酒を飲むか、酒を買いに行くか、寝るかしかしない大男で狭心症を患っている。従って生計は母親の、漁港での干物づくりパートで賄っている。葵はこの義父がとても嫌いで死ねばいいのにと思っている。
宮乃下静香はその島の網元の老人の孫で従兄の浩一郎の3人暮らし。中学生になった頃から島に住み始め、それまでは祖父に勘当された母親の許で暮らしていたが、祖父がその行方を捜していたところを見つけられて引き取られることになった。彼女の母はその時既に亡くなっていたため、彼女のみ島に帰ることになった。そして浩一郎は祖父から嫌われており、なんとかなだめてその莫大な遺産を相続しようと画策している。そして遺言状が書き替えられ、遺産を相続することになった時こそ、自分が浩一郎に殺される番だと恐れている。

バイトで稼いだ小遣いをゲームに費やす大西葵、読書家でいつも鞄がパンパンに膨れ上がるほどの本を持ち歩いている、図書委員の宮乃下静香は作者本人の分身のように思える。桜庭氏がかなりの読書家であることが知られており、また別名義でゲームシナリオも書いていることから恐らくゲーム好きであろうことが窺える。
この2人のうち、語り手の大西葵を中心に物語は進むわけだが、これが何とも実に中学生らしい青さと清さを備え、あの頃の自分を思い出すかのようだった。

供だった小学生から、肉体的・精神的にも大人へと変わっていくこの年頃の複雑な心境、そして理解されたい一方で、大人を嫌う、愛憎入り混じった感情、そしてもう日常を生きるのに精一杯で我が子を表層的にしか捉えていない大人の無理解に対する憤りなどが織り交ぜられている。
少女たちの日常は虚構に満ちている。それは辛い現実から少しでも忘れたいからだ。そして少女たちは今日もセカイへ旅に出る。

中学生になった彼女たちはバイトして自由に使えるお金も増え、そして身体も大きく成長し、自転車でそれまで行けなかった距離も延々とこぎ続ける体力を持ち、それまで親の付き添い無しでは乗れなかった公共交通機関も、恐れることなく、乗れるようになる知識を備えている。それまでできなかったことがどんどん出来てくる彼女たちは世界がどんどん広がるのを実感し、万能感と無敵感を覚えていく。
一方で小学生までは一緒にゲームで遊んでいた男子もからだの発育と共に大人びていき、異性を意識し出して、これまでのように話しかけることが出来なくなる。特に女性の方が精神面の成長は早く、男性は遅いので、男子はいつものように話しかけるのに対し、女子はいつの間にかできた心のハードルを飛び越えて、決意を持って話さなければならないようだ。

こうでなければならないと小学生の頃に叩き込まれたルールを愚直なまでに守り、一方でそれを逸脱することに面白みを感じる、矛盾を内包した彼らは自分の行為で生じる矛盾を許せはするが、他人の矛盾行為は許せない。なぜなら万能感を手に入れた彼ら彼女らは自分こそが正義だと思うからだ。相手に合わせることを知りながらも、一方で自分の規範から外れた者を排除することを厭わない純粋であるがゆえに不器用な心の在り方が、全編に亘って語られる。

学校という基盤が少女たちをまた中学生に引き戻す。日常と非日常を繰り返す。それは非日常のダークサイドを日常の学校生活で浄化しているかのようだ。
学校生活という現実から逃れるためにゲームや読書と虚構世界の中を生きる彼女たちにとって殺人自体もまた虚構の出来事として捉えることで消化する。だからこそ宮乃下静香は古今東西の物語をヒントにした殺人シナリオを作り、大西葵は殺人をテレビで観たマジックとゲームに出てくる武器バトルアックスで実行する。それはどこか彼女たちにとって白昼夢の出来事。しかし違いは身体性、肉体性があること。
そして彼女たちの生身の身体が傷つき、血を流すとき、ゲームは終わりを告げる。虚構にいた彼女は現実を知り、そして法にその身を委ねることを決意したのだ。それは自分たちが生きようとする意志でもあった。世界に絶望した自分たちが血を流すことで生を意識したのだ。ゲームの世界ではHPという数値でしか見えなかった敵を斃すということ、傷を負うということが実際に血を流すことでリアルに繋がったのだ。
つまりそれは彼女たちが生きていたセカイからの脱却。本書は自分たちの障壁となる人物を排除することでリアルを体験し、そしてセカイから世界へ向き合うことを示した物語なのだ。

現実の厳しさに耐えるため、敢えて虚構に身を置き、それに淫することで自らの居場所と万能感を得た彼女たち。それは思春期を迎える我々全てが経験する通過儀礼のようなものだろう。
そこから脱け出して現実を知る者、未だに抜け出せず、虚構の主人公となろうと振る舞う者。今の世の大人は大きく分ければこの2種類に分かれているように思える。

彼女たちが認識した世界は実に苦いものだった。これはそんな少女たちの通過儀礼のお話。リアルを知った彼女たちは今後、一体どこへ向かうのだろうか。もし彼女たちが虚構に生きることを望んでいたのなら、確かにこの殺人計画は「少女には向かない職業」だ。


No.1376 5点 文章魔界道
鯨統一郎
(2018/02/21 23:41登録)
とにかく全編鯨氏独特のユーモア、そしてちょっぴりエロに満ちている。
まず主人公2人の設定が人を食っている。小説家デビューを目指し、日々創作しては新人賞に応募するミユキはそれまで1冊も本を読んだことがない。しかし文章が無尽蔵に湧き出る才能の持ち主。
一方彼女が師事する小説家大文豪は物語が無尽蔵に浮かぶのだが、文章を書くのが苦手でこれまで1編も小説を書いたことのない自称小説家。
この実に胡散臭い小説家とミユキのやり取りが実に面白く、さらに明らかにミユキに欲情している中年のいやらしさがにじみ出ており、まさに鯨印といったところ。
そして大文のケータイ小説と世の小説家たちをスランプに陥れている文章魔王が住む電脳世界へアクセスする文章魔界道への行き方も数々のエロサイトを潜り抜けなけれならないというバカバカしさ。当時はまだ電話回線によるインターネット通信で、携帯電話を介しての接続と時代を感じさせる場面もあり、懐かしさを覚える。

ミユキが文章魔王とその部下である第一の番人と第二の番人と対決するのは文章による対決だ。
この対決の数々はまさに鯨氏の文章遊びをふんだんに盛り込んだ内容となっている。存分にアイデアを、いや趣味の世界を繰り広げている。

しかし内容はふざけていながらも案外書かれている内容は深いものを読み取ることが出来る。
例えば本書で数々の敵を討ち斃す作家志望のミユキが武器にしているのはノートパソコンで、つまりパソコンの文章ソフトとインターネットがあれば色んな問題も回答し、さらに文章も作ることができる、つまりパソコンこそが文章作成の最良の便利ツールであることを暗に示している。作中、大文豪が人間には三大欲の他にストーリィ欲というのがある。インターネットが普及して無限の小説が書けることになった。人々はストーリィを欲し、またストーリィを書くことを欲している。
かつて森村誠一氏も同様のことを云っていたことを記憶している。人々には表現欲という物があり、みな何かを表現したがっている。簡単にケータイやパソコンで文章が作れる現在はその欲望が一気に爆発している、と。
だが一方でその安直さこそが文章の乱立を助長しているとも云える。小説の未来を憂いた文章魔王が世の小説家たちに戦いを挑んで打ち負かしたのは、ろくに本も読まずに作家になろうとしている輩が増えていることに対する作者の憤りを代弁しているかのようだ。ミユキはまさにそんな現代の作家志望者のステレオタイプとして描かれた人物だろう。

戯曲というスタイルもあって文章量も少なく、小一時間で読める内容と電脳世界での文章対決というあらゆる意味で軽い内容の本書だが、作中に収められたそれまで一遍も小説を書いたことのない男が書いた小説を内容に照らし合わせれば、文章の持つ面白さ、そして小説が読まれることの意義などが暗に含まれており、なかなか考えさせられる内容である。単純に読み飛ばすだけに留まらない作品であると云っておこう。


No.1375 10点 男は旗
稲見一良
(2018/02/18 23:49登録)
いやぁ、痛快、痛快。
刊行当時の1998年ならば私はこれを稲見風ジュール・ヴェルヌ調海洋冒険小説とでも評したろうが、21世紀の今ならばこれは稲見版『ONE PIECE』ではないか!と声を大にして評しよう。
大人の夢と冒険の物語を描いたら右に出る者がいない稲見一良氏が今回選んだ題材は一本芯の通った男が気の置けない仲間たちと共に船で大海原に漕ぎ出す、冒険心溢れる男と女たちの物語だ。

陸の冒険活劇から後半は海洋冒険活劇へと転じて、海賊たちと戦い、また未知の島で絶滅したと思われていた幻の鳥グァンを発見し、宝の在処を示した島の形を手掛かりに一行は船を進める。
そして『ONE PIECE』がそうであるように、本書も読んでいて実に気持ちがいい。たった250ページ弱の分量ながら、胸を躍らせて止まない要素がふんだんに盛り込まれ、ひきつけて止まない。私がどれだけのことを本書を読んで感じたかを表すには、本書の倍のページ数は必要だろう。

しかし物事には全て終わりがある。どんな愉しいひと時にも必ず終わりは訪れる。それはまさに夢のような一時の終わりだ。
最後の一行を読み終わった今、私の心はなんとも云えない堪らない気持ちでいっぱいだ。
まずはこの結末が堪らない。
そしてそんな不可能を可能にした安楽以下、他のシリウス号の面々が堪らない。彼らの力に屈せず、どんな苦難にも立ち向かう強い心と、そして何よりも人生を愉しむことを忘れない素晴らしい人々の気持ちよさが堪らないのだ。
そして何よりも、こんな気持ちのいい物語を書いた稲見氏がもう今はいないことが何とも堪らないのだ。

こんな物語を読まされたからには、どうしても大きな喪失感が込み上げてくる。もっと夢を、物語を見させてくれよと、叶わない駄々を訴えたくなる。
死を覚悟した人の紡ぐ物語はなんと優しく、美しい事か。

モデルとなったホテル・スカンジナビアだが、既にもうホテルとしては経営してなく、2006年にスウェーデンの企業に売却され、整備のために上海のドックに曳航されている途中に浸水して沈没してしまったとのこと。そして安楽氏もまたその後を追うようにその2年後に永眠されたとのことだ。何と全てが夢の出来事ではなかったかと思われる話である。

題名に掲げられた旗とは、いつか男は旗を掲げて船出すべきだというメッセージの象徴だろう。それはまさに稲見氏自身が実践したことでもある。癌を患った時、伏せてばかりはいけない、男は心に旗を掲げ、命燃え尽きるまで夢へと漕ぎ出せ。そう自身を鼓舞している作者の声が聞こえてくるようだ。


No.1374 7点 ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所
ダグラス・アダムス
(2018/02/16 23:21登録)
英ガーディアン紙の「死ぬまでに読むべき1000冊」でSFコメディ『銀河ヒッチハイク・ガイド』が選ばれたダグラス・アダムス。邦訳された作品はそのシリーズ作品しかなかったが、2017年になって唯一の奇想ミステリーである本書が訳出されることになった。これはやはり上記のイベントによる再評価によるところなのだろうか。

さてそのアダムスだが、やはり作品は一筋縄ではいかない。電動修道士の話やスーザン・ウェイという女性の話が同時並行的に語られ、どんな物語が始まるのか、しばらくは読者は予想が着かなく、100ページを過ぎたあたりからようやく物語に繋がりが出てくる。

そして探偵ダーク・ジェントリーが本格的に姿を現すのは190ページ。物語としては約半分の辺りである。そして彼を通じてようやく本書のメインの事件が明かされる。まず誰しもが疑問に抱くダーク・ジェントリーの肩書である全体論的探偵とは一体どう意味なのか?
ダーク・ジェントリー曰く、「全体論的」とは万物は根本的に相互的に関連し合っており、そこに目を向けて物事を調査し、そして解決に結びつけるという物。従って猫の捜索1つにおいても、万物の相互関連性のベクトルを地図に記入して位置を特定すればそれはバーミューダ島に行き当たり、そこまで出張しなければ全体が見えてこないとのたまう。この辺の胡散臭さこそがアダムスの真骨頂と云えるだろう。
とにかくアダムスの筆致は縦横無尽である。書きたいことを次々と放り込んで物語は進む。
量子力学、哲学、芸術論、物理学に数学を物語の流れを阻害する云々関係なく放り込んでくる。しかしそれらは決して退屈を誘うわけではなく、寧ろ私が読書の愉悦と考えている、新たな蘊蓄、知識の得ることが出来る、非常に興味深い内容に満ちていた。

アダムスの書きたいがままに綴られているような物語はしかし後半に至ると実に用意周到に仕掛けられた伏線が散りばめられていることが解る。
今まで曖昧模糊だったものが明らかになり、見事なまでに物語は美しく着地する。
まさかこれだけ取っ散らかった物語がかくも見事な着地を見せるとは思わなかった。しかも色んなその道の歴史的事実やゴシップを知っていると私が知っている以上に思わずニヤリとするような仕掛けも施されている。
二度読み必至の本書はダグラス・アダムス作品の中でも珍しく内容のまとまった作品ではないだろうか。

本格ミステリにとってタブーとされている題材を扱いながらもこれだけ見事な着地を見せる。ジャン・コクトーは日本の相撲の立合いを見て「バランスの奇跡だ」と評したが、私はこの玩具箱のような通常一同に会しえないとんでもない設定が美しく着地する物語をバランスの奇跡であると評しよう。


No.1373 7点 バッドラック・ムーン
マイクル・コナリー
(2018/02/11 01:04登録)
コナリーの3作目のノンシリーズである本書はこれまでのコナリー作品とは色々と異なっているのが特徴だ。まず主人公がなんと女性である。元窃盗犯で仮釈放の保護観察の身であるキャシー・ブラックが主人公だ。
そして今までは刑事ボッシュを筆頭に、新聞記者のジャック・マカヴォイ、元FBI捜査官のテリー・マッケイレブが主人公を務めたシリーズ物、ノンシリーズ物も含めて犯人を追う捜査小説だったが、今回の主人公キャシー・ブラックは女泥棒。つまりクライム・ノヴェルであることだ。
そして書き方や物語の進め方も以前の作品とは異なっている。このキャシーが女泥棒と判るのは案外物語が進んでからだ。それまでは彼女は一体何者で、どんな過去があったのかがなかなか語られず、仮釈放の身でハリウッドのポルシェのディーラーに勤める、人の目を惹く美人であることが解っているだけである。前情報と知識がないまま物語は進む。そしてその中で断片的ながらキャシーの過去が浮かび上がってくるという、ちょっと変わった書き方をしているのが特徴だ。

実に映像向けのストーリーであり、起伏に富みながらもどこか深みを感じさせない。コナリー作品の特徴と云えばハードボイルドを彷彿とさせる緊張感と暗さを伴った重厚な文体に、事件に関わらざるを得ない宿命のような物を感じさせる主人公がどこまでも謎を追いかけていく、泥臭さを匂わせる文体で物語を勧めながら、いきなり頭をドカンと殴られるような驚きのサプライズが仕込まれているという読書の醍醐味を感じさせる味わいなのだが、本書はなかなか主人公キャシーの氏素性と過去が明かされぬまま、物語が進み、訪れるべき終幕に向けて一気呵成に突き進む、疾走感がある文体で逆にそれが特徴である深みや味わいを逸している。
ただコナリー作品独特のテイストもないわけではない。占星術における十二宮のどこにも月が入らない時間帯は不吉なことが起きるヴォイド・ムーンというモチーフを用いて上手くいくはずの犯行を絶望的なトラブルに主人公たちを巻き込む。

全てが6年前のあの日へと収斂する。因縁の過去が彼ら彼女らを引き寄せていく。
コナリー作品はこのように限定された人物たちが過去の因縁によって再び引き寄せられるプロットが好みのようだ。あれほど広大なラス・ヴェガスでもう一度会いまみえる過去の因縁たち。それはどうやっても切っても切れない鎖のような絆で結ばれた運命の人々のように描かれる。その宿命的な繋がりを断ち切ってこそ、過去に縛られた人たちに未来は訪れるのだというメッセージが込められているようにも思える。
その因縁に抗えない人たちはそのまま飲み込まれ、そこで死に絶える。犯罪に手を染めた者たちにとって因縁の鎖は容赦なくその身を縛り、そしてあの世へと誘う。そんな冷徹さが垣間見える。

全てが虚しい享楽の夜の塵となった。誰もが望んだものを得られぬままに幕が引かれた。しかし唯一虚しい戦いに生き残ったキャシー・ブラックは孤独の道を行く。彼女が目指すのは砂漠。しかし砂漠が海になるところだ。かつての恋人と幸せな時を過ごした場所へ。
キャシー・ブラック。彼女もまた壮大なボッシュ・サーガの一片であればいつかまたどこかで逢うことになるだろう。それまでこの哀しき女泥棒のことを覚えておこう。


No.1372 10点 ペット・セマタリー
スティーヴン・キング
(2018/02/09 23:54登録)
メイン州を舞台にした本書のテーマは誰しもに訪れる死。ペット・セマタリーという地元の子供たちで手入れがされている山の中のペット霊園をモチーフにした作品だ。
この作品も映画化されており、何度かテレビ放送されたが、なぜか私は観る機会がなく、従って全く知識ゼロの状態で読むことになった。

典型的な死者再生譚であり、そして過去幾度となく書かれてきたこのテーマの作品が押しなべてそうであったように、ホラーであり悲劇の物語だ。実際に本書の中でもそのジャンルの名作である「猿の手」についても触れてもいる。
そんな典型的なホラーなのにキングに掛かると実に奥深さを感じる。登場人物が必然性を持ってその開けてはいけない扉を開けていくのを当事者意識的に読まされる。
読者をそうさせるのはそこに至るまでの経緯と登場人物たちの生活、そして過去、とりわけ今回は死に纏わる過去のエピソードが実にきめ細やかに描かれているからだろう。

情理の狭間で葛藤する父親が、愛情の深さゆえに理性を退け、禁断の扉を開いていく心の移ろう様をこのようにキングは実に丁寧に描いていく。判っているけどやめられないのだ。この非常に愚かな人間の本能的衝動を細部に亘って描くところが非常に上手く、そして物語に必然性をもたらせるのだ。
つまりこの家族の愛情こそがこの恐ろしい物語の原動力であると考えると、これまでのキングの作品の中に1つの符号が見出される。
それはキングのホラーが家族の物語に根差しているということだ。家族に訪れる悲劇や恐怖を扱っているからこそ読者はモンスターが現れるような非現実的な設定であっても、自分の身の回りに起きそうな現実として受け止めてしまうのではないか。だからこそ彼のホラーは広く読まれるのだ。

仲睦まじい家庭に訪れた最愛のペットが事故で亡くなるという不幸。同じく最愛のまだ幼い息子が事故で亡くなるという深い悲しみ。本書で語られるのはこの隣近所のどこかで誰かが遭っている悲劇である。それが異世界の扉を開く引き金になるという親和性こそキングのホラーが他作家のそれらと一線を画しているのだ。
愛が深いからこそ喪った時の喪失感もまたひとしおだ。それを引き立たせるためにキングはルイスの息子ゲージが亡くなる前に、実に楽しい親子の団欒のエピソードを持ってくる。初めて凧揚げをするゲージは生まれて初めて自分で凧を操ることで空を飛ぶことを感じる。新たな世界が拓かれたまだ2歳の息子を見てルイスは永遠を感じた事だろう。人生が始まったばかりのゲージ、これからまだ色んな世界が待っている、それを見せてやろうと幸せの絶頂を感じていた。美しい妻、愛らしい娘と息子。全てがこのまま煌びやかに続き、将来に何の心配もないと思っていた、そんな良き日の後に突然の深い悲しみの出来事を持ってくるキング。物語の振れ幅をジェットコースターのように操り、読者を引っ張って止まない。

本書は見事なまでに対比構造で成り立った作品である。
生と死。若い夫婦と老夫婦。死を受け入れるクランドル夫婦と受け入れらないクリード夫妻。本来命を救う医者であるルイスが行うのは死者を弔う埋葬。愛らしい猫チャーチは一方で小鳥や鼠を弄ぶかのように殺す残虐性を備えている。愛らしかったゲージは甦った後、平気で邪魔者を殺害する残虐な悪魔となった。天使と悪魔。そして過去と未来。

本書の半ば、ジャドの妻ノーマの葬式で不意にルイスはこう願う。
神よ過去を救いたまえ、と。
せめて美しかった過去だけは薄れぬものとして残ってほしい。死んだ者は忘れ去られていく者であることに対するルイスの悲痛な願いから発したこの言葉だが、一方で今が苦しむ者がすがるよすがこそが美しかった過去であるとも読めるこの言葉。
しかし人は過去に生きるのではない。未来に生きるものだ。彼が選んだ未来はどうしようもない暗黒であることを考えながらも、果たして自分が同じような場面に直面した時、もしルイスのように禁忌の扉を開くことが出来たなら、彼のようにはしないと果たして云えるのか。

キングのホラーはそんな風に人の愛情を天秤にかけ、読後もしばらく暗澹とさせてくれる。実に意地悪な作家だ。


No.1371 7点 捩れ屋敷の利鈍
森博嗣
(2018/01/25 22:52登録)
Vシリーズもいよいよ終盤に差し掛かり、とうとうS&Mシリーズの西之園萌絵と国枝桃子が登場する、2つのシリーズが一堂に会することになった。その記念的作品が第8作の本書。そしてこのVシリーズに仕掛けられた大きな謎について仄めかされる、森氏としても大いに踏み込んだ作品だ。

本書で最も目を惹くのはなんといってもメビウスの輪を巨大なコンクリート構造物として作った棙れ屋敷だろう。36の4メートルの部屋で区切られた全長150メートルにも及ぶ棙れ屋敷。しかもそれぞれ部屋は傾いて作られ、折り返し地点の部屋は床が左の壁となる90度傾いた構造となっている。更にそれらはドアで繋がっており、入ってきたドアが施錠されると他方のドアが解錠される仕組み、つまり必ず1つのドアが各々の部屋で施錠されている状態になる。そんなパズルめいた趣向を凝らした屋敷で事件が起こらぬはずがない。
そしてもう1つは何の変哲もないログハウスでの密室殺人。しかもそこで殺された熊野御堂譲氏は「この謎を解いてみろ」と発見者に挑戦状を叩きつけているくらいだ。

しかし色々と惑わせてくれる森氏である。この保呂草潤平が今回偽る名前は1作目に保呂草潤平と称して登場した殺人犯の名前である。そして近くの刑務所から殺人犯が脱走したことがニュースで報じられている。冒頭の保呂草による独白めいたプロローグが無ければ今回の保呂草はいつもの保呂草なのかそれとも1作目の保呂草、秋野秀和なのか、惑わされてしまう。これもシリーズに隠されたある謎を知らなければ素直に保呂草の茶目っ気と受け止めるのだが、知っていることが逆に不穏さを誘うのだ。特に今回の保呂草の行動が案外いかがわしく、そして危険な香りを漂わせているだけに。

しかしこうやって読み終わってみると森氏にとって密室トリックや犯人やらは本当に些末なことであることが解る。エンジェル・マヌーヴァ掠奪の顛末は実にスリリングだが、柱に埋め込まれた美術品の持ち出し方法は案外拍子抜けするほどの内容だ。
つまり本書で語りたかった、もしくは読者に仕掛けたかった、もしくは明かしたかった謎は別のところにあるのだ。

たった250ページ強のシリーズ中最も短い長編である本書を最後まで読んだ時、森氏がこのシリーズに仕掛けられた大きな謎について大いに踏み込んだことが解る。
実は私は既読者によってネタバレされているのでその驚愕を味わえない不幸な人間なのだが―頼むから森博嗣ファンの方々、そういうネタバレは止めましょうね―、逆にそれを知っていることで本書が実に注意深く書かれていることに思わずほくそ笑んでしまった。
まずこの棙れ屋敷が愛知県警管轄外の岐阜県にあること。
今回なぜ小鳥遊練無と香具山紫子たちは出ずに保呂草と瀬在丸紅子だけなのか?
そしてなぜ瀬在丸紅子は西之園萌絵を知っているのか、いや西之園家を知っているのか?
それはあと残り2作となったシリーズ作で明らかにされることだろう。保呂草によって綴られたエピローグに書かれた驚愕の事実。それが解るのももうすぐである―だからネタバレは止めようね、森博嗣ファンの方々―。


No.1370 7点 囲碁殺人事件
竹本健治
(2018/01/23 23:23登録)
一昨年、『涙香迷宮』で『このミス』1位を獲得した竹本健治。それをきっかけに今過去の絶版となった作品や未文庫化の作品が次々と復刊、文庫化されてきている。
そしてその『涙香迷宮』でも探偵役を務めた牧場智久の初登場作が本書である。
本書が発表されたのが1980年。その時竹本氏は26歳でまだそんな年齢にも拘らず囲碁に精通している。第1作の『将棋殺人事件』でも確か詰将棋の碁盤が出てきたように思うが、本書の囲碁の対局場面といい、珍瓏という盤面全体に及ぶ詰碁に鬼の意匠を凝らしたり、また盤面に暗号を隠す、更には2ページのみだが「囲碁原論・試論」と題した囲碁に関する考察論文を挟むなど、テーマに対して貪欲なまでにミステリを加味し、またそれを可能にする深い造詣を持っていることが窺われる。本書のあとがきによれば大学時代に囲碁研究会にせっせと通い、10級で入部し、大学を辞める時には5段の腕前になっていたとのこと。その代わりに大学5年間在籍して取得単位はゼロというのだから、実に親不孝な学生である。

まず本書で驚いたのは12歳の牧場智久が犯人から危害を加えられることだ。天才少年と持て囃されて殺人事件にまで手を出していい気になるなよという犯人の、いや世間一般の常識からのお仕置きとばかりの仕打ちである。
これはつまり世間の流布する素人探偵が殺人事件に容易に首を突っ込むことに対する警告とも云えるだろう。人の死が介在する事柄は自身もまたその渦中に入ること。つまり犯人を暴こうとする行為はその者自身もまた犯人の標的となり、そして狙われる危険を呼び寄せることを意味するのだ。こんな死に目に遭うほどの仕打ちは12歳の少年にとってはトラウマになるだろう。これに懲りず探偵役を仰せつかっている牧場智久にとってこのエピソードは今後何か影響を与えているのだろうか?

物語を補強するように盛り込まれた囲碁の歴史に残る名人たちのエピソード、ルールを巡った騒動など単にゲームに留まらない囲碁を取り巻く人間模様が実に面白い。囲碁の正式ルールが昭和24年まで明文化されていなかったとは驚きだった。歴史が深い競技だと思いきや意外と近代囲碁の歴史は浅かったことが解る。それは囲碁が昔から日本人の生活と共に発展してきたことで口伝で、もしくは暗黙の理解的にルールが形成されてきたことを表しているのだが、それ故に地方性が色濃くなり、それぞれのルールが出来たことで統一ルールが必要になったのだ。それだけ囲碁の世界が発展してきたことの証だ。

さて本書で感心したのは大きく分けて2点。
まずは探偵役のミスディレクション。一連の竹本作品を読みつつ、もしくは私のように竹本作品にある一定の知識を持った読者が原点回帰的に牧場智久のデビュー作である本書を読むと驚きも一層だ。先述の通り、『涙香迷宮』の好評で数々の竹本作品が昨今復刊、文庫化されているが本書もまたその1つとなっており、逆に今読むとその仕掛けが実に効果的に読者に響くだろう。私のように。
深読みすればこの牧場智久は竹本氏から論理的に犯人を炙り出すエラリー・クイーンを揶揄するために生み出された人物ではないだろうか?若造のくせに殺人事件にしゃしゃり出る知性を売りにするエラリーと牧場少年の人物像が重なって見えるのは私だけだろうか?

次に大脳生理学の視点から犯人を解き明かすこと。実はこれは第2作の『将棋殺人事件』でもなされていたが―すっかり忘れていた―、島田荘司氏が21世紀本格として2000年以来、御手洗潔をウプサラ大学の大脳生理学教授としてこの脳のメカニズムをミステリの題材に持ち込むことに積極的なのだが、既に1980年の段階でそれを竹本氏が実践していることに驚いた。つまり21世紀どこから20世紀に彼は島田氏が積極的に取り込む新しいミステリの先鞭をつけていたのだ。

正直囲碁に明るくない私にとって詰碁や囲碁の知識を謎解きに盛り込んだ本書を余すところなく楽しめたとは云えない。
しかしそれでも本書はミステリとして小説としてなかなかに面白く読めた。たった1つの碁石で部分的には否とされていた物が全体的に見ることで有と反転する碁の深さは知識がなくとも解る。首を切られたかのように見えた鬼を模した珍瓏が全体を見ることで生を得る。それは即ちたった1つの手掛かりから全てが反転する美しいミステリを見ているかのようだ。それこそが竹本氏が本書でやりたかったことなのだろう。


No.1369 7点 ゴースト・スナイパー
ジェフリー・ディーヴァー
(2018/01/20 23:55登録)
リンカーン・ライムシリーズ記念すべき10作目となる本書の敵はなんとアメリカ政府機関の1つ、国家諜報運用局(NIOS)の長官。バハマで隠遁中の政治活動家を暗殺した共謀罪で逮捕しようと計画するNY地方検事補のナンス・ローレルに協力する。

今回特徴的なのは犯行現場がバハマということで現場捜査を担当するアメリアもすぐには現場に行くことが出来ず、ライムと共に部屋で捜査を担当し、情報収集に徹する。
一方ライムは現場の遺物の情報を得ようとバハマ警察の捜査担当者に連絡を入れるが、これが南国の後進国特有の悠長さと捜査能力の不足から非常に不十分でお粗末な状況であり、全く有効な手掛かりが得られない。現場検証も事件が起きた翌日に成されているため、新鮮なほど有力な情報が集まる物的証拠が失われた可能性が高く、ライムはその捜査のずさんさに悶々とさせられるのである。

このようにいつものように遅々として進まない捜査に読者はライム同様にストレスを感じさせられるようになる。
従っていつものようにお得意のホワイトボードに次々と新事実を埋めていくそのプロセスも滞りがちだ。しかも書かれた情報は人づてに教えられた情報と憶測ばかり。通常のライムシリーズとは異なる進み方で読者側もなんともじれったい思いを抱く。
そんな膠着状態を作者自身も察したのか、ライム自身がバハマに赴くことになる。
前作の『シャドウ・ストーカー』でライムはキャサリン・ダンスの捜査の手助けをするために自らフレズノに赴いたが、今回は更に海外まで進出する。リハビリと手術により指だけだった可動範囲も右手と腕が動かせるようになったことでずいぶんと活動的になったことが解る。最新型の電動車椅子ストームアローに乗って野外活動に励むライムの進歩は同様の障害に悩む人々にとって希望の姿でもあるだろうし、また最新鋭の補助器具があれば重篤な障害者でも、介護士の補助が必要であるとはいえ、外に出て行動することが出来ることを示している。優れたアームチェア・ディテクティヴのシリーズだった本書もまた科学と医学の進歩に伴い、その形式を変えようとしているのが解る。

しかし一方で現実はそんなに甘くないこともディーヴァーは示す。バハマ警察の上層部の意向に背いてライムに協力するポワティエ巡査部長と共に独自で捜査するライムたちを暴漢達が襲い、なんとライムはストームアローごと海に放り出されるのだ。危うく一命は取り留めたものの、ストームアローは海の中。ライムは病院にある普通に車椅子に戻ってしまう。事件捜査という犯罪と紙一重の活動は健常者にも危害が及ぶ。まして障害者にとっては過分なことだと示すエピソードだが、それでもライムは屋外に、数年ぶりに海外に出たことが非常に楽しいようで、これからも外出したいと述べる。それほどまでに日がな一日屋内生活を強いられるのは苦痛だからだ。
ライムはニューヨークの自宅に戻り、新たな電動車椅子メリッツ・ヴィジョン・セレクトを手に入れる。それはオフロード走行機能も付いた機種で今回のバハマ行で外出の醍醐味を占めたライムの行動範囲が今後もっと広がることだろう。

しかし一方でライムの手足となり、フィールドワークを担当していたアメリア・サックスは逆に今回のチームに加わった特捜部のビル・マイヤーズ部長から持病の関節炎を見透かされ、更に健康診断の不備により、捜査を外れることを通告される。ライムの身体能力の向上と反比例するかのようにアメリアの関節炎は悪化してきており、逆に捜査活動に支障を来たす様になってきている。何とも皮肉な話だ。

突然だが本書の原題は“The Kill Room”。これは殺害された者がいた部屋を指すと最初は書かれていたが、実は別の意味を指す。ネタバレになるので書かないでおくが、少ない設備投資で一度居所を掴まれた標的はどんなに遠くに離れていても暗殺されるという実に恐ろしい時代となったと寒気を覚えた。

今回も相変わらずどんでん返しがあり、価値観の反転する。ミステリとしては読書の愉悦を味わえるが、実際面としては実に恐ろしいと思わされる。高度な情報を扱う仕事は常にその情報に隠された意味を考え、判断することに迫られている。しかしそこに感情が加わるとその情報は右にも左にも容易に傾く。それこそが本書のテーマであろう。
高度な情報を操る人々、権力を有する人々は共に自らの信条に従い、正しいことをしていると思っていながら、実は好き嫌いという子供の頃から抱く非常に原初的な感情にその判断を左右されていることに気付いていない。そのことが彼ら彼女らをして情報を読み誤り、また読み誤ったと勘違いしたりする。そんな権力を持つ一個人の感情のブレで対象となる人間の生死をも左右されることが実に恐ろしい。

思えば本書は鑑識の天才リンカーン・ライムが現場から採取した証拠という事実だけを信じ、緻密に推理を重ね、論理的に事件を解決するところが魅力であるのだが、その実理屈っぽく終始不平不満を呟くライムの感情っぽいところ、つまり人間臭さがシリーズの魅力でもある。
そしてまた本書ではライムがバハマに赴いて地元の警察と捜査をしている間、アメリアはアメリカで捜査を続け、その距離がお互いを強く意識し合い、そしていつも以上に求め合うことになる。
緻密な論理を売りにしているこのシリーズは実は人の感情を実に豊かに捉えた作品であることを再認識させられる。またその感情ゆえに生れる先入観が登場人物のみならず読者の感情を動かし、どんでん返しへと導かれていくのだ。

実は本書は人気シリーズの第10作と記念的な作品ながらシリーズ作で唯一『このミス』で20位圏内から漏れた作品だった。ランキングがその面白さと比例しているわけではないとは解っているが、このシリーズの特色である、ある分野に精通した悪魔的な頭脳の持ち主や超一流の技能を持つ殺し屋が登場しないことが他の作品に比べて魅力がないように思われる(みなさんが仰るように小粒ですね)。
もし今回は政府機関のNIOSが相手ということもあって情報戦に終始し、いわゆるいつも感じるヒリヒリとした緊迫感に欠けたように感じた。

あと最後に解るジェイコブ・スワンの正体と彼の標的を考えると一連の殺しに不整合さがあると感じるのは私だけだろうか?捜査の誤操作のためにやった、という理由かもしれないが、彼の正体を知るとそれはやっぱりあり得ない、行き過ぎだろう。

本書では上に書いたような不満を抱いたが、まだまだディーヴァーの筆は衰えていないことは既に立証済み。どんなシリーズにもある谷間の作品として記憶するにとどめ、次作に大いに期待することにしよう。


No.1368 7点 征服者ロビュール
ジュール・ヴェルヌ
(2018/01/15 23:43登録)
これは空版の『海底二万里』とも云うべき作品だ。潜水艦ノーチラス号に対して空中船<あほうどり号>。ネモ艦長に対して国籍不明の技師ロビュール。『海底二万里』の海底の旅に同行するのは海洋生物の権威アロナックス教授に対し、本書は気球研究の権威アンクル・プルーデント氏とフィル・エヴァンズ氏、とほぼ両作は空と海を舞台を異にしながらも写し鏡のような作品である。

本書はまだライト兄弟1903年に有人飛行機を発明する以前の1886年の作品。従ってロビュールが操る空中船は飛行機の意匠ではなく、船に無数のプロペラを備えた、ゲーム『ファイナル・ファンタジー』に登場する飛空艇をイメージしたような機械である。

『海底二万里』に登場するネモ船長に比肩するほどの存在感を示すロビュールだが、ただ世間一般に今なお知られている『海底二万里』と比較すると、同じように世界中を空中船で回る本書の知名度が低い、いやほとんど知られていない。それは物語に膨らみが無いからだ。
『海底二万里』は530ページ超もあるのに対し、本書は240ページ超と約半分。ページ数がそのまま内容の充実ぶりを示すわけではないが、本書もアメリカを皮切りに日本、中国、エベレスト、中東、ロシアにヨーロッパ、アフリカ、アルゼンチンから南極―ノーチラス号も行った南極点にも到達する!―、ニュージーランド付近へと世界を巡るのに、それぞれの道中は実に速く、旅行期間も1月半と短い(因みに『海底二万里』は10ヶ月弱)。
ある意味これは飛行旅行の速さを物語のスピード感で表しているとも取れるが、内容的には実に味気ない。

さて皆の前から姿を消したロビュールが再度姿を現すのは『世界の支配者』という作品のようだ。現在絶版のこの作品が、同じく絶版でありながら地元の図書館にあった僥倖に見舞われたことで読むことが出来た本書同様に読むことが可能であれば、彼の行く末を見届ける意味でも読みたいものだ。


No.1367 8点 クリスティーン
スティーヴン・キング
(2018/01/14 23:10登録)
キングは過去の短編で機械が意志を持ち、人間を襲う話を描いてきた。クリーニング工場の圧搾機、トラック、芝刈り機など我々が日常に使う機械の、抗いようのない恐るべき力に対する畏怖をモチーフに恐怖を描いてきたが、この『クリスティーン』もこれら“意志持つ機械”の恐怖譚の系譜に連なる作品となるだろう。しかもこれまでは短編であったがなんと今回は上下巻併せて約1,020ページの大作である。
今までキングが“意志持つ機械”をモチーフに書いてきた物語においてその対象が自動車になるのは車社会アメリカの背景を考えると必然的であり、そして満を持して発表した作品だと云えよう。ある意味本書は“意志持つ機械”譚のこの時点での集大成になる作品と云えるだろう。

何の前知識もなく、最初にこの作品を読んだ時、これはトップの5%圏内に入るほどの頭を持ちながらも、優等生グループにも入れない、スクールカーストの最下層に位置する17歳の少年アーニー・カニンガムが1台の古びた車と出遭うことで負け犬的人生を変えていく物語であると思うに違いない。彼の自動車のメカに関する優れた知識は天からの授かりものになるだろうが、彼が出遭う58年型のスクラップ同然のプリマス・フューリー、愛称をクリスティーンという車もまた彼の人生を変える天からの授かりものになる。
そのおんぼろ車を自身で少しずつ再生していくうちにいわゆる負け組に属していたアーニーもまた生まれ変わっていく。ピザ顔とまで呼ばれていた吹き出物でいっぱいの顔は次第に綺麗になり、男ぶりも増していく。更に以前よりも度胸が増し、町の不良たちに絡まれても一歩も引かないようになる。更には学校で評判の美人の心も掴み、恋人にすることに成功する。一人で一台の車を再生することが即ち彼の人生を再構築させていくことに繋がっていく。これはそんな一少年の人生を変えていく青春グラフィティなのだ。
アーニーの成長を通して変わりゆく生活の変化をそれぞれの心情を交えてキングは訪れるべき変化の時を鮮やかに語る。

それもただ彼の修理する車クリスティーンが命ある車であることを除けばのことだ。

キングが他の作家と比べて一段優れているのは、通常の作家ならば子供の成長時期に訪れる親子と親友との変化のキー、メタファーとしてスクラップ同然の車の修理の過程を使うのに対し、キングはその車自体をも生ある物、持ち主に嫉妬するモンスターとして描いているその発想の素晴らしさにある。
物に魂が宿るのは正直に云って子供の空想の世界だろう。女の子は人形を生きている自分の妹のように扱い、男の子は車の玩具やロボットの玩具に生命があるかのように自ら演じて興じる。
そんな子供じみた発想もキングの手に掛かれば実に面白くも恐ろしい話に変るのだから驚きだ。

さて物語がアーニーの思春期の通過儀礼とも云える親からの自立と反発というムードからホラーへと転じるのはクリスティーンがアーニーを目の敵としているバディー・レパートンたち不良グループにスクラップ同然にさせられるところからだ。そこから前の持ち主であるルベイとアーニーは無残なクリスティーンの姿を見て同調し、以前より増して2人の魂の親和性は強まり、アーニーはルベイの憑代となっていく。そしてクリスティーンもその怪物ぶりをようやく発揮し出すのだ。

最初は無人の状態で復讐を成していたクリスティーンだが、やがて亡くなった前所有者のルベイの屍が具現化して現れてくる。そこでようやく本書は『呪われた町』、『シャイニング』などのキング一連のモンスター系小説の系譜に連なる作品であることが解るのである。それは本書の献辞がジョージ・ロメロに捧げられていることからも解るように、ゾンビをモチーフにした怪奇譚であるのだ。

そういう意味では物宿る怨霊によって自分が自分で無くなっていくアーニーの姿は昔からある幽霊譚の1つのパターンであるが、また一方で私はこのアーニーの変化については我々の日常において非常に身近な恐怖がテーマになっているように思える。
例えばあなたの周りにこんな人はいないだろうか。普段は温厚でも車を運転している時は人が変わったようになる、という人だ。それはある意味その人の意外な側面を表すエピソードとして、時に笑い話のように持ち出されるが、ある反面、これはその人の二重性が露見し、またそれを他者が目の当たりにする機会でもある。そしてその変貌が極端であればあるほど、それも恐怖の対象となり得る。つまり本書の恐怖の根源は実は我々の生活に実に身近なところに発想の根源があるのではないかと私は思うのだ。
これはあくまで私の推測に過ぎないのだが、キングがこのエピソードを本書の発想の発端の1つにしていたのは間違いない。なぜなら同様の記述が本書にも見られるからだ。上巻の406ページにアーニーがこの車に乗るとなぜか人が変わったようになると書かれている。そのことからもキングが本書を著すにこんな身近で、どちらかというとギャグマンガの対象になるような性格の変貌―マンガ『こち亀』に出てくる本田のような―を恐怖の物語のネタとしたであろうことは推察できるし、そのことからもキングの非凡さを感じる。

人の物に対する執着というのは物凄いものがある。古来死者が生前愛でていた物に所有者の情念が宿るという怪奇譚は枚挙にいとまがない。その対象を58年型のプリマス・フューリーという実に現代的なアイテムに持ち込んだことにキングの斬新さがあると云えよう。
既に述べたが、自動車愛好家たちにとって本書の車に対する執着の深さは頷けるところが多々あるのではないだろうか。自動車産業国アメリカが生んだ意志宿る車による恐怖譚。しかし車に対する愛情の深さはアメリカ人よりも深いと云われる日本人にとっても無視できない怖さがあった。たかが車、そんな風に一笑できない怖さが本書にはいっぱい詰まっている。


No.1366 7点 隕石誘拐 宮沢賢治の迷宮
鯨統一郎
(2017/12/21 23:38登録)
宮沢賢治の諸作と生涯をモチーフにした誘拐ミステリである。
私が抱いていた宮沢賢治は死後評価された童話作家・詩人というイメージで、有名な『雨ニモマケズ』の詩のイメージから朴訥かつ誠実な、清貧の人と思っていたが、それは全く違った。

本書では宮沢賢治とは自分の理想と常に戦っている人と読み解かれる。父からデクノボーと呼ばれ、そのことを自覚しながら、不器用ながらも正直で誠実でありたいと書いた『雨ニモマケズ』は実はデクノボーである自分を讃えた詩であると解釈され、そして父親の強欲に対抗しながらも父のお金に頼る、禁欲と戦いながらも最後はそれを後悔する、童話を次々と発表するが世間には認められない、といった具合に常に内なる自分と戦いながらも結局敗れていった男なのだ。明晰な頭脳で色んな分野に深い造詣を持ちながらもそれを活かさないばかりに不遇に見舞われた天才。その溢れる才能の使い道を間違った男というのが生前の宮沢賢治だろう。今や国民的詩人、国民的童話作家と評されているがそれは彼の死後のこと。今なお彼の諸作が読み継がれ、信奉者を生み出していることから最終的にはその才能の使い道は間違っていないようだったが、当時生きていた宮沢家誰一人知らない事実である。

どこかエロティックで艶めかしい展開は昔の土曜ワイド劇場のような俗物的サスペンスドラマを彷彿させる。その一方で稔美を拉致する十新星の会の面々は宮沢賢治を信奉し、<オペレーション・ノヴァ>というアルミニウムを摂取させることで全国民にアルツハイマー病にし、痴呆化を図り、日本全国民を支配下に置くという、秘密結社物のテイストもありと、なんともいびつな設定の下で物語が進んでいく。

本作が発表されたのは世紀末の1999年。つまりこのような世間に不安感が漂っている時代にオウム真理教に代表される新興宗教が蔓延っていたように、本書もそんな宮沢賢治を信奉し、国民総痴呆化を企むカルト集団による犯行というのは今読めば荒唐無稽だと思われるが、当時の世相を実は如実に反映した作品であると云える。特に童話作家、詩人として名高い宮沢賢治の諸作を紐解くことで内なるコンプレックスを読み解き、そこから彼を神と崇める<十新星の会>なる狂信集団を案出したアイデアは鯨氏ぐらいしか思いつかないものではないだろうか。

誘拐物でありながら、宮沢賢治の文献から隠された秘宝の在処を読み解く冒険小説的妙味、さらに秘密結社による日本征服計画、そして拉致された人妻の凌辱劇とサスペンスにアドヴェンチャーにオカルトにエロと思いつくものをどんどん放り込んで物語を作った鯨氏の離れ業。その全てが調和し、バランスを保っているとは云い難いがこのような芸当に挑んだ鯨氏のチャレンジ精神は評価に値するだろう。もう1つ忘れてはならないのは夢を追いかけて家族に貧乏を強いた夫婦の不和からの再生の物語であることだ。現在海外へ単身赴任中の我が身に照らし合わせても思うのだが、案外夫婦は距離を置くことでお互いの存在に改めて思いを馳せ、そして大切さに気付かされるのだ。いつも一緒にいると、やはり人間同士、どこか疲れて嫌なところばかりが目に付くようになる。中瀬夫婦のように誘拐されるような事態はごめんだが、離れることで絆が深まる気持ちは実に今ならよく解る。

そしてやはり鯨作品の妙味は過去の文献、史実から読み解かれる鯨流新事実の開陳にある。本書で描かれる我々の知らない宮沢賢治の世界は本書のサブタイトルにあるようにまさに迷宮である。自由な発想と突飛な設定。次回もこの作者独特の物語を期待したい。


No.1365 2点 工学部・水柿助教授の日常
森博嗣
(2017/12/20 23:58登録)
5話を通じて思うのは本書は森氏による、ちょっとしたミステリ風味を加えた自伝的小説なのか(これは反語表現である)。某国立大学工学部建築学科の水柿助教授はそのまま森氏に当て嵌まりそうな人物像である。
何しろ専門が建築材料であり、模型工作を趣味とし、読書とイラストを趣味にしている奥さん須磨子さんがおり、更に後々ミステリ作家になってデビューすることまでが1話目から語られるのだ。これほど作者自身と類似した設定の人物は他にないのではないか。そして話が進むごとにミステリ風味も薄まり、どんどん水柿君と森氏が同化していく。

つまり本書は自分の教授生活の周囲で起きる出来事や見聞きしたエピソードの類を盛り込み、時々それらのエピソードに日常の謎系ミステリの味付けを加えた小説なのだ。

しかしその内容は、思いつくまま気の向くまま、取り留めのない日々雑感と云った趣で、建築学科の助教授水柿君の日常に起こっていることにミステリの種は結構あるんじゃないの?と書き連ねている体の話である。

しかしその傾向は正直第2話までで、第3話からはどんどん内容が水柿君の内側に、過去のエピソードに潜っていく。それらはミステリでは無くなり、本当に水柿助教授の日常話になってくるのだ。それは作者も確信的で最終話ではミステリィと見せかけてどんどんミステリィ風味を薄めていく、そういう「どんでん返し」を仕掛けていると述べている。
そして作中作者は事あるごとに「これは小説だ」、「これはフィクションだ」と述べているが、嘘つきが「嘘はついていない」というのと同様の信憑性しかない(と作者自身も書いていたような)。つまり本当のことを語りつつ、それらの中には未だ事項になっていない軽犯罪、微罪、そして重犯罪になり得る危うさを孕んでいるからこそ、そのように作り話だと主張しているようにも取れる。その割に固有名詞が多く、イニシャルもほとんど本当の場所が特定できるほど安易な物であるのだが。そのあまりの自由闊達ぶりに正直苦情など来ていないのだろうかと思ったり。特に津市に関する記述はここまでこき下ろして大丈夫なのだろうかと無用の心配すらしてしまう。

やはりこれは水柿君の日常としながら、これらは全て同じN大学の建築学科の教授である作者自身が経験した助手、助教授時代に経験した大学生活の思い出話、エピソード集なのだろう。従って水柿君の日常は「すべてが森になる」のだ。


No.1364 7点 46番目の密室
有栖川有栖
(2017/12/17 23:29登録)
このシリーズは先に文庫書下ろしで出版された2作目の『ダリの繭』を先に読んでいたので、前後したが、これでようやくシリーズの最初から触れることが出来た。

私が面白いと思ったのはこれはいわゆる雪の足跡トリックの変奏曲であることだ。通常このトリックはその名の通り、雪に囲まれた部屋や建物の周囲に残された足跡によって密室状態が生まれるトリックを指す。今回の舞台となった星火荘もまたその例に洩れず、周囲が雪に覆われた状態であるのだが、それにも関わらずこの足跡トリックが建物の外ではなく内側にて発生しているところだ。石灰を敷き詰めたことで生まれた足跡トリックだが、面白いことを考えるものだなぁと感心した。

まだ若かりし頃の本格ミステリに対して無限の可能性を信じて止まない有栖川氏の本格ミステリへの理想と夢が随所に込められているように思える。
まずやはり冒頭の真壁聖一の存在。世界に認められた日本本格ミステリの巨匠というのは日本の本格ミステリが世界にいつか通じるだろうと信じ、そんな未来を夢見ていた有栖川氏の理想の存在、いや自身が目指すべき目標であるように思える。それは現在実現しており、アメリカのエドガー賞に日本のミステリがノミネートされるまでになっている。

次に真壁氏が次の密室物を最後にまだ見ぬ「天上の推理小説」を書くと云った件だ。これこそ有栖川氏自身の未来への宣言ではないだろうか。「新本格」という目新しい呼称で十把一絡げに括られているまだ駆け出しの本格推理小説家ではあるが、いつかはかつて書かれてことのない物語を書いてみせる、といった若者の主張のように思える。そして今なお精力的に本格ミステリを著しては発表し、年末のランキングに作品が名を連ねている現状から見ても、この時抱いた有栖川氏の、高みへと目指す心意気はいささかも衰えていないように思える。巷間に流布する既存のミステリとは異なる次元に存在する天上の推理小説。有栖川氏の定義する天上の推理小説をいつか読みたいものだ。

そして最後はやはり犯人だけが見た、真壁氏が遺した最後の密室「46番目の密室」だ。それは「まるで世界が、世界を守るためによってたかって一人の人間を抹殺するかのようなもの」。これもまた有栖川氏が抱く、いつか書くべき最後の密室ミステリなのではないか。そんなミステリを読んでみたいと彼は思い、そして出来れば自分で書いてみたいと思っているのではないだろうか。

と、このようにデビューしてまだ3年の時に書いたこの作家アリスシリーズには本格ミステリ作家となった有栖川氏の歓びとミステリ愛と、そして野心が込められている、実に初々しくも若々しい作品なのだ。

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