雪さんの登録情報 | |
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平均点:6.24点 | 書評数:586件 |
No.506 | 6点 | 蜃気楼博士 都筑道夫 |
(2021/04/09 11:27登録) 「中学二年コース」1969年5月号~11月号連載の表題作に、同じく草間昭一・次郎兄弟が活躍する作品を加えたジュブナイル中短編集。収録作は 蜃気楼博士/百人一首のなぞ/午後5時に消える の三本。衆人環視のなか入念に密室内に閉じ込められた霊媒が、〈守護霊の力を借りた〉と称し何度も予告通りに殺人を行うという不可能犯罪を扱ったもので、その謎を暴こうとする元奇術師・久保寺俊作こと蜃気楼博士(ドクター・ミラージ)との、霊能力者VSマジシャンの鍔迫り合いがストーリーの軸となる。久保寺のおじさんは兄弟の祖父・草間博士の元研究助手で、二人にとっても親しい存在。推理における次郎少年の師匠格でもある。 扱われる事件は殺人三件と正当防衛、そして変死二件。第一第二の事件に用いられた凶器の〈改め〉も事前に成されており、それらが霊媒から遙か離れた殺人現場で発見される。特殊な道具やテクニックの使用は好みでないが、少年もの特有のハッタリ臭いプロットを、逆手に取ったトリックはかなり評価できる。一部マニアのように都筑道夫の最高傑作とまでは思わないが、児童ミステリの金字塔として語り伝えられるのも納得。結末近い「なぞの整理」の章で記述される次郎のノートからは、あくまでフェアであろうとする作者の気概が伝わってくる。「考えたら、負けるなよ」という蜃気楼博士の遺言もメッセージとして素晴らしい。子供向け云々の言い訳は一切なく、手を抜かずに作られた小説と言える。 続く「百人一首のなぞ」は暗号解読に誘拐事件、さらに追跡劇と多彩な内容。華やかなのは都筑ジュブナイルのオールスター作品だからだろうか。なかなか優れたトリックもあり、個人的には表題作より好み。 トリの「午後5時に消える」は一応消失ものだが、元々単発企画のためか前記二作に比べるとかなり落ちる。だが現場写真からの推理と洞察はいかにも都筑氏らしい。この手の代表格というと個人的には辻真先の『仮題・中学殺人事件』だが、本書はそれを上回るスマートな仕上がり。多感な時期に触れておかなかったのが残念である。 |
No.505 | 6点 | 悪党パーカー/怒りの追跡 リチャード・スターク |
(2021/04/08 10:38登録) パーカーは、肘から先に窓にとびこんだ。木片やガラスの破片が軀のまえでとびちり、銃弾が頭のそばをかすめる。残りの二人は間違いなく死んだだろう。森を突き抜け何とかかれが体勢を立て直した時には、裏切り者ジョージ・アールの車は、商農信託銀行からの強奪金三万三千ドルと共に走り去っていた・・・ 危機を脱したパーカーは愛人クレアに元手を送らせ、夜を日に継いでの追跡を開始した。アールの行先を知る第一の手掛りは、その仕事仲間マット・ローゼンスタインだ。が、罠はそこにも待っていた。隙を突かれて自白剤を注射され、何が狙いなのかをすべて知られてしまったのだ。いまやアールの行方を追うのはパーカーだけではなくなった! 怒りの炎を燃やしひたすらに裏切り者を追う犯罪者の孤独な追跡行を描く、シリーズ異色篇。 原題 "THE SOUR LEMON SCORE" 。『悪党パーカー/漆黒のダイヤ』に続くシリーズ12作目で、クレアと出会う第9作、『裏切りのコイン』に始まる〈SCOREシリーズ〉全四作の最終篇でもあります。タイトルからあらかた結末の察しは付くのですが、それでも問答無用に面白いのがこのシリーズ。徹底したハードボイルド・スタイルとテンポの早い語り口に加え、乾いた暴力描写と妙にシュールなギャグとで全く飽きさせません。 マッジとすごしたときのようだった。電話が鳴るのを待ちながら、他人の茶飲み話を聞いてすごす。コーヒーとクッキー。パーカーはすこしクッキーを食べた。なかなかいい味がした。 (中略)パーカーは肩をすくめた。コーヒーを少し飲んだ。これまたいい味がした。 無防備にヤク入り茶菓子をパクついては、更に厄介な連中を引き込む羽目になる主人公。次作『悪党パーカー/死神が見ている』で tider-tiger さんも評しておられますが、この頃のパーカーは非情に徹し切れなくなってるというか、弛んでますね。それはやっと捕らえたジョージへの対処を見ても明らか。『人狩り』時代のパーカーなら、何があろうと即刻ブチ殺したでしょう。"宿敵" とか煽ってますが今回の相手ジョー・アールはハッキリ言ってザコ。なのに変な仏心のせいで、後々まで禍根を残す事になります。 メインの仇役がショボい分、テコ入れして変則の二頭立て。途中から割り込むローゼンスタインとブロックのホモコンビの方は、結構いい味出してます。特に後者はなし崩しに悪事に加担させられてる上、手塩に掛けた趣味全開のアパートメントまで破壊されちゃってすごくかわいそう。完全カタギのエド・ソガーティその他、自己本位野郎にいくら尽くしたって何にもならない、という好例目白押しです。 〈平凡な主婦の仮面の下で、ひどく食えない、世故にたけた女が息づいている〉死んだベニーの妻グレイスを筆頭に、いいキャラもいるし描写もいいんだけど、肝心のパーカーが緩いんで全体としては微妙かな。訳は池上冬樹氏の名文ですが、内容的には『漆黒のダイヤ』より若干落ちてギリ6点。とはいえレベルはそんなに変わりません。 |
No.504 | 8点 | さらば長き眠り 原尞 |
(2021/04/08 06:33登録) 冬の終りの真夜中近く、雨の中九時間以上ブルーバードを駆って、およそ四〇〇日ぶりに東京に帰ってきた探偵・沢崎。色褪せた事務所で彼を待っていたのは一人の浮浪者だった。その男の言伝ては十一年前の甲子園大会で、八百長試合の嫌疑を受けた元三鷹商業ピッチャー・魚住彰からのもの。無聊に任せて調査を進める沢崎は、同時期に彰の義姉・夕季が勤め先のマンションから飛び降り自殺している事を知り、また別件で彼に降り掛かった嫌疑を払うが、肝心の依頼者は既にその気を失くしていた。 それから数週間後、沢崎は事務所を訪れた彰を問い詰め、おもむろに八百長事件の核心に触れる。吐き気を堪えて事務所を飛び出す彰。その直後、彼は何者かに後ろから襲われ瀕死の重傷を負う。激しい痛みを必死に堪えながら、彰は駆けつけた沢崎に改めて夕季の事件を依頼するのだった・・・ 直木賞受賞の『私が殺した少女』から五年の月日を要して仕上げられた、第三長篇にしてシリーズ一期の集大成。1995年刊行。なかなか焦点を絞らせないまま進む作品だが、読了するとボリュームのみならずそれに相応しい内容を持っていることが分かる。文章は相変わらず硬めだが、錦織警部を始め清和会の橋爪や相良との掛け合いなど、レギュラー同士の絡みはかなりこなれて来ており、スローな筋運びも成長に伴う余裕と解釈したい。 前二作とは異なり、事件の背景が本格的に姿を現すのはストーリーも半ば過ぎからで、それもチラ見程度のまま。そこから元の展開へ帰ると見せての相次ぐ襲撃事件。負傷を推して主人公・沢崎が一気に真相に迫り、後は釣瓶打ちで事件関係者全ての実像が暴かれる。テンポは遅いが最後の詰めは非常に充実しており、当サイトでの高評価もむべなるかなという感じ。 ただ読後感は〈飛び抜けた〉と言うより〈これ程の物にマイナス点は付け辛い〉といった面が強く、既成概念を揺さぶるような出来ではない。総じて高く纏まってはいるが、国産ミステリベストかと言われるとどうだろうか。重量感もサプライズも文句無いが、飽くまで収穫の一つとして読むべきである。 |
No.503 | 6点 | 化石少女 麻耶雄嵩 |
(2021/04/05 19:33登録) 「犯人から推理を逆算するなんて、もはや探偵ではありません。先輩が今まで見たドラマや小説でもそんな探偵いなかったでしょ」 「前例のない新世代の探偵がいてもいいじゃない」 良家の子女ばかりが通う京都北部の名門校・私立ペルム学園に続発する凄惨な殺人事件。対するは、マンジュウガニ以上といわれるすべすべ脳みそにして、化石オタクの変人女子高生。古生物部部長の赤点ガール・神舞まりあが、一人きりの男子部員にして幼馴染み・桑島彰をお供に繰り出す、奇天烈推理の数々! 雑誌「読楽」2012年4月号~2014年1月号まで断続掲載したものを、加筆訂正して同年11月に刊行。エキセントリックな探偵役とワトソン役をカリカチュアライズされた舞台に配し、連続する事件に独自の解法(解決ではない)と処理を施す事で、ミステリの枠組みそのものを揺さぶろうと試みたもの。ただし筆致はライトノベル風でやや軽め。 収録は 古生物部、推理する/真実の壁/移行殺人/自動車墓場/幽霊クラブ/赤と黒/エピローグ の全六章+α。最後の二つは問題篇と解決篇にあたるので、実質的には六短篇。偶然の連鎖や「自動車墓場」に代表されるとんでもない発想、「在校生まで逮捕されてんのにこの程度で済むわけねえよ」といった疑問、さらには第三・四・六章に見られる現場検証の不備などアレな点は多々あるが、そのような箇所には敢えて目を瞑って提出された連作であろうし、またその為のラノベ文でもあろう。 作中で貶される程まりあの推理が酷いとは思わないが、全ての犯人をペルム学園生徒会メンバーから導くのは明らかに行き過ぎで、そこがまた冗談とも本気ともつかない目眩ましになっている。いつもながら酷いモノである(褒め言葉)。 ついでに付け加えれば、あそこにあの車があったからといってそれだけでは証明にならない。〈過去に幾度かダイヴした車〉の中には、〈落ちたことすら知られず、沈んだままになっている〉ものも、可能性としてはあるからだ。その辺は蓋然性の遙か彼方。ただどちらにせよ「赤と黒」のコンビ継続は今後も確定しており、その意味で著者の目的は既に達成済みなのは間違いない。 |
No.502 | 7点 | 哲学者の密室 笠井潔 |
(2021/04/04 11:06登録) パリ西縁の高級住宅地に住むユダヤ系財閥の少壮実業家、フランソワ・ダッソー。かれが居を構えるブローニュの森を取り込んだ豪壮な邸宅「森屋敷」で深夜、南米ボリビアからの滞在客、ルイス・ロンカルが死体で発見された。だが現場の三階東塔広間に通ずる扉は固く閉ざされ、その鍵はダッソー書斎の金庫に保管、さらに一階と二階の入口は召使ほかに監視されており、結果として入れ子構造の「三重密室」が成立していたのだ。唯一の手掛かりは塔内に残された折れたナチス短剣の柄と、寝台の下に転がっていたニッケルの五フラン硬貨のみ。 現象学を用いて数々の難事件を解決してきた謎の日本人青年・矢吹駆と、パリ警視庁警部の娘・ナディアは頑強な密室の解明に挑むが、彼らの前に次第に浮かび上がってきたのは第三帝国崩壊間際、独ソ国境付近のコフカ絶滅収容所で起こったもう一つの「三重密室」殺人と、二十世紀最大のドイツ人哲学者、マルティン・ハルバッハ変貌の謎だった・・・ ミステリーを世界史と哲学の領域にまで踏み込ませた驚愕の本格傑作推理! 前作『薔薇の女』からほぼ十年ぶりの矢吹駆シリーズ第四作。雑誌「EQ」1991年3月号~9月号までの連載分に、全面的改稿・加筆して刊行されたもの。ノベルス版袖には「著者のことば」として阪神大震災やオウム事件への言及があり、巻頭には「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という、中井英夫への献辞が記されています。そこには連合赤軍事件について思考した初期三作とは異なり、戦争や災害、虐殺システムの萌芽といった二十世紀の大量殺戮史を読み解き体系付けようとする、著者の壮大な抱負があると言えるでしょう。 まあそういう小難しい話は置いといて、再読してみるとこれがなかなか面白い。初読の際には膨大な分量と哲学論を消化するのに精一杯でしたが、作中では雨密室+雪密室の仮説が派生込みとは言え合計十種類も飛び交い、執拗い程にあらゆる可能性が検討されます。ブリリアントな輝きはないけれども、メビウス的に捩れた〈逆の密室〉の解法と犯人推定の手際は鮮やか。派手な道具立ての割にはそこまででもない第二作『サマー・アポカリプス』より、ミステリ的には上かな。『吸血鬼と精神分析』の後なんで、やや過大評価かもしれませんが。 ただ最高傑作かと言われるとちょっと違うような。段々と推理がクドくなって来てますが、シリーズウリである本質直感の明瞭性と、粘着質の虱潰しとは合ってないような気がします。無意味な大量死に関するメインの考察は確かに鋭いのですが、評論でやればいい事であって敢えて小説にする意味が有ったかというと疑問。主人公・矢吹駆も成長したとされつつ相変わらずスカしております。こういう人らの最大の問題点は見出した内容云々ではなく、「俺は真理を掴んだぜイェー♪」となっちゃうとこだと思うんですが。禅で言う "魔境" っちゅーヤツですな。 そういう訳でカケル君のクソコテ人生には今後も期待しませんが、長篇評価としては上向いて7点。ただし重厚かつ燻んだ描写の大作なので、最後まで読み通すにはそれなりの覚悟が必要。なおカッパ・ノベルス版カバー・デザインはあの京極夏彦。挿絵も付いててオススメです。 |
No.501 | 6点 | そして夜は甦る 原尞 |
(2021/04/01 00:16登録) 私立探偵・沢崎(ポケミス版では「澤崎」)初登場のシリーズ第一作。1989年度第2回山本周五郎賞の候補にも挙げられた(なお受賞作は吉本ばなな『THUGUMI つぐみ』)。処女作らしからぬ完成度と、チャンドラーの世界を完璧に現代日本に移し替えたその手腕は高く評価され、マニアを含む一般読者の人気も高い。いわゆるバブル期に発表されたものだが、国産ハードボイルドの完成型として確実に里程標となる作品である。 文章は先達の矢作俊彦に比べるとやや生硬。ポケット・ミステリ版「著者あとがき」には執筆中常に手元にHPB版『さらば愛しき女よ』を置き、これと同じ27字×18行の字組みでタイプし両者を比較することにより、量的にチャンドラー読者の許容範囲に近づけるよう配慮した、と記されている。良くも悪くも推敲に推敲を重ねるタイプで、それ故生真面目過ぎてユーモアや遊びの少ないところは不満。もっとも氏の著書を熟読するのは初めてなので、今後これがどうなってゆくのかは分からないが。 ストーリーは一つの大きな企みにもう一つの集団が影響されて新たな企みが発生。思いもよらぬ展開に最初の集団が追い詰められ、蹉跌と誤算から生じた苦し紛れの策謀に、記憶喪失の男と彼に協力するフリーライター、加えて主人公・澤崎が巻き込まれていく。なかなか凝ったプロットだが、ミステリとしては一応筋書き通りに進んでいた計画が、駒の感情の縺れから、精密機械が砂を噛んだように狂ってゆくところが面白い。アクシデント込みでなんとか纏めはしたものの、シチュエーションの逆転に気付いた澤崎の洞察により事件の構図は見抜かれ、真犯人の目論見は瓦解する事になる。 私は新宿に戻るまで、愛情や真実や思いやりのほうが、憎しみや噓や裏切りよりも遙かに深く人を傷つけることを考えていた。商売柄、喜びを分かち合えない者たちの離反を見るのは日常茶飯事なのだが、苦しみもまた分かち合わなければ癒されず、むしろ増大するものらしい。 ある種の哀しみを湛えた前者の結末に比べると、後者の計画はやや蛇足。効果は挙がったものの集団の纏まりを欠いて収拾しきれず、こちらも後になるに従い齟齬につぐ齟齬。発想もややチープで〈そんなに上手くいくかねえ〉という気がする。 丁寧な長篇だが、そんな訳で採点はやや辛めの6.5点。ただしパズラーへの拘りはかなり強い。 |
No.500 | 6点 | 十三人組物語 オノレ・ド・バルザック |
(2021/03/29 08:05登録) 500冊目はバルザック。この文豪の膨大な作品群『人間喜劇』のうち〈パリ生活風景〉の皮切りとなる作品で、「フェラギュス」「ランジェ公爵夫人」「金色の眼の娘」の三つの挿話からなるもの。各篇それぞれ作曲家ベルリオーズ、リスト、画家ドラクロワに捧げられている。いずれも改稿を繰り返しながら、一八三三年三月~一八三五年三月まで約二年のうちに完成を見た。ナポレオン帝政のころパリに存在した、デヴォラン組頭領フェラギュスを中心に十三人の男たちで構成される秘密結社〈十三人組〉メンバーの絡む諸事件を扱う。 なお彼らの中で最も抜け目のない青年ド・マルセーは、『暗黒事件』に於てフランス首相兼謎解き役として登場するらしい。通俗の趣を残しながら、同時期発表の『ウジェニー・グランデ』『谷間の百合』といった最盛期作品の先駆けともなる小説である。 一番最初の「フェラギュス」は最も伝奇味が濃い。ある夜物騒な裏町パジュヴァン街で、かねてから想いを寄せる美女ジュール夫人が怪しい家に入っていくのを見かけた近衛騎兵隊長オーギュスト・ド・モランクール。だが彼女は言を左右にして真実を語ろうとはしない。狩人のように夫人を付け回すモランクールだったが、雨の日駆け込んだポーチで長身痩躯の只者とも思えない乞食に出会い、かれの落とした手紙を切っ掛けに何度も命を狙われるようになり・・・ 代表作『ゴリオ爺さん』と表裏一体を成す作品。連作の中ではこれが一番長篇ぽい。男爵オーギュストを愛するパミエ老爵士が解決を依頼する相手として、例のヴィドックの名前が出てくる。ただし作品は徐々に妻を熱愛する富裕な仲買人、ジュール・デマレの視点に移ってゆく。『人間喜劇』の場合、善人はおおむね不幸な最後を遂げるようだ。 「ランジェ公爵夫人」は一番長いが、作者の卓抜な構成が利いて読後には中篇のように感じる。地中海の暗礁に守られたスペイン領の島。その島の突端にある岩塊の絶頂に建てられた、カルメル会の修道院。やっと探し当てた恋人をそこから奪わんとするフランスの将軍モントリヴォー侯爵の冒険の顛末だが、それが描かれるのは最後の数ページだけ。読み終われば納得するが、それでも大半を占める恋の鞘当て描写はキツい。 ラストの「金色の~」は引き締まった中篇で最も短い。英国貴族ダッドレー卿の私生児として誕生し、〈心も知性も十六歳で四十のおとなを手玉にとるほど完成し〉〈男も女も神も悪魔も信じない〉美青年アンリ・ド・マルセーと、彼を慕いつつもなにかを怖れるハバナ生まれの美女、パキタ・ヴァルデスとの血塗られた謎めくロマンス譚だが、「凡庸な奴らなぞ死んじまえ!」「自分の無力を〈良俗〉だの〈誠実〉だのと誤魔化す律義者こそが国を腐らせるんだ!」なぞと延々長広舌を奮う文豪バルザックはノリノリである。同著者のヴォートランや『パリの秘密』のゲロルスタイン大公ロドルフを経て、アルセーヌ・ルパンが現れるまであともう一歩だ。バルザック自身、ナポレオンがまだぶいぶい言わせてる頃に少年期を送った人だもんなあ。 |
No.499 | 6点 | 聖女の島 皆川博子 |
(2021/03/20 13:09登録) 砲弾に打ち砕かれて坐礁し、そのまま化石となった巨大な軍艦のように見える島に作られた矯正施設。そこには売春、盗み、恐喝等の非行を重ね、幼くして性の快楽を知った放恣な少女たちが修道会の御名の下、惨劇の幻影におびえる園長に育まれる為集められていた。そしてあの悪夢がまた、再び・・・・・・。謎と官能に満ちた、甘美な長編恐怖小説。 1988年夏講談社ノベルスの一冊として刊行された、著者の第23長編。北方謙三『渇きの街』と共に第38回日本推理作家協会賞に選ばれた『壁・旅芝居殺人事件』(他の候補作は島田荘司『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』、船戸与一『山猫の夏』ほか)や、第95回直木賞受賞の『恋紅』(他の候補作は逢坂剛『百舌の叫ぶ夜』、泡坂妻夫『忍火山恋唄』ほか)など、各賞受賞ラッシュのキャリア中期に書かれた作品で、彼女の最高傑作とされるもの。軍艦島モデルの孤島を舞台に、ジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージの銅版画『幻想の牢獄』及び西条八十の『砂金』所収詩「トミノの地獄」を主要モチーフとして繰り広げられる幻想綺譚です。 崩れた壁やねじ曲がった鉄骨といった、採鉱場跡の荒寥たるオブジェの中にそそり立つ、三棟の建物や礼拝堂。廃墟の中の更生施設に住まう、三十一人の非行少女と八人の職員たち。そして彼らに向かって空疎な理想を唱え続ける園長。このシチュエーションの時点でもう半分勝ったようなものですが、この牢獄を思わせる施設で火災が発生、ホームが焼け落ちたとの連絡を受け、本土の修道会から修道女(マ・スール)と呼ばれる女性が派遣されます。 物語の前半は彼女の視点、後半は園長・矢野藍子の視点で描かれるのですが、到着したマ・スールへの藍子の説明は要領を得ない。彼女が溺れ死んだと言った子供たちは一人も欠けていなかったり、そうかと思えば死んだ筈の三人は誰と誰なのかを把握していなかったり、全てが曖昧なまま取り敢えずホームは建て直され、マ・スールの容認の元、再びここで新たな生活が始まります。とは言え、こんな環境下で物事がめでたしめでたしで済むハズもなく。 そうして徐々にページを捲っていくと「うーん」。後半悪意を剥き出しにしていく子供たちの描写はこの人らしくて良いんですけど、いけないのは半分ネタが割れた状態なのにいちいち説明し過ぎな事。藍子の章に入ってからの露骨な展開や、ラストでのマ・スールとの対話は明らかに勇み足なので、もう少し暈し気味に終わらせるほうが余韻があったのではと思います。ファンの方には申し訳ないですが、「花の旅~」も含めてちょっと苦手な作家さんですね。晩年の大作『死の泉』や、このサイトでも評価の高い『開かせていただき光栄です』に期待しましょう。 |
No.498 | 5点 | 夏期限定トロピカルパフェ事件 米澤穂信 |
(2021/03/19 17:52登録) 〈日々を平穏に過ごす生活態度を獲得せんと希求し、そしていつか掴むんだ、あの小市民の星を!〉互恵関係にある男女二人が、清く慎ましい高校生活を目指す〈小市民〉シリーズ第二弾。収録作は間奏曲を除くと、隔月刊誌「ミステリーズ!」2005年10,12月号掲載の「シャルロットだけはぼくのもの」「シェイク・ハーフ」に、書き下ろしの小佐内さん誘拐編AB面 おいで、キャンデーをあげる/スイート・メモリー を加えた実質三作品。前作で正体を明かして吹っ切れたのか〈小市民の誓い〉などどこへやら、いきなり高下駄で常悟朗の向こう脛を蹴り飛ばすなど、小佐内さんしょっぱなから〈孤狼の心〉全開である。 企みの布石は序盤から打たれているが、魅力的な設定からファンの多い「シャルロット~」のみややイレギュラー。〈彼女に買ってきてねと頼まれたケーキを、こっそり一個だけ多く食べてしまおう!〉という身につまされるシチュエーションだが、百も承知で仕掛けた勝負とはいえ、これは明らかにジョーゴロが不利。この状況だと意識が最初に向く場所に手掛かりがある上、相手がずっと冷房下にいた事も考え併せると更に分が悪い。わざと気付かないでいるのが大人の対応だと思うが、ゆきにはそれはちょっと無理か。尤もこの二人の関係は、そんな事で壊れはしないようだが。 と思ってたら中盤暗号モノ?の「シェイク~」を挟んで終盤まさかの展開。狙い澄ました一撃がこれ以上無く効果的に働いた後、あらゆる因果は精算される。絶品の筈の溶けかけた特製トロピカルパフェは、高二の夏の思い出を含んで胸焼けするほど甘く苦い。作者のジャンピングボードたる一冊だけど、小佐内さんの行為を許せない人には少々辛い作り。なので無難な前作の方が、オジサンの口には合ってます。 |
No.497 | 7点 | 高木家の惨劇 角田喜久雄 |
(2021/03/16 07:57登録) 「な、なんだ、こりゃァ! え、こりゃァ一体どうしたんだ!」 昭和二十年十一月七日――大気がまるで針を含んだように底冷えする終戦の年の初冬、警視庁からほど近い日比谷の喫茶兼酒場『リベラル』で、紅茶の中から一匹の蜘蛛をすくいあげ、大声をふりしぼって給仕女に喚きつづける奇妙な青年がいた。 だが彼に時間を尋ねられた黒外套の男――警視庁捜査一課長・加賀美敬介だけは、青年が先ず自分のポケットからつまみ出した蜘蛛をコップの中へ落とし、それから立ち上がって女に喰ってかかった一部始終を見逃さなかった。この男、注文した紅茶には手もふれず、なぜこんな茶番をやるのか? 青年がばたんと入口の扉を閉めて出ていったその直後、加賀美は部下の峰刑事から殺人事件突発の電話を受ける。正三時――それはまさにあの青年が、『リベラル』で奇妙な芝居を始めた時刻だった。日比谷の喫茶店と鷺ノ宮の一角、十五キロはなれた場所で同時に起こった二つの出来事。これがあの怪奇を極めた、高木家の惨劇の序幕であった・・・ 昭和二十二(1947)年五月、『銃口に笑ふ男』のタイトルで雑誌「小説」誌に一挙掲載。前年「宝石」誌連載の横溝正史『本陣殺人事件』と共に、〈本格ミステリ第一の波〉の一翼を担った作品とされます。発表のアテも無く二十日余りで勢いのまま書き上げられた長篇で、『本陣~』同様200Pにも満たない長さながらその内容は濃密至極。 射殺された吝嗇漢で虐待者の当主・高木孝平を取り巻く一族は、『リベラル』で騒ぎを起こしたただ一人の息子・吾郎を筆頭に、どいつもこいつも濃い奴ばかり。終始加賀美を嘲弄する興信所所員の丹羽登や、事ある毎に煙草をくすねる孝平以上の守銭奴・大沢為三、冷たくて、静かで、石のように動かない女・青島勝枝など、加賀美をして「まるで狂人の巣だ!」と言わしめた連中が揃っています。そして事件に影を投げ掛ける蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛のモチーフ。果たして傲慢にして過酷な暴君を殺したのは誰か? 中途で明らかになる柱時計の仕掛けを巡り、二転三転するアリバイトリック。真犯人が身を隠す〈あの手〉がメインで使われたのは、これが初ではないのかな。意味ありげな〈蜘蛛〉のガジェットが、事件に有機的に絡んでればもっと良かったんだけど。そういう意味でムダの無い『本陣~』に比べると明らかに落ちる出来。とはいえ全篇緊張感に溢れた戦後初期の名作なのは確かで、採点は7点。旧題も良いミスディレクションになってますね。 |
No.496 | 5点 | 花の旅 夜の旅 皆川博子 |
(2021/03/16 04:20登録) 新人賞を受賞後、作家としては芽の出なかった小規模なタイプ印刷会社社長・鏡直弘の元に、旅行雑誌「ウィークエンド」から連作小説の依頼が舞い込んだ。季節々々の花の名所をまとめたグラビア四ページに短篇を添えるというその企画「花の旅」に張り切った鏡は、久しぶりの仕事に勇んで撮影旅行に同行するのだが・・・。作家自身の覚え書と作中作を交互に配置して驚愕の物語を紡ぎあげてみせる、幻の初期傑作! 精神病院を舞台に殺人犯の心の闇に切り込んだ『冬の雅歌』に続く、著者の大人向け長篇第五作(処女作は1972年10月刊行のジュブナイル『海と十字架』)。通販業界の老舗・千趣会の発行する月刊誌「デリカ」に、一九七八年五月号~翌一九七九年四月号まで一年間連載されたもの。講談社文庫に収められた際には『奪われた死の物語』と改題されているが、これは著者の意にそったものではないらしく〈昭和ミステリ秘宝〉収録時に元のタイトルに戻されている。昭和ミステリ秘宝版あとがきによれば〈会員頒布の市販していない小雑誌〉という形態を逆手に取る趣向だったようで、若干の修正はあるものの概ね初期の構想通りに実際の発表形式をなぞり、掲載短篇中で繰り返される犯罪と、作中世界での過去の墜死事件とが次第に融合していくメタ・ミステリ小説に仕上がっている。 ただし作品としては薄味。不穏さを湛えた文章で平戸・網走・能登といった取材地を舞台に撮影隊メンバー各人を擬した人物による殺人が描かれるが、第三話まで来たところでその一人が現実に海に墜ちた後、実作者の鏡も睡眠薬の服みすぎで事故死してしまう。第四話の京都からは皆川氏モデルの新人女流作家・針ヶ尾奈美子が「花の旅」を書き継ぐ事になるのだが、彼女の推理によって導き出される真相は、毒がたっぷり含まれた前半部分の濃さを埋め合わせるにはいささか弱い。掲載誌もあるが軽いタッチで纏めてしまった感じ。先にふしぎ文学館『悦楽園』各収録作の凄まじさを知っていると、どうしても物足りなく思えてしまう。やはり編集者に対し「これ以上は」との遠慮があったのだろうか。この人らしい繊細な筆致で書かれてはいるが、彼女の本領は発揮されていない。 そういう訳で採点は5点止まり。皆川氏にはやはり、初期短篇のように真っ黒な世界観をとことん追求して欲しい。 |
No.495 | 8点 | 虚像 大下宇陀児 |
(2021/03/16 04:17登録) 終戦直後の昭和二十二年八月二日深更、雑司ヶ谷の墓地近くに住むもと海軍中佐・大谷正明宅に賊が押し入り、かれを刺し殺したのち事業の出資金七十四万五千円を奪い逃走した。犯人は庭の防空壕から地下道伝いに家の中に侵入したものと思われた。 たった一人の肉親を失った少女・千春は亡き父の親友・橋本に引き取られ、一人娘のみどり同様実の子のように可愛がられて育つが、彼女の心の中には父親を殺した瞬間の憎い賊の姿が、強く焼き付いていた・・・。常に「魂のある人間を描くこと」を小説の主眼としてきた著者が、大戦後満を持して発表した大下文学の到達点。 「サンデー毎日」昭和三十(1955)年八月七日~同年十二月十七日号連載。思春期直前に強烈な体験をした若い女性の、青春期にかけての一人称告白形式で綴られる物語で、当時かなり評判になったらしい。『石の下の記録』系列のアプレ風俗やアンチヒロイン千春の独特な性格など、作者の総決算的な趣もある。大下は戦前からの大家だが、「石の下~」で探偵作家クラブ賞受賞後第四代会長職、またこの年創設された江戸川乱歩賞の選考委員となり、翌年には還暦を迎える事から彼自身期する物があったのかもしれない。ちなみに雑誌「宝石」誌上での江戸川乱歩『化人幻戯』の還暦記念連載は、本書にやや先行している。 父正明の復讐を志向する千春の動機は、何不自由ない境遇への閉塞感や養われている事に対しての引け目、田代への思慕や女としての義姉への対抗心、さらには反抗期の始まりなどが絡まり単純ではない。それは夫の麻薬取引が判明した際さほど道義心を抱かず、むしろ義姉一家への虚栄心が優先している事からも窺える。千春は理の勝った性格で根は真っ直ぐであるが、孤児という意識からくる過剰な思い込みから徐々に道を誤ってゆく。彼女の理想であった実父の姿も、ストーリーの進行と共に次第に崩れてくる。各世代主要人物の綿密な造形と、通俗ながら力強い筋運びには生の感情が息づいていて心地よく、横溝正史の最上の作品を思わせるものがある。ミステリとしての伏線はアクセント程度だが、終盤のドラマティックな展開も重なり効果を上げている。 ある程度先は見えるが、そのような読み方をすべきではない。物語の流れに身を委ねて、じっくり味わうべき長篇小説である。 |
No.494 | 8点 | 雲の中の証人 天藤真 |
(2021/03/16 04:08登録) 『犯罪講師』に続く角川文庫版第二作品集で、〈日本の刑事弁護士では五本の指に折られる〉〈つるつる禿なのに顔の面積とおよそ不釣り合いな大きなヒゲを生やした〉北弁護士シリーズ連作四編に、法曹もの二編を加えたリーガルミステリ特集。収録作は年代順に 逢う時は死人/公平について/雲の中の証人/赤い鴉/悪徳の果て/ある殺人 の六本。創元推理文庫版『雲の中の証人 天藤真推理小説全集15』は前者から「悪徳の果て」を除き、私が殺した私/あたしと真夏とスパイ/鉄段/めだかの還る日 を加えたものだが、未収録作品を漏らすまいとする余りややとっちらかった印象を受ける。今回はよりタイトな編集の角川版で読了した。 表題作は便宜上中編扱いだが、分量・内容的にも〈短めの長編〉とした方が相応しい堂々たる雄編。三河島のアパートで製薬会社の会計課員・長崎登が殺され、三千二百万円が奪われた事件の容疑者・酒井松三を弁護するものだが、目撃者によればアパートから該当の荷物を持って出入りした人間は松三しかおらず、しかも金策に窮していた筈の彼は入手不明金二百五十万円を携帯していた・・・というもの。 どう転んでもこりゃ無理だよ、という状況があれよあれよと覆り、山場では『遠きに目ありて』シリーズ「完全な不在」をさらに大掛かりにしたような、弁護士渾身の大技が犯人に炸裂する。同じ手口の繰り返しはやや頂けないが、二つの鍵に仕掛けられた暗示トリックなど実際的かつ巧妙で、なおかつメインの発想は出色。一向に取り上げられないのが不思議なくらいの秀作である。シリーズのみならず本集で抜きん出ているのはコレ。 大神卓名義で発表された「逢う時は死人(「塔の中の三人の女」に続く短編三作目!)」、ユーモラスな「公平について(「雲の中~」のゲストキャラ、矢来裁判長が登場する)」、一家五人殺傷事件を扱った「赤い鴉」等、他の連作はレベルは損ねぬといった程度だが、シリーズ外の二作「悪徳の果て」と「或る殺人」は、法の裁きが取りこぼした被疑者の人間性を感動的に描き、いずれも読み応えがある。特に半身麻酔で身動き出来ない人妻を犯す、ふてぶてしい悪徳医師の物語と思われたストーリーが後半から結末にかけて反転する前者には、この著者ならではのぬくもりと余韻があって味わい深い。また後者の次の文章など、他の誰に書けようか。 小柴七郎は作業の合間にはなるべく高いところへ登って仕上げてきた道路を眺めるのが好きだ。明るいグレイの滑らかな肌はぬり立ての絵具のように見え、作りかけの真白なガードレールはまるで発光体のように眩しく日を照りかえしている。 〈こんな長い、平らなやつを、みんなおれたちが作ってるんだからな〉 土工夫ならだれも、口にはしないが腹の底にもっているひそやかな自慢気分だ。 このような描写があるからこそ、一方的にそれを奪うものへの憤りが映える。『大誘拐』や『殺しへの招待』には流石に届かないが、著者の数ある佳作の中でもその次の座、ベスト・ファイヴを競える傑作中短編集と言える。 |
No.493 | 7点 | エッグ・スタンド 萩尾望都 |
(2021/03/05 10:26登録) 第二次世界大戦のさなか、ナチス・ドイツ軍占領下のパリ。 キャバレーの踊り子ルイーズは、ある日公園で殺害された死体を熱心に見つめる少年・ラウルと出会い、行くあてのなさそうな彼と暮らしはじめる。 数日後、キャバレーの近くでテロがあり、二人は身を隠しにきたレジスタンスの活動家・マルシャンに出会う。その直後、マドレーヌ近くのホテルで親仏派のドイツ人・ロゴスキーが射殺された。クッションを消音にして後ろから頭に一発。在仏ユダヤ人リストを受け取る筈だった彼がラウルと一緒にいるのを見たマルシャンは、ルイーズに惹かれる気持ちと少年を疑う気持ちの両方から、二人のアパートに潜り込む。 こうして、三人の不思議な同居生活が始まった・・・戦時下ながら平和で楽しい日々。しかし、ルイーズの部屋に貼ってあったニューヨークの絵葉書が剥がれ落ち、ベルリンの宛先をマルシャンに見られてしまう。ルイーズはパリ娘ではなく、ドイツから亡命してきたユダヤ人だったのだ。そこから三人の運命は、少しずつ暗い方へと流れていく―― 雑誌「プチフラワー」昭和59(1984)年3月号掲載の100P中篇。最高傑作の一つとされる十数P短篇「半神」と並び、第Ⅱ期作品集では指折りのキツい作品(A-A´シリーズや「偽王」も重いテーマだが、あれらはまだ異世界というクッションがある)。これら中短篇群の発表はほぼ同時であり、どれも非常に充実している。初期に見られる線のデリケートさや鮮やかな白と黒のコントラストはもう無いが、題材への切り込みや心理描写の確かさ、人間ドラマはこの後もさらに深化していく。翌1985年、男ばかりの社会での女王バチ殺しを描いたSF大作『マージナル』連載により、本格的に第Ⅲ期へ突入する以前の作品である。 〈愛も殺人も同じもの〉と語る純粋無垢な少年ラウルは次々と殺人を重ねるのだが、その根底にはある行為によって生じた自己の存在への不安感がある。そのため彼は初めて涙を流したあと、閉じ込められたヒヨコが殻を突付くようにその操り手をも屠り去り、彼を救おうとするマルシャンに抱かれるようにして射殺される。ノルマンディー上陸の噂が流れ、ナチスが敗勢にある事から1945年の冬、4月30日にベルリンが陥落する直前の出来事だと思われるが、語られるストーリーは果てしなく暗く重い。ラウルを取り巻く卵が、最終的にこの世界全体とわれわれ自身に被ってくる。 戦争による異常犯罪に留まらない、現代にも通じる普遍的なテーマ性を持つ中篇と言える。発表から32年を経た2017年3月1日、劇団スタジオライフ倉田淳の脚本・演出により初舞台化された。 |
No.492 | 7点 | 殺意の海へ バーナード・コーンウェル |
(2021/03/01 18:09登録) フォークランド紛争で背骨に弾丸を撃ち込まれたニック・サンドマン大尉は、名誉のビクトリア十字勲章授与と引き換えに二度と自力では歩けないとドクターに宣告される。だが彼は愛艇〈シコラクス(シェイクスピア劇『テンペスト』に登場する魔女の名)〉でニュージーランドへ船出する夢だけを支えに、再び不屈の闘志で立ち上がった。 ところが十四カ月の闘病生活を終え繋留先のデボンへ帰ってみると、岸壁には別のハウスボートがもやわれており、斜面をひきずり上げられた〈シコラクス〉はマストも被覆銅板もはぎ取られ、あらゆる装備品を略奪されて惨めに横たわっていた。繋留位置を占領していたのは、テレビの人気キャスターで有名なヨットマン、トニー・バニスター。彼はまた海の悲劇に遭った男としても知られ、外洋レース、サン・ピエール杯中の事故で妻ナデジャを失っていた。 盗まれた装備品を巡ってバニスターのお抱え艇長(スキッパー)を務めるボーア人、ファニー・マルダーと衝突したニックは、強引に契約書に署名させられ、彼の奇跡的な回復を題材にしたバニスター・プロ制作のフィルム番組〈ある兵士の物語〉に協力せざるを得なくなる。〈シコラクス〉の優美な姿を取り戻すためには、番組を制作する美女、アンジェラ・ウェストマコットに従うしかない。 嫌々ながら撮影を続けるニックだが、バニスター邸で催されたパーティでのアクシデントで、合衆国海軍少将の娘ジル-ベス・キーロフを助けたのを機にアメリカの海運王、ヤシア・カソーリに招かれる事になる。ジルは彼に命じられ、バニスターの周辺を探っていたのだ。死んだナデジャの父親であるカソーリは、この事故はバニスターによる殺人だと確信していた。 そして彼ははるばるボストンまで呼び出したニックに、恐るべき依頼をするのだった・・・ 1988年発表。原題 "Wildtrack" 。著者が初めて世に送り出した現代海洋スリラーで、スロースタートながら内容は充実。全四部で冒頭あらすじまで持ってくるのに約半分ぐらいかかりますが、切羽詰まったニックが「ええい!」とばかりに全てのしがらみを第三部で投げ出してからは快調そのもの。誰に気兼ねする事もなく生き生きと準犯罪者ライフを楽しむ一方、心の赴くまま恋人の願いを聞き入れ、はるか北大西洋目指して気違いじみた航海に船出します。 こういった経過からも分かる通り主人公ニックはかなりのダメ人間。美女の間をフラフラしては考え無しに行動し、両者に不義理を働いては結局雪隠詰めに。最後はバニスターとカソーリ、大物二人を敵に回してしまいます。それも信条とかではなく、単なる成り行きから。『ロセンデール家の嵐』のストウィ伯爵ジョニーも情けないですが、読んでてこっちもイライラが募る。向こう見ずでも将校としての思慮深さはありません。 ラストのアクションまでは望まぬながらも父親譲りの人徳と、英雄としてのカオでなんとかかんとかブタ箱入りの危機を切り抜けるニック。ただし基本単細胞なので、終盤前に登場し「わしにはハリケーンの中をちっちゃなヨットでセーリングはできんが、このこすっからい世の中を動かしてるものが何であるかは心得とるよ」と語る実父、トニー・サンドマンが事件の構図を暴きます。詐欺罪で開放型刑務所に収監されてるこのすっとぼけた親父さんが良いですね。看守たちさえも魅了し、健康的な環境下で自分の家みたいに振舞ってます。ニックが彼に十字章を託す場面は本書の名シーンでしょう。元妻メリッサも最初は銭ゲバ吸血鬼みたいな印象でしたが、最後まで読むとこれも結構良い女。というか主人公が問題児過ぎます。 それでもいざ行動するとなるとニック・サンドマンに勝る者はいない。「お前は気違い野郎だぜ、お前は気違い野郎だぜ」と繰り返しつつ、不具の右脚を駆り北大西洋の荒波に挑むニック。こなれ具合は冒険小説大賞受賞の『ロセンデール~』が上ですが、好みだと一作目で採点は同じく7点。甲乙付け難いけどトニーのキャラ分だけ勝ってるかな。 |
No.491 | 6点 | 深き森は悪魔のにおい キリル・ボンフィリオリ |
(2021/02/27 04:42登録) しばらくの間ロンドンから離れ、妻ジョハナや用心棒ジョックとともにイギリス王室属領のジャージー島に移り住むことになったチャーリー・モルデカイ。だが平和な税金天国での暮らしは一変し、連続レイプ魔事件が発生する。かつて島中を震撼させた〈ジャージー島の野獣〉事件を思わせる手口と、犯人が残していった手掛かりから悪魔崇拝が関係しているのではとにらんだモルデカイは、対抗手段をとるべく奮闘する。しかし事態は思わぬ展開を迎え、さらなるピンチに!? 男爵家の次男坊で、犯罪スレスレの絵画商を営む「いやらしくて、おこりんぼの男」、チャーリー・モルデカイが活躍するシリーズ第三弾。1976年発表。学生時代に古本屋で買い逃したっきり入手の機会もなく半分諦めかけていた所、どうトチ狂ったか当時売れっ子のジョニー・デップ主演で唐突に映画化。それに伴いシリーズ四作全てが新訳出版されました。本当にこんなもの出していいんですかね。 サンリオSF版は例によって訳の分からない表紙に、例によって野口幸夫のイミフ解説で全く内容が掴めませんが、いざ三角和代の角川文庫版を読むと開けてビックリ玉手箱、九割以上が本筋とは縁も所縁も無い展開のまま、あさっての方向へ一直線。巧みに伏線が鏤められているとかそういう事もなく、いっそ潔いくらいなもの。ラスト30ページは悪夢のような出来事の釣瓶打ちで纏めてますが、たぶん直前まで何も考えてないと思います。〈作者が正気に戻ったかのように急転直下で終わる〉との他サイト評は、まことに適切と申せましょう。 しょうがないのでモルデカイの駄法螺とブラックジョークに身を任せながら、ピーター・ディキンスン同様全くミステリとして期待せずに読んでいくと、イギリス教養人特有のひねくれまくった底意地悪さが炸裂してて、これがなかなか面白い。モンティ・パイソンとかが楽しめる人は買いでしょう。逆に合わない人は徹底的に合わないでしょうね。とりあえず評者はグルメ小説として堪能しました。 怪作というより珍作とした方が適切な本書ですが、強引極まりないオチにも関わらず、読後にそこはかとない哀愁が漂うのが困りもの。どうしようもなくおマヌケな主人公だけど、多分シリーズ通してこういうキャラなんだろうなあ。嫌いじゃないけど7点付ける勇気は流石に無いんで、まあ無難に6点。 追記:2015年公開のデビッド・コープ監督作品『チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密』は、興行収入4730万ドルに対し推定制作費は6000万ドル、回収率79%とものの見事に大コケし、チャーリーを演じたジョニー・デップは2015年度初の〈ハリウッドギャラもらいすぎ俳優第1位〉に選出されました。 公開時には "興行的災厄" とも囁かれ、主演のジョニデは今でもこの映画の事を聞かれると凄く嫌な顔をするそうです。まあそうだよね。 |
No.490 | 6点 | 奇蹟のボレロ 角田喜久雄 |
(2021/02/24 23:50登録) 新聞に掲載された楽団新太陽の死亡広告。キャバレー・エンゼルでの「奇蹟のボレロ」公演前夜、不吉な予告どおりに事件は起こった。匕首で胸を刺された死体の頸には絞殺の痕、その上現場は一種の密室状態にあり、建物内に残されていた楽団員はすべて椅子に厳重に縛りつけられていた。大胆不敵な不可能犯罪を冷徹に遂行していく殺人者と、警視庁きっての名探偵加賀美捜査一課長の火花を散らす戦いが、いま始まる・・・・・・。 奇術趣味にアリバイ破りを取り入れ、緻密な構成美を誇る「奇蹟のボレロ」に、「緑亭の首吊男」「怪奇を抱く壁」「Yの悲劇」「霊魂の足」他、終戦直後の混乱した世相を背景に重厚な推理を展開、強烈な個性で本格新時代の到来を告げた加賀美シリーズ全短篇を収録した決定版。 国書刊行会〈探偵クラブ〉版で読了。新保博久氏の行き届いた配慮で、収録作は長短とりまぜ事件簿順に配列されているが、あえて発表順に並べると Yの悲劇/怪奇を抱く壁/緑亭の首吊男/髭を書く鬼/黄髪の女/五人の子供/霊魂の足/奇蹟のボレロ となる。これに創元の日本探偵小説全集から『高木家の惨劇』を調達すれば、加賀美敬介の登場作品二長篇七中短篇は全てコンプリート出来てしまう。この叢書の中でも大変お得感の強い、読み応えのある編集内容である。 角田の作品は初体験だが、思ったよりカッチリした内容。満員電車の中、加賀美から証拠品を掏り盗ろうとする男が発端の「Yの悲劇」や、シムノン『サンフォリアン寺院の首吊人』風出だしの代表短篇「怪奇を抱く壁」など、魅力的な掴みから怪奇な事件へ、そしていざ捜査に入れば箇条書き付きでいくつもの疑問点が挙がり、意味ありげな指摘は成されるも基本的には五里霧中のままストーリーは進んでゆく。言われるほどシムノン風とは思わないが登場人物の彫りは深く、どの事件にも終戦直後のインフレや風俗描写が深い影を落としている。 表題作は外洋の大きなうねりにのって静かにローリングを続ける客船・伊勢丸船上より始まる。たまたま乗り合わせた加賀美課長に、黒枠広告の不安を訴える楽長。徐々に緊張が高まる中、五人のメンバーの一人にモルヒネが盛られる。その場は幸い事もなく済んだが予告状に記された五日後、本番前夜の練習の際遂に事件は起きた。だが各所に閉じ込められ厳重に縛られた団員たちのいずれも、殺人を行うのは到底不可能だった・・・ シチュエーションの解決はしょうもないが、各人の性格を読み切った複数の操りが進行し、それに伴い解決も二転三転する。全体の構成は暗闇での射殺事件を扱った中篇「霊魂の足」と似ているが、こちらは緻密な手掛かりの分だけ腰砕けにならずに済んでいる。奇術要素も彩り程度で色物感もさほどなく、佳作とまでは行かずともそれなり以上に楽しめる。 中短篇は解説にもある通り、短いほうの三篇はどうも物足りない。長めの中では展開の読める「緑亭~」を除くと「Yの悲劇」「怪奇を抱く壁」「霊魂の足」がベストスリーで、イチオシは不可能性は予想通りなものの、それを上回る真相の意外さと人情味で泣かせる「Yの悲劇」。トータルでは「~ボレロ」に中短篇分を若干プラスして6.5点となる。 |
No.489 | 7点 | マン島物語 森雅裕 |
(2021/02/21 19:04登録) マン島TTレース――1907年5月、25人のライダーがグレートブリテンとアイルランドに挟まれたアイリッシュ海の独立国マン島に集まり、偉大なる草レースを始めた。以来一世紀近くオートバイ・ライダーの聖地であり続けたこの島で、男たちは新たな戦いのページを加え続ける。一周三十七・七三マイル=約六十キロの長大なマウンテン・コースに展開する苛酷な戦いの果て、F2ライダー三葉邦彦はイタリアの暴れ馬・L型二気筒ドゥカティを駆り、栄光のチェッカーフラッグを目指す――。 第二作品集『ベートーヴェンな憂鬱症』に三ヵ月遅れて刊行された、著者の第七長編。海外雄飛の憧れを強く見せていた第四作『サーキット・メモリー』の発展形で、扱われる二輪レースは〈世界で最も危険な競技〉と言われるマン島 Tourist Trophy(ツーリスト・トロフィー)。イギリス王室属領が舞台となるだけあって、主役カップルのみならず登場する日本人組もそれなりの覚悟と決意を以って乗り込んできており、脇役ながら主人公の邦彦や元アイドル・比企真弓の棘だらけの物言いにも一歩も引かない。 勿論旧友の忘れ形見で齢十歳の少女、ニコラ・ベルハートや、その母親で家主のセシリアを筆頭とするマン島住民のブリティッシュな発言も、負けず劣らず大概キツめ。意地と意地とがぶつかる遣り取りの中、初夏のアイリッシュ海でサイドカー・F1・F2三種目の危険極まりないグランプリが催される。 マン島の面積は572km2で淡路島とほぼ同じ。ただし中央部には標高2,034mのスネッフェル山が聳えており、コースの高低差は約400m。200以上のカーブに彩られた見通しも定かならぬ一般道を最高速度300km/h以上、一周約20分弱で駆け抜けるのだ。それでも過度なアドレナリン分泌により、レース中は一切の恐怖を感じないが、完走後はへたり込んだり泣き出してしまう参加者も多いのだという。その辺の一寸先も見えない難コース描写は執拗。伝統あるこのレースでイタ車に乗った主人公が挑みかかるのが、日本の誇るHONDA勢なのがいかにもこの作者らしい。 完全なレース物でコース外での熾烈な駆け引き以外のミステリ要素は薄いが、ストーリー運びやエンタテインメントとしての完成度は森作品中でも有数。良質な装丁の初刊本が高価かつ入手し辛いのが難だが、名実共に著者のオートバイ嗜好の頂点を成すものと言える。amazon だと私家版外では最難度クラスの『歩くと星がこわれる』より高いのね(2021/2/24日現在 ¥7,887)。結局図書館で借りたけど、読後には久しぶりに大藪春彦『汚れた英雄』が読みたくなって困った。採点はここまでトップの7.5点。 |
No.488 | 6点 | 春期限定いちごタルト事件 米澤穂信 |
(2021/02/21 07:04登録) 『さよなら妖精』に続いて書き下ろし刊行された、〈ちょっと変わった二人が手に手を取って、清く慎ましい高校生活を目指す〉小市民シリーズ第一弾。収録作は 羊の着ぐるみ/For your eyes only/おいしいココアの作り方/はらふくるるわざ/孤狼の心 の五編。第二話からのストレスフルな展開の連続に、二作目以降を読んだ身としてはいつ爆弾が破裂するかとビクビクもの。作中人物とは別な意味で胃が痛く、小佐内さんには「よく我慢したね」と言ってあげたい。 一作目だけあって登場人物同士が微妙な距離を保ちながら進行するが、意図不明の二枚の絵の謎を扱った「For your eyes only」の結末はかなり不穏で、この連作が安直には収まらない事を予感させる。が、個々の短篇の出来は、全体の趣向とキャラクターの確立を優先した続編『夏季限定トロピカルパフェ事件』を上回っており、個人的にはあちらよりも楽しめる。 〈日常の謎〉として優れているのは、やはり意図せず提出されたミステリーを解く形の第三話だが、些細な疑問から紛失したポシェットの行方を突き止める第一話「羊の着ぐるみ」も、動機の微笑ましさも相俟ってバランスがいい。底にある種の軋みを湛えながらストーリーは進むのだが、自転車の盗難から通奏低音のように流れていた犯罪を暴き出す最終話「孤狼の心」では、精緻な論理もさることながら、常悟朗と本音をぶつけ合う堂島健吾の廉直さが物語全体を救っている。個々のキャラクターに支えられた、地味ながら尖った持ち味の作品集である。 |
No.487 | 7点 | ルルージュ事件 エミール・ガボリオ |
(2021/02/20 14:34登録) 一八六二年三月六日、木曜日のこと。パリ近郊のラ・ジョンシェール村で近所に住む未亡人、クローディーヌ・ルルージュの刺殺遺体が発見された。村に隠れ住み決して周囲に素性を明かさなかった彼女の過去には、いったい何があったのか。"チロクレールの親父"のあだ名を持つ、素人探偵タバレがたどりついた衝撃の結末とは・・・。世界最初の長篇ミステリ、初の完訳。 一八六五年日刊紙「ペイ」に掲載されたのち、舞台を「ソレイユ」紙に移して一八六六年四月より再度連載された、ガボリオ初の新聞小説。後のレギュラー探偵ルコックはセリフが二、三あるだけのチョイ役で、師匠格のタバレが序盤では鮮やかな探偵役を務める。が、それも中盤には覆り、逆にタバレが潔白な容疑者を救い出そうと狂奔するなか、ルコックに腐された足の治安局長ジェヴロールが事件の重大な手掛かりを齎すなど、ミステリ黎明期の故か物語の展開は単純ではない。 犯人として逮捕されたアルベール子爵やその父親の名門貴族コマラン伯爵、アルベールの恋人で彼の無実を信じるクレール・ダルランジュ、かつてクレールに求婚するも大きな痛手を負い、六週間も生死の境をさまよい続けて回復した後、再び数奇な運命から本件担当となり苦悩するダビュロン判事など、各サイドのキャラにはいずれも十分な筆が割かれ、群像劇として飽きさせない。 軸となるのは二代に渡る恋愛が齎した策略とその顛末。伯爵の幼児掏り替えによってアルベール×クレールと弁護士で私生児のノエル×彼の愛人ジュリエット、二組のカップルが激動の運命に晒される。大デュマを彷彿とさせるストーリーは非常にリーダビリティが高くサクサク読めるが、惜しむらくは恐るべき証拠の一致を〈単なる偶然〉として片付け、犯人側の作為も無い点だろうか。タバレの誤認も無理はなく、この辺明らかに二年後のコリンズ『月長石』に劣る。 ただし第8章で開陳されるコマラン伯爵のブルジョワ論議や、19章でのノエルの恋の皮肉な救済など小説としての見所は多く、フランス第二帝政という時代背景を鑑みると興味深い。発表年の古さと長さの割には身構える事無く、存分に当時の面白さを味わえる小説である。 |