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ミステリの祭典

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虚像

作家 大下宇陀児
出版日1956年01月
平均点8.00点
書評数1人

No.1 8点
(2021/03/16 04:17登録)
 終戦直後の昭和二十二年八月二日深更、雑司ヶ谷の墓地近くに住むもと海軍中佐・大谷正明宅に賊が押し入り、かれを刺し殺したのち事業の出資金七十四万五千円を奪い逃走した。犯人は庭の防空壕から地下道伝いに家の中に侵入したものと思われた。
 たった一人の肉親を失った少女・千春は亡き父の親友・橋本に引き取られ、一人娘のみどり同様実の子のように可愛がられて育つが、彼女の心の中には父親を殺した瞬間の憎い賊の姿が、強く焼き付いていた・・・。常に「魂のある人間を描くこと」を小説の主眼としてきた著者が、大戦後満を持して発表した大下文学の到達点。
 「サンデー毎日」昭和三十(1955)年八月七日~同年十二月十七日号連載。思春期直前に強烈な体験をした若い女性の、青春期にかけての一人称告白形式で綴られる物語で、当時かなり評判になったらしい。『石の下の記録』系列のアプレ風俗やアンチヒロイン千春の独特な性格など、作者の総決算的な趣もある。大下は戦前からの大家だが、「石の下~」で探偵作家クラブ賞受賞後第四代会長職、またこの年創設された江戸川乱歩賞の選考委員となり、翌年には還暦を迎える事から彼自身期する物があったのかもしれない。ちなみに雑誌「宝石」誌上での江戸川乱歩『化人幻戯』の還暦記念連載は、本書にやや先行している。
 父正明の復讐を志向する千春の動機は、何不自由ない境遇への閉塞感や養われている事に対しての引け目、田代への思慕や女としての義姉への対抗心、さらには反抗期の始まりなどが絡まり単純ではない。それは夫の麻薬取引が判明した際さほど道義心を抱かず、むしろ義姉一家への虚栄心が優先している事からも窺える。千春は理の勝った性格で根は真っ直ぐであるが、孤児という意識からくる過剰な思い込みから徐々に道を誤ってゆく。彼女の理想であった実父の姿も、ストーリーの進行と共に次第に崩れてくる。各世代主要人物の綿密な造形と、通俗ながら力強い筋運びには生の感情が息づいていて心地よく、横溝正史の最上の作品を思わせるものがある。ミステリとしての伏線はアクセント程度だが、終盤のドラマティックな展開も重なり効果を上げている。
 ある程度先は見えるが、そのような読み方をすべきではない。物語の流れに身を委ねて、じっくり味わうべき長篇小説である。

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