小原庄助さんの登録情報 | |
---|---|
平均点:6.64点 | 書評数:267件 |
No.207 | 6点 | 女であるだけで ソル・ケー・モオ |
(2020/06/22 10:20登録) 非主流であるがゆえにこれまで不可視だった人々や世界に、光をあてる。こうしたマイノリティー文学の政治的役割を果たしつつ、純粋な小説の魅力に富む作品。 メキシコの先住民の言葉、ユカタン・マヤ語で書かれ、なおかつ支配とは何かという根源的な問題を深掘りする。 オノリーナは夫を事故的に殺害してしまう。判決は20年の禁固刑。しかし人権派弁護士が恩赦をとりつけ5年で釈放に。物語ではそのことの顛末が、オノリーナの回想を通じ明らかになる。 14歳で、実父から粗野な男へとわずかな金品で売り渡された日から、彼女は所有物として絶対服従を強いられてきた。慣れぬ灼熱の土地への移住、日常的な暴力、慢性的な貧困、先住民ゆえの差別に加え、夫から他人の男との性行為を強要されて、長らく自尊心を損ない続けてきたのだった。 運命の好転は同じ民族の女性と知り合ったから。活力を取り戻し、夫の暴力に抵抗しえたのだ。収監されはしたのだが、この時ほど彼女が精神の安寧を感じたことはなかったろう。罪を犯し、自由得るという皮肉。この間スペイン語を習得し、おのが理不尽な境遇を客観視したからこそ、恩赦は先住民の特権かと問われた際、「白人の法律は白人のものであって、あたしたちには意味がない」と論理的に反駁できた。「インディオで女なんていったら、不幸の塊さ」 二重の意味で阻害されてきた彼女が、支配者側の無関心と法の不整備を糾弾する。法廷ものとしてのハイライトだが、ここで改めて、文学が声なき人々の声を掬い取る意義が浮き彫りになる。 |
No.206 | 9点 | アンドロイドは電気羊の夢を見るか? フィリップ・K・ディック |
(2020/06/09 09:30登録) 人間と機械の違いは何か。もしそれが将来の夢を見るか否かで決まるなら、夢を見る機械はもはや人間といえないか。機械にそんな感情移入をしてしまう自分は異常なのか。それとも。命がけのアンドロイド狩りに挑むリック・デッカードは自問する。 言わずと知れた映画「ブレードランナー」の原作。映画から入った方は冒頭からリックが妻と感情操作装置のダイヤル争いをしたり、隣人に見栄で機械仕掛けのペットを飼う悩みを話したりするので戸惑われるかもしれない。 でも、読み進めるうちにこの世界が生命と機械の狭間にあり、そこから生じたアンドロイドは一体何かというSFならではの問題提起の前置きであることに気付く。現在様々な分野で問い直されているテーマを描き、作品としても古びていない。 |
No.205 | 8点 | 深夜プラス1 ギャビン・ライアル |
(2020/05/29 10:32登録) 今さら紹介するのも恥ずかしいほど、古くよりミステリ冒険小説好きの読者には名作中の名作として知られている。かつて東京・飯田橋駅前には本作にちなんだ同名の書店が存在していた。 第二次大戦中のレジスタンスの英雄だった主人公が、年齢を重ねて今は堅気の仕事に就いていたものの、突然昔の仕事仲間に誘われたことから物語は始まる。ある重要人物を護衛しつつA地点からB地点まで移動するという単純な仕事を引き受けたのだ。だがその人物は警察や謎の刺客らに追われていて、ことは簡単には運ばない。 大筋は単純だが、そこにはプロの矜持、謎と罠、アクション、銃、車、旅情、歴史、頓知と駆け引き、さらには友情と裏切り、男と女、過去の悔恨と栄光と娯楽要素がこれでもかと詰め込まれている。 初訳本巻末の田中光二氏の解説にもあったが、本作はプロの作家が嫉妬し、目標にするような作品でもあるのだ。すなわちリーダビリティーとディテールの豊かさを同時に持っている。そして再読三読に耐えられる。 |
No.204 | 6点 | オール・クリア コニー・ウィリス |
(2020/05/18 11:02登録) 時間旅行が可能となった2060年、オックスフォード大の史学生3人が、第二次世界大戦の現地調査に赴く。ひとりは大空襲下のに百貨店の売り子として潜入、ある者は地方に疎開した子供たちの生活を観察するためにメードとなり、今ひとりは新聞記者としてフランスにおける、英仏軍のダンケルク撤退作戦を取材する。 時代の雰囲気を伝える描写や逸話の数々は、英国ではノスタルジックな物語(日本の昭和ブームみたいなもの)として人気が高いらしいが、日本人にとっては現代史や英国庶民文化に触れられるのが楽しみ。また戦時下の日常的恐怖、苦境の中にある人々の英雄的行動も感動的で、SFファンのみならず、幅広い読者に読んでほしい。 SF的には、元の時間に帰還するための「降下点」が使えなくなり、タイムパラドックスの危機が迫るサスペンスで、クライマックスが秀逸。張り巡らされた多くの伏線が畳みかけるように回収されていくさまは圧巻だ。 |
No.203 | 5点 | 色町のはなし―両国妖恋草紙 長島槇子 |
(2020/05/07 10:11登録) 見世物小屋や岡場所が並ぶ両国界隈の悪所を舞台に、御家人の冷や飯食いで女好きの萬女蔵が直面する怪異を描いている。 殺された人間の霊が、生きた恋人を救おうとする「とんでも開帳」、ある男が異形の娘に恋する猟奇的恋愛譚「因果物師」、寺の和尚が男色相手に似せて作った人形が、時を超え不思議な事件を巻き起こす「若衆芝居」、男の精気を吸う美女のアヤカシを描く泉鏡花を思わせる幻想小説「水の女」...。 著者はセックスという人間の「生」の最も生臭い部分と、その対極にある「死」を対比しながら、あやしくも切ない物語をつむいでいく。個人的には、エロのなかに怖さと笑いを織り込んだ「四ツ目屋の客」が、最も気に入っている。 |
No.202 | 7点 | 雲 エリック・マコーマック |
(2020/04/22 10:23登録) 虚実ないまぜ、それも虚の割合が多め、という話を聞く楽しさは、嘘と本当の境がふいに揺らいでくる瞬間にある。正常であるはずの現実世界に何かが侵食してくるあの感じ。マコーマックは読者をぞわっつとさせる名人でもある。 この作品は、主人公のハリーが、旅先で一冊の古書を購入する場面で始まる。十九世紀、スコットランドのある町で起きた異常気象の「黒曜石雲」についての本だが、彼は町の名に覚えがあった。若き日、そこで大失恋をしたのだ。 内容も出版経緯も謎めいた書物の調査を進める現在と、ハリーの数奇な半生が明かされる回想の、ふたつの軸をたどりながら、話は展開する。 悲劇的事故で両親を失った後、ダンケアンで職を得たハリー。その地で父親と暮らすのがミリアムだ。彼女は奇妙な疫病によって消滅した近郊の町の昔話などをし、ハリーを魅了する。だが、恋は実らない。彼は失意からヨーロッパを去る。 下っ端甲板員としてまずはアフリカ大陸、そして南米へ。旅の途中に出会う人々がハリーの人生を決定づけていく。人道的な医師にみえるデュポン。鉱山主相手にビジネスをするカナダ人技師のゴードン。彼らの周りの女たち。流転は続く。 成長物語でも海洋冒険小説でもある物語は、やがてゴードンの娘アリシアを妻にしたあたりから家族小説の一面を持つ。妻への遅れた愛の認識と、息子との関係構築は大きな主題だ。息子は言う。「どうしても解けない謎には、何かとても心に訴えるものがあると思う」 謎の最もたるものは人の心だ。なぜ恋をし、罪悪感を持つのか。マコーマックは、怪奇現象や人体実験などの毒気ある要素を盛り込みつつ、人間と他の動物を分かつ条件を掘り下げる。恐れという感情こそ解けない謎だと言わんばかりに。 |
No.201 | 9点 | ジャッカルの日 フレデリック・フォーサイス |
(2020/04/10 09:34登録) ドキュメンタリーの手法でフィクションを書く。今日では当たり前のこの手法は、本作品で確立されたと言っていい。 現在、書店にあふれている冒険小説、スパイ小説、謀略小説等を読み慣れている人たちにとっては、本作品の文体はそれほど珍しいものではないだろう。しかし、それこそが、本作品の最大の功績である。つまり、新たな手法と文体、そしてジャンルがここに確立されたのだ。 綿密な取材により、描く対象の細部にこだわり、「見てきたような事実を書く」ことは、1970年代に盛んになったニュージャーナリズムの手法だが、フォーサイスはこれをフィクションに導入し、成功した。実際、本作品にあるエピソードの多くは事実に即したものだそうで、どこまでが事実で、どこからがフィクションかは作者しか知らない。 ちなみに映画は原作にほぼ忠実。ストーリーももちろんだが、全体の雰囲気もおさえた演出で、ドキュメンタリー映画のように淡々と、歯切れのいいテンポで、ジャッカルとルベル警視側とを描いていく。 |
No.200 | 10点 | モルグ街の殺人 エドガー・アラン・ポー |
(2020/04/02 09:55登録) 史上初の名探偵は、オーギュスト・デュパン。世界ミステリ史上に輝く、世界最初のミステリ。ここにミステリの全てがある。 不可思議な犯罪が起こり、警察がお手上げ状態のところに、超人的頭脳の名探偵が登場し、その推理力で解決に導くというミステリのストーリーの基本パターンを確立しただけではなく、「名探偵の活躍を、その友人が記述する」というスタイルも確立させた。 このスタイルを多くの作家が真似をしている。その元祖がポーであることを忘れてはならない。文句なしの10点である。 |
No.199 | 8点 | いやいやながらルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝 伝記・評伝 |
(2020/03/24 10:08登録) 一人の作家が創り上げたキャラクターが、その作家をはるかにしのぐほど有名になる、というのはどういうことなのか。とりわけ、そのキャラクターが「いやいやながら」生み出されたものだとしたならば・・・。 本書は、邦訳も出ている「アルセーヌ・ルパン辞典」や「ルパンの世界」でルパン研究家の第一人者として知られている著者によるもので、本国フランスではこの二冊より本書の方が先に出版されている。 今でも世界中に熱烈なファンを誇るルパンだが、作者であるモーリス・ルブランに関する本格的な伝記は本書が初めて。緻密で詳細な資料に基づいて、その誕生から死まで、作家ルブランの生涯が再現されている。 ルブランと言えばルパン、というように彼の代名詞のように語られているルパンシリーズだが、実はルブランの作家としてのスタートは純文学だった。しかし御多分に漏れず、純文学の筆一本で暮らしていくのは難しかった。幸いなことに、ルブランは富裕な家の生まれではあったが。 転機となったのは、当時は新米編集者だったピエール・ラフィットから大衆小説の執筆を依頼された事。この依頼こそが、後のルパンシリーズに繋がっていくのだが、純文学を志し、モーパッサンの弟子を自任していたルブランにとって、大衆小説の執筆は本意ではなかった。この時、ルブランは40歳を過ぎていた。 ルパンシリーズの成功はルブランに富をもたらしたが、それとともに作家としてのプライドは屈折していく。創作と生活の板挟みになったルブランの苦悩は、本書の帯にも引用されている。「ルパンが私の影ではなく、私の方がルパンの影なのだ」という言葉に象徴される。 一人の作家の成功と、その陰に隠されてしまった知られざる苦悩。ルパンの生みの親だけではない、ルブランの全てがここにある。 |
No.198 | 8点 | 息吹 テッド・チャン |
(2020/03/24 10:08登録) 現実離れした不思議な世界を舞台にしているのに、私たちが抱える問題にリアルに切り込む作品集。 表題作は、人間によく似た思考回路を持ち、たぶん容姿も似ているものの、人間とは決定的に異なる知的存在が登場する。もしかしたら、彼らが暮らす宇宙自体が、この宇宙とは異なっているのかもしれない。 彼らは、自分たちの生命の源は空気中のアルゴンだと考えており、人間より頻繁に空気のことを考えねばならない身体構造をしている。語り手は研究者として自分たちの意識や記憶の仕組みを科学的に分析していた。 断片的に明かされていくその奇妙な身体構造に思いを巡らすのは楽しい。だがその分析は、脳内の微細な機序の解明から、宇宙の構造理解へと至り、宇宙の「終わり」が近づいていると気付く。そんな未来を冷静に受け止め、彼が願うのは・・・。 また「オムファロス」は宇宙の始まりに神による想像があったことが証明された世界での、人間と宇宙、あるいは神との関係が問題にされる。全ての物語に、人間の自己中心性への理知的批判と、それでも手放すべきではない自由意志への信頼が、情感豊かに込められている。 |
No.197 | 7点 | ハーモニー 伊藤計劃 |
(2020/03/10 09:19登録) SFは、「科学の発展」の良さを教えてくれるだけのものではない。この作品は、「科学の発展」「医学の進歩」「便利社会」に真っ向から喧嘩を売る、「科学の発展」を否定する物語だ。 未来の理想的な社会を描いている。「誰も病気になることも、傷つくこともない完璧な社会」。飲酒や喫煙などの不健全なものは一切存在せず、できるだけ怪我をしないように、病気にならないように設定された「健全で優しい社会」。そこに生きる人々は、リスクとともに生きる今の私たちの社会を嘲笑う。 一つの未来世界では病気も暴力も傷も放逐されていて、誰もが健康で天寿を全うできる。それでも、そんな理想の社会はユートピアではなくディストピアであると、本書では述べているのだ。優しさは人を殺す。健全であることを強要する社会、不健全さを許容できない社会では、どこかに閉塞感が生まれ、自分の身体を社会に奪われるような感覚を持ってしまう。それを10代の女の子の目線と成長した主人公の感覚を行き来しながら、丁寧に描いていく。 そしてこの物語の終局にあるのは、「人間は、人間であることをやめた方が幸せになれる」という恐ろしい真理。優しさで人を殺すディストピアも、人が人であることをやめてしまえばユートピアになる。その答えを前にして、主人公はどう折り合いをつけるのか。この物語の終りに待っている世界を知った時、読者一人一人、感じ方が大きく異なるはずだ。バッドエンドだと感じる人も、ハッピーエンドだと感じる人もいるだろう。それほどこの物語の幕切れは凄まじく、そしてすべての人の人生に一石を投じるものだと感じる。 |
No.196 | 8点 | 虐殺器官 伊藤計劃 |
(2020/02/28 10:06登録) アメリカ同時多発テロ後、個人認証システムが普及した先進国でテロがなくなる一方、発展途上国では内戦や虐殺が急増。主人公は、そんなあながち「もしもの話」だと思えない、あり得そうな世界で、虐殺を止めるために現地指導者のもとに送り込まれる米軍暗殺部隊員。やがて、繰り返しその標的となりながら捕らえられない謎の男が浮上する。虐殺発生地を先取りし世界を転々とする男、ジョン・ポール。まるで彼が虐殺を振りまいているかのように。 脳医学的処置による痛覚や倫理観の調整、人工筋肉といった軍事を中心とするSF的技術、言語や意識・「虐殺器官」という表題に関わる人間への考察、さらに世界全体を俯瞰し、シュミレーションする規模の大きな世界観。さまざまな要素が豊富に盛り込まれ、読み応えたっぷりだが、しかしこの物語は、意外なほどに「内省的」だ。「ぼく」という一人称で描かれ、主人公の母への執着・精神的な未熟さが強調され続け、そしてラストの衝撃的な展開へと急転直下していく。 人間の存在に関わるテーマや世界全体を巻き込んだ戦争・虐殺といった非常に大きなスケールで語られる本作が、主人公というたった一人のちっぽけな人間によって語られ、そしてその一人が世界を変える。そのアンバランスさが、しかし「人間」や「戦争」というものも、一人一人の人間の存在によって引き起こされているということを思い出させてくれる。 |
No.195 | 6点 | 楠の実が熟すまで 諸田玲子 |
(2020/02/20 11:08登録) 幕府隠密になることを命じられた女性を主人公にした時代ミステリ。禁裏の出費に疑問をもった幕府は、山根良旺に不正の証拠を見つけることを命じる。ところが頼りの密偵が刺客に殺され調査は中断。山村は腹心の中井清太夫の姪・利津を隠密として禁裏の経理を担当する高屋康昆の家へ送ることを決める。女隠密の活躍と聞くと、いかにもミステリ的な設定に思えるかもしれないが、山村が清太夫の姪を隠密に抜擢したのは史実のようである。 著者は実話に基づいたスリリングなスパイ小説に、楠の実が熟す半年の間に不正の証拠をつかまなければならないタイムリミット、限られた容疑者の中から刺客を探す「犯人当て」など独自の要素も加えているので最後まで先が読めない。 文武に優れた利津は、自分の使命に誇りを持っていたが、不正役人とは思えない康昆の誠実さに魅かれていく。任務と情の板挟みになった利津が苦悩する後半は恋愛小説としても秀逸なので、ハードな展開が苦手でも十分満足できるはずだ。 利津の任務は、現代でいえば会計検査院のようなもの。税金の無駄遣いに納税者の関心が高まっているだけに、利津が禁裏という絶対のタブーに切り込むところは、過去を舞台にしているとは思えない迫力があり、その活躍は痛快に思える。 |
No.194 | 8点 | わたしを離さないで カズオ・イシグロ |
(2020/02/12 10:34登録) 舞台となるのは、ある全寮制の学校。ありふれた学園生活が描かれるが、ときおりふと、誰かの姿勢が妙に思えたり、唐突な落涙があったりし、不穏なさざ波がたつ。彼らは将来、提供者となり、生体的使命を終える運命を決定づけられているのだ。 その特異さが、日常の中にさりげない場面に深い陰影を与え、逆に恋愛や諍いの平凡さが、むしろ運命の哀しさを際立たせる。 作者は特異な世界を描くことで、人間の一番普通の部分に触れようとしたのだろう。実にフィクションらしい輪郭を持つ小説ながら、特殊な設定を取り払っても、その最深部にあるものをこの作者は書きうるだろう。 |
No.193 | 7点 | ボーダー 二つの世界 ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト |
(2020/02/04 10:45登録) 収められた11の中短編はいずれも異質な存在や異界の気配、恐怖と耽美、生と死の融合が、理知的な筆致で描き出されている。 表題作は、罪や不安を抱いたものを感知する特殊能力を持つティーナの物語。彼女は能力を活用して麻薬などを摘発する税関職員をしていたが、ある男を検査しても何も発見できない。だが、違和感はなかなか去らない。 有能さ故に職場で信頼される一方、落雷で顔に酷い傷が残り、人生を半ばあきらめたような彼女。不穏な男と関わることで、次第に自身のあり方が揺らいでくる。 性別や世間の常識、正常と異常、さらにはこの世界と別世界の境目すら曖昧になっていくこの物語は、ホラーと呼ぶには美しすぎ、ファンタジーというには闇が深い。あるいはそんなジャンル区分も、本書が葬ろうとする「ボーダー」(境界)のひとつかもしれない。 また収録作のひとつ「古い夢は葬って」は、一言でいえば愛の物語だ。「愛は愛である。さまざまな表現の形があるだけだ」という言葉が胸に響く。 |
No.192 | 5点 | 霊峰の門 谷甲州 |
(2020/02/04 10:34登録) 輪廻転生を題材に奈良から幕末までを描く伝奇ロマン。貴人の身代わりに殺される「影」一族の佐堤比古と恋人・皐月女の時空を超えた愛を縦糸に「影」を独占しようとする一言主と佐堤比古たちの果てしない闘争を横糸に進んでいく。 輪廻転生は、下手に扱うと死んでもやり直せるという部分だけが強調され、命の軽視になりかねない。だが、本書は、乱世に最も必要とされる「影」を主人公にすることで戦争の悲劇を丹念に描くとともに、どんな時代も変わらない愛の普遍性をテーマにしている。それだけに生きることの大切さ、死の持つ意味が実感できるはずだ。 |
No.191 | 6点 | 遠い他国でひょんと死ぬるや 宮内悠介 |
(2020/01/28 10:22登録) ユーモアが混じるからこそ、不条理の影が濃く浮かび上がる。フィリピンで戦死した大正生まれの詩人竹内浩三の詩から取られたタイトルの感触は、そのままこの小説の読後感に通じている。 物語の主人公は、浩三が戦場に携えたはずの幻のノートに魅了されている須藤宏。番組制作会社でベテランとして働いていたが、「浩三の見た戦争を見たい」との思いから職を辞し、フィリピンに渡る。 老いを意識しつつある彼を駆り立てるのは、軸となるべき「歴史」を見失って漂流する自身の空虚さだ。その姿はどこか、インターネットを通じ歴史修正主義に染まる中高年とも重なる。 そんな彼をフィリピンで待つのは、ブレーキが壊れたような怒涛の展開。突如とレジャーハンターの西洋人ペアに襲われ、山岳民イフガオの女性に助けられたかと思ったら、彼女の元恋人の実家を訪ねミンダナオ島へ。島の分離運動に関わったイスラム教一家には秘密があり、さらに超能力まで絡んできて・・・。 ユーモアあふれる物語のジェットコースターに、振り落とされそうになる読者もいるかもしれない。けれど、小説を読み通したなら、そのスピード感、その奔放な想像力がなければたどり着けない地点があることを知るだろう。 物語の最後に主人公は、そして読者は、かつての悲惨な戦争を眼前に見る。この小説でないとあり得ない仕方で、とても高精細に。一方で著者は、その虚構性に自覚的だ。その誠実さは、かつての戦争の加害責任と向き合おうとする作中の主人公の姿とも重なる。 小説は中途半端に幕を閉じる。「まだ時間はある」という言葉を残して。「過去が曲げられようとしている」現在において、その言葉に説得力を持たせるために、それまでの物語は必要だったのかもしれない。 |
No.190 | 6点 | カーペンターズ・ゴシック ウィリアム・ギャディス |
(2020/01/28 10:20登録) 全米図書賞を受賞したウィリアム・ギャディスの、「一体、誰が訳せるのよ」的メガノベル「JR」の訳出で、第5回日本翻訳大賞に輝いた木原善彦。その木原が2000年に訳し、このたび改訳復刊された小説が、この作品だ。 古いゴシック様式の館が舞台で、全編のほとんどが、会話で成立している。中心人物は、賄賂のやりとりが暴かれそうになったため自殺した鉱業界の大物の娘エリザベスと、その夫ポール。賄賂の運び屋をしていた彼は、金目当てでエリザベスと結婚したのだ。ところが、遺産はアドルフという男が管理するよう委託されており、手を出すことができない。ヤマ師気質のポールはメディアコンサルタントとしての成功の夢を見て、さまざまな胡散臭い事業の立ち上げに関わって、ちょこまか動き回っている。 ひっきりなしにかかってくる電話。怪しい男たちの来訪。事情が分かっていないエリザベスは、ただただ翻弄され、ポールはそんな妻に苛立ち、ひどい言葉をぶつけ続ける。2人の不毛なやりとりが中心となる物語の中に、館の家主やエリザベスの弟の思惑まで絡んできて、やがて巨大利権をめぐる世界的陰謀へと話は広がっていくのだ。 読み始めは会話中心の語り口にとまどうけれど、愚行につぐ愚行の全容が明らかになっていくにつれ、笑ってしまうこともしばしば。悲劇と喜劇は表裏一体という読み心地が味わえる。描かれているのが今日的な問題でもあるので、初訳の19年前よりも今の時代に響く小説と言え、お薦めだ。 |
No.189 | 5点 | 幽玄の絵師 百鬼遊行絵巻 三好昌子 |
(2020/01/28 10:20登録) 応仁の乱前夜の混迷の時代、将軍に仕える御用絵師の土佐光信が、さまざまな怪異にかかわっていく。 本書は連作のスタイルで進行する。土佐流の天才絵師・光信は「心の壁」を持たないため、人ならぬ存在と通じ合う。冒頭の「風の段」では、造営された室町御所に移った8代将軍足利義政から、判じ物(謎解き)のような言葉を与えられ、絵を描くように命じられる。御所にある梨の木の精の力を借りた光信が、義政の過去と、その胸中を知るのだった。 なぜ義政は、荒廃した世の中に背を向けて、作事作庭に耽溺したのか。義政の乳母の今参局が処罰された騒動には、何が隠されていたのか。作者は史実を絡めながら、義政の抱えた絶望に迫っていく。 以後の話の多くも、時代の争乱の中から生まれた人の心の悲しみが、人ならぬ存在を呼び、奇怪な騒動へとつながっていく。その結果が、応仁の乱であったのだ。実在の絵師を巧みに使い、ホラー小説の手法で時代を見つめた、新鋭の意欲作といえよう。 |
No.188 | 6点 | ミステリと東京 評論・エッセイ |
(2020/01/20 09:38登録) 東京をなんらかのかたちで背景に持つミステリ小説五十数編が、この著者の独壇場だと言っていい東京論の視点から、論評されている。ミステリの謎の面白さと、東京の多彩な奥深さが、平明な文章で解き明かされるのを読むと、ミステリ小説というフィクションと東京という巨大な現実を、同時に楽しむことになる。読んだあと、知っているつもりの東京に改めて目を開かれるなら、目からうろこの東京本ともなるだろう。 江戸から東京まで、その歴史は深くて長く、幅は広い。関東大震災と東京大空襲という二度の壊滅から復興して現在に至り、三度目の壊滅はいつどのように訪れるか、さまざまな予測を前途に持つ巨大都市なのだから、影つまり知られざる闇の部分はどれほどかと、想像力を刺激してやまない。そして本書を読み進むと、東京そのものが、複雑に重層するたぐいまれなミステリであることに、必ずや気付く。 本書を読むほどに、自分の知らない東京が、目の前にあらわれる。一定の方向ないしはパターンにやや偏った東京かと思うが、とりあげられている小説がミステリだから、必然性を伴ってそうなるのだろう。そしてそれらの東京のいずれからも、得体の知れない怖さのようなものが、立ちのぼってくる。 |