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ミステリの祭典

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平均点:6.35点 書評数:221件

プロフィール| 書評

No.41 6点 女刺青師 人形佐七捕物帳
横溝正史
(2011/08/01 17:08登録)
春陽文庫の<人形佐七捕物帳全集>第9巻です。

1.女刺青師 2.からかさ榎 3.色八卦 4.まぼろし役者
5.蝙蝠屋敷 6.舟幽霊 7.捕物三つ巴 8.丑の時参り 9.仮面の若殿 10.白痴娘

全体に、ルーティン・ワークっぽい印象を受けます。あまり出来は良くないけど、それなりにサービスしてくれてるし、まあこの水準ならよしとするか・・・的な読後感。
そんななかにあって、プロットが頭ひとつ抜きんでているのは6ですね。じつは以前に読んだときは、ああ、例のパターンのトリック、ヨコセイ好きだからな・・・くらいに思ってたんですが、真相を承知して読み返すと、これ、ビンビン来ます。
「舟幽霊」というタイトルがほのめかす、怪談めいた“つかみ”から読者を導く先は、たとえばカーの名作「妖魔の森の家」がそうであるように、スーパーナチュラルな怪談とは別種のコワさの領域。
手掛りにもとづく事件の絵解きが、いきあたりばったりで大胆、非情にして狡猾――そんな犯人像を鮮やかに浮かび上がらせます。

あとのお話は、(それなりに凝らされてはいる)ミステリ的趣向より、レギュラー・キャラクターの掛け合いをおおらかに楽しむのが吉、といったところでしょうか。
表題作の1は、同じ彫師の刺青をもつ女たちが次々に変死していく、という「羽子板娘」的連続殺人パターンを長尺でみっちり描きますが、ストーリーを複雑化したぶん、逆に印象が散漫になってしまい、記憶にとどまるのは、佐七の敵役である御用聞き・海坊主の茂平次のサイド・ストーリーだったりします。
捕物くらべという魅力的な設定をいかしきれず失速する(駆け足で予定調和のエンディングを迎える)7なども、本筋より、佐七のほうが嫉妬に燃えてお粂にエキサイトする、夫婦喧嘩もののヴァリエーションの新機軸w で読ませます。

なお、前巻のレヴューでは、「性対象」の描き方を問題点として指摘しましたが、本書でいえば、オシマイのほうの話の「難病」や「知的障害者」のあつかいは、この場合、後味が悪くなるような処理ではないものの、「作品発表当時の時代的背景」を充分に考慮する必要があります。


No.40 5点 The Paddington Mystery
ジョン・ロード
(2011/07/14 12:45登録)
ちと忙しく、読書のはかどらぬ、今日このごろ。
あわただしい毎日のなかでは、日本語の短編集を1冊じっくり読むより、じつは平明な英語の長編を1冊読み切るほうが、楽だったりします。
ミスター教科書英語w のようなジョン・ロードは、そういうときの心強い友なんですが・・・

霧の立ち込める冬の夜、酔っ払ってパディントン郊外に帰宅したハロルド・メリフィールドは、寝室でずぶ濡れの死体(見知らぬ年配の男)を発見し、仰天します。
検視の結果、死因は心臓マヒとわかり、殺人の疑いは消えますが――遺体の身元は判明しません。くだんの男が、なぜ外の堀を泳ぎわたり、メリフィールドの部屋へ窓を壊して侵入し、ベッドの上で死に果てたのかも謎のままです。
世間の好気の目にさらされているメリフィールドに救いの手を差し伸べ、事件の調査に乗り出したのが、大学を辞して悠々自適の日々をおくる、偉大なる数学者、ハロルドの父の友人・ランスロット・プリーストリー博士でした。

スリラー長編で作家生活をスタートさせたロードは、四作目にして天才型の名探偵を創造し、探偵作家として名乗りを上げました。1925年に発表された本書が、その転機となった作です。
謎の提示と複雑なプロットの構築はたくみですが(セイヤーズやクロフツを思わせる要素もあります)、いかんせん長い。
ロードの文章は、筆者と波長が合い、基本的にクイクイ読めるのですが、この作ではまだ言葉かずが多く、効率が悪いんですよね。
古風な大衆小説の側面(のちにプリーストリーの助手となるメリフィールドと、博士の娘エイプリルのロマンス)があるかと思うと、終盤の謎解きに小説全体の30パーセントを使ったりと、バランス配分も悪い。
<不自然な自然死>の真相も、後年の The Claverton Mystery などに比べたら、チョンボみたいなものです。
まあ、習作でしょう。
でも、オマケの楽しみとして、おそらく本書でしか読めない、のちのシリーズ・キャラクターのパーソナル・ヒストリーが描かれており、ロードに関心をもつ者なら、これは目を通さないわけにはいきません。


No.39 8点 クラヴァートンの謎
ジョン・ロード
(2011/07/04 15:21登録)
多作でならしたジョン・ロードは、黄金時代の英国の本格ミステリ作家のなかでも、お気に入りの一人で、ひところ原書を集めたりもしていました。
なかなかのプロット・メーカーで、ミステリの定石をさまざまに変奏して、安定感のある作品世界で楽しませてくれます。エドワード・D・ホックの、たとえばサム・ホーソーン医師ものに感じるような親しみを、筆者はプリーストリー博士のシリーズにもっている、と書けば、なんとなくお分かりいただけるでしょうか。
1933年に刊行された本書は、既訳の『ハーレー街の死』などとともに、海外の評者が推す、ロードの代表作のひとつ。

プリーストリーの旧友クラヴァートン卿は、胃潰瘍を患って自宅療養中だが、順調に回復に向かっていた。
しかし、彼の主治医は、自分がロンドンを留守にするあいだ、プリーストリーに、卿の様子を見ていてくれと頼む。
少し以前、一時的に患者の容体が悪化したのを、医師は砒素の投与によるものではなかったか、と疑っていたのだ。
卿の身の回りの世話をしている姪(もと看護婦)、その母親の霊媒師、ちょくちょく見舞いに顔をだす甥(化学者)、いずれも怪しい。
しかし、事態は急激に次のステージへ。
医師がロンドンを離れた翌日、朝食を終えたクラヴァートンは、激しい苦痛を訴え、そのまま死亡する。
死体は、プリーストリーの信頼する病理学者の手で綿密に解剖されるが、案に相違して、砒素はもちろん、いっさいの毒物は検出されなかった。死因は胃の穿孔――つまり、潰瘍の突然の悪化としか考えられないのである。
やがて故人の遺書が公開されるが、その内容は、親族にとって予想外のものだった・・・

とにかくストーリー展開が快調。
核になるトリック自体は、専門知識に立脚したもので必ずしもフェアとはいえませんが、『ハーレー街の死』同様、肉付けしたプロットに工夫があるので、その点に不満はありません。ロードの巧妙さが発揮されています。
弱点は、犯人に“完全殺人”をやらせてしまった反動が、解決の強引さにつながってしまっていることでしょう。証拠が無いので、罠にかけて自白を促す、というのは、妥協の産物ですね。構成の論理に見合った、解明の論理を用意して欲しかった。
とはいえ、二度にわたる降霊会が独特のムードを醸したりしていて、読み物としては上々です。

(付記)本稿は、もともと原書のレヴューでしたが、翻訳出版が実現の運びとなったため、サイトのルール(「はじめに」参照)に従い、タイトルを邦題に修正しました。(2019.2.23)


No.38 6点 四つの署名
アーサー・コナン・ドイル
(2011/06/13 17:32登録)
英米で同時に発売されていた、Lippincott's Monthly Magazine の1890年2月号に掲載された、ホームズ譚の第二作を、引き続き光文社文庫版(日暮雅通訳)で読み返してみました。

『緋色の研究』が、犯人を罠にかけて急転直下の解決をみせたのち、作者が事件の背景(於アメリカ)をじっくり語り、ホームズの謎解きで一瀉千里に締めたのに対し、本作は、話の推移とともに段階的に推理が開陳され、やがて興味は追跡劇へと移行し、逮捕後に犯人の口から事件の背景(於インド)がざっと語られて幕となります。
「犯人の物語」の混ぜ込みかたは、このほうがスッキリしているとも言えますが、力点の置き方が冒険小説寄りで(クライマックスは水上のチェイス)、「探偵の物語」としては、最後にもうひとつ、何かサプライズが欲しい。
事件の性質も、前作が、ある種の都市型犯罪であったのに比べ、こちらは『月長石』(東洋の、盗まれた宝石の因果噺)と「モルグ街の殺人」(“抜け穴”から、とんでもないものが闖入してくる密室もどき)のちゃんぽんのような古風さで・・・。
個人的に、アチラの小説には珍しい、“屋根裏”のエピソードは好きなんですがね。足跡発見のくだりとか、乱歩が大正14年(1925)に例の短編を書いたとき、潜在意識下には、本作があったと思うのですよ。
あとまあ、『四つの署名』のウリといえば、ワトスンの恋か。なんか、とってつけたようなロマンスで、どうでもいい――とこれまで思ってきたんですが、じつは今回、オシマイ近くのワトスンのセリフが、はじめてストンと胸に落ちました。

 「これで、ぼくらのちょっとした芝居の幕もおりたわけか。
 きみの方法を研究するのも、この事件が最後になるかもしれないよ。(以下略)」

なんだドイル、これを言わせたかったのか。つまりはこれ、ホームズ終了のフラグ。記録者が○○していなくなるから、続きはもう出ませんという、ミステリ史上前代未聞のケース! うん、ドイルはやっぱり、マジメな歴史小説のほうにいきたかったんだなあw
『ストランド』誌にホームズ短編の読み切り連載を始めるのは、この一年後。その心境の変化をアレコレ考えるのも一興です。


No.37 7点 緋色の研究
アーサー・コナン・ドイル
(2011/06/05 18:03登録)
ポオに続いてドイルを読み返そうシリーズw に着手します。
ホームズ譚は、わが心の古里。繰り返し読んだ、延原謙訳の新潮文庫版に愛着がありますが、今回は、光文社文庫の<新訳シャーロック・ホームズ全集>をテクストにします。積ん読本の消化が狙いw
ただし、この日暮雅通訳は、短編集と長編の配列が変則的なため、原作の刊行順に整理して、読みなおしていきます。

というわけで、まず1887年に Beeton's Christmas Annual に掲載された本作。
傷痍軍人のワトスンが変わりもののホームズと出会い、ベイカー街221B で共同の下宿生活をスタートさせるが、相手の職業が、警察のコンサルタントも務める「諮問探偵」であったことから、たまたま発生した空家の怪死事件(外傷のないアメリカ人の死体、壁に残された謎の血文字)に関与していくことになる――という、おなじみの一席。
謎を解き犯人逮捕にいたる、ロンドン篇の第一部(ワトスンの回想録)と、一転してゴールド・ラッシュ以前のアメリカ西部を舞台に、モルモン教徒による王国建設を背景にした、サスペンス調ウエスタンになる第二部(第三者――出版代理人のドイル?――による物語化で、最後にまたワトスンの回想録で締めくくられる)で構成されているのも、ご存じの通り。
ポオ(バディ視点で探偵キャラを描く黄金パターン)とガボリオ(謎解きに「犯人の物語」を付与することで長編サイズをもたせるプロッティング)のブレンドで、オリジナリティはありませんし、構成、推理、フェアプレイ、もろもろの面で前近代的。
しかし、簡潔な文章と的確な人物スケッチ、そして力強いストーリーテリングは、小説全体に活気を与えており、お話の流れを承知していても、読み返すのがじつに楽しかった(日暮氏の訳文も、きわめてクリアな印象を受けます)。
思わず、不朽の名作とか言ってみたくなりますよ。
そんな自分を戒めるためにw 幾つか気になった点を書きとめておきましょう(露骨なネタバラシはしませんが、万一、未読の向きは、以下、スルーされたほうが良からん)。

第一部では――犯人の正体が、あなた誰? 的な“群衆の人”であることは、最初の殺人が、大都会における“職業利用の犯罪”として描かれているだけに、必ずしも欠点ではありませんが、その趣向が次の殺人に活かされていないのは不満(それを改良したのが、エラリー・クイーンの1932年のあの名作か)。
そして何より、犯人がベイカー街221B に誘い出されて逮捕されるプロセスが不自然。だって、以前に新聞広告による罠(仲間の「女装」のエピソードを想起されよ)が実施された、同じ場所なんですから・・・。

第二部のほうは――根本的な問題として、モルモン教という実在の宗教の描き方があります。当初、いろいろ問題のあった宗教にせよ、ここまで邪教(“正統的”キリスト教徒の偏見がコワイ)あつかいするのであれば、名前は変えましょうよ。指導者も、ブリガム・ヤングではなく、ブリガム・キングにするとか。
あと、邪教の神秘を匂わす「密室」の謎が、放置されたままなのは、いかがなものか。そう、カウントダウンする警告の数字の問題です。誰がどうやって出入りして、メッセージを残したのか? つまらなくてもいいから、なんらかの合理的な説明は欲しいですよ(内部の使用人の手引によるものかな・・・とは思いますが、さて?)。

でも。
採点は、なんだかんだいって、エバーグリーンの魅力には勝てずw 7点からのスタートとなります。


No.36 7点 十二ヶ月 栗本薫バラエティ劇場
栗本薫
(2011/05/31 16:44登録)
昭和57年(1982)に、栗本薫が「小説新潮」誌上に、毎月ジャンルの異なる短編を読み切り連載したものを、翌58年(’83)に単行本化したものです。各篇に著者のコメント付き。
内容は――

一月/犬の眼<心理ミステリー> 二月/おせん<時代小説> 三月/保証人<社会ミステリー> 四月/紅<芸道小説> 五月/夜が明けたら<風俗小説> 六月/忘れないで<SF小説> 七月/公園通り探偵団<青春小説> 八月/離魂病の女<捕物帖> 九月/嘘は罪<都会派恋愛小説> 十月/ガンクラブ・チェックの男<本格推理> 十一月/五来さんのこと<私小説> 十二月/時の封土<ヒロイック・ファンタジイ>

ジャンルわけが、いささか苦しいものも混じっていますが、現代ものから時代ものへ、ときにシリアス、ときにコミカル、作品にあわせて文体を変えていく作者の技術には、舌を巻きます。リーダビリティは天下一品。ひと頃の栗本薫が、あふれんばかりの才能に満ちた、小説の達人であったことを示す、絶好のショーケースです。
と、そこまで褒めておいてなんですが、収録作品中、ミステリ系の短編は、必ずしもベストではないw
<お役者捕物帖>の幻の第一作である「離魂病の女」は、密室殺人を扱っているのですが、トリックも謎解きも杜撰で、探偵役のユニークネスしか残りませんし、伊集院大介がダイイング・メッセージに挑む「ガンクラブ・チェックの男」は、ひねりを利かせているも、その可能性を、シロウトに指摘されるまで警察が考慮しないとは、信じがたい。捜査会議とか、してるのかいな?
名探偵ものでない、謎解け型のミステリのほうが、短編らしい味わいで成功しています。
子供を殺された男が妻への疑惑をつのらせていく、サスペンス調の「犬の眼」は、急転直下のクライマックスが呆気ないものの、闇の中に一筋の明かりがさしてくる幕切れが印象的。
新聞の三面に載った「区役所の戸籍係孤独の死」――先輩デスクの示唆を受けた雑誌記者が、その“自殺”を洗っていくと思いがけず浮かび上がって来たものは・・・という「保証人」は、松本清張ふうの“社会派”ではありません。そうではなく、事件を通して“社会”の片隅で生きる人々のドラマを描き出す、およそこの著者らしからぬ、しみじみ路線。しかし、意外に手掛り(小道具)にも留意されていて、これは拾い物です。
タイトルと裏腹に、まったく探偵ものではないのですが、『ぼくらの時代』でおなじみの(?)薫クンが語り手をつとめる「公園通り探偵団」は、デビュー当時の著者を愛する向き(いま、どれだけいるかな・・・)は必読。栗本薫版「ローマの休日」です。お伽噺を成立させる、文章のマジックを堪能あれ。

この調子で全部コメントしたいところですが、あとはもう、完全にミステリじゃないからなあ。
ベタな思い出ばなしに、強烈に感情移入させる「「夜が明けたら」の語りのテクニック。近親者の死を扱って、メメント・モリの想いに駆られる「五来さんのこと」の静謐な感動(著者の没後に読み返すと、なおさら、ね)・・・うん、やはりサイトが違うw
トリを飾る「時の封土」についてだけ、最後に触れておくと、これはかの<グイン・サーガ>の外伝。長大なシリーズに手をつけかねている人(かくいう筆者がそうw)でも、スンナリ楽しめます。異空間に迷い込んだ主人公が、ピンチに立たされるも協力者を得て敵を退け、帰還する――というありがちなホネに、いかに肉付けして盛り上げるか、そしてラストのセンテンスで余韻を残すか。お手本のような出来栄え。いや、面白うございました。


No.35 5点 吸血鬼
栗本薫
(2011/05/25 00:15登録)
最近になって、朝日文庫で復刊されているのに気づき、びっくりしました。いま、これが読めるのか・・・。妙な感慨があり、つい手元の新潮文庫版を読み返す羽目に。

本書には、昭和58年から翌59年にかけて「小説新潮」に読み切り連載された、美貌の若女形・嵐夢之丞を主人公とする、以下の八篇が収められています。
1.瀧夜叉ごろし 2.出逢茶屋の女 3.お小夜しぐれ
4.鬼の栖 5.船幽霊 6.死神小町 7.吸血鬼 8.消えた幽霊

捕物帳の主役に、岡っ引きや同心ではなく、歌舞伎役者を起用したのが特徴のこのシリーズ(事件ごとに、関わりかたに変化をつけていく作者の苦心も読みどころ)、本来の初披露は、昭和57年に、栗本薫が「小説新潮」誌上で、毎月ジャンルの異なる短編を発表する企画の一環として書かれた「離魂病の女」です。
そのパイロット版の好評を受けて(また作者が新キャラに入れ込んで)、本書収録の連作がスタートした次第(振り返るとシリーズの整合性に欠け、浮いてしまったw「離魂病の女」は、短編集『十二ヶ月 栗本薫バラエティ劇場』でしか読むことができません)

さて本題。
舞台上での謎の転落死を扱った1は、シリーズの開幕として、見事な滑り出しをみせます。その見事さは、話術の鮮やかさで、トリックや謎解きに関しては大味なんですがね。
夢之丞を思わせる男が犯行現場から消え失せる2になると、より手の込んだ犯行のぶん、無理もきわだちます。
むしろ、夢之丞びいきの娘の連続殺人に、ミステリとしての工夫は何もないが、ドラマチックな幕切れの演出にすべてを賭けた3のほうに、栗本薫の良さが出ているのは皮肉。
4は、残念ですね。エラリー・クイーンふうの二重構造のプロットで、事件の構図を逆転させる狙いは良いのですが、ダミーの“真相”に説得力が無さ過ぎるのが難。
怪談ばなしを絡めた5は、達者なドラマづくりと雑な謎解きという、まあシリーズのアベレージ。
私がベストと考えるのは6で、彼女を女房にと望んだ男が次々に変死していく、美人小町の話です。細部の小細工(栗本ミステリの弱点)をぼかし、裏設定のインパクトで押し切ることに成功しました。4がクイーンなら、こちらはロス・マクドナルドか。

問題は、このあと。
7と8で、役者になる前の夢之丞の、プライベートの謎に焦点があてられ、シリーズの性格が一変してしまうのです。捕物から伝奇へ。この変化はイケナイ。というか、いくらなんでも展開が早すぎる。
<主人公の過去>という謎を孕んだまま、じっくり何巻かかけて物語を進行させ、大河ドラマ的に構成すべきところ、なぜ最初の作品集でそれをやるか。しかも8は、夢さんが謎の消え方をして、中途半端に終了。続きは長編『地獄島』で――ということになるわけですが、これでは短編集としての評価はキビシイよお。
あとさき考えない栗本センセの判断ミスが、せっかくの魅力的なシリーズ(たりえたもの)を先細りにしてしまった、悲しい例のひとつ、であります。


No.34 8点 不必要な犯罪
狩久
(2011/05/17 22:50登録)
ときは昭和三十年代。
美術大学の講師を務める画家・中杉が、エキセントリックな新入生・雨宮杏子をモデルに描き上げた傑作≪叢林の女≫。
何者かによってアトリエから持ち出されたその絵が、一週間後、パーティーの席で発見された時、画面の裸女には、細密な女性器が加筆されていた!
この奇妙な出来事が契機であったかのように、海辺の町で、容貌の酷似した(しかし性格はまるで違う)雨宮姉妹――<肉体の貪婪>葉子と<精神の貪婪>杏子をめぐる殺人劇が幕を開ける。
まずボート小屋で首をくくられたのは・・・

特異な短編作家として知られた狩久は、男女の愛のさまざまなカタチを、ときに謎と論理の本格パズラー(代表作「落石」)をとおして、ときに性と欲望の官能ロマン(代表作「麻耶子」)をとおして表現しましたが、晩年に公刊された唯一の長編(昭和51年 幻影城ノベルス)である本書は、知性と感性、そのふたつの狩久の系列を一体化した、文字通りの代表作であり、被害者のネーミングをデビュー作の「落石」と重ね合わせているところからも、自身の総決算を意図した作者の意気込みが伝わってきます。
探偵小説として、中核にある、チェスタトン風の逆説が素晴らしい。本書には、大小いくつかのアクロバチックな逆説(たとえば、冒頭の≪叢林の女≫をめぐる、犯人は絵を、返却するために盗んだというくだり)がちりばめられているのですが、物語のなかばで、計画を遂行するために犯人がとらざるを得なかった、ある行為はその頂点であり、謎の解明とともに、長く記憶にとどまります。
そして残る、複雑な読後感。犯行を成就した犯人が堕ちた、究極の孤独。その悲哀。筆者はアガサ・クリスティー後期の傑作『終りなき夜に生まれつく』を想起しました。思い返すたび胸が痛くなる、あの幕切れを。

愛憎劇をおりなす、レッドヘリングの一人一人まで、生きて呼吸しているのが本書の強みですが、あえて注文をつけるなら――
雨宮杏子の書き方に、もう一工夫欲しかった。ある時点を境にした彼女の変化が、心理的な伏線として書きこまれていれば、解決の説得力が一段と増したはずです。とまあ、これは贅言。

2010年に出た『狩久探偵小説選』(論創社)は、幸い好評のようですから、本書もどこぞでの復刊を期待したいところ。
できれば花輪和一の挿絵と、梶龍雄の解説は残して欲しいなあ。


No.33 6点 ポオ 詩と詩論
エドガー・アラン・ポー
(2011/04/28 12:26登録)
ポオの全詩63編と、代表的詩論3編を収めた本書(創元推理文庫 1979年刊)を、なぜここで取り上げるかというと。
詩論のスタイルをとった「構成の原理」The Philosophy of Composition が――

「およそプロットと呼べるほどのものならば、執筆前にその結末まで仕上げられていなければならないのは分かりきったことである。結末を絶えず念頭に置いて初めて、個々の挿話や殊に全体の調子を意図の展開に役立たせることにより、プロットに不可欠の一貫性、すなわち因果律を与えることができるのである」

という文章からもわかるように、散文作品(小説)を含めたポオの創作技法の開陳だからです。およそミステリ(に限らず)の創作や書評を志す人なら、一度は現物に目を通しておくべき文献です。
具体例としてポオが分析している、自作詩「鴉」の執筆過程が、実際その通りであったかどうかは、じつはどうでもいい(あとづけのハッタリがかなりあると思うw)。問題は考え方です。
さて。以下は雑感。
私は詩人としてのポオを云々する能力はありませんが、「鴉」や「アナベル・リイ」のようなストーリー性があるものは、比較的、とっつきやすかったです。
また、もし個人的にポオの一巻本のアンソロジーを編むとしたら、

  ほんの子供の昔から 私はいつも
  他の人達とは違っていた――

で始まる「孤独」を巻頭におきたい誘惑にかられました。
最大の問題作は、詩論パートに押し込まれている「ユリイカ」(ポオの死の前年、1848年の作)でしょう。宇宙の成り立ちを詩人のイマジネーションで解析した(?)一大論文で、その論旨は私の理解を超えていますが・・・ポオの文筆家としての総決算のようなエネルギーに圧倒されます。不幸な人生を送って来た作者が、神とは何かという問題に最終的にどう答を出したか――ポオ・ファン必見です。いや、冗談抜きに、パーソナル・ポオ・アンソロジーのトリは、これしかないです。

しかしまあ、ミステリの書評サイトとしては、「構成の原理」の一点買いで6点、というあたりが、無難なところでしょうw

(付記)当初「評論・事典・ガイド」のカテゴリーに登録されていた『ポオ 詩と詩論』を、管理人さまにお願いして、海外作品の「その他」へ移していただきました。経緯に関しては、「掲示板」の ♯26855 および ♯27119 をご覧ください。(2020.3.29)


No.32 5点 三人色若衆 人形佐七捕物帳
横溝正史
(2011/04/25 12:13登録)
春陽文庫の<人形佐七捕物帳全集>第8巻です。収録作は――

1.万歳かぞえ唄 2.神隠しばやり 3.吉様まいる 4.お俊ざんげ 5.比丘尼宿 6.幽霊姉妹 7.浄波璃の鏡 8.三人色若衆 9.生きている自来也 10.河童の捕り物

あまりパッとしません。
この手の短編集は、巻頭作が面白いとはずみがつきますし(四巻がそう)、表題作が傑作だと印象が強く(七巻は文句なし)、全体のレヴェルは平均的でもトリを飾る作が余韻を残すと、点数がアップして感じられます(二巻ですね)。
本書の場合、巻頭の1と表題の8がダラダラと長く、トリの10も後味が悪い。三重苦ですw
気をとりなおして、しいて推薦作をあげるとすれば・・・
大店の一人娘の懐妊が発覚し、責められても相手の名を告げぬまま、彼女は男児を出産して死亡するが、その後、我こそ父親なりと三人の男が名乗り出てきて、という騒動記の3でしょうか。物語(ミスリード)と謎解き(手掛りの置き方)のバランスはいいほうです。
しかし、このパターンには、すでにレヴューした「くらやみ婿」という極めつけがありますから(発表は「吉様まいる」のほうが先とはいえ)、比べるといささか粒が小さい。
説得力にはひとまず目をつぶり、ミステリ的な趣向からピックアップすれば、神隠しにあった娘が次々に殺されていく2と、七年の時を隔てて怪盗が暗躍する9は、事件の連続性に横溝正史らしいアイデアを見ることができます。とくに2は、鬼畜のような犯人像が良くも悪くも強烈。
犯人像――と書いたついでに。うん、これはやはり書いておこう。

本書の読後感を芳しくないものにしている一因に、一部の作品の性対象の問題があります。
ぶっちゃけ、ホモとレズなのですが、これを作者は、単におぞましい行為、ゆがんだ関係と決めつけて、悪人の造型や事件の異常性の演出に利用しています。
私は同性愛支持者ではありませんが、愛のカタチとして理解する、もう少し公平な視点もないと(行き過ぎると、栗本薫になってしまうとはいえw)、興味本位の通俗的な意匠にとどまり、作品の価値を下げるだけに思えます。


No.31 7点 十二人の怒れる男
レジナルド・ローズ
(2011/04/12 16:58登録)
アメリカの映画監督シドニー・ルメット死去(享年86)のニュースが伝わってきました。
氏の代表作は『オリエント急行殺人事件』――ではなく、やはりなんといっても、1957年制作の『十二人の怒れる男』。なので、追悼の意味をこめて手元のビデオを見返すとともに、昔、買ってきたまま“積ん読”の象の墓場に消えた、レジナルド・ローズの戯曲版を捜しだしてきて、読了しました。
額田やえ子訳で1979年に刊行された、劇書房版です。

父親殺しの容疑で起訴された、不良少年の審議が終わり、裁定を委ねられた陪審員たちが、陪審室へ戻って来る。状況証拠は圧倒的に被告に不利であり、評決は簡単に一致するかに思われた。しかし、たった一人の勇気ある発言からドラマが動き出し、明白に見えた事件が様相を変えていく・・・

本格ミステリの尺度から評価すれば、手掛りのあと出しに問題はありますが(事前に裁判の過程を視覚化すれば、フェアプレイは実現できるが、それではこの、時空間限定型の緊密なドラマ構成が崩れてしまう)、その弱点を、老人陪審員の観察力・洞察力という設定の工夫でカバーし、そこから主人公の推理につなげる流れには、知的な興奮があります。
額田氏によるセリフの翻訳はとても読みやすく、字数制限のあるビデオの字幕翻訳より、ディスカッション・ドラマの面白さを詳細に伝えてくれ、作品理解が深まりました。
また、番号でしか表記されない陪審員たちの個性を、セリフだけで書き分けていく作劇の技術も、訳文の良さで際立ちます。
しかし。
このテキストには、江守森江さんもレヴューでコメントされているように、大きな問題があって・・・(最低でも8点は付けたいのですが、それゆえの減点です)

『十二人の怒れる男』は、もともとTVドラマとして、1954年に制作されました。そしてその脚本を担当したローズが、翌55年に、これを舞台用の三幕劇に脚色したのが、本書の「原作」に相当します(巻末の編集部の「付記」の文章内容とは、異なりますが、調べた結果、これが正しいと考えます)。
そして前述のように、「十二人」は57年にルメット監督の手で映画化され、評価を決定づけますが、その脚本もローズの手になるわけで、訳者の額田氏は<劇書房ベストプレイ・シリーズ>の一冊として本書を訳すにあたり、舞台用台本に、部分的な相違のある(あって当然ですが)映画シナリオをおりまぜてストーリーを再構成する、折衷版としました。
カバーのデザインやスチール写真の利用からも、“名作映画の舞台化”のイメージで本書を売るための、妥協であることは明白です。
額田氏による(編集部主導の)「脚色」を、原作の改竄と非難するのは酷でしょう。しかし、オリジナルに即した上演台本の新訳を読んでみたいと思うのも、事実です(ハヤカワ演劇文庫あたりで、どうか?)。
そして、ローズの最終稿ともいえるシナリオの翻訳も、それとは別に読めるようであってほしい。
『十二人の怒れる男』は、単に“往年の名画”にとどまらず、ミステリ劇の構造とテーマ性の融合において、いまなお新しく(裁判員制度の導入された日本では、とくにね)、また汎用性の高い、現代の古典なのですから。


No.30 9点 ポオ小説全集4
エドガー・アラン・ポー
(2011/04/07 21:32登録)
1843年からポオ急逝の年49年までの、充実の短編20作と、随筆「暗号論」(41)を収録。
ポオを推理小説の父として語らしめる5編のうち――

「黄金虫」(話者の目を通した、主人公の雲をつかむような行動の数かずから、一転、合理的な推理の開陳へ移行する演出の妙)

「「お前が犯人だ」」(意外な○○テーマより、どことなく不気味な、記述者即○○の趣向のほうがアトを引く、変化球。これと「黄金虫」をかけあわせたのが、乱歩の「二銭銅貨」ならん)

「盗まれた手紙」(およそリアリティのない逆説論理を、最適化された舞台と言葉の魔術で普遍化した、現代の寓話。デュパンものの白眉にして、短編ミステリの理想形のひとつ)

以上3編を収めるほか(「モルグ街の殺人」と「マリー・ロジェの謎」は前巻に収録)、巻末解説がわりに、江戸川乱歩による作家論「探偵作家としてのエドガー・ポオ」が配されています。
また怪談として一級品ながら、猫の祟りを描くと見せてサイコ・ホラーの味わいが濃厚な「黒猫」(併録の「天邪鬼」と合わせ読むと、そのへんの現代的センスが実感できます)、その「黒猫」と共通するギミックを、怪奇テイスト抜きに、人間のコワさを描き出す手段に利用した「アモンティリャアドの酒樽」(結びの、ふたつのセンテンスが絶妙)なども、ミステリ・ファンの琴線をかき鳴らします。
この調子で書いていくと、きりが無いw

収録作全体の素晴らしさは、ゆうに10点満点なのですが、総括的な解題が無いことと、たびたび指摘してきた編集の杜撰さが、この巻にも依然あることから、1点減点しました。
具体的にいえば・・・
実際には1846年作の、幻想ミステリの小品「スフィンクス」が、誤って49年の初出とされ、小説パートの最後に置かれている!
ポオによる、49年作の最後の散文小説は、ニューヨーク郊外で道に迷った旅人が、自然の美の中にある住居を訪う「ランダーの別荘」なのです。
これは、直接の関連はないものの、併録の「アルンハイムの地所」(巨万の富を相続した芸術家による、理想の人口庭園創造のお話)の続篇と銘打たれており、およそストーリーらしいストーリーの無い不思議な味わいと、両作のタッチの違いが、ついポオの“晩年”の境地を深読みさせる小説なのですが・・・
サイトの趣旨から逸脱しそうなので、自粛しますw

創元推理文庫のこの<全集>は、素晴らしい企画でした。
しかし、編集に、その後の研究や新しい発見を反映した、全面的な改定版を出すべきだと、あえて提言します。


No.29 5点 双頭の蛇
栗本薫
(2011/03/30 12:05登録)
息抜きに読む、栗本薫。
講談社の<推理特別書き下ろしシリーズ>の第1期分として、1986年12月に上下巻で刊行された、ノン・シリーズ長編です。
余談ながら、この叢書の1期は中味が濃かった。
『そして扉が閉ざされた』『異邦の騎士』『伝説なき地』・・・とラインナップの一端を振り返るだけで、ため息が。
じつは当時、栗本薫の本書は、ひとりだけ上下巻だし(なんちゅーワガママな作者や)、内容も地味でつまらなそうなのでスルーしてました。ファンだったのにw *
今回、積ん読の講談社文庫・上下巻にて読了した次第。

問題をおこして地方に左遷された、はみだし刑事・沖竜介。新しい赴任地・平野は、旧弊で閉鎖的な町だった。保守派と改革派が対立するなか、一人の新聞記者が殺される。わが道を行く沖は、捜査班をはずされる羽目になるも、事件の核心に迫り・・・

主人公の名前は、『行き止まりの挽歌』(レヴュー済み。破綻しまくりながらラストだけは傑作の、栗本流ノワール)の梶竜介と一字違い。あれほど凶暴ではありませんが・・・脳内で姉妹作認定。
エラリー・クイーンの「ライツヴィル」を意識して考えた(「文庫版あとがき」)という、平野の町は、丁寧にうまく書けています。かの『災厄の町』が、町全体で、他所者や失敗したものを追いこんでいったように・・・「白血球が外部から入って来た菌を食っちまう」ような、生命ある町(共同体)を、著者は描ききります。800枚を費やして。
ハイ、ミステリとしては冗長ですw

事件の中心にいるのは、名家の御曹司。もちろん美形。カリスマ。でもって腹黒(いちおう、イマイチな作品タイトルが象徴している人物)。
彼に想いを寄せられているのが、「美少女の眼」をもつ、平野署のシャイな若手刑事。人気者。御曹司のアリバイの証人となる。
そしてストーリーは後半、動機の謎をはらみながら、沖による御曹司のアリバイ崩しへ収斂していく・・・
元祖・腐女子の入魂の警察小説をくらえ!

で、と。
アリバイ・トリックなんですがねえ。辻褄を合わせるのに精一杯で、ツッコミどころは満載。ここでは、ひとつだけ。
証人は刑事でしょ? 当然、あとで死体の○○○を見るでしょ? 気づかれると思わないの、大丈夫なの?
「文庫版あとがき」を読むと、本作は、著者がデビュー前に趣味的に書いていて未完成だった長編に手を加え、完結させたもののようです。ファンへ向けた、習作のお蔵出しと考えれば、それなりに読めるし、まあアリか(しかし、それをメジャー出版社の書き下ろし企画でやるか、普通w)。

*追記
講談社の<推理特別書き下ろし>の第1期では、船戸与一の『伝説なき地』も上下巻でしたね、思い出しました。こちらは力作感がヒシヒシ伝わって来ましたが、単に好みの問題でパスし、今日にいたっています。


No.28 8点 ポオ小説全集3
エドガー・アラン・ポー
(2011/03/27 12:53登録)
1841年の「モルグ街の殺人」から、44年の「早まった埋葬」まで17篇を収録。なのですが・・・43年作の「黄金虫」と「黒猫」は次巻にまわされています。
この創元の<全集>は、基本的に編年体の配列をとりながら、あらためて見直すと、こういう“編集上の配慮”が目につき、一歩ゆずってそれを良しとするにしても、なんら断り書きが無いのは不親切に思います。
また、各巻末の「収録作品の原題と発表年月」リストも、掲載誌を挙げていないのは、資料性に問題があります。
たとえば本巻、「マリー・ロジェの謎」を(42年12月)で片づけてはイケナイ。Lady's Companion の42年11月、12月、翌年2月号にわけて掲載された(モデルとした事件の新発展にあわてたポオが、途中、連載を一回休んで構想を練り直した経緯がある)ことは、作品論的にも重要なのですから。

あだしごとはさておき。
「モルグ街」は、フェアプレーの不徹底という瑕疵はあっても、事件の異常性と真相の意外性の落差が、やはり見事です。
作者が意図した、推論行程の面白さがかすんでしまうくらいにw(推理とか抜きに、「モルグ街」のネタを拡大してエンタテインメント化したのが、「キ○グコ○グ」ならん)。 プロットのパーツとしてしか人物を造型できないポオの欠点も、分析能力の権化のようなデュパンの創造では、プラスに転じています。
続篇の「マリー・ロジェ」は、推論面をパワー・アップしたものの、肝心のネタがつまらない(時事ネタが風化した)ため、退屈な出来に。アームチェア・ディテクティヴで長丁場をもたせるための、工夫もたりません。やはり、ポオは連載には不向きな体質だなあw
しかし、散文のきわみのような「マリー・ロジェ」をものすいっぽうで、42年には、詩的というか幻想的というか、そのきわみのような「赤死病の仮面」を書きあげているあたりが、著者の天才たるゆえんでしょう。この振り幅は凄い。
ただ、ミステリ的なホラーとして、個人的な好みからいえば、サイコ野郎の一人称語り「告げ口心臓」だなあ。説明されていない部分をこちらが想像で埋めようとすると、俄然、怖くなってきます。
圧倒的な危機から、知力で脱出をはかる(はかろうとする)、「メエルシュトレエムに呑まれて」と「陥穽と振子」も、ミステリ・ファンにはお薦め。
あ、お笑い系のオチが炸裂する「眼鏡」もお忘れなく。
歴史的価値を抜きにしても、収録作全体のレベルは高いです。


No.27 7点 ポオ小説全集2
エドガー・アラン・ポー
(2011/03/19 13:05登録)
ミステリの楽しみを共有できることを信じて・・・いつものように書きます。

<全集1>が21篇を収録していたのに対して、本巻の収録作は――
1.ナンタケット島のアーサー・ゴードン・ピムの物語
2.沈黙
3.ジューリアス・ロドマンの日記
4.群衆の人
5.煙に巻く
6.チビのフランス人は、なぜ手に吊繃帯をしているのか?

全ページの半分以上を占めるのが、主人公が密航していた船で叛乱がおき、船は漂流をはじめ・・・という海洋冒険小説が後半、南極を舞台にした幻想小説にスライドする1。異様な迫力に満ちていますが、統一感はなく、結末も尻切れとんぼです(その未完成感が後続を刺激するのか、ラヴクラフトやジュール・ヴェルヌがこの“続編”を書いています)。
同じく道中記にカテゴライズできる3(副題は、文明人によってなしとげられたる最初の北アメリカ・ロッキー山脈横断の記録)も、中編サイズの力作ですが、これまたストーリーなかばで中絶したようなエンディング。
この2作を読むと、やはりポオは生粋の短編職人で、長い話の構成力は無かったのかな、と思わせられます。ともに、主人公を次々と危機が襲う、そのエピソードは面白いのですが、肝心の旅の終わり(物語の解決部)に何もカタルシスが無いのは、物足りません。
また、文章の密度に関しても、計算違いがあるような。とくに1に顕著なのですが、長めのお話ということで、従来以上に説明的な文章をこと細かに盛り込むサービスぶりで、必然的にひとつの段落が長くなっています。長編の“面積”を短編(以上)の“密度”で埋められたら・・・リーダビリティはあがらないし、読んでいて疲れるだけです(学生の頃は、背伸びしてましたから、その“重厚さ”を有難がってたようなw)。
完成度は、残る4作のほうが上です。
異界のアフリカで、悪霊が神をしりぞける、ファンタスティックな寓話の2、ユーモア系の5と6(ベタなオチの後者より、シニカルな前者が好み)、そして白眉は、都市型ミステリ(にして心理的ホラー)の雛型といえる4でしょう。
初読時より、この「群衆の人」の不気味さがはるかに増して感じられることに、驚かされました。風俗的な描写は古びても、属性の集合体として群衆をとらえ、そこから匿名の個人をクローズアップする狙いと効果は、いささかも古びていない、どころか、きわめて現代的(いまの作家であれば、問題の人物を、老人ではなく青年に設定するか?)。1840年の作ですが、普遍性という点では、ポオの数ある傑作のなかでも、屈指のものだと思います。


No.26 6点 ポオ小説全集1
エドガー・アラン・ポー
(2011/03/08 16:12登録)
<人形佐七捕物帳>を取り上げていくうえで、比較の意味でも、岡本綺堂の半七は押さえておいたほうがいいよな、でも半七をやるなら、影響を与えたホームズ譚にもう一回目を通しておきたいし、どうせドイルに取り組むなら、まずポオからきちんと読み返して・・・と、かなりまわりくどい思考過程をへて、創元推理文庫版の、編年体の<全集>再読を決意しましたw(正直、私はドイルのように、平明な文章でムードを盛り上げるストーリーテラーが好みで、ポオやチェスタトンの凝った文体は苦手なのですよ)
mini さんの行き届いたレヴューがあるので、あらためて書く事も無いようですが、ま、そこは私なりに。

1巻は、1833年の海洋奇談「壜のなかの手記」から、40年の、ペテン師の職業遍歴譚「実業家」までの21篇を収録(初出のチェック・ミスがあり、本来なら1832年作の「メッツェンガーシュタイン」が巻頭に来るべき――とか、いくつか収録順に問題はあるのですが・・・)。
作品系列は、シリアスな怪奇幻想譚とシニカルな“ほら噺”に、大きく二分されます。
最良の成果は、前者に属する「アッシャー家の崩壊」と「ウィリアム・ウィルソン」でしょうが、再読して楽しかったのは、後者――作者と読者の対話形式による、奇妙な時代劇中継「四獣一体」や、悪魔との契約もののパロディ「ボンボン」などですね。
ガチガチのミステリにしか関心が無かった中学生時代には、このへんの“味”はわからなかったんだなあ。
おバカな奇想という点では、海野十三的なw「使いきった男」も光りますし、19世紀の元祖ハードSF「ハンフ・プファアルの無類の冒険」にしたところで、メインのネタが、気球による月旅行w ですからね、ほら噺のお仲間ですよ。
で。
集中、本格ミステリの始祖としてのポオの片鱗を窺わせるのは、やはり1836年の異色作「メルツェルの将棋差し」ということになります(厳密にいえば、これは小説ではなく随筆ですがね)。しかし、実在した、チェスをするロボットの謎を、他ならぬポオ自身が明快な推論で解き明かしていくわけで、面白いことは面白いのですが、読者はただ作者の報告を聞かされているだけ、といった感があります。
謎に当惑する者と、これを解体する者を分離し、前者の視点で知的サスペンスを高める――という小説上の工夫にポオが思いいたるまでの、試作品というところでしょうか。
そう考えると、この作のあとに、ホラーの当事者と話者を切り離した「アッシャー家の崩壊」(39)がある意味が、クローズアップされてくる気がします。

採点は難しいですね。
収録作の水準は高いのですが、ポオの入門書としては、いささかとっつきにくい。
昔、この<全集を>通読したときには、尻上がりに面白くなっていった記憶があるので、まずは6点からスタートしましょう。


No.25 6点 漂う提督
リレー長編
(2011/02/27 12:37登録)
ゲイロード・ラーセンの『ドロシーとアガサ』のなかで、ディテクション・クラブ編の本書に言及があったので、何の気なく、ほぼ30年ぶりに再読(昔は「ミステリマガジン」の分載で。今回はハヤカワ・ミステリ文庫版で)していたら、kanamori さんの書評がアップされて、ビックリしました。

リンガム村の土手のあいだを流れ、やがて海にそそぐホウィン川は、潮流の影響で、一日に二度、大きく流れを変える。
ある早朝、満潮に乗って漂うボートの中で、最近、村に越してきた退役軍人の刺殺体が発見される。
ボートは、川をはさんで被害者の家の向かいにある、牧師館のものなのだが・・・さて、犯行現場はどこで、犯人はなぜ死体をボートに載せて流したりしたのか?

というお話を、リレー形式で、打ち合わせ無しに(各自、自分なりの解決案――小説本編のあとに、まとめてオマケとして掲載――を念頭に置きながら)展開させていったメンバーは、順に以下の通り。
G・K・チェスタートン(最後に「プロローグ」を執筆)、C・V・L・ホワイトチャーチ、G・D・H・&M・コール、ヘンリイ・ウェイド、アガサ・クリスティー、ジョン・ロード、ミルワード・ケネディ、ドロシイ・L・セイヤーズ、ロナルド・A・ノックス、F・W・クロフツ、エドガー・ジェプスン、クレメンス・デーン、アントニイ・バークリイ
クラシック・ミステリ・ファンにとっては、まずはオールスター・キャストといっていいでしょう。
とはいえ連載で読んだときには、堂々巡りのストーリーが間延びして感じられ、やけに退屈した記憶があります。優雅な遊びとして、悪い印象はありませんでしたけどね。
読み返してみても、お話としては率直に言って凡作レヴェルで、結局、最後にきちんとまとめてオチをつけたバークリイの剛腕が光る、という評価につきるのが正直なところです。
しかし。
今回、各章を読んだあと、その執筆者の「予想解決篇」にじっくり目を通してから、あまり間をおかず次の章に進む、という読み方に徹したところ、“真相”の推移がゲーム・ブックのように楽しめたのは意外でした。これは本筋よりも、むしろそこを楽しむ本なのですね(ちなみに「解決篇」のなかで、いちばん驚かされたのがクリスティーのもの。しかし・・・無茶だわこりゃw)
全体を通して印象に残った場面は、セイヤーズの担当分で、潮流問題に頭を痛めたラッジ警部が岸辺に腰をおろし、川を眺めているところ。頭の中で歌が流れ始めます。

 お爺さん川(オールドマンリヴァー)よ、ああ、お爺さん川
 何か知ってるはずだけど何にも言わない

そして、いろいろな川の特徴をあげてぼやき始めます。

 ――ところが、このホウィン川ときたら、何やらこそこそとしてばかりいるとんでもない代物で、誰の役にも立たないのだ。満潮と干潮で三フィートも水位が日に二回も変る川なんて、何の存在理由があるというのか。

同感ですなあw
最後に、訳者あとがき(中村保男)では、本書を1932年作としていますが(扉うらのデータ記載もしかり)、それはアメリカ版で、英本国では31年に出版されています。同様に、ディテクション・クラブの結成年を1932年としているのも誤りで(30年説が有力)、将来、重版される機会があれば訂正が必要です。


No.24 8点 くらやみ婿 人形佐七捕物帳
横溝正史
(2011/02/22 10:15登録)
春陽文庫の<人形佐七捕物帳全集>全14巻の、ちょうど半分にあたる7巻目。その収録作は――

1.春姿七福神 2.血屋敷 3.女虚無僧 4.武者人形の首 5.狸御殿 6.化け物屋敷 7.雷の宿 8.鶴の千番 9.くらやみ婿 10.団十郎びいき

表題作の9が傑作です。
呉服屋の総領娘を孕ませたのは誰? という、書きようによっては煽情的な謎を、ロマンチックな演出(町中あかりを消して真っ暗になる、くらやみ祭りというセッティング、お堂の中の濡れ場を印象づける、蛍火のイリュージョン)で昇華し、そこに新たな謎をかけ合わせていく展開の妙。意外性に富んだ、その構成と話術は、佐七シリーズの最良のものだと思います。十年ほどまえ、わけあって佐七全話を通読したさいも好印象で、細部までストーリーを記憶していましたが(忘れている話のほうが多いんですよ)、場面場面が生き生きしているので、読み返してもじつに楽しかった。
芝居のヒイキ筋の対立を、タイム・リミットのある謎解きでまるくおさめる、人情噺としての後味の良さでは、10もいいセンいってますし、トリッキーな趣向では、金ピカの御殿で美人のお酌で酔いつぶれた辰と豆六が、目を覚ましてみると、御殿はボロボロに立ち腐れていた――という怪異からスタートし、和風のダイイング・メッセージを盛り込んだ殺人につなげる5が、要注目です。
表題作のみで判断すれば10点満点でもO.K.なのですが、本全体として見ると、最初のほうの作が、若干テンション低めで説得力に欠けることを考慮し・・・それでも堂々の8点認定。お薦めの巻です。


No.23 7点 ドロシーとアガサ
ゲイロード・ラーセン
(2011/02/15 13:25登録)
ミステリ作家ドロシー・L・セイヤーズが帰宅すると、留守のあいだに訪ねてきた客が、不可解な彼女宛ての遺書を残して拳銃自殺をとげていた。
警察の捜査がはじまるが、死者の身元はなかなか判明しない。
E・C・ベントリー、A・A・ミルンら、セイヤーズの同僚たるディテクション・クラブのメンバーが探偵ごっこに乗り出すが、大事な宗教劇(「汝の家を思うあまり」)の上演をひかえナーバスになっている、セイヤーズの逆鱗に触れる。
しかし、なにやら彼女の言動にはおかしなものが。
引っかかりを覚えたアガサ・クリスティーが、ひとり独自の調査を続けていくうちに、事件は殺人、それも連続殺人の様相を呈していき・・・

実在した人物と伝記的事実を背景にして紡ぎあげられた、ゲーム的フィクション。宮脇裕子訳で「EQ」1993年1月号と3月号に分載されたのち、光文社文庫に入りました。
アメリカ人作家ラーセンによる、1990年作の本編は、典型的なバディ(相棒)ものです。
性格の異なる二人が、一つの事件に巻き込まれ、反発しあいながら協力するうち、次第に理解し合うようになっていく――黄金パターンですね。
二人のヒロインは、いかにもセイヤーズらしく、またクリスティーらしくキャラが立っていますし、セイヤーズの私生児問題やクリスティーの失踪事件を効果的にストーリーに織り込んでいく腕は、凡手ではありません。
ミステリ的なプロットは、――まあまあかなw 適度に意外で適度に伏線も張ってあるものの、前段、セイヤーズの夫の拳銃の行方に思わせぶりなスポットを当てながら、途中からそれがウヤムヤになるあたりが象徴するように、大味です。
考証面のミスは、突っ込みどころとして、むしろミステリ・ファンのお楽しみかもしれませんが(たとえばチェスタトンのあとをうけた二代目ディテクション・クラブの会長は、アントニイ・バークリーではなく、E・C・ベントリーだろ、とかね)、ひとつどうしても看過できない点が。
背景となる年代は、明記こそされていませんが、「一年前に、チェスタトンは神に召され」という記述と、セイヤーズの宗教劇の執筆年ということで、1937年に特定されます。
ところが、謎解きのための手掛りとして作者が用意した、ある有名な小説は――この年にはまだ発表されていないのですよ。
これはマズイ。使いたい気持ちはわかるのですが、修正しないと、この小説のプロットは成立しなくなります。

といった野暮はさておき。
「EQ」のバックナンバーを整理しがてら、ひさしぶりに読み返してみて、セイヤーズへの興味が再燃してきました。
そちらも再読してみようかしらん。


No.22 7点 殺人をもう一度
アガサ・クリスティー
(2011/02/12 07:51登録)
クリスティー文庫未収録の、長篇戯曲を読もうシリーズw 最終回。
すでに取り上げた戯曲「そして誰もいなくなった」、「ナイル河上の殺人」(「宝石」昭和30年6月増刊号のレヴューを参照)、戯曲「ホロー荘の殺人」(こちらは「ミステリマガジン」2010年4月号のレヴューにて)と違って、タイトル――原題 Go Back for Murder ――からは、“原作”が特定しにくいかもしれませんが――

青年弁護士ジャスティンの事務所を、十六年前に起きた父親の毒殺事件(母親が有罪となり、服役中に死亡)を再調査し、真実を明らかにして欲しいという女性、カーラが訪れる。
大人になったカーラが読むよう、母が彼女に遺した手紙には、自分が無実であることが断言されていた。
事件に関わったのは、カーラの両親以外には五人。
ジャスティンは、カーラとともにそれぞれの人物を訪ねて行き・・・

と紹介すれば、ピンと来る向きも多いかもしれません。クリスティーの“回想の殺人”ものの皮切りにして、屈指の名篇『五匹の子豚』(1942)を、著者が60年に劇化したものです。
深町眞理子訳で、まず「EQ」1986年1月号に掲載されたのち、光文社文庫に編入されました。
例によって、ポアロをはずして脚色するにあたり、容疑者を童謡の歌詞になぞらえ“五匹の子豚”に見立てる趣向も削ったため、小説版の題名を流用できなくなったわけですが、いたって平凡な改題のため、損をしていると思います。
関係者の話を聞いて回る第一幕(五場)と、犯行現場の家に彼らを集め、話を突き合わせて(暗転を利用して過去パートをフラッシュバックする演出あり)謎解きをおこなう第二幕の、計六場で構成。
うち、第一幕の脚色は文句ありません。十六年前の事件を動かしようのないものと考えていたジャスティン(彼の亡父が、カーラの母親の弁護に立った)が、調査に乗り出す段取りに工夫があり、次々に容疑者を紹介していく巡礼形式のストーリーにも、起伏があります。
問題は、第二幕。小説版では、関係者五人の手記を通して、読者は複数の視点から事件を眺め、手掛りを検討することが出来るのですが、それが単一の“再現ドラマ”に置換され、たったひとつの発言の不自然さに着目することで、即、真相の提示となる(原作を特徴づけていた、さまざまなダブル・ミーニングの技巧が、伏線として機能していない)ため、呆気なさは否めません。
また、小説では結末の謎解きで浮上する、真犯人のある行為が、フラッシュバックによる再現ドラマの段階で、観客の前に示されるため、動機はともかく機会の点でその人物に犯行が可能であったことが、まるわかりになってしまうという弱点もあります。
ストーリーの単純化にともない、原作の意外性と説得力が大幅にダウンしてしまった、探偵劇としては残念な例ですね。
メロドラマとして見た場合、ヒロインの決着は、ウェルメイドに仕上がっており、『五匹の子豚』とは違った味わいのエンディングを楽しめます。

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