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Tetchyさん
平均点: 6.73点 書評数: 1567件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.50 7点 少し変わった子あります- 森博嗣 2023/02/16 00:32
何とも不思議な小説である。
毎回行くたびに場所が変わる店名のない料亭。そこは女将だけが応対し、1人が切り盛りしているように思える。
そしてそこで毎回異なる女性と主人公が食事をする。たったこれだけのシチュエーションの話が繰り返される。
水戸黄門の方がもっとヴァリエーションあると思ってしまうほど毎回同じ展開なのだ。

しかしこれがなぜか面白い。
そして読んでいる私もこんな料亭があれば行ってみたいと思わされるのである。

そんな料亭での一番のご馳走であり、読みどころであるのは小山が毎回一緒に食事をする女性たちなのだ。
それは大学生のような普段着の女性だったり、眼鏡をかけた知的な若い女性だったり、30を越えた女性だったり、地味な女性だったり、異国風の女性だったりと様々だ。そしてその誰もが接客を仕事にしているような女性ではないように見えるのが共通している。
最初のうち、小山は現れる女性たちの食事をする美しい所作に見とれてしまう。いやそれもまたご馳走の一部として味わうのだ。

ただそこにいるだけ。ただ一緒に食事をしているだけ。ただ一緒に月を見つめるだけ。しかし相手が洗練され、無駄がなく優雅であるならばもうそれだけで胸がいっぱいになり、心は、魂は充足されるのである。
私は思わずため息が出た。なんて素晴らしいのかと。
この究極なまでに研ぎ澄まされた無駄を一切排除した能弁な沈黙と空間の濃密性に羨ましさを感じられずにはいられなかった。

本書は森氏の思弁小説だろう。
小山と磯部と云う2人の大学の教官の口を通じてその時々の考えが述べられる。そしてその考えに呼応するように女将の店で女性に遭い、2人で過ごした時間や聞いた話を思い出し、思索に耽るのだ。
時にはあまりに色んな話を聞き過ぎてあれは幻だったのかと思ったりもする。多すぎる話は逆に印象に残らないということだろう。

この小説のシチュエーションが実に面白かったのはまさに私の趣向にマッチしていたからだ。様々な女性の様々な性格、様々な生き様や様々な事情。それらを共有する時間のなんと愉しいことか。そして時に心揺さぶられることのなんと愉しいことか。

女性と食事をすることの愉しさと怖さを知らされる小説だ。
できれば怖さは知らぬままにいたい。そう、夢は夢のままが一番いい。ただ私が感じている孤独は小山のそれと同種であると自覚しているだけに多分私もいつか消えてしまうかもしれない。

ま、それもまた一興か。

No.49 7点 レタス・フライ- 森博嗣 2022/09/07 00:05
森氏の第5短編集。森氏の短編は長編に比べて抒情的な作品が多く、また作中で解かれない謎が隠されている。はてさて今回はどうだろうか。

5冊目となる本書は上に書いたように既に4つのシリーズを経ており、従って収録された短編もそれらのシリーズキャラが登場するものが増え、それぞれのシリーズのボーナストラック的な内容となっており、ファンには嬉しい贈り物となるだろう。
従って本書では10作品中シリーズ物の短編が2つ入っており、従来入っていたS&Mシリーズ物はなく、VシリーズとGシリーズ物になっている。但しGシリーズは犀川と萌絵が再登場しているシリーズなのでどちらかと云えばS&MシリーズはGシリーズに移行したと考えるのが妥当だろう。
そして最後の「ライ麦畑で増幅して」はネタバレサイトでこれが後のXシリーズに出てくるキャラクタ2人だというのが判明した。またもこの短編集は別のシリーズへの橋渡し的役割を果たしていたわけだ。

本書のベストを挙げると「コシジ君のこと」と「刀津野診療所の怪」になる。
前者は実にシンプルで泣かせに来ているのは判っていても、こういう話に私は弱い。コシジ君をかつての自分の同じようなクラスメイトに重ねてしまうからだ。そして彼が夢の中でも冴えない風貌で冴えない仕事を一生懸命している姿が主人公に自分のことを訴えかけているように思えた。
後者はもうこれまでのシリーズが見事なまでに結びつく、特にまだVシリーズとS&Mシリーズの関係性を知らなかった頃に読んだ短編「ぶるぶる人形にうってつけの夜」が伏線となっていたことが判明するこのカタルシスが堪らなかった。森博嗣氏はシリーズ読者を裏切らない!いや寧ろ幸せにしてくれる!そう感じた短編だ。

あと珍しく犀川の駄洒落が聞いていた。
「ふうん」「何ですか、ふうんって」「漢字変換する前」は実に見事!爆笑してしまったし、佐々木睦子の「カナダの首都みたいな顔をしている」「トロントしている」も誤ってはいるが実に面白い!

とまあ、さすがに短編集も5集目になると1集目のようなそれぞれの短編に込められた濃度の高さは低くなったが、逆にここまで来るとシリーズ読者、いや森作品読者にとってのサプライズと思いがけないプレゼント、即ち読んできた者だけが判るご褒美をシリーズの短編で感じるようになった。

しかし毎回思うが以前書かれた作品の伏線が数年後に活かされ、そしてそれらが矛盾やパラドックスなく繰り広げられる物語世界の広さと深さを思い知らされる。

森作品は1作1作のミステリの深度は浅いが、作品を重ねるごとに著作全体に仕掛けられた謎やリンクが立ち上り、むしろそちらの深みこそが醍醐味だろう。森作品は1作1作がコラージュの1片1片に過ぎなく、それらが集まって壮大な絵が描かれるのだ。

読めば読むほど天才性が際立つ作家だ。

No.48 4点 スカイ・イクリプス- 森博嗣 2021/12/01 23:36
完結した『スカイ・クロラ』シリーズでは語られなかったエピソードを描いた短編集。

その中にはシリーズの内容を補完する物もあれば、他愛のない日常を切り取ったスナップ写真のような作品もある。

そう各編で語られるのは起承転結のない日常風景だ。いわば日記のようなものだ。
しかし登場人物たちの日常を描くことでシリーズには書かれなかった部分が徐々に明らかになってくる。そしてそれまで曖昧なままで閉じられていたシリーズの謎がほとんど解かれることになる、重要な短編集ではある。

一方で飛行機乗りしか判らないようなリアルな描写もある。
例えば空を飛ぶとき、重力から解放されている彼らは少し酩酊状態にある。従って地上に降りて重力を感じるようになると現実感が起こり、そしてもし仲間が亡くなっていたりすると重い失望感に襲われていく。

またパイロットは地上ではケンカしないと述べる者もいるが、これは嘘だ。血気盛んなパイロットは映画でも殴り合いのケンカを繰り広げているではないか。
永遠の若さと命を持つキルドレだからこその心情だろう。彼はその永遠の子供であることに絶望しており、唯一死ねる場所、空での交戦を楽しんでいる。
それは彼ら彼女らにとってケンカではなく、ゲームであり、ダンスなのだ。そう命の取り合いや争いをしている感覚はない。ただ単純に戯れているだけだ。そしてその結果命を落とそうが悔いはない。いや寧ろ死ねるからこそ空を飛ぶことを愛するのだ。

従って空では自分たちが行っている空中戦が命の取り合いだと彼らは思っていない。しかし地上でリアルに人を撃ち殺すと自分が殺人を犯したと暗鬱になる。
人を殺すという意味では同じなのに空と地上とでは全く異なる。それは空では戦闘機という機体を介しての殺人であるのに対し、地上での殺人は生命そのものと相対するからだろう。これはキルドレだけでなく、飛行機乗り全てに共通する感覚なのかもしれない。

あと興味深かったのが整備士ササクラの心情が垣間見れたことだ。パイロットから絶大な信頼を受ける腕を持った整備士のササクラもまた影の主役と云える人物だろう。

彼だけがエース・パイロットのクサナギの散香を整備することができることを知らされる。またそれは自分が整備した機体が戻ってくる確率が高いことを意味する。丹念に整備した戦闘機が必ずしも無事に生還するかは解らない。どれだけ手を加えても戻ってこなかったら無になるからこそ帰還の確率が高いエース・パイロットの機体の整備や改造は実に遣り甲斐がある仕事であることが解る。

しかしPR撮影に臨むクサナギに眼帯を付けた方が宣伝効果が高いだろうと思ったササクラはエヴァンゲリオンの綾波レイのファンなのだろうか?

読み続けるにつれて感じたのは森氏が発見したお話ではないだろうかということだ。

シリーズは完結したが彼の中でクサナギ・スイト、ササクラ、ティーチャ、カンナミ・ユーヒチらは生きており、彼らの語られなかった物語を発見したのだ。そしてそれをここに綴ったのではないだろうか。

正直、中には書かれなくてもよかった話もある。

ただ後半はシリーズの後日譚だ。
フーコのその後。
成長したクサナギ・スイトの異父妹ミズキのその後。
そしてクサナギのその後の物語。

率直に云えば本編を補完するにはこの最後の3編だけがあればいいのではないか。いや「ドール・グローリィ」と「スカイ・アッシュ」2編だけで本編の登場人物たちの謎は氷解する。

森氏が代表作だと意識している『スカイ・クロラ』シリーズだと述べていることは既に知られている。つまりシリーズを補完する2編以外の、それぞれの登場人物の生活の点描や本編で一行、一文だけ書かれた何気ないエピソードについて膨らませて書いたのは作者自身が抱いたこの世界から離れがたい名残惜しさだからではないだろうか。

最後の短編「スカイ・アッシュ」で再会したクサナギとフーコがお互い呟く。夢みたいだ、夢のようだという言葉はこのシリーズそのものについて作者が抱いている感慨ではないか。

飛行機好きの趣味を思う存分、自分の美意識の中で書き、そして最後まで書けたこと自体に対する思いがまさに「夢のよう」であること。

そして森氏の多くのシリーズ作品では他作品へのリンクが見られるがこの『スカイ・クロラ』シリーズは永遠の子供キルドレという設定ゆえか、全く独立したシリーズである。つまりこのシリーズの物語そのものが作者が見た夢そのものであったのではないか。

独特の浮遊感と力の抜けた、敢えて足さない文章で浮世離れした感のある登場人物たちで織り成されたこのシリーズそのものが常に夢見心地だったように思う。

本書の表紙の色は真っ黒だ。それは星一つない夜空を示しているかのようだ。夜の訪れは一日の終わりを指す。夢のようなシリーズだっただけにその終わりは夜空が相応しいだろう。

読者も作者もそして登場人物たちも同じ空を飛び、同じ夢を見たようなシリーズだった。

No.47 5点 探偵伯爵と僕- 森博嗣 2021/10/12 23:08
本書は子供向けのミステリ叢書として講談社によって編まれたミステリーランドシリーズの中の1作である。しかしその内容は子供向けと云うにはヘビーなものだ。
物語は僕こと馬場新太少年が夏休みに遭遇した探偵伯爵と共に子供の失踪事件を追い、解決するひと夏の思い出だ。

物語は馬場新太の手記、ワープロの練習を兼ねた事件記録めいた日記、いや素人小説のような体裁で語られる。そこには語彙が豊かでない少年の聞き間違いや勘違いなどが散りばめられている。
テレビに出てくるような悪人は現実社会には存在しない。なぜなら明らさまに怪しいと疑われるからだ。
またどうして正義の味方よりも悪人の方が年寄りなのか。普通は年寄りが若者を叱るのだから逆ではないか。
などなど、聞けばなるほどという子供ながらの着眼点に満ちた独り言が散りばめられている。
私が一番感心したのは伯爵が少年に云う情報交換という言葉のおかしさだ。交換ならば手元から無くなるはずだが、情報は無くならないから交換にならない。情報共有が正しい言葉だと云う件。思わずなるほどと思った。

私は自分が子供の頃に友達が殺される事件には幸いにして遭遇したことがない。今まで一緒に遊んでいた友達がいきなりいなくなり、しかも殺されていたと知った時のショックはいかほどだろうか。

しかも本書の最後ではこの真相でさえもオブラートに包まれたものであることが判明する。作中登場人物はすべて偽名で、性別もまた異なっていたのだ。実際は犠牲者たちは全て女の子だったのだ。つまりこのことから事件の真相がもっと生々しいものであったことが想像できる。それは犯人が自らの娘を手に掛けたこともある意味、更なる戦慄を伴って理解されるのである。

いやはや何とも暗鬱な物語だ。正直これを少年少女に読ませ、理解させることには躊躇を覚える。そしてこの本を読んで面白かったと子供が感想を述べた時に親はどんな顔をしたらよいのか。

こんな暗鬱とさせられる子供向けミステリの解説をしているのはなんとアンガールズ田中なのは驚きだ。しかも感じている内容は同じなのだが、解説を引き受けた手前か心地いい余韻に浸れたと書いているのには無理を感じた。決して心地いいものではない、本書は。
森氏は子供向けのミステリでさえ我々に戸惑いを与える。それは読者と云う立場だけでなく、子を持つ親としての立場としてもだ。これはさすがにやり過ぎなのでは。
本書に限らずこのミステリーランド叢書は子供に読ませるには眉を顰めてしまうものも多い。
出版元はもっと内容を吟味して子供向け作品を刊行してほしいものだ。

No.46 5点 τになるまで待って- 森博嗣 2021/08/26 23:13
Gシリーズ3作目は嵐の山荘物。岐阜県と愛知県の県境の山奥に位置する≪伽羅離館≫という屋敷で密室状態の中、超能力者と呼ばれている館の主、神居静哉が何者かによって殺害される。そして外部は雷雨降りしきる嵐でなぜか外部に通じる扉が鍵も掛かっていないのに開かない状態になる。その事件に出くわすのが加部谷恵美ら3人と探偵赤柳初郎ら一行と神居静哉を取材に来た新聞記者富沢とカメラマンの鈴本、そして彼らを伽羅離館へ案内する不動産会社の登田達一行だ。

本書では密室殺人以外にもう1つ謎がある。それは超能力者神居静哉が加部谷恵美をアナザ・ワールド、異界へと連れて行った謎だ。それは同じ部屋にいながら互いの姿が見えない、いわば異なった次元もしくは位相に連れていくというマジックだ。

犀川の推理によって解かれるのだが、正直おかしな話だ。
まず雷に見えたのが溶接火花だったとすると、それは神居が登田にお願いしたこととなる。しかし扉を溶接するのは神居の信者山下と平井も知らなかったことでなぜ神居が外部扉を溶接させたのか解らない。
犀川の推理では犯人は神居殺害後に外部への連絡をとれなくするため、誰かが外に出るのを防ぐために溶接したのだと述べるが、雷に見せかけたのは神居ではなかったのか?なぜ彼が扉を溶接させたのかがよく解らない。
あとセメントで扉を固定したのもよく解らない。溶接だけで十分ではないか。なぜセメントでシールをするのか?そしてそれを誰がやったのか?犯人?

メインの事件である神居の密室殺人は外部の人間が窓の鉄格子の一部を切断して、部屋に入って神居を殺害した後、再び鉄格子を復旧したというのものだ。
密室にしたのは少しでも遠くに逃げおおせるためだと犀川は推理する。そして本書では驚くべきことに殺人事件の犯人が明かされないまま物語は閉じるのである。
いやはや全く以て人を食った、いやミステリ読者を食ったシリーズである。

密室殺人事件のトリックを解き明かした犀川創平に対し、警察は犯人は誰かと問うが、犀川は知りません、それを探すのが警察の仕事でしょうと一蹴する―この件はかなり笑った―。現実世界では当たり前すぎるが、この当たり前なことを本格ミステリでするところに森氏の強かさを感じる。

本書は真賀田四季の計画という大きな謎を断片的に語っているエピソードであり、加部谷達が出くわす事件はその過程における些事に過ぎないと作者が位置付けているように思えるのだ。
神居静哉を殺した犯人。そしてその最有力容疑者と見なされる不動産業者の登田昭一は失踪したまま。
更にエピローグでは萌絵の叔母佐々木睦子の前に現れた赤柳初郎の髭を見て彼女は「年季は入っているようだが私の目は誤魔化せない」と述べ、微笑んで去っていく。つまり真賀田四季を追う赤柳初郎もまた怪しい人物であると示唆して物語は閉じられる。

Gシリーズの読み方が3作目にしてようやく解ってきた。
謎めいたタイトルについてはとにかくそれぞれの作品の中ではほとんど意味を成していないと理解しよう。
そして事件は十全に解決されないと腹を括ろう。
また真賀田四季の影が常に背景に隠れていると意識しよう。
赤柳初郎にはもっと注意を配ろう。
これら4箇条を念頭に置いて次作に当たろう。そうすればもっと楽しめるだろうと期待しよう。

No.45 2点 どきどきフェノメノン- 森博嗣 2021/08/01 00:38
リケジョの恋の仕方教えます!
そんなキャッチフレーズが似合いそうな森博嗣流理系女子ラヴ・コメディーが本書。しかしここでいう「恋の仕方」とは恋の指南書という意味ではなく、理系女子はこんな感じに恋をしているのだと森氏独特の文体と思考で語られる。

窪居佳那は24歳のとある大学の博士課程の1年。別に男は欲しいと思わないのだが、容姿がいいのか、研究室のM1の後輩鷹野史哉と水谷浩樹の2人は何かと彼女に絡んでくる。それぞれアプローチの仕方は違うのだが。

そんなリケジョの日常と恋、そして思考と妄想が語られる本書の内容は彼女の日常で起きるちょっとした事件や出来事が取り留めもなく起こって進む。
また恋の話は主人公の窪居佳那だけでない。彼女の友人藤木美保の恋バナも語られるのだ。
合コンで知り合った猪俣と矢崎という男性2人のアプローチを後輩の水谷を使って逃れる件にその事件をきっかけに美保が水谷に好意を抱き、剣道の相手をさせて、情熱的なラヴシーンに発展したりする―このシーンは傑作!―。

また森氏は大学をよく舞台にしているが、私自身も理系学生であったので所々にノスタルジイを感じてしまった。特に夜の研究室に美保を伴って訪れて、そこで佳那と美保、そして後輩の水谷と鷹野の4人で酒宴が催されるシーンなどは、自分も学祭で同じようなことがあっただけに胸に迫るものがあった。

と読んでいて覚えた既視感があった。
これはもしかして森博嗣版ちびまる子ちゃんではないか?

そして読み進むにつれてこの窪居佳那という女性を私は次第に嫌いになっていった。
なぜなら彼女は自分勝手で大した能力もないのに先輩面をし、そして非常に鈍感である。

彼女は自分の身に起きた事象について沈思黙考するのだが、これが非常に長い。長すぎる。
この非常に長い思考は例えば『東京大学物語』の主人公村上直樹のそれを彷彿とさせるが、森氏独特のダジャレがふんだんに盛り込まれており、単なる作者の悪乗りにしか思えない―中には「鯉の病」といった爆笑ネタもあったが―。

そして彼女が考える謎は一般人である我々にしてみれば簡単に解る事なのに、恋愛慣れ、世間ずれしていない彼女はその当たり前のことが解らないため、延々と思考し続けるのだ。読者はとうに答えが解っているのに、この窪居佳那という鈍感女のしょうもなくも不必要なまでに長い思考に付き合わされるもどかしさを何度も何度も強いられる。
特に志保と水谷の剣道シーンに隠された真相は正直終ってからすぐに解るのに、延々「水谷はどうして研究室に自分より早く戻ってくることができたか」と最後まで引っ張る。

どうでもいい女の、どうでもいい勘違いとどうでもいい恋バナを読まされた。そんな読後感が残る作品だった。
この頃の森氏は本当に何を書いても許されたのだなぁ。

No.44 5点 クレィドゥ・ザ・スカイ- 森博嗣 2021/06/19 00:36
スカイ・クロラシリーズ第5作目にして最終巻の本書は飛ばないキルドレの話だ。主人公僕の第一人称で語られる本書は病院から脱け出した僕の逃避行が主に語られ、本書の専売特許である空中戦はなかなか出てこない。

さて今までこのシリーズの文庫版の表紙は単色で飾られており、その色を実際の空の色に擬えてそれぞれの作品への思いを馳せてきたが、本書の表紙の色は黄土色だ。
これは即ち空ではなく、土の色だ。上に書いたように本書は空ではなく、大地を駆けるキルドレがずっと描かれている。つまり飛ばない、いや飛べないキルドレの物語だった。従って本書は今まで空を飛んできたキルドレが長く移動してきた大地の色に擬えているのだろうと思う。

そして題名の“Cradle the sky”。ここで使われるCradleは通常ならば「ゆりかご」という名詞として使われるが、skyという目的語があるため、動詞扱いになる。従って直訳すれば「空をあやす」となろうか。
しかしそれは何ともおかしい。やはり「空のゆりかご」と訳す方が正しいのだろう。
薬によって記憶が曖昧になった主人公の僕は散香に乗って空に飛び立ち、再び戦闘機乗りとなって復活する。つまり空に飛び立つことで彼はまた生まれ変わったのだ。本来の戦闘機乗りのキルドレとして。つまり空こそ彼が生まれ変わるゆりかごであった、そう捉えるのが妥当だろう。

そしてこの永遠の子供であるキルドレという設定をなぜ作者が盛り込んだのか。その理由を垣間見えるエピソードがある。
早く大人になりなさいと云われる常識は即ち大人こそが人間の完成形のように云われているが、それは大人にとって子供が目障りな存在だからだ。子供は大人の大事にしている原則を覆すからだという件だ。
これは恐らく今なお趣味に没頭する子供のような作者自身の思いを反映したエピソードだろう。なぜ子供っぽくてはいけないのだと抗議しているように思える。

また興味深かったのが年を取るにつれて忘れっぽくなることについて述べられた部分だ。
それは単純に脳が退化しているのではなく、同じルーチンが増え、無意識に処理するようになり、脳を介さずに短絡的に処理しているから記憶に残らないのだ、と。
つまり朝を起きたら顔を洗う、ご飯を食べる、歯を磨くなどが無意識で行っていることで記憶されず、時にあれ、顔洗ったっけ、ご飯食べたっけと思い出せなくなるというのだ。
これはかなり納得した。正直このように思うことが多々あるからだ。次のことや他の事を考えて行動するから、寧ろそのことを意識せずに他のことを考えながらルーチンが出来るからこそ忘れてしまうのだ。
いやあ、この考えは面白い。いつかどこかで使いたい論理である。

さて本書はスカイ・クロラシリーズの最終巻であるが、1冊だけ実は残されている。短編集の『スカイ・イクリプス』だ。それは恐らく外伝的な内容かと思われるが、そのような短編集は本編では語られなかったエピソードである傾向が強く、従って本編を補完する内容であると思われる。
本書で抱いた謎について補完されることを期待して、正真正銘の最後の1冊に臨むことにしよう。

No.43 7点 θは遊んでくれたよ- 森博嗣 2021/06/01 23:33
Gシリーズ2作目で今度のギリシア文字はθ。
θといえばサイン、コサイン、タンジェントでお馴染み三角関数で使われる変数θと、英語の“th”の発音記号を想起させるなど、色々想像を巡らして読んでみた。

このθ。時にカタカナでシータと評される今回のギリシア文字は作中それぞれの犠牲者で様々な意味合いを以って示される。

やはり森ミステリには色んな疑問がどうしても残ってしまう。
例えば第2、3の自殺者の動機が不明だ。なぜ彼女そして彼は自殺したのか?そのような節もなく、唐突に。
そして第1の自殺者も引っ越したばかりのマンションから飛び降りているのも腑に落ちない。但し彼の場合はシータというサイトのAIとの対話によって自殺を促されたような節がある。

そして犀川の存在は更に神格化されつつある。犀川は海月が気付く前に事件について彼と同様の結論に達していた。どうも森氏は犀川を御手洗潔張りの超天才に仕立て上げようとしているようだ。

御手洗潔と云えば本書刊行の約11年後に同じく連続飛び降り自殺事件を扱った『屋上の道化たち』―その後『屋上』と改題―を上梓している。そして連続自殺事件と云えばジョン・ディクスン・カーの『連続殺人事件』を想起させ―実はこの作品の原題は『連続自殺事件』が正しい―、その作品も高所からの落下がメインの謎であった。
しかしなぜかこの飛び降り事件物は傑作が生まれていない。どれも真相には微妙な感じが残ってしまう。その呪縛からは本書も逃れられなかった。

しかし第1作に続き、本書もまたその真相にはモヤモヤとしたものが残る結末となった。いや、海月の事件に関する推理の内容は第1作に比べれば格段に納得できるものではあるのだが、上に書いたようにその他諸々については説明もないため、モヤモヤ感を抱いてしまうのだ。

また正直加部谷、山吹、海月らメインキャラクターの個性もまだ感じられず、キャラ小説としての妙味を感じないでいる。加部谷は森作品にありがちな、とにかく口を出したがる女性キャラ、狂言回し的な役割に過ぎない。個人的にはVシリーズの登場人物たち同等の愛着を感じたいのだが。
また西之園萌絵に続き、本書では彼女の友人でもあった金子の恋人反町愛も登場し、S&Mシリーズ後日譚めいてきた。ただそんな趣向では私は騙されない。過去は過去として新たなキャラクター達がキャラ立ちしてこその新シリーズなのだ。

No.42 7点 フラッタ・リンツ・ライフ- 森博嗣 2021/05/09 23:51
スカイ・クロラシリーズ4作目の本書での語り手はクリタ・ジンロウ。そう、1作目では既に戦死しており、その機体を引き継いだのがカンナミ・ユーヒチだった。1作目では明かされなかったクリタ・ジンロウの死と草薙の絶望についてようやくこの4作目で語られるのかという思いでページを捲った。

予想できたことだが、草薙水素は前作にも増して絶望している。彼女は会社のロールモデルとして生きることを強いられ、死と隣り合わせの空中戦闘に参加させられないことにフラストレーションをため込んでいる。

戦闘機のパイロットは常に死と隣り合わせだ。出発前に元気だったからと云ってそのまま基地に還ってくるとは限らない。しかしそれでもなお彼ら戦闘機のパイロットは空を飛ぶことを止めない。その理由が本書には思う存分書かれている。
それは彼らが到達する天上は鳥さえも飛ぶことができない不可侵領域だからだ。その空と宇宙との間の澄み切った世界に入れるのは彼らパイロットの特権だからだ。
彼らが飛ぶのは敵と戦うためだが、そこに命のやり取りという意識はない。彼らは存分に彼らしか到達できない世界で自由に飛んで戦うことを愉しむことができるからこそ飛ぶのだ。
そこで彼らは地球の重力からも解放され、全き自由が得られるのだ。この自由、そして不可侵の空にいることの無敵感こそが彼らに至上のエクスタシーをもたらす。
その純粋さは恐らく新雪のゲレンデを一番乗りで滑るスノーボーダー達が感じる喜びの数百倍に匹敵するのではないだろうか。

だから彼らは命を亡くすかもしれない戦闘機パイロットの職を辞めない。
例え敵に撃墜され、命を喪うことになっても、何物にも代え難い空での自由の前では死すらも安く感じるのではないか。
もしくは永遠の命を持つキルドレは普通に生活していれば無縁の命の危機をパイロットとなって戦闘に関わることで死を意識するスリルを味わうことができる。
あるいは長らく生きていることでもはや死を望んだ彼らが永遠の眠りを手に入れるために敢えて死地として空を選んだ者もいるだろう。

戦闘機乗りは地上では穏やかだが、空に出ると戦闘的になる者が多いと作中には書かれている。戦うことが礼儀だからだと語り手のクリタは述べる。
つまり彼らは命の駆け引きなしで空を飛ぶことに満足できなくなっているようだ。
敵を撃墜すると気分はハイになるとも書かれている。人の命を奪ったのに彼らに残るのは“人を殺した”という罪悪感ではなく、敵を撃ち落としたという即物的な喜びだ。
一方で仲間が撃墜されるとその喪失感でしばし呆然となる。そんな時の食堂は閑散としているが、パイロットたちは彼らの死を偲ぶのではなく、寧ろ新しい人員がいつ補充されるかを考えているだけだとクリタは述べる。それはやはり自身も戦闘機に乘る駒の1つに過ぎないと思っているからだろう。

Flutter Into Life、“生への羽ばたき”とでも訳そうか。
戦闘機乗り達は自分たちの生を実感するために命を喪うかもしれない空の戦場へと向かう。この大いなる矛盾はもはや理屈ではなく、戦闘機乗り達が持っている共通項なのだろう。

命を賭けてまで辿り着きたい場所がある。その場所でしか味わえない自由がある。

草薙水素もクリタ・ジンロウも、そして黒猫こと元ティーチャも生きるために死地へ向かい、飛びたがっている。生きている限り、彼らは飛び続けたいのだ。
ハリケーンや台風が訪れる前後の夕焼けは紫色に染まるという。本書の表紙が紫色なのはクリタ・ジンロウと草薙水素に大いなる人生の転換という嵐が、空を飛べなくなった災難が訪れたからだろうか。

願わくば草薙水素をもう一度空へと飛ばしてほしい。しかしもはや残された空の色は哀しい色しかないのだろうか。

No.41 3点 Φは壊れたね- 森博嗣 2021/05/06 23:56
新しいシリーズ、即ちGシリーズの開幕である。Gは恐らくギリシャ文字がタイトルに冠せられているからGreekのGの意味か。しばらく退場していた西之園萌絵と犀川創平が再登場しているのでこのシリーズでは主役を務めるらしいと思いきや、探偵役は別の人物だった。
物語の中心人物はN大の生徒ではなく、国枝桃子が助教授として勤めているC大学の学生で国枝の研究室に入っている大学院生の山吹早月と同じ大学の2年生で加部谷恵美と海月及介の3名が務める。このうち、加部谷恵美が西之園萌絵と繋がりがある。確かS&Mシリーズの『幻惑の死と使途』にちらっと登場していたように記憶している。調べてみたらその時はまだ中学生だった。

西之園萌絵は彼らが遭遇する密室殺人事件にいつものように興味本位から関わるが、実際に探偵役を務めるのではない。彼女は愛知県警との太いパイプを活かし、これまた再登場の鵜飼と近藤、三浦たち捜査官から捜査状況を提供してもらい、それを要求に応じてこの3人に提供する。そしてその中の1人である海月及介が真相を解き明かす。

この3名の役割は山吹早月(因みに男性)が語り手を務め、加部谷恵美はコメディエンヌとしてこの3人の中で色々な推理を開陳しつつ、袖にされながらもめげずに2人についていく。Vシリーズでの香具山紫子のような位置づけで、少々ウザい。
そして探偵役である海月及介は大学2年生でありながら、実は山吹の中学時代の同級生である。2年ほど世界を旅していた後に大学に入学した変わり種。いつも本を読んでおり、必要以上のことはしゃべらず、また頷くといったジェスチャーもそれと気付かないほど小さな男でとにかく無駄を極限的に排除する性格の持ち主。周りが事件のことを話していても積極的に関わったりしない反面、必要なことは聞いており、真相を看破する。つまり常に頭は思考でいっぱいという人物だ。西之園萌絵曰く、犀川創平に似ているとの評。

さてそんな彼らが初めて遭遇する事件は森博嗣ミステリではお馴染みとなった密室殺人事件だ。マンションの一室で広げた両手を紐で吊らされて、作り物の翼を身に着けた状態でナイフを胸に刺されて殺されたN芸大学生の他殺事件だ。マンションは鍵が掛かっており、しかも管理人代理をしていた山吹が鍵を開けると立て掛けて積み上げられていた箱が倒れてきたのでそこからの脱出は不可能。そしてその他の出入り口として考えられるベランダも鍵が掛けられた状態という完全なる密室。しかし両手を吊るされた被害者は自分の胸を刺すことは出来ないため、明らかに他殺としか考えられない。
しかもマンションの鍵は電子ロックで簡単に合鍵が作れず、居住者の被害者が持っている2つの鍵は両方とも室内にあった。
そして奇妙なことに室内にはビデオカメラが据えられており、被害者発見時の様子が録画されていた。そしてそのテープには「Φは壊れたね」という奇妙なタイトルが付けられていた。

以上が今回の事件だが、真相を読めば何とも思わせぶりだけで終わったミステリだったというのが正直な感想である。
事件の真相はもはや森ミステリ定番となったように全てが明かされることはない。

そして山吹が事件の真相を解明した海月と話していた時に駅のフォームから犯人によって突き落とされたのは正直蛇足でしかないだろう。山吹が事件の真相を見抜いたわけでないし、また突き落とされたのが海月だったとしても犀川創平が真相を見抜いていたようなので犯行が明るみに出るのも時間の問題だ。
彼らを排除することで事件の真相を分からなくしたようだが、全く何の意味もなさない。恐らくは素人が殺人事件に関わることの危うさをアクセントとして加えたのかもしれないが。

そして真相を踏まえて遺体発見時の様子を読んでみると、やはりアンフェア感は否めない。

また最たるものは作品のタイトル「Φは壊れたね」の意味が全く明かされないことだ。
これは芸術作品のタイトルというのはそもそも思わせぶりで中身がない物が多いという森氏なりの皮肉なのか?
因みにΦに似た記号で数学に空集合を示す記号∅があると作中で言及されるが、そういう意味で捉えれば空集合、即ち要素を一切持たない集合、即ち中身のない集合が壊れた、つまり町田、戸川、白金、岸野たちは元々中身のない関係だった、それが今回壊れたという風に強引に解釈すべきなのだろうか。

そんなモヤモヤとした気分で読み終えた本書だが、この森ミステリ特有のスッキリしない感は海月の台詞に垣間見られる。これが森氏のミステリに対するスタンスであると私は感じた。

ミステリに登場する素人探偵は警察に頼まれずに勝手に推理して事件をさも解明したかのように振る舞うが、それは推論であり、事件を直接解決したことにはならない。それはあくまでその人本人による解釈であり、1つの予測、予感に過ぎない。そして犯人を指摘することは極めて原始的で一種の犯罪であると考えても間違いないだろう。
つまり素人探偵が解き明かす真相というのはあくまで1つの解釈に過ぎない。それを真相だとするのはおかしいし、暴論であり、それが元で犯人が捕まるなんてことは現実問題としてあり得ない。証拠があり、証人がいて初めて事実が犯人を決定するのだということだ。
そしてそんな本当のことなど解りはしないのだというのが森氏のミステリ観なのだろう。

しかしそれはあまりに現実的な話だ。現実社会で何か事件が起こり、もしくは納得のいかないことがあってもそれが数学のようにきちんと割り切れた形で終わるのはごくごく少数に過ぎない。大半はうやむやな形で幕引きされる。誰も責任を取りたがらないからだ。
しかしだからこそ物語の世界ではきちんと割り切れてほしいのだ。決着が着き、結論が出てほしいのだ。

モヤモヤした思いが残った新シリーズの幕開け。果たして彼ら3人はかつてのシリーズキャラを超える活躍を見せてくれるのだろうか。

No.40 3点 四季 冬- 森博嗣 2021/02/17 23:58
四季シリーズ最終作。遥かな未来に向けての物語か。

本書のストーリーはよく解らない。時代もいつの頃を描いているのかもよく解らない。物語の構成はそれぞれのエピソードが断片的に語られ、シリーズ1作目の『春』同様、四季と其志雄の対話、四季の思弁的な述懐が続く。

本書は一旦『秋』でそれまでのシリーズとの結び付きを語ったことでリセットされ、これからの物語のための序章というべき作品として位置づけられるようだ。
従って今まで本書までに刊行されてきた森作品を読んだ私でさえ、本書に描かれている内容は曖昧模糊としか理解できていない。本書が刊行されて16年経った今だからこそ上に書いたシリーズへと繋がっていくことが解るのだが、刊行当初は読者は全く何を書いているのか戸惑いを覚えたことだろう、今の私のように。

真賀田四季が望んだ犀川創平との再会。
チーム・リーダR・R、スタッフJ・P、そして四季のウォーカロン道流と接触してさらわれたG・Aが所属する謎の組織のシンク・ユニットの登場。
サエバ・ミチルを生み出した100歳を超える天才科学者久慈昌山。
これらが今後のシリーズのファクターとなり、徐々にまたその詳細が明らかになってくるのだろう。

冬は眠りの季節。ほとんどの動物が冬眠に入り、春の訪れを待つ。
本書もまた新たなシリーズの幕開けを待つ前の休憩といったことか。英題「Black Winter」は眠るための消灯を意味しているように私は思えた。

そして真賀田四季。
『四季 春』で生を受けたこの天才はしかし以前のような無機質な天才ではなくなっている。いっぱいやらなくてはならないことがあるために人への関与・興味をほとんど持たなかった天才少女は娘を生み、外の世界に飛び出して自分で生活をしたことで感受性、母性が備わり、慈愛に満ちた表情を見せるようになっている。

頭の中の演算処理が上手く行っている時にしか笑わなかった彼女が人の死に可哀想と思い、花を見て綺麗と感じ、空を見て色が美しいと思うようになっている。

そして真賀田四季研究所で娘が死んだ時に腕を切断した際のことを語る四季は突然涙を流す。彼女にとって死んだ人はもはや物でしかないはずなのに、やはり心の奥底では娘の死を悼んでいたのだ。

物語の最後、犀川は四季に問う。「人間がお好きですか」と。そして四季は「ええ……」と答える。綺麗な矛盾を備えているからと。論理的であることを常に好む彼女が行き着いたのは愛すべき矛盾の存在。それこそが人だったのだ。

真賀田四季はまだその生命を、いや存在を残してまだまだ色々とやることがあるようだ。但しその彼女は今までの彼女ではなく、人への興味を持ち、そして自らにその人格を取り込んで生きている。もはや時間を、空間をも超越し、終わりなき思弁を重ねる1人の類稀なる天才が神へとなるプロセスを描いたのがこのシリーズなのだ。そしてそれはまだ途上に過ぎない。

但し解るのはそこまでだ。それは仕様がない。なぜなら私のような凡人には天才の考えることは解らないのだから。

今後のシリーズで本書で生れた数々の疑問が解かれていくのだろう。その時またこの作品に戻り、意味を理解する。
ある意味本書が全ての森作品が行き着く先なのかもしれない。

No.39 10点 四季 秋- 森博嗣 2021/02/16 23:26
四季シリーズ第3作目の本書は森作品ファンへの出血大サービスの1作となった。

今まで真賀田四季を主人公に彼女の生い立ちを描いてきたこのシリーズだが、3作目に当たる本書はそれまでと異なり、なかなか真賀田四季本人が登場せず、寧ろ犀川創平と西之園萌絵とのやり取りと保呂草潤平と各務亜樹良の再会とそれ以降が中心に語られ、S&Mシリーズの延長戦もしくはVシリーズのスピンオフといった趣向で、主人公である真賀田四季は全283ページ中たった10ページしか登場しないという異色の作品だ。

ファンにとって嬉しいのは両シリーズのオールキャスト勢揃いといった内容になっていることと今まで断片的であったS&MシリーズとVシリーズのリンクがもっと密接に結びつく内容になっていることだ。更に両シリーズのみならず、それまでの森作品のほとんどが結びつくようなものになっている。

しかし常々思っていたことだが、S&MシリーズとVシリーズ、やはり意識的に森氏はその趣を変えていたことが両シリーズが邂逅する本書で如実に判った。

S&Mシリーズが西之園萌絵の生い立ちに暗い翳を落としつつもその天然な天才少女とこれまた浮世離れした大学の助教授という組み合わせでライトノベル風に語られているのに対し、Vシリーズが小鳥遊練無と香具山紫子というコメディエンヌ(?)を配しつつも、登場人物間の関係に纏わる恋愛感情の縺れや諍いを描き、更に保呂草という犯罪者の暗躍も描いた少し大人風なダークの色合いを湛えており、それがそれぞれのパートで見事に対比できるのである。

まず犀川と萌絵の登場パートはシリーズ終了以降の2人が描かれる。それには短編集『虚空の逆マトリクス』に収録されていた「いつ入れ替わった?」で語られた犀川が婚約指輪を渡すエピソードも語られ、犀川と萌絵の結婚生活が始まりそうで始まらない状態で物語は進む。真賀田四季を追ってイタリアへと飛ぶが萌絵は婚前旅行と思い、嬉々としているが、犀川はようやく真賀田四季に逢えると思い、喜んでいるといったギャップがあり、結局そこでは何も恋愛沙汰は起きない。

一方保呂草と各務のパートは犯罪者の2人らしく大人のムードで話は進む。まあこれが実にスマートで、一昔前のトレンディドラマを観ているかのように台詞、仕草どれをとっても洒落ている。
そして保呂草は各務との再会を果たすために色んな人物と出逢ったことを後悔する。特に愛知県警の本部長を叔父に持つ西之園萌絵との再会は彼に日本の地を踏むことを半ば諦めさせるほどに。
ジャーナリストである各務が書くべき記事や原稿が沢山あると述べ、保呂草が自分でも何か書こうかなと零すシーンは彼がその後自分の一人称で始まるVシリーズを執筆することを仄めかしているようで面白い。

そしてやはり触れなければならないのは西之園萌絵と瀬在丸紅子、2大シリーズのヒロイン同士の邂逅だろう。
瀬在丸紅子は無言亭からどこかにある、ある金持ちによって移築された歴史建造物に管理人として住んでおり、使用人だった根来機千英は既におらず、1人で暮らしているようだ。
萌絵は犀川から婚約指輪を貰ったことで挨拶に行くために訪れたのだが、そこで萌絵は彼女から人生訓を授かる。
犀川創平が好きでたまらず、自分の物にし、自分の方だけを向いてもらいたい萌絵は、つまり若い女性にありがちな独占欲とも云うべき愛情を強く抱いている。
それに対し、紅子は一方向にしか風が来ない扇風機を愛するよりも全てに光を当てる太陽を愛でるように愛しなさい、それが許すということですと諭す。
私はこれを読んだ時にかつて祖父江七夏と犀川林を巡って醜い女の争いを繰り広げていた紅子がここまでの悟りの境地に至ったのかと驚き、そして感心した。

さて秋はやはり実りの秋と呼ばれる収穫の季節だ。まさにその季節が示す通り、収穫の多い作品となった。
前作で保呂草の許に飛んだと思われた各務は逆に保呂草に捕まり、その秘めたる恋を始まらせる。
西之園萌絵の収穫はやはり犀川との婚約だろう。そして彼の母親瀬在丸紅子との会談で得られた人生訓もまた大きな収穫だ。
犀川創平は妃真賀島の事件に隠された真賀田四季の動機がようやく明かされた。
まさに収穫の1冊である。

ともあれ起承転結の転に当たる本書は確かにシリーズにおける大転換を見せた作品だった。これは最終作の冬編にますます期待値が上がるというものである。愉しみにしていよう。

No.38 7点 四季 夏- 森博嗣 2021/02/14 23:50
真賀田四季13~14歳の物語。妃真賀島にて真賀田四季研究所の建設が始まったのがこの頃。
そして13歳は思春期の始まり。感情に流されない左脳型天才少女は生まれてすぐに自我に目覚め、このような右脳型思考とは無縁だと思われたが、やはり彼女も人間。人を好きになるという感情、綺麗と思うこと、後悔することを意識し出す。そう感情の揺れを感じるようになる。

真賀田四季生い立ちの記とも云える4部作の第2部である本書では前作にも増してそれまでの森作品の登場人物が出演し、それぞれのシリーズの“その前”と“その後”が語られる。
そう、S&MシリーズとVシリーズの橋渡し的役割が色濃くなってきている。
そしてそれら登場人物たちの、それぞれのシリーズにおいても明確に語られなかった秘密や心情が真賀田四季のフィルタを通して更に詳しく語られる。それが実に面白い。

本書のメインはこの保呂草と真賀田四季の邂逅だろう。
全てを見抜く真賀田四季は各務亜樹良が外面はクールを装いながらも実は保呂草のことを愛しているのを見抜く。そして保呂草もまた各務亜樹良のことを愛している。しかしそれぞれ個を重んじる2人は相思相愛でありながらも一緒になれないと自覚している。
更に保呂草の美術専門の窃盗犯である所以もまた明らかになる。
彼は別にスリルを味わいたくて泥棒稼業をやっているのではなかった。またその稼業を生活の糧にしているのでもなかった。彼が盗みを働くのはただ1つ。その価値あるものがそれを持つに相応しい人の許に収まるべき、またはそれがあるに相応しい場所に収めるために彼は盗みを働くのである。これこそが保呂草潤平の美学なのだ。

夏は情熱の恋の季節と云う。
例えば先に書いた各務亜樹良は本書で退場するが、その理由は南米へ飛んだ保呂草潤平の後を追うためだ。彼女はもう自分に正直であろうと決意し、保呂草の許へと飛ぶのだ。この謎めいた女が実は心の奥底に斯くも情熱的な想いを抱いていたことを知るだけでも読む価値はある。
そして類稀なる天才少女真賀田四季もまた例外なく思春期を迎え、そして恋に落ちる。それは冷静でありながらもどこか破滅的、そして天才らしく冷ややかに情熱的な恋だった。
幼き頃からその天才性ゆえに全てにおいて誰よりも早い彼女は恋に落ちた途端にすぐに愛を交わし、そして妊娠を経験する。
彼女の相手は叔父の新藤清二。彼女は大学教授の両親の遺伝子を持っていながら医師である叔父の遺伝子を持っていないことで、その全てを備えた子供を作るために彼と寝たのだ。しかしそれはそんな打算だけではない。彼女は新藤に恋をし、彼を欲しいと思ったのだ。
また四季が子供を欲しいと思ったきっかけが瀬在丸紅子であった。彼女が認めた天才の一人、瀬在丸紅子は子供を産んだことで全ての精神をリセットしたと四季は理解した。彼女は今まで出逢った人の中で瀬在丸紅子こそが自分によく似ていると感じていた。しかし彼女は紅子のように自分はリセット出来ないだろうと考えてはいたが、何かを忘れるという行為に憧れていた。そして紅子と同じように好きな人の子供を作れば何かが変わると思ったのだ。
四季が新藤と愛を交わしている時、エクスタシーに達する瞬間、彼女の中の全ての意識が、思考が全て停止するのを体験した。

しかし彼女はやはり情よりも理で生きる女性だった。妊娠をする、子供を産むという行為は本来であれば祝福されるべきなのにそれにショックを受ける両親が理解できない。ひたすら憤り、そして堕胎を促す両親に対して、四季は自らの手で彼らに引導を渡す。第1作『すべてがFになる』で語られていた事件が本書によって描かれるのだ。

本書では四季自身がとうとう両親に手を下す。そして彼女は近親者の子供を宿す。考えるだにおぞましい人生だ。
しかしその理路整然とした思考と態度ゆえに、森氏の渇いた、無駄を省いた理性的な文体も相まってその存在は血の色よりも純白に近い白、いや何ものにも染まらない透明さを思わせ、澄み切っている。

我が子という新しい生と両親の死という誕生と消滅の両方を経験した真賀田四季。彼女は平気で死について語る。
それはまさにコンピュータで使われる二進法、0と1しかない世界のように実に淡白だ。生と死の間に介在する人の情に対して彼女は全く頓着しない。必要であるか否かのみ、彼女の中で選択され、そして判断が下される。

そんな彼女の話はまだ秋、冬と続く。それ以降を知る私たちにそれまでの彼女を教えるかのように。いや更に我々の知らない四季のその後へと続くだろうか。

このシリーズはそれまで謎めいた存在だった真賀田四季という女性について知るための物語であるのに、近づいたかと思えば、読めば読むほど彼女の存在が遠くなる気がする。
冬に辿り着いた時、真賀田四季は一体どこに立っているのだろうか?

No.37 7点 四季 春- 森博嗣 2021/02/14 00:47
真賀田四季。
森氏のデビュー作から登場し、常に森ワールドにおいて絶対的な天才として語られる女性。
本書はそんな謎めいた彼女の生い立ちをその名前四季に擬えて春夏秋冬の4作で語ったシリーズの第1作目に当たる。そしてこのシリーズはS&MシリーズとVシリーズに隠されたミッシングリンクを解き明かす重要なシリーズだとも云われている。

従って真賀田四季がまだ子供の頃からの話が綴られている。

しかし真賀田四季の生い立ちを描いた作品でありながら、一応事件は起きる。新藤病院内で発生する密室殺人だ。

その事件は解決されないままで終わることが記されている。但し四季は犯人である浅埜にある日そのことを知っていると告げ、浅埜はその後アフリカへ渡る。
つまり彼女にとって、いや作者にとって殺人事件は単に四季の性格を彩る一エピソードとして書いたに過ぎないのだろう。

そしてVシリーズの各務亜樹良と瀬在丸紅子も登場する。

四季の頭脳はまさしくコンピュータのCPUそのものなのだ。従って彼女は周りから自分の考えていることを文字にしてノートに書き留めておく、もしくは声に出して録音しておくことを周囲に勧められるが、そんなことでは追いつかないとして一蹴する。
それはそうだろう。パソコンの演算画面で一気に数十行のプログラムが書き出される様はそのまま四季の頭の中を示しているのだから。

従ってコンピュータの発明によって四季はようやく自分の処理能力と同等の速さを誇る機械が得られたことに喜ぶ。
そういう意味では真賀田四季は恵まれた天才だったのかもしれない。遠い昔にもしかしたら真賀田四季と同じような頭脳を持った天才がいてコンピュータがないことで自分が解き明かしたい命題を1/10程度、いやもしくはそれ以下の成果しか挙げられてなかった偉人もいたかもしれないのだから。

真賀田四季という不世出の天才が登場したのは本書刊行までではS&Mシリーズの『すべてがFになる』と『有限と微小のパン』のみ。後はVシリーズの『赤緑黒白』にカメオ出演した程度だが、それは四季としてではなかった。正直たったこれだけの作品の出演では真賀田四季の天才性については断片的にしか描かれず、私の中ではさも天才であるかのように描かれているという認識でしかなかった。
しかしこの4部作で森氏が彼女の本当の天才性を描くことをテーマにしたことで彼女が真の天才であることが徐々に解ってきた。

そうはいっても3歳で辞書を読み、数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で大学の学術書を読み耽り、6歳で物を作り出すといったエピソードで彼女が天才であると思ったわけではない。
そんなものは言葉であるからどうとでも書けるのだ。
例えば仏陀なんかは生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を差し、左手で地を差して「天上天下唯我独尊」と叫んだと云われているから、こちらの方がよほど天才だ。
つまりこれもまた仏陀が天才であったと誇張するエピソードに過ぎなく、これもまた想像力を働かせばどうとでも強調できるのだ。

では真賀田四季が天才であると感じるのはやはり彼女の思考のミステリアスな部分とそれから想起させられる頭の回転の速さを見事に森氏が描いているからだ。
常に感情を乱さず、もう1人の人格を他者に会話させながら、書物を読み、そして相手もしたりするところやそれらの台詞が示す洞察力の深さなどが彼女を天才であると認識させる。
最も驚いたのは最後の方で実の兄真賀田其志雄が自殺しているのを見て、兄の代わりになる才能を明日中にリストアップしましょうと各務亜樹良に提案する冷静さだ。
事態を把握した時には既にその数時間先、いや数日も数週間も、数年先も思考は及んでいるのだ。
こういったことを書ける森氏の発想が凄いのである。

天才を書けるのは天才を真に知る者とすれば、森氏の周りにそのような天才がいるのか、もしくは森氏自身が天才なのか。これまでの森作品と今に至ってなお新作で森ファンを驚喜させるの壮大な構想力を考えるとやはり後者であると思わざるにはいられない。

最後、四季は外の空気の冷たさを感じ、まだ蕾も付けていない桜の木を見ながら春を思って物語が閉じられる。つまりそれは常に内側に興味と思考を向けていた四季が外に向けて感覚を開かせ、自分以外のものに思考を巡らせたのだ。

春は出逢いと別れの季節である。
真賀田四季は2人の其志雄と別れ、そして瀬在丸紅子と西之園萌絵と出逢った。いやそれ以外の人物ともまた。
続く季節は夏。夏はどんな季節であろうか。それを真賀田四季は気付かせてくれるに違いない。

No.36 3点 工学部・水柿助教授の逡巡- 森博嗣 2020/07/23 00:36
水柿助教授シリーズ第2作目。前作に劣らず、本書でも森氏は自分の思いの丈を存分に語っている。これほど作者の嗜好が、思考がダダ洩れしている作品もないだろう。まさに気の向くまま、思いつくままに書かれている。
これは作者に全てを委ねることを許した幻冬舎だからこそ書けた作品集である。
いやあ、実際作者に好き勝手やらせ過ぎである。本書の出版に際して編集会議がきちんとなされたのか甚だ疑問だ。いやもしくは当時そんな反対意見を差し込めないほどに森氏の作家としての権威が既に高かったということなのか。

今回全体を通して読むと、やはり本書は森氏の私小説と云えるだろう。第1話では理系思考の作者がなぜミステリィ作家になったのか、そのギャップを埋めようと云う意図で書かれているとさえ吐露している―しかしあまりに自由奔放に書き過ぎて全く成功していないようだが―。
結局この企みは成功せず、物語の主軸は一大学の一助教授だった森氏が経験した小説家になったことでの生活のギャップが綴られていく。

また本書の中での水柿君のある心境の変化が興味深い。
助手時代は好きなことをして賃金ももらえるなんて幸せだと思っていたのに、助教授になって研究以外の仕事が増え、特に会議が増えたことで苦痛を覚え、これだけ我慢して嫌な時間を過ごしているのだからお金を貰えて当然だと思うようになったこと。ただ助手時代は好きなことができたが給料は安かったのに対し、助教授では助手時代の2倍以上の給料をもらうようになったのは嫌なことをしなければならない対価が増えたのだと考えているところだ。
私は労働報酬とは嫌なことを我慢してやったことへの対価であり、生活のためにその我慢をしているのであるという考えの持ち主なのでこの水柿君の後半の考えには全く同意だ。
一方で社会人になって一度も好きなことをさせてもらってその上給料まで貰って幸せだ、なんて思ったことは一度もない。かつて勉強させてもらった上に給料も貰っているんだから幸せだと云っていた上司がいたが、当時はサーヴィス残業当たり前の風潮だったので何云ってんだ、コイツと思ったものだ。

おっと作者の心情ダダ洩れの作品だっただけに私の心情も思わず露出してしまったようだ。

さて本書は大学の助教授だった水柿君が奥様の須磨子さんの何気ない提案から小説を書くようになり、それが出版社に認められ、あれよあれよという間に売れっ子作家になって貧乏から脱け出し、お金持ちになったところで幕が引く。

しかし私はこの件を読んで、売れる作家と売れない作家の境界とは一体何なのだろうかと考えてしまった。

ここではもう敢えて水柿君と呼ばず森氏と呼ぶことにするが、森氏が特に小説家になりたいと願ったわけでもなく、偶々手遊びで小説を書いたらそれが編集者の目に留まって一躍売れるほどになった。しかも森氏は自分が小説を書きたいと思って書いてるわけではなく、依頼が来るから書いていると非常にビジネスライクだ。
一方で小説が好きでいつか自分も小説家になりたいと願い、何度も複数の新人賞に応募して落選を繰り返し、ようやくその苦労が実を結び、晴れて作家になれて、自分の創作意欲が迸るままに作品を書いて発表しながらもさほど売れない作家もいる。
熱意があってもその作家の作品が売れるとは限らないが、逆にさほど熱意もないのに書いたら売れている作家がいるというのは何とも人生とはアンフェアだなと感じざるを得ない。それは森氏は天才であり、このような書き方は森氏しかできないことなのだ。つまり一般人が、いや少しばかり才能があっても天才には敵わない現実を知らされた思いが本書を読んでするのである。

本書を冷静に読める作家は果たして何人いるのだろうか。私が同業者ならば自分の境遇と照らし合わせて身悶えするはずだ。ある意味本書は作家殺しのシリーズだ。
さて残りはあと1冊。しかし宣言通りに3作書き、それがきちんと刊行されたということはそれなりに売れたということか。売れる作家は何書いても売れる。やはり作家殺しだ、この本は。

No.35 2点 奥様はネットワーカ- 森博嗣 2020/06/04 23:37
軽めの題名に軽めの登場人物とポップなイラストがふんだんに盛り込まれた作品だが、描かれている物語はなかなか凄惨で重苦しい。
某国立大学を舞台に起きる連続殺人事件。その大学の化学工学科の面々を中心に物語は進む。

各章はほとんど各登場人物を中心に書かれ、そこに書いてある心情が実に暗鬱で内省的。この頃は『四季』4部作を発表した時期と重なり、同4部作で見られた観念的な記述が本書でも踏襲されている。詩的で抽象的で観念的で、独善的。自分の世界に入り込み、ますます排他的になっている印象を持つ。

インターネットの普及によりいわゆるネット人格が叫ばれてきたことだ。二重人格、三重人格という人たちはかつて精神異常者の中でも最上級の物として恐れられてきたが、インターネットが普及することでほとんどの人が匿名性のあるハンドルネームを持つことになり、それによってネット社会という非日常を手に入れることで内面から湧き出る新たな人格が生まれた。
つまり本書はこの新たなツールによって誰しもがネット人格という別人格を持つことができ、それがサイコパスに発展する危うさを描いていた作品と捉えることも可能だろう。

また題名となっているネットワーカの奥様は、ウェブで偽りの日記を付けていたスージィではなくルナだったという軽い叙述トリックになっているが上記を踏まえるとスージィもまたその自身の思い込みによって仮想の奥様であり、あながちミスディレクションでは無いとも深読みできるのである。

当時森氏の人気は絶大でまさに引く手数多の状態。そんな状況で流石に筆の早い森氏でもやっつけ仕事の1つや2つはあったことだろう。本書はそんな感じを受ける作品だ。

No.34 7点 四季- 森博嗣 2019/08/07 23:40
真賀田四季という不世出の天才が登場したのは本書刊行までではS&Mシリーズの『すべてがFになる』と『有限と微小のパン』のみ。後はVシリーズの『赤緑黒白』にカメオ出演した程度だが、それは四季としてではなかった。
正直たったこれだけの作品の出演では真賀田四季の天才性については断片的にしか描かれず、私の中ではさも天才であるかのように描かれているという認識でしかなかった。

しかしこの4部作で森氏が彼女の本当の天才性を描くことをテーマにしたことで彼女が真の天才であることが徐々に解ってきた。

そうはいっても3歳で辞書を読み、数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で大学の学術書を読み耽り、6歳で物を作り出すといったエピソードで彼女が天才であると思ったわけではない。
そんなものは言葉であるからどうとでも書けるのだ。例えば仏陀なんかは生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を差し、左手で地を差して「天上天下唯我独尊」と叫んだと云われているから、こちらの方がよほど天才だ。つまりこれもまた仏陀が天才であったと誇張するエピソードに過ぎなく、これもまた想像力を働かせばどうとでも強調できるのだ。

では真賀田四季が天才であると感じるのはやはり彼女の思考のミステリアスな部分とそれから想起させられる頭の回転の速さを見事に森氏が描いているからだ。
常に感情を乱さず、もう1人の人格を他者に会話させながら、書物を読み、そして相手もしたりするところやそれらの台詞が示す洞察力の深さなどが彼女を天才であると認識させる。最も驚いたのは最後の方で実の兄真賀田其志雄が自殺しているのを見て、兄の代わりになる才能を明日中にリストアップしましょうと各務亜樹良に提案する冷静さだ。事態を把握した時には既にその数時間先、いや数日も数週間も、数年先も思考は及んでいるのだ。こういったことを書ける森氏の発想が凄いのである。

天才を書けるのは天才を真に知る者とすれば、森氏の周りにそのような天才がいるのか、もしくは森氏自身が天才なのか。
これまでの森作品と今に至ってなお新作で森ファンを驚喜させるの壮大な構想力を考えるとやはり後者であると思わざるにはいられない。

春は出逢いと別れの季節である。真賀田四季は2人の其志雄と別れ、そして瀬在丸紅子と西之園萌絵と出逢った。いやそれ以外の人物ともまた。

続く夏は情熱の恋の季節と云う。
例えば先に書いた各務亜樹良は本書で退場するが、その理由は南米へ飛んだ保呂草潤平の後を追うためだ。彼女はもう自分に正直であろうと決意し、保呂草の許へと飛ぶのだ。この謎めいた女が実は心の奥底に斯くも情熱的な想いを抱いていたことを知るだけでも読む価値はある。

そして類稀なる天才少女真賀田四季もまた例外なく思春期を迎え、そして恋に落ちる。それは冷静でありながらもどこか破滅的、そして天才らしく冷ややかに情熱的な恋だった。

幼き頃からその天才性ゆえに全てにおいて誰よりも早い彼女は恋に落ちた途端にすぐに愛を交わし、そして妊娠を経験する。彼女の相手は叔父の新藤清二。彼女は大学教授の両親の遺伝子を持っていながら医師である叔父の遺伝子を持っていないことで、その全てを備えた子供を作るために彼と寝たのだ。しかしそれはそんな打算だけではない。彼女は新藤に恋をし、彼を欲しいと思ったのだ。

また四季が子供を欲しいと思ったきっかけが瀬在丸紅子であった。
彼女が認めた天才の一人、瀬在丸紅子は子供を産んだことで全ての精神をリセットしたと四季は理解した。彼女は今まで出逢った人の中で瀬在丸紅子こそが自分によく似ていると感じていた。しかし彼女は紅子のように自分はリセット出来ないだろうと考えてはいたが、何かを忘れるという行為に憧れていた。そして紅子と同じように好きな人の子供を作れば何かが変わると思ったのだ。

四季が新藤と愛を交わしている時、エクスタシーに達する瞬間、彼女の中の全ての意識が、思考が全て停止するのを体験した。

しかし彼女はやはり情よりも理で生きる女性だった。妊娠をする、子供を産むという行為は本来であれば祝福されるべきなのにそれにショックを受ける両親が理解できない。ひたすら憤り、そして堕胎を促す両親に対して、四季は自らの手で彼らに引導を渡す。第1作『すべてがFになる』で語られていた少女時代の殺人が夏に描かれる。

春では兄が伯母を殺害し、夏では四季自身がとうとう両親に手を下す。そして彼女は近親者の子供を宿す。考えるだにおぞましい人生だ。
しかしその理路整然とした思考と態度ゆえに、森氏の渇いた、無駄を省いた理性的な文体も相まってその存在は血の色よりも純白に近い白、いや何ものにも染まらない透明さを思わせ、澄み切っている。

そして両親を殺害した四季は自分もまた新藤清二と共に自分の子供によって殺されることを認識する。そうすることで真賀田四季と云う存在をアップデートするかのように。
我が子という新しい生と両親の死という誕生と消滅の両方を経験した真賀田四季。
彼女は平気で死について語る。それはまさにコンピュータで使われる二進法、0と1しかない世界のように実に淡白だ。生と死の間に介在する人の情に対して彼女は全く頓着しない。必要であるか否かのみ、彼女の中で選択され、そして判断が下される。

次の秋は森作品ファンへの出血大サービスの1作。
それまでと異なり、なかなか真賀田四季本人が登場せず、寧ろ犀川創平と西之園萌絵とのやり取りと保呂草潤平と各務亜樹良の再会とそれ以降が中心に語られ、S&Mシリーズの延長戦もしくはVシリーズのスピンオフといった趣向で、主人公である真賀田四季は全283ページ中たった10ページしか登場しない。

さて秋はやはり実りの秋と呼ばれる収穫の季節だ。まさにその季節が示す通り、収穫の多い作品となった。
前作で保呂草の許に飛んだと思われた各務は逆に保呂草に捕まり、その秘めたる恋を始まらせる。
西之園萌絵の収穫はやはり犀川との婚約だろう。そして彼の母親瀬在丸紅子との会談で得られた人生訓もまた大きな収穫だ。
犀川創平は妃真賀島の事件に隠された真賀田四季の動機がようやく明かされた。
まさに収穫の1冊である。

最後の冬は遥かな未来に向けての物語か。
冬では一旦『秋』でそれまでのシリーズとの結び付きを語ったことでリセットされ、これからの物語のための序章というべき作品として位置づけられるようだ。
従って今まで本書までに刊行されてきた森作品を読んだ私でさえ、本書に描かれている内容は曖昧模糊としか理解できていない。本書が刊行されて15年経った今だからこそ上に書いたシリーズへと繋がっていくことが解るのだが、刊行当初は読者は全く何を書いているのか戸惑いを覚えたことだろう、今の私のように。

冬は眠りの季節。ほとんどの動物が冬眠に入り、春の訪れを待つ。本書もまた新たなシリーズの幕開けを待つ前の休憩といったことか。英題「Black Winter」は眠るための消灯を意味しているように私は思えた。

そして真賀田四季。『四季 春』で生を受けたこの天才はしかし以前のような無機質な天才ではなくなっている。いっぱいやらなくてはならないことがあるために人への関与・興味をほとんど持たなかった天才少女は娘を生み、外の世界に飛び出して自分で生活をしたことで感受性、母性が備わり、慈愛に満ちた表情を見せるようになっている。
頭の中の演算処理が上手く行っている時にしか笑わなかった彼女が人の死に可哀想と思い、花を見て綺麗と感じ、空を見て色が美しいと思うようになっている。

物語の最後、犀川は四季に問う。「人間がお好きですか」と。そして四季は「ええ……」と答える。綺麗な矛盾を備えているからと。論理的であることを常に好む彼女が行き着いたのは愛すべき矛盾の存在。それこそが人だったのだ。

真賀田四季はまだその生命を、いや存在を残してまだまだ色々とやることがあるようだ。但しその彼女は今までの彼女ではなく、人への興味を持ち、そして自らにその人格を取り込んで生きている。もはや時間を、空間をも超越し、終わりなき思弁を重ねる1人の類稀なる天才が神へとなるプロセスを描いたのがこのシリーズなのだ。そしてそれはまだ途上に過ぎない。

但し解るのはそこまでだ。それは仕様がない。なぜなら私のような凡人には天才の考えることは解らないのだから。

今後のシリーズで『四季』で生れた数々の疑問が解かれていくのだろう。その時またこの作品に戻り、意味を理解する。ある意味『冬』が全森作品の行き着く先なのかもしれない。

No.33 7点 ダウン・ツ・ヘヴン- 森博嗣 2019/05/10 23:45
『スカイ・クロラ』シリーズ第3作。時系列的には『ナ・バ・テア』の後日譚であり、『スカイ・クロラ』の前日譚である。まだシリーズは残っているのでそれらがどの位置に来るのかは不明だが。

草薙が本書で辿る道筋は我々社会人、いや大人全てに当て嵌ることだ。
夢を抱いてやりたいことを実現するために入社し、最初は上司の許で手法を学び、社会人として成長していく。そしてめでたく頭角を現し、上層部から注目を浴びるようになると上に立つ立場の人間へと押しやられる。しかしそこは会社の経営や政治的な仕事が多くなり、次第に本来やりたかった仕事からは遠ざけられ、相手との折衝や腹の探り合いなどの毎日が続く。

理想と現実のギャップ。本書における草薙水素はまさに大多数の社会人が抱く、いつしか夢を喪失し、現実に直面せざるを得なくなった社会人たちの姿だ。
恐らくこれは森氏の心情そのものなのだろう。
建築を学びたいと大学に入り、そして更にその道を究めたいとそのまま大学で研究を続け、その成果が認められて助教授になるが、やることは学生たちや後進への指導と会議ばかり。なかなか研究に没頭できなくなる。

何かをやりたいというのは子供の頃から持つ願望だ。だからこそ森氏は本書においてキルドレという永遠の子供を設定したのではないか。

本書の中でも草薙水素が吐露する心情の中に、「もう子供ではないのだから」という理由で搾取されてきた数々の想いや物が述べられる。
楽しいだけで過ごす毎日が子供の時代でそれを終えるのが大人の時代の始まり。子供の小さい世界が大人になるにつれて大きく広がっていくのに逆にやりたいことや出来ることは狭まっていく。

子供の頃、「それは大人になってからね」と云い聞かされ、大人になったら色んな事が出来るのだ、早く大人になりたいと願いながら、実際に大人になってみると周囲に合わせ、自我を通そうとすると疎んじられ、望まれもしないことを出来るから、挑戦だという理由でやらされ、やりたいことが出来なくなり、やらなければならないことばかりが増えていく、この大いなる矛盾。

しかしでは永遠の子供キルドレは純然たる自由を愉しんでいるのかと云えばそうではない。子供でありながら、大人の世界に生きる彼らは次第に純粋さを奪われていく。
草薙水素のようにただ飛行機に乗り、敵と戦い、勝つことだけが楽しくて続けてきたキルドレ達もやがてこの単純なサイクルに嫌気が差してくるようだ。来る日も来る日もやりたいことを続けるのもまた苦痛であるらしい。不死の存在でありながら命のやり取りである空中戦に望む彼ら彼女らはその無限のサイクルを止めるために無謀な戦いに挑み、そして散っていく。
そうすることしかそれを止められないからだ。

大人になることの不自由さを謳いつつ、一方で子供であり続けることの絶望も描く。
そのどちらも備えた草薙水素はなんと可哀想な存在なのだろうか。前作では人生の苦みと空に飛ぶことの愉しさを知った草薙が本書で第1作に繋がる絶望への足掛かりを付けるのが何とも痛々しい。

そして本書では第1作の主人公カンナミ・ユーヒチと草薙水素の邂逅が語られる。この2人のシーンは実に意味深でしかもまた官能的でもある。
それは草薙水素の産んだ子こそがこのカンナミ・ユーヒチだからではないか。草薙はカンナミに妙な繋がりを感じ、思わず口づけをするが、それは男と女という感情ではなく、親が子を愛する慈しみの感情、母性ゆえだからだろう。

また本書では上司の甲斐の心情も大いに語られる。前作の後半で出てきた彼女は草薙の精神的支柱となっている。
若い女性でありながら本社の上層部との調整役を担っている彼女は男性社会の中で女性というハンディを感じ、悔しい思いを抱きながら、今に見ていろの精神でのし上がってきたことを述べる。そしてエースパイロットとして徐々に一介の戦闘機乗りから指揮官への道を歩まされる草薙に対し同じ女性として良き理解者であろうとする。
ティーチャとの戦闘が不満足に終わり、怒りに明け暮れている草薙を甲斐は悔しかったら人より高いところに上がるしかないと諭す。そしてやりたくないことを強いられた連中を見返してやればいい、と。
これはある意味真実で、ある意味誤りだ。なぜなら草薙は逆に上に上がりたくなく、このままずっと戦闘機に乗り、戦いたいのだから。会社の中で上に上がることを諭した甲斐は草薙から自由を奪っていくことを促したのとさえ云えるだろう。大人と子供の世界の齟齬がここには表れている。

また私がいつも不思議だと思うのはどうして飛行機乗りでもないこの作家がこれほどまでに戦闘機乗りの心情や飛行シーンをパイロットの皮膚感覚で描写できるのかということだ。
よほど綿密な取材をされたのか、はたまた知り合いに自衛隊のパイロットがいるのか解らないが、まさに“それ”を知っているものでないと書けない叙述だ。

そして最たるのは飛行シーン、戦闘シーン。それらの描写で短文と改行を多用し、ページの上半分のみを文字で埋めた書き方だ。
前作、前々作の感想でも述べているがそれがまさに読んでいるこちらが主人公と共に戦闘機に乗っている感覚が得られる。しかもその内容は実に専門的で実際のところ、どんな技術が行われ、どんな風に飛んでいるのかはマニア含め、その道に通じている者にしか十分に理解できないはずなのに、なぜか頭の中にその一部始終が映像として浮かぶのだ。この筆致はまさに稀有。

Down To Heaven。
天は上るものであるのに草薙水素にとって天は墜ちていく先に辿り着くところであるらしい。本書の表紙の色グレイは草薙が墜ちていく空の雲の色を指す。戦闘機乗りの草薙が死ぬべきところは地上ではなく空。空に墜ちて死ぬことこそが本望。
しかしその時の空は雲に覆われた灰色の空で希望はない。希望が無くなった時に墜ちる空は灰色。空を泳ぎ(スカイ・クロラ)、全き空の只中(ナ・バ・テア)に辿り着き、そしてそこへと墜ちていく(ダウン・ツ・ヘヴン)。
草薙水素が絶望に明け暮れる序章の巻。その時が訪れるまで草薙水素よ、ただただ楽しく飛び続けてほしい。

No.32 8点 ZOKU- 森博嗣 2019/02/03 22:53
さてこれは森版『ヤッターマン』とも呼ぶべき作品か。

犯罪にまでには至らない被害の小さな、しかし見過ごすには大きすぎる悪戯を仕掛けるZOKUとそんな悪戯に真面目に抵抗し、阻止せんと追いかけるTAI。
それは「ヤッターマン」における、ドロンボー一味とヤッターマンを観ているかのようだった。

さてそんな「まじめにふまじめ」を行うZOKUのメンバーは、黒幕の黒古葉善蔵にロミ・品川、ケン・十河、バーブ・斉藤で構成されており、プライベートジェットを根城としている。
一方「ふまじめをまじめ」に阻止しようとするTAIは白い機関車を基地にしており、木曽川大安を所長に、揖斐純弥、永良野乃、庄内承子が主要メンバーである。

木曽川と黒古葉はお互い実に親しい幼馴染でいがみ合っていない。寧ろ顔を合わせた時にはお互い談笑する仲だ。昔から悪戯好きだった黒古葉とそれを真面目な木曽川が少年時代から尻ぬぐいしてきた仲である。つまりこれは2人の大富豪が日本全国を舞台に繰り広げる壮大なお遊びなのだ。

一大財を成し、遊ぶお金と自由な時間を手に入れた2人が始めたのは日本全国を巻き込んだ正義と悪の対決ごっこ。こんなワンアイデアから生まれた本書は稚気に満ちていて実に愉しい読書の時間を提供してくれた。

そして作中に出てきたZOKUの数々の悪戯は恐らく森氏が日ごろから想像している「やってみたら面白い事」の数々であるに違いない。大人になって出来なくなったこれらの悪戯、いや大人にならないとできないが実際やれば逮捕されてしまうから出来ない悪戯を森氏はZOKUの面々に託したのだろう。

幸いにしてこの後もシリーズは続き、この憎めない輩たちと再会する機会があるようだ。次作を愉しみに待つとしよう。

No.31 7点 虚空の逆マトリクス- 森博嗣 2019/01/20 22:31
私は遅れてきた森作品の読者だが、逆に今だからこそ書かれている内容が理解できるものがある。そう、森作品に盛り込まれているIT技術は刊行当時最先端のものだからだ。

それが電脳世界を舞台にした1作目の「トロイの木馬」。
この作品は島田荘司氏が21世紀初頭に当時生え抜きのミステリ作家たち数名に新たな世界の本格ミステリ作品を著すとの呼びかけにて編まれたアンソロジー『21世紀本格』に収録された作品で、システムエンジニアを主人公とした物語だが、一読、これが2002年に書かれたものであることに驚愕を覚えた。
ここに書かれている在宅勤務による電脳世界―この用語ももはや死語と化しているが―を介しての仕事、ネットワークトラップである「トロイの木馬」のこと、更には小型端末と表現されたモバイル機器と16年後の今読んでも全く違和感を覚えない現代性がある。いやむしろ発表当時に読んでも全く何を書いているのか解らなかったのかもしれない。IT社会として情報化が進み、タブレットやスマートフォンが流布した現代だからこそ理解できる内容だ。

長編が非常にクールかつドライで一定の距離感を持った、理系人間が書く論文めいた作風であるのに対し、短編は幻想的かつ抒情的でセンチメンタリズムを感じさせる、文学趣味が横溢した作風と趣が異なっているのが特徴だ。
長編が左脳で書かれた作品とすれば短編は右脳で書かれた作品とでも云おうか。そしてどこか非常に森氏の日常や感情が短編には多く投影されているように思える。いわゆる森氏の人間的エキスが色濃く反映されているように思えるのだ。

またどこまで本気なのか解らないが内容にそぐわないタイトルである「ゲームの国」は『今夜はパラシュート博物館へ』にも同題の物があり、それは森作品のタイトルのアナグラムが横溢していた。
そして今回は回文。つまりタイトルのゲームの国とは恐らく言葉のゲームに親しむ作者自身の稚気を優先した作品世界そのものを指しているようだ。

そして何よりもボーナストラックとも云うべきはS&Mシリーズの「いつ入れ替わった?」だ。
本作では引っ付いては離れ、または平行線を辿るかと思えば、接近していくが寸前のところで決して接しない反比例の双曲線とX軸、Y軸のような2人の関係に進展が、それも大きな進展が見られる。
シリーズ本編の最終作で肩透かしを食らった感のある読者は本作を必ず読むことをお勧めする。

さて本書のベストを挙げるとすれば「赤いドレスのメアリィ」となるか。何とも云えない抒情性を私は森氏の短編に期待しているが、それに見事に応えてくれた作品である。
人を待つ。何ともシンプルな行為だが、これほど孤独を感じさせる行為もない。しかもその行為が長ければ長いほど人はその人の待ち人に対する思いの深さを思い知らされる。数多あるこの種の作品がいつも胸を打つのは待っている人の想いの深さが計り知れないがゆえに感銘を打つからだ。そして本作もまた同じだ。
やがて人に忘れられる町の片隅の神話。そんな物語だ。

恐らくはシリーズファンにしてみれば「いつ入れ替わった?」は渇望感を満たす1編になるだろうが、やはり私は西之園萌絵にそれほど好意的ではないのでベストとまでには至らない。

しかし全てを明かさないスタイルは本書も健在。
読者はただ単純に読んでいると本書に隠された謎や真意、真相が見えなくなっている。もしかしたら私がまだ気づいていない仕掛けがあるのかもしれない。作者のこの不親切さはある意味ミステリを読む姿勢が正される思いがして、うかうか気が抜けない。
読者もまた試されている。そういう意味では森氏の短編集は問題集のようなものになるかもしれない。

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