皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
していません。ご注意を!
Tetchyさん |
|
---|---|
平均点: 6.73点 | 書評数: 1614件 |
No.1354 | 10点 | スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編- スティーヴン・キング | 2017/10/31 23:53 |
---|---|---|---|
先頃読んだ『ゴールデンボーイ』に収録された2編と合わせて『恐怖の四季』として編まれた(原題は“Different Seasons”とニュアンスが異なるのだが。正しくは本書収録の前書きに書かれている『それぞれの季節』が正しいだろう)中編集の後編に当たるのが本書。
この中編集はキング自身が語るように、彼の専売特許であるモダンホラーばかりではなく、ヒューマンドラマや自叙伝的な作品もあり、また1冊の本として刊行するには短編には長すぎ、長編としては短すぎる―個人的には300ページを超える「ゴールデンボーイ」と「スタンド・バイ・ミー」は日本では1冊の長編小説として刊行しても申し分ないと思うが―ために、この―当時の―キングにとって扱いにくい“中編”たちを1冊に纏めて、その纏まりのなさを逆手に取って“Different Seasons”と銘打ってヴァラエティに富んだ中編集として編まれたのが本書刊行の経緯であることが語られている。 そして4作品中3作品が映像化され、しかも大ヒットをしていることから、本書は結果的に大成功を収めた。そしてその作品の多様さが“キング=モダンホラー”のレッテルを覆し、むしろその作風の幅の広さを知らしめることになった。 まず表題作はもう30年近く前に見た映画なのに、本作を読むことで鮮明に画像が蘇ってくる。犬に追いかけられて必死に逃げるゴーディの姿。鉄橋を渡っている時に現れた列車から轢かれまいと死に物狂いで逃げる2人の少年たち。後に小説家となるゴーディが語るパイ食い競争の創作物語の一部始終。池に入ってたくさんのヒルに咬まれ、更にゴーディは股間にヒルが吸い付いて卒倒する。ゴーディが心底心を許すクリスが自分がとんでもない家族に生まれついたことで将来を儚み、ゴーディに未来を託すシーン。そして町の不良たちと死体の第一発見者の権利を賭けて対決する場面、などなど。それらは映像で見たシチュエーションと全く同じであったり、細かい部分で違ったりしながらも脳裏に映し出されてくる。当時観た時もいい映画だと思ったが、今回改めて読み直して自分の心にこれほどまでに強く焼き付いていることを思い知らされた。 このあまりに有名な題名は実は映画化の際につけられたものだった。この題名と共にリバイバルヒットとなったベン・E・キングの名曲“Stand By Me”がどうしても頭に浮かんでしまい、読書中もずっと映像と曲が流れていた。それほど音と画像のイメージが鮮烈なこの作品の映画化はキング作品の中でも最も成功した映画化作品として評されているのも納得できる。 そして映画の題名こそが本作に相応しいと強く思わされた。“友よ、いつまでもそばにいてくれ”。それは誰もが願い、そして叶わぬ哀しい事実だから胸に響く。別れを重ねることが大人になることだからだ。そんな悲痛な願いが本書には込められている。だからこそ本書では12歳の夏の時の友人が最も得難いものだったことを強調するのだろう。 もう1編の「冬の物語」と副題のつく「マンハッタンの奇譚クラブ」は紹介者だけが参加できるマンハッタンの一角にあるビルで毎夜行われる集まりの話。そこは主に老境に差し掛かった年輩たちが毎夜煖炉に集まって1人が話す物語を聞く、云わばキング版「黒後家蜘蛛の会」とも云える作品だ。『ゴールデンボーイ』の感想に書いたように、この『恐怖の四季』と称された中編集に収められた作品のうち、唯一映像化されていないのがこの作品だが、だからと云って他の3作と比べて劣るわけではなく、むしろ映像化されてもおかしくない物凄い物語だ。 その美貌ゆえに俳優を目指しニューヨークに出てきたものの、右も左も解らない大都会で生きるために演技教室で知り合った男性と肉体関係を持ったがために夢を断念し、シングルマザーの道を歩まなければならなくなったある女性の話だ。この実にありふれた話をキングはその稀有な才能で鮮明に記憶される強烈な物語に変えていく。 自分のボキャブラリーの貧弱さを承知で書くならば、少なくとも10年間は何も語らなかった男がとうとう自分から話をすると切り出しただけに、読者の期待はそれはさぞかし凄い物語だろうと期待しているところに、本当に凄い物語を語り、読者を戦慄し、そして感動させるキングが途轍もなく凄い物語作家であることを改めて悟らされることが凄いのだ。 そして2012年にはこの最後の1編も映画化されるとの知らせがあったが、2017年現在実現していない。「ゴールデンボーイ」は未見だが、残りの2作の映画は私にとって忘れ得ぬ名作である。もし実現するならばそれら名作に比肩する物を作ってほしいと強く願うばかりだ。 春と夏、秋と冬。それぞれ2つの季節に分冊された2冊の中編集はそれぞれの物語が陰と陽と対を成す構成となっている。春を司る「刑務所のリタ・ヘイワース」と秋を司る「スタンド・バイ・ミー」が陽ならば、夏を司る「ゴールデンボーイ」と冬を司る「マンハッタンの奇譚クラブ」が陰の物語となる。それは中間期は優しさの訪れであるならば極端に暑さ寒さに振り切れる季節は人を狂わす怖さを持っているといったキングの心象風景なのだろうか。 そして各編に共通するのは全てが昔語り、つまり回想で成り立っていることだ。キング本人を彷彿させる小説家ゴードン・ラチャンスを除き、残り3編は全て老人の回想である。それはつまりヴェトナム戦争が終わった後のアメリカが失ったワンダーを懐かしむかの如くである。田舎の一刑務所で起きたある男の奇蹟の脱走劇、元ナチスの将校だった老人の当時の生々しい所業、少年期の終わりを迎えた12歳のある冒険の話、そしてまだ若かりし頃に出逢ったある妊婦の哀しい物語。それらは形はどうあれ、瑞々しさを伴っている。 本書の冒頭に掲げられた一文“語る者ではなく、語られる話こそ”は最後の1編「マンハッタンの奇譚クラブ」に登場するクラブの煖炉のかなめ石に刻まれた一文である。 この一文に本書の本質があると云っていいだろう。モダンホラーの巨匠と称されるキング自身が語る者とすれば、本書はそんな枠組みを度外視した語られる話だ。 つまりキングが書いているのはホラーではなく、ワンダーなのだ。キングはモダンホラー作家と云うレッテルから解き放たれた時、斯くも自由奔放に物語の世界を羽ばたけるのだと証明した、これはそんな珠玉の作品集である。 春夏秋冬、キングの歳時記とも呼べる本書は『ゴールデンボーイ』と併せて私にとってかけがえない作品となった。 |
No.1353 | 4点 | 猿島館の殺人~モンキー・パズル~- 折原一 | 2017/10/25 23:42 |
---|---|---|---|
折原一氏と云えば叙述トリックの雄として知られているが、翻ってこの黒星警部シリーズは密室物ミステリを扱う、本格ミステリど真ん中の設定である。上に書いたように本書もまた密室ミステリであるが、以前より作者は新しい密室ミステリは生まれず、これからは過去のトリックをアレンジした物でしかないと公言しており、密室物を売りにしたこのシリーズではいわゆる過去の名作ミステリの本歌取りが大きな特徴となっている。
本書ではまずポオの「モルグ街の殺人」がメインモチーフになっているが、その後もドイルの「まだらの紐」をモチーフにした密室殺人が起きるなど、複合的に過去のミステリのトリックがアレンジされて導入されている。 しかしさすがに3作目ともなると作者もこの設定自体にミスディレクションを仕掛けており、上に掲げたミステリをモチーフにしながら、実はもう1つクイーンの名作の本歌取りでもあったことが最終章で明かされる。1作目はクイーンの中編「神の灯」であったことを考えるとやはりこの作者は根っからのクイーン好きらしい。 しかしこの過去の名作ミステリから本歌取りすることを明言し、そこから新たなミステリを生み出すことに対しては異論はないのだが、黒星警部シリーズの一番困ったところは本歌取りした原典のトリックや犯人を明らさまにばらしていることだ。 本書でもいきなり「モルグ街の殺人」の犯人を明かし、更に「まだらの紐」のトリックも躊躇いもなく明かしているし、更には上に書いたクイーンの原典についても伏字ではあるが、伏字の意味がないほど明確に書かれている。 これらは恐らくあまりにも有名過ぎて本書の読むミステリ読者ならば既知の物だろうと作者自身が判断した上の記述だろうが、やはりどんな判断に基づこうがミステリのネタバレは厳禁である。特に他のミステリのネタバレを公然とすることに大いに抵抗を感じるのだ。 現代のミステリ読者は島田荘司氏の作品や新本格と呼ばれる綾辻氏の作品以降のミステリから触れることが多く、過去の名作、特に黄金期の海外ミステリを読まない傾向にあると云われて久しい。そんな背景も考慮して折原氏は今の読者が読まないであろう過去のミステリのネタバレをしているのかもしれないが、それでもやはりそれはミステリを書く者が読者に対して決して犯してはいけない不文律であると私は強く思うのである。特にこの黒星警部シリーズはカッパノベルスから刊行されたサラリーマンがキオスクで気軽に出張中に読むような類いのものであるから、そんな一般読者にさえネタバレをしているのである。 本歌取りをすることに是非はない。しかしその内容に問題がある。ネタバレをするのであれば、まずはその断りを書くべきだし、いやもしくはネタ元を明かす必要もないのではないかと思う。解る人には解ればいいのであって、別に明確にネタ元を示す必要もないだと思う。 あとそもそも埼玉県白岡署の黒星警部が神奈川県の江の島動物園から逃げたチンパンジーを探す担当になることが実におかしい。神奈川県警の所轄なのになぜ埼玉県の警部が担当するのか?書中では白岡には東武動物公園があるからと理由になっていない理由で駆り出されているが。この辺の非現実的な設定も気になった。現在のミステリならば必ず突っ込まれるところだろう。 さて本書の舞台となった猿島は実は実際に存在し、刊行時は無人島で大蔵省(刊行当時)関東財務局の管理地であり、立入禁止で渡し船もないと書かれているが、実は今では猿島公園として開放されている。 最近は昔の軍の要所の史跡としてよりもジブリ作品の『天空の城ラピュタ』を彷彿とさせる風景として人気のスポットとなっており、案外今回の葉山虹子の取材は時代を先駆けた現実味のある話だったようだ。また本書に書かれている猿島の由来となった日蓮に纏わる伝説も実際に伝えられており、元宮司の一族だった猿谷家のような血筋もどこかにいるかもしれないと、案外荒唐無稽な話でないところが面白い。 但し次回からはネタバレ無しでお願いしたいものだ。 |
No.1352 | 7点 | ブラッド/孤独な反撃- デイヴィッド・マレル | 2017/10/23 23:58 |
---|---|---|---|
これは喪った物を取り戻そうとして奪った男と、奪われた物を取り戻そうとして奮闘し、奪還したが、喪った物までは取り戻せなかった男たちの、哀しき兄弟の話だ。
神隠しに遭っていた弟が数十年ぶりに出逢ったら復讐者となっていた。この設定だけでも衝撃的なのに、マレルはさらに物語にツイストを仕掛ける。 ただ私が本当に恐ろしく感じたのは、ブラッドと数十年ぶりに再会したピーティの様子が本当に嬉しそうで楽しそうに見えたことだった。兄とその家族との団欒を満喫しているかのように振る舞いながら、心の底では全てを奪おうと考えていたことが実に恐ろしく感じた。この前段のブラッド一家とピーティとの和やかな交流の様子がピーティの心の暗黒の深さを助長しているように思える。 しかしこのような話を読むと、子供の頃の何気ない弟への仕打ちが起こした代償の重さを感じてしまう。物語の結末の苦さも含めて、こんなことが起こり得るアメリカの治安の悪さが恐ろしく感じる物語だった。 |
No.1351 | 9点 | 神秘の島- ジュール・ヴェルヌ | 2017/10/16 23:46 |
---|---|---|---|
上下巻併せて830ページ弱。これまでのヴェルヌ作品でも長大を誇る作品だが、ヴェルヌの膨大な知識によって次から次に繰り出されるサヴァイバル術や探検行によって全くだれることなく物語が続く。それまでのヴェルヌ作品の全てを注ぎ込んだかのような一大長編だ。
農林畜産、養殖業といった第1次産業から、製鉄、建築、建設、ガラス工業と云った製造業の第2次産業とたった5人と1頭の犬、そして途中で加わるオランウータンによってこれら全てのことが網羅されている。サイラス・スミスと云う、ヴェルヌ自身を投影させたかのような博学の技師の指導の下、有能なメンバーによって彼らの生活は発展を遂げ、一種の町を、いや独立した国家を形成していくかのようだ。 勿論それらは非常に出来過ぎの感はある。何事もスムーズに進み、時折獣たちに彼らの飼育場が荒らされそうになるなどの事件もあるが、それは大したものではない。また長きに亘る共同生活にありがちな住民同士の価値観の違いによる衝突や派閥なども生まれず、実に理想的なコミュニティを形成されているのも人間ドラマ的には起伏がないだろう。そういった部分がもしかしたらヴェルヌ作品が子供の読み物との評判を授かっていたのかもしれないが、こういったごく少数の人間によって運命を切り拓く純粋な楽しさを本書は備えている。 ところで不満を敢えて云うとすればヴェルヌの作品はとことん女気がないことだ。本書で登場するのは全て男どもだ。今まで読んできた作品で女性が物語に絡んできたのは『グラント船長の子供たち』と『八十日間世界一周』ぐらいではないだろうか。ヴェルヌの書く物語は少年たちの冒険心をくすぐるのには非常に優れているが、昨今の小説に必需品とも云えるロマンスが一切ないのである。これが世間をしてヴェルヌ作品を児童文学たらしめている1つの要因であると思える。 しかしそれだけでヴェルヌ作品を敬遠するのは大きな間違いだ。上に書いたように本書は数多の知識と生き抜く知恵が豊富に与えられ、しかも今までの一連のヴェルヌ作品が単発的に書かれたわけではなく、大きな物語世界が広がっていたことをも教えてくれるのだ。確かに現代の小説から見れば男女のロマンスなどの感情の起伏に乏しい面もあるが、今なお読まれるべき作品であるとの思いは強まった。 南北戦争からの決死の脱出、無人島に辿り着いた男たちのサヴァイバル生活、海賊たちとの戦い、そして彼らを見守る謎の存在、最後は生きるか死ぬかのタイムリミットサスペンス。 よくよく考えると現代の冒険小説に必要な要素がほとんど全て備わっている。ないのは上述した男と女のロマンスぐらいだ。19世紀の遺物と思わず、手に取ってみてはいかがだろうか。少年少女の頃に胸躍らせた冒険の愉しさが、4年間を諦めずに生き抜いた男たちの生活と共に必ず蘇ってくることだろう。 |
No.1350 | 8点 | ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編- スティーヴン・キング | 2017/10/04 23:44 |
---|---|---|---|
キング版枕草子とも云える本書は4編中3編が映画化され、しかもそのいずれもが大ヒットしていることが凄い。それほどこの中編集には傑作が揃っていると云っていいだろう。
まず物語の四季は春から明ける。この季節をテーマに語られるのは「刑務所のリタ・ヘイワース」。副題に「春は希望の泉」と添えられている。まさしくその通り、これは希望の物語である。 この作品に対して私は冷静ではない。本作を原作として作られた映画『ショーシャンクの空に』は私の生涯ベスト5に入るほどの名作だからだ。静謐なトーンでじんわりと染み入るように進む物語に私は引き込まれ、そして最後の眩しいばかりの再会のシーンにこの世の黄金を見るような気になったからだ。本作でレッドが仮釈放され、アンディーの跡を追う一部始終は、人生の大半を刑務所で過ごした人たちが身体に染み付いた刑務所の厳格な生活リズムという哀しい習性とそれを逆に懐かしむ危うさに満ちていて、思わずレッドの平静を願わずにはいられない。そして希望溢るるラスト5行のレッドの祈りにも似た希望は映画のラストシーンとはまた違った余韻を残す。その希望が叶うことを本作の副題が証明しているところがまた憎い。 さて次は「転落の夏」と添えられた表題作。元ナチス将校の老人と誰もが思い描くアメリカの好青年像を備えた少年の奇妙で異様な交流を描いた作品だ。 その副題が示すように一転して物語はダークサイドへ転調する。アメリカの善意を絵に描いたような少年が元ナチス将校の老人の過去を共有することで心に秘められていた殺人衝動を引き起こす話だ。 逢ってはいけない2人が逢ってしまったことで転落していく、実に奇妙な老人と少年の交流を描いた作品はキングしか描けない話となった。よくもまあこんな話を思いつくものだ。 「刑務所のリタ・ヘイワース」は28年もの長きに亘って冤罪で自由を奪われた男が自由を勝ち取る物語。一方「ゴールデンボーイ」は30年近く逃亡生活を続けてきた老人が最後に自由を奪われ、自決する物語。彼らが重ねた歳月は苦しみの日々だったが、その結末は見事に相反するものとなった。前者は自由への夢を見続けたが、後者は自分の行った陰惨な所業ゆえに悪夢を見続けた。 次の後編はあの名作「スタンド・バイ・ミー」が控えている。キングが綴った四季折々の物語。全て読み終わった時に心に募るのはその名の通り恐怖なのか。それとも感動なのか。その答えはもうすぐ見つかることだろう。 |
No.1349 | 7点 | ブラッド・マネー- ダシール・ハメット | 2017/09/29 23:54 |
---|---|---|---|
ハメットの長編デビュー作は『血の収穫』であることは広く知られているが、訳者の小鷹信光氏の解説によれば、『血の収穫』の前の習作として本書に掲載された「ブラッド・マネー」が書かれたようだ。この題名、原題もそのままで直訳すれば「血まみれの金」となるが、『血の収穫』とも訳せる。内容は異なるが、題名の近似性からも理解できる。
さて町に全国から悪党どもが訪れ、何と150人による二つの銀行の同時襲撃が起こる。そこからは事件に関わった悪党たちが自分たちの分け前を得るために殺戮ショーを繰り広げるという実に派手で映像的な作品である。 なんとも荒廃した幕切れだ。これが正義の本当の姿なのだと無慈悲な筆でハメットは語った。真の初長編作は手習いとは思えないほど躍動感と抑揚に満ちたストーリー、そして登場人物たちが織り成す血まみれの祭りだった。 その他6編の短編が収められているがそれらを含めて一言でいえば「荒くれどものジャムセッション」。 そんなハメットの筆は淀みなく、ストーリー展開もスムーズでありながらもサプライズを仕込んでいるところにミステリの妙味がある。しかもそれは単なるミステリとしての仕掛けではなく、闇社会で生きる者たちが生き延びるために行ってきた権謀詐術がサプライズに繋がっているところに本格ミステリと一線を画したリアリティがある。生き延びるためには平気で嘘をつき、そしてまた自分を殺そうとする人たちを平然と殺す者たち。そんな生き馬の目を抜く輩たちの世界ではいかに一歩先んじて出し抜くかが彼らにとって死活問題になるわけだ。そんな世界をミステリに持ち込んだハメットの功績はかなり大きいと再認識した。 もう少し踏み込んで書くと、本格ミステリを読んだハメットは本当のワルはこんなまどろっこしい方法で人を殺害しない、ハジキ1つをぶっ放すだけ。そして相手を騙すことに頭を使うのだと思ったことだろう。そんなリアルをミステリとして描いたのだ。いやワルの生き様の中にミステリがあったことを教えてくれたのだ。 |
No.1348 | 4点 | クラウド・テロリスト- ブライアン・フリーマントル | 2017/09/20 23:50 |
---|---|---|---|
御歳81歳のフリーマントルが2015年に発表したのはなんとサイバー空間を利用した対テロ工作を駆使するNSAのエリート局員ジャック・アーヴァインが率いる面々の活躍を描いた本作だ。当時79歳の高齢にもかかわらず、最先端の情報端末を駆使したこのような作品を書くフリーマントルの創作意欲の旺盛さにまず驚いた。
冒頭でも語られているがオサマ・ビン・ラディンが率いていたアルカイダが情報交換のツールとして使用していたのは今や誰もが利用しているSNSのフェイスブックだった。この全世界数億人が利用するSNSは彼らにとって絶好の隠れ蓑になっていたことが本書でも語られている。なんとアメリカの一企業が、正確には一青年が開発したSNSが敵対者であるアラブ系テロリストにとってこの上ない便利な通信手段になっていたとはなんとも皮肉なことである。 さて物語の中心に据えられている<サイバー・シェパード作戦>。これはサイバー空間でテロリストの一味に成りすまし、テロリスト同士を情報操作によって戦わせて共食いさせるという、いわば現代版『血の収穫』である。しかしそのためには政府の職員であるNSA職員が隠密裏にハッカー行為をして他国のサーバーに侵入するという違法行為を犯すという実に危うい作戦であり、その事実が発覚すれば各国からの非難は免れない代物だ。本書ではイランの諜報機関のサーバーに侵入してテロリストの動向を監視し、CIAが取り逃がしたテロリスト、アル・アスワミーの足取りを探っているが、これは実際に起きたCIA、NSA局員であったエドワード・スノーデンによる2013年にNSAや英国のGCHQがマイクロソフト、グーグル、フェイスブックを監視していたことが発覚した<プリズム計画>、<テンポラ作戦>事件に着想を得ていることだろう。作中でもそのことについては言及されているが、それを踏まえながらも同様のことをしていることが結局米英政府は懲りていないということで、我々は今なお監視下に置かれていることが仄めかされている。 しかしこんなにも短気な連中ばかりが出てくる小説だっただろうか、フリーマントルの作品は。ディベートや会議のシーンでは常に自分の保身のために相手を罵倒し、責任転嫁の怒号が飛び交う。会話文にはエクスクラメーション・マークが散見され、心中で悪づく地の文が必ずと云って挟まれている。ほとんど建設的な意見が見られず、失敗が起きた時のために着かず離れずの状態にしておきたい連中ばかりだ。それはアメリカ側のみならずイギリス側も同様で、自分を通さずに話が上に成されることに腹を立て、足を引っ張ろうと画策する。外部に敵あれば内部にも敵ありの状態。更にお決まりの如くCIA中心の捜査にFBIも介入してきて水を差し、更にCIAの面々の頭に血を登らせ、怒鳴り声が乱舞する。そんな中、失敗の責任を取らされ、無能の烙印を押され、権力の座から落とされる者、有事の時の責任転嫁のためだけに事務屋として窓際にいることを強いられる者と落伍者たちが増えていく。 内部抗争と、ライバル視する国同士の争いに筆が注がれ、本来の敵であるアルカイダのリーダーはなかなか捕まらないという、なんとも不毛な展開が続く。フリーマントルも歳を取って癇癪が過ぎるようになったのだろうか。とにかくページを捲ればケンカや諍いばかりで、正直読んでいて気分が良くなかった。 しかしサイバー空間での諜報活動とテロリストとの攻防を描きながらも、上に書いたように内部抗争の権謀詐術の数々に筆が割かれているのはいつもと同じである。いや逆に今回は情報戦であるがゆえにいつもよりも情報が多く、それに下らない抗争が上乗せされている分、かなり苦痛を強いられた。敢えて苦言を呈するならば、やっていることは同じで題材と登場人物を替えただけであるとの思いが強く残ってしまった。 80歳を迎えて健筆を振るうフリーマントルの創作意欲には感服するが、もし次作があるなら、爽快な、もしくは少しは心温まる結末を迎える物語を読みたいものである。 |
No.1347 | 9点 | 虚ろな十字架- 東野圭吾 | 2017/09/11 23:29 |
---|---|---|---|
かつて東野圭吾は『手紙』で殺人犯の家族の物語を描き、『さまよう刃』で娘を殺害された父親の復讐譚を描いた。本書『虚ろな十字架』ではその両方を描き、償いがテーマになっている。
物語の主旋律は娘を殺害され、更に別れた妻を殺害された中原道正のパートであるが、次第に対旋律であった仁科史也のパートが重みを帯びてくる。特に仁科史也という人物の気高いまでの誠実さに隠された謎に俄然興味が増してくる。このもはや聖人としか思えないほどの精神性はどこから来るのかと非常に興味を持たされた。 結婚とは、夫婦になると云うのは、家族になると云うのは、知らない者同士が縁あって一緒になるということだ。一緒に住んでいくうちにお互いのそれまでの人生で培われた性格や癖、足跡などを知り、生活を作っていく。しかし何十年過ごしても知らない一面があったことを気付かされるのもまた事実だろう。本書にはそんな家族という最小単位の共同体に隠された謎が描かれている。 血の繋がった子供を持ちながらも、その実本当の姿を知らなかった夫婦。 血の繋がらない子供を持ちながらも、自ら降りかかった不幸に立ち向かおうとする夫婦。 血の繋がりこそが家族の絆ではないこと、それ以上の絆があることをこの2つの家族の生き様は象徴しているかのようだ。 様々な人があれば様々な人生、様々な事情、そして生き様や考え方がある。今回登場した人物の人生が等価であるとは決して云えないだろう。それを人を殺したから罰せられるべきなど単純化したルールで果たして杓子定規的に人を断ぜられるものかとこれまで作者は問いかけてきた。結局人は道理で生きているのではなく、人情で生きているのだとこのような作品を読むと痛感させられ、何が正しくて間違っているのかという我々の既存概念を揺さぶられる。 深く深く考えさせられる作品だった。決して全てにおいて正しい考えなどないことをまた思い知らされた。人は過ちを犯してもやり直して生きていられる、そんな世の中が来ることを望むのは夢物語なのか。そんな思いが押し寄せてくる作品だった。 |
No.1346 | 7点 | ダーク・タワーⅠ-ガンスリンガー-- スティーヴン・キング | 2017/09/10 22:07 |
---|---|---|---|
私が読んだのはシリーズ完結を機にキングによって手が加えられたヴァージョンであり、2004年に新潮文庫から刊行された版。
ファンタジックな世界でありながら、我々の住む世界とはどこか地続きで繋がっているようで、例えばガンスリンガーが訪れる<タル>の町のピアノ弾きが奏でる音楽はビートルズの『ヘイ・ジュード』であり、ジェイクが来た町はニューヨークでタイムズスクエア、ゾロといった映画の登場人物も出てくる。我々の住んでいる世界とは少し位相の異なる世界がこのガンスリンガーたちが住まう世界のようだ。 本書の訳者であり、書評家でもある風間賢二氏の解説によれば、この<ダーク・タワー>シリーズはキングの作品世界の中心となる壮大なサーガであるとのこと。つまり今まで読んできた作品、そしてこれから読む作品に何らかの形で影響し、また繋がりがあるとのことである。そして本書はまだ物語の序の序に過ぎないとのこと。従ってまだ作品世界のほんの入り口に立っただけに過ぎず、次の第Ⅱ巻からが本格的な幕開けとなるらしい。この解説を読んでキングの一読者となり始めた私にとってこのシリーズはやはり読むべき物語であると確信した。 数々の謎を孕んだ壮大なキングのダーク・ファンタジーはたった今始まったばかりだ。 |
No.1345 | 7点 | 本棚探偵の冒険- 喜国雅彦 | 2017/09/10 00:43 |
---|---|---|---|
喜国氏の古本収集狂想曲という副題もつけられそうな本書は世に蔓延る古書収集家のHPやブログにありがちな、どこそこの店で○冊買ったとか、△×デパートの古本市で~~をゲットしたとか、紙一重の差で獲られたとか、古本屋の品揃えに対するコメントなどいわゆる古本マニアが陥りそうな買い物披露会、蔵書展覧会的内容になっておらず、古本や本自体を通じて様々な試みをしているのが面白い(いや勿論半分は古本屋探訪記なのだが)。
特に面白く読んだのが1日でどれほどポケミスをゲットできるかを描いた「ポケミスマラソン」だ。私も一度神田の古本街で古本屋巡りをしたが、朝から行って昼過ぎでも廻りきれず、疲れ切ってしまったのを覚えており、喜国氏の深夜まで本屋を駆け巡る根性には畏れ入った。本を集め出すと、多分ないだろうと解っているのに、どうしても遠方であっても訪れざるを得ない衝動に駆られ、収穫が大方の予想通りになかった場合は徒労感に加え、財布に残ったお金を見てその日に費やした交通費を想像して絶句してしまうのである。本書にはそういった本好きのどうしようも止まらない衝動があらゆる方面から描かれている。 またこれだけいっぱい本を集められる財力と本を収納するスペースがある羨ましさ(巻末のエッセイでは倉庫を借りているとのこと)を感じつつ、表紙が違っていたり、版が違うことで文章や中身が変わっているだけで同じ作品でも何冊も買ったりと、そこまではと感じる部分もあり、本好きの夢の具現化と自分の本好きのバロメータを測る指針にもなったり、本好きあるあると本好きと収集狂の境界を垣間見られたりとなかなかに深い内容なのである。 本書は本好きの本好きによる本を好きになり過ぎておかしなことをしてしまった人々のお話である。この中で語られるエピソードにもう1人の自分を重ねるもよし、はたまた自分の好きな世界のさらに奥深い所を知って、境界線を引くもよし、また喜国氏のように函作り、豆本作りを手掛けるもよしと、読めば読むほど本の深さを知らされる。特に巻末の古書収集仲間の座談会の内容の濃い事、濃い事。そして双葉社の喜国氏の担当もいつの間にか感化されて古書収集に精を出すようになってしまった。古書収集は友を呼ぶのか。 |
No.1344 | 7点 | 第三閲覧室- 紀田順一郎 | 2017/09/03 17:55 |
---|---|---|---|
紀田順一郎氏と云えばビブリオミステリだが、今回は今までの神保町を舞台にした古書収集に纏わるミステリではなく、大学の図書館で起きた殺人事件を扱っている。しかも狂的な古書収集趣味を持っているのは学長の和田凱亮のみで、周囲の人間は大学の費用を稀覯本収集に公私混同して費やす学長に反発する教授たちが取り囲み、学内では派閥争いが起こっているという珍しい設定だ。
密室殺人、ダイイング・メッセージと本格ミステリの要素を放り込みながらも新本格ミステリ作家たちが描くようなトリックやロジックの追求といったガチガチの本格という空気は実に薄く、正直私自身はそれらのトリックについては読書中ほとんど考慮しなかった。 なぜかと云えば登場人物たちのディテールの方が実に濃密で面白かったからだ。 主要人物たちに関するディテールがとにかく濃い。容疑者である島村が誠和学園大学の図書館運営主任になった島村が現職に至るまでの和田宣雄との縁について書かれた内容や和田凱亮の生い立ちなどは、かなりのページが割かれて描かれ、一種実在の人物の伝記かと見紛うほどの濃さがある。昭和の混乱期を生きてきた人間の逞しさや強かさを行間から感じるのである。この濃度は戦前生まれである紀田氏のように戦前戦後の混乱期を知る作家の強みというものだろうか。 また本に纏わる蘊蓄も豊かで知的好奇心をそそる。稀覯本の真贋鑑定に関係して紙博士なる府川勝蔵なる人物が登場するが、そこで披瀝される紙やインクに関する知識は実に興味深い。 本格ミステリとしては意外な犯人を設定しては見たが動機はさほど練られてなく、またミスディレクションの演出のために余計な設定を持ち込んでしまったように思えてならない。上にも書いたようにディテールが濃いだけに逆にミステリとして犯人の動機という肝心な部分や登場人物のエピソードがなおざりになってしまった感があるのは正直勿体ない。 私も本好きで、できれば図書館などで借りるのではなく、自分で所有したい人間。しかも新刊であることに拘り、読むために手に入れた古本は読了後手放している。従って本とは読むために所有する物と考えており、決して集めて悦に浸る物として考えていないから、これらコレクターの境地が解りかねる。本は読まれてこそ本であり、保管されているだけでは書物本来の意義がないではないかと思っているので、逆に云えばまだこのような境地に至っていない自分は正常であると改めて認識できた次第である。ただ絶版を恐れて買ってはいるものの、読むスピードとつり合いが取れていないため、関心のない人から見ると私も大同小異だと思われているのかもしれないが。 紀田順一郎氏のビブリオミステリは一ミステリ読者として自分がまだごく普通のミステリ読み、書物購入者であることを再認識させられるという意味でも良著だ。このような本に魅せられ本に淫した人々のディープな世界を見ることはしかしなんと面白い事か。どんな世界でも人を狂わせる魔力はあろうが、書物に関しては派手さがないだけに闇の如き深さがあるように思われる。最近絶版の本は古本を購入して読むようになってきた私も本書に描かれた人々のような闇に囚われないよう気を付けねば。 |
No.1343 | 8点 | トランク・ミュージック- マイクル・コナリー | 2017/09/01 21:41 |
---|---|---|---|
時はまだ野茂がドジャースで現役で投げていた時代。シリーズ再開の事件はハリウッドの丘で遺棄されたロールスロイスのトランクから頭を撃ち抜かれた遺体が見つかるという不穏なムードで幕を開ける。舞台はラスヴェガスに移り、カジノに纏わるマフィア犯罪の捜査へと進展していく。映画産業、カジノと復帰したボッシュが手掛ける事件は実に派手派手しい。
かつてはジュリー・エドガーを相棒としながらもほとんど一匹狼状態で捜査をしていたボッシュだが新しい上司が組んだ制度、三級刑事をリーダーとした3人1組のチームとして捜査を進めるようになる。三級刑事のボッシュはリーダーとなり、彼の部下に相棒のジュリーとビレッツが古巣から引っ張ってきたキズミン・ライダーが加わっている。またかつてある時は自分自身の過去と因縁を前作で振り払ったボッシュの、シリーズのまさに新展開に相応しい幕開けと云えよう。 私はエレノアが再びボッシュの前に現れると1作目の感想で述べたが、新しいシリーズの幕開けで合間見えるとは思わなかった。ボッシュの始まりには彼女がどうしても付きまとうらしい。そして前科者となったエレノアは当然のことながら法を取り締まる側に戻れず、ラスヴェガスでギャンブルをしながらその日を暮らしている身である。さらに彼女にはある繋がりがあり、それがために彼女との再会は少なからずボッシュを再び窮地に陥れることになる。 ボッシュが辞職の危機に置かれるのはもはやこのシリーズの定番でもあるが、その展開は実に驚くべきもの。それがゆえにこのボッシュの危機もまた引き立つわけだが、いやはやコナリーの物語構成力には毎回驚かされる。 解決してみれば最後に残るのはなんとも哀しい夫婦の物語だった。愛する者を同一にしながらもお互いが父親・母親でなく、一人の男と女であったことから生じた、頭で割り切れない感情から起こった悲劇だった。 新生ボッシュシリーズの大きな特徴はやはりチームプレイの妙味にある。これまで孤立無援、一匹狼の無頼刑事として誰も信じず、頼らずに捜査を続けていたボッシュだが、亡くなったパウンズに替わって新しい上司グレイス・ビレッツは相変わらず綱渡り的なボッシュの強引な捜査に一定の理解を示し、後押しする。またボッシュがリーダーとなったジェリー・エドガーとキズミン・ライダーのチームは個性的で有能で、尚且つ自身のキャリアを危険に晒すことになりながらもボッシュの捜査の正当性を信じ、付いていく忠義心を見せている。今までボッシュの昏い過去に根差された刑事という生き方といったような重々しさから解放された軽みというか明るみを感じさせる。それは単に久々の殺人事件捜査に携わることからくるボッシュの歓喜に根差したものだけでなく、やはり理解者を得たこと、そして仲間が出来たことに起因しているに違いない。 また忘れてならないのはアーヴィン・アーヴィング副本部長の存在だ。彼もまた警察の規範の守護者として振る舞いながらボッシュに対して理解を示し、彼をサポートする。実に味のあるバイプレイヤーぶりを本書でも発揮している。 前作で過去を清算したボッシュが結婚ということで前に一歩踏み出したのだ。つまり家庭という新たな物を生み出す方へ向かったが、どこか人格的に破綻しているボッシュとの結婚生活は波乱に満ちているだろうから油断できない。もしかしたら次作で既に2人の中は終わりに近づいているのかもしれない。長続きしない結婚かもしれないが、人生に前向きになったボッシュと困難を乗り越え、幸せを掴んだエレノアたち2人の前途を祝してこの感想を終わりたい。 |
No.1342 | 7点 | 八十日間世界一周- ジュール・ヴェルヌ | 2017/09/01 01:02 |
---|---|---|---|
もはや何も説明する必要もないほど有名な本書。物語も題名を読むだけで解ってしまう実にシンプルでありながらも面白さ満点である、まさに歴史に残る作品だ。
そして物語はまさに疾走感に溢れている。1872年と云えば日本はまだ明治5年。文明開化の言葉が福沢諭吉によって訳される前の年である(因みにこの言葉は明治8年にcivilizationの訳語として紹介された)。まだ飛行機が発明される前であり、したがって船旅が主流だった頃に80日間、つまり2か月と20日間で世界を一周するためにフォッグ卿とパスパルトゥー、そして途中で道連れとなるアウーダ夫人とフォッグ卿を銀行強盗の犯人と目して追う刑事フィックスは世界を駆け抜けていく。 拙速な旅ゆえ、またフォッグ卿が刊行に興味がないため、それぞれ来訪の地の描写やエピソードが浅く感じるが、それでもインドや横浜ではその特有の風土と文化に筆が割かれている(中にはアメリカではモルモン教の僧侶の意味不明なエピソードまであるが)。特に横浜ではフォッグ卿と離れ離れになってしまったパスパルトゥーが着物を着て、旅のサーカス団の一員になって天狗に扮して曲芸をするなどのエピソードも盛り込まれ、なかなか濃密である。当時の風俗もきちんと描かれ、ヴェルヌは極東のこの地のことをどうやって調べたのだろうかとその博識ぶりに改めて感心させられた。 物語の最後、作者は次のような言葉で締めくくる。 実際、人は、それほど大きな利益がなくても、世界一周をするのではなかろうか? 当時まだ旅行が一般的でなかった時代にヴェルヌが、冒険が将来人々の娯楽になることを予見していたことを示す一行ではないか。こ賞金を得るために人は旅に出るのではなく、むしろ思い出という無形財産を得るために金を出して旅に出る現代を実によく云い当てている。 |
No.1341 | 7点 | バトルランナー- スティーヴン・キング | 2017/08/09 23:58 |
---|---|---|---|
アーノルド・シュワルツェネッガーで映画化もされた本書。その映画が公開されたのが1987年。なんともう30年も前のことだ。当時中学生だった私はテレビ放映された高校生の時にテレビで観た記憶がある。但し細かい粗筋は忘れたが賞金のために1人の男が逃げ、それを特殊な能力を備えたハンターたちが襲い掛かるのを徒手空拳の主人公であるシュワルツェネッガーがなんとか撃退しつつ、ゴールへと向かうと朧げながら覚えている。恐らくこの<ハンター>という設定と制限時間内で逃げ切るという設定は現在テレビで放映されている番組「逃走中」の原型になったように思える。
そんな先入観で読み進めていた本書だが、映画とはやはり、いやかなり趣が違うようだ。 映画では地下に広がる広大なコースを舞台にそれを3時間以内に各種のタラップやハンターたちの追跡(なお映画ではストーカーという呼称)から逃れてゴールすれば犯罪は免除され膨大な賞金を得ることが出来るという設定。 原作では舞台はアメリカ全土。1時間逃げ切るごとに100ドルが与えられる。ハンターが放たれるのは12時間後、そして最大30日間生き延びれば10億ドルが賞金として得られるという、時間と行動範囲のスケールが全く違う。そのため更にテレビ放送用にビデオカセットを携え、それを自身で録画してテレビ局に送らなければならない。 従って映画のようにまず次々と必殺の武器を備えたハンターが出てくるわけではなく、ベンは犯罪の逃亡者が行うように、闇の便利屋を通じて偽装の身分証明書を作り、ジョン・グリフェン・スプリンガーと名を変え、変装し、ニューヨーク、ボストン、マンチェスター、ポートランド、デリーへと国中を渡り歩いていく。周りの人間が自分を探しているのではないかと疑心暗鬼に怯える日々を暮らしながら。つまりどちらかと云えば昔人気を博したアメリカのドラマ『逃亡者』の方が設定としては近い。というよりもキングは1963年に放映されていたこのドラマから着想を得たのではないかと考えられる。 完全なる悪対正義の構図を描きながら、映画は制限時間内で特殊能力を持つハンターたちを描いた徹底したエンタテインメント作品となった。そして原作である本書は絶対不利な状況でしたたかに生きる、ドブネズミのようにしぶとい男の逃走と叛逆の物語として描いた。どちらもメディアによる情報操作され、完全に管理された社会の恐ろしさを描きながら、こうもテイストが異なるとはなかなかに興味深い。私は高校生の頃に観た映画を否定しない。作者は設定だけを拝借した、いわばほとんど別の作品と化した映画に対して批判的かもしれないが、逆に別の作品として捉えれば娯楽作品として愉しめたからだ。逆にそれから30年以上経った今、大人になって本書を取ったことは両者を理解するのにいい頃合いだったと思う。 公害問題を扱った本書をパリ協定から離脱したトランプ大統領はいかにして読むのだろうか。『デッド・ゾーン』の時にも感じたがキングがこの頃に著した作品に登場する圧政者たちが現代のトランプ大統領と奇妙に重なるのが恐ろしくてならない。実は今こそ80年代のキング作品を読み返す時期ではないか。アメリカの暗鬱な未来の構図がまさにここに描かれていると思うのは私だけだろうか。シュワルツェネッガーの昔の映画の原作という先入観に囚われずに一読することをお勧めしたい。 |
No.1340 | 7点 | 六人の超音波科学者- 森博嗣 | 2017/08/07 23:27 |
---|---|---|---|
Vシリーズ7作目の舞台は奥深い山中にある怪しい研究所。しかもそこにアクセスする橋は何者かによって爆破され、電話線も断ち切られ、外部への連絡も遮断された状態となる、まさに陸の孤島物ミステリ。更にその研究所の創設者は不治の病に侵され、仮面を被り、車椅子に乗ってそこにあるボタンでコミュニケーションを交わす老人と本格ミステリのガジェットに包まれた作品だ。そして例によって例の如くそんな閉鎖された空間で起きる殺人事件にお馴染みの瀬在丸紅子と保呂草潤平、小鳥遊練無と香具山紫子の面々が挑む。
ところで本書に読んでいるとある違和感に気付く人がいるのではないかと思われる。本書はある意味シリーズ全体に仕掛けられた仕組みが暗に仄めかされていることで実はマストリードの1冊なのかもしれない。 今にして思えばこの土井超音波研究所はデビュー作で登場する真賀田研究所の原型だったのかもしれない。共に自分たちの研究に没頭する科学者たちの楽園であるが、前者は相続という実に詰まらない問題でそれを手放さなければならなくなった砂上の楼閣であったのに対し、後者は大天才真賀田四季によって潤沢な資金によって支えられた理想の楽園となった。 超音波の分野で天才の名を恣にした土井博士は真賀田四季のプロトタイプだったと考えてもおかしくはないだろう。 なぜならプロローグで保呂草は次のように結んでいる。 未来は過去を映す鏡だ。 心配する者はいつか後悔するだろう。 自分が生まれ変わるなんて信じている奴にかぎって、ちっとも死なない。 もしかしたら土井博士は真賀田四季の××かもしれない。そんな想像をして愉しむのもまた森ミステリの醍醐味の1つだろう。 |
No.1339 | 7点 | 朱房の鷹- 泡坂妻夫 | 2017/08/06 23:10 |
---|---|---|---|
宝引きの辰も実に久しぶり。しかしそんなブランクもひとたび捲れば粋な江戸の世界へ迷い込み、ご用聞きの辰親分の人情味溢れる采配に思わずひゅうと口笛を吹きたくなる。
1話ごとに語り手が変わる手法も相変わらずで、1話目は辰親分の子分算治、2話目は事件の舞台となる内田屋の使い伊吉、3話目は仕立屋の沼田屋の若旦那、4話目は噺家の可也屋文蛙、5話目が経師屋の名川長二郎、6話目が木挽町の建具屋の久兵衛の弟子の新吾、7話目は神田鈴町の畳屋現七の弟子勇次、最終話は小日向水道町で駿河屋という乾物屋をやっている弥平と算治を除いて全て商人の目線で語られる。そのいずれもが宝引きの辰の評判を褒め称えていることで辰が腕利きの岡っ引きであることが解るのである。特に本書では娘のお景のお転婆ぶりと妻の柳の器量が垣間見え、この親分にしてこの母娘ありとどんどん人物像が厚くなっていくところがいいのだ。 さてこれら8編の中には過去の因果が関係している話が少なくない。今もそうであるが日本人というのは過去の因果というのをいつまでも大事にし、またそれを信じることで目の前に起きている不吉事を擬えて安心を得ようとする民族であることが解る。特に様々な事柄や屋号についても掛詞に興じていた江戸町人などはその最たるものだったのではないだろうか。 しかしほとんどが男と女の恋沙汰に絡む因縁に絡んだ事件である。現代とは異なり、言葉や柄、そして因習や慣習を重んじ、更に家業が宿命とばかりに人生を束縛するこの時代、色んなことを諦めざるを得ないのが通例だった中で、どうしてもそれが諦めきれなかった人々がこのような事件を起こす。しかしそれは人間が生きる上でごく普通に主張されるべき権利だったのだ。泡坂氏の各短編には江戸の町人文化と当時の地名や風習が実に色鮮やかにしかも丹念に描かれ、江戸の風流を感じさせるが、一方でその風流さが生きにくい時代の中で見出した娯楽であったこと、そんな中でもがき苦しむ人々がいた事。しかしまた生きにくい時代を愚直に生きる人々にまた素晴らしさを感じるのだ。そんな光と影を映し出している。 さて本書における個人的ベストは「墓磨きの怪」を挙げたい。闇夜に乗じて方々の寺が墓が磨かれているという奇妙な導入部の謎よりもこの話で出てきた正直者の「だからの昇平」が実に魅力ある。騙されているのを知らずに最後まで愚直に墓磨きを続ける、間の抜けた、しかしお人よし。こういう男は放っておけないのだ。 次点は「角平市松」。これもまた商売などは二の次でとことん新しい柄を創作することに意欲を燃やし、最初から最後の工程まで自分でしないと気が済まないという根っからの職人である角平のキャラクターが強い印象を残す。泡坂氏は角平の為人を事細かに描写するわけでなく、その仕事ぶりを語ることで彼の愚直さを語るところが上手い。この角平の創作した柄がその他の作品でも垣間見えるところも粋な趣向だし、そして何よりも私が驚いたのはこの作品で話題になる「角平市松」という架空の柄を紋章上絵師である作者が実際に創作しているところだ。この柄は本書には収録されていないものの、WEBで調べれば出てくるのでぜひともご覧になって頂きたい。こういう手間が物語に風味を与え、創作上の人物角平への存在感を色濃くするのだ。 幽霊騒ぎに縁起担ぎ、そして迷信。そんな現代人から忘れ去られようとしている昔ながらの云い伝えを物語に見事に溶かし込み、なおかつそんな文化の中で生きてきた人たちが明るく、しかし時に心の闇に取り込まれてしまった町人たちを時には厳しく、時には優しく守る宝引きの辰。彼がいるから今日のお江戸も安泰だ。 |
No.1338 | 9点 | ザ・ポエット- マイクル・コナリー | 2017/07/30 14:48 |
---|---|---|---|
コナリー初のノンシリーズである本書は双子の兄の警察官の自殺の真相を調べる弟の新聞記者が探偵役を務める。従って今までのボッシュの破天荒な捜査とは違った事件のアプローチが描かれ、興味深い。
そしてこれまで刑事、しかもハリウッド警察という地方の一警察署の一介の殺人課刑事の捜査を描いてきたハリー・ボッシュシリーズとは違い、複数の州にまたがった広域的連続殺人犯の捜査をFBIと共に同行する形が採られており、行動範囲、捜査の質ともに今までよりも濃い内容となっている。 ハリー・ボッシュシリーズが足で稼ぎ、またほとんど違法とも思われる強引な捜査で絶えず警察のバッジを回収されそうになる危うい捜査の中から集めた数々の情報と証拠を長年の刑事の勘による閃きによって事件を解決する、一匹狼の刑事の過程を愉しむ物語ならば本書はFBIという最先端の操作技術を持つ組織がプロファイリングや警察機構の更に上を行く情報システム、鑑識技術を駆使してそれこそ全米にまたがって多数の捜査官によって事件を同時並行的に捜査する、質、量ともに警察を凌駕する広域捜査の妙を愉しむ作品が本書である。 主人公ジャック・マカヴォイは社会部の新聞記者で、一般的な新聞記者と違い、じっくりと取材をしたドキュメントめいた記事を書くのを専門としている。扱うのはいつも殺人について。殺された人の周囲とその人が殺された事件を丹念に調べ、記事にする。そして新聞記者をしながらいつか作家としてデビューすることを夢見ている男だ。コナリー自身新聞記者からミステリ作家に転身した経歴の持ち主なだけにこれまでの登場人物にも増して作者自身が最も投影された人物のように思える。 物語の合間に挿入される新聞記者としての心情の数々。大きなスクープを当てて注目され、ピュリッツァー賞を獲り、それを手土産に地方新聞社からLA、ニューヨーク、ワシントンのビッグ・スリーの一つへ移り、名新聞記者へと名を馳せた後、犯罪実録作家としてデビューする。町へ行けばそこで起きた過去の事件を思い出し、その現場にまるで観光名所のように訪れて、その時の事件について思いを馳せ、自分を重ねる。興味があるのはそんな事件現場ばかり。自分の行動範囲で発行される新聞には全て目を通し、自分が記事にするに足りうる殺人事件を毎日探している。自分の記事の載っている新聞は自宅に取っておく。ただいつも自分も事件の最前線にいたいという思いが募っていた。自分も彼らの捜査に加わることで事件をもっと臨場感持って感じたかった。事件の起きた“後”を追うのではなく、事件をリアルタイムで捜査官と共に追いかけ、一員になりたかったと願っていた。 ジャックのこの心の吐露はハリー・ボッシュシリーズでデビューし、好評を以って迎えられた1作『ナイトホークス』を皮切りに立て続けに3作出して作家としての地歩を固めたコナリーがデビュー前の自分を重ねているかのように読めて非常に興味深かった。 そして本書ではボッシュシリーズとのリンクも見られる。小児性愛者ウィリアム・グラッデンについて書いたLAタイムズの記者ケイシャ・ラッセルは前作『ラスト・コヨーテ』でボッシュに協力した若手の女性記者である。前作では披露されなかった彼女の記事が本書では読める。ボッシュシリーズから登場するのがこのケイシャの記事だけということから考えても刑事よりも新聞記者にスポットを当てたかったからだろう。 また連続殺人犯がエドガー・アラン・ポオの詩を現場に残しているところが文学的風味を与えている。特にジャックが過去の殺人課刑事自殺事件のファイルとポオの詩篇を比べるためにポオの全集に読み耽る件は実に興味深い。ポオの詩はジャック自身の過去の忌まわしい記憶を想起させ、心の深淵を抉り、そこに潜んでいる冷たいものを鷲掴みしてポオその人の心の憂鬱と同化していく。その様子はなんとも文学的香味に溢れ、深くその詩の世界、いや死の世界へと沈み込んでいくかのようだ。その詩は人々の記憶に眠る死の恐怖を喚起させるとジャックは述べる。これこそが本書の真犯人の最たる動機だったのではないかと読後の今ならば強く感じる。 E-BANKERさんもおっしゃっているように挿入される犯罪者のエピソードはミスリードであるのは解っているので、では逆に誰が連続殺人犯<詩人>なのかを探るのが読者と作者との知恵比べとなっている。私はある人物にスポットを当て、かなり自信があったのだが、敢え無く撃沈してしまった。 捜査の過程で新聞記者のジャックとレイチェルは親密さを増していくが、その結末は苦いものだった。 人は何かを得ようとすると何かを失う。そして得た物か失った物かいずれかが本当に欲しかったものなのかはその後の人生で答えが出るものだ。コナリーの紡ぐ壮大なボッシュ・サーガの世界でまた今後ジャックとレイチェルの2人がなんらかの形で登場し、その後の2人を知ることが出来ることを期待して、また次の作品を手に取ろう。 |
No.1337 | 10点 | 2017本格ミステリ・ベスト10- 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 | 2017/07/29 22:56 |
---|---|---|---|
例年とは違い、待望の2006年から2015年の10年間のベスト選出結果が載っている…と思っていたら本書はなんと1997年から2016年までの20年間のオールタイムベストの選出と対象期間を倍にした企画に変っていたことに驚く。ただし前回が1996年からに対して今回は1997年からと1年のオフセットが行われているのは1997年がこの本格ミステリ・ベスト10が刊行された年であるからだ。
この年のランキングについて語ることは省略し、この20年のベスト選出について語ることにする。 まず1位を三津田信三氏の『首無の如き祟るもの』が獲得したのはその後の10年の本格ミステリがその前の10年間のミステリよりも優れてきたことを象徴しているかのようだ。しかし2位に東野氏の『容疑者xの献身』がランクインされているのはこの作品の普遍性を表している。前回の10年ベストでは3位であり、むしろ評価を挙げていることが凄い。次の『ハサミ男』も5位から3位に、4位の『人狼城の恐怖』は前回と同じ位置につけており、その価値が変わらぬことを証明した。5位の『葉桜の季節に君を想うということ』も前回から1ランクアップ。 つまり1位を除く2~5位は前回とほとんど変わらない作品がランクインしたといえ、つまり一応その後の10年で前回のランキングを打ち破る作品が出たものの、その他上位は変わらなかったという結果となった。 逆に『容疑者x~』以下の作品のランクが上がる、もしくは維持されたのは前回1,2位にランクインした京極夏彦氏の『百鬼夜行』シリーズの『絡新婦の理』と『鉄鼠の檻』の2作が大きくランキングを落としたことが要因だ(前者は18位で後者は12位)。つまりこの妖怪をテーマにしたこのシリーズの刊行が2006年の『邪魅の雫』以降、パッタリと止まった読者の渇望感を三津田氏の刀城言耶シリーズが癒していたのがこの10年であるとの証左がランキングに出ていると云えよう。 その他新しくランキングした作品は6位法月綸太郎氏『キングを探せ』、7位米澤穂信氏『折れた竜骨』、9位有栖川有栖氏『女王国の城』、11位柄刀一氏『密室キングダム』、13位麻耶雄嵩氏『メルカトルかく語りき』、15位円居挽氏『丸田町ルヴォワール』、同15位麻耶雄嵩氏『さよなら神様』、17位麻耶雄嵩氏『隻眼の少女』、18位歌野晶午氏『密室殺人ゲーム2.0』、20位梓崎優氏『叫びと祈り』と11作がランクインし、半分以上が塗り替わる結果となった。逆に2005年以前の作品はいずれも前回ランクインした作品ばかりなのはもはや評価が定まってしまったことを意味するのだろうか。 しかしこの20年において麻耶雄嵩氏の躍進ぶりは凄まじい。なんと前回に引き続いてランクインした10位の『螢』を含めると4作がランクインしたことになる。そのうち3作は2006年以降であるから、まさにこの10年は麻耶雄嵩氏の10年だったと云えよう。 しかしながら近年のランキングは上に述べたように新興の本格ミステリ作家がどんどん話題作を生み出し、ランキングを席巻しつつある。まさに群雄割拠の本格ミステリ界と云えよう。それらの作品が今後の10年で名作であると評価され続けるに足る作品であるかどうかは京極氏の作品の評価を見て解るように今後の活躍に掛かっているのである。つまり継続的に意欲作を出すことがその作者の作品を名作足らしめるということがこのランキングで示唆されているのだ。実に興味深い資料だ。 そうなるとやはり2007年から2016年の10年、いや2006年から2016年でも2006年から2015年でもいいのでこの10年のオールタイムベストも見たいものである。またまだなされていない海外本格ミステリについても同様の企画を将来的にはお願いしたい。 しかしこのムック、もっと世間的に広く認められるべきだと思うのだが、なかなか認知度が高まらないように思えてならない。内容の充実ぶりは『このミス』よりもはるかに上。世のミステリファンよ、本書を手に取り、本格ミステリの海に共に身を投じようではないか! |
No.1336 | 6点 | 夢魔の標的- 星新一 | 2017/07/23 22:28 |
---|---|---|---|
果たして最後に勝ったのは夢魔か女医か?読中は恐怖感が襲うが、読後はやっぱり星印。 |
No.1335 | 5点 | 月世界へ行く- ジュール・ヴェルヌ | 2017/07/20 23:51 |
---|---|---|---|
本書は1865年に発表された『月世界旅行』の続編である。思わせぶりな前作の結末から5年を経た1870年に刊行された。前作では月へと旅立った一行の安否が不明なままで物語は終了。当時の読者は夢の月世界旅行の行方がどうなったか忸怩たる思いをしていたに違いない。そして今か今かと続編の刊行を待っているにもかかわらず、その後『海底二万里』という大長編を挟んでようやく刊行された。その5年間はいかに長かったことだろうか。
さて現実の世界では初めて人類が宇宙へ旅立つのは1961年ソ連がガガーリンが初めての有人宇宙飛行を成した後、NASAによる月面着陸が成されるのは1969年である。それに先駆けること100年も前の話であるが、いやはやまたもやヴェルヌの博学ぶりと想像力の豊かさを思い知らされた。 しかし博学のヴェルヌとはいえ、今読むとやはり荒唐無稽なところは多々ある。また今回は妙に学術的すぎるところが退屈を誘ったのは否めない。特に慣性によって月の周囲を平行して飛ぶ砲弾の中から月の表面の地図をせっせと描くシーンが続くのだ。そこには過去の科学者たちが名付けた月の地形についての記述が延々語られ、月の地形に疎い私はなんとも苦痛と眠気を強いられるシーンであった。ここまでくると単に著者の知識のひけらかしであるまた月で噴火が起きたり、雪が降っていたりと眉唾物の現象も出てきたり、さらにかつて月面には人の住んでいた名残があるなどという学説も飛び出し、月面着陸が成し得た現代においては空想物語としても入り込めないところがあった。 しかし返す返すもヴェルヌの先見性には驚きを禁じ得ない。作中、乗組員の1人、フランス人の冒険家ミシェル・アルダンが今回の月世界旅行の目的について、全てはアメリカ合衆国が月世界を植民地として手に入れるためだと述べるシーンがあるが、これはまさに100年後、世界の覇者たるアメリカがソ連と激化する二大勢力抗争において、宇宙を制する者こそ世界を制するとばかりに有人による宇宙開発計画を打ち立て、そして見事月面着陸を成し得た雰囲気をそのまま備えている。フランス人のヴェルヌが作中でフランス人の口からアメリカに月世界を支配するためと云わせていること自体が、なんとも恐ろしい予見性を感じてしまった。 とまあ、ヴェルヌの博識とその先見性によっていつものように驚かされはするものの、上に書いたように物語の起伏としては乏しく、作者が知識を披露して悦に浸っている感がしてしまっていつものヴェルヌ作品のようには楽しめなかったのは残念だ。次作に期待しよう。 |