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雪さん
平均点: 6.24点 書評数: 586件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.18 5点 北京悠々館- 陳舜臣 2021/05/15 00:05
 日露戦争開戦の迫る明治三十六(1903)年九月、書画骨董商の息子・土井策太郎は外務省の密命を帯び、旧知の拓本名人・文保泰(ウェンパオタイ)とよしみを結ぶためはるばる北京に赴いた。文は清朝政府の外務部総理大臣にして皇族たる慶親王の幕僚、那桐(ナートン)の窓口を務めていたのだ。できるだけ開戦を遅らせようとするロシア側に先んじ、文を通じて慶親王と那桐に働きかけるのが彼の役目だった。
 元清国人留学生・李濤(リータオ)の情報からロシアのキナ臭い動きを掴んだ策太郎は、上司の工作員・那須圭吾と共に慶親王を動かし条約締結を覆すため、文に百万円の工作資金を渡すことにする。〈悠々館〉と名付けられた別棟の仕事場で、一回目の現金引き渡し作業は無事完了した。
 だが二回目に賄賂の残金を渡したほんの数分後、文保泰は密室と化した悠々館の中で刺殺される。そして彼が受け取った時価二十五万円分の英国ポンド紙幣は、そっくりそのまま部屋の中から消え失せていた・・・
 『凍った波紋』に続いて発表された、著者15番目の推理長篇。西村京太郎『名探偵なんか怖くない』や仁木悦子『冷えきった街』等と共に、〈乱歩賞作家書下ろしシリーズ〉の一冊として1971年発表。この年には『六甲山心中』を始め、『異郷の檻のなか』『崑崙の河』ほか五つの短篇集が刊行されており、同年発表の『残糸の曲』や翌1972年の娯楽歴史長篇『風よ雲よ』を経て、徐々に文芸方面に移る前の整理の時期と言えます。
 密室殺人のトリックや工作資金紛失の謎は他愛ないものですが、日露戦争を控えた義和団事件後の政治情勢、さらには辛亥革命の息吹を背景にした歴史要素で読ませるのは流石の練達ぶりで、二十五万円の行方もまあそれしか無いかなという感じ。骨子は短篇向きの小ネタですが、遊泳保身術に長けた俗物政治家・那桐、文家の使用人・芳蘭(ファンラン)や遊民風の探偵役・張紹光(チャンシャオクワン)等、要所に味のあるキャラクターを配置しストーリーを上手く回しています。

No.17 7点 方壺園- 陳舜臣 2021/02/07 13:46
 昭和37(1962)年11月、中央公論社より刊行された著者の第一作品集。収録は表題作ほか 大南営/九雷渓/梨の花/アルバムより/獣心図 の六篇。以前『獅子は死なず』の評で〈本書の構成は著者の本意ではない〉旨説明したが、新たに加わった「梨の花」「アルバムより」のどちらも密室状況を扱っており、結果として世に出た『方壺園』は「大南営」を除き、ほぼ密室か準密室作品ばかりで固めたものとなった。意図しての狙いかどうかは分からないが、編集方針としてはこちらが正解であろう。各篇のトリック自体は少々物足りないが、エキゾチックな題材と当を得た人間智、加えて歴史背景や描写の確かさで巧みにそれを補っており、戦後初期に於て類例の無いミステリ短篇集と言える。
 表題作の「方壺園」は大唐の元和十三(818)年、安史の乱による疲弊から14代皇帝・憲宗の努力により、一時的に中興した中国・長安における事件で、実在した幻想派の鬼才・李長吉こと李賀の残した詩稿に絡む憎悪と憤懣、さらには遊里における文名をめぐって起きた現実離れのする殺人を描くもの。
 その舞台となるのは高さ十メートル、三楼層の壁で囲まれた、「方壺園」と呼ばれる小さな四阿。都に聳え立つこの〈壺の化物〉の中で、持主の豪商・崔朝宏邸に居候する詩人・高佐庭が刺殺されていた。さらにその一年後、おなじ場所で首をくくって死んでいる洛陽豪門の子弟・呉炎のなきがらが発見される。縁起でもない建物だと、崔はこの際園を壁ごと壊してしまうことにした。その工事のさなかある偶然の出会いにより、司直も匙を投げた怪事件の謎が解かれるのだが・・・
 手を替え品を替え語られる、園内への侵入・脱出方法。絵面的にはいずれもバカミスに近いが、最後のセンテンスで全てを哲学風に昇華してしまった作品。作中年代はこれが突出して古く、他は千年近く下るかほぼ近代以降となる。中では国共合作前の1934年、抒情詩人を兼ねた紅軍の革命家・史鉄峯護送の際に起きた、事故とも殺人ともつかぬ出来事を語る「九雷渓」が、細やかに伏線が巡らされていて出来が良い。
 「大南営」では甲午光緒二十(1894)年の清朝末期、日清戦争に二万の兵隊が出向いた後の空営で一人の将校が殺されるが、トリックよりも探偵役となる上官・王界のキャラクターと、不穏さを孕んだ結末に妙味がある。三字題以外の二篇では「アルバムより」が彫りが深くていい。戦争終結工作のために内密に神戸に招かれ、日本滞在中のある事件以後はまったくの廃人と化した青年政治家・鄭清群。二十数年後消えるように亡くなるまで、遂にその精神は回復しなかった。細長い翡翠を指でもてあそぶ清群の癖と、彼に献身する老女中・阿鳳(アフォン)の姿が印象に残る短篇。タイトルこそ長いが、ラストの意外性と読後感は三字題作品にも通ずる。「梨の花」は密室物のアンソロジーピースだが、トリックが専門的に過ぎてややアンフェア気味。
 トリの「獣心図」は雑誌「宝石」昭和37(1962)年1・3月号に、懸賞付き犯人当て小説として分載されたもの。ムガル王朝四代皇帝ジャハーン・ギールの長子フスラウの死について語った十九世紀末の偽書、「沈黙の館(ハーネ・ハーモシュ)」の引用という体裁を取っている。二重殺人の筋書きは他愛ないが、決定的な手掛かりを最後に詩篇として掲げる試みは、なかなか面白い。インドが舞台の国産ミステリというのも稀少で、この頃だと他には山田風太郎「蓮華盗賊」があるくらいか。いずれも独自性に富んだ、読み応えのある作品集である。

No.16 6点 獅子は死なず- 陳舜臣 2020/12/04 13:05
 なんか最近陳舜臣ばっかりやってるような気がするけど、まあいいか。二〇〇二年六月刊行。乱歩賞受賞のその年雑誌「宝石」一九六一年十月号に掲載された「狂生員」から、脳内出血でたおれ阪神淡路大震災に遭う八ヵ月前の一九九四年五月、雑誌「小説現代」に発表された「梅福伝」まで、四十年にわたる著者の出版作品から漏れた中短篇を集めた、真の意味での〈集外集〉。田中芳樹作品の表紙絵を多く担当したイラストレーター、皇名月氏が装画担当なところから、いわゆる中国小説ブームに便乗した編集者の策動で企画されたものらしい。巻末には特に芹沢孝作氏なる〈稀有な読み手〉への賛辞が捧げられている。
 その「わが集外集――あとがきに代えて」と題された後記によると、デビュー当時の著者は短篇小説の題に三字の漢字を用いることが多く、〈ひそかに作品集の目次にずらりと三字がならぶことをたのしみにしていた〉そうだ。だが〈新人なので収録作品を自分でえらぶことはできず〉、第一作品集にえらばれた三字題は〈方壺園/大南営/獣心図/九雷渓 の四作だけであった〉。二〇一八年の十一月、ちくま文庫から日下三蔵氏の編集により久々に「方壷園 ミステリ短篇傑作選」が出版されたが、著者の意を呈するならば真の意味での『方壺園』は初版本から 「アルバムより」と「梨の花」を除き、本書収録の三作「狂生員」「厨房夢」「回想死」を足したもの、という事になる。よって本集は『方壺園』の正補遺とも言える。
 収録作品は年代順に 狂生員/厨房夢/回想死/七盤亭炎上/獅子は死なず/西安四日記/ある白昼夢/六如居士譚/梅福伝 の中短九篇。初期短篇中心の構成は正直嬉しい。清の咸豊年間のこと、痴呆症の狂人を装い地方官である友人・曾子啓の密偵を務めていた狂生員こと洪同澄。太平天国の脅威が迫るなか、その曾が官舎のなかで殺された。狂人と思われ黒い布をかぶった犯人に凶器を持たされた洪は、知府邸に集まった容疑者たちの中から友の仇を推理し、復讐の刃を振り下ろそうとするが・・・。狂を佯るうちにいつしか正気であるという自信を失ってゆく洪の心理と、情景描写に溶け込んだ味のある手掛かりが見事。
 「厨房夢」「回想死」「七盤亭炎上」はいずれも戦後に移民した中国人が主人公で、そのせいか話としては軽め。「厨房夢」は「幻の百花双瞳」系のブラックな短篇で、「回想死」「七盤亭~」は手掛かりがメインだがミステリとしては分かり易い。だが両篇とも主眼は、欺かれ続けた者たちの境遇とその遣る瀬なさだろう。特に死の直前に全てを悟る 「回想死」のそれは、他人事ながら救いようがない。
 「獅子は死なず」「ある白昼夢」「六如居士譚」「梅福伝」はいずれも一種の伝記小説。表題作は陶展文もの『虹の舞台』の背景を担ったインド独立の志士、スバス・チャンドラ・ボース最後の数年間の逸話である。あまり明快な人物とは言えない東条英機すらもわずかな間に魅了したというチャンドラの人間力は、途方もないものであったろう。例えるならば西郷隆盛のような存在だろうか。日本ではあまり知られていないが、近代インドを代表する偉人の一人である。最も新しい「梅福伝」は普通の伝記に近いが、「ある白昼夢」「六如居士譚」の二篇は逆にミステリ味が強い。「西安四日記」は連作もの『長安日記 賀望東事件録』完成前、一九七四年十月中国旅行時の覚え書き。期待が大きすぎたフシもあるが、収録作の中では「狂生員」がやはり抜きん出ている。集外集とは言いながら、著者を語る上で外せない作品集である。

No.15 6点 幻の百花双瞳- 陳舜臣 2020/11/27 15:58
 『青玉獅子香炉』に続く第五作品集。1969年発表。この年の著者は推理作家協会賞受賞の二長篇を皮切りに、直木賞受賞作ほか三長篇三作品集を物した充実期にあたり、本集も突出したものはないが全体の出来はなかなか良い。神戸開港百年を記念してはじまったカーニバルを題材にした「フラワーロード・サンバ」を筆頭に、各篇とも港町神戸の風俗により密着する傾向が強まっている。
 収録短篇は表題作ほか フラワーロード・サンバ/ダーク・チェンジ/港がらす/神に許しを の五篇。十八世紀初頭に自作の文字や文法を創り出し、でたらめな東洋世界について語った偽書『台湾誌』を出版したジョルジュ・サルマナザールが主人公の「神に~」以外は全てミステリ作品である。西洋人が主人公の作品はこの作者には珍しい。陳氏の歴史志向を示すのか、第二作品集『桃源遥かなり』からこういった伝記風の短篇が一篇以上入ってきている。
 ミステリとして出来が良いのは元暴力団組長の実業家を巡る四角関係から生じた殺人を、住み込み家政婦の目線で語る「ダーク・チェンジ」。離婚した先妻の復讐計画の一環として、社長夫人を籠絡すべく送り込まれた男が逆に一途になってしまい、今は彼の父親から乗っ取った運送会社の社長となっている元組長を殺そうとするが・・・という話。肝心の夫人の心理について何も描かれないのが少し臭ったが、この展開は流石に読めなかった。それに比してオチはある意味常道だが。
 古物商の名目でこぼれた船荷をかすめとる荷後屋(アパッチ)稼業の関西弁が独特な宝探しもの「港がらす」も味がある。肩をやられて力仕事がやれなくなったものの、港の風が恋しくてたまらない河上庫吉。とかくの噂のある〈アパッチのお秋〉の情夫兼雇い人に転がり込んだが、目端の利くお秋のお宝引き揚げ作業を手伝ううちにふと魔が差して・・・。海底に沈められた香港からの密輸品(金の延べ棒)のありかを示す、週刊誌に記された手掛かりとその利用法がよく出来ている。
 表題作は〈あらゆる点心を凌駕する〉という名のみの中華風デザート「百花双瞳」に絡んだ奇譚。知る人ぞ知る料理ミステリとして有名らしい。本筋の自殺事件よりも、主人公とその師匠が四苦八苦する〈要の食材として用いられる○○○とは何か?>の方が、作品の主要テーマになっている。
 なお今回読了したのは徳間文庫版だが、解説担当の新保博久氏は実際に○○○を用いて、小説中の「百花双瞳」を作ってみたらしい。サイエンス・ライター皆川正夫氏や中華料理店経営者・海崎榮一氏等の協力を仰ぎ、六時間以上に渡る奮闘過程を記した〈百花"騒動"顛末記〉なるあとがきは力作で、一読の価値アリ。ただ肝心のお味は海老シュウマイに似たものだったようだが。さらに同解説によれば「巨大餃子の襲撃」なる侵略SFすらあるそうである。半村良の全短篇中1、2を争うクダラナイ作品だそうだが、流石と言おうか。

No.14 6点 紅蓮亭の狂女- 陳舜臣 2020/11/14 20:48
 昭和43(1968)年9月に講談社より刊行された、著者の第三作品集。同年5月には、本書に先行して第十長篇『濁った航跡』が上梓されている。時期的には歴史大作『阿片戦争』を終え、推理作家協会賞受賞の『玉嶺よふたたび』『孔雀の道』が発表される前の年にあたる。
 収録作は表題作ほか スマトラに沈む/空中楼閣/七十六号の男/角笛を吹けど/ウルムチに消えた火/鉛色の顔 の七篇。清末西太后期の有力皇族・貝勒戴澂(ツアイチェン)や郭沫若と並ぶ近代中国文壇の逸材・郁達夫、日本軍の傀儡・王兆銘政権で特務機関『七十六号』を仕切った李士群や、辺境の地新疆に一種の桃源郷を創り出した独裁者・楊増新など、近代中国に一瞬の光芒を投げかけた後、暗殺・変死あるいは行方不明となった人物を題材にした短篇集である(スパイOBが経済絡みの化かし合いで一杯食わされる「空中楼閣」と、前述七十六号犠牲者遺族の復讐劇「角笛を吹けど」は除く)。
 「紅蓮亭~」は光緒十一(1885)年の早春、京城事件(日本に支援された金玉均のクーデター失敗)直後の北京が舞台。李朝末期の朝鮮半島を巡って清国と牽制し合う明治政府は、相手がわの意向をさぐるために宮廷関係者に接近しようとしていた。ときの駐清公使・榎本武揚の密偵を務める古川恒造は使命を果たすため、とかくの噂のある有力皇族・十刹梅(スチャハイ)の貝勒(ベイレ)に二度に渡って接触を試みる。だが雑技団を使っての工作は、彼の予想だにせぬ惨劇を生むのだった・・・
 密室で両眼をえぐりとられた戴澂の死に続き、血痕もなまなましい部屋で、うしろから短刀を胸につき立てられ殺される使用人。フリークス系のトリックが暴かれる時、四十三年まえ中国が受けた傷跡がぞろりと転げ出す。後味は悪いが少なくとも佳作クラスの作品。
 「スマトラに沈む」は前述の文人・郁達夫の終戦直後の失踪について〈こうもあろうか〉との推察を巡らしたもの。佐藤春夫や芥川龍之介など、日本文壇とも親交の深い作家であったらしい。紀伝体の普通小説に近いが、半ば隠遁者めいた郁の性格描写が印象的である。「七十六号の男」もこの系列に入るが、モデルの差か前者ほどの滋味はない。
 「ウルムチに消えた火」は、『桃源遥かなり』に収録された「天山に消える」の前日譚。スウェン・ヘディンに"地上最高の専制政治家"と評された楊増新は、特徴的な政治手法で安定した社会体制の創出に成功しており、かなり著者の興味を引いたようだ。しょせんは乱世の徒花で、長続きはしなかったろうが。本編は昭和三(1928)年に起きた楊暗殺前後の事件を回想しながら、竹馬の友に想いを馳せる老人の友情譚としてすがすがしく纏めている。
 トリの「鉛色の顔」は、京劇の名女形から五百人を率いる義勇軍隊長に転身した台湾の侠客・張李成(阿火)のその後を創作したもの。こう書くと颯爽とした快男児のようだが、清仏戦争後海賊に転身したとのエピソードから、本編では身を持ち崩した粘着質の俳優として描かれている。単純な身替りトリックだが、それより因果応報とも言うべき結末の感触がキモだろう。
 最近〈ミステリ短篇傑作選〉としてちくま文庫から久々に刊行された『方壺園』には、本書から表題作ほか三篇が付け加えられているが、その代わりに『獅子は死なず』に収録された初期短篇「狂生員」「厨房夢」「回想死」「七盤亭炎上」を入れてほしかった、との声も挙がる。全てが傑作という訳ではないが、既読の中でも「青玉獅子香炉」や「桃源遥かなり」等ごろりとした手触りの中篇は、他の誰にも真似出来ない無類の味がある。司馬遼太郎に匹敵する歴史作家のイメージが強いが、ミステリ作家・陳舜臣にももっと目を向けて欲しい。

No.13 5点 中国冒険譚 小説マルコ・ポーロ- 陳舜臣 2020/11/13 02:55
 雑誌「オール讀物」に、昭和53(1978)年2月号から昭和54(1979)年1月号まで連載されたもの。大元皇帝クビライ・カアンに17年間仕え、帰国後『東方見聞録』でヨーロッパに中央アジアや中国を紹介した13世紀のヴェネツィア人、マルコ・ポーロがクビライの密偵を務めていた、との考察で描かれた連作短編集である。陳氏らしく処々歴史的事実や『元史』などの史書に触れているが、〈中国冒険譚〉と副題にある通り、推理・謀略関連の要素を含んだ創作物である。とはいえ『秘本三国志』ほど重くはなく、内容は軽め。歴史的事件にマルコが絡むなどといった事は無い。
 全十話の章立ては 冬青の花咲く時/移情の曲遅し/電光影裡春風を斬る/燃えよ泉州路/南の天に雲を見ず/蘆溝橋暁雲図/白い祝宴/明童神君の壺/男子、千年の志/獅子は吼えず 。年代的には元の至元十五(1278)年から至元二十二(1285)年までの、約七年間について語っている。
 主な出来事は崖山での南宋王朝の滅亡(1279年2月)から二度目の元寇(弘安の役=1281年)まで。前半から中盤にかけては、南宋の遺臣や南人(降伏した南宋人)たちが物語に積極的に絡んでくる。壺合戦や猛獣調伏などイロモノ系の後半より、話としてもそちらの方が面白い。旧南宋領で権勢を振るった福建のアラビア商人・蒲寿庚がマルコに一杯食わせる「燃えよ泉州路」などは、なかなか凝っている。
 他にも一万二千人が参加する式典〈元正受朝儀〉での殺人を扱った「白い祝宴」など、推理系の話はあるが総合的には薄味。文天祥の死やラマの妖僧・楊璉真加一味との対決という形で結構を整えているとはいえ、最後は目に見えて投げていて、陳氏の歴史小説としても正直ファンアイテムに近い。
 連載開始の同年1978年8月には、毛沢東の死去および鄧小平の復権を受けて日中平和友好条約が締結。一種の中国ブームが到来しており、堺正章・夏目雅子主演の日本テレビ開局25周年記念ドラマ「西遊記」(1978年10月~1979年4月)や、NHKテレビアニメ「マルコ・ポーロの冒険」(1979年4月7日~1980年4月5日)などが放映されていた。
 1980年4月からは日中共同制作の全12回シリーズ『シルクロード 絲綢之路』がNHKで始まり、これには陳氏自身も監修者として加わっている。本書もそうした時流に乗り執筆されたものであろう。ちなみに一世を風靡した久保田早紀のシングルレコード「異邦人」のリリースも、1979年10月の事である(笑)。4点にしようかとも思ったが、流石に歴史考証等はしっかりしているのでギリ5点。

No.12 5点 銘のない墓標- 陳舜臣 2020/11/11 08:18
 昭和四十四(1969)年十二月講談社刊。香港を舞台にした二中篇一短篇で構成された、著者の第六作品集。テーマを揃えている事から、どうも雑誌掲載されたものではなく書き下ろしの形らしい。この年は氏が『青玉獅子香炉』で第60回直木賞を受賞した翌年にあたり、さらに翌1970年、第23回日本推理作家協会賞に選ばれた二長篇『玉嶺よふたたび』『孔雀の道』に加え、第十四長篇『他人の鍵』も上梓されている。
 また本書刊行二年前の昭和四十二(1967)年には、香港で文革の影響を受けた中国共産党系住民による暴動が発生しており、あるいは脚光を浴びつつある中華系新進作家に、タイムリーな時事を語らせる狙いがあったのかもしれない。西側世界との接点として国内の混乱をよそに繁栄する香港。そこから流出する中華の文物と、逆に中国各地から香港に流入してくる、個々の難民が背負った過去に焦点を当てた中短編集である。
 収録作は 銘のない墓標/壁に哭く/にがい蜜 の三篇。ただし、最初の中篇二本は少々ゆったりし過ぎている。両篇とも100P以上と相当の分量だが、内容的にそこまでの密度は無い。各篇かなりの部分が、登場人物の過去や歴史背景の説明に割かれている。長めの短篇「にがい蜜」のみはそんな事もなく、二転三転して丁度いい具合になっているが。
 表題作とトリの短篇は文物流出に絡まる作品。前者は終戦直前の昭和二十年三月から四月にかけて来日した、蒋介石政権の党人政治家・繆斌(みょうひん)の和平工作文書を、後者の方は重文・国宝級の逸品、通称・砧(キヌタ)と呼ばれる北宋青磁を、それぞれ扱っている。
 激しさを増す本土空襲に苦しむ日本側に、繆斌から提示された和平案はかなりの好条件で、これは日本の敗北後、満州が共産党に渡るのを恐れた国民党側の譲歩策だったという見方が一般的である。当時の小磯内閣内の不統一のため和平は実現しなかったが、もしこれが成立していれば、広島・長崎の原爆投下は無かっただろう。陳氏はこれに〈不発に終わったクーデター〉という解釈を施した上で、歴史的文書を巡る謀略物に仕立てている。戦争当時のさまざまな悲喜劇を付け加え、巧みに味付けしているにもかかわらず、やや構図が透けて見えがちなのが難。
 それに比べると「にがい蜜」はなかなか上手く狙いを隠している。「倉庫業界の天皇」といわれる大物を父に持ち、ディレッタント風の学者としてデータ収集に勤しむ斎藤誠一。かれは香港で思わぬ出物を掘り出した後、アウトサイダー研究のため秘かに秘密結社・三合会の入会式に立ち会うが・・・
 どこかユーモラスな滋味を湛えたコン・ゲームもの。人物の洞察に重きを置いて、あまりギチギチに行動を縛ろうとしないのが中華風と言えるだろうか。
 六年まえの昭和二十三年、徐州『清官荘』での掠奪に端を発した連続殺人を描くのは中篇「壁に哭く」。並行して複数の操りを見せているが、これなら短篇で済む気がする。長さの割に着膨れ感が強く、集中では最も落ちる。
 以上全三篇。悪くはないが各賞受賞の最盛期にしてはそこまで光るものはなく、どちらかと言えば無難に纏めた作品集である。

No.11 7点 桃源遥かなり- 陳舜臣 2020/11/07 01:50
 『方壺園』に続く、著者の第二作品集。昭和三十八(1963)年三月号~三十九(1964)年八月号まで、雑誌「オール読物」ほか三つの小説誌に発表された中短篇を纏めたもので、デビューから直木賞受賞までのほぼ半ほどの時期に当たる。第六長篇「月をのせた海」から、第八長篇「まだ終わらない」に取り組んでいた頃でもある。
 各篇の配列には若干の異動が見られ、発表順に並べると 天山に消える/揺れる/燕の影/桃源遥かなり/香港便り 。書籍ではまず表題作及び「揺れる」の二中篇をじっくり読ませ、その後に「香港便り」他三篇を配置している。不羈奔放な生き方で知られた大正期の混血僧・曼殊大師没後の残影に翻弄される人々を描いた「燕の影」以外は、れっきとしたミステリ作品。この人の本を探求する際、題名のみではジャンル不明多々なのが困り物なのだが、本書もその例に漏れない。だが初期だけあってよりエキゾシズムに溢れ、重みを持つ余韻は長く後を引く。
 表題作にある〈桃源〉は武陵源ではなく、香港から汕頭(スワトウ)までの間、バイヤス湾(中国名:大亜湾)のなかにある海賊島・琵琶山を指す。第二次大戦前の一九三二年、広州市のミッション系女学校で美術教師をしていた呉景雄は失職したのち、海賊の娘との噂のある元生徒・劉碧水のツテを辿って琵琶山の賓客となる。彼女の母であり島の女王=女頭目の映雲に見初められ、理想の愛人を得て夢のような日々を送る景雄。だが彼の存在は、島の平和を致命的に脅かすものだった・・・
 海賊の島とはいえ笑いさざめきながら、女房たちが子供の尻をひっぱたくことのできる世界。そのささやかな楽園をまもるために離奇変幻の策謀をめぐらすある人物の姿を、十五年前の追憶として語った作品。質量共に集中では一番の出来である。
 次の中篇「揺れる」は故郷喪失者の蛋民(タンミン)・ヤンの物語。奇妙な縁(えにし)から教育を受けて水上生活の仲間たちとは別な人間になってしまい、とはいえ陸にも馴染めず、国を捨て一船員として生きるしかなかった男が巻き込まれる事件を描いたもの。殺人容疑は無国籍者の友人・イワンの奮闘で晴らされるが、ミステリ云々よりも港町神戸に生きる人間たちの姿と、男女の繋がりの不確かさや、愛人・八重子の死に伴うヤンの心情の変化の方がより印象に残る。
 「香港便り」は熾烈を極めた「聯戦」と「統戦」、いわゆる台中諜報戦のカムフラージュに使われたスパイOBものの小品。武田泰淳『十三妹(シーサンメイ)』の「忍者おろか」に該当する人物が登場する。つまりは孫子用間篇にあるところの最高級のスパイ、『生間』である。
 最も発表年の古い「天山に消える」は表題作と同じ頃の一九三三年、軍閥割拠中の西北の辺地・新疆省を舞台に据えた短篇。今まさに省を侵さんとする馬賊の梟雄・馬雲昇が、省都ウルムチから派遣された使者たちの到着後、完全な密室のなかで殺される。最後に待つのは山田風太郎『妖異金瓶梅』のラストを思わせる凄まじい展開。とは言え乾いたカタストロフで、中篇の叙情には及ばない。
 以上全五篇。あまり語られないが粒の揃った、アンソロジー選出クラスを含む中短篇集である。

No.10 6点 崑崙の河- 陳舜臣 2020/10/28 08:08
 香港を題材にした『銘のない墓標』に続く、著者の第七作品集。「中国が舞台になっている小説、または中国人が登場する小説ということを基準にして」、一九六二年九月から一九七一年四月にかけて約十年の間に、各誌に発表された作品を選んだもの。表題作ほか長めの短篇五篇を収録。同年二月には乱歩賞作家書き下ろしシリーズの一冊として、第十六長篇『北京悠々館』も刊行されている。
 あとがきには「タテにすっぱりと切りおろしたもので、過去のさまざまな変遷図があらわれているかもしれない」とあるが、中国を舞台にした最初の二篇、第二次大戦直後のボールペン販売宣伝を目的にした崑崙山脈最高峰・積石山(アムネ・マチン)学術調査隊での謀殺事故を扱った表題作「崑崙~」と、国共内戦中の一九三〇年、軍閥工作資金として運搬中の金塊をめぐり、トラックに乗り合わせた人々が殺し合う「紅い蘭泉路」以外、そこまで作風の変化は見られない。表も裏もあるごく普通の人々が、ふとした機会に己の暗部に囚われてゆく姿を描いたものばかり(綺譚風の「鍾馗異聞」のみやや例外)。この作者らしく中身の詰まった筆致ではあるが、総じてダーク寄りの短篇集と言える。
 「崑崙の河」は十数年前のスナイダー博士溺死事件の謎を追うと見せかけて、どんどん妙な方向に転がっていく。不倫相手を殺人依頼者とおぼしきアメリカ人実業家に奪われた主人公の〈私〉。大阪に赴任し、たまたまターゲットの近くに宿舎を割り当てられたのを機に殺意は膨らんでいき、準備を進めたのちいよいよ計画を実行に移そうとするが・・・
 交錯する二つの狂った心が形作る相似形。それに救われた主人公の胸には木枯らしが吹き、虚ろな寒々しさに包まれる。表題作だけあって集中ではこれが一番。
 「~蘭泉路」はこの人の短篇には珍しく動きが早く、しょっぱなから登場人物がバンバン消されていく。蘭州から金泉に向かう定期便トラックの六人の乗客。その中には工作機関QKKの運搬役・孫継明の他に、監視任務を帯びた三人の同志が乗り込んでいる。いったい誰が工作員なのか? そうこうしている内に、〈私〉を除いた全員が死んでしまい・・・
 よくあるパターンだが、陳氏のこういう作品は意外。トリックよりも目まぐるしい展開で魅せる小説である。明日をも知れない時代には、人は簡単に鬼になる。
 「枇杷の木の下」は、実作者のエッセイ風小説。淡々とした語りがしみじみと心に染みる。運命に翻弄されながら道を切り拓き、母国から遠く離れて生を全うした二人の姿が読後に浮かんでくる。ミステリ要素は味付け程度だが、好みでは「崑崙~」の次に来るもの。
 同趣向だがやや軽い「鍾馗~」の後、本書のトリを務めるのは混血児ミドリを取り巻く三人の幼馴染みの物語「紅い蜘蛛の巣」。タイトル通りのヴァンプ物だが、他の作品とは異なりある程度先は読める。この手の現代ものも悪くはないが、本書の場合近代ものの方が出来が良い。

 追記:本書の積石山(アムネ・マチン)がどの山を指すのか不明だが、崑崙山脈の最高峰は中央部のムズダク山(海抜7,723m)。作中「エヴェレスト山より高いのではないか」との記述があるが、おそらく大半が未調査峰だった頃の話なのだろう。

No.9 5点 虹の舞台- 陳舜臣 2020/10/09 08:52
 神戸・海岸通の東南ビル地階で中華料理店『桃源亭』を営む陶展文は、拳法の弟子である沢岡進に、こんど完成する三宮サンライズ・ビルの目玉スポット『世界の味センター』に進出してみないかと打診される。元船長の沢岡はここ数年ほどビルのオーナーである東南汽船の嘱託をしていたのだが、このたび専務取締役として建設中のビルに出向することになったのだった。
 古巣を動く気の無い展文は出馬を固辞し、代わりに店主と喧嘩し東京をとび出した大コック・甘練義を紹介する。甘は快諾し、話は片付いたかに見えた。
 だがここで新たな問題が持ち上がる。センターのインド料理に入店する宝石商、マニエル・ライの評判がよくないのだ。料理店経営にひどく乗り気なライは宝石関連のオフィスも神戸に移し、北野町に家まで買って陣頭指揮に赴いているのだが、彼にはインドの首相ネールと並び称された独立運動の闘士、チャンドラ・ポースの宝石を奪った疑いがかけられており、在留インド人のあいだでも爪弾きされているという。それどころか彼を処分するために、殺し屋が日本に派遣された形跡すらあるのだ。
 出店をことわるかどうかに頭を痛める沢岡は、「世界の味センターの関係者をお招きしたい」というライの招待にとりあえず応じる事にする。展文たちも行きがかり上彼とともに北野のライ家を訪れるが、弘子夫人に四人の客が予備室で饗されるなか、突如として三発の銃声が響き、それに続いてマントルピースの上の花瓶が砕け散った・・・
 昭和48(1973)年に発表された『失われた背景』に続く著者18番目の推理長篇であり、陶展文ものとしては4作目にあたる最後の作品。同年には『長安日記 賀望東事件録』『柊の館』などの連作短編集も刊行。名作『秘本三国志』連載に取り掛かる前の年、本格的に歴史小説に軸足を移す直前の時期です。
 ピストルをもった犯人を見たフランス料理の名コック・田辺源一によると、曲者は白いターバンを巻いたひげだらけのインド人。さらにかけつけた警察により再度(ふたたび)山の登山道に倒れていたライの死体が発見されると、ボースの復讐に燃える秘密結社の報復説ががぜん真実味を増してきます。そうこうするうちやがて第二の殺人が発生し・・・
 とこう書くとテンポ良く見えますが、実際には11年前の前作『割れる』に比べても読み応えの少ない長篇。随所に挿入される中華コック・甘練義の料理指南や、ボースの挿話を中心としたインド革命史などで間を持たせています。買えるのは冒頭部分を含めたこの構成が伏線とそのカモフラージュになっている所、このあたりは流石に各賞受賞ベテラン作家の手際です。
 陳氏の小説は即物的な題名が多いですが、本書では真相を踏まえた上で、珍しく詩的なタイトルが付けられています。しかしミステリとしてはそれほどでもなく、個人的には子母沢寛の聞き書き集『味覚極楽』に登場する亡命インド人革命家のボース氏が、チャンドラとは同姓の別人であると判明したのが主な収穫でした。

No.8 6点 神獣の爪- 陳舜臣 2020/02/16 09:31
 昭和41(1966)年から昭和59(1984)年までの18年間に、雑誌「小説現代」その他に掲載された作品を集めた短編集。あとがきに「私の『集外集』にほかならない」とある通り、連作以外で作品集からもれていたものばかりだそうです。ただ表題作だけはラジオ・ドラマになったり、年鑑やアンソロジーにえらばれたりしていて、てっきり収録済みと思い込んでたそうですが。
 全六篇の中ではやはりその『神獣の爪』がベスト。操りテーマですが、時間を掛けて入念に仕組んでいるので全く不自然さがありません。唐三彩の逸品を無惨にたたきこわすという行為の強さと、摑んだ岩にくいこむ爪のあざやかさが、復讐心の象徴として心に残ります。
 次点は犯人像がちょっと変った色合いの陶展文もの『軌跡は消えず』。大技小技の『描きのこした絵』もいいですが、この作者のものだとお馴染みのパターンなので少々減点。『まわれ独楽』といい、発想はそれほどでなくとも、気の遠くなるような歳月をかけて念入りに事を行い成就させるというのは、老荘思想に代表される中華的思考の基本線ではないでしょうか。
 老境の展文も、淡々とした中に滋味があっていい感じ。残りの二篇もそれぞれに味があり、佳作には到らずとも安心して読めます。点数は少々上乗せして6.5点。

No.7 6点 割れる 陶展文の推理- 陳舜臣 2019/08/20 03:23
 岩佐商事株式会社香港支店のタイピスト林宝媛は、十五年まえ留学でアメリカに渡ったきり消息を絶った兄・東策を探すため、一か月の休暇をもらい日本に渡った。有望な青年学者として家族の期待を一身に受けていた彼は、母国の政治情勢に動揺し突然商人に転進したのだ。少なからぬ額の金を米ドルで二度ほど送金したあと、ニューヨークをひき払ってサンフランシスコへ行くつもりだというのが最後の手紙だった。
 なんどもアメリカへ出した便りはみな差し戻され、兄との音信はつかないまま。ただ一人だけ『林東策という留学生あがりの中国人が、日本へ行きたいと言っていた、――そんな話をきいたことがある』と知らせてくれた人がいる。宝媛はそんなあやふやな情報を頼りに、はるばる神戸にやって来たのだった。
 神戸支店の元駐在員三浦達夫の斡旋で、同じビルの地階にある桃源亭主人・陶展文宅の離れを借りることになった宝媛だったが、彼女に好意を持った家主の展文は、ツテを辿って東策の行方を探そうと申し出る。係官の知り合いに頼んで外国人登録の原簿を調べるのだ。
 二人は手分けして林姓の在住者に当たるが半月後の朝、突然展文宅に生田署の神尾警部から電話がかかってくる。神戸の一流ホテル、イースタンで殺人事件がおきたのだ。被害者は知り合いの光和アパート主人・王同平。そして彼を撲殺したあとホテルから姿を消したのは、東京在住の中国人実業家となった林東策だった。ここしばらく彼のことを調べていたのが、警察の注意を惹いたのだ。陶展文は宝媛を励ますと共に、三浦や弟子の新聞記者・小島の協力を得て東策の嫌疑を晴らそうとするが――
 陳舜臣の第五長編。陶展文シリーズとしては「三色の家」に続く三作目で、いずれも同年1962年の発表。短めですが謎解き部分のアリバイ崩し以外詰め込んだ感は無く、複数の要素を絡めながらむしろ悠々と筆を進めています。先の展文もの二長編のゴツゴツした手触りに比べて余裕が増し、より手馴れた捌き具合。後の名作「炎に絵を」に通じる味わいもあります。
 肝心の展文の推理は「こう考えるのが最も自然」といった程度でさほど強力ではありませんが、筋運びは「弓の部屋」の流れを受けて格段に上手い。もっともあちらほど魅力的なトリックではないですが。
 難点を言えば、犯人がメインの偽装工作に寄り掛かり過ぎていることでしょうか。作中にも「もろいアリバイ」という言葉が出てきますが、このあたり少々安易な気がします。

No.6 5点 玉嶺よふたたび- 陳舜臣 2019/06/18 09:53
 S県訪中視察団の一員として二十五年ぶりに中国を訪れた入江章介は、訪問希望地として思い出深い江南の磨崖仏を選んだ。『玉嶺五峰』と呼ばれる岩ばかりの山塊にこつこつと掘りつけられた仏身は当時、若かりし頃の入江の胸中にひそむ戦争への反発や、東洋美術史研究者としての古拙なものへの憧憬をこよなく満足させたものだった。
 入江は出発前夜の床の中で、戦時中玉嶺近郊の瑞店荘に二年ばかり滞在したときの思い出と、かれを魅了した下宿先の娘・李映翔の面影を脳裏に蘇らせる。その記憶は当時玉嶺を中心として活動していた抗日ゲリラ、スリーピング・ドラゴンと、入江自身も関係したある殺人に密接に絡むものだった――
 「孔雀の道」と併せ第23回推理作家協会賞を受賞した長編で、1969年発表。ですが分量自体は長めの中編といったところで、力作風の「孔雀」と比べると、こちらは淡彩の小品という趣き。この前後3、4回の協会賞は「受賞作なし」が続いているので、二作での受賞はそういったいきさつがあるのかも。
 長江南岸の日本軍駐屯地近辺を舞台にして、現地守備隊とゲリラとの角逐が点景のように描かれますが、大枠としては中国農村部の叙情的な風景のなかでゲリラに協力する映翔の姿と、ひそかな想いを彼女に寄せる入江の日常描写が中心。清初の著作「玉嶺故事雑考」に記された磨崖仏に纏わる伝説と、時代を越えてそれに重なり合う殺人事件が物語の軸となります。
 骨格はしっかりしているものの、どちらかと言えば短編向きの題材で物足りない感じ。それを無理なく肉付けして長編に仕立てているのは流石ですが。協会賞作品とはいえあまり構えずに、軽い気持ちで読む方が良いかもしれません。

No.5 7点 弓の部屋- 陳舜臣 2019/05/25 13:10
 桐村道子は英系船会社インターナショナル・オーシャン・ライン神戸支店に勤務するタイピスト。彼女は七月のある日、一昨日着任したばかりの新任支配人の妻イレーネ・ラム夫人から、人探しを依頼される。福住ハルというその女性は、偶然にもヘボ画家の叔父織田順太郎の三十年まえの恋人だった。
 順太郎の助けでハルを探しあてた道子は、彼女の唇に親友山添時子の面影を見る。時子は訳あって幼い頃実の母と別れ、養女に出された娘だった。道子は彼女にハルがラム夫人に迎えられ、女中として北野町の宿舎に住むことになった、と知らせる。時子も今では無事灘の酒造家に嫁いでおり、ふたりの幸せな姿は道子をふと微笑ませた。
 それから約一ヵ月後の八月はじめ、道子はラム夫人にパーティー客を連れてきて欲しいと頼まれる。ラム邸のボウ・ルーム―― 半円形に張り出したベランダ風の部屋から、生田神社の打ち上げ花火を見物しようというのだ。屋敷には叔父の順太郎、道子の縁談相手の大学助教授渋沢徹治、友人の時子、それにひょんな事で知り合った毒殺事件の容疑者八重子が招待される。
 そしてその当夜。皆にのみ物が配られ部屋の電燈が消された。菊花がパッと夜空に開き消えたかと思うと、三個の子花火が生まれまた消える。花火から解放された見物人たちがホッと息をつくと不気味な呻き声が聞こえ、ドサリと重いものが床に倒れる音がした――
 陳舜臣三連発。「三色の家」に続く第三長編で、同年1962年に発表。執筆には大変苦労した模様(東都書房版あとがきには「難産の子」と形容されています)。ただ最初のメイン・トリックを捨てて、なんども組み立てては解体しているうちにミステリのコツを掴んだようで、この作品はそれまでの二作に比べ非常にシンプルかつスマートな出来栄え。あからさまな伏線が大胆不敵な毒殺トリックをヌケヌケと支えています。
 別格の名作「炎に絵を」とは比較になりませんが、推理作家協会賞受賞の「孔雀の道」よりもこっちが好きですね。危険度が高すぎるという指摘もありますが、心理的にはかなり確実な手口だと思います。
 明朗闊達な女主人公の語り口もよろしい。奥手な恋人(探偵役)の存在感も相俟って、ほのぼの風味の読後感があります。「枯草の根」を読んだのはかなり前ですが、とりあえず現時点での陳舜臣お薦め作品です。

No.4 6点 三色の家- 陳舜臣 2019/05/25 06:08
 昭和八年三月の末。中国人留学生陶展文は大学の法学部を卒業し、帰国のための荷造りを終えていた。そんな折彼は、寮でまる三年間同室暮らしだった在留華僑の子弟、喬世修からの「こちらにすぐ飛んできてくれ」と書かれた速達を受け取る。彼の父・全祥が病死したのだ。展文はその晩の夜行で、世修のもとに向かった。
 新たに乾物会社・同順泰公司の主人となった世修の頼みは、突然あらわれた異腹の兄・世治の尻尾をつかまえてほしいというものだった。亡父全祥は母国の妻をすてて逃げ出したあと、神戸で再婚したのだが、妻とともに置き去りにした息子がその『兄貴』喬世治だという。かれを迎えた父の態度もなんだかおかしく、田舎者のふれこみにしては日本語も英語も解するようだ。おまけに妹の純が、この兄貴に夢中なのだ。
 妻子を捨てたばかりでなく、国にいた頃の喬全祥にはよからぬ噂があった。渡し舟の船頭時代に或る金持を乗せたとき、助手の杜自忠と組んで金持を殺し、携えていた金を盗んで逐電したというのだ。その自忠は公司でコックとなり、番頭の呉欽平をさしおき全祥の腹心として振舞っていた。展文は友人の請いを要れ、しばらく公司に泊り込むことにした。
 同順泰は赤煉瓦の一階倉庫、白色モルタルの二階部分、青色ペンキのトタン板で囲った三階部分があることから『三色の家』と呼ばれている。展文が客となってまもなく建物三階の海産物干し場で、日課の昼寝をしていた杜自忠が頭を割られた死体となって発見された。だが殺害時刻には女中の銀子や同順泰の労務者たち、近隣の桑野商店、関西組の労務者たちが作業中で、干し場は一種の密室状態だった・・・
 第7回江戸川乱歩賞受賞作「枯草の根」を受けた受賞後第一作。1962年発表。前作に引き続き名探偵・陶展文が登場しますが、こちらは彼が二十代の頃の事件。シチュエーションもさることながら折りにふれ描かれる海産物問屋の作業風景が生々しく、物語に彩りを添えます。
 父を殺されたとおぼしき桑野商店の店員・郭文昇、気になる目つきの関西組の黒子の男・佐藤など怪しい人物もわらわら。『兄貴』の正体は妹さんがのぼせあがってる事からまあ見当は付きますが。
 現場入口には女中が腰を据え、取引先の桑野商店と繋がる梯子の下にはナカマ、オンナと呼ばれる労務者たちが。現場に至るルートは完全に封鎖されているのですが、それを掻い潜るトリックはさほど鮮やかではありません。後半部分で付け加えられるもう一つの消失事件も地味で、手堅く作られているとはいえ、少しは華がほしいところ。ただ解決直前に提示されるダミーの真相には、ものの見事にひっかかりました。全般に人工性よりも濃厚な生活臭を感じさせる作品です。ラストシーンから「陶展文自身の事件」みたいな所もありますね。

No.3 5点 柊の館- 陳舜臣 2019/05/24 05:06
 神戸の北野町にある通称「とんがり屋敷」のなか。そこはセブン・シーズ・ラインというイギリス系船会社の宿舎であり、三百坪ばかりの敷地に副支配人〈サブ・マネージャー〉宅、英人社員宿舎、女中部屋の三棟の建物が連なっていた。うしろにある平屋の日本家屋、メイド・ルームと台所を兼ねた控えの畳の部屋で、四十六年のキャリアをもつコックの杉浦富子が、二人のメイドに過ぎし日の思い出を語り始める。それは一九二五年、大正十四年から昭和十二年の蘆溝橋事件にわたる、とんがり屋敷の歴史そのものだった――
 1973年発表の連作推理小説。とはいえ定まった探偵役はおらず、十七から三十前までの冨子の回想という形でいくつかの事件が語られます。三件の殺人と一件の傷害事件、小噺や挿話的なものなどを含む全七話。六話と七話は併せて一話。どちらかと言えば箸休め的な軽い作品で、北村薫氏のベッキーさんシリーズに近いもの。こちらの語り手は六十三歳のおばあさんですが。
 穏やかな語り口で日中戦争突入時に物語は終わりますが、舞台が一種の閉鎖空間なせいか、戦争の影はほとんどありません。それでも第一話とリンクする最終話では、過酷な時代の訪れが暗示されます。第三話「サキ・アパート」がミステリ的な結構は最も整っていますが、全体としては思いつき程度の小品主体、これから読むならば北村作品の方をお薦めします。

No.2 6点 青玉獅子香炉- 陳舜臣 2019/05/07 02:23
 "モノ"に憑かれた人々、あるいは「物」に纏わる事件で構成された、一中編四短編を収録する作品集。第60回直木賞受賞作にして作者の代表作の一つである表題作がやはりピカイチ。
 清王朝の崩壊、辛亥革命から日中戦争、国共合作から太平洋戦争、そして内戦の再開とその終了を経た激動の近代中国史を背景にして故宮博物院の文物の流転を描きながら、ただその中の一品、己が魂を吹き込んだ「青玉獅子香炉」の行方を見つめ続ける青年の、約40年余りの人生とその再生を書ききったもの。
 1920年(大正九年)、北京正陽門外西の琉璃廠で潤古堂を営む王福生は、紫禁城の文物をコッソリ売却した宦官から、玉製香炉の複製を依頼される。彼は一世一代の傑作を作ることを熱望していたが、宦官が指差した玉は、その材料として選ばれた福生秘蔵の品だった。
 王は自分ももはや若くないと仕事を引き受けるがまもなく病に倒れ、玉器の製作は愛弟子・李同源に受け継がれる。同源は才能ある工人だったが、師匠の執念の籠もった名玉を前にしてはただ慄くしかなかった。
 既に物故していた福生にはある奇癖があった。玉がほんとうに生きるためには、女性の肌からエッセンスを吸い取らねばならない。彼は彫りつつある玉を、いつも女性に抱かせた。
 玉を彫ることができない同源を見つめる福生の義理の娘・程素英は一と晩じゅうその膚に青玉を抱き、彼女の見つめる中彼は見事に「青玉獅子香炉」を彫り上げる。だが、李の魂は素英への思慕と共に、香炉に吸い上げられてしまったと言ってもよかった。
 紫禁城に収蔵される香炉。同源は故宮博物院の前身である『清室前後委員会』の職員となり、香炉を見守りながら約四十年間、収蔵品と共に中国大陸を転々とするのだった・・・
 これは絶品。どちらかと言えば歴史小説に近いものですが、工芸に魂を絡め取られた一職人の流転の生涯が静かな感動を呼びます。戦火に伴って移動し続ける美術品の史実も興味深いもの。ラストで獅子香炉に再会した同源は、四十年に渡る呪縛から解き放たれたと解釈すれば良いのでしょうか。収録作が全てこのレベルならメモリアル級短編集なのですが、さすがにそれは無理というものでしょう。
 次点はラワン材に憑かれた老人の復讐劇「年輪のない木」と、ユーモアの利いたオチの仏像盗難事件「小指を追う」。他も悪くはないですが、総合すると6点作品。

No.1 7点 孔雀の道- 陳舜臣 2019/05/01 22:50
 昭和四十三年。仏教研究者で信州小諸の寺の息子中垣照道は、インドから日本へと向かう船旅で印象的な二人の女性に出会った。一人はアメリカ人実業家の妻で、純血の日本女性であるランポール夫人。もう一人は日英混血児ローズ・ギルモア。一年あまりのインド滞在を終えた照道には、二人の女性が感じさせる故国の匂いが眩しかった。
 二人と親しくなった中垣は、日本の灯をみはるかす甲板上で、ローズに亡き母についての調査を頼まれる。彼女の母親立花久子は病気ではなく火災で、終戦直後神戸で焼死したというのだ。睡眠薬を服用していたため逃れる事が出来なかったのだという。それと関係あるかはわからないが、太平洋戦争のはじまる一年まえイギリスの国際スパイ団が検挙されたマーシャル事件で、彼女の父サイモンも憲兵の取調べを受けていた。
 中垣はローズの懇請を受け、友人である須磨の住職・島田の助けを借りて二十二年前の事件を探る。一方、扶桑女子大学の英語教師として赴任したローズは、隣室のフランス人女性クララ・ルッサンと知り合っていた。彼女が三十年以上も日本に滞在していると知りローズは水を向けるが、彼女は貝の様に口を噤み何も語ろうとはしない。
 中垣とローズは戦前の神戸を知る人々を次々と尋ね始めるが、彼らが調査を始めるや否や、ルッサン夫人は自室で心臓をえぐられ刺殺されてしまう・・・
 「玉嶺よふたたび」と併せての第23回推理作家協会賞受賞作。1969年発表。前年には中編「青玉獅子香炉」で第60回直木賞受賞、さらにその前年には代表作「阿片戦争」完結と精力的な活動を続けており、作者が充実期にあったことが窺えます。
 殺人自体はかなり早く起きますが「炎に絵を」以上にその後話が大きく動く訳でもなく、ゆったりとした筋運びで混血の女主人公が日本に抱く違和感と、亡き母の強烈な肖像が描かれる展開。過去のスパイ事件絡みの緊張感を含んだ人間関係は暴き出されるものの、ルッサン事件については最後まで音沙汰無しで、これどうなってんのと思ってたら最後にうっちゃりを食わされます。
 過去の追跡過程で感じたいくつかの違和感が最後にきてピタッと嵌る、普通小説に近いタイプの作品。タイトルはおそらく愛に殉じた立花久子の人生そのものを指すのでしょう。地味ですが60年代の佳作のひとつです。

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雪さん
ひとこと
ひとに紹介するほどの読書歴ではないです
好きな作家
三原順、久生十蘭、ラフカディオ・ハーン
採点傾向
平均点: 6.24点   採点数: 586件
採点の多い作家(TOP10)
ジョルジュ・シムノン(38)
ディック・フランシス(35)
エド・マクベイン(35)
連城三紀彦(20)
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