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雪さん
平均点: 6.24点 書評数: 586件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.16 8点 曲った蝶番- ジョン・ディクスン・カー 2020/08/27 16:43
 一九三八年夏、イギリスのケント州。二十五年近くもアメリカのコロラドで暮らし、一年と少し前に帰国して少なからぬ遺産とマリンフォードおよびスローンの領地を相続した准男爵、サー・ジョン・ファーンリー。だがそこに彼は詐欺師の成りすましであって、自分こそが本物のジョン・ニューナムだと名乗る人物が現れた。
 彼の主張によると一九一二年四月十五日の運命の夜、自分は氷山に衝突して沈みつつあるタイタニック号の中で、今はジョン・ファーンリーと名乗っている少年に襲われ、怪我はしていたがまだ息のあるところを発見されて最後の救命ボートに押しこまれたらしい。船中で意気投合した二人は事故直前に身の回りの品一切を交換しており、ありふれた日常にうんざりしていた自分はそのままサーカスの経営者ボリス・エルドリッチに拾われ、少年の名を継いだ新たな存在、パトリック・ゴアとなってアメリカのサーカスで大々的な成功を収めたのだという。
 イギリス巡業で手にした安新聞の写真で兄の死と、跡継ぎになりかわろうとした小僧の生存を知り、ペテン師の化けの皮を剥ぐために故郷に帰ってきたとゴアと名乗る男は言った。おとなしく引く気がないならそれでもいい。こちらには指紋という、疑う余地のない証拠があるのだと。ゴアと事務弁護士のウェルキンはバミューダに逼塞していたジョンの元家庭教師、ケネット・マリーを呼び、彼は沈没前に准男爵家の人々から採取した指紋帳を持ってこちらへむかっているのだ。
 ジョンとモリーのファーンリー卿夫妻、顧問弁護士のナサニエル・バローズ、そして立ち会いに呼ばれた作家のブライアン・ペイジ。彼らの見守る中、到着したマリーはふたりの相続権主張者から指紋を採り、結果が出るまで皆を読書室から締め出してしまう。早ければ十五分ほどで全ての決着がつくはずだった。
 だがそのわずか十分後准男爵サー・ジョン・ファーンリーは、イチイの垣根に囲まれた庭園の迷路の中で、喉を切り裂かれ池にうつ伏せになった死体として発見される。そして混乱の中読書室からは、何者かによってマリーの指紋帳が盗まれていた――
 『死者はよみがえる』に続くフェル博士シリーズ第九長篇。1938年発表。この年には両作の他に『ユダの窓』『五つの箱の死』等が発表されており、『火刑法廷』以下四長篇を執筆した前1937年、『緑のカプセルの謎』『読者よ欺かるるなかれ』以下三長篇を刊行した翌1939年と併せ、作者が質量伴う最盛期にあったことが推察されます。
 腰までの高さしかない迷路そっくりの垣根の中で起こった殺人で、オープンな密室では『囁く影』と並ぶ出色の設定。目撃者はいても、被害者の死亡直前の奇妙な動きだけがクローズアップされ、誰も犯人の姿を見た者はいない。凶器のポケットナイフは睡蓮の池から十フィートばかり離れた垣根に押し込んであった。いくぶん荒唐無稽な自殺か、それ以上に不可能な他殺か。
 七月二十九日水曜日から三十一日金曜日までの三日間の出来事を扱ったもので、一日ごとの三部構成。"どちらが本物のジョン・ファーンリーなのか?"という人間入れ替わりを巡る謎から一転し、不可能犯罪を扱う第二部以降では俄然、ファーンリー家に伝わる悪魔崇拝の儀式書や、十七世紀にチャールズ二世の宮廷で披露された機械仕掛けの自動人形《金髪の魔女》などがクローズアップされ、事件を覆う怪奇性が強くなっていきます。
 垣根か植え込みから聞こえてきた《ガサガサという音》。「ガラス戸越しになにかから見られているような」という証言。地面で飛び跳ねていたという素早い動きの"なにか"。姿を消し、指紋帳を手にして床に横たわったまま発見されたメイドのベティ。そして死んだジョン・ファーンリーが魘されていた「だんだん曲がっていく白い蝶番」のイメージ。これらの諸要素が一体となって、異様な迫力を持つ真相へとなだれ込んでいくその見事さ。終幕直前、モンプレジール荘の窓からすぐ先の暗闇に、ファーンリー邸の自動人形が座っている場面には思わずゾクッと来ます。
 解決も事務弁護士バローズの仮説、フェル博士がキーパーソンを追い込むために組み立てた偽の推理、そして犯人から博士宛に送られた手紙による告白と三段構え。偽証は確かに問題ですが、あの証人がいなくても不可能性は成立するので特に問題は無いかと。むしろ完全なる目撃者がいないと決着不可能な事件なので、そのために用意された存在でしょう。これも含めてカーが一番苦労したのは、作品全体の構造と緊密に結びついた犯人像の設定だと思います。
 出来は『緑のカプセルの謎』とほぼ同格で、〈2012年版東西ミステリーベスト100〉選出の『火刑法廷(10位)』『三つの棺(26位)』『ユダの窓(35位)』『皇帝の嗅ぎ煙草入れ(69位)』に『ビロードの悪魔』をプラスした、カー/ディクスン名義のベスト5に次ぐ作品。ディテクション・クラブの重鎮ドロシー・L・セイヤーズに捧げられている事でも分かる通り、カー絶頂期の自信作です。

No.15 6点 蠟人形館の殺人- ジョン・ディクスン・カー 2020/06/19 05:16
 一九三〇年のパリ。オーギュスタン蠟人形館に入るところを目撃されたのを最後に行方不明となった元閣僚の娘オデット・デュシェーヌは、その翌日刺殺体となってセーヌ河に浮いた。予審判事バンコランが老館主を尋問すると、彼は展示中の女殺人鬼ルシャール夫人の人形が、オデットのあとをつけていくのを見たと言い出す。蠟人形館に赴き地下の恐怖回廊入口へと向かったバンコラン一行を出迎えたのは、オデットの親友クローディーヌ・マルテルの死骸を抱えたセーヌ河の怪物サテュロス像だった! 優雅な装いの下にメフィストフェレスの冷徹さと鋭い知性を秘めた、アンリ・バンコラン四度目の活躍。
 1932年発表。同年にはバンコランと別れてアメリカへ戻った語り手ジェフ・マールが、滞在先の邸で事件に出くわすノンシリーズ長編『毒のたわむれ』も刊行されています。
 バンコラン登場作品を完読するのは今回が始めてですが、フェル博士やHM卿シリーズに比べどうにも据わりが悪い感じ。煽情的なシチュエーションと、悪魔的かつ嘲笑的な探偵役のキャラクター性がうまく噛み合っていません。読者をひととき非日常の空間に誘ったのち事件に幕を引き、再び現実世界に引き戻すのが名探偵のポジショニング。一見エキセントリックに見えても、何かしらの安定性がないと作品全体のバランスが悪くなってしまうのです。そういう意味でバンコランの存在はマイナス要素。法の担い手でありながら法を逸脱するような言動も、それに拍車を掛けています。
 かといってピカレスクに走る訳でもなく、悪く言えば中途半端。本編でも要所々々は押えるもののそれほどには動かず、作中登場のインテリ悪役エティエンヌ・ギャランに言及して、自分を実物以上に見せる事への自嘲と自虐、老いを認めるセリフなどが目立ちます。次作でフェイドアウトし新たな探偵役パット・ロシター青年に交代するあたり、作者のカーも扱い辛くなっていたのでしょうか。ラストではいつもの彼に立ち返り、またもや真犯人を弄ぶような態度を見せますが。
 逆に大立ち回りを見せるのは語り手のジェフ。暗黒街の大物ギャランとある人物の会話を立ち聞きしたり、彼が上流階級脅迫に使用している秘密社交クラブ〈銀の鍵〉へ潜入したりと、主人公クラスの活躍ぶり。このクラブでの活劇と、クラブと表裏一体の関係にある蠟人形館との関係性が本書最大の魅力でしょう。両者を対置し推理とアクションとを混交させることにより、一定のリーダビリティーをも獲得しています。
 またアクションのみならず伏線配置の仕方もかなりのもので、読者の眼前で証拠をチラつかせる手付きは『白い僧院の殺人』を思わせます。さらに現場を検討した上でのホームズ風状況把握も見どころの一つ。
 本来ならば単なるイロモノに留まらず、佳作未満の地位を要求できるレベルですが、仕切り役の探偵にあまり好感が持てないのが難点。色々と光るものはありますが、トータルでは平均点の作品ですかね。

No.14 4点 剣の八- ジョン・ディクスン・カー 2020/03/17 10:19
 イギリス・グロースターシャー州の警察本部長、スタンディッシュ大佐の田舎屋敷グレーンジ荘で奇妙な事件が起きた。帰りの最終バスに間に合わず、やむなく泊まることになった教区の牧師プリムリーがポルターガイストに襲われ、騒ぎを聞きつけて集まった皆がふと窓の外を見ると、賓客として休暇をすごしていたマプラムの主教、ヒュー・ドノヴァンが寝巻き姿のままで、平らな屋根の上に立っていたのだ。危険な犯罪者がゲストハウスのほうへ向かっていくのを見たというのが、主教の言い分だった。
 メイドの髪を引っ掴んだり手摺りを滑り降りたりとドノヴァンの奇行はその後も続き、やがて彼はスタンディッシュにしかるべき警官と面会させるよう要請してきた。主教によれば、この近辺で何かとんでもない犯罪がたくらまれているらしい。
 押し切られた大佐は半信半疑のままロンドン警視庁に連絡を付けると同時に、一年間の遊学から帰国したドノヴァン・ジュニア、同じく三カ月ぶりにアメリカから帰ったギディオン・フェル博士と共にハドリー警部に面会するが、その直後大佐にかかってきた電話は、グレーンジ荘のゲストハウスに住む学者セプティマス・デッピングが、頭を撃ち抜かれて殺されたというものだった・・・
 『帽子収集狂事件』に続くフェル博士シリーズ第三作。1934年発表。ハウダニットよりもフーダニット、という作品で、それは密室風の現場に抜け穴が存在するという設定に表れています。もっと言えば悪ふざけ。コメディ風の発端に見られるように、趣向自体をおちょくってますね。ハヤカワ文庫版の解説で作家の霞流一氏が、〈「探偵がいっぱい」テーマ〉〈クイーンのロス名義「悲劇シリーズ」に挑戦〉と指摘していますが、多重解決と言うほどでもなし、そんなマジメな作品ではないと思います。
 内容もコメディーから本格推理、最後はスリラー風の派手な銃撃からの決着と、キメラというか鵺的。同年発表のファース『盲目の理髪師』と重複を避けての路線変更でしょうか。この年の作者はH・M卿シリーズの開始に加え初の歴史小説の発表と、計5冊もの作品を刊行しており、ワリを食ったのが本作だと見た方がいいようです。
 ただ中心の発想は、カーがその後二十年あまりこね回すことになる〈究極の犯人〉の原型。フェル博士では拙いと思ったのか作例はこれきりですが、更にエキセントリックなH・Mを用いて翌年の『一角獣殺人事件』(1935)『五つの箱の死』(1938)と二度三度試み[『読者よ欺かるるなかれ』(1939)もか?]、後年の歴史ミステリ『喉切り隊長』(1955)で一応の完成を見ています。解決には名探偵の存在が必要なれど、シリーズ探偵をもってしてもその効果は発揮し難いというもの。本書でもせっかくの奇想がやや唐突な結末に終わっています。
 その結果出来上がったのは的を絞りきれなかった失敗作。フェル博士ものにも関わらず着地はスリラー。カーファンでも高い点は付けられません。

No.13 6点 ハイチムニー荘の醜聞- ジョン・ディクスン・カー 2020/02/17 01:43
 一八六五年十月のある晩、〈ブライス・クラブ〉に呼び出された元法廷弁護士の作家クライヴ・ストリックランドは、友人ヴィクター・デイマンに二人の妹たちを結婚させ父親の屋敷から引き離してほしいと頼まれる。レディング近くの田舎にあるハイチムニー荘は元鬼検事の父マシューの邸宅だったが、辣腕家でありながらその経歴にとかくの噂が影を投げかけ、栄典にはこれまで一切無縁なのも消息通の間では不審がられていた。
 クライヴはマシューを説得するためグレイト・ウェスタン鉄道でハイチムニー荘へ向かおうとするが、始発駅で偶然デイマン夫妻に出会う。だがマシュー・デイマンは十歳も老けてしまったように見え、ほおはげっそりとこけていた。彼はそこでデイマン氏から、幽霊が出たという話を聞かされる。昨夜外出した執事バービジの娘ピネラピが、帰宅後階段の途中に立っている男につかまえられかけたのだ。家じゅうのよろい戸はしっかり戸締りされかんぬきもかかっており、外からは誰も入ることができなかった。
 クライヴは脅えるデイマンに懇請されハイチムニー荘の客となるが、屋敷の書斎で告げられたのは十九年前に処刑された女死刑囚ハリエット・パイクの実子が、この家に引き取られ養育されているという事実だった。そしてデイマン氏がなおも語ろうとしたまさにその時、何者かの銃弾が彼に向けて発射された・・・
 『火よ燃えろ!』に続いて1959年に発表された歴史もの。次作『引き潮の魔女』とともにヴィクトリア朝三部作を成しています。時代的には南北戦争の半年後、作中にもあるようにイギリスの大政治家パーマストンが病死しプロイセンのビルマルクがオーストリアに普墺戦争を仕掛ける直前で、日本だと第二次長州征討のため大阪城に入った十四代将軍家茂が急死する前後のこと。
 1860年にイングランド南部のウィルトシャーで起こった幼児殺し「コンスタンス・ケント事件」を下敷きに、同事件で馘首されたロンドン警視庁の元警部、ジョナサン・ウィッチャーに謎を解かせる構成。〈マシューの二人の娘のうちどちらが殺人犯の子なのか?〉を軸に、一目惚れした主人公を操りながら進行させますが、誘導テクニックの限りを尽くしているとはいえあまり成功していません。犯人隠しはこの作者の得意技ですが、カーの場合文章の巧みさ以前に卓抜したシチュエーションで成功させている例が多い(『貴婦人として死す』などはその典型)。本書の場合はやや無理筋で、鮮やかな仕上がりではありません。鏡明氏のようにストーリーテリングを高評価する人もいる反面、犯人逮捕を複雑な形にせざるを得なくなるなど、作劇としては肩透かしに陥っているところもあります。
 とはいえ巻末注記の充実が示すとおり、かなりの意欲作なのは事実。犯人を知っている人物がことごとく言葉を濁すなどいただけない部分もありますが、そうした点を気にしなければ十分楽しめるでしょう。なかなかに尖った作品です。

No.12 4点 ヴードゥーの悪魔- ジョン・ディクスン・カー 2019/12/26 11:30
 一八五八年四月十四日、アメリカ南部・ニューオーリンズの街がミシシッピーのほとりでまどろんでいる黄昏時、英国領事リチャード・マクレイは領事館に知人イザベル・ド・サンセールの訪問を受けた。彼女の娘マーゴの様子がおかしいのだという。二十四年前、奴隷虐待の濡れ衣を着せられ暴徒の襲撃を受けた社交界の花形マダム・デルフィン・ラローリーと、彼女に私淑していた〈ヴードゥー・クイーン〉マリー・ラヴォーに魅せられ、夢中になっているらしい。会話の途中イザベルは窓の外に注意を促すが、マクレイは一笑に付す。だがその直後、ガラスが割れて飛び散る音が響く。中庭のまんなかから投げられた陶器の瓶が、部屋の窓をぶち破ったのだ。
 その翌晩《ワシントン・アンド・アメリカン舞踏場》で催されたクワドルーン舞踏会の席上、マクレイの友人トム・クレイトンは偶然仮面を付けて参加していたマーゴ・ド・サンセールの変装を見破る。仮面を奪われ激怒した彼女はそのまま黒い馬車に乗って走り去った。マクレイ達は車中のマーゴを見張りながら二台の無蓋馬車で追跡を試みる。だが、ド・サンセール家に帰りついた馬車の中には彼女の影も形もなかった。
 彼らはサンセール夫妻に愛娘の消失を伝えるが、マーゴはまだ家に帰ってはいないという。そして階下のホールで話し合っていたまさにその時、事件は起こった。階段のいちばん上でふらふらしていた来客の一人ラザフォード判事が、突然頭から前につんのめって転落死したのだ。まるで誰かにつき飛ばされたように。だが一部始終を目撃していたホールの面々は、判事以外誰の姿も見ていなかった。
 こうしてデルフィン・ラローリー事件の煽動者、ホレス・ラザフォードは謎の死を遂げた。二十四年前の四月十五日、ラローリー一家がニューオーリンズを逃げ出したのと同じ日に・・・
 『月明かりの闇』に続き1968年に発表された、ニューオーリンズ三部作の一作目。三部構成ですが導入部では〈誰かに見張られている〉〈娘がどっかヘン〉といったあやふやな展開。
 が、第二部で復讐に燃えるマダム・ラローリーの義理の息子スティーヴ・ホワイトが犯人と目された後、ヴードゥー教の悪魔「パパ・ラ=バ」を名乗るカードが警察や事件関係者に送りつけられ、また探偵役ベンジャミン上院議員の手によって馬車からの消失の謎が解かれるに到りやっと面白くなってきます。
 とはいえノリは歴史物というより通俗物、もっと言えば少年探偵団のソレに近い。消失トリックも残念気味の殺害方法も明らかにソッチ系。第三部で明かされる一連の〈ヴードゥーの流儀〉の反転は確かに意外ですが、これも特殊な知識がないと厳しい。いずれの要素もかなり長めの物語を支えるには足りません。三部作の内では最も良いとのことですが、個別の作品としてあまり高くは評価出来ないでしょう。

No.11 7点 魔女の隠れ家- ジョン・ディクスン・カー 2019/12/07 08:31
 ハヴァフォード大学の恩師メルスン教授の紹介で、リンカーンシャー州チャターハムに住む辞書編纂家ギデオン・フェル博士を訪ねることにしたアメリカ人青年タッド・ランポールは、ロンドン駅構内で灰色のコートを着た若い女にぶつかった。彼女の弁護士とともに現れたフェル博士によると女性の名はドロシーといい、チャターハム監獄の所長を勤める名門の出。そしてその兄マーチン・スターバースは嫡子として二十五歳の誕生日の夜、監獄へ行って、所長室にある金庫をあけて、運だめしをしなければならないらしい。スターバース家の当主たちは代々、首の骨を折って変死していた。兄妹の父親であるティモシーも、その例に洩れなかった。
 ドロシーに惹かれたタッドは運命の夜、〈イチイ荘〉からフェル博士と儀式の一部始終を見守ることにする。丘の上の監獄に向かってゆく一条の白い光と人影。やがてライトの明かりが所長室にさすが、灯は所定の時刻の十分前に消える。彼は沼沢地を走り続けていっさんに〈妖女の隠れ家〉へと駆けつけるが、断崖のはしの井戸のまわりで発見したのはマーチン・スターバースの、ゴムのようにぐんにゃりした死体だった。そして彼の首の骨もまた折れていた――
 1933年発表のギデオン・フェル博士もの第一作。カー/ディクスンの長編としては「毒のたわむれ」に続く六作目。コレラと絞首刑、因縁めいた言い伝えのある沼沢地帯と美しいリンカーンシャーの田園を舞台に、シンプルに纏まった物語が展開します。
 情景描写や雰囲気は濃厚で若干当てられるくらいですが、フェル博士の安定した人格が良い重しとなりバランスが取れています。事件のシチュエーションが視覚的でシンプルなのもGood。シンプル過ぎて犯人が分かり易いのが難ですが。しかし逮捕シーンから皮肉なラストまで終始ドラマ的な工夫が凝らされており、メイン探偵のデビュー作品としては「プレーグ・コートの殺人」よりも出来は良いでしょう。背景となる過去の怪死の謎もキッチリ説明されています。
 ただこの作者のベスト10に入るかどうかとなると微妙。初期作という事もありレッドへリングその他はまだ未熟。なかなか悩ましいものがありますが、「貴婦人として死す」に続く11~15位の次点ポジションかな。

No.10 5点 月明かりの闇- ジョン・ディクスン・カー 2019/11/15 09:43
 南北戦争のきっかけとなったサムター要塞から二マイルと離れていないサウスカロライナ州ジェイムズ島。兄リチャードの死により実家を継ぐため、ゴライアスから島に戻ってきたヘンリーだったが、南部の名門メイナード家には英領植民地時代から伝わる言い伝えがあった。初代リチャードが決闘で打ち倒した海賊、ビッグ・ナット・スキーンの亡霊がトマホークを振るうというのだ。約二百八十年前の当主リチャードに加え、百年前には南北戦争の英雄ルーク・メイナード提督も変死していた。いずれも頭の右側が叩きつぶされ、周囲には足跡も凶器も見つからなかった。
 裕福ながら堅苦しいヘンリー・メイナードと愛らしくセックスアピールに満ちた娘のマッジ、そして彼女をとりまく求婚者たち。人々の間に奇妙な緊張が高まる中、次々と小事件が起こる。案山子の盗難、屋敷の周囲をうろつく謎の人影、そして武器室からのトマホークの消失――
 そうしたなか月の夜浜辺に面したテラスで、ヘンリーがやはり頭の右側を潰されて殺される。だが砂のように牡蠣殻を敷き詰めた白いテラスにも下の浜辺にも、被害者の足跡以外にはなんの形跡もなかった・・・
 1967年発表のギデオン・フェル博士最後の事件となった作品。"足跡のない殺人"がテーマですが、しょぼくさいメイントリックよりも人間関係を軸とした構想がなかなか。騎士道系ラブロマンス万歳のカーでこういうのは珍しいです。この内容で引っ張りすぎとか、フェル博士がこんなハウダニットで苦戦する筈ないやんとか言いたい事は色々ありますが、黄金時代全盛期の作家としてはこの時期まずまず健闘しているのではないでしょうか。黒板にメッセージを書き残す道化者〈ジョーカー〉の存在とか、深夜の廃校での冒険とか結構楽しませてくれます。
 ただピタゴラスイッチ系のアレは脱力もの。シビアな評価の原因はおおむねこれでしょう。贔屓目に見てもギリギリ5点。個人的には「悪魔のひじの家」より楽しめたんで、そこまで低評価したくないんですが。
 カーはこの後も毎年作品の刊行を続け、ウィルキー・コリンズを探偵役に据えた「血に飢えた悪鬼」の発表後に亡くなりました。最後に構想されていた長編はダグラス・グリーンによれば「海賊の道」とのタイトルだそうで。たぶん歴史物だと思いますが、どんな物語だったのかは興味あるところです。

No.9 6点 喉切り隊長- ジョン・ディクスン・カー 2019/09/22 16:56
 一八〇五年夏の終わり、ドーヴァー海峡を睨むブーローニュのオードルー断崖上の陣営に、興奮した十五万の歩兵と九万の騎兵がもう辛抱できないというようにわき返っていた。前年五月に即位したフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトはその絶頂期にあり、その影はヨーロッパ全土に長々と暗い影を投げかけていた。集結した二十四万の大陸軍は、果たしてどこへ向かうのか? 対岸のイギリスか、それともヨーロッパのいずこへか? それは各国のみならず、当の兵士たち自身がもっとも知りたがっている事だった。
 停頓する状況にいらだつ軍営内に、ある噂がひそかに広がっていく。〈喉切り隊長〉と呼ばれる殺人鬼がいずこともなく現れて歩哨を刺し殺し、幽霊のように消え去るというのだ。衆人監視のなか犠牲者はすでに四人を数え、後にはただ"ごきげんよう、喉切り隊長"と書いた挨拶状が残されていた。
 悪名高き警務大臣ジョゼフ・フーシェは皇帝の勅命を受け、逮捕されたばかりのイギリス人スパイ、アラン・ヘッバーンを使い喉切り隊長の正体を探ろうとする。が、アランの目的は他にあった。ナポレオンの懐に飛び込み、大陸軍の進路を探ろうというのだ。
 それぞれの目論見を秘めて対峙する二人に絡む、アランの妻マドレーヌと女スパイ、イダ・ド・サン=テルム。そしてアランを敵視する大陸軍一の剣の使い手ハンス・シュナイダー中尉と、お目付け役のギー・メルシエ大尉。五人の男女は一路ブーローニュの三十彫像園へと向かう。
 フーシェの真の目的とは何か? そして〈喉切り隊長〉の正体は?
 1955年発表の「ビロードの悪魔」に続く歴史もの。カーには珍しくナポレオン戦争時のフランスが舞台。美味しい要素てんこもりですが、前作に比べて出来はチグハグ。フーシェは大好きだけどナポ関連はそうでもない、イギリス大好きだけどフランスはちょっとねという、作者のジレンマが出た感じ。
 大枠は冒険スパイ・スリラーで、様々な妨害を掻い潜った主人公アランが気球繋留場の囲みを突破する所は良いのですが、宿敵シュナイダー中尉とサーベルを抜いて騎馬で駆け違うという、最高に盛り上がる場面で物語は突然フェードアウト。次章、伝聞の形で決着がウヤムヤとなった事が語られ、その後シュナイダーは唐突に退場。伏線の為とはいえ、チャンバラ小説としては若干もにょる結末です。
 反面ミステリとしては物凄く綺麗に着地しており、読み終えると「ああこれがやりたかったのか」と分かるのですが、肝心なところを潰して奉仕させてるので素直に喜べません。チャンバラも良し、推理要素も悪くないというのが、この人の歴史ものの味だと思うのですが。
 タレーランとかも意味ありげにちょろっと出て来るので、伏線はそっちに任せて素直に両者を対決させるべきだったでしょう。作者のフランスへの興味の無さがこのへんに出てる気がします。考証がダメな訳ではないし、決してつまらなくはないんですけどね。あのオチに執着し過ぎたのかな。「五つの箱の死」のリベンジと考えれば、まあ分からない事もないけど。

No.8 7点 深夜の密使- ジョン・ディクスン・カー 2019/07/22 22:06
 一六七〇年五月、王政復古によりチャールズ二世がイギリスに帰還し、スチュアート朝が復活してから十日後のこと。ブラックソーンの郷紳ロデリック・キンズミアは、母マティルダの遺産を支度金に再び王に仕えるため、亡父バックが書いてくれたバッキンガム公殿下宛の手紙と見事な形見のサファイアの指輪を身に着け、はるばるロンドンに赴いた。
 バッキンガム公の朝見の場ヨーク・ハウスで首尾よく父の親友である金融業者ロジャー・ステインレーに出会い、彼の預かる信託財産九万ポンドを受け取る手筈を付けたものの、行く先々で竜騎兵近衛連隊隊長ぺムブローク・ハーカーと名乗る男に絡まれ、深夜のレスター・フィールズで決闘を行う破目になってしまう。
 だが王宮の中庭での二人の会話に耳を澄ます人物がいた。ロデリックの前に現れたバイゴンズ・エイブラハムと名乗る好漢は陛下の勅書送達吏だと名乗り、自分もハーカーに喧嘩を売られ、同じ場所・同じ時刻に決闘することになっているのだと語る。どうやらハーカーの目的は、国王チャールズの機密文書にあるらしい。
 バイゴンズの他に送達吏はもう一人おり、二人はそれぞれ暗号で書かれ半分に引き裂かれた外交文書をフランスのルイ十四世、かの太陽王のもとに届けるのだ。父の指輪は送達吏の身分を示すもので、先代の殉教王チャールズ一世の所持品。失われたと思われていた第三の指輪なのだ。ハーカーはロデリックが填めていた指輪に目を付け、決闘をふっかけたのだった。
 二人は協力してハーカーの身柄を押さえ、密書によって国王を思い通りに操ろうとする反体制グループ首領の正体を暴こうとするが・・・
 カーがミステリ作家としてデビュー直後の1934年、旺盛な活動のかたわら Roger Fairbairn 名義で発表した"Devil Kinsmere"の改作版であり、歴史物の出発点に位置付けられる作品。この年には「プレーグ・コートの殺人」「白い僧院の殺人」「盲目の理髪師」など、他に5作を刊行しています。
 完全別名義での発表が示すようにデュマ系統の波乱万丈剣戟作品ではあるのですが、物語全体の構図はむしろそれとは逆。これ絶対王様の方が酷いよねえ。殺人事件や小粒のトリックよりも、真相がミステリ寄り。フェル博士やHM卿をバリバリ発表してた頃なので、変化球というかある意味アンチというか、後年の歴史物よりずっとタチが悪いです。
 原点だけあって風俗描写、特に当時のロンドン市街や王宮関係のあれこれには若々しい意気込みが窺えます。それを生き生きと活写した吉田誠一氏の翻訳が素晴らしい。訳者の遺稿でもあります。享年五十六歳。病床でも最後まで本書の校正を気にしておられたそうで、訳業への感謝と共に、ここでご冥福を祈らせていただきます。

No.7 7点 ニューゲイトの花嫁- ジョン・ディクスン・カー 2019/07/03 09:10
 ワーテルローの戦いがおこなわれた一八一五年六月十八日の夜、フェンシング道場師範リチャード(ディック)・ダーウェントは貴族殺しの罪でニューゲイト監獄に繋がれ、白々と明け初める翌朝まさに絞首刑を迎えようとしていた。 ディックは最後の告解を施しにきた監獄付き教戒師ホレイス・コットンに、自分が嵌められ青年貴族フランシス・オーフォード殺害の罪を着せられたこと、ならびにハイド・パーク公園を彷徨う幻の馬車と、墓場からやってきたような黴の生えたマントを羽織った御者の話を語る。
 そのとき新たな客が囚人を訪れた。二十五歳の誕生日を間近に控えたキャロライン・ロス嬢だ。彼女は祖父の遺産相続の条件を満たすため、明日には処刑されるダーウェントにかたちだけの結婚を求めに来たのだった。恋人ドロシー・スペンサーにせめてもの償いをするため、ディックは五十ポンドの報酬で、コットン師立会いのもと式を挙げる。
 だが彼の運命は再度変転する。伯父と従兄弟がフランスでの戦いに絡んで亡くなり、ディックは晴れて爵位を継ぎリチャード・ダーウェント侯爵となったのだ。ダーウェントは決闘でオーフォードを斃したと思われていたが、貴族を裁くイギリス上院では、決闘行為は権利であって犯罪とは看做されないのだった。
 無罪放免となったリチャードは酔いどれ弁護士ヒューバート・マルベリーの力を借り、ニューゲイトで彼を侮辱したダンディ、ジャック・バックストーン卿との決着を付け、同時に消えた家の秘密を暴き、彼を窮地に陥れた謎の〈御者〉の正体を探るべく奔走する。
 「疑惑の影」に続き1950年に発表された、カー/ディクスン歴史作品の嚆矢。本書を皮切りに翌1951年には「ビロードの悪魔」が、続いて「喉切り隊長」「火よ燃えろ!」などが最後期に至るまで書き続けられ、いずれも高い評価を得ています。
 それらに比べると、この作品はやや生硬な出来。ウィンブルドン・コモンでの水車を背景にしたバックストーンとの銃による決闘を端緒に、史実上のキングズ・シアター騒擾事件の中での雇われボクサーたちとの戦い、およびとうとう姿を現した〈御者〉の追跡、ラスト付近の剣戟など、人物取り違えを駆使した種々の盛り上げは流石ですが、全体にコテコテした感じでスマートさはありません。冒頭の「消え失せた部屋の謎」こそ筋運びに直結していますが、経験を積んだ後年の作者であればもっとシンプルに纏めたでしょう。エキセントリックなヒロインが急速にしおらしくなるのは、この際置いときましょう。
 次作「ビロードの悪魔」には及ばないものの活劇関連の描写は出色。個人的には中盤の怨敵バックストーンとの対決が、色々と工夫してあって好きです。

No.6 6点 九つの答- ジョン・ディクスン・カー 2019/01/23 07:18
 アメリカに渡り今は一文無しの元英空軍少佐ビル・ドーソンは、なけなしの祖母の遺産を受け取るためにニューヨークのスローン・アンド・アンバレー法律事務所を訪れた。だがそこで彼は一組の男女とアンバレー氏の会話を聞きつける。
 ビルに気付いたカップルの一人ラリー・ハーストは、彼に一万ドルの冒険を持ち掛けてきた。ラリーの身代わりとなり、イギリス在住の富豪の伯父ゲイロードに会って欲しいというのだ。恐るべき伯父は不仲な甥を家督相続人に指定するに当たり、自宅への定期の訪問を義務付けていた。だが幼少時からゲイロードの病的な虐待を受けてきたラリーには、それは到底不可能なことだった。
 申し出を了承したビルは二人と一緒に〈ディンガラ酒場〉へと繰り出すが、そこでラリーは青酸カリを飲まされ倒れてしまう。ラリーの婚約者ジョイとも離れ離れになってしまったビルは、故郷への帰還と強敵ゲイロード・ハーストとの対決を誓うのだった。
 1952年発表の現代を舞台にした「ゼンダ城の虜」の流れを継ぐ冒険ロマン。「ビロードの悪魔」の次作ですが、分厚さもそれに匹敵する作品。HPBであっちが439P、こっちが441P。HPB版の「アラビアン・ナイト殺人事件」はP数不明ですが、ひょっとするとこれがカーの最長編かもしれません。去年からの繰り越しで、読むのに結構苦労しました。
 酒場での毒殺騒ぎの後、ビルは飛行機でイギリスへと向かうのですが機内で別れた恋人マージョリと再開。縒りを戻したカップルはラリーとジョイに化け、ゲイの下に赴きます。だが指定されたホテルは既に怪しげな人物や警察に見張られ孤立状態。ゲイの召使いである元レスラー、ハットーにも苦杯を舐めさせられます。さらに正体を見破られたビルは、ゲイロードと生死を賭けた駆け引きをすることに・・・。
 タイトル通り作品中には九つの質問が挿入され、読者が思いつきそうな考えは「それは誤った答である。第○の解答を捨てていただきたい」と返されます。意表を突くものもありますが中には蛇足なものもあり、有効に機能しているとは言えません。
 かなり大胆なトリックが仕掛けられていますが、全体に筋運びが強引ですね。色々な趣向もこれほどの長編を支えるには不足気味。ハードボイルドに対抗した変化の試みだと思いますが、これ一作きりで再び歴史物に舞い戻ったのも出来映えに不満があったからでしょう。この頃は大部の作品を連発した時期に当たりますが、もう少しコンパクトに仕上げるべきだった作品。旧版表紙見返しに「独創的、画期的」「史上に不朽の傑作」とありますが、決して悪くはないにせよそこまでのものではありません。

No.5 8点 囁く影- ジョン・ディクスン・カー 2018/12/13 07:52
 戦火の傷跡が残る一九四五年のロンドン。叔父チャールズの遺産を相続したばかりの歴史学者マイルズ・ハモンドは、ギデオン・フェル博士に〈殺人クラブ〉のゲストとして招かれ、ベルトリング・レストランを訪れた。だがそこにクラブのメンバーは誰もおらず、ディナーの準備が整えられているのみ。
 待ちぼうけを食わされたのはマイルズだけではなかった。同じくゲストとして招待されたフランス人の大学教授、ジョルジュ・アントワーヌ・リゴーは、居合わせた女性記者バーバラ・モレルの懇請で、二人に戦前フランスのシャルトルで起こった不可能犯罪の一部始終を語り始める。
 〈ヘンリー四世の塔〉と名付けられた河沿いの古い塔の頂上で、地元在住のイギリス人実業家、ハワード・ブルックが刺殺されたというのだ。彼が尖塔に登ってから発見されるまでの十五分間、正面から建物に近付いた者は誰もおらず、しかも裏側は切り立った外壁であった。ハワードはとかくに噂のある家庭教師、フェイ・シートンと息子ハリーの仲を断つべく、塔に出かけていったのだった。
 リゴー教授との話を終えて、ホテルに戻ったマイルズ。彼の元に、叔父の蔵書整理に雇う司書の応募者が訪ねてきたという。その女性は、フェイ・シートンと名乗った。
 リゴー教授、そしてフェイ。シャルトル事件の関係者がマイルズの住むグレイウッドの屋敷に集う時、またしても不可能犯罪が起こる・・・。
 1946年発表。地味な印象で初読の際はさほどでもなかったんですが、読み返すうちに評価の上がっていった作品です。今選ぶとディクスン名義も含むベストテンの下位には入りますね。
 最初の密室状況ばかりがクローズアップされがちですがこれは付け足し。メイントリックは犯人の隠し方で、この設定を成立させるため、最初の事件はリアルタイムでなく聞き語り形式になっています。
 その分臨場感が損なわれると見たのか色々と怪奇性を補強する手を打っていますが、なかなかの効果。主人公側であるリゴー教授やバーバラが生理的にフェイを忌避するため読者は不安感に苛まれ、同時に事件の煙幕にもなっています。
 さらにエンディングに至ればこれらが一転してヒロインの悲劇性を強調するという充実ぶり。ニュー・フォレストで起きるのが殺人ではなく、犯行手段すら不明な未遂事件である点も、異様なムードの創出に拍車を掛けています。
 全てが最初からの計算ではなく、諸々の工夫が巧まずして類を見ない出来に繋がったと見ていいでしょう。もっとも不可能犯罪のトリックはそれ単独で勝負できるものではないので、一線級の傑作と互角に張り合うのは難しいですが。
 ステロタイプでないヒロインを配した、カー唯一といえるロマンス小説の成功例。総合力でギリギリ8点には値すると思います。

No.4 6点 悪魔のひじの家- ジョン・ディクスン・カー 2018/09/09 18:13
 歴史家ガレット・アンダースンは二十年ぶりに再会した旧友ニックに、ハンプシャー在住の叔父、ぺニントン・バークリー邸への同行を頼まれた。イングランド南東部、ソレント海峡に突き出た〈悪魔のひじ〉に屹立する、緑樹館と呼ばれる館――
 そこで、彼の父と不和だった祖父クロヴィスの新たな遺言状が発見されたのだ。遺言は館を含め、ニックにバークリー家の全ての資産を与えるというものだったが、既に十分な資産家である彼は相続放棄の意思を固めていた。
 それとは別に遺言状発見以来、緑樹館では幽霊騒ぎが持ち上がっていた。館を建造した18世紀の悪徳判事、サー・ホレース・ワイルドフェアの黒ずくめの亡霊が現れるというのだ。不安を覚えたニックは併せての助力を求め、ガレットもそれを了承する。
 ハンプシャー州に向かう途次、列車内でガレットは別れた恋人フェイに再会するが、偶然にも彼女はぺニントンの秘書となっていた。フェイとは別途に緑樹館に赴くガレット達だったが、不穏な気配漂う館に到着するや否や、一発の銃声が彼らを出迎える・・・。
 1965年発表、最後から3番目のフェル博士物。おどろおどろなタイトルについ初期ばりの展開を期待してしまいますが、トリックは至ってシンプル。まわりくどい描写が続き、メインの事件が起きるのは作品半ば過ぎですが、緑樹館に着くなり黒ずくめの幽霊によるぺニントン銃撃→続いてその晩の内に再度の銃撃による密室内での殺害未遂事件→翌晩には犯人逮捕と急転直下の展開を見せます。
 個人的には幽霊騒動に偽証が混じる事よりも、犯行前後に都合の良い偶然が重なるのが問題。犯人が自信過剰過ぎて、ぺニントンを始末した後の見通しが実質ゼロなのはさらに問題(あまりにアレなのが凄い目眩ましですが)。トリックも銃の火傷の件があるので、無理に密室に仕立てない方が良かったんじゃと思います。
 ただ流石に巨匠なだけあって、犯人を読者の意識外に置く手際はいつもながら見事。犯行の段取りに必要な、ある品物を持ち出す手口には完全にやられました。
 最後期の本格力作という位置付けのこの作品。好意的な批評も多く、それなりに楽しみながら読めるけど、トリックの無理が色々とプロットに来てるんで佳作にまでは至らないかな。

No.3 7点 ロンドン橋が落ちる- ジョン・ディクスン・カー 2018/09/01 15:23
 七年戦争のさなか、1757年。敵国フランスから恋人ペッグ・ラルストンを連れ戻してイギリスに帰還した補史ジェフリー・ウィン。だが彼をパリに派遣した大富豪モーティマー卿の屋敷は愛妾ラヴィニア・クレスウェルに牛耳られていた。彼女は別人のように弱気になった卿を操り、不行跡を言い立て邪魔者ペッグを排除しようとする。取り壊し寸前のロンドン橋のあばら家"魔法のペン"で、再び逃亡したペッグを捕まえたジェフリーだったが、そこで二人は老婆の変死体を発見してしまう。ニューゲート監獄に送られた恋人を救う為、ジェフリーはラヴィニア一味と戦うと同時に、老婆殺しの謎にも挑む。
 1962年発表。カーの歴史物としてはニューオリンズ三部作の直前、最後期に属する作品。読む前にはあまり芳しい評判は聞こえてこなかったのですが、どうしてどうして面白いではないですか。
 殺害方法は「ああ、アレか」という代物ですがこれはオマケ程度。本書の真価は物語の軸にあります。いわゆる善玉組である主人公ジェフリーと彼の上司である盲目の判事ジョン・フィールディング、そしてペッグの保護者モーティマー卿。この三者がそれぞれ秘密や思惑を抱え、またその秘密が相互に縺れ合ってストーリーを形成しているのです。
 ですから味方と分かっていても完全に安心できない。話がどう転ぶか分からない。むしろ悪玉組の方が狙いが直線的なだけ分かり易いくらい(殺人犯人は別として)。その辺りのスリルとアヤを楽しむ小説です。アリステア・マクリーンの「恐怖の関門」とかに近いかな。
 時代考証もハンパじゃないし舞台も面白いです。ロンドン橋の上が一種の貧民街みたいになってたんですね。チョイ役で登場する酔いどれで女好きで憎めないローレンス・スターン師は実在の人物。彼の作品「トリストラム・シャンティ」はナンセンス文学のハシリです。18世紀イギリス版筒井康隆みたいな人。
 読んだ手応えは最後期でも相当の力作という感じ。ディクスン名義を含めた著作中でも上の下か、悪くても中の上かな。

 追記:図書館で一緒に借りてきたヘレン・マクロイ作品に同様のネタが使われていて驚きました。探せばもっとあるでしょう。某時代劇シリーズでお馴染みのトリックです。
 本作はむしろプロット主体なので、この部分はメイントリックではなく刺身のツマ程度に判断しておく方が良いかと思います。実際ペッグがニューゲート行きになったのも、老婆の怪死ではなくモーティマー卿の告訴が主な理由ですしね。殺人部分は物語の中心ではないという事です。

No.2 7点 火よ燃えろ!- ジョン・ディクスン・カー 2018/08/21 20:36
 1960年代のロンドンから、日常のまま1829年に移行してしまったスコットランド・ヤードの警視ジョン・チェビアト。彼はその世界で31歳の未亡人フローラ・ドレイトンに一目惚れするが、それから間もなく彼女が犯人としか思えない状況下で、射殺事件が起きてしまう。咄嗟にフローラを庇って証拠を隠すチェビアト。だが彼は同時に草創期のロンドン警察を任された身でもあった。果たしてチェビアトは彼女を救い、真犯人を探し出せるのか?
 1957年発表。歴史物としてはやや後期のもの。「ハイチムニー荘の醜聞」「引き潮の魔女」と共に近過去三部作を成しています。時代物を描き切る前後の作品。
 チェビアトに何かを伝えようとする前に殺された女性。彼がその殺害現場に居合わせたのは、彼女が身を寄せている伯爵夫人から「鳥の餌が盗難にあったから」と呼び出された為でした。しかしチェビアトは「鳥の餌」が宝石の隠し場所である事をすぐに見抜きます。宝石は恐喝により賭博場から闇の組織に流れていたのでした。
 そして賭博場を仕切る闇組織のボス、ヴァルカンは彼を始末しようと周到に罠を張って待ち構えています。射殺事件の手掛かりを追ってあえて虎穴に飛び込むチェビアトですが――。
 ルーレット場での二人の格闘が良いですね。ちょっとした工夫で一対一の対決に持ち込むのですが、チェビアトはヴァルカンに勝利した後でも「決闘に応じれば逮捕しない」という約束を守ろうとします。あるアクシデントからそれは不可能になるのですが、その出来事が間接的に射殺事件のヒントに繋がるのが上手いところ。まあ、こっちは活劇のおまけ程度ですが。
 その合間には未亡人フローラに横恋慕する軍人ホグベン大尉を二度に渡って叩きのめします。最後には悔し紛れにチェビアトの証拠隠滅を告発するホグベン。そして物語は一気に真相の解明へと雪崩れ込んでいきます。
 「ビロードの悪魔」ほど贅沢ではないですが、ストーリーの流れが良く、アクションシーンを挟んで非常に面白く読めます。カーの歴史ミステリの中でも上位の出来でしょうね。

No.1 5点 眠れるスフィンクス- ジョン・ディクスン・カー 2018/06/14 10:52
 評価高めの本作ですが、「密室状態での棺の移動」という不可能興味がとってつけたような感じで、物語の調和を乱しているのが大きな不満です。登場人物の一人がある目的を達するためにふと思い付いただけで、この部分だけ必然性が無く何らプロットに貢献していません。「本筋だけでは弱い」という判断でしょうが、却ってマイナスですね。
 同じく〈恋愛要素が物語にもトリック成立にも必然をもって絡んでくる作品〉である前作「囁く影」と比べればその差は明らかです。あちらでは不可能性や怪奇性、恋愛との相乗効果が全体の完成度に貢献しているのに対し、こちらではこの部分だけが浮いてしまっています。
 「囁く影」以上に、それ抜きではメイントリックやプロット自体が成立しないほど〈恋愛〉に寄り掛かって作られているだけに、余分な不可能性は付け加えずコンパクトに纏めた方がより良くなったと思います。
 それを除けばとくに不満はありません。軸となるトリックは過去の短編の応用で少々小粒ですが。視点の変化で事件の全体像がガラリと変わる所、それを暗示する「眠れるスフィンクス」、犯人の意外性とその伏線、最後に立ち現れる女心の不可解さなど、全般にそつなく仕上げられています。

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雪さん
ひとこと
ひとに紹介するほどの読書歴ではないです
好きな作家
三原順、久生十蘭、ラフカディオ・ハーン
採点傾向
平均点: 6.24点   採点数: 586件
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