Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.73点 | 書評数:1602件 |
No.1582 | 7点 | ミステリアム ディーン・クーンツ |
(2024/07/05 00:31登録) 名作『ウォッチャーズ』のアインシュタインを彷彿とさせる人語を解する知能の高い犬が再び登場するのが本書である。 しかもそれは1匹だけでなく、何頭も登場する。ごく僅かな人間しか知られていない高度な頭脳を有する犬たち、すなわちミステリアムが存在する世界を描いている。 作中、ミステリアムの1匹キップを飼っていたドロシーがこの犬たちについて遺伝子工学の産物ではないかと話すシーンがある。彼女は画期的な実験で生み出された犬が研究所から逃げ出したのではないかと述べる。 『ウォッチャーズ』は知性ある犬アインシュタインの子供たちが生まれ、主人公がそれら遠くへ巣立っていき、そしてアインシュタインの子孫が広がっていくと述べて閉じられることから、このミステリアム達の存在はアインシュタインの子孫たちと思って間違いないだろう。従って本書は『ウォッチャーズ』から33年を経て書かれた続編と捉えることが出来よう。 クーンツはもしかしたらキングが『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』が36年後に書かれたことに触発されて本書を著したのかもしれない。クーンツはいつもキングを意識しているように思えるので。 しかしやはり読書というものは不思議なものだ。今回の敵の1人リー・シャケットは古細菌を取り込んだゆえに超人的な能力を手に入れた人狼になり、人々を次々と噛み殺していくが、この前に読んだ田中芳樹氏の『髑髏城の花嫁』もまた敵の正体は人狼であった。 しかし、幕切れは何とも呆気ない。 その後物語はダイジェスト的にその後のブックマン親子たち仲間の行く末などが語られて閉じられる。これらはなんと560ページ中最後の50ページ強でバタバタと片付けられるのである。 またもやクーンツの悪い癖が出てしまったように感じる。 圧倒的なまでに強大な敵を仕立て上げ、到底敵わないと思わせながら最後は101匹ワンちゃん大襲撃的力技で物語を片付けてしまう強引さ。特に敵の1人ロドチェンコが極度の犬恐怖症だったことで数多くの犬に囲まれて恐怖のあまりに全てを自白することで発覚すると云う低次元の情報漏洩なのだから苦笑せざるを得ない。 今回は題材が良かっただけに本当にこの終わり方は勿体ない。 |
No.1581 | 7点 | 髑髏城の花嫁 田中芳樹 |
(2024/06/30 01:52登録) 今回エドモンド・ニーダムとメープル・コンウェイが訪れるのはイギリス北部のノーザンバーランドに聳える髑髏城が舞台でしかも登場する怪物は人狼。 但し1作目もそうだったようにこのシリーズは田中氏オリジナルの味付けがなされた怪物が登場するのが特徴で、本書も通常の人狼物とは異なり、水族と翼族と2種類がおり、前者が水の中に棲む人狼であり、後者が翼を持つ人狼である。 さて髑髏城と聞いて私はすぐにディクスン・カーの『髑髏城』を想起した。カーの髑髏城は本書のダニューヴ河畔ではなくライン河畔、本書ではかつての東ローマ帝国が舞台なのでルーマニアになろうか。そしてカーはドイツで微妙に位置は異なるがほぼ似たような地方である。 そして本書の髑髏城の主ドラグリラはワラキアの貴族であり、ワラキア公国と云えば、吸血鬼ドラキュラのモデルとなった串刺し公ヴラド・ツェペシュである。つまり吸血鬼の系譜であるのだが、敢えて田中氏はそうせずに人狼の種族を持ってきているところは安直な方向に進まないという田中氏なりの矜持なのか。 ただ本書に登場する岩塩の山をくり貫いて髑髏の形に仕立て上げた髑髏城はさすがに作者の創作のようだ。上に書いたように吸血鬼伝説の色濃いルーマニアを舞台にしているからこそさもありなんと思わされるが。 ただ本書の物語の展開は唐突感が否めない。なんせニーダムとメープルはライオネル・クレアモントの依頼でノーザンバーランドの荘園屋敷に図書室や書斎を作るために訪れたのにいきなりそこで集めた血族たちを殲滅して富と権力を独占しようという大量虐殺に巻き込まれる展開が理解し難かった。 目的の異なる人物たちを集めること、つまり人狼たちと普通の人間たちをなぜ一堂に集める必要があるのか。他の賓客たちが人狼であることは追々露呈するだろうから、その席に図書室や書斎、書庫のプロデュースを依頼した者に下見に来させることがおかしい。つまり手段と目的の辻褄が合わないのだ。 そんなちぐはぐな印象の中で一気に物語は荘園屋敷で人狼たちの殲滅作戦が行われ、それに巻き込まれたニーダムとメープルの2人が自身の生き残りを賭けて、ライオネルと対決するようになり、物語が一気に結末へと向かう。 ここら辺はどうもやっつけ仕事のように感じてしまった。 主人公のエドモンド・ニーダムはクリミア戦争のバラクラーヴァの激戦を生き残った銃の名手というキャラ付けがなされているものの、書中の挿画に描かれた穏やかな風貌の英国紳士というイメージが怪物たちと渡り合うタフなヒーローへ結びつかないのだ。そして好奇心旺盛なこよなく書物を愛する姪のメープル・コンウェイもまたその書物愛とジャーナリスト志望という芯の強さだけが特色で、苦境を乗り越える線の太さを感じない。 つまり一般人に少しばかり特徴づけられた主人公2人に対して、相対する出来事が怪物や人外の者との遭遇と戦いというスケールの大きさと釣り合わない違和感をどうしても覚えてしまう。 とはいえ、本書ではその辺のバランスの悪さにこだわるよりもやはり田中氏の博識に裏付けられた裏歴史のエピソードや次々と登場する歴史上の人物、しかもこれまたイギリス文壇の著名人やウィッチャー警部ら学校では習わない有名人たちとの織り成す物語に素直に浸る方がいいのだろう。 |
No.1580 | 10点 | グリーン・マイル スティーヴン・キング |
(2024/06/28 00:37登録) スランプ状態から抜け出したスティーヴン・キング復活の作品と云えば先の『ドロレス・クレイボーン』でもなく、私は本書を挙げる。 作者自身の前書きにも触れているが、本書はキングにとって刑務所を舞台にした2作目の小説である。1作目は映画『ショーシャンクの空に』の原作中編「刑務所のリタ・ヘイワース」で、長編としては2作目になる。そのいずれもが傑作であり、しかも映画も大ヒットしている共通点がある。実は刑務所小説はキングにとっても相性がいいのではないだろうか。 そして「刑務所のリタ・ヘイワース」がそうであるように本書もまた傑作である。いや、もしかしたらキング作品の中で一番好きな作品が本書なのかもしれない。 キングは時々魔法を掛ける。それもワンダーとしか呼べないほどの。 とにもかくにも登場人物のキャラクターが立ちまくっている。語り手の刑務所看守主任ポール・エッジコムはじめ、看守ディーン・スタントン、ハリー・ターウィルガー、ブルータス・ハウエル、そしてパーシー・ウェットモア。 一方で囚人たちもまた粒揃いのキャラクターが揃っている。 エデュアール・ドラクレア、〈荒くれ(ワイルド)ビル〉ことウィリアム・ウォートン、そして何よりも物語の中心となる囚人ジョン・コーフィの造形が素晴らしい。 ポール・エッジコムら他の看守にとって目の上のたん瘤であり、また悩みの種であったパーシー・ウェットモアとウィリアム・ウォートンがまさかこんな形で片付けられようとは。なんという始末の付け方だ。 私はこのシーンを読んだときにキングに神を見た。 最後の最後まで驚きと感動が詰まった作品だった。前書きでキングは結末まで考えてなく、読者同様作者もどんな結末になるか解らないと書いてあるが、それが信じられないほど、全てが収まるべきところに収まり、そしてそれがこれまでにない素晴らしい物語となっていることに驚く。 やはりこれはジョン・コーフィにキングが書かされた物語ではないか、そんな風に思わされてしまう。 前書きに描かれているが、本書は難産だったらしい。しかしその苦労が報われるほどの素晴らしいお話が降りてきていた。生みの苦しみの末に出来上がった本書は現時点で私の中でキング最高作品となった。 久々に読後ため息が漏れ、世界に浸れた物語だった。やはりキングはすごい。まだこんな物語を書くのだから。 そしてその後も傑作を生みだしていることを考えると、本書がまだ彼の創作の途上に過ぎないのだ。 いやあ、もう言葉にならないね、凄すぎて。 グリーン・マイル。それは電気椅子に至る廊下がライム・グリーンのリノリウムが貼られていたことで付けられた俗称だった。 しかしこの言葉は最後に語り手のポールが嘆き呟くように、人生の最期に至る道のりを示すのではないか。 私のグリーン・マイルはまだまだ遠くにある。そして104歳のポールと異なるのは彼がそのことを絶望しているのに対し、私はまだそのことに安堵していることだ。 まだまだ読みたい本がたくさんあり、まだまだ人生を楽しみたい。 私がグリーン・マイルを歩むとき、全て成し終えたと笑顔であるように祈っている。 |
No.1579 | 7点 | オクトーバー・リスト ジェフリー・ディーヴァー |
(2024/06/22 01:36登録) ジェフリー・ディーヴァーの久々のノンシリーズ作品である本書は実に変わった構成の作品だ。なんと終章36章から始まるのだ。そう、本書は物語を逆行して語られる。 しかしこれがまたこれまでにない先入観をことごとく覆す展開になっていく。 例えば味方だと思っていた人物の家に血に塗れた死体が転がっている描写があり、実はシリアルキラーで危険な人物なのではと思わされるとさらに章を遡ると彼がオンラインゲームにハマっていて先ほどの死体はゲームの中でのことであることが解る。 いわば本書は時間を逆行することで物語の前提条件や人物設定が後から判明していき、先入観が覆される構成になっている。本書はそんな小技の効いたどんでん返しが数々散りばめられている。 しかしそれでもやはりこの作品は読みにくかった。時系列を逆行することで前章の結末から次章への繋がりがスムーズになされないからだ。例えば30章が終わると次の29章の始まりはその30章へとつながる箇所の数分前とか1時間前に設定されているため、物語の展開が唐突すぎて頭に素直に入っていきにくいからだ。 あと最後に付される目次に書かれた各章題を見ながら、各章の写真を見るとまた別の意味が立ち上ってくるのも憎らしい演出だ。 特に第9章の馬の写真と章題「サラ」は1章を読んだ後だと笑えるし、第14章の骸骨が砂の中から出ている写真と章題「ダニエルの最初の仕事 一九九八年ごろ」を照らし合わせると228ページ3行目からのエピソードが別の意味を伴ってくる。 とこのように様々な仕掛けが読後に立ち上ってくる作品である。 従って本書は読み終わった後に色んな読み方ができる作品だと云えよう。例えば今度は1章から読むと感じ方も変わるだろうし、また同じように第36章から読み返すとさりげない伏線や描写の数々にほくそ笑むことだろう。また目次の章題を照らし合わせながら読むとそれまで気付かなかった写真や文章の意味合いに気付かされることだろう。 |
No.1578 | 7点 | 鳥居の密室 世界にただひとりのサンタクロース 島田荘司 |
(2024/06/20 00:33登録) 最近の島田氏は実在する企業をモデルにしている作品が多く、例えば『ゴーグル男の怪』では臨界事故を起こしたジェー・シー・オーを、『屋上』ではお菓子会社のグリコをモデルにしているが、その会社が関係する場所は前者が東海村であるのに対し、福生市にしていたり、後者が大阪道頓堀でありながら川崎にしていたりと微妙に細工を加えているのが特徴だが、本書の舞台は鳥居が両脇の建物の壁を突き破って突き刺さっている京都の錦天満宮そのものを事件現場として、しかも鳥居が突き刺さっている両方の建物を密室殺人事件の舞台としている。 実在する場所をピンポイントで殺人現場にしているのだから、きちんと許可を取っているのか気になるところではあるが。 一方でもう1つ宝ヶ池駅近くにある振り子時計が多く飾られている喫茶店「猿時計」は作者の創作らしい。 さて今回の密室殺人は正直解ってしまった。 またその事件が起こった錦天満宮界隈で住民たちが一様に夜中に目が覚め、不眠症に悩まされている原因も解った。 しかし、なんとも身悶えしてしまう事件である。特に冤罪にて服役することになった国丸信二の心情が痛い。 いわばこれは献身の物語でもある。島田版『容疑者xの献身』ともいうべきか。 しかし本書の舞台を御手洗潔の若き日にしたことで、昭和という時代性が色濃く出ている。 つい先日テレビの番組で昭和時代の常識について触れることがあった。それは例えば信じられないほどの満員電車での通勤風景だったり、また分煙化が成されていない時代での駅のホームの煙だらけの風景やオフィスの机に灰皿が堂々と置かれている状況だったり、はたまたテレビ番組中に出演者自身が煙草を吸いながら進行している映像だったりと今の常識とでは眉を顰めるような違和感が横行していた。しかしそんな時代だったのだ、昭和は。 本書においてもいわば男尊女卑の意識が根強い家父長制度が横行しているそれぞれの家庭のことが書かれている。 夫が怒るからクリスマスプレゼントは上げられないと云った夫の暴力を恐れて自己催眠を掛ける妻の意識だったり、親の選んだ道を行くことを子供は望まれ、本当に進みたい道を選べなかったり、夫の稼ぎよりも自分の自営の仕事の方が収入がいいことを認めると夫が機嫌を悪くするので敢えて黙っていたり、もしくはそれを夫があてにして乱費するのを黙って我慢したりと女性は常に男に従って生きてきた、そんな時代だ。 それらは確かにこの令和の時代にも残っている考え方や風習だろう。しかしそれらが古臭く感じるのもまた事実なのだ。 齢70にしてまだ密室殺人事件を扱う作品を書く島田氏の本格スピリットには畏敬の念を抱かざるを得ない。私でさえ年を取れば読書の傾向は変化していき、昔はガチガチの本格が好きだったのが、ハードボイルドや警察小説などトリックよりも人の心の綾が生み出す物語の妙にその嗜好は変わっていきつつあるが、島田氏は一貫して本格ミステリへの愛情が尽きていない。 そして私が彼の作品を今なお読み続けるのは彼が物語を重視するからだ。物語の復興こそ今必要なのだと単にトリックやロジックを重視しがちな本格ミステリ作家ではない存在感を示しているところに魅了されるからだ。 本書の構成もドイルのシャーロック・ホームズの長編の構成を踏襲している。事件を探偵が解き明かすパートと犯人側の事件に至った背景の物語が描かれている。 率直に云えば事件解決のパートだけならば中編のボリュームだろうが、犯人側のパートを描くことで物語に厚みを与えているのだ。 そう、島田氏は本格ミステリを書いているのではなく、本格ミステリ小説を書いているのだ。このドイルから連綿と続く文化を継承しているからこそ、私は彼の作品を読まずにいられないのだろう。 島田氏が綴る市井の昭和年代史ともいうべき作品だ。私も昭和生まれだが、いつの間にか平成時代の方が長く生きていることになった。 そして今は新たな元号令和の時代だ。昭和は既に遠くなりつつある。昭和という時代に生きた日本人の価値観を今後に語り継ぐ意味でも本書のような作品は書かれ、そしていつまでも読み継がれてほしいものだ。 |
No.1577 | 7点 | 本格力 本棚探偵のミステリ・ブックガイド 事典・ガイド |
(2024/06/12 00:38登録) ミステリ誌『メフィスト』で足掛けなんと9年掛けて連載されたブックガイドであり、なんと「第17回本格ミステリ大賞(評論・研究部門)」まで受賞したのが本書。 私の意見は授賞に値するブックガイドであり、評論であったと素直に認めよう。 まえがきによれば今の本格ミステリ好きな読者はいわゆる乱歩の影響を受けて海外の本格ミステリに触れて、自身で本格ミステリを書き始めた、いわゆる新本格と呼ばれるミステリ作家たち、乱歩チルドレンの紡いだ作品に触れるのみで、海外の古典と出会うチャンスが減っているのではないかと思い、そんな〈新しい古典の読者〉のために古典ミステリを紹介したいとの意図で書かれたもので、興味を惹くために単なる古典ミステリのガイドブック的な紹介に留まらず、全てが統一されているわけではないが、一応5つのコーナーで手を変え品を変え、面白おかしく書かれている。 鉛筆でなぞる本をパロッた 「エンピツでなぞる美しいミステリ」、相田みつをの詩集をパロッた「ほんかくだもの」、あと自分が気に入ったミステリ作品の一シーンをイラストにした「勝手に挿絵」(これも北上次郎氏の『勝手に文庫解説』のパロディかもしれない)、本格ミステリの研究家坂東善博士と女子高生のりこが本格ミステリについて語り合う「H-1グランプリ」と最後は妻国樹由香氏が語る夫喜国氏について語る「本棚探偵の日常」である。 本書のメインであるH-1グランプリは、それまでの他のコーナー同様、タイトルはM-1~、R-1~のパクリだと思われるが、坂東善博士と女子高生りこの冗談も交えながらの対談形式で進められているが、内容的にはそれまでのガイドブックや評論では見られなかった観点からの鋭い指摘もあり、なかなか骨太である。 俎上に挙げられる作品は有名どころから無名な作品、もしくは現在入手困難なものまで多岐に渡っており、しかも女子高生のりこに与える本も喜国氏の蔵書からなので、例えば新訳が出ているものでも旧訳版、もしくは既に倒産している出版社のものだったりと、恐らく古書マニアにとっては堪らないアイテムが登場する―現代教養文庫の『ミステリ・ボックス』シリーズまで登場する―。 このコーナーではミステリ初心者である女子高生のりこに先入観なく世評高い古典ミステリの傑作とされる作品を読んで率直な感想を忌憚なく語ってもらう趣向になっており、その内容はその趣旨を一切違えることなく、本当に遠慮のない感想が書かれているのが面白い。 例えばクロフツの『樽』はさほどでもなく、クリスティーの『そして誰もいなくなった』はあっさりしすぎと酷評である。りことクリスティーの相性は悪いようで、『オリエント急行の殺人』では登場人物が多すぎて頭に入らないとこれまた酷評。 りこのこの一気にたくさんの登場人物が出てくる作品は苦手という傾向はこのH-1グランプリでは終始一貫して変わらないため、世の傑作で同様の作品は押しなべて評価が低い。個人的にはセイヤーズで一番好きな『学寮際の夜』も同様の理由で酷評だったのにはガックリきたし、一方で私としてはさほどでもない『ナイン・テイラーズ』を高く評価しているところに驚かされた。あの難解な鳴鍾術をよく理解できたな、と。しかしカーの特集では個人的ベストである『曲がった蝶番』が全てが好みであると評価したのは素直に嬉しい。 一方でエラリー・クイーンの1932年の奇跡の傑作4作については全てにおいて評価が高いのはさすがというべきか。 また回を重ねるごとにりこの本読みとしてのスキルが伸びていくのが判るのも面白い。視点の話や有名なカーの『三つの棺』に収録されている密室講義の分類が今読むと甘い、『薔薇の名前』を一番面白いと思う―映画を観ていたことが助けになったとはあるが―、などなど。 あと意外とミステリの豆知識が放り込まれているのも思わぬ収穫だった。 リレー小説の『大統領のミステリ』では当時の大統領ルーズベルトが自分の考案したミステリのネタの解答が思いつかないことから世のミステリ作家に解決してもらおうと発端で、しかもそのプロットが前もってあっただけに一番面白く読めたこと―リレー小説の回はとにかく散々な結果でベスト選出はなかった。私は昔からリレー小説に懐疑的であったが本書でその判断が正しいことを確認した―などがそれにあたる。 またりこが読書量が増すにつれ、りこがそれまでのガイドブックや評論家が気付かなかった見方を示してくる。これが実に意外であり、さらには全く新しい着眼点であることに気付かされるのだ。 例えば『エジプト十字架の秘密』はエラリーがいなくとも解決できた作品だったとか、『三つの棺』の密室講義が実は密室が主眼でないことを隠すために書かれたミスリードだったとの慧眼を示したり、ブランドの『暗闇の薔薇』の図に隠された騙しのテクニックを見出したりと次から次へと新説を開陳するのだ。 坂東善博士は喜国氏そのものと思ってはいたものの、女子高生のりこは最初は喜国氏が対談形式のミステリ評論をするために生み出した架空の存在だと思っていたのだが、読み進めるうちに斬新な切り口でミステリを語るので実は本当に女子高生に読ませて感想を云わせているのではと思ったくらいだ。 実際どうなのだろう。 例えばカーの『火よ燃えろ!』の警視が惚れる女が女のイやな部分だけを誇張したようで鬱陶しいとか『ビロードの悪魔』の主人公の恋の鞘当て行動が気に入らないとか―個人的には『ビロードの悪魔』はカー作品の中でもベスト5に入る傑作なのだが―。 またガイドブックでありながら課題図書を全て読み切れずに途中で断念しているものもあるのもこの作家の特徴か。 カーの『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』とルブランの『813』の訳が気に食わないと云って『続813』は未読と案外自由奔放だ―ところでハヤカワ文庫がルブラン全集を出すと云って数冊で終わっていることに触れているのは小気味よかった―。 あとは歴史に残る作家は全てが平均点を出す作家よりも傑作と凡作が混在する作家の方が記憶に残るといった意見やピーター卿シリーズであった、登場人物に関心がないとシリーズを追うごとに発展していく2人の関係性などは全くどうでもいいなども考えさせられた。 ここに1人の本格ミステリ好きがミステリをこよなく愛して色々な試みをして、存分に楽しんでいることを見ると一ミステリ読者としては喜国氏のバカバカしくも楽しい企画を後押ししたくなる。私もやはり若いミステリ読者は歴史を学ぶように古典ミステリは読むべきだと思うし、また出版社も古典ミステリを絶やしてはいけないと思うからだ。 確かに古典ミステリを読むことは現代ミステリのリーダビリティと比べると華やかさや読書のけん引力に欠け、いわゆるお勉強と云われるような苦難を強いられるかもしれない。 しかしその中には確かに現代まで評価される何かが潜んでいるのだ。しかし正直世評ほど面白いかどうかは各人の好みによるだろう。本書においても私が好きな作品が酷評された機会が案外あった。 本書は確かにこれから読む古典ミステリの中で面白いものを選ぶ指針にはなろうが、本書の評価が全てではない。 これから古典ミステリを読まれる読者は読むときに自分の感想と本書の内容を比較してみてはどうだろうか? 貴方は自分の評価はりこと同じかどうか、比べてみるとそれもまた楽しいではないか。 それを可能とするためにも出版各社は翻訳本の存続を続けてほしいと切に願う次第である。 いやあそういう意味では本書が「本格ミステリ大賞(評論・研究部門)」を受賞したのは意義があったのだ。 天晴! |
No.1576 | 4点 | 月世界旅行 ハーバート・ジョージ・ウェルズ |
(2024/06/10 00:49登録) 月世界旅行といえばジュール・ヴェルヌの小説を想起させるが、なんとH・G・ウェルズもまた同じ題名で人類が月に向かう物語を書いていた―但し原題は“The First Men In The Moon”、即ち『月世界最初の人間』でこの題名で刊行されているものもある―。 しかも作中でウェルズは登場人物の口からヴェルヌの小説について触れていることから、どうやらヴェルヌ作品に触発されて書いた作品のようだ。 しかしヴェルヌの小説では結局月の周りを廻って帰ってくるだけだったのと異なり、本書では主人公たち2人が実際に月に降り立つのだ。しかも月面着陸ではなく、月の地下にも潜入する。さらにはそこで月人とも邂逅し、接触するのだ。 さてヴェルヌが巨大な砲弾のような宇宙船を巨大な大砲で打ち上げて月を周回したのに対し、ウェルズは前述の“不透明”な物質ケイヴァーリットという架空の膜状物質を球形の宇宙船―作中では球体と呼ばれている―を包み込んで月を目指す。 私は本書の元祖であるヴェルヌの『月世界旅行』と『月世界へ行く』を読んで失望したクチである。というのも昔のフィルムで大砲で打ち上げられた砲弾型の宇宙船が微笑みを湛えた擬人化した満月の顔に突き刺さるシーンを幼き頃に見ていただけに、てっきり主人公バービケインたちは月へ着陸するものだと思っていたが、2冊に亘って、しかも続編が5年後に刊行されながらも結局月を周回して帰還するだけに留まったので大きく失望をしたが、上にも書いたようにウェルズは月面着陸のみならず、月人との接触まで描いている。しかし私にはそれもいささか退屈に思えた。 SFでは地球によく似た環境の銀河系外の見知らぬ惑星に着陸して、宇宙人や宇宙生物と出くわして戦いや冒険が繰り広げられる作品は数多あるが、ウェルズはそれを我々のよく知る月を舞台にして描いたためにこの辺の違和感がどうしても拭えなかった。 1901年の本書発表から遅れること122年を経て、21世紀の今、民間人の月旅行が2023年以降に実現しようとしている。しかしそれはヴェルヌの小説のように月を周遊するだけで月面着陸は含まれていない。その旅行費は1人当たり7470万ドル、即ち80億円以上になるが、それでも月面着陸はできないのだ。しかし本書を読むと月面着陸は決して楽しいものではない。月に生命体がいることは現在確認されていないが、もしいたとしたら本書のような囚われの、しかも興味本位の見世物動物のような扱いになるのだろうか。 ヴェルヌの描いた『月世界旅行』と対極的なテイストの本書はイギリスの作家が書いたとは思えないほど、夢のない悲惨な結末であった。 |
No.1575 | 8点 | ローズ・マダー スティーヴン・キング |
(2024/06/04 00:19登録) 本書は長年夫に虐待を受けていた女性がある日突如思い立ち、夫のキャッシュカードを手に逃亡するお話だ。もちろん夫はそれまで支配していた妻の反抗を許すわけがなく、妻の行方を追ってくる。 今まで数多書かれた不幸な女性が困難に立ち向かう話だが、キングが秀逸なのは虐待夫を刑事にしたことだ。つまり本来ならば自身が受けたDVを通報する相手である警察が敵の仲間なのである。 主人公の夫ノーマンがまたひどい人物なのだ。 まず物語は彼が癇癪を起して妊娠中の妻を襲って流産させると云うショッキングな出来事から幕を開ける。 更にはライターの炎でロージーの指先を焙ったり、鉛筆の尖った芯でひたすらロージーの皮膚を無言で突く。血が出ない程度に延々とそれを続けるのだ。 もっとひどいのはロージーの肛門にテニスのラケットを突き刺して悦んでさえいたのだ。 とにかく過剰なまでの女性蔑視者であり、服従していた妻が自分のキャッシュカードを盗んで逃亡したと云う事実に屈辱を覚え、代償を払ってもらうために彼は彼女の行方を執拗に追うのだ。 そして最大の特徴は彼が噛みつくことだ。彼は人の皮膚を、肉を噛みたくて仕方がない衝動に駆られる。 ただこれまでは歯形が着く程度に噛みついていたのだが、妻のロージーが逃げてからはこれが顕著になり、相手の皮膚を突き破って口から血を滴らせるまでになる。さらには人を噛み殺すまでに至る。 また少しでも気に食わないことがあればすぐにその人物を完膚なきまでに叩きのめしたり、銃で撃ち殺したいといった破壊衝動に駆られるのだ。 まさにパラノイアである。 一方で玄関のドアに3つも鍵を取り付け庭には侵入者探知センターを取り付け、自分の車には盗難防止アラームを取り付ける用心深さを持つ。 更には警察としても実績を挙げており、クラックの全市密売網の一斉検挙で最功労者となり、出世し、周囲から一目置かれている存在なのだ。 一方被害者のロージーだがどうも周囲から見下されるオーラを纏っているようだ。逃亡先の街に到着してバスを降りるなり、飲んだくれの男に卑猥な言葉を向けられる。優しく道案内してくれる老人と話せば、少し道筋が知ってることを示せばムッとされる。 彼女にきつく当たるのは男性だけかと思えば手押し車の太った女に虐待された女性たちのセーフハウス〈娘たち&姉妹たち〉への道のりを尋ねると痛烈な罵声を浴びせられ、更に若い妊婦にもきつい言葉を掛けられた挙句に突き飛ばされる。永らく夫に虐待されていたことに由来する自信の無さゆえに負のオーラが滲み出ているのだ。 なんせ結婚してから14年間も虐待されてきたのに加え、ほとんど外出することもなかったのだから無理もない。しかも彼女の家族、両親と弟は結婚して3年後に交通事故で亡くなっており、彼女には駆け込み寺となる場所が、人がいなかったのである。 また彼女が流産したことを悲しむ反面、安堵を覚えるのはもし子供が生まれたら、夫が子供にどんな虐待をするのか想像するだに恐ろしいからだ。自分の流産を、しかも夫の暴力によってなってしまった不幸ごとをそのようにして安堵する彼女が何とも不憫でならない。 さて〈娘たち&姉妹たち〉という安寧の場所を得たロージーは人間らしい生活を取り戻すことで次第に人並みに笑い、そして振舞うことが出来るようになってくるが、彼女を決定的に変えるのが≪リバティ・シティ質&金融店≫での丘の上に立つ女性の後姿を描いた絵との出遭いである。 彼女は絵の中の女性を絵の裏に書かれていた文字から赤紫色を意味するローズ・マダーと名付け、事あるごとに彼女の心の支えになる。 さて今回の敵ノーマン・ダニエルズこの刑事という捜査技術と知識を備え、更に巨躯と怪力と人を殺すこと、傷つけることを厭わない、いや寧ろその衝動が抑えきれない最凶のサイコキラーだが、絶望的に強いわけではなく、ロージーが所属する〈娘たち&姉妹たち〉が開催したイベント会場では護身術と空手を身に付けた巨漢の黒人女性ガート・キンショウに撃退されるのだ。しかも馬乗りになった彼女に小便を引っ掛けられ、ほうほうの体で逃げ出す始末。 つまり誰も彼もが抵抗できないほどの悪党ではないのだ。ここがクーンツとの違いだろう。クーンツの描く悪党は周到な準備をして、どんどん主人公を追い詰めていき、更にはどんな抵抗も効かないほどの圧倒的な力を誇り、どうやっても勝てないと思わせる絶望感をもたらすのに物語の終盤では大したことのない方法や手法で簡単に撃退され、ものすごく肩透かしを食らうのだ。 またこのノーマン・ダニエルズ自身も幼い頃に父親から虐待を受けて育った被害者でもあり、更に女性蔑視の精神も父親に叩きこまれていた。従って彼は女性に抵抗される、自分より弱い者に抵抗されるとすぐに動揺と恐慌を覚える精神の弱さも持つ。 このノーマンの最期はロージーが購入した絵の世界でローズ・マダーによって無残な姿になって殺されてしまうのだが、このノーマンが一般の人でも撃退されたシーンを描いたことで超常現象でしか問題が解決しない訳ではないことを示したのは救いを感じる。 夫の虐待からの逃避と生還といったオーソドックスな物語に絵の世界に入って夫を葬り去ると云うスーパーナチュラルな設定を盛り込んだキングが結んだ物語の結末は、虐待をされた人間のその後をも描き、それを静謐な森の中というファンタジーのように終える。 私はどうにもこのローズ・マダーの絵の話は余計だったように思う。永らく虐待を受けていた女性が救われる話ならば、やはり切りのいい終わり方をしてほしいのだが、キングは安直なハッピーエンドを用意せず、最後にしこりを残して終えるのだ。 キングは常々家庭内暴力、家庭の中で圧倒的な支配力を持つ夫や父親を描いてきた。本書はそれまで物語の背景やエピソードとして書かれてきた設定をそのままテーマにした物語である。だからこそすっきりと終ってほしかったのだが、このようなしこりの残る終わり方をしたことはキング自身にとってまだこの家庭内暴力、虐待のテーマは素直に決着を付けられない根の深いものだと云うことだろうか。 この令和の今でも社会問題になっている虐待。確かにその中に取り込まれた者たちには虐待をする者だけでなくされた者も人生において終わりなき代償が必要なのだとキングは云いたかったのかもしれない。 |
No.1574 | 7点 | ソリトンの悪魔 梅原克文 |
(2024/05/25 00:45登録) 本書の「ソリトン」とは海が舞台であるからギリシア神話に登場する海神トリトンのことを指しているかと私は思ったが、違っていた。 ソリトンとは粒子性を持つ孤立波のことである。 減衰もせず、形も崩れない、そして粒子性であるがゆえにソリトン同士が衝突しても打ち消しあわずにそのまま通り抜ける、バランスの取れた半永久的に存在する波動である。そして今回主人公たちや東シナ海にある海洋建造物や油田採掘設備、潜水艦や軍用艦などと戦いを繰り広げる相手がこの波で出来たソリトン生命体なのだ。 海の全容はまだまだ謎が多く、未知の領域であることから考えると本書に登場するソリトン生命体のように地上の生物の尺度をはるかに超えた生物がいてもおかしくないのだ。一応その成り立ちについても本書の中で述べているのはやはりこの作者が根っからのSF脳であるからだろう。 主人公たちが遭遇するソリトン生命体は全長約100メートルほどの巨大な平べったい蛇のような外形から通称〈蛇(サーペント)〉と呼ばれる物と直径200メートル、高さ100メートルもの冷水塊の表面を覆いつくすゲル状の生物タイタンボールが登場する。 そして今回の敵、即ちタイトルにもなっている「ソリトンの悪魔」となるのが〈蛇〉だ。この敵はとにかく破壊によって生じる正弦波を食糧にして生きるため、海洋構造物である海底プラットフォームや潜水艦や潜水艇、軍用艦や海上支援船をマッハディスクという衝撃波を放って破壊しまくる。 さて本書の舞台は2016年の世界。そして本書が刊行されたのが1995年。そう、本書は近未来小説なのである。そして今更ながらに本書を読んだ私は既に2016年を8年も前に経験しており、哀しいかな、近未来小説にありがちな相違点に思わず苦笑せざるを得なかった。 まず台湾が地下鉄を作らずに光ケーブル・ネットワーク網を発展させ、国民のほとんどが在宅勤務を行っており、オフィスビルは空きがたくさんあり、朝の交通ラッシュもほとんど見られなくなっていると書かれている。これは日本人も同様らしいが、さすがにまだそこまで至っていないが、2020年のコロナ禍で日本の東京など大都市では在宅勤務が推奨され、実際に行われている事実があることを考えると実に先見的な話である。 そして日本では在宅勤務が定着して若い日本人がいわゆる3K仕事を選びたがらなくなっているとの記述はもしかしたらそう遠くない未来の日本の姿なのかもしれない。 また本書によれば2016年の時点では既に北朝鮮はとっくに無くなってしまっているらしい。 そして21世紀ではコンピュータの操作にはもはやマウスは使われず、多関節アームで固定された3Dペンを使って立体的映像の中で3次元的に操作しているとあるが、これもまだそこまでは行っていない。マウスはまだ健在である。 エイズ予防のCMが流れているのにも苦笑してしまった。 また台湾も反日派の中国から流れてきた国民党の台頭が21世紀になって世代交代によって勢力が衰えたとあるが、2021年の現在ではまだまだそんな平和は訪れていない。 但し、一方で作者の先見性や知識に驚くべき点はいくつかあり、例えば光ケーブルによるネットワーク網が発達していると書かれている点。今では当たり前だが、1996年の時点ではまだADSLの前のIDSNが普及している時代である。ADSLが2000年に普及し、ブロードバンド元年と云われたそのまだ前にその次の光回線をこの時点で謳っていることがすごい。 更に軍用艦の内部のディスプレイにLEDが使われているとの記述だ。20世紀でLEDがディスプレイ照明の主流になっていると既に考えていることに驚嘆した。 また倉瀬厚志の娘美玲が8歳にしてオンラインでリカちゃん人形フルセットとデコレーションケーキを勝手に注文しているシーンが登場するが、これが今では、いや2024年の時点では全く以ておかしくない現代っ子あるあるであることに驚かされる。 梅原氏の作風は実にハリウッド映画的である。このソリトン生命体のイメージをハリウッド映画『アビス』として想起した。 ポリウォーターと称される年度の高い水に変異するソリトン生命体は『アビス』に登場する不定形の未知の生命体のようだ。ちなみにこのポリウォーターは実際に旧ソ連の科学者ボリス・デルヤーギンが発表した新物質であるが、再現できなかったため現在では存在が否定されている。つまりこの存在しないであろう物質を作品世界で再現した、当の科学者にとっては科学者冥利に尽きる設定である。 またこれら未知なる深海の生命体との戦いを描く海洋アクション小説である側面と、一方で未知なる生命体とのコンタクトに成功する映画『未知との遭遇』を彷彿とさせるようなハートウォーミングな側面を持っている。 次から次へと危機また危機を畳みかけながら、それに対してアイデアで難局を乗り越えていく、しかも何気ないエピソードが伏線となって機能するといった緻密な構成さえも感じさせるエンタメ要素満載の本書だが、登場人物それぞれにあまり好感が持てないのが難点だ。 エピローグで描かれる、人類がソリトン生命体と共存し、ポリウォーターが技術として色んなものに適用される社会は実に興味深い。 作者梅原氏の科学に関する知識とそれを応用した未来像は魅力的であり、その想像力と創造力には素直に感心する。これで登場人物が魅力的であったらなぁとそればかりが残念でならない。 しかし本書はハリウッドのSF超大作に匹敵する、アイデアが豊富に溢れた一大エンタテイメント小説であるのに、今なお映像化の話が浮上しないのは残念でならない。現代技術で2016年ではなく、もっと未来の日本を舞台にしたこの作品の映像作品を見てみたいものだ。 |
No.1573 | 2点 | こころ 夏目漱石 |
(2024/05/21 00:12登録) 九州の田舎から出てきた大学生が出遭った先生なる人物。彼は結局、私にとってどんな役割を果たしたのだろうか? 物事を常に達観しているかのように、あるいは諦観の体で常に振舞い、何事においても熱くならず、厭世家のように振舞うこの先生。 かたやまだ社会を知らぬ人生経験の薄い身である私が、彼の、どことなく掴み処がなく、常に世の中を斜めに見ているような視座、そして自らを人生の敗北者だと語るその姿勢に自分にない物を見出し、師事していったに違いない。 そしてその出逢いは彼にとって人生の糧になったのかどうか、最後の結末を読んで判断するに、どうも時間の浪費でしかなかったのではないだろうかと思わざるを得ない。 先生という人物が、物語の約半分に渡って告白する手紙で語られる彼の半生を読むにつけ、正直とても人の尊敬を得られるような人格者ではないことが解ってくる。親の財産を叔父に騙し取られた過去を持ち、その怨みを忘れないとしながらも、実際には何も行動しない男。自らの嫉妬心ゆえに親友とも云える人物と同じ女性を好きになってしまい、終いには親友を出し抜いてその女性を手にし、自殺へと追い込んでしまう、そんな輩だ。 浄土真宗の坊さんの息子という非常にストイックな家庭に育ち、自らも全ての欲望を絶って、己の魂を高め、清める事を人生の目標としているような男、友人K。 しかし環境が彼の性格を変える。恐らく先生と同居した家に住んでいたお嬢さんは彼にとって出逢った事の無い魂の平安をもたらしたのだろう、彼は初めて女性を愛するようになる。 その心情を親友である先生のみに打ち明け、お嬢さんには告白をしない。それは己の教義とのせめぎ合いだったはずだ。そして間接的に親友がお嬢さんを貰うことを知らされる。 そして彼は命を絶つ。 その動機は一体なんだったのだろう? 友人の自分に対する裏切りを怨んでの事か、世を儚んでのことか、敗北者として潔く去る事を選んだのか、それは解らない。私は自らの信念を曲げてまで女性を愛そうとしたKが、その愛を得られないことを知ったことで、漠然とした不安が眼前に広がり、自らの信ずる道がそこで失われたから命を絶った、そう思う。 しかしその行為が生き残った人たちにもたらした、特に先生にもたらした効果は絶大で、彼はその後の人生を破棄してしまう。そして長年隠しておいた彼とKとの因縁を打ち明かしたとき、彼がこの世に別れを告げるその時になってしまった。 この明治という時代、人は斯くも純粋かつストイックだったのかと驚くばかりだ。 これに同調・共感することは私には出来ない。なぜならば出てくる登場人物全てが前向きではないからだ。 たったこれしきの事で何故命を絶つ? そう問わずにはいられない。 登場人物全てがそれぞれと心を通い合わせることが出来ないまま物語は閉じられる。 先生と私、先生とその妻、先生と友人K、私と両親。 結局、本当の意味で分かち合える人間関係など気付けないものだ、人の心はその人のみしか解らないのだ、そんな風に突き放しているかのような小説だった。 |
No.1572 | 7点 | 新世界傑作推理12選 アンソロジー(海外編集者) |
(2024/05/16 00:34登録) 日本人読者向けに編んだ『世界傑作推理12選&ONE』がよほど好調だったのか、続いて編まれたのが本書。但し前回の「&ONE」に当たる編者クイーン自身の短編は収録されておらず、代わりに日本人作家、当時日本を代表していた夏樹静子氏と松本清張氏からそれぞれ1編ずつ収録されているのが特徴的だ。 訪問すれば本格ミステリの巨匠として手厚くもてなされる日本人はクイーンにとっては実に愛すべき読者、ファンだったのだろう。 また前のアンソロジーとは異なって日本人作家の作品がたった12の席のうち2席をも占めるまでになったのは日本人読者に対するサーヴィス精神の表れだろう。 その中身は今回もまたヴァラエティに富んでいる。 殺人事件の犯人捜し、自分を逮捕する潜入捜査官探し、復讐譚に脱税、浮気相手との結婚を考えた妻殺し、窃盗、主婦の妄想恋愛、詐欺、そして冤罪。様々なヴァリエーションを駆使して質のいいミステリを提供している。 クイーンが日本人ミステリ読者のために向けて編んだアンソロジーだけあって実に粒揃いであるが、その中でベストを挙げるとすればルース・レンデルの「生まれついての犠牲者」とピーター・ラヴゼイの「レドンホール街の怪」、夏樹静子氏の「足の裏」になるか。 次点でドナルド・オルスンの「汝の隣人の夫」とを挙げる。 特に面白く感じたのはまだこの頃は機械的なトリックを扱った本格ミステリが書かれていたことだ。また意外性を放つどんでん返しの作品、特に運命の皮肉めいた作品が多くあり、そしてそれらのアイデアは秀逸である。 本書収録作品は1976年から1980年と古典と呼ぶにはまだ早い時期の作品群が連ねているが、この頃はまだアイデアがそれぞれの作家で潤沢にあったのだろう。ほとんどの作家が鬼籍に入ったアンソロジーは、かつての名声を馳せた作家たちの最盛期の実力を知るにもってこいだった。 しかしクイーンのアンソロジーに日本人作家の作品が2作も選ばれたことを考えると、日本のミステリも一旦は世界に認められ、世界に近づいたのだ。 しかし現代の日本人作家のミステリが劣るかと思えば、必ずしもそうではない。クイーンのような世界に発信する人物が欠如しているだけなのだ。 世界のどこかで本書のようなアンソロジーが編まれるとき、そこに日本人作家の作品が収録され、やがて日本人作家の作品ばかりで編まれたアンソロジーが世界で広まることを夢見て、本書の感想を終えよう。 |
No.1571 | 8点 | カクレカラクリ 森博嗣 |
(2024/05/12 01:13登録) いやあ、なんとも気持ちの良い小説だ。久々に童心に帰り、ワクワクしながら読み進めることができた。 廃工場マニアの大学生コンビが訪れた鈴鳴という田舎町で絡繰りの天才が仕掛けた120年後に動き出すと云い伝えられている隠れ絡繰りの謎を追うミステリだ。 鈴鳴と云う村が実に特徴的で絡繰り師の村であったからか、村の看板や標識にはやたらと凝った、いわゆる「判じ物」がところどころにあるのが特徴的だ。 「判じ物」で有名なのは「春夏冬 二升五合」と書いて「商い 益々繁盛(あきない ますますはんじょう)」と読ませる、とんち文のようなものだが、本書では道路の行先標識に「呼吸困難」と書いてあり、これを「行き止まり(いきどまり)」と読ませたり、「貴方ボトル」と書いて「郵便(You瓶)」と読んだりする。これはなかなかに面白かったのでもっと出るのかなと期待したが、真知家の表札ぐらいでそれ以降出てこなかったのはちょっと残念だった。森氏にしては珍しく、他に思い浮かばなかったのだろうか。 隠されたお宝を探し出すその過程でそれにまつわる人々の秘密もまた炙り出され、意外な真相へと辿り着く。実はそれは本来ミステリとはこうあるべきだという理想形なのかもしれない。人が死なず、町に伝わる隠れ絡繰りの謎を探ると云うのは暗号で描かれた宝地図を読み解き、真相に一歩一歩近づいていく冒険小説の面白みがあり、胸が躍らされた。 そして町を二分する2大両家のいがみ合いが昔の人たちの優しさに起因するなんて、素敵ではないか。 本書は私にとって森作品のベストとなった。解りやすさもあるが、なにしろ登場人物全てに好感が持て、鈴鳴という架空の田舎村を舞台に広げられるロミオとジュリエットの物語の結末が実にほっこりとさせられたからだ。 |
No.1570 | 7点 | 宇宙戦争 ハーバート・ジョージ・ウェルズ |
(2024/05/10 00:37登録) 正しい巻数は忘れたが、小学生の頃、ある日突然両親が20巻ぐらいになる世界文学全集の類を買い与えてくれた。しかしそのほとんどは読まなかったが、その中に収められていた作品の1つが本書『宇宙戦争』で、これはその題名がそそられて読んだのだが、その時に受けた衝撃は凄く、40年経った今でも最後の結末は覚えている。 そして2005年に公開された映画版ももちろん見た。それは原作に実に忠実に作られていたが、なんだか物語としてはあっけなく感じた。 そしてとうとう2021年になって子供向けにリライトされたものでない翻訳本に当たることになった。 さてこの火星人が地球に襲来することになったのは彼らの星が終末を迎えており、移動をするために地球を征服するためだとされている。 この惑星の終末が永劫の冷却とされているがこれは現在問題視されている地球温暖化とは真逆だ。そして地球温暖化は北極圏・南極圏の氷山が融解して起こる海水面の上昇による陸地の水没が懸念されている。 確かに地球温暖化による北極圏・南極圏の氷山が融解で極寒の冷気が南下もしくは北上することで多大な気候変動が起き、平均気温が低下し、世界的な氷河期に陥ると云う予測もあったが、現在のところは正直どうなるかは判らないらしい。 そして彼らが地球に襲来するために用いたのはロケットではなく、なんと巨大な大砲と予測されている。天文観測台によって白熱ガスの噴出が10回ほど火星から観測され、それが宇宙船を地球に向けて飛ばしたことによるものとされている。 宇宙に向けて宇宙船を飛ばすために大砲を用いると云う発想はヴェルヌの『月世界旅行』と全く同じアイデアである。イギリスとフランスと両者の違いはあるが、2人の知の巨人たちの発想は同じだったのか。それともヴェルヌの『月世界旅行』の発表が1870年で本書が1898年と後発であることを考えるとウェルズはヴェルヌのアイデアを拝借したのかもしれない。もしくは当時の宇宙計画は大砲で飛ばすことが主流の構想だったのかもしれない。 しかし火星から大砲で宇宙船を送り込むのに、それら全てがイギリスのロンドン周辺に飛来すると云うのはかなりの精度である。超一流のスナイパーでも出来ない芸当だ。 原題は“The War Of The Worlds”と実は『宇宙戦争』ではなく『2つの世界の戦争』なのだ。つまりそれは火星と地球を指すが、全てがイギリス、しかもロンドンで完結している。それはウェルズが当時、いやウェルズのみならずイギリス人のほとんどがイギリスこそ世界の頂点であると自負していたからこそのこの題名なのだろう。つまりイギリスが完膚なきまでに火星人に蹂躙されることイコール世界が蹂躙されるというわけだ。 私が一番驚いたのは火星人が突然亡くなった原因について明確に示されていないことだ。私が読んだ児童書ではバクテリア、即ちカビが免疫のない火星人たちに取り憑いて彼らは全滅したとされていたが、本書では病原菌の類に感染して息絶えただろうが、その原因となる細菌は解剖しても見つからなかったとされ、謎のままで終わる。私はバクテリアと云う言葉をこの作品で覚えただけにこれはいささかショックであった。 本書から時が流れること60年余りの1960年代から地球人が探査機を送り込み、火星探査を進めている状況だ。そして今2030年を目標に有人火星探査が計画されている。そう、我々地球人が今度は火星に乗り込むのだ。 その時本当に火星人がいたら、このウェルズの古典はブーム再燃となることだろう。そして火星探査機によって地球人の存在が向こうに知られ、本当に侵略が始まったら、130年を経てフィクションからノンフィクションへと変貌する著書になる。 名作はいつまで経っても色褪せないし、そしてまだ我々はウェルズの想像力に及ばない現実を生きている。 |
No.1569 | 7点 | このミステリーがすごい!2021年版 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2024/05/01 01:19登録) 2020年は歴史に残るであろうコロナ禍の年で自宅待機や外出自粛で読書の時間が増えた年だったように思う。 そんな年のランキングを制したのはなんと辻真先氏の『たかが殺人じゃないか』だった。なんと御年88歳にして初の1位。最年長記録であると同時に恐らくこの記録は今後のミステリ作家も破ることはできないのではないか。 本格ミステリは年を取ると書けなくなるという。複雑に入り組んだトリックとロジックを矛盾なく仕上げるのに記憶力と理解力が低下しているからだ。しかし現在でもアニメ脚本家として働いている辻氏にこの定説は無縁であったことが証明された。いやあ、まさに偉業である。 そして偶然にも氏が脚本を手掛けることもある『名探偵コナン』が全面的に押し出された『このミス』となった。 国内ランキングは辻氏の1位が象徴するようにベテラン勢と勢いのある新人勢の作品、つまり世代格差の現れたランキングとなった。なんせ2位にまだデビュー3作目の阿津川辰海氏の『透明人間は密室に潜む』がランクインしているからだ。この作家、恐らく今後の本格ミステリシーンを背負っていく存在になるかもしれない。 そして海外編はさらに新規ランキングの作家が目立つが、それらを差し置いてまたもやアンソニー・ホロヴィッツが『その裁きは死』でなんと『このミス』史上初3連覇を果たす。 2~10位までは初ランクイン作家がなんと7人も並ぶ。しかも他の2人は最近評価の高いギョーム・ミュッソとアンデッシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレムの新進作家なのだから、世代交代の色合いが実に濃いランキングとなった。 今回は2021年がもうすぐコミックス100巻に達するメモリアルイヤーになることで『名探偵コナン』が前面に出され、しかもベストエピソードの選出まで行われている。ただやはりすごいのは100巻に達しようとしているのに作家の青山剛昌氏にアイデアの枯渇が見られないことだ。彼もまた細胞がミステリ成分で出来ているに違いない。 また『名探偵コナン』の脚本を手掛けるミステリ作家で『このミス』ランキング作家である辻真先氏と大倉崇裕氏氏の対談も面白かった。なんとこのアニメのスタッフは辻氏が『アタック№1』の仕事をしていた頃からの付き合いがあるなんて!しかし御年88歳にしてオンラインインタビューを使いこなす辻氏の若さには驚愕せざるを得ない。 あと最も面白く読んだのは伊坂幸太郎氏の作家生活20周年記念インタビューだ。いやあ、この作家、かなり『このミス』ランキングを気にしていることが判り、ニヤリとしてしまった。彼も私と同じ島田荘司信奉者であるから、過去に島田作品にケチを付けられてカチンときたなんて話は実に親近感が沸くではないか。 このインタビューが面白いのは伊坂氏の『このミス』偏愛ぶりを尊重して彼の過去作品を『このミス』ランキングに準えて語っていることだ。 ランキングは気にしないという作家もいるが、逆に伊坂氏のようにランキングを常に気に留め、それが創作のモチベーションになっている事を正直に話すと実に気持ちがいい。特に自信を持って放った作品ほどランキングが低かったり、むしろランクインしなかったりとその落胆ぶりは率直で好感が持てた。やはりミステリ・エンタテインメント系の作家はこうでないと。せっかく自作を評価してくれる企画があるのなら、それは目を通した方が参考になり、次作のレベルアップに繋がるからだ。 しかし何よりも巻末に付せられた刊行作品リストのページ数の少なさに驚かれた。確かに文字の大きさが小さくなって切り詰められてはいるが、これまで国内作品が12ページ、海外作品が5ページくらいだったのに対し、今回はそれぞれ7ページと海外に至っては3ページである。出版不況の影響をまざまざと見せつけられたような寒気を覚えてしまった。 |
No.1568 | 8点 | 不眠症 スティーヴン・キング |
(2024/04/27 01:05登録) 物語の舞台はキャッスルロックに並ぶキングの架空の町デリー。そう、あの大著『IT』の舞台となった町だ。 勿論その作品とのリンクもあり、“IT”に立ち向かった仲間の1人マイク・ハンロンは図書館々長となっている。 さて上下巻約1,280ページに亘って繰り広げられるこの物語はスーザン・デイという中絶容認派の女性活動家の講演を招致することでデリーの街が中絶容認派と中絶反対派に二分され、そして彼女がデリーの街に訪れるXデイに起こる惨事を主人公が食い止める話だ。 しかし途中で物語はスピリチュアルな展開を見せる。そして見えてくる物語の構造を端的に云えば、次のようになるだろう。 デリーの街に蔓延る異次元の存在。彼らが解き放ったサイコパスから街を守るのは不眠症の老人男女2人だった。 冗談ではなく、これが本書の骨子である。 本書の主人公70歳の老人ラルフと68歳のロイスが立ち向かうのは不眠症とエド・ディープノーという男、そして彼にも見えるチビでハゲの医者だ。 まずエドという男はいわば“隣のサイコパス”ともいうべき存在。常に微笑みを絶やさない、好青年ぶりを発揮する。しかし彼もまたオーラの世界と云う異次元を見る能力者であり、デリーの街が持つ特別な≪力(フォース)≫を知覚する人物でもあった。 さて本書で述べられる主人公ラルフの不眠症。実は私にも当てはまることがいくつかあり、背筋に寒気を覚えた。従ってラルフの抱える苦悩は肌身に染み入るほど私事として捉えることができた。本当に不眠症は辛いのである。 そしてラルフとロイスが不眠症が重くなるにつれて見えだすオーラの世界に住まう異次元の存在、3人のチビでハゲの医者たちと称される者たちはラルフが例えるギリシア神話の「運命の三女神」、クロートー、ラケシス、アトロポスと名乗る。 彼らは生物に繋がっている風船紐を断ち切ることで死をもたらす。 しかしアトロポスが風船紐―医者たちの言葉を借りれば生命コード―を断ち切っても死ななかった存在、それがエド・ディープノーなのだ。それはつまり彼こそがデリーの街を二分する騒動や不安をもたらしたマスターコード、災厄の種であるとクロートーとラケシスは述べる。 ラルフとロイスは次第にオーラが見える力を安定させていく。 まず彼らは不眠症を重ねることでどんどん若々しくなっていき、その結果周囲の人たちから不眠症が治ったと勘違いされるが、これは彼らが周囲の人たちのオーラを頂戴する能力を備えているからだ。 なかなか構造が見えにくい物語だったが、ラルフとロイスにオーラの世界を知覚し、そしてオーラを自由に操る能力が授けられたのはある任務のためだった。 3人の医者のうち、≪意図≫の生死を司るクロートーとラケシスは魂の風船紐をアトロポスに断ち切られても生きており、彼はいわば自由に動ける存在で、真紅の王から特別な任務を授かっている。彼がプラスチック爆弾を乗せた飛行機でスーザン・デイの公演が行われるデリー市民センターに突入し、2,000人もの中絶容認派たちを大量虐殺しようとするのだが、クロートーとラケシスが止めるようとしているのはスーザン・デイや2,000人の命を守るためではなく、そこに居合わす特別な存在、その後の世界にとって重要な役割を担う1人の子供の命を救わせるためだった。 それがパトリック。ダンヴィルという少年で18年後に2人の男の命を救うことになっており、そのうちの1人は≪偶然≫と≪意図≫のバランスを保つために死んではならない存在となる。つまりパトリックがその男を救うことで世界の崩壊が免れることになるという、いわば救世主のバトン役みたいな存在だ。 結局“Xデイ”の中心となるスーザン・デイは単なる狂言回しに過ぎなかった。彼女は物語の舞台に上がる前に爆風によって割れたガラスで首を斬られただけである。彼女は全く“特別な存在”ではなかったわけだ。 そして驚くべきことにパトリックが市民センターで裏紙に書いている絵はなんと暗黒の塔の上に赤い服を着た男とそれと対峙する拳銃使いの男の絵なのだ。そして拳銃使いの名はローランドなのだとパトリックは話し、彼はたびたび夢の中でローランドと逢っているらしい。 なんと本書でデリーの街と『ダークタワー』シリーズが繋がるのである。 とにかくもラルフは見事ミッションを果たし、そして彼はその後ロイスと再婚し、実に幸せな日々を送る。そして事件の後、彼ら2人の不眠症はぱったりと止み、やがてオーラの世界のことも次第に忘れていく。 本来ならば物語はここで閉じられるのだが、キングは60ページにも亘るエピローグを語り、衝撃の結末を我々読者に見せる。そしてそれは本書では明らかにならなかったあるイベントの内容の答だった。そしてこのエピローグで私の本書の評価がグッと上がったのだ。それについて触れるためにある印象的なシーンについて述べよう。 ラルフとロイスが最後の戦いに挑む途中で街の老人仲間のフェイ・チェイピンを中心としたチェス仲間が集まってチェスに興じる姿に2人は宝石のような美しいオーラを見出すシーンがある。私はこのシーンを読んだときに思い出したのは東野圭吾氏の『容疑者xの献身』の次の文章だ。 人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある。 そう、人は単に生きているだけで美しいのだ。気の置けない仲間たちと休日、集まってチェスに興じ、笑い、語らい、そして冗談を云いあい、まるで子供のように楽しむ。 それはまさにクリスタルのようなかけがえのないひと時なのだ。そんな素の姿を出している人々はそれだけで美しいのだ。 そしてそれを象徴するかのように物語の最後を迎える。 『IT』で登場したキングが創造したキャッスルロックに次ぐ架空の街デリー。この街には他の街にない特有の見えざる力が働くようだ。 この街の下水道は“IT”の巣窟であったが、今回災厄の中心とされたエド・ディープノーの結婚指輪がこの下水道に飲み込まれる。それは再び災厄が訪れることを象徴しているのだろうか?あの奥深くてジメジメとした下水道の中で。 そして『IT』でも少年たちが子供の頃に一度“IT”と対決したことを忘れていたように、ラルフもクロートーとラケシスに頼まれた使命を果たした後、不眠症が解消され、オーラの世界のことを忘れてしまう。 そして時が流れ、成長したナタリーにアトロポスの魔手が伸びるその時が近づいた時にラルフは不眠症が再発し、やがてオーラの世界のことも思い出していくのである。 あまりに強烈な悪夢を見ると起きた時にその印象だけが残ってどんな夢か覚えていないことがある。 デリーの街もまた同じようで、時に運命の分かれ目と云えるほどの大きな災厄が訪れるが、それを乗り越えるとそれに関わった人々はその強烈さから心を護るためか、その戦いについて忘れてしまうようだ。おそらくそれがこのデリーという街特有の自浄作用なのだろう。 忘却と災厄の街。この呼び名がデリーには似合うようだ。 そして今回ラルフが市民センターに突入しようとした飛行機の中で遭遇した真紅の王は、対峙する者の記憶の奥底に眠るトラウマの対象に姿を変えて現れる。今回ラルフの前に現れた真紅の王は7歳の時にラルフが釣り上げて死なせたナマズ、クイーンフィッシュの姿で現れた。 これはまさに“IT”ではないか。 “IT”、真紅の王と巨大な悪を迎えたデリーにまだ安息は訪れないのか。次の災厄はどんな敵の姿で現れるのか。私の不眠症が解消されないのと同様に、またも誰かが不眠症にうなされそうだ。 |
No.1567 | 10点 | 魍魎の匣 京極夏彦 |
(2024/03/25 00:25登録) 読了の今、胸に迫りくるのは何ともすごいものを読んだという思いだ。狂おしいほどに切なく、そして悍ましいのに哀しい。 1つ1つのエピソードが荒唐無稽でありつつも、決して踏み入ってはならない人の闇の深淵を感じさせ、見てはならないのに思わず見ずにいられないほど、つまり両手で目を塞いでもどうしようもなく指と指との隙間から見たくて仕方がない衝動に駆られる人外の姿に魅せられてしまう強烈な引力を放っている。 忘れてならないのは箱の存在だ。この小説、実に箱尽くしである。箱、筥、匣の連続だ。 前作が関口巽を主体にした物語であれば今回は木場修太郎の物語であると云えるだろう。 押しが強く、屈強な刑事の木場修太郎は幼い頃は絵を描くのが好きな神経質な子供で算盤の得意な几帳面な性格だった。そんな生立ちから正反対の現在の自身を鑑みて強面の鎧で装飾した中身の空っぽな箱のようだと称する。そしてその中身がどうやったら満たされるのかが解らないでいる。木場は自分の空っぽな箱の中身を見られるのが怖いため、女性との付き合いが苦手なままでいる。しかしそんな彼が思わず自分の箱を開けようとする存在に出遭う。それは木場の憧れの存在、殺人未遂事件に見舞われた柚木加菜子の母でかつて銀幕スターだった元女優美波絹子こと柚木陽子である。彼の箱が柚木陽子で満たされ、彼は事件に本格的に関わるのである。 では箱とは一体何なのだろうか? ある者は部屋や家屋は箱であるといい、構えがしっかりしていても空では何の役に立たないといい、人もまた同じだと説く。 京極堂は箱には箱としての存在価値があり、中に何が入っているかは重要ではないと説く。 これら様々な意味合いを持った箱は最後に全ての謎が解かれると実に禍々しい存在へと転じる。結末まで読んでしまうと箱を開けたくなくなってくる。 長い下拵えを過ぎてようやく京極堂が登場するとそこからはもう無類の面白さを誇る。どんどん先を読みたくなってくるのである。 しかし何とも不思議な小説である。通常であればこれだけの1,000ページを超える大著ならば長さ、いや冗長さを感じるのだが、それがない。 確かに導入部はまどろっこしさを覚えたが、気付けば300ページ、400ページ、500ぺージが過ぎている。つまり既に通常の小説1冊分を読み終えているほどの分量なのだが、それでも物語はまだまだ暗中模索の状態。 では無駄なエピソードがいくつも書かれているのかと云えば、決してそうではない。全てが結末に向けて必要な要素であり、そしてそこに向かう登場人物たちの行動原理や動機が無駄なく描かれているのが判ってくる。 なんと恐ろしき事件でありながらもなんとも素晴らしい構築美を備えた小説であることか。 それを特に感じさせるのがそれぞれの場面に書かれた心理描写が巧みなダブルミーニングであることに気付かされるからだ。物語の順を追って読んでいく時に感じる登場人物の心理と真相を知った後で同じ場面の心理描写を読むと全く意味が異なってくる。そしてそれが実に的確にその時の本当の登場人物の心情が吐露されていることに気付くのである。 匣尽くしの本書と述べたが、本書の謎という匣が開いた時、我々が知らされるのは究極の愛の形、究極の幸福の姿だった。 我々は常に安心を求めて生きている。誰しもが何の不自由もなく、トラブルもなく、その日その日を一日一日つつがなく過ごすことを求めて日々生きていく。そしてそれを人は幸せと呼ぶ。 しかし不思議なことにその幸せは永くは続かないことを我々は知っている。不安や不幸がいつかは訪れることを知りつつもそれが来ないように願いながら、一日でも永くこの幸福が続くように目の前にある問題を解決して、もしくはそこから目を背けて生きている。 しかし不幸が決して訪れない幸せな生き方があることを本書は示してくれた。それは人であることを辞めることだと。 もういっその事、狂ってしまおうかしらと。 最初はほんの些細な女子中学生の魔が差した行為だった。それがやがて狂気の連鎖を生み、そして最終的には愛する者と死ぬまで添い遂げる1人の幸せな狂人へと至った。 それは妖怪の連鎖でもあった。 怪奇と論理の親和性という本来相容れない2つを見事に結び付け、そして我々を途方もない人の道の最北へと連れて行った本書。 妖怪と医学という人外の物と人智の極致が正反対であるがゆえに実は背中合わせほどの近しい狂気の産物であることを見事に証明した神がかった作品である。 |
No.1566 | 7点 | 世界傑作推理12選&ONE アンソロジー(海外編集者) |
(2024/03/23 01:36登録) 本書はクイーンがなんと日本読者のために編まれた新たな12編に自身の短編1編を加えたものだ。これだけで生前のクイーンがいかに親日家だったかが推し量れる。 そして恐らくは来日したときに交流した日本ミステリ界の関係者たちとの歓談から日本人読者が古今東西のミステリを満遍なく楽しむ気質であることを察したのであろう、本書は古典から編まれた1977年当時の現代ミステリまで、更にアメリカのみならず西欧のミステリも対象に幅広く短編が選出されている。 パズラー作家のイメージがあるクイーンだが、本書では本格ミステリに拘泥せず、スリラー、ホラー、奇妙な味系と多種多彩な作品が収録されており、クイーンのアンソロジストとしての腕前を存分に披露する形となっている。 更に年代も幅広く、古くは1923年の物から新しいもので1973年と50年に亘る作品群の中からセレクトされている。 本書はこれまでのアンソロジーの中でもかなりレベルの高さを誇った。従ってベスト選出には実に迷わされた。 例えばベン・ヘクトの「情熱なき犯罪」は殺人を犯したのが弁護士である特性を活かして、自分が裁判で審問に掛けられた時を想定して偽装工作を細密にしていくのが面白いし、その工作が自分のミスで逆に自分の犯行動機を裏付ける証拠になってしまう反転が見事だ。 また世評高いスタンリー・エリンの「特別料理」も噂に違わぬ傑作だ。今まで食べたこともない極上の「特別料理」の正体は、さすがに似たような作品が流布している現代では容易に想像できるが、エリンの優れたところは敢えて核心に触れず、周囲の状況を主人公2人の会話で仄めかせ、徐々に読者に悟らせていくところにある。まさに引き算が絶妙になされた作品なのだ。 そんな傑作ぞろいの中で選んだベストは2つ。リチャード・コンルの「世にも危険なゲーム」だ。もはや数多書かれたマンハント物だが、実は1925年に書かれた本作がそれらの源流なのだろう。そして原点である本作は今なお読むに値するほど趣向が凝らされている。 殺人ゲームに巻き込まれた冒険家の1対1の戦いはわずか40ページ足らずの作品で語るには読み応えのある内容で短編であるのが勿体ないくらいだ。最後に対峙する二人の決闘シーンの結末の付け方も実に上手い省略の仕方で逆に勝負の行方が際立ち、カタルシスを感じる。作者のコンルは本作含め2作しかミステリーを書いていないというから驚きだ。 もう1作はヒュー・ウォールポールの「銀の仮面」だ。有閑マダムが街で出くわした美青年に親切にするうちに次第に彼の家族が彼女の家に訪れ、やがてそれが親戚たちも加わり、家の主であるマダムがどんどん追いやられていく。まさにアカデミー賞を受賞した映画『パラサイト』と同じような侵略譚が繰り広げられる。その入り込み方が実に巧みでマダムの人の良さに上手く付け入り、あれよあれよと取り入って監禁にまで至る様は実に恐ろしい。昨今問題になった洗脳事件を彷彿とさせる。 今なお脈々と続くマンハント物、ゼロサムゲーム物の原典を生み出した偉大なる先達と現代社会に今なお蔓延る侵食する一家の恐ろしさを生み出した先達に敬意を払ってこれら2作品をベストとする。 しばらくクイーンのアンソロジーからは離れていたが、本書を読むことでまた再燃してしまった。次はもう1つの『新世界傑作推理12選』にも可能であれば手を伸ばしたいと思う。 |
No.1565 | 4点 | ウランバーナの森 奥田英朗 |
(2023/09/13 01:06登録) ジョン・レノンが生前主夫生活を送るのに軽井沢に逗留していたのは有名な話だが、本書はジョンが軽井沢で送っていた4年間の逗留生活にスポットを当てたお話である。ジョンが名作“ダブル・ファンタジー”の創作のきっかけを掴むまでに至る魂の逍遥とでも云おうか。 なお作中のジョンの妻の名前や曲名などが微妙に変えられている(作中ヨーコではなくケイコ)。この辺は大人の事情なのだろうが、実に座り心地の悪い読書を感じさせ、もどかしかった。 まず延々ジョンの便秘が解消されない問題が続くこと。排便シーンがいくつもあり、もしかしたらこんなにトイレで排便するのを語った小説はこれが初めてではないだろうか?ジョンが便秘と格闘し、苦悶する姿は滑稽でありながら実に面白い。特に病院で与えられた特大浣腸の件は爆笑してしまった。 実はこの便秘がこの小説のキーだとは思わなかった。この便秘が解消されることがジョンの悔恨からの解放に繋がるのだ。 ジョン・レノンに纏わる逸話や実話、エピソードを消化して彼の人生と創作のキーとなる母親という存在、そして息子を上手く絡ませて幻想小説を紡ぐという発想は買えるものの、もう少しエンタテインメントによって欲しかった。私は今は閉館したジョン・レノン・ミュージアムにも行ったくらいのファンだが、それでもなかなかこの物語にはのめりこめなかった。特に先にも書いたが諸般の事情からか有名なビートルズの歌やジョンの歌も歌詞も微妙に変えられているし、核心の手前で妙な幕で一枚仕切られて一番触れたいところに触れられない忸怩たる思いを終始感じたからだ。オノ・ヨーコが本書を読んでどう思うのか(思ったのか)、知りたいものだ。 ところで本書で出てくるアネモネ医院の心療内科の先生は後の伊良部先生に繋がるのだろうか?そう考えると今の奥田氏の原型はすでにここにあったのだろう。そう考えると奥田ファンこそ当たってほしい作品だ。 |
No.1564 | 5点 | シンポ教授の生活とミステリー 評論・エッセイ |
(2023/03/08 00:04登録) シンポ教授、即ち新保博久氏と云えばしばしば書評でも作品の齟齬や細かなミスを指摘する「重箱の隅の老人」と称するほど博覧強記のミステリ評論家として名高い存在。 私は彼のその知識の豊富ぶりに感嘆し、尊敬をしていたため、本書ではどれだけのミステリの蘊蓄が披露されるかと楽しみにしていたのだが、その期待は半ば裏切られたのような内容だ。 本書は彼の書評人生において各雑誌や機関誌、更には小冊子に著したエッセイを網羅した作品であり、それらをカテゴリー別に区別して編集されているため、同時期に複数の雑誌で書かれたものが収録されている場合、同じようなことが繰り返し語られている内容になっている。これがまず何とも損をした気分にさせられた。 まず基本的に作者の基調は脱力系である。米澤穂信氏の『氷菓』シリーズの折木奉太郎のモットー「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければならないことは手短に」を地で行く書評家である。 でもそういう人に限っていろんな仕事が舞い込んでくるということを本書は証明している。 まず冒頭のミステリー創作教室の講師を務めた話ではノートにメモることも原稿料が出ないことからしないという理由がすごい。 またいわゆる被害者小説であるサスペンス小説にシリーズキャラクターがいるのは原則的におかしいという意見はなかなか面白い。しかしそれを云えば素人探偵がいつも事件に出くわしてしまうというのも原則的におかしいのだが。いつも不幸な目に遭う人たち、事件に出くわしてしまう人たちがいることがシリーズミステリの宿命なのだ。 個人的に最も面白かったのは「教授への長い道」だ。つまりこれは新保氏がミステリ評論家になるまでの読書遍歴や道のりを記したものだが、インターネットが普及する前の小説探索方法はまさに足で稼げとばかりに日々古本屋を通う毎日とそして探していた本に出遭うには運が介在していることが判る。この辺は私も同様で今なお同じことをしているので非常に身に染みる。しかしこの探し方こそが本読みの醍醐味であるのだよ。今日もないだろうなと思いながらも求めていた一冊があることを期待する古本屋通いは今でも止められない。 あと昔の児童向けミステリ作品の題名について語られている部分も面白かった。私もホームズの『バスカヴィル家の犬』の題名は今なお最初に出会った『のろいの魔犬』である。 現在では新保氏先達が切り開いたミステリの沃野を基盤としてミステリを容易に手に入れ、いやもしくは古典ミステリには手を伸ばさず、古典ミステリの影響を多大に受けた日本の本格ミステリのみを読んでSNSを駆使して読書感想文に毛が生えた程度の書評と称する文章をウェブに挙げて数多のアマチュア書評家の中から注目され、解説などの仕事を出版社から依頼されて書評家になっていくケースも多い。つまり評論賞などの賞を獲得せずともいつの間にか書評家として名が知られ、そして本まで出版する者までいるのだから、新保氏たち古参の書評家たちの彼らに対する思いは如何ばかりだろうか。まあこれも時代の流れなのだから仕方ないものではあるが。 あと裏話として面白かったのは集英社文庫だけが解説者にも印税とくれることだ。いやあ他者は最初の原稿料のみなのか。集英社はやはりマンガでの収益がものすごいのだろうから、それが可能なんだろう。現在はどうか解らないが。 あと書評家や読書家に付きまとうのは蔵書の整理の問題だが、書評家のエッセイにしては珍しくそんな私生活面にも触れているのが面白かった。いやあ自分がよく使っている文庫本いれと庫が新保氏には高価だと認識されているのはちょっと驚き。しかしそれでも安価とはいえフードストッカーに文庫本を入れるのはちょっと抵抗があるなぁ。 本書で一番不満を感じたのが最終章の「シンポ教授のシンポ的ミステリ講座」だ。ミステリの創成からミステリのジャンルの定義について語られているのだが、この内容が何とも古い。 これを最後に持ってくることで本書が2020年に刊行されたミステリ論とは思えなくなってしまうのだ。これは明らかに編集ミスであろう。 これが新保氏が各誌・各紙で書いてきた文章の集大成であるならば彼のこれまでを俯瞰した場合、その時その時に依頼された仕事を一定の水準で器用にこなしてきた文筆家という印象を持つに至った。その膨大な知識を駆使して駄洒落やミステリ好きをニヤリとさせる造語を生み出す言語センスはこの人ならではあろう。 しかし意外にも彼の読書量の凄さは感じなかった。 また一方で纏まった作家論や作品論が意外にも書かれてないことにも驚いた。私は北上次郎氏の書評を好んで読むが、彼の書評には膨大な読書量に裏付けされた知識と自分の人生経験が添えられ、読書が人生の振り返りとなり、それが作家自身の創作時の思いやそれを書くに至った人生をも語るため、実に深い読み物となる。 しかし新保氏にはそのような一人の作家、一つの作品について深く掘り下げるような評論がなかった。いや少なくとも本書には収録されてなかった。 彼はミステリ全般を概観し、俯瞰するのは得意かもしれないが、一点集中的な論評は向かないのかもしくはしないのであろう。 恐らく本書が新保氏にとって最後の単独刊行本になるであろう。 彼の書評家としての職人芸の豊かさは十分伝わったが、書評家としての実力が十分伝わらなかったのが残念である。 |
No.1563 | 7点 | 透明人間 ハーバート・ジョージ・ウェルズ |
(2023/02/22 00:22登録) 透明人間。 今なおマンガや映画、そして小説にも登場し、昔ではピンクレディーの歌にも使われていたモチーフである。それは時に怪物として扱われ、時に特殊な能力を持った人間、もしくは超能力者、更には宇宙人のステルススーツの一種のような道具としても扱われる透明人間はH・G・ウェルズの今なお書き継がれるいくつかあるSF的設定の原点の1つなのだ。そう本書こそがこのあまりに有名な特殊人間―敢えてここではそう呼ぶことにしよう―の原典なのだ。 しかし今ではこの透明人間という存在はある意味滑稽な扱いを受けているのではないか。見えないことを揶揄されたり、また見えない特技を活かして色んな騒動を侵したり、しかし最も多いのは見えないことを利用して女性の更衣室や女湯を覗き見したりとエッチな着想を加味した扱い方が多く、どちらかといえばコメディタッチな話が多いように思う。 私が物心ついた時に見た透明人間像は既に初お目見えの本書で確立されている。即ち眼鏡を掛け、帽子を被り、顔を包帯で包んだ姿である。 そして元祖の透明人間は自分のためならば人を脅迫して利用し、犯行を犯すことを全く厭わない真の悪人であることが判ってくる。実に独善的な人物なのだ。 窃盗から始まり、放火、傷害、脅迫、器物損壊、更には殺人とまさに犯罪のオンパレードである。 さてその透明になる原理はいかなるものか。さすがはSFの巨匠であるウェルズはその理論についても語っている。しかしここでは敢えて触れないでおこう。 本書の教訓とは世界を驚愕させる発明もそれを利用する人間によって毒にも薬にもなるという恐ろしさを描いている。しかし透明になる技術はどちらかと云えば犯罪を実行するための有効な道具として悪用される可能性が大きいだろう。 21世紀の今、この透明人間はステルス迷彩という道具で実現されようとしている。それは例えば現在では自動車の車内からの死角を無くすために室内側に施すことで全方位の景色が見えるようになると云った実用化に向けて研究が進んでいるが、本当に必要なのかは疑問だ。研究者諸氏は一度このウェルズの原典を読まれることをお勧めしたい。 本書は透明人間を通じて見えないものへの恐怖を描いた作品なのだ。人間は目に見える物よりも見えない物を大いに恐れる。見えないがゆえに空想でその存在は肥大し、10にも100にも膨張する。 物語が閉じられるとき、本当の悪人とは一体誰だったのかとふと考える。 透明であることを利用して数々の悪行を犯した透明人間? 見知らぬ客として訪れた彼をしつこく詮索した村人たち? 噂によって透明人間を集団で毛嫌いする村人たち? 親身になって話を聞くふりをして警察へ引き渡そうとする友人のケンプ? 助けを求める人を自分に危害が及ぶのを恐れて突き放す隣人? 悪人である理由から死に至るまで過剰な暴力を振るう町民たち? 将来透明人間になることを夢見てその秘密を隠し持つマーヴェル? いやはや考えるだけで暗鬱になる。やはり現代のように透明人間というモチーフはコメディとして書かれてほしい。 |