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ミステリの祭典

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平均点:6.74点 書評数:1572件

プロフィール| 書評

No.1552 7点 モロー博士の島
ハーバート・ジョージ・ウェルズ
(2022/02/23 00:43登録)
マッドサイエンティストによる禁断の研究というテーマで一番有名なのはメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』だろうが、本書は舞台を絶海の孤島に設定し、そして狂える科学者によって次から次へと半獣半人の怪物たちを生み出すワンダーランドにして、更に発展させた作品だ。この魅力的な設定が映画人を刺激し、何度も映画化されている。そう、ウェルズ作品は実は映画ネタの宝庫なのだ。

モロー博士の島はフリークスのパラダイスだ。
猿男にゴリラ男やナマケモノ男、豚男に牛男、狼男に豹男、牡牛人間にセントバーナード男、などから複数の動物を掛け合わせたハイエナ豚男、猿と山羊を合わせた精霊サテュロスのような獣人、馬犀人間、熊牛人間、男だけでなく豚女に狐熊女と次から次へと登場する。
これら獣人たちから仮面ライダーの敵のような怪人を想起するが、もしかすると仮面ライダーの敵はこの作品から着想を得たのかもしれない。なぜなら仮面ライダー自体がバッタと人間を組み合わせた人造人間なのだから。

このマッドサイエンティストの住まう孤島と怪人たちが数多く出現し、そこで九死に一生を得た科学者の物語という今や数多く作られたモチーフの原点ともいうべき作品だが、決してそれは既視感を覚えるものではなく、今なお考えさせられるテーマや感心させられる着想に富んでいる。

まず獣から人を作るモロー博士の実験はいわば自ら生命の進化を生み出そうとした科学者の夢だとも云える。しかし上に書いたように人工的に生み出した進化は真の意味での進化ではなく、自然の摂理に逆らった暴挙であることを証明するかの如く、最終的には彼らは獣に戻っていく。つまり退化していくのだ。
また知性を備えた獣人たちがどのように人間社会で暮らしていくべきなのか、そしてそれを受け入れる土壌があるのかと云えば、それはまだない。つまり『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』といった鳥山明氏が描く人間と獣人が混在したような世界は程遠い、いや未来永劫、実現しない社会であると云えよう。

そして面白いことに最初は違和感と嫌悪感を以て獣人たちを観ていたプレンディックも次第にその姿と彼らの所作に慣れてきて親しくなっていくのだ。特に漂流していた彼を救って島へと連れてきたモンゴメリーは人間よりも獣人たちと一緒にいることを好み、先に述べた獣人ム・リンが唯一無二の友人で彼が獣たちの“買い出し”に行くときも一緒に連れていくほどの中だ。但し2人の仲は上に書いたモンゴメリーのやけっぱちな軽はずみの行動によって悲劇を迎えるのだが。
そしてその慣れはプレンディック自身にも妙な潜在意識を植え付けることになる。島を脱出し、3日間の漂流の末に助けられた彼は普通の人間の男女が獣人に見えてしまい、恐れおののくようになるのだ。彼に対する好奇の目や親切心からの問いかけなどに彼は尻込みし、対人恐怖症となるのである。それは獣が人間になるのなら、人間もまた獣になるのではという恐れである。また一方でこれはしかしプレンディックが覚える違和感はロンドンの住民が一様に無表情で無関心である、いわば死んだ目をした虚ろな人間にしか見えないというウェルズの現代人に対する皮肉でもある。

やはり今の数多くある物語の源流を成すウェルズの作品の内容が決して今なお古びれてないことにまたもや驚かされた。
短編集3作を経て初の長編を読んだ今ではウェルズはSFの父というよりも偉大なる智の巨人であったという感を抱いた。


No.1551 7点 いかしたバンドのいる街で
スティーヴン・キング
(2022/02/09 23:59登録)
短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の本書は6作が収録され、総ページ数は330ページ強。1冊目が7作収録で320ページ弱だったから2冊合わせて13作と650ページほどの分量だ。
しかもまだ半分なのだから、キングの短編集の分厚さには驚かされる。

2冊目の本書には貧困層の黒人夫婦の息子が作家になった秘密、洗面所から出てきた動く指に悩まされ、格闘する男の話、トイレの決まったブースに入っている白いスニーカーの持ち主に纏わる話、迷った挙句に辿り着いた街の恐怖、一家の長を喪った女性の一大決心と世界の終末の話、田舎町を訪れた若いカップルを襲った怪異現象の正体などがテーマになっている。

そしてそれぞれの物語のアイデアは単なる思い付きに過ぎないものも多い。

ろくに教育も受けていない両親から生まれた子供が作家になった。
もし排水口から人間の指が覗いていたら怖いなぁ。
いつもあのトイレのブースに同じ靴があるんだよな。
折角の旅行だから知らない道を通って“冒険”しようじゃないか!
我が身に起きた不幸のために世界の終りだと感じた時、本当の世界の終りが来たら?
空からヒキガエルが大量に降ってきたら気持ち悪いよな。

それらは我々の周囲にもよくある話だったり、またふとしたことで頭に浮かぶふざけ半分のジョークのような思い付きだったりする。
しかしキングがすごいのはその思い付きからその周辺を肉付けしてエピソードを継ぎ足して立派な読み物にすることだ。

そんなことが起こる人々、そんな奇妙なことに直面する人たちはどんな人だったら物語が生きるか、その人たちは職業に就き、どんな生い立ちを辿ってきたのか、独身か結婚しているのか、家族と暮らしている子供か、それとも一人暮らしなのか恋人と同棲しているのか、とどんどん肉付けしていく。そして普通の生活をしている我々同様に彼らは自分たちに襲い掛かる災厄に対して信じようとせず、一笑に附することで最悪な結末を迎えることになるのだ。

そんな中、「自宅出産」は本書における個人的ベストだ。
まずは典型的な父長制である家族が頼りにしていた父親が死に、その代わりとなる夫もまた死ぬことで身重である女手一人で生きていくファミリードラマ風の展開から一転して世界中で死者が蘇る怪奇現象に見舞われるという全く予想もつかない展開に思わず声を挙げ、そしてネタバレになるが、死んだ夫が蘇るに至り、それを我が身に宿る我が子のために撃退して生きていく決意をする主人公が頼りない娘から逞しい母親へと変わった姿になんだか胸を打たれる。
こんな奇妙な女細腕奮闘記、キングにしか書けないだろう。

これほどまでに物語を紡ぎながらも我々の心の奥底にある恐怖を独特のユーモアを交えて掻き立てるキングの筆致はいささかも衰えていない。
さてようやく半分の折り返し地点である。次はどんなイマジネーションを見せてくれるのだろうか。


No.1550 7点 模造人格
北川歩実
(2022/02/03 00:13登録)
本書の謎は1点に尽きる。それは木野杏菜と名乗る女性は本物なのか?

彼女に関わる人物が次から次へと登場し、色々な証言が出てくるが、そのどれもが信憑性があり、そしてそのどれもが疑わしい。
この1人の女性、木野杏菜の正体が本人なのか、それとも木野杏菜の記憶を刷り込まれて作られたコピー、即ち模造人格を植え付けられた別人なのかがはっきりしないのは渦中の人物である木野杏菜が記憶喪失であるからだ。
謎自体はシンプルながらデビュー作同様、とにかくこの北川歩実という作家はこの1つの謎をこねくり回す。

再び現れた木野杏菜、即ち外川杏菜は本人ではなく、木野茜が外川の遺産を横取りするため外川杏菜の記憶を刷り込ませた別人だ。
いや、4年前に殺された杏菜は別人で、彼女こそは交通事故で記憶喪失になった本当の外川杏菜だ。
この2つの選択肢を行ったり来たりする。

しかし我々の記憶というものは何とも薄弱なものだろうか。これは単に物語の上での話ではない。
例えば仕事でも自分のミスを認めようとしたくないがために、やっていないことをやったと記憶をすり替える。
また声の大きい人が語った根拠もない話を事実だと受け止めようとする。

それほど我々の記憶というのは薄くて弱くて脆いものなのだ。
では自我を形成する人格とはいったい何によって立脚しているのだろうか?
自分が自分であることの根拠はそれまで歩んできた人生という記憶ではないか。
しかしその記憶が薄くて弱くて脆いものであるならば、いとも簡単に人の人格は変えられてるのではないか。
これが本書の語りたかったことだろう。

もし貴方が貴方であると訴えても周囲が信じようとしなかったら、貴方は貴方であることを自分自身が信じていられるだろうか?
結局我々の現実というのは自分だけの確信だけで成り立っておらず、それを支持する他者の意見によって補強され、そして確立しているのだ。

どれだけ自分を信じてもそれを他人が受け入れなければ、そして他人が頑なに信じたことを押し付けれれば、そしてそれが多数を占めれば我々一己の存在などすぐにでも上書きされてしまう。
なんともまあ、恐ろしいことを見せつけてくれたものである、北川歩実氏は。

この作品を読んだ後、貴方は確かに貴方自身であると胸を張って証明できるだろうか。
正直私は自信が無くなってきた。


No.1549 7点 ウェルズSF傑作集2 世界最終戦争の夢
ハーバート・ジョージ・ウェルズ
(2022/02/02 00:02登録)
SFの父と称されたウェルズだが、光文社古典文庫がウェルズの肩書にこだわらず、むしろ意外な一面とばかりに彼のユーモア小説家としての側面にスポットライトを当てた作品を編んでいたが、東京創元社のこの創元SF文庫においてもSFに囚われない内容の作品群が集められた。

本書に収められた作品はある意味ジャンル分けができる。
例えばモンスター小説だ。未知なる生物の脅威を描いたホラー小説として人食いアリを扱った「アリの帝国」に人の血を吸う蘭が登場する「めずらしい蘭の花が咲く」、海から上がって来た人肉の味を覚えたタコの化け物の話「膿からの襲撃者」、逃げた女を追っていつの間にか巨大なクモの巣喰う谷に紛れ込む「クモの谷」の4編。

そして人間の悪事の失敗を描いたものとして「森の中の宝」、「ダチョウの売買」の2編。

また奇妙な話として盲人たちのコミュニティに紛れ込んだ健常者の悲劇を描いた「盲人の国」に人格入れ替わりの罠に陥った青年の手記として語られる「故エルヴシャムの物語」、赤むらさきのキノコを食べたことで人生が一変する「赤むらさきのキノコ」3編。

寓話的な話として「『最後のらっぱ』の物語」の1編にあと分類不能な物として「剥製師の手柄話」と表題作の「世界最終戦争の夢」の2編。

一応このように分類できるが、その多種多彩な内容はウェルズ=SFの既成概念を打ち砕くほどヴァラエティに富んでいる。

以前読んだ短編集でも感じたが、ウェルズには独特のユーモアと云うかシュールさがある。既読作である「めずらしい蘭の花が咲く」や「赤むらさきのキノコ」もそうだが、本書でも世界各国で〈最後の審判の日〉が訪れることで神の姿を目撃する「『最後のらっぱ』の物語」ではそれがどうしたといわんばかりの日常がそのまま続く結末のクールさだったり、「クモの谷」の、巨大なクモが次々と襲ってきて、自分の身を犠牲にしてまでも主人を救った部下を顧みない主人に怒りを覚えるもう1人の部下との争いを経てたった1人生き残った主人の最後のセリフの脱力感―女に今度は逃げられないよう自分もクモの巣を張っておこう―。
やはりこの作家、どこかネジが1本外れているように思える。

そんな中、本書のベストは「盲人の国」だ。我々の当たり前が覆される様を見事に描いた作品だ。
目の見えている健常者が通常盲目の方よりも生活に不便を感じず、むしろ助ける方だが、盲人ばかりの国では長く目の見えない生活をしていたがために、むしろ彼らの方が神経が研ぎすまされ、暗闇の中でも気配や物音で相手が何をしているのか、どこにいるのかを察知し、健常者の方が躓いたり、倒れたりと無様になる。
彼らには“見る”という概念がなく、また渓谷の奥深くに長らく住んでいるから、世界はそこにある岩の屋根が全てであり、健常者が見ている世界を寧ろ戯言と断じて信じようとしない。やがて目が見えながらも盲人たちに太刀打ちできない健常者は自分こそが間違っていたと認めるのである。
そして目があるからこそ変なことを云い、人間として不完全だと決めつけられ、1人の盲人の娘と結婚するには目を潰さなければならないと迫られる。
発展途上国に紛れ込んだ先進国の人間が文明後進国の人民を蔑んでいたのが、そこで住まう環境や気候で苦しみ、長らくそんな過酷な環境で住んでいた国民たちに生活の仕方を教わる、そんな優位性の逆転を仄めかした痛烈な風刺小説だ。

次点で「故エルヴシャムの物語」を挙げる。人格入れ替わり、若者の身体を手に入れて永久の命を生きようとする老人といった現代では使い古された設定に最後入れ替わった青年が亡くなることで奇妙な余韻を残すことに成功しているからだ。
しかも私が上手いと思ったのは人格が入れ替わった青年は老人の身体に魂が入り、彼はそれまで全く知らなかった生活を強いられるわけだが、それがゆえに住んでいる場所が判らない、自分の身の回りの世話をする召使たちの名前も知らない、屋敷の中にどこに何があるのか判らない、筆跡は自分のものだから莫大な財産を持っていても小切手も切れないという事実が周囲に痴呆症に罹ってしまったと結論付けさせるのに十分な説得力を与えていることだ。
従って手記を読んだとしてもこれが痴呆老人の妄想の賜物であると判断されてもおかしくないところにこの作品の妙味を感じた。

「ダチョウの売買」もシンプルながら最後のオチは思いもよらなかった。ダチョウの売買という珍しい設定が上手い目くらましになっている。ショートショートのアンソロジー選出に推薦したくなる作品だ。

あとウェルズがSFの大家であることを感じさせるのが表題作で語り手の男が夢に見る未来で空を飛ぶ戦闘機械の件だ。この作品が書かれたのが1901年であり、ライト兄弟による飛行機が誕生したのが1903年となんと2年も前のことである。さらに戦闘機が誕生したのは1915年にフランス空軍が飛行機に固定銃を装備したことがきっかけとなった出来事である。
つまりウェルズは戦闘機はおろか飛行機が生まれる前に空を飛ぶ戦闘機械の存在を予見していたことになる。しかもそれらの形状は槍の穂先のようで後ろにプロペラがついている金属製の機械であると、プロペラをアフターバーナーに置き換えれば現代でもおかしくは感じないデザインである。この想像力の凄さには驚嘆すべきものがある。

やはりウェルズは巨匠である。SF以外の物語も多々書きながらも、まだ見ぬ未来を描かせれば一つも二つも抜きん出た創造力を発揮する。

彼の作品は決して少年少女の読み物ではない。ヴェルヌ同様、大人になってから読むと判る妙味と驚嘆があることが判った。


No.1548 7点 慟哭
貫井徳郎
(2022/01/18 23:30登録)
1993年の鮎川哲也賞の候補になり落選しながらも刊行されることになった貫井徳郎氏デビュー作である本書はその年の『このミス』で12位にランクインするなど好評を以て迎えられた作品だ。
そんな期待値の高い中で読み進めた本書だったが、最後まで読み終わった感想は微妙というのが正直なところだ。それについては後ほど述べよう。

さて本書は北村薫氏をして「書きぶりは練達、世も終えてみれば仰天」と驚嘆させたと当時評判だったが、確かにその内容と筆致はとても新人の作品とは思えないほどどっしりとした重厚な読み応えを備えた作品だ。

本書は幼女連続誘拐殺人事件の捜査を進める警察の話と心に大きく空いた穴を埋めるために新興宗教へとのめり込む30代の男性の話が並行して語られる構成で進む。

まずメインの警視庁捜査一課のキャリア出身の佐伯課長が陣頭指揮を執る捜査の内容は新人とは思えないほどの抑えた筆致で、キャリアとノンキャリアの確執、もしくはキャリア同士の確執、さらには佐伯の微妙な生い立ちと現在の立ち位置など縦割り文化が顕著な警察組織の中で軋轢を上手く溶け込ませ、よくもデビュー前の素人がここまで書けたものだと感嘆した。
それは後者の新興宗教にのめり込む30代の男、松本の話も同様で、新興宗教の内情とそこに所属する人々の描写は実に迫真性に満ちている。この細やかな内容は経験しないと判らないほどリアリティに富んでいる。

そんな実に読み応えある作品なのだが、読後感が微妙だった理由は大きく分けて3つある。

第一に本書の真犯人についてあまり腑に落ちなかったのだ。
そして2番目の理由は最も微妙な読後感を残す、主人公佐伯が捜査していた連続幼女誘拐事件が解決されないということだろう。
この結末をどう捉えるかで評価は大きく分かれるだろう。ミステリとは即ち謎が解け、事件が解決する物語である。しかし貫井氏はなんとデビュー作でそのセオリーを破ったのだ。つまりある意味読者の先入観を裏切った形の斬新なミステリを書いたのだ。
私は恐らくこの警察が捜査していた事件が解決されないと云う結末が鮎川哲也賞を受賞できなかった理由ではないかと推察する。

ただこの構成には説明がなされなかったことが多すぎて、それが十全に納得できない理由にもなっている。
まず佐伯が今回捕まるのは自身の後任の捜査一課長の娘を誘拐しようとしたことだ。彼もまた同じように娘を誘拐され、殺されているのになぜ同じようなことをするのか、それがよく判らない。

そして3番目の理由はこの佐伯という男が全くの見掛け倒しであることだ。
ヴェテラン刑事の部下丘本からは時折見せる鋭い眼光と本質を見抜いた的確な指示から一目置かれていたが、結局捜査は遅々として進まず、次から次へと犠牲者を出し、最後には自分の娘もその犠牲者になってしまう張り子の虎のような無能な指揮官である。
特に妻から家を見張る不審な人物の話を受けても、警察を一個人のために貸し出せないと拒否し、さらには娘が帰ってこないと泣き叫ぶ妻の声に動揺しながらも事件の陣頭指揮を執ろうと自分の娘の捜索に警察官を動員しようとしない、杓子定規なやり方にはその愚かさに思わず罵倒の声を挙げてしまった。
特にフリージャーナリストの愛人篠伊津子との関係を知られてもマスコミに弁解もせず、そのせいで娘が幼稚園でいじめられるようになることに思い至らない身勝手さ、さらにはその愛人に娘を思う気持ちを悟られ、自分が子供ができない身体であることを打ち明けられて別れを切り出されたりと、相手に対する配慮に欠ける傍若無人さばかりが目立つ。
これほど読者の共感を得られない主人公も珍しい。

タイトルの慟哭とは娘を喪った佐伯の心の慟哭を意味する。しかしその慟哭に対して誰が共感できようか、誰が同情できようか。
哭きたければ勝手に哭け。これほどまでに突き放したくなる主人公に出会ったのは初めてだ。
自分が経験した慟哭をなぜ他の夫婦に強いるのか。微妙な読後感の後に訪れたのは一人の身勝手で無能な男に対する大いなる憤りだった。


No.1547 7点 ドイル傑作集Ⅲ 恐怖編
アーサー・コナン・ドイル
(2022/01/18 00:01登録)
最後の三冊目にしてやっと通常の読物として満足できるものが揃い、ほっとした。
「革の漏斗」、「サノクス令夫人」以外はどれも標準点である。特に最後の「ブラジル猫」は友人を地下墓地に巧みに迷い込ませた「新しい地下墓地」のパターンを応用し、ひっくり返させ、更に夫人の振舞いにダブル・ミーニングを持たせてアクセントをつけている。
異形物の「大空の恐怖」、「青の洞窟の怪」は『ロスト・ワールド』の作者である面がよく出ており、物語作家ドイルの面目を保った感がある。
これでドイルの作品は最後になるが、全般的な感想を云えば、世評の高い『バスカービル家の犬』、『緋色の研究』や短編「まだらの紐」、「銀星号事件」などよりもあまり巷間の口に上らない『恐怖の谷』の方が読物としてレベル的にも断然面白かったのが非常に印象に残った。
やはりホームズ譚は世の中に紹介されすぎなのだろう、世評高いものはもはや手垢が付きすぎた感があり、新鮮味に欠ける。
そしてまた『緋色の研究』や『四つの署名』、『恐怖の谷』に挿入される犯人判明後の挿話がすこぶる面白かったのも新たな発見であった。この挿話では文体から既に別人と化しており、本質的にこの作者が何を書きたかったのかをあからさまに示しているようだ。
最後に最も残念だったのが悪訳の多い事。日本語で読みたいのだよ、私は。21世紀でもあるし、改訳するのが潮時でしょう。


No.1546 5点 ドイル傑作集Ⅱ 海洋奇談編
アーサー・コナン・ドイル
(2022/01/15 00:51登録)
近代ミステリの祖としても名高いドイルだが、何故かこのようなホームズ以外のアンソロジーには秀作が少ない。
海洋奇談編と名付けられた本書は、その名の通り海や航海に纏わる話(小噺?)が集められている。ホームズ譚では見られなかった海洋物を6編とは云え、物していたとは不思議な感じがし、昔は1つのジャンルを成していたのだろうと推測する。
さて個々の作品についての詳細については措いておくとして、全般的には小粒な印象。『恐怖の谷』、『緋色の研究』などの長編にエピソードとして添えられる冒険譚のようなものは『ジェ・ハバカク・ジェフスンの遺書』ぐらいなもので、最後の『あの四角い小箱』なぞはしょうもないオチの小噺でこれが棹尾を飾るとは何とも情けない。文章も現在ではかなり読みにくく、日本語の体を成してないとも思える。我慢を強いられる読書だった。


No.1545 5点 ドイル傑作集1 ミステリー編
アーサー・コナン・ドイル
(2022/01/13 23:58登録)
ホームズの出てこないドイルのミステリーという事でかなり期待していた。というのも『緋色の研究』、『恐怖の谷』で私が大いに愉しんだのはメインの謎解き部分よりも犯行の背景となった1部丸々割いて語られるエピソードに他ならない。
という意味でも今回は期待していたのだが、なんとまあ、よくもこれだけの駄作を集めて出版しようとしたものだと、商魂逞しいというか、阿漕な商売するなぁとまでもいうか、下らない作品の多い事。
「甲虫採集家」などはまだしも「漆器の箱」、「悪夢の部屋」などは三流コントのネタに過ぎず、特に前者は物語のプロットにさえなっていない。
惜しいのは「ユダヤの胸牌」。最後にもう一つ捻りがあれば現代にも通ずる物になっていた筈だ。

率直に云えば、ここまで本書に対する評価はかなり低かったのだが、最後の「五十年後」で点数を増やした。ネタはよくあるものだが私自身がこういう“悠久の時”ネタに非常に弱いのだ。展開や結末が解ってても胸にグッと来る。
だから本音を云えば、本書はこれ1つだけあれば十分なのだ。


No.1544 7点 ドランのキャデラック
スティーヴン・キング
(2021/12/21 23:50登録)
キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目。しかし1冊の短編集が4冊に分かれて刊行されるのは出版社の儲け主義だと思われるが、キングの場合、逆にこれくらいの分量の方が却っていいから皮肉だ。

その内容は妻を殺された男の復讐譚、ある発明をした弟を殺した小説家の告白文、厳格な教師の哀しき末路、吸血鬼の連続殺人事件を追う記者が出くわした真の恐怖、ギャンブルで抱えた多額の借金を返済するために子供の誘拐を請け負った男が辿った悲惨な結末、人を食うと噂される屋敷の歴史、ゼンマイ仕掛けの歩く歯の玩具を貰い受けた男がカージャックに遭う話とこの1巻目だけで実にヴァラエティに富んでいる。

そんな中、収録作中3作が怪物を扱った作品だ。この頃キングは45歳。この年になるとサイコパスなど人間の怖さを扱う作品が多くなりがちで、なかなか怪物譚などは書かなくなると思うのだが、キングは本当にモンスターが好きらしい。

またキング作品のおなじみのモチーフであるサイキック・バッテリーとしての家の物語や“意志ある機械-正確には今回は器械だが―”の話もあり、初心を忘れないキングの創作意欲が垣間見れる。

しかしそれらおなじみの、いわばパターン化した作品群であるが、成熟味を増しているのには感心した。

例えば怪物譚で云えば「幼子よ、われに来たれ」ではいわば厳格な教師に従わない生徒に直面して精神の異常を覚える話か本当に生徒は怪物だったのかと不穏な余韻を残して幕を閉じれば、「ナイト・フライヤー」の鏡に見えない吸血鬼が小便を、しかも血の小便をするシーンは戦慄を覚える。

「丘の上の屋敷」ではキャッスルロックの数少ない年老いた住民たちの群像劇と彼らの会話が延々と続く中で、彼らの話題の中心となっている丘の上の屋敷を主のいない今誰が増築しているのかと語ることでもはや家自体が自ら増築していることを仄めかされる―この作品は2回読んだ方がいい。1回めではキングの饒舌ぶりも相まってとりとめのなさが先に立ち、作品の意図を掴むのが難しい―。

そして最後の「チャタリー・ティース」ではゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃが新しい主を待ち受けていることが判るのだが、なぜそのおもちゃが彼を選んだのかは不明だ。

そう、作家生活19年にしてキングの描く恐怖はさらに磨きがかかっているのだ。しかもそれらが映像的でもあり、また鳥肌が立つような妙な不可解さを感じさせる。

西洋人の恐怖の考え方はその正体の怖さを語るのに対し、日本人は得体の知らなさそのものの恐怖を語る。つまり恐怖の正体が判らないからこそ怖いというのが日本式恐怖なのだが、本書のキング作品もどちらかと云えば後者の日本式の恐怖を感じさせる。

そんな円熟味を感じさせる作品集のまだ4分冊化されたうちの1冊目なのだが、早くもベストが出てしまった。それは「争いが終わるとき」だ。
この作品は最初何を急いで書き残そうとしているのか判らないまま、物語は進む。つまり物語自体が謎であり、メンサのメンバーになっている両親から生まれた兄弟の生い立ちが語られ、どこに物語が向かっているのか判らない暗中模索状態で読み進めるとやがて強烈なオチが待ち受けていたという構成の妙が光る。そしてそのオチが見事に手記の形態で書かれていたことにも繋がっており、久々唸らされた作品だ。

短編が売れない昨今の出版事情の中、敢えて短編集を出すのは彼には大小さまざまな物語を書かずにはいられないからだ。
そしてそれは今なお続いており、つい先日も『わるい夢たちのバザール』という短編集が分冊で訳出されたばかりである。

ちなみに冒頭にも述べたが本書は“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”、即ち“悪夢と夢のような情景たち”と題された短編集の一部である。つまり本書刊行後、28年を経てもなおキングの悪夢は続いているのだ。
それではその悪夢を引き続き共有しようではないか。


No.1543 3点 鎧なき騎士
ジェームズ・ヒルトン
(2021/12/03 23:36登録)
牧師の息子として生まれたエインズリー・ジャーグウィン・フォザギル、通称“A・J・”という男の数奇な運命を通じて日露戦争からロシア革命の頃のロシア情勢を語った作品だ。

このフォザギルという男。特段何か特技や特徴があるわけでもない、ごくごく平凡な男である。しかしなぜか彼の周りには人が集まり、そしてそのたびに彼は名を変え、身分を変え、そして国籍さえも変えて窮地を脱するのだ。

ところで人はいつ自分の使命を知るのだろう?いや自分の生きる使命を知る人間がどれだけいるのだろう?
自分がここに生きる意味、誰かのために生きている、もしくは生かされていると悟る人はそれほどいるとは思えない。
このエインズリー・ジャーグウィン・フォザギルという男は最初は我々のようなごく普通の人物に過ぎなかった。
これが次第に人間味を帯びてくる。彼がそれまでただ成り行きに身を任せ、どうしてか判らないがとんとん拍子に物事がうまく運ぶ、流されキャラだったのがアドラクシン伯爵夫人との邂逅で変わっていく。
最初彼は彼女を赤軍に引き渡すために彼女の旅程の助けをしているだけだったが、次第に彼女の魅力にほだされ、そして彼女と共に生き延びたいとまで思うようになる。そこから彼は主体性を以て動き出す。彼の生きざまにアドラクシン伯爵夫人と云う軸ができるのだ。

奥ゆかしくも運命に流されながら、時に抗い、生きてきたエインズリー・ジャーグウィン・フォザギルという男の波乱万丈の人生物語だ。
彼はジャーナリストとして夢を抱いてロシアに飛ぶが、求められた記事を書かなかったことで帰国を命じられる。その後はただ出遭う人の申し出に乗って色んな職に就き、また時には周囲の勘違いから政府の役人になったという偶然の連続で生き延びた男だった。そう、彼は自ら選んだ道では上手く行かず、周囲の要請や提案に従ったことが彼を生かした。

何とも奇妙な男である。当時のロシア革命真っただ中の、赤軍と白軍、つまり社会主義派と反革命派がそれぞれの街で拮抗する特異な情勢の中でその場その場を潜り抜けるには流れに身を任せるのが唯一の生存手段だったのかもしれない。

自分の意志を貫こうとすれば叶わず、周囲に流されることで自分が生かされた男フォザギル。巨万の富を得ても結局彼には愛すべき者は得られなかった。なんと虚しい男であることか。
題名の鎧なき騎士とは彼のことを指すのだろうが、個人的にはいささかピンと来ない。

確かに彼は無防備に戦い、守るべき者を守っていったが、最後はいずれも叶わなかったではないか。寧ろ彼は自分の意志を鎧で隠した男であった。彼が鎧を脱いだ時、すなわち彼の本心が出た時こそ彼の望みが潰えた時であったのだ。
彼は妻を娶らずに死んだ。それこそは騎士の生き様であろう。虚しき騎士の物語、それがこの物語に相応しいと思うがどうだろうか。


No.1542 4点 スカイ・イクリプス
森博嗣
(2021/12/01 23:36登録)
完結した『スカイ・クロラ』シリーズでは語られなかったエピソードを描いた短編集。

その中にはシリーズの内容を補完する物もあれば、他愛のない日常を切り取ったスナップ写真のような作品もある。

そう各編で語られるのは起承転結のない日常風景だ。いわば日記のようなものだ。
しかし登場人物たちの日常を描くことでシリーズには書かれなかった部分が徐々に明らかになってくる。そしてそれまで曖昧なままで閉じられていたシリーズの謎がほとんど解かれることになる、重要な短編集ではある。

一方で飛行機乗りしか判らないようなリアルな描写もある。
例えば空を飛ぶとき、重力から解放されている彼らは少し酩酊状態にある。従って地上に降りて重力を感じるようになると現実感が起こり、そしてもし仲間が亡くなっていたりすると重い失望感に襲われていく。

またパイロットは地上ではケンカしないと述べる者もいるが、これは嘘だ。血気盛んなパイロットは映画でも殴り合いのケンカを繰り広げているではないか。
永遠の若さと命を持つキルドレだからこその心情だろう。彼はその永遠の子供であることに絶望しており、唯一死ねる場所、空での交戦を楽しんでいる。
それは彼ら彼女らにとってケンカではなく、ゲームであり、ダンスなのだ。そう命の取り合いや争いをしている感覚はない。ただ単純に戯れているだけだ。そしてその結果命を落とそうが悔いはない。いや寧ろ死ねるからこそ空を飛ぶことを愛するのだ。

従って空では自分たちが行っている空中戦が命の取り合いだと彼らは思っていない。しかし地上でリアルに人を撃ち殺すと自分が殺人を犯したと暗鬱になる。
人を殺すという意味では同じなのに空と地上とでは全く異なる。それは空では戦闘機という機体を介しての殺人であるのに対し、地上での殺人は生命そのものと相対するからだろう。これはキルドレだけでなく、飛行機乗り全てに共通する感覚なのかもしれない。

あと興味深かったのが整備士ササクラの心情が垣間見れたことだ。パイロットから絶大な信頼を受ける腕を持った整備士のササクラもまた影の主役と云える人物だろう。

彼だけがエース・パイロットのクサナギの散香を整備することができることを知らされる。またそれは自分が整備した機体が戻ってくる確率が高いことを意味する。丹念に整備した戦闘機が必ずしも無事に生還するかは解らない。どれだけ手を加えても戻ってこなかったら無になるからこそ帰還の確率が高いエース・パイロットの機体の整備や改造は実に遣り甲斐がある仕事であることが解る。

しかしPR撮影に臨むクサナギに眼帯を付けた方が宣伝効果が高いだろうと思ったササクラはエヴァンゲリオンの綾波レイのファンなのだろうか?

読み続けるにつれて感じたのは森氏が発見したお話ではないだろうかということだ。

シリーズは完結したが彼の中でクサナギ・スイト、ササクラ、ティーチャ、カンナミ・ユーヒチらは生きており、彼らの語られなかった物語を発見したのだ。そしてそれをここに綴ったのではないだろうか。

正直、中には書かれなくてもよかった話もある。

ただ後半はシリーズの後日譚だ。
フーコのその後。
成長したクサナギ・スイトの異父妹ミズキのその後。
そしてクサナギのその後の物語。

率直に云えば本編を補完するにはこの最後の3編だけがあればいいのではないか。いや「ドール・グローリィ」と「スカイ・アッシュ」2編だけで本編の登場人物たちの謎は氷解する。

森氏が代表作だと意識している『スカイ・クロラ』シリーズだと述べていることは既に知られている。つまりシリーズを補完する2編以外の、それぞれの登場人物の生活の点描や本編で一行、一文だけ書かれた何気ないエピソードについて膨らませて書いたのは作者自身が抱いたこの世界から離れがたい名残惜しさだからではないだろうか。

最後の短編「スカイ・アッシュ」で再会したクサナギとフーコがお互い呟く。夢みたいだ、夢のようだという言葉はこのシリーズそのものについて作者が抱いている感慨ではないか。

飛行機好きの趣味を思う存分、自分の美意識の中で書き、そして最後まで書けたこと自体に対する思いがまさに「夢のよう」であること。

そして森氏の多くのシリーズ作品では他作品へのリンクが見られるがこの『スカイ・クロラ』シリーズは永遠の子供キルドレという設定ゆえか、全く独立したシリーズである。つまりこのシリーズの物語そのものが作者が見た夢そのものであったのではないか。

独特の浮遊感と力の抜けた、敢えて足さない文章で浮世離れした感のある登場人物たちで織り成されたこのシリーズそのものが常に夢見心地だったように思う。

本書の表紙の色は真っ黒だ。それは星一つない夜空を示しているかのようだ。夜の訪れは一日の終わりを指す。夢のようなシリーズだっただけにその終わりは夜空が相応しいだろう。

読者も作者もそして登場人物たちも同じ空を飛び、同じ夢を見たようなシリーズだった。


No.1541 7点 シャーロック・ホームズの叡智
アーサー・コナン・ドイル
(2021/11/17 22:54登録)
巷間に流布しているホームズ譚の短編集は『~冒険』、『~帰還』、『~思い出』、『~最後の挨拶』、『~事件簿』の5冊が通例だが、新潮文庫版においては各短編から1、2編ほど欠落しており、それらを集めて本書を編んでいる。従って衰えの見え始めた後期の短編集よりも実は内容的には充実しており、ドイル面目躍如という印象をもってホームズ譚を終える事になろうとは計算の上だったか定かではない。

本作においては冒頭の「技師の親指」など結構読ませる短編が揃っており、個人的には「スリー・クォーターの失踪」がお気に入り。
最後の「隠居絵具屋」はチャンドラー、ロスマク系統の人捜しの様相を呈した一風変わった発端から始まるが最後においてはポーの有名作品を思わせる仕上がりを見せるあたり、なかなかである。

しかしホームズ譚を全編通じて読んだ感想はやはり小中学校で読むべき作品群であるとの認識は強く、少年の頃に抱いた輝かしい物語のきらめきの封印を無理に抉じ開けてしまった感があり、いささか寂しい思いがする。色褪せぬ名作でもやはり読む時期というものを選ぶのだ。


No.1540 8点 その裁きは死
アンソニー・ホロヴィッツ
(2021/11/03 00:33登録)
今まで作家自身が作品の中に登場して探偵役もしくは相棒役を務めるミステリはたくさんあったが、ホロヴィッツのこのホーソーンシリーズはホロヴィッツの実際の仕事や作品が登場するのがミソで現実と隣り合わせ感が強いのが特徴だ。
例えば本書では彼が脚本を務める『刑事フォイル』の撮影現場に訪れるのが物語の発端だが、その内容は極めてリアルで1946年を舞台にしたこのドラマのロケハンから当時の風景を再現するための道具立てや舞台裏が事細かに描かれ、映画ファンやドラマファンの興味をくすぐる。そんな製作者たちの苦心と迫りくる撮影許可時間のリミットの最中にホーソーンが傍若無人ぶりを発揮して現代のタクシーでガンガンにポップスを鳴り響かせながら登場する辺りは、本当に起こったことではないかと錯覚させられる。特に最後に附せられた作者による謝辞を読むに至っては作中登場人物が実在しているようにしか思えない。

特に私が面白いと感じたのはこのホーソーンシリーズをホロヴィッツは自身のホームズシリーズにしようと思っているらしく、その場合、謎に包まれたホーソーンの過去や私生活を徐々に明らかにするには固定した警察側の担当、ホームズ譚におけるレストレード警部やエラリイ・クイーンに対するヴェリー警部と定番の警察官がいたため、彼としては前回登場したメドウズ警部を望んでいたのだが、現実の事件捜査ではそんなことは起きないことを吐露している点だ。この辺がリアルと創作の歪みを感じさせ、いわゆる普通のシリーズ作品にありがちな固定メンバーによる捜査チームの確立を避けているところにホロヴィッツのオリジナリティを感じる。

他にもワトソン役であるホロヴィッツ自身の扱いが非常に悪く書かれており、警察の捜査に一作家が立ち会うことについて警察が面白く思っていないこと、また自分の捜査の実録本の執筆を頼んだホーソーン自身でさえ、彼の立場を擁護しようとしないこともあり、本書におけるホロヴィッツは正直少年スパイシリーズをヒットさせたベストセラー作家でありながらも至極虐げられているのだ。特に面白いのは彼らが行く先々でホロヴィッツの名前を聞くなり、彼の代表的シリーズ、アレックス・ライダーの名前を誰もがまともに云い当てることができないことだ。これがホロヴィッツとしてのジレンマを表してもいる。
いかにベストセラーを生み出しても所詮ジュヴィナイル作家の地位はさほど高くはならない現実を思い知らされる。それこそが彼がホームズの新たな正典である『絹の家』を著した動機でもあることは1作目の『メインテーマは殺人』でも書かれている。ちなみに今回の事件はホロヴィッツが次のホームズ物の続編『モリアーティ』の構想を練っている時期に起こっている。

この扱いのひどさがワトソン役であるホロヴィッツにホーソーンやグランショー警部を出し抜いて事件を解決してみせるという意欲の原動力となっている。
つまりこのワトソン、実に野心的なのだ。
1作目では彼の不用意な質問が自身を危険な目に遭わせたにも関わらず、彼は止めない。しかしそれがまた警察の、ホーソーンの不興を買ってさらに関係を悪化させる。作家の好奇心がいかに疎んじられているかを如実に示しているかのようだ。

人間関係の網が複雑に絡み、誰もが何か後ろ暗い秘密を持っていることが判明していく。いやはや本当ホロヴィッツのミステリはいつも複雑で緻密なプロットをしているものだと思わされた。したがって私もなかなかな犯人が絞れないまま、読み続けることになった。

私がこのシリーズを大手を広げて歓迎できないのはこのホーソーンの性格の悪さとマイペースすぎるところにある。彼は常に自分のためだけに周囲を利用するのだ。
冒頭の登場シーンも自分の仕事のためならばドラマの撮影など邪魔するのはお構いなしだし、本書では食事代やタクシー代は全てホロヴィッツに負担させる。まあ、作家である彼はホーソーンの事件を作品化することで全て取材費として経費に落とせるが、それを当たり前のように振舞うのがどうにも好きになれない。
通常ならばアクの強い登場人物、特に主役は物語が進むにつれて好感度を増していくが、このダニエル・ホーソーンは逆にどんどん嫌な人物になっていく。行く先々で作家と云う微妙な立場で尋問や事件現場に立ち会うホロヴィッツを周囲の誹謗中傷から擁護もせず、ホロヴィッツが口出しをすると自分から依頼したにもかかわらず、この仕事は間違いだった、もう止めた方がいいとまで云ったりする。
また率直な物の云い方、質問の仕方は相対する人物を不快にさせ、協力的だった相手が次第に顔から笑みを消し、退出するよう促すが、ホーソーンは決してそれを聞き入れない。自分のその時の気分で周囲に当たり、そして自分のペースで物事を運んでは周囲を困らせる、実に独裁的な男である。

明かされる真相のうち、本書が刊行された年はコロナ禍の影響で明日もまたいつものように会うであろうと思われた人々が突然自殺する事件が続発していて、特に女性の自殺が増えているようだが、妙にそれがリンクしていたのが心に残った。

しかし今回も手掛かりはきちんと目の前に出されているがあまりに自然に溶け込んで全く解らなかった。ホロヴィッツのミステリの書き方の上手さをまたもや感じてしまった。
そして本書ではシャーロック・ホームズの影響を顕著に、いや明らさまに出している。
1作目においてもホロヴィッツが自分なりのホームズシリーズとしてこのホーソーンシリーズを書いている節が見られたが、本書において作者自身が明らさまにそれを提示していることからこれはもう宣言したと思っていいだろう。

しかしこのホーソーンと云う男、ホームズほどには好きになれそうにない。今のところは。このダニエル・ホーソーンをどれだけ好きになるかが今後のシリーズに対する私の評価に繋がってくるだろう。


No.1539 7点 タイムマシン
ハーバート・ジョージ・ウェルズ
(2021/10/31 00:40登録)
創元SF文庫版で読了。
H・G・ウェルズの短編集である本書は上に書いたように今なお『ドラえもん』などで登場するタイム・マシンなどに代表される今では一般的になったSFのコンテンツの原点が溢れている。
しかしタイムマシンだけでなく、藤子不二雄氏は間違いなくウェルズ作品を読んでいたと本書を読んで確信した。それほど本書にはドラえもんに通ずる源泉が流れている。

まず何といってもタイム・マシンだ。ドラえもんの話は野比家の貧困の原因となったのび太のだらしなさを改善するために22世紀の未来からやってきたという設定だ。つまりこのタイム・マシンがなければそもそも国民的漫画となったドラえもんの話は始まられないのである。
そして私が藤子不二雄氏が確実にウェルズのこの作品を読んでいると確信したのは、本書の主人公タイム・トラヴェラーの発明したタイム・マシンがレバーを倒す方向で未来と過去に行けるという設定を読んだ時だ。これはドラえもんのタイムマシンと全く同じ操作方法だ。

また「塀についたドア」ではもしかして藤子不二雄氏はこの作品からどこでもドアを想像したのではないだろうか?
ウェルズが想像した楽園へのドアがやがて絶望に明け暮れる男を死出の旅へと発つドアにしたのに反し、藤子不二雄氏は誰もが欲しがるどこでもドアを着想したとしたら、優しさ以外何物でもない。

「奇跡を起こせる男」は色々な物を次々と出せたり、変化させたりすることからまさにふしぎ道具を次から次へと出すドラえもんを想起させる。しかし最後の、取り返しのつかない状況全てを無に帰する読後感から『ジョジョの奇妙な冒険』の第6部ストーンオーシャンの結末を思い浮かべてしまった。

絶滅種の怪鳥を孵化することに成功する「イーピヨルニスの島」は『のび太の恐竜』を想起させるし、「水晶の卵」で水晶から垣間見える有翼人の世界も劇場版ドラえもんの『のび太と翼の勇者たち』の元ネタではないかと思われる。ただしウェルズの描く有翼人はグロテスク。翼は魚の肌のような艶があり、放射状に出た曲線状の骨で直線的に折り畳むことができる。さらに彼らの口の下には物を掴む触手のようなものがついているのだ。つまり通常有翼人と云えば鳥をモチーフにしているのだが、ウェルズはどちらかと云えば昆虫ぽい。

このように並べただけでもいかにウェルズ作品と藤子不二雄作品、とりわけドラえもんとの親和性が高いことが云えるだろう。

ただし両者の間に決定的な違いがあるのは藤子不二雄氏の作品は夢を描いているのに対し、ウェルズは社会を斜めに見て風刺しているところだ。

「塀についたドア」は語り手だけに見えるドアで彼は小学校の頃にドアを見つけ、後で友人たちに見せようとしたが、消え失せてしまったために嘘つき呼ばわりされてしまう。幼き頃にそのドアを開け、楽園に行った彼は再びその夢のような世界に行く欲求に駆られるが、その後も人生の局面でドアが現れるたびに彼は現実世界で直面すべき出来事を優先し、次第にドアを見かけても何とも思わなくなってくる。しかし彼が再びドアに関心を向けるのは何もすることがない時だ。そして彼は最後、求めていたドアと思い、誤って工事現場の万能塀に設えたドアを求めていたドアと勘違いして工事現場に立ち入り、深い縦穴に落ち込んで亡くなってしまう。彼のどこでもドアは即ちあの世の楽園へのドアだったのだ。彼が幼き頃に開けた時、まだ来るのは早いと追い返されたのだ。
人生の節目で見向きもしなかったのは今そこにやるべきことがあったからだ。もしやるべきことがなくなった時、人は絶望して死に向かう。これは人生に見捨てられた人物の自殺願望を描いた作品と読み取れる。そう藤子不二雄氏がどこにでも行ける夢のようなドアを描いたのに対し、ウェルズが描いたのは死への扉だった。

「奇跡をおこせる男」は奇跡を起こせる男が望んだのはそんな能力など必要のない、普通の暮らしだ。そして面白いことに我々人類は一度1896年11月10日に滅亡したことになっており、今は奇跡を起こした男によって再生した人生であると、とんでもない設定をしてくる。
これはまさにウェルズ心の叫びか。高度経済成長を迎えたウェルズの胸に去来したのはどんな無なのか。彼は一度全てをリセットしたかったからこそ、実害のないこのような話を書いたのだろうか。

「ダイヤモンド製造家」と「タイム・マシン」の両方にはある共通点がある。これはまた後ほど述べることにしよう。

「イーピヨルニスの島」はウェルズの皮肉が存分に詰まった作品だ。
絶滅した鳥イーピヨルニスの卵を孵化させることに成功した私はこの雛を育てるが、ダチョウにも似たこの巨大な鳥はやがて主人を侮り、攻撃し始める。閉じられた狭い無人島で逆転するペットと飼い主の主従関係を痛烈に皮肉っている。『ロビンソン・クルーソー』が無人島生活で相棒のフライデーと楽しい生活を繰り広げたのに対し、この作品では日々狭い無人島での怪鳥との生きるか死ぬかの戦いが描かれている。つまりウェルズはあくまで現実主義者なのだ。

「水晶の卵」も火星人の生活を垣間見える水晶玉を持ち、誰にも売り渡そうとしなかった古物商の主人はやがて火星人との対話を試みるが、突然その水晶玉を握ったまま絶命しているのが発見される。しかし火星人の生活が見れる唯一の水晶の玉を家族は大金で売れることを知っていたために即売り飛ばしてしまう。まさに物の価値とは解る者にとっては宝物になるが、知らないものにとっては単に売り物にしかならないという痛烈な皮肉に満ちている。

そして最後表題作の「タイム・マシン」は特に皮肉に満ちている。
まず主人公が行き着く未来では人類は地上で豊かな生活を送るエロイと深い穴の奥の地底で暮らすモーロック2種類に分かれている。
豊かな生活を送る地上人エロイは地底人モーロックを支配する階級かと思えばさほどではなく、むしろ逆に地底人が地上人を自分たちの食糧にするために飼っている家畜だと判明する。この富裕層があくまでも支配層ではなく、むしろ被捕食者である逆転の発想はまたもや痛烈な皮肉であるとともに何ともグロテスクな話だ。
また主人公が命からがら未来から戻って来て話した話をギャラリーたちは信じようとしない。これは「ダイヤモンド製造家」でもそうだが、我々の理想とする機械が完成してもそれが突拍子もない代物で聴者の想像力のはるか上に行く場合は誰も信じようとしないという現実の厳しさが語られる。
そして主人公が究極的な先の未来ではもはや人類は死に絶え、カニの化け物のような生物が襲い掛かってくる荒廃した地だけが続く。つまり明るい未来などありはしないと暗に痛烈に見せつける。

このようにウェルズは決して彼のアイデアで生み出した夢のような設定を夢として終わらず、常に斜めに物事を見たシニカルな考えでもって眺め、そして悲劇として幕を閉じるのだ。
タイム・マシンでは未来から持ち帰った花が本物であるにも関わらず、全面否定され、彼は突如タイム・マシンに乗って旅立つ。その後彼は二度と戻ってこない。自由自在にお好みの時間を航行するマシンで戻ってこないということは行った先の未来でタイム・マシンが壊れ、帰れなくなったためか、もしくは行った先の時代で彼が亡くなってしまったかだ。

つまりウェルズこそは自身の奔放な想像力で生み出したアイデアが実現しないことを願った作家であろう。なんとシニカルな作家だ。

19世紀末、このような未来の機械や不思議の世界を描くことはどんなのだったろうか。もしかしてウェルズは自分が創作したこれらの道具が将来実現すると思ったのではないか。日進月歩の発展を遂げる産業の進歩を見てウェルズはこのままだと自分が描いた機械の数々はいずれ必ず登場するだろう。だからこそ夢ばかりでなく、厳しい現実を書いておく必要があると断固たる決意で臨んだのではないだろうか。

今回はウェルズの世間に対する皮肉が存分に混じっており、なんとも苦い後味だ。
もし藤子不二雄氏がドラえもんを著さなかったら、つまりウェルズ作品をモチーフにした人気作品が発表されなかったら、本書は今ではすでに絶版になり、人々の記憶からも忘れ去られていったのではないか。


No.1538 7点 トラベル・ミステリー聖地巡礼
評論・エッセイ
(2021/10/23 00:20登録)
聖地巡礼はその作品を愛する者ならば一度はやってみたいことだ。本書は「小説推理」誌上で連載された、ミステリ評論家の佳多山大地氏が趣味の鉄好きも兼ねて数あるトラベル・ミステリーの事件現場を訪ね、検証も行ったエッセイである。

さて本書に収録されている佳多山氏の探訪地は「ミステリマガジン」誌上のエッセイも併せて全部で24か所。
岡山県、石川県、鳥取県、福岡県、愛知県、広島県、兵庫県、静岡県、北海道、秋田県、新潟県、神奈川県、島根県、和歌山県、福島県、滋賀県、宮崎県、山口県、長野県と全国津々浦々。

今回俎上に上げられた作品の中で私が読んでいたのは島田荘司氏の『出雲伝説7/8の殺人』と有栖川有栖氏の『マジックミラー』、そして江戸川乱歩氏の「押絵と旅する男」の3作のみ。その他の作家は蔵書にもなく、私がいかにトラベル・ミステリーを読まないかが判ろうものだ。

彼が本当のテツであることがよく判った。私が特に面白く感じたのは雑誌の連載企画であるにも関わらず、遠出をするにも鈍行を敢えて選び、また飛行機も常にLCCを利用していることだ。佳多山氏の最寄り駅は大阪のJR吹田駅だが、そこを起点に方々へ赴くのだ。
敢えて新幹線や特急を選ばない生粋の乗り鉄だなぁと最初は思っていたが―なんせ大阪から山口に行くのに鈍行を乗り継いで行くのである―、東京での所用を利用しての愛知県、神奈川県入りや青春18きっぷの利用や鳥取では「縁結びパーフェクトチケット」なるとても恥ずかしい割引券を購入して取材に行くのを見て、よほど取材費の出ない連載だったのだなと腑に落ちるやら、同情するやら―まあ、中には東京駅から寝台特急「サンライズ出雲」を利用して島根まで行く、贅沢な取材旅行もあるにはあるが―。

いや真性テツである佳多山氏にとってこの企画こそが彼の趣味と実益を兼ねたものであるから苦でもないのだろう。私が時々長距離を敢えて高速を使わず、下道を行くように。

また行く先々で名物を食べる描写もあり、存分に楽しんでいるのが判る。自分が住んでいる兵庫県の西明石駅の「ひっぱりだこ飯」は知らなかったな。

そう、このエッセイでは私自身訪れたことのある地やゆかりの地も取り上げられたことも面白く読めた要因の1つだ。
故郷北九州市の門司港駅を訪れた筆者が激賞する件や平尾台への道中では実家最寄りの駅城野駅を訪れて日田彦山線に乗り換える件などは学生時代を思い出させる。
また旅好きの私にとっても興味を覚えるエピソードもあり、例えば和歌山の白浜駅では駅員がアロハシャツを着て迎えるそうだ。

また興味深かったのが小説の舞台となる駅が決してハブ駅のような大きな駅ではないことだ。何の変哲もない場末の駅の多いこと。それはある意味時刻表を睨むことでトリックを思い付いた、いわば机上の殺人現場であることをも感じさせる。

各編を読んで思うのは実際に作品の舞台を訪れて見えることは確実にあるということだ。舞台となった場所の空気に触れ、匂いと人間に触れ、写真のフレームの外の風景を360°眺めて地形を知り、その土地の風土や風習や文化に触れることで作品の行間に隠された作者の思い、作者が実際にその土地を訪れて感じたことが見えてきて、筆者の佳多山氏が感じ取っていることが書かれている。特に2回に亘って取り上げられた笹沢佐保氏の『空白の起点』は現地を訪れるが作品との違和感を拭えず、最後の段になって関東大震災で失われた切り替え路線の存在に気付く。
作者と同一の場所を感じるシンクロニシティこそが聖地巡礼の醍醐味であることを教えてくれるのだ。

さらには時代の痕跡を見出すことで小説が書かれた時代の匂いを感じ取り、思いを馳せる。
特に私が感じ入ったのは鮎川哲也氏の『死のある風景』の舞台、石川県を佳多山氏が訪れた際にアメリカ駐留軍の試射城跡を訪れた際に作品の裏側に潜む、西洋文化に殺された女性の悲劇を読み取ったところだ。この跡地を見て戦後に訪れた西洋の「美」の新基準、いわゆるバストの豊かさを賛美される新たな価値観に振り回され、ライバルの女性への嫉妬心が芽生えたこと、さらに犯人のアリバイがアメリカ兵士が配ったチューイングガムの噛みカス1つで脆くも崩れ去ることをリンクさせた件はまさに場所と時代がつながった瞬間を目撃した思いがした。

そしてこの日本の正確な鉄道の運行が生んだ日本オリジナルのトラベル・ミステリーもまた時代の流れに逆らえなかったことを思わされる件がある。それは有栖川氏の『マジックミラー』の回で新本格の雄である作者が王道の時刻表トリックと別のアリバイ崩しを盛り込んでいることから時代の交代劇をこの1作で行っていると述べているところだ。

しかし今またテツブームが起きている。それはつまり時代が鉄道ミステリをまた求めているということなのだ。ミステリは時代を映す鏡である。したがって再びトラベル・ミステリーが復興するに違いない。それは最新鋭の鉄道や個性ある観光列車などヴァラエティに富んだ、時刻表一辺倒ではなく個性豊かな「新トラベル・ミステリー」であることを望みたい。
時刻表を目を皿のように眺めて時間の穴を見つけるトラベル・ミステリーもそれが好きな読者には溜まらないだろうが、私はあいにくそんなミステリは願い下げだ。旅愁をそそるその土地の魅力と文化、そして時代をも包含したトラベル・ミステリーを期待したい。土地と時間を行き来するトラベル・ミステリーだからこその私からの提言だ。
その時は私も佳多山氏のように文庫本片手にその作品が書かれた土地を訪れて空気と料理に触れたいものだ。それが私の老後の楽しみとなるかもしれない。


No.1537 7点 ドロレス・クレイボーン
スティーヴン・キング
(2021/10/21 23:35登録)
本書は前作の『ジェラルドのゲーム』と同じく皆既日食の時に起きた事件の話だ。アメリカの東西で皆既日食の時に起きた事件を語る趣向のこの2作はしかし厳密な意味ではあまり関連性がない。

本書は章立てもなく、ひたすらドロレス・クレイボーンという女性の一人語りで展開する。
通常こういう一人称叙述の一人語りは短編もしくは中編でやるべき趣向だが、なんとキングはこれを340ページ強の長編でやり遂げたのだ。まあ、もともとキングは冗長と云えるほどに語り口は長いので、キングなら実行してもおかしくはないのだが。

さて全くの章立てなしで最初から最後まで通して語られる物語はドロレス・クレイボーンという女性が犯した殺人の告白であり、彼女の半生記でもあり、またセント・ジョージ家の家族史でもあるのだ。そしてふてぶてしい老女の一人語りはなぜ彼女がふてぶてしくなったのかが次第に判ってくる。彼女は理不尽な日々を耐えるうちにふてぶてしさの鎧を身につけていったことに。

前半はドロレスが長年家政婦として仕えていたヴェラ・ドノヴァンとのやり取りが語られる。
このヴェラの世話の一部始終を読んで立ち上るのは介護の問題だ。ドロレスが長年やっていたのは裕福な老女の世話でそこには介護の苦しみが描かれている。そういう意味では介護問題が社会的問題になっている今こそ読まれるべき作品であろう。
しかしドロレスは見事それをやり遂げる。そして22歳で家政婦になってからこれまでずっと彼女に仕えるのだ。そこには単なる主従の関係を越えた、お互いの秘密を共有した鉄の絆めいたもので結ばれるのだ。

さてその絆とは一体何なのか?
それが後半のいわば物語の核心で語られる、当時容疑を掛けられても起訴に至らなかった夫ジョー・セント・ジョージ殺しの一部始終である。
このジョー・セント・ジョージと云う夫、キング作品に登場する家族の例にもれず、問題のある亭主である。

ドロレスには内なる目というイメージを持っている。それは物事を客観的に見つめる、殺意という名の目だ。彼女は夫ジョーの度重なるろくでなしぶりに殺意を募らせ、その目が次第に大きくなっていくが、今一歩踏み切れないでいる。しかしその葛藤をヴェラは気付き、促されるままにドロレスは夫ジョーの行った家族への仕打ちと彼に対する報復の思いを吐露するが、一歩踏み切れないでいることも打ち明かす。
そしてドロレスの決意を押したのはヴェラだった。彼女がドロレスからその話を聞いた時、彼女は目のことを話す。ドロレスは自分が持っている目のことをヴェラもまた知っていること、または彼女もまたそれを持っていることを知り、後押しされるのだ。
これが2人の強固な絆を築くこととなった。

皆既日食の日を共通項に2つの異なる密室劇を描いたキング。
片や脳内会議が横溢した決死の脱出劇、片や1人の女性の記憶で語られる半生記。
その両者の軍配はどちらも地味ならばやはり余韻が深い本書に挙げる。


No.1536 5点 探偵伯爵と僕
森博嗣
(2021/10/12 23:08登録)
本書は子供向けのミステリ叢書として講談社によって編まれたミステリーランドシリーズの中の1作である。しかしその内容は子供向けと云うにはヘビーなものだ。
物語は僕こと馬場新太少年が夏休みに遭遇した探偵伯爵と共に子供の失踪事件を追い、解決するひと夏の思い出だ。

物語は馬場新太の手記、ワープロの練習を兼ねた事件記録めいた日記、いや素人小説のような体裁で語られる。そこには語彙が豊かでない少年の聞き間違いや勘違いなどが散りばめられている。
テレビに出てくるような悪人は現実社会には存在しない。なぜなら明らさまに怪しいと疑われるからだ。
またどうして正義の味方よりも悪人の方が年寄りなのか。普通は年寄りが若者を叱るのだから逆ではないか。
などなど、聞けばなるほどという子供ながらの着眼点に満ちた独り言が散りばめられている。
私が一番感心したのは伯爵が少年に云う情報交換という言葉のおかしさだ。交換ならば手元から無くなるはずだが、情報は無くならないから交換にならない。情報共有が正しい言葉だと云う件。思わずなるほどと思った。

私は自分が子供の頃に友達が殺される事件には幸いにして遭遇したことがない。今まで一緒に遊んでいた友達がいきなりいなくなり、しかも殺されていたと知った時のショックはいかほどだろうか。

しかも本書の最後ではこの真相でさえもオブラートに包まれたものであることが判明する。作中登場人物はすべて偽名で、性別もまた異なっていたのだ。実際は犠牲者たちは全て女の子だったのだ。つまりこのことから事件の真相がもっと生々しいものであったことが想像できる。それは犯人が自らの娘を手に掛けたこともある意味、更なる戦慄を伴って理解されるのである。

いやはや何とも暗鬱な物語だ。正直これを少年少女に読ませ、理解させることには躊躇を覚える。そしてこの本を読んで面白かったと子供が感想を述べた時に親はどんな顔をしたらよいのか。

こんな暗鬱とさせられる子供向けミステリの解説をしているのはなんとアンガールズ田中なのは驚きだ。しかも感じている内容は同じなのだが、解説を引き受けた手前か心地いい余韻に浸れたと書いているのには無理を感じた。決して心地いいものではない、本書は。
森氏は子供向けのミステリでさえ我々に戸惑いを与える。それは読者と云う立場だけでなく、子を持つ親としての立場としてもだ。これはさすがにやり過ぎなのでは。
本書に限らずこのミステリーランド叢書は子供に読ませるには眉を顰めてしまうものも多い。
出版元はもっと内容を吟味して子供向け作品を刊行してほしいものだ。


No.1535 8点 完全無欠の名探偵
西澤保彦
(2021/10/08 23:24登録)
バラバラ殺人事件ばかりを扱った連作短編集『解体諸因』でデビューした西澤保彦氏はその後特殊な設定の下でのミステリを多く輩出していく。それらは読者の好みを大きく二分し、賛否両論を生むようになるが、作者2作目にしてまさにその特殊設定ミステリ第1弾であるのが本書である。

本書の主人公は山吹みはる。SKGという会社の警備員をしている凡庸とした青年で特徴としては2mに届かんとする巨漢の持ち主。しかし身体は大きいが性格は至って温厚、というかちょっと鈍く、どんな女性も奇麗に見え、また敢えて喋ってはならないことも思わずポロっと喋ってしまう、社会人慣れしていない男である。
しかし彼にはある特殊能力があるのだ。それは話している相手の潜在意識を言語化させることができるのだ。
つまり簡単に云うと山吹みはると話している相手はいつしか自分の記憶の奥底に眠っていた、当時気になってはいたが、そのまま忘却の彼方へと消えてしまったとある出来事を想起させ、案に反してみはるに喋ってしまうことになるのだ。
それは彼と喋ると突然不思議な浮遊感に襲われ、たちまち立て板に水の如く、話してしまう。そして当の山吹みはる当人は相手に異変が起きていることに気付かず、単に話を聞いているだけなのだ。
さらに話し手の方はみはるに話すことで当時の違和感を思い出し、推理を巡らし、相手の隠されていた真意、もしくは当時は気付かなかった事の真相に思い至るのだ。つまり山吹みはるが相手の話を聞いて事件を解決するわけではなく、あくまで真相に辿り着くのは話し手自身なのだ。つまり山吹みはるは話し手が抱いていながらも忘れていた不可解な出来事を再考させ、新たな結論へと導く触媒に過ぎないのだ。
彼は白鹿毛源衛門率いる白鹿毛グループによって一昨年発見され、秩父の総合科学研究所で預かってもらっていた、いわば異能力者なのである。
例えば私の場合、いつもは話そうと思わなかったことを思わず話してしまうことになるのはお酒を飲んでいるときである。思わず酒杯が重なるとついつい口が、いや頭の中の引き出しに掛けていた鍵が開けられ、話し出してしまうことがよくあるが、山吹みはるはそんなお酒のような存在なのだ。

物語の本筋は白鹿毛源衛門の孫娘が高知大学を卒業してもなお高知に留まり、就職した理由を山吹みはるが探ることで、一応長編小説の体裁を取っているが、山吹みはるが遭遇する登場人物たちの抱える過去の不自然な、不可解な出来事が短編ミステリの様相を呈しており、それらが実に面白い。
そしてこれらのエピソードは次第に蜘蛛の巣に囚われた餌食のように関係性を帯びてくる。
これら濃密な人間関係の曼陀羅が成立するのは小説という作り話だからと云えばそれまでだが、やはりそれにしても偶然過ぎるという批判は無きにしも非ずだろう。そういう批判を回避するために人口の少ない高知を選び、それぞれの登場人物が何らかのつながりをたせるために仕組んだように思った。
が、しかしこの濃密な人間関係の曼陀羅もまた作者の仕組んだ仕掛けであることが判明する。

しかし何ともドロドロした人間関係、憎悪の連鎖であったことか。紫苑瑞枝の糸をりんがとくとくと紫苑瑞枝に開陳する傍らで聞いていた山吹みはるの言葉が痛烈に突き刺さる。人の傲慢さや不遜な一面ももしかしたらその人の唯一の生きる拠り所かもしれない。それをいつかは自覚して直すこともあるのではないか。それら全てを嫌悪して排斥していたら、一体誰がこの世で救われるのかと。
清濁併せもってこそ人間だと説くみはるは世間知らずと思わされたが実は彼は全てを受け止める寛容な人間だったことが判るのである。

本書は日本の本格ミステリの歴史の中でもさほど評価の高い作品ではなく、ましてや数多ある西澤作品の中でも埋没した作品である。しかし個人的には面白く読めた。
それは私がこのような複数の一見無関係と思われたエピソードが最後に一つに繋がっていく趣向のミステリが好きなことも理由の1つだ。
そう、私がこの作品を高く評価するのはデビューして2作目である西澤氏の野心的で意欲的なまでのミステリ熱の高さにあるのだ。それは明日のミステリを書こうとするミステリ好きが高じてミステリ作家になった若さがこの作品には漲っているのだ。

また1つ、私の偏愛ミステリが生まれた。好きなんだなぁ、こういうの。


No.1534 7点 盗まれた細菌/初めての飛行機
ハーバート・ジョージ・ウェルズ
(2021/10/06 23:51登録)
“SFの父”と称される、今でも彼の生み出したアイデアが手を変え、品を変え、新たな物語を紡ぎだしているSFの巨匠H・G・ウェルズ。
しかし本書に収められた短編郡はそんなSFの巨匠といった堅苦しいイメージを払拭するようなユーモアに満ちた作品が多く収められている。
いや正確に云えばその味わいはユーモアよりもシュールである。

それは一種矛盾とも云えるものや我々の平和の裏側に潜む危機の存在、恩を容易に忘れる性格、狂言、虚言、自意識過剰、責任転嫁、自分本位。
そしてそれらはある意味戯画的でもある。映像にして映えるものが多いのに気付かされる。

「盗まれた細菌」の追いかけっこ、「奇妙な蘭の花が咲く」の不気味な蘭の造形、「ハリンゲイの誘惑」の物を云う絵画、「ハマーポンド邸の夜盗」の夜盗のダイヤモンド強奪作戦、「紫の茸」の一面に生えた色とりどりの茸の森とそれを食べた狂人の逆襲、「パイクラフトに関する真実」の宙に浮くデブ、「劇評家悲話」の大げさな振舞い、「林檎」の車中の2人の邂逅の一部始終、「初めての飛行機」の乱痴気処女飛行、「小さな母、メルダーベルクに登る」の最後の雪崩に乗って下山するシーン。
何ともスラップスティック漫画を彷彿とさせるではないか。

本書のベストを挙げるとすると「失われた遺産」になるか。
誰も相手にしてくれない伯父の相手を莫大な遺産を相続したいがために判りもしない話の聞き役になり、内容が頭に入ってこない難解な伯父の著作を読むように渡される。その長年の努力が実って遺産相続の目途が立つが、肝心の遺書が見つからず。なんとも意外なところに隠されていたことが遺産が散財された後に判明するのだ。
浮ついた気持ちでは得られるものも得られないという教訓である。

いやはや私にとってのウェルズの原書体験は子供の頃に世界名作文学集で読んだ『宇宙戦争』で、その内容は世界の破滅を描くディストピア小説でなんとも暗い雰囲気だっただけに、この意外な滑稽さには驚いた。
また物語として膨らむ要素のあるアイデアを20ページ前後の短編にまとめている―いや物語を片付けていると云った方が正確か―のは雑誌の連載でもしていて原稿を督促されたためだろうか。


No.1533 10点 マスカレード・ナイト
東野圭吾
(2021/10/02 00:41登録)
第1作の時に今流行りのお仕事小説と警察小説2つを見事にジャンルミックスした非常にお得感ある小説と称したが、本書もその感想に偽りはない。2つの持つ旨味を見事にブレンドさせて極上のエンタテインメント小説に仕上がっている。
基本的な路線は全くと云っていいほど変わっていない。高級ホテル、ホテル・コルテシア東京に犯罪者が訪れることだけが警察側に判っており、正体は不明だ。したがって捜査員をホテルの従業員として潜入させ、容疑者を捜し、事件を未然に防ぐ。そして人を疑うのが仕事の警察とお客様を信用し、信頼を得るのが仕事のホテルとの真逆の価値観が生む軋轢とカルチャーショックの妙が読みどころである。

しかしそんな安寧を持たさないよう、東野氏は今回生粋の厳格なホテルマン氏原祐作を新田の指導員にぶつけることで再び新田に不自由を経験させる。基本的に前回の指導員山岸尚美は不愉快に思いつつも捜査に協力的で、なおかつ新田を一流ホテルに恥じないようなフロント係に仕立てようと努力をしていたが、今回の氏原はホテルの規律と気品を守るためにあえて新田に何もさせないでおくという主義を取る。いわばホテル原理主義者とも云えるガチガチのホテルマンなのだ。客の前では満面の笑みを見せるが、新田や他の従業員の前では能面のような無表情で辛辣な意見を放つ。
しかしこの氏原を単なる嫌味なキャラクターに留めないところに東野氏のキャラクター造形の深みを感じる。

そして今回もお仕事小説としてのホテルマンのお客様たちの無理難題を解決しようと試行錯誤するエピソードがふんだんに盛り込まれている。
小ネタと大ネタを交互にうまく配することで東野圭吾氏はグイグイと読者を引っ張っていく。いやあ、巧い!非常に巧い!

そして今回東野作品の人気の高さの秘密の一端を改めて悟った。それは物語の設定が非常にシンプルだということだ。今回の物語は始まって60ページまでに云い尽されている。
即ち一人暮らしの女性が殺され、その犯人がホテルコルテシア東京で開催される年末のカウントダウン・パーティ、通称マスカレード・ナイトに現れると匿名の通報が入る。
正直これだけである。
しかしこれだけで読者は一気に物語への興味を惹かれ、結末までの残り約480ページをぐいぐいと読まされてしまうのだ。シンプルな構成に魅力的なキャラクター、そして読みやすい文体に読者の興味を惹いてページを繰る手を止まらせないプロット。作家として求めるもの全てを東野氏は持っている。

ホテルにあるのはいわば数々の人生が交錯する社会の縮図だ。物語の最後に明かされる事件の真相を読むにますますその意を強くした。
社会を、人間関係を円滑に平和裏に継続するために少しばかりの嫌悪や嫉妬や怒りは仮面に隠しておかないと世の中は進んでいかないのだ。自分の云いたいことややりたいように振舞ってばかりではぎくしゃくし、不協和音が生じる。
ホテルのフロントはそんなお客様の清濁併せ吞み、笑顔で迎える。それらの仮面を知りつつ、大事にするホテル側とそれらの仮面を疑ってはがそうとする警察側のぶつかり合いは今回も描かれる。

曽野万智子と貝塚由里の脅迫作戦、それを出し抜く内山幹夫という影武者を立てた森沢光留の殺人計画、そして日下部篤哉こと香坂太一のコンシェルジュテスト。
この3つがホテルコルテシア東京という舞台で交錯し、それぞれがモザイクタイルのピースとなって『マスカレード・ナイト』という複雑なミステリを形成する。それはまさに美しきコラージュの如き絵を描いているようだ。

そしてそれはまたホテルも然り。

ホテルコルテシア東京のような大きなシティホテルは夜景が映える。しかしその夜景を彩るのは一つ一つの窓の明かり、つまり宿泊したお客が照らす部屋の明かりだ。その明かりがまさにモザイクタイルのように夜景を彩る絵を描く。
しかしその1つ1つの明かりの中に宿泊するお客は決して自分たちが作っている夜景のような華やかさがあるとは限らない。
奮発して高級ホテルで家族と一家団欒を楽しむ明かりもあれば、出張で宿泊し、疲れを癒す一人客もいるだろう。その中には単にそのホテルを常宿としている常連もいれば、初めて利用し、胸躍らせる客もおり、高級ホテルを餌に女性を連れ込んで一晩だけの情事を愉しむ者もいることだろう。
待ち合わせに使う客も待ち人と逢って愛を交わす者もいれば、待ち人が来ず、高級ホテルで寂しい思いを抱いている者もいるかもしれない。

こうやって考えると改めてホテルという場所は特別な雰囲気をまとった場所であると認識させられる。
様々な人が行き交い、交錯し、訪れてはまた去っていくホテル。チェックインの時に見せる貌は仮面でその裏には様々な事情を抱え、部屋でそれを解放するお客たちに、それらの事情に忖度して訳を知りながらもスマイルで対応するホテルマンたち。まさに仮面舞踏会そのものである。

次の舞台は山岸尚美の新天地LAであれば、今度は宿泊客としてホテルコルテシアLAを訪れた新田浩介と山岸尚美のコンビもあり得そうだ。
その時、実は自分たちが気付かなかった被っていた仮面を新田と山岸は脱いで、2人の間に進展が見られるのだろうか。
野次馬根性丸出しだがこのお仕事小説×警察小説の極上ハイブリッドミステリの次回作があることを一ファンとして祈ろう。

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