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Tetchyさん
平均点: 6.73点 書評数: 1569件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.1369 7点 ゴースト・スナイパー- ジェフリー・ディーヴァー 2018/01/20 23:55
リンカーン・ライムシリーズ記念すべき10作目となる本書の敵はなんとアメリカ政府機関の1つ、国家諜報運用局(NIOS)の長官。バハマで隠遁中の政治活動家を暗殺した共謀罪で逮捕しようと計画するNY地方検事補のナンス・ローレルに協力する。

今回特徴的なのは犯行現場がバハマということで現場捜査を担当するアメリアもすぐには現場に行くことが出来ず、ライムと共に部屋で捜査を担当し、情報収集に徹する。
一方ライムは現場の遺物の情報を得ようとバハマ警察の捜査担当者に連絡を入れるが、これが南国の後進国特有の悠長さと捜査能力の不足から非常に不十分でお粗末な状況であり、全く有効な手掛かりが得られない。現場検証も事件が起きた翌日に成されているため、新鮮なほど有力な情報が集まる物的証拠が失われた可能性が高く、ライムはその捜査のずさんさに悶々とさせられるのである。

このようにいつものように遅々として進まない捜査に読者はライム同様にストレスを感じさせられるようになる。
従っていつものようにお得意のホワイトボードに次々と新事実を埋めていくそのプロセスも滞りがちだ。しかも書かれた情報は人づてに教えられた情報と憶測ばかり。通常のライムシリーズとは異なる進み方で読者側もなんともじれったい思いを抱く。
そんな膠着状態を作者自身も察したのか、ライム自身がバハマに赴くことになる。
前作の『シャドウ・ストーカー』でライムはキャサリン・ダンスの捜査の手助けをするために自らフレズノに赴いたが、今回は更に海外まで進出する。リハビリと手術により指だけだった可動範囲も右手と腕が動かせるようになったことでずいぶんと活動的になったことが解る。最新型の電動車椅子ストームアローに乗って野外活動に励むライムの進歩は同様の障害に悩む人々にとって希望の姿でもあるだろうし、また最新鋭の補助器具があれば重篤な障害者でも、介護士の補助が必要であるとはいえ、外に出て行動することが出来ることを示している。優れたアームチェア・ディテクティヴのシリーズだった本書もまた科学と医学の進歩に伴い、その形式を変えようとしているのが解る。

しかし一方で現実はそんなに甘くないこともディーヴァーは示す。バハマ警察の上層部の意向に背いてライムに協力するポワティエ巡査部長と共に独自で捜査するライムたちを暴漢達が襲い、なんとライムはストームアローごと海に放り出されるのだ。危うく一命は取り留めたものの、ストームアローは海の中。ライムは病院にある普通に車椅子に戻ってしまう。事件捜査という犯罪と紙一重の活動は健常者にも危害が及ぶ。まして障害者にとっては過分なことだと示すエピソードだが、それでもライムは屋外に、数年ぶりに海外に出たことが非常に楽しいようで、これからも外出したいと述べる。それほどまでに日がな一日屋内生活を強いられるのは苦痛だからだ。
ライムはニューヨークの自宅に戻り、新たな電動車椅子メリッツ・ヴィジョン・セレクトを手に入れる。それはオフロード走行機能も付いた機種で今回のバハマ行で外出の醍醐味を占めたライムの行動範囲が今後もっと広がることだろう。

しかし一方でライムの手足となり、フィールドワークを担当していたアメリア・サックスは逆に今回のチームに加わった特捜部のビル・マイヤーズ部長から持病の関節炎を見透かされ、更に健康診断の不備により、捜査を外れることを通告される。ライムの身体能力の向上と反比例するかのようにアメリアの関節炎は悪化してきており、逆に捜査活動に支障を来たす様になってきている。何とも皮肉な話だ。

突然だが本書の原題は“The Kill Room”。これは殺害された者がいた部屋を指すと最初は書かれていたが、実は別の意味を指す。ネタバレになるので書かないでおくが、少ない設備投資で一度居所を掴まれた標的はどんなに遠くに離れていても暗殺されるという実に恐ろしい時代となったと寒気を覚えた。

今回も相変わらずどんでん返しがあり、価値観の反転する。ミステリとしては読書の愉悦を味わえるが、実際面としては実に恐ろしいと思わされる。高度な情報を扱う仕事は常にその情報に隠された意味を考え、判断することに迫られている。しかしそこに感情が加わるとその情報は右にも左にも容易に傾く。それこそが本書のテーマであろう。
高度な情報を操る人々、権力を有する人々は共に自らの信条に従い、正しいことをしていると思っていながら、実は好き嫌いという子供の頃から抱く非常に原初的な感情にその判断を左右されていることに気付いていない。そのことが彼ら彼女らをして情報を読み誤り、また読み誤ったと勘違いしたりする。そんな権力を持つ一個人の感情のブレで対象となる人間の生死をも左右されることが実に恐ろしい。

思えば本書は鑑識の天才リンカーン・ライムが現場から採取した証拠という事実だけを信じ、緻密に推理を重ね、論理的に事件を解決するところが魅力であるのだが、その実理屈っぽく終始不平不満を呟くライムの感情っぽいところ、つまり人間臭さがシリーズの魅力でもある。
そしてまた本書ではライムがバハマに赴いて地元の警察と捜査をしている間、アメリアはアメリカで捜査を続け、その距離がお互いを強く意識し合い、そしていつも以上に求め合うことになる。
緻密な論理を売りにしているこのシリーズは実は人の感情を実に豊かに捉えた作品であることを再認識させられる。またその感情ゆえに生れる先入観が登場人物のみならず読者の感情を動かし、どんでん返しへと導かれていくのだ。

実は本書は人気シリーズの第10作と記念的な作品ながらシリーズ作で唯一『このミス』で20位圏内から漏れた作品だった。ランキングがその面白さと比例しているわけではないとは解っているが、このシリーズの特色である、ある分野に精通した悪魔的な頭脳の持ち主や超一流の技能を持つ殺し屋が登場しないことが他の作品に比べて魅力がないように思われる(みなさんが仰るように小粒ですね)。
もし今回は政府機関のNIOSが相手ということもあって情報戦に終始し、いわゆるいつも感じるヒリヒリとした緊迫感に欠けたように感じた。

あと最後に解るジェイコブ・スワンの正体と彼の標的を考えると一連の殺しに不整合さがあると感じるのは私だけだろうか?捜査の誤操作のためにやった、という理由かもしれないが、彼の正体を知るとそれはやっぱりあり得ない、行き過ぎだろう。

本書では上に書いたような不満を抱いたが、まだまだディーヴァーの筆は衰えていないことは既に立証済み。どんなシリーズにもある谷間の作品として記憶するにとどめ、次作に大いに期待することにしよう。

No.1368 7点 征服者ロビュール- ジュール・ヴェルヌ 2018/01/15 23:43
これは空版の『海底二万里』とも云うべき作品だ。潜水艦ノーチラス号に対して空中船<あほうどり号>。ネモ艦長に対して国籍不明の技師ロビュール。『海底二万里』の海底の旅に同行するのは海洋生物の権威アロナックス教授に対し、本書は気球研究の権威アンクル・プルーデント氏とフィル・エヴァンズ氏、とほぼ両作は空と海を舞台を異にしながらも写し鏡のような作品である。

本書はまだライト兄弟1903年に有人飛行機を発明する以前の1886年の作品。従ってロビュールが操る空中船は飛行機の意匠ではなく、船に無数のプロペラを備えた、ゲーム『ファイナル・ファンタジー』に登場する飛空艇をイメージしたような機械である。

『海底二万里』に登場するネモ船長に比肩するほどの存在感を示すロビュールだが、ただ世間一般に今なお知られている『海底二万里』と比較すると、同じように世界中を空中船で回る本書の知名度が低い、いやほとんど知られていない。それは物語に膨らみが無いからだ。
『海底二万里』は530ページ超もあるのに対し、本書は240ページ超と約半分。ページ数がそのまま内容の充実ぶりを示すわけではないが、本書もアメリカを皮切りに日本、中国、エベレスト、中東、ロシアにヨーロッパ、アフリカ、アルゼンチンから南極―ノーチラス号も行った南極点にも到達する!―、ニュージーランド付近へと世界を巡るのに、それぞれの道中は実に速く、旅行期間も1月半と短い(因みに『海底二万里』は10ヶ月弱)。
ある意味これは飛行旅行の速さを物語のスピード感で表しているとも取れるが、内容的には実に味気ない。

さて皆の前から姿を消したロビュールが再度姿を現すのは『世界の支配者』という作品のようだ。現在絶版のこの作品が、同じく絶版でありながら地元の図書館にあった僥倖に見舞われたことで読むことが出来た本書同様に読むことが可能であれば、彼の行く末を見届ける意味でも読みたいものだ。

No.1367 8点 クリスティーン- スティーヴン・キング 2018/01/14 23:10
キングは過去の短編で機械が意志を持ち、人間を襲う話を描いてきた。クリーニング工場の圧搾機、トラック、芝刈り機など我々が日常に使う機械の、抗いようのない恐るべき力に対する畏怖をモチーフに恐怖を描いてきたが、この『クリスティーン』もこれら“意志持つ機械”の恐怖譚の系譜に連なる作品となるだろう。しかもこれまでは短編であったがなんと今回は上下巻併せて約1,020ページの大作である。
今までキングが“意志持つ機械”をモチーフに書いてきた物語においてその対象が自動車になるのは車社会アメリカの背景を考えると必然的であり、そして満を持して発表した作品だと云えよう。ある意味本書は“意志持つ機械”譚のこの時点での集大成になる作品と云えるだろう。

何の前知識もなく、最初にこの作品を読んだ時、これはトップの5%圏内に入るほどの頭を持ちながらも、優等生グループにも入れない、スクールカーストの最下層に位置する17歳の少年アーニー・カニンガムが1台の古びた車と出遭うことで負け犬的人生を変えていく物語であると思うに違いない。彼の自動車のメカに関する優れた知識は天からの授かりものになるだろうが、彼が出遭う58年型のスクラップ同然のプリマス・フューリー、愛称をクリスティーンという車もまた彼の人生を変える天からの授かりものになる。
そのおんぼろ車を自身で少しずつ再生していくうちにいわゆる負け組に属していたアーニーもまた生まれ変わっていく。ピザ顔とまで呼ばれていた吹き出物でいっぱいの顔は次第に綺麗になり、男ぶりも増していく。更に以前よりも度胸が増し、町の不良たちに絡まれても一歩も引かないようになる。更には学校で評判の美人の心も掴み、恋人にすることに成功する。一人で一台の車を再生することが即ち彼の人生を再構築させていくことに繋がっていく。これはそんな一少年の人生を変えていく青春グラフィティなのだ。
アーニーの成長を通して変わりゆく生活の変化をそれぞれの心情を交えてキングは訪れるべき変化の時を鮮やかに語る。

それもただ彼の修理する車クリスティーンが命ある車であることを除けばのことだ。

キングが他の作家と比べて一段優れているのは、通常の作家ならば子供の成長時期に訪れる親子と親友との変化のキー、メタファーとしてスクラップ同然の車の修理の過程を使うのに対し、キングはその車自体をも生ある物、持ち主に嫉妬するモンスターとして描いているその発想の素晴らしさにある。
物に魂が宿るのは正直に云って子供の空想の世界だろう。女の子は人形を生きている自分の妹のように扱い、男の子は車の玩具やロボットの玩具に生命があるかのように自ら演じて興じる。
そんな子供じみた発想もキングの手に掛かれば実に面白くも恐ろしい話に変るのだから驚きだ。

さて物語がアーニーの思春期の通過儀礼とも云える親からの自立と反発というムードからホラーへと転じるのはクリスティーンがアーニーを目の敵としているバディー・レパートンたち不良グループにスクラップ同然にさせられるところからだ。そこから前の持ち主であるルベイとアーニーは無残なクリスティーンの姿を見て同調し、以前より増して2人の魂の親和性は強まり、アーニーはルベイの憑代となっていく。そしてクリスティーンもその怪物ぶりをようやく発揮し出すのだ。

最初は無人の状態で復讐を成していたクリスティーンだが、やがて亡くなった前所有者のルベイの屍が具現化して現れてくる。そこでようやく本書は『呪われた町』、『シャイニング』などのキング一連のモンスター系小説の系譜に連なる作品であることが解るのである。それは本書の献辞がジョージ・ロメロに捧げられていることからも解るように、ゾンビをモチーフにした怪奇譚であるのだ。

そういう意味では物宿る怨霊によって自分が自分で無くなっていくアーニーの姿は昔からある幽霊譚の1つのパターンであるが、また一方で私はこのアーニーの変化については我々の日常において非常に身近な恐怖がテーマになっているように思える。
例えばあなたの周りにこんな人はいないだろうか。普段は温厚でも車を運転している時は人が変わったようになる、という人だ。それはある意味その人の意外な側面を表すエピソードとして、時に笑い話のように持ち出されるが、ある反面、これはその人の二重性が露見し、またそれを他者が目の当たりにする機会でもある。そしてその変貌が極端であればあるほど、それも恐怖の対象となり得る。つまり本書の恐怖の根源は実は我々の生活に実に身近なところに発想の根源があるのではないかと私は思うのだ。
これはあくまで私の推測に過ぎないのだが、キングがこのエピソードを本書の発想の発端の1つにしていたのは間違いない。なぜなら同様の記述が本書にも見られるからだ。上巻の406ページにアーニーがこの車に乗るとなぜか人が変わったようになると書かれている。そのことからもキングが本書を著すにこんな身近で、どちらかというとギャグマンガの対象になるような性格の変貌―マンガ『こち亀』に出てくる本田のような―を恐怖の物語のネタとしたであろうことは推察できるし、そのことからもキングの非凡さを感じる。

人の物に対する執着というのは物凄いものがある。古来死者が生前愛でていた物に所有者の情念が宿るという怪奇譚は枚挙にいとまがない。その対象を58年型のプリマス・フューリーという実に現代的なアイテムに持ち込んだことにキングの斬新さがあると云えよう。
既に述べたが、自動車愛好家たちにとって本書の車に対する執着の深さは頷けるところが多々あるのではないだろうか。自動車産業国アメリカが生んだ意志宿る車による恐怖譚。しかし車に対する愛情の深さはアメリカ人よりも深いと云われる日本人にとっても無視できない怖さがあった。たかが車、そんな風に一笑できない怖さが本書にはいっぱい詰まっている。

No.1366 7点 隕石誘拐 宮沢賢治の迷宮- 鯨統一郎 2017/12/21 23:38
宮沢賢治の諸作と生涯をモチーフにした誘拐ミステリである。
私が抱いていた宮沢賢治は死後評価された童話作家・詩人というイメージで、有名な『雨ニモマケズ』の詩のイメージから朴訥かつ誠実な、清貧の人と思っていたが、それは全く違った。

本書では宮沢賢治とは自分の理想と常に戦っている人と読み解かれる。父からデクノボーと呼ばれ、そのことを自覚しながら、不器用ながらも正直で誠実でありたいと書いた『雨ニモマケズ』は実はデクノボーである自分を讃えた詩であると解釈され、そして父親の強欲に対抗しながらも父のお金に頼る、禁欲と戦いながらも最後はそれを後悔する、童話を次々と発表するが世間には認められない、といった具合に常に内なる自分と戦いながらも結局敗れていった男なのだ。明晰な頭脳で色んな分野に深い造詣を持ちながらもそれを活かさないばかりに不遇に見舞われた天才。その溢れる才能の使い道を間違った男というのが生前の宮沢賢治だろう。今や国民的詩人、国民的童話作家と評されているがそれは彼の死後のこと。今なお彼の諸作が読み継がれ、信奉者を生み出していることから最終的にはその才能の使い道は間違っていないようだったが、当時生きていた宮沢家誰一人知らない事実である。

どこかエロティックで艶めかしい展開は昔の土曜ワイド劇場のような俗物的サスペンスドラマを彷彿させる。その一方で稔美を拉致する十新星の会の面々は宮沢賢治を信奉し、<オペレーション・ノヴァ>というアルミニウムを摂取させることで全国民にアルツハイマー病にし、痴呆化を図り、日本全国民を支配下に置くという、秘密結社物のテイストもありと、なんともいびつな設定の下で物語が進んでいく。

本作が発表されたのは世紀末の1999年。つまりこのような世間に不安感が漂っている時代にオウム真理教に代表される新興宗教が蔓延っていたように、本書もそんな宮沢賢治を信奉し、国民総痴呆化を企むカルト集団による犯行というのは今読めば荒唐無稽だと思われるが、当時の世相を実は如実に反映した作品であると云える。特に童話作家、詩人として名高い宮沢賢治の諸作を紐解くことで内なるコンプレックスを読み解き、そこから彼を神と崇める<十新星の会>なる狂信集団を案出したアイデアは鯨氏ぐらいしか思いつかないものではないだろうか。

誘拐物でありながら、宮沢賢治の文献から隠された秘宝の在処を読み解く冒険小説的妙味、さらに秘密結社による日本征服計画、そして拉致された人妻の凌辱劇とサスペンスにアドヴェンチャーにオカルトにエロと思いつくものをどんどん放り込んで物語を作った鯨氏の離れ業。その全てが調和し、バランスを保っているとは云い難いがこのような芸当に挑んだ鯨氏のチャレンジ精神は評価に値するだろう。もう1つ忘れてはならないのは夢を追いかけて家族に貧乏を強いた夫婦の不和からの再生の物語であることだ。現在海外へ単身赴任中の我が身に照らし合わせても思うのだが、案外夫婦は距離を置くことでお互いの存在に改めて思いを馳せ、そして大切さに気付かされるのだ。いつも一緒にいると、やはり人間同士、どこか疲れて嫌なところばかりが目に付くようになる。中瀬夫婦のように誘拐されるような事態はごめんだが、離れることで絆が深まる気持ちは実に今ならよく解る。

そしてやはり鯨作品の妙味は過去の文献、史実から読み解かれる鯨流新事実の開陳にある。本書で描かれる我々の知らない宮沢賢治の世界は本書のサブタイトルにあるようにまさに迷宮である。自由な発想と突飛な設定。次回もこの作者独特の物語を期待したい。

No.1365 2点 工学部・水柿助教授の日常- 森博嗣 2017/12/20 23:58
5話を通じて思うのは本書は森氏による、ちょっとしたミステリ風味を加えた自伝的小説なのか(これは反語表現である)。某国立大学工学部建築学科の水柿助教授はそのまま森氏に当て嵌まりそうな人物像である。
何しろ専門が建築材料であり、模型工作を趣味とし、読書とイラストを趣味にしている奥さん須磨子さんがおり、更に後々ミステリ作家になってデビューすることまでが1話目から語られるのだ。これほど作者自身と類似した設定の人物は他にないのではないか。そして話が進むごとにミステリ風味も薄まり、どんどん水柿君と森氏が同化していく。

つまり本書は自分の教授生活の周囲で起きる出来事や見聞きしたエピソードの類を盛り込み、時々それらのエピソードに日常の謎系ミステリの味付けを加えた小説なのだ。

しかしその内容は、思いつくまま気の向くまま、取り留めのない日々雑感と云った趣で、建築学科の助教授水柿君の日常に起こっていることにミステリの種は結構あるんじゃないの?と書き連ねている体の話である。

しかしその傾向は正直第2話までで、第3話からはどんどん内容が水柿君の内側に、過去のエピソードに潜っていく。それらはミステリでは無くなり、本当に水柿助教授の日常話になってくるのだ。それは作者も確信的で最終話ではミステリィと見せかけてどんどんミステリィ風味を薄めていく、そういう「どんでん返し」を仕掛けていると述べている。
そして作中作者は事あるごとに「これは小説だ」、「これはフィクションだ」と述べているが、嘘つきが「嘘はついていない」というのと同様の信憑性しかない(と作者自身も書いていたような)。つまり本当のことを語りつつ、それらの中には未だ事項になっていない軽犯罪、微罪、そして重犯罪になり得る危うさを孕んでいるからこそ、そのように作り話だと主張しているようにも取れる。その割に固有名詞が多く、イニシャルもほとんど本当の場所が特定できるほど安易な物であるのだが。そのあまりの自由闊達ぶりに正直苦情など来ていないのだろうかと思ったり。特に津市に関する記述はここまでこき下ろして大丈夫なのだろうかと無用の心配すらしてしまう。

やはりこれは水柿君の日常としながら、これらは全て同じN大学の建築学科の教授である作者自身が経験した助手、助教授時代に経験した大学生活の思い出話、エピソード集なのだろう。従って水柿君の日常は「すべてが森になる」のだ。

No.1364 7点 46番目の密室- 有栖川有栖 2017/12/17 23:29
このシリーズは先に文庫書下ろしで出版された2作目の『ダリの繭』を先に読んでいたので、前後したが、これでようやくシリーズの最初から触れることが出来た。

私が面白いと思ったのはこれはいわゆる雪の足跡トリックの変奏曲であることだ。通常このトリックはその名の通り、雪に囲まれた部屋や建物の周囲に残された足跡によって密室状態が生まれるトリックを指す。今回の舞台となった星火荘もまたその例に洩れず、周囲が雪に覆われた状態であるのだが、それにも関わらずこの足跡トリックが建物の外ではなく内側にて発生しているところだ。石灰を敷き詰めたことで生まれた足跡トリックだが、面白いことを考えるものだなぁと感心した。

まだ若かりし頃の本格ミステリに対して無限の可能性を信じて止まない有栖川氏の本格ミステリへの理想と夢が随所に込められているように思える。
まずやはり冒頭の真壁聖一の存在。世界に認められた日本本格ミステリの巨匠というのは日本の本格ミステリが世界にいつか通じるだろうと信じ、そんな未来を夢見ていた有栖川氏の理想の存在、いや自身が目指すべき目標であるように思える。それは現在実現しており、アメリカのエドガー賞に日本のミステリがノミネートされるまでになっている。

次に真壁氏が次の密室物を最後にまだ見ぬ「天上の推理小説」を書くと云った件だ。これこそ有栖川氏自身の未来への宣言ではないだろうか。「新本格」という目新しい呼称で十把一絡げに括られているまだ駆け出しの本格推理小説家ではあるが、いつかはかつて書かれてことのない物語を書いてみせる、といった若者の主張のように思える。そして今なお精力的に本格ミステリを著しては発表し、年末のランキングに作品が名を連ねている現状から見ても、この時抱いた有栖川氏の、高みへと目指す心意気はいささかも衰えていないように思える。巷間に流布する既存のミステリとは異なる次元に存在する天上の推理小説。有栖川氏の定義する天上の推理小説をいつか読みたいものだ。

そして最後はやはり犯人だけが見た、真壁氏が遺した最後の密室「46番目の密室」だ。それは「まるで世界が、世界を守るためによってたかって一人の人間を抹殺するかのようなもの」。これもまた有栖川氏が抱く、いつか書くべき最後の密室ミステリなのではないか。そんなミステリを読んでみたいと彼は思い、そして出来れば自分で書いてみたいと思っているのではないだろうか。

と、このようにデビューしてまだ3年の時に書いたこの作家アリスシリーズには本格ミステリ作家となった有栖川氏の歓びとミステリ愛と、そして野心が込められている、実に初々しくも若々しい作品なのだ。

No.1363 7点 幻肢- 島田荘司 2017/12/10 22:40
これはいわゆるよくある記憶喪失物のミステリを最新の脳医学の知識と技術の方向から光を当てた、島田氏の持論である21世紀ミステリを具現化する作品である。
島田荘司氏が特に2000年代に入って人間の脳について興味を持ち、それについて取材を重ね、次作のミステリにその最新の研究結果を盛り込み、21世紀本格ミステリとして作品を発表しているが、本書もその系譜に連なる作品で、タイトルが示すように幻肢、つまり実在しないのに恰も実在しているかのように感じられる欠損した手足の存在を足掛かりにそれが引き起こす脳の仕組みを解き明かし、そして最新の医療方法によって、失われた記憶を呼び覚ましていく。
まずこの幻肢、つまりファントム・リムよりも幻痛、ファントム・ペインとして以前より知られており、私も興味があったが、本書ではその幻痛、いや現在では幻肢痛と呼ばれるこの現象についても最新の研究結果が盛り込まれており、大変興味深く読むことが出来た。

島田氏は幻肢の解釈を拡げていく。幻肢とは即ち手足のみを示すのではなく、人の全身さえも幻視させることが出来るというのだ。心霊現象を人間に見せると云われている側頭葉と前頭葉の間にある溝、シルヴィウス溝に刺激を与えることで幻視が起こるというのが本書での説だ。このシルヴィウス溝はアレキサンダー大王、シーザー、ナポレオン、ジャンヌ・ダルクといった歴史上の英雄やゴッホ、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ソクラテスといったその道の天才らが癲癇もしくは偏頭痛を持っており、それがシルヴィウス溝に強い刺激を与えて、常人にはない閃きや神の啓示などを聞いたとされている。ここに蓄えられているのは過去に経験した、忘れられた記憶も呼び覚ますことになり、それがかつて存在した手足があるように錯覚させたり、もしくは人そのものをも存在しているかのように思わせたりする、そんな仮説から本来ならば鬱病の治療としてその原因とされている左背外側前頭前野のDLPFCに、経頭蓋磁気刺激法、即ちTMSという脳に直接磁気を当てて刺激して血流を促し、脳の働きを活性化させる治療法をシルヴィウス溝に適用させるという方法で遥は雅人の幻を見ようと試み、そして成功するのだ。それはまた遥が失った事故当時の記憶を呼び覚ますことにも繋がる。遥は雅人の幻とのデートを重ねるうちに雅人への愛情が甦り、「あの日」の記憶を懸命に呼び覚まそうとする。

彼女は今日も幻とデートする。それは大学から自宅までのほんの数キロのデート。彼女しか見えない彼はいつも彼女のアパートの前で消え去る。その短い逢瀬が楽しければ楽しいほど、彼女の寂しさは募っていく。それでも彼女は亡くした彼に逢いたいがために今日も自分の脳を刺激する。そしてまた刹那のデートを繰り返す。

そんなペシミスティックなコピーが思いつきそうな感傷的な展開を見せるが、そんな切ない幻との恋愛も次第に様相が変わっていく。

通常ミステリならば例えば館の見取り図が欲しくなったりするが、本書では脳のそれぞれの部位が成す役割を詳らかに語るため、脳の各部位を示した図が欲しいと思った。海馬、大脳皮質、小脳、シルヴィウス溝、側頭葉、前頭葉とここに至るまでにそれだけの脳の部位が出てきた。更には記憶のルートは頭頂葉、側頭葉、帯状回を経由する、恐怖心や不安感をもたらす扁桃体、その中にある背外側前頭前野のDLPFC、等々が続々と登場する。これらそれぞれの部位を示した図があれば、それをもとに自分の頭に照らし合わせて読むとまた格別に理解できただろう。

そんな最新技術と事実を盛り込んで展開し、再生される失われた記憶の内容はなんともバカげた真相である。ここでは敢えて書かないが、これは島田氏の女性観が反映されているのかと眉を潜めてしまうような真相である。

しかし島田作品初の映画化作品として選ばれた本書。いや映像化を前提に書かれたのかもしれないが、亡くなった彼の幻との短いデートという儚げなラヴストーリーが、一転して事故の真相を知った途端、視聴者はどんな思いを抱くだろうか?私は前述したようにもっとどうにかならなかったのかと思って仕方がない。機会があれば映画の方も見てみよう。

No.1362 6点 人狼の四季- スティーヴン・キング 2017/12/06 23:50
キングが怪奇コミックスの鬼才バーニ・ライトスンと組んで著したヴィジュアル・ホラーブック。キングにしては珍しく、全編でたった200ページにも満たない。しかもその中にはふんだんにライトスンによるイラストが挟まれているため、文章の量もこれまでのキング作品では最少だ。

物語も実にシンプルでメイン州の田舎町に突如現れた人狼による被害について月ごとに語られる。
1月から12月までの1年間を綴った人狼譚。キングにしてはシンプルな物語なのは話の内容よりもヴィジュアルで読ませることを意識したからだろうか。その推測を裏付けるかのようにバーニ・ライトスンはキングが文字で描いた物語を忠実に、そして迫力あるイラストによって再現している。1月から12月まで、それぞれの月の町の風景と、人狼が関係する印象的なシーンを一枚絵で描いている。特に後者はキングが描く残虐シーンを遠慮なく描いており、背筋を寒からしめる。特に人狼の巨大さと獰猛さの再現性は素晴らしく、確かにこんな獣に襲われれば助かる術はないだろうと、納得させられるほどの迫力なのだ。

小さな町に訪れた災厄を群像劇的に語り、そしてその始末を一介の、しかも車椅子に乗った障害を持つ少年が成す、実にキングらしい作品でありながら、決して饒舌ではなく、各月のエピソードを重ねた語り口は逆にキングらしからぬシンプルさでもある。そしてキングにしてはふんだんにイラストが盛り込まれているのもまたキングらしからぬ構成だ。それもそのはずで、解説の風間氏によれば当初イラスト入りカレンダーに各月につけるエピソード的な物語として考案された物語だったようだ。しかしそんなシンプルさがかえってキングにとって足枷になり、7月以降はマーティを登場させ、人狼対少年という構図にしてカレンダーに添えられる物語ではなく、中編として最終的には書かれたようだ。だからキングらしくもあり、またらしからぬ作品というわけだ。

文章とイラストで存分に狼男の恐怖を味わうこと。それが本書の正しい読み方と考えることにしよう。

No.1361 7点 インド王妃の遺産- ジュール・ヴェルヌ 2017/12/03 21:27
ヴェルヌにしては実に珍しい作品だ。未開の地アフリカ、世界一周に地の底、月面、海底、無人島とこれまで人類未踏の地への冒険を主にテーマにしてきた彼が選んだのはインド王妃の莫大な遺産をひょんなことから相続した2人の学者の対照的な生き様、そしてそれによって生じる諍いについての話だ。

20世紀の東西冷戦を彷彿させる、ヴェルヌらしからぬ緊迫した物語だ。フランス人とドイツ人による争いの構図となっているが、実はドイツ人であるシュルツ教授の一方的な対抗意識が生んだ無意味な戦争であるのが正確だろう。
この争いを生み出す原因の1つとして民族間の軋轢が語られている。というよりもドイツ人であるゲルマン民族が他の民族よりも優秀であることを証明し、誇示するためにシュルツ教授が我が一方的にケンカを吹っかけてきているのだ。ラテン民族のフランス人、サクソン民族のイギリス人など劣っている民族は浄化すべきであるといういわば選民思想が根源にある。まさにこれは後の第二次世界大戦でのナチスを彷彿させる内容だが、実は2017年の今現在、これは北朝鮮の度重なるミサイル試射の様子と実に重なるのである。つまりシュタールシュタートが北朝鮮、翻ってフランス市は日本ということになろうか。1879年の段階で書いていたヴェルヌの先見性には全く目を見張るものがあるが、一方で好戦的な国が平穏で安泰な国を、一方的な敵意で以って攻撃を画策する構図は実はこの時代から全く変わってないとも云える。

また本書はある意味スパイ小説の先駆けとも云える作品でもある。サラザン博士によって両親を早くに亡くしたマルセル・ブリュックマンはスイス人の製錬技師ヨハン・シュヴァルツと名を偽り、シュタールシュタートの製鉄工場に入り込む。そしてそこで彼は頭角をめきめきと現し、どんどん地位を向上させ、とうとう君主であるシュルツ教授の片腕にまでなるのである。それは巷間で噂されている新兵器の情報を得るためだった。しかしマルセルはシュルツ教授の、新兵器の秘密を知った者は死ななければならないという狂気の原則論によって死刑に処せられるが、危ういところで脱出に成功するのである。
このマルセルのシュタールシュタート潜入の一部始終はまさにスパイ小説そのものだ。しかも一都市がそのまま巨大軍事企業であることを考えると産業スパイとも読めるのだ。現在最初期のスパイ小説はジェイムズ・フィニモア・クーパーが1821年に発表した『スパイ』が先駆けとされており、その後には1901年のキップリングの『少年キム』が続くが、本書もまた一連のスパイ小説の系譜に名を連ねるべきではないだろうか。

230ページ弱のヴェルヌにしては短い長編でありながら、そこに収められた内容は科学の知識を盛り込んだSF小説でありながら、都市小説、政治小説、スパイ小説、企業小説など色んな要素を孕んだ作品である。
特に今回著しく目立ったのが敵役となるシュルツ教授の極端なまでのゲルマン民族至上主義志向である。ゲルマン民族こそ世界一の民族として知らしめるために彼はフランス市を近代兵器によって壊滅させ、全世界に恐怖と驚愕をもたらし、その威力を見せつけることに執念深い拘りを持ち続ける。調べてみると本書が著された1879年はドイツはビスマルク政権下であり、オーストラリア・ハンガリー、イタリアと結んだ三国同盟やオーストリア・ハンガリーとロシアと結んだ三帝同盟によってフランスに強い牽制を行っていた時代だ。つまり当時の世相が大きく反映されており、シュルツ教授はビスマルクをモデルしたのではないかと思われる。

しかしこれほど直截的にヴェルヌが特定の国の人物を悪人にしたのも珍しい作品だ。フランス人でありながら、アフリカ人、カナダ人、アメリカ人を中心に据え、夢溢れる冒険譚を紡いできたヴェルヌが書いた、皮肉溢れる近未来戦争小説。当時ヴェルヌが抱いていた憤りがこの作品には込められている。歴史の教科書のほんの数行でしか語られなかった当時のヨーロッパの政情が本書を通じてさらに深く垣間見られる。これこそ読書の、知の探索の醍醐味と云えるだろう。

しかし解説が三木卓とはねぇ。いやはや歴史を感じさせる。

No.1360 9点 エンジェルズ・フライト- マイクル・コナリー 2017/12/03 00:35
ケーブルカーと云えばLAではなくサンフランシスコのそれが有名だが、LAにもあり、それが本書で殺人の舞台となるエンジェルズ・フライトだ。実は世界最短の鉄道としても有名だったが、2013年に運行を停止していたらしい。しかし2016年の大ヒット映画『ラ・ラ・ランド』の1シーンで再び脚光を浴びて運行が再開したようだ。
1冊のノンシリーズを挟んでボッシュシリーズ再開の本書は奇遇にも最近再開されたケーブルカー内で起きた、LA市警の宿敵である強引な遣り口で勝訴を勝ち取ってきた人権弁護士の殺人事件に突如駆り出されたボッシュが挑む話だ。

作者はやはりボッシュに安息の日々を与えない。今度のボッシュはまさに否応なしにジョーカーを引かされた状況だ。警察の天敵で、何度も幾人もの刑事が苦汁と辛酸を舐めさせられた弁護士の殺人事件を担当することで、世論は警察による犯行ではないかと疑い、刑事も当初はその疑いを免れるために強盗によって襲われたものとして偽装する。
おまけに被害者は黒人であるのが実は大きな特徴だ。本書はスピード違反で逮捕された黒人をリンチした白人警官が無罪放免になったいわゆるロドニー・キング事件がきっかけで起きた1992年のロス暴動がテーマとなっている。作中LA市警及びハリウッド署の面々にとってもその記憶もまだ鮮明な時期で、エライアス殺人事件がロドニー・キング事件の再現になることを恐れており、少しでも対応を間違えば暴動になりかねない、まさに一触即発の状況なのだ。
作者自身もこのロドニー・キング事件を強く意識した物語作りに徹している。上に書いたように黒人であるロドニー・キングをリンチした白人警官が無罪放免になったのには陪審員が全て白人で構成されていたことが要因として挙げられている。一方エライアスが担当していたマイクル・ハリス事件もまた、事件に関わった警察及び検察官が全て白人であった。コナリーは実際の事件をかなり意識して書いていることがこのことからも窺える。従って本書では特に白人と黒人の反目が取り沙汰されている。ボッシュ達がこの微妙な、いや敢えて地雷を踏まされたような事件を担当するのも、ボッシュのチームに黒人の男女の刑事がいることが一因であることが仄めかされている。世紀末当時のLAはまだ根深い人種差別が横たわっていたことが描かれている。

更にエレノアとの結婚生活もまた破綻しかけている。元FBI捜査官でありながら、前科者という経歴で彼女はなかなか新たな職に就けないでいた。ボッシュも人脈を使って逃亡者逮捕請負人の仕事を紹介したりするが、エレノアはかつて捜査官として抱いていた情熱をギャンブルに向けていた。ラスヴェガスでギャンブラーとして生計を立てていた頃に逆戻りしていたのだ。ボッシュはエレノアに安らぎと全てを与える思いと充足感を与えられたが、エレノアはボッシュだけでは充たされない空虚感があったのだ。
本書で特に強調されているのは「すれ違い」だろうか。事件の舞台となったケーブルカー、「エンジェルズ・フライト」をコナリーは上手くボッシュの深層心理の描写に使っている。
一度は近づきながらもやがて離れていくケーブルカー。これを出逢いと別れを象徴している。一方同じ車両に通路を隔てて乗っている2人の関係性。これは同じ方向に進みつつも2人には何か見えない隔たりがある。ケーブルカーをボッシュが関わる女性との関係性に擬えるところにコナリーの巧さがある。
すれ違いと云えば、被害者エライアスの家族もそうなのかもしれない。人権弁護士として貧しき黒人たちの救世主として名を馳せた辣腕の黒人弁護士。しかし彼はその名声ゆえに近づいてくる女性もおり、それを拒まなかった。元人権弁護士でLA市警の特別監察官となっているカーラ・エントリンキンもまたその1人だった。
しかしエライアスの妻ミリーは女性関係については夫は自分に誠実であったと信じていますと告げる。決して誠実だったとは云わず、自分は信じているとだけ。これはつまりすれ違いをどうにか防ごうとする妻の意地ではないだろうか。世間に名の知れた夫を持つ妻の女としての矜持だったのではないだろうか。つまり彼女とハワード・エライアスのケーブルカーはそれぞれ上りと下りと別々の車両に乗ってはいたが、行き違いをせずにどうにかそのまま同じところに留まっていた、そうするように妻が急停止のボタンを押し続けていた、そんな風にも思える。

世紀末を迎えたアメリカの政情不安定な世相を切り取った見事な作品だ。実際に起きたロス暴動の残り火がまだ燻ぶるLAの人々の心に沈殿している黒人と白人の間に跨る人種問題の根深さ、小児に対する性虐待にインターネットの奥底で繰り広げられている卑しき小児ポルノ好事家たちによる闇サイトと、まさしく描かれるのは世紀末だ。
では新世紀も17年も経った現在ではこれらは払拭されているのかと云えば、更に多様化、複雑化し、もはやモラルにおいて何が正常で異常なのかが解らなくなってきている状況だ。人種問題も折に触れ、繰り返されている。そういう意味ではここで描かれている世紀末は実は2000年という新たな世紀が孕む闇の始まりだったのかもしれない。そう、それは混沌。死に値する者は確かに制裁を受けたが、それは果たして正しい姿だったのか。そして友の死の意味はあったのか。向かうべき結末は誰かが望み、そしてその通りになりもしたが、そこに至った道のりは決して正しいものではない。
結果良ければ全て良しと云うが、そんな安易に納得できるほどには払った犠牲が大きすぎた事件であった。
自分の正義を貫くことの難しさ、そして全てを収めるためには嘘も必要だと云うことを大人の政治原理で語った本書。その結末は実に苦かった。

ボッシュの息し、働き、生活する街ロス・アンジェルス。天使のような美しい死に顔をして亡くなったステーシーがいた街ロス・アンジェルス。まさに天使の喪われた街の名に相応しい事件だ。
その街にあるケーブルカーの名前は「エンジェルズ・フライト」、即ち「天使の羽ばたき」。しかし天使の喪われた町での天使の羽ばたきは天に昇るそれではなく、地に墜ちていく堕天使のそれ。
最後にボッシュは呟く。犯人の断末魔は堕天使が地獄へ飛んでいく音だったと。エンジェルズ・フライトの懐で亡くなったエライアスはこの堕天使によって道連れにされた犠牲者。世紀末のLAは救済が喪われたいくつもの天使が墜ちていった街。そんな風にLAを描いたコナリーの叫びが実に痛々しかった。

No.1359 4点 新千年紀古事記伝YAMATO- 鯨統一郎 2017/11/30 11:25
『千年紀末古事記伝ONOGORO』に続く、鯨統一郎版古事記伝である。前作では稗田阿礼が巫女の力で感じ取る物語を綴る体裁であったが、続編にあたる本書ではヤマトタケルは“世界”を創るために根源へと遡る。

歴代の大王たちがなんとも本能の赴くままに振る舞うことよ。
前作では男と女の交合いこそが国創りだと云わんばかりにセックスに明け暮れるという話が多かったが、本書は神々から人間に登場人物が変わっただけあって、神々よりも理性はあるため、自重する面も見られるが、それでも妻がありながらも美しく若い女性、また熟れた肢体を持った女性を見ると見境なく交合う話が出てくる。東に行っては美しい娘に永遠の契りを誓いつつも西に行ってまたも美しい女性に出会えば后として迎えるとうそぶく。男のだらしなさが横溢している。更には自分こそが一番強いことを証明するため、各地の強者たちと戦い合う。それは身内も同様で王の兄の座を虎視眈々と狙って討ち斃そうとする兄弟げんかも繰り返される。昔から男は欲望のままに生きる子供っぽい生き物であるのだと殊更に感じる一方、昔の女性の一途さに感銘した。

はっきり云えばそれら歴代の統治者たちの物語にミステリの要素は全くな
い。前作ではアマテラスと交合うために天の岩屋戸に籠ったスサノヲがアマテラスの背中に短剣を突き立てて殺害しながらも密室の中から忽然と消える密室殺人が盛り込まれていたが、本書ではそんな要素も全くない。せいぜいヤマトタケルが各地の強者を成敗するのに智略や奸計を用いたくらいだ。
従って本書は単純に古事記の解説本のように読んでいたが最後になって本書の意図が判明する。これはつまり本書全体が鯨氏が仕掛けた壮大なトリックなのだと。

このオチを是と取るか否と取るかは読者次第。ただ本書における鯨氏の意図は理解できる。
歴史とはずっと研究が続き、その都度生じる新たな発見で内容が改変されていく学問である。従って100人の学者がいれば100通りのの解釈が生まれる。鯨氏はこの歴史の曖昧さ、あやふやさこそがそれぞれの読者が学んできた歴史という先入観を利用してひっくり返すことをミステリの要素としていたのだ。デビュー作の『邪馬台国はどこですか?』はまさにそれをストレートに描いたもので、本書は逆に古事記のガイドブックのように読ませて、それぞれが知っている古事記との微妙な差異を盛り込むことでミステリとしたのだ。

ただ正直に云って本書は古事記をもとにした黎明期の日本の統治者たちのエピソードを綴り、それをヤマトタケルが造った世界であるという一つの軸で連なりを見せる連作短編集として読むのが正解だろう。私は1つの長編、そしてミステリとして読んでいたため、どんどん変遷していく時の治世者たちのエピソードの連続に、果たしてどこに謎があるのだろうと首を傾げながら読んだため、読中は作者の意図を汲み取るのに実に理解に苦しんだ。

もしかしたら本書の妙味とはこれを読んで古事記の内容が解ったと思ってはならない、古事記とは異なる点が多々あるからそれは自分で調べなさいと読者に調べて知ることの歓びを与えることなのだろう。だからこそ巻末に記載された参考文献一覧に、「本文読了後にご確認ください」と作者が注釈を入れているのだろう。

解らないことは自分で調べよう、じゃないと嘘をそのまま鵜呑みにするよ。
それが今まで4冊の鯨作品を読んできて感じたこの作者の意図であり、警告であると思うのである。

No.1358 9点 返事はいらない- 宮部みゆき 2017/11/30 00:47
いやはや脱帽。久しぶりに宮部作品を、それも短編集を読んだが、流石と云わざるを得ない。犯罪や人の妬み、嫉みという負のテーマを扱いながら、読後はどこか前向きになれる不思議な読後感を残す佳品が揃っている。

偽造カード詐欺と狂言誘拐を組み合わせた表題作、後の『火車』でも取り上げられるカード破産をテーマにした「ドルネシアへようこそ」、店の金を持ち逃げされた従業員を追ったレストラン経営者のある決意を語った「言わずにおいて」、盗聴器が仕掛けられた引っ越し先の前の住人の正体を探る「聞こえていますか」、ブランドや装飾品に自分の存在価値を見出した女性の借金まみれの生活を扱った「裏切らないで」、そして最後は借金のカタに婚約指輪を取られた従姉のために一肌脱ぐ高校生の活躍を描く「私はついてない」。そのどれもが読後、しっとりと何かを胸に残すのである。

80年代後半から90年代に掛けて、狂乱の時代と云われたバブル時代の残滓が起こした当時の世相を映したような事件の数々。そんな世相を反映してか、6編中5編が金銭に纏わるトラブルを描いている。しかしそれらは過ぎ去った過去ではなく、今なお起きている事件でもある。

こんな出来栄えの短編集だからベストの作品が選べるわけがない。全てがそれぞれにいい味を持った短編だ。だから敢えてベストは選ばないが、唯一刑事を主人公にした「裏切らないで」が作者がこの時代の特異性を能弁に語っているのでちょっと書いておきたい。

地方から出てきて若さを武器に借金をしながらもいい仕事に就いていい男を見つけようとしていた女性が殺される。その彼女を殺した女性は東京の北千住から引っ越してきた女性なのにそこは「東京」ではないという。当時煌びやかで華やかさを誇ったバブル時代は実際は中身のない好景気で、その正体が暴かれた途端に弾けてしまい、しばらく世の中はその後始末に追われた。そんな上っ面の時代の東京もまたメディアに創り上げられた幻に過ぎなかったのではないかと刑事は述懐する。それは彼女たちの生き方も見た目を着飾ることに終始して、やりたいことがなく、ただ「貰う」だけ、手に入れるだけを目指していた。その中に中身があるかないかも分からずに。

本書はそんな時代の、東京を映した短編集。しかしバブル時代のそんな空虚さを謳っているのに、時代の終焉を迎え、乗り越えようとする人たちに向けての応援の作品とも取れる。こんな作品、宮部氏以外、誰が書けると云うのだろうか?
解っている。だから勿論、この問いかけに対する「返事はいらない」。

No.1357 7点 本棚探偵 最後の挨拶- 喜国雅彦 2017/11/26 11:59
今回も本に纏わるおかしな面々のおかしな話や、喜国氏の本に対する至上愛が語られている。
恒例となった製本では3回に分けて私家版の『暗黒館の殺人』上中下巻+別冊の制作過程が書かれているし、本棚探偵の本分(?)である他人の本棚の整理についてはまたもや狂気の収集家日下三蔵氏の蔵書整理の模様がこれまた3回に分けて語られる(それほどまでに費やしながら、一向に片付かない日下邸。家人の苦労が偲ばれる。特に驚いたのが蔵書の山に埋もれて見れなくなったテレビがアナログ放送の物だったこと)。

とこのように古書やミステリに纏わる面白エピソードやおふざけが今回も収められているが、今までと異なるのは喜国氏が古書収集に幕を引き始めたところにある。トランク1つに収まるまで本を整理したいとその選出を試みてもいる。喜国氏もなんと59歳。会社勤めをしていれば来年には定年という年齢だ。そして知人の中にも死を迎える人たちが出てくる年齢でもあり、実際彼の後輩の訃報が本書に触れられている。そんな彼に老眼という転機が訪れ、本を整理するようになったり、また一箱古本市に出品したり、古本仲間が神保町に出店したり、と自分の蔵書を減らす方向にベクトルが向いているところが今まで違うところだ。
これは恐らく収集家の行き着く先ではないだろうか。とにかく若い頃には知識欲と収集欲に駆られ、自分の蔵書を増やすことに腐心していたが、老境に差し掛かると、これらを整理し、むしろ自分で持っておくよりも次の世代に引き継ごうという心持になってくるようだ。
また最後から二番目のエピソードに収録されている「12歳のハローワーク」には自身が自称する本棚探偵の職業について触れられている。これは次世代にこの本棚探偵と云う職業を引き継ごうという意思の表れなのだろうか。

そんな感じで収集人生を畳み掛けているかのように読める本書はタイトルに冠せられている通り、これは本棚探偵最後の1冊になるのだろうか?作者も一区切りになるとあとがきで書いている。
だがそうではないだろう。拘りの喜国氏ならばシャーロック・ホームズの短編集のタイトルに則って『~事件簿』までは書くだろうと確信している。従って有終の美という言葉は私は使わない。日本推理作家協会賞を受賞したからと云って勝ち逃げするのは性に合わないでしょう。

本当のさよならはその時にとっておこう。次も書きますよね、喜国さん?


No.1356 10点 わが心臓の痛み- マイクル・コナリー 2017/11/22 23:43
これは誰かの死によって生を永らえた男が、その誰かを喪った人のために戦う物語。しかしその死が自分にとって重くのしかかる業にもなる苦しみの物語でもある。

何しろ導入部が凄い。コンビニ強盗で殺された女性の心臓が移植された元FBI捜査官の許にその姉が訪れ、犯人捜しの依頼をするのである。
これほどまでに因果関係の強い依頼人がこれまでの小説でいただろうか。もうこの設定を考え付いただけで、この物語は成功していると云えよう。

しかし驚くべきはコナリーのストーリーテリングの巧さである。
例えばボッシュシリーズではこれまでパイプの中で死んでいたヴェトナム帰還兵の事件、麻薬取締班の巡査部長殺害事件、ボッシュを左遷に追いやった連続殺人犯ドールメイカー事件、そして母親が殺害された過去の事件、車のトランクで見つかったマフィアの制裁を受けたような死体の裏側に潜む事件、更にノンシリーズの『ザ・ポエット』ではポオの詩を残す“詩人”と名付けられた連続殺人鬼の事件と、それぞれの事件自体が読者の胸躍らせるようセンセーショナルなテーマを孕んでいたが、本書では心臓を移植された相手を殺害した犯人を追うというこの上ないテーマを内包していながらも、その事件自体はコンビニ強盗・ATM強盗と実にありふれたものである。
日本のどこかでも起きているような変哲もない事件でさえ、コナリーは元FBI捜査官であったマッケイレブの捜査手法を通じて、地道ながらも堅実に事件の縺れた謎を一本一本解きほぐすような面白みを展開させて読者の興味を離さない。これは即ち巷間に溢れた事件でさえ、コナリーならば面白くして見せるという自負の表れであろう。

本書の原題は“Blood Work”と実にシンプルだが、これほど確信を突いている題名もないだろう。本来血液検査を表すこの単語、作中ではFBI捜査官のうち、仕事として割り切れぬ怒りを伴う連続殺人担当部門の任務のことを「血の任務」と呼ぶことに由来を見出せるが、本質的にはマッケイレブの体内を流れる依頼人グラシエラの妹グロリアの血が促す任務と云う風に取るのが最も的確だろう。映画の題名も『ブラッド・ワーク』とこちらを採用している。
まさに本書は血の物語だ。血は水よりも濃いと云われるが、これほど濃度の高い人の繋がりを知らされる物語もない。同じ血液型という縛りでごく普通の生活をしていた人たちが突然その命を奪われる。それもその臓器を必要とする者のために。そしてその中にまさか捜査をする自分も含まれていることをも知らされる。そしてその犯人が被害者を殺害することで自分が新たな命を得たことを知らされる。そしてその因果にはさらに醜悪な意図が含まれていたことも判明する。
こんなミステリは読んだことがない!私はこの瞬間コナリーのキャラクター設定、そしてプロット作りの凄さを思い知らされた。

いやはやなんとも凄い物語だった。コナリーはまたもや我々の想像を超える物語を紡いでくれた。そして何よりも凄いのは犯人へ繋がる手掛かりがきちんと提示されていることだ。
つまり読者はマッケイレブと同じものを見ながら、新たな手掛かりに気付く彼の明敏さに気付くのだ。特に真犯人にマッケイレブが気付く大きな手掛かりは明らさまに提示されているのに、驚かされた。コナリー、やはり只のミステリ作家ではない。

No.1355 7点 チャンセラー号の筏- ジュール・ヴェルヌ 2017/11/02 23:57
小学生の頃、世界の七不思議を語った本があり、その時に船が遭難する不思議な海域、サルガッソー海のバミューダトライアングルが取り上げられていた。その恐ろしさは当時少年だった私の心に鮮明に刻み込まれており、決して行きたくはないものだと思っていたが、まさかこの歳になってそれらの言葉と再会するとは思えなかった。そしてやはりその海域は伝説通りの魔の海域であることが本書の登場人物たちが遭遇する困難によって再認識させられた。
本書は実際にフランスの軍艦で起きた事件をモデルにしているようで、これもまたヴェルヌ作品では珍しい。物語は帆船チャンセラー号の1人の乗客J・R・カザロンの手記という形で進む。


個性的な乗客や一癖も二癖もある水夫たちが船、そして筏という1つの狭い空間で救出されるまでの4ヶ月の海での生活が語られる。
まず彼らを襲うのが船倉内で起きた火災。それからハリケーンの直撃に遭い、岩礁に座礁し、そのショックで船底に穴が空き、そこから流入する海水で消火をした後、船の残材で修復した後、岩礁を爆薬で破壊して再び航海に乗り出す。
ここまでは他のヴェルヌ作品同様の冒険スペクタクルの面白さをまだ備えているが、そこからはまさに絶望また絶望の連続である。

実話をもとにしているせいか、ヴェルヌ作品にしては珍しく悲愴感漂う雰囲気で物語が進む。これまでのヴェルヌ作品においても冒険に旅立つ、もしくは無人島に漂着した主人公たちにも次から次へと困難が待ち受けていたが、それらを知恵と勇気と閃きと実行力で乗り越えるという痛快さが伴っていた。
本書でも上に書いたような岩礁での探検やハムに似た形からハム・ロック岩礁と命名したり、また筏に乗ってからもタイを釣ったり、海藻の一種ホンダワラを採って、糖分を補給するなど、他のヴェルヌ作品と同様のサヴァイバル術が展開されるが、そのような雰囲気はそこまで。そこからは苦難と苦痛、裏切りと疑心暗鬼に満ちた、極限状態下での争いが繰り広げられる。

とにかく次々に人が死んでいく。その死にざまも様々だ。
そしてこんな生きるか死ぬかの極限状態での人間ドラマが実に生々しく描かれる。
極限状態の中では人間は2つに分かれる。生きることに執着しながらも人間としての尊厳を保とうとする者と捨て去ろうとする者だ。
前者の一人で特筆すべきは副船長から船長になったロバート・カーティスだ。どんな苦難が訪れようとも決して諦めない。99%の絶望の中に1%の希望があればそれを信じ、全うしようとする男だ。この男無くしては彼らの生還は成し得なかっただろう。
後者ではひっそりと食糧を隠し持ち、自分だけ助かろうとする者や人が死ぬことで分け前が増えることを望む者に死者が出来ればその一部を餌に釣りをする者はまだ可愛い方で、死者を食糧と捉え、死ぬや否や飛びつく者まで出てくる。

最近ではGPSなどの設備が発達して、誰もが気軽に海や山へ乗り出したりするが、その便利さを過信して十分な準備を怠り、海や山での遭難のニュースが現代でも起こっている。ニュースでは行方不明になったこと、そして数日後に救出されたこと、もしくは遺体で発見されたことが僅か数分で語られるのみだ。そんな自然の猛威に直面した人の生き死にの裏にはこれほどまでに凄まじい一幕があることを本書は伝えている。

冒険小説、SF小説の祖とも云われるヴェルヌにとっては異色の作品だった。1人のヒーロー的存在とそれをサポートする仲間たちが登場するのが常であった彼の小説の中では珍しく、ずる賢い人間たちが多く出てくる話であった。実際の冒険がこれほどまでに苦難と苦痛に満ち、醜いものであることを知っているからこそ、彼は夢とロマンに溢れる作品を描いたのかもしれない。本書はある意味ヴェルヌがそんな夢溢れる物語を書き続けるためにいつかは通らなければならなかった、極限状態に陥った人間の本当の姿を描いた作品、そんな風に思うのである。

No.1354 10点 スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編- スティーヴン・キング 2017/10/31 23:53
先頃読んだ『ゴールデンボーイ』に収録された2編と合わせて『恐怖の四季』として編まれた(原題は“Different Seasons”とニュアンスが異なるのだが。正しくは本書収録の前書きに書かれている『それぞれの季節』が正しいだろう)中編集の後編に当たるのが本書。

この中編集はキング自身が語るように、彼の専売特許であるモダンホラーばかりではなく、ヒューマンドラマや自叙伝的な作品もあり、また1冊の本として刊行するには短編には長すぎ、長編としては短すぎる―個人的には300ページを超える「ゴールデンボーイ」と「スタンド・バイ・ミー」は日本では1冊の長編小説として刊行しても申し分ないと思うが―ために、この―当時の―キングにとって扱いにくい“中編”たちを1冊に纏めて、その纏まりのなさを逆手に取って“Different Seasons”と銘打ってヴァラエティに富んだ中編集として編まれたのが本書刊行の経緯であることが語られている。
そして4作品中3作品が映像化され、しかも大ヒットをしていることから、本書は結果的に大成功を収めた。そしてその作品の多様さが“キング=モダンホラー”のレッテルを覆し、むしろその作風の幅の広さを知らしめることになった。

まず表題作はもう30年近く前に見た映画なのに、本作を読むことで鮮明に画像が蘇ってくる。犬に追いかけられて必死に逃げるゴーディの姿。鉄橋を渡っている時に現れた列車から轢かれまいと死に物狂いで逃げる2人の少年たち。後に小説家となるゴーディが語るパイ食い競争の創作物語の一部始終。池に入ってたくさんのヒルに咬まれ、更にゴーディは股間にヒルが吸い付いて卒倒する。ゴーディが心底心を許すクリスが自分がとんでもない家族に生まれついたことで将来を儚み、ゴーディに未来を託すシーン。そして町の不良たちと死体の第一発見者の権利を賭けて対決する場面、などなど。それらは映像で見たシチュエーションと全く同じであったり、細かい部分で違ったりしながらも脳裏に映し出されてくる。当時観た時もいい映画だと思ったが、今回改めて読み直して自分の心にこれほどまでに強く焼き付いていることを思い知らされた。
このあまりに有名な題名は実は映画化の際につけられたものだった。この題名と共にリバイバルヒットとなったベン・E・キングの名曲“Stand By Me”がどうしても頭に浮かんでしまい、読書中もずっと映像と曲が流れていた。それほど音と画像のイメージが鮮烈なこの作品の映画化はキング作品の中でも最も成功した映画化作品として評されているのも納得できる。
そして映画の題名こそが本作に相応しいと強く思わされた。“友よ、いつまでもそばにいてくれ”。それは誰もが願い、そして叶わぬ哀しい事実だから胸に響く。別れを重ねることが大人になることだからだ。そんな悲痛な願いが本書には込められている。だからこそ本書では12歳の夏の時の友人が最も得難いものだったことを強調するのだろう。

もう1編の「冬の物語」と副題のつく「マンハッタンの奇譚クラブ」は紹介者だけが参加できるマンハッタンの一角にあるビルで毎夜行われる集まりの話。そこは主に老境に差し掛かった年輩たちが毎夜煖炉に集まって1人が話す物語を聞く、云わばキング版「黒後家蜘蛛の会」とも云える作品だ。『ゴールデンボーイ』の感想に書いたように、この『恐怖の四季』と称された中編集に収められた作品のうち、唯一映像化されていないのがこの作品だが、だからと云って他の3作と比べて劣るわけではなく、むしろ映像化されてもおかしくない物凄い物語だ。
その美貌ゆえに俳優を目指しニューヨークに出てきたものの、右も左も解らない大都会で生きるために演技教室で知り合った男性と肉体関係を持ったがために夢を断念し、シングルマザーの道を歩まなければならなくなったある女性の話だ。この実にありふれた話をキングはその稀有な才能で鮮明に記憶される強烈な物語に変えていく。
自分のボキャブラリーの貧弱さを承知で書くならば、少なくとも10年間は何も語らなかった男がとうとう自分から話をすると切り出しただけに、読者の期待はそれはさぞかし凄い物語だろうと期待しているところに、本当に凄い物語を語り、読者を戦慄し、そして感動させるキングが途轍もなく凄い物語作家であることを改めて悟らされることが凄いのだ。
そして2012年にはこの最後の1編も映画化されるとの知らせがあったが、2017年現在実現していない。「ゴールデンボーイ」は未見だが、残りの2作の映画は私にとって忘れ得ぬ名作である。もし実現するならばそれら名作に比肩する物を作ってほしいと強く願うばかりだ。

春と夏、秋と冬。それぞれ2つの季節に分冊された2冊の中編集はそれぞれの物語が陰と陽と対を成す構成となっている。春を司る「刑務所のリタ・ヘイワース」と秋を司る「スタンド・バイ・ミー」が陽ならば、夏を司る「ゴールデンボーイ」と冬を司る「マンハッタンの奇譚クラブ」が陰の物語となる。それは中間期は優しさの訪れであるならば極端に暑さ寒さに振り切れる季節は人を狂わす怖さを持っているといったキングの心象風景なのだろうか。
そして各編に共通するのは全てが昔語り、つまり回想で成り立っていることだ。キング本人を彷彿させる小説家ゴードン・ラチャンスを除き、残り3編は全て老人の回想である。それはつまりヴェトナム戦争が終わった後のアメリカが失ったワンダーを懐かしむかの如くである。田舎の一刑務所で起きたある男の奇蹟の脱走劇、元ナチスの将校だった老人の当時の生々しい所業、少年期の終わりを迎えた12歳のある冒険の話、そしてまだ若かりし頃に出逢ったある妊婦の哀しい物語。それらは形はどうあれ、瑞々しさを伴っている。

本書の冒頭に掲げられた一文“語る者ではなく、語られる話こそ”は最後の1編「マンハッタンの奇譚クラブ」に登場するクラブの煖炉のかなめ石に刻まれた一文である。
この一文に本書の本質があると云っていいだろう。モダンホラーの巨匠と称されるキング自身が語る者とすれば、本書はそんな枠組みを度外視した語られる話だ。
つまりキングが書いているのはホラーではなく、ワンダーなのだ。キングはモダンホラー作家と云うレッテルから解き放たれた時、斯くも自由奔放に物語の世界を羽ばたけるのだと証明した、これはそんな珠玉の作品集である。
春夏秋冬、キングの歳時記とも呼べる本書は『ゴールデンボーイ』と併せて私にとってかけがえない作品となった。

No.1353 4点 猿島館の殺人~モンキー・パズル~- 折原一 2017/10/25 23:42
折原一氏と云えば叙述トリックの雄として知られているが、翻ってこの黒星警部シリーズは密室物ミステリを扱う、本格ミステリど真ん中の設定である。上に書いたように本書もまた密室ミステリであるが、以前より作者は新しい密室ミステリは生まれず、これからは過去のトリックをアレンジした物でしかないと公言しており、密室物を売りにしたこのシリーズではいわゆる過去の名作ミステリの本歌取りが大きな特徴となっている。

本書ではまずポオの「モルグ街の殺人」がメインモチーフになっているが、その後もドイルの「まだらの紐」をモチーフにした密室殺人が起きるなど、複合的に過去のミステリのトリックがアレンジされて導入されている。
しかしさすがに3作目ともなると作者もこの設定自体にミスディレクションを仕掛けており、上に掲げたミステリをモチーフにしながら、実はもう1つクイーンの名作の本歌取りでもあったことが最終章で明かされる。1作目はクイーンの中編「神の灯」であったことを考えるとやはりこの作者は根っからのクイーン好きらしい。

しかしこの過去の名作ミステリから本歌取りすることを明言し、そこから新たなミステリを生み出すことに対しては異論はないのだが、黒星警部シリーズの一番困ったところは本歌取りした原典のトリックや犯人を明らさまにばらしていることだ。
本書でもいきなり「モルグ街の殺人」の犯人を明かし、更に「まだらの紐」のトリックも躊躇いもなく明かしているし、更には上に書いたクイーンの原典についても伏字ではあるが、伏字の意味がないほど明確に書かれている。
これらは恐らくあまりにも有名過ぎて本書の読むミステリ読者ならば既知の物だろうと作者自身が判断した上の記述だろうが、やはりどんな判断に基づこうがミステリのネタバレは厳禁である。特に他のミステリのネタバレを公然とすることに大いに抵抗を感じるのだ。

現代のミステリ読者は島田荘司氏の作品や新本格と呼ばれる綾辻氏の作品以降のミステリから触れることが多く、過去の名作、特に黄金期の海外ミステリを読まない傾向にあると云われて久しい。そんな背景も考慮して折原氏は今の読者が読まないであろう過去のミステリのネタバレをしているのかもしれないが、それでもやはりそれはミステリを書く者が読者に対して決して犯してはいけない不文律であると私は強く思うのである。特にこの黒星警部シリーズはカッパノベルスから刊行されたサラリーマンがキオスクで気軽に出張中に読むような類いのものであるから、そんな一般読者にさえネタバレをしているのである。

本歌取りをすることに是非はない。しかしその内容に問題がある。ネタバレをするのであれば、まずはその断りを書くべきだし、いやもしくはネタ元を明かす必要もないのではないかと思う。解る人には解ればいいのであって、別に明確にネタ元を示す必要もないだと思う。

あとそもそも埼玉県白岡署の黒星警部が神奈川県の江の島動物園から逃げたチンパンジーを探す担当になることが実におかしい。神奈川県警の所轄なのになぜ埼玉県の警部が担当するのか?書中では白岡には東武動物公園があるからと理由になっていない理由で駆り出されているが。この辺の非現実的な設定も気になった。現在のミステリならば必ず突っ込まれるところだろう。

さて本書の舞台となった猿島は実は実際に存在し、刊行時は無人島で大蔵省(刊行当時)関東財務局の管理地であり、立入禁止で渡し船もないと書かれているが、実は今では猿島公園として開放されている。
最近は昔の軍の要所の史跡としてよりもジブリ作品の『天空の城ラピュタ』を彷彿とさせる風景として人気のスポットとなっており、案外今回の葉山虹子の取材は時代を先駆けた現実味のある話だったようだ。また本書に書かれている猿島の由来となった日蓮に纏わる伝説も実際に伝えられており、元宮司の一族だった猿谷家のような血筋もどこかにいるかもしれないと、案外荒唐無稽な話でないところが面白い。

但し次回からはネタバレ無しでお願いしたいものだ。

No.1352 7点 ブラッド/孤独な反撃- デイヴィッド・マレル 2017/10/23 23:58
これは喪った物を取り戻そうとして奪った男と、奪われた物を取り戻そうとして奮闘し、奪還したが、喪った物までは取り戻せなかった男たちの、哀しき兄弟の話だ。

神隠しに遭っていた弟が数十年ぶりに出逢ったら復讐者となっていた。この設定だけでも衝撃的なのに、マレルはさらに物語にツイストを仕掛ける。

ただ私が本当に恐ろしく感じたのは、ブラッドと数十年ぶりに再会したピーティの様子が本当に嬉しそうで楽しそうに見えたことだった。兄とその家族との団欒を満喫しているかのように振る舞いながら、心の底では全てを奪おうと考えていたことが実に恐ろしく感じた。この前段のブラッド一家とピーティとの和やかな交流の様子がピーティの心の暗黒の深さを助長しているように思える。

しかしこのような話を読むと、子供の頃の何気ない弟への仕打ちが起こした代償の重さを感じてしまう。物語の結末の苦さも含めて、こんなことが起こり得るアメリカの治安の悪さが恐ろしく感じる物語だった。

No.1351 9点 神秘の島- ジュール・ヴェルヌ 2017/10/16 23:46
上下巻併せて830ページ弱。これまでのヴェルヌ作品でも長大を誇る作品だが、ヴェルヌの膨大な知識によって次から次に繰り出されるサヴァイバル術や探検行によって全くだれることなく物語が続く。それまでのヴェルヌ作品の全てを注ぎ込んだかのような一大長編だ。
農林畜産、養殖業といった第1次産業から、製鉄、建築、建設、ガラス工業と云った製造業の第2次産業とたった5人と1頭の犬、そして途中で加わるオランウータンによってこれら全てのことが網羅されている。サイラス・スミスと云う、ヴェルヌ自身を投影させたかのような博学の技師の指導の下、有能なメンバーによって彼らの生活は発展を遂げ、一種の町を、いや独立した国家を形成していくかのようだ。

勿論それらは非常に出来過ぎの感はある。何事もスムーズに進み、時折獣たちに彼らの飼育場が荒らされそうになるなどの事件もあるが、それは大したものではない。また長きに亘る共同生活にありがちな住民同士の価値観の違いによる衝突や派閥なども生まれず、実に理想的なコミュニティを形成されているのも人間ドラマ的には起伏がないだろう。そういった部分がもしかしたらヴェルヌ作品が子供の読み物との評判を授かっていたのかもしれないが、こういったごく少数の人間によって運命を切り拓く純粋な楽しさを本書は備えている。

ところで不満を敢えて云うとすればヴェルヌの作品はとことん女気がないことだ。本書で登場するのは全て男どもだ。今まで読んできた作品で女性が物語に絡んできたのは『グラント船長の子供たち』と『八十日間世界一周』ぐらいではないだろうか。ヴェルヌの書く物語は少年たちの冒険心をくすぐるのには非常に優れているが、昨今の小説に必需品とも云えるロマンスが一切ないのである。これが世間をしてヴェルヌ作品を児童文学たらしめている1つの要因であると思える。

しかしそれだけでヴェルヌ作品を敬遠するのは大きな間違いだ。上に書いたように本書は数多の知識と生き抜く知恵が豊富に与えられ、しかも今までの一連のヴェルヌ作品が単発的に書かれたわけではなく、大きな物語世界が広がっていたことをも教えてくれるのだ。確かに現代の小説から見れば男女のロマンスなどの感情の起伏に乏しい面もあるが、今なお読まれるべき作品であるとの思いは強まった。

南北戦争からの決死の脱出、無人島に辿り着いた男たちのサヴァイバル生活、海賊たちとの戦い、そして彼らを見守る謎の存在、最後は生きるか死ぬかのタイムリミットサスペンス。
よくよく考えると現代の冒険小説に必要な要素がほとんど全て備わっている。ないのは上述した男と女のロマンスぐらいだ。19世紀の遺物と思わず、手に取ってみてはいかがだろうか。少年少女の頃に胸躍らせた冒険の愉しさが、4年間を諦めずに生き抜いた男たちの生活と共に必ず蘇ってくることだろう。

No.1350 8点 ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編- スティーヴン・キング 2017/10/04 23:44
キング版枕草子とも云える本書は4編中3編が映画化され、しかもそのいずれもが大ヒットしていることが凄い。それほどこの中編集には傑作が揃っていると云っていいだろう。

まず物語の四季は春から明ける。この季節をテーマに語られるのは「刑務所のリタ・ヘイワース」。副題に「春は希望の泉」と添えられている。まさしくその通り、これは希望の物語である。
この作品に対して私は冷静ではない。本作を原作として作られた映画『ショーシャンクの空に』は私の生涯ベスト5に入るほどの名作だからだ。静謐なトーンでじんわりと染み入るように進む物語に私は引き込まれ、そして最後の眩しいばかりの再会のシーンにこの世の黄金を見るような気になったからだ。本作でレッドが仮釈放され、アンディーの跡を追う一部始終は、人生の大半を刑務所で過ごした人たちが身体に染み付いた刑務所の厳格な生活リズムという哀しい習性とそれを逆に懐かしむ危うさに満ちていて、思わずレッドの平静を願わずにはいられない。そして希望溢るるラスト5行のレッドの祈りにも似た希望は映画のラストシーンとはまた違った余韻を残す。その希望が叶うことを本作の副題が証明しているところがまた憎い。

さて次は「転落の夏」と添えられた表題作。元ナチス将校の老人と誰もが思い描くアメリカの好青年像を備えた少年の奇妙で異様な交流を描いた作品だ。
その副題が示すように一転して物語はダークサイドへ転調する。アメリカの善意を絵に描いたような少年が元ナチス将校の老人の過去を共有することで心に秘められていた殺人衝動を引き起こす話だ。
逢ってはいけない2人が逢ってしまったことで転落していく、実に奇妙な老人と少年の交流を描いた作品はキングしか描けない話となった。よくもまあこんな話を思いつくものだ。

「刑務所のリタ・ヘイワース」は28年もの長きに亘って冤罪で自由を奪われた男が自由を勝ち取る物語。一方「ゴールデンボーイ」は30年近く逃亡生活を続けてきた老人が最後に自由を奪われ、自決する物語。彼らが重ねた歳月は苦しみの日々だったが、その結末は見事に相反するものとなった。前者は自由への夢を見続けたが、後者は自分の行った陰惨な所業ゆえに悪夢を見続けた。

次の後編はあの名作「スタンド・バイ・ミー」が控えている。キングが綴った四季折々の物語。全て読み終わった時に心に募るのはその名の通り恐怖なのか。それとも感動なのか。その答えはもうすぐ見つかることだろう。

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