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雪さん
平均点: 6.24点 書評数: 586件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.326 6点 陰謀の島- マイケル・イネス 2020/04/03 11:11
 第二次大戦時下のイギリス。ロンドン警視庁の刑事ジョン・アプルビイは、最近警視監に就任したばかりの老紳士の頼みで、ハロゲイトで起こった馬の盗難事件を調べることになる。黄水仙〈ダフォデイル〉というそのおとなしい馬は警視監の姉レディ・キャロラインのお気に入りだったが、価値はわずか十五ポンド。しかも泥棒は先に盗んだ何百ポンドもの価値のある馬を馬小屋に戻した後、入れ替わりにダフォデイルを連れ去ったのだった。厩舎の持ち主の話では、ダフォデイルは〈人間そっくりの馬〉だった。
 アプルビイは捜査を続けるうちに、ハワース最後の魔女ハンナ・メトカーフが家財道具を引き払い、幌馬車に乗った男たちと共に立ち去ったことを知る。彼女は「わたしはもう、別の世界へ行くのだから」と言っていた。その馬車を引いていたおかしな馬の話が、アプルビイを惹きつける。「もし、その馬がダフォデイルだったとしたら?」
 他方ではアプルビイの同僚ハドスピスも奇妙な事件に遭遇していた。多重人格の女性ルーシー・ライドアウトが派手な外国人風の男に連れ去られたのだ。男は彼女との会話でハンナ同様〈カプリ島〉という単語を口にし、その島が南米大陸にあることを仄めかしていた。さらにハドスピスは、十八世紀に建てられたブルームズベリーの幽霊屋敷が、丸ごと盗まれたというとんでもない話を聞きつける。一連の奇妙な事件には、果たして何かの目論見があるのだろうか?
 二人の刑事は事件の手掛かりを求め、ハロゲイトの馬車馬が残した痕跡を追って赤道を越え南米へと向かうが、彼らを待ちうけるのは空想と科学をごた混ぜにした大規模な研究施設〈ハッピー・アイランド〉と、それを足掛かりにした途方もない企みだった・・・
 『アララテのアプルビイ』に続き1942年に発表された、アプルビイシリーズ第八作。要約するとアプルビイ達が、パノラマ島みたいなトチ狂った世界に入り込んじゃう話です。ただその世界を貫く論理がメチャクチャなものではなく、狂気の産物とはいえそれなりに筋が通っているところがミソ。ミステリ的にはボスのエメリー・ワインが、アプルビイとハドスピスに仕掛ける〈実験〉の内容がメインですかね。作品内でもオカルト肯定・パラサイコロジー肯定の大盤振舞いなので、賛否はあると思います。
 内容は『アララテ』がマトモに見えるほどで(この時点でもうおかしい)、事件の規模からしてとても一刑事がどうにか出来るようなものではありません。ただ日本の読者だと、二十面相のおじさんが少年探偵諸君に提供するトンチキ空間に慣れ親しんでいるので、案外平気かも。けれど雰囲気的には前作に比べても重く、しかも解決は冒険小説風。色々と突然変異的な作品ですが、イネスにはこれを執筆しなければという已むに已まれぬ理由があったのかもしれません。ちょっと想像つきませんが。

No.325 6点 虹が消える- 多岐川恭 2020/04/01 13:46
 東京タイド新聞社会部の記者・郡(こおり)徹也は、副部長である沼田正三の妻・鶴代と関係を持ちつつ、一方ではバー「プリムラ」の江沢夏代を脅しアパートに入り浸るという自堕落な生活を続けていた。沼田が家を空けたある日、鶴代に呼ばれた郡は北九州の炭鉱経営者の娘・川端比呂子に紹介される。美人だが透明な感じで薄く、すぐ破れそうな、それでいてどこか暗いものを秘めた比呂子の姿は、彼に強い印象を残した。鶴代はそんな比呂子の存在に嫉妬する。
 その二日後。夜勤をさぼった郡が鶴代に連れられ夜の街を飲み歩いている間に、社では非番の同僚記者・世古英俊がスクープを掴んでいた。
 現職国会議員の殺害事件――保守党代議士・塩尻亀彦が、短刀をワシづかみにして押しかけてきた同郷の友人・川端作太郎に港区の料亭「衣笠」で刺殺されたのだ。塩尻は心臓を一突きにされて殺され、凶器の短刀は血が付着したまま床柱の前に転がっていた。自分は何者かに失神させられたのだと作太郎は主張したが、状況証拠から犯人と断定され、そのまま警察に拘束された。彼は比呂子の実の父親だった。
 出社停止処分を受けた郡だったが、地方銀行社長と東京タイド会長を兼ねる大物・遠藤敬三を父に持つ鶴代からの情報で、殊勲者の世古が静岡支局に左遷されたことを知る。
 手柄を立てたはずの世古がなぜ? 現場には区会議員で、ヤクザの親分の仙崎藤男もいた。作太郎所有の新桂川鉱はなかなか有望な炭鉱で、彼から経営権を奪い取ろうという動きもあるらしい。作太郎は罠に嵌められたのか? だが産業エネルギーが徐々に石油に切り替わりつつある今、炭鉱に将来性は無く、殺人を犯してまで欲しがる者がいるとは思えないのだが――
 新聞記者魂を刺激された郡は、作太郎の秘書・式準司と協力し事件の再調査を開始するが、まもなく彼の元には、世古が日本平へ行く中途にある松林の中で自殺したとの知らせが齎される・・・
 第四回江戸川乱歩賞受賞作『濡れた心』(1958)の次作で、多岐川恭の第三長編。昭和三十四(1959)年発表。処女長編『氷柱』と同じく河出書房から刊行されました。
 本書は『氷柱』に引き続き、多岐川得意の斜に構えた主人公が活躍するストーリー。この年は長編こそこれ一本ですが、短篇の発表は『落ちる』での直木賞受賞もあって、前年度の5篇→17篇と飛躍的に伸びており、ここから約20年に渡りほぼ同じペースで各誌に掲載を続けていきます。
 主人公・郡同様に影を持つ男・式もよく描けており、いつもながら人物描写は達者なもの。新桂川鉱乗っ取りを目論む石炭業界の元老・島村毅も単純な悪役ではなく、随所で懐の深さを見せます。炭鉱争議に絡むアクションなど途中までは社会派+ハードボイルド調ですが、最後まで読むと動機探しの本格物。押し隠した感情の重みに耐えながら、あえて腐れ縁に戻っていく屈折したラストは苦い味わいを持っています。
 タイトルもおそらくここから来ているのでしょう。なかなか読ませる作品で意外性もあり6.5点。とはいえ佳作には届きません。

No.324 5点 翔び去りしものの伝説- 都筑道夫 2020/03/30 11:51
 東京の副都心で酔っ払った末、暴走族との揉め事で命を落とした八剣(やつるぎ)巷二は、中世ヨーロッパ風の異世界に召還されて奴隷ウエラとなり、王位を狙うクアナ姫とルンツ博士の命に従い、瓜二つの顔を持つ王位継承者カル王子を殺し彼と入れ替わる。だが陰謀のさなかクバの女神の啓示を受けたウエラは召還者たちの思惑を超え、陰謀の駒としての役割も捨てておのれの意思で動き始めた。彼はそのままカル王子として王宮に帰還し、廷臣たちに迎えられる。
 ルンツ博士と対立する宮廷魔術師トルファスはこれに対抗するため、決闘沙汰を起こし追放されていた宮廷一の剣士、カルタニアのレアードを呼び戻す。重臣ラギーナ大公の娘ラビアを巡る鞘当てもあり、新たにカル王子となったウエラとレアードの間には、緊迫した空気が漂い始めた。
 そんななか宮廷には怪事件が続発する。ラビアの誘拐未遂、カル王子救出の立役者モンタルド男爵父子の怪死、そして寝室でウエラを襲うつばさの生えた鳥のような異形の怪物・・・
 数々の事件に宮廷が揺れ動くなか、遂に老王が息絶えた。ウエラはその地位に従い王位を要求するが、トルファスは五年前に行方不明となったカル王子の兄、タル王子と名乗る人物を推し立ててくる。両者の争いは一触即発の状態となった。
 王国には昔からある伝説があった。王が死に、正統なる王位継承者なき時には巨人の城が現れ、かれが翔び去るとともにこの国は滅ぶと。その言い伝えを裏付けるように空には巨大な城のまぼろしが現れ、舞い降りてきた異形の怪物が町びとを襲い始めた。カル王子=ウエラは代々の王が伝えてきたクバの女神の書を開き、記された聖なる啓示に従い巨人の城を鎮め、まことの王となるため旅立つが・・・
 雑誌「奇想天外」昭和五十一(1976)年四月復刊号から昭和五十三(1978)年七月号まで、数回の中断を挟みながら二十四回にわたって連載された、日本最初期クラスのヒロイック・ファンタジィ。先行作としては豊田有恒『火の国のヤマトタケル』に始まる〈日本武尊SF神話シリーズ〉がありますが、完全オリジナルだと多分これ。この後にルーツと言われる高千穂遥『異世界の勇士』が続き、さらに同じ高千穂の『美獣』に触発され栗本薫『グイン・サーガ』の第1巻が昭和五十四(1979)年に刊行開始。このあたりから本格的に和製ファンタジーが始動していきます。本書はその先駆けとなった作品。
 とはいえ正直出来は微妙。奇想天外社版あとがきにもある通り「裏返しにした『ゼンダ城の虜』が『西遊記』へ移行していって、また『ゼンダ城の虜』に戻ってくる」という構成。それは別にいいのですが、作品の要所要所で示される〈クバの女神の啓示〉の処理がいい加減だったり、最終的にどうなったのか投げっぱな人物が出てきたり、結構あやふやな所があります。この国がどうなっているのかいまいち掴み難いといった、カキワリ的な世界設定なのも問題。王子たちが乗る動物が二本足の馬とか、鳥とかがちゃんぽんになったやつなのもイメージが良くありません。
 トルファスの兄弟弟子のトリックスター的な道化魔術師・グプや、謎の奴隷頭巾の男など、敵か味方か見当もつかない登場人物が入り乱れてるうちは面白かったんですけどね。予定調和になってしまうと底の浅さが見えてしまいます。このジャンルの飛躍的な進歩もあり、今改めて読み返すだけの価値はほとんど無いでしょう。

No.323 7点 ゆきなだれ- 泡坂妻夫 2020/03/29 08:51
 『煙の殺意』に続くノンシリーズ第二短編集。昭和五十六(1981)年十一月より昭和五十九(1984)年九月にかけて『小説宝石』『別冊文藝春秋』『週刊小説』他に掲載された八つの短篇を纏めたもので、『喜劇悲喜劇』『妖女のねむり』『花嫁は二度眠る』などの長編を執筆していた時期にあたります。なお表題作は第九十三回直木賞候補作に選ばれたものの、惜しくも賞を逸しました(このとき受賞したのは山口洋子『演歌の虫』『老梅』の二短篇)。
 少し前の第九十一回では連城三起彦の自信作『私という名の変奏曲』が蹴られ、『恋文』が選ばれるという事件が起きており、連城はこれ以降執筆の主軸を大衆小説に移します。どうもこの時代の直木賞は「いくら上手くてもミステリはアカンのや」という声が強かったようです(泡坂はその後も第九十五回『忍火山恋唄』、第九十八回『折鶴』と立て続けに蹴られ、職人小説『蔭桔梗』で晴れて百三回直木賞を受賞)。
 まあそんな事とは関係なしに表題作は傑作。老舗和菓子店の入り婿が、ひたすら店に尽くし続けただけの無残な青春を振り返るようになったちょうどその頃、二十年前にたった一度だけ触れ合った幻想の女性に再会する。相手もずっと自分を想い続けていたことがそこで判明し、二人は今度こそ一緒になろうと誓い合うが――
 叙情性とミステリ要素を絡め、幻想のままに崩れてゆく幸せを描いた作品。「顔は傷一つなくって、観音様みたいに綺麗でしたよ」という〆の台詞が僅かな救いです。
 次点は点描された端役までキャラ立ちした『闘柑』と、壮絶な愛の物語『鳴神』。ネタそのものは他愛ない『闘柑』ですが、もしかすると表題作より好きかもしれません。あと追悼を主題に据えた二編『迷路の出口』『雛の弔い』もなかなか。地味ですがしっとりとした味わいのある作品集です。

No.322 7点 三体- 劉慈欣 2020/03/27 08:50
 一九六七年、北京。大学教授にして理論物理学の権威・葉哲泰(イエ・ジョータイ)は文化大革命の狂乱のさなか、妻・紹琳(シャオリン)に裏切られ、荒れ狂う四人の少女紅衛兵のリンチを受けて息絶えた。父親の死のすべてを目の当たりにした娘・文潔(ウェンジェ)は矯正のため内モンゴル・大興安嶺の生産建設兵団に送られるが、そこでも彼女は心を許した機関紙記者の保身の犠牲にされる。
 拘置所でまたもや利用されようとした文潔は全てを拒み死の淵へと墜ちかけるが、辛くも父の大学時代の教え子・楊衛寧(ヤン・ウェイニン)と計画責任者にして政治委員の雷志成(レイ・ジーチョン)に救われた。国家プロジェクト「紅岸」の推進者である二人は、彼女が〈天体物理学(アストロフィジカル)ジャーナル〉に発表した論文に着目し、スカウトに訪れたのだった。だがそれに応じることは、一生研究基地の外には出られないことを意味していた。巨大パラボラアンテナに風が吹きつける音のなか、文潔は瞬時に紅岸プロジェクトへの参加を決断する。
 それから四十数年後。ナノ素材(マテリアル)の専門家にしてナノテクノロジー研究センターに勤務する汪淼(ワン・ミャオ)教授は、突然四名からなる私服警官と軍人の訪問を受けた。所長には既に連絡が行っているので、これからある会議に出席してほしいという。半ば強引に連れ込まれた作戦司令センターのテーブルには、NATO軍の連絡将校や、CIAの担当官までもがオブザーバーとして参加していた。議長の常偉思(チャン・ウェイスー)少将は汪に、高名な科学者たちの姓名が記された名簿を見せる。彼の視線は、最後のひとりの名に釘付けになっていた。
 楊冬(ヤン・ドン)。超弦理論モデルを提唱する物理学者で、汪が密かに惹かれていた女性だった。少将は彼に告げる。リストにある物理学者たちはこの二ヵ月たらずのうちに、たてつづけに自殺しているのだと。楊は最後の自殺者で、二日前の晩、睡眠薬を大量に服用して死んでいた。遺書にはこう書かれていた。「これまでも、これからも、物理学は存在しない」と。そして彼女は、衛寧と文潔とのあいだにできた娘だった。
 そして常偉思は汪に依頼する。自殺した学者のほとんどが関係していた国際的学術組織、〈科学フロンティア〉に潜入し、事件の謎を探って欲しいと――
 本国だけでトータル二一〇〇万部を売り上げた、中華人民共和国のSF作家、劉慈欣(リウ・ツーシン)のモンスター小説「地球往事」三部作の第一弾。SF専門誌《科幻世界》2006年5月号~2006年12月号にかけて連載され、2008年1月に重慶出版社より刊行。2015年にはいくつかの幸運も重なり、アジア圏の小説として初めてヒューゴー賞長篇部門を受賞しています。
 〈現代中国最大の衝撃作、ついに日本上陸〉という刺激的なアオリに加え、各書評子も絶賛。いったいどんなもんかとアタックしてみましたが、うーん、良くも悪くもトンデモSFだなこりゃ。とにかく風呂敷広げまくってます。
 読後感は最先端科学知識をブチ込みまくった小松左京。これは単なる感想ではなく、後で調べたら実際に愛読者だそうです。それに独特の中華テイストが加わり(作中の謎のゲーム「三体」には周の文王・墨子・始皇帝などが登場)、これも大掛かりなアクションを経たのち奇想・智子計画(プロジェクト・ソフォン)が爆発。九次元構造を二次元に展開とか、陽子サイズのミクロ集積回路とか訳が分かりません。作者も分かって書いてはいないのだと信じたい。
 そういう内容を『果てしなき流れの果てに』や『ゴルディアスの結び目』風に、ミステリ的な誘導テクニックを尽くして語っていく。これだけならただの大法螺小説ですが、冒頭部、作者の実体験を織り交ぜた文革の絶望が重石となり、軸となって物語を支えています。この辺の描写はかなりヘビー。
 全体としてはかなりのゴッタ煮で、統一感よりパワー優先。本国では〈文章ヘタクソ〉との声もあるそうですが(原典冒頭部との比較も読みましたが、大森訳のプラスはかなりのもの)、それを場面転換などの力技で押し切る手法。まあシリーズ的にはほんのとっかかりでストーリー的にはやっと敵味方の状況が定まり、相手側が絶妙な一手を指したとこで終わってます。
 採点し辛い作品ですが、不良警官キャラ・大史(ダーシー)創案の〈古箏作戦〉がミステリ的に面白かったので7点。どこぞのラノベに似たアイデアが有ったような無かったような。続編に登場するかは分かりませんが、なかなか頼もしいおじさんです。

No.321 6点 七十五羽の烏- 都筑道夫 2020/03/25 15:35
 ものぐさ太郎の子孫を自称する富豪の息子・物部太郎は、とにかく一年まじめに働けという父親の圧力を躱わそうと、よろず引き受け業ファースト・エイド・エイジェンシイの所長・片岡直次郎に相談を持ちかけた。彼の提案により日本初のプロフェッショナルな心霊探偵(サイキック・ディティクティヴ)となった太郎は、事務所ごと助手となった直次郎を従え、くるはずもない客を待ちながらのんびりと日々を過ごしていた。
 ところが開所以来ひと月と十六日め、「伯父が幽霊に殺されるかも知れない」という若い女が事務所にやってくる。はたち前後の引きしまった女性・田原早苗の話では、茨城県土浦のちかく、新妻郡藤掛町緋縅で代々宮司を兼ねている伯父・源次郎が、平将門の娘・瀧夜叉姫の霊を見たというのだ。姫は代々一族にたたっている怨霊で、田原の家に急死人や変死人がでるときには、そのすがたを現すと言われていた。
 内心あわてふためきながらもその場は話を聞くふりをし、体良く早苗を追い返した太郎だったが、その翌日伯父が殺されたとの知らせを受けて、嫌々ながらも事件に乗り出さざるを得なくなる。源次郎は蔵座敷で裸にされて絞殺され、座敷をはなれて入浴中だった勢津子夫人も風呂場に閉じこめられていたのだ。初仕事に浮かれる父親に急き立てられ、太郎は直次郎と共に緋縅へと向かうが・・・
 物部太郎シリーズの第一作で、1973年3月桃源社刊。前月には三笠書房から、キリオン・スレイシリーズの初短編集『キリオン・スレイの生活と推理』を刊行したばかり。8月には短編集『十七人目の死神』も同じく桃源社から発売。この辺りあいかわらず精力的な活動ぶりです。
 内容もキリオンシリーズを受けた論理優先、クイーンばりの本格物。批評家でもある著者のミステリ観を実践した作品ですが、筋立てはやや単調。都筑氏の探偵役は多彩な設定の割に無味乾燥で、アウトロー系の『なめくじ長屋捕物さわぎ』以外は正直どれも大差無く、物部太郎もその例外ではありません。これがハードボイルドやアクション物ならば、危機の数々を乗り越えるにつれだんだん味が出てくるのですが。
 容疑者の数も実質五人と少なめなのに、被害者は三名。よって犯人の意外性はほとんどなし。骨格が露なので誤誘導も割れやすく、ドラマ性も皆無なので読んでてあまり面白くない。副題は〈謎と論理のエンタテインメント〉ですが、それだけではやはりキツいものがあります。カー風の導入部もあまり生きていないので、むしろスッパリ捨ててその分容疑者を増やした方が良かったでしょう。巻末にもあるように、走り火のシーンを思う存分描きたかったのかもしれませんが。
 本格長編の代表作とされていますが、どちらかと言うとマニア向け。氏の作品はオーソドックスな本格物よりも、切り口の異色な前衛推理やアイデアを生かしたアクション系の方が、評者の肌には合うようです。5.5点プラス薀蓄と山藤章二氏の挿絵の魅力で、合計6点。

No.320 6点 モーツァルトは子守唄を歌わない- 森雅裕 2020/03/24 01:52
 一八〇九年六月十五日木曜日、第五次対仏大同盟のさなかのウィーン。スペインの王位を奪ったナポレオンがこれを受けてイギリスと組んだオーストリア軍を撃破し、入城したフランス軍の占領下にあるころ。
 著名な作曲家ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンはなじみの楽譜屋で、おやじにくってかかる若い娘、シレーネ・フリースに出会う。非難された店主トレーク・ドブリンガーの話では、シレーネの亡き父ベルンハルトが残した子守唄を、勝手にモーツァルトの名前で出版したのがその原因だった。彼女はモーツァルトの不義の子とも噂されていたが、その彼も十八年前、ベルンハルトと同じ年に逝去していた。
 本当にモーツァルトのものかも分からぬ、とるにたりぬ過去の子守唄。だがその出版がナポレオンの脅威に揺れるハプスブルク宮廷を揺るがすほどのものとは、この時のベートーヴェンには知るよしもなかった。
 同じ日の午後、来たる演奏会に向けてのアン・デア・ウィーン劇場での練習の最中、二階最前列の貴賓席に座ったきり動かない男に不審を抱いたベートーヴェンは、弟子のカール・ツェルニーに彼を確認させる。それは午前中会ったばかりの楽譜屋トレークの遺体だった。その死体はところどころ焼け焦げているくせに、衣服はいやに湿っぽかった。さらにシュバーツェンベルクにある当の店は、突然の出火で焼失していた。
 十八年前のモーツァルトの死の影に蠢く、第一宮廷楽長アントニオ・サリエリと秘密結社フリーメーソン。事件に興味を抱いたベートヴェンは命の危険をものともせず、ツェルニーやシレーネと共に子守唄に隠された謎を解こうとするが――
 昭和60(1985)年発表。東野圭吾『放課後』と併せ第31回江戸川乱歩賞をダブル受賞した作品ですが、現在の両者の差には隔世の感があります。選考時の評価は『放課後』よりこちらの方が上だったんですが、作者のめんどくさい性格も災いし、各出版社とも揉めて今ではほとんど忘れられた作家に。本書も当然、講談社文庫の乱歩賞全集には収録されていません(もう一つの未収録作は、ついに作者の収録許可が下りなかった高柳芳夫『プラハからの道化たち』)。
 とはいえ難しい題材にもかかわらず、当時売れただけあってテンポはかなり軽快。ベートーヴェンも性格のひねくれまがった男で(というかそういう人しか出てこない)、弟子のチェルニー(こいつもかなりいい性格)と掛け合い漫才をしつつ、とても楽聖とは思えない騒動を繰り広げます。不良中年プラス少年少女探偵団ですね。若書きで説明口調なのが難ですが、歴史・風俗考証はかなりのもの。というよりその辺りを生かした構想が主軸。シャレにならない陰謀劇をギャグを用いて調理した作品で、文庫版の表紙がすべてを語っています。あと、少年時代のシューベルトとかも登場。
 ベートーヴェンシリーズには他に短編集『ベートーヴェンな憂鬱症』(1988)と、彼が土方歳三と共演する異色ファンタジー『マンハッタン英雄未満』(1994)があります。どちらもろくでもないセリフ満載の作品です。

No.319 6点 もっとも危険なゲーム- ギャビン・ライアル 2020/03/22 13:03
 州領域の半分以上が北極圏に属するラップランドのロバニエミ飛行場で、おんぼろ水陸両用機のチャーター業を営む雇われパイロット、ビル・ケアリ。夏のシーズンにヘルシンキの採掘会社カーヤから請け負ったニッケル探索の合間、アメリカからはるばる熊猟にやってきた折目正しい男フレデリック・ウェルズ・ホーマーを、ロシア国境付近の立入り禁止区域内に降ろしたのが事の始まりだった。
 互いに親しみを覚えた二人はバリオヨキ河付近の湖で銃の腕を比べ合うが、そのときビルは湖中にドイツ空軍の十字章をすかし見る。沈んでいたのは第二次大戦中行方不明となったメッサーシュミット四一〇型で、中には後ろから顎を撃ち抜かれたドイツ軍パイロットの頭蓋骨がわらっていた。それは奇しくも彼が長年に渡って探していた飛行機であった。
 ホーマーと別れロバニエミに戻ったビルだったが、彼の元には胡散臭げな仕事が持ち込まれ続け、更にわざわざヘルシンキから派遣された国内治安警察(スオエルポリシ)が付き纏ってくる。どうやらスオポのアルネ・ニッカネンは密輸決済用の英国ポンド金貨について探っているらしい。
 それからまもなく、兄ホーマーを追って飛行場に妹のアリス・ビークマンが現れた。ビルはアリスを乗せてホーマーの元へと向かう途次、エンジンから出火したイギリスのオークス水上機を救助するが、事故現場の状況に様々な不信を抱く。そして骨折したパイロットの雇い主アーサー・ジャッドも、代替となるビルの飛行機に興味を示すのだった。
 その翌朝、ビルに仕事を持ち掛けてきた同業パイロット、オスカー・アドラーが、彼に再び逢いたいと言ってくる。だがオスカーの水上機は待ち合わせ場所の河に着水する寸前横転し、ビルの目の前で裏返しになったまま水面に激突し大破した・・・
 処女作『ちがった空』の好評を受けて執筆された長編二作目で、1963年発表。翌年のCWAゴールド・ダガー賞ではH・R・キーティング『パーフェクト殺人』に競り負け、惜しくも次点に留まりました。ちなみに三位はロス・マクドナルドの『さむけ』。
 ライアルの代表作の一つとして評価の定着した作品で、ストーリーも処女作に比べ格段の進歩。個々の描写や気の利いたセリフ等も素晴らしいのですが、若干の異論アリ。なぜなら軸となる主人公ケアリとホーマー兄妹のドラマ、この引き金となる兄フレデリックの行動が、十分な説得力や哀しみをもって描かれていません。意地を張る対象があまりにもくだらない存在なので、結果として齎される悲劇に見合わなさ過ぎるのです。あくまで騎士道的な果し合いを追求したという事なのでしょうが、そうなるとビル側の思い入れが宙に浮いてしまいます。対決そのものは名勝負といっていいだけに残念。
 どこかスッキリしない読後感には筋立ても影響しています。スパイ組織の邪魔者燻り出しを大枠にした巻き込まれ物ですが、ブレ気味の軸に複雑なストーリーが被さっているのでいまいち満足できないのです。主人公とホーマー兄の関係性に的を絞り、思い切って筋を単純化した方が良かったでしょう。総合的には前作『ちがった空』のシンプルさに劣ります。
 本来ならもっと上を狙える作品ですが、6.5点。惜しいけどそれ以上は付けられません。

No.318 7点 紙の罠- 都筑道夫 2020/03/19 13:34
 谷中初音町のアパートであおむけにねころがっていた近藤庸三は、紙幣印刷用のすかし入りみつまた和紙が輸送中に強奪されたというニュースを聞きつけ動き出した。そんな紙を贋札につかおうとするような完全主義者なら、完璧な版をつくらせたいと思いはしないか。
 近藤は凹版彫刻の名人・坂本剛太の身柄を押さえて強奪犯と取引し、利益の上前を撥ねようと目論むが、旧知のステッキの男・土方利夫や尾行の名人・沖田をはじめとする胡散臭い連中は既に動き出していた。まずは沖田にさらわれた製版師・坂本をこの手に取り戻さなければならない。印刷用紙をめぐり二転三転するストーリー。果たして、悪党たちが入り乱れる争奪戦の行方は?
 『飢えた遺産(なめくじに聞いてみろ)』(1962年7月)に引き続き、同年9月桃源社より刊行されたナンセンス・アクション長編。雑誌「特集実話特報」1962年4月9日号~1962年7月9日号までちょうど三ヵ月間、7回に渡って連載された中篇『顔のない街』に百枚あまりの加筆訂正を加えて発表したもの。その間8月には三冊目の前衛本格『誘拐作戦』を講談社から刊行する八面六臂の活躍で、当時の著者の創作意欲が最盛期にあったことが窺えます。
 宍戸錠、長門裕之、浅丘ルリ子等のキャストで同年12月1日に封切られた日活映画『危(ヤバ)いことなら銭になる』の原作でもあり、都筑作品としては初の映画化。脚本家の中には池田一朗こと、後の隆慶一郎の名前も。秀作として知られた作品で、鈴木清順『殺しの烙印』などとともに〈日活100周年邦画クラシック GREAT20〉にも選ばれました。監督は清順や岡本喜八と併せてモダン派と称された中平康。
 小説の方は悪党パーカー+ドートマンダーを2で割って、前作からの小道具趣味をスパイスとして少々振り掛けたような味わい。ただし桃源社版あとがきに〈ひとつの大きな事件のなかで、主人公がつぎつぎに出会う小さな事件をどう切りぬけていくか、そのおもしろさを狙ったもの〉とある通り、場面転換の目まぐるしさはそれらの比ではありません。
 前作からすこし傾向をちがえたオフ・ビート・アクション(わざと主役を目立たせず、派手な立ち回りとのミスマッチを狙う)の趣向もマイナスに働きあまり効果は上がらず、事件に次ぐ事件で最終的には1ダース余りの死体が転がる結果、物語の山がぼやけてしまった感じ。話の凝り様は初期作品中一番と言ってもいいのですが。この手の軽快な小説に適切にアイデアを盛り込み、上手く仕上げるのはなかなか難しいですね。
 角川文庫の都筑道夫の中でも比較的早く絶版になり、入手しづらかったもの。次作『悪意銀行』と共に《近藤&土方》シリーズとしてちくま文庫から復刊されたのは僥倖。同書にはニトログリセリンを抱えた立て籠もり事件に近藤&土方コンビが絡むシリーズ短篇『NG作戦』も併録。あまり運のない本なので、興味のある方は早めに押さえておく方がいいかと思います。

No.317 4点 剣の八- ジョン・ディクスン・カー 2020/03/17 10:19
 イギリス・グロースターシャー州の警察本部長、スタンディッシュ大佐の田舎屋敷グレーンジ荘で奇妙な事件が起きた。帰りの最終バスに間に合わず、やむなく泊まることになった教区の牧師プリムリーがポルターガイストに襲われ、騒ぎを聞きつけて集まった皆がふと窓の外を見ると、賓客として休暇をすごしていたマプラムの主教、ヒュー・ドノヴァンが寝巻き姿のままで、平らな屋根の上に立っていたのだ。危険な犯罪者がゲストハウスのほうへ向かっていくのを見たというのが、主教の言い分だった。
 メイドの髪を引っ掴んだり手摺りを滑り降りたりとドノヴァンの奇行はその後も続き、やがて彼はスタンディッシュにしかるべき警官と面会させるよう要請してきた。主教によれば、この近辺で何かとんでもない犯罪がたくらまれているらしい。
 押し切られた大佐は半信半疑のままロンドン警視庁に連絡を付けると同時に、一年間の遊学から帰国したドノヴァン・ジュニア、同じく三カ月ぶりにアメリカから帰ったギディオン・フェル博士と共にハドリー警部に面会するが、その直後大佐にかかってきた電話は、グレーンジ荘のゲストハウスに住む学者セプティマス・デッピングが、頭を撃ち抜かれて殺されたというものだった・・・
 『帽子収集狂事件』に続くフェル博士シリーズ第三作。1934年発表。ハウダニットよりもフーダニット、という作品で、それは密室風の現場に抜け穴が存在するという設定に表れています。もっと言えば悪ふざけ。コメディ風の発端に見られるように、趣向自体をおちょくってますね。ハヤカワ文庫版の解説で作家の霞流一氏が、〈「探偵がいっぱい」テーマ〉〈クイーンのロス名義「悲劇シリーズ」に挑戦〉と指摘していますが、多重解決と言うほどでもなし、そんなマジメな作品ではないと思います。
 内容もコメディーから本格推理、最後はスリラー風の派手な銃撃からの決着と、キメラというか鵺的。同年発表のファース『盲目の理髪師』と重複を避けての路線変更でしょうか。この年の作者はH・M卿シリーズの開始に加え初の歴史小説の発表と、計5冊もの作品を刊行しており、ワリを食ったのが本作だと見た方がいいようです。
 ただ中心の発想は、カーがその後二十年あまりこね回すことになる〈究極の犯人〉の原型。フェル博士では拙いと思ったのか作例はこれきりですが、更にエキセントリックなH・Mを用いて翌年の『一角獣殺人事件』(1935)『五つの箱の死』(1938)と二度三度試み[『読者よ欺かるるなかれ』(1939)もか?]、後年の歴史ミステリ『喉切り隊長』(1955)で一応の完成を見ています。解決には名探偵の存在が必要なれど、シリーズ探偵をもってしてもその効果は発揮し難いというもの。本書でもせっかくの奇想がやや唐突な結末に終わっています。
 その結果出来上がったのは的を絞りきれなかった失敗作。フェル博士ものにも関わらず着地はスリラー。カーファンでも高い点は付けられません。

No.316 5点 一匹の小さな蟲- 西東登 2020/03/15 04:58
 ある年の六月はじめ、G県間瀬市にある邦和銀行のトップ行員が一億三千万円という大金を持ったまま、行方を晦ますという事件が起こった。それは市の北東七キロほどの場所に横たわっている四方峠縦断自動車道路工事の支払いのため、県が各行にあらかじめ預託した金で、次長の柿沼精三は施工業者の久米建設社長・久米彦太郎からの電話を受け、支店長専用の乗用車で直接工事費を届けに向かったのだった。だが彼は目的地から二十メートルほど先の地点で降りたのを最後に、黒のボストン・バッグに詰まった大金ごと消えてしまった。
 柿沼は生え抜きの土地ッ子で二十数年間一度も県外に出ることはなく、ずっと勤め上げて支店の次長にまでなった人物。地元でも一応名士扱いで、定年まであと一年。六百万円前後の退職金と共に円満に身を辞くことになっていた。大金に眼が眩んだとしても県外にツテもなく、逃亡の動機も薄いのだ。
 県警は高飛びに備えて全県に非常線を張り、間瀬警察署内に置かれた捜査本部は三方面から捜査を進めた結果、彼らの前には失踪当日柿沼が出向いた四方峠から突き落とされた意識不明の男性と、現場付近のバーからいなくなってしまった男女の存在が浮かびあがってきた・・・
 『蟻の木の下で』で第10回江戸川乱歩賞を受賞した、西東登の第五長編。動植物へのこだわりで知られた作家ですが、若干埋没気味。本書はタイトル通り昆虫を題材に扱い、西東作品のうちでもトリッキーと言われるもの。
 という前情報で読んだのですが・・・うーん。期待したほど面白くないというか、単なる思いつきトリックに終わっちゃってます。発端部分に加えて手掛かりの奇妙さや凝り方はなかなかなので(間羊太郎『ミステリ百科事典』に載せてもいいくらい)、処理の仕方によっては佳作に仕上がると思うのですが、いかんせん構成が上手くないのでやっつけ加減。鮎川哲也なら締まった短篇にするし、梶龍雄ならこれを土台に大風呂敷を広げるでしょう。一応書き下ろしの形なのでもうちょっと何とかならんかったのかと。
 社会派と本格の味わいを両方狙ってコケた感じですね。二兎追う者は一兎も得ずというか。事件直後の意味ありげな動きにかなり紙幅を割いてますが、これが結構引っ張ったあげくほとんど無関係と分かるのも脱力。役人と業者との癒着は生々しくて買えるものの、メイン事件の発生が2/3以降でそこまでは停滞、かつ謎の提示が遅すぎるため、解決部分が枚数的に食われてしまっています。捜査担当の刑事たちにほとんど個性が無いのも大きなマイナス。
 まあ埋もれるべくして埋もれてますね。そうそう当たり作品はありません。

No.315 6点 天から降ってきた泥棒- ドナルド・E・ウェストレイク 2020/03/13 10:36
 裏の食品卸業者チェブコフから、マンハッタン南西部の倉庫に最近入荷したばかりのロシア産キャヴィアを盗み出す依頼を受けた不運な泥棒ジョン・アーチボルド・ドートマンダー。だが屋上のドアを開けるや否や警報器が鳴り響き、通りからはパトカーのサイレンが聞こえてくる。
 逃げようとした相棒オハラは路上で逮捕され、非常階段からはフラッシュライトとピストルを持ってのぼってくる若い巡査の足音が響いてきた。ドートマンダーは屋上から屋上へと飛び移り、外壁にへばりついて警官をやりすごそうとするが、手を滑らせそのまま眼下にある〈聖フィロメナ無言修道院〉の屋根樋の中に転がり落ちてしまう。彼はそのまま梯子に乗った修道院長マザー・マリア・フォーシブルに引きずりおろされ、尼さんたちの群れに迎えられるのだった。
 マザーは足をくじいたドートマンダーを警察に引き渡すかわりに、取引を持ちかけてきた。誘拐された二十三歳の修道女、〈シスター・マリア・グレイス〉ことエレイン・リッターを救出してほしいのだという。家出して信仰の道に入った彼女はすぐ父親に連れ戻され、ミッドタウンの超高層ビル上のペントハウスに監禁されているのだ。七十六階建てのビルには銃を持った警備員たちがあちこちにいて、エレインのいる最上階には一台のエレベーターでしか近づけない。大富豪の父フランクはペントハウスのみならず、各種高級テナントのはいったビルディング全体を所有しているのだ。
 ついでに貴重品を盗んでひと儲けしようと考えたドートマンダーは、それを餌に仲間を集め、厳重な警備を誇るビルに侵入する。だが思わぬハプニングの連続に加え手前の七十五階には、南米の独裁者ポソスに報復するためフランクが雇った、六十人あまりの傭兵たちが隠れていたのだった・・・
 『逃げだした秘宝』(1983)に続く泥棒ドートマンダー・シリーズ第6作(日本語番刊行順はその逆)。1985年発表。日本では角川文庫から順次刊行されていましたが、長篇第四作『悪党たちのジャムセッション』を最後に一時中断し、本書の十四年ぶりの発売をきっかけに早川のミステリアス・プレス文庫で再開しました。版元が転々とする経緯はパーカーシリーズに似ています。
 ウェストレイクによれば本書はそのパーカー未完成作を、ドートマンダーものに書き直したもの。これは第一作目の『ホット・ロック』からそうで、あちらに向かないネタをこちらで転用という形で別シリーズに移し変えています。これを見てもそれだけパーカー物がキツいのだと分かるのですが。版元との契約では「三作に一作はドートマンダー」となっており、作者にとっては良い息抜きだった事でしょう。
 それもあってか筆致は軽快。腐れ縁のアンディ・ケルプや運転狂スタン・マーチ、獣人雪男タイニー・ヴァルチャーに加え、四十八年ぶりに刑務所からシャバに出てハイになっている錠前破りウィルバー・ハウイーが悪目立ちで笑わせ、口は悪いが情に厚いブルネットの美女J・C・テイラーがドートマンダー救出作戦に花を添えます。軽めのコメディ作品としては出色ですね。個人的には皿洗い機のギャグが笑わせました。 主人公があまりに不運なので、最後まで油断出来ないのもいいところ。このシリーズはだいぶ前に『ホット・ロック』を読んだきりですが、一作目に比べギャグ面はこなれ格段の進歩が見られます。とはいえハウダニットとしての面白みは少ないので、6点ちょうど。

No.314 8点 貴婦人として死す- カーター・ディクスン 2020/03/11 10:34
 第二次世界大戦のさなか、ナチス・ドイツによるパリ占領とフランス降伏から約半月後の一九四〇年六月二十九日土曜日、イギリスのノース・デヴォン海岸沿いにあるリンクーム村で不可解な事件が起こった。崖っぷちに建つ大きな山小屋風の一軒家〈清閑荘(モン・ルポ)〉に住む元数学教授アレック・ウェインライトの妻リタが、カードに招かれた俳優志望の車のセールスマン、バリー・サリヴァンと共に断崖から身を投げて心中したのだ。だが数日後に引き上げられた二人の遺体は両方とも心臓を撃ち抜かれており、着衣には銃を体に押しつけて発射した痕跡が残っていた。
 凶器に使われた三二口径のブローニングは半マイルも離れた路上で見つかり、また現場に残された二組の男女の足跡は偽装されたものではなく、周囲には第一発見者のほかに足跡はない。心中への関与と偽装工作を疑われた発見者、ルーク・クロックスリー医師は、己が嫌疑を晴らすため独力で、たまたま村に滞在中のヘンリ・メリヴェール卿すら匙を投げるほどの謎を解こうとするのだが・・・
 『仮面荘の怪事件』に引き続き戦時中の1943年に発表された、HM卿シリーズ第14作。翌年の『爬虫類館の殺人』ほどではないにせよ、同年七月十日からの英国空中戦(バトル・オブ・ブリテン)大空襲を控え、シチュエーションのところどころに戦争の影が見られる作品。にもかかわらず非常にシンプルかつコンパクトな出来映えで、『囁く影』などと共に中期の佳作と目されるもの。
 脚の親指を挫いてモーター付き車椅子を駆るH・Mの強烈なお笑いはありますが、それを除けば無理のない流れで、泡坂妻夫『右腕山上空』を思わせる時間差での盲点が指摘されます。足跡トリックとしては同作者の『白い僧院の殺人』よりも上でしょう。カー/ディクスンにしては短めの長編ですが、メインの叙述トリックと併せて非常に中身が詰まっています。こちらの設定もその自然さにおいて出色。
 犯人がほとんど策を弄さず、被害者二人の企てに便乗しただけというモダンな構図。2年前に発表されたフェル博士ものの『猫と鼠の殺人』もそうでしたね。ケレン味皆無でこの作者らしからぬところがファンにはやや物足りないのですが、秀作なのは間違いないでしょう。
 評者の好みだとメリヴェール卿シリーズ最終作『騎士の盃』になりますが、普通に選べばカー/ディクスン全作品ベスト10にギリギリ食い込んでくる作品。戦中ミステリの収穫のひとつです。

No.313 7点 ぽっぺん先生と笑うカモメ号- 舟崎克彦 2020/03/09 08:19
 「日食の日における渡り鳥の太陽磁石の方向」論文での博士号獲得を狙い、渡り鳥銀座といわれる多良湖岬へ旅立った独活(うど)大学の生物学助教授、通称ぽっぺん先生。だが皆既日食のその日、渡り鳥観察のために借り切った「シーサイドホテル・タラコ」二十四号室は突然舟に変貌し、先生は部屋ごと大海原に放り出されてしまう。だが先生はすぐに気付く。いや、これは部屋じゃない。自分は出窓のところに置いてあった、リモコンのヨットに乗っているのだ。いったいこの舟はどこへ向かうのか・・・
 ヨットに乗り合わせたワライカモメの話によれば舟は今、日食の影を追いながら潮境をたどっているらしい。東東の方角、信じた者すべてが向かうというまぼろしの島、アルカ・ナイカ島。異常行動を起こした動物たちは皆湾流に乗り、そこを目指しているのだ。
 だれの目にも見えない一本の筋、理想郷へと通じる地球のすきまに落ちた自分たちに、救助の手は届かない。磁石の針は円盤のなかをめまぐるしく回転し、いっかな一定の角度に落ちつかない。先生はついにこれまでの世界を捨て、しゃべるカモメと共に願いがかなうという東東の島、アルカ・ナイカへ赴く覚悟を決めるが・・・
 不思議な世界に迷い込むうらぶれた万年助教授の冒険物語、ぽっぺん先生シリーズ第3作。1976年発表。〈ぽっぺん〉というのはあだ名で本名は不詳。いつも履いているつっかけのかかとから音がすることからそう呼ばれています。40過ぎても独身で、学者の父親が遺した古い屋敷で老母「バアサン」との二人暮らし。およそ児童文学らしからぬ設定のシリーズです。
 本書はその中でも人気の高いもの。冒頭には福永武彦訳のランボオの詩「酔いどれ船」が掲げられ、さあ航海が始まるぞと思いきやイカダに乗った珍妙な生き物たちが現れて怪異の先触れを務め、魔の時刻の訪れとともに空と海は動物たちの幻影に埋め尽くされ、最後にはヨットに圧し掛からんばかりの黄金色にかがやく巨大な帆船「黄金の悪魔(17世紀の英国国王チャールズ一世が造らせた第一級戦列艦「海の君主号(ソブリン・オブ・ザ・シーズ)」のこと)が現れます。先生はこの豪華船に乗り移り、サバトの儀式が執り行われるなか悪魔たちと命を賭けた闘いをすることに。
 中盤はオヤジギャグというか昭和テイストのダジャレに彩られてますが、序曲・第1~4幕・終曲という構成で分かるようにミュージカル形式と見た方がいいですね。よくぽっぺん先生とワライカモメとの切ないラブストーリーと言われますが、作者がほんとうに書きたかったのは魔王ルシフェルの一連の独白だと思います。

 「なぜだ。人間どもはいつも一千億の欲望でぎたぎたとにえたぎっているのに、その願いをかなえてやろうとするおれたちを、なぜ罪人あつかいするのだ」
 (中略)「しかし、もういうまい。おれたちは地球を捨てたのだ。人の姿に身をやつし、ひと夜のサバトをらんちき騒ぎですごしたあとは、魔性を捨て、すべてを忘れ、一匹の野のけものとなってあたらしい世界へ踏みこむのだ。あこがれの地、アルカ・ナイカで」

 子供の頃は読後感イマイチだったんですが、今読み返すとムチャクチャ面白いんですよねこれ。大人の書いた大人のための童話。周囲にあれこれ言われるのがイヤなのか、児童文学に偽装してヘンなの書いてる人が結構いるから油断できません。
 人間どもに見切りをつけ、まだ見ぬ新世界に旅立つ悪魔たちという、とんでもない主題の作品。点数は惜しくも8点には届かず、7.5点。

No.312 5点 沼の王の娘- カレン・ディオンヌ 2020/03/06 02:20
 アメリカ北部、ミシガン州アッパー半島。スペリオル湖岸の観光地でガマの穂入りのジャムを販売して暮らす二十七歳の女性ヘレナは、写真家の夫スティーヴン・ベルティエと二人の娘に恵まれ、過酷な環境の中でも幸せな日々を送っていた。
 だが娘たちを連れた配達の途中、ラジオからニュース速報が耳に飛び込んでくる。マーケットにある最重要警備の刑務支所から、終身刑を科せられた受刑者が移送中、看守ふたりを殺害して脱獄したのだ。誘拐した少女を十四年間にわたって沼地の荒れたファームハウスに監禁し子供を生ませ、"沼の王"と呼ばれた凶悪犯、ジェイコブ・ホルブルック。彼はヘレナの実の父親だった。オジブワ族の血を引くジェイコブから原野で生き抜く術を叩き込まれた彼女は、過去を捨て名字を変え、入念に第二の人生を積み上げて生きてきたのだった。
 ラジオの情報では、警察は完全に父の術中に陥っている。国境地帯の原野を移動することにかけては、ジェイコブの右に出る者はいない。父を捕まえて刑務所に戻せる人間がいるとしたら、このわたしだ。いままですべてを隠して生きてきた。離れてゆく夫と家族を繋ぎ止めたければ、わたしの手で彼を捕まえるしかない。
 父と娘の緊迫の心理戦。アメリカ五大湖沿岸を舞台に、いま究極のサバイバルゲームが始まる。
 2017年に発表され、翌年バリー賞長編賞を受賞したカレン・ディオンヌの第四長編。過去の受賞作はレジナルド・ヒル『ベウラの頂』、トマス・クック『緋色の迷宮』、アーナルデュル・インドリダソン"The Draining Lake"など。
 作者には自然環境をテーマにしたスリラーなどすでに三冊の著作がありますが、それもそのはず。ベトナム戦争後の"自然に還れ"ムーブメントにのり、実際に本書の舞台となった地で三年間、生まれて一年に満たない長女をつれたテント暮らしの実体験者。本書の中でも書影のガマの穂に象徴されるサバイバルの知恵が、随所にちりばめられています。
 アンデルセン童話『沼の王の娘』をモチーフに、電気も水道もない小屋での親子三人の異様な生活と、それから約三十年後の父娘の追跡劇を交互に描く構成。ただし彼らの間には性的虐待などはなく、抑圧されてはいるものの娘ヘレナも父ジェイコブに尊敬と絶ちがたい愛情を抱き、自然に囲まれた沼地での過去にもある種の郷愁を持っています。ただしそれもジェイコブのコントロールを受けた上での事なのですが。
 そんな彼女も父との対決の中で、彼の救い難いエゴイズムを悟ることに。主人公が父親に決別し、自分自身の物語を選び取る過程がこの作品のミソ。作中には「ナルシストが幸福でいられるのは、世界が自分の思いどおりにまわっているときだけだ」というキツい一文もあります。
 オジブワ族はアメリカ及びカナダのインディアンで、トニイ・ヒラーマンの作品に登場するナヴァホ族とは別の北部の先住民。あっちはメキシコ国境付近ですね。有名なスー族とも交戦したことがあるそうです。 彼らの知識を娘に教え込むジェイコブは一見魅力的に見えますが、反面娘にためらいなく弾を撃ち込む残虐さと、死んだと思えばあっさり見捨てて見向きもしない酷薄さを併せ持つ人物。ヘレナも「サイコパス」と断定しています。まあ問題なのは彼の人格面で、技術ではないのでね。その辺を混同してはいけません。
 女性作家の手になる女性主人公のマンハントものだけあって、弱点もあれば甘い部分もあります。技術面で上を行かれ、最後には主人公の愛情を平然と利用しようとするジェイコブ。犯罪者"沼の王"の凄みがイマイチ伝わらなかったのが、残念といえば残念。

No.311 7点 タボリンの鱗- ルーシャス・シェパード 2020/03/04 16:14
 諸事情を鑑みるにまず当分は訳されないだろうと踏んでいた、全長約2kmの〈いにしえより横たわる竜〉の存在を背景に展開される「竜のグリオール」シリーズ第2弾、まさかの翻訳。「巨竜、起動」のアオリ文句通り、かさぶたのように背中にへばりついたハングタウンの村を振り落とし、膝下に広がるカーボネイルス・ヴァリーの街を踏みにじるグリオールの覚醒を描く表題作と、グリオールの死後数世紀を経て南米の小国テマラグアに運ばれた彼の頭蓋骨が、死してなおかの地にさらなる殺戮と混乱を齎そうと策動するポリティカル・フィクション『スカル』。以上、中篇と短めの長編作品計2本を収録。
 『タボリンの鱗』は娼婦を買うためテオシンテを訪れた古銭商ジョージ・タボリンが、グリオールの導きにより手に入れた幼竜の鱗を擦ることにより過去にタイム・スリップ。紆余曲折の末同時にジャンプした娼婦シルヴィア・モンテヴェルディ、性的虐待を受けていた少女・ピオニーの二人と擬似家族を形成し、彼らがグリオールの目覚めに立ち会うというストーリー。作中では長きにわたる桎梏から解き放たれ、思うがままに飛翔するヤンググリオールも登場。
 スリップ先の自然環境は豊かですが、そこでは竜に集められた人々が原始生活を営み、無法と暴力とが支配しています。殺人が物語を彩るのもこれまでと同じ。『始祖の石』に近いラストで、二人との擬似関係を絶たれたシルヴィアがジョージから渡された鱗入りのガラスペンダントを見つめ、失われた過去に想いを馳せるシーンで終わります。
 長編『スカル』はぐっと現実世界に近付き、アナグラム通りおそらくは1980年代~1990年代後半の中米グアテマラが舞台。おぞましい儀式により新たに人間に生まれ変わったグリオールと、彼の存在を消し去ろうとする男女の物語。
 とはいえ二人は英雄などではなく、作者自身の姿が投影された無責任で厭世的なヒッピー崩れと、カルト教団の元教祖。自分たち自身の愛に疑問を抱きつつ、空費した人生を取り戻そうと微かな希望に縋り竜殺しを行います。軍事政権下の抑圧された空気感と血生臭さが濃厚に出た作品。作者によれば「わたしの人生経験とわたしがかなりの時間を過ごした中央アメリカの政治情勢をもっとも色濃く反映している」ものだそうです。ここに来てのグリオールの人間化は評価が分かれるところでしょう。シリーズ自体も短編集『ジャガー・ハンター』収録作に大きく取り込まれた気がします。

 グリオールはそもそも狡猾な存在ではなかったのかもしれず、よく語られる彼のこの方面でのみごとな手腕とやらは、その巨体と、責任逃れをしようとする人びとのあやつられやすさのせいで誇張されてきたのではないかと推測した――

 表題作で一区切りついたのち、大幅に神秘性を削がれたグリオールの物語は果たしてどこに向かうのか。まもなく訳されるであろう最終巻を静かに待ちたいと思います。

No.310 6点 敵手- ディック・フランシス 2020/03/02 22:36
 白血病の娘レイチェルを持つ母親、リンダ・ファーンズの依頼で、放牧中の馬の前脚が次々に切断される事件の解決を請け負った競馬専門調査員、シッド・ハレー。だが個々の手口を精査するうち、次第にある男の影が浮かび上がってくる。
 エリス・クイント―― 元カリスマ的アマチュア騎手で長年の親しい友人。障害レース時代の好敵手にして、今は全国的なトークショーの司会者。そして、全イギリス国民のゴールデンボーイ。彼が一連の事件の犯人なのだろうか?
 信じたくない気持ちを抱えながらやがて確証を掴み、エリスを告発するシッド。だが彼の行為はエリスへの嫉妬と看做され、格好のゴシップとしてマスコミの集中砲火に晒されることになる。
 訴訟係属中の規定により、一切の証拠を公表できないまま轟々たる非難にじっと耐え続けるシッドだったが、やがて彼は憎悪煽動キャンペインの先頭に立つゴシップ紙《ザ・バンプ》の動きから、中傷の裏側にある企みの糸口を掴むのだった。
 『告解』に続く競馬シリーズ第34作で、シッド・ハレー三度目の登場作品。1995年の発表で、その翌年にはアメリカ探偵作家クラブのエドガー長編賞を受賞。クラウン作品ですがプロットにさほど捻りは無く、『利腕』の緊張感の名残はあるものの、本作においてはシッド・ハレーという大看板への寄り掛かりが目立ちます。
 元義父チャールズ・ロランドに続く精神的支柱アーチイ・カークの登場、および《ザ・バンプ》の毒舌コラムニスト、インディア・キャスカートとの恋愛などプラス部分を入れてもストーリーの作りは甘く、納得のいくものではありません。ラストで若干盛り返しますが、読後には満足感よりも内容の薄さが感じられます。諸要素の共通する初期の名作『度胸』との差別化を図ったのかもしれませんが。
 発売当時に期待して購入し、見事にコケた記憶がまだ鮮明なので、どうしても点が辛くなってしまいます。個人的には『再起』の方が好きなのですが、着膨れ気味とはいえこちらの方が評価高いのもまあ分かります。
 再読して若干印象が良くなったので、『再起』と同じく6点。でもシッド抜きのプロットのみだと、ぶっちゃけ5点作品です。

No.309 7点 紙の動物園- ケン・リュウ 2020/02/29 21:36
 中華系アメリカ人SF作家ケン・リュウ[中国名:劉宇昆(リウ・ユークン)]の雑誌掲載作が初めて編まれた、日本オリジナル短編集。2011年度~2012年度にかけて、史上初のヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞トリプルクラウンに輝いた表題作及び、2013年度ヒューゴー賞受賞作『もののあはれ』を含む全15篇を収録。
 作者は1976年生まれで、1984年~1987年頃両親と共に母国を捨て渡米。苦学の末ハーバード・ロー・スクールを出て法務博士号を取得。弁護士に加えコンピューター・プログラマー、中国語書籍の翻訳者として文筆活動を行い、二〇〇九年の実質始動から四年あまりの間に百篇近くの短篇を執筆しています。短篇主体の中国系SF作家ということでよくテッド・チャン[中国名:姜峯楠]と比較されますが、ニューヨーク州生まれのチャンと異なり中華人民共和国蘭州出身の彼の作品には〈移民の悲哀〉〈民族の苦難の歴史〉が濃厚に投影され、収録作品の持ち味として現れています。
 そのあたりのバランスが最も良いのが表題作『紙の動物園』。ケン一家同様、祖国を捨てアメリカ人と結婚した中国人女性と、米国で生まれアメリカ人として生きようとする混血の息子。母子の魂の断絶が、母親の手で命を吹きこまれた紙の動物〈老虎(ラオフー)〉によって再び繋がれるまでの過程を描いた作品です。三冠受賞もむべなるかなといった傑作ですが、これは特別。おそらく胸の中で大事に温めていたアイデアでしょう。第47回星雲賞を受賞したトリの短篇『良い狩りを』で再度ファンタジーとリアルの融合を試みていますが、前作ほど上手くいってはいません。
 やはり彼の本領は科学誌「ネイチャー」や最新論文、米紙のニュース等から貪欲にアイデアを吸収して取り込む、その反芻力にあるようです。『あなたの人生の物語』などでも感じましたが、科学技術の発展に感傷を挟まない乾いた力強さが、中華系作家の特長なのかもしれません。SFというガジェットと判明した事実を躊躇わず組み合わせてアイデアストーリを形作る。そこには黄金期、50年代SF作品の息吹があります。
 反面、感性的にはやや物足りない。クラウン作品の『もののあはれ』は、地球を離れおとめ座61番星を目指す移民宇宙船〈ホープフル号〉に乗り組んだ最後の日本人の活躍を描いていますが、民族考察その他はあまりピンときません。昨今中国SFが推されていますが、やはり一長一短ありということでしょう。他の全てを蹴散らす潮流ではなく、ワンオブゼムの一つとして受け止めたいと思います。
 『紙の動物園』は別格として、ブラッドベリの古典作品を思わせる『どこかまったく別な場所でトナカイの大群が』と、徹底したリサーチで懐の広さを窺わせる『円孤(アーク)』、SF系ベストはこの三つ。普通小説に近いものでは最も長い『文字占い師』と皮肉な『結縄』。そしておそらくは実体験を吐露した『月へ』。どちらかと言えば後半に良作が集中しています。
 必ずしも無瑕の名作ばかりという訳ではなく、出来にはややムラがありますが、表題作に敬意を表し少しおまけして7点。全体としては重厚な力作短編集です。

No.308 5点 悪戯- エド・マクベイン 2020/02/25 06:32
 春まだ浅い三月の終わり、アイソラでは大小さまざまな事件が続発し、87分署の刑事たちは目も回るほど忙しい。なかでも彼らが頭を抱えたのは、壁にスプレー缶で落書きをするストリート・アーティストばかりを狙った連続殺人。無造作に鉛弾を撃ち込んだ後、死体にペンキを吹きかけるという異常な手口だった。
 担当刑事のクリングとスティーヴ・キャレラが話し込んでいたちょうどその時、デスクの電話が鳴り響く。
「どんなご用でしょう?」「もう少し大きな声でいってもらえんかな。わたしはちょっと耳が悪いので」
 あの男、デフ・マンがまたこの街に帰ってきたのだ。刑事たちは山積する事件の捜査に追われながらも、彼の五度目の挑戦を阻止すべく奔走するが・・・
 1993年発表のシリーズ第46作で、エイプリルフールの時期に起きた諸々の事件が題材。ホープ弁護士もの第9作『三匹のねずみ』の翌年の作品で、かのシリーズが『メアリー、メアリー』で急降下する前の時期に執筆されたもの。デフ・マンは一応メインで登場しますが、これまでのようにピンではなくモジュラーの一件という扱い。パーカーとクリング担当の落書き屋射殺事件に加え、マイヤーとホース組は痴呆老人置き去り事件を捜査。物語はこの三件を軸にして進むものの、全体に纏まりを欠いた散漫な出来映え。SF小説を題材に天才犯罪者が仕掛けるヒントもいまいちピンときません。狙いはまあまあなんですけどね。油断して共犯の女にいいようにやられるとか、今回も株は下がり気味。
 ストーリーに平行してラップ・グループ《スピット・シャイン》のリーダー、黒人のシルヴァーと、白人ダンサー、クロー・チャダートンの恋愛模様が描かれますが、クローは第33作『カリプソ』の冒頭で射殺された黒人歌手の元妻。このカップルとエンディングでのクリングの新たな恋を、デフ・マンの煽動計画というアメリカの暗部に対置して釣り合いを取っています。キャレラの妻テディのエピソードが示すように、裏テーマは差別と暴力ですね。
 犯行予告に使われるボリビアのSF作家、アルトゥロ・リヴェラの小説『恐れと怒り』もなんだか胡散臭い。十中八九マクベイン本人作だと思われます。別名義で何冊かSF書いてますしね。

No.307 9点 お楽しみの埋葬- エドマンド・クリスピン 2020/02/22 09:38
 終戦後の一九四七年九月、イギリス。オックスフォードの英文学教授ジャーヴァース・フェンは、気骨の折れた校訂作業後の気分転換に、突如下院議員選挙への立候補を思い立った。彼は選挙区の中心から十マイルほど離れた十八世紀風ののどかな村、サンフォード・モーヴェルに降り立つが、宿屋〈フィッシュ館〉へ向かう途中、黒髪のタクシー運転手ダイアナ・メリオンと共に藪に逃げ込むすっ裸の男を目撃する。それは精神病院に改装されたサンフォード屋敷から逃げ出した患者、エルフィンストンだった。
 〈フィッシュ館〉に本格的に腰を据え選挙戦に臨むつもりのフェンだったが、館は改築作業の途中な上、彼の前にはエルフィンストンを皮切りに一癖も二癖もありそうな人々が現れる。豚を飼う〈フィッシュ館〉の女主人マイラに加え、お伽噺のようなプラチナ・ブロンドのメイド・ジャックリーン、新作の構想を練る探偵小説家ジャッド、どこか見覚えのあるクローリーと称する男、それに汽車で同道したきちんとした服装の娘、ジェーン・パーシモンズ。
 男に見極めを付けたフェンは、正体を明かした大学時代の同級生、ブッシー警部に捜査の協力を頼まれる。彼はゆすり行為からチョコレートによる毒殺に発展したランバート夫人の事件を探るため、ロンドン警視庁から非公式に派遣されたのだった。ある程度の目星はついているが、さらに証拠固めをする必要があるのだという。翌日、二人は深夜十二時にゴルフコースで落ち合う約束をするが、満月に近い星空の下、グリーン脇の小屋でフェンの懐中電灯が照らし出したのは、喉にナイフをつきさされたばかりのブッシーの姿だった・・・
 1948年発表のシリーズ第6作目。同年には第5作『愛は血を流して横たわる』も上梓されています。英国コージーミステリの最高峰で、これまでの著作のように浮ついた所もなく、落ち着いた筆致でユーモアたっぷりに語られます。改築狂の宿屋の持主ビーヴァー、ゴクツブシの豚や狂人エルフィンストン、牧師館のお騒がせ妖精など魅力的なお笑い要素も多い。
 ほとんど注目されてなかった選挙戦もキチ○イの脱走劇や二重殺人に加え、素人探偵の立候補が話題となり一気に全国ニュースに。フェン教授の意外な演説ウケも手伝って、内心どうせダメだろうと思っていた選挙参謀キャプテン・ウォトキンも俄然熱が入ります。フェンに政治熱を掻き立てられた探偵作家アネット・デ・ラ・トゥアことジャッドに至っては、彼ら二人も引くのぼせっぷり。

 フランケンシュタインが自分の生んだ怪物に初めて直面したときの宿命的な恐怖、夢にも思わなかったジャッド氏の熱狂ぶりを見て、二人はそのような恐怖を抱いた。

 この選挙にかなり筆が割かれてるんですが、オチも含めて出来がいいんですよね。なおかつ本筋には微塵も関係しないという潔さ。ミステリとしても論理的な手掛かりで、犯人もよく考えられています。脇筋の纏まりも含め非常にバランスの良い作品に仕上がっており、おそらくクリスピンの最高傑作でしょう。未訳のシリーズ最終作『Grimpses of the Moon』はこれと張るそうですが。
 翻訳も深井淳の名訳。機会があれば入手するべき一冊です。

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雪さん
ひとこと
ひとに紹介するほどの読書歴ではないです
好きな作家
三原順、久生十蘭、ラフカディオ・ハーン
採点傾向
平均点: 6.24点   採点数: 586件
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ディック・フランシス(35)
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