Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.74点 | 書評数:1617件 |
No.1457 | 10点 | ミザリー スティーヴン・キング |
(2019/06/18 23:39登録) 私も映画化作品を観たこともあり、またガーディアン紙が読むべき1000冊の1作に選ばれた、数あるキング作品の中でも1,2を争うほど有名な作品。映画も怖かったが、やはり小説はもっと怖かった。 説明不要のサイコパスによる監禁物であるが、驚かされるのが作品のほとんどが監禁状態で語られることだ。しかも物語の舞台は95%以上が狂信的なファン、アニー・ウィルクスの家で繰り広げられている。 限られたスペースで物語が繰り広げられるキング作品は先に書かれた『クージョ』が想起されるが、あの作品もメインの舞台となる車の中での監禁状態に至るまでの話があった。しかし本書は始まって5ページ目には既にアニー・ウィルクスの部屋にいるのである。文庫本にして500ページもの分量をたった1つの部屋で繰り広げるキングの筆力にまず驚かされる。 とにかく主人公ポール・シェルダンを監禁し、自分だけの新作を書かせる熱狂的なファン、アニー・ウィルクスが怖い。 このアニー、とにかく自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起す女性だ。 これほどまでに人に執着し、自分の思い通りにならないことに癇癪を立てる人がいただろうか。いや、いるのだ、実際この世には。 愛。それは何ものにも代え難い感情で困難に打ち克つ力として愛をテーマに人は物語を書き、詩を書いて歌にする。人が誰かと一緒になるのも愛あればこそだ。 しかしこの強い感情が実は最も人間の怖さを発揮することになることを本書は知らしめる。 アニー・ウィルクスはポール・シェルダンの書くミザリーシリーズという小説が大好きで大好きで次作が出るのを待ち遠しくしていたのに作者がこの主人公を殺してしまったから、それが許せなかった。自分の好きな作品を返してほしい。そして彼女にはそれが出来た。なぜならその作者が満身創痍の状態で自分の家にいたからだ。 彼女は献身的に重傷の作者を介護し、自分に逆らうとどういう目に遭うかを知らしめるために彼を支配した。彼が自分の手中から逃れようとしたら彼の足を切断し、自分の思い通りの話を書こうとしなかったから拇指を切断した。 彼の行方を尋ねに来た警官を殺害した。 それもこれも自分の大好きなミザリーシリーズの、自分のためだけに作者が書いてくれる続きを読みたかったからだ。 ファンというものは有難いものだが、一方で恐怖の存在にもなりうる。そしてこれはただの作り話ではない。キングが遭遇したある狂信的なファンの姿なのだ。 これがもしキング自身が抱いたトラウマだったら、彼は本書を著すことでトラウマを克服し、解消しようとしたのではないか。つまり彼は自分の紡ぐキング・ワールドに狂信的なファンの幻影を封じ込めようとしたのではないか。 そう、忘れてはならないのは本書がサイコパスによる監禁ホラー物だけの作品ではなく、小説家という職業の業や性を如実に描いた作品でもあることだ。 上述したように本書は95%がアニー・ウィルクスの家で繰り広げられるが、この長丁場を限られた空間で読ませるのは狂えるアニーのエスカレートするポールへの仕打ちとそれに対抗するポールの生への執着だけではなく、ポール・シェルダンという作家を通じて小説家の異様なまでの創作意欲、ならびに創作秘話が語られることも忘れてはならない。 最初はどうにか助かりたいと思って苦痛を抑えるために屈辱的なことも敢えて行った彼が次第に回復するにつれ、自分の命を繋ぎ留めるミザリーの新作に次第にのめり込んでいく。今までファンのためだけに書き、自身では早く終わらせたくて仕方がなかったミザリーがアニーという狂信者によって続編を書くことを強要され、文字通りその身を削って命懸けで案を練るうちに彼の中に今までになく充実したミザリーの物語が展開するのだ。それはさながら極限状態から生まれたアイデアこそが傑作になりうるといった趣さえある。 一度始めた物語は最後まで書きあげたい、自分の頭にある物語を形あるものとして残したい。満身創痍の中、必死に『ミザリーの生還』に取り組むポールはキングそのもの。 狂信的なファンによる監禁ホラーというシンプルな構造の本書は上に書いたようにファン心理の怖さ、そして自己愛が強すぎる者の異常さと執念深さのみならず、小説家という人間の業、更に物語が人から人へと広がっていくマジックなど、非常に多面的な内容を孕んでいたが、それだけに実は終始しない。 実はここに書かれていることが現実となるのである。 交通事故に遭い、満身創痍になったポール・シェルダンは本書を著した12年後のキング自身の姿である。彼自身も車に撥ねられ、重傷を負い、そして片脚に障害を負う。 この作品が他のキング作品と異なる怖さを秘めているのは、そんな現実とのリンクが―しかも未来を暗示していた!―あるからこそなのかもしれない。 キングは本書をフィクションとしてキング・ワールドに封じ込めたのではなく、実はキング・ワールドが現実にまで侵食してしまったのだ。 一人の作家が描いた世界がとうとう現実世界へ波及した稀有な作品として本書は今後私の中で忘れらない作品となるだろう。 |
No.1456 | 4点 | 夏と冬の奏鳴曲 麻耶雄嵩 |
(2019/06/09 23:49登録) 読後の今、正直なんと評したらよいか解らない。物語のゲシュタルト崩壊とも云うべき結末に大きな戸惑いを覚えている。一旦これは整理して受け入れるべきものは受け入れて物語を再構築していかなくてはならないだろう。 この規格外の本格ミステリに通底するテーマは偶像崇拝ということになるだろうか。ただ1作の主演映画を遺して若くして夭折した女優、真宮和音。彼女に心酔した6人の若者がとある島に渡り、1年間の共同生活をした後、女優の死によってそのコミュニティは解散となるが、20年後に再び同窓会という形で再会する。彼ら及び彼女はこの真宮和音のために1編の主演映画『春と秋の奏鳴曲』を作った仲間たちで、ファン以上に彼女を慕い、そして崇拝していたのだった。 彼らにとって真宮和音は“神”に近い存在、いや“神”そのものだった。今でもネットでカリスマ性のあるアイドルや女優に対して“神”と呼ぶ風潮があるが、まさにそれと同じようなものだ。というか26年前と今でもさほどこの偶像崇拝という趣向は変わっていないようだ。 とにかく色んなテーマを孕んだ作品であることは理解できるが上述したように混乱が先に立ち、上手く整理が出来ない。 実存主義、偶像崇拝、時空を超えたシンクロニシティ、ドッペルゲンガー、虚像と実像、運命論、因果応報、そんなものがふんだんに盛り込まれていることは頭にあるのだが、作品としてミステリとして考えた場合、これらは破綻しているが幻想小説として読めば本書の理解は更に深まり、また変わってくるだろう。 想像上の理想の女性が実際に現れた時、人はどうするのかというのがそもそも本書が内包するテーマであると思う。夢で見た女性、常に頭に描いている女性の理想像。それをどうにか具現化するために1年間共同生活を送った彼らが20年後にその存在に出くわした時、どうするだろうか。 やはりそれは独り占めにしよう、他の誰にも触られたくない自分のためだけの唯一無二の存在にしたいと思うのではないか。 ただしかし麻耶氏は最後の最後でこの解釈をも覆す。島から戻った如月烏有を訪ねるのは銘探偵メルカトル鮎。 『春と秋の奏鳴曲』に出てくる如月烏有に当たる主人公の名はヌル、つまりNullであり、それは無を意味する。まだ何も持たない無の状態の彼に役割を与えたのかもしれない。 また本書の英題は“Parzival”となっており、これはワーグナーの楽劇“パルツィファル”に出てくる英雄の名前だ。“汚れを知らぬ愚か者”の騎士と称される。しかしその純真さと無智ゆえに彼は敵の誘惑を乗り越え、使命を全うする。つまり取り立てて取り柄の無い如月烏有を指しているのだ。それを遣わせた者こそが真宮和音その人だった。 うーん、真と偽のスパイラル。この物語の決着はまだまだ着きそうにない。当分私の頭を悩ませそうだ。どこかで辻褄を合わそうとするとどこかが合わなくなる。それはこの一見直線的に見えながら歪んでいる本書の舞台和音館そのもののようだ。 |
No.1455 | 8点 | ミステリ十二か月 事典・ガイド |
(2019/06/02 23:16登録) 本書は北村薫版『夜明けの睡魔』とも云うべきガイドブックだ。あくまでミステリの初心者、特にミステリを読んだことのない子供たちがミステリに触れることを想定して書かれたガイドブックであるのが特徴的だ。 本書の構成は全部で4部構成となっている。 まず1年間読売新聞に掲載された毎週1編のミステリを紹介するエッセイが載せられており、それが第1部で次にその選定の裏側を語ったのが第2部、そして第3部では挿絵を担当した版画家の大野隆司氏との対談。最後に北村氏の朋友の1人、有栖川有栖氏との今回ピックアップした作品に関して存分に語る対談となっている。 つまり新聞掲載のエッセイを俎上に挙げて存分にミステリについて語ったエッセイであり、それがゆえに私は本書を北村薫版『夜明けの睡魔』と呼ぶのである。 さてまず第1部だが、ミステリの初心者への紹介ということであれば、巷間に流布する数多のガイドブック同様に江戸川乱歩氏の少年探偵団シリーズ、アルセーヌ・ルパンシリーズ、シャーロック・ホームズシリーズ、エラリー・クイーンにヴァン・ダイン、ルルーの『黄色い部屋の謎』―私はいまだにこの作品を名作として必ず紹介されるのが腑に落ちないでいるのだが―、カーに、クリスティーにアイリッシュに、と定番の、お約束の作品が紹介されているのは同様だが、随所に北村氏らしさが挿入されているのがミソ。 それは一番最初に絵本の『きょうはなんのひ?』を挙げられていることからも解る。子供たちが一番最初に触れる本とは即ち絵本だ。それならばその時点でミステリ風味の絵本を紹介したらどうだろうかという発想から選ばれている。 更に北村氏のオリジナリティを感じさせるのが新書の『白菜のなぞ』。これはノンフィクションであるのだが、この誰もが口にしている白菜の歴史には壮大な謎が隠されいたというものらしい。これも俄然興味が沸いた。 そして第2部ではこのエッセイの舞台裏が語られる。北村氏がこのエッセイの依頼を受け、引き受けた契機となったこと、連載終了後にこのエッセイを1冊の本にどうやってまとめるか、その構成などが語られる。この第2部は選書の経緯が存分に語られており、本当はこれを紹介したかったが、初心者対象ということで泣く泣く落とした。他にあれもあればこれもあるとアンソロジストの楽しくも取捨選択の苦しみが存分に書かれている。逆にディープなミステリ読者はこの第2部の方が本編よりも愉しめるかもしれない。つまり第1部からページを読み進むにつれて北村氏のミステリ愛は濃くなっていくのである。 私は第3部が意外だった。挿絵を担当した大野氏との対談は逆にこのエッセイ自体がミステリの仕掛けに満ちていることを教えてくれたからだ。この大野氏、なんと茶目っ気のある人物だろうか。まさか各編に付せられた挿絵に隠れメッセージが潜んでいたとは。この第3部ではそのネタバレが開陳されているが、それを読みながらまた第1部に後戻りして読み、新たな発見が出来るのである。いやあ、これには参ったし、楽しませてくれた。 そして最後の第4部は西のミステリの雄有栖川有栖氏との対談だ。お互いの読書歴とミステリの知識を総動員しているかの如く、次々とそれぞれのお気に入りの作品、ミステリ観が語られるこの対談が実に熱い!そして面白い! 特にエッセイで取り上げた作品について有栖川氏があの作家ならば私はこの作品を挙げるなあと云えば、それについて同意しながらも北村氏は自論を展開する。また北村氏がこき下ろす作品を有栖川氏は褒め、それぞれのミステリ観の違いを示唆する。 しかし毎回思うが北村氏の読書量には恐れ入る。なんせ小学生の高学年から文庫本に手を出したという早熟ぶりだ。 そしてその北村氏と対等に話の出来る有栖川氏の読書量と記憶力もまた並大抵のものではない。そしてこの2人だからこそ辿り着ける境地もある。紙面では読み取れない次元で彼ら2人が我々市井のミステリ読者の想像の上を行く領域でミステリに耽溺し、語らう悦楽を貪っているかと思うと羨ましくも嫉妬に駆られる自分がいる。 私もこれからどれくらい本が読めるか解らないが、これからも本は読み続けていこうという決意を新たにした。この2人の博識ぶりには到底敵わないが、本は絶対読むのを止めずに読んでいこう。死ぬまで読書を信条に。 |
No.1454 | 7点 | 惨劇のヴェール ルース・レンデル |
(2019/05/31 23:11登録) 事件自体はショッピング・センターの駐車場で見つかったごく普通の夫人の絞殺死体の犯人を巡る地味なものだが、なんとウェクスフォードは途中で爆弾事故に巻き込まれて重傷を負うという派手な展開を迎える。 しかもそれが女優である次女のシーラのポルシェに仕掛けられていた爆弾だったことから一転して不穏な空気に包まれる。 さらにその後も彼女に手紙爆弾が送られ、更に不穏な空気は募る。 しかし爆発に巻き込まれながらも—というよりほとんど直撃と云ってもいいくらいだが—ウェクスフォードはタフな不死身ぶりを見せる。なんとその週の週末には退院して仕事復帰しているのだ。ページ数にして僅か80ページ。いやはやどれだけ頑丈なんだ。 そしてもう1つ大きなエピソードがあり、それは遺体の第一発見者でありながら、警察に通報せずに現場から逃走したクリフォード・サンダースと彼を容疑者とみなすマイク・バーデンの捜査を巡るうちに異様な方向へと向かう意外な展開だ。このバーデンのクリフォードに対する執着は初めてウェクスフォードとの対立を生み出す。 さて本書の原題“The Veiled One”は作中に出てくる容疑者の1人クリフォードの心理療法士サージ・オールスンが話す“ヴェールで顔を隠した人”、≪エンケカリムメノスの虚偽≫というエピソードに由来する。即ちいつも見ている人物もヴェール1枚包めばその人と認識できない別人になるという意味だ。 カーテンを掛けられた遺体はそれを発見した親子はそれぞれそれが母親だと思い、息子だと思ったと述べる。 人は皆仮面を被って生活している。いやここは本書のタイトルに合わせてヴェールを被っていると表現しよう。 外向けの貌と内向けの貌。外向けの顔が虚構に彩られたさながらヴェールを被った貌は自宅に戻るとそのヴェールをはぎ取り、本当の貌をさらけ出す。いや、さらに秘密を持つ者は自宅においても他の家人たちに外向けのヴェールの下にもう一枚被ったヴェールのまま、相対する。これはそんな物語だ。 そして本書でそんな虚飾の下に隠された秘密をさらけ出すアイテムとして使われるのが雑誌に投稿される人生相談。驚くことに自分が抱える悩みを率直にさらけ出す人生相談は匿名ばかりでなく本名での投稿も多い事が明かされる。そしてそんな他人の秘密を取り扱う仕事に携わる人間の中に軽率な人間がもしいたら、というのが事件のトリガーだ。 最近、企業の持つ顧客の個人情報の流出が問題となり、それが誰もが知り、利用者数の多い会社の物となれば大きな社会問題に発展している。その原因がハッカー、クラッカーと云ったサイバーテロリストによる、いわば外部から脅威だけに留まらず、金欲しさに流出した内部による犯行も増えている。本書はまさにこの情報化社会を先取りした犯行に起因する殺人事件と考えることも出来るだろう。 レンデルの紡ぎ出す物語はさながら様々な因果律が描くタペストリーのようだと今回も感じ入った。それぞれの人物が糸のように絡み合い、編み物のように丹念に織り込まれながら、惨劇という大きなタペストリーを見せるのだ。 ショッピング・センターの駐車場で起きた1人の婦人の死。 そこは様々な種類の店が並んだ複合施設。いわば複数の店という糸が寄り集まって出来たタペストリーだ。 そこにはいろんな店があるがゆえに色んな人も集まっていく。 そこにはゴシップ好きの婦人がおり、その婦人と親しく話していた若い女性がいた。 そこには毎週木曜日に買い物に来ては心理療法士のカウンセリングを受けた息子が迎えに来る婦人もいた。 更には当世風な、慣習に囚われない結婚をしたことで、単純な偏見で見られ、まともに子供なんか授かりっこないとまでそのゴシップ好きな婦人に云われた若い女性もいた。 それらの人たちが糸のように寄り集まり、やがて駐車場での絞殺死体へと収束する。 そしてその場に居合わせた人たちにはそれぞれ隠している過去があり、秘密がある。ヴェールを被って外に出ながら、そのヴェールを無理矢理剥がそうという人がいる。それが被害者のグウェン・ロブスンだった。 そしてそれらの過去や秘密によって新たな因果律が生まれ、惨劇へと発展していく。 この事件の容疑者について426ページからウェクスフォードが様々な事件関係者を容疑者に見立てて開陳する推理は誰もが動機があったことを思い知らされる。因果律の応酬だ。 壊れた物はまた元に戻せばいい。過去の失敗はまた取り戻せばいい。全てにやり直しが利くのだ。 しかし失敗を恐れ、自分自身のみの必然性に従ったために起きたのが今回の事件だ。いや、事件とは押しなべてそのように起きるものなのだが、レンデルの筆致はその当たり前のことを鮮烈に思い知らされる。それだけ登場人物たちが息づいているからだろう。 ああ、やはりレンデルは読ませる。まだまだ未読の作品があり、そして未訳の作品がある。人生劇場とも云えるレンデル=ヴァインの諸作がいつの日かまた復刊され、訳出されることを願う。 |
No.1453 | 10点 | 転落の街 マイクル・コナリー |
(2019/05/23 23:35登録) またしても過去がボッシュを苛む。今回ボッシュが担当するのは彼の宿敵で目の上のタンコブだったアーヴィン・アーヴィングの息子の墜落事件。しかもアーヴィングが強権を発動してボッシュを捜査担当に指名する。 この水と油の関係の2人。これほどシリーズを重ねながらもアーヴィングの影はなかなか消えない。振り子のようにボッシュとアーヴィングはお互い離れ近づきを繰り返す。 相変わらずだが、アーヴィングという男は何を考えているか解らない男だ。唯一解っているのは自分の得になるためだったらどんなことでもやる男だ。その行動原理は独特で、実に政治家に向いていると云えるだろう。微笑と寛容で近づいてきたかと思えば次の時点では冷徹なまでに突き放し、もしくは職さえも奪おうとする。己の考えが全て正しいと思っている、何ともイヤなヤツなのだ。 そしてボッシュはもう1つ事件を担当する。いや本来ならばそちらが担当する事件だったのをアーヴィングによって強引にねじ込まれたのだが。 1989年に起きた未成年女性強姦殺人事件に残された血痕のDNAがヒットし、クレイトン・ペルという男が浮上したが、なんと事件当時彼は8歳に過ぎなかった。この鑑定が担当刑事の証拠取り扱い不注意によって生じた結果なのか、それとも本当にそれがクレイトン・ペルの物であるのか、そして彼が事件の犯人なのかを探るのがボッシュの任務だ。 さて今回の原題“The Drop”は色んな意味を含んでいる。 最初のDROPはボッシュが申請を認められる定年延長選択制度(DROP)の略称だ。つまりボッシュは定年を迎えながら更に刑事を続けることが出来るようになる。但し彼が申請したのは遡らずに5年であったが、遡っての4年。即ち定年を9カ月過ぎてからの承認であり、残り39ヶ月がボッシュの刑事人生となることが明示される。 次のDROPはボッシュとチューが担当することになったコールドケース、リリー・プライスという女性強姦殺人事件だ。彼女の首に付着していた滴下血痕(DROP)のDNA鑑定により、クレイトン・ペルという性犯罪者が浮上するが、事件当時彼はたったの8歳だった。 第3のDROPはそのものズバリでボッシュが図らずも担当することになるアーヴィン・アーヴィングの息子ジョージの墜落事件だ。アーヴィン直接指名での担当となることでその事件を担当していたハリウッド分署の刑事からも白い目で見られる。そして一見自殺と思われた墜落死が調べていくうちに他殺の線が濃くなる。しかもそれが警察関係者である線も濃厚になっていく。 つまりまたもボッシュは警察同士の軋轢に巻き込まれるのだ。まさにアーヴィン・アーヴィングはボッシュの人生にとってのジョーカーのようだ。 そしてもっと大きなDROPがある。それはこの感想に最後に述べよう。 さて私がシリーズ継続に当たって懸念していたマデリンとの関係はどうにか上手く行っているようだ。本書ではボッシュなりの娘との関わり合い、いやボッシュ流子育てが垣間見れる。 つまりリトル・ボッシュを着々と育てているようだ。それは即ち自分が以前のように事件に没頭できる環境を整える意味もある。 そしてマデリンもまたボッシュ並の刑事としての才能の片鱗を覗かせる。 この二人のやり取りは実に微笑ましく、ボッシュの娘に対する愛情と、そして娘のボッシュに対する親愛の情を十二分に感じさせる。 しかもこのマデリン、実に大人びているのだ。ボッシュが刑事を辞めるのを最初に切り出す相手がマデリンならば、父親に適切な回答をするのもまた彼女なのだ。その内容はボッシュをしてとても15歳の少女を相手に話しているとは信じがたいと思わせているが、まさにその通り。私の懸念は見事に吹っ飛び、マデリンはこのシリーズにとってなくてはならない存在までになった。 ヒエロニムス・ボッシュ。まさに彼こそ人生の全てを刑事という職業に捧げた、全身刑事ともいうべき存在だろう。 彼の娘マデリンが将来ボッシュみたいな刑事になりたいと云ってから彼は娘を刑事の訓練を行うが、それは第二のボッシュを育てるというよりも、彼亡き後も悪を罰する使命を娘に託しているのだろう。ボッシュサーガはこのハリー・ボッシュという男の刑事の血を継いでいく物語になる、そんな一大叙事詩のように感じた。 色々なエピソードも含め、今回強く感じたのはハリー・ボッシュシリーズとは刑事・警察の生き方を描いた物語であることだ。 刑事を続けることの能力の限界を悟り、一度はその職を辞しようと揺るいだボッシュの心を繋ぎ留めたのはキズミンが放った怪物たちを捕まえ、止めることこそが気高い我々の仕事なのだという言葉。「これこそ、わたしたちがやっていることの理由」を見出したボッシュは猟奇殺人犯が自身で記録した膨大な写真とビデオテープ、DVDの中から、彼らが担当したリリー・プライスが写っている証拠を探すのは自分たちだとして、他の刑事からの援助を断る。それがボッシュの刑事としての生き様なのだ。 そしてそんな暗鬱な作業の実態を敢えて省かず書いたコナリーの仕事もまた見事だ。彼は警察とは、刑事とはこういう人たちなのだと示したかったからこそこの場面を敢えて詳細に書いたのだ。 大きな正義に小さな正義、そして法を超えた正義。それぞれの立場で異なる正義が主張し、そして実行される。その渦中にいるのがハリー・ボッシュという男だ。 物語の最後は実に苦い。 そう、本書に掲げられたタイトル、転落の街、即ちThe Dropに隠されたもう1つの意味はこのロス市警の正義を意味しているのではないか。それはアーヴィン・アーヴィングの落選(DROP)を期待する堕ちたロス市警そのもの。自分たちの利益のために、一人の刑事と一人の男の死を利用したロス市警はボッシュにとって唾棄すべき存在へと堕ちてしまった。 それでもボッシュは刑事を続ける。キズミン・ライダーが彼に投げ掛けた言葉、「これこそ、あたしたちがやっていることの理由」を心の支えにしながら。 見事だ、コナリー。またも心に染み入る仕事をしてくれた。またもやハードルが高くなったが次もまたそれを越えてくれるだろう。我々の期待以上に。 |
No.1452 | 7点 | ダーク・タワーⅡ-運命の三人- スティーヴン・キング |
(2019/05/15 23:55登録) この物語はどこか我々の世界との共通項を持つ不思議な世界を舞台、特に西部劇に触発されただけに西部開拓時代のアメリカを彷彿とさせるファンタジー色が強かったが、本書ではなんと我々の住む現実世界へガンスリンガーは現れる。 彼の前に立ち塞がる黒衣の男ことウォルター・オディム、またの名を魔導師マーテン。この敵に立ち向かうために3人の仲間を集める。なんというベタな展開か。少年バトルマンガの王道とも云うべきプロットである。 しかしそこはキング。この仲間が非常に個性的。いや通常の物語ならば恐らくは厄介過ぎて仲間になんかしたくない、清廉潔白とは程遠い素性の人物ばかりが登場する。 ヘロイン中毒者でヤクの運び屋、両足を失くした二重人格の黒人女性、そして社会的に成功したシリアルキラー。 どう考えても旅の仲間にはふさわしくない、いや寧ろ避けたいか、敵の配下にいるような人物たちがローランドが我々現代世界から選び出すことのできる仲間なのだ。 こんなことを考えつくのがキングが凡百の作家を凌駕する、突出した才能の持ち主であることの証左であるのだが、果たしてこんなまとまりのないメンバーを伴にしてどうやってこの先長大な作品を描くのかと読んでいる最中はモヤモヤさせられた。 しかしキングはこのあり得ない仲間たちを引き入れる結末を実に鮮やかに結ぶ。 このなんとも扱いにくい輩、もとい仲間たちの引き入れ方が実に変わっている。 ガンスリンガーの旅路の途中に現れるドア。そこにはそれぞれ対象の人物を象徴する言葉が刻まれている。エディ・ディーンのドアには<囚われ人>、オデッタ・ホームズのそれには<影の女>、最後は<押し屋>と書かれたジャック・モートのそれ。 そのドアを開けるとガンスリンガーは我々の住む現実世界で対象となっている人物の意識へと入り込むことができ、さらには現実世界で手に入れたものを彼の世界へ持ち込むことが出来る。 そして意識に入り込んだ人物をドアに引き込んで現実世界から消すこともできれば、2人で同時にドアを開けて仲間と共にガンスリンガーが現実世界に姿を現すことが出来るのである。 これはかつてキングがストラウヴと共作した『タリスマン』の世界に似ている。 この現実世界の対象人物たちがガンスリンガーの仲間になっていくそれぞれのエピソードがまた実に濃い。 三者三様の毛色の異なる短編が収められたような内容はまさに自由奔放なファンタジー。どんな方向へ物語が進むのか全く予断を許さない。キングは頭の中に浮かぶ物語を思いつくままに紙面に書き落としているかのようだ。そしてそれを見事に<暗黒の塔>という大きな幹を持つ物語へと繋げる。 冒頭私はこのダークタワーシリーズを少年バトルマンガの王道のような作品だと述べた。しかし読後の今はそのコメントがいかに浅はかなものだったと気付かされた。 この何ともミスマッチな仲間が最終的に強い絆を備えた3人の仲間へと着陸する物語運びには脱帽。これがキングであり、やはり並の作家ではなく、少年バトルマンガの王道と断じようとした私の想像を遥かに超えてくれた。 そしてそれは人それぞれに生きている意味や役割があることを示しているようにも感じた。 1巻目はイントロダクションとも云うべき内容で正直このダークタワーの世界の片鱗の中の片鱗が垣間見れただけで正直展開が想像もつかなかったが、本書においてようやくその世界観や道筋が見えてきた。そうなるとやはりキングが描くダークファンタジーは実に面白い。 危うさを秘めた3人の旅はようやく始まったばかりだ。 |
No.1451 | 7点 | ダウン・ツ・ヘヴン 森博嗣 |
(2019/05/10 23:45登録) 『スカイ・クロラ』シリーズ第3作。時系列的には『ナ・バ・テア』の後日譚であり、『スカイ・クロラ』の前日譚である。まだシリーズは残っているのでそれらがどの位置に来るのかは不明だが。 草薙が本書で辿る道筋は我々社会人、いや大人全てに当て嵌ることだ。 夢を抱いてやりたいことを実現するために入社し、最初は上司の許で手法を学び、社会人として成長していく。そしてめでたく頭角を現し、上層部から注目を浴びるようになると上に立つ立場の人間へと押しやられる。しかしそこは会社の経営や政治的な仕事が多くなり、次第に本来やりたかった仕事からは遠ざけられ、相手との折衝や腹の探り合いなどの毎日が続く。 理想と現実のギャップ。本書における草薙水素はまさに大多数の社会人が抱く、いつしか夢を喪失し、現実に直面せざるを得なくなった社会人たちの姿だ。 恐らくこれは森氏の心情そのものなのだろう。 建築を学びたいと大学に入り、そして更にその道を究めたいとそのまま大学で研究を続け、その成果が認められて助教授になるが、やることは学生たちや後進への指導と会議ばかり。なかなか研究に没頭できなくなる。 何かをやりたいというのは子供の頃から持つ願望だ。だからこそ森氏は本書においてキルドレという永遠の子供を設定したのではないか。 本書の中でも草薙水素が吐露する心情の中に、「もう子供ではないのだから」という理由で搾取されてきた数々の想いや物が述べられる。 楽しいだけで過ごす毎日が子供の時代でそれを終えるのが大人の時代の始まり。子供の小さい世界が大人になるにつれて大きく広がっていくのに逆にやりたいことや出来ることは狭まっていく。 子供の頃、「それは大人になってからね」と云い聞かされ、大人になったら色んな事が出来るのだ、早く大人になりたいと願いながら、実際に大人になってみると周囲に合わせ、自我を通そうとすると疎んじられ、望まれもしないことを出来るから、挑戦だという理由でやらされ、やりたいことが出来なくなり、やらなければならないことばかりが増えていく、この大いなる矛盾。 しかしでは永遠の子供キルドレは純然たる自由を愉しんでいるのかと云えばそうではない。子供でありながら、大人の世界に生きる彼らは次第に純粋さを奪われていく。 草薙水素のようにただ飛行機に乗り、敵と戦い、勝つことだけが楽しくて続けてきたキルドレ達もやがてこの単純なサイクルに嫌気が差してくるようだ。来る日も来る日もやりたいことを続けるのもまた苦痛であるらしい。不死の存在でありながら命のやり取りである空中戦に望む彼ら彼女らはその無限のサイクルを止めるために無謀な戦いに挑み、そして散っていく。 そうすることしかそれを止められないからだ。 大人になることの不自由さを謳いつつ、一方で子供であり続けることの絶望も描く。 そのどちらも備えた草薙水素はなんと可哀想な存在なのだろうか。前作では人生の苦みと空に飛ぶことの愉しさを知った草薙が本書で第1作に繋がる絶望への足掛かりを付けるのが何とも痛々しい。 そして本書では第1作の主人公カンナミ・ユーヒチと草薙水素の邂逅が語られる。この2人のシーンは実に意味深でしかもまた官能的でもある。 それは草薙水素の産んだ子こそがこのカンナミ・ユーヒチだからではないか。草薙はカンナミに妙な繋がりを感じ、思わず口づけをするが、それは男と女という感情ではなく、親が子を愛する慈しみの感情、母性ゆえだからだろう。 また本書では上司の甲斐の心情も大いに語られる。前作の後半で出てきた彼女は草薙の精神的支柱となっている。 若い女性でありながら本社の上層部との調整役を担っている彼女は男性社会の中で女性というハンディを感じ、悔しい思いを抱きながら、今に見ていろの精神でのし上がってきたことを述べる。そしてエースパイロットとして徐々に一介の戦闘機乗りから指揮官への道を歩まされる草薙に対し同じ女性として良き理解者であろうとする。 ティーチャとの戦闘が不満足に終わり、怒りに明け暮れている草薙を甲斐は悔しかったら人より高いところに上がるしかないと諭す。そしてやりたくないことを強いられた連中を見返してやればいい、と。 これはある意味真実で、ある意味誤りだ。なぜなら草薙は逆に上に上がりたくなく、このままずっと戦闘機に乗り、戦いたいのだから。会社の中で上に上がることを諭した甲斐は草薙から自由を奪っていくことを促したのとさえ云えるだろう。大人と子供の世界の齟齬がここには表れている。 また私がいつも不思議だと思うのはどうして飛行機乗りでもないこの作家がこれほどまでに戦闘機乗りの心情や飛行シーンをパイロットの皮膚感覚で描写できるのかということだ。 よほど綿密な取材をされたのか、はたまた知り合いに自衛隊のパイロットがいるのか解らないが、まさに“それ”を知っているものでないと書けない叙述だ。 そして最たるのは飛行シーン、戦闘シーン。それらの描写で短文と改行を多用し、ページの上半分のみを文字で埋めた書き方だ。 前作、前々作の感想でも述べているがそれがまさに読んでいるこちらが主人公と共に戦闘機に乗っている感覚が得られる。しかもその内容は実に専門的で実際のところ、どんな技術が行われ、どんな風に飛んでいるのかはマニア含め、その道に通じている者にしか十分に理解できないはずなのに、なぜか頭の中にその一部始終が映像として浮かぶのだ。この筆致はまさに稀有。 Down To Heaven。 天は上るものであるのに草薙水素にとって天は墜ちていく先に辿り着くところであるらしい。本書の表紙の色グレイは草薙が墜ちていく空の雲の色を指す。戦闘機乗りの草薙が死ぬべきところは地上ではなく空。空に墜ちて死ぬことこそが本望。 しかしその時の空は雲に覆われた灰色の空で希望はない。希望が無くなった時に墜ちる空は灰色。空を泳ぎ(スカイ・クロラ)、全き空の只中(ナ・バ・テア)に辿り着き、そしてそこへと墜ちていく(ダウン・ツ・ヘヴン)。 草薙水素が絶望に明け暮れる序章の巻。その時が訪れるまで草薙水素よ、ただただ楽しく飛び続けてほしい。 |
No.1450 | 7点 | ひげのある男たち 結城昌治 |
(2019/05/09 23:45登録) 直木賞作家でハードボイルドの先駆者と呼ばれながら、数々のジャンルで傑作を物にしている昭和を代表する作家の1人、結城昌治氏。その彼のデビュー長編である本書は意外にもユーモアミステリであった。 しかも本書は数少ない結城作品の中でも貴重なシリーズキャラクター、郷原刑事が登場する1編なのである。郷原刑事物は本書を含めて3作あるとのこと。 デビュー長編に登場した刑事を主人公に書き継いだというのが結果かもしれないが、本書における郷原刑事は立派なひげを蓄えた名刑事として名の知られている事や家に拾ってきた野良犬を17匹飼っているといった特徴づけがなされていることから当初からシリーズ化する意向はあったのだろう。 さてユーモアミステリと云っても扱っているのは殺人事件であり、多数の刑事が登場する警察小説でもある。 しかし名刑事と呼ばれている主人公の郷原刑事の、ところどころに挟まれる吐露する心情などが非常に人間臭いところ、そして何よりも捜査の対象となる独身女性殺人事件の容疑者がおしなべてひげを生やしているという妙味にある。そして上述のように捜査を担当する郷原刑事もまたひげを蓄えた刑事であり、とにかくひげ尽くしのミステリとなっているのだ。 さてこのひげ、男性にあって女性にないものの1つである。 最近私は平成における男性がひげを生やすことに対する意識の変化について書かれたウェブ記事を偶然ながら読むことができた。そこにはおおむね次のように書かれていた。 戦国武将の時代ではその威光を示すために生やしたとされるひげは高度経済成長を迎え、サラリーマン社会となった昭和では身だしなみを整えなければならないという観点から男性はひげを剃り、常に清潔であることを強要された。しかし平成になり、無精ひげを生やしても清潔感が滲み出るタレントが多く出たことからひげを生やすことに抵抗がなくなり、無精ひげも違和感なく受け入れられるようになったという。 しかし最近では男性も女性のように美しくあることを求めるようになり、再びひげを剃る風潮になってきたが、以前と異なるのはひげを剃る道具類に美肌効果やひげが生えにくくなる成分が加味され、常につるつるの美しい肌をキープできるのが若者の間で流行っている、といった内容だった。 まあ、この記事の内容の是非についてはそれぞれ異論はあろうが、だいたいの流れは掴んでいると考えられる。従って本書においてひげを生やした男がいやに強調されるのは上の記事でも語られているように、男にひげを剃ることが求められていた時代だからこそ、事件の関係者・容疑者がひげのある男たちであるところが面白いのであろう。 また男はひげに対して特別な思いを抱きがちだ。例えばスポーツ選手は調子がいい時はそれが続くことを願ってわざとひげを剃らないでいるし、また逆も然りで調子が悪いとトレードマークと云われるまでに伸ばしていたを心機一転とばかりにばっさりと剃る者もいる。 また出世して要職に就くと威厳と自身の心構えを変えるためにひげを蓄える人もいれば、ひげがあることで男ぶりが上がるのでわざとひげを生やす人もいる。またある人は相手から表情を読み取りにくくするためにひげを生やすことを選択する。 本書もその例に漏れず、ひげを生やす人物は転職をして心機一転する者やチンピラの親分となって若いながらに威厳を保つために生やす者など出てくるし、出所して新生活のために逆にそれまで生やしたひげを剃る人物も出てくる。 さてひげ、ひげ、ひげと自分で書いていてもしつこくなってきたので本書の感想に戻ろう。 (以下大いにネタバレ) 結城氏が本書の犯人を検事に選んだことが興味深い。というのも結城氏は作家になる前は東京地方検察庁に事務官として働いていた経験があるからだ。従って本書に描かれる郷原刑事たち捜査陣たちがやけに人間臭く感じるのは、それを目の当たりにした経験が存分に活かされているのだろう。 そして事務官として検事の傍にいた結城氏がデビュー長編で検事を犯人にしたのは、検事もまた人であることを強く認識させられたからではないか? これについてはあまり深く書くと憶測が憶測を生むだけなので敢えて留めておくが、物語の最後に登場人物が呟く、警察を信頼しなかったものが悪いのか、それとも信頼されなかった警察が悪いのかという問いかけが十分な回答であるように思える。 実は本書は名刑事郷原刑事シリーズの1作でありながら事件を解くのは容疑者の1人、私立探偵の香月栗介なのである。 この常に不遜な態度を取り、郷原刑事に苦虫を噛み潰したような顔をさせる探偵が攪乱される捜査陣を尻目に事件の本質を見抜き、犯人へと導くのだ。これもまた事件に携わる仕事を前職に持つ結城氏が敢えてこのような手法を選んだことを考えると、作者の警察・検察に対する不信感の深さを思い知らされるのだ。 特に捜査会議にマスクをした身元不明の人物が紛れながら、警察側、検察側それぞれがどちらかの関係者だろうとして放置するシーンは今までのミステリでも前例のない奇妙な展開でありながら、妙なリアルさを感じる。ちなみにその正体は探偵の香月栗介だったわけだが、当時の警察の一風景を切り取った珍エピソードではないだろうか。 しかし昭和を代表するミステリ作家結城氏もさすがにデビュー作はまだまだ粗さが目立った。ひげのある男たちが登場しながら、もう少しひげについてガジェットを豊富にしてほしかったし、郷原刑事の猫好きもあまり物語に寄与しているとは思えない。 そして最たるものは延々25ページに亘って香月栗介による事件解明の講釈が書かれていることである。しかも見開き目いっぱいに文字が埋め尽くされ、ずっと事件の発端から犯人断定に至るまでの推理の道筋が続くのである。これは今では作品を応募する新人でもしないことだろう。大作家も人の子であったと思わされた場面であった。 さて令和最初の読書はなんと平成でもなく昭和34年に書かれた昭和を代表する作家の1人のデビュー長編となった。しかも意図してこの作品を選んだものではなく、たまたま読む順番にこの本が巡ってきたのだ。 元号昭和と同じ漢字が使われた新元号令和の1冊目に本書を読むことになったのは何かの啓示だろうか?私も50に近づいたことだし、まずはひげでも生やしてみようか。 |
No.1449 | 7点 | 赤い砂塵 デイヴィッド・マレル |
(2019/05/08 23:47登録) 2000年発表の本書はあの怪作『ダブルイメージ』の後に書かれた作品であったので、こちらも変な捻りが加えられた作品かと思ったが、さにあらず、絶大な力を持つ悪の首領に囚われの身となった美貌の姫を救いに悪の巣窟へ乗り込む、昔ながらの英雄譚をモチーフにした潜入及び脱出行の物語だ。 デリク・ベラサーという武器商人をCIAが挙げるべく、かつて軍のヘリコプター操縦士で名の知れた画家であるチェイス・マローンがその巣窟に潜り込み、彼が依頼された肖像画のモデル、ベラサーの妻シェンナを救出する。しかしそこからは絶大な権力を持つ男からの男女2人の果てしない逃亡が繰り広げられる。 このデリク・ベラサーという男が実に強烈だ。 圧倒的な威圧感を持ち、先祖代々からの武器商人で決して足を出さず、世界中にコネクションを持ち、武器を売りさばいて戦争を起こしている男。そして自分の欲望を満たすためには手段を選ばない。妻の肖像画作製の依頼をマローンが断ると、家と土地を買い取り、彼のお気に入りのレストランも買い取り、更に彼の作品を扱う画商も作品ごと丸ごと買い取り、マローンの作品を世に出さぬために倉庫に入れようとする。 更に彼が異常なのは美しいものに異常な執着を持ち、妻が年齢によって美貌の衰えを見出すと肖像画と裸体画を残して事故死を装って殺害し、新たな美しい妻を手に入れる。まさに現代の青ひげである。 そしてもう1人鮮烈な印象を残すのはその妻シェンナだ。本書の原題“Burnt Shenna”は彼女の肌の色、赤褐色を指す。 このマローンをして、今まで見た中で最も美しいと称されるこの妻はかつてはトップモデルであったが、その境遇は不遇だ。 イタリア系アメリカ人の両親の許で生れた彼女はイリノイ州にいたが12歳で両親を亡くし、引き取られた叔父のところではセックスを強要され、ある日それが嫌で家を飛び出し、シカゴでモデル学校に入り、モデルの仕事を始め、一躍トップモデルになる。 暴力を振るうボーイフレンドとコカインでボロボロのところをベラサーに引き取られ、病院で手当てを受けた後、結婚したが、初夜でベラサーが上手く行かなかったときから、彼女は単なる彼にとっての威光と商談をまとめるためのマスコットに成り下がった。一人で外出は許されず、ベラサーとのみ外出が出来る、まさに城に囚われた美しき姫君だ。 そして主人公のチェイス・マローン。元軍用ヘリコプターの操縦士で、小さい頃から絵を描いていたことから退役後画家になり、その独特な生命力溢れる風景画はたちまち世間の耳目を集め、作品が高額で取引されるようになり、絶大なファンも生まれ、その1人クリント・ブラドックは彼の逃亡のために気前よく100万ドルを貸し与える。 元軍人であるから銃火器の扱いにも長け、また格闘術も心得ている、まさに絵に描いたようなヒーローなのだが、人に利用されたり、人から命令されたりすることが嫌いで、CIAの作戦協力のみならずベラサーと、とりわけその部下アレクサンダー・ポッターとも常に反目する。 この辺はいわゆる聖人君子ではない男をヒーローにする作者のキャラクター造形だろうが、いちいち素直に話を聞かない、指示に従わない彼の姿にいささか辟易させられた。 またマレルは彼を設定上の画家にせず、彼の作風や創作風景を丹念に描いている。私はそこが実に興味深く読めた。 人の絵を描くことはそれ自身無言の対話だ。画家は絵筆に対象の内面を描こうとまるで心の中まで見透かすかのようにじっと見つめる。一方モデルはたった1人の男にそれまで経験したことがないほどじっと見つめられる。今まで隠していた心の在り様すらも見られるかのように。 それはいわば直接的接触のないセックスに似ているのではないか。純粋に対象を見つめ合い、お互いを理解し合う、この絵を描くという行為は精神的に最も深く愛情を感じるひと時なのかもしれない。 なんとも目まぐるしい展開だ。いや寧ろこのような展開こそが今の小説には必要なのかもしれない。 マレルの描く冒険小説は上に書いたように昔からよくある英雄による美しき姫君の救出劇であり、悪人は現代の青ひげとも云える精神異常者なのだ。この古来からある設定に冒険活劇と起伏あるストーリー展開を肉付けした、純然たる冒険小説と云えるだろう。 少年ジャンプの三原則は友情、努力、勝利だったが、このマレルの作品はまさにこの三原則に沿って書かれた物語だ。友情は即ちマローンをCIAの作戦に誘った元副操縦士で戦友のジェブ・ウェインライトだ。彼はどんな時もジェブを見捨てず、最後はCIAの身分を離れてマローンの一私兵としてベラサー殲滅に協力する。最後にマローンの許を訪れるのも彼だ。 そしてこの三原則に大人の読み物であるので、ここに男女の愛情が加わるわけだが、実はこの愛情こそが本書では最も濃い。 物語のクライマックスでマローンによって追い詰められたベラサーはシェンナに自分が開発した新種の天然痘を感染させる。 見事ベラサーを討ち果たしたマローンは必死の看護で彼女をこの病気から救うことに成功する。しかし彼女が望んだ祖先の地イタリアのシエナで隠遁生活を送る時、マローンは毎日シェンナの肖像画を描いて暮らす日々を送る。どこにも行かず、誰も訪れないその家でただひたすら2人で時間を過ごすことを愉しむかの如く。 ただシェンナは人が訪れるとその姿を見られたくないとばかりにすぐに隠れる。それは例えば天然痘の後遺症で肌に染みが残ったため、かつて美しかった自分が醜く見られるのを厭うためか、もしくはその美しさゆえに、自分を我が物にしたい男たちによって暴力を振るわれたり、人として扱われなかったことを恐れるためなのか、解らない。 物語はマローンの絵の中の彼女が飛びきり美しいことに言及し、彼女が病気に罹ったために身を隠しているように結んでいるが、私はマローンがシェンナに云った、自分の美しさゆえに哀しみ、そして傷ついているのではないかという問いかけが答えと考え、後者として受け取りたい。 題名に冠せられたシェンナの美しさはただマローン一人だけのもの、そしてその美しさは、ベラサーが30歳で期限を切ったが、マローンにとって永遠なのだ。 本書が平成最後に読み終わった本となった。 典型的な冒険活劇の中にちょっぴり苦く切ない男女の恋の結末が含まれていたのが収穫だった。 |
No.1448 | 8点 | 死のカルテット ルース・レンデル |
(2019/05/05 22:22登録) いつものように出社し、その日もいつもように仕事を終え、家に帰って家族といつものように変わらぬ会話と小言を繰り返し、寝床に就いてまた同じような朝を迎える。そんな日常が繰り広げられるはずだったところに突然転機となる事件が起こったら、貴方はどうするだろうか? レンデルのノンシリーズ作品となる本書はそんな日常から突如切り離された4人の男女の話だ。銀行強盗がきっかけで人生が変わりいく男女4人の人生の転機の物語だ。 イギリスで一番小さい銀行支店で働く、1人の妻とその義父、不動産会社に勤める息子と15歳なのに夜な夜な出歩いては、しかしきちんと門限の10時半に戻ってくる娘を持つ38歳の男アラン・グルームブリッジ。アングリア・ヴィクトリア銀行のチルトン支店に勤める銀行員。 もう一人の銀行員は20歳のジョイス・M・カルヴァという女性。どちらかと云えば自由気ままな毎日だが、それは退屈の裏返しでもある。 その銀行の話をあるきっかけで知り、銀行強盗を企てるのはマーティ・フォスターとナイジル・サクスビイの2人。 この2人の行き当たりばったりの銀行強盗が4人の人生を変える。 強盗2人はジョイスを人質に取り、警察に通報されるのを恐れて監禁生活を余儀なくされる。 ごくごく平凡な男だったアラン・グルームブリッジは手元にあった3千ポンドを持ち出し、名を変え、新たな人生を歩むことを決意する。そして彼は下宿先のユーナと恋に落ちるのだ。 私はこのユーナ・イングストランドという女性のことを思うとどうしても切なくなってくる。けなげに生きながらもなぜか幸福に恵まれない女性がいる。ユーナ・イングストランドはそんな女性だ。 原題“Make Death Love Me”、「死神が私に惚れるほどに」という題名は実は主要人物4人を指すのではなく、このユーナの心情を指すのではないか。彼女が辿り着いた心の叫びのように聞こえてならない。 そしてまたユーナをこのような状況に招いたアラン・グルームブリッジがまた悪い人間ではなく、いい人だから困ったものだ。 人生に“もし”はないが、本書はその“もし”の連続の物語だ。 “もし”アランの娘が夜遊び好きでなかったら? “もし”その娘の友達が悪人でなかったら? “もし”アランがここではないどこかへ行きたいと思わなかったら? “もし”アランが別の女性と付き合っていたら? “もし”ジョイスが銃を弄ばずにこっそりと脱出していたら? この“もし”の選択肢の中で我々は生きている。本書はその選択肢の1つを選び間違えたが故の歩むべきでなかった人生の道筋の物語。平凡な毎日は選択を一歩間違えばこんな悲劇が待っている。心にずっと痛みが残るような出来事はちょっとしたタイミングや心に差す魔によって起こるのだ。 実にレンデルらしい皮肉に満ちた作品だ。最後にある有名な曲の一節を引いてこの感想を終えよう。 「誠実さ、なんて寂しい言葉なんだろう」 |
No.1447 | 10点 | 証言拒否 マイクル・コナリー |
(2019/05/01 22:59登録) このシリーズが連続して刊行されたのは本書が初めて。よほどコナリーの中で弁護士を主人公とした取り扱いたいテーマがあったのか、はたまた『ナイン・ドラゴンズ』以降、娘を引き取ることになったボッシュの動かし方を模索している最中なのか、いずれにせよコナリーにとってこのミッキー・ハラーシリーズはもはや作家として新たな地平に立つために必要なシリーズとなったようだ。 それを証明するかのように本書では刑事弁護士であるミッキーが民事も扱うようになる。当時世間を騒がしたサブプライムローン問題で住宅ローンが支払えなくなり、多くの差し押さえが発生したこの事件にミッキーはビジネスチャンスを嗅ぎ取り、差し押さえ訴訟を多数扱うようになる。 これまでと違い、不当な差し押さえ案件を扱うことで不当に虐げられ、不利な立場を強いられている人々を救うことになり、救世主的な存在となっていることがハラーの中で今まで刑事裁判を扱っていた時の疚しさを和らげていることがハラーにとっても救いとなっている。それは娘のヘイリーから母親が犯罪者を刑務所に送る検事であるのに対し、本来は無実の人を冤罪から救うための正義の使途であるはずの弁護士が犯罪者の味方をする職業のように見られていたことからも改善する一助なっていることが多分に大きいのだろう。 このヘイリーの想いはそのまま私の想いにも繋がる。ミッキー・ハラーの物語を読むといつもこう思うのだ。一体正義とは何なのだろうか、と。 今回ハラーの“事務所”は1人の新人を雇っている。ブロックスことジェニファー・アーロンスン。 アメリカの裁判にまだ浸っていないアーロンスンは恐らく全ての弁護士がかつてそうであった、正義を重んじ、あらぬ罪を掛けられた依頼人を護る正義の使途としての純粋さを持ったルーキーで、事あるごとにハラーのやり方に疑問を挟む。 なぜ依頼人の話を聞かないのか?単に目くらましだけで他の容疑者を召喚するのか?なぜ証人を誤魔化すためにありもしなかったことを訊くのか?実際に起こってないかもしれないのに陪審員の注意をそらせるために偶然かもしれないことを利用するのか? ハラーと調査員のシスコがその都度アーロンスンを諭す。我々は弁護の手段を模索し、依頼人に最良の弁護を施す方策を、戦略を作るのだ、と。 このアーロンスンとハラーのやり取りはそのまま今のアメリカの裁判が抱えている、いや世界の裁判が抱えている正義を成すことに対する矛盾を見事に示唆している。我々一般人が常に弁護士や検察官たちが下す判定に違和感を覚えることをこの新人とベテランのやり取りを通じて教えてくれる。アーロンスンがまだ感情というものに寄りかかっている我々に近い立場の人間であり、ハラーたちは徹底して論理を追及する法律を扱う側の人間である。ここにかなり大きな溝があることを知らしめされるのだ。 そしてそれは訴追する検事側も同様だ。やり手の女性検事アンドレア・フリーマンは次から次へと奇手を繰り出してハラーを翻弄する。物的証拠を二度に亘って裁判の大事な局面の直前に提出し、ハラーに検証する余地を与えようとしない。フェアであるべき裁判はいかに相手を出し抜くかのゲームに終始するのだ。アングラな場所で行われる違法な高額で行われるポーカーゲームと大差がないほどに。 こういった裁判の実情を思い知らされるとボッシュが正しいことが為されるべきとして自ら制裁を加えたくなる衝動に駆られるのも無理もない、むしろそちらの方が正しいのではないかと思わされてしまう。 今回驚いたのがハラーがハリウッド・エージェントと契約していることだった。これまでコナリーは作中で自作の映画化について登場人物に語らせており、本書の中でも第1作の『リンカーン弁護士』が映画化されていることが触れられているが、話題性のある裁判が映画化され、ヒットする可能性を秘めていることからハラーは単にその裁判の弁護を務めるだけでなく、映画化の際に映画会社にその権利を売ることができ、しかも本を書いて売ることも出来るようになっている(ところでコナリーは映画でミッキー・ハラー役を務めたマシュー・マコノヒーがよほど気に入ったようで本書のみならず何度も引き合いに出しているのが面白い)。 リサ・トランメルの裁判の映画化権を巡るハリウッド・ゴロと呼ばれるハーバート・ダールとの丁々発止のやり取りもこの裁判に掛かる副次的な戦いとして描かれており、もはや弁護士は単に裁判の弁護や法律相談役といった法的関係の仕事のみでなく、メディア関係にも手を伸ばして多角経営をしないと生き残れないのかと感じ入った。 裁判はもはやショーであり、法廷の中にドラマがあるのだ。 あとやはり触れておかねばならないのはSNSが犯罪に利用されやすいということだ。 まさに現代のIT社会が招く恐ろしさを本書では扱っている。私がこのFacebookのみならずLINEやインスタグラムをしないのは、そのネタのために話題作りをしたり、まめにアップするのが煩わしいからもあるが、自分の行動を他者に伝えることで自ら禍を招くことを恐れてのことでもある。今回の事件はまさに私の懸案が扱われたものとして興味深く思った。 そしてこのリンカーン弁護士シリーズの結末はいつも苦い。 ボッシュシリーズが彼が悪と信じる人間をとことん追求し、そして捕えるまでを描くため、そこでいかなる形にせよ終止符が打たれるのに対し、このシリーズはそこから売容疑者が捕まり、それが果たして本当の犯人なのかを証明する物語であるが、もはや法廷が無実を証明する場所でなく、無罪か有罪かを勝ち取るゲームになっているからだ。裁判とは証拠に基づいて裁かれることで、一抹の割り切れなさを残して終わるものとなり、それが決して万人を満足させるものになっていないのだ。 そこに正義はない。あるのは有罪であると証明できるか否かしかない。たとえ被告人が犯罪者であろうがなかろうが。 正しいことが出来なくなってきているこの複雑になり過ぎた社会の苦さを痛感させられる物語だった。 |
No.1446 | 7点 | 屋上の道化たち 島田荘司 |
(2019/04/28 23:17登録) 御手洗シリーズ第50作目にしてもその奇想度が全く衰えない。今回は曰く付きの盆栽が置かれた屋上から突然人が飛び下りる不思議な事件を解決する。 いやはやよくもまあこんな話を思い付いたものだと感心した。先の山口氏のキッド・ピストルズの短編集の感想で私は偶然や予想外の出来事が起こることで不可能的状況が生まれるインプロビゼーションの妙が面白いと評したが、流石は巨匠島田氏、そんな山口氏の作品を遥かに凌駕する想像を超えた偶然をこれでもかとばかりに導入し、我々読者を上に書いた不可解事の世界へと誘うのだ。 しかも本書は久々の、実に久々の読者への挑戦状が付いており、今回はそこで作者自身(語り手の石岡自身?)が述べているように、事件の背景となったそれぞれの登場人物の背景について語られており、今までの挑戦状付き作品よりも推理する材料は与えられていると感じた。従って私もこの挑戦状を読み流さず、敢えて受けて立つことにした。 さてその真相は90%合っていたと云っていいだろう。豪腕島田ならではの、アクロバティックな事件の真相は本書でも健在。「疾走する死者」や『暗闇坂の人喰いの木』、吉敷物の『北の夕鶴2/3の殺人』の系譜となる物理トリックだ。 しかし本書では文庫版の表紙が全てを物語っている。 かなり意匠化されたその内容は事件の舞台となるU銀行と作中何度も出てくるグリコならぬプルコの大型看板の位置関係、そして放物線と数式が描かれているそれがこの真相を解く、実に有用なヒントになっている。 というよりほとんどネタバレかもしれないが、私は物語を読まないとその内容が理解できないこの表紙を実に素晴らしいと思った。読み進めるうちにこの表紙も絵解き物として理解が増してくるのだ。 また重箱の隅をつつくようで恐縮だが、以下の2点について触れておこう。 本書は短編集『御手洗潔のメロディ』所収の短編「SIVAD SELIM」の後の事件、つまり1991年の1月ごろの話となっている。しかしその時代だと、例えば田辺信一郎のエピソード“苦行者”の章で彼がY家電に入社し、労働省が「過労死ライン」を設定し、通達したとあるが、この通達は2001年12月に行われており、1991年の時点ではそれがなされていないため、時制が異なるのだ。 またプルコの看板を点検する際に御手洗が小鳥遊刑事にクレーンを呼ばせて道路を一部通行止めにするが、この場合は事前に警察に道路使用許可を申請して許可を得なければならないので、本書に書かれているようにはできないので注意が必要だ。 この原点回帰のような健筆ぶりは評価したいが、特定の企業をモデルにしたエピソードが正直事件に寄与しているとは云い難く、作品の怪異性、もしくは読者の興味を他へ逸らすためのミスリードのために盛り込まれているようにしか感じられないのは正直不満だ。 書かれている内容は決して好意的な物でないため、実在する企業に対してそれは失礼であろう。 また元々の題名『屋上の道化たち』から『屋上』と非常に素っ気ないタイトルに変更したのも気になるところだ。 島田流本格ミステリが味わえるのは大歓迎だが、上に書いたような些末なミスや創作作法にいささか不満が残った。特に上に書いたような時代考証の齟齬や公共機関への届け出の不備などは校閲の段階で指摘すべき点であろう。それは寧ろ出版社の務めだ。 島田氏が巨匠になり過ぎたために意見できないようになったのか。もしそうならばそれはそれで出版界も衰退していくだけだろう。本作品は単行本からノベルスを経て既に3度目の刊行でありながらこのようなミスが見られるのは何とも情けない限りだ。 |
No.1445 | 7点 | キッド・ピストルズの冒瀆 山口雅也 |
(2019/04/24 23:45登録) 全4編が収録されたキッド・ピストルズシリーズ第1作はそれぞれ毒殺、ダイイング・メッセージ、見立て殺人、密室殺人と本格ミステリの本質的なテーマを扱っている。 そしてそれぞれの短編には古典ミステリをパロディにしたネタが放り込まれており、ミステリに造詣が深ければ深いほど愉しめる内容となっている。 そんなパラレル・ワールドの英国を舞台にしたキッド・ピストルズシリーズ。 警察が堕落し、腐敗したその世界では民間の私立探偵が活躍し、<探偵士>なる称号が設立され警察より優先的に捜査を行使できるその世界は一見破天荒に思えるが実はこのパラレル・ワールドを設定することで山口氏は本格ミステリに付きまとうある不自然さを見事にクリアしているのだ。 本格ミステリにおいて最も不自然なこととはいったい何だろうか? 密室殺人?人智を超えた不可能犯罪?まだるこしいほどに手の込んだアリバイトリック? 確かにそれは不自然さを感じるだろうが、世の中には色んな人がおり、また予想もつかないことが起きるのが世の常であることを考えれば、上に挙げた内容も許容範囲だ。 では最も不自然なものとは何か? それは探偵が捜査に介入することだ。 この本格ミステリでは当たり前に起きている素人探偵や私立探偵が殺人事件を始めとする刑事事件の捜査に介入することは現実世界においてまず、ない。 従って世のミステリ作家たちは自ら創案した探偵たちを捜査に関わらせるために様々な工夫をして不自然を自然に見せることに腐心している。 難航した事件を偶々事件に関係した探偵が解決した。 警察の上層部が父親、もしくは親戚である。 警察の相談役となり、既に捜査に携わることを認められている、などなど。 しかし本書では無効化した警察の代わりに探偵士が捜査を行うという世界を設定することでその不自然さを見事にクリアしているのだ。 しかも事件を解決するのはそれら探偵士でなく、堕落した警官であるキッド・ピストルズであるというパラドックス。 つまり本来事件を解決すべき警察が、探偵が登場する本格ミステリにおいて道化役もしくは物語の進行役になっている不自然さを更に本書では探偵士ではなく道化役であるはずの警察が事件の謎を解くというあるべき姿になっているところに妙味がある。 あり得ない世界を設定したことであるべき捜査の在り方を描く。 パラドックスに満ちながら、実は正統な事件の解き方を描くことになっていることが非常に面白い。 デビュー作では死者が甦る世界における殺人事件の意義を問い、そして本書では探偵が警察よりも権威を持つパラレル英国を舞台に、しかも作者自身のあとがきによれば世界初のマザーグース・ミステリ連作シリーズを著した山口氏。 誰も書いたことのないミステリを、もしくは自分だけが想像する世界におけるミステリを書く、孤高のミステリ作家山口雅也氏は極北のミステリを目指しているが、それが結果的に純粋に本格ミステリにおいて探偵の存在を不自然にならないようになっている。 そして探偵の存在を肯定しながらその実、事件を警察に解決させるこのシリーズは山口氏独特のパラドックスに満ちた作品であると云えよう。 本格ミステリの異端児が放つミステリは異端な世界を描くことで実は至極真っ当な世界を描く、つまり―(マイナス)に―(マイナス)を掛けると+(プラス)になることを証明した作品なのだ。 かつて山口氏は本格ミステリの巨匠島田荘司氏を本格ミステリ界のボブ・ディランと称した。 それに倣って私は山口氏を本格ミステリ界のなんと称しようか。それはもうしばらく氏の作品を読んでから判断することにしよう。 |
No.1444 | 8点 | スキン・コレクター ジェフリー・ディーヴァー |
(2019/04/23 23:42登録) 10作目という節目を終え、新たなシリーズの幕開けを意識したのか、本書は題名からも解るように1作目の『ボーン・コレクター』を意識しており、内容も同じくボーン・コレクター事件の影響を受けた犯人との戦いを描いている。まさに原点回帰の1作だ。 ボーン・コレクターは骨への執着が強い犯罪者だった。かつて楳図かずおのマンガでも嫌らしいのは骨の上についている肉で骨こそ美しいと述べていたが、本書のスキン・コレクターはその皮膚に執着する犯罪者だ。 さて今回の敵スキン・コレクターはなんと犯罪実話集でリンカーン・ライムについて語られたボーン・コレクター事件の項目を読み、ライムのことを熟知した敵だ。従って彼はライムが行うであろうことを想定して常にそれを出し抜く。自らの痕跡を完全に消し去るのは無論の事ながら、アメリアがするであろう証拠品の検めを想定して毒入りの針を仕込むという罠を仕掛けたりもする。更に大胆にもライムのアパートメントに忍び込み、毒入りのウィスキーを置いて、ライムに意図的に飲ませようとする。またロン・セリットーは消防士に成りすました犯人によって配られたヒ素入りコーヒーを飲んで意識不明の重体に陥ってしまう。そう、今回ライムチーム自身もまたこのスキン・コレクターの標的になっているのだ。 更に本書のテーマは毒殺である。とにかくこのスキン・コレクター、色んな毒を駆使して被害者に襲い掛かる。 毒殺はジョン・ディクスン・カーなどが良く好んで使っていた殺害方法でつまり黄金時代のミステリの主要な殺人方法だったが。現代では廃れてしまっている。犯人がわざわざ毒殺に固執することにライム自身疑問を呈すが、私は逆にこの古典的な殺害方法を本書で用いたことで改めてディーヴァーが現代のシャーロック・ホームズシリーズと呼ばれているリンカーン・ライムシリーズの原点に回帰したことを示しているメッセージだと受け取った。 またスキン・コレクターが遺体に施す、もしくは施そうとしたメッセージもまた意味深だ。“the second”から始まり、その後“forty”、“17th”、“the six hundredth”と続く。それらは全て数を意味しているが、全くその関連性が見えない。ダイイングメッセージならぬ犯行声明であるが、これに加えて今回は各犯行現場の平面図が本書にはきちんと挿入されており、これらの趣向が本格ミステリ志向ど真ん中なのである。 相変わらず怒濤のようにサプライズを仕掛けるディーヴァー。それはあまりに突飛すぎて、その場面に直面した瞬間は頭に「?」が飛び交い、理解に少々時間を要してしまう。そしてそれが本当に成り立っているのか、どうしても後でその場面を振り返る必要に駆られる。 さて今回も非常に複雑に入り組んだストーリー展開を我々読者にディーヴァーは提供してくれた。しかも2015年発表の本書では上に書いたようにかつての黄金時代のミステリを彷彿とさせる、暗号を思わせる犯罪者からのメッセージ、各種取り揃えた毒による毒殺という古典的な殺害方法といった本格ミステリ風味が前面に押し出されている。 更に昔から都市伝説のように云われていたNYの地下に網の目のように張り巡らされた地下通路を犯罪者スキン・コレクターが暗躍し、マスコミからアンダーグラウンド・マンと名付けられ、原題に甦ったオペラ座の怪人のような様相を呈している。 そしてこの“アンダーグラウンド”が民間武装組織といった米国内に数多あるテロ組織を暗示しており、彼らが掲げる白人原理主義は現在のトランプ大統領が掲げているメキシコとの国境の壁建設やイスラム教徒の入国制限といったような選民主義的主張を象徴しているようで現代に通じるものを感じる。 とまあ、本書もまたいつもの、いやそれ以上に様々な仕掛けを施し、読者の頭をそれこそ作者ディーヴァーが両手で掴んで前後左右へぐるぐる回しているかのような目まぐるしい展開を見せるのだが、エンタテインメントに徹しすぎて深みに欠けるように感じてしまう。 特に今私が連続して読んでいるコナリー作品に比べると、各登場人物が抱く心情に深みを感じないのだ。ボッシュの異常なまでの悪に対する執着、ハラーの何が何でも裁判に勝つためのがむしゃらさといったような灰汁の強さや登場人物たちがその選択をした、せざるを得なくなった性や背負った業というものを感じないのだ。 確かにディーヴァーの描くプロットは最後見事なまでに整然としたロジックの美しさを感じさせる。特に本書は全てが繋がり、最後の一滴まで飲み干せる美酒のようなそつのなさを感じさせるが、そこにコクを感じないのだ。 これは全く以て私のディーヴァー作品を読む姿勢が間違っていると云えよう。ディーヴァー作品を読むには彼の作風を想定してそれに自分の頭を切り替えて読むべきなのだろう。だからディーヴァーにはディーヴァー作品の、コナリーにはコナリー作品の読み方をしないとこのような読後感に陥ってしまうのだ。 しかし『このミス』1位の作品は危険だ。どうしても期待値が高くなってしまい、感想も辛めになってしまう。もっと純粋に物語を愉しめるよう初心に戻った読み方をしなければと反省した次第だ。いや、面白かったんですよ、ホントに。 |
No.1443 | 7点 | 日本傑作推理12選(Ⅲ) アンソロジー(海外編集者) |
(2019/04/21 22:32登録) 今回読んで率直に第1、2集の方が総合的に質が高かったという思いを強くした。 今回は選者であるEQJM委員会が松本清張氏を別格として他の11人の作家全てを初選出の作家に選んで本書が編まれているわけだが、勿論実力が拮抗している作家も存在する。それらについては後述するが、それは片手に数えるほどしかいなかったと云うのが本音だ。前2集で見られた物語の濃密さや登場人物の泥臭さ、体臭さえも感じさせる灰汁の強さが非常に薄く感じられたのだ。 本書での短編の選出方法は前2集が対象期間内の全短編から厳選された作品を翻訳してクイーンに送った手法を取っていたのに対し、今回は作家別に1975年以降の発表作から作者本人の自選も参考にして委員会が最も優れたものと思った作品を翻訳して随時クイーンの許に送り、同意を得た作品が収録されている。 つまり本集ではまず作家ありきで始まっているところと、随時送られている作品がクイーンにとって面白ければOKというところが異なるのである。 この方法はやはり全体としての質を下げたように思える。やはり一時に候補作を送って、そこから絞り込んで選出するやり方、つまり相対評価が必要なのではないか。1つ1つの作品の出来を認めるのみではある程度の瑕疵があっても許容範囲ということで点数が甘くなってしまうと思うからだ。それは収録作の出来と質を見れば明らかであろう。 さてそんな第3集でも恒例どおり本書におけるお気に入りを挙げることは出来る。それは赤川次郎氏の「沿線同盟」、都築道夫氏の「小梅富士」の2作だ。 赤川氏の作品はその読みやすさと21世紀の今でも通じる普遍性を伴っており、全然時代性を感じさせない。せいぜい挙げるとすれば携帯電話がない時代であるくらいだ。 片道約2時間かけてまで欲しかった念願のマイホーム。同じ町内に住む限られた人々。そしてそこに住む人たちがいつの間にか共有するようになった同族意識と排他主義。典型的なサラリーマンの都心生活形態を描きながら、地方の村社会を思わせる閉鎖性を歪んだ形でミステリへと味付けした手際は実に素晴らしい。 「小梅富士」はアメリカ人のクイーンにとって造詣が浅いであろう時代物だが、大きな庭石の下敷きになって寝たきりの老人が圧死しているという奇抜な謎とそれを実に違和感なく論理的に解き明かす本格ミステリの妙味を存分に味わえる傑作だ。いやあ都築氏の作品はさほど読んだことないが俄然興味が沸いてきた。 そして今回の個人的ベストは栗本薫氏の「商腹勘兵衛」だ。 栗本氏の作品は意外や意外の時代物だが、その文体や作品が醸し出す雰囲気はもはや時代小説作家そのものといっていいほどの出来栄えだ。その才能のマルチぶりに驚かされるが、本書は何よりも内容がいい。とても微笑ましく、そして哀しいのである。 私は常々健気な女性が出てくる話に弱いと云っているがまさにこの作品はど真ん中だった。16歳の腰元が51歳の侍に惚れるという設定とそのために自ら口説かれたと噂を流す茶目っ気など、私の心をくすぐる内容満載なのだ。そして切腹する夫よりも先に自害する愛情の深さを見せる純粋さも兼ね備えている。久々に泣けた。 しかしそれでもこうやって挙げてみると物足りなさを感じてしまう。第1集ではお気に入りを3作、ベストを1作挙げ、第2集ではお気に入り3作、ベスト3作と豊作だったのに比べるとやはりトーンダウンは否めない。 あとクイーンの序文に日本ミステリの現在が示唆されていることに驚きを感じた。 クイーンは本書の冒頭で、シャーロック・ホームズがポーの生んだ名探偵オーギュスト・デュパンの影響を受けているように、シャーロック・ホームズもまた後世の刑事物、素人探偵物からハードボイルドに至るまで影響を与えており、そしてフランスのミステリから英国の作家は影響を受け、アメリカの作家は英国の作家から影響を受け、更に英仏の作家はそのアメリカから影響を受け、と環を成してミステリはお互いに影響を与えながら発展してきたと書いている。そしてそれら海外のミステリの影響を受けて発展した日本のミステリもまた将来米英仏の作家に影響を与えるに違いないと断言している。 まさにこれが21世紀の今起こっているのだ。 本格は“Honkaku”という英語にまでになり、黄金期のミステリを彷彿とさせるトリックとロジックを駆使した本格ミステリが逆輸入的に今世界のミステリシーンで起ころうとしているのだ。 昔の小説を読むことの意義を感じた次第だ。そしてまた第2のクイーンとなる新たな選者を海外に見出し、また日本の優れた短編を紹介する機会を作るべきではないか。平成の時代に本書のような海外のミステリ作家による日本人作家のアンソロジーが編まれなかったのは今更ながら悔やまれるが、新しい元号を迎える今こそ相応しい時なのかもしれない。 21世紀の日本ミステリ作家たちが更に世界に羽ばたく一助をどこかの出版社が担ってほしいものだ。それだけの作品が既に蓄積されているのだから。 |
No.1442 | 8点 | 判決破棄 マイクル・コナリー |
(2019/04/20 23:01登録) 前作がボッシュとの共演だったら、なんと本書ではそれに加えて彼の元妻マギー・マクファーソンとも共同で仕事をする。 更になんと今回ハラーは弁護士でなく特別検察官として雇われ、DNA鑑定によって判決破棄された24年前の犯罪で逮捕された少女殺害犯の有罪を勝ち取るためにマギーを補佐官、ボッシュを調査員として雇い、チームとして戦うのだ。 しかもそれぞれの関係が元夫婦、異母兄弟とそれぞれ微妙な繋がりがある奇妙な混成チームであるところが面白い。 しかし彼らに共通するのは年頃の娘を持つ親であること。ミッキーとマギーは2人の間に生まれたヘイリーがおり、ボッシュは前作『ナイン・ドラゴンズ』で一緒に暮らすようになったマデリンがいる。彼らのこの同族意識が勝ち目のないとされる少女殺害犯の有罪判決への道を歩ませたと云える。 しかしよくもまあこれほど面白い設定と行動原理を考え付くものである。全くいつもながらコナリーの発想の妙には驚かされる。 しかもこのチーム、実にチームワークがいいのだ。 ボッシュはそれまで培った刑事の勘を存分に発揮し、24年前の事件関係者を次々と捜し出す。 マギーは女性ながらの心遣いとベテラン検事のスキルで以ってミッキーをサポートし、ミッキーもまた百戦錬磨の弁護士生活で培ったノウハウを検察側に持ち込み、裁判を有利に持ち込むことに腐心する。 お互い我の強い性格でイニシアチブを取るのが通常の3人であったので、自分の主張を通すことに執着し、常に意見が割れて反発ばかりするかと思いきや、実にバランスよく裁判の準備が進んでいく。 この過程は読んでいて実に面白かった。 ただ悪が成敗されたのにこれほど爽快感がない物語も珍しい。コナリーはアメリカ法曹界が孕む歪みを巧みに扱って我々読者を牽引しながら、最後は渇いた地表へと導いた。 しかしそれでも本書は清々しい。それは子を持つ親たちがそれぞれの立場で最大限に尽力し、真摯に悪に立ち向かった物語だったからだ。 父親と母親は子を護るためなら必死になる。子供たちの知らないところで親たちはこんな戦いをしているのだ。同じ娘を持つ親であるコナリーはもしかしたら自分の娘にこの話を届けたかったのかもしれない。 |
No.1441 | 8点 | バーにかかってきた電話 東直己 |
(2019/04/19 21:27登録) 正直1作目は何とも調子に乗った、おちゃらけ気味の主人公<俺>の独特な台詞回しに若書きの三文芝居といった酷評を挙げたが、あれから十数年経ったことで私の中で何かが変わったのか、それとも免疫ができたのか、今回はさほど気にならなかった。 いや勿論所々演出過剰気味の云い回しは本書でも散見されるが、<俺>を一度体験した後ではこの斜に構えることでいっぱしのタフガイを気取る若気の至り的態度に対してどうやら寛容に捉えられるようになったらしい。 また本書の物語が実にミステリアスに進むことも以前よりも抵抗なく読み進む理由の一つとして挙げられる。 コンドウキョウコとだけ名乗る女性から10万円が口座に振り込まれて依頼されるのは何とも奇妙な物ばかり。ある人に会って○月○日に誰かはどこにいたかを尋ねろとか誰かを喫茶店に呼び出してその時の態度を見てほしいといった掴みどころのない依頼だ。 しかし最初の依頼でなんと主人公の俺は電車のホームから突き落とされ、危うく死にそうになる。更に調べていくうちに1年前の不審火の火災事故で近藤京子という女性が死んでいることに気付く、といった具合に次から次へと謎が連続し、それがページを繰らせるのだ。 私はこの謎の女性コンドウキョウコは霧島敏夫の元妻沙織であると途中までは思っていたが、最後のコンドウキョウコの沙織に揺さぶりをかけるという依頼でそれを撤回してしまった。そこがこの作品の妙味であり、作者のトリック(この場合は敢えてそう呼んでも差し支えないだろう)に見事に引っかかってしまった。 暗中模索の中で進む事の真相が最後に沙織からの手紙で判明するのは何とも残念だ。しかし本書は本格ミステリではなく、ライトなプライヴェート・アイ小説であることを考えれば、それもまた納得できるか。 本書の特徴はキャラクター造形に秀でたところにある。特に霧島敏夫という人物は印象的だ。 彼は直接的には物語に登場しない。拉致されそうになった女性を救おうとして暴走族たちに立ち向かい、逆に返り討ちに遭って命を落とす60前のこの男は物語の時間では既に存在しておらず、<俺>が関係者の話を聞いていくうちにその肖像が出来てくる。その手際は実に見事。 特に最後の沙織の手紙で語られる、死の間際に拉致されそうになった女性を必死に助けるためにその女性の足を殴られ、蹴られながらも話そうとしなかった愚直さが胸を打つ。拉致騒動が霧島を殺害するために仕組まれたものであり、その女性自身もグルであったことを一つも疑わずに助けようとしたこの件は物語を、キャラクターを強く印象付ける。 そして最後に忘れてならないのは沙織という女性だ。 今回の物語は全てこの沙織によって描かれ、そしてピリオドが打たれる。主人公の<俺>は彼女のストーリーを円滑に進めるためだけに存在したに過ぎなかった。 それが功を奏したのかもしれないが、主人公の青臭さと身勝手さ、また子供っぽい独白は第1作目と変わらないのに読後感は前より悪くなく、寧ろ良い。 本懐を遂げた女の生きる道を見せてくれた、そんな思いでいっぱいだ。 それは実に遣る瀬無く、切ない話なのだが、コンドウキョウコこと霧島沙織が見事過ぎて爽快感を覚える。もし一歩早く<俺>が沙織の企みを阻止し、彼女が生きる道を選べばそれはそれで実に泥臭いものとなっただろう。やはり本書の結末はこれで良かったのだ。 日本で最も北に位置すると云っても過言ではない繁華街ススキノ。そこでは人知れずこんなドラマが起こっている。北海道を愛し、そして専らススキノを愛する作者はそれを青臭くもセンチメンタルに描く。 第1作目を読んだ時はこの作者の作品を読むのに躊躇いを覚えたが、そんな懸念はこの2作目で払拭された。 またいつか作者の描くススキノを訪れよう。 |
No.1440 | 4点 | これほど昏い場所に ディーン・クーンツ |
(2019/03/27 23:50登録) 久々のクーンツ作品訳出である。最後に訳出されたのが2011年に刊行されたフランケンシュタインシリーズだから実に7年ぶりとなる。 長らく途絶えていたクーンツ作品の訳出が2018年になって訳出されたのはまたも新しいシリーズが始まったからだ。FBI捜査官ジェーン・ホークが主人公を務めるクーンツにしては珍しいミステリ仕立ての作品がアメリカで好評だったからによる。 まずクーンツが女性を主人公にしたことが珍しい。シリーズ物のオッド・トーマス然り、フランケンシュタイン然り、今までの作品ではほとんど全て男性が主人公だった。中には印象的なヒロインが登場する作品もあったが、それでもメインは男性だった。 彼がこのジェーン・ホークを主人公にしたのは新機軸でもありつつ、今やヒットチャートもアリアナ・グランデやテイラー・スウィフトといった女性アーティストが席巻する時代である。そんな最近のトレンドもクーンツは盛り込んだのかもしれない。 久々に読んだクーンツは、かつて重厚長大化し、どんどん肥大していく作品傾向にあった2000年代頃に比べて、いわゆるグダグダとした説教的な話が少なくなり、物語展開がスピーディになったことが特徴的だ。特に短い章立てで次から次へと場面転換が行われるのは今までにない特徴と云えよう。3ページだけの章は当たり前で1ページも満たない章もいくつか散見される。 主人公ジェーン・ホークが立ち向かうのは全米で起きている不可解な自殺事件。 ある日突然普通の生活をしていた人々が突発的に自殺を行う不審死が相次いでいることにジェーンは気付く。そして彼女の夫もまたその中の1人だった。更にそれを調べていくうちに全米で自殺率が年々上昇していることが明らかになっていく。そしてそれらの自殺がある天才たちによって引き起こされていることが判明する。しかしその相手は大富豪とノーベル賞候補の大科学者の2人でしかも彼らの息は政府機関や各方面に掛かっており、しかもウェブで常に監視され、少しでも検索しようものならすぐに嗅ぎつけて追跡してくる。しかも彼女の所属するFBIにも息の掛かった人物がいるらしい。 と、相変わらずクーンツは主人公を絶望的な八方塞がり状態に陥れる。 クーンツ作品はどうやっても勝てないだろうと思われる巨大な敵をまず設定し、徐々に主人公に迫りくるその包囲網だったり、圧倒的な強さを持つ敵と絶望的とも思える対決を強いられるパターンが多く、そんな相手にどうやって主人公は立ち向かうのだろうかと読者はドキドキハラハラさせられるわけだが、その割には決着の付け方が淡白で今までの無敵感を誇っていた強さは一体何だったのかと肩透かしを食らう結末は少なくなかった。 その問題の欠点は改善されたかと期待したが、残念ながらそれはなかったというのが率直な感想だ。 やはりクーンツは設定作りは上手いが、物語の畳み方が下手であることを再認識させられるだけになってしまった。 ただ本書はまだイントロダクションといったところか。ジェーンが全米で起きる不可解な自殺事件という陰謀に加担している大富豪デイヴィッド・ジェームズ・マイケルは無傷のままであり、対峙すらしていない。 さて本書でジェーンが疑惑を抱くアメリカの自殺率の上昇は実は本書のために作られた話ではなく、どうやら本当のことのようだ。半分の州で自殺率は30%までにも上っており、ノースダコタ州ではなんと57%も増加したらしい。 音楽業界を再び例に挙げて恐縮だが、確かに2017年にクリス・コーネルが突然自殺し、その後を追うようにリンキン・パークのヴォーカル、チェスター・ベニントンも自殺したのは実にショッキングな出来事だった。 そんな不穏な空気に包まれたアメリカの現状から恐らくクーンツは一連の自殺が何らかの陰謀によって引き起こされているという本書の設定の着想を得たと思われる。 ただ私は何となく本書の内容に乗り切れなかった。短い章立てで進むストーリーはそれがゆえに没入度を低下させ、目まぐるしく切り替わる場面転換にしばしば読み辛さを感じた。 これは全く以て私の憶測だが、昨今SNSでツイッターやフェイスブックなど短いコメントを挙げる風潮があるために、小説に関しても極力短い章立てで読ませることをもしかしたら作者は意識したのかもしれない。 ジェーンは最後2件の殺人を犯した不正なFBI捜査官と報じられ、指名手配されたことを知る。今後ジェーンは一人息子のことを思いながら巧みに変装をし続けて標的であるデイヴィッド・マイケルを目指す。 ほとんど全てのアメリカ人を敵に回して少しの理解者と共に立ち向かう今後はもっとスリリングでじっくり読ませる内容であってほしい。 |
No.1439 | 8点 | 日本傑作推理12選(Ⅱ) アンソロジー(海外編集者) |
(2019/03/17 00:37登録) 前作から3年を経て1977年に再度刊行された『ジャパニーズ・ゴールデン・ダズン』。EQJM委員会の序文によれば世界に日本産ミステリの普及の第一歩と意気込んで刊行された前集はアメリカでも好評を以て迎えられたようだ。前集をきっかけに日本のミステリの翻訳出版の兆しが見えたと述べている。しかしこの2019年現在から振り返ると日本のミステリが初めてエドガー賞候補に挙がったのが2004年の桐野夏生作品の『OUT』だったことを考えれば、70年代以降からそれまでの本格的な日本ミステリの海外進出はやはりそれはいくつかの代表的な作品に限られたように思える。 またクイーンが序文で述べているように、第1集の時もそうだったが、男女の恋愛の縺れを扱った作品が多い。 物語や文体などの質はいいものの、それぞれの作品が備えている動機や人間関係はほとんど同じといったところで、それが器を変えながらも行く着くところや人物間の関係は似たようなものだという印象を与えたのかもしれない。上に書いたように実際選者のクイーンも触れており、それはつまり暗にそのようなことを仄めかしているようにも取れる。 しかしそうは云いながらも1集と同じくどれも読ませる。この2回目の“黄金の12編”は実に粒ぞろいだった。見開き2ページに占める文章の割合は昨今のミステリと違い、黒色の比率はかなり高く、短い中に人物設定に不可解な謎、更に人間ドラマが凝縮されており、実にコクが深い。 そんな中、まず私のお気に入りを挙げると松本清張氏の「駆ける男」、陳舜臣氏の「神獣の爪」、佐野洋氏の「妻の証言」の3作となる。 松本氏の作品は物語自体に濃さを感じる。一連の事件の流れと事件関係者の人間関係、それぞれが濃密でじっくり読ませられるのだ。 陳氏もまた自身が中国人という出自を存分に生かした、彼にしか書けない長い年月をかけた、しかも中国人の強かさを存分に味わさせられる作品で主人公の刑事すらも舌を巻く結末に大いに感じ入るものがあった。 佐野氏は本書の中で最も短い作品でありながら、法廷劇の最中で繰り広げられる人間ドラマ、そして読者の思いもしなかった展開と最後はそれら全てが腑に落ちつつ、これまた予想外の人間関係が明かされたりとジェットコースターに乗っているかのようだった。 それら3作を抑える個人的ベストを挙げたいが、本書は第1集にも増して実に素晴らしく、1作に絞れなかった。夏樹静子氏の「滑走路灯」と山村美紗氏の「殺意のまつり」と女流作家2本に前集に引き続いて西村京太郎氏の「柴田巡査の奇妙なアルバイト」を挙げたい。 夏樹作品はまず登場人物の設定、物語の展開と登場人物たちの相関関係全てが最後の結末に奉仕しており、まさに完璧なミステリを読んだ思いがした。 山村作品は20年前の殺人事件の真犯人であると名乗る男の登場から事件の洗い出しと定番の流れを見せながら、いきなりマスコミの寵児となる怒濤の展開を見せ、最後にそんな狂騒の後始末であるかのような意外な結末が開陳される。まさに“殺意のまつり”と呼ぶに相応しい作品だった。 西村氏の作品はまず現役警察官が浮浪者援助のために自ら万引きしてそれを浮浪者の犯行にして逮捕し、双方WINWINの関係にするという着想の妙が素晴らしい。夏樹氏同様全ての設定が最後の意外な結末に生きており、全く以て隙が無いことに加え、とにかく話がユニークでクイクイ読まされる。物語全てに必要な要素が詰まった作品だ。 今ではこの3名はどちらかと云えばその名前を冠する2時間ドラマの影響もあり、いわゆる一般大衆向けミステリ作家という印象が強いが、やはり今なお語り継がれ、映像化されるだけの理由があるのだ。この3名の着想の妙は只者ではなかった。読まず嫌いでいるのは勿体ないと思ったが、流石に全ての作品をこれから読むのは無理か。 しかしこの第2集の選出作品を眺めると第1集と重複する作家が12人中6人と半数を占めるのは予想外だった(松本清張氏、夏樹静子氏、石沢英太郎氏、西村京太郎氏、笹沢左保氏、佐野洋氏)。5割は非常に高い確率である。やはり平成の世でもその名を知られる作家は真の実力者であったということだろう。その中身を読んでも選ばれるに相応しいクオリティを兼ね備えている。恐らく彼らは別格の存在だったのだ。 この頃に『このミス』など年末のランキングイベントをやっていたらどんな結果になっていたのか、実に興味深い。1年に複数作発表する作家ばかりだから、20位の中に同じ作家が2,3作含まれ、作家別で見てもこの採用率同様10名だったという結果になっていたのかもしれない。70年代は作家の実力差が離れすぎていたのかもしれない。 更に昭和感。これが実に面白く感じる。温泉旅行先での女中との密会や警察の不当な誘導尋問、更には深夜番組で登場する若い女性のセミヌードなども、まだ闇のある時代の淫靡さが行間に見え隠れしている一方で、山村作品では古い家屋が壊され、近代的でチャチな家が建てられたと云った描写もあり、時代の移り変わりを感じさせる描写もあって興味深い。 平成最後の年に昭和の作家の作品のアンソロジーを読む。この意味については次の最後の第3集を読んだ時にまた考えるとしよう。次はどんな“黄金”が待っているのだろうか。 |
No.1438 | 8点 | ナイン・ドラゴンズ マイクル・コナリー |
(2019/02/25 22:34登録) アメリカの警察小説のシリーズ物ではアクセント的にアジアのマフィアもしくは悪党と主人公が対峙するという話が盛り込まれるようだ。ディーヴァーの『石の猿』然り。 アメリカ人にとって独特の文化でどこの国でも根を下ろして生活するアジア圏の人々、殊更中国人というのは実にミステリアスな存在であり、また中国マフィアが世界的にも大きな犯罪組織であることから、西洋文化と東洋文化の衝突と交流というミスマッチの妙は題材としては魅力的に映るのではないか。 ボッシュシリーズ14作目の本書はボッシュもアジア系ギャング対策班、AGUの中国系アメリカ人捜査官デイヴィッド・チューと組んで中国系マフィア三合会を相手にする。 しかしコナリーが凄いのは単に事件を介して中国系アメリカ人や在米中国人たちの文化や生活、思想に触れることでの戸惑いを描くことで作品に興趣をもたらしているだけでなく、中国系マフィアとの戦いに主人公ボッシュが必然的に深く関わるように周到に準備がなされていたことだ。 ボッシュの前妻エレノアが娘マデリンを連れて香港でプロのギャンブラーとしての生活をするのが11作目の『終決者たち』で説明がなされている。それ以降、作中では香港にいる娘との連絡を時折していることが触れられており、途中2作を経てLAに住むボッシュが在米中国人に起きた事件を捜査することで中国文化圏で生活する彼女たちに危難が訪れる本書を案出するのだから、全く以てコナリーの構想力には畏れ入る。 娘煩悩なボッシュに訪れるのが担当した事件の容疑者、三合会というマフィアの構成員を逮捕したことによる代償としての娘の誘拐。しかも自分の手の届かない香港という異文化都市。これは子を持つ親ならばこれ以上ない恐怖であることが解るだろう。不屈の男ボッシュもまたその例外ではない。 人は護るものが出来ると強くなる。しかし同時に護るものが出来ることで弱くもなる。 護るものが出来るとその人にとって支えが出来る。どんな苦難に陥っても護るものがあることでそれを乗り越える原動力となるのだ。自分を必要としている人がいることで心に一本の芯のようなものが出来る。 一方で護るものはそのまま弱点ともなりうる。自分の支えとなっているものを失うことで人は弱くなる。、自分を必要としている人は即ち自分が必要としている人だったことに気付かされ、それを失うことが恐怖に変わる。 ボッシュは自分の娘マデリンを授かった時に自分が救われたと同時に負けたことを知ったと云い放つ。自分が悪に対して異常な執着心を持って立ち向かうためには弱みのない人間でないといけないと思っていたが、娘が出来たことでそれが一転する。 娘は彼にとってかけがえのないとなった瞬間、弱点になったことを。刑事という職業に就く人間はおしなべてこのような想いを抱いているのだろう。 娘を誘拐されたボッシュの焦燥感は子を持つ親ならば誰もが理解できる気持ちだ。特にボッシュが娘を持つようになったのは作者コナリー自身が娘を持ったことで得た気持ちをそのまま反映しているからだ。従って本書でボッシュが抱く、云いようのない恐怖感はそのまま作者が同様の状態に陥った時に抱くであろう心持と同義なのだ。 従って本書はこのマデリン誘拐をきっかけに静から動へと転ずる。愛娘を誘拐されたボッシュの焦燥感と三合会への怒りをそのまま物語のエネルギーに転じ、コナリーはボッシュを疾らす。ボッシュ自身常に動いていないとダメだと常に口に出す。それは誘拐事件が発生からの時間が長引けば長引くほど解決する確率がどんどん低くなるからだが、やはりここはボッシュが娘の安否に対して気が狂わんばかりに焦っているからだ。 常に業の中で生きる主人公に対し、作者はその娘さえ業を背負わせる。この後続くボッシュはこの娘を抱えた日常と過酷な事件の捜査をどのように両立させるのかが焦点となろう。 しかしこのシリーズは今まで色んな新展開を見せながらも結局はボッシュが一匹狼に戻ることを選択してきた。恐らく作者自身、ボッシュという人物は常に業を抱えて生きている男として設定しているので、幸せな家庭や娘との温かな交流が向かないと思っているのだろうし、また書きにくいのだろう。 それがゆえに娘までに業を背負わせたのかと思うとやりきれない。今はお互いが犯した過ちに対して瑕を舐め合う、新米の父子だが、いずれこの業はこの父子に重荷となってのしかかってくるに違いない。 コナリーがこの父子に課した業の深さを思うと、今後の2人、特に娘のマデリンの行く末が気になって仕方ない。娘を持つ親として。 |