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ミステリの祭典

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ダーク・ハーフ

作家 スティーヴン・キング
出版日1992年09月
平均点7.00点
書評数1人

No.1 7点 Tetchy
(2020/06/06 00:54登録)
文庫裏の粗筋を読んだ時、キングはなんということを考えつくのだろうと、その奇抜さと着想の斬新さに驚いてしまった。まさか作家の別のペンネームが独り歩きして現実世界に現れ、作家周辺に脅威を及ぼすとは。しかもその<邪悪な分身(ダーク・ハーフ)>はおおもとの作者と同じ指紋、声紋を持つ、全くの生き写しのような存在なのだ。
キング版『ジキル博士とハイド氏』とも云える1人の人物から生まれた2つの人格の物語はしかし本家における二重人格とは異なる、全く新しい趣向で語られる。

まず本書の着想の基となったのがキング自身の経験によるものだ。キングはその迸る制作意欲を止められず、当時出版業界にまかり通っていた1作家は1年に1冊だけ出版するという風潮からリチャード・バックマンという他のペンネームを使って作品を2作以上発表することにしたのだが、やがてバックマン=キングという説が流れ出し、公表するに至ったという経緯がある。

本書はある意味メタフィクションと云っていいだろう。なぜならサド・ボーモントを通じてキングがバックマンとして作品を書いていた時の心理が描かれているように捉えることのできる描写が見られるからだ。

最初は単に金を稼ぐために生み出したもう1つのペンネーム。しかしその正体を秘密にすることで作者はばれないよう、文体を変え、そして書くテーマも変える。しかしそううすることで次第に自分の中で別の人格が生まれてきた、つまりキングの中でバックマンは単に名前だけの存在ではなくなったことが暗に仄めかされるのだ。
そこから出たアイデアがもう1つのペンネームが別人格となって実在し、本家の作家の脅威となるというものだ。本書はこのワンアイデアのみだと思われがちだが、色んなテーマを内包している。

ところでこの頃のキングは物語の主人公を作家にしたものが目立つ。『ミザリー』は狂的なファンによって監禁されたポール・シェリダン、次の『トミーノッカーズ』でもウェスタン小説家のボビ・アンダーソンを、そして本書ではサド・ボーモントと連続している。

この一連の作品群において作中作を盛り込んでいるのは迸る創作への意欲とアイデアがありつつも一作品として仕上げるにはアイデアが煮詰まっていないもどかしさ、つまりスランプに陥ったキング自身の足掻きが行間から見えるようだ。そして“書く”ことへの業を作家は背負っているのだと仄めかしているようにも思える。

ジョージ・スタークが具現化して現れた理由とは、まず自分を架空の葬式で葬り去った者たちへの復讐とサド・ボーモントにジョージ・スターク名義の新作を書かせることだ。そしてその期限が延びるにつれてスタークの肉体はどんどん朽ち果てていく。腐った死体さながら皮膚は剥がれ、肉はジュクジュクになり、膿が全身から流れ、腐臭を発するようになる。作中のスターク自身の言葉で云えば凝集力が無くなっていく。それはつまり作家は書いて作品を発表することでその存在意義を示せるのだというメタファーのように取れる。書かない作家はただの人であり、そしてほとんどの作家は存命中にその功績を認められ、ベストセラーになったとしても、死後ずっとその作品が残り続けるのは非常に稀だ。だからスタークは死を恐れた。

作品が書かれぬことで彼はどんどん死体に近づいていく。それはまさに歴史に埋もれていった没後作家たちが人々の記憶から風化していくかの
ように。

それを示唆するように物語の最終局面においてサドとスタークは対峙し、スタークの新作『鋼鉄のマシーン』を交替で書いていく。その際にサドがスタークに言葉を掛ける。
書くための唯一の方法は書くことだと。

そして文章が書かれ、物語となり、それが続くことで次第にスタークは腐った肉体が再生していく。それは作家の存在意義は書くことにあるのだと云う隠喩だ。
そしてサドがスタークと共にこの新作を書くことを選んだのは葬り去ったはずのスターク作品の新作のアイデアが浮かび、どうしても書きたい衝動に駆られたからだ。まさにこれこそ小説家の業だ。それは多分キング自身がバックマンを葬ったことへの後悔を表しているのかもしれない。

人は誰しも二面性を持っている。陽の部分の陰の部分だ。「ダーク・ハーフ」とは即ち誰しもが備える陰の部分、暗黒面であり、それは別段異常なことではない。
普通我々一般人は犯罪や戦争などとは無縁の生活を送り、朝起きて仕事に行き、夜帰って家族と束の間の時間を過ごし、休日は家族サービスや趣味に興じる。
しかしその一方このキング作品のようなホラー、本格ミステリ、その他犯罪小説、サスペンスといった殺人やまたそれを行う殺人犯の物語を好んで読む人もいる。それはある意味それら普通の人々に中に潜む悪を好む部分、≪邪悪な分身(ダーク・ハーフ)≫なのかもしれない。

つまり全てが清らかで普通であることは実に退屈であり、人は常に何かの刺激を求める。しかし犯罪に手を染めることができないからこそ、人はその代償を物語に求める。己のダーク・ハーフを充足させるために。
現在我々はネット空間という新たな場所を手に入れ、そこでは日中、学校や職場では見せない別の自分の側面をさらけ出す。そしてネット空間は匿名性ゆえに自分の内面をより率直に露出することができるのだ。そんな匿名の世界にはしばしばネット社会でのマナーを逸脱して素の自分をさらけ出し、ダークな一面を見せる人たちもいる。


物語の最終、ジョージ・スタークがサイコポンプであるスズメの大群によって葬り去られた後、1羽のスズメがサド・ボーモントに蜂の一刺しを加える。それは善人は善人らしく振る舞い、決してダークサイドを表に出さぬようにしろ、さもなくば次はお前の番だという警告なのだ。

全ての人が常に善人であるわけではない。しかしその暗黒面は他者に迷惑を掛けず、我々作家が紡ぎ出すミステリで満たしなさい。そんなことを作者が告げているような気がした。

朝起きた時、スズメがいつもより多いと感じたら、自分のダークサイドが多めに出てないか、気に留めるようにしよう。

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