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ミステリの祭典

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平均点:6.35点 書評数:221件

プロフィール| 書評

No.141 3点 デイン家の呪い
ダシール・ハメット
(2014/06/20 16:54登録)
コンチネンタル探偵社の「私」(名無しのオプ)が、宝石盗難事件の調査の過程で知り合った娘、ゲイブリエル。彼女の家系(デイン家の血)は呪われているのか? 所を変え繰り返される、惨劇の連鎖。その中心には、つねにゲイブリエルの存在があった。個々の事件は、一応の解決を見ていくが、「私」は納得しない。これが偶然であるものか。裏で糸を引いているのは誰だ――?

Black Mask 誌の1928年11月号から翌29年2月号まで、四回に分けて掲載されたのち、改稿を経て(三部構成に改められ)、『赤い収穫』と同じ29年に単行本化された、ハメットの第二長編です。
村上啓夫訳のポケミス版で所持しながら、ずっと“積ん読”だったこの作品を、小鷹信光の新訳(ハヤカワ・ミステリ文庫 2009)で読了しました。

う~ん、これはねえ・・・駄目。
ミステリ的にどうこういう以前に、シリーズものとして、駄目。
前作『赤い収穫』は、ヒーローのはずの主人公が、暴走し壊れていくという異様な物語でした。あきらかに一線を越えてしまった「私」の、その後をどう描くか?
しかし作者は、そこに目をつむってしまった。
あたかも、アレは“ポイズンヴィル”という町の毒気にあてられたオプの、一時的な乱心だったとでもいうように。
殺戮ゲームを無事に生き延びたサラリーマン探偵の「私」は、上司にお灸をすえられたあと、もとどおりのワーカホリックに戻りましたとさ。
でも・・・そこでオプというキャラクターは終わってしまったのです。
本作において、オプは、麻薬に溺れたヒロインの身を案じ、彼女が無事に社会復帰できるよう尽力します。その“優しさ”は、のちのチャンドラーのフィリップ・マーロウ(あるいは島田荘司の御手洗潔w)にも通じるもので、そうした新生面を評価する向きもあるだろうとは思いますが、ドライなキャラクターからの変貌が著しく、筆者にはキャラ崩壊としか受け取れません。
訳者の小鷹氏は、解説のなかで「『デイン家の呪い』が『赤い収穫』とはまったく風味の異なる小説である」とし、「探偵役のオプの役柄もまるで別人だ」と述べられていますが・・・
異なるタイプの小説に、無自覚にオプを流用したのは(本書の第二部は、既発表のオプもの短編「焦げた顔」が原型になっているので、仕方ない面もあるとはいえ)、大きな失敗でした。
そしておそらく、ハメットもそれを自覚した。このあとの長編で、一作ごとに、その“世界”にふさわしい探偵役を創造しているのは、そういう反省に立ってのことだろうと筆者は考えます。

さて。
ではミステリ的にはどうなのか、というと・・・これがまたパッとしない。
本サイトのジャンル設定が「本格」になっているのには驚きましたが、たしかにこれは、本格とハードボイルドが対立する概念ではないことをしめす、サンプルではあります。
ありますが、でも、あまりにゴチャゴチャしすぎて、種明かしされてもスッキリ納得できない。
オプのまえに出現する“幽霊”とか、密室状況下で炸裂する手榴弾とか、個々のパーツは面白いんですけどね。
本書に関しては、正直、当時のパルプ・マガジンの通俗小説の域を出るものでは、ないでしょう。
ヴァン・ダインを酷評したことで知られるハメットですが、この作を読んだ(ら)ヴァン・ダインも、言いたいことはあったろうなあwww

ただ。
これは翻訳だけ読んで語ってはいけないかもしれませんが・・・
筋立ては、当時の「通俗小説の域を出」ないとしても、それを表現する、簡潔で淡々とした文体には、時の経過による腐食をこばむ、パワーを感じます。
書き出しの一節――いっさい余計な説明を抜きに、ショッキングな発見とそれに続く「私」の対応を描くハメットの筆致は、かくの如し。

 それはまぎれもなくダイアモンドだった。青く塗られたレンガの歩道から六フィートほど離れて芝生の中で光っていた。台座がついていない四分の一カラット以下の小さな粒だ。私はそれをポケットにおさめたあと、四つん這いにこそならなかったが、できるだけ芝生に目を近づけて探し始めた。

まぎれもなく練達の士です。


No.140 5点 大臣の殺人
梶龍雄
(2014/06/13 18:57登録)
明治初頭。
もと旗本で、いまは心ならずも警視庁の密偵をつとめる、結城真吾。そんな彼への、上層部からの新たな指令は、北海道を出奔し東京に潜り込んだ、ある殺人犯の捜索だったが、詳細を知らされないこの仕事、なにやら胡散臭い。果たして彼の行く先々で、関係者が殺されていき、どうやら事件の背景には、元勲・黒田清隆(北海道開拓使。のち内閣総理大臣となる)絡みのスキャンダルがあることが、わかってくるのだが・・・

昭和53年(1978)に、主婦と生活社の21世紀ノベルスから刊行された本作を、当時中学生だった筆者は、リアルタイムで書店で手にとっていますが、地味でつまらなそうなので、すぐ棚に戻した記憶があります。同シリーズの、後続の辻真先や赤川次郎(ともに期待の新人でした)の本は、小づかいをやりくりして求めたのにw
今回の初読は、古本で捜した中公文庫版によります。

ジュヴナイルの『影なき魔術師』をのぞけば、これは乱歩賞受賞作『透明な季節』、『海を見ないで陸を見よう』に続く、梶の第三長編にあたりますが、執筆自体はそれらより早く、昭和五十一年度第二十二回江戸川乱歩賞応募作品の、予選通過作品リストに、そのタイトルを見ることができます(二次予選は通るも、最終候補には残れず)。
史実の中に架空の殺人事件をはめ込む試みは、あるいは、政治家・田中正造が大きな役割を果たす、小林久三の第二十回受賞作『暗黒告知』に、刺激されたものかもしれません。

さて。
出版にあたって、多少の加筆修正はされているのでしょうが、それにしても、これはプロットといいキャラクターといい文章といい、とても予選落ちするレヴェルではないですよ。堂々本選に残り――伴野朗の『五十万年の死角』に惜敗するのがふさわしいw

どちらかというとハードボイルド寄りの、マンハントの興味で展開していたストーリーが、ある事件を契機にガラリと様相を変える、そのチェンジ・オブ・ペース、ストーリー仕立てのミスディレクションには感心しました。ああ、やっぱりカジタツは“本格”の人だ。
ただ真相を知ってしまうと、主人公の動きと並行するように第一、第二の殺人が起こったのが、あまりに偶然すぎる気はします。この犯人、それまで何をやっていたんだw

あと、全体の構想は、都筑道夫流にいえばモダーン・ディテクティヴ・ストーリイなんですが、いざ本題の事件での犯人のパフォーマンスを見ると、黄金時代パズラーもかくやの、タイトなスケジュールの綱渡りなんですね。
バロネス・オルツィやアガサ・クリスティーが好きな筆者としては、目をつぶってあげたくなりますが、常識的には・・・まあ単独犯では無理だろうなあ。前記のレディたちのように、きちんと共犯者を使わないとw

ラストの処理も、賛否が分かれるところかもしれません。主人公があんなふうになって(探偵役の退場というシニカルさは、前作――一応こう書いておきます――『海を見ないで陸を見よう』にも通じるか)、おまけに犯人まで、いったいどうなったの? という終わりかたですから。
う~ん、犯人のほうは、闇に葬られたんでしょうねえ。
権力者たちの謀略が、最終的には市井のから騒ぎなど圧殺してのける――時代ミステリの締めとして、これはこれでアリと筆者は考えます。読後感は確かに苦い。でもその苦さこそ、作者が意図したもののはず。
文庫版の解説を「(・・・)梶作品の“明治ロマン”として本篇の読後感には、まことに爽やかなものがある」と結んだ武蔵野次郎氏は、はて、何を読んでいたのか。


No.139 6点 真夜中の切裂きジャック
栗本薫
(2014/05/19 17:45登録)
あれから、もう五年。いや、まだ五年というべきでしょうか。
本サイトで、たまさか作品がレヴュー対象として取り上げられているのを見ると、評価の内容とは関係なく、ああ、まだ忘れられていないんだ――とそのこと自体に感慨を覚えてしまう自分がいます。

闘病中の栗本薫が亡くなったのは、2009年の5月26日でした。
最後まで現役の作家であり続けた彼女ですが、晩年はすっかり痛い人になってしまい、作品の質的低下とあいまって、かつての多くのファンを嘆かせました。かくいう筆者もそのひとりです。
さんざん嘆き、怒り、でも・・・
いまだにこんな文章を書いている。

さて。
今回ご紹介する『真夜中の切裂きジャック』は、出版芸術社から1995年に刊行された短編集で、時期的には“晩年”の著作になるわけですが、じつは作者のデビュー当初の79年から、80年代後半までの、“単行本未収録作品”を選り抜いたもので、栗本薫の最大の武器であった、文章のパワーはバリバリ全開です。
収録作品は、以下の通り。

①真夜中の切裂きジャック ②羽根の折れた天使 ③クラスメート ④獅子 ⑤白鷺 ⑥十六夜 ⑦<新日本久戸留綺譚>猫目石

作品のセレクトは、当時、出版芸術社に勤務していた溝畑康史氏(のちの日下三蔵氏)によるものです。
①~③のサイコ・サスペンス系のお話が「SIDE-A」として、④~⑥の、ノン・ミステリの芸道小説が「SIDE-B」としてまとめられており、それに「BONUS TRACK」として、作者がデビュー前に書きためていた怪奇もののシリーズのうちの一編、⑦が付いているという構成です(ただ97年のハルキ文庫版では、、この趣向が無くなってしまって、それで読むと、似たような話が無造作に続く印象をあたえるかもしれません )。

②の「羽根の折れた天使」は、第32回の日本推理作家協会賞・短編部門にノミネートされた作品ですが(このときの、同部門の受賞作はナシ)、作中の恐怖に、当時の世相を反映した一種のアクチュアリティは感じられても、ミステリ的にはコナン・ドイルの昔からあるテーマなわけで、その処理にとりたてて新味は感じられません。

この系列では、作者お得意のボーイ・ミーツ・ボーイ、中二病の大学生が“恋人”への疑惑(彼は殺人狂・・・なのか?)をつのらせ、現実から乖離していくさまを描く表題作①が、むしろ移ろいやすい日常に背をむけ、耽美に徹しているぶん、いま読み返しても古く感じません。ラストのカタストロフを具体的に書かないことで、リドル・ストーリーのような効果をあげているのも大きい。
ただ、現在(の“僕”の意識)→過去(それまでのフラッシュバック)→現在(の意識に戻る。そして――)という構成で、ループする空間に読者を封じ込めるのが狙いなら、途中、主人公に“読者”を意識したような語りをさせては駄目なんですよねえ。“手記”だと、これは成立しないお話なんですから。

やはり、(広義であれ)ミステリとなると、筆の勢いだけではいけないわけで、“情”を支える“理”という部分で、どうしても栗本薫には甘さがある。
もし、そうした拘束を解き放ち、完全に“情”に的を絞ってキャラクターを造型し、切りつめられた長さの中で、その閃光の人生をスパークさせたら、どうなるか?
その答が、歌舞伎役者や三味線の名取を主役に配し、芸に憑かれた天才(同じ“芸人”としての、作者の理想の投影ならん)の壮絶な肖像で読者を圧倒する、④~⑥の作品群といっていいでしょう。
ミステリやSFと違って、純粋な芸道小説にどれだけ需要があったかは疑問です。でもそれだけに、商売抜きでこの話は書かずにいられなかった、といわんばかりの、作者の気迫が凄い。
わけても、④の「獅子」は傑作。二十年近くまえ、はじめてこれに接したとき、結びの一文を読んだ直後は放心状態になりました。再読しても、ただため息をつくしかありません。うまい。そしてそれ以上のものが、ここにはある。
しかし、死を前にした人間の、この“覚悟”を描ききった栗本薫が、なぜ自身の晩節は、ああも汚しまくったのか。いやこれは、いまさらいっても詮無いことですが・・・。

最後の⑦は、作家の栗本薫(♂)が車椅子の美少年・印南薫から聞かされる、、稀代の宝石の因縁噺。角書の<久戸留>は<クトル>です。というわけで、そうです、これはニャル子、あわわ、もとい邪神がらみの一席。
商業誌(『SFマガジン』)に発表するにあたって、多少は(その時点の、既発表の栗本作品とリンクさせるため、おそらく導入部に)手を入れたかもしれませんが、これは基本的に、彼女の大学時代の習作のお蔵出しです。
趣味的にすぎる、ベタなお話を、でも文体でクイクイ読ませていく。ああ、これはやっぱり栗本薫だw
思わず粛然とさせられる、芸道小説のあとに、こういうのを持ってくるのはいいなあ。

もっぱら長編作家として注目されていたため、割りを食った嫌いはありますが、このへんの短編集は、もう少し読まれてもよかったのに、と思います。


No.138 8点 探偵サミュエル・ジョンソン博士
リリアン・デ・ラ・トーレ
(2014/04/26 07:53登録)
歴史研究のエキスパートたるアメリカ女流が、18世紀ロンドンを舞台に、実在した英文学史上の巨人、サミュエル・ジョンソン博士を“名探偵”とし、その伝記作者ボズウェルを“助手”とする斬新な着眼で、ポスト黄金期にホームズ―ワトスン型の探偵譚を再生し、時代ミステリの画期となった名シリーズ。
本書は、1940年代からじつに80年代まで、断続的に刊行されたデ・ラ・トーレの、その四冊の短編集からの選り抜きです。
論創社の近刊予告でタイトルを目にしたときには、<クイーンの定員>に選ばれた第一短編集 Dr.Sam:Jonson,Detector をそのまま訳すのかと思ったのですが、創元推理文庫の往年の<シャーロック・ホームズのライヴァルたち>方式でしたw

収録作は、以下の通り(カッコ内に、何作めの短編集から採られたか、その数字を付記)。

 蝋人形の死体(1)
 空飛ぶ追いはぎ(1)
 消えたシェイクスピア原稿(2)
 ミッシング通りの幽霊(1)
 ディー博士の魔法の石(2)
 女中失踪事件(3)
 チャーリー王子のルビー(1)
 博士と女密偵(2)
 消えた国璽の謎(1)

史実を踏まえて想像力を飛翔させる、デ・ラ・トーレの虚実皮膜の世界、“縛り”のなかで繰り広げられる、そのヴァラエティ――殺人あり人や物の消失あり、幽霊騒動があるかと思うと、スパイとの知恵くらべも飛びだす――には、驚かされます。
必ずしも一編一編の出来が傑出しているわけではないのですが、このテの作品集は、云ってみれば積み重ねの面白さが大事。

その意味で、筆者は「ディー博士の魔法の石」→「女中失踪事件」→「チャーリー王子のルビー」という、後半の、日本オリジナルの作品配列に膝を打ちました。
ああ、これはいい。
デ・ラ・トーレの長編代表作『消えたエリザベス』(未読でした ^_^;)と共通のモチーフを有する「女中失踪事件」は、要注目作ですが、これだけ読むと、正直、解決が唐突すぎるという感は否めません。
しかし、まえに「ディー博士の魔法の石」(元祖ゴシック・ロマンス『オトラント城綺譚』を書いた、オタク貴族ホレス・ウォルポール登場。舞台はその住居<ストロベリー・ヒル>)をおくことで、“あの”小道具が印象的に再利用されるという、連作の妙味が出てきます。
そして、「ディー博士~」で言及された“あの”人物が、「チャーリー王子のルビー」において、劇的に登場する! 真実が明らかになるクライマックスの鮮やかさ、そして「人が勝者たりえるのは、洞察力によってなのです」と高らかに告げるジョンソン博士の千両役者ぶりで、筆者的にはこの「チャーリー~」が、本書のベストです。

各編の末尾に、作者の手になるライナーノートが付いているのも楽しく、作品理解を深めてくれますが、じつは筆者のように英国史の基礎教養に乏しい人間には、それでもまだ、よく分からないところがある。
そのへんを補ってくれるのが、痒い所に手が届くような、巻末の解説(真田啓介)です。調査の行き届いた、綿密な内容は、さきに引き合いに出した、創元推理文庫の<シャーロック・ホームズのライヴァルたち>の名解説(戸川安宣)を思わせ、本書の、筆者による採点8は、それ込みのものです。

しかし(以下、蛇足)。
真田啓介編と謳われていないところをみると、収録作品の選択・配列に、真田氏は関与されていないのかな?
「訳者あとがき」(中川みほ子)を見るかぎり、あまり訳者の持ち込み企画という感じもしない。
では、この日本オリジナル版を企画したのは誰か? それがちょっと気になりました。

〈付記〉2019年5月6日の第28回文学フリマ東京で頒布された、「クラシックミステリを楽しむ」評論誌『Re-ClaM』第2号所収の「「論創社編集部インタビュー」補遺」で、本レヴューを取り上げていただき、そこで論創社編集部の黒田明様から、「この日本オリジナル版を企画したのは誰か?」について回答を頂戴しました。
訳者の中川みほ子さんが、仁賀克雄氏からリリアン・デ・ラ・トーレを推薦されて全4冊の原書短編集を読み、作品を絞り込んだ、中川さんの持ち込み企画で間違いないとのことです。(2019.5.10)


No.137 6点 シャーロック・ホームズの事件簿
アーサー・コナン・ドイル
(2014/03/27 11:52登録)
私的シリーズ企画「光文社文庫の日暮雅通・個人全訳で読み返すホームズ譚」、その最終回。

収録作は―― ①マザリンの宝石 ②ソア橋の難問 ③這う男 ④サセックスの吸血鬼 ⑤三人のガリデブ ⑥高名な依頼人 ⑦三破風館 ⑧白面の兵士 ⑨ライオンのたてがみ ⑩隠居した画材屋 ⑪ヴェールの下宿人 ⑫ショスコム荘

シリーズ後日談にあたる「最後の挨拶」で、事実上ホームズものの幕を引いたドイルが、それでも晩年の1921年から27年までの間に、『ストランド』誌に発表してくれた、こぼれ話の集成です。
原作の The Case-Book of Sherlock Holmes(1927)では、収録作の、雑誌発表順と単行本の掲載順に異同がありますが、この光文社文庫の<新訳シャーロック・ホームズ全集>では、編集方針として、雑誌の発表順を採用しています。

さて。
とき、まさに探偵小説の黄金時代。
「多くの人々は、昔どおりホームズに敬意を表しながらも、彼はもはや時代遅れの人物と思わないわけにはいかなかった」(ロアルド・ピアソール『シャーロック・ホームズの生れた家』)という声があります。
確かに、ミステリ短編として、作者のキャリアに光彩を添える出来なのは、実話を下敷きに、トリッキーな趣向をカッチリまとめた「ソア橋の難問」一作だけといっていいでしょうが(次点を挙げるなら、物語としてのカタルシスは乏しいものの、状況のもたらす怪奇な謎を合理的に反転させる、「サセックスの吸血鬼」かな)、まあここまでくると、作品集自体、エキシビションのようなものですからw

「三人のガリデブ」に見られる作者の“お家芸”、その再演に暖かい拍手を送り、「這う男」のごときトンデモ系や、ホームズが慣れない一人称で記述する、「白面の兵士」「ライオンのたてがみ」のような残念な代物も、“ヴァラエティ”として寛容な精神で楽しむのが吉です。

そのテの異色作のなかでは、ドイルが自作の舞台用台本を小説化した、全篇、三人称記述の「マザリンの宝石」なんか、じつは筆者は大好きだったりします。まるで『マルタの鷹』みたいw
あの“仕掛け”って、ワトスンの一人称だと成立しないんですよね。でも、人気者ワトスンを欠かすわけにはいかない、どうするか? そのへんの作者の苦心も読みどころwww

さてさて。
足かけ三年にわたり続けてきた、読み返しの旅も、これにて終了。
全体の感想は――やっぱり面白かった、の一言に尽きます。
ポオの創造した謎解き小説のフォーマットを、名探偵ヒーローの冒険譚に換骨奪胎したドイルの、ストーリーテラーとしての底力は、やはり凄い。
そんな古典を、なめらかな訳文でクイクイ読むことの喜びを堪能しました。訳者の日暮氏による解説も簡にして要を得、これは、入門用としても広く推薦できる<全集>です。


No.136 8点 裸舞&裸婦 於符 真&贋 狩久全集第六巻
狩久
(2014/03/11 14:43登録)
2013年に、東北の皆進社から一挙刊行された<狩久全集>、その最終巻にあたるのが、小説やエッセイ類の未発表原稿をまとめた本書です。
収録作は、順に以下の通り(小説に#を付しました)。

#1.裸舞&裸婦 音符 真&贋
#2.墓周(構想中のストーリーの断片)
#3.尺取虫の歌(同上)
 4.推測と記憶に基く或るうしろむきの回想(未完の自伝の冒頭)
 5.甲虫の歌(少年時代のエピソード)
#6.逆転(未完)
#7.火星人Q(同上)
 8.≪不必要な犯罪≫に関するメモ
 9.麻耶子考(1の一部に転用)
10.独断と偏見に基く硬派探偵小説私観(同上)
11.日記

作者の没後、三十年以上にわたって、その存在の有無が取り沙汰されてきた、幻の“第二長編”が編者・佐々木重喜氏の手で発掘され、巻頭に置かれていますが、この『裸舞&裸婦 於符 真&贋作』(らぶ&らふ おぶ きゅう&ナイン)は、厳密には“連作短編集”です。
狩久の死亡パーティに家族や友人たちが集められ、そこで故人(?)の奇妙な二人一役説が語られる、第一部「らいふ&です・おぶ・Q&ナイン」は、基本的に、単発の短編として発表されたものと同一です。
そして、狩久の生死が不明のまま進行する第二部「らぶ&らすと・おぶ・Q&ナイン」ではさきのパートに登場した、金髪の黒人女性が暗躍します。書店で客に、強引に狩久の本を薦める“彼女”の正体とは・・・?
第三部「ばあす&みす・おぶ・Q&ナイン」では、珍妙な手段でまたぞろホテルの一室に集められた関係者を、狩久の小説に魅せられた“宇宙人”が、TVのモニターごしに調査します。なんでも狩久の生い立ちをさぐり、小説作法の秘密に迫ろうということらしいのですが・・・
第四部「ふぃにっしゅ&う゛ぁにっしゅ・おぶ・Q&ナイン」では、一連の「Q&ナイン」シリーズで作中人物のモデルにされた、編集長(島崎○)と小説家(梶○雄)が、狩久にはた迷惑なシリーズをやめさせるべく協議し、一計を案じます。しかし、それを受けて事態は予想外の方向へ・・・
最後の第五部「とおく&じょおく・あらうんどQ&ナイン」は、狩久が司会者になっておこなう、作中人物たちの座談会です。そこで、探偵小説の本質は“奇想”だと力説する狩久。どうやらこの作者、「Q&ナイン」シリーズを、完全に探偵小説のつもりで書いたらしいのですが・・・

リアル島崎博氏w は明言を避けていますが・・・これは限りなくボツ原稿の匂いがする。出してあげたいけど商業出版では無理、という判断で、結局お蔵入りしたのではないかな。
作者の思惑はともかく、これを探偵小説として考えず、普通にユーモア小説として受けとめれば、話術はたくみで、退屈はしません。
しかし、あまりに“世界”が狭く、自己愛が強すぎる。
おそらく、短編「らいふ&です――」は、15節のラストで終えるべきだったのでしょう。宇宙人が登場する16節は、本来、蛇足。
でも、その小手先のどんでん返し(もしかして・・・カーの『火刑法廷』を意識したか?)に、作者が淫してしまった。アレをどう発展させるか――というベクトルへ走りはじめてしまったのですね。
そのエネルギーを、残された時間を、亜久子・研吉ものの新作に向けてくれていたら・・・と痛切に思います。

でも。
単体での評価が難しい、そんな怪作も、個人全集のこの位置に置かれ、「日記」と対置されることで、ファンや研究者には、作者理解のための必読の文献になっていることは、間違いありません。
そして、巻末に配された、昭和五十年代の「日記」こそが、私小説風探偵作家と呼ばれた狩久の、まさに白鳥の歌ともいうべき“傑作”なのです。
健康面の不安、生活の苦しさ、それをかかえながら、それでも書くことの喜び、みなぎる自信、激しい失意――軌道修正しながら、新たな目標を定め、人生を悔いないものにしようとする決意。
読んでいて、胸が痛くなりました。かえりみて、自分のなんと怠惰なことよ。
鮎川哲也をめぐるエピソードなど、ここでしか読めない裏話もあって、ミステリ・ファンなら興味津々、というのも勿論ですが、それ以上に、(プロ・アマを問わず)モノを書くという業にとりつかれた人間なら、これは・・・来るものがありますよ。

かくして、日記で構成された「氷山」に始まった<狩久全集>は、作者自身の「日記」で見事に円環を閉じました。
編集にあたられた佐々木氏、そしてこの企画の成立に携わったすべての関係者に、惜しみない拍手をおくります。
パーフェクトな全集でした。

で、と。
<狩久全集>は全六巻ですが、セット販売は全七冊なんですね。あと一冊は何かって? 狩久夫人の著作をまとめた『四季桂子全集』(全一巻)です。ここまできたら、読むしかないですねwww


No.135 7点 NHKカルチャーラジオ 文学の世界 怪奇幻想ミステリーはお好き?―その誕生から日本における受容まで
評論・エッセイ
(2014/01/16 15:07登録)
今回は、雑談ふうに。
去年の暮から、なんだかんだと雑事に追われて、まともに本が読めていないんですよ。多少、目を通しても、考えを整理して書く(PCのキイを叩く)時間がとれない。
なので、多忙が解消される、来月あけまで、このサイトへの投稿は休もうと思ってたんです。
そしたらねえ、たまたま mini さんの“本書”評を見ちゃって。
そうか、これを取りあげる手があったかw

「怪奇幻想ミステリーはお好き?」は、ネットラジオで受講するつもりで、去年のうちにテキストを買ってきて――
ちょっと読みはじめたらやめられなくなって、「第1回 ゴシックとは何か」から、「第12回 探偵小説から推理小説、そしてミステリーへ」まで、その日のうちに全部読んじゃいましたwww

ミステリ者として、いろいろ突っ込みたいところはあります。
「ひとくちにミステリーと言っても、<本格>と<変格>があります」というテキストの書き出し(「はじめに」)には、しょっぱなから、おいおい変格なんて、いまどき「ミステリー」には使わんだろ、とか。
ただそのへんに関しては、第一回の放送で丁寧なフォローがされていて、ああ、これは教科書を読み飛ばすだけでなく、マジメにラジオを聴取する価値があると思わされました。

テキストではまったく触れられていない、ロマンス小説のサブジャンルとしての“ゴシック・ロマンス”(たとえば『ジェイン・エア』→『レベッカ』→ヴィクトリア・ホルトやメアリー・スチュアートらの、1970年代にブームになったロマンティック・サスペンス)への言及も、あったらいいなあ・・・
って、これは寄り道になるので無理か? でも、オトラントの城を改装したのは、彼女たちじゃないかと思うんですがねえ・・・。

あだしごとは、さておき。
著者(講師)の風間氏は、もとより「怪奇幻想」の人ですが、軸足を、文学ではなくエンタテインメント小説に置いているので、その考察は、筆者には、とても親しみやすい。
今後の講義が楽しみです。


No.134 9点 火刑法廷
ジョン・ディクスン・カー
(2013/12/10 16:04登録)
カーの『火刑法廷』と言えば、筆者の世代には――
ポケミス(西田政治訳)で絶版だったものが、松田道弘氏の蠱惑的な解説つきで、昭和五十一年(1976)に待望の改訳(小倉多加志訳)で甦った、あのハヤカワ・ミステリ文庫版の印象が強いのです。
でも今回は、同文庫の、2011年の〔新訳版〕を試してみました。

ミステリアスな女性のポートレイトを描いた、陰影のあるカバー・デザインは、ムードがあって悪くありません。トール・サイズの文庫で活字が大きいのも、老いてきた目には、まあ有難い。これまでの版では省略されていた、原注(参考文献を挙げたり、謎解きに照応する該当箇所を明記したり)が読めることにも感謝します。

でも肝心の翻訳(加賀山卓朗)は――
全体としては、読みやすくなっていると思います。しかし、ところどころ首をかしげる表現が目について・・・
結末近く、「○○○○は膏薬を使うまで、生身の人間だった」(p.376)というあたりでは、意味をとりかねて、活字を追う目が止まってしまいました。このくだりは、じつは照合した旧・小倉訳でも、論理的にヘンな文章になっていたので、おそらく原文解釈が難しいのだとは思います。
しかしだからこそ、「新訳」は、作者の意をきちんと細部までくみ取りそれを日本語に移し替えた、決定訳であって欲しかった。

『火刑法廷』は、不死、もとい不滅の作品なのでw かりに将来、この版が絶えることがあっても、復活することは間違いありません。十年先、二十年先かもしれませんが、そのさいはまた違った訳で、解説(現行の、あらすじと感想を短くまとめたものは、業界人のゲスト・エッセイでしかありません)も差し替えて出すことを考えてみてください、早川書房様(あ、重要な舞台となるデスパード邸の、二階平面図を作って載せるようなサービスもあれば、作品理解を助けるうえで、なお良しですw)。

さて。
さきほど「不滅の作品」と書きました。好きか嫌いかと聞かれれば、正直、筆者の大好きなカー作品ではないと答えますが(カーはもっと大らかでないと。これはガチになりすぎ)、探偵小説と怪奇小説の狭間にあるトワイライト・ゾーン、そこへ読者を取り込む危険な営みは、未来永劫色あせることなく、後続の作家たちをも刺激し続けるだろうと信じるからです。

単に最後の数ページで小手先のオチをつけたのではなく、作品が一幅の騙し絵になるよう、過程のストーリーに手練手管が施されていることは、再読するとよくわかります。
通常の本格ミステリらしく、説明をつける要素(だけを見ると、本格ものとしてさほど傑作とは思えないという意見は、一理も二理もありますが、それでも地下の霊廟から遺体を消して見せる手際は、筆者にはトリックの教科書のように思えます)と、あえて説明をつけないで残す部分の匙加減。
あくまで“本格”を根底に踏まえながら、作品全体のスタイルで勝負した(ちなみに筆者のジャンル投票は「その他」です)、カーの一世一代の冒険を、評価しないわけにはいかないでしょう。

ただ。
ここまで新機軸を狙って本気モードになるなら――
導入部で「読者や私とさして変わらないエドワード・スティーヴンズは(・・・)」とか、「スティーヴンズは、読者や私と同様(・・・)」といった、作者がしゃしゃり出て登場人物を説明するような、古風なナレーションは(「これは作り話です」と宣言しているようなもので――その意味では、原注の大半も――シリアスな本書のトーンには合わない)やめたほうがよかったですね。
とくに p.10「いまスティーヴンズ本人も、事実を述べるのは楽だと認めている。表にしたり並べ替えたりできる事柄を扱うのは安心だと」というあたりは(ちなみに、旧・小倉訳では、ここは「そして現在、スティーヴンズ自身、事実のままを述べ、分類したり整理したりできるものだけを処理する方が助かると言っているのである」)、カーの筆がすべった感があり、そのせいで、暗示的な「エピローグ」とのあいだに、若干、齟齬が生じているようにも思えます。


No.133 8点 帽子収集狂事件
ジョン・ディクスン・カー
(2013/11/26 13:28登録)
次々と帽子を盗んでは、それを人目に付く場所(馬車の馬の頭、彫像の頭部 etc.)にさらす愉快犯がロンドンを跳梁していた。この犯人を“いかれ帽子屋”と命名し、一連のイタズラをセンセーショナルに報じた新聞記者の死体が、霧深いロンドン塔の構内で見つかる。ゴルフウェアの胸に突き立った、矢じり。そして頭には、彼の伯父が、先日“いかれ帽子屋”に盗まれたシルクハットがかぶせられていた・・・
プラクティカル・ジョークから飛び出した死に、あのエドガー・アラン・ポオの未発表原稿が影を落とす、おなじみ『帽子収集狂事件』の一席。

1933年に発表された、ジョンディクスン・カー名義の第七長編にして、前年の『魔女の隠れ家』に続く、名探偵ギディオン・フェル博士ものの第二作です。
小学生のときに、創元推理文庫の田中西二郎訳で読んだきりでしたが、今回は、同文庫から2011年に出た新訳本(三角和代訳)で読み返してみました。
名手・田中西二郎の翻訳が訳しなおされるのも、時代の流れでしょう。ただどうせリニューアルするなら、必ずしも内容にふさわしくない訳題を、思い切って「いかれ帽子屋事件」にするくらいのことはしてほしかった。
ともあれ、載っているロンドン塔の平面図は、位置関係がわかりやすいものに改められ、巻末の新解説(中島河太郎→戸川安宣)も、かつて江戸川乱歩が本作をカーのベスト1に挙げた理由(初読時の筆者を含めて、おおかたの読者が首をかしげたであろう疑問)をくわしく解析した好内容なので、これから『帽子収集狂事件』を読もうという新しい読者には、この版が良いと思います。

さて。
謎の設定は、エラリイ・クイーンの『ローマ帽子の秘密』(1929)と好一対で、“場”の限定と尋問に次ぐ尋問も、カー流<初期・国名シリーズ>と言いたくなるくらいなんですが(まだ作風が固まっていなかった証左でもあります)、比較すると、こちらはものの見事に解明の論理が無いw 
意外な真相(種明かし)と説得力のバランスをとるのは、この作者ならではの、伏線張りの技術です。そのずるがしこいフェアプレイwww は天下一品。

意外な真相――○○○○で××××をつくる着想は、そのかみの乱歩や横溝正史を驚倒させたわけですが、いまとなってはトリックの基本原理のひとつですから、ミステリ慣れした読者には衝撃度もダウンしており、そのプライオリティだけで、今日、本作を傑作と持ち上げるのは無理でしょう(トリック・マニアだった若き日の筆者など、だから逆に、作品の良さがもうひとつピンとこなかった)。

でも、“意外な真相”を、キャラクターの思惑を裏切って止まらなくなる、玉つき事故のような偶然の連鎖としてとらえ直せば、これは俄然、面白くなる。
皮肉なことに、その面白さは、カー嫌いだった都筑道夫(<乱歩が選ぶ黄金時代ミステリーBEST10>の一冊として、本作が森英俊訳で集英社文庫から刊行されたとき、まったく気の入らない解説を書いてました ^_^;)が言うところの、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ以外のなにものでもないのですよ。

これで、もう少しキャラクターに(40年代の諸作のような)生彩があったらなあ。『魔女の隠れ家』に登場したアメリカ人青年タッド・ランポールが、引き続きフェル博士の助手役をつとめていますが、ストーリー上、まったく存在意義を失っているあたりも、過渡期の作という印象を強めています。

あと結末は、罪を憎んで人を憎まず式の人情噺になっていますが、昔から筆者は、ここがストンと納得できない。フェル博士とランポールだけのあいだなら、まあそれもありでしょうが、スコットランド・ヤードの警部たるハドリーまでが同意してしまうのは、どうかなあ・・・と。あくまで、適正な裁きがおこなわれることを示唆して、幕を閉じるべきではないかと思うのです。


No.132 7点 ROM 140号
雑誌、年間ベスト、定期刊行物
(2013/11/12 09:52登録)
ごめんなさい、今回とりあげるのは同人誌です(一般販売もされているので、諸兄、諒とせよ――と思ったら、本号はすでに完売のようです <(_ _)>)。

今年2013年は、ミステリ方面で訃報が相次ぎましたが・・・筆者にとって最大のショックだったのが、クラシック・ミステリ・ファンジン『ROM』(『Revisit Old Mysteries』)の主催者・加瀬義雄氏の、7月の逝去です。
英米の埋もれた作家・作品を、原書を読んで紹介すること30有余年、国書刊行会の<世界探偵小説全集>以降の、クラシック翻訳出版の礎を築き、近年はさらに視野を広げ(そのための、水面下の語学学習を思うと、気が遠くなりそうですが)、北欧やイタリア、ドイツなど非英語圏の古典にも精力的に取り組まれていました。
会員の末席を汚しながら、筆者は Read Only Member となってひさしく、不義理を重ねたまま、永遠のお別れとなってしまいました・・・。

「7月31日発行」の本号は、加瀬氏が編集されていたぶんを、有志の会員が引き継ぎ、完成させたもののようです。
『ROM』は基本的に、作品レヴューと関連エッセイで構成されているのですが、今回は「翻訳ミステリ特集」と銘打ち、珍しい短編を会員の訳でズラリと並べています。
そのラインナップは――

○「隠れ家」A・E・W・メイスン/水島和美訳
○「ポルチコの風」ジョン・バカン/吉田仁子訳
○「風車」「珍品蒐集家」「失われた都市ラク」ニコラス・オールド/小林晋訳
○「ピクニック」H・C・ベイリー/小林晋訳
○「ロト籤札」「第三の指標」S・A・ドゥーセ/ROM訳

最初の、メイスンとバカンの作品は、ミステリ・ファンが条件反射的に思い浮かべる、作者たちのイメージ(『薔薇荘にて』『矢の家』の探偵作家、『三十九階段』のスパイ/冒険小説作家)を良い意味で裏切る、怪奇小説の佳品です。

都会の喧騒に疲れ、地方の屋敷に移り住んだ主人公のまえに、じょじょに死者の霊が実体化してくるという「隠れ家」(1917年刊The Four Corners of the World 所収)の豊かなイマジネーション。
古記録を研究する学徒が訪れた、田舎地主の屋敷では、怪しい何かがとりおこなわれているらしく・・・という「ポルチコの風」(1928年刊 The Runagates Club 所収)の、鮮烈なカタストロフ。

ともに作中では濃密な時間が推移しており、物語としての充実度は相当に高いです。メイスンやバカンの他の小説が、無性に読みたくなってきました。
おそらくこのへんは、編者の加瀬氏としても、自信のセレクトだったと思われます。

さて。
そんな加瀬氏のパートナーとして、創刊まもない頃からエネルギッシュに『ROM』を支え続けてきた小林晋氏が、本号に投じたのがオールドとベイリー。

ニコラス・オールドと聞いてすぐピンとくる向きは、相当な通ですね。本国イギリスでも、正体不詳の幻の作家で、15編を収めた名探偵ものの短編集 The Incredible Adventures of Rowland Hern(1928)は、レアアイテム中のレアアイテムでした(近年になって、アメリカの論創社こと Ramble House から復刊されました)。邦訳も、これまで「ジョン・ケンシントン割腹未遂事件」と「見えない凶器」の二作が、単発的に雑誌とアンソロジーでなされただけです。
今号に訳されたのは、上述の短編集の、最初の三編。ホームズ、ワトスン形式で進められますが、探偵ハーンと「私」のキャラ造型など作者の知ったことではなくw はなから二人は名探偵とその助手として存在し、奇妙奇天烈な謎の数かずに直面します。その本質は、“本格”というよりカミのルーフォック・オルメスもののような“パロディ”だと思います。
チェスタトンの出来そこないのようなw「風車」も印象的ですが、三編のなかでは、古代文字の暗号解読をあつかった「失われた都市ラク」がベスト。

シリーズ第六短編集 Mr.Fortnne Explains(1930)から採られた「ピクニック」は、殺人事件に子供の誘拐がからむ、いかにもベイリーらしい味わいの一品。事件そのものに、代表作「豪華な晩餐」や「黄色いなめくじ」のような特異性はなく(ただ、犯人側の計画がうまくいっていたら、七歳の少年が国外でどんなめにあっていたかを考えると、コワいものはあります)、フォーチュン氏の推理も“黄金時代”以前のレヴェルなんですが、ストーリーテリングで持っていかれて、最後は情に訴えかけられ、納得させられてしまう。

S・A・ドゥーセの訳者ROMは、編者の加瀬氏ご自身です。
不定期連載「失われたミステリ史」(途中までが、<ROM叢書>の一冊として刊行されています)でクローズアップしたドゥーセを「スウェーデンのクラシック・ミステリなどいくら紹介しても大半の人には関心外であろうため、せめてその一端を、ということで(・・・)いくつか翻訳連載してみようと思いた」った企画の三回目。レギュラー探偵レオ・カリンクものです。
出来自体はまあ、よくいって<シャーロック・ホームズのライヴァルたち>の時代の標準作、といった程度ですが、盗難と元祖・オレオレ詐欺(?)をリンクさせた「ロト籤札」の真相の、「今の時代にはない人情味」(訳者あとがき)などには、たしかに捨てがたい良さがあります。犯罪なんだけど・・・最低限のモラルがそこにはあるんですね。
残念なのは、ドゥーセの翻訳のテクストとなった短編集、その詳細がわからないこと。加瀬氏がご健在であれば、おって「失われたミステリ史」の続きで明かされたはずですが・・・。

遅まきながら、この場を借りてご冥福をお祈りいたします。


No.131 6点 刑事コロンボ13の事件簿
ウィリアム・リンク
(2013/10/30 10:51登録)
論創海外ミステリ第108巻は、アメリカ本国で2010年に刊行された、刑事コロンボのオリジナル短編小説集(原書The Columbo Collection 収録の全十二話にくわえ、同書・限定版ハードカバーの特別付録として別添された十三話目も、収録されています)。
著者は、TV版シリーズの産みの親のひとり(プロデューサー、脚本家としてともに同シリーズを立ち上げた、相方リチャード・レヴィンソンは、1987年に死去)。
でもって訳者は、日本のコロンボ研究家ならこの人、町田暁雄氏。
版元も、版権を取って出す気合の入れようです。

筆者は子供の頃、NHKテレビでコロンボに出会い(最初に見たのは『祝砲の挽歌』。幸せな出会いでした)、二見書房から出ていたノベライゼーションも買い求めて読んでいた世代なので、コロンボと聞くと、つい当時――自分がいちばん夢中になっていた1970年代の想い出に惑溺してしまいそうになります。
しかしこの作品集の舞台は、まぎれもない21世紀。コロンボのお馴染みのレインコートのポケットには、いつのまにか携帯電話がおさまっています。

「現代であるべきなんだ。(・・・)新しい読者――若い読者たちには、現代が舞台の方がいいはずだ。(・・・)あの本は、当時のファンに向けて書いたというわけじゃないんだ」とは、「訳者あとがき」で紹介されている、ウィリアム・リンクの言。
うむ。その意気や良し。

収録作は―― ①緋色の判決 ②失われた命 ③ラモント大尉の撤退 ④運命の銃弾 ⑤父性の刃 ⑥最期の一撃 ⑦黒衣のリハーサル ⑧禁断の賭け ⑨暗殺者のレクイエム ⑩眠りの中の囁き ⑪歪んだ調性(キー) ⑫写真の告発 ⑬まちがえたコロンボ

①を読んで、ひとまずオールド・ファンも安心しました。確かに“現代”のお話だけど(被害者がレイプ事件の容疑者だったりします)、犯人の設定といい手掛りの提示といい、旧TVシリーズを彷彿させる要素を盛り込み、サービスすることを忘れていません。
「訳者あとがき」(収録作への駄目出しの数かずがまことにユニーク)で適切に述べられているように、犯人のミスにまったく説得力が無く、お世辞にも出来がいいとは言えませんが、これを巻頭に持ってきた意味はよくわかります。

この「緋色の判決」は、いかにもコロンボ的な(カメラ、もとい視点がラリーのように、犯人、探偵間を往復する)倒叙スタイルの対決もので、かつ犯行動機は読者に伏せられているという趣向でしたが、本書の特色として、コロンボ・シリーズと聞けば誰しも思い浮かべる、そうした倒叙ものと、それにこだわらない、読者への伏せごとをより重視した、非倒叙ものがほぼ交互に配列されていることがあげられます。
まことに思いきった試みですが、これも、自分はナツメロ歌手ではないという、リンクの主張の現われでしょうね。

轢き逃げ事件の捜査が悲しい真相を浮かび上がらせる②は、そうした新傾向の成果です。謎解き自体は緩いものの、ラストのツイストが効果的で、短編ミステリとしての余韻は上々。
作品の出来とは別にコロンボ・ファンに“刺さる”のは、コロンボの愛犬“ドッグ”(バセットハウンド)がすでに亡くなっていた、という事実でしょう(この、コロンボが犬を飼っていたという設定が、「失われた命」のストーリー後半で利いてくるあたり、さすがにリンクのドラマづくりは巧い)。本の中にまったく姿を見せない“ドッグ”を、あえてジャケットの装画のまんなかに持ってきた、制作者の想いにも打たれます。

非倒叙もので、もうひとつ注目作をあげるなら、ロス市警の刑事殺しをあつかった⑧になります。犯人の正体はほぼ自明ですが(TV版の傑作のひとつを想起させ、旧作ファンの琴線に触れまくり)、その人物は嫌疑を免れるため、現場であるトリックを使っており(おお、土屋隆夫だw)、それを効果的に暴露するための、非倒叙仕立てですね。ただ、この犯人の行動は、計画犯罪にしては、あまりにリスキーすぎます。それに、通常の捜査の範疇で、動かぬ物証が発見されるのは、まあリアリズムなんですが、あの「TV版の傑作のひとつ」と対になるような設定を用いた以上、最後は例の作にならって、コロンボの卑怯なw 逆トリック(逮捕のための罠)で決めてもらいたかった。

全体に、プロットの練り込みがもうひとつ、の感は否めません。合作パートナーだったレヴィンソンの存在が、いかに大きかったか、ということでしょう。
それでも、正統的な倒叙路線に戻ると、表題作の⑦、⑨、そして⑫あたりは、水準以上。
あれ、これってみんな、女性犯人ものだ。まずい、筆者のオンナ好きがバレてしまう!
と思ったら、よかった、 kanamori さんの書評でも、このへんが推されていますw

集中のベストは、やはり、浮気の証拠写真を見た妻が、夫殺しを決意、実行に踏み切るが・・・という、⑫「写真の告発」。
お話の収束性、趣向の合わせかたの美しさで、頭ひとつ抜けています。くわえて、ラストがじつに“絵”になる。これは是非、ドラマでも観てみたかったなあ。

そうそう、もう一つだけ。
前述のように、本書の⑬は、いわばボーナス・トラックの小品――にして、コロンボの正真正銘の“まちがい”が付きつけられる、異色作です。
「訳者あとがき」ではラストの「解釈が難しい」とされていますが・・・こなれた訳文を読むかぎりでは、最後のセンテンスの意味合いは明解です。あるいは原文は、意味深な(多様に解釈できる)表現なのか? もしそうであるなら(法解釈ではなく、英文解釈の問題であるなら)、「あとがき」には、問題箇所の原文も引用しておいて欲しかったですね。


No.130 8点 追放 狩久全集第五巻
狩久
(2013/10/11 15:14登録)
本巻は、十数年にわたる沈黙を破り、雑誌『幻影城』で作家再デビューを果たした狩久が、逝去までのわずか二年たらずのあいだに残した、小説とエッセイ類の集成です。

編年体の収録作を、まず小説とエッセイで分けてみましょう(論創社『狩久探偵小説選』収録のものには、アスタリスクを付します)。

前者は――1.追放 2.虎よ、虎よ、爛爛と―― 一〇一番目の密室*  3.不必要な犯罪 4.らいふ&です・おぶ・Q&ナイン

後者は――5.ゆきずりの巨人* 6.我がうしろむき交友録 7.楽しき哉! 探偵小説* 8.著者略歴(『不必要な犯罪』) 9.鮎川さんとの再会

オマケとして、『幻影城』の編集長をつとめた島崎博氏インタビュー「ある探偵小説家の思い出・狩久」が収められ、巻末には、編者・佐々木重喜氏の詳細な「狩久書誌」が配されています。

小説をはさんで、“ゆきずりの巨人”江戸川乱歩にはじまり「昔のままの中川透と同じ人」鮎川哲也に終わるエッセイ群は、“キャラ”を印象づける場面、セリフの選択が、やはりこの人は根っからの作家なんだなあ、と感じさせます。
狩久ならではの<探偵文壇側面史>である、6のような文章(衝動的に「ああ、女が抱きたくなった・・・」と呟く“紅顔の美少年”山村正夫とか、もう最高w)をもっと残して欲しかったなあ。

さて、小説。
記念すべき復帰作の1は、禁忌を犯して未来の地球を“追放”され、宇宙を彷徨するカップルが、辺境の惑星で高度の知性をもつ種族と遭遇する、ファーストコンタクト・テーマのSF短編。
まさに作者の新生面なんですが、あいにく筆者、このお話は昔から苦手なんです ^_^;
ナンセンスなアイデアとシリアスなムードが、水と油に思えて仕方がない。いってしまえば「艶笑落語」を、大真面目で「寓話」にしようとしている気配が、ちょっと・・・。
ふと、「麻耶子」や「鉄の扉」(本全集第二巻所収)といった、作者の本質がストレートに現われたであろう、“狩久小説”の傑作を思います。やはり狩久という人は、その素の部分では、どシリアスな、永遠の文学青年だったんだろうなあ。ガチ・モードになると、エンタメ読者相手に、つい襟を正して読ませるような小説を、書いて(書こうとして)しまう。

そのこと自体を、否定しているわけではありません。そんなシリアス狩久の、ミステリ作家としての到達点に、3なる傑作があるわけですから。
この、長編『不必要な犯罪』に関しては、本サイトで、すでに単体でレヴューを済ませていますので、内容・評価は、よろしければそちらをご覧ください。本書では、解説担当の真田啓介氏が、見事な作品分析で、錦上花を添えています。アントニイ・バークリーやレオ・ブルースなど、英国古典探偵小説の愛好家として知られる真田氏と狩久の取り合わせは、一見、意外ですが、『幻影城』世代のファンの愛の深さを、遺憾なく見せつける内容です。

シリアス狩久の真骨頂が、『不必要な犯罪』なら、一転、軽く遊んだときの、戯作に徹したエンターテイナー狩久のトップ・フォームが、2の「虎よ、虎よ、爛爛と」といっていいでしょう。
『宝石』時代のシリーズ・キャラクター、瀬折研吉と風呂出亜久子のコンビを起用し、裏返しの密室(外部から鍵のかかった部屋の外で死体が発見され、犯人は、その部屋の中にいた?)に取り組ませたこの中編は、いまあらためて読むと、怪建築、それを作った人間が、じつは自作の建造物にことごとく仕掛けをほどこしているという設定、“抜け穴”ありきの密室趣向、といった点で、綾辻行人の館シリーズの先蹤かいな、という気もします。
でも、そんな歴史的価値(?)はおいても、そうした稚気満の世界に、さらに虎を連れてきて一緒に閉じ込める(!)という奇想をかけ合わせ、そこから人間関係を膨らませていく力量は素晴らしい。
これはもう、シリーズ過去作「見えない足跡」や「呼ぶと逃げる犬」の、単なるリフレインではありません。完全に一皮むけた狩久が、ここにはいます。
ダークさを裏地にしながらも、表面はあくまでユーモラス。論理展開を重視しつつも、肩の力を抜いて、文章は軽快に。
狩さん、これで良かったんですよ。自信をもってこのセンを伸ばせば、あなたは・・・

でも、エンターテイナー狩久が次に(最後に)向かったベクトルは、思わずアタマをかかえてしまう、短編4なんですよねw
作家・狩久の死亡通知が配られ、葬式パーティに集まった面々。
そこには、椅子にかけた、狩の死体が待ちうけ・・・いや、それは本当に作家だったカリQなのか、もう一人別にいたカリナインではないのか・・・?
って、なんじゃそりゃあ。
乱入する、世界の美女軍団。ホントに登場してしまう宇宙人!
狩久の、狩久による、狩久のための小説で、作家自身による作家論として読めば、それなりに興味深いものもありますが、でも正直、小説としては、わけがわからない。ひさしぶりに読み返してみても、これはちょっと、評価不能です。

復帰後の、短期間での著しい成熟。でも、そこにとどまることをみずから拒否し、このあと狩久はどこへ行くつもりだったのか。
この「らいふ&です・おぶ・Q&ナイン」をもとにしたという、公刊されなかった第二長編を読めばそれがわかるのか?
でもその長編って、そもそもホントに存在したのか?

え~、皆進社の<狩久全集>は、全六巻なんですね。
ということは――はい、<全集>レヴューの次回は、長らく狩久ファンを困惑させてきた、幻の第二長編(見つかりました)を取りあげることになります。
さあ、鬼が出るか蛇が出るかw


No.129 10点 赤い収穫
ダシール・ハメット
(2013/09/26 19:56登録)
Black Mask 誌に、1927年11月号から四回にわけて掲載され、29年に単行本化された、コンチネンタル・オプものの集大成 Red Harvest。
翻訳者に、歴代の錚々たるメンバー実に七名が轡を並べる、ダシール・ハメットの長編デビュー作です。
筆者は基本的に、あまりハードボイルドとは縁のない人だったのですがw さすがにこれは無視できず、中学生時代、テスト勉強の合間の息抜きに、田中西二郎訳(創元推理文庫『血の収穫』)で読み飛ばした記憶があります。
いま思えば、ほとんど劇画(死語?)のページを繰るような感覚でしたね。で、怖いもの知らずの感想は「面白いっちゃ面白いけど、グダグダだあ!」。

あれから幾星霜。
ふとしたことからハードボイルド再入門を思いたち、ジャンルの基本図書のひとつと考える、小鷹信光・編訳『コンチネンタル・オプの事件簿』(ハヤカワ・ミステリ文庫)にあらためて目を通したら・・・
うまく波長が合って、なんだか昔は見えていなかったものまで、自然に見えてくるような気がしました。
そうなってくると、子供のころに読んだきりの、かの“古典”も、小鷹・新訳の『赤い収穫』(同前)で読み返してみてはどうか、という気持ちになります。

品切れなので(このへんを切らしてどうするのよ、早川さん!)古本を捜して一読した次第。
すると――まず冒頭の一節で、驚かされました。ちょっと長くなりますが、ここは重要だと思うので、はしょりながらも、あえて引用します。

 パースンヴィルがポイズンヴィルと発音されるのを初めて小耳にはさんだのは、ビュートの町のビッグ・シップという店でのことだった。(・・・)そのときは気にもかけなかった。(・・・)やっぱり同じように呼ぶのを後になって耳にしたが、そのときも(・・・)他愛のないユーモアぐらいにしか思わなかった。その数年後に私はパースンヴィルに出かけ、自分の考えがいたらなかったことを思い知らされるはめになったのである。(引用終わり)

この導入以降、地の文の一人称I(アイ)を、小鷹さんは「私」と訳している! 名なしのオプの短編では、一貫して「おれ」を採用しているのに・・・。この人称代名詞の使い分けにどんな意味があるのか? そのへんを訳者が明かした文章なり発言なりが、どこかにあるのかどうか、あいにくハードボイルドにわかの筆者には、わかりません。
レヴューの最後で、この問題は、あらためて考えることにします。

さて。
腐敗した町にやって来たニヒルな主人公が、町を牛耳る複数勢力をたくみにあやつって、たがいに抗争させ、自滅へ導く――骨子だけを見れば、本作はいまとなっては、よくあるお話でしょう。いやこれがオリジンだから、という弁護も、それだけでは「歴史的価値」の評価にとどまります。
しかし今回、筆者がこの小説から受けた印象は、そんな黴臭さとはまったく異なる、鮮烈なものでした。

これ以前の、オプもの短編になじんでいる読者なら、凄腕のサラリーマン探偵である主人公が、必ずしも社規に忠実ではなく、必要に応じて担当事件のシナリオを、自分の望む結末に書き変えてきたことは承知しています。そのために、たとえ命が失われても、しかし一応は、彼なりの「正義」を実現するためやむを得ず、といったエクスキューズのようなものはありました。

ところが本作のオプは、あきらかに常軌を逸している。行動原理の肝心なところに、ポッカリ穴があいているのです。最初から、「仕事」はタテマエで、本音は殺戮ゲームを主宰するのが面白かったのだ、としか思えない。そして、途中からはもう、引き返せなくなってしまった・・・
本格ミステリ・ファンでもある筆者は、これを「名探偵の成れの果て」の物語としてとらえました。
あ、一応オプは「名探偵」です。バイオレンス小説のはずの本作で、周期的に繰り出される推理→サプライズ(実質、中編四つをつなげた構成の本作には、大雑把にいえばドンデン返しも四回あるw)がそれを証明しています。荒削りながら、面白いアイデアも盛り込まれています(3/4のところでオプが解き明かす、銀行襲撃事件のからくりが、筆者は一番好きです)。
そんな、ヒーローとしてのオプが、しかし「裁くのは俺だ」を繰り返すうちに暗黒面に堕ちていく・・・

けっして完成度の高い小説ではありません。むしろ「グダグダ」かもしれない。しかし、私立探偵型ハードボイルドのスタートにしてゴールのような、異様な迫力に圧倒されます。うん、これはワン・アンド・オンリーの作。

そんな本作は、こう締めくくられます。

 報告書をあたりさわりのないものにしようとして必死に汗をかいたのは無駄骨だった。おやじをだますことはできなかった。私はこってりしぼられた。

しかし、この小説に本当にふさわしい結文は、

 (・・・)私はこってりしぼられ――コンチネンタル探偵社をやめた。

ではないかと思います。

最後に。
訳者の小鷹氏が、短編と本作で一人称表記を変えた理由について。
さきに引用した小説冒頭の一節が、一件落着後の“回想”であることに、ヒントがあるような気がします。
リアルタイムのドキュメントではない。どの程度のタイムラグがあるのかもわからない。しかし、いずれにせよ――

『赤い収穫』で地獄巡りをしたあとのオプは、もうそれ以前のオプではありえないんだよ――

もしかして、そうおっしゃりたかったんでしょうか、小鷹さん?


No.128 6点 黒い駱駝
E・D・ビガーズ
(2013/09/13 11:48登録)
1929年――
ヴァン・ダインが前年の『グリーン家殺人事件』に続けて、代表作『僧正殺人事件』を発表し、エラリー・クイーンとダシール・ハメットが、それぞれ『ローマ帽子の秘密』『赤い収穫(血の収穫)』というファースト長編を世に問うた、アメリカ・ミステリ隆盛の年(ミステリ史では、ですね。“リアル”だと世界恐慌の年ですw)。
そんな年に、手堅いエンタテインメント職人がものした、中国人探偵チャーリー・チャン(ハワイ・ホノルル警察所属)ものの第四長編です。

過去、戦前抄訳にもとづくヴァージョンでしか読めなかったものが、論創海外ミステリから完訳で刊行されました。
巻末の解説(廣澤吉泰)では、過去訳を完訳と対照することで、マイナス・イメージの強い「抄訳」を、テクニック面から再検討しており、先人の業績をきちんと評価したうえで先に進む、「抄訳→完訳」シリーズ(?)の皮切りにふさわしい内容となっています。

さて。
作者のE・D・ビガーズは、筆者にとって懐かしい名前で、創元推理文庫からポケミス、やがて古本屋で『別冊宝石』のバックナンバーに手を伸ばし、メジャーどころ以外の古い作家・作品をつぶしていった、若かりし日の想い出と結びついています。
安定して楽しめる、いい作家だったような・・・。個々の作品のことは、じつはあんまり覚えていないのですがw

この『黒い駱駝』(東洋の格言に出てくる、死神の意)も、『別冊宝石』45号のE・D・ビガーズ篇(1925年のチャンもの第一作『鍵のない家』と26年のノン・シリーズ『五十本の蝋燭』を併録)で既読ながら・・・
え~と、たしか、ロケでスタッフと一緒にハワイに来た映画女優が殺される話だよな、なんだか彼女は、まえにハリウッドでおきた未解決の俳優殺しの犯人を知ってるとかで、いまこの現場にその犯人がいるとかいないとか、死亡フラグを立てたんだっけ――
くらいの漠然とした印象しかなく、今回、途中まで読んでから、あ、犯人こいつだ! と思いだしましたw

複雑な人間関係、玉ねぎの皮を剥くように、それをより分けていくチャン。その探偵行は、さながらリュウ・アーチャーか金田一耕助かwww
推理ではなく、新発見の事実・新証言によって局面が更新され、最終的に事件も決着するわけで、“本格”として弱いといえばそれまでなのですが、チャンのおだやかな人柄と、舞台となるホノルルの気候風土がマッチして、捜査小説としての道行きの面白さは、いま読んでもいささかも失われていません。

また今回の再読で気づいたのですが――
あの最後の“決め手”で、読者が真犯人へたどり着くことはできませんね。
しかし、作者は強調していませんが、登場人物AとBの結びつきに関しては、導入部の、ある謎(なぜ分かったのか?)を冷静に考えれば明らかで、のちAへの疑惑が高まり、しかしAが犯人では矛盾する、という展開になった時点で、読者がそれを思い出せば、最重要容疑者としてBをピックアップすることは可能なはずです。その場合、“決め手”はあくまで最後のダメ押しです。
フェアプレイというためには、もっと伏線が必要なことは認めたうえで、作者のため一言しておく次第です。

最後に――ミステリ面を離れて、個人的に感心したことを。
作者は本書で、ハワイをきわめて魅力的に描いています。でも、安易な「人生の楽園」にはしていません。
「ホノルル観光局」の宣伝担当という、なかなか魅力的なキャラクターがいて、大衆小説作家としてのビガーズの面目躍如なのですが、外からやって来た人間である彼は、しかしここで人生のパートナーを見つけ、ラスト、ここから出ていく決心をします。「仮の宿」を出ることで、人は成長する。
夢の世界から、読者をきちんと現実に返すビガーズは、わきまえている大人の作家でした。


No.127 7点 海を見ないで陸を見よう
梶龍雄
(2013/08/23 15:55登録)
終戦から三年目の、進駐軍統治下の、夏。
大学生・芦川高志は食料難の東京都心を離れ、愛知にある、海ぞいの伯母の別荘に滞在することになった。
再会した幼なじみの姉妹と旧交を温めるうち、その妹のほうが、やがて岬の潮だまりで溺死体となって発見され――高志は今さらのように、自分が彼女・戸張津枝子を愛していたことに気づき、打ちのめされる。
そんな高志のまえに現われた、ひとりの刑事。津枝子の死に不審があるという、匿名の電話を受けて、関係者から話を聞いていると言うのだが・・・

『透明な季節』で第23回江戸川乱歩賞を受賞した梶龍雄が、同一主人公で翌昭和53年(1978)に発表した続編が、本書。
といっても、ストーリーは前作から完全に独立しており、これ単独で読んでまったく問題ない半面、あれだけの事件(経験)がまったく言及(反映)されないのは、この主人公の連作ストーリーとして、若干の違和感を覚えました(きつい言いかたをすれば、キャラクターを再起用した意味が無いような)。

さて。
『透明な季節』のレヴューでは、E・C・ベントリーを引き合いに出しましたが、おお、こちらはA・E・W・メイスンではありませんか。カジタツは黄金時代英国探偵小説の継承者かw
その他、脳裏をよぎった名前には、狩久、クリスチアナ・ブランド、それに刑事コロンボなどもあり――マニア(SRの会)出身の作者らしく、既存のギミックを自在にアレンジ、組み合わせることで自作を構築しています。
そのマニアックさは、一見、“少年のひと夏もの”の、回想を多用した(さながら、早く来すぎたトマス・H・クック)青春小説タッチのかげに隠れて目立たないわけですが。

主人公の、年上の女性への思慕が、ミステリのプロットに融合していなかった『透明な季節』にくらべると、恋愛感情をふくむ青春小説的要素が、ことごとくミステリ要素と不可分なつくりになっている点で、本書は格段に優れています。
また、解明の論理に乏しかった前作への反省からか、張りめぐらした伏線(前段のストーリー展開を印象づけていたフラッシュバックが、いかに計算されたうえでの構成手段であったことか!)を援用した終盤の謎解きには、相当に力が入っています。

ただ。
犯行手段は、ぶっつけ本番でそううまくいくだろうか? という疑問をぬぐえませんし、浮かびあがる犯行の経緯――いくつものトリックを弄した計画犯罪――と、犯人のエモーショナルな“動機”が、乖離してしまっているのではないかな?
作者も動機面の弱さは意識していたのか、蛇足のような「血」の問題を持ち出していますが、それはいささか安易な(そして偏見を露呈する)決めつけのように、筆者には思えます。

『透明な季節』に付された「著者のことば」には、「謎やトリック」と「人間」、そのどちらにも注力してなおかつ、「不自然でない面白い」推理小説を書きたい、という梶の理想が綴られていました。
その理想からすれば、本書もまだ遠い出来でしょうね。しかし、理想を高く掲げて、自分のペンでそれに近づこうとする真摯さには、強く惹かれるものがあります。

名探偵システムをとっていないから出来る、“探偵役”の処理とその効果、最後に明確化される、「海を見ないで陸を見よう」というタイトル、それが意味するもの――読後の余韻は上々です。


No.126 5点 堕ちる 狩久全集第四巻
狩久
(2013/08/16 13:04登録)
本巻には、昭和三十三年の終わりから昭和三十七年にかけての、いわば狩久・第一期をしめくくる(のち『幻影城』でカムバックし、奇跡の第二期をスタートさせるまえの、最後の)短編小説群がまとめられています。ほかにエッセイ類として、あまとりあ社から出た『妖しい花粉』のあとがき、そしてオマケとして、晩年の作者と親交のあった立石敏雄氏インタビュー「稀代のスタイリスト・狩久」を収録。

順に小説をナンバリングすると―― 1.女の身体をさがせ 2.蜘蛛 3.女は金で飼え! 4.暗い寝台 5.鸚鵡は見ていた 6.堕ちる 7.暗い部屋の中で 8.たんぽぽ物語 9.天の鞭 10.過去からの手紙 11.石(昭和三十四年度版) 12.水着の幽霊 13.覗かれた犯罪 14.雪の夜の訪問者 15.女妖の館 16.ぬうど・ふぃるむ物語 17.流木の女 18.邪魔者は殺せ 19.すとりっぷ・すとおりい 20.別れるのはいや 21.堕ちた薔薇

アリバイ・トリックを据えた謎解きもの(6、12、17、21)を中核に、前巻同様、性愛要素を濃厚に盛り込んだ作品群が並びます。そして、論創社『狩久探偵小説選』で「瀬折研吉・風呂出亜久子の事件簿」に採られたユーモア仕立ての8をのぞくと、あとはこれまで再録されたことのない、珍しい短編ばかりです。

でも、そのぶん出来は落ちるのか?
答はイエスでもあり、ノーでもあります。
狩久のストーリーテリング、小説技術は、まったく衰えていません。いやそれどころか――

前巻のレヴューで、筆者は表題作の「壁の中」を、「最終節のタネアカシが必ずしも明晰ではなく、そこで文章のリズムまで乱れているような気がして(・・・)」とクサしました。長めのワンセンテンスで一気呵成に真相を解き明かす趣向が、うまく決まっていないように思えたのです。
それが本巻の16になると、「壁の中」よりはるかに長いラスト・センテンスのなかで、説明を二転、三転させ読者を翻弄する、文章のアクロバットが鮮やかに決まっています。この「ぬうど・ふぃるむ物語」、つまるところ初期作以来の、狩久のおなじみのパターンのヴァリエーションでありながら、江戸川乱歩ふうの落としどころに持っていくことで、つくりもの感をプラスに変えています(狩久作品に窺える乱歩の影響については、増田敏彦氏の軽妙な「解説」でも指摘されています)。

ただ全体を通して見ると、技術の円熟を過信したか、いささか安易に自作の焼き直しに走って、新味が乏しく感じられるのも否めないところです。

ひさびさに古巣の『宝石』系列に発表した(しかし声がかかったのが、別冊「エロティック・ミステリー」号というのもw)、表題作6の作中トリックは、狩久ファンなら既視感ありまくりですが、それはまあいい。投身自殺をはかった主人公が、地上に“堕ちる”までのフラッシュバックという独特の構成、シニカルなラストに現出する異形の“風景”、そのイメージ喚起力――そうした部分に作者の資質が光っていますから。

ところが、これをまた、21でリメイクしてしまう。原型の「堕ちる」を際立たせていた、上述の長所をそっくり捨てたまま。解説では、「この二つは(・・・)読みくらべて狩久の小説作法を研究するには格好のサンプルだと思う(・・・)」と最大限に好意的に書かれていますが、筆者が担当編集者ならNGですね、これは。

過去、「落石」や「共犯者」といった代表作を印象づけていた、当事者の男女による閉ざされた「ハピイエンド」が、本巻では「バッドエンド」に移り変わっているのも、マンネリから脱却したというよりは、別なマンネリに落ち込んだ感が強い。
ただ繰り返しになりますが、作者の小説技術は相当に高い。なので、後味の悪いそうした路線のなかでも、15などは、語り(騙り)のテクニックに工夫を凝らした力作には仕上がっています(「女妖の館」という題名は意味不明ですが)。

さて。
そんなわけで、諸手をあげて推薦とはいかない、癖のある巻なわけですが・・・
集中、筆者が一番気に入ったのは、5です。
死体なき殺人事件、その唯一の目撃者は鸚鵡だった――という風変わりなシチュエーションに、ひねりを利かせた秀作。
もし図書館等で本書を手にとる機会がありましたらw この作だけでも、試しにご一読ください。


No.125 3点 牢獄の花嫁
吉川英治
(2013/08/02 15:27登録)
引退した、江戸町奉行所の名与力・塙 江漢(はなわ こうかん)は、長崎に遊学している、一子・郁次郎の帰府(戻り次第、許嫁・花世との祝言がとりおこなわれる)を一日千秋の思いで待っていた。
そんな江漢の引退を惜しむ、捕縄供養の催された、十五夜の晩。
大きな鎧櫃を背負った、不審な唖男が同心に取り押さえられ、その櫃の中から、人差し指を切り取られた女の死体が発見される。
被害者の素性をつきとめるため、旧知の与力に策を授ける江漢だったが・・・これは女の指を切り取る、猟奇的な連続殺人の幕開けにすぎなかった。
暗躍する、謎の女(その容貌は、花世と瓜二つ)。なぜかこっそり江戸に舞い戻り、花世の屋敷に身を潜めていた郁次郎。思いがけない息子の冤罪を晴らすため、再び十手を手にした江漢を待ち受ける運命は・・・?

戦前、『鳴門秘帖』を代表作とする、伝奇小説の俊英として登場しながら、その後、求道的なヒーロー小説『宮本武蔵』を契機に作風に変化を生じ、やがて、『三国志』『新・平家物語』などの史伝小説の書き手として国民作家になった、吉川英治。
彼がその“伝奇小説時代”の昭和六年(1931)に、講談社の娯楽小説誌『キング』に、まる一年、連載したのが本作。現在も新刊で入手可能の、<吉川英治歴史時代文庫9>で、読了しました。

これがじつは、巻末の解説「謎とき『牢獄の花嫁』」で、新保博久氏が丁寧に説明してくれているように、フォルチュネ・デュ・ボアゴベの原作を黒岩涙香が翻案した『死美人』(レヴュー済み。よろしければ、そちらもご参照ください)を、涙香ファンだった作者が、時代小説に改作したものなのです。いわば、翻案の翻案。

連載当時、同じ『キング』では、英治と交友のあった江戸川乱歩が、『黄金仮面』で江湖の人気を博していました。
乱歩が、やはり敬愛する先達・涙香の『白髪鬼』をリライトしたのはこの一年後(のち『幽霊塔』の改作にも着手)ですから、友人の試みが、ああ、それもアリかと、乱歩に――いささか安易な――示唆をあたえたのかもしれません。

もっとも、この『牢獄の花嫁』は、“原作”の展開をまるごとなぞっているわけではなく、随所にオリジナル要素を盛り込んだ(それでもまあ、現在の著作権意識からすると、パクリ認定は必至ですがw)華のあるストーリーは、さすがに過去何度も映像化されただけのことはあります。
戦前、戦後を通じて、映画化四回。フジテレビによる「時代劇スペシャル」のドラマ化一回。実現せずに終わった企画では、市川崑監督も、山口百恵、三浦友和、そして三船敏郎といったキャストでの映画化を考えていたといいます。『死美人』をなぞっただけのお話なら、ヒロイン(おそらく二役)に山口百恵を起用して、といった発想は出なかったでしょう。

ただ、吉川英治は知の作家ではなく、情の作家なので、涙香版に見られた、ミステリ面のもろもろの弱点は、まったく改善されていません。それどころか、ストーリーを改変することで、論理的な整合性はむしろ後退してしまっています。
たとえば、郁次郎が冤罪をこうむる経緯。彼にはある秘密があったわけですが、本来、それをいちばん秘さなければならないのは、花世とその家族に対してのはず。すでに彼らにそれを打ち明けてしまったのなら、それ以上、父や奉行所に隠しだてをする必要はないでしょう。なぜ逃げるw 花世までww

『死美人』が、犯人を途中で割っているのに対し、本作ではいちおう、土壇場まで悪の首領の正体は伏せられています。とはいえ、すでにパターン化した設定を踏襲しているだけで、読者を惑わすミスディレクションも無いし、伏線や手掛りにもとづく推理も無い、つまりミステリ的には何のひねりも無いwww
吉川英治の、異色の捕物帳として、時代小説ファンには高評価でしょうが、そこどまりですね。

最後に、ミステリ云々を離れて、個人的に気になったことを書いておくと――
作者が情愛を重んじる人であることは、文章のはしばしから伝わってくるのですが、それにしては、大事なキャラとそうでないキャラのあつかいの差(命の軽重)が露骨ですねえ。敵側にまわったスリの最期とか、花世の代わりに殺される女乞食のあっけなさとか。
そのへんは特に、吉川英治オリジナルの部分だけに、非情さが引っかかりました。その使い捨て感、もう少し、隠したほうが良くはないかなあ・・・。


No.124 4点 百年祭の殺人
マックス・アフォード
(2013/07/19 11:05登録)
オーストラリアの著名なラジオ・ドラマ作家マックス・アフォードにとって、小説執筆はあくまで余技だったのでしょうが、それでもその生涯に、6作のマイナーな長編ミステリを残しています。
うち、特に、イギリスのミステリ愛好家ロバート・エイディが労作 Locked Room Murders and Other Impossible Crimes にリストアップした最初の4作は、内外の本格ミステリ好きにとって、関心をそそられる存在でした。
バリバリの本格ミステリ・キッズにして密室フリークだった、若き日の筆者にとっても、それは然り。
なかでもオカルト趣向で面白そうな Death's Mannikins というのを頑張って入手したら(古書価、高かったです、ハイ )、なんと『魔法人形』として邦訳が出たのも、苦い、もとい懐かしい想い出です。
その後、アメリカの Ramble House がアフォード・ミステリを全作復刊してくれましたが・・・国書刊行会の『魔法人形』を読んだら、なんだか憑き物が落ちたようになってしまって(悪い作じゃないんですけどね)、しいて原書をコンプリートする気にもなれず、今日にいたります。
本書は、そのアフォードが1936年に発表した、ミステリ第1作。

傷心のドイツ人医学生が、新天地オーストラリアで奇妙な求人広告に応じ、辺境の館を訪れる謎めいたプロローグから、ストーリーは一転。
市制百周年を記念してにぎわうメルボルンの、とある高級アパート。その八階の、鍵のかかった事務室から、片耳を切り取られた判事の刺殺体が発見される。
ロンドンから赴任したリード主席警部が事件を担当することになり、百年祭にあわせてこの地を訪れていた、親友の忘れ形見にして切れ者の数学者である、ジェフリー・ブラックバーンを非公式アドバイザーに、この猟奇的な密室殺人を捜査していく。
犯行当夜、現場への出入りが目撃されていた、怪しい黒ひげの男。被害者が所持していた、新聞の切り抜きから浮上する、新たな容疑者。繰り返されるディスカッション、にもかかわらず解明の曙光が見いだせないまま、事件は次のステージへ。
刺されたうえ今度は右手を切断されて見つかったのは、さきの判事とは何のつながりも無さそうな、青果店のオヤジだったが――犯行現場はやはり密室を構成し、そこにも黒ひげの男が怪しい影を落としていた・・・

う~ん、頑張ってるはいるけど、習作だなあ、という感じ。
とりあえず、小説的な膨らみはまったくない。プロローグこそ、多少の荒涼感は出ていますが(つかみはOK)、本篇に入ると、百年祭でにぎわっているはずの、メルボルンの町の雰囲気など微塵も感じられません。完全に訳題負け(原題は、含みのある Blood on His Hands!)していますw
キャラクターも、主役クラスを含めて、平板な連中が(例外的に存在感があるのは、強引に事件に介入する女性記者くらいかな)作者の都合で、ただ駒のように動かされているだけ。

となると、あとはもう、本格ミステリとしての演出、プロットの出来だけ、ということになります。
実作者・大山誠一郎氏の解説「ロースン+クイーン」(キャッチ・コピーとしてうまいなあ。“オーストラリアのJ・D・カー”より、ずっと本質に迫っているし)は、戦略的にそこに焦点を当てた技術解剖で、マニアなら要注目の内容です。
ただ、作者の論理と探偵の論理に着目しながら、肝心の犯人の論理の検討をスルーしているのは、いただけません。どうせ真相に踏み込むなら、そこまでやらないと。

いちおう論理的に解明されたはずなのに、矛盾や説明不足が多々あって、犯人の視点から事件をうまく再構成できないのが、本書の一番の難点だと筆者は考えます。
要はこの犯人、何を考えてたんだよ、ということ。
判事殺しだけを見ても――
あの品物を凶器に選択するのは、犯行の精度を低めるだけですし、煙草の吸殻をめぐる偽装工作にも、メリットが感じられません。
密室トリックも然り。アクシデントにより、窓への誤誘導が無理になった時点で、ドアの鍵をアレする必要はまったくナシ。現場が密室になってしまったら、当然、警察はトリックを考えます。となると、犯人の用いた方法が検討される可能性は(なぜか本篇では見落とされましたが)覚悟しなければなりません。すると必然的に、容疑者が限定されます。
普通に殺せば(発見を遅らせたいなら、ドアを外から施錠して立ち去り、使った鍵はどこかへ捨てるだけでいい)、この犯人がクローズアップされることはないはずなのに、なぜわざわざ密室をつくって、自分の首を絞めるのでしょう?
その他もろもろ、犯人の異常性を“免罪符”にするのは、ズルイですよ。

さて。
第二の殺人の歪み、そしてイレギュラーな第三の殺人から解明にいたる経路は、なかなか面白く組み立てられていますし、例のプロローグが終盤にからんでくる構成も、効果をあげています。アフォードのプロット・メイカーとしての才は、充分わかるのです。
ただ、さきにも指摘した「平板な連中」を「作者の都合でただ駒のように動か」す、筆力の不足がはね返って、(血の通った)キャラでなく(記号としての)駒なら、どうあつかおうと自由自在だよな~と思えてしまうのは否めません。
次作の『魔法人形』は、そこまで粗が目立たなかった記憶がありますから、このへんはデビュー作ゆえの未熟さ、でしょうか。

こうなると、最高傑作の誉れも高い、3作目の The Dead are Blind あたりも、読んで確認しておきたいですね。
本格ミステリ・ファンの成れの果てとして、最後の一冊まで付き合いますから、是非、日本の Ramble House を目指してください、論創社さんw


No.123 5点 フェアウェルの殺人 ハメット短編全集1
ダシール・ハメット
(2013/07/05 14:53登録)
1970年代に、全四巻が予定されながら、半分で刊行が止まったまま、結局、編訳者の稲葉明雄氏の逝去(1999年没)もあって中絶した、創元推理文庫のハメット・アンソロジー。
その第一巻は、『フェアウェルの殺人』として1987年に改装版が出るまでは、長く『ハメット傑作集1』として流通しており、今回、筆者がひさしぶりに読み返したのも、そちらの旧版です。
ちなみに、カバーと扉裏には This king business & other stories の表記があります(改装版では、それが The Farewell murder & other stories に改まっているのかと思ったら・・・もとのままのようですね。じゃあ表題は『王様稼業』にしなさいよw)。

収録作は、以下の通り。すべてコンティネンタル・オプものです(初出誌は、⑦をのぞいて Black Mask)。

①フェアウェルの殺人(1930-2) ②黒づくめの女(1923-10-15) ③うろつくシャム人(1926-3) ④新任保安官(1925-9) ⑤放火罪および……(1923-10-1) ⑥夜の銃声(1924-2-1) ⑦王様稼業(Mystery Stories, 1928-1)

その昔の、初読時も感じたことですが――これは編集が良くない。
まず、巻頭に、主人公キャラのモデルについて言及した、エラリー・クイーンのエッセイ「偉大なる無名氏」が置かれているものの、当該文章の末尾に「――エラリー・クイーンの解説より――」とあるだけで、どこから採ったものか(クイーンが1945年に編んだアンソロジー The Continental Op の序文か?)その説明が無い。

また、作品の配列が発表年代順ではなく、といってそのランダムな構成(オプのデビュー作⑤を、この位置に据える意味は???)が何かの効果をあげているわけでもありません。
都会を舞台にした作品に比して、この巻には「編集のつごうで地方ものがいささか多くなったきらいがある。できれば一編ずつ別個にお読みいただいたほうが味が変ってよろしいかと思う」という「訳者あとがき」の文章も、何それ? と言う感じで、釈然としないことおびただしい。

稲葉氏は、翻訳に関しては良い仕事をしていると思いますが、残念ながらアンソロジストとしての仕事ぶりは、中途半端と言わざるを得ません。

さて。
コンティネンタル探偵社のベテラン社員「私」が、業務として、悪党を追いかけたり謎を解きほぐしたりしていく、多忙な日々の調査報告というシリーズのなかでも、とりわけ本書では、警察と(敵対するのではなく)共同で捜査にあたり、得られる情報を活用しながら一歩先んじて意外な真相にたどり着く、正統的な“謎解き型”のエピソードが目立ちます。
①②③、それに⑤⑥あたりがそうで、いっそ、路上の“密室”をあつかった「パイン街の殺人」(講談社文庫『死刑は一回でたくさん』所収)なども加えて、そういったお話だけで『ハメット傑作集1 本格推理篇』w にしてしまったほうが良かったのでは、と思うくらいです。意外と律儀に、伏線を張っていたりもしますしね。

ただ、探偵役の一人称という形式の制約から、途中、解明につながる正しい思索を展開できない(そこで正解を導くと、ラストの劇的効果があがらない)ため、解決場面でいきなり一発ネタの伏線回収になりがちで、説得力はもうひとつなんですが。
そんななか、手掛りにもとづく捜査の面白さをよく伝え、意外性と説得力のバランスで佳作となっているのが(企みのトリッキーさを重視すれば①や⑥になるでしょうが)、金持ちの娘の誘拐事件をあつかった②です。この「黒づくめの女」については、以前にも本サイトで書いたことがあります(『コンチネンタル・オプの事件簿』のレヴューを参照のこと)。

ハメットのファースト長編『赤い収穫(血の収穫)』の原型となった、ウエスタン風味の異色作④についても、すでに紹介を済ませていますから(こちらは『悪夢の街』のレヴューをご覧ください)――

最後にアレについて書きましょう。初読時は、何が面白いのか全く分からなかった⑦です。
バルカン半島の架空の国を舞台に、オプが、革命のスポンサーとなった富豪の息子(世間知らずで、革命成功のあかつきには、自分が王様になれると思っている)の身柄を守り、本国に連れ戻そうと尽力するお話。
おなじみのキャラクターを、ガラリと変わった世界に放り込む、という小説作法は④に通じるものもありますが、これはその“ファンタジー性”がきわだっています。
例外的に Mystery Stories 誌に発表された本篇について、小鷹信光氏は「Black Mask でボツにされたと思われる」(ハヤカワ・ミステリ文庫『コンチネンタル・オプの事件簿』巻末の「資料 コンチネンタル・オプ物語」より)と書かれていますが、さもありなん。およそ読者がハメットのミステリに期待するような内容ではないのですね。

再読でも、評価に困るという感想は変わりませんでした(調子に乗ったオプが美女にキスしたりしちゃ、キャラ崩壊だよ~)。
変わりませんでしたが、しかし――ラスト三行を読んで、ああいいな、と思わされてしまったw

事件の“当事者”をドラマから退場させたあとの、結びです。
「小切手はもちろん二人に渡した。かれらはライオネルの三百万ドルだけを取り、のこりの百万はムラヴィア国に返すことにきめた。私はというと、サンフランシスコに帰り、提出した経費明細書にある五ドルとか十ドルの支出を無駄づかいだといわれて、支局長(おやじ)とやりあった」

非日常的な冒険の舞台で、しかしオプは任務をこなすため、命を張ります。一歩間違えれば死んでいました。なぜそこまで? 答えはきっと、それが仕事だから――でしょうね。まことにカッコイイ。
そんな彼が、日常に帰還したとたん、五ドル、十ドルの支出をめぐって(事件で動いた何百万ドルとの対比)、上司からガミガミ責められる。まことサラリーマンはツライ。
この落差。
軽みが魅力の、後輩チャンドラーに比べると、お固いイメージが強いハメットですが、潜在的なユーモアはあなどれないな、と感じたことです。
そのへんが分るようになった、というのは、しかしこちらもトシをとった、ということなのでしょうね。


No.122 6点 壁の中 狩久全集第三巻
狩久
(2013/06/25 17:01登録)
全六巻よりなる、皆進社の<狩久全集>、そのちょうどなかばにあたる本書には、作者が昭和三十一年から三十三年にかけて、商業誌に発表した二十六の短編作品と、同人誌に寄せた一本のエッセイがまとめられています。

前者は――1.原稿魔 2.アミーバになった女 3.孤独 4.見知らぬ恋人 5.海から来た女 6.壁の中 7.赤いネクタイ 8.見えない狙撃者 9.窓から 10.写真を配る男 11.安息の果実 12.奇妙な夜 13.或る情死 14.悪魔の囁き 15.狙われた女 16.偸まれた一日 17.腕のある絨毯 18.不思議な椅子の物語 19.なまめかしい依頼者 20.脅迫記 21.完全な殺人計画 22.夜を偸む女 23.キッス・マークにご用心! 24.ぬうど・だんさあ物語 25.その女を抱け 26.吸血の部屋

後者にあたる、「活版印刷の決定まで」は、結果として、狩久が東京支部の主力メンバーとして牽引してきた『密室』誌に寄せた、彼の最後の文章になりました。
先にナンバリングした、この時期の小説作品の発表舞台に、なぜかデビュー以来の付き合いである『宝石』(業界内のステイタスは高いが、業績悪化による原稿料不払いが恒常化していた)の名前が無いことと合わせて、巻末の解説(塚田よしと)では「(・・・)経済的な事情から、稼げることが確実な媒体に専念せざるを得なくなっ」ていった、「背水の陣の狩久像」がイメージされています。

作者のプライベートに関する憶測はさておき、探偵小説の“鬼”以外にもアピールするため、狩久が従来以上にいろいろなタイプの短編を書いた――トリックを中心とした謎解きものはもちろんのこと、怪談、ファンタジー、性愛小説、コメディ・タッチの戯曲や翻訳を装ったハードボイルドなんてものまで書いた――その軌跡を一望できる巻になっていることは間違いありません。
編みかた次第では、『狩久ひとり雑誌』が出来そうな本ですw
ちなみに、本格中心にセレクトされた、論創社の『狩久探偵小説選』との重複は無し、「セックスの匂いの強い」作者の自選集『妖しい花粉』(あまとりあ社)収録作は、5、10、14、18です。

表題作は、かつて「壁の中の女」として、鮎川哲也編『怪奇探偵小説集〔続々〕』(双葉社)に採られた、病床の青年と正体不明の黒衣の女をめぐる、恋愛怪談。悪い作ではありませんが、最終節のタネアカシが必ずしも明晰ではなく、そこで文章のリズムまで乱れているような気がして、じつは筆者の評価は、もうひとつです。
オチのあるファンタジー(?)なら、恋人と喧嘩して車にはねられた女性が、彼の目前でふたつに分裂してしまう騒動記「アミーバになった女」なんかのほうが、好みなんだよなあ。

アンソロジー等には、真面目で重い“代表作”が採られがちな狩久ですが、一転、軽く遊んだときのこの人の良さは、もっと知られてよいですね。
今回、別枠でオマケとして収録された、未発表原稿による「素人ラジオ探偵局 紛くなった切手」(編者・佐々木重喜氏の「解題」によると、NHKラジオの「素人ラジオ探偵局」用に書かれた、放送台本の可能性が高いようです)などは、“日常の謎”をあつかったコミカルなパズラーで、まことに楽しい。

さて。
解説では、集中のベストとして「海から来た女」(「読者の脳裏に“真相”を焼きつける構成の妙」)、「写真を配る男」(「懐かしの江戸川乱歩を彷彿させる語りくち」)、「夜を偸む女」(「官能ミステリの佳編」)あたりが推されています。
構成と話術を重視したチョイスで、そのへん筆者も異論はありませんが、第一巻、第二巻の「落石」「摩耶子」あたりの、他を圧するような清新な傑作ぶり(ある意味、アマチュアの渾身の作)とは違って、円熟期のプロの仕事の好見本、といったところですね。

“多作”の無理が響いたか、特に後半、イタタタタ、作者大丈夫? と感じるお話が無いではありませんが、好プレーばかりではなく、そうした珍プレーも含めて、狩久ファンなら読後感を語り合って楽しめるクロニクルです。

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