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小原庄助さん
平均点: 6.64点 書評数: 260件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.240 7点 巷説百物語- 京極夏彦 2022/12/23 08:46
勧善懲悪の物語と推理小説が合体しているような作品で、しかも怪談仕立ての展開は、その種の噺が好きな人にはこたえられないだろう。
ネタになっているのは、江戸後期の竹原春泉が描いた「絵本百物語―桃山人夜話」。もちろん、これを知らなくとも十分楽しめるが、知っていればもっと作品を楽しむことが出来る。しかも手回しよく、京極夏彦たちによって図面と現代語訳が、図書刊行会から刊行されている。
江戸中期ころまで、「百物語怪談」と呼ばれる形式の説話集がたくさん刊行されていた。数人のものが集まって一晩で怪談を語り合い、それが百物語に至ると怪異が生じるという伝承があるが、この形式を借りてたくさんの怪談を集めたものである。
ところが江戸も後期に入るとそれが廃れて、逆にたくさんの種類の妖怪の絵のほうが人気を博すようになる。鳥山石燕の一連の妖怪図絵がその代表である。だが、この種の図絵はいったいいかなる妖怪なのか、どうしてそのような名がついたのかといったことが、ほとんど記されていない。そこで研究者があれこれとその素性を調べることになる。ところが京極は、こうした調査結果を読むだけでは満足せず、その絵に合うような新たな物語で彼の想像力で作り上げようという野心を抱いたのだ。つまり、妖怪絵の背後に許しがたい残虐な殺人事件を幻想し、山猫廻しのおぎんとか行者の又市、百物語の収集家の百介たちが、次々に解決するわけである。その解決方法が手が込んでいて面白い。
古い百物語が、京極夏彦という作家に出会うことで、また新たな百物語が紡ぎ出される。これからも次々に妖怪たちが蘇ってくるだろう。

No.239 7点 ゲームの王国- 小川哲 2022/12/11 08:10
物語の幕が開くのは、一九五六年のカンボジア。サラト・サルの娘が、捨て子としてプノンペン郊外に住む夫婦に引き取られる。ソリヤと名付けられた彼女は、他人の嘘を見破る能力を持っていた。一方、ロベーブレソンという農村で生まれ育った潔癖症の天才少年ムイタックは、兄と一緒に「どれだけ楽しんだか」自体を競うような遊びを考える。
ポル・ポト率いるクメール・ルージュが革命を成し遂げた一九七五年四月十七日に、ソリヤとムイタックは出会う。二人がカードゲームで対決するシーンがまず素晴らしい。彼らはその時、決められたルールのもとで互角の戦いを繰り広げる楽しさを初めて知るのだ。
やがて始まるポル・ポト独裁政権下の粛清と虐殺の嵐のなかで、ソリヤは政治以下を志し、ルールを破ることが出来ない「ゲームの王国」を創ろうとする。ある事件が原因でソリヤを殺すと決めたムイタックは、人間の脳波を研究して思い出や妄想を魔法に変えるゲームを完成させるが。
二〇二三年に二人が再会するまでの経緯をスリリングに描く。百万人が殺されたとも言われる史実をもとにしているだけに恐ろしい場面は多いが、輪ゴムを崇拝する少年や不正を勃起で探知する男が出てくるくだりはユーモアもにじむ。

No.238 7点 それまでの明日- 原尞 2022/11/19 09:27
物語は、渡辺探偵事務所の私立探偵である沢崎が、赤坂の料亭の女将の身辺調査という依頼を望月皓一と名乗る紳士から受けるところから始まる。沢崎の口調や依頼人との会話の流れが素敵だし、依頼人が語る渡辺探偵事務所を選んだ理由も印象深い。
起伏に富んだ物語の中で、作者はしっかりと関係者の人となりを描き切る。女将の凛とした接客や、彼女と縁のあった画家の才能と矜持などが沢崎の調査を通じて浮かび上がり、さらに組員の人情や紳士の狡猾さなども見えてくる。同じく人質になった縁で沢崎と行動を共にする青年の造形も絶妙。
人間関係を巧みに編み上げた事件の真相を堪能。最後の最後には、超ド級の衝撃も襲ってくる。

No.237 7点 牧神の影- ヘレン・マクロイ 2022/10/29 10:32
ギリシャ古典文学者のフェリックス・マルホランドが自室で急死した。その義理の姪で秘書であるアリスンは、翌朝、陸軍情報部のアームストロング大佐の訪問を受け、フェリックスが開発していたという戦地用暗号の所在について訊ねられたが、アリスンには心当たりがない。やがて、人里離れた山中のコテージで暮らし始めた彼女を脅かすように不気味な出来事が続発し、とうとう殺人事件まで起きる。フェリックスが遺した暗号を狙う者の仕業なのだろうか。
暗号の素人であり数学が苦手なアリスンが、数学的な解法とは別の角度から暗号の解き方に迫ってゆくプロセスが本書の大きな読みどころだが、一方で、アリスンがコテージに移住してからのサスペンスの演出も素晴らしい。静寂の中、落ち葉を踏みながら歩いてくる何者かの足音と衣擦れの音。人間のものとは思えない奇妙な足跡。コテージのかつての住人に関する不吉な噂。「夫人」を名乗っていながら女装した男にしか見えない隣人。誰もいないのに揺れるロッキングチェア。月明かりの中で山羊のように跳ねながら歩く異様な影と、アリスンを脅かす数々の現象は、恐怖が霧のように濃くなってゆく過程がマクロイならではの繊細な筆致で綴られていて圧巻である。本書の暗号はいくらなんでも難解すぎてお手上げでも、このサスペンスの演出は堪能できた。

No.236 6点 私の消滅- 中村文則 2022/10/18 07:31
記憶は、個人の同一性と結びつく。それなら、記憶が操作され実際とは異なる記憶がはめ込まれたら、人は別人格を生きることになるのか。本書は、悪意と暴力、記憶と人格が描出する見えない線への挑戦だ。
サスペンス的な展開の中、精神分析や洗脳の歴史が盛り込まれる。日本社会で現実に起きた連続幼女殺害事件の犯人の心理が分析される。記憶と人格と人生が入り乱れて「私」とは誰か、という問いと謎を読者に突きつける。
吉見という精神分析医は、興味本位の悪意で人の心理を捜査する。悪の側面だけを過度に強調した、性格を描いて平面的にならないのは、幾重にも錯綜する要素によって、周到な手際でストーリーが構成されているからだ。悪意の連鎖と復讐劇が繰り広げられている。
これまでも作者は、さまざまな悪意、心の闇を作品化してきた。言葉によって形にすることで、始めて対峙でき、時には乗り越えられるというように。今生まれるべくして生まれた緊張感ある作品だ。

No.235 8点 昆虫図- 久生十蘭 2022/07/14 09:11
表題作の「昆虫図」は短い掌編で、殺した妻を床下に隠し、虫たちが腐臭に群がっても住み続ける男の話。「母子像」では美しすぎる母に恋する少年が戦時中、サイパンの洞窟で餓死よりは心中を選ぶほかの家族たちを見て、すすんで母に絞殺されようとする。「昆虫図」も「母子像」も様式を極めた結構の少し先に、引用のような異常な文が現れる。それは何かに魅せられた者の放心状態。
「予言」の安部は精神病学者の石黒に怨まれ、強力な暗示に錯乱してピストルで己を撃つ。その暗示世界に没入する瞬間、演奏会でありえないものを視る。この無音・無意味の恐ろしさは引用のほかには伝達のしようがない。これを十蘭が書き得たこと、そこにはわずかな偶然性と同時に、ものすごい振り幅の跳躍が介在している。
本書の白眉「ハムレット」は、ハムレットを演じ時空を超えてエリザベス朝を生きる役者と周囲の愛憎劇自体が戯曲ハムレットの批評になりえている。頭で書ける描写ではない。偶然も通じない。十蘭の特異な遍歴の見聞全てを自家の薬籠に入れる以外、現代人に決して書けない。

No.234 9点 ドグラ・マグラ- 夢野久作 2022/07/14 08:57
この作品には確定不能の解釈が無数にはらまれている。騙りてである記憶喪失の青年が、椅子に終始座らされ、二人の教授から事件について延々語られ、記録書を読まされ続ける。
この語り手が通常の語り手と大きく異なるのは、彼が作者とも読者とも目される甚だ奇異な位相を与えられているからだ。彼の錯乱は本書をやはり何百ページも語られ続けた読者の錯乱をも誘発する。
本書には無声映画、活動写真の影響が見て取れる。作品が読者本意で読まれる書物と異なり、映写機都合で作品を観せる映画という趣向には、夢野の好んだ見世物小屋の座長的権限が付与され、作中、木魚片手に七八七八の節回しで読まされる読者泣かせの阿保陀羅経もまさに映画的強権といえる。

No.233 6点 熔果- 黒川博行 2022/07/03 07:32
警察を懲戒免職になった後、競売屋の調査員として働く伊達が、堀内に一緒に仕事をしようと持ち掛ける場面で始める。フットワークが軽くコミュニケーション能力も高い伊達と、過去に負った傷がもとでステッキがないと歩くこともままならず孤独な堀内。二人は占有屋を立ち退かせるため、ある落札物件に向かう。そして福岡で起こった金塊強奪事件とのかかわりを嗅ぎ取り、消えた五億円の金塊の行方を追う。
「熔果」の熔は、鉱石や金属が溶けることを意味する。「果」は因果の果。溶かして鋳直することが可能な金塊をめぐるクライム・サスペンスにぴったりの題名だ。金以外の何かが溶けていることも象徴しているだろう。
例えば、事件の背後にいる「半グレ」と呼ばれる犯罪集団。群れながらも無秩序に、手段を選ばず金を稼ぐ。半グレのリーダーを探して日本各地を走り回る堀内と伊達もまた、刑事の本質を持ったまま裏社会に溶け込んで、違うものに変化した男たちだ。堀内と伊達が悪党を狩る動機に、金欲しさだけでは説明できない情熱が感じられるからこそ、本書は魅力的なのである。

No.232 7点 真・慶安太平記- 真保裕一 2022/06/28 09:29
慶安四年に、兵法者の由井正雪が起こそうとした幕府転覆計画、いわゆる「慶安の変」を題材にしている。しかし主人公は正雪ではなく、徳川二代将軍秀忠の落とし種で、高遠藩主、山形藩主を経て、会津藩の初代藩主十なった保科正之だ。
「知恵伊豆」の異名を持つ老中の松平信綱は、まだ正之が若い頃から、彼を警戒していた。徳川家に、いらぬ騒動を招かぬためである。秀忠の三男である松平忠長を自害に追い込むなど、権謀の限りを尽くして徳川家に邪魔な存在を排除していく信綱。その牙は正之にも向けられる。そして長年にわたる暗闇は、慶安の変が発覚したときに、クライマックスを迎えた。
読み進めるうちに、複雑な生い立ちに負けることなく、誠実に生きていく正之の人生に魅了された。信綱の仕掛けた陥穽をかわしていく、正之の成長が頼もしい。
そして物語の後半になると、正雪の驚くべき正体が明らかになる。これには仰天した。しかも前半のエピソードが伏線になっているではないか。本書は優れた歴史小説であると同時に、ミステリのサプライズも味わえるのだ。いかにも作者らしい、斬新な慶安の変を堪能した。

No.231 8点 刑罰- フェルディナント・フォン・シーラッハ 2022/05/13 08:04
「犯罪」や「罪悪」には、エンターテインメント的なプロットで読ませる作品もあったが、人間の業を深く見据えて象徴性を高める純文学的な作品が目立った。
本書では、その象徴性がより強くなり人間の名前などは削ぎ落とされ、文体はいっそう簡潔になり、抽象化されている。それでいて細部の手触りは生々しく緊密で、息を詰めて読んでしまう。ねじれたユーモアで運命の残酷さをえぐられる。それは皮肉な運命に対する理解と同情が、ある種の救済として示されるからでもあるだろう。
ともかくここには、名人芸と呼びたくなるほどの鮮やかな語りと、心が震えるほどの深遠で複雑な人生の姿がある。まさに必読の傑作だろう。

No.230 5点 夜の底は柔らかな幻- 恩田陸 2022/04/13 08:12
舞台設定が極めて高密度。イロと呼ばれる超能力を持つ「在色者」が社会に溶け込み暮らす世界で、特に在色者が多い特異点、途鎖国。周囲に伊予などの地点がありモデルは明らか。現実とは違い独立国だ。
主なる語り手である女性捜査官・有元実邦は、数々のテロ事件を引き起こした強力な在色者を山中に追う。そこでは、山の王の地位をめぐり問答無用の殺し合いが繰り広げられていた。
周到な世界観と鮮やかな描写を堪能できる。森の清浄な香りから蠅が飛び回る悪臭・異臭まで。おのずと眼所に立ち上がる光景。強力な在色者が生き物を空中に吊り上げ一瞬で球状に丸めてしまうグロテスクなシーンすら、作品世界の理のなかで活きている。
明確な着地点を与えないのは恩田流。物語が決着した後も、宙ぶらりんの読者は、この特異な世界を彷徨うことになる。

No.229 6点 蝶の眠る場所- 水野梓 2022/03/19 07:27
物語は、日曜日の夕方から始まる。小学校の校舎屋上から少年が転落死した。テレビ局の社会部に勤める榊美貴は、デスクから連絡を受け、地元の警察署へ急行した。やがて警察は、少年の死亡は事故によるものと発表したが、美貴は自殺の線を捨てきれなかった。
ヒロインの美貴は、まだ幼い一人息子を育てながら働くシングルマザー。左遷同様の異動を命じられるが、それでも少年の悲劇と過去の事件との繋がり、三世代にわたる家族の秘密など、真相を求め取材を重ねていく。
事件の奥に別の事件が潜み、さらにその関係者の間にも隠された秘密があると言った展開で、いったいどのような場所に着地するのか、最後まで予断を許さない。
著者もまたテレビ局でドキュメンタリー番組の制作に関わり、報道番組のキャスターを務めているという。その体験がヒロインの描写や言動をリアリティーを与えているのだろう。事件をめぐる警察や関係者への聴き取り、DNA鑑定や証言にまつわる再調査の過程など、ひとつひとつのエピソードを丁寧に書き込んでいる。
もっともデビュー作だけに力が入りすぎたのか、いささか題材を詰め込みすぎの上、手垢の付いた類型的な部分も目立つ。だが、これだけ複雑に絡み合った事件をまとめ上げた構成力は瞠目すべきものだ。なにより、不幸な境遇に落ちた人たちの心情はもちろん、そんな状況へ追いやった側の胸の内をさまざまな形で描き出しているところがいい。冤罪というテーマを中心にじっくりと読ませる。

No.228 7点 ヒトコブラクダ層ぜっと- 万城目学 2022/01/29 09:56
舞台はオリンピックを終えた東京。新型コロナウイルスの影がないことに一瞬戸惑うが、のっけから人を食ったような万城目節が冴え、虚構の世界が立ち上がる。三つ子の榎土3兄弟の夢と汗、困惑と闘いに満ちた冒険行の始まりだ。みみっちいけど壮大で、難しげな発言をポンと置いてみたりする。筆遣いがちょうどいいあんばいで、気持ちよく振り回される。
3兄弟は両親が隕石の犠牲になった後、長男・梵天の号令一下、結束固く生きてきた。ただ彼らには特殊能力があった。梵天は壁の向こうを透視でき、次男・梵地はあらゆる外国語が分かる。三男・梵人は未来を予知する。しかしいずれの能力にも制約がある。そしてそれぞれ大事に抱いている夢があった。
そんな彼らが梵天の夢をかなえるため、宝石泥棒を働いたことから事態は急展開する。得体の知れない人物に脅かされ、なぜか3人そろって自衛隊の訓練生活に放り込まれる。訓練を終えるやPKOの一員としてイラクに派遣され、呆然としている間になぜか古代メソポタミアに迷い込む。
アメリカ海兵隊、自衛隊広報、古代の神も絡んで怒涛の活劇になだれ込んでいく。手に汗握る展開なのに、どこか悠揚たる筆致がにじみ出て、そこはかとないおかしみを醸し出す。
細かい仕掛けも巧みで、最後には驚きの真相も待っている。それにしても、万城目のようなアイデアと想像力勝負の小説を書き続けるのは、非常に難しいことなのだ。その領域で、過去の自分を超えようと挑戦する姿勢は称賛に値する。

No.227 7点 営繕かるかや怪異譚- 小野不由美 2021/12/28 07:33
この連作短編集の主役は「家」である。全六編、いずれの物語でも、それぞれの住まいの中で、或いはそのすぐそばで、ふと妙な出来事が起こり始める。そこを住まいとする者たちは、最初は気にしないようにするのだが、出来事は次第にエスカレートしてゆき、ある時を境に、紛れもない怪異としての姿を露にする。祟りではなく障り。何かが、誰かが障っているのだ。そこに営繕屋が登場する。尾端というまだ若い男で、名刺には「営繕かるかや」とある。つまり彼は家を修繕・改築するのが仕事だ。だが尾端には不思議な評判がある。彼は住まいに手を入れることで、障りを直すことが出来る。かといって彼は霊媒師ではない。障っている誰かの想いを推し量り、そこに宿る無念や悲哀を慮って、営繕によって解放してあげるのだ。
冒頭の「奥底より」では、亡くなった叔母から相続した町屋に独り住まいの女性が、奥庭に面した狭い廊下の向こう、開かずの間と化した奥座敷の襖が、閉めた筈なのに開いていることに気付く。何度閉めてもいつの間にか開いている。そして或る日、そこから女が出てくる。怪異がぬうと顔を出す瞬間の切れ味は、この作家ならではである。だが、かるかやの処置は、あくまでも家に、住まいに対するものであり、従ってこの種のお話にありがちな理屈抜きの神秘性とは一線を画している。尾端は文字通り、住まいを直すだけなのだ。それぞれの主役である家の構造や設計は、緻密かつ明晰に書かれている。かるかやが施す営繕も極めて具体的だ。この趣向が本書に凡百の怪談、心霊、ホラー小説とは全く異なる新しさを与えている。いわばこれは一種の建築小説である。しかしそこでは同時に、人の心も建築として、住まいとして扱われている。

No.226 5点 ヒストリア- 池上永一 2021/12/18 08:21
物語は、ヒロインの知花煉が、一九四五年三月の米軍の沖縄上陸作戦に逃げ惑う場面から始まる。空襲の爆撃の衝撃で彼女はマブイ(魂)を喪失した。普通なら肉体を失って霊会に行くはずが、どういうわけか肉体は存続した。マブイは爆風で地球の反対のボリビアまで飛ばされた。こうして知花煉は二人になり「私」と「わたし」の物語が並行していく。
肉体とマブイの分離した戦いで、「私」と「わたし」がぶつかり乗っ取りをはかる。同時にその戦いは、当時の米国とソ連の冷戦構造を背景とし、核ミサイルの強奪、キューバ危機の到来、ナチスの亡霊たちの暗躍、ゲバラとの愛などスケールの大きな物語へと発展していく。
冷戦時代の裏面史という側面もあるが、いささか偶然を多用したご都合主義も目立つ。ありえないくらいに歴史上の人物たちが簡単に登場し交錯するからだが、でもそもそも肉体と魂の相克という物語自体がリアリズムから遠く、それでいて想像力の飛翔は極めて伸びやかであるがゆえ、世界史を戯画的に捉えた手法として愉快な気分にも駆られる。
だが、作者が見据えているのは終わりなき戦争であり、アメリカ軍に蹂躙されている沖縄の現状だ。肉体と魂に分離した一人の女性の激動の時代に生きた波乱万丈の歴史がもう一度、終盤で沖縄に焦点があわさる。人間にとって魂の還る場所とは何かが鋭く問われるのである。最後はやや政治的主張が強いきらいもあるが、読み応えたっぷりだ。

No.225 7点 灰の劇場- 恩田陸 2021/10/27 18:52
映画の予告編で頻繁に目にする「事実に基づく物語」というキャッチフレーズ。この作品は「事実に基づく」とはどういうことかを問う小説だ。1994年に45歳と44歳の女性が橋から川に飛び降りて自殺した事件を題材にしている。2人は大学の同級生で一緒に暮らしていた。何があったのか。
作者本人を彷彿とさせる小説家の「私」は、デビューしたてのころ、新聞の三面記事でこの事件を知り、いつか書かなければいけないと思っている。しかし既存の「事実に基づく物語」にありがちなように、2人の生い立ちを詳しく調べたりはしない。「誰かが死を選んだ理由など、時を隔てた縁もゆかりもない人間に理解できるはずがないではないか」という結論を早々に出す。
小説は事件そのものではなく、「私」の中におよそ20年もこの2人のことが「棘」として刺さり続けているという「事実」に基づいて書かれているのだ。「私」は「なぜその棘が刺さったのか、どこで刺さったのか」を考えていく。死者のプライバシーに極力立ち入らず、自分の心の謎を探るという斬新なモデル小説になっている。
構成もユニークだ。「私」が小説の制作過程を実況中継する「0」、MとTという仮名の女性を主人公にした作中作「1」、「1」の舞台化をめぐる人間模様を描く「(1)」の三つのパートに分かれている。灰色がかった海を見下ろす能楽堂、「灰の劇場」を想起させる場所で、「私」がMとTの声を聴く場面は恐ろしい。書く「私」と書かれる2人、虚実の境界が溶けあい、他人の人生について想像することの暴力性を突き付けられるからだ。
それでも「私」は書く。MとTが死んだ理由を創造する。終盤に描かれるのは「日常」という「未知の絶望」との遭遇だ。その静かで明るい絶望は、老いを意識し始めた世代にはとりわけ切実に感じられるだろう。

No.224 5点 ミステリ・ベスト201- 事典・ガイド 2021/08/07 09:16
内容はタイトルに示されているように、201作の海外ミステリを紹介するというものだが、あちこちで紹介され尽くしたような古典的名作を並べるのではなく、八十年代以降に翻訳された作品だけを扱っているのが特徴となっている。年代を制限したために比較的マイナーな作品を掲載することが出来たという点、あるいは各執筆者の趣味がそのままに反映されているという点に関しては、この方法は成功していると言えそうである。評価基準として総合評価のほかに、「面白さ」「味わい」「格調」「人物」「その他」について五段階評価をしているのも面白い。
ただし気になる点がないわけではない。現代のミステリは驚くほど多様であるためにジャンル分けしないという発想は理解できるのだが、厳密な意味でのジャンル分けが困難であることは認めるにしても、便宜的な意味でのレッテルがなくしてしまえるほどに無意味なものだとは思えない。これはある意味では読者の拠りどころを奪い取るような行為であり、紹介本という形をとっているわりには、比較的読者に苦労を強いるような作りになっているともいえるのである。
執筆者の作品に対するこだわりや愛着の深さはコメントに凝集されており、その理解と深さは行間からひしひしと感じ取れるのだが、そのために紹介本としては言葉足らずになっている部分も目につく。

No.223 6点 別の人- カン・ファギル 2021/07/17 10:23
いわゆるデートDV、親密な関係の相手からの暴力行為を発端に、ひとりの女性が過去と向き合う物語。
有能な上司で、みんなの憧れの存在であるイ・ジンソプと交際したジナは、当初殴られても彼の怒りを誘発したのは自分だという認知の歪みに陥る。しかし暴力はやまず警察へ。罰金のあまりの安さに、告発を決意する。
だが真の地獄はここからだった。インターネット上に現れたのはジナへの誹謗中傷と、野次馬の好奇の目。プライバシーと過去が暴露されていく。
本書は、二次被害のむごさと同時に、ジナの多面性もとらえる。彼女はある書き込みにより、自らの故郷、そして大学での記憶に再度直面することになるのだ。
死んだ同級生、堕胎した友達、片想いの先輩をものにした恋のライバル、短期間だけの恋人。ジナ自身、決して清廉潔白ではない。
複雑な人間関係は、加害と被害をときに反転させる。力の不均衡に屈した経験が、人生にどんな影響を及ぼすのか、本書は描き出す。シリアスな出来事の連続で、思わずページを閉じたくなるほどだが、これは誰の身にも起こりうることの警告の書でもあるのだ。読後感は温かく、救いがある。

No.222 8点 独逸怪奇小説集成- アンソロジー(国内編集者) 2021/03/18 10:00
今でこそ翻訳物のホラーというと、キングやクーンツら人気作家を擁する米国が本場のように思われているが、戦前の日本では、米国のポオと独逸(ドイツ)のホフマンが怪奇幻想物の双璧と目されていた。
また、本書に収められているシュトローブルの「刺客」は、森鴎外の名著「諸国物語」に訳載され大正期から親しまれてきた名作だし、やはり本書所収の「蜘蛛」をはじめとするエーヴェルスの諸作は、モダニズムと探偵趣味の雑誌「新青年」に訳載され好評を博した。独逸表現主義映画に傾倒していた谷崎潤一郎は、エーヴェル原作の「プラーグの大学生」を最愛の一本に挙げ、江戸川乱歩は「蜘蛛」を改作して「目羅博士の不思議な犯罪」を執筆している。
独逸怪奇文学紹介の先覚者、前川道介が渉猟の折節、慈しむように翻訳した有名無名作家の珠玉作二十八編を収める本書は、日本探偵小説の一源流であり、夢幻の美と魂の戦慄に満ちた、ゲルマンの怪奇世界再発見に最適の一巻である。

No.221 6点 透明性- マルク・デュガン 2021/02/25 08:40
時は2060年代。地球温暖化により多くの人間はバーチャル空間で暮らし、北欧に移住した。グーグルなどの巨大デジタル企業が人類の全ての情報を可視化し、健康状態、遺伝子、思想傾向、性的嗜好までを掌握する。アルゴリズム分析によりマッチング率の高い相手との結婚が提案され、離婚率は低下。データは抜き取られるかわりにベーシックインカムで収入が担保され、貧困問題もほぼ解決だ。
一見平穏ながらこれは「操られているという意識なく操られる」専制デモクラシー下での、自由と個性を奪われた生活である。女性主人公は自家用車の自動運転装置を外してハンドルを握りスリルを味わうが、この行為も違法。事故にあう自由すら許されない。
物語は、グーグルを出し抜き、主人公の小企業が不老不死のシステムを構築して全世界の度肝を抜く。魂のありようで死後の復活が可能となるそれは、彼女を神と仰ぐ、新しい宗教となるのか?
「かつて誰も私ほど他人の生死を左右する権利を持った者はいない」高度な情報社会を皮肉り、人類の強欲を戒め、利他を問い直す本書のテーマは今日的だ。地球による人類への報復という展開も、真実味がある。次世紀に何を残せるのか、本書を通して考えてみるのも面白い。

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小原庄助さん
ひとこと
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで~で有名?な架空の人物「小原庄助」です。よろしくお願いいたします。
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平均点: 6.64点   採点数: 260件
採点の多い作家(TOP10)
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