Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.73点 | 書評数:1631件 |
No.1391 | 7点 | オンブレ エルモア・レナード |
(2018/05/14 22:31登録) 2008年に『ホット・キッド』と『キルショット』の文庫化以来、翻訳が途絶え、2013年に逝去したレナードの作品はもう訳出されることはないだろうと諦めていた。だからまさに青天の霹靂だった。10年ぶりに未訳作品が刊行される、しかも訳者は村上春樹氏!何がどうしてこんな奇跡が起こるのかと不思議でしょうがなかったが、兎にも角にもそれは実現した。 しかも村上春樹氏が数あるレナード作品から選んだのは既出の作品の新訳版でもなく、はたまたレナードがベストセラー作家となった以後の作品でもなく、彼がまだデビュー間もない頃に書いていたウェスタン小説というのもまた驚きだ。特にこの手の作品はレナードが犯罪小説の大家として名を成していたために初期の作品については決して訳されないだろうと思っていただけに、三重の驚きだった。 そんな本書『オンブレ』には中編の表題作と短編の「三時十分発ユマ行き」の2編が収められている。 表題作は白人とメキシコ人の混血で、3年間アパッチと共に暮らした“オンブレ”の異名を持つジョン・ラッセルの物語。 このジョン・ラッセル、まだ21歳ながら、蛮族として白人連中に忌み嫌われていたアパッチと3年間共に生活をしていた経験から、白人たちとは異なった価値観、考え方を持つ。人の命を優先しがちな白人たちと違い、彼は常に自分の命を優先して物事に当たる。というよりも最大限に仲間の命が助かる道を選ぶ。従って1人のために皆に危機が訪れることは選択しない。それが時には非情に映るようになる。 つまり彼は無法の地で生きていくために身に着けることになった考え方、そしてアパッチたちとの生活で培ったサヴァイバル術を実践し、自分の考えに従って行動しているだけなのだ。 その一方でアパッチに対する敬意も深く、野蛮だ、忌まわしいと一方的に忌み嫌う人々には容赦ない眼差しを向ける。 彼は決して気高い男ではない。但し常に冷静な頭で考え、行動する。そうやって生きてきた男だ。作中こんな言葉が出てくる。 “ラッセルは何があろうと常にラッセルなのだ” これほど彼を的確に表現している言葉もないだろう。誰にも干渉されず、従わない。しかしなぜか皆が頼りにしてしまう男、オンブレがジョン・ラッセルなのだ。 そんな人の心の弱さを見せつけられる中、一人正論を吐き、常に気高くあろうとするマクラレン嬢の存在はある意味、本書における良心だ。アパッチに襲われ、1カ月以上行動を共にした17、8歳の女性は、恐らくはその地獄のような生活で凌辱の日々を過ごしながらも道徳心を保ち、そしてそれに従って生きようとする。 しかしこの荒野や悪党どもとの戦いの中ではそれらが実に偽善的で自己満足に過ぎない戯言のように響く。正しいことをすることで被る犠牲や危機がある、それがこの無法の地であることをこの正しき女性マクラレン嬢を通じて我々読者は痛感するのである。 そして正しきことをすることで訪れるのは哀しい結末だ。それが西部開拓時代のアメリカの姿なのである。 もう1編の短編「三時十分発ユマ行き」は3時10分に訪れる列車に乗せる囚人を預かった保安官が孤軍奮闘して囚人を救出しようと町に訪れる彼の仲間たちの襲撃を退け、無事列車に乗せるまでの顛末を語った物語だ。 保安官補スキャレンもまた西部の男の1人。彼は任務のため、仕事のために命を張る。その頭に過ぎるのは3人の子供と女房。家族のことを思いながら家族のために命を賭ける。死ねば何も意味はなくなることは解っていながら、そう簡単に割り切れない。なぜならそれを彼が求められたからだ。そんな不器用さが滲み出てて実に好感が持てる。 この2編を読んで思わず出たのは「男だねぇ」の一言である。 チャンドラーに続き、これが村上氏によるレナード作品訳出の足掛かりとなって今後もコンスタントに氏の訳で出版されることを望みたい。私はそれにずっと付いていくとここに宣言しておこう。 |
No.1390 | 7点 | チェイシング・リリー マイクル・コナリー |
(2018/05/12 00:05登録) まず驚くのがコナリー作品とは思えぬほど、全体的に輕みがあることだ。それは本書の主人公ヘンリー・ピアスはこれまでのコナリー作品では考えられないほど、浅薄で未成熟な人物として映ることに起因していると思われる。 技術オタクの若造が社会不適合者ぶりを発揮して自己中心的に振る舞い、周囲の目に気付かずに狼狽する様子がアクセントとして織り込まれ、ユーモアを醸し出しているため、私はてっきり彼が追っているリリーも元締めによってどこかで消されたと思わせつつ、物語の最終で元気な姿で登場し、そしてこのサエナイ君と最後は恋人となる予感をはらませてハッピーエンドを迎えると云うお気楽ミステリのように考えていたが、やはりコナリー、そんな非現実的なロマンティック・コメディを一蹴する。 さてコナリー作品にはハリー・ボッシュシリーズを軸にしたいわゆるボッシュ・サーガが繰り広げられるが、ノンシリーズである本書も例外でなく、まずリリー殺害の容疑を掛けられた主人公のヘンリー・ピアスが紹介される弁護士はジャニス・ラングワイザーである。彼女は『エンジェル・フライト』でボッシュと組んだ後、『夜より深き闇』でボッシュが手掛けた事件の次席検事補として登場し、華々しい活躍を見せ、読者に強い印象を残した人物。その後彼女は検事を辞め、刑事弁護士に転職したことが判明。 しかしシリーズのリンクはそれだけでなく、もっと驚くのピアスがなんとドールメイカー事件と関わりがあったことが判明することだ。彼の姉イザベル・ピアスはドールメイカー事件の被害者だったのだ。 ボッシュシリーズ第1作目から尾を引き、そして第3作目の『ブラック・ハート』でケリが着いた事件だったが、実は被害者の関係者ではまだ事件が終っていないことを本書では示唆している。ピアスの中では姉の死はいまだに尾を引き、父親に頼まれて失踪した姉が無残な姿で見つかったことが、今回のリリー失踪に対してもただ同じ電話番号を持っているというだけの繋がりで放っておけなくなり、そして彼女の無事な姿を確認するまで捜索を続ける動機付けとなっている。 このことから本書は実はボッシュが関わる事件の被害者家族の1人にスポットを当てた作品であり、その他大勢として片付けられる人物にも一つの人生があり、そしてその人の死によって人生を変えられた人がいることを1つの作品として描く。やはりこれは9・11の同時多発テロで多くの尊い命が奪われたことに対する、コナリーなりの追悼の書と云えるだろう。大量死の中に埋もれた人々に名を与え、そしてその人の人生と遺族の人生を語ることを強く意識していると思われる。 そして一連の事件の真相が明かされると私はある古典名作を想起した。 チャンドラーを敬愛し、その影響を包み隠さず自作に反映し、そしてロス・マクドナルドばりのアクロバティックなサプライズを物語に取り込む、まさに現代ハードボイルド小説の雄コナリーが本書で挑んだのはある名作の変奏曲。 意外にもこれについては色んな人の感想を読んだが言及されてなく、不思議に思った。このことに気付いたのがもし私だけならば一度コナリーにその真偽について聞いてみたいものだ。 本書を最後にノンシリーズは書かれていない。いわばボッシュシリーズを幕を下ろそうとして新たな作風を模索していた頃の作品だ。この後リンカーン弁護士シリーズという新たな地平を見出し、ボッシュシリーズと並行して書いていく。本書はコナリーがそこに至るまで暗中模索、試行錯誤しながら著した非常に珍しい作品だ。現代ハードボイルド小説の第一人者として名高いコナリーもそんな時期があったことを示す貴重な作品としてファンなら読むべきであろう。 |
No.1389 | 10点 | このミステリーがすごい!2018年版 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2018/05/08 23:59登録) 30冊目のメモリアルに相応しく、本書は質・量ともに近年にないほど充実していた。 まず驚くのはなんと第1冊目の誕生号がまるまる1冊収録されていることだ。もうこれだけで『このミス』1冊読んだのと同じくらいの気分になれた。 新本格勃興期の綾辻行人氏を筆頭に第1次新本格作家たちが出てき出した頃の新本格ブームの中、船戸与一氏の南米三部作の掉尾を飾る『伝説なき地』と原尞氏のデビュー作でハードボイルドの傑作『そして夜は甦る』が1,2位を抑えるという冒険小説、ハードボイルド小説、本格ミステリそれぞれが勢いを増し、切磋琢磨していた時代の凄さが紙面に溢れている。 海外も同じでトレヴェニアンの叙情豊かな警察小説『夢果つる街』が1位となれば、2位はリーガル・サスペンスの傑作トゥローの『推定無罪』が、そして3位はイギリス本格ミステリの重鎮P・D・ジェイムズの『死の味』が鎮座ましますとこれまた物凄いランキングである。 また投稿者のコメントもミステリ愛が深く、正直最近の『このミス』以上に読み応えがあり、紹介されている作品に食指が伸びて伸びて仕方がないほどの魅力と魔力を持っている。 更にはパソコン通信のミステリを話題にした「会議室」の紹介もあったりと時代を感じさせながらも、当時も昔もミステリに対する愛好者の愛の強さは変わらないのだと感じさせられた。いやどちらかと云えば、古くから古典ミステリに親しみ、云わばミステリの系譜を連綿と受け継いできた当時の読者諸氏の方が、それら名作を読まずに新本格以後からの作品しか読んでいない人が多い昨今のミステリファンよりも愛情は深く、そして広範な知識に裏付けされた遊び心があるように感じた。 しかし本編も今年は負けず劣らず、非常に注目が高いランキングとなった。 まず驚くのは今村昌弘氏の『屍人荘の殺人』が堂々1位を獲得したことだ。新人でしかも本格ミステリ作品での1位である。今までにない快挙だ。2位は伊坂氏の復活を告げる『ホワイトラビット』。自身デビュー30冊目の記念碑的作品らしい。3位はもはや常連と化した月村了衛氏の『機龍警察』シリーズの『機龍警察 狼眼殺手』、そして4位がこれまた本格ミステリ、貴志祐介氏の『ミステリークロック』、5位も本格ミステリ出身の古処誠二氏の『いくさの底』と、本格ミステリが中心の中、一人怪気炎を吐く月村氏の『機龍警察』シリーズが食い込み、誕生号とは対照的なランキングとなって興味深い。 海外編ではやはり『フロスト警部』シリーズ最終作『フロスト始末』が1位と有終の美を飾った。このシリーズ、過去の『このミス』でも上位5位圏内にランクインしている高品質ミステリ。いつか必ず読みたいシリーズだ。 しかし海外ランキングはこれ以外では波乱含みのランキングとなった。新進気鋭のケイト・モートンの『湖畔荘』は下馬評の評判通り4位という好位置につけたが、それ以外ではボストン・テランの『その犬の歩むところ』が8位、マーク・グリーニーは13位、アーナルデュル・インダリダソンが15位、ヘレン・マクロイが16位、ジェフリー・ディーヴァーが17位と下位圏内にひしめく状況で、上位は本邦初訳、もしくは2作目訳出の作品がランキングを席巻する状況となった。 特に驚きなのは第2位を射止めた陳浩基氏の『13・67』である。中国ミステリが初ランクインでしかも2位という快挙だ。それ以外にもオーストラリア、フランス、アイスランドと多国籍化が進み、以前の英米主流からますますグローバル化へ拍車がかかった。いやあ、今回のランキングは本当に海外ミステリの大転換期であると大いに感じた。その中で古参の『フロスト警部』シリーズが1位を獲得した意義は実に大きい。 また今回は以前のスタイルに戻ったことが大きい。ランキング結果が最初に出され、その後にランキング本の解説がなされている。やはりこの方が読みやすい。 更には座談会が充実しており、実に読みごたえがあった。宮部氏×綾辻氏(しかし綾辻氏は老けたなぁ)、恩田陸氏×宮内悠介氏、新鋭作家大座談会と、それぞれの時代のそれぞれの読書遍歴、作風スタイル、交流などが垣間見れて非常に興味深かった。特に新鋭作家の皆さんは若いだけあってSNSを非常に活発に活用されているのが印象に残った。 コラムも充実しており、これぞ『このミス』といった納得の内容だった。30冊目という記念だからの充実ぶりだとしたら、それは哀しい。やはりその年一年のミステリシーンを概観し、総括するムックならばこれだけやって当然なのだ。 今回の『このミス』はどんどん読み進みたいのに読み終わりたくなくなるほどの面白さだった。迷わず10点を献上しよう。毎年『このミス』はこうであってほしい。『このミス』と出逢ってミステリ読者となった一読者の心の底からのお願いである。 今年もいいミステリが生まれ、そして年末に更に面白い『このミス』と出逢えることを祈りつつ。30周年記念号、大いに期待してます! |
No.1388 | 7点 | リヴィエラを撃て 高村薫 |
(2018/05/06 21:13登録) 物語の冒頭、日本の汐留インターで転がっていたIRAのテロリスト、ジャック・モーガンの死体、その事件前に見つかった東洋人女性の射殺体と、その直前に警察に入った女性の声でジャック・モーガンが捕まり、リヴィエラに殺されるとの一報から警視庁外事一課、手島修三がこの事件を捜査が始まる。 しかし物語はそこから様々な国の諜報機関が追う謎の人物リヴィエラの捜査に向かうのではなく、手島がかつてイギリス大使館時代にリヴィエラを通じて知り合ったスコットランド・ヤード副総監のジョージ・F・モナガンの手紙を辿るように、このIRAのテロリスト、ジャック・モーガンの生い立ちへと飛ぶ。 物語の中心は《リヴィエラ》という白髪の東洋人とだけが判明している謎の人物である。しかしこの謎の人物は姿を見せず、この殺害されたジャック・モーガンの、死に至るまでがメインに語られる。つまり彼の死から始まるこの物語は詰まるところ、主人公の死から始まる物語と云っていいだろう。東京の高速で見つかった異国人の波乱万丈の人生に昔彼に関わった男がその過去へと踏み込んでいく。《リヴィエラ》という名を手掛かりにして。 複雑に絡み合った人物相関。それらは最初には明かされず、上に書いたようにジャック・モーガンの生い立ちに沿って現れてくる数々の登場人物がジャックに語ることで次第に明らかになってくる。 髙村氏の描く諜報の世界で生きる者たちは物語当初は第三者の目を持って物事を見つめ、決して主体的になるわけではなく、覚めた視座で物事を見、分析をする、そんな冷静冷徹な様子を醸し出している。平常心を保つために、ある者はユーモアを常に持ち、またある者は折り目正しい姿勢を保ち続ける。 しかしそんな男たち女たちも人間であるかのように次第に感情を露わにしてくる。露わにしてくるといっても、彼ら彼女らは決して本意を悟られないように表に出さない。表面は凪いだ海のように平静を装いながら、心中は嵐のように波立たせて。 友情、そして愛情。諜報の世界に住む人々にとって決して抱いてはいけない人間的感情だ。しかし彼らは正気を保つためにそれを大事にする。 スパイやエージェントたちが常に客観的に物事を見据え、死と隣り合わせの世界で生きていくために冷静を強いられるのは、逆に云えばプライヴェートな部分で冷静さをかなぐり捨てたがゆえに既に過ちを犯したことを教訓にしているからかもしれない。だからこそ任務で私情を交えた時、それは彼の諜報の世界で生きる人間の運命の終焉になるのだろう。 政治家、諜報機関はなんとも些末な事実を隠すために事を荒立て、多くの命を犠牲にしてきたのか。そして恐らく21世紀の今も更に多くの国を巻き込んで、こんな不毛な命のやり取りを伴った諜報戦が繰り広げられているのに違いない。髙村氏の作品は今回もまた私を憂鬱にさせてくれた。 |
No.1387 | 7点 | ラプラスの魔女 東野圭吾 |
(2018/04/29 23:01登録) 受験生だった頃、また仕事に行き詰り、先行きに不安を覚えた時、こんな風に思ったことはないだろうか? 全てが見通せる、全知全能の神になりたい、と。 本書はまさにそんな能力を持った人間の物語である。 本書の題名に冠されている耳慣れない言葉「ラプラス」、私はこの名前を中学生の頃に発売されたゲームソフト『ラプラスの魔』で初めて知った。ホラー系のゲームだったため、従ってそのタイトルに非常に似た本書もホラー系の小説かと思ったくらいだ。この両者で使われているラプラスとはフランスの数学者の名前で全ての事象はある瞬間に起きる全ての物質の力学的状態と力を知ることが出来、それらのデータを解析できればこれから起きる全ての事象はあらかじめ計算できる決定論を提唱した人物で、それを成し得る存在を“ラプラスの悪魔”と呼ばれている。 羽原全太朗博士が中心となって手掛けている、人間の脳が備え持つ予測能力を最大化させる謎とその再現性を目的にしたラプラス計画はこの数学者から採られており、そして突出した予測能力をこの計画によって得た甘粕謙人が「ラプラスの悪魔」であり、羽原円華こそがタイトルになっている「ラプラスの魔女」なのだ。 そんな最先端の脳研究によって生み出された類稀なる予測能力を持つことになった甘粕謙人と羽原円華。彼らはいわば究極の犯罪者だ。結局甘粕謙人が行った硫化水素中毒殺人はその日その時の天候、風向き、気温、湿度などの条件がその場所で揃わないと起こらない、天文学的確率の上での犯行だからだ。しかもそれを予測できるのは彼ら2人のみ。これがファンタジーでなく、近い将来に生まれてくる特殊能力を備えた人間ならば、まさに彼らの行う全ての行為は再現性不可能であり、完全犯罪が容易に成し得る存在となる。 まだまだ未知なるものが多い世界。しかしそれらが徐々に解明されつつある。 しかし全てが解明された果てに見える景色は決して幸せなものでないことを本書はまだ10代後半の女性を通じて語っている。我々の見知らぬ世界に一人立つ彼女がどことなく厭世的で諦観的なのが心から離れない。悪に転べば誰も捕まえることの出来ない究局の犯罪者となる、実に危うい存在。 見えている風景がどんなものであれ、羽原円華は生き、そして立っている。その強さをいつまでも持っていてほしいと危うくも儚さを感じる彼女の前途が気になって仕方なかった。 |
No.1386 | 7点 | 限界点 ジェフリー・ディーヴァー |
(2018/04/29 00:42登録) 久々のディーヴァーのノンシリーズ作品である本書は警護のプロと<調べ屋>と称される殺し屋との攻防を描いたジェットコースター・サスペンスだ。 主人公は連邦機関<戦略警護部>の警護官コルティ。6年前の事件で師であるエイブ・ファロウを殺害された警護のプロ。 対する敵はヘンリー・ラヴィング。凄腕の<調べ屋>でコルティの師ファロウを拷問の末に殺害した男。 そんな2人の極限の攻防はまさにターゲットの死を賭けた精緻なチェスゲームのようだ。ディーヴァー作品の特徴に専門家と違わぬほどのその分野の専門的知識が豊富に物語に盛り込まれることが挙げられるが、本書でもこの警護ビジネスに関する知識がコルティの独白を通じて語られる。 また本書がこの敵と味方の攻防をチェスゲームのように描いているのは作者も意図的である。コルティの趣味はボードゲーム。プレイのみならず古今東西のボードゲームの蒐集も行なっている。さらにコルティは大学院で数学の学位を取得中にゲーム理論をかじっており、これを自分の仕事に活かしている。本書ではこのゲーム理論がところどころに挿入され、それがさらに本書のゲーム性を高めている。 また追う者と追われる者のハンターゲーム以外にも、もう1つの謎としてライアン・ケスラー刑事を標的にした依頼人の目的が不明なことだ。金融犯罪を担当する彼が扱っている2件の事件について調べていくうちに、意外な展開を見せていくのもまたミステリの妙味となっている。 実は本書はこのケスラー一家殺害を命じた依頼人の意図がどんでん返しとなっているのだが、その内容が次第に尻すぼみしていくのだ。最近のディーヴァー作品は意外性を狙うがゆえに、結末がチープになるという、どんでん返しの「手段の目的化」が散見されるのが残念だ。 題名の『限界点』も正直何を指すのかよく解らないし、原題の“Edge”に関してはラヴィングとコルティが得意とする、目的を完遂するために利用する周囲の人々の弱みを握る、つまり打ち込む楔を指しているが、それ以外にもそのマーリーと口づけを交わした川に面する崖の縁を示しているように思われる。これの表す意味については本書を当たってもらうと実に浅薄であることが解るのでここでは敢えて書きますまい。 返す返すも残念な作品だ。 |
No.1385 | 7点 | 南十字星 ジュール・ヴェルヌ |
(2018/04/24 23:50登録) ヴェルヌの小説は大きく分けて2つある。地底世界、海底、月世界とまだ誰もが行ったことのない世界を舞台にした空想の世界を舞台にしたものと、世界と地続きである当時未開の地だったアフリカを皮切りにアジア、ユーラシア大陸などさほど知られていない場所を冒険する物語である。本書は当時ダイヤモンドの採掘ラッシュで世界中から一獲千金を夢見て人が訪れた南アフリカを舞台にした後者の側に位置する物語である。 南アフリカでの金採掘を巡る話といえば、私は高校生の頃に読んだシドニー・シェルダンの『ゲームの達人』を思い出す。誰もが他人を出し抜いてダイヤの原石を追い求める物語はもしかしたらこの作品が原型なのかもしれないとも思った。 当時ヴェルヌが南アフリカを訪れていたか否かは寡聞にして知らないが、とにかく相変わらず細部に亘って非常に詳しく南アフリカの各地方の風景や民族、風習が描かれている。そしてダイヤモンドラッシュに沸く当地の煩雑な情景が目に浮かぶように鮮やかに描かれている。アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、イギリスのみならず中国からも一獲千金を夢見て訪れ、ある者は太いコネクションを得て次から次へと採掘し、成り上がる者。上手くいかず、夢破れて去る者、命を落とす者。そんな混沌な南アフリカの喧騒は、物語の舞台として実にマイナーだけにあまり語られることのなかった舞台を知る、しかもその当時の状況を知る意味でも歴史的資料としての価値も高い。 そして何よりも興味を惹かれたのは世界に侵出し、次々と世界各国の未開の地を植民地にしていった西洋人の彼の地での傲慢さが際立っていることだ。特に現地人、そしてアジア人である中国人へのからかいぶりはもはや悪戯を通り越して悪質な虐めである。 ヴェルヌの作品には大航海時代以来、世界を股に掛けてきた欧州人たちの傲慢さが端々に見られるのだが、まさにこのアジア人、現地人への迫害は、高校生、中学生のいじめっ子がいじめられっ子に行うくらいの未熟な精神性で行われ、習慣として悪戯、虐めを行っており、読んでいて気持ちがいいものではない。 さて当時の南アフリカのダイヤモンド・ラッシュに群がる西洋人たちの欲望と喧騒を描いたこの物語は、実は一介のフランス人の鉱山技師シプリアン・メレが現地で出会ったアリス・ワトキンズといかにして結婚するかという物語である。1つの愛を成し上げる男の苦難と苦闘の物語である。荒くれ男どもの汗臭く、泥臭い鉱山を舞台にしながら、軸となっているのはあくまで高潔であろう、そして1人の女性への一途な愛を貫こうとした不器用な男のラヴストーリーというのはなかなか心憎い演出である。今まで未知の地での冒険がメインで、男女の色恋沙汰についてはほんの添え物としてしか語られなかったヴェルヌ作品において、一途な愛を前面に押し出した本書は実に珍しい。 冨の象徴ダイヤよりも愛こそが尊い。幻となった巨大ダイヤよりも愛こそが確かなものとして結論付けた本書はヴェルヌの中でも異色なまでにロマンティックな物語ではないだろうか。 |
No.1384 | 7点 | シティ・オブ・ボーンズ マイクル・コナリー |
(2018/04/22 23:43登録) 今回の捜査において古い骨の鑑定が据えられている。これは恐らくアーロン・エルキンズのギデオン・オリヴァー教授シリーズの影響でもなく、またジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズのヒットによる影響でもなく、当時大いにヒットしていたTVドラマ『CSI:科学捜査班』の影響があったのではないだろうか。 家庭の中に隠された悲劇がボッシュは自身の捜査で明るみに出される。虐待された少年の遺体から家族の中で隠され、守られてきた秘密が明かされる。 この辺の展開は今までコナリーが敬意を払っているレイモンド・チャンドラーの諸作品よりもむしろハードボイルド御三家の1人、ロス・マクドナルドの作風を彷彿とさせる。 また本書が発表された時期にも注目したい。本書の原書が刊行されたのは2002年。そう、あのニューヨークの同時多発テロが起きた翌年である。本書にも言及されているが、3000人もの人が瓦礫に埋もれて亡くなったテロ事件である。 そんな大量死の事件を経たからこそ、30年前に埋められた身元不明の少年の死の真相を探る事件が敢えて書かれたのではないか。 いわば一己の人間という尊厳が失われる大量死が実際に起きたからこそ、敢えて名もない少年の、30年前に埋められた少年の素性を探り、そしてそこに隠された真実を追い、そしてその骨を埋めた犯人を捕まえることがその少年の尊厳を守ること、そしてその死体に名を、人間性を与えることになるからだ。ニューヨークの世界貿易センタービルの下には今なお瓦礫に埋もれて忘れ去られようとしている名を与えられていない遺体が沢山いることだろう。コナリーはそんな人たちへの鎮魂歌として掘り出された骨の、かつて人間だった少年を殺した犯人を探る物語を描いたのではないだろうか。 これはまさに笠井潔氏が唱えた『大量死体験理論』の正統性を裏付けるかのようだ。やはり大量死の発生が1人の人間の死の真相を探り、尊厳を与えるミステリが書かれる原動力となるのかもしれない。 本書のタイトルもまたこの大量死から生まれたように感じる。 シティ・オブ・ボーンズ。骨の街。 本書では埋められた子供の骨が見つかった丘を方眼紙で区分けして骨が見つかった場所をプロットしていく作業を鑑識課員の1人がまるで道路やブロックを置いていくようで街を描いているように感じるから、骨の街と名付けたと話している。 しかしこの名前は同時多発テロ後のその時だからこそ付けられたタイトルではないだろうか?テロが起きたニューヨークの街は3000人もの人が亡くなった街だ。それはつまり数限りない骨が埋められた街を指している。舞台はロサンジェルスだが、このような無差別テロが起きるアメリカはどこも骨の街であり、また骨の街になり得るのだと哀しみを込めてコナリーが名付けたように思える。 |
No.1383 | 3点 | 死の舞踏 評論・エッセイ |
(2018/03/26 23:16登録) 1993年に福武書店から刊行された、1981年に発表されたキングのエッセイ。長らく絶版だったがこのたびちくま文庫にて再々刊された。しかも本書は2010年及び2012年にそれぞれ刊行された増補改訂版を底本にした最新版である。しかしキングはエッセイさえもリメイクするとは驚いた。 しかし大著である。あとがきを含めると720ページもある。エッセイさえも雄弁に語る、いやエッセイだからこそ彼の雄弁さに歯止めがかからないのか、これほどまでの分量のエッセイは今まで見たことも読んだこともなかった。 キングのホラーの定義、彼の生い立ちが彼の作品に大いに影響していること、それまでの諸作の源泉や意図したことなど、キング自身について方々で語られているエピソードの源泉が本書にあるのだが、前半のパートはキングの恐怖に関する考察、分析などが独特の語り口で繰り広げられ、なかなか興味深い話もあった。しかし後半の映画・小説に関する更にディープに踏み込んだ内容になってくると、もう何を読んでいるのかが解らなくなった。キングが選出したそれぞれ好みの作品に付いて詳細に語っていくが、それもあまり纏まっているとは云えず、それぞれ書きたいことをどんどん放り込んでいるかのようで、とにかく語り出したら止まらない様相を呈している。正直後半については私は半分も理解していないだろう。 とにかく「語りたがり」のキングが自身のリミッターを外して存分に恐怖について語った本書。冒頭に挙げた映画から小説、さらにはラジオドラマまで存分に思うがままに書き連ねているエッセイは文章がとめどめなく溢れるかのようで実際少し、いやかなり読みにくい。湧き出てくる考えや感想をそのまま垂れ流すかのような筆致である。 正直に云って本書を読む限りキングは小説巧者であるが、エッセイ巧者ではないと断言しよう。しかしホラー、殊に「恐怖」に対する関心は並々ならぬ物があることを感じるエッセイである。 私にとってはキングの能弁な語り口に「踊らされた」エッセイだった。まさしくそれは舞踏のように。 |
No.1382 | 7点 | 尋ねて雪か 志水辰夫 |
(2018/03/25 23:58登録) 志水辰夫最初期の長編で4作目に当たる。高知出身の彼はなぜか北国を舞台にした作品が多く、本書も舞台は札幌。しかしこの氷点下の気温で雪が降りしきる北の街が志水作品にはよく似合うのである。 物語は盗まれた土地売買の契約書を取り戻してほしいと依頼されたヤクザの佐古田史朗が弟分の島と共に犯人を追って札幌に向かうが、当の本人はマンションで既に殺され、目当ての書類も無くなり、地元のヤクザとの対決に発展していくという話である。 彼が土地売買の書類を取り戻しに行ったのは捨てた故郷の北海道は札幌で、偶然にも捨てた継母とその娘、そして失踪した父親と出くわすという、昔ながらの運命の悪戯を絵に描いたようなお話である。 数十年経ってからの贖罪。しかもこれは自分勝手な贖罪だ。自己満足にしか過ぎない贖罪だ。しかし昭和の男とはこんな身勝手に生き、そして不器用だったのだ。 そして舞台は北海道は札幌。タイトルにもあるように物語全編に亘って雪が降りしきる。史朗が外に出る時は常に雪が降っている。 雪。それは史朗の心に降り積もる過去の澱。父親同然に自分を育ててくれた家族を捨てた後悔の念が強くなるにつれて雪の降る度合いも増えてくる。雪は史朗の行く手を阻むかのように降りしきるので、史朗は目指すところに常に遅れてしまう。大金をせしめて追われる弟を、その弟の行方を追う妹を、その恋人を探すのだが、常にその道行には雪が降りしきる。 訪ねる先は常に雪。それは彼にとって過去を償うための障害だった。 久々に読んだ志水作品は非常に泥くさく不器用な男と北の寒さと雪が終始舞う寂しい物語だった。幾分消化不良気味だがそれもシミタツの味として今は余韻に浸ろう。 |
No.1381 | 7点 | 必死の逃亡者 ジュール・ヴェルヌ |
(2018/03/12 23:34登録) フランス人でありながら自国に固執せず、様々な国を舞台に、そして様々な国の人々を主人公に、登場人物にして数々の物語を紡いできたヴェルヌが本書の舞台に選んだのはなんと中国。しかも登場人物も中国人という、異彩を放つ物語だ。 しかもこの話、実に奇妙である。物語の構成としては1人の富豪の中国人が奇妙な仲間と中国全土を旅するという、ヴェルヌ定番の冒険物であるのだが、その目的が実に変っている。 31歳にして巨万の富を手に入れ、もはや世の中に飽き飽きしていた金馥という富豪がある日突然アメリカの銀行から破産宣告を受ける。それをきっかけにもはや生きる意味がないと判断した彼は反政府組織の元太平党員だった家庭教師、汪に自分を殺害するように依頼する。しかし汪は承諾するものの、それを実行しないまま消えてしまう。その直後に再びアメリカの銀行から手紙が届き、破産は偽のニュースで逆に資産が2倍に増えているという知らせを受ける。そのことで金馥は再び生きることを選択し、許嫁との結婚も決意するが、今度は自分の暗殺を依頼した消えた汪に依頼の取り消しをするために捜索の旅に出るという、実に歪な内容なのだ。正直上記のように内容を纏めていてもどこかちぐはぐな箇所があり、ツッコミどころ満載なプロットである。 この辺の物語の妙味はかつてのヴェルヌにはなかったものだ。どちらかというと旅に主眼を置いた物語展開で、その目的や動機付けに関しては正直二の次で諸国漫遊物語と云った色合い、もしくは都市の発展、無人島生活の発展といった細部にこだわった作風が多かった。 さて従来ヴェルヌ作品には有能な召使いが登場するが先に読んだ『征服者ロビュール』に登場したフランコリン同様、今回登場する金馥の召使い孫は実に無能な人物だ。むしろその役割は自社の保険金を守るために金馥の旅にボディガード役として同行した保険会社の探偵クレイグとフライがその役割を担っていると云えるだろう。 顧客の安全を守るためには命を落とすことも厭わず、危機を素早く察知して機転を利かせて即応し、サメが襲ってこようものなら、ナイフ片手に立ち向かい撃退するなど、金馥の命を幾度も救う。 よくよく考えるとこの旅の一行の構成は『水戸黄門』そのものである。金持ちの金馥が黄門様こと水戸光圀、彼を守る有能な保険会社の探偵クレイグとフライがそれぞれ助さん、格さん、間抜けだが愛嬌のある召使いはうっかり八兵衛とぴったりと当て嵌まる。紅一点のお銀に当て嵌まる人物がいないのは仕方がないが、古今東西、旅の仲間の構成は変わらぬと云うことか。 実にヴェルヌにとっては異色の作品だ。西洋人がいない東の大国を舞台にした一風変わった冒険行の物語。そして物語を読み終わった時、改めて何の変哲もない本書の題名を読むと、そこに隠された意図が見えてくることに今更ながら気付かされた。 一度も中国を訪れずに本書を物にしたヴェルヌ。しかしその本音は最後の一行こそに込められているのではないだろうか―それを見るには、中国に行く必要がある!―。 |
No.1380 | 10点 | 夜より暗き闇 マイクル・コナリー |
(2018/03/11 23:07登録) 本書の献辞にはこう書かれている。 “(前略)ふたりは第二幕が存在することを証明してくれた” つまり本書はシリーズ第二幕の開幕を告げる作品なのだ。またその意気込みを見せるかのようにコナリーはノンシリーズの『わが心臓の痛み』の主人公、元FBI心理分析官テリー・マッケイレブ、同じくノンシリーズの『ザ・ポエット』の新聞記者ジャック・マカヴォイを登場させ、ボッシュと共演させる。まさにオールスターキャスト出演の意欲作である。 しかもこれが単なるファンサービスによる登場ではない。テリー・マッケイレブの捜査はハリー・ボッシュが扱う事件と同じ比重で描かれている。つまり本書はテリー・マッケイレブシリーズの第2作目であるとも云える。 まずボッシュは最初冒頭の1章に登場し、そこからはテリー・マッケイレブの許に殺人事件の資料の分析の依頼が来るところから幕を開ける。 そこからも主にマッケイレブの捜査にページが割かれ、主人公のボッシュは自分が挙げた殺人事件の犯人で映画監督のデイヴィッド・ストーリーの裁判に出廷する様子が断片的に描かれるだけである。 読者は果たしてこれはボッシュシリーズの8作目なのか、もしくはテリー・マッケイレブの第2作目の作品なのかと戸惑いながら読み進めていくと、上巻の後半にとんでもない展開が待ち受けている。 なんとテリー・マッケイレブが事件をプロファイルして絞り込んだ犯人はハリー・ボッシュだというのだ。 とうとう作者コナリーはシリーズ主人公をも容疑者にするという驚きを読者に与えてくれたのだ。 しかし毎回このコナリーという作家はどれだけ緻密な物語世界を作っているのかと唸らせられる。今回マッケイレブがジェイ・ウィンストンに請われて調べる事件の被害者エドワード・ガンは『ラスト・コヨーテ』でボッシュがパウンズ警部補を殴り、強制ストレス休暇を取る羽目となった、パウンズが誤って解放した取り調べ相手だった。 私も読みながらボッシュが取り調べをした事件に既視感を覚えていたが、まさかあの事件だったとは。 更にコナリーが素晴らしいのはボッシュが売春婦の息子であることの出自、そして母親を何者かに殺されたことで―なおこの事件は『ラスト・コヨーテ』で解決し、真犯人も捕まっている―、かつて正当防衛とはいえ、娼婦を殺害したエドワード・ガンに対して母親殺しの犯人をダブらせているなど、更に常に反目しあっていた元上司パウンズが亡くなっており、それが早々にボッシュが嫌疑から外れていることなどの諸々がボッシュ=犯人として有機的に絡み合ってくる。 更に本書において特に強調されるのは闇。人の死を扱う刑事、心理分析官は犯人の闇を見つめつつ、自らもまた闇から見つめられていることに気付く。それはまさに魂を削られていく作業で、それが殺人を追う仕事であれば延々と続く。そしてボッシュはかつてヴェトナム戦争でトンネル兵士として常に暗闇を見つめていた男。その後もサイコパス達を相手にし、闇を見続けている。こんな第1作からの設定が8作目にしてなお効果的に働き、そしてボッシュが容疑者に置かれるという最高のピンチを生み出すことに成功している。シリーズ作品を余すところなく料理し、1つも無駄にせず、その醍醐味を味わさせてくれるコナリーの構成力の凄さには7作目にしてなお驚き、そして惜しみない賞賛を送らざるを得ないだろう。 さて今後ボッシュはダークヒーローの道を突き進むのか。また今回は単に物語のアジテーターの役回りに過ぎなかったジャック・マカヴォイは、ボッシュとマッケイレブ双方に縁があることが解ったわけだが、今後も彼らに関わっていくのだろうか。 常に読者の予想を超えるストーリーとプロットを見せてくれるコナリー。そして次はどんな物語を我々に披露し、そして驚かせてくれるのだろうか。 |
No.1379 | 8点 | 金閣寺に密室 とんち探偵一休さん 鯨統一郎 |
(2018/03/03 00:01登録) 本書はまさに掘り出し物だった。 一休との出逢いは子供の頃に放映されたTVアニメ「一休さん」が最初だったように思う。その後も一級のとんち話を集めた本を図書館などで読んだ記憶があり、子供心に一休さんの聡明ぶりにいつも胸躍らせたものだ。 本書はその聡明な坊主一休が金閣寺で起きた足利義満の密室殺人事件を解く話。しかしとんちの効いた一休さんがその賢い頭脳で探偵役を務めるという安直な設定ではなく、一休さん、即ち一休宗純の隠された出自に纏わる将軍家との暗闘や当時の絶対君主だった足利義満の異常なまでの好色ぶりに端を発する義満に仕える士官たちの苦難と屈辱が織り込まれ、足利義満を死に至らしめるまでのそれぞれの思惑がじっくりと描かれる。 まずは今に伝わる一休の聡明ぶりを示す数々のとんち話が挿話として織り込まれ、過去に「一休さん」の名で親しんだ人は勿論のこと、初めて読む人もその頭の冴えが愉しめるような話の運びになっている。 そして何よりも今回驚いたのは前掲したTVアニメの「一休さん」がその出自を含めて忠実に描かれていたところだ。ただアニメの一休さんよりも年上の15歳であることから、一休を慕う少女がさよちゃんなのが茜であること、一休さんと一緒に修行に励む坊主の名前も微妙に違うこと、一休さんが仕えている寺がアニメでは貧乏寺である安国寺であるが、そこは幼き頃にいた寺で本書では臨済宗の高位に当たる建仁寺にいること、従って和尚もアニメでは外観であり、本書では慕哲龍攀であることなど設定に微妙な違いはあるものの、蜷川新右衛門や将軍様の足利義満は同じで、一休さんが母上様と慕っている実母がなぜ逢えないのかもきちんと再現されている。一休さんは後小松天皇の庶子であり、つまり皇族の一員なのだが、足利義満の皇位簒奪によって出家させられたことになっている。勿論アニメではそれには触れていない。 そして一休をとんちで打ち負かそうとする将軍様こと足利義満は単に一休をギャフンと云わせることを生き甲斐にしているように思えるが、実は皇位簒奪者である義満は一休が天皇家の跡取りの権利があることを危惧し、一休が聡明な坊主であるとの評判を聞きつけて絶対的君主である自分のところに謁見させる栄誉を与えると共に、目の前で無理難題を吹っかけて粗相をさせることを大義名分として打ち首にしようとしていたのだった。つまりあのアニメの「一休さん」は毎回一休さんのとんち比べととんちを武器に質の悪い大人たちを懲らしめる勧善懲悪的な面白さを見せながら、実はとんちによってその命を生き長らえるという九死に一生を得るスリリングな毎日が描かれていたと本書を読むことで読み取ることが出来る。 本書はただの歴史ミステリのように思えるが、本書が優れているのはこの謎の解明に鯨氏は先に述べた有名な一休のとんち話を巧みに絡めて、それを推理の手掛かりとして有機的に結び付けるという離れ業をやってのけているところだ。 これには脱帽。どんどん真相が明かされていくたびにそれぞれのエピソードがぴたりぴたりと事件の背景、犯人の動機に収まっていく。もうこれは見事としか云いようがない。一休の賢さを引き立てる演出としてのエピソードが、しかも誰もが知っているであろうとんち話を密室殺人に絡めていく発想の妙とそれをやり遂げる構成力に甚だ感服した。 数多の歴史文献のみならず、巷間に流布する一休さんのとんち話をもミステリの枠に取り入れ、足利義満殺害、しかも犯行現場は世界に名だたる観光名所の金閣寺、更に密室殺人という三重のミステリ妙味を備えた長編を料理して見せた手腕は実に美事としかいいようのない。 そして奇遇なことに本書の冒頭で六郎太と静が森女を訪ねる大徳寺に私はこの正月、初詣に京都に行った際、ついでに訪れたのだ。それも偶々バスから降りた場所の近くに大徳寺があり、そこで枯山水を見たのだった。お土産に大徳寺納豆を買いもした。まさになんというタイミングでの読書であったことか。 題名が実に平凡であることで本書は大いに損をしていると思う。帯に掲げられた「宮部みゆき氏絶賛!」の惹句は決して伊達ではない。天晴、一休!そして天晴、鯨統一郎!と声高に称賛しよう。 |
No.1378 | 7点 | 迷宮百年の睡魔 森博嗣 |
(2018/02/27 23:40登録) エンジニアリング・ライタのサエバ・ミチルと相棒のウォーカロン、ロイディの2人がルナティック・シティに続いて訪れるのは周囲を海に囲まれた巨大な建造物からなる島イル・サン・ジャック。そう、もうお分かりであろう、フランスのモン・サン・ミシェルをモデルにした島が物語の舞台である。 本書の時代設定は2114年。前作は2113年だったからルナティック・シティの事件から1年後の話となる。既にクロン技術も確立され、ウォーカロンというアンドロイドが一般的に導入され、労働力にもなっている森氏による近未来ファンタジー小説の意匠を纏ったミステリである本書はその世界そのものに謎が多く散りばめられている。 以下大いにネタバレ! 永遠の生を与えることが最大の奉仕と思っていた女王。しかし与えられたものは感じたのは永遠の命を持っていることの恐ろしさ。その恐怖が彼を死を魅力的だと思うようになった。従って彼は死を選び、その瞬間、なんとも云い難い爽快感を得た。それは永遠の命という鎖から解き放たれた解放感と云えるだろう。人は押しなべて永遠に生きることを選ぶとは限らないのだ。 この生き方、死に様から本書はサルトルの「実存主義」について語ったミステリであると云えるだろう。作り物の躰を借りて頭脳だけの存在になった物は果たして存在していると云えるのだろうか?本来人間は実存が先にあり、そして本質を自分の手で選び取っていかなければならないとされていたのに、実存さえもないのに、本質を自分の手で選び取っていくのは果たしてどこに存在があるというのか? 存在しながらも非在であるというジレンマがここにはある。 それは既に人間というデータであり存在ではない。しかしウォーカロンという器で現実世界に存在している。それは今や貨幣からウェブ上での数字でやり取りされる金銭と同じような感覚である。お金として存在はするのに実存せずとも数字というデータで取引が出来、そして実際に現物が手に入る。この電脳空間で実物性がない中で実物が手元に入る感覚の不思議さを森氏はこのシリーズで投げ掛けているように思える。 金銭でさえもはや数字というデータでやり取りされ、成立するならばもはや人間も頭脳さえ維持されれば個人の意識というデータで生き、そして躰はウォーカロンという器でいくらでも取り換えが利くようになる。それは人間が手に入れた永遠だ。しかしそこに存在はあるのか。その人は実在しているのか?そのジレンマを象徴しているのがサエバ・ミチルであり、そして本書の登場したイル・サン・ジャックの人々なのだ。 2018年現在、人工知能の開発はかなりの進展をしており、かつては人間が勝っていた人工知能と将棋の対戦も人間側が勝てなくなっている。そして人間型ロボットの開発もかなり進歩しており、見た目には人間と変わらない物も出てきている。更に人工知能の発達により今後10~20年で人間の仕事の約半分は機械に取って代わられると予見されている。 2003年に発表された本書は既に15年後の未来を見据えた内容、描写が見受けられ、読みながらハッとするところが多々あった。特に本書に登場する警察は人間の警官はカイリス1人であり、その他の部下はウォーカロンである。このようにいつもながら森氏の先見性には驚かされる。 そしてこの世界ではもはや人間は働く必要はないほどエネルギーは充足している。つまりもはや人間の存在意義や価値はないといっていいだろう。永遠なる退屈と虚無を手に入れた人間は果たしてどこに向かうのか?ユートピアを描きながらもその実ディストピアである未来の空虚さをこのシリーズでは語っている。 森氏の著作に『夢・出逢い・魔性』というのがある。これは即ち「夢で逢いましょう」を文字ったタイトルでもある。また日本の歌にはこのような歌詞のあるものもある。 “夢でもし逢えたら素敵なことね。貴方に逢えるまで眠りに就きたい” メグツシュカが作り出したイル・サン・ジャックに住まう人々は永い夢の中で生きる人々なのかもしれない。彼らはそんな夢の中で永遠の安息と変わりない日々、つまりは安定を得て、日々を暮らし、そこに充足を感じている。それがメグツシュカが描いた理想のコミュニティであれば、なんと平和とは退屈なものなのだろうか。 無敵と化した人間の実存性を手に入れた代償が永遠なる退屈と虚無であり、そしてそのことを悟った人間の選択が自殺であったという実に皮肉な真相だった。 |
No.1377 | 7点 | 少女には向かない職業 桜庭一樹 |
(2018/02/23 23:15登録) 地方のどこにでもある町に住む女子中学生2人、大西葵と宮乃下静香の、中学2年に体験した、青くほろ苦い殺人の物語。この2人はそれぞれの家庭に問題を抱えている。 美人でかつて東京で働いていた母親を持つ大西葵は学校ではいつも周囲を笑わせるムードメーカー的存在だが、父親を5歳の時に病気で亡くし、再婚した漁師の義父は1年前に足を悪くして以来、漁に出なくなり、毎日酒浸りの日々。もはや酒を飲むか、酒を買いに行くか、寝るかしかしない大男で狭心症を患っている。従って生計は母親の、漁港での干物づくりパートで賄っている。葵はこの義父がとても嫌いで死ねばいいのにと思っている。 宮乃下静香はその島の網元の老人の孫で従兄の浩一郎の3人暮らし。中学生になった頃から島に住み始め、それまでは祖父に勘当された母親の許で暮らしていたが、祖父がその行方を捜していたところを見つけられて引き取られることになった。彼女の母はその時既に亡くなっていたため、彼女のみ島に帰ることになった。そして浩一郎は祖父から嫌われており、なんとかなだめてその莫大な遺産を相続しようと画策している。そして遺言状が書き替えられ、遺産を相続することになった時こそ、自分が浩一郎に殺される番だと恐れている。 バイトで稼いだ小遣いをゲームに費やす大西葵、読書家でいつも鞄がパンパンに膨れ上がるほどの本を持ち歩いている、図書委員の宮乃下静香は作者本人の分身のように思える。桜庭氏がかなりの読書家であることが知られており、また別名義でゲームシナリオも書いていることから恐らくゲーム好きであろうことが窺える。 この2人のうち、語り手の大西葵を中心に物語は進むわけだが、これが何とも実に中学生らしい青さと清さを備え、あの頃の自分を思い出すかのようだった。 供だった小学生から、肉体的・精神的にも大人へと変わっていくこの年頃の複雑な心境、そして理解されたい一方で、大人を嫌う、愛憎入り混じった感情、そしてもう日常を生きるのに精一杯で我が子を表層的にしか捉えていない大人の無理解に対する憤りなどが織り交ぜられている。 少女たちの日常は虚構に満ちている。それは辛い現実から少しでも忘れたいからだ。そして少女たちは今日もセカイへ旅に出る。 中学生になった彼女たちはバイトして自由に使えるお金も増え、そして身体も大きく成長し、自転車でそれまで行けなかった距離も延々とこぎ続ける体力を持ち、それまで親の付き添い無しでは乗れなかった公共交通機関も、恐れることなく、乗れるようになる知識を備えている。それまでできなかったことがどんどん出来てくる彼女たちは世界がどんどん広がるのを実感し、万能感と無敵感を覚えていく。 一方で小学生までは一緒にゲームで遊んでいた男子もからだの発育と共に大人びていき、異性を意識し出して、これまでのように話しかけることが出来なくなる。特に女性の方が精神面の成長は早く、男性は遅いので、男子はいつものように話しかけるのに対し、女子はいつの間にかできた心のハードルを飛び越えて、決意を持って話さなければならないようだ。 こうでなければならないと小学生の頃に叩き込まれたルールを愚直なまでに守り、一方でそれを逸脱することに面白みを感じる、矛盾を内包した彼らは自分の行為で生じる矛盾を許せはするが、他人の矛盾行為は許せない。なぜなら万能感を手に入れた彼ら彼女らは自分こそが正義だと思うからだ。相手に合わせることを知りながらも、一方で自分の規範から外れた者を排除することを厭わない純粋であるがゆえに不器用な心の在り方が、全編に亘って語られる。 学校という基盤が少女たちをまた中学生に引き戻す。日常と非日常を繰り返す。それは非日常のダークサイドを日常の学校生活で浄化しているかのようだ。 学校生活という現実から逃れるためにゲームや読書と虚構世界の中を生きる彼女たちにとって殺人自体もまた虚構の出来事として捉えることで消化する。だからこそ宮乃下静香は古今東西の物語をヒントにした殺人シナリオを作り、大西葵は殺人をテレビで観たマジックとゲームに出てくる武器バトルアックスで実行する。それはどこか彼女たちにとって白昼夢の出来事。しかし違いは身体性、肉体性があること。 そして彼女たちの生身の身体が傷つき、血を流すとき、ゲームは終わりを告げる。虚構にいた彼女は現実を知り、そして法にその身を委ねることを決意したのだ。それは自分たちが生きようとする意志でもあった。世界に絶望した自分たちが血を流すことで生を意識したのだ。ゲームの世界ではHPという数値でしか見えなかった敵を斃すということ、傷を負うということが実際に血を流すことでリアルに繋がったのだ。 つまりそれは彼女たちが生きていたセカイからの脱却。本書は自分たちの障壁となる人物を排除することでリアルを体験し、そしてセカイから世界へ向き合うことを示した物語なのだ。 現実の厳しさに耐えるため、敢えて虚構に身を置き、それに淫することで自らの居場所と万能感を得た彼女たち。それは思春期を迎える我々全てが経験する通過儀礼のようなものだろう。 そこから脱け出して現実を知る者、未だに抜け出せず、虚構の主人公となろうと振る舞う者。今の世の大人は大きく分ければこの2種類に分かれているように思える。 彼女たちが認識した世界は実に苦いものだった。これはそんな少女たちの通過儀礼のお話。リアルを知った彼女たちは今後、一体どこへ向かうのだろうか。もし彼女たちが虚構に生きることを望んでいたのなら、確かにこの殺人計画は「少女には向かない職業」だ。 |
No.1376 | 5点 | 文章魔界道 鯨統一郎 |
(2018/02/21 23:41登録) とにかく全編鯨氏独特のユーモア、そしてちょっぴりエロに満ちている。 まず主人公2人の設定が人を食っている。小説家デビューを目指し、日々創作しては新人賞に応募するミユキはそれまで1冊も本を読んだことがない。しかし文章が無尽蔵に湧き出る才能の持ち主。 一方彼女が師事する小説家大文豪は物語が無尽蔵に浮かぶのだが、文章を書くのが苦手でこれまで1編も小説を書いたことのない自称小説家。 この実に胡散臭い小説家とミユキのやり取りが実に面白く、さらに明らかにミユキに欲情している中年のいやらしさがにじみ出ており、まさに鯨印といったところ。 そして大文のケータイ小説と世の小説家たちをスランプに陥れている文章魔王が住む電脳世界へアクセスする文章魔界道への行き方も数々のエロサイトを潜り抜けなけれならないというバカバカしさ。当時はまだ電話回線によるインターネット通信で、携帯電話を介しての接続と時代を感じさせる場面もあり、懐かしさを覚える。 ミユキが文章魔王とその部下である第一の番人と第二の番人と対決するのは文章による対決だ。 この対決の数々はまさに鯨氏の文章遊びをふんだんに盛り込んだ内容となっている。存分にアイデアを、いや趣味の世界を繰り広げている。 しかし内容はふざけていながらも案外書かれている内容は深いものを読み取ることが出来る。 例えば本書で数々の敵を討ち斃す作家志望のミユキが武器にしているのはノートパソコンで、つまりパソコンの文章ソフトとインターネットがあれば色んな問題も回答し、さらに文章も作ることができる、つまりパソコンこそが文章作成の最良の便利ツールであることを暗に示している。作中、大文豪が人間には三大欲の他にストーリィ欲というのがある。インターネットが普及して無限の小説が書けることになった。人々はストーリィを欲し、またストーリィを書くことを欲している。 かつて森村誠一氏も同様のことを云っていたことを記憶している。人々には表現欲という物があり、みな何かを表現したがっている。簡単にケータイやパソコンで文章が作れる現在はその欲望が一気に爆発している、と。 だが一方でその安直さこそが文章の乱立を助長しているとも云える。小説の未来を憂いた文章魔王が世の小説家たちに戦いを挑んで打ち負かしたのは、ろくに本も読まずに作家になろうとしている輩が増えていることに対する作者の憤りを代弁しているかのようだ。ミユキはまさにそんな現代の作家志望者のステレオタイプとして描かれた人物だろう。 戯曲というスタイルもあって文章量も少なく、小一時間で読める内容と電脳世界での文章対決というあらゆる意味で軽い内容の本書だが、作中に収められたそれまで一遍も小説を書いたことのない男が書いた小説を内容に照らし合わせれば、文章の持つ面白さ、そして小説が読まれることの意義などが暗に含まれており、なかなか考えさせられる内容である。単純に読み飛ばすだけに留まらない作品であると云っておこう。 |
No.1375 | 10点 | 男は旗 稲見一良 |
(2018/02/18 23:49登録) いやぁ、痛快、痛快。 刊行当時の1998年ならば私はこれを稲見風ジュール・ヴェルヌ調海洋冒険小説とでも評したろうが、21世紀の今ならばこれは稲見版『ONE PIECE』ではないか!と声を大にして評しよう。 大人の夢と冒険の物語を描いたら右に出る者がいない稲見一良氏が今回選んだ題材は一本芯の通った男が気の置けない仲間たちと共に船で大海原に漕ぎ出す、冒険心溢れる男と女たちの物語だ。 陸の冒険活劇から後半は海洋冒険活劇へと転じて、海賊たちと戦い、また未知の島で絶滅したと思われていた幻の鳥グァンを発見し、宝の在処を示した島の形を手掛かりに一行は船を進める。 そして『ONE PIECE』がそうであるように、本書も読んでいて実に気持ちがいい。たった250ページ弱の分量ながら、胸を躍らせて止まない要素がふんだんに盛り込まれ、ひきつけて止まない。私がどれだけのことを本書を読んで感じたかを表すには、本書の倍のページ数は必要だろう。 しかし物事には全て終わりがある。どんな愉しいひと時にも必ず終わりは訪れる。それはまさに夢のような一時の終わりだ。 最後の一行を読み終わった今、私の心はなんとも云えない堪らない気持ちでいっぱいだ。 まずはこの結末が堪らない。 そしてそんな不可能を可能にした安楽以下、他のシリウス号の面々が堪らない。彼らの力に屈せず、どんな苦難にも立ち向かう強い心と、そして何よりも人生を愉しむことを忘れない素晴らしい人々の気持ちよさが堪らないのだ。 そして何よりも、こんな気持ちのいい物語を書いた稲見氏がもう今はいないことが何とも堪らないのだ。 こんな物語を読まされたからには、どうしても大きな喪失感が込み上げてくる。もっと夢を、物語を見させてくれよと、叶わない駄々を訴えたくなる。 死を覚悟した人の紡ぐ物語はなんと優しく、美しい事か。 モデルとなったホテル・スカンジナビアだが、既にもうホテルとしては経営してなく、2006年にスウェーデンの企業に売却され、整備のために上海のドックに曳航されている途中に浸水して沈没してしまったとのこと。そして安楽氏もまたその後を追うようにその2年後に永眠されたとのことだ。何と全てが夢の出来事ではなかったかと思われる話である。 題名に掲げられた旗とは、いつか男は旗を掲げて船出すべきだというメッセージの象徴だろう。それはまさに稲見氏自身が実践したことでもある。癌を患った時、伏せてばかりはいけない、男は心に旗を掲げ、命燃え尽きるまで夢へと漕ぎ出せ。そう自身を鼓舞している作者の声が聞こえてくるようだ。 |
No.1374 | 7点 | ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所 ダグラス・アダムス |
(2018/02/16 23:21登録) 英ガーディアン紙の「死ぬまでに読むべき1000冊」でSFコメディ『銀河ヒッチハイク・ガイド』が選ばれたダグラス・アダムス。邦訳された作品はそのシリーズ作品しかなかったが、2017年になって唯一の奇想ミステリーである本書が訳出されることになった。これはやはり上記のイベントによる再評価によるところなのだろうか。 さてそのアダムスだが、やはり作品は一筋縄ではいかない。電動修道士の話やスーザン・ウェイという女性の話が同時並行的に語られ、どんな物語が始まるのか、しばらくは読者は予想が着かなく、100ページを過ぎたあたりからようやく物語に繋がりが出てくる。 そして探偵ダーク・ジェントリーが本格的に姿を現すのは190ページ。物語としては約半分の辺りである。そして彼を通じてようやく本書のメインの事件が明かされる。まず誰しもが疑問に抱くダーク・ジェントリーの肩書である全体論的探偵とは一体どう意味なのか? ダーク・ジェントリー曰く、「全体論的」とは万物は根本的に相互的に関連し合っており、そこに目を向けて物事を調査し、そして解決に結びつけるという物。従って猫の捜索1つにおいても、万物の相互関連性のベクトルを地図に記入して位置を特定すればそれはバーミューダ島に行き当たり、そこまで出張しなければ全体が見えてこないとのたまう。この辺の胡散臭さこそがアダムスの真骨頂と云えるだろう。 とにかくアダムスの筆致は縦横無尽である。書きたいことを次々と放り込んで物語は進む。 量子力学、哲学、芸術論、物理学に数学を物語の流れを阻害する云々関係なく放り込んでくる。しかしそれらは決して退屈を誘うわけではなく、寧ろ私が読書の愉悦と考えている、新たな蘊蓄、知識の得ることが出来る、非常に興味深い内容に満ちていた。 アダムスの書きたいがままに綴られているような物語はしかし後半に至ると実に用意周到に仕掛けられた伏線が散りばめられていることが解る。 今まで曖昧模糊だったものが明らかになり、見事なまでに物語は美しく着地する。 まさかこれだけ取っ散らかった物語がかくも見事な着地を見せるとは思わなかった。しかも色んなその道の歴史的事実やゴシップを知っていると私が知っている以上に思わずニヤリとするような仕掛けも施されている。 二度読み必至の本書はダグラス・アダムス作品の中でも珍しく内容のまとまった作品ではないだろうか。 本格ミステリにとってタブーとされている題材を扱いながらもこれだけ見事な着地を見せる。ジャン・コクトーは日本の相撲の立合いを見て「バランスの奇跡だ」と評したが、私はこの玩具箱のような通常一同に会しえないとんでもない設定が美しく着地する物語をバランスの奇跡であると評しよう。 |
No.1373 | 7点 | バッドラック・ムーン マイクル・コナリー |
(2018/02/11 01:04登録) コナリーの3作目のノンシリーズである本書はこれまでのコナリー作品とは色々と異なっているのが特徴だ。まず主人公がなんと女性である。元窃盗犯で仮釈放の保護観察の身であるキャシー・ブラックが主人公だ。 そして今までは刑事ボッシュを筆頭に、新聞記者のジャック・マカヴォイ、元FBI捜査官のテリー・マッケイレブが主人公を務めたシリーズ物、ノンシリーズ物も含めて犯人を追う捜査小説だったが、今回の主人公キャシー・ブラックは女泥棒。つまりクライム・ノヴェルであることだ。 そして書き方や物語の進め方も以前の作品とは異なっている。このキャシーが女泥棒と判るのは案外物語が進んでからだ。それまでは彼女は一体何者で、どんな過去があったのかがなかなか語られず、仮釈放の身でハリウッドのポルシェのディーラーに勤める、人の目を惹く美人であることが解っているだけである。前情報と知識がないまま物語は進む。そしてその中で断片的ながらキャシーの過去が浮かび上がってくるという、ちょっと変わった書き方をしているのが特徴だ。 実に映像向けのストーリーであり、起伏に富みながらもどこか深みを感じさせない。コナリー作品の特徴と云えばハードボイルドを彷彿とさせる緊張感と暗さを伴った重厚な文体に、事件に関わらざるを得ない宿命のような物を感じさせる主人公がどこまでも謎を追いかけていく、泥臭さを匂わせる文体で物語を勧めながら、いきなり頭をドカンと殴られるような驚きのサプライズが仕込まれているという読書の醍醐味を感じさせる味わいなのだが、本書はなかなか主人公キャシーの氏素性と過去が明かされぬまま、物語が進み、訪れるべき終幕に向けて一気呵成に突き進む、疾走感がある文体で逆にそれが特徴である深みや味わいを逸している。 ただコナリー作品独特のテイストもないわけではない。占星術における十二宮のどこにも月が入らない時間帯は不吉なことが起きるヴォイド・ムーンというモチーフを用いて上手くいくはずの犯行を絶望的なトラブルに主人公たちを巻き込む。 全てが6年前のあの日へと収斂する。因縁の過去が彼ら彼女らを引き寄せていく。 コナリー作品はこのように限定された人物たちが過去の因縁によって再び引き寄せられるプロットが好みのようだ。あれほど広大なラス・ヴェガスでもう一度会いまみえる過去の因縁たち。それはどうやっても切っても切れない鎖のような絆で結ばれた運命の人々のように描かれる。その宿命的な繋がりを断ち切ってこそ、過去に縛られた人たちに未来は訪れるのだというメッセージが込められているようにも思える。 その因縁に抗えない人たちはそのまま飲み込まれ、そこで死に絶える。犯罪に手を染めた者たちにとって因縁の鎖は容赦なくその身を縛り、そしてあの世へと誘う。そんな冷徹さが垣間見える。 全てが虚しい享楽の夜の塵となった。誰もが望んだものを得られぬままに幕が引かれた。しかし唯一虚しい戦いに生き残ったキャシー・ブラックは孤独の道を行く。彼女が目指すのは砂漠。しかし砂漠が海になるところだ。かつての恋人と幸せな時を過ごした場所へ。 キャシー・ブラック。彼女もまた壮大なボッシュ・サーガの一片であればいつかまたどこかで逢うことになるだろう。それまでこの哀しき女泥棒のことを覚えておこう。 |
No.1372 | 10点 | ペット・セマタリー スティーヴン・キング |
(2018/02/09 23:54登録) メイン州を舞台にした本書のテーマは誰しもに訪れる死。ペット・セマタリーという地元の子供たちで手入れがされている山の中のペット霊園をモチーフにした作品だ。 この作品も映画化されており、何度かテレビ放送されたが、なぜか私は観る機会がなく、従って全く知識ゼロの状態で読むことになった。 典型的な死者再生譚であり、そして過去幾度となく書かれてきたこのテーマの作品が押しなべてそうであったように、ホラーであり悲劇の物語だ。実際に本書の中でもそのジャンルの名作である「猿の手」についても触れてもいる。 そんな典型的なホラーなのにキングに掛かると実に奥深さを感じる。登場人物が必然性を持ってその開けてはいけない扉を開けていくのを当事者意識的に読まされる。 読者をそうさせるのはそこに至るまでの経緯と登場人物たちの生活、そして過去、とりわけ今回は死に纏わる過去のエピソードが実にきめ細やかに描かれているからだろう。 情理の狭間で葛藤する父親が、愛情の深さゆえに理性を退け、禁断の扉を開いていく心の移ろう様をこのようにキングは実に丁寧に描いていく。判っているけどやめられないのだ。この非常に愚かな人間の本能的衝動を細部に亘って描くところが非常に上手く、そして物語に必然性をもたらせるのだ。 つまりこの家族の愛情こそがこの恐ろしい物語の原動力であると考えると、これまでのキングの作品の中に1つの符号が見出される。 それはキングのホラーが家族の物語に根差しているということだ。家族に訪れる悲劇や恐怖を扱っているからこそ読者はモンスターが現れるような非現実的な設定であっても、自分の身の回りに起きそうな現実として受け止めてしまうのではないか。だからこそ彼のホラーは広く読まれるのだ。 仲睦まじい家庭に訪れた最愛のペットが事故で亡くなるという不幸。同じく最愛のまだ幼い息子が事故で亡くなるという深い悲しみ。本書で語られるのはこの隣近所のどこかで誰かが遭っている悲劇である。それが異世界の扉を開く引き金になるという親和性こそキングのホラーが他作家のそれらと一線を画しているのだ。 愛が深いからこそ喪った時の喪失感もまたひとしおだ。それを引き立たせるためにキングはルイスの息子ゲージが亡くなる前に、実に楽しい親子の団欒のエピソードを持ってくる。初めて凧揚げをするゲージは生まれて初めて自分で凧を操ることで空を飛ぶことを感じる。新たな世界が拓かれたまだ2歳の息子を見てルイスは永遠を感じた事だろう。人生が始まったばかりのゲージ、これからまだ色んな世界が待っている、それを見せてやろうと幸せの絶頂を感じていた。美しい妻、愛らしい娘と息子。全てがこのまま煌びやかに続き、将来に何の心配もないと思っていた、そんな良き日の後に突然の深い悲しみの出来事を持ってくるキング。物語の振れ幅をジェットコースターのように操り、読者を引っ張って止まない。 本書は見事なまでに対比構造で成り立った作品である。 生と死。若い夫婦と老夫婦。死を受け入れるクランドル夫婦と受け入れらないクリード夫妻。本来命を救う医者であるルイスが行うのは死者を弔う埋葬。愛らしい猫チャーチは一方で小鳥や鼠を弄ぶかのように殺す残虐性を備えている。愛らしかったゲージは甦った後、平気で邪魔者を殺害する残虐な悪魔となった。天使と悪魔。そして過去と未来。 本書の半ば、ジャドの妻ノーマの葬式で不意にルイスはこう願う。 神よ過去を救いたまえ、と。 せめて美しかった過去だけは薄れぬものとして残ってほしい。死んだ者は忘れ去られていく者であることに対するルイスの悲痛な願いから発したこの言葉だが、一方で今が苦しむ者がすがるよすがこそが美しかった過去であるとも読めるこの言葉。 しかし人は過去に生きるのではない。未来に生きるものだ。彼が選んだ未来はどうしようもない暗黒であることを考えながらも、果たして自分が同じような場面に直面した時、もしルイスのように禁忌の扉を開くことが出来たなら、彼のようにはしないと果たして云えるのか。 キングのホラーはそんな風に人の愛情を天秤にかけ、読後もしばらく暗澹とさせてくれる。実に意地悪な作家だ。 |