Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.73点 | 書評数:1603件 |
No.1363 | 7点 | 幻肢 島田荘司 |
(2017/12/10 22:40登録) これはいわゆるよくある記憶喪失物のミステリを最新の脳医学の知識と技術の方向から光を当てた、島田氏の持論である21世紀ミステリを具現化する作品である。 島田荘司氏が特に2000年代に入って人間の脳について興味を持ち、それについて取材を重ね、次作のミステリにその最新の研究結果を盛り込み、21世紀本格ミステリとして作品を発表しているが、本書もその系譜に連なる作品で、タイトルが示すように幻肢、つまり実在しないのに恰も実在しているかのように感じられる欠損した手足の存在を足掛かりにそれが引き起こす脳の仕組みを解き明かし、そして最新の医療方法によって、失われた記憶を呼び覚ましていく。 まずこの幻肢、つまりファントム・リムよりも幻痛、ファントム・ペインとして以前より知られており、私も興味があったが、本書ではその幻痛、いや現在では幻肢痛と呼ばれるこの現象についても最新の研究結果が盛り込まれており、大変興味深く読むことが出来た。 島田氏は幻肢の解釈を拡げていく。幻肢とは即ち手足のみを示すのではなく、人の全身さえも幻視させることが出来るというのだ。心霊現象を人間に見せると云われている側頭葉と前頭葉の間にある溝、シルヴィウス溝に刺激を与えることで幻視が起こるというのが本書での説だ。このシルヴィウス溝はアレキサンダー大王、シーザー、ナポレオン、ジャンヌ・ダルクといった歴史上の英雄やゴッホ、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ソクラテスといったその道の天才らが癲癇もしくは偏頭痛を持っており、それがシルヴィウス溝に強い刺激を与えて、常人にはない閃きや神の啓示などを聞いたとされている。ここに蓄えられているのは過去に経験した、忘れられた記憶も呼び覚ますことになり、それがかつて存在した手足があるように錯覚させたり、もしくは人そのものをも存在しているかのように思わせたりする、そんな仮説から本来ならば鬱病の治療としてその原因とされている左背外側前頭前野のDLPFCに、経頭蓋磁気刺激法、即ちTMSという脳に直接磁気を当てて刺激して血流を促し、脳の働きを活性化させる治療法をシルヴィウス溝に適用させるという方法で遥は雅人の幻を見ようと試み、そして成功するのだ。それはまた遥が失った事故当時の記憶を呼び覚ますことにも繋がる。遥は雅人の幻とのデートを重ねるうちに雅人への愛情が甦り、「あの日」の記憶を懸命に呼び覚まそうとする。 彼女は今日も幻とデートする。それは大学から自宅までのほんの数キロのデート。彼女しか見えない彼はいつも彼女のアパートの前で消え去る。その短い逢瀬が楽しければ楽しいほど、彼女の寂しさは募っていく。それでも彼女は亡くした彼に逢いたいがために今日も自分の脳を刺激する。そしてまた刹那のデートを繰り返す。 そんなペシミスティックなコピーが思いつきそうな感傷的な展開を見せるが、そんな切ない幻との恋愛も次第に様相が変わっていく。 通常ミステリならば例えば館の見取り図が欲しくなったりするが、本書では脳のそれぞれの部位が成す役割を詳らかに語るため、脳の各部位を示した図が欲しいと思った。海馬、大脳皮質、小脳、シルヴィウス溝、側頭葉、前頭葉とここに至るまでにそれだけの脳の部位が出てきた。更には記憶のルートは頭頂葉、側頭葉、帯状回を経由する、恐怖心や不安感をもたらす扁桃体、その中にある背外側前頭前野のDLPFC、等々が続々と登場する。これらそれぞれの部位を示した図があれば、それをもとに自分の頭に照らし合わせて読むとまた格別に理解できただろう。 そんな最新技術と事実を盛り込んで展開し、再生される失われた記憶の内容はなんともバカげた真相である。ここでは敢えて書かないが、これは島田氏の女性観が反映されているのかと眉を潜めてしまうような真相である。 しかし島田作品初の映画化作品として選ばれた本書。いや映像化を前提に書かれたのかもしれないが、亡くなった彼の幻との短いデートという儚げなラヴストーリーが、一転して事故の真相を知った途端、視聴者はどんな思いを抱くだろうか?私は前述したようにもっとどうにかならなかったのかと思って仕方がない。機会があれば映画の方も見てみよう。 |
No.1362 | 6点 | 人狼の四季 スティーヴン・キング |
(2017/12/06 23:50登録) キングが怪奇コミックスの鬼才バーニ・ライトスンと組んで著したヴィジュアル・ホラーブック。キングにしては珍しく、全編でたった200ページにも満たない。しかもその中にはふんだんにライトスンによるイラストが挟まれているため、文章の量もこれまでのキング作品では最少だ。 物語も実にシンプルでメイン州の田舎町に突如現れた人狼による被害について月ごとに語られる。 1月から12月までの1年間を綴った人狼譚。キングにしてはシンプルな物語なのは話の内容よりもヴィジュアルで読ませることを意識したからだろうか。その推測を裏付けるかのようにバーニ・ライトスンはキングが文字で描いた物語を忠実に、そして迫力あるイラストによって再現している。1月から12月まで、それぞれの月の町の風景と、人狼が関係する印象的なシーンを一枚絵で描いている。特に後者はキングが描く残虐シーンを遠慮なく描いており、背筋を寒からしめる。特に人狼の巨大さと獰猛さの再現性は素晴らしく、確かにこんな獣に襲われれば助かる術はないだろうと、納得させられるほどの迫力なのだ。 小さな町に訪れた災厄を群像劇的に語り、そしてその始末を一介の、しかも車椅子に乗った障害を持つ少年が成す、実にキングらしい作品でありながら、決して饒舌ではなく、各月のエピソードを重ねた語り口は逆にキングらしからぬシンプルさでもある。そしてキングにしてはふんだんにイラストが盛り込まれているのもまたキングらしからぬ構成だ。それもそのはずで、解説の風間氏によれば当初イラスト入りカレンダーに各月につけるエピソード的な物語として考案された物語だったようだ。しかしそんなシンプルさがかえってキングにとって足枷になり、7月以降はマーティを登場させ、人狼対少年という構図にしてカレンダーに添えられる物語ではなく、中編として最終的には書かれたようだ。だからキングらしくもあり、またらしからぬ作品というわけだ。 文章とイラストで存分に狼男の恐怖を味わうこと。それが本書の正しい読み方と考えることにしよう。 |
No.1361 | 7点 | インド王妃の遺産 ジュール・ヴェルヌ |
(2017/12/03 21:27登録) ヴェルヌにしては実に珍しい作品だ。未開の地アフリカ、世界一周に地の底、月面、海底、無人島とこれまで人類未踏の地への冒険を主にテーマにしてきた彼が選んだのはインド王妃の莫大な遺産をひょんなことから相続した2人の学者の対照的な生き様、そしてそれによって生じる諍いについての話だ。 20世紀の東西冷戦を彷彿させる、ヴェルヌらしからぬ緊迫した物語だ。フランス人とドイツ人による争いの構図となっているが、実はドイツ人であるシュルツ教授の一方的な対抗意識が生んだ無意味な戦争であるのが正確だろう。 この争いを生み出す原因の1つとして民族間の軋轢が語られている。というよりもドイツ人であるゲルマン民族が他の民族よりも優秀であることを証明し、誇示するためにシュルツ教授が我が一方的にケンカを吹っかけてきているのだ。ラテン民族のフランス人、サクソン民族のイギリス人など劣っている民族は浄化すべきであるといういわば選民思想が根源にある。まさにこれは後の第二次世界大戦でのナチスを彷彿させる内容だが、実は2017年の今現在、これは北朝鮮の度重なるミサイル試射の様子と実に重なるのである。つまりシュタールシュタートが北朝鮮、翻ってフランス市は日本ということになろうか。1879年の段階で書いていたヴェルヌの先見性には全く目を見張るものがあるが、一方で好戦的な国が平穏で安泰な国を、一方的な敵意で以って攻撃を画策する構図は実はこの時代から全く変わってないとも云える。 また本書はある意味スパイ小説の先駆けとも云える作品でもある。サラザン博士によって両親を早くに亡くしたマルセル・ブリュックマンはスイス人の製錬技師ヨハン・シュヴァルツと名を偽り、シュタールシュタートの製鉄工場に入り込む。そしてそこで彼は頭角をめきめきと現し、どんどん地位を向上させ、とうとう君主であるシュルツ教授の片腕にまでなるのである。それは巷間で噂されている新兵器の情報を得るためだった。しかしマルセルはシュルツ教授の、新兵器の秘密を知った者は死ななければならないという狂気の原則論によって死刑に処せられるが、危ういところで脱出に成功するのである。 このマルセルのシュタールシュタート潜入の一部始終はまさにスパイ小説そのものだ。しかも一都市がそのまま巨大軍事企業であることを考えると産業スパイとも読めるのだ。現在最初期のスパイ小説はジェイムズ・フィニモア・クーパーが1821年に発表した『スパイ』が先駆けとされており、その後には1901年のキップリングの『少年キム』が続くが、本書もまた一連のスパイ小説の系譜に名を連ねるべきではないだろうか。 230ページ弱のヴェルヌにしては短い長編でありながら、そこに収められた内容は科学の知識を盛り込んだSF小説でありながら、都市小説、政治小説、スパイ小説、企業小説など色んな要素を孕んだ作品である。 特に今回著しく目立ったのが敵役となるシュルツ教授の極端なまでのゲルマン民族至上主義志向である。ゲルマン民族こそ世界一の民族として知らしめるために彼はフランス市を近代兵器によって壊滅させ、全世界に恐怖と驚愕をもたらし、その威力を見せつけることに執念深い拘りを持ち続ける。調べてみると本書が著された1879年はドイツはビスマルク政権下であり、オーストラリア・ハンガリー、イタリアと結んだ三国同盟やオーストリア・ハンガリーとロシアと結んだ三帝同盟によってフランスに強い牽制を行っていた時代だ。つまり当時の世相が大きく反映されており、シュルツ教授はビスマルクをモデルしたのではないかと思われる。 しかしこれほど直截的にヴェルヌが特定の国の人物を悪人にしたのも珍しい作品だ。フランス人でありながら、アフリカ人、カナダ人、アメリカ人を中心に据え、夢溢れる冒険譚を紡いできたヴェルヌが書いた、皮肉溢れる近未来戦争小説。当時ヴェルヌが抱いていた憤りがこの作品には込められている。歴史の教科書のほんの数行でしか語られなかった当時のヨーロッパの政情が本書を通じてさらに深く垣間見られる。これこそ読書の、知の探索の醍醐味と云えるだろう。 しかし解説が三木卓とはねぇ。いやはや歴史を感じさせる。 |
No.1360 | 9点 | エンジェルズ・フライト マイクル・コナリー |
(2017/12/03 00:35登録) ケーブルカーと云えばLAではなくサンフランシスコのそれが有名だが、LAにもあり、それが本書で殺人の舞台となるエンジェルズ・フライトだ。実は世界最短の鉄道としても有名だったが、2013年に運行を停止していたらしい。しかし2016年の大ヒット映画『ラ・ラ・ランド』の1シーンで再び脚光を浴びて運行が再開したようだ。 1冊のノンシリーズを挟んでボッシュシリーズ再開の本書は奇遇にも最近再開されたケーブルカー内で起きた、LA市警の宿敵である強引な遣り口で勝訴を勝ち取ってきた人権弁護士の殺人事件に突如駆り出されたボッシュが挑む話だ。 作者はやはりボッシュに安息の日々を与えない。今度のボッシュはまさに否応なしにジョーカーを引かされた状況だ。警察の天敵で、何度も幾人もの刑事が苦汁と辛酸を舐めさせられた弁護士の殺人事件を担当することで、世論は警察による犯行ではないかと疑い、刑事も当初はその疑いを免れるために強盗によって襲われたものとして偽装する。 おまけに被害者は黒人であるのが実は大きな特徴だ。本書はスピード違反で逮捕された黒人をリンチした白人警官が無罪放免になったいわゆるロドニー・キング事件がきっかけで起きた1992年のロス暴動がテーマとなっている。作中LA市警及びハリウッド署の面々にとってもその記憶もまだ鮮明な時期で、エライアス殺人事件がロドニー・キング事件の再現になることを恐れており、少しでも対応を間違えば暴動になりかねない、まさに一触即発の状況なのだ。 作者自身もこのロドニー・キング事件を強く意識した物語作りに徹している。上に書いたように黒人であるロドニー・キングをリンチした白人警官が無罪放免になったのには陪審員が全て白人で構成されていたことが要因として挙げられている。一方エライアスが担当していたマイクル・ハリス事件もまた、事件に関わった警察及び検察官が全て白人であった。コナリーは実際の事件をかなり意識して書いていることがこのことからも窺える。従って本書では特に白人と黒人の反目が取り沙汰されている。ボッシュ達がこの微妙な、いや敢えて地雷を踏まされたような事件を担当するのも、ボッシュのチームに黒人の男女の刑事がいることが一因であることが仄めかされている。世紀末当時のLAはまだ根深い人種差別が横たわっていたことが描かれている。 更にエレノアとの結婚生活もまた破綻しかけている。元FBI捜査官でありながら、前科者という経歴で彼女はなかなか新たな職に就けないでいた。ボッシュも人脈を使って逃亡者逮捕請負人の仕事を紹介したりするが、エレノアはかつて捜査官として抱いていた情熱をギャンブルに向けていた。ラスヴェガスでギャンブラーとして生計を立てていた頃に逆戻りしていたのだ。ボッシュはエレノアに安らぎと全てを与える思いと充足感を与えられたが、エレノアはボッシュだけでは充たされない空虚感があったのだ。 本書で特に強調されているのは「すれ違い」だろうか。事件の舞台となったケーブルカー、「エンジェルズ・フライト」をコナリーは上手くボッシュの深層心理の描写に使っている。 一度は近づきながらもやがて離れていくケーブルカー。これを出逢いと別れを象徴している。一方同じ車両に通路を隔てて乗っている2人の関係性。これは同じ方向に進みつつも2人には何か見えない隔たりがある。ケーブルカーをボッシュが関わる女性との関係性に擬えるところにコナリーの巧さがある。 すれ違いと云えば、被害者エライアスの家族もそうなのかもしれない。人権弁護士として貧しき黒人たちの救世主として名を馳せた辣腕の黒人弁護士。しかし彼はその名声ゆえに近づいてくる女性もおり、それを拒まなかった。元人権弁護士でLA市警の特別監察官となっているカーラ・エントリンキンもまたその1人だった。 しかしエライアスの妻ミリーは女性関係については夫は自分に誠実であったと信じていますと告げる。決して誠実だったとは云わず、自分は信じているとだけ。これはつまりすれ違いをどうにか防ごうとする妻の意地ではないだろうか。世間に名の知れた夫を持つ妻の女としての矜持だったのではないだろうか。つまり彼女とハワード・エライアスのケーブルカーはそれぞれ上りと下りと別々の車両に乗ってはいたが、行き違いをせずにどうにかそのまま同じところに留まっていた、そうするように妻が急停止のボタンを押し続けていた、そんな風にも思える。 世紀末を迎えたアメリカの政情不安定な世相を切り取った見事な作品だ。実際に起きたロス暴動の残り火がまだ燻ぶるLAの人々の心に沈殿している黒人と白人の間に跨る人種問題の根深さ、小児に対する性虐待にインターネットの奥底で繰り広げられている卑しき小児ポルノ好事家たちによる闇サイトと、まさしく描かれるのは世紀末だ。 では新世紀も17年も経った現在ではこれらは払拭されているのかと云えば、更に多様化、複雑化し、もはやモラルにおいて何が正常で異常なのかが解らなくなってきている状況だ。人種問題も折に触れ、繰り返されている。そういう意味ではここで描かれている世紀末は実は2000年という新たな世紀が孕む闇の始まりだったのかもしれない。そう、それは混沌。死に値する者は確かに制裁を受けたが、それは果たして正しい姿だったのか。そして友の死の意味はあったのか。向かうべき結末は誰かが望み、そしてその通りになりもしたが、そこに至った道のりは決して正しいものではない。 結果良ければ全て良しと云うが、そんな安易に納得できるほどには払った犠牲が大きすぎた事件であった。 自分の正義を貫くことの難しさ、そして全てを収めるためには嘘も必要だと云うことを大人の政治原理で語った本書。その結末は実に苦かった。 ボッシュの息し、働き、生活する街ロス・アンジェルス。天使のような美しい死に顔をして亡くなったステーシーがいた街ロス・アンジェルス。まさに天使の喪われた街の名に相応しい事件だ。 その街にあるケーブルカーの名前は「エンジェルズ・フライト」、即ち「天使の羽ばたき」。しかし天使の喪われた町での天使の羽ばたきは天に昇るそれではなく、地に墜ちていく堕天使のそれ。 最後にボッシュは呟く。犯人の断末魔は堕天使が地獄へ飛んでいく音だったと。エンジェルズ・フライトの懐で亡くなったエライアスはこの堕天使によって道連れにされた犠牲者。世紀末のLAは救済が喪われたいくつもの天使が墜ちていった街。そんな風にLAを描いたコナリーの叫びが実に痛々しかった。 |
No.1359 | 4点 | 新千年紀古事記伝YAMATO 鯨統一郎 |
(2017/11/30 11:25登録) 『千年紀末古事記伝ONOGORO』に続く、鯨統一郎版古事記伝である。前作では稗田阿礼が巫女の力で感じ取る物語を綴る体裁であったが、続編にあたる本書ではヤマトタケルは“世界”を創るために根源へと遡る。 歴代の大王たちがなんとも本能の赴くままに振る舞うことよ。 前作では男と女の交合いこそが国創りだと云わんばかりにセックスに明け暮れるという話が多かったが、本書は神々から人間に登場人物が変わっただけあって、神々よりも理性はあるため、自重する面も見られるが、それでも妻がありながらも美しく若い女性、また熟れた肢体を持った女性を見ると見境なく交合う話が出てくる。東に行っては美しい娘に永遠の契りを誓いつつも西に行ってまたも美しい女性に出会えば后として迎えるとうそぶく。男のだらしなさが横溢している。更には自分こそが一番強いことを証明するため、各地の強者たちと戦い合う。それは身内も同様で王の兄の座を虎視眈々と狙って討ち斃そうとする兄弟げんかも繰り返される。昔から男は欲望のままに生きる子供っぽい生き物であるのだと殊更に感じる一方、昔の女性の一途さに感銘した。 はっきり云えばそれら歴代の統治者たちの物語にミステリの要素は全くな い。前作ではアマテラスと交合うために天の岩屋戸に籠ったスサノヲがアマテラスの背中に短剣を突き立てて殺害しながらも密室の中から忽然と消える密室殺人が盛り込まれていたが、本書ではそんな要素も全くない。せいぜいヤマトタケルが各地の強者を成敗するのに智略や奸計を用いたくらいだ。 従って本書は単純に古事記の解説本のように読んでいたが最後になって本書の意図が判明する。これはつまり本書全体が鯨氏が仕掛けた壮大なトリックなのだと。 このオチを是と取るか否と取るかは読者次第。ただ本書における鯨氏の意図は理解できる。 歴史とはずっと研究が続き、その都度生じる新たな発見で内容が改変されていく学問である。従って100人の学者がいれば100通りのの解釈が生まれる。鯨氏はこの歴史の曖昧さ、あやふやさこそがそれぞれの読者が学んできた歴史という先入観を利用してひっくり返すことをミステリの要素としていたのだ。デビュー作の『邪馬台国はどこですか?』はまさにそれをストレートに描いたもので、本書は逆に古事記のガイドブックのように読ませて、それぞれが知っている古事記との微妙な差異を盛り込むことでミステリとしたのだ。 ただ正直に云って本書は古事記をもとにした黎明期の日本の統治者たちのエピソードを綴り、それをヤマトタケルが造った世界であるという一つの軸で連なりを見せる連作短編集として読むのが正解だろう。私は1つの長編、そしてミステリとして読んでいたため、どんどん変遷していく時の治世者たちのエピソードの連続に、果たしてどこに謎があるのだろうと首を傾げながら読んだため、読中は作者の意図を汲み取るのに実に理解に苦しんだ。 もしかしたら本書の妙味とはこれを読んで古事記の内容が解ったと思ってはならない、古事記とは異なる点が多々あるからそれは自分で調べなさいと読者に調べて知ることの歓びを与えることなのだろう。だからこそ巻末に記載された参考文献一覧に、「本文読了後にご確認ください」と作者が注釈を入れているのだろう。 解らないことは自分で調べよう、じゃないと嘘をそのまま鵜呑みにするよ。 それが今まで4冊の鯨作品を読んできて感じたこの作者の意図であり、警告であると思うのである。 |
No.1358 | 9点 | 返事はいらない 宮部みゆき |
(2017/11/30 00:47登録) いやはや脱帽。久しぶりに宮部作品を、それも短編集を読んだが、流石と云わざるを得ない。犯罪や人の妬み、嫉みという負のテーマを扱いながら、読後はどこか前向きになれる不思議な読後感を残す佳品が揃っている。 偽造カード詐欺と狂言誘拐を組み合わせた表題作、後の『火車』でも取り上げられるカード破産をテーマにした「ドルネシアへようこそ」、店の金を持ち逃げされた従業員を追ったレストラン経営者のある決意を語った「言わずにおいて」、盗聴器が仕掛けられた引っ越し先の前の住人の正体を探る「聞こえていますか」、ブランドや装飾品に自分の存在価値を見出した女性の借金まみれの生活を扱った「裏切らないで」、そして最後は借金のカタに婚約指輪を取られた従姉のために一肌脱ぐ高校生の活躍を描く「私はついてない」。そのどれもが読後、しっとりと何かを胸に残すのである。 80年代後半から90年代に掛けて、狂乱の時代と云われたバブル時代の残滓が起こした当時の世相を映したような事件の数々。そんな世相を反映してか、6編中5編が金銭に纏わるトラブルを描いている。しかしそれらは過ぎ去った過去ではなく、今なお起きている事件でもある。 こんな出来栄えの短編集だからベストの作品が選べるわけがない。全てがそれぞれにいい味を持った短編だ。だから敢えてベストは選ばないが、唯一刑事を主人公にした「裏切らないで」が作者がこの時代の特異性を能弁に語っているのでちょっと書いておきたい。 地方から出てきて若さを武器に借金をしながらもいい仕事に就いていい男を見つけようとしていた女性が殺される。その彼女を殺した女性は東京の北千住から引っ越してきた女性なのにそこは「東京」ではないという。当時煌びやかで華やかさを誇ったバブル時代は実際は中身のない好景気で、その正体が暴かれた途端に弾けてしまい、しばらく世の中はその後始末に追われた。そんな上っ面の時代の東京もまたメディアに創り上げられた幻に過ぎなかったのではないかと刑事は述懐する。それは彼女たちの生き方も見た目を着飾ることに終始して、やりたいことがなく、ただ「貰う」だけ、手に入れるだけを目指していた。その中に中身があるかないかも分からずに。 本書はそんな時代の、東京を映した短編集。しかしバブル時代のそんな空虚さを謳っているのに、時代の終焉を迎え、乗り越えようとする人たちに向けての応援の作品とも取れる。こんな作品、宮部氏以外、誰が書けると云うのだろうか? 解っている。だから勿論、この問いかけに対する「返事はいらない」。 |
No.1357 | 7点 | 本棚探偵 最後の挨拶 喜国雅彦 |
(2017/11/26 11:59登録) 今回も本に纏わるおかしな面々のおかしな話や、喜国氏の本に対する至上愛が語られている。 恒例となった製本では3回に分けて私家版の『暗黒館の殺人』上中下巻+別冊の制作過程が書かれているし、本棚探偵の本分(?)である他人の本棚の整理についてはまたもや狂気の収集家日下三蔵氏の蔵書整理の模様がこれまた3回に分けて語られる(それほどまでに費やしながら、一向に片付かない日下邸。家人の苦労が偲ばれる。特に驚いたのが蔵書の山に埋もれて見れなくなったテレビがアナログ放送の物だったこと)。 とこのように古書やミステリに纏わる面白エピソードやおふざけが今回も収められているが、今までと異なるのは喜国氏が古書収集に幕を引き始めたところにある。トランク1つに収まるまで本を整理したいとその選出を試みてもいる。喜国氏もなんと59歳。会社勤めをしていれば来年には定年という年齢だ。そして知人の中にも死を迎える人たちが出てくる年齢でもあり、実際彼の後輩の訃報が本書に触れられている。そんな彼に老眼という転機が訪れ、本を整理するようになったり、また一箱古本市に出品したり、古本仲間が神保町に出店したり、と自分の蔵書を減らす方向にベクトルが向いているところが今まで違うところだ。 これは恐らく収集家の行き着く先ではないだろうか。とにかく若い頃には知識欲と収集欲に駆られ、自分の蔵書を増やすことに腐心していたが、老境に差し掛かると、これらを整理し、むしろ自分で持っておくよりも次の世代に引き継ごうという心持になってくるようだ。 また最後から二番目のエピソードに収録されている「12歳のハローワーク」には自身が自称する本棚探偵の職業について触れられている。これは次世代にこの本棚探偵と云う職業を引き継ごうという意思の表れなのだろうか。 そんな感じで収集人生を畳み掛けているかのように読める本書はタイトルに冠せられている通り、これは本棚探偵最後の1冊になるのだろうか?作者も一区切りになるとあとがきで書いている。 だがそうではないだろう。拘りの喜国氏ならばシャーロック・ホームズの短編集のタイトルに則って『~事件簿』までは書くだろうと確信している。従って有終の美という言葉は私は使わない。日本推理作家協会賞を受賞したからと云って勝ち逃げするのは性に合わないでしょう。 本当のさよならはその時にとっておこう。次も書きますよね、喜国さん? |
No.1356 | 10点 | わが心臓の痛み マイクル・コナリー |
(2017/11/22 23:43登録) これは誰かの死によって生を永らえた男が、その誰かを喪った人のために戦う物語。しかしその死が自分にとって重くのしかかる業にもなる苦しみの物語でもある。 何しろ導入部が凄い。コンビニ強盗で殺された女性の心臓が移植された元FBI捜査官の許にその姉が訪れ、犯人捜しの依頼をするのである。 これほどまでに因果関係の強い依頼人がこれまでの小説でいただろうか。もうこの設定を考え付いただけで、この物語は成功していると云えよう。 しかし驚くべきはコナリーのストーリーテリングの巧さである。 例えばボッシュシリーズではこれまでパイプの中で死んでいたヴェトナム帰還兵の事件、麻薬取締班の巡査部長殺害事件、ボッシュを左遷に追いやった連続殺人犯ドールメイカー事件、そして母親が殺害された過去の事件、車のトランクで見つかったマフィアの制裁を受けたような死体の裏側に潜む事件、更にノンシリーズの『ザ・ポエット』ではポオの詩を残す“詩人”と名付けられた連続殺人鬼の事件と、それぞれの事件自体が読者の胸躍らせるようセンセーショナルなテーマを孕んでいたが、本書では心臓を移植された相手を殺害した犯人を追うというこの上ないテーマを内包していながらも、その事件自体はコンビニ強盗・ATM強盗と実にありふれたものである。 日本のどこかでも起きているような変哲もない事件でさえ、コナリーは元FBI捜査官であったマッケイレブの捜査手法を通じて、地道ながらも堅実に事件の縺れた謎を一本一本解きほぐすような面白みを展開させて読者の興味を離さない。これは即ち巷間に溢れた事件でさえ、コナリーならば面白くして見せるという自負の表れであろう。 本書の原題は“Blood Work”と実にシンプルだが、これほど確信を突いている題名もないだろう。本来血液検査を表すこの単語、作中ではFBI捜査官のうち、仕事として割り切れぬ怒りを伴う連続殺人担当部門の任務のことを「血の任務」と呼ぶことに由来を見出せるが、本質的にはマッケイレブの体内を流れる依頼人グラシエラの妹グロリアの血が促す任務と云う風に取るのが最も的確だろう。映画の題名も『ブラッド・ワーク』とこちらを採用している。 まさに本書は血の物語だ。血は水よりも濃いと云われるが、これほど濃度の高い人の繋がりを知らされる物語もない。同じ血液型という縛りでごく普通の生活をしていた人たちが突然その命を奪われる。それもその臓器を必要とする者のために。そしてその中にまさか捜査をする自分も含まれていることをも知らされる。そしてその犯人が被害者を殺害することで自分が新たな命を得たことを知らされる。そしてその因果にはさらに醜悪な意図が含まれていたことも判明する。 こんなミステリは読んだことがない!私はこの瞬間コナリーのキャラクター設定、そしてプロット作りの凄さを思い知らされた。 いやはやなんとも凄い物語だった。コナリーはまたもや我々の想像を超える物語を紡いでくれた。そして何よりも凄いのは犯人へ繋がる手掛かりがきちんと提示されていることだ。 つまり読者はマッケイレブと同じものを見ながら、新たな手掛かりに気付く彼の明敏さに気付くのだ。特に真犯人にマッケイレブが気付く大きな手掛かりは明らさまに提示されているのに、驚かされた。コナリー、やはり只のミステリ作家ではない。 |
No.1355 | 7点 | チャンセラー号の筏 ジュール・ヴェルヌ |
(2017/11/02 23:57登録) 小学生の頃、世界の七不思議を語った本があり、その時に船が遭難する不思議な海域、サルガッソー海のバミューダトライアングルが取り上げられていた。その恐ろしさは当時少年だった私の心に鮮明に刻み込まれており、決して行きたくはないものだと思っていたが、まさかこの歳になってそれらの言葉と再会するとは思えなかった。そしてやはりその海域は伝説通りの魔の海域であることが本書の登場人物たちが遭遇する困難によって再認識させられた。 本書は実際にフランスの軍艦で起きた事件をモデルにしているようで、これもまたヴェルヌ作品では珍しい。物語は帆船チャンセラー号の1人の乗客J・R・カザロンの手記という形で進む。 個性的な乗客や一癖も二癖もある水夫たちが船、そして筏という1つの狭い空間で救出されるまでの4ヶ月の海での生活が語られる。 まず彼らを襲うのが船倉内で起きた火災。それからハリケーンの直撃に遭い、岩礁に座礁し、そのショックで船底に穴が空き、そこから流入する海水で消火をした後、船の残材で修復した後、岩礁を爆薬で破壊して再び航海に乗り出す。 ここまでは他のヴェルヌ作品同様の冒険スペクタクルの面白さをまだ備えているが、そこからはまさに絶望また絶望の連続である。 実話をもとにしているせいか、ヴェルヌ作品にしては珍しく悲愴感漂う雰囲気で物語が進む。これまでのヴェルヌ作品においても冒険に旅立つ、もしくは無人島に漂着した主人公たちにも次から次へと困難が待ち受けていたが、それらを知恵と勇気と閃きと実行力で乗り越えるという痛快さが伴っていた。 本書でも上に書いたような岩礁での探検やハムに似た形からハム・ロック岩礁と命名したり、また筏に乗ってからもタイを釣ったり、海藻の一種ホンダワラを採って、糖分を補給するなど、他のヴェルヌ作品と同様のサヴァイバル術が展開されるが、そのような雰囲気はそこまで。そこからは苦難と苦痛、裏切りと疑心暗鬼に満ちた、極限状態下での争いが繰り広げられる。 とにかく次々に人が死んでいく。その死にざまも様々だ。 そしてこんな生きるか死ぬかの極限状態での人間ドラマが実に生々しく描かれる。 極限状態の中では人間は2つに分かれる。生きることに執着しながらも人間としての尊厳を保とうとする者と捨て去ろうとする者だ。 前者の一人で特筆すべきは副船長から船長になったロバート・カーティスだ。どんな苦難が訪れようとも決して諦めない。99%の絶望の中に1%の希望があればそれを信じ、全うしようとする男だ。この男無くしては彼らの生還は成し得なかっただろう。 後者ではひっそりと食糧を隠し持ち、自分だけ助かろうとする者や人が死ぬことで分け前が増えることを望む者に死者が出来ればその一部を餌に釣りをする者はまだ可愛い方で、死者を食糧と捉え、死ぬや否や飛びつく者まで出てくる。 最近ではGPSなどの設備が発達して、誰もが気軽に海や山へ乗り出したりするが、その便利さを過信して十分な準備を怠り、海や山での遭難のニュースが現代でも起こっている。ニュースでは行方不明になったこと、そして数日後に救出されたこと、もしくは遺体で発見されたことが僅か数分で語られるのみだ。そんな自然の猛威に直面した人の生き死にの裏にはこれほどまでに凄まじい一幕があることを本書は伝えている。 冒険小説、SF小説の祖とも云われるヴェルヌにとっては異色の作品だった。1人のヒーロー的存在とそれをサポートする仲間たちが登場するのが常であった彼の小説の中では珍しく、ずる賢い人間たちが多く出てくる話であった。実際の冒険がこれほどまでに苦難と苦痛に満ち、醜いものであることを知っているからこそ、彼は夢とロマンに溢れる作品を描いたのかもしれない。本書はある意味ヴェルヌがそんな夢溢れる物語を書き続けるためにいつかは通らなければならなかった、極限状態に陥った人間の本当の姿を描いた作品、そんな風に思うのである。 |
No.1354 | 10点 | スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 スティーヴン・キング |
(2017/10/31 23:53登録) 先頃読んだ『ゴールデンボーイ』に収録された2編と合わせて『恐怖の四季』として編まれた(原題は“Different Seasons”とニュアンスが異なるのだが。正しくは本書収録の前書きに書かれている『それぞれの季節』が正しいだろう)中編集の後編に当たるのが本書。 この中編集はキング自身が語るように、彼の専売特許であるモダンホラーばかりではなく、ヒューマンドラマや自叙伝的な作品もあり、また1冊の本として刊行するには短編には長すぎ、長編としては短すぎる―個人的には300ページを超える「ゴールデンボーイ」と「スタンド・バイ・ミー」は日本では1冊の長編小説として刊行しても申し分ないと思うが―ために、この―当時の―キングにとって扱いにくい“中編”たちを1冊に纏めて、その纏まりのなさを逆手に取って“Different Seasons”と銘打ってヴァラエティに富んだ中編集として編まれたのが本書刊行の経緯であることが語られている。 そして4作品中3作品が映像化され、しかも大ヒットをしていることから、本書は結果的に大成功を収めた。そしてその作品の多様さが“キング=モダンホラー”のレッテルを覆し、むしろその作風の幅の広さを知らしめることになった。 まず表題作はもう30年近く前に見た映画なのに、本作を読むことで鮮明に画像が蘇ってくる。犬に追いかけられて必死に逃げるゴーディの姿。鉄橋を渡っている時に現れた列車から轢かれまいと死に物狂いで逃げる2人の少年たち。後に小説家となるゴーディが語るパイ食い競争の創作物語の一部始終。池に入ってたくさんのヒルに咬まれ、更にゴーディは股間にヒルが吸い付いて卒倒する。ゴーディが心底心を許すクリスが自分がとんでもない家族に生まれついたことで将来を儚み、ゴーディに未来を託すシーン。そして町の不良たちと死体の第一発見者の権利を賭けて対決する場面、などなど。それらは映像で見たシチュエーションと全く同じであったり、細かい部分で違ったりしながらも脳裏に映し出されてくる。当時観た時もいい映画だと思ったが、今回改めて読み直して自分の心にこれほどまでに強く焼き付いていることを思い知らされた。 このあまりに有名な題名は実は映画化の際につけられたものだった。この題名と共にリバイバルヒットとなったベン・E・キングの名曲“Stand By Me”がどうしても頭に浮かんでしまい、読書中もずっと映像と曲が流れていた。それほど音と画像のイメージが鮮烈なこの作品の映画化はキング作品の中でも最も成功した映画化作品として評されているのも納得できる。 そして映画の題名こそが本作に相応しいと強く思わされた。“友よ、いつまでもそばにいてくれ”。それは誰もが願い、そして叶わぬ哀しい事実だから胸に響く。別れを重ねることが大人になることだからだ。そんな悲痛な願いが本書には込められている。だからこそ本書では12歳の夏の時の友人が最も得難いものだったことを強調するのだろう。 もう1編の「冬の物語」と副題のつく「マンハッタンの奇譚クラブ」は紹介者だけが参加できるマンハッタンの一角にあるビルで毎夜行われる集まりの話。そこは主に老境に差し掛かった年輩たちが毎夜煖炉に集まって1人が話す物語を聞く、云わばキング版「黒後家蜘蛛の会」とも云える作品だ。『ゴールデンボーイ』の感想に書いたように、この『恐怖の四季』と称された中編集に収められた作品のうち、唯一映像化されていないのがこの作品だが、だからと云って他の3作と比べて劣るわけではなく、むしろ映像化されてもおかしくない物凄い物語だ。 その美貌ゆえに俳優を目指しニューヨークに出てきたものの、右も左も解らない大都会で生きるために演技教室で知り合った男性と肉体関係を持ったがために夢を断念し、シングルマザーの道を歩まなければならなくなったある女性の話だ。この実にありふれた話をキングはその稀有な才能で鮮明に記憶される強烈な物語に変えていく。 自分のボキャブラリーの貧弱さを承知で書くならば、少なくとも10年間は何も語らなかった男がとうとう自分から話をすると切り出しただけに、読者の期待はそれはさぞかし凄い物語だろうと期待しているところに、本当に凄い物語を語り、読者を戦慄し、そして感動させるキングが途轍もなく凄い物語作家であることを改めて悟らされることが凄いのだ。 そして2012年にはこの最後の1編も映画化されるとの知らせがあったが、2017年現在実現していない。「ゴールデンボーイ」は未見だが、残りの2作の映画は私にとって忘れ得ぬ名作である。もし実現するならばそれら名作に比肩する物を作ってほしいと強く願うばかりだ。 春と夏、秋と冬。それぞれ2つの季節に分冊された2冊の中編集はそれぞれの物語が陰と陽と対を成す構成となっている。春を司る「刑務所のリタ・ヘイワース」と秋を司る「スタンド・バイ・ミー」が陽ならば、夏を司る「ゴールデンボーイ」と冬を司る「マンハッタンの奇譚クラブ」が陰の物語となる。それは中間期は優しさの訪れであるならば極端に暑さ寒さに振り切れる季節は人を狂わす怖さを持っているといったキングの心象風景なのだろうか。 そして各編に共通するのは全てが昔語り、つまり回想で成り立っていることだ。キング本人を彷彿させる小説家ゴードン・ラチャンスを除き、残り3編は全て老人の回想である。それはつまりヴェトナム戦争が終わった後のアメリカが失ったワンダーを懐かしむかの如くである。田舎の一刑務所で起きたある男の奇蹟の脱走劇、元ナチスの将校だった老人の当時の生々しい所業、少年期の終わりを迎えた12歳のある冒険の話、そしてまだ若かりし頃に出逢ったある妊婦の哀しい物語。それらは形はどうあれ、瑞々しさを伴っている。 本書の冒頭に掲げられた一文“語る者ではなく、語られる話こそ”は最後の1編「マンハッタンの奇譚クラブ」に登場するクラブの煖炉のかなめ石に刻まれた一文である。 この一文に本書の本質があると云っていいだろう。モダンホラーの巨匠と称されるキング自身が語る者とすれば、本書はそんな枠組みを度外視した語られる話だ。 つまりキングが書いているのはホラーではなく、ワンダーなのだ。キングはモダンホラー作家と云うレッテルから解き放たれた時、斯くも自由奔放に物語の世界を羽ばたけるのだと証明した、これはそんな珠玉の作品集である。 春夏秋冬、キングの歳時記とも呼べる本書は『ゴールデンボーイ』と併せて私にとってかけがえない作品となった。 |
No.1353 | 4点 | 猿島館の殺人~モンキー・パズル~ 折原一 |
(2017/10/25 23:42登録) 折原一氏と云えば叙述トリックの雄として知られているが、翻ってこの黒星警部シリーズは密室物ミステリを扱う、本格ミステリど真ん中の設定である。上に書いたように本書もまた密室ミステリであるが、以前より作者は新しい密室ミステリは生まれず、これからは過去のトリックをアレンジした物でしかないと公言しており、密室物を売りにしたこのシリーズではいわゆる過去の名作ミステリの本歌取りが大きな特徴となっている。 本書ではまずポオの「モルグ街の殺人」がメインモチーフになっているが、その後もドイルの「まだらの紐」をモチーフにした密室殺人が起きるなど、複合的に過去のミステリのトリックがアレンジされて導入されている。 しかしさすがに3作目ともなると作者もこの設定自体にミスディレクションを仕掛けており、上に掲げたミステリをモチーフにしながら、実はもう1つクイーンの名作の本歌取りでもあったことが最終章で明かされる。1作目はクイーンの中編「神の灯」であったことを考えるとやはりこの作者は根っからのクイーン好きらしい。 しかしこの過去の名作ミステリから本歌取りすることを明言し、そこから新たなミステリを生み出すことに対しては異論はないのだが、黒星警部シリーズの一番困ったところは本歌取りした原典のトリックや犯人を明らさまにばらしていることだ。 本書でもいきなり「モルグ街の殺人」の犯人を明かし、更に「まだらの紐」のトリックも躊躇いもなく明かしているし、更には上に書いたクイーンの原典についても伏字ではあるが、伏字の意味がないほど明確に書かれている。 これらは恐らくあまりにも有名過ぎて本書の読むミステリ読者ならば既知の物だろうと作者自身が判断した上の記述だろうが、やはりどんな判断に基づこうがミステリのネタバレは厳禁である。特に他のミステリのネタバレを公然とすることに大いに抵抗を感じるのだ。 現代のミステリ読者は島田荘司氏の作品や新本格と呼ばれる綾辻氏の作品以降のミステリから触れることが多く、過去の名作、特に黄金期の海外ミステリを読まない傾向にあると云われて久しい。そんな背景も考慮して折原氏は今の読者が読まないであろう過去のミステリのネタバレをしているのかもしれないが、それでもやはりそれはミステリを書く者が読者に対して決して犯してはいけない不文律であると私は強く思うのである。特にこの黒星警部シリーズはカッパノベルスから刊行されたサラリーマンがキオスクで気軽に出張中に読むような類いのものであるから、そんな一般読者にさえネタバレをしているのである。 本歌取りをすることに是非はない。しかしその内容に問題がある。ネタバレをするのであれば、まずはその断りを書くべきだし、いやもしくはネタ元を明かす必要もないのではないかと思う。解る人には解ればいいのであって、別に明確にネタ元を示す必要もないだと思う。 あとそもそも埼玉県白岡署の黒星警部が神奈川県の江の島動物園から逃げたチンパンジーを探す担当になることが実におかしい。神奈川県警の所轄なのになぜ埼玉県の警部が担当するのか?書中では白岡には東武動物公園があるからと理由になっていない理由で駆り出されているが。この辺の非現実的な設定も気になった。現在のミステリならば必ず突っ込まれるところだろう。 さて本書の舞台となった猿島は実は実際に存在し、刊行時は無人島で大蔵省(刊行当時)関東財務局の管理地であり、立入禁止で渡し船もないと書かれているが、実は今では猿島公園として開放されている。 最近は昔の軍の要所の史跡としてよりもジブリ作品の『天空の城ラピュタ』を彷彿とさせる風景として人気のスポットとなっており、案外今回の葉山虹子の取材は時代を先駆けた現実味のある話だったようだ。また本書に書かれている猿島の由来となった日蓮に纏わる伝説も実際に伝えられており、元宮司の一族だった猿谷家のような血筋もどこかにいるかもしれないと、案外荒唐無稽な話でないところが面白い。 但し次回からはネタバレ無しでお願いしたいものだ。 |
No.1352 | 7点 | ブラッド/孤独な反撃 デイヴィッド・マレル |
(2017/10/23 23:58登録) これは喪った物を取り戻そうとして奪った男と、奪われた物を取り戻そうとして奮闘し、奪還したが、喪った物までは取り戻せなかった男たちの、哀しき兄弟の話だ。 神隠しに遭っていた弟が数十年ぶりに出逢ったら復讐者となっていた。この設定だけでも衝撃的なのに、マレルはさらに物語にツイストを仕掛ける。 ただ私が本当に恐ろしく感じたのは、ブラッドと数十年ぶりに再会したピーティの様子が本当に嬉しそうで楽しそうに見えたことだった。兄とその家族との団欒を満喫しているかのように振る舞いながら、心の底では全てを奪おうと考えていたことが実に恐ろしく感じた。この前段のブラッド一家とピーティとの和やかな交流の様子がピーティの心の暗黒の深さを助長しているように思える。 しかしこのような話を読むと、子供の頃の何気ない弟への仕打ちが起こした代償の重さを感じてしまう。物語の結末の苦さも含めて、こんなことが起こり得るアメリカの治安の悪さが恐ろしく感じる物語だった。 |
No.1351 | 9点 | 神秘の島 ジュール・ヴェルヌ |
(2017/10/16 23:46登録) 上下巻併せて830ページ弱。これまでのヴェルヌ作品でも長大を誇る作品だが、ヴェルヌの膨大な知識によって次から次に繰り出されるサヴァイバル術や探検行によって全くだれることなく物語が続く。それまでのヴェルヌ作品の全てを注ぎ込んだかのような一大長編だ。 農林畜産、養殖業といった第1次産業から、製鉄、建築、建設、ガラス工業と云った製造業の第2次産業とたった5人と1頭の犬、そして途中で加わるオランウータンによってこれら全てのことが網羅されている。サイラス・スミスと云う、ヴェルヌ自身を投影させたかのような博学の技師の指導の下、有能なメンバーによって彼らの生活は発展を遂げ、一種の町を、いや独立した国家を形成していくかのようだ。 勿論それらは非常に出来過ぎの感はある。何事もスムーズに進み、時折獣たちに彼らの飼育場が荒らされそうになるなどの事件もあるが、それは大したものではない。また長きに亘る共同生活にありがちな住民同士の価値観の違いによる衝突や派閥なども生まれず、実に理想的なコミュニティを形成されているのも人間ドラマ的には起伏がないだろう。そういった部分がもしかしたらヴェルヌ作品が子供の読み物との評判を授かっていたのかもしれないが、こういったごく少数の人間によって運命を切り拓く純粋な楽しさを本書は備えている。 ところで不満を敢えて云うとすればヴェルヌの作品はとことん女気がないことだ。本書で登場するのは全て男どもだ。今まで読んできた作品で女性が物語に絡んできたのは『グラント船長の子供たち』と『八十日間世界一周』ぐらいではないだろうか。ヴェルヌの書く物語は少年たちの冒険心をくすぐるのには非常に優れているが、昨今の小説に必需品とも云えるロマンスが一切ないのである。これが世間をしてヴェルヌ作品を児童文学たらしめている1つの要因であると思える。 しかしそれだけでヴェルヌ作品を敬遠するのは大きな間違いだ。上に書いたように本書は数多の知識と生き抜く知恵が豊富に与えられ、しかも今までの一連のヴェルヌ作品が単発的に書かれたわけではなく、大きな物語世界が広がっていたことをも教えてくれるのだ。確かに現代の小説から見れば男女のロマンスなどの感情の起伏に乏しい面もあるが、今なお読まれるべき作品であるとの思いは強まった。 南北戦争からの決死の脱出、無人島に辿り着いた男たちのサヴァイバル生活、海賊たちとの戦い、そして彼らを見守る謎の存在、最後は生きるか死ぬかのタイムリミットサスペンス。 よくよく考えると現代の冒険小説に必要な要素がほとんど全て備わっている。ないのは上述した男と女のロマンスぐらいだ。19世紀の遺物と思わず、手に取ってみてはいかがだろうか。少年少女の頃に胸躍らせた冒険の愉しさが、4年間を諦めずに生き抜いた男たちの生活と共に必ず蘇ってくることだろう。 |
No.1350 | 8点 | ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 スティーヴン・キング |
(2017/10/04 23:44登録) キング版枕草子とも云える本書は4編中3編が映画化され、しかもそのいずれもが大ヒットしていることが凄い。それほどこの中編集には傑作が揃っていると云っていいだろう。 まず物語の四季は春から明ける。この季節をテーマに語られるのは「刑務所のリタ・ヘイワース」。副題に「春は希望の泉」と添えられている。まさしくその通り、これは希望の物語である。 この作品に対して私は冷静ではない。本作を原作として作られた映画『ショーシャンクの空に』は私の生涯ベスト5に入るほどの名作だからだ。静謐なトーンでじんわりと染み入るように進む物語に私は引き込まれ、そして最後の眩しいばかりの再会のシーンにこの世の黄金を見るような気になったからだ。本作でレッドが仮釈放され、アンディーの跡を追う一部始終は、人生の大半を刑務所で過ごした人たちが身体に染み付いた刑務所の厳格な生活リズムという哀しい習性とそれを逆に懐かしむ危うさに満ちていて、思わずレッドの平静を願わずにはいられない。そして希望溢るるラスト5行のレッドの祈りにも似た希望は映画のラストシーンとはまた違った余韻を残す。その希望が叶うことを本作の副題が証明しているところがまた憎い。 さて次は「転落の夏」と添えられた表題作。元ナチス将校の老人と誰もが思い描くアメリカの好青年像を備えた少年の奇妙で異様な交流を描いた作品だ。 その副題が示すように一転して物語はダークサイドへ転調する。アメリカの善意を絵に描いたような少年が元ナチス将校の老人の過去を共有することで心に秘められていた殺人衝動を引き起こす話だ。 逢ってはいけない2人が逢ってしまったことで転落していく、実に奇妙な老人と少年の交流を描いた作品はキングしか描けない話となった。よくもまあこんな話を思いつくものだ。 「刑務所のリタ・ヘイワース」は28年もの長きに亘って冤罪で自由を奪われた男が自由を勝ち取る物語。一方「ゴールデンボーイ」は30年近く逃亡生活を続けてきた老人が最後に自由を奪われ、自決する物語。彼らが重ねた歳月は苦しみの日々だったが、その結末は見事に相反するものとなった。前者は自由への夢を見続けたが、後者は自分の行った陰惨な所業ゆえに悪夢を見続けた。 次の後編はあの名作「スタンド・バイ・ミー」が控えている。キングが綴った四季折々の物語。全て読み終わった時に心に募るのはその名の通り恐怖なのか。それとも感動なのか。その答えはもうすぐ見つかることだろう。 |
No.1349 | 7点 | ブラッド・マネー ダシール・ハメット |
(2017/09/29 23:54登録) ハメットの長編デビュー作は『血の収穫』であることは広く知られているが、訳者の小鷹信光氏の解説によれば、『血の収穫』の前の習作として本書に掲載された「ブラッド・マネー」が書かれたようだ。この題名、原題もそのままで直訳すれば「血まみれの金」となるが、『血の収穫』とも訳せる。内容は異なるが、題名の近似性からも理解できる。 さて町に全国から悪党どもが訪れ、何と150人による二つの銀行の同時襲撃が起こる。そこからは事件に関わった悪党たちが自分たちの分け前を得るために殺戮ショーを繰り広げるという実に派手で映像的な作品である。 なんとも荒廃した幕切れだ。これが正義の本当の姿なのだと無慈悲な筆でハメットは語った。真の初長編作は手習いとは思えないほど躍動感と抑揚に満ちたストーリー、そして登場人物たちが織り成す血まみれの祭りだった。 その他6編の短編が収められているがそれらを含めて一言でいえば「荒くれどものジャムセッション」。 そんなハメットの筆は淀みなく、ストーリー展開もスムーズでありながらもサプライズを仕込んでいるところにミステリの妙味がある。しかもそれは単なるミステリとしての仕掛けではなく、闇社会で生きる者たちが生き延びるために行ってきた権謀詐術がサプライズに繋がっているところに本格ミステリと一線を画したリアリティがある。生き延びるためには平気で嘘をつき、そしてまた自分を殺そうとする人たちを平然と殺す者たち。そんな生き馬の目を抜く輩たちの世界ではいかに一歩先んじて出し抜くかが彼らにとって死活問題になるわけだ。そんな世界をミステリに持ち込んだハメットの功績はかなり大きいと再認識した。 もう少し踏み込んで書くと、本格ミステリを読んだハメットは本当のワルはこんなまどろっこしい方法で人を殺害しない、ハジキ1つをぶっ放すだけ。そして相手を騙すことに頭を使うのだと思ったことだろう。そんなリアルをミステリとして描いたのだ。いやワルの生き様の中にミステリがあったことを教えてくれたのだ。 |
No.1348 | 4点 | クラウド・テロリスト ブライアン・フリーマントル |
(2017/09/20 23:50登録) 御歳81歳のフリーマントルが2015年に発表したのはなんとサイバー空間を利用した対テロ工作を駆使するNSAのエリート局員ジャック・アーヴァインが率いる面々の活躍を描いた本作だ。当時79歳の高齢にもかかわらず、最先端の情報端末を駆使したこのような作品を書くフリーマントルの創作意欲の旺盛さにまず驚いた。 冒頭でも語られているがオサマ・ビン・ラディンが率いていたアルカイダが情報交換のツールとして使用していたのは今や誰もが利用しているSNSのフェイスブックだった。この全世界数億人が利用するSNSは彼らにとって絶好の隠れ蓑になっていたことが本書でも語られている。なんとアメリカの一企業が、正確には一青年が開発したSNSが敵対者であるアラブ系テロリストにとってこの上ない便利な通信手段になっていたとはなんとも皮肉なことである。 さて物語の中心に据えられている<サイバー・シェパード作戦>。これはサイバー空間でテロリストの一味に成りすまし、テロリスト同士を情報操作によって戦わせて共食いさせるという、いわば現代版『血の収穫』である。しかしそのためには政府の職員であるNSA職員が隠密裏にハッカー行為をして他国のサーバーに侵入するという違法行為を犯すという実に危うい作戦であり、その事実が発覚すれば各国からの非難は免れない代物だ。本書ではイランの諜報機関のサーバーに侵入してテロリストの動向を監視し、CIAが取り逃がしたテロリスト、アル・アスワミーの足取りを探っているが、これは実際に起きたCIA、NSA局員であったエドワード・スノーデンによる2013年にNSAや英国のGCHQがマイクロソフト、グーグル、フェイスブックを監視していたことが発覚した<プリズム計画>、<テンポラ作戦>事件に着想を得ていることだろう。作中でもそのことについては言及されているが、それを踏まえながらも同様のことをしていることが結局米英政府は懲りていないということで、我々は今なお監視下に置かれていることが仄めかされている。 しかしこんなにも短気な連中ばかりが出てくる小説だっただろうか、フリーマントルの作品は。ディベートや会議のシーンでは常に自分の保身のために相手を罵倒し、責任転嫁の怒号が飛び交う。会話文にはエクスクラメーション・マークが散見され、心中で悪づく地の文が必ずと云って挟まれている。ほとんど建設的な意見が見られず、失敗が起きた時のために着かず離れずの状態にしておきたい連中ばかりだ。それはアメリカ側のみならずイギリス側も同様で、自分を通さずに話が上に成されることに腹を立て、足を引っ張ろうと画策する。外部に敵あれば内部にも敵ありの状態。更にお決まりの如くCIA中心の捜査にFBIも介入してきて水を差し、更にCIAの面々の頭に血を登らせ、怒鳴り声が乱舞する。そんな中、失敗の責任を取らされ、無能の烙印を押され、権力の座から落とされる者、有事の時の責任転嫁のためだけに事務屋として窓際にいることを強いられる者と落伍者たちが増えていく。 内部抗争と、ライバル視する国同士の争いに筆が注がれ、本来の敵であるアルカイダのリーダーはなかなか捕まらないという、なんとも不毛な展開が続く。フリーマントルも歳を取って癇癪が過ぎるようになったのだろうか。とにかくページを捲ればケンカや諍いばかりで、正直読んでいて気分が良くなかった。 しかしサイバー空間での諜報活動とテロリストとの攻防を描きながらも、上に書いたように内部抗争の権謀詐術の数々に筆が割かれているのはいつもと同じである。いや逆に今回は情報戦であるがゆえにいつもよりも情報が多く、それに下らない抗争が上乗せされている分、かなり苦痛を強いられた。敢えて苦言を呈するならば、やっていることは同じで題材と登場人物を替えただけであるとの思いが強く残ってしまった。 80歳を迎えて健筆を振るうフリーマントルの創作意欲には感服するが、もし次作があるなら、爽快な、もしくは少しは心温まる結末を迎える物語を読みたいものである。 |
No.1347 | 9点 | 虚ろな十字架 東野圭吾 |
(2017/09/11 23:29登録) かつて東野圭吾は『手紙』で殺人犯の家族の物語を描き、『さまよう刃』で娘を殺害された父親の復讐譚を描いた。本書『虚ろな十字架』ではその両方を描き、償いがテーマになっている。 物語の主旋律は娘を殺害され、更に別れた妻を殺害された中原道正のパートであるが、次第に対旋律であった仁科史也のパートが重みを帯びてくる。特に仁科史也という人物の気高いまでの誠実さに隠された謎に俄然興味が増してくる。このもはや聖人としか思えないほどの精神性はどこから来るのかと非常に興味を持たされた。 結婚とは、夫婦になると云うのは、家族になると云うのは、知らない者同士が縁あって一緒になるということだ。一緒に住んでいくうちにお互いのそれまでの人生で培われた性格や癖、足跡などを知り、生活を作っていく。しかし何十年過ごしても知らない一面があったことを気付かされるのもまた事実だろう。本書にはそんな家族という最小単位の共同体に隠された謎が描かれている。 血の繋がった子供を持ちながらも、その実本当の姿を知らなかった夫婦。 血の繋がらない子供を持ちながらも、自ら降りかかった不幸に立ち向かおうとする夫婦。 血の繋がりこそが家族の絆ではないこと、それ以上の絆があることをこの2つの家族の生き様は象徴しているかのようだ。 様々な人があれば様々な人生、様々な事情、そして生き様や考え方がある。今回登場した人物の人生が等価であるとは決して云えないだろう。それを人を殺したから罰せられるべきなど単純化したルールで果たして杓子定規的に人を断ぜられるものかとこれまで作者は問いかけてきた。結局人は道理で生きているのではなく、人情で生きているのだとこのような作品を読むと痛感させられ、何が正しくて間違っているのかという我々の既存概念を揺さぶられる。 深く深く考えさせられる作品だった。決して全てにおいて正しい考えなどないことをまた思い知らされた。人は過ちを犯してもやり直して生きていられる、そんな世の中が来ることを望むのは夢物語なのか。そんな思いが押し寄せてくる作品だった。 |
No.1346 | 7点 | ダーク・タワーⅠ-ガンスリンガー- スティーヴン・キング |
(2017/09/10 22:07登録) 私が読んだのはシリーズ完結を機にキングによって手が加えられたヴァージョンであり、2004年に新潮文庫から刊行された版。 ファンタジックな世界でありながら、我々の住む世界とはどこか地続きで繋がっているようで、例えばガンスリンガーが訪れる<タル>の町のピアノ弾きが奏でる音楽はビートルズの『ヘイ・ジュード』であり、ジェイクが来た町はニューヨークでタイムズスクエア、ゾロといった映画の登場人物も出てくる。我々の住んでいる世界とは少し位相の異なる世界がこのガンスリンガーたちが住まう世界のようだ。 本書の訳者であり、書評家でもある風間賢二氏の解説によれば、この<ダーク・タワー>シリーズはキングの作品世界の中心となる壮大なサーガであるとのこと。つまり今まで読んできた作品、そしてこれから読む作品に何らかの形で影響し、また繋がりがあるとのことである。そして本書はまだ物語の序の序に過ぎないとのこと。従ってまだ作品世界のほんの入り口に立っただけに過ぎず、次の第Ⅱ巻からが本格的な幕開けとなるらしい。この解説を読んでキングの一読者となり始めた私にとってこのシリーズはやはり読むべき物語であると確信した。 数々の謎を孕んだ壮大なキングのダーク・ファンタジーはたった今始まったばかりだ。 |
No.1345 | 7点 | 本棚探偵の冒険 喜国雅彦 |
(2017/09/10 00:43登録) 喜国氏の古本収集狂想曲という副題もつけられそうな本書は世に蔓延る古書収集家のHPやブログにありがちな、どこそこの店で○冊買ったとか、△×デパートの古本市で~~をゲットしたとか、紙一重の差で獲られたとか、古本屋の品揃えに対するコメントなどいわゆる古本マニアが陥りそうな買い物披露会、蔵書展覧会的内容になっておらず、古本や本自体を通じて様々な試みをしているのが面白い(いや勿論半分は古本屋探訪記なのだが)。 特に面白く読んだのが1日でどれほどポケミスをゲットできるかを描いた「ポケミスマラソン」だ。私も一度神田の古本街で古本屋巡りをしたが、朝から行って昼過ぎでも廻りきれず、疲れ切ってしまったのを覚えており、喜国氏の深夜まで本屋を駆け巡る根性には畏れ入った。本を集め出すと、多分ないだろうと解っているのに、どうしても遠方であっても訪れざるを得ない衝動に駆られ、収穫が大方の予想通りになかった場合は徒労感に加え、財布に残ったお金を見てその日に費やした交通費を想像して絶句してしまうのである。本書にはそういった本好きのどうしようも止まらない衝動があらゆる方面から描かれている。 またこれだけいっぱい本を集められる財力と本を収納するスペースがある羨ましさ(巻末のエッセイでは倉庫を借りているとのこと)を感じつつ、表紙が違っていたり、版が違うことで文章や中身が変わっているだけで同じ作品でも何冊も買ったりと、そこまではと感じる部分もあり、本好きの夢の具現化と自分の本好きのバロメータを測る指針にもなったり、本好きあるあると本好きと収集狂の境界を垣間見られたりとなかなかに深い内容なのである。 本書は本好きの本好きによる本を好きになり過ぎておかしなことをしてしまった人々のお話である。この中で語られるエピソードにもう1人の自分を重ねるもよし、はたまた自分の好きな世界のさらに奥深い所を知って、境界線を引くもよし、また喜国氏のように函作り、豆本作りを手掛けるもよしと、読めば読むほど本の深さを知らされる。特に巻末の古書収集仲間の座談会の内容の濃い事、濃い事。そして双葉社の喜国氏の担当もいつの間にか感化されて古書収集に精を出すようになってしまった。古書収集は友を呼ぶのか。 |
No.1344 | 7点 | 第三閲覧室 紀田順一郎 |
(2017/09/03 17:55登録) 紀田順一郎氏と云えばビブリオミステリだが、今回は今までの神保町を舞台にした古書収集に纏わるミステリではなく、大学の図書館で起きた殺人事件を扱っている。しかも狂的な古書収集趣味を持っているのは学長の和田凱亮のみで、周囲の人間は大学の費用を稀覯本収集に公私混同して費やす学長に反発する教授たちが取り囲み、学内では派閥争いが起こっているという珍しい設定だ。 密室殺人、ダイイング・メッセージと本格ミステリの要素を放り込みながらも新本格ミステリ作家たちが描くようなトリックやロジックの追求といったガチガチの本格という空気は実に薄く、正直私自身はそれらのトリックについては読書中ほとんど考慮しなかった。 なぜかと云えば登場人物たちのディテールの方が実に濃密で面白かったからだ。 主要人物たちに関するディテールがとにかく濃い。容疑者である島村が誠和学園大学の図書館運営主任になった島村が現職に至るまでの和田宣雄との縁について書かれた内容や和田凱亮の生い立ちなどは、かなりのページが割かれて描かれ、一種実在の人物の伝記かと見紛うほどの濃さがある。昭和の混乱期を生きてきた人間の逞しさや強かさを行間から感じるのである。この濃度は戦前生まれである紀田氏のように戦前戦後の混乱期を知る作家の強みというものだろうか。 また本に纏わる蘊蓄も豊かで知的好奇心をそそる。稀覯本の真贋鑑定に関係して紙博士なる府川勝蔵なる人物が登場するが、そこで披瀝される紙やインクに関する知識は実に興味深い。 本格ミステリとしては意外な犯人を設定しては見たが動機はさほど練られてなく、またミスディレクションの演出のために余計な設定を持ち込んでしまったように思えてならない。上にも書いたようにディテールが濃いだけに逆にミステリとして犯人の動機という肝心な部分や登場人物のエピソードがなおざりになってしまった感があるのは正直勿体ない。 私も本好きで、できれば図書館などで借りるのではなく、自分で所有したい人間。しかも新刊であることに拘り、読むために手に入れた古本は読了後手放している。従って本とは読むために所有する物と考えており、決して集めて悦に浸る物として考えていないから、これらコレクターの境地が解りかねる。本は読まれてこそ本であり、保管されているだけでは書物本来の意義がないではないかと思っているので、逆に云えばまだこのような境地に至っていない自分は正常であると改めて認識できた次第である。ただ絶版を恐れて買ってはいるものの、読むスピードとつり合いが取れていないため、関心のない人から見ると私も大同小異だと思われているのかもしれないが。 紀田順一郎氏のビブリオミステリは一ミステリ読者として自分がまだごく普通のミステリ読み、書物購入者であることを再認識させられるという意味でも良著だ。このような本に魅せられ本に淫した人々のディープな世界を見ることはしかしなんと面白い事か。どんな世界でも人を狂わせる魔力はあろうが、書物に関しては派手さがないだけに闇の如き深さがあるように思われる。最近絶版の本は古本を購入して読むようになってきた私も本書に描かれた人々のような闇に囚われないよう気を付けねば。 |