Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.73点 | 書評数:1614件 |
No.1374 | 7点 | ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所 ダグラス・アダムス |
(2018/02/16 23:21登録) 英ガーディアン紙の「死ぬまでに読むべき1000冊」でSFコメディ『銀河ヒッチハイク・ガイド』が選ばれたダグラス・アダムス。邦訳された作品はそのシリーズ作品しかなかったが、2017年になって唯一の奇想ミステリーである本書が訳出されることになった。これはやはり上記のイベントによる再評価によるところなのだろうか。 さてそのアダムスだが、やはり作品は一筋縄ではいかない。電動修道士の話やスーザン・ウェイという女性の話が同時並行的に語られ、どんな物語が始まるのか、しばらくは読者は予想が着かなく、100ページを過ぎたあたりからようやく物語に繋がりが出てくる。 そして探偵ダーク・ジェントリーが本格的に姿を現すのは190ページ。物語としては約半分の辺りである。そして彼を通じてようやく本書のメインの事件が明かされる。まず誰しもが疑問に抱くダーク・ジェントリーの肩書である全体論的探偵とは一体どう意味なのか? ダーク・ジェントリー曰く、「全体論的」とは万物は根本的に相互的に関連し合っており、そこに目を向けて物事を調査し、そして解決に結びつけるという物。従って猫の捜索1つにおいても、万物の相互関連性のベクトルを地図に記入して位置を特定すればそれはバーミューダ島に行き当たり、そこまで出張しなければ全体が見えてこないとのたまう。この辺の胡散臭さこそがアダムスの真骨頂と云えるだろう。 とにかくアダムスの筆致は縦横無尽である。書きたいことを次々と放り込んで物語は進む。 量子力学、哲学、芸術論、物理学に数学を物語の流れを阻害する云々関係なく放り込んでくる。しかしそれらは決して退屈を誘うわけではなく、寧ろ私が読書の愉悦と考えている、新たな蘊蓄、知識の得ることが出来る、非常に興味深い内容に満ちていた。 アダムスの書きたいがままに綴られているような物語はしかし後半に至ると実に用意周到に仕掛けられた伏線が散りばめられていることが解る。 今まで曖昧模糊だったものが明らかになり、見事なまでに物語は美しく着地する。 まさかこれだけ取っ散らかった物語がかくも見事な着地を見せるとは思わなかった。しかも色んなその道の歴史的事実やゴシップを知っていると私が知っている以上に思わずニヤリとするような仕掛けも施されている。 二度読み必至の本書はダグラス・アダムス作品の中でも珍しく内容のまとまった作品ではないだろうか。 本格ミステリにとってタブーとされている題材を扱いながらもこれだけ見事な着地を見せる。ジャン・コクトーは日本の相撲の立合いを見て「バランスの奇跡だ」と評したが、私はこの玩具箱のような通常一同に会しえないとんでもない設定が美しく着地する物語をバランスの奇跡であると評しよう。 |
No.1373 | 7点 | バッドラック・ムーン マイクル・コナリー |
(2018/02/11 01:04登録) コナリーの3作目のノンシリーズである本書はこれまでのコナリー作品とは色々と異なっているのが特徴だ。まず主人公がなんと女性である。元窃盗犯で仮釈放の保護観察の身であるキャシー・ブラックが主人公だ。 そして今までは刑事ボッシュを筆頭に、新聞記者のジャック・マカヴォイ、元FBI捜査官のテリー・マッケイレブが主人公を務めたシリーズ物、ノンシリーズ物も含めて犯人を追う捜査小説だったが、今回の主人公キャシー・ブラックは女泥棒。つまりクライム・ノヴェルであることだ。 そして書き方や物語の進め方も以前の作品とは異なっている。このキャシーが女泥棒と判るのは案外物語が進んでからだ。それまでは彼女は一体何者で、どんな過去があったのかがなかなか語られず、仮釈放の身でハリウッドのポルシェのディーラーに勤める、人の目を惹く美人であることが解っているだけである。前情報と知識がないまま物語は進む。そしてその中で断片的ながらキャシーの過去が浮かび上がってくるという、ちょっと変わった書き方をしているのが特徴だ。 実に映像向けのストーリーであり、起伏に富みながらもどこか深みを感じさせない。コナリー作品の特徴と云えばハードボイルドを彷彿とさせる緊張感と暗さを伴った重厚な文体に、事件に関わらざるを得ない宿命のような物を感じさせる主人公がどこまでも謎を追いかけていく、泥臭さを匂わせる文体で物語を勧めながら、いきなり頭をドカンと殴られるような驚きのサプライズが仕込まれているという読書の醍醐味を感じさせる味わいなのだが、本書はなかなか主人公キャシーの氏素性と過去が明かされぬまま、物語が進み、訪れるべき終幕に向けて一気呵成に突き進む、疾走感がある文体で逆にそれが特徴である深みや味わいを逸している。 ただコナリー作品独特のテイストもないわけではない。占星術における十二宮のどこにも月が入らない時間帯は不吉なことが起きるヴォイド・ムーンというモチーフを用いて上手くいくはずの犯行を絶望的なトラブルに主人公たちを巻き込む。 全てが6年前のあの日へと収斂する。因縁の過去が彼ら彼女らを引き寄せていく。 コナリー作品はこのように限定された人物たちが過去の因縁によって再び引き寄せられるプロットが好みのようだ。あれほど広大なラス・ヴェガスでもう一度会いまみえる過去の因縁たち。それはどうやっても切っても切れない鎖のような絆で結ばれた運命の人々のように描かれる。その宿命的な繋がりを断ち切ってこそ、過去に縛られた人たちに未来は訪れるのだというメッセージが込められているようにも思える。 その因縁に抗えない人たちはそのまま飲み込まれ、そこで死に絶える。犯罪に手を染めた者たちにとって因縁の鎖は容赦なくその身を縛り、そしてあの世へと誘う。そんな冷徹さが垣間見える。 全てが虚しい享楽の夜の塵となった。誰もが望んだものを得られぬままに幕が引かれた。しかし唯一虚しい戦いに生き残ったキャシー・ブラックは孤独の道を行く。彼女が目指すのは砂漠。しかし砂漠が海になるところだ。かつての恋人と幸せな時を過ごした場所へ。 キャシー・ブラック。彼女もまた壮大なボッシュ・サーガの一片であればいつかまたどこかで逢うことになるだろう。それまでこの哀しき女泥棒のことを覚えておこう。 |
No.1372 | 10点 | ペット・セマタリー スティーヴン・キング |
(2018/02/09 23:54登録) メイン州を舞台にした本書のテーマは誰しもに訪れる死。ペット・セマタリーという地元の子供たちで手入れがされている山の中のペット霊園をモチーフにした作品だ。 この作品も映画化されており、何度かテレビ放送されたが、なぜか私は観る機会がなく、従って全く知識ゼロの状態で読むことになった。 典型的な死者再生譚であり、そして過去幾度となく書かれてきたこのテーマの作品が押しなべてそうであったように、ホラーであり悲劇の物語だ。実際に本書の中でもそのジャンルの名作である「猿の手」についても触れてもいる。 そんな典型的なホラーなのにキングに掛かると実に奥深さを感じる。登場人物が必然性を持ってその開けてはいけない扉を開けていくのを当事者意識的に読まされる。 読者をそうさせるのはそこに至るまでの経緯と登場人物たちの生活、そして過去、とりわけ今回は死に纏わる過去のエピソードが実にきめ細やかに描かれているからだろう。 情理の狭間で葛藤する父親が、愛情の深さゆえに理性を退け、禁断の扉を開いていく心の移ろう様をこのようにキングは実に丁寧に描いていく。判っているけどやめられないのだ。この非常に愚かな人間の本能的衝動を細部に亘って描くところが非常に上手く、そして物語に必然性をもたらせるのだ。 つまりこの家族の愛情こそがこの恐ろしい物語の原動力であると考えると、これまでのキングの作品の中に1つの符号が見出される。 それはキングのホラーが家族の物語に根差しているということだ。家族に訪れる悲劇や恐怖を扱っているからこそ読者はモンスターが現れるような非現実的な設定であっても、自分の身の回りに起きそうな現実として受け止めてしまうのではないか。だからこそ彼のホラーは広く読まれるのだ。 仲睦まじい家庭に訪れた最愛のペットが事故で亡くなるという不幸。同じく最愛のまだ幼い息子が事故で亡くなるという深い悲しみ。本書で語られるのはこの隣近所のどこかで誰かが遭っている悲劇である。それが異世界の扉を開く引き金になるという親和性こそキングのホラーが他作家のそれらと一線を画しているのだ。 愛が深いからこそ喪った時の喪失感もまたひとしおだ。それを引き立たせるためにキングはルイスの息子ゲージが亡くなる前に、実に楽しい親子の団欒のエピソードを持ってくる。初めて凧揚げをするゲージは生まれて初めて自分で凧を操ることで空を飛ぶことを感じる。新たな世界が拓かれたまだ2歳の息子を見てルイスは永遠を感じた事だろう。人生が始まったばかりのゲージ、これからまだ色んな世界が待っている、それを見せてやろうと幸せの絶頂を感じていた。美しい妻、愛らしい娘と息子。全てがこのまま煌びやかに続き、将来に何の心配もないと思っていた、そんな良き日の後に突然の深い悲しみの出来事を持ってくるキング。物語の振れ幅をジェットコースターのように操り、読者を引っ張って止まない。 本書は見事なまでに対比構造で成り立った作品である。 生と死。若い夫婦と老夫婦。死を受け入れるクランドル夫婦と受け入れらないクリード夫妻。本来命を救う医者であるルイスが行うのは死者を弔う埋葬。愛らしい猫チャーチは一方で小鳥や鼠を弄ぶかのように殺す残虐性を備えている。愛らしかったゲージは甦った後、平気で邪魔者を殺害する残虐な悪魔となった。天使と悪魔。そして過去と未来。 本書の半ば、ジャドの妻ノーマの葬式で不意にルイスはこう願う。 神よ過去を救いたまえ、と。 せめて美しかった過去だけは薄れぬものとして残ってほしい。死んだ者は忘れ去られていく者であることに対するルイスの悲痛な願いから発したこの言葉だが、一方で今が苦しむ者がすがるよすがこそが美しかった過去であるとも読めるこの言葉。 しかし人は過去に生きるのではない。未来に生きるものだ。彼が選んだ未来はどうしようもない暗黒であることを考えながらも、果たして自分が同じような場面に直面した時、もしルイスのように禁忌の扉を開くことが出来たなら、彼のようにはしないと果たして云えるのか。 キングのホラーはそんな風に人の愛情を天秤にかけ、読後もしばらく暗澹とさせてくれる。実に意地悪な作家だ。 |
No.1371 | 7点 | 捩れ屋敷の利鈍 森博嗣 |
(2018/01/25 22:52登録) Vシリーズもいよいよ終盤に差し掛かり、とうとうS&Mシリーズの西之園萌絵と国枝桃子が登場する、2つのシリーズが一堂に会することになった。その記念的作品が第8作の本書。そしてこのVシリーズに仕掛けられた大きな謎について仄めかされる、森氏としても大いに踏み込んだ作品だ。 本書で最も目を惹くのはなんといってもメビウスの輪を巨大なコンクリート構造物として作った棙れ屋敷だろう。36の4メートルの部屋で区切られた全長150メートルにも及ぶ棙れ屋敷。しかもそれぞれ部屋は傾いて作られ、折り返し地点の部屋は床が左の壁となる90度傾いた構造となっている。更にそれらはドアで繋がっており、入ってきたドアが施錠されると他方のドアが解錠される仕組み、つまり必ず1つのドアが各々の部屋で施錠されている状態になる。そんなパズルめいた趣向を凝らした屋敷で事件が起こらぬはずがない。 そしてもう1つは何の変哲もないログハウスでの密室殺人。しかもそこで殺された熊野御堂譲氏は「この謎を解いてみろ」と発見者に挑戦状を叩きつけているくらいだ。 しかし色々と惑わせてくれる森氏である。この保呂草潤平が今回偽る名前は1作目に保呂草潤平と称して登場した殺人犯の名前である。そして近くの刑務所から殺人犯が脱走したことがニュースで報じられている。冒頭の保呂草による独白めいたプロローグが無ければ今回の保呂草はいつもの保呂草なのかそれとも1作目の保呂草、秋野秀和なのか、惑わされてしまう。これもシリーズに隠されたある謎を知らなければ素直に保呂草の茶目っ気と受け止めるのだが、知っていることが逆に不穏さを誘うのだ。特に今回の保呂草の行動が案外いかがわしく、そして危険な香りを漂わせているだけに。 しかしこうやって読み終わってみると森氏にとって密室トリックや犯人やらは本当に些末なことであることが解る。エンジェル・マヌーヴァ掠奪の顛末は実にスリリングだが、柱に埋め込まれた美術品の持ち出し方法は案外拍子抜けするほどの内容だ。 つまり本書で語りたかった、もしくは読者に仕掛けたかった、もしくは明かしたかった謎は別のところにあるのだ。 たった250ページ強のシリーズ中最も短い長編である本書を最後まで読んだ時、森氏がこのシリーズに仕掛けられた大きな謎について大いに踏み込んだことが解る。 実は私は既読者によってネタバレされているのでその驚愕を味わえない不幸な人間なのだが―頼むから森博嗣ファンの方々、そういうネタバレは止めましょうね―、逆にそれを知っていることで本書が実に注意深く書かれていることに思わずほくそ笑んでしまった。 まずこの棙れ屋敷が愛知県警管轄外の岐阜県にあること。 今回なぜ小鳥遊練無と香具山紫子たちは出ずに保呂草と瀬在丸紅子だけなのか? そしてなぜ瀬在丸紅子は西之園萌絵を知っているのか、いや西之園家を知っているのか? それはあと残り2作となったシリーズ作で明らかにされることだろう。保呂草によって綴られたエピローグに書かれた驚愕の事実。それが解るのももうすぐである―だからネタバレは止めようね、森博嗣ファンの方々―。 |
No.1370 | 7点 | 囲碁殺人事件 竹本健治 |
(2018/01/23 23:23登録) 一昨年、『涙香迷宮』で『このミス』1位を獲得した竹本健治。それをきっかけに今過去の絶版となった作品や未文庫化の作品が次々と復刊、文庫化されてきている。 そしてその『涙香迷宮』でも探偵役を務めた牧場智久の初登場作が本書である。 本書が発表されたのが1980年。その時竹本氏は26歳でまだそんな年齢にも拘らず囲碁に精通している。第1作の『将棋殺人事件』でも確か詰将棋の碁盤が出てきたように思うが、本書の囲碁の対局場面といい、珍瓏という盤面全体に及ぶ詰碁に鬼の意匠を凝らしたり、また盤面に暗号を隠す、更には2ページのみだが「囲碁原論・試論」と題した囲碁に関する考察論文を挟むなど、テーマに対して貪欲なまでにミステリを加味し、またそれを可能にする深い造詣を持っていることが窺われる。本書のあとがきによれば大学時代に囲碁研究会にせっせと通い、10級で入部し、大学を辞める時には5段の腕前になっていたとのこと。その代わりに大学5年間在籍して取得単位はゼロというのだから、実に親不孝な学生である。 まず本書で驚いたのは12歳の牧場智久が犯人から危害を加えられることだ。天才少年と持て囃されて殺人事件にまで手を出していい気になるなよという犯人の、いや世間一般の常識からのお仕置きとばかりの仕打ちである。 これはつまり世間の流布する素人探偵が殺人事件に容易に首を突っ込むことに対する警告とも云えるだろう。人の死が介在する事柄は自身もまたその渦中に入ること。つまり犯人を暴こうとする行為はその者自身もまた犯人の標的となり、そして狙われる危険を呼び寄せることを意味するのだ。こんな死に目に遭うほどの仕打ちは12歳の少年にとってはトラウマになるだろう。これに懲りず探偵役を仰せつかっている牧場智久にとってこのエピソードは今後何か影響を与えているのだろうか? 物語を補強するように盛り込まれた囲碁の歴史に残る名人たちのエピソード、ルールを巡った騒動など単にゲームに留まらない囲碁を取り巻く人間模様が実に面白い。囲碁の正式ルールが昭和24年まで明文化されていなかったとは驚きだった。歴史が深い競技だと思いきや意外と近代囲碁の歴史は浅かったことが解る。それは囲碁が昔から日本人の生活と共に発展してきたことで口伝で、もしくは暗黙の理解的にルールが形成されてきたことを表しているのだが、それ故に地方性が色濃くなり、それぞれのルールが出来たことで統一ルールが必要になったのだ。それだけ囲碁の世界が発展してきたことの証だ。 さて本書で感心したのは大きく分けて2点。 まずは探偵役のミスディレクション。一連の竹本作品を読みつつ、もしくは私のように竹本作品にある一定の知識を持った読者が原点回帰的に牧場智久のデビュー作である本書を読むと驚きも一層だ。先述の通り、『涙香迷宮』の好評で数々の竹本作品が昨今復刊、文庫化されているが本書もまたその1つとなっており、逆に今読むとその仕掛けが実に効果的に読者に響くだろう。私のように。 深読みすればこの牧場智久は竹本氏から論理的に犯人を炙り出すエラリー・クイーンを揶揄するために生み出された人物ではないだろうか?若造のくせに殺人事件にしゃしゃり出る知性を売りにするエラリーと牧場少年の人物像が重なって見えるのは私だけだろうか? 次に大脳生理学の視点から犯人を解き明かすこと。実はこれは第2作の『将棋殺人事件』でもなされていたが―すっかり忘れていた―、島田荘司氏が21世紀本格として2000年以来、御手洗潔をウプサラ大学の大脳生理学教授としてこの脳のメカニズムをミステリの題材に持ち込むことに積極的なのだが、既に1980年の段階でそれを竹本氏が実践していることに驚いた。つまり21世紀どこから20世紀に彼は島田氏が積極的に取り込む新しいミステリの先鞭をつけていたのだ。 正直囲碁に明るくない私にとって詰碁や囲碁の知識を謎解きに盛り込んだ本書を余すところなく楽しめたとは云えない。 しかしそれでも本書はミステリとして小説としてなかなかに面白く読めた。たった1つの碁石で部分的には否とされていた物が全体的に見ることで有と反転する碁の深さは知識がなくとも解る。首を切られたかのように見えた鬼を模した珍瓏が全体を見ることで生を得る。それは即ちたった1つの手掛かりから全てが反転する美しいミステリを見ているかのようだ。それこそが竹本氏が本書でやりたかったことなのだろう。 |
No.1369 | 7点 | ゴースト・スナイパー ジェフリー・ディーヴァー |
(2018/01/20 23:55登録) リンカーン・ライムシリーズ記念すべき10作目となる本書の敵はなんとアメリカ政府機関の1つ、国家諜報運用局(NIOS)の長官。バハマで隠遁中の政治活動家を暗殺した共謀罪で逮捕しようと計画するNY地方検事補のナンス・ローレルに協力する。 今回特徴的なのは犯行現場がバハマということで現場捜査を担当するアメリアもすぐには現場に行くことが出来ず、ライムと共に部屋で捜査を担当し、情報収集に徹する。 一方ライムは現場の遺物の情報を得ようとバハマ警察の捜査担当者に連絡を入れるが、これが南国の後進国特有の悠長さと捜査能力の不足から非常に不十分でお粗末な状況であり、全く有効な手掛かりが得られない。現場検証も事件が起きた翌日に成されているため、新鮮なほど有力な情報が集まる物的証拠が失われた可能性が高く、ライムはその捜査のずさんさに悶々とさせられるのである。 このようにいつものように遅々として進まない捜査に読者はライム同様にストレスを感じさせられるようになる。 従っていつものようにお得意のホワイトボードに次々と新事実を埋めていくそのプロセスも滞りがちだ。しかも書かれた情報は人づてに教えられた情報と憶測ばかり。通常のライムシリーズとは異なる進み方で読者側もなんともじれったい思いを抱く。 そんな膠着状態を作者自身も察したのか、ライム自身がバハマに赴くことになる。 前作の『シャドウ・ストーカー』でライムはキャサリン・ダンスの捜査の手助けをするために自らフレズノに赴いたが、今回は更に海外まで進出する。リハビリと手術により指だけだった可動範囲も右手と腕が動かせるようになったことでずいぶんと活動的になったことが解る。最新型の電動車椅子ストームアローに乗って野外活動に励むライムの進歩は同様の障害に悩む人々にとって希望の姿でもあるだろうし、また最新鋭の補助器具があれば重篤な障害者でも、介護士の補助が必要であるとはいえ、外に出て行動することが出来ることを示している。優れたアームチェア・ディテクティヴのシリーズだった本書もまた科学と医学の進歩に伴い、その形式を変えようとしているのが解る。 しかし一方で現実はそんなに甘くないこともディーヴァーは示す。バハマ警察の上層部の意向に背いてライムに協力するポワティエ巡査部長と共に独自で捜査するライムたちを暴漢達が襲い、なんとライムはストームアローごと海に放り出されるのだ。危うく一命は取り留めたものの、ストームアローは海の中。ライムは病院にある普通に車椅子に戻ってしまう。事件捜査という犯罪と紙一重の活動は健常者にも危害が及ぶ。まして障害者にとっては過分なことだと示すエピソードだが、それでもライムは屋外に、数年ぶりに海外に出たことが非常に楽しいようで、これからも外出したいと述べる。それほどまでに日がな一日屋内生活を強いられるのは苦痛だからだ。 ライムはニューヨークの自宅に戻り、新たな電動車椅子メリッツ・ヴィジョン・セレクトを手に入れる。それはオフロード走行機能も付いた機種で今回のバハマ行で外出の醍醐味を占めたライムの行動範囲が今後もっと広がることだろう。 しかし一方でライムの手足となり、フィールドワークを担当していたアメリア・サックスは逆に今回のチームに加わった特捜部のビル・マイヤーズ部長から持病の関節炎を見透かされ、更に健康診断の不備により、捜査を外れることを通告される。ライムの身体能力の向上と反比例するかのようにアメリアの関節炎は悪化してきており、逆に捜査活動に支障を来たす様になってきている。何とも皮肉な話だ。 突然だが本書の原題は“The Kill Room”。これは殺害された者がいた部屋を指すと最初は書かれていたが、実は別の意味を指す。ネタバレになるので書かないでおくが、少ない設備投資で一度居所を掴まれた標的はどんなに遠くに離れていても暗殺されるという実に恐ろしい時代となったと寒気を覚えた。 今回も相変わらずどんでん返しがあり、価値観の反転する。ミステリとしては読書の愉悦を味わえるが、実際面としては実に恐ろしいと思わされる。高度な情報を扱う仕事は常にその情報に隠された意味を考え、判断することに迫られている。しかしそこに感情が加わるとその情報は右にも左にも容易に傾く。それこそが本書のテーマであろう。 高度な情報を操る人々、権力を有する人々は共に自らの信条に従い、正しいことをしていると思っていながら、実は好き嫌いという子供の頃から抱く非常に原初的な感情にその判断を左右されていることに気付いていない。そのことが彼ら彼女らをして情報を読み誤り、また読み誤ったと勘違いしたりする。そんな権力を持つ一個人の感情のブレで対象となる人間の生死をも左右されることが実に恐ろしい。 思えば本書は鑑識の天才リンカーン・ライムが現場から採取した証拠という事実だけを信じ、緻密に推理を重ね、論理的に事件を解決するところが魅力であるのだが、その実理屈っぽく終始不平不満を呟くライムの感情っぽいところ、つまり人間臭さがシリーズの魅力でもある。 そしてまた本書ではライムがバハマに赴いて地元の警察と捜査をしている間、アメリアはアメリカで捜査を続け、その距離がお互いを強く意識し合い、そしていつも以上に求め合うことになる。 緻密な論理を売りにしているこのシリーズは実は人の感情を実に豊かに捉えた作品であることを再認識させられる。またその感情ゆえに生れる先入観が登場人物のみならず読者の感情を動かし、どんでん返しへと導かれていくのだ。 実は本書は人気シリーズの第10作と記念的な作品ながらシリーズ作で唯一『このミス』で20位圏内から漏れた作品だった。ランキングがその面白さと比例しているわけではないとは解っているが、このシリーズの特色である、ある分野に精通した悪魔的な頭脳の持ち主や超一流の技能を持つ殺し屋が登場しないことが他の作品に比べて魅力がないように思われる(みなさんが仰るように小粒ですね)。 もし今回は政府機関のNIOSが相手ということもあって情報戦に終始し、いわゆるいつも感じるヒリヒリとした緊迫感に欠けたように感じた。 あと最後に解るジェイコブ・スワンの正体と彼の標的を考えると一連の殺しに不整合さがあると感じるのは私だけだろうか?捜査の誤操作のためにやった、という理由かもしれないが、彼の正体を知るとそれはやっぱりあり得ない、行き過ぎだろう。 本書では上に書いたような不満を抱いたが、まだまだディーヴァーの筆は衰えていないことは既に立証済み。どんなシリーズにもある谷間の作品として記憶するにとどめ、次作に大いに期待することにしよう。 |
No.1368 | 7点 | 征服者ロビュール ジュール・ヴェルヌ |
(2018/01/15 23:43登録) これは空版の『海底二万里』とも云うべき作品だ。潜水艦ノーチラス号に対して空中船<あほうどり号>。ネモ艦長に対して国籍不明の技師ロビュール。『海底二万里』の海底の旅に同行するのは海洋生物の権威アロナックス教授に対し、本書は気球研究の権威アンクル・プルーデント氏とフィル・エヴァンズ氏、とほぼ両作は空と海を舞台を異にしながらも写し鏡のような作品である。 本書はまだライト兄弟1903年に有人飛行機を発明する以前の1886年の作品。従ってロビュールが操る空中船は飛行機の意匠ではなく、船に無数のプロペラを備えた、ゲーム『ファイナル・ファンタジー』に登場する飛空艇をイメージしたような機械である。 『海底二万里』に登場するネモ船長に比肩するほどの存在感を示すロビュールだが、ただ世間一般に今なお知られている『海底二万里』と比較すると、同じように世界中を空中船で回る本書の知名度が低い、いやほとんど知られていない。それは物語に膨らみが無いからだ。 『海底二万里』は530ページ超もあるのに対し、本書は240ページ超と約半分。ページ数がそのまま内容の充実ぶりを示すわけではないが、本書もアメリカを皮切りに日本、中国、エベレスト、中東、ロシアにヨーロッパ、アフリカ、アルゼンチンから南極―ノーチラス号も行った南極点にも到達する!―、ニュージーランド付近へと世界を巡るのに、それぞれの道中は実に速く、旅行期間も1月半と短い(因みに『海底二万里』は10ヶ月弱)。 ある意味これは飛行旅行の速さを物語のスピード感で表しているとも取れるが、内容的には実に味気ない。 さて皆の前から姿を消したロビュールが再度姿を現すのは『世界の支配者』という作品のようだ。現在絶版のこの作品が、同じく絶版でありながら地元の図書館にあった僥倖に見舞われたことで読むことが出来た本書同様に読むことが可能であれば、彼の行く末を見届ける意味でも読みたいものだ。 |
No.1367 | 8点 | クリスティーン スティーヴン・キング |
(2018/01/14 23:10登録) キングは過去の短編で機械が意志を持ち、人間を襲う話を描いてきた。クリーニング工場の圧搾機、トラック、芝刈り機など我々が日常に使う機械の、抗いようのない恐るべき力に対する畏怖をモチーフに恐怖を描いてきたが、この『クリスティーン』もこれら“意志持つ機械”の恐怖譚の系譜に連なる作品となるだろう。しかもこれまでは短編であったがなんと今回は上下巻併せて約1,020ページの大作である。 今までキングが“意志持つ機械”をモチーフに書いてきた物語においてその対象が自動車になるのは車社会アメリカの背景を考えると必然的であり、そして満を持して発表した作品だと云えよう。ある意味本書は“意志持つ機械”譚のこの時点での集大成になる作品と云えるだろう。 何の前知識もなく、最初にこの作品を読んだ時、これはトップの5%圏内に入るほどの頭を持ちながらも、優等生グループにも入れない、スクールカーストの最下層に位置する17歳の少年アーニー・カニンガムが1台の古びた車と出遭うことで負け犬的人生を変えていく物語であると思うに違いない。彼の自動車のメカに関する優れた知識は天からの授かりものになるだろうが、彼が出遭う58年型のスクラップ同然のプリマス・フューリー、愛称をクリスティーンという車もまた彼の人生を変える天からの授かりものになる。 そのおんぼろ車を自身で少しずつ再生していくうちにいわゆる負け組に属していたアーニーもまた生まれ変わっていく。ピザ顔とまで呼ばれていた吹き出物でいっぱいの顔は次第に綺麗になり、男ぶりも増していく。更に以前よりも度胸が増し、町の不良たちに絡まれても一歩も引かないようになる。更には学校で評判の美人の心も掴み、恋人にすることに成功する。一人で一台の車を再生することが即ち彼の人生を再構築させていくことに繋がっていく。これはそんな一少年の人生を変えていく青春グラフィティなのだ。 アーニーの成長を通して変わりゆく生活の変化をそれぞれの心情を交えてキングは訪れるべき変化の時を鮮やかに語る。 それもただ彼の修理する車クリスティーンが命ある車であることを除けばのことだ。 キングが他の作家と比べて一段優れているのは、通常の作家ならば子供の成長時期に訪れる親子と親友との変化のキー、メタファーとしてスクラップ同然の車の修理の過程を使うのに対し、キングはその車自体をも生ある物、持ち主に嫉妬するモンスターとして描いているその発想の素晴らしさにある。 物に魂が宿るのは正直に云って子供の空想の世界だろう。女の子は人形を生きている自分の妹のように扱い、男の子は車の玩具やロボットの玩具に生命があるかのように自ら演じて興じる。 そんな子供じみた発想もキングの手に掛かれば実に面白くも恐ろしい話に変るのだから驚きだ。 さて物語がアーニーの思春期の通過儀礼とも云える親からの自立と反発というムードからホラーへと転じるのはクリスティーンがアーニーを目の敵としているバディー・レパートンたち不良グループにスクラップ同然にさせられるところからだ。そこから前の持ち主であるルベイとアーニーは無残なクリスティーンの姿を見て同調し、以前より増して2人の魂の親和性は強まり、アーニーはルベイの憑代となっていく。そしてクリスティーンもその怪物ぶりをようやく発揮し出すのだ。 最初は無人の状態で復讐を成していたクリスティーンだが、やがて亡くなった前所有者のルベイの屍が具現化して現れてくる。そこでようやく本書は『呪われた町』、『シャイニング』などのキング一連のモンスター系小説の系譜に連なる作品であることが解るのである。それは本書の献辞がジョージ・ロメロに捧げられていることからも解るように、ゾンビをモチーフにした怪奇譚であるのだ。 そういう意味では物宿る怨霊によって自分が自分で無くなっていくアーニーの姿は昔からある幽霊譚の1つのパターンであるが、また一方で私はこのアーニーの変化については我々の日常において非常に身近な恐怖がテーマになっているように思える。 例えばあなたの周りにこんな人はいないだろうか。普段は温厚でも車を運転している時は人が変わったようになる、という人だ。それはある意味その人の意外な側面を表すエピソードとして、時に笑い話のように持ち出されるが、ある反面、これはその人の二重性が露見し、またそれを他者が目の当たりにする機会でもある。そしてその変貌が極端であればあるほど、それも恐怖の対象となり得る。つまり本書の恐怖の根源は実は我々の生活に実に身近なところに発想の根源があるのではないかと私は思うのだ。 これはあくまで私の推測に過ぎないのだが、キングがこのエピソードを本書の発想の発端の1つにしていたのは間違いない。なぜなら同様の記述が本書にも見られるからだ。上巻の406ページにアーニーがこの車に乗るとなぜか人が変わったようになると書かれている。そのことからもキングが本書を著すにこんな身近で、どちらかというとギャグマンガの対象になるような性格の変貌―マンガ『こち亀』に出てくる本田のような―を恐怖の物語のネタとしたであろうことは推察できるし、そのことからもキングの非凡さを感じる。 人の物に対する執着というのは物凄いものがある。古来死者が生前愛でていた物に所有者の情念が宿るという怪奇譚は枚挙にいとまがない。その対象を58年型のプリマス・フューリーという実に現代的なアイテムに持ち込んだことにキングの斬新さがあると云えよう。 既に述べたが、自動車愛好家たちにとって本書の車に対する執着の深さは頷けるところが多々あるのではないだろうか。自動車産業国アメリカが生んだ意志宿る車による恐怖譚。しかし車に対する愛情の深さはアメリカ人よりも深いと云われる日本人にとっても無視できない怖さがあった。たかが車、そんな風に一笑できない怖さが本書にはいっぱい詰まっている。 |
No.1366 | 7点 | 隕石誘拐 宮沢賢治の迷宮 鯨統一郎 |
(2017/12/21 23:38登録) 宮沢賢治の諸作と生涯をモチーフにした誘拐ミステリである。 私が抱いていた宮沢賢治は死後評価された童話作家・詩人というイメージで、有名な『雨ニモマケズ』の詩のイメージから朴訥かつ誠実な、清貧の人と思っていたが、それは全く違った。 本書では宮沢賢治とは自分の理想と常に戦っている人と読み解かれる。父からデクノボーと呼ばれ、そのことを自覚しながら、不器用ながらも正直で誠実でありたいと書いた『雨ニモマケズ』は実はデクノボーである自分を讃えた詩であると解釈され、そして父親の強欲に対抗しながらも父のお金に頼る、禁欲と戦いながらも最後はそれを後悔する、童話を次々と発表するが世間には認められない、といった具合に常に内なる自分と戦いながらも結局敗れていった男なのだ。明晰な頭脳で色んな分野に深い造詣を持ちながらもそれを活かさないばかりに不遇に見舞われた天才。その溢れる才能の使い道を間違った男というのが生前の宮沢賢治だろう。今や国民的詩人、国民的童話作家と評されているがそれは彼の死後のこと。今なお彼の諸作が読み継がれ、信奉者を生み出していることから最終的にはその才能の使い道は間違っていないようだったが、当時生きていた宮沢家誰一人知らない事実である。 どこかエロティックで艶めかしい展開は昔の土曜ワイド劇場のような俗物的サスペンスドラマを彷彿させる。その一方で稔美を拉致する十新星の会の面々は宮沢賢治を信奉し、<オペレーション・ノヴァ>というアルミニウムを摂取させることで全国民にアルツハイマー病にし、痴呆化を図り、日本全国民を支配下に置くという、秘密結社物のテイストもありと、なんともいびつな設定の下で物語が進んでいく。 本作が発表されたのは世紀末の1999年。つまりこのような世間に不安感が漂っている時代にオウム真理教に代表される新興宗教が蔓延っていたように、本書もそんな宮沢賢治を信奉し、国民総痴呆化を企むカルト集団による犯行というのは今読めば荒唐無稽だと思われるが、当時の世相を実は如実に反映した作品であると云える。特に童話作家、詩人として名高い宮沢賢治の諸作を紐解くことで内なるコンプレックスを読み解き、そこから彼を神と崇める<十新星の会>なる狂信集団を案出したアイデアは鯨氏ぐらいしか思いつかないものではないだろうか。 誘拐物でありながら、宮沢賢治の文献から隠された秘宝の在処を読み解く冒険小説的妙味、さらに秘密結社による日本征服計画、そして拉致された人妻の凌辱劇とサスペンスにアドヴェンチャーにオカルトにエロと思いつくものをどんどん放り込んで物語を作った鯨氏の離れ業。その全てが調和し、バランスを保っているとは云い難いがこのような芸当に挑んだ鯨氏のチャレンジ精神は評価に値するだろう。もう1つ忘れてはならないのは夢を追いかけて家族に貧乏を強いた夫婦の不和からの再生の物語であることだ。現在海外へ単身赴任中の我が身に照らし合わせても思うのだが、案外夫婦は距離を置くことでお互いの存在に改めて思いを馳せ、そして大切さに気付かされるのだ。いつも一緒にいると、やはり人間同士、どこか疲れて嫌なところばかりが目に付くようになる。中瀬夫婦のように誘拐されるような事態はごめんだが、離れることで絆が深まる気持ちは実に今ならよく解る。 そしてやはり鯨作品の妙味は過去の文献、史実から読み解かれる鯨流新事実の開陳にある。本書で描かれる我々の知らない宮沢賢治の世界は本書のサブタイトルにあるようにまさに迷宮である。自由な発想と突飛な設定。次回もこの作者独特の物語を期待したい。 |
No.1365 | 2点 | 工学部・水柿助教授の日常 森博嗣 |
(2017/12/20 23:58登録) 5話を通じて思うのは本書は森氏による、ちょっとしたミステリ風味を加えた自伝的小説なのか(これは反語表現である)。某国立大学工学部建築学科の水柿助教授はそのまま森氏に当て嵌まりそうな人物像である。 何しろ専門が建築材料であり、模型工作を趣味とし、読書とイラストを趣味にしている奥さん須磨子さんがおり、更に後々ミステリ作家になってデビューすることまでが1話目から語られるのだ。これほど作者自身と類似した設定の人物は他にないのではないか。そして話が進むごとにミステリ風味も薄まり、どんどん水柿君と森氏が同化していく。 つまり本書は自分の教授生活の周囲で起きる出来事や見聞きしたエピソードの類を盛り込み、時々それらのエピソードに日常の謎系ミステリの味付けを加えた小説なのだ。 しかしその内容は、思いつくまま気の向くまま、取り留めのない日々雑感と云った趣で、建築学科の助教授水柿君の日常に起こっていることにミステリの種は結構あるんじゃないの?と書き連ねている体の話である。 しかしその傾向は正直第2話までで、第3話からはどんどん内容が水柿君の内側に、過去のエピソードに潜っていく。それらはミステリでは無くなり、本当に水柿助教授の日常話になってくるのだ。それは作者も確信的で最終話ではミステリィと見せかけてどんどんミステリィ風味を薄めていく、そういう「どんでん返し」を仕掛けていると述べている。 そして作中作者は事あるごとに「これは小説だ」、「これはフィクションだ」と述べているが、嘘つきが「嘘はついていない」というのと同様の信憑性しかない(と作者自身も書いていたような)。つまり本当のことを語りつつ、それらの中には未だ事項になっていない軽犯罪、微罪、そして重犯罪になり得る危うさを孕んでいるからこそ、そのように作り話だと主張しているようにも取れる。その割に固有名詞が多く、イニシャルもほとんど本当の場所が特定できるほど安易な物であるのだが。そのあまりの自由闊達ぶりに正直苦情など来ていないのだろうかと思ったり。特に津市に関する記述はここまでこき下ろして大丈夫なのだろうかと無用の心配すらしてしまう。 やはりこれは水柿君の日常としながら、これらは全て同じN大学の建築学科の教授である作者自身が経験した助手、助教授時代に経験した大学生活の思い出話、エピソード集なのだろう。従って水柿君の日常は「すべてが森になる」のだ。 |
No.1364 | 7点 | 46番目の密室 有栖川有栖 |
(2017/12/17 23:29登録) このシリーズは先に文庫書下ろしで出版された2作目の『ダリの繭』を先に読んでいたので、前後したが、これでようやくシリーズの最初から触れることが出来た。 私が面白いと思ったのはこれはいわゆる雪の足跡トリックの変奏曲であることだ。通常このトリックはその名の通り、雪に囲まれた部屋や建物の周囲に残された足跡によって密室状態が生まれるトリックを指す。今回の舞台となった星火荘もまたその例に洩れず、周囲が雪に覆われた状態であるのだが、それにも関わらずこの足跡トリックが建物の外ではなく内側にて発生しているところだ。石灰を敷き詰めたことで生まれた足跡トリックだが、面白いことを考えるものだなぁと感心した。 まだ若かりし頃の本格ミステリに対して無限の可能性を信じて止まない有栖川氏の本格ミステリへの理想と夢が随所に込められているように思える。 まずやはり冒頭の真壁聖一の存在。世界に認められた日本本格ミステリの巨匠というのは日本の本格ミステリが世界にいつか通じるだろうと信じ、そんな未来を夢見ていた有栖川氏の理想の存在、いや自身が目指すべき目標であるように思える。それは現在実現しており、アメリカのエドガー賞に日本のミステリがノミネートされるまでになっている。 次に真壁氏が次の密室物を最後にまだ見ぬ「天上の推理小説」を書くと云った件だ。これこそ有栖川氏自身の未来への宣言ではないだろうか。「新本格」という目新しい呼称で十把一絡げに括られているまだ駆け出しの本格推理小説家ではあるが、いつかはかつて書かれてことのない物語を書いてみせる、といった若者の主張のように思える。そして今なお精力的に本格ミステリを著しては発表し、年末のランキングに作品が名を連ねている現状から見ても、この時抱いた有栖川氏の、高みへと目指す心意気はいささかも衰えていないように思える。巷間に流布する既存のミステリとは異なる次元に存在する天上の推理小説。有栖川氏の定義する天上の推理小説をいつか読みたいものだ。 そして最後はやはり犯人だけが見た、真壁氏が遺した最後の密室「46番目の密室」だ。それは「まるで世界が、世界を守るためによってたかって一人の人間を抹殺するかのようなもの」。これもまた有栖川氏が抱く、いつか書くべき最後の密室ミステリなのではないか。そんなミステリを読んでみたいと彼は思い、そして出来れば自分で書いてみたいと思っているのではないだろうか。 と、このようにデビューしてまだ3年の時に書いたこの作家アリスシリーズには本格ミステリ作家となった有栖川氏の歓びとミステリ愛と、そして野心が込められている、実に初々しくも若々しい作品なのだ。 |
No.1363 | 7点 | 幻肢 島田荘司 |
(2017/12/10 22:40登録) これはいわゆるよくある記憶喪失物のミステリを最新の脳医学の知識と技術の方向から光を当てた、島田氏の持論である21世紀ミステリを具現化する作品である。 島田荘司氏が特に2000年代に入って人間の脳について興味を持ち、それについて取材を重ね、次作のミステリにその最新の研究結果を盛り込み、21世紀本格ミステリとして作品を発表しているが、本書もその系譜に連なる作品で、タイトルが示すように幻肢、つまり実在しないのに恰も実在しているかのように感じられる欠損した手足の存在を足掛かりにそれが引き起こす脳の仕組みを解き明かし、そして最新の医療方法によって、失われた記憶を呼び覚ましていく。 まずこの幻肢、つまりファントム・リムよりも幻痛、ファントム・ペインとして以前より知られており、私も興味があったが、本書ではその幻痛、いや現在では幻肢痛と呼ばれるこの現象についても最新の研究結果が盛り込まれており、大変興味深く読むことが出来た。 島田氏は幻肢の解釈を拡げていく。幻肢とは即ち手足のみを示すのではなく、人の全身さえも幻視させることが出来るというのだ。心霊現象を人間に見せると云われている側頭葉と前頭葉の間にある溝、シルヴィウス溝に刺激を与えることで幻視が起こるというのが本書での説だ。このシルヴィウス溝はアレキサンダー大王、シーザー、ナポレオン、ジャンヌ・ダルクといった歴史上の英雄やゴッホ、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ソクラテスといったその道の天才らが癲癇もしくは偏頭痛を持っており、それがシルヴィウス溝に強い刺激を与えて、常人にはない閃きや神の啓示などを聞いたとされている。ここに蓄えられているのは過去に経験した、忘れられた記憶も呼び覚ますことになり、それがかつて存在した手足があるように錯覚させたり、もしくは人そのものをも存在しているかのように思わせたりする、そんな仮説から本来ならば鬱病の治療としてその原因とされている左背外側前頭前野のDLPFCに、経頭蓋磁気刺激法、即ちTMSという脳に直接磁気を当てて刺激して血流を促し、脳の働きを活性化させる治療法をシルヴィウス溝に適用させるという方法で遥は雅人の幻を見ようと試み、そして成功するのだ。それはまた遥が失った事故当時の記憶を呼び覚ますことにも繋がる。遥は雅人の幻とのデートを重ねるうちに雅人への愛情が甦り、「あの日」の記憶を懸命に呼び覚まそうとする。 彼女は今日も幻とデートする。それは大学から自宅までのほんの数キロのデート。彼女しか見えない彼はいつも彼女のアパートの前で消え去る。その短い逢瀬が楽しければ楽しいほど、彼女の寂しさは募っていく。それでも彼女は亡くした彼に逢いたいがために今日も自分の脳を刺激する。そしてまた刹那のデートを繰り返す。 そんなペシミスティックなコピーが思いつきそうな感傷的な展開を見せるが、そんな切ない幻との恋愛も次第に様相が変わっていく。 通常ミステリならば例えば館の見取り図が欲しくなったりするが、本書では脳のそれぞれの部位が成す役割を詳らかに語るため、脳の各部位を示した図が欲しいと思った。海馬、大脳皮質、小脳、シルヴィウス溝、側頭葉、前頭葉とここに至るまでにそれだけの脳の部位が出てきた。更には記憶のルートは頭頂葉、側頭葉、帯状回を経由する、恐怖心や不安感をもたらす扁桃体、その中にある背外側前頭前野のDLPFC、等々が続々と登場する。これらそれぞれの部位を示した図があれば、それをもとに自分の頭に照らし合わせて読むとまた格別に理解できただろう。 そんな最新技術と事実を盛り込んで展開し、再生される失われた記憶の内容はなんともバカげた真相である。ここでは敢えて書かないが、これは島田氏の女性観が反映されているのかと眉を潜めてしまうような真相である。 しかし島田作品初の映画化作品として選ばれた本書。いや映像化を前提に書かれたのかもしれないが、亡くなった彼の幻との短いデートという儚げなラヴストーリーが、一転して事故の真相を知った途端、視聴者はどんな思いを抱くだろうか?私は前述したようにもっとどうにかならなかったのかと思って仕方がない。機会があれば映画の方も見てみよう。 |
No.1362 | 6点 | 人狼の四季 スティーヴン・キング |
(2017/12/06 23:50登録) キングが怪奇コミックスの鬼才バーニ・ライトスンと組んで著したヴィジュアル・ホラーブック。キングにしては珍しく、全編でたった200ページにも満たない。しかもその中にはふんだんにライトスンによるイラストが挟まれているため、文章の量もこれまでのキング作品では最少だ。 物語も実にシンプルでメイン州の田舎町に突如現れた人狼による被害について月ごとに語られる。 1月から12月までの1年間を綴った人狼譚。キングにしてはシンプルな物語なのは話の内容よりもヴィジュアルで読ませることを意識したからだろうか。その推測を裏付けるかのようにバーニ・ライトスンはキングが文字で描いた物語を忠実に、そして迫力あるイラストによって再現している。1月から12月まで、それぞれの月の町の風景と、人狼が関係する印象的なシーンを一枚絵で描いている。特に後者はキングが描く残虐シーンを遠慮なく描いており、背筋を寒からしめる。特に人狼の巨大さと獰猛さの再現性は素晴らしく、確かにこんな獣に襲われれば助かる術はないだろうと、納得させられるほどの迫力なのだ。 小さな町に訪れた災厄を群像劇的に語り、そしてその始末を一介の、しかも車椅子に乗った障害を持つ少年が成す、実にキングらしい作品でありながら、決して饒舌ではなく、各月のエピソードを重ねた語り口は逆にキングらしからぬシンプルさでもある。そしてキングにしてはふんだんにイラストが盛り込まれているのもまたキングらしからぬ構成だ。それもそのはずで、解説の風間氏によれば当初イラスト入りカレンダーに各月につけるエピソード的な物語として考案された物語だったようだ。しかしそんなシンプルさがかえってキングにとって足枷になり、7月以降はマーティを登場させ、人狼対少年という構図にしてカレンダーに添えられる物語ではなく、中編として最終的には書かれたようだ。だからキングらしくもあり、またらしからぬ作品というわけだ。 文章とイラストで存分に狼男の恐怖を味わうこと。それが本書の正しい読み方と考えることにしよう。 |
No.1361 | 7点 | インド王妃の遺産 ジュール・ヴェルヌ |
(2017/12/03 21:27登録) ヴェルヌにしては実に珍しい作品だ。未開の地アフリカ、世界一周に地の底、月面、海底、無人島とこれまで人類未踏の地への冒険を主にテーマにしてきた彼が選んだのはインド王妃の莫大な遺産をひょんなことから相続した2人の学者の対照的な生き様、そしてそれによって生じる諍いについての話だ。 20世紀の東西冷戦を彷彿させる、ヴェルヌらしからぬ緊迫した物語だ。フランス人とドイツ人による争いの構図となっているが、実はドイツ人であるシュルツ教授の一方的な対抗意識が生んだ無意味な戦争であるのが正確だろう。 この争いを生み出す原因の1つとして民族間の軋轢が語られている。というよりもドイツ人であるゲルマン民族が他の民族よりも優秀であることを証明し、誇示するためにシュルツ教授が我が一方的にケンカを吹っかけてきているのだ。ラテン民族のフランス人、サクソン民族のイギリス人など劣っている民族は浄化すべきであるといういわば選民思想が根源にある。まさにこれは後の第二次世界大戦でのナチスを彷彿させる内容だが、実は2017年の今現在、これは北朝鮮の度重なるミサイル試射の様子と実に重なるのである。つまりシュタールシュタートが北朝鮮、翻ってフランス市は日本ということになろうか。1879年の段階で書いていたヴェルヌの先見性には全く目を見張るものがあるが、一方で好戦的な国が平穏で安泰な国を、一方的な敵意で以って攻撃を画策する構図は実はこの時代から全く変わってないとも云える。 また本書はある意味スパイ小説の先駆けとも云える作品でもある。サラザン博士によって両親を早くに亡くしたマルセル・ブリュックマンはスイス人の製錬技師ヨハン・シュヴァルツと名を偽り、シュタールシュタートの製鉄工場に入り込む。そしてそこで彼は頭角をめきめきと現し、どんどん地位を向上させ、とうとう君主であるシュルツ教授の片腕にまでなるのである。それは巷間で噂されている新兵器の情報を得るためだった。しかしマルセルはシュルツ教授の、新兵器の秘密を知った者は死ななければならないという狂気の原則論によって死刑に処せられるが、危ういところで脱出に成功するのである。 このマルセルのシュタールシュタート潜入の一部始終はまさにスパイ小説そのものだ。しかも一都市がそのまま巨大軍事企業であることを考えると産業スパイとも読めるのだ。現在最初期のスパイ小説はジェイムズ・フィニモア・クーパーが1821年に発表した『スパイ』が先駆けとされており、その後には1901年のキップリングの『少年キム』が続くが、本書もまた一連のスパイ小説の系譜に名を連ねるべきではないだろうか。 230ページ弱のヴェルヌにしては短い長編でありながら、そこに収められた内容は科学の知識を盛り込んだSF小説でありながら、都市小説、政治小説、スパイ小説、企業小説など色んな要素を孕んだ作品である。 特に今回著しく目立ったのが敵役となるシュルツ教授の極端なまでのゲルマン民族至上主義志向である。ゲルマン民族こそ世界一の民族として知らしめるために彼はフランス市を近代兵器によって壊滅させ、全世界に恐怖と驚愕をもたらし、その威力を見せつけることに執念深い拘りを持ち続ける。調べてみると本書が著された1879年はドイツはビスマルク政権下であり、オーストラリア・ハンガリー、イタリアと結んだ三国同盟やオーストリア・ハンガリーとロシアと結んだ三帝同盟によってフランスに強い牽制を行っていた時代だ。つまり当時の世相が大きく反映されており、シュルツ教授はビスマルクをモデルしたのではないかと思われる。 しかしこれほど直截的にヴェルヌが特定の国の人物を悪人にしたのも珍しい作品だ。フランス人でありながら、アフリカ人、カナダ人、アメリカ人を中心に据え、夢溢れる冒険譚を紡いできたヴェルヌが書いた、皮肉溢れる近未来戦争小説。当時ヴェルヌが抱いていた憤りがこの作品には込められている。歴史の教科書のほんの数行でしか語られなかった当時のヨーロッパの政情が本書を通じてさらに深く垣間見られる。これこそ読書の、知の探索の醍醐味と云えるだろう。 しかし解説が三木卓とはねぇ。いやはや歴史を感じさせる。 |
No.1360 | 9点 | エンジェルズ・フライト マイクル・コナリー |
(2017/12/03 00:35登録) ケーブルカーと云えばLAではなくサンフランシスコのそれが有名だが、LAにもあり、それが本書で殺人の舞台となるエンジェルズ・フライトだ。実は世界最短の鉄道としても有名だったが、2013年に運行を停止していたらしい。しかし2016年の大ヒット映画『ラ・ラ・ランド』の1シーンで再び脚光を浴びて運行が再開したようだ。 1冊のノンシリーズを挟んでボッシュシリーズ再開の本書は奇遇にも最近再開されたケーブルカー内で起きた、LA市警の宿敵である強引な遣り口で勝訴を勝ち取ってきた人権弁護士の殺人事件に突如駆り出されたボッシュが挑む話だ。 作者はやはりボッシュに安息の日々を与えない。今度のボッシュはまさに否応なしにジョーカーを引かされた状況だ。警察の天敵で、何度も幾人もの刑事が苦汁と辛酸を舐めさせられた弁護士の殺人事件を担当することで、世論は警察による犯行ではないかと疑い、刑事も当初はその疑いを免れるために強盗によって襲われたものとして偽装する。 おまけに被害者は黒人であるのが実は大きな特徴だ。本書はスピード違反で逮捕された黒人をリンチした白人警官が無罪放免になったいわゆるロドニー・キング事件がきっかけで起きた1992年のロス暴動がテーマとなっている。作中LA市警及びハリウッド署の面々にとってもその記憶もまだ鮮明な時期で、エライアス殺人事件がロドニー・キング事件の再現になることを恐れており、少しでも対応を間違えば暴動になりかねない、まさに一触即発の状況なのだ。 作者自身もこのロドニー・キング事件を強く意識した物語作りに徹している。上に書いたように黒人であるロドニー・キングをリンチした白人警官が無罪放免になったのには陪審員が全て白人で構成されていたことが要因として挙げられている。一方エライアスが担当していたマイクル・ハリス事件もまた、事件に関わった警察及び検察官が全て白人であった。コナリーは実際の事件をかなり意識して書いていることがこのことからも窺える。従って本書では特に白人と黒人の反目が取り沙汰されている。ボッシュ達がこの微妙な、いや敢えて地雷を踏まされたような事件を担当するのも、ボッシュのチームに黒人の男女の刑事がいることが一因であることが仄めかされている。世紀末当時のLAはまだ根深い人種差別が横たわっていたことが描かれている。 更にエレノアとの結婚生活もまた破綻しかけている。元FBI捜査官でありながら、前科者という経歴で彼女はなかなか新たな職に就けないでいた。ボッシュも人脈を使って逃亡者逮捕請負人の仕事を紹介したりするが、エレノアはかつて捜査官として抱いていた情熱をギャンブルに向けていた。ラスヴェガスでギャンブラーとして生計を立てていた頃に逆戻りしていたのだ。ボッシュはエレノアに安らぎと全てを与える思いと充足感を与えられたが、エレノアはボッシュだけでは充たされない空虚感があったのだ。 本書で特に強調されているのは「すれ違い」だろうか。事件の舞台となったケーブルカー、「エンジェルズ・フライト」をコナリーは上手くボッシュの深層心理の描写に使っている。 一度は近づきながらもやがて離れていくケーブルカー。これを出逢いと別れを象徴している。一方同じ車両に通路を隔てて乗っている2人の関係性。これは同じ方向に進みつつも2人には何か見えない隔たりがある。ケーブルカーをボッシュが関わる女性との関係性に擬えるところにコナリーの巧さがある。 すれ違いと云えば、被害者エライアスの家族もそうなのかもしれない。人権弁護士として貧しき黒人たちの救世主として名を馳せた辣腕の黒人弁護士。しかし彼はその名声ゆえに近づいてくる女性もおり、それを拒まなかった。元人権弁護士でLA市警の特別監察官となっているカーラ・エントリンキンもまたその1人だった。 しかしエライアスの妻ミリーは女性関係については夫は自分に誠実であったと信じていますと告げる。決して誠実だったとは云わず、自分は信じているとだけ。これはつまりすれ違いをどうにか防ごうとする妻の意地ではないだろうか。世間に名の知れた夫を持つ妻の女としての矜持だったのではないだろうか。つまり彼女とハワード・エライアスのケーブルカーはそれぞれ上りと下りと別々の車両に乗ってはいたが、行き違いをせずにどうにかそのまま同じところに留まっていた、そうするように妻が急停止のボタンを押し続けていた、そんな風にも思える。 世紀末を迎えたアメリカの政情不安定な世相を切り取った見事な作品だ。実際に起きたロス暴動の残り火がまだ燻ぶるLAの人々の心に沈殿している黒人と白人の間に跨る人種問題の根深さ、小児に対する性虐待にインターネットの奥底で繰り広げられている卑しき小児ポルノ好事家たちによる闇サイトと、まさしく描かれるのは世紀末だ。 では新世紀も17年も経った現在ではこれらは払拭されているのかと云えば、更に多様化、複雑化し、もはやモラルにおいて何が正常で異常なのかが解らなくなってきている状況だ。人種問題も折に触れ、繰り返されている。そういう意味ではここで描かれている世紀末は実は2000年という新たな世紀が孕む闇の始まりだったのかもしれない。そう、それは混沌。死に値する者は確かに制裁を受けたが、それは果たして正しい姿だったのか。そして友の死の意味はあったのか。向かうべき結末は誰かが望み、そしてその通りになりもしたが、そこに至った道のりは決して正しいものではない。 結果良ければ全て良しと云うが、そんな安易に納得できるほどには払った犠牲が大きすぎた事件であった。 自分の正義を貫くことの難しさ、そして全てを収めるためには嘘も必要だと云うことを大人の政治原理で語った本書。その結末は実に苦かった。 ボッシュの息し、働き、生活する街ロス・アンジェルス。天使のような美しい死に顔をして亡くなったステーシーがいた街ロス・アンジェルス。まさに天使の喪われた街の名に相応しい事件だ。 その街にあるケーブルカーの名前は「エンジェルズ・フライト」、即ち「天使の羽ばたき」。しかし天使の喪われた町での天使の羽ばたきは天に昇るそれではなく、地に墜ちていく堕天使のそれ。 最後にボッシュは呟く。犯人の断末魔は堕天使が地獄へ飛んでいく音だったと。エンジェルズ・フライトの懐で亡くなったエライアスはこの堕天使によって道連れにされた犠牲者。世紀末のLAは救済が喪われたいくつもの天使が墜ちていった街。そんな風にLAを描いたコナリーの叫びが実に痛々しかった。 |
No.1359 | 4点 | 新千年紀古事記伝YAMATO 鯨統一郎 |
(2017/11/30 11:25登録) 『千年紀末古事記伝ONOGORO』に続く、鯨統一郎版古事記伝である。前作では稗田阿礼が巫女の力で感じ取る物語を綴る体裁であったが、続編にあたる本書ではヤマトタケルは“世界”を創るために根源へと遡る。 歴代の大王たちがなんとも本能の赴くままに振る舞うことよ。 前作では男と女の交合いこそが国創りだと云わんばかりにセックスに明け暮れるという話が多かったが、本書は神々から人間に登場人物が変わっただけあって、神々よりも理性はあるため、自重する面も見られるが、それでも妻がありながらも美しく若い女性、また熟れた肢体を持った女性を見ると見境なく交合う話が出てくる。東に行っては美しい娘に永遠の契りを誓いつつも西に行ってまたも美しい女性に出会えば后として迎えるとうそぶく。男のだらしなさが横溢している。更には自分こそが一番強いことを証明するため、各地の強者たちと戦い合う。それは身内も同様で王の兄の座を虎視眈々と狙って討ち斃そうとする兄弟げんかも繰り返される。昔から男は欲望のままに生きる子供っぽい生き物であるのだと殊更に感じる一方、昔の女性の一途さに感銘した。 はっきり云えばそれら歴代の統治者たちの物語にミステリの要素は全くな い。前作ではアマテラスと交合うために天の岩屋戸に籠ったスサノヲがアマテラスの背中に短剣を突き立てて殺害しながらも密室の中から忽然と消える密室殺人が盛り込まれていたが、本書ではそんな要素も全くない。せいぜいヤマトタケルが各地の強者を成敗するのに智略や奸計を用いたくらいだ。 従って本書は単純に古事記の解説本のように読んでいたが最後になって本書の意図が判明する。これはつまり本書全体が鯨氏が仕掛けた壮大なトリックなのだと。 このオチを是と取るか否と取るかは読者次第。ただ本書における鯨氏の意図は理解できる。 歴史とはずっと研究が続き、その都度生じる新たな発見で内容が改変されていく学問である。従って100人の学者がいれば100通りのの解釈が生まれる。鯨氏はこの歴史の曖昧さ、あやふやさこそがそれぞれの読者が学んできた歴史という先入観を利用してひっくり返すことをミステリの要素としていたのだ。デビュー作の『邪馬台国はどこですか?』はまさにそれをストレートに描いたもので、本書は逆に古事記のガイドブックのように読ませて、それぞれが知っている古事記との微妙な差異を盛り込むことでミステリとしたのだ。 ただ正直に云って本書は古事記をもとにした黎明期の日本の統治者たちのエピソードを綴り、それをヤマトタケルが造った世界であるという一つの軸で連なりを見せる連作短編集として読むのが正解だろう。私は1つの長編、そしてミステリとして読んでいたため、どんどん変遷していく時の治世者たちのエピソードの連続に、果たしてどこに謎があるのだろうと首を傾げながら読んだため、読中は作者の意図を汲み取るのに実に理解に苦しんだ。 もしかしたら本書の妙味とはこれを読んで古事記の内容が解ったと思ってはならない、古事記とは異なる点が多々あるからそれは自分で調べなさいと読者に調べて知ることの歓びを与えることなのだろう。だからこそ巻末に記載された参考文献一覧に、「本文読了後にご確認ください」と作者が注釈を入れているのだろう。 解らないことは自分で調べよう、じゃないと嘘をそのまま鵜呑みにするよ。 それが今まで4冊の鯨作品を読んできて感じたこの作者の意図であり、警告であると思うのである。 |
No.1358 | 9点 | 返事はいらない 宮部みゆき |
(2017/11/30 00:47登録) いやはや脱帽。久しぶりに宮部作品を、それも短編集を読んだが、流石と云わざるを得ない。犯罪や人の妬み、嫉みという負のテーマを扱いながら、読後はどこか前向きになれる不思議な読後感を残す佳品が揃っている。 偽造カード詐欺と狂言誘拐を組み合わせた表題作、後の『火車』でも取り上げられるカード破産をテーマにした「ドルネシアへようこそ」、店の金を持ち逃げされた従業員を追ったレストラン経営者のある決意を語った「言わずにおいて」、盗聴器が仕掛けられた引っ越し先の前の住人の正体を探る「聞こえていますか」、ブランドや装飾品に自分の存在価値を見出した女性の借金まみれの生活を扱った「裏切らないで」、そして最後は借金のカタに婚約指輪を取られた従姉のために一肌脱ぐ高校生の活躍を描く「私はついてない」。そのどれもが読後、しっとりと何かを胸に残すのである。 80年代後半から90年代に掛けて、狂乱の時代と云われたバブル時代の残滓が起こした当時の世相を映したような事件の数々。そんな世相を反映してか、6編中5編が金銭に纏わるトラブルを描いている。しかしそれらは過ぎ去った過去ではなく、今なお起きている事件でもある。 こんな出来栄えの短編集だからベストの作品が選べるわけがない。全てがそれぞれにいい味を持った短編だ。だから敢えてベストは選ばないが、唯一刑事を主人公にした「裏切らないで」が作者がこの時代の特異性を能弁に語っているのでちょっと書いておきたい。 地方から出てきて若さを武器に借金をしながらもいい仕事に就いていい男を見つけようとしていた女性が殺される。その彼女を殺した女性は東京の北千住から引っ越してきた女性なのにそこは「東京」ではないという。当時煌びやかで華やかさを誇ったバブル時代は実際は中身のない好景気で、その正体が暴かれた途端に弾けてしまい、しばらく世の中はその後始末に追われた。そんな上っ面の時代の東京もまたメディアに創り上げられた幻に過ぎなかったのではないかと刑事は述懐する。それは彼女たちの生き方も見た目を着飾ることに終始して、やりたいことがなく、ただ「貰う」だけ、手に入れるだけを目指していた。その中に中身があるかないかも分からずに。 本書はそんな時代の、東京を映した短編集。しかしバブル時代のそんな空虚さを謳っているのに、時代の終焉を迎え、乗り越えようとする人たちに向けての応援の作品とも取れる。こんな作品、宮部氏以外、誰が書けると云うのだろうか? 解っている。だから勿論、この問いかけに対する「返事はいらない」。 |
No.1357 | 7点 | 本棚探偵 最後の挨拶 喜国雅彦 |
(2017/11/26 11:59登録) 今回も本に纏わるおかしな面々のおかしな話や、喜国氏の本に対する至上愛が語られている。 恒例となった製本では3回に分けて私家版の『暗黒館の殺人』上中下巻+別冊の制作過程が書かれているし、本棚探偵の本分(?)である他人の本棚の整理についてはまたもや狂気の収集家日下三蔵氏の蔵書整理の模様がこれまた3回に分けて語られる(それほどまでに費やしながら、一向に片付かない日下邸。家人の苦労が偲ばれる。特に驚いたのが蔵書の山に埋もれて見れなくなったテレビがアナログ放送の物だったこと)。 とこのように古書やミステリに纏わる面白エピソードやおふざけが今回も収められているが、今までと異なるのは喜国氏が古書収集に幕を引き始めたところにある。トランク1つに収まるまで本を整理したいとその選出を試みてもいる。喜国氏もなんと59歳。会社勤めをしていれば来年には定年という年齢だ。そして知人の中にも死を迎える人たちが出てくる年齢でもあり、実際彼の後輩の訃報が本書に触れられている。そんな彼に老眼という転機が訪れ、本を整理するようになったり、また一箱古本市に出品したり、古本仲間が神保町に出店したり、と自分の蔵書を減らす方向にベクトルが向いているところが今まで違うところだ。 これは恐らく収集家の行き着く先ではないだろうか。とにかく若い頃には知識欲と収集欲に駆られ、自分の蔵書を増やすことに腐心していたが、老境に差し掛かると、これらを整理し、むしろ自分で持っておくよりも次の世代に引き継ごうという心持になってくるようだ。 また最後から二番目のエピソードに収録されている「12歳のハローワーク」には自身が自称する本棚探偵の職業について触れられている。これは次世代にこの本棚探偵と云う職業を引き継ごうという意思の表れなのだろうか。 そんな感じで収集人生を畳み掛けているかのように読める本書はタイトルに冠せられている通り、これは本棚探偵最後の1冊になるのだろうか?作者も一区切りになるとあとがきで書いている。 だがそうではないだろう。拘りの喜国氏ならばシャーロック・ホームズの短編集のタイトルに則って『~事件簿』までは書くだろうと確信している。従って有終の美という言葉は私は使わない。日本推理作家協会賞を受賞したからと云って勝ち逃げするのは性に合わないでしょう。 本当のさよならはその時にとっておこう。次も書きますよね、喜国さん? |
No.1356 | 10点 | わが心臓の痛み マイクル・コナリー |
(2017/11/22 23:43登録) これは誰かの死によって生を永らえた男が、その誰かを喪った人のために戦う物語。しかしその死が自分にとって重くのしかかる業にもなる苦しみの物語でもある。 何しろ導入部が凄い。コンビニ強盗で殺された女性の心臓が移植された元FBI捜査官の許にその姉が訪れ、犯人捜しの依頼をするのである。 これほどまでに因果関係の強い依頼人がこれまでの小説でいただろうか。もうこの設定を考え付いただけで、この物語は成功していると云えよう。 しかし驚くべきはコナリーのストーリーテリングの巧さである。 例えばボッシュシリーズではこれまでパイプの中で死んでいたヴェトナム帰還兵の事件、麻薬取締班の巡査部長殺害事件、ボッシュを左遷に追いやった連続殺人犯ドールメイカー事件、そして母親が殺害された過去の事件、車のトランクで見つかったマフィアの制裁を受けたような死体の裏側に潜む事件、更にノンシリーズの『ザ・ポエット』ではポオの詩を残す“詩人”と名付けられた連続殺人鬼の事件と、それぞれの事件自体が読者の胸躍らせるようセンセーショナルなテーマを孕んでいたが、本書では心臓を移植された相手を殺害した犯人を追うというこの上ないテーマを内包していながらも、その事件自体はコンビニ強盗・ATM強盗と実にありふれたものである。 日本のどこかでも起きているような変哲もない事件でさえ、コナリーは元FBI捜査官であったマッケイレブの捜査手法を通じて、地道ながらも堅実に事件の縺れた謎を一本一本解きほぐすような面白みを展開させて読者の興味を離さない。これは即ち巷間に溢れた事件でさえ、コナリーならば面白くして見せるという自負の表れであろう。 本書の原題は“Blood Work”と実にシンプルだが、これほど確信を突いている題名もないだろう。本来血液検査を表すこの単語、作中ではFBI捜査官のうち、仕事として割り切れぬ怒りを伴う連続殺人担当部門の任務のことを「血の任務」と呼ぶことに由来を見出せるが、本質的にはマッケイレブの体内を流れる依頼人グラシエラの妹グロリアの血が促す任務と云う風に取るのが最も的確だろう。映画の題名も『ブラッド・ワーク』とこちらを採用している。 まさに本書は血の物語だ。血は水よりも濃いと云われるが、これほど濃度の高い人の繋がりを知らされる物語もない。同じ血液型という縛りでごく普通の生活をしていた人たちが突然その命を奪われる。それもその臓器を必要とする者のために。そしてその中にまさか捜査をする自分も含まれていることをも知らされる。そしてその犯人が被害者を殺害することで自分が新たな命を得たことを知らされる。そしてその因果にはさらに醜悪な意図が含まれていたことも判明する。 こんなミステリは読んだことがない!私はこの瞬間コナリーのキャラクター設定、そしてプロット作りの凄さを思い知らされた。 いやはやなんとも凄い物語だった。コナリーはまたもや我々の想像を超える物語を紡いでくれた。そして何よりも凄いのは犯人へ繋がる手掛かりがきちんと提示されていることだ。 つまり読者はマッケイレブと同じものを見ながら、新たな手掛かりに気付く彼の明敏さに気付くのだ。特に真犯人にマッケイレブが気付く大きな手掛かりは明らさまに提示されているのに、驚かされた。コナリー、やはり只のミステリ作家ではない。 |
No.1355 | 7点 | チャンセラー号の筏 ジュール・ヴェルヌ |
(2017/11/02 23:57登録) 小学生の頃、世界の七不思議を語った本があり、その時に船が遭難する不思議な海域、サルガッソー海のバミューダトライアングルが取り上げられていた。その恐ろしさは当時少年だった私の心に鮮明に刻み込まれており、決して行きたくはないものだと思っていたが、まさかこの歳になってそれらの言葉と再会するとは思えなかった。そしてやはりその海域は伝説通りの魔の海域であることが本書の登場人物たちが遭遇する困難によって再認識させられた。 本書は実際にフランスの軍艦で起きた事件をモデルにしているようで、これもまたヴェルヌ作品では珍しい。物語は帆船チャンセラー号の1人の乗客J・R・カザロンの手記という形で進む。 個性的な乗客や一癖も二癖もある水夫たちが船、そして筏という1つの狭い空間で救出されるまでの4ヶ月の海での生活が語られる。 まず彼らを襲うのが船倉内で起きた火災。それからハリケーンの直撃に遭い、岩礁に座礁し、そのショックで船底に穴が空き、そこから流入する海水で消火をした後、船の残材で修復した後、岩礁を爆薬で破壊して再び航海に乗り出す。 ここまでは他のヴェルヌ作品同様の冒険スペクタクルの面白さをまだ備えているが、そこからはまさに絶望また絶望の連続である。 実話をもとにしているせいか、ヴェルヌ作品にしては珍しく悲愴感漂う雰囲気で物語が進む。これまでのヴェルヌ作品においても冒険に旅立つ、もしくは無人島に漂着した主人公たちにも次から次へと困難が待ち受けていたが、それらを知恵と勇気と閃きと実行力で乗り越えるという痛快さが伴っていた。 本書でも上に書いたような岩礁での探検やハムに似た形からハム・ロック岩礁と命名したり、また筏に乗ってからもタイを釣ったり、海藻の一種ホンダワラを採って、糖分を補給するなど、他のヴェルヌ作品と同様のサヴァイバル術が展開されるが、そのような雰囲気はそこまで。そこからは苦難と苦痛、裏切りと疑心暗鬼に満ちた、極限状態下での争いが繰り広げられる。 とにかく次々に人が死んでいく。その死にざまも様々だ。 そしてこんな生きるか死ぬかの極限状態での人間ドラマが実に生々しく描かれる。 極限状態の中では人間は2つに分かれる。生きることに執着しながらも人間としての尊厳を保とうとする者と捨て去ろうとする者だ。 前者の一人で特筆すべきは副船長から船長になったロバート・カーティスだ。どんな苦難が訪れようとも決して諦めない。99%の絶望の中に1%の希望があればそれを信じ、全うしようとする男だ。この男無くしては彼らの生還は成し得なかっただろう。 後者ではひっそりと食糧を隠し持ち、自分だけ助かろうとする者や人が死ぬことで分け前が増えることを望む者に死者が出来ればその一部を餌に釣りをする者はまだ可愛い方で、死者を食糧と捉え、死ぬや否や飛びつく者まで出てくる。 最近ではGPSなどの設備が発達して、誰もが気軽に海や山へ乗り出したりするが、その便利さを過信して十分な準備を怠り、海や山での遭難のニュースが現代でも起こっている。ニュースでは行方不明になったこと、そして数日後に救出されたこと、もしくは遺体で発見されたことが僅か数分で語られるのみだ。そんな自然の猛威に直面した人の生き死にの裏にはこれほどまでに凄まじい一幕があることを本書は伝えている。 冒険小説、SF小説の祖とも云われるヴェルヌにとっては異色の作品だった。1人のヒーロー的存在とそれをサポートする仲間たちが登場するのが常であった彼の小説の中では珍しく、ずる賢い人間たちが多く出てくる話であった。実際の冒険がこれほどまでに苦難と苦痛に満ち、醜いものであることを知っているからこそ、彼は夢とロマンに溢れる作品を描いたのかもしれない。本書はある意味ヴェルヌがそんな夢溢れる物語を書き続けるためにいつかは通らなければならなかった、極限状態に陥った人間の本当の姿を描いた作品、そんな風に思うのである。 |