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ミステリの祭典

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平均点:6.73点 書評数:1614件

プロフィール| 書評

No.1434 8点 スケアクロウ
マイクル・コナリー
(2019/02/05 23:20登録)
これは『ザ・ポエット』第2章か?
詩人の事件でコンビを組んだ新聞記者のジャック・マカヴォイとFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが再びタッグを組み、連続殺人鬼スケアクロウに立ち向かう。20世紀の敵、詩人(ザ・ポエット)と違い、21世紀の敵、案山子(スケアクロウ)は更に強力だ。
スケアクロウことウェスリー・カーヴァ―は平時はデータ会社の最高技術責任者の貌を持つ男で、ウェブ世界を自由に行き来し、各会社のサーバーに容易に侵入し、個人情報を盗み出す。ジェフリー・ディーヴァーの『ソウル・コレクター』に出てきた未詳522号を髣髴とさせる。
特にスケアクロウことウェスリー・カーヴァ―がジャックの後任アンジェラのブログ記事から飼っている犬の名前をパスワードにしていると推測して勤務先の新聞社のサーバーに彼女に成りすまして侵入していく有様はいかに我々一般人がウェブに関して無頓着に自ら重要な情報を明かしているのをまざまざと見せつけられる思いがした。

また今回の事件がトランク詰め殺人であることでどうしても同様の事件である『トランク・ミュージック』を想起させられてしまう。作中でもジャックの後任のアンジェラが過去のデータベースを引っ張った際に、ボッシュが担当したこの事件について言及される。つまり本書は同時期に書かれた『ザ・ポエット』と『トランク・ミュージック』に21世紀という時代を掛け合わせた作品と云えるだろう。

ジャックの一人称で紡がれる物語は新聞記者の特性が実に深く描かれている。自身地方の新聞記者からロサンジェルス・タイムズ紙に引き抜かれたコナリーにとってジャック・マカヴォイは自らが色濃く反映されたキャラクターだろう。そこに書かれているのは新聞記者たちがいかにスクープを物にし、のし上がろうと貪欲に事件を追いかけている有様とそのためには他人を出し抜くことを厭わない不遜さを持っていることだ。
解雇通知を受け、後任となったアンジェラは事件記者としては新米ながらもジャックが追いかけることになったスケアクロウの事件を既にキャップと話してジャックの記事ではなく、2人の共同記事にすることをとりなして、一刻も早く大きな事件を扱えるように画策すれば、ジャックは自分の記事がセンセーションを巻き起こすことを期待して掴んだ手掛かりはいつまでも持っておく。更に自分が当事者になることで記者から取材対象者になると、解雇通知を受けたジャックに同情を寄せていた同僚は嬉々としてジャックに訊き込みを行う。
そんな生き馬の目を抜く、上昇志向の塊のような集団が新聞記者たちのようだ。即ちこれはコナリー自身の回顧録でもあるのかもしれない。
一方で顕著なのは花形とされていたメジャーメディア会社であるロサンジェルス・タイムズ紙が斜陽化してきていることだ。インターネットの発展でウェブ化が進み、新聞の発行部数は軒並み減少。従って経費削減としてリストラを行わなければならず、その憂き目にあったのがジャック・マカヴォイなのだ。
高給取りのベテラン記者を排し、安い月給の新人記者に取って換えようとする。実際ロサンジェルス・タイムズ紙は経営破綻し、会社更生手続きの適用を申請したそうだ。コナリーも巻末のインタビューで応えているように、この新聞界を襲う未曽有の経営危機が本書を書く動機になったようだ。それは新聞界に向けたエールであると同時に鎮魂歌でもあるのかもしれない。なぜならジャックは新聞社を去るのだから。

しかし今回もまたストリッパーに絡んだ事件だ。コナリーの物語は本当にこのストリッパーや売春婦たちが巻き込まれる事件が多い。そしてウェスリー・カーヴァ―はハリー・ボッシュと同様に母親がストリッパーである。ストリッパーが母親でありながらもボッシュは悪に染まらず、罪を裁く側の人間となった特別な存在だと強調するかのようだ。

しかしディーヴァーの『ソウル・コレクター』の時もそうだったが、今回は実にリアルで寒気を感じた。情報化社会でもはやウェブがなければ生活できない我々がいかにインターネットに、情報端末に依存して生きており、そして自分たちの秘密をそこにたくさん放り込んでいることに気付かされた。そしてそれがある意味自身の生活を、いや自分自身のアイデンティティそのものを容易に侵す可能性を秘めていることも改めて思い知らされた。
ブログやツイッター、ラインにフェイスブック、インスタグラムなどに代表されるSNSに我々はいかに無防備に自分をさらけ出していることか。悪意あるハッカーたちやクラッカーたちが虎視眈々と狙っている付け入る隙を自ら提供しているようなものである。
しかしこれからはキャッシュレス化が進んでいけば、更にこのウェブで生活や仕事達の大半を処理していく傾向は強まることは避けられない。
そうした場合、何が問われるかと云えば、本書でも言及されているように、堅牢なシステムは無論の事ながら、それを扱う人間の資質だ。他人を盗み見ることが常態化し、悪い事とは思えなくなってくる、いや寧ろ他人の情報すらも容易に手中に出来ることで自らを一般人とは上位の存在、神と見なして他者を単なる名前やIDだけの文字だけの存在としか認識しなくなる怪物が育ち、悪用されるのが恐ろしい。某通信教育会社がデータ管理会社の社員によって金になるという理由でユーザー情報を流出して売り払らわれていた事件を目の当たりにし時と同じ戦慄を覚えた。なんでもそうだが、結局行き着くところは「人」なのだ。
つまりこのウェスリー・カーヴァ―は単に創作上の怪物ではない。本書は実際に起こりうる事件であり、ありうる犯人であるからこそリアルで恐ろしいのだ。

しかしコナリーのストーリー運びには今回も感心させられた。特にジャック・マカヴォイが事件の結び付きを発見していくプロセス、レイチェルが行うプロファイリングの緻密さ、畳み掛けるように起こる2人への危難とそれを打倒する機転。それらは実に淀みなく展開し、全く無理無駄がない。よくあるデウスエクスマキナ的展開さえもない。全てが必然性を持って主人公の才知と読者の眼前に散りばめられた布石によって結末へと結びつく。
ジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリング2人が最高のコンビであることを再度確信した。ジャックは新聞社を辞し、またこの「スケアクロウ事件」を題材に本を著すが、その先はどうなるか解らない。レイチェルは見事FBI捜査官の第一線に復帰したが、彼女はジャックと2人で探偵事務所を開くことに興味を抱いている。
悔しいが、こんなに面白く、そして知的好奇心を刺激され、なおかつ爽快な物語を読まされたら、2人はお似合いであると認めざるを得ないだろう。再びこのコンビでの活躍を読みたいものだ。


No.1433 8点 ZOKU
森博嗣
(2019/02/03 22:53登録)
さてこれは森版『ヤッターマン』とも呼ぶべき作品か。

犯罪にまでには至らない被害の小さな、しかし見過ごすには大きすぎる悪戯を仕掛けるZOKUとそんな悪戯に真面目に抵抗し、阻止せんと追いかけるTAI。
それは「ヤッターマン」における、ドロンボー一味とヤッターマンを観ているかのようだった。

さてそんな「まじめにふまじめ」を行うZOKUのメンバーは、黒幕の黒古葉善蔵にロミ・品川、ケン・十河、バーブ・斉藤で構成されており、プライベートジェットを根城としている。
一方「ふまじめをまじめ」に阻止しようとするTAIは白い機関車を基地にしており、木曽川大安を所長に、揖斐純弥、永良野乃、庄内承子が主要メンバーである。

木曽川と黒古葉はお互い実に親しい幼馴染でいがみ合っていない。寧ろ顔を合わせた時にはお互い談笑する仲だ。昔から悪戯好きだった黒古葉とそれを真面目な木曽川が少年時代から尻ぬぐいしてきた仲である。つまりこれは2人の大富豪が日本全国を舞台に繰り広げる壮大なお遊びなのだ。

一大財を成し、遊ぶお金と自由な時間を手に入れた2人が始めたのは日本全国を巻き込んだ正義と悪の対決ごっこ。こんなワンアイデアから生まれた本書は稚気に満ちていて実に愉しい読書の時間を提供してくれた。

そして作中に出てきたZOKUの数々の悪戯は恐らく森氏が日ごろから想像している「やってみたら面白い事」の数々であるに違いない。大人になって出来なくなったこれらの悪戯、いや大人にならないとできないが実際やれば逮捕されてしまうから出来ない悪戯を森氏はZOKUの面々に託したのだろう。

幸いにしてこの後もシリーズは続き、この憎めない輩たちと再会する機会があるようだ。次作を愉しみに待つとしよう。


No.1432 8点 聖アウスラ修道院の惨劇
二階堂黎人
(2019/01/30 23:22登録)
一読非常に読みやすく、更に本格ミステリ趣味に溢れていながらも警察の捜査状況も、慣例事項など専門的な内容も含めてしっかり書かれており、意外にも好感が持てた。

江戸川乱歩や横溝正史、はたまたジョン・ディクスン・カーが織り成すオカルティックな本格ミステリの世界観を見事に盛り込んだ作品を紡ぎ出している。
ケレン味という言葉がある。それは物語をただ語るだけでなく、作者独特の世界観に読者に導くはったりや嘘のような演出のことだ。先に挙げた乱歩や正史、カーや島田荘司氏などの作品はこのケレン味に溢れている。
そしてまた二階堂黎人氏もまたケレン味の作家である。上に書いたガジェットの数々は自分が面白いと感じた古今東西のミステリの衣鉢を継ぐかのように過剰なまでにケレン味に溢れた作品世界を描き出す。

しかし残念なのは探偵役の二階堂蘭子がまだまだ類型的なキャラクターに感じられることだ。
二階堂蘭子及び黎人2人の主人公たちをいけ好かないブルジョワ階級の、我々庶民である読者とは隔世の存在としているため、どこか親近感を抱くのを阻んでいる感じがある。
とはいえ昨今の本格ミステリは有栖川有栖氏の臨床犯罪学者火村然り、警視を親に持つ法月綸太郎然り、どこも似たような感じであるから、受け入れるべきなのだろう。
しかし今回この万能推理機械のように思われた二階堂蘭子に弱点が発覚する。それは彼女が泳げない、つまりカナヅチであることだ。この設定が物語最終のスペクタクルで活かされることで本書で初めて二階堂蘭子が類型的な万能探偵から一歩抜きんでた思いがした。

また文書庫の秘密を知り、打ちひしがれるマザー・プリシラの様子はそのまま未来の作者そのものを示しているかのように思える。

ど真ん中の本格ミステリをこよなく愛するがゆえに、その愛が深いだけに亜流や境界線上の本格ミステリに対して「○○は断じて本格ミステリではない!」、「本格ミステリとは斯くあるべきだ」と持論を強硬に展開するあまり、本格ミステリ論争まで仕掛けて、論破されそうになると正面からの抗議を避け、外側の部分で議論を煙に巻くという愚行に出た二階堂氏。私はこの「『容疑者xの献身』本格ミステリ論争」における氏の無様な姿に大いに失望した。
更にその後島田荘司氏を旗頭として掲げつつ、『本格ミステリ・ワールド』というムックを立ち上げ、いわゆる『俺ミス』と揶揄されるようになる、自身の認める本格ミステリを「黄金のミステリー」と題して選出するようになった。その結果、このムックはほどなく休刊に至る。

つまりマザー・プリシラこそ作者そのものなのだ。ミステリという宗教の中で本格ミステリのみを信奉し、それ以外のミステリを排するようになり、そして世間の目がやがて自身の好む本格ミステリから外れた作風へ嗜好が変化しそうになると、それを認めず、自分好みのミステリ選出をしてご満悦に至る。
折角これほどまでにたくさんの本格ミステリガジェットと豊富な知識を盛り込んだ面白い作品を書けるのに、それを他に強いるのは愚の骨頂である。作者は己の信じるものを自身の作品で語ることで答えにすればよいだけだ。それを絶対的真理や定理のように強要するのは決してやるべきでない。

聖アウスラ修道院の惨劇は数年後に自らが招いた二階堂黎人の惨劇になってしまった。彼があの日あの時、本書を読んでいたらあのような愚行は避けられたのではないか。未来の自分を予見したのは実はあの論争を引き起こす12年前の自分であった。実に皮肉な話である。


No.1431 7点 九人と死で十人だ
カーター・ディクスン
(2019/01/27 23:07登録)
本書の冒頭で作者のディクスンは自身が第二次大戦開戦直後に経験したニューヨークからイギリスへの船旅の経験を基に作られたことが記されている。1本の作品にするほど子の船旅は作者の印象に強く残ったそうだ。

第2次大戦時下という緊迫した状況下での軍需品輸送の密命を帯びたイギリス渡航中の客船を舞台にディクスンが仕掛けた謎は船上での殺人現場に残された指紋に船内に該当する人物がいないという実に奇天烈な物。単に船内の登場人物に限定しない第三者の介入と、更に陸地にある館とは異なる、どこからも部外者が侵入できない船上で第三者の介入がなされたという不可解な謎を用意しているのだ。

久々に読んだカーター・ディクスン作品だが、謎また真相は小粒でありながら全てが収まるべきところに収まる美しさが本書にはあった。同じ客船を舞台にしたドタバタ喜劇が過剰な『盲目の理髪師』よりもこちらを私は買う(ところで本書でも客船での理髪師とHM卿のやり取りが殊更ユーモアに書かれている。これは前掲の作品に呼応したものだろうか?)。

特に指紋のトリックは21世紀でありながら私は本書で初めて知った。しかし21世紀の今でも同様な照合ミスは起きているのかと云われれば疑問ではあるが。

また犯人特定の鍵に使われた様子のない髭剃り用のブラシに着目するところはクイーンのロジックの美しさを感じさせる。
つまりある意味カーター・ディクスンらしからぬロジックの美しさが感じられる作品なのだ。

また注目したいのは本書の舞台が第2次大戦時下というところだ。複数の国を巻き込んだこの世界大戦において無数の人間が死ぬ状況。そんな中で軍需品輸送の密命を帯びた客船に同乗した9人の乗客とその船員たちはそれぞれに名を持ち、そしてそれぞれに使命を、希望を、そして思惑を持っている。大量に人が死ぬ時代に9名の人間が意志ある人間として描かれ、そして殺人劇が繰り広げられているところに本書の意義があるように思える。
世界中で人が次々と死に、誰がどこでどのように死んだのかの確認が後手後手になり、結果、名もなき兵士たちによる死屍累々の山が築かれる中、名を持った人間たちが戦争に加担する船に乗り込み、そして命を落とすところが意義深い。
そういった意味で考えれば唯一軍人の乗客であったピエール・ブノアがジア・ベイ夫人殺しのために作られた架空の人物であったことは大いに皮肉だ。戦線に立つ人間が名を与えられながらも実態がなかった。それはまさに大量死に紛れる匿名の犠牲者を暗示しているかのようだ。


No.1430 7点 真鍮の評決
マイクル・コナリー
(2019/01/27 00:40登録)
ボッシュシリーズと並ぶコナリーのシリーズ物として現在も作品が発表されているリンカーン弁護士ミッキー・ハラーシリーズ第2作。1作目が好評で映画化もされたが、コナリー自身もこの作品をもう1つの彼の作品の主軸にするためか、磐石の態勢で2作目を送り出した。
そう、2作目で早くもボッシュとハラーが共演するのである。しかも『ザ・ポエット』で主人公を務めた新聞記者ジャック・マカヴォイも登場させている。さらに物語半ばでは『バッドラック・ムーン』のキャシー・ブラックらしき女性がかつての依頼人であったことも仄めかされている。これはコナリーがこのミッキー・ハラーをボッシュ・ワールドにさらに積極的に取り込むことで、もう1つのシリーズの軸として成立させようと本書にかなり強い意気込みを掛けていることが解る。

異母兄弟でありながら、刑事と弁護士という水と油の関係の2人。作中でも「コインの裏表のようなもの」とお互いを評しているほど、こんな相反する男たちがどうやって協力し合うのか。さすがは物語後者のコナリー、実に上手い設定を導入する。
ボッシュが捜査をするのはハラーの依頼人の事件ではなく、ハラーに依頼人をもたらすことになった彼の友人の弁護士が殺害された事件の捜査なのだ。つまりハラーは友人の無念を晴らすために犯人を捕まえることを求めているため、2人の向くベクトルは全く同じなのである。なんと絶妙な筆捌きではないか。
しかしそれもやがて崩れてくる。ボッシュの捜査はやがてエリオットの方にも手が伸びてくるのだ。確かにこれは必然といえば必然。殺害された弁護士が衆目を集める裁判を担当していたとなればそこに事件の火種があると思うのは当たり前だ。したがってこの異母兄弟は次第にお互いの仕事と任務を護るために反発しあうことになる。

1作目から登場人物も刷新され、一旦リセットされた感もある。つまり前作はイントロダクションとすれば本書がシリーズの基礎を作り、そして本格的な始まりを示す作品であると云えよう。

やはりこういうリーガル・サスペンスで面白いのは我々一般人では未知の世界である法曹界の常識や戦術などが垣間見られるところだ。人は感情の動物である。いかに論理的に説明しても感情的に割り切れなければどうしてもそちらに引っ張られてしまう。陪審員制度では法律の素人である彼らの心をいかに掴むかが重要になってくる。つまり人間心理を熟知するものこそ法廷を制するのだ。そこには正義よりもむしろ法廷を支配線とする情熱が勝るといっていい。したがってハラー達弁護士、起訴する側の検察は自分の味方につけさせるために彼らはありとあらゆることを仕掛ける。
また今回最も読み応えがあったのは検察側と弁護側がそれぞれ陪審員を選定するシーンだ。延々30ページに亘って描かれるその攻防は人を読む目が試されるプロセスが詳細に書かれている。日本も裁判員制度が採用されたため、本書に書かれていることはまさに他所事ではなくなった。日本でも同様なことが行われているのだろうか?そしてもし私が裁判員に選ばれたとき、私は法廷に立つまでに至るだろうか、など考えさせられた。

しかし終わってみればこれまでのコナリー作品のキャラクターが登場する割にはさほど大きく関わらなかったという印象だ。まずジャック・マカヴォイはほとんど蚊帳の外的な扱いだったし、ボッシュも節目節目で出てくるとはいえ、いつものような押しの強さが少なかったように思う。特に物語の主軸であるエリオットの事件に関わると見せながらも最後までその核心には迫らず、外周を廻ってハラーの動きを見ていた、いわば裏方的な存在だった。これはどこまでシリーズキャラクターの共演を期待するか、読み手側の受け取り方によって本書の感想は大いに変わるだろう。
それで私はと云えば、やはり初の2大シリーズキャラクターの共演と謳うならば、もっとゴリゴリお互いの立場を主張して争ってほしかった。いかなる犯罪者も自分の手を汚してまで裁くことを厭わないほどの極端な正義感の持ち主である警察側のボッシュと、その人自身が犯罪者か否かは問わず、弁護士として成り上がるためにはいかなる手練手管も尽くして依頼人を無罪に持ち込もうとする弁護側のハラーという、自分の道を信じる男同士の熱いぶつかり合いとその中で生まれる友情を見たかったのが本音である。すでにボッシュがハラーを異母弟と認識していたことで彼が敢えて身を引いて、寧ろ擁護者的な立場でハラーを見守っていたのが私にはボッシュらしくなく、また物足りなく感じたのだ。

今後はもっとゴリゴリボッシュとやりあうことを期待しよう。


No.1429 7点 IT
スティーヴン・キング
(2019/01/25 21:48登録)
少年時代は忘れ得ぬ思い出がいっぱい。良い物も忘れたいような悪い物も全て。本書は自分のそんな昔の記憶を折に触れ思い出させてくれ、そしてその都度私は身悶えするのだ。羞恥心と未熟さを伴いながら。

ところでキングの短編に「やつらはときどき帰ってくる」という作品がある。
それは高校教師の許に少年時代にいじめられた不良グループが再び当時の姿で舞い戻ってくるという作品だ。
28年前の悪夢との対峙を扱った本書は単にその時町を恐怖に陥れた怪物の対決のみならず、過去の自分とそして自分の忌まわしい過去との対峙でもある。
人は最悪の時を迎えた時、時が過ぎればそれもまたいい思い出になる、笑い話になる、そう願いながらその最悪の時をどうにか耐え抜き、やり過ごそうとする。何もかもが順風満帆な人生などはなく、そんな苦い経験、忘れたい屈辱などを経るのが大人になることだ。時がそんな負の思い出を浄化し、いつしか他人に語れるまでに矮小されていくのだが、そんな苦い過去を想起させる出来事が再び起きた時、それはつい昨日の出来事のように思い出される。
そして自問するのだ。あの時の自分と今の私は少しは変わったのか、と。

かつてとても怖かったいじめっ子と再び出くわすかもしれない恐怖、密かな想いを持っていた相手との再会。お互いそんなこともあったと笑って話せるほど、自分の中で折り合いがついているのか、と自分に問うことになる。
故郷に戻ることは即ち追いかけてくる過去に囚われることでもある。
但し過去は全て忌まわしい物ばかりではない。その時にしか得られない体験や友達が出来、それもまた唯一無二なのだ。

ビル、ベン、リッチー、エディ、マイク、ペヴァリー、スタン。この7人が、運命とも云える出逢いを果たし、仲間となるシーンが何とも瑞々しく、爽やかで無垢な人間関係が築けた私の少年時代の思い出を誘う。初めて出逢っても一緒に遊べばもう友達になっていたあの、楽しかった日々を。そして彼らが出逢った時にまるでカチッとパズルが収まるべく場所に収まったようなあの想いもまた、仲間としか呼べない強い結び付きを感じさせるあの瞬間を思い出させてくれる。そう、私にもそんな時期が、そんな出逢いがあったことを。

さてそんな彼らが対峙する“IT”とはどのような怪物なのか。
最初に登場した時はボブ・グレイと名乗るペニーワイズと異名を持つピエロとして現れる。しかしそれぞれの目の前に現れる“IT”の姿は一様に異なる。
エディ・コーコランという犠牲者の前では半魚人のような怪物とし現れ、エディ・カスプブラクの前では瘡っかきの梅毒持ちの浮浪者の姿で現れる。
弟の敵討ちに出かけたビル・デンブロウとリッチー・ドーシアの前では狼男として現れる。しかも「リッチー・ドーシア」の名前が入ったスクール・ジャケットを着て。
また“それ”は亡くなったビル・デンブロウの弟ジョージのアルバムの中の写真にも潜む。明らかにビルたちが生まれる前の親たちの若い頃の白黒写真にも現れ、そこから襲ってくる。しかもその写真に触れるとその中に入り込み、傷だらけにする。
ペヴァリーにとって“IT”は彼女しか見えない大量の血液だ。水道の蛇口から溢れる鮮血は家族の中では彼女しか見えない
やがて“IT”が見る人によって様々なイメージで見えることが解ってくる。
それらはつまり彼らの潜在意識下における恐怖の象徴ではないか。
“IT”はつまり彼らが少年少女時代に抱いたトラウマなのかもしれない。

しかしなぜ彼らは再び戻って“IT”と対決しなければならないのか。彼らが少年時代にそうしたように、第2のビルたち<はみだしクラブ>がデリーに現れ、彼らに任せてもいいのではないか。しかもマイク・ハンロンからの電話がなければ彼らは“IT”のことはすっかり忘れていたのだから。
彼らが再び舞い戻ったのは“血の絆”という特別な盟約を交わしたからだ。まだ純粋さが残っていた彼らは再び“IT”が戻った時、「そうしなければいけない」という義務感に駆られたからだ。
しかし時間は人を変える。少年時代の約束を未だに守ろうとすること自体、難しくなっている。それはそれぞれに生活が、守るべきものがあるからだ。
しかし彼らは1人を覗いてそれまでの暮しを、仕事を擲ってまでも集まる。“血の絆”に従って。つまり“IT”とは子供の頃を約束を愚直なまでに守る大人たちがまだいてほしいというキングの願望によって生み出された作品なのではないだろうか。

キングは冒頭の献辞にこの物語を捧げていることを謳っている。その結びはこうだ。
“―魔法は存在する”
この魔法とは30年弱の周期でデリーの街に現れる“IT”と呼ぶしかない災厄を少年少女が討ち斃す奇跡を指していると捉えるだろうが、忙しい現代社会で人間関係が希薄になりつつ昨今において、少年少女時代に交わした約束を守り、大人になったかつての少年少女が再会し、再び対決すること自体がキングにとって“魔法”だったのではないか。30年近くの歳月を経ても再会すればかつての気の置けない気軽な友人関係に戻る、これこそが友情という名の魔法ではないだろうか。
私はキングが自分の子供たちに魔法は存在するのだから今の友達を大切に、とそれとなくメッセージを込めているように思えた。

“IT”。
このシンプルな代名詞はその時の会話や場面で示すものが、意味が変わる。たった2文字の中に宇宙よりも広い意味を持つ。そして“それ”とか“あれ”とか“IT”を示す言葉が会話に多くなった時、それは健忘症の兆しだともいう。本書の主人公たちも“IT”の存在は忘れてしまい、そして戦いに勝利した後もまた忘れていっている。
“IT”とは私たちが老いと共に大事な何かを忘れていくことの恐ろしさ自体を現した言葉なのかもしれない。そして40も半ばを超えた私にもこの“IT”に当たる、忘却の彼方にある、何かがあるのではないか。そう、それこそが“IT”なのだ。


No.1428 5点 ミステリは万華鏡
評論・エッセイ
(2019/01/22 23:45登録)
北村薫氏によるお馴染みのミステリに纏わるエッセイ集。今回のコンセプトはとにかく縛りなく自由にミステリについて語ることになっている。従って本書では北川氏が『これはミステリだ』と感じた物事について自由に書き綴られている。「万華鏡」という題名は、一概に万華鏡と云っても色んな種類があるらしく、そのことからミステリも万華鏡の如く、色んな種類があるという意味で取ったようだ。

北村氏がミステリだと感じた物事を自由に書き綴っていることからどこか一貫性が欠ける感は否めなく、いわゆる稀代の読書魔である北村氏によるディープなミステリ話を期待すると肩透かしを食らうことだろう。
押しなべて感じられるのはミステリど真ん中の作品についての言及が少なく、純文学からラジオで聞いたある話、他人から聞いたエピソードなど、多事多彩な方面から得た話の中に北村氏がこれぞミステリだと見出した内容が多く書かれている。

それは新聞・雑誌の記事や一編の詩であったり、美術館の展覧会に掲げられた一服の絵に対する解釈文だったり、図鑑に付せられた文章だったり、更には靴箱の番号まで、と実に多岐に亘る。
そしてそんなエピソードにミステリを、とりわけ不可解な謎の探究として本格ミステリ魂を感じる北村氏の講釈が延々と語られる。この辺りはちょっと本格ミステリ愛を通り越して少し病的に感じられるのだが。

本書で一番面白かったこの探究心をそそるエピソードに次のようなものがある。

「濁音、半濁音、ん、小さい字、音引き、普通の字を全て含んだ1つの単語はあるか」

という疑問だ。つまりこれは通常の「あいうえお、かきくけこ、…」といった普通の字と「がぎぐげご、ざじずぜぞ、…」と濁点が付いた字、「ぱぴぷぺぽ」と丸がついた半濁音の字、そして「きゃきゅきょ、しゃしゅしょ、…」といった小さい字が含まれる字、即ち拗音、そして「ん」、それら全てを持つ1つの単語を探す話だ。こういったゲームは実に私の知的好奇心をそそるのだが、女性の方々はいかがでしょうか?ちなみに本書ではその単語がきちんと紹介されます。

そして私もそうだが、その作品を読んで抱いた思いを100%文章にして感想として表出するのは実に難しい。今までそれが出来た感想は1%にも満たないだろう。この心に抱いた、云いたいのに言葉に出来ないもどかしさをいかに感想として吐き出すか、そんな命題を解決するためにまた語彙を増やし、そして表現を知り、血肉とするために読書を重ねるのだ。
即ち読書とは自分の知識や人生経験から生じる解釈や感慨を作品の中に見出すこと、更にその感想を書くことはそれらを言語化することで、それをするために知識や表現を蓄えることなのだ。全てが環となって巡り巡る行為なのだ。そしてそれらを可能にするには上に書いたような知的好奇心やそれ以上の探究心で色々な謎を自ら解くこと、もしくは自ら作った謎に対して第三者から思いもしなかった解釈をされて気付かなかった自分を知ること、などを重ねることで有意義になっていくのだ。

ミステリは万華鏡、即ち色んな種類の万華鏡もあるように全ての話だけでなく、絵、音楽もなぜそうなったのかを考えることで万華鏡の如く見方が変わってくることを示しているのではないだろうか。
実は謎は己の内にあるのだ。それを謎と感じる感性にこそミステリは宿る。

私はこの題名と内容がイマイチピンと来なかったが、北村氏には我々が見たこともない万華鏡が見えているに違いない。


No.1427 7点 虚空の逆マトリクス
森博嗣
(2019/01/20 22:31登録)
私は遅れてきた森作品の読者だが、逆に今だからこそ書かれている内容が理解できるものがある。そう、森作品に盛り込まれているIT技術は刊行当時最先端のものだからだ。

それが電脳世界を舞台にした1作目の「トロイの木馬」。
この作品は島田荘司氏が21世紀初頭に当時生え抜きのミステリ作家たち数名に新たな世界の本格ミステリ作品を著すとの呼びかけにて編まれたアンソロジー『21世紀本格』に収録された作品で、システムエンジニアを主人公とした物語だが、一読、これが2002年に書かれたものであることに驚愕を覚えた。
ここに書かれている在宅勤務による電脳世界―この用語ももはや死語と化しているが―を介しての仕事、ネットワークトラップである「トロイの木馬」のこと、更には小型端末と表現されたモバイル機器と16年後の今読んでも全く違和感を覚えない現代性がある。いやむしろ発表当時に読んでも全く何を書いているのか解らなかったのかもしれない。IT社会として情報化が進み、タブレットやスマートフォンが流布した現代だからこそ理解できる内容だ。

長編が非常にクールかつドライで一定の距離感を持った、理系人間が書く論文めいた作風であるのに対し、短編は幻想的かつ抒情的でセンチメンタリズムを感じさせる、文学趣味が横溢した作風と趣が異なっているのが特徴だ。
長編が左脳で書かれた作品とすれば短編は右脳で書かれた作品とでも云おうか。そしてどこか非常に森氏の日常や感情が短編には多く投影されているように思える。いわゆる森氏の人間的エキスが色濃く反映されているように思えるのだ。

またどこまで本気なのか解らないが内容にそぐわないタイトルである「ゲームの国」は『今夜はパラシュート博物館へ』にも同題の物があり、それは森作品のタイトルのアナグラムが横溢していた。
そして今回は回文。つまりタイトルのゲームの国とは恐らく言葉のゲームに親しむ作者自身の稚気を優先した作品世界そのものを指しているようだ。

そして何よりもボーナストラックとも云うべきはS&Mシリーズの「いつ入れ替わった?」だ。
本作では引っ付いては離れ、または平行線を辿るかと思えば、接近していくが寸前のところで決して接しない反比例の双曲線とX軸、Y軸のような2人の関係に進展が、それも大きな進展が見られる。
シリーズ本編の最終作で肩透かしを食らった感のある読者は本作を必ず読むことをお勧めする。

さて本書のベストを挙げるとすれば「赤いドレスのメアリィ」となるか。何とも云えない抒情性を私は森氏の短編に期待しているが、それに見事に応えてくれた作品である。
人を待つ。何ともシンプルな行為だが、これほど孤独を感じさせる行為もない。しかもその行為が長ければ長いほど人はその人の待ち人に対する思いの深さを思い知らされる。数多あるこの種の作品がいつも胸を打つのは待っている人の想いの深さが計り知れないがゆえに感銘を打つからだ。そして本作もまた同じだ。
やがて人に忘れられる町の片隅の神話。そんな物語だ。

恐らくはシリーズファンにしてみれば「いつ入れ替わった?」は渇望感を満たす1編になるだろうが、やはり私は西之園萌絵にそれほど好意的ではないのでベストとまでには至らない。

しかし全てを明かさないスタイルは本書も健在。
読者はただ単純に読んでいると本書に隠された謎や真意、真相が見えなくなっている。もしかしたら私がまだ気づいていない仕掛けがあるのかもしれない。作者のこの不親切さはある意味ミステリを読む姿勢が正される思いがして、うかうか気が抜けない。
読者もまた試されている。そういう意味では森氏の短編集は問題集のようなものになるかもしれない。


No.1426 7点 私が殺した少女
原尞
(2018/12/25 23:37登録)
物語の流れは実に淀みがない。起こりうるべきことが起き、そして巻き込まれるべき人が巻き込まれ、そして沢崎もまた行くべきところを訪れ、全てが解決に向けて繋がっていく。
そしてじっくり練られた文章は更に洗練され、無駄がない。無駄がないというのは必要最小限のことだけを語った無味乾燥した文章ではなく、原氏が尊敬するチャンドラーを彷彿させるウィットに富んだ比喩が的確に状況を、登場する人物の為人を描写する。特に対比法、類語を重ねた描写がそれぞれの風景や人物像を畳み掛けるように読者に印象付けていく。真似して書きたくなる文章が本書にはたくさん盛り込まれている。

そして第1作からも徹底されていることだが、毎朝新聞や読捨新聞といったどこかで聞いたような名前の架空の新聞名、チェーン店名を使うのではなく、原氏は現実にある新聞社や雑誌名、店舗名を作中に織り込む。それがリアルを生む。
更に沢崎が読む新聞記事の内容に実際に起きた事件や出来事を織り込むことによって物語の時代が特定できるようになっている。作中では決してある特定の日付を挙げているわけもなく、調べればそれが出来ること、またそれが沢崎が我々の住まう現実にいるようにさせられるのだ。
例えば競馬のエピソードで一番人気のサッカーボーイが日本ダービーで15着に終わるという実に不本意な結果だったことから1988年5月29日前後の事件であることが解る、と云った具合だ。

また本書が作者自身が身を置く音楽業界が一枚噛んでおり、物語の至る所にそれらの情報や知識、はたまた音楽論などが散りばめられて興味深い。
ヴァイオリニストの少女に纏わるクラシック音楽界の話、音大を出て音楽の世界に進むそして作者自身が身を置くジャズの話。特に登場人物の1人でロック・ミュージシャンをやっている甲斐慶嗣の話は音楽業界に精通した原氏が知る人物の断片を垣間見るようだった。

かつて大沢在昌氏はある小説で「探偵は職業ではない。生き方だ」と述べたが、まさにそれは沢崎そのものを指しているようだ。そして彼は探偵という生き方しかできないから、他人の目を憚ることなく、自我を通し、そして畢竟、自分を嫌うしかないのだ。
他者におもねることなく、誰がなんと思おうが自分の信じる道を貫き、そして自分が知りたいことを得るためには周囲が傷つこうが構わない、そんなハードボイルドの主人公の姿にかつては憧れを抱いたものだが、私も歳を取ったのだろう、そんな生き方をする沢崎が何とも不器用だと感じざるを得なかった。
探偵とは他人が今を生きるために隠してきた過去や取り繕ってきた辛い現実を炙り出してまで真実を知ろうとする執念を貫く生き方だ。そしてその代償として自分の中の大切な何かを失う生き方だ。

これだけの物を著すのに数年かかるところを本書は第1作の翌年に出版されている。そしてその後短編集を出した後、6年ぶりに長編第3作を、そして9年ぶりに長編第4作、14年ぶりに第5作とそのスパンはどんどん長くなっている。
しかし私の読書もまた同じようなものだ。次の短編集『天使たちの探偵』を読むのは恐らく同様の歳月を経た後だろう。その時の私がどんな心持で探偵沢崎と向き合うのか。

私にとって探偵沢崎シリーズを読むことは沢崎と私自身の人生の蓄積をぶつけ合うようなものかもしれない。前作を読んだ時は沢崎は憧れだった。しかし今回読んだ時は沢崎は若気の至りをまだ感じさせる矜持を捨てきれない男だと感じた。

次に出逢った時、私は沢崎にどのような感慨を抱くだろうか。

沢崎は変わらない。ただ私が変わるのだ。私がどう変わったかを知るためにまた数年後読むことにしよう。


No.1425 7点 エラリー・クイーンの冒険
エラリイ・クイーン
(2018/12/20 23:47登録)
旧訳版では収録されていなかった「いかれたお茶会の冒険」と序文が収録された、完全版であると知ったため、改めて入手して読むことにした。
従ってそれ以外の短編については感想は書かず、ここでは未読作品である「いかれたお茶会の冒険」とその他旧訳版との相違や当初気付かなかったことについて述べていきたい。

さてその「いかれたお茶会の冒険」はエラリーが友人のリチャード・オウェン邸に招かれたところから始まる。
邸の主人の失踪事件が本書のメインだが、正直この事件の犯人は読者の半分は推測できるに違いない。そしてその動機も読んでいると自ずと解る、非常に安直なものだ。
しかしそこから死体の隠蔽方法、更にエラリーの犯人の炙り出しが面白い。
そして犯人は早々に解っているものの、それを特定する証拠、そして死体の隠し場所が解らないエラリーは奇妙な贈り物を贈って周囲の動揺を誘い、大鏡の裏の隠しスペースをそれら贈り物から暗示させ、死体を見せることで犯人の自白を強要するのだった。
この贈り物に隠されたメッセージが『鏡の国のアリス』に出てくる歌の一節でこれが大鏡の裏に隠しスペースがあることを示唆している。即ちアリス尽くしのガジェットに満ちた作品なのだ。
そしてエラリーが企図した奇妙な贈り物を贈って不安感を煽る趣向は成功している。なぜなら読んでいる最中に私もこれら奇妙な贈り物の真意が解らず、何者がどのような真意で行っているのか解らず不安に駆られたからだ。
派手さはないがクイーンの見立て趣味とまた犯人を特定するためには罠をも仕掛ける悪魔的趣向などが盛り込まれた作品でエラリーがロジックのみでなく、トリックも施すことを示した作品だ。

今回この「いかれたお茶会の冒険」以外は再読だったが、改めて読むとクイーン作品のリアリティの無さに再度苦笑せざるを得なかったと云うのが正直な感想だ。

さて冒頭にも述べた旧版との比較をここからしてみよう。

まず「アフリカ旅商人の冒険」ではエラリーを大学に招いた教授の名前が旧訳版ではアイクソープ教授となっているのに対し、本書ではイックソープ教授と表記が改められている。 “イッキィ―退屈でつまらないと云った意味”、“イック―いやな奴という意味がある―”といった洒落が出ていることから恐らくはこちらが正しいのだろう。

また旧版とはタイトルが若干変えられているのもあり、冒頭に挙げた未収録作品だった「いかれたお茶会の冒険」は当時は「キ印ぞろいのお茶の会の冒険」となっている。このキ印という言葉、2018年の今ならばほとんど死語だろう。「きちがい」の隠語として使われていたが、今となってはそんなことを知る人も少なくなり、また「きちがい」もまた差別用語となっているから、変えざるを得なかったのだろう。

また「三人の足の悪い男の冒険」も旧版では「三人のびっこの男の冒険」だったが、これも同様に「びっこ」が差別用語に指定されていることによる改題だろう。

しかしようやく完全版の刊行となったことは喜ばしい。旧訳版を読んでから9年経っていた。
信ずればその願いは通ず。9年は長かったとは思わない。いつまでも待つぞ、こんな風に望みが叶うなら。


No.1424 7点 ミルクマン
スティーヴン・キング
(2018/12/09 23:42登録)
キング三分冊の短編集の最後である本書はヴァラエティ豊かな作品集となった。
得体のしれない男ミルクマンの話2編にファンタジックかつロマンティックな男女の話を描いたもの、そして謎めいた怪物が湖に巣食う話、次々と人を殺しながら目的地に向かう男女2人の物語、漂着した惑星の生きた砂の話に凄まじく狂った漂流者のサヴァイヴァル小説、苦手なおばあちゃんと留守番する話、そして人生の終焉を迎える話。
不条理な話から定番の未知なる生物、暴力衝動、殺人衝動に駆られる人、極限状態に置かれた人間、一人で病人と共に留守番しなければならない子供、一度も島から出たことのない老婆、いずれもモチーフは異なりながら、そのどれもがキングらしい作品ばかりだ。

本書では「トッド夫人の近道」と「おばあちゃん」、そして「入り江」をベストに挙げる。
「トッド夫人の近道」はワンダーを描きながらこれほどまでに清々しい思いをさせられる、キングならではの唯一無二の傑作。
「おばあちゃん」は少年が幼い頃に怖くて仕方がなかったおばあちゃんと一緒に留守番をしなければならないという、誰もが経験ありそうな実に身近な嫌悪感やちょっとした恐怖―怯えという方が正確か―を扱いながら、最後は予想もしない展開を見せる技巧の冴えに感服させられた。
短編集の最後を飾る作品でもある「入り江」は死出の旅立ちの物語だ。島で生れ、島で育ち、一度も本土に渡ったことのない老婆が初めて本土に渡る時は死を覚悟した時だ。
ある死者は云う。生きていることの方が苦しいんじゃないか、と。私は最近こう思う。もし癌や重篤な病に侵され、生命維持装置や植物人間状態になった時、それで生かされていることはもはや人生なのかと。人生の潮時を見極め、そして自ら選択する、そんな風に自分の人生は始末を付けたいものだ。
しっとりとした読後感が心地よい余韻を残す。この作品が最後で良かったと思わせる好編だ。

短編ではかつてワンアイデアで自身が抱いていた原初的な恐怖を直截に描いているのが特徴的と思われたが、『恐怖の四季』シリーズを経た本書ではワンアイデアの中に色んな隠し味を仕込んで重層的な味わいが残るような感じがする。「トッド夫人の近道」なんかはその好例で作者が意図しているにせよしてないにせよ私の中で想像力が広がり、余韻が増した。もしかしたら他の短編もまだ消化不十分で後日ふと隠し味が蘇ってくるかもしれない。

しかし彼の頭の中にはどのくらいのキャラクターがいて、そしてどのくらいの人生が詰まっているのだろうといつも思わされる。彼の頭にはヴァーチャル空間のセカンドライフが接続されている、そんなように思わされた。


No.1423 8点 死角 オーバールック
マイクル・コナリー
(2018/12/02 21:55登録)
エコー・パーク事件で再会したFBI捜査官レイチェル・ウォリングが再び関わってくる。前作の事件から6カ月経っており、その時は元心理分析官の技量を買われ、プロファイリング方面での活躍だったが、今回は現在所属している戦術諜報課の一員としてボッシュと医学物理士殺しの事件の捜査を共同で行う。
そしてFBIと共同で捜査する事件はなんとテロ事件。医療に使われている放射性物質セシウムを強奪した犯人を追うノンストップ・サスペンスだ。

しかも犯人は中東訛りを持つ複数の人物とされており、まさにこれは9.11のニューヨークの悲劇をテーマにした作品と云えるだろう。但し舞台はニューヨークではなく、ロスアンジェルス。つまりイスラム系過激派によるテロがロスアンジェルスで行われようとしているという設定だ。

つまりここで描かれているのは9.11後のアメリカの姿だ。滑稽なまでにテロに関して、特に中東アラブ系のアメリカ人に対して過敏になり、真偽不明の噂やタレコミを信じて警察はじめ政府の組織が総動員される。まさに大山鳴動して鼠一匹の感がある。9.11の6年後だからこそ当時混迷していたアメリカの姿を描くことが出来たのかもしれない。

更に驚かされるのが、ロスアンジェルスを襲うであろう未曽有のテロ事件というサスペンスだと思われた本書が実は真っ当な本格ミステリだったことに気付かされるのだ。上記に示した全てがミスリードだったことが判明する。

9.11に関与したアラブ系、イスラム系外国人への失礼なまでの注意深い眼差し、放射性物質や液体爆弾などのテロの材料となりうるものに神経を尖らせていたそれらアメリカの機関の対応と当時のアメリカの世相を嘲笑うかのような真相は繰り返しになるが9.11が起きた2001年から6年経ったからこそ書ける内容なのだろう。そしてまたもや捜査する側が犯人だったというコナリーの痛烈な皮肉。
色々含めて、いやあ、ある意味ブラックすぎるわ。

そんなことを考えると原題の意味するところが非常に深く滲み入ってくる。“The Overlook”は名詞では「高台」を示しており、即ち事件現場となったマルホランド展望台を指すが、動詞では「見晴らす」、「見落とす」、「見て見ぬふりをする」、「監視する」といった正の意味と負の意味を含んだ複雑な意味合いの単語となる。邦題では「見落とす」の意味合いを重視し「死角」としているが、本書はその他どれもが当て嵌まる内容なのだ。

しかし本書でなんとボッシュがレイチェル・ウォリングとタッグを組むのは3回目だ。もはやエレノア・ウィッシュを凌ぐコンビになりつつある。
そして彼ら2人は会うたびにお互い似たような匂いと雰囲気を持っていることに気付かされ、心の奥底では魅かれ合っているのに、あまりに似ているがために一緒になれず、いつも苦い思いを抱いて袂を分かつ。それは自分の中の嫌な部分を相手に見出すからだ。
お互い危険な状況に身を置く職業であり、レイチェルは常に心配をさせられるのが嫌だとかつては云っていたが、本当の理由はレイチェルはボッシュに、ボッシュはレイチェルに見たくない自分を見るからではないだろうか?

敵対する組織にお互い身を置きながら魅かれある男女。つまりコナリーはボッシュシリーズを一種の『ロミオとジュリエット』に見立てているのだ。障害があるからこそ男女の恋は一層燃え立つ。コナリーはそれを現代アメリカの犬猿の仲である警察とFBIを使って描いている。

今までのシリーズの中でも最短である事件発覚後12時間で解決した本書はしかし上に書いたようにミステリとしての旨味、登場人物たちの魅力、テロに過剰反応するアメリカの風潮などがぎっしり凝縮されており、コナリーの作家としての技巧の冴えを十分堪能できる。特にレイチェルはコナリーにとってもお気に入りのようで、ボッシュとの縁は当分切れそうにない。

また訳者あとがきによればコナリーは短編も素晴らしいとのこと。
長編も素晴らしく、短編もまたとなれば、まさに死角なしの作家である。現在までコナリーの短編集は刊行されていない。どこかの出版社―もう講談社しかないのだが―でいつか近いうちにコナリーの短編集が刊行されることを強く望みたい。


No.1422 10点 屍鬼
小野不由美
(2018/11/30 23:41登録)
重厚長大と云う名に相応しい超弩級ホラー小説が本書。なんせ文庫版で全5巻。総ページ数は2516ページに上る。そして本書を以て横溝正史が日本家屋を舞台に密室殺人事件を導入した第一人者であれば小野氏は日本の田舎町に西洋の怪物譚を持ち込んだ第一人者とはっきりと云える。

本書がスティーヴン・キングの名作『呪われた町』の本歌取りであることはつとに有名で、現に本書の題名に“To ‘Salem’s Lot”と付されている(Salem’s Lotは『呪われた町』の舞台)。私は幸いにしてその作品を読んだ後で本書に当たることができた―本書刊行時はキングなんて私の読書遍歴に加わると露とも思っていなかったから、すごい偶然でタイミングである。これもまた読書が導く偶然の賜物だ―。

あくまで小野氏は日本のどこかにあるような人口1300人の閉鎖的な社会で村中の人々が親戚であるかのような小さな地域社会でお年寄りが日々誰かの噂話をしては、村唯一の医院が情報交換の集会場となっている、そんなどこにでもありそうな田舎の村を舞台にして、実に土着的に物語を進めているのが印象的である。
それは小野氏がこの外場村という架空の村について、日本のどこかにある村であるかのように丹念に語るからだ。
田舎ならではの村社会独特の風習は都会生活のみを体験している人間にしてみればワンダーランドのような設定に思えるが、一旦田舎生活をすればこのような昔ながらの風習やしきたりが今なお続いているのが常識として腑に落ちてくる。
これは小野氏が恐らく大分という地方出身者であることが大きいだろう。私も四国に住んでいた時にこのような土着的な風習に参加する機会があり、寧ろまだ日本にこのようなしきたりが根強く残っていることに感心した思い出がある。そしてそれを体験したからこそ本書で書かれている外場村独特の文化が実によく理解できた。

そんな詳細な背景が設定された外場村とその村民たちを襲うのが着々と訪れてくる死の翳。死に囚われた人々は何かに遭遇し、その後は表情が一様に虚ろになり、何かを問いかけてもはっきりしない。しかも食欲もなくなり、ぼぉっとしたまま、ひたすら眠りを貪りたくなる。そしてある日突然褥の中で冷たくなっているのを発見される。それら一連の連続死は新種の疫病の発生かと思われたが、村に伝わる伝説、死者の起き上がりによる屍鬼の仕業であることが解ってくる。それらのプロセスをじっくりと小野氏はかなりの分量を費やして描く。

読者の目の前にはいかにも怪しい要素が眼前に散りばめられているのに、なぜかそれが線となって結ばれない不安感をもたらす。
そして最も驚いたのは屍鬼が脳生の死者であることだ。本書の前に読んだ東野氏の『人魚の眠る家』が心臓が動いているのに脳が死んだ状態である脳死を人間の死として受け入れるか否かを扱ったテーマであったのに対し、翻って本書に出てくる屍鬼は人の生き血を吸って活気を取り戻す血液を注入された人間であること、それは心臓は死んでいながらも脳は生前と同じ生きている、脳生心臓死の人間であることが明かされる。それもまた生ではないかと議論がなされる。
まさに裏表のテーマを扱った2つの作品を全く同時期に読んだこの奇妙な偶然に私は戦慄を覚えざるを得なかった。

吸血鬼という西洋のモンスターを象徴するモチーフを日本の、しかも高層ビルやマンション、レストランといった西洋の建物らしきものがない、日本家屋が並び立つ山奥の田舎村を舞台にあくまで日本人特有の風景と文化、風習に則って土着的に描くことに成功した本書は和製吸血鬼譚、純和風吸血鬼譚と呼ぶにふさわしい傑作だ。
最初に意識していた小野不由美版『呪われた町』などという思いは最後には吹き飛んでしまった。この濃密度は本家を遥かに上回る。単純に長いというわけではない。上に書いたように本書が孕むテーマやドラマがとにかく濃く、実際これほどの感想を書いても全く以て書き足らない思いがするのだ。

ゆめゆめ油断なさるな。21世紀の、平成になった世にもまだ怪異は潜んでいる。それを信じる大人になってほしい。それがために物語はあるのだから。
まさに入魂の大著と呼ぶに相応しい傑作だ。そしてこんな物語が読める自分は日本人でよかったと心底思うのである。


No.1421 10点 人魚の眠る家
東野圭吾
(2018/10/28 20:41登録)
実に、実に解釈の難しい物語だ。人の生死について読者それぞれに厳しく問いかけるような内容だ。

物語の中心であるこの播磨夫妻のパートを読めば、本書は脳死と云う不完全死に挑む夫婦の物語として読める。そして別居中の夫が脳と機械を信号によって繋ぐことで人間の、障害者の生活を改善する技術を開発している会社の社長とであることから、最先端の技術を駆使して脳死状態の人間を徐々に健常者へ近づけるよう努力をするのだ。これを本書の第一の視点としよう。

しかし上に書いたように本書はそんなたゆまぬ夫婦の努力を描きながら、どこか歪な雰囲気が全体に纏われている。
それは瑞穂の母親である播磨薫子の造形だ。通訳の仕事をしているだけあって彼女は通常の主婦以上に理知的だが、一方で頑として譲れないところがある女性だ。自身そんな自分を陰険だと評している。
一方で彼女は娘の回復を願うあまりに自分が魅力的であることを自覚しながらそれを最大限活用してとことん他者を利用し尽くす、一つの目的に対して貪欲なまでの執念を持った女性であることが見えてくる。

この播磨夫妻が物云えぬ人形のような瑞穂を機械の力で動かすところを見て戦慄を覚え、神への冒瀆だとまで云う人々もまた現れる。これが本書の第二の視点だ。

さらに先天性の病気で臓器移植を待つ幼い娘を持つ家庭のことも描かれる。これが第三の視点だ。もし脳死判定によって死亡が確定し、ドナーが現れれば助かったかもしれない命。それを待つ側の夫婦の話が描かれる。

このように植物人間となった少女1人を通じて物語はそれぞれの取り巻く状況を深く抉るように描かれる。

脳死判定で脳死と判定されれば患者は死んだとみなされ臓器移植が成される。しかし一方で心臓は生きているため、完全死ではない。そこにこの法律のジレンマがあるが、その基準となる竹内基準を人の死を定義づけるものではなく、臓器提供に踏み切れるかどうかを見極める境界を決めたものだという解釈だ。
ポイント・オブ・ノー・リターン。つまりそこに至れば今後脳が蘇生する可能性はゼロである。つまり正式には「回復不能」、「臨終待機状態」と称するのが相応しいが、役人たちは「死」にこだわったため、脳死という言葉が出来たようだ。
この話は私の中でようやく脳死判定に対する解釈が腑に落ちた感がした。心臓が生きているから死んでないと解釈するからややこしいのであってそこからは回復が望めないと判断される境界であると実に解りやすく解釈すれば、受け取る側も理解しやすい。やはりこういうデリケートな内容は医師を中心に法律を決めさせたらいいのではないかと思う。

本書の最大の謎とは播磨薫子と云う女性そのものだったと読み終わってしみじみ思う。
彼女がふと漏らすのは母親は子供のためには狂えるのだという言葉だ。それを本当に実行したのが彼女であり、そのことだけが彼女の謎への解答となっている。
しかし播磨薫子は周囲を気にせず、全て自分の意志で行い、そしてそれを貫いた。彼女はただ納得したかったのだ。周囲の雑音に囚われず、娘がまだ生きていることを信じ、そのために出来ることを全てした上で結論を出そうとしていただけなのだ。それは飽くなき戦いであり、それを全うしただけなのだ。これだけは云える。彼女は信念の女性だったのだと。

倫理観と愛情、人の生死に対する解釈、それによって生まれる臓器移植が日本で進まない現状。子を思う母親の気持ちの度合い。難病に立ち向かう夫婦と現代医学の行き着く先。
そんな全てを播磨薫子と瑞穂の2人に託して語られた物語。色々考えさせられながらも人と人との繋がりの温かさを改めて感じさせられる物語でもある。情理のバランスを絶妙に保ち、そして我々に未知の問題と、それに直面した時にどうするのかと読者に突き付けるその創作姿勢に改めて感じ入った。

子を持つ親として私はどこまでのことをするのだろう。読中終始自分の娘の面影が瞼に過ぎったことを正直に告白しよう。我が娘が眠れる人魚にならないことを今はひたすら祈るばかりだ。こういう物語を読むと遠い異国の地で家族と離れて暮らす我が身に忸怩たる思いがする。これもまた東野マジック。またも私は彼のマジックに魅せられたようだ。


No.1420 9点 エコー・パーク
マイクル・コナリー
(2018/10/21 22:24登録)
本書では『天使と罪の街』でボッシュとコンビを組んだFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが登場し、ボッシュの捜査をサポートする。

さてそのボッシュとレイチェルが対峙するのは絶対的な悪である。レイナード・ウェイツは良心の呵責など一切感じない、人を殺すことが自分をより高みに上げると信じる、正真正銘の悪人だ。しかも深夜にたまたま職質されるまで、それまで行ってきた9人もの女性の殺人が発覚しなかった慎重かつ狡猾なシリアルキラーだ。
このレイナード・ウェイツは本書の前に書かれた『リンカーン弁護士』に登場するルイス・ロス・ルーレイに通ずるものがある。
そして捜査を進めるうちにボッシュはその絶対的悪人こそがもう1人の自分であったことに気付かされるのだ。

このレイナード・ウェイツの生い立ちはそのままボッシュの生い立ちと重なる。いやほとんど同じと云っていい。ただ幸いにしてボッシュは里親に恵まれたのだ。だからこそ闇を抱えながらも刑事になったが、一方で悪に対しては処刑も辞さないほどの徹底した憎悪を持つことになった。
ボッシュはロバートをもう1人の自分であると悟る。YES/NOの分岐点で分かれることになったもう1つの人生こそがウェイツだったのだと。
闇の深淵を覗き込む者はいつしか向こうから自分が覗かれていることに気付く。これはこのシリーズで一貫したテーマだが、まさに今ボッシュは自分の人生で抱えた闇を覗き込んで向こうから自分を見る存在と出逢ったのだ。

ハリー・ボッシュという男を彼が担当する事件を通じて彼が決して逃れない闇を背負い込んでいる、業を担った存在として描くのは12作目にしても変わらぬ、寧ろまだこのような手札を用意していることに驚きを禁じ得ない。コナリーのハリー・ボッシュシリーズに包含するテーマは終始一貫してぶれなく、それがまたシリーズをより深いものにしている。

さて今回の題名『エコー・パーク』はロサンゼルスに実在する街の名だ。このエコー・パークはかつて貧困地区であり、再開発によって中公所得者層が住まう、カフェや古着屋や食料雑貨店や魚介料理屋がひしめく、おしゃれな街へと変貌していった場所で、かつての主であった労働者階級とギャングたちが追いやられた街だ。
なぜこの街の名を本書のタイトルに冠したのか、私はずっと考えていた。確かにその場所は長らくシリアル・キラーとして女性を殺害していたサイコパスの連続強姦魔レイナード・ウェイツが初めて警察に捕まるミスを犯した場所である。

狡猾な連続殺人犯が偶然ながら捕まった場所であること、孤児の時に最も長く住んだところ、そして彼が殺害した女性を埋め、また装飾したトンネル、つまり彼の王国があったところ。エコー・パークこそウェイツことロバート・フォックスワースが辿り着いた園(パーク)だったのだ。

そして一方で単なる地名でありながら、本シリーズ第1作で作家コナリーのデビュー作である『ナイトホークス』の原題 “Black Echo”と同様に“Echo”という単語を使用した題名でもある。
“Black Echo”とは即ちボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いのことを指す。
そしてボッシュは逃亡したウェイツと対峙するために彼が拵えた死体を隠し、埋め、また装飾した隠れ家兼王国であるトンネルに入る。ヴェトナム戦争でヴェトコンと対峙したのと同じように今度は連続殺人犯と対峙し、そこに捕らわれているまだ息のある女性を取り戻すために。
この類似性は敢えて意図的にしたものか。私は本作でFBI捜査官レイチェルがサポートして捜査するボッシュの構造と同じくFBI捜査官だったエレノア・ウィッシュと共同で捜査する第1作がダブって見えて仕方がなかった。やはり同じ“Echo”という名を冠したことにコナリーは意図的であった、そう私は思いたい。

コナリーの作品を読むと人と人の間には絶対はないと思わされる。特にボッシュの場合、その執念とまで云える悪に対する憎悪が周囲の人を慄かせるから、彼が真剣に取り組めば取り組むほど人が離れていってしまうという皮肉を生み出している。
そしてボッシュのパートナー、キズミン・ライダーもまた彼の許を去る。
背中を預けられる相棒を、彼の逸脱する行動を戒めてくれた、元部下で相棒のキズミン・ライダーが去るのはボッシュとしてはかなり痛手だろう。

シリーズはまだ続く。この徹底的に癖のある刑事の相手を次回から誰が勤めるのか。毎回思うが、次作への興味が本当に尽きないシリーズだ。


No.1419 7点 神々のワード・プロセッサ
スティーヴン・キング
(2018/10/18 23:45登録)
本書は前巻『骸骨乗組員』と次の『ミルクマン』の三冊で構成される原書『スケルトン・クルー』の中の1冊なのだが、共通したテーマを備えた短編集だと感じた。

それは狂気。
本書の各編に登場する人物はなにがしかの狂気を抱いていることだ。

まず最初のキングにしては実に珍しい詩の内容からして狂気が横溢している。何しろ「パラノイドの唄」、つまり被害妄想者の妄想を綴った詩であり、狂気ど真ん中だ。

続く表題作は神々のワード・プロセッサなる夢のような道具によって報われない人生を変えるハッピーエンディングの話でありながら、主人公が取る自身の家族を削除し、自分のお気に入りの甥と義姉を手に入れる、これは願いを叶える道具が未完成ゆえに使用限度があるという設定ゆえに狂気の一歩手前で成り立っているのだ。
もしこれが何年も使えるようであれば、主人公は万能な機械を手に入れた狂気の独裁者のような行動を取るだろう。

「オットー伯父さんのトラック」も普通人としての生活を捨て、トラックが自分を殺しに来ると思い、日がな一日家の中の同じ場所に座って待っている妄想者の話だ。
これもその妄想が現実化することで一般人にとって狂人に見えるオットー伯父さんがそうならなかっただけの話だ。
この作品に収められているオットー伯父さんの所業の数々から人々は次第に「変わっている」から始まり、「奇妙な」、「おっそろしく奇態」、「トチ狂っている」、そして「危険性がある」と彼への評価をどんどん吊り上げていく。つまり他者にとって彼は狂人にしか見えないのだ。

「ジョウント」は細やかな誰にでもある、狂気だ。
云わなくてもいいことをどうしても云ってしまう父親とダメだと云われると逆にやりたくなる好奇心旺盛な少年が辿る不幸な結末だ。これは性(さが)なのだ。やってはいけないと頭ではわかっているがそれを抑えきれないのだ。

「しなやかな銃弾のバラード」は純粋に狂人の物語だ。狂人と付き合ううちに自らも狂気の渕に立ち、そして陥りながらも一歩手前で死を免れた人が目の当たりにした狂人の末路の物語だ。しかしその狂気は周囲に伝染し、無い物を見せてしまう。そしてそれ故に彼は臨界を超え、周囲に襲い掛かり、そして自ら銃弾を額に打ち込む。

最後の物語もまた狂気、いや凶器の物語か。動くとそのたびに人が死ぬ、恐ろしい猿の人形。しかもその人形に魅入られるとその人は自らゼンマイを回して猿を動かし、誰かを殺さずにはいられない。狂気を呼びこむ凶器の物語だ。

ただこれらの狂気は誰しもが抱えている狂気のように思える。決して特別な狂気ではない。ストレス社会と云える現代ではこれら登場人物が囚われる狂気は我々もまた持ちうるのだ。

常に誰かに見られているのではないか?

こんな現状を誰か変えてほしい!

他者にとってはおかしいと思われようが自分の過ちを報わなければならない。

どうしても喋らずにいられない。

ダメだと云われたら余計したくなる。

自分の才能以外の不思議な何かが今の自分を支えているのではないか?
俺の周りに不幸が訪れるのはあのせいだ!

そんな我々が抱く不平不満やエゴを肥大化させたのが本書の登場人物であり、彼らが抱いている負の感情は実はほとんど大差ないのだ。

また随所にキング本人とそしてキングがこれまで紡いできた「キング・ワールド」の断片が覗けた短編集だった。

そして私もまたこうやって感想を書いているわけだが、後日読むと、まるで別人が書いた文章のように感じられることがままある。
それは自分がその作品を読んで抱いた感想が思いも寄らなかった内容だったり、もしくは自分の才能以上のことを書いていたりすることに気付かされる時があるのだが、もしかしたら「しなやかな銃弾のバラード」のように、私のパソコンにも本の感想を書く手助けをしてくれる妖精が潜んでいるのかもしれない。

そう考えるとあながち本書に収められている狂気の物語は単に作り話として通り過ぎるのが出来ないほど、心に留まり続ける、そんな風に思えてならない。


No.1418 7点 プラスティック
井上夢人
(2018/10/14 21:29登録)
かつて井上氏がウェブ上で展開していた『99人の最終列車』を彷彿とさせる群像劇。
それは東京のマンションで起きるある若夫婦の殺人事件を発端にした、男女5人の事件を巡るそれぞれの奇妙な道行を描いた内容となっている。

5人の男女、即ち向井洵子、高幡英世、奥村恭輔、若尾茉莉子、藤本幹也の手記もしくは供述で構築されていく物語はそれら登場人物たちの話によって逆に事態が収束していくわけではなく、謎が謎を呼び、そしてそれぞれのアンデンティティがどんどん歪みを増していく。

人格と云う迷路がどんどん解きほぐされ、それぞれの人格が主張する内容が明らかになるのだが、明らかになるにつれ、逆にこれらの人格を宿す本多初美という手記のない人物像が浮かび上がってくる。その結果読者が知らされるのは彼女がいかに報われず、孤独でそして不幸な人生を歩んできたことかという事実である。
そして最終章はこの語っていない人物、本多初美というタイトルの付いた白紙のファイルで幕を閉じる。6つの人格によって形成された本多初美そのものを自身で語るために。そしてそれは逆にこの女性の人生を読んできた読者自身に彼女の思いを託しているかのように。

複数の人物によって綴られた手記が実は一人の人物の手によるものだった。これは1990年代に多くの作家によって書かれた多重人格ミステリの1つに過ぎないと捉えればそれまでだろう。
しかしこの複数の人物によって書かれた物が実は一人の人物によるものだったというのは実は小説家の創作行為そのものではないか。つまり本書は小説家自身を描いたミステリと考えることが出来るだろう。

貴方は本当の貴方でしょうか。もしかしたら貴方は貴方ではなく貴女なのかもしれない。前作ではいささかファンタジー的な設定だったが、本書では現実的に起こりうる話として我々に問いかける。

本書の題名プラスティックの意味は最後に出てくる。
可塑的。つまり自由自在に形を形成できること。つまり現代社会においてそれぞれ相手の性格や地位によって応対方法を使い分ける我々もまた可塑的な存在だ。ただ感情の振れ幅と生まれた境遇が少しばかり普通だっただけで、我々もまた本多初美なのだ。


No.1417 7点 ファイアマン
ジョー・ヒル
(2018/10/12 23:30登録)
ジョー・ヒル4作目の長編は竜の鱗状の模様が浮かび上がり、突如身体が燃え上がって死に至るという竜鱗病という奇病が発生し、世界中にパンデミックを巻き起こすディストピア小説である。
さてこの設定、やはり父親のキングの『ザ・スタンド』を想起させられずにはいられない。軍の研究所から流出した殺人インフルエンザ<キャプテン・トリップス>によって大多数のアメリカ人が死に絶えたアメリカを舞台にしたあの大長編はロシア人が開発した胞子をイスラム過激派組織が散布したことで世界中に蔓延した竜鱗病によって世界中が炎に包まれていく様を描いた本書に大きな影響を与えていることは想像に難くない。

さてこれはジョー・ヒルがキングの息子であるという事実ゆえにもたらされる単なる先入観に過ぎないのだろうか。いや私はヒルは敢えてそれを意識して本書を著しているように思える。
それが最も如実に伺えるのがハロルド・クロスという登場人物を眼にしたときだった。このハロルド・スミス。主人公ハーパーがキャンプに着いた時には既にいない。かつてキャンプに所属していたが、他のメンバーとは距離を置き、共同作業をさぼり、仲間の目を盗んで外出し、外部との連絡を取ろうとしていたために、キャンプの保安担当であるベン・パチェットによって射殺された人物だ。
所謂集団の中の爪弾き者で、常に他者を見下して斜に構えている、いけ好かない野郎だが、私は彼を出会った時にすぐに『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーを思い出した。
このファースト・ネームが同じキャラクターは、優秀で美人な姉と比べられることで劣等感を抱え、それを克服するために知識を蓄えることに固執したため、尊大になり、周囲を見下すようになった少年だ。彼は誰かに認めてもらいたかった彼はそれが叶わない鬱屈した日々を手記に憎悪をぶつけて復讐の炎を滾らせる。
そして彼が最後に行動を共にするのが元教師のナディーン・クロス。そう、この性格と云い、手記を残す設定と云い、ハロルド・クロスはこの『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーとナディーン・クロスから名前を取られた人物とみて間違いないだろう。

またこの竜鱗病は何かの暗喩のようにも思える。怒りや恐怖、ストレスなど心が乱された時に人は己の内から発する業火によって焼かれてしまうこの奇病。それは我々日常生活における感情に任せてしまうがゆえに生じるトラブルを指しているようにも思える。
つまり発火の症状を抑えるのが竜鱗病の菌と同調し、対話をすることで逆に竜鱗病を炎を操る術としてプラスに転じることになるということは、我々日常においてもまず感情的にならずに一旦気を休ませ、自問自答することでなぜそれが起こったのかを理解し、そしてそれを相手に還元することで相乗効果を生み出す、つまりアンガーマネジメントを促す警句のようにも読み取れる。

やはり本書はヒル版『ザ・スタンド』と云っても過言ではないだろう。但し彼はその衣鉢を継ぎながら自分なりのパンデミック&デストピア小説を紡いだのだ。キングが書かなければならなかった『ザ・スタンド』同様、本書はヒルにとって書かなければならなかった物語なのだ。
但し彼が書いたのは『ザ・スタンド』とは表裏一体の物語だ。『ザ・スタンド』では生存者たちの集落が<フリーゾーン>であったのに対し、キャンプ・ウィンダムは竜鱗病患者たち感染者たちのコミュニティだ。
先にも書いたがコミュニティの指導者が母性を象徴する“マザー”アバゲイルに対し、本書は父性を象徴する“ファーザー”ストーリーだ。
そして『ザ・スタンド』が生存者たちでマザー・アバゲイルを中心とした善側の人々と“闇の男”と呼ばれるランドル・フラッグ率いる悪側の人々との戦いと、同じ生存者という立場で善と悪に別れた集団との争いだったのに対し、本書は竜鱗病という正体不明の不治の病の感染者対それらの脅威から逃れ、焼滅クルーなる殲滅部隊にて健康と安全を守ろうとする健常者の生き残りを掛けた戦いで、本来恐ろしい存在となる感染者の立場から描いている。
また『ザ・スタンド』で爪弾き者だったハロルド・ローダーは最後に皆への復讐心から爆弾を仕掛けて複数の死傷者を出してコミュニティを後にする、いわば最後まで憎まれる役回りだったのに対し、本書では同様の役回りであるハロルド・クロスは逆にキャンプのある人物の策略によって射殺されざるを得ない状況に追い込まれた人物で、しかも主人公のハーパーは彼の書いた竜鱗病に関する医学的な考察に読み耽り、彼の研究を高く評価する。つまり本書のハロルドは孤独に研究をし、ある程度病気の仕組みを解き明かすところまで来ており、更に新たな生き方を始めようとした矢先に殺された道半ばでその命を奪われた犠牲者として描かれている。
しかし何といっても最も『ザ・スタンド』と顕著に表裏一体であることを示しているのは主人公の設定だ。
『ザ・スタンド』は群像劇の様相を呈しており、各登場人物のドラマの比重が等しく語られるが、ほとんどが男性中心の物語である。闇の男との戦いに挑むのは選ばれし4人の男たちであり、最後に生き残るスチュー・レッドマンがその作品の最たる中心人物と云えるだろう。
そして彼は<フリーゾーン>への道行で合流するフラニー・ゴールドスミスと恋仲になり、そしてフラニーはスチューの子供を妊娠する。
一方本書のハーパー・ウィロウズもまた妊婦であり、しかも主人公なのだ。彼女は竜鱗病に罹った後に狂ってしまう夫ジェイコブの許を離れ、ファイアマンこと竜鱗病患者でありながら炎を操ることのできるジョン・ルックウッドと恋に落ちる。
ジョー・ヒルはこの身重の女性を妊婦には到底厳しいと思える環境に置き、ハーパーに困難を与える。しかし彼女はそれらに耐え、次第にシンパを作っていく。
それは看護婦と云う死と向き合う職業から来る、人の生死に対して冷静さを保てる心の強さもあるが、やはり子供を宿した母親としての強さが彼女を掻き立てるのだろう。つまり母性の強さを本書では強調する。
母性の象徴である<フリーゾーン>という安住の地で男性性を強調し、男たちの戦いとした『ザ・スタンド』と一方で豊かな父性でコミュニティの住民たちを温かく包み込むキャンプ・ウィンダムを舞台にそこで集団心理が巻き起こす狂気の中でやがて生まれてくる赤ちゃんのために何が何でも生き抜こうと上を向く母性を強調した本書。この見事なまでの対比構造はやはりこれがジョー・ヒルが父親に向けた自分なりの『ザ・スタンド』に対する返信なのだと解釈せずにはいられない。

本書を今読み終わった時、この竜鱗病患者が世界中にパンデミックを引き起こし、世界が健常者と感染者とに二分され、そして健常者によって焼滅クルーによる集団虐殺や迫害され、行き場を失い、世間の人々の目を逃れ、隠遁生活を強いられるこの光景は今の日本の風景と重なり、単なる絵空事ではないように思えた。
昨今日本では東日本大震災を皮切りに毎年どこかで震度5を超える大地震が起き、集中豪雨に晒され、そして大型台風被害に見舞われている。以前ならばそれは一過性のものとして、「その後」には普通の生活がまた始まっていたが、今の日本ではそれらの災害で土砂災害、浸水、液状化などが相次ぎ、インフラがストップし、生活困難者が続出し、仮設住宅での避難生活を強いられる人々が増えている。つまり今までの「その後」ではない、以前送っていた普通の生活が「その後」続けることができない人々が増えてきているのだ。
本書は竜鱗病という作者が想像した感染症によって普通の生活を護ろうとする健常者とそんな健常者たちの迫害から身を隠すように生活を強いられる、二分化された世界を描いたディストピア小説であるが、この二分化された世界は別の形で既に日本に訪れているのだと痛感した。
最後の安住の地であるマーサ・クインの島を目指す道行でハーパーたちは健常者たちによる施しを受ける。飲み物を供され、食事とトイレを提供し、休憩する場所も与えられる。求めれば薬さえも与えてくれる。無論それは家の前に置かれたテーブルに物が置かれ、それを住民が窓から監視する状態であり、提供される休憩所に食事と飲み物が置かれていると云った具合に、全く接することなく、間接的ではある。これもまた被災した生活困難者に対して普通の生活を送っている人々が日本のどこかで行われている風景なのだろう。そしてこの行為をまだそのような事態に直面していない我々がすべきことだと心に刻まなければならない。
そして連続する天災が地球温暖化に起因することであるとすれば、既に手遅れになっているとは思わず、我々が地球に対してすべきことは何なのかを今まで以上に考えなければならないだろう。

ファイアマンの世界は実はもうそこまで来ているのかもしれない。本書とは違う形で。


No.1416 8点 リンカーン弁護士
マイクル・コナリー
(2018/10/11 23:39登録)
ミッキー・ハラーことマイクル・ハラー。
実はこれまでボッシュシリーズで名前が登場したことがある人物だ。まずこのマイクル・ハラーという名前だが、ボッシュの実の父親の名前でもある。彼が売春婦だったマージョリー・ドウとの間に作った子供がハリー・ボッシュ。そして本作の主人公ミッキー・ハラーは彼が再婚したラテン系のB級映画女優との間に作った子供で、父と同じ名前を持つ弁護士。つまりボッシュとミッキーは異母兄弟に当たるのだ。

犯罪者を捕まえ、刑務所に送る刑事と容疑者の無実を信じるようが信じまいが、無罪を、もしくは刑の軽減を勝ち取ろうと手練手管を尽くす刑事弁護士。お互い水と油の関係である2人が奇しくも血の繋がりのある兄弟という設定にコナリーの着想の冴えを感じさせる。

父親は伝説的名弁護士としてその名を遺しているが、このミッキー・ハラーは貧乏暇なしとばかりに複数の案件を請け負い、法廷から法廷へ走り回る。東奔西走を地で行く走る弁護士だ。そして彼の最大の特徴は上にも書いたが事務所を持たず、高級車リンカーンを事務所にしているところだ。

弁護士が主人公であるリーガル・サスペンスは通常自分が担当する裁判において依頼人の身元や事件を調べていくうちに意外な事実・真実が浮かび上がり、真相が二転三転するのと、圧倒的不利と思われた裁判を巧みな弁護術で無罪を勝ち取る構造であるのに、主人公に多大なる負荷を掛け、ピンチに陥れるのが常のコナリーは弁護士ミッキー・ハラー自身にも刑事ハリー・ボッシュ同様に危難に見舞われる。

悪を撲滅するには法を逸脱した捜査を厭わないボッシュに対し、悪人であろうが無罪を勝ち取る、もしくは少しでも刑を軽減することを信条に法を盾に正義をかざしてきたハラー。悪を食いぶちにしてきたハラーはルーレイの事件で目が覚めるのである。

「無実の人間ほど恐ろしい依頼人はない」

これはハラーの父親が遺した言葉である。弁護士にとって理解しがたい言葉がこの瞬間ハラーに重くのしかかる。彼はジーザス・メネンデスという無実の人間を冤罪で刑務所に送り、人生を台無しにした重しを課せられたことを悟るのだ。

さてもう1つのコナリーの新シリーズの幕開けとなった本書だが、ふと気づいたことがある。それは2つのシリーズに共通して娼婦に焦点が当てられていることだ。
ボッシュが花形のLA市警から警察の下水と呼ばれるハリウッド署へ左遷させられる原因となったのが娼婦殺しのドール・メイカー事件であり、また彼の母親も娼婦であり、4作目で母親が殺害された事件を探ることになるが、このミッキー・ハラーシリーズの幕開けが娼婦殺害未遂事件、そして過去に娼婦殺しの罪で服役した依頼人が冤罪であったことなど、コナリーは娼婦に纏わる事件を多く扱っているのが特徴だ。ノンシリーズにも同様に娼婦を扱った『チェイシング・リリー』という作品もある。

元ジャーナリストであったコナリーがボッシュの人物設定に作家ジェイムズ・エルロイの母親である娼婦が殺害された「ブラック・ダリア事件」を材に採っているのは有名な話だが、それ以後の作品においてこれほど娼婦を事件に絡ませているのは何か別の要素があるのではないか。身体を売ることで生活の糧を得ている彼女たちはしかし、女優を夢見てハリウッドに出て、夢破れた美しき女性も多いはずで、押しなべてコナリー作品に出る娼婦はそんな美貌を持った者たちである。

単に現代アメリカの犯罪、社会問題をテーマにするのに社会の底辺に生きる彼女たちが題材に適しているだけなのか、それとも彼がジャーナリスト時代に娼婦たちを取材することがあり、そこで彼の心に作品を通じて訴える何かが植え付けられたのかは不明だが、裁判を担当する検察官テッド・ミントンの口を通じて、こう語られる。

「売春婦も被害者になりうるんだ」

私はアメリカ社会において売春婦がどのような扱いを受けているのかを知らないが、自分の身を売る、よほど蔑まされた存在としてかなり見下されているようだ。そんな人間でも裁判を受ける権利があり、相手は法の下で裁かれるべきだと謳っているように思える。
今まで一連の作品を加え、今後コナリー作品を読むに当たり、これは新たな視座が得られるポイントなのかもしれない。

息もつかせぬ一進一退の法廷劇のコンゲーム的面白さと、そして犯罪者の疑いのある人々を弁護することの意味と恐ろしさをももたらす、コナリーの新たなエンタテインメントシリーズ。
またも読み逃せないシリーズをコナリーは提供してくれたことを喜ぼう。


No.1415 1点 悪魔のカタルシス
鯨統一郎
(2018/10/07 22:06登録)
結論から云うと時間の無駄だった。あまりに広げすぎた内容は収束しないまま終わる。むしろ物語の決着をつけるのを作者が放棄したようだ。
突如悪魔の姿が見えるようになった26歳の若者、牧本祥平が同様の能力を持つ者たちを集め、悪魔の侵略に立ち向かうといった内容だが、作者はその単純なプロットに、一捻りも二捻りも加えることで複雑化し、先の読めないストーリー展開を拵えようとしているが、逆にそのために収集がつかなくなってしまったようだ。

これは恐らく何冊か書き続けられる伝奇サスペンス小説として書かれれば、また違った読み応えとなったかもしれない。
先の読めない展開に次第に強まっていく悪魔の勢力。侵略物の小説としては定番ながら世界が広がる要素を備えている。
しかし脚本のようにあくまでシンプルで紋切り型な文体に展開が早く、また登場する登場人物もじっくり描写されることもなく、物語を進めるためのキャラクターとして書かれているかのように鯨氏の扱いは実に淡泊だ。

書き方によってはもっと面白く書けたと思えるだけに。この結末はまるで某有名少年誌の不人気で連載打切りを云われたマンガのように、唐突で投げやりだ。

本書の冒頭には作者からのメッセージでこう書かれている。

「あなたにはこの本を読まない権利があります」

つまり本書は最後のメッセージに照らし合わせれば作者自身が読むのをやめることを進めている作品だ。つまり作者自身がその出来栄えから読まなくてもいいよ、駄作だからと云っているのかもしれない。
実際その通りで、この本は読まないでいい本だった。

本書は書き下ろし作品である。この原稿を受け取った担当者はどのような感慨を抱いたことだろうか。私はある意味冒険だったのではないかと思う。作者の意図が読者に通じるかを試すための。
しかしもしそうだとしてもそんな作者の意図は別にして小説として問題の作品だ。
これを手に取る人は作者の云う権利を行使することを強くお勧めする。

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