クリスティ再読さんの登録情報 | |
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平均点:6.39点 | 書評数:1450件 |
No.350 | 10点 | 白蟻 小栗虫太郎 |
(2018/06/05 22:11登録) 虫太郎ルネサンスというと、60年代末に桃源社の刊本が担ったのだけど、評者だと馴染みのあるのは70年代の現代教養文庫の5巻の傑作選だった。この傑作選、松山俊太郎による校訂が徹底していて、それまでの連載の初出、刊行書を照合して、「一番いいテキスト」を作り上げようとする気合の入ったシリーズ(「カペルロ・ビアンカ」→「ビアンカ・カペルロ」は結構批判されたなぁ)だった。研究の部類になるようなものや、周囲の人たちの思い出話などのオマケも豊富で、お買い得なテキストである。 この傑作選での「完全犯罪」「白蟻」の収録が「白蟻」である。その他に戦時下に発表されたスパイ小説「海峡天地会」を収録し、日影丈吉と横溝正史による思い出話と、長田順行による研究「小栗虫太郎と暗号」が付録になっている。「海峡天地会」はともかく、「完全犯罪」も「白蟻」も結構アンソロによく収録される作品ではあったからレアではないが、「黒死館」に次ぐ重要作に違いない。 「完全犯罪」の探偵役は苗族共産軍の指導者で、ゲー・ペー・ウーからコミンテルンに転出したバリバリのコミュニスト、ザロフ。スターリニストな矢吹駆である。評者本当にザロフ主人公で虫太郎パスティーシュを書きたいくらいにお気に入りキャラだが、こんな探偵他にいるわけない。虫太郎でも一般的な本格ミステリに一番近いくらいの作品で、そう読みづらいわけではないのだが、本作の背後にあの悲痛なマーラーの「子供の死の歌」が流れ続けているかの印象を受けるのが 一面観賞的に見ても、充分芸術としての最高の殺人と云えるでしょう と自負するのが当然なくらいに「美としての殺人」を極めているように思う。本当に、本作を読むなら「子供の死の歌」を聞かないなんて、絶対にありえないくらいに、作品世界と悲痛な曲の情念がマッチしすぎている。「亡き子をしのぶ歌」の訳が多いが「子供の死の歌」が原題直訳である。「最後の作品」って作中で言ってるけど、これは嘘だ。マーラーが詩を気に入って作曲中に結婚したのだが、できた子供を喪って妻に「縁起でもない曲を書くからだ」と泣かれたという有名なエピソードがある。女声の歌唱の方がずっと泣けると評者は思う。そう、虫太郎って本当に情念の作家だからね。 「白蟻」は虫太郎が狙って書いた「変格探偵小説」。一部で「電波嫁」と言われているらしい(苦笑)。舞台となる上州の某地(騎西一族の流刑地)の、奇怪な植物が繁茂するさまを冒頭から文庫5ページに亙って延々描写し続けるのは、この土地自体が後の「魔境」と同様の、ありえない場所だからだ。この魔境の閉じ込められた若妻の、奔放で血にまみれた妄想の世界が繰り広げられる。 淫祠邪教と罵られる馬霊教の教主、騎西一族は追放されて、上州の故地に流刑の地を求めた。当主たるべき十四郎は落盤事故以来奇怪な変貌をとげ、妻の滝人は別人による入れ替わりを憶測する。滝人は無残な奇形児稚市を産み、先天的な癩によるものと忌まれるのだが、滝人はそれを自身の想念によるものと断定する。滝人は落盤の中に消えた夫を取り返すべく、その面影を義理の妹の時江に求め、時江に「鉄漿(お歯黒)」を強制する...この面影のために、滝人は変貌した夫を殺害しようと、稚市を使った奇怪な犯行を計画する。 と、本当に筋を纏めてもワケわからないと思うが、究極に妖美を極めた妄念の世界である。グロテスクの面で国枝史郎の「神州纐纈城」に唯一比肩できる、戦前に漆黒の華を咲かせた暗黒文学の一つだ。こればっかりは、虫太郎でも一番の晦渋な文章を読んでその毒に中らないと、わからないだろうな。 「海峡天地会」は戦中の作品で、文章は前2作とは違い平明。漢民族の秘密結社天地会の指導者張崙が、日本軍にやすやすと捕えられた。張は黙秘するが、別人という疑惑が起こる。果たして?という話である。まあこれは戦時中の虫太郎の苦闘が、戦後の改稿と比較して浮かび上がる松山俊太郎の校訂に面白さがある。 |
No.349 | 6点 | 娼婦の時 ジョルジュ・シムノン |
(2018/06/05 08:24登録) シムノンの中でも「ベルの死」とか「ぺぺ・ドンジュの真相」に近いタイプの小説だと思う。主人公は車の故障で立ち寄った村の食堂で、パリでの殺人を告白して憲兵隊に逮捕された。パリに護送されて判事や精神鑑定担当の教授と自身の事件を検討する...というきわめてシンプルな話である。 このプロセスがかなりリアルである。人間、自分の行為を説明するのに、理由をいろいろ考えれば考えるほど、その理由が曖昧になってきて「なんでこんな事考えたんだろう??自分でも自分がよくわからないや」となることもよくあると感じる。特にコレは犯罪の捜査であり、その中には「当局がどういう犯罪であるかを理解し、言葉で規定する」必要があるわけである。罪を犯した本人の自意識から組み立てられる自己規定と、捜査の過程で出会う警官・予審判事・弁護士・精神科医との間での「自意識を賭けた攻防」がなされる..この小説の内容はこの「攻防」である。 なので、本作は「異邦人」のバリエーションみたいなものである。自意識をめぐる話なので、ハードボイルド的な即物性はなくて、伝統的で自己分析的な心理小説ではあるが、社会化された自己と、言語から逃れる自我とのドラマを、凝縮して提示することになる。 このままではバカ者か極悪人で終わってしまう。 この結論が示すのは、本作がまさに自意識の小説であるということだ。本作も「熱海殺人事件」ということに、なる。 |
No.348 | 6点 | 天国か地獄か ジョイス・ポーター |
(2018/06/03 09:56登録) スパイ小説のパロディみたいな艶笑喜劇である。「なまけスパイ」だけあって、ヤル気ゼロなのが、何かいい。男の娘になってビアンのキャットファイトにおろおろしたりするんだよ。 旧ソビエトで、「さまざまなお宗旨が雑居する秘密を抱えた集団農場」という舞台設定など、ドストエフスキー風の重喜劇なイロがついている。「イギリスの種馬」がスコプツィ教徒に去勢を誘われるとか、さすがドーヴァー警部の作家だけあるなぁ。それでもほぼ軍事的な作戦行動まであって、ハードな部分はハード。その上「女性の性欲」をあっけらかんと肯定してそれを軸に話が回っていくあたり、1969年の小説とはちょっと思えないくらいに過激である。 ある意味さすが、と思わせるが、話はわりととっちらかっている。振り回されるエディくんも気の毒に。 でスパイ小説な「裏切られた夜」と比較して...だけど、まあ明白あっちはドーヴァーさんの手ではないが、執筆が娘、というのは否定できない。「天国か地獄か」も当然「女性視点」は強く出ている。まあこっちは「男性に対する(王子様な)幻想」みたいなものが皆無というのが、特色なんだけどね。どうだろうか... |
No.347 | 6点 | 動く標的 ロス・マクドナルド |
(2018/05/31 21:28登録) 「かわいい女」が「ブルース・リー大あばれ」な評者の世代だと、「動く標的」というと「(ルー・)ハーパー」なんだよね...アーチャー初登場の本作、ちゃんとハードボイルド探偵小説のフォーマットに即して書かれたもので、出発点はハードボイルド。評者に言わせたらロスマクの後期は全然ハードボイルドじゃない(まあこれはチャンドラーだって..)からで、要するに「徐々にハードボイルドじゃなくなったけど、最初はハードボイルドだった」という出自の話なんだね。 今回読みなおして「そういえば、ロスマクってナイトクラブの描写を他で見た記憶がないなぁ」なんてバカなことに気がついたりした。ロスマクの登場人物って、夜遊びしないんだよね(笑)。アル中でも家飲み派ばっかり。憶測で言っちゃえば、ロスマクって人は実は中流のコチコチの堅物で、全然遊んでないんだけど、「ハードボイルドって言えばヤクザが経営するナイトクラブとか、ワケアリなクラブ歌手が付き物だし」というテンプレに従って、本作は「定番だから入れておくか」というくらいで書かれたような気がしないでもない。お手本は「ミス・ブランディッシの蘭」かしら....あれも「でっち上げハードボイルド」だけどね。 だからバイオレンスがてんこ盛り(当社比)でも、ハードボイルドらしい「猥雑なほどの現実感」とか「通俗な下世話さ」みたいなものがまったくない、「清潔なハードボイルド」という得体の知れないものに本作はなっているように思うんだよ。「借り物」と言っていいのかもしれないけど、最終盤などロスマク好みのブルジョア家庭の悲劇を立ち上げたりして、後年に繋がる部分が窺われなくもない。達者さと不器用さと頑固さが入り混じった、成功しているわけじゃないけど失敗しているわけでもないし、「らしい」し「らしくない」奇妙な読後感である。 うんだからやっぱり本作はリュー・アーチャーじゃなくて、ルー・ハーパーなんだろうよ.... |
No.346 | 7点 | まっ白な嘘 フレドリック・ブラウン |
(2018/05/28 21:34登録) ブラウンというと、典型的なアイデア・ストーリーの作家、というイメージなんだけど(まあSFはとくに)、こうやって読んでみると1作1作丁寧に肉付けして書いているのが伝わる...内容も実にバラエティに富んでいて、本当に万能選手の部類だ。まあ器用すぎるかもしれないけどもね。 「笑う肉屋」だって、ウソ!っとなるような足跡トリックものとして読むばっかりでなく、肉屋と小人のキャラを楽しんで読むのもありでは?と今になっては思ったりするわけだよ。「キャサリン、おまえの咽喉をもう一度」なんて音楽的な書き込み部分がリアリティを醸し出していて、いいしね。 で最後の「うしろを見るな」は有名な仕掛けモノ作品なんだけど、これだってサイコな偽札犯の語りが、仕掛け以上にホラーで怖い、というのがブラウンの腕の見せ所のように感じるよ。というわけで、ブラウンの小説の腕前を見せつけられて、どっちかいうと今回その「上手さ」の部分に感銘を受けてたなぁ。 エリンの「九時から五時までの男」と連続して読んだこともあるが、アメリカの雑誌全盛期の、短編小説の幅と深さ、アイデアと粋、切れ味とショックを改めて実感した気がする。さすが。 (久々にミミズ天使とか読み直したくなった..) |
No.345 | 7点 | 九時から五時までの男 スタンリイ・エリン |
(2018/05/28 21:03登録) エドガー短編賞を獲った「ブレッシントン計画」を含む、「特別料理」と双璧をなすエリンの短編集である。軽妙なオチをつけるタイプと、ダークな心理にムムっとなるものとが混在している印象。切れ味と打撃力を兼ね備えた稀有の実力である。 昔読んだ印象だと「切れ味」系の「ブレッシントン計画」「倅の質問」が自分ウケした記憶があるのだが、改めて読むと「打撃力」系の「いつまでもねんねえじゃいられない」(曖昧な証言で無実の男に罪を着せた女が...)「ロバート」(教師が生徒の悪意で破滅する)が感銘が深い。意外なところから噴出する悪意に直面してぞっとさせられる。そういうのはあまりオチがオチらしくなく、オチないのがいいようなものだ。 あとこの人、語り口が実にバラエティに富んでいてそこが工夫のしどころだろう。「九時から五時までの男」なんて淡々とした外面描写だけで、放火による保険基金詐欺請負業という、異常な職業のしかも平凡な男の肖像を描ききっている。やるなあお主、というのが正直な感想だ。なのでこの人、本質はアイデアストーリー系の作家じゃない気がするんだがどうだろうか。 |
No.344 | 7点 | 英雄の誇り ピーター・ディキンスン |
(2018/05/27 21:00登録) 本作面白い!!第二次大戦の英雄の貴族兄弟の館で起きた、執事の自殺事件を調査にピプル警視が派遣されるが、そこは「オールド・イングランド」という名のテーマパーク(貴族じゃ食えないんだよ)として、観光客を受け入れる観光地に仕立てられていた。19世紀から抜け出てきたような「キャスト」が、観光客を案内し、スチーブンソンの蒸気機関車が走り、決闘の実演、縛り首のショーが楽しませる。ライオンだっているよ!そして本物の戦場の英雄だっているのさ! と、本当に何がホントで何が嘘なのか区別がつかない人工的な環境の中に、カンのいいピプルは腐臭を嗅ぎつけて、執事の自殺どころではない貴族の血脈の崩壊に立ち会うことになる。ピプルもライオンに襲われるわ自殺に見せかけて殺されかかるわと、本当は大冒険しているにもかかわらず、愚痴っぽい小市民性からそういう印象がないのが、何かイイところ。後付で客観的に見たらスラプスティックじゃないかしらと思うくらいのものだが、描写は全然そうじゃない。モンティ・パイソンとかと近い世界かもしれない。だから向かない人は徹底的に向かないだろうな。 二人ともしようがない老いぼれですから、それにほんといいますと、こんなばかばかしい死にざまが、あの人たちにぴったりなんです。本望でしょうとも。 と毒舌を吐かれるくらいのものだ。ただ一応「本格」になってるけど、あまり謎解き興味はない。奇妙な世界に迷い込んで、奇妙な人々の奇妙な行動を皮肉な視点で解き明かす小説、というくらいに読んだほうがいいだろう。まあ本作に限らずディッキンスンの小説って「ジャンルを超えてる」よ。長編だけど「奇妙な味」くらいのつもりで読むのがよろしかろう。 |
No.343 | 4点 | 兇悪の浜 ロス・マクドナルド |
(2018/05/27 20:39登録) もうそろそろ中期になる作品なんだけど、皆さんおっしゃる通りの駄作。何かポイントがちゃんと絞られていないような散漫さを感じる。依頼人の逃げられ夫はストーカーみたいで、どうにも共感できるようなタマじゃないし、殺人狂傾向の強い精神病患者とか、安易なキャラ造形が目立つ。ハリウッドと映画業界周辺が舞台なのだが、そういう「らしさ」もない。「かわいい女」といいハリウッドは、どうやらハードボイルドから見たときには鬼門のようだ。本作どうにも見どころに欠ける。 思うのだが、ロスマクって作家は、「運命」とか「ギャルトン事件」で確変した作家なので、この頃はまだちゃんと「煮えきってない」作家だったような感じだ。そういえばこの人、パルプ作家歴がないわけじゃないが大したキャリアはないのに、ハードカバー書き下ろし作家で出発できたのは、何故なんだろう?(似たような立場でライバルなマッギヴァーンは、SFが多いが結構なパルプ作家のようだからね...) |
No.342 | 5点 | 犠牲者たち ボアロー&ナルスジャック |
(2018/05/25 22:55登録) 作品的にはそう悪くないのだけど、本作は「死者の中から」のアイデアを別視点でアレンジしたような作品なんだよね....「別人なのに似てる」vs「同じ人なのに別人」、「別人なのに同じ人と主人公は思い込んで恋する」vs「主人公は別人が嫌になって引く」と、同じネタを逆にしたようなアイデアで書かれている、と言っても過言じゃない。まあそこらへんをどう考えるか、だろう。ひょっとして「死者の中から」のボツ案みたいなものかな。 読み比べると分かるんだけど、本作は「死者の中から」と比較しても動きが少なくて、フランス的な恋愛小説、って感じの読後感になる。もちろんボア&ナルだから、ミステリとしての仕掛けはちゃんとあるんだけどね。しかし本作の本当に面白い部分は、マヌーに対して主人公がとった態度が、そのままクレールが主人公に対してとった態度になる、というあたりの皮肉な部分で、これはミステリとは全然関係のない要素である。そう見ると、何かバランスの悪い作品ということになってしまうなあ。 あとそうだね、本作の背景にダムがある、のが心理的な象徴みたいなもの。夫が「コンクリの薄いダム」の権威、というのが意味深。最近ダム萌えというかダムマニアって流行ってるみたいだね。 |
No.341 | 8点 | 人外魔境 小栗虫太郎 |
(2018/05/25 11:32登録) 小栗虫太郎としても最後の人気作ということになる。戦時色が強まる中書かれた秘境冒険小説の連作なのだが...評者の世代だとね、本作は80年台初頭のポップ・アイコンだよ。太田螢一の「人外大魔境」とか、あるいはゼルダの「密林伝説」とか、本作に取材したポップミュージックがあって、評者とか本当に直撃したわけよ。ムカシのニューウェーヴ、ミョーな教養がある(笑)。 今回改めて読んで、このシリーズ、ファンタジーで冒険でスパイ小説で、しかも読みようによっちゃハードボイルド、というジャンルミックスな面白みがある。ハードボイルド、意外でしょ。小栗っていうと、法水ものが一段落した頃の短編「地虫」がハードボイルドテイスト、と言われることもあるくらいで、要するにこの人、日本的な情緒感みたいなものはそもそも皆無で、外面描写が暴走気味に傑出した作家ということもあって、実のところハードボイルドとの相性が、いいんだな。とくに本短編集の最後を飾る「アメリカ鉄仮面」だと、主人公の探検家折竹孫七がニューヨークで失業して、調査も兼ねて潜函工事に潜りこむ描写とか、本当にハードボイルドな良さを感じるんだよ。 まあ本短編集、それでも「魔境」が主人公のようなものだ。折竹と同行するワケありな人々のドラマも織り込んで、奇々怪々でファンタジーな魔境の描写と同行者たちの情念のドラマと、魔境の謎解きとそれを利用した軍事的な策謀をミックスして凝縮された短編が続く。出来としてはやはり長めの「有尾人」(アフリカ大地峡帯?)「大暗黒」(サハラ砂漠をアトランチスに引っ掛ける)「アメリカ鉄仮面」(成層圏飛行とアラスカの火山)と、白痴美を示すキャラが印象的な「天母峰」(チベット)が、いい。 けど本サイト、クラブ賞を獲った香山滋「海鰻荘奇談」の評もまだないんだなあ。そのうちやらなきゃね。こういうロマン溢れる幻想冒険小説もミステリのうちだと評者は思うよ。 |
No.340 | 6点 | 仕立て屋の恋 ジョルジュ・シムノン |
(2018/05/20 18:48登録) 久々のシムノンになったが、ごめん映画は見てないや。小説だけの評価として書くことにする。 娼婦が殺された。近くのアパルトマンに住むユダヤ人のイール氏は、青白くぶよぶよと太った見かけと、何をして食べているか不明で、その変人ぶりから近所の人々に嫌われていた。イール氏がカミソリで頬を切った流血を目撃した管理人の話から、イール氏と娼婦殺しが結び付けられるようになっていった。イール氏はそんな話とはお構いなしに、アパルトマンの向いに住む女アリスに恋心を募らせてストーカーまがいの挙に出ていた。イール氏が覗きをしていることに気づいたアリスは... という話。酒鬼薔薇事件のときにも、近隣での変質者狩りみたいな噂があったのを記憶しているけども、このイール氏には弱みもいろいろあって、これらからのっぴきならない窮地に追い込まれていく。そういう社会の悪意みたいなものを、この小説はハードボイルド的といっていいくらいの客観オンリーの描写で描いている。小説はイール氏の内面にも、アリスの内面にもまったく踏み込まない。極端に「乾いた」描写が続く。 というわけで、ジッドがシムノンを称揚して、逆に「異邦人」をクサした理由が何か、よくわかる。「異邦人」がやったことなんて、実はシムノンがとうの昔に達成したことだったわけだ。カミュは「インテリ向けのシムノン」だった... |
No.339 | 6点 | モルダウの黒い流れ ライオネル・デヴィッドスン |
(2018/05/18 13:11登録) デヴィッドスンの処女作兼ゴールダガー初受賞作。とってもイギリスらしい地味スリラーで、ユーモア青春冒険小説、ってノリの作品。「部屋に通ってみると、《小豚》のやつ、書類のなかに首をつっこんで、顔をあげようともしなかった」で小説が始まる、そういう感じ。 主人公の父は戦争前にはチェコでガラス工場を経営して羽振りがよかったのだが、戦後チェコの工場は社会主義政府に没収されて、父がイギリスで作った商社の、パートナーとは名ばかりの金詰りの境遇に主人公は置かれていた。そこに「カナダの叔父が亡くなり遺産が...」の連絡を弁護士から受けたのだが、実はそれは主人公を誘い出して、チェコに核開発を巡る機密書類を運ばせようとする罠だった!主人公は途中でその罠に気づいたために、プラハでチェコ秘密警察に追われる身になった...イギリス大使館に飛び込もうとするが、監視の目は厳重だ。どうする? という話。本作は梗概をまとめても作品のテイストが全然伝わらない。主人公は幼いときにプラハで過ごしていたこともあって、懐かしさを感じつつ土地勘を生かして逃げ回るし、チェコ語はネイティヴ級。逃亡者としては恵まれてる。派手なアクションは皆無で、ひたすら後半逃げ回るプロットを追っても仕方がない。それよりもちょっとしたキャラ描写の面白味とか、洒落た感じのデテールとか、そういうものをのんびり楽しむタイプの作品である。 「不均衡な微笑」に主人公が魅かれるモーラ、「大きな単純な動物」と形容される大女のヴラスタ、お姫様育ちで現実が見えてない主人公の母マミンカと、その母を崇拝し「仕える」かのような老人ガブリエル...とキャラは印象的で、主人公の「ノンキな若さ」みたいなものがみょうに眩しい。 間もなく、ぼくは話しだした。母の聞きたがることは、ぜんぶ、くわしく話してきかせた。彼女の眼は、憶い出によって、生きいきと輝いた。時折り、感動した叫び声をあげながら、ぼくの手をにぎってはなさなかった。母のマミンカに話をすることは、いつもぼくの楽しみだったが、こんなにまで感動して聞いてもらったのははじめてだった。もちろん、例の「秘密保護法」に違反するようなことまでは語らなかったが。 うん、こんな小説である。キャラは人間臭くて生彩がほんとうに、あるな。 デヴィッドスンのゴールドダガーは本作でコンプ。あと「チベットの薔薇」くらいは何とかしようとは思うんだが....要するにこの作家、間歇的に日本の翻訳家とか「面白い!」となって入れ込んで紹介するんだけど、日本の読者に面白味が伝わりやすい作風じゃないこともあって、全然売れず知名度がない、ということになっているようだ。捻ったイングリッシュ・テイストが体質にあう人は面白く読めると思う。CWA獲った作品だとやはりベストは「シロへの長い道」だと思うので、「シロへの長い道」をお試しで読むのがよろしかろう。 |
No.338 | 6点 | ぎろちん コーネル・ウールリッチ |
(2018/05/15 20:57登録) ウールリッチの短編集って、創元は営業配慮でアイリッシュ名義だし、創元とハヤカワで出てる短編をごっちゃにして白亜書房から生誕100周年記念の高価い短編集はウールリッチだし...と、別名管理がちゃんとできない本サイトだと、ウールリッチとアイリッシュと同じ作品がバラバラに登録されるということも起きてるね。まあ仕方のないことなのだが。 でこの短編集は「ぎろちん」「万年筆」「天使の顔」「ワイルド・ビル・ヒカップ」「穴」「ストリッパー殺し」の6作を収録。こういう短編集があちらである、というものではなくて、訳者の稲葉明雄が自分で選んでいろいろな雑誌掲載用に訳したものを、ポケミスの1巻としてまとめたらしい。どの作品も結構読ませる。 だから、白亜書房版の別巻「非常階段」が、稲葉明雄名訳選として「別巻」扱いで編まれたこともあって「ぎろちん」「天使の顔」は「非常階段」で重複する。個人的な好みでもこの2作がポケミス「ぎろちん」でもツートップの出来のように感じるな。「天使の顔」は弟の死刑を回避するために真犯人のもとに潜入する姉の話。「天使の顔」はその姉の美人設定の形容。 表題作「ぎろちん」はねえ、評者とかだと「赤い花と死刑執行人」だなあ。昔そういうタイトルで子供向け翻訳があったんだよ。死刑確定の愛人を救うために「死刑執行人が執行日に来れなければ釈放」という特例を実現してやろうじゃないの、と策謀する情婦の話。死刑執行人の朝食のクッキーに毒を盛ったので、死刑執行人が体調不良を押して刑場へ向かう姿が息を飲ませる。子供向けだと「情婦」はマズいので、子供になってた記憶がある。けどこれ子供心にも妙なエロチシズムを感じて困ってたな。ギロチンって不思議とエロチックな刑具だと思う... あとこの本、訳者は「稲葉由紀」になっていて、あとがきも女性として、ウールリッチへの愛を告げちゃっているけど、稲葉明雄訳なんだよね....(ぼそっ)女装訳。 |
No.337 | 7点 | 第八の地獄 スタンリイ・エリン |
(2018/05/14 23:16登録) 「鏡よ、鏡」のminiさんの愚痴に評者も同感。エリンっていやあ「特別料理」か本作でしょうよ。それが常識、ってもんです。MWAも獲った本作、一応ハードボイルド、ということにされてはいるんだけども、評者的にはハードボイルドの真逆みたいな私立探偵小説だと思う。だから逆に、今風の私立探偵小説に近いといえばそうかもしれない。 主人公は探偵事務所を旧上司から実力で引き継いだオーナー社長。秘書もいれば社員の捜査員も登場するだけで3人、と極めてリアルな「私立探偵小説」。引き受けた事件も警官の汚職容疑を晴らす、なんだけども主人公もクライアントの無実をあまり信じていないし、警官の婚約者に横恋慕してしまって、汚職容疑を固める方につい力がはいってしまう..とリアルには違いないけど「卑しい街を行く騎士」でもなければ「アメリカの悲劇を見つめる質問者」の柄でもなくって、ヒーロー小説でもアンチヒーローでもない「私たちと似たり寄ったりの人間」な私立探偵を描いた小説である。今になってみれば「私立探偵小説」にハードボイルドとは別な水脈を導入したような意義があるんじゃないかな。 けどね、本作とっても小洒落たセンスがあって、そういう当たり前な人間を描いても、とってもオシャレな小説のうまさがある。ここらが短編の名手エリンらしいあたり。リアリズム、ってクソ真面目ということじゃないんだよ判るかな? |
No.336 | 9点 | 運命 ロス・マクドナルド |
(2018/05/08 10:28登録) いやこれヘヴィ級の名作だよ。ロスマク読んでて本作くらい感銘の深い作品も少ない。本当に1日の出来事か、というくらいに濃密な事件が立て続けに起きるが、その分全体から見るとシンプルで晩年のバロックで冗長なあくどさはないし、本当はアーチャー自身の「罪」が事件への微妙なきっかけを与えていることが最後に明らかになって、「探偵倫理」みたいなものからも非常に趣が深い。 また本作、「Yの悲劇」みたいなもので、幕開きにすでに死んでいる人物こそが、家族への「禍を告げる者」として実に甚大な影響を与えていることがある。 彼女の残した死の遺産を考えていると、彼女の運命の司(ドゥームスターズ)を信じてもいいような気になってきた。もし現実の世界に存在していないとしても、それはあらゆる人間の内部の海の深部から夜の夢のように優しく、はげしい力で潮を截ってあらわれるのだ。男と女はおのがじしおのれの運命の司であり、おのれの破滅をひそかに記す者であるという意味のなかに、おそらくそのドゥームスターズが存在する。 なので事件上の犯人にアーチャーは「俺は君を憎んではいないよ。反対だ」と告げるのだが、この事件の全体はアーチャー自身の罪さえも巻き込みながら、宿命論的ななりゆき、としか言いようのない暗澹とした結末を迎えざるをえなかったことの結論みたいなものだ。評者もアーチャー同様に、本当に犯人に何か萌えるものがあるなあ。この犯人が過ごした時間、「ぞっとする冷気に灼かれて横たわり、時計をみつめ、一晩じゅう時刻を打つ音を一つひとつ数えていた」時間というものが、それこそ「テレーズ・デスケールー」に近づいている感を受けるほどに、だ。 ただしこの地獄絵図は、やや明るい結末を迎える。家族の生き残りはこの事件ですっかりと悪因縁が落ちただろうし、アーチャー自身の有罪を証す人物にも救いがある。評者の好みからいくと、ロスマクは後期じゃなくて本作あたりの中期後半が全盛期じゃないのかなぁ、と思うよ。本作とか「ギャルトン事件」とかもう少し読まれてもいいんじゃないかしら。 ちょっと追記。本作の中田耕治の訳に不満を述べる人が多いけど、評者に言わせると、ロスマクは「ハードボイルドから徐々に独自のアーチャーの物語に移行していった人」なのであって、本作だとそういう移行の真っ最中の時点のわけだ。本作だとそれこそ「俺の拳銃は素早いぜ」なオスタヴェルトみたいなキャラもいて、アーチャーの殴り・殴られも何回か、ある。中田訳のアーチャーのイメージが、後期のアーチャーのイメージとズレているのは、リアルタイムでのハードボイルドの受容を証してるようなものだと思うんだが、いかがなものだろうか。まあ中田耕治って妙な意訳でスラングに置き換える傾向があるけど、適度な下品さってハードボイルドには必須なように感じるよ... |
No.335 | 8点 | 成吉思汗の後宮 小栗虫太郎 |
(2018/05/05 00:31登録) 今の人は「黒死館」しか読まないのかねえ....小栗虫太郎は黒死館のあとも人気作家の座を守り続けて、戦時色が強くなっても海外を舞台とした西洋伝奇から秘境小説へとスケールの大きな冒険譚を書き続けたのだけど... で、本作は講談社大衆文学館のシリーズで読んだが、元は虫太郎復興の立役者だった桃源社が編んだ同題の作品集から約半分の、西洋伝奇~秘境小説を7作収めた短編集。ネタの豊富さでは無尽蔵では?と思うほどにさまざまな擬史を題材に燃焼度の高いロマンを紡ぎ出している。天明期の日本人が沿海州に渡って覇王の座につきかける話「海螺斎沿海州先占記」、右翼崩れの流れ者のドイツ人が雲南の紅軍(「完全犯罪」と同じような舞台だ)と行動を共にする「紅軍巴蟆を超ゆ」、ナポレオンの末裔と噂される数学者がロシア革命に乗じて帝位を窺う「ナポレオン的面貌」、ジンギスカンの末裔らしき青年が大陸浪人たちに担ぎ上げられ..「成吉思汗の後宮」、ロンドン塔に幽閉された謎の男の脱獄の話「破獄囚『禿げ鬘』」、フランス革命の最中、王党派の闘士「百合家の騎士」vsジョセフ・フーシェ&暗号解読家カドゥーダルの「皇后の影法師」、バスコ・ダ・ガマの航海✕それを妨害するハンザ同盟の陰謀✕ピラミッドの謎=「金字塔四角に飛ぶ」...と題材の広さ、発想の豊かさ、それに独特の名調子と合わせて、比類のないエンタメになっている。黒死館だと言葉で説明するだけだったエピソードが、きっちり絵に仕上げられているようなものだから、その豪華絢爛さには絶句する。 ただし長所はまた弱点でもあって、この人、書きたいシーンしか書かないんだな。なのでどれもダイジェスト的な印象がどうしてもつきまとう。本当にどの短編をとっても、1冊の大長編が書けるようなネタなのである。それをぎゅっと圧縮し抽出し尽くした最上の一滴を味わう贅沢さ、をどこまで味わえるかを試してみるといいだろう。 しかし、すぐうち消した。覇業半ばで死ぬ。云いようのない淋しさがやってきた。海は鳴っている。彼はじぶんがここを抜けでて、巌頭に立っている、幻をみた。この海参威の岬の鼻でヒュッと喚声をあげ、たかい潮煙をおどらせ巌礁を飛沫かせるその波は、はるばるここまで来た、国の波ではないのだろうか。そうだ、俺はくだけた。 ね、黒死館よりずっと読みやすいでしょう? しかしこの独特のテンションの高さ、熱っぽさが評者はたまらなく好きである。 |
No.334 | 7点 | 軍旗はためく下に 結城昌治 |
(2018/05/04 23:44登録) 直木賞というと、一時期ミステリの受賞が不当にも拒まれていた頃があって、ミステリ系の作家でも「非ミステリ」な作品で受賞していたことがあった...大実力派だった結城昌治でも、直木賞受賞は本作。ミステリ仕立てもある戦記に取材した反戦小説である。 5つの短編がそれぞれ、「敵前逃亡・奔敵」「従軍免脱」「司令官逃避」「敵前党与逃亡」「上官殺害」と軍法上の罪状がタイトルになり、それぞれの罪状を犯した経緯が語られる。もちろん結城昌治の油が乗っていた時期なので、巧妙な語り口もそれぞれ変えてつつも、それぞれ狙いがことなる短編になっている。 ・「敵前逃亡・奔敵」は臆病でグズという評判の下士官が失踪したが、数カ月後に出頭してきた...その理由は?という一種のホワイダニット。 ・「従軍免脱」は上層部にはびこる不正を告発した兵士を無理矢理に罪に落とす組織的な腐敗の告発。 ・「司令官逃避」は捨て駒に指名された中隊を恫喝する口実でしかない。 ・「敵前党与逃亡」は事情不明のまま判決だけが記載された戦没者連名簿の事情を巡る「藪の中」。 ・「上官殺害」は横暴な小隊長を小隊ぐるみで殺害したという、軍隊でも究極の犯罪。 と中支・フィリピン・インパールなどを舞台に、大戦末期の統制が崩壊した軍隊の中での悲惨な出来事を、戦後の「生き延びた人々」の視点で描いている。語り手たちはみな後ろめさを抱え込んでいるのが印象に残る。みな悲惨な出来事を思い出したくもないのだが、心に焼き付いて離れないのだ。最後の「上官殺害」は生きて帰ったが失明して温泉で按摩をして生きている男と、上官殺害の話を聞きに来た男との会話と、本音の独白とをカットバックした構成で、小説的には評者はこれが好きだ。 結城昌治のベスト、というわけではもちろんないのだが、それでも実力の堪能できる広義のミステリ、くらいの作品である。 |
No.333 | 7点 | 夜来たる者 エリック・アンブラー |
(2018/05/04 00:02登録) 遺作の「The Care of Time」が未訳なので、訳のある長編小説としては評者としても最後になる。本作はアンブラーの作品の中でも、ドキュメンタリに近い肌触りでかなり異色だ。 舞台は実質インドネシアの一部である「スンダ共和国」。その奥地のダム建設に従事していた主人公が、帰国間際にクーデターに遭遇する話である。ドキュメンタリ風だが、小説的な構成や仕掛けがしっかりあって、 1. 主人公が一時滞在のために借りた部屋が放送局のビルの上階にあって、まさにその部屋が反乱軍の秘密司令部に接収されてしまい、捕虜まがいの待遇を受けつつも反乱司令部の動きを直接見聞できる。 2. イギリス人の主人公だけなら単身脱出もあるかもしれないが、一緒にいたガールフレンドが欧亜混血で人種差別から気まぐれにでも殺されかねない懸念があって、心ならずも反乱軍に協力せざるを得ないこと。 3. 反乱軍の一員にダム工事で知り合った少佐がいるのだが、その少佐、どうも政府軍がわに通じているらしい... と小説的な興趣のポイントがいろいろあって、ただリアルなだけではない芸の細かさを見せる。たしか実際のクーデータ事件をアンブラー自身現地取材に行って書いたんじゃなかったっけ。そんな話を読んだ記憶がある。 反乱軍との駆け引きが後年の「グリーン・サークル事件」を連想するとか、クーデターの背景などが「武器の道」でも採用されているとか、それまでどっちか言えば東欧に強い印象のあったアンブラーがアジア・ラテンアメリカの旧植民地国へ視点を広げるきっかけになっている作品であるとか、アンブラーの折返しポイント的な重要作である。アンブラー論をするならまさに必読の作品。 本作でアンブラーもとりあえずコンプ。ベスト5は「インターコムの陰謀」「武器の道」「シルマー家の遺産」「ドクター・フリゴの決断」「グリーン・サークル事件」。要するにね、今更「墓碑銘」とか「ディミトリオス」なんてお呼びじゃないと思うんだよ。戦後のアンブラーって戦前と比較したら2ランクくらい作家的実力がアップしている感があるわけで、戦前の作品なんて歴史的な価値くらいしかないと思うんだがいかがだろうか? |
No.332 | 6点 | 関東軍謀略部隊 川原衛門 |
(2018/05/03 23:26登録) 日本で実録系のスパイ小説って何かないか...と思っていたら、父親の蔵書にいいのがあった。本作は満州で活動した「外人部隊」のうち白系ロシア人で作られた「浅野部隊」と興安嶺の少数狩猟民族のオロチョン人を組織しようとした野上大尉の活動に取材した実録小説である。タイトルに「関東軍」と入っているが、日本軍の満州駐屯軍だった関東軍の所属ではなくて、「満洲国軍」の所属だから本当はタイトルに偽りがあるが、まあ仕方がない。両部隊とも実質的な活躍はなくて、関東軍の崩壊とともにあっけなく消滅したから、戦史上の意義は薄いのだが、スパイ小説として読むとある意味リアルのきわみ、だろう。 白系ロシア人部隊はその政治的な立場からも、実に戦意旺盛だが、南方戦線が悪化して関東軍から部隊が引き抜かれ弱体化すると、ソ連を無用に刺激しないように...と政治的にややこしい部隊として持て余されることになる。ソ連参戦で関東軍が崩壊すると、この部隊の一部はあくまでゲリラ戦を挑んだらしい。 興安嶺に住む狩猟先住民のオロチョンをうまく組織できないか、という任務を帯びて単身野上大尉が派遣されて、オロチョンの部族とともに暮らしている。オロチョンの馬術と射撃は人間離れしているので、野上は豊富な物資を報酬に、オロチョンに軍事的な訓練をするのだが、野上の思い虚しく日本軍の形勢が不利になるととたんに...と両部隊とも日本軍の思惑どおりにはまったく動かなかったあたりが、民族問題のややこしいところである。 歴史の影に隠れてしまった戦史のエピソードなのだが、本作だったら一応ちゃんとしたリアルな「軍事スパイ小説」の範囲に収まるような内容である。本作では扱われていないが、たまたま樺太にいたために日露戦後の南樺太割譲で「日本人」になっちゃったニブヒやウィルタを、旧軍が徴用して諜報に使った話もあるしね。 評者どうも北方少数民族に妙な憧れみたいなものがあるんだよ...同系統の沿海州の少数民族を扱ったドキュメンタリ小説だと「デルス・ウザーラ」(黒沢明が映画にしている)がある。 |
No.331 | 7点 | 虚栄の女 ウィリアム・P・マッギヴァーン |
(2018/05/03 11:03登録) 作家コンプ中心に読んでいくと、最後の方ってどうしても入手困難作が多くなるし、入手困難=不人気、ってことが多いから、あまり面白さをアテにできない...のが覚悟の上なんだけども、逆に面白かったりすると「わ、世の中に知られてない儲けモノみっけ!」と気分が高揚するのがご褒美みたいなものだ。 さて、マッギヴァーンも大詰め「虚栄の女」。儲けモノの部類である。好きな作家なればこそ、うれしい。第二次大戦中のシカゴ社交界の花形だった女性、メイ(ま要するにクルチザンヌである)。彼女が戦時中の政財界の裏面暴露の日記を出版しようとしている、という噂がたち、シカゴの政財界に静かなパニックが走った。身に覚えのある実業家ライアダンは、同時に戦時中の不正を暴く上院の委員会の標的となって、調査団を迎えることになった。調査団とメイ、この両面からの脅威を押し戻すため、ライアダンは広告代理店と契約した。主人公はその担当者となって、ライアダンと対策を協議しつつ、主人公旧知のメイとの交渉にあたるのだが....がその最中メイが殺害されて戦時中の日記が消え失せた! 企業などの不祥事、というと謝罪会見で会社幹部が妙に尊大な態度をとって炎上しまくる...というのがこのところ続いていて「危機管理がなってない」とか評されるわけだけど、とくに日本は「アドバタイジング」と「パブリック・リレーションズ」が混同されるきらいがあって、正しい意味での「PR(パブリック・リレーションズ=社会との関係)」が定着していない風土であるから、「なんで広告代理店?」となる読者も多かろうが、本作の広告代理店と主人公の仕事は、まさにこの「PR」である。ライアダンの記者会見を主人公は見事に仕切ってみせる。評者とか真似したいくらいにナイスな設定だと思うのだが、いかがだろうか。 でまあ、この実業家は実のところ絵に描いたような悪党で、仕事とは言いながら主人公は葛藤する。別居中の妻も同僚で、主人公を見守って離婚するかどうかを考慮中だったりする。 きみの忠誠心は、売りに出ていたものなのだ。それをわたしが買ったのだ。粉骨砕身、きみに働いてもらうつもりである。たとえわたしが詐欺師であろうと、正直な人間であろうと、それには何のかかわりもないことなのだ。これだけいえば満足してもらえるかな? いやあ、マッギヴァーンらしさ全開だね。道徳的トラブルを抱えながら、事件の真相を追いかけて、自らの道徳的葛藤にも決着をつける。犯人もうまく隠せているし、手がかりは会話の中の齟齬みたいなものだから、かなり難度が高いけど、まあフェアかな、くらい...と若干パズラー的興味もある。 父親は粗悪な小銃を政府に納入して儲けるが、その息子は戦争で手柄を立てて「英雄」なんだけども、戦争神経症を患って戦後は無為徒食のまま父親に反抗しつづけるし、主人公の妻は仕事で主人公が成功すればするほど「嫌な奴」になってくるのに耐えれなくて別居→離婚を考えているなど、サブキャラもなかなかうまく書けている。あっけなく殺される影のヒロイン、メイの存在感というか、「なぜ暴露本を出そうとしたか?」はミステリ的な謎というよりも、キャラの性格から説明されるとか、小説的な厚みがあって、これはいい小説である。先行する「囁く死体」「最後の審判」は今一つだったのと比較すると、マッギヴァーンらしさが本作で早々と開花している印象だ。次作はもう「殺人のためのバッジ」だもんなあ。 マッギヴァーンのコンプ記念でベスト5を選ぼうか。「殺人のためのバッジ」「最悪のとき」「明日に賭ける」「ファイル7」「けものの街」...まあこの人の場合ベスト5選びはほぼ定番に落ち着いて全然面白みがない。 |