皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
していません。ご注意を!
Tetchyさん |
|
---|---|
平均点: 6.73点 | 書評数: 1601件 |
No.33 | 7点 | ダウン・ツ・ヘヴン- 森博嗣 | 2019/05/10 23:45 |
---|---|---|---|
『スカイ・クロラ』シリーズ第3作。時系列的には『ナ・バ・テア』の後日譚であり、『スカイ・クロラ』の前日譚である。まだシリーズは残っているのでそれらがどの位置に来るのかは不明だが。
草薙が本書で辿る道筋は我々社会人、いや大人全てに当て嵌ることだ。 夢を抱いてやりたいことを実現するために入社し、最初は上司の許で手法を学び、社会人として成長していく。そしてめでたく頭角を現し、上層部から注目を浴びるようになると上に立つ立場の人間へと押しやられる。しかしそこは会社の経営や政治的な仕事が多くなり、次第に本来やりたかった仕事からは遠ざけられ、相手との折衝や腹の探り合いなどの毎日が続く。 理想と現実のギャップ。本書における草薙水素はまさに大多数の社会人が抱く、いつしか夢を喪失し、現実に直面せざるを得なくなった社会人たちの姿だ。 恐らくこれは森氏の心情そのものなのだろう。 建築を学びたいと大学に入り、そして更にその道を究めたいとそのまま大学で研究を続け、その成果が認められて助教授になるが、やることは学生たちや後進への指導と会議ばかり。なかなか研究に没頭できなくなる。 何かをやりたいというのは子供の頃から持つ願望だ。だからこそ森氏は本書においてキルドレという永遠の子供を設定したのではないか。 本書の中でも草薙水素が吐露する心情の中に、「もう子供ではないのだから」という理由で搾取されてきた数々の想いや物が述べられる。 楽しいだけで過ごす毎日が子供の時代でそれを終えるのが大人の時代の始まり。子供の小さい世界が大人になるにつれて大きく広がっていくのに逆にやりたいことや出来ることは狭まっていく。 子供の頃、「それは大人になってからね」と云い聞かされ、大人になったら色んな事が出来るのだ、早く大人になりたいと願いながら、実際に大人になってみると周囲に合わせ、自我を通そうとすると疎んじられ、望まれもしないことを出来るから、挑戦だという理由でやらされ、やりたいことが出来なくなり、やらなければならないことばかりが増えていく、この大いなる矛盾。 しかしでは永遠の子供キルドレは純然たる自由を愉しんでいるのかと云えばそうではない。子供でありながら、大人の世界に生きる彼らは次第に純粋さを奪われていく。 草薙水素のようにただ飛行機に乗り、敵と戦い、勝つことだけが楽しくて続けてきたキルドレ達もやがてこの単純なサイクルに嫌気が差してくるようだ。来る日も来る日もやりたいことを続けるのもまた苦痛であるらしい。不死の存在でありながら命のやり取りである空中戦に望む彼ら彼女らはその無限のサイクルを止めるために無謀な戦いに挑み、そして散っていく。 そうすることしかそれを止められないからだ。 大人になることの不自由さを謳いつつ、一方で子供であり続けることの絶望も描く。 そのどちらも備えた草薙水素はなんと可哀想な存在なのだろうか。前作では人生の苦みと空に飛ぶことの愉しさを知った草薙が本書で第1作に繋がる絶望への足掛かりを付けるのが何とも痛々しい。 そして本書では第1作の主人公カンナミ・ユーヒチと草薙水素の邂逅が語られる。この2人のシーンは実に意味深でしかもまた官能的でもある。 それは草薙水素の産んだ子こそがこのカンナミ・ユーヒチだからではないか。草薙はカンナミに妙な繋がりを感じ、思わず口づけをするが、それは男と女という感情ではなく、親が子を愛する慈しみの感情、母性ゆえだからだろう。 また本書では上司の甲斐の心情も大いに語られる。前作の後半で出てきた彼女は草薙の精神的支柱となっている。 若い女性でありながら本社の上層部との調整役を担っている彼女は男性社会の中で女性というハンディを感じ、悔しい思いを抱きながら、今に見ていろの精神でのし上がってきたことを述べる。そしてエースパイロットとして徐々に一介の戦闘機乗りから指揮官への道を歩まされる草薙に対し同じ女性として良き理解者であろうとする。 ティーチャとの戦闘が不満足に終わり、怒りに明け暮れている草薙を甲斐は悔しかったら人より高いところに上がるしかないと諭す。そしてやりたくないことを強いられた連中を見返してやればいい、と。 これはある意味真実で、ある意味誤りだ。なぜなら草薙は逆に上に上がりたくなく、このままずっと戦闘機に乗り、戦いたいのだから。会社の中で上に上がることを諭した甲斐は草薙から自由を奪っていくことを促したのとさえ云えるだろう。大人と子供の世界の齟齬がここには表れている。 また私がいつも不思議だと思うのはどうして飛行機乗りでもないこの作家がこれほどまでに戦闘機乗りの心情や飛行シーンをパイロットの皮膚感覚で描写できるのかということだ。 よほど綿密な取材をされたのか、はたまた知り合いに自衛隊のパイロットがいるのか解らないが、まさに“それ”を知っているものでないと書けない叙述だ。 そして最たるのは飛行シーン、戦闘シーン。それらの描写で短文と改行を多用し、ページの上半分のみを文字で埋めた書き方だ。 前作、前々作の感想でも述べているがそれがまさに読んでいるこちらが主人公と共に戦闘機に乗っている感覚が得られる。しかもその内容は実に専門的で実際のところ、どんな技術が行われ、どんな風に飛んでいるのかはマニア含め、その道に通じている者にしか十分に理解できないはずなのに、なぜか頭の中にその一部始終が映像として浮かぶのだ。この筆致はまさに稀有。 Down To Heaven。 天は上るものであるのに草薙水素にとって天は墜ちていく先に辿り着くところであるらしい。本書の表紙の色グレイは草薙が墜ちていく空の雲の色を指す。戦闘機乗りの草薙が死ぬべきところは地上ではなく空。空に墜ちて死ぬことこそが本望。 しかしその時の空は雲に覆われた灰色の空で希望はない。希望が無くなった時に墜ちる空は灰色。空を泳ぎ(スカイ・クロラ)、全き空の只中(ナ・バ・テア)に辿り着き、そしてそこへと墜ちていく(ダウン・ツ・ヘヴン)。 草薙水素が絶望に明け暮れる序章の巻。その時が訪れるまで草薙水素よ、ただただ楽しく飛び続けてほしい。 |
No.32 | 8点 | ZOKU- 森博嗣 | 2019/02/03 22:53 |
---|---|---|---|
さてこれは森版『ヤッターマン』とも呼ぶべき作品か。
犯罪にまでには至らない被害の小さな、しかし見過ごすには大きすぎる悪戯を仕掛けるZOKUとそんな悪戯に真面目に抵抗し、阻止せんと追いかけるTAI。 それは「ヤッターマン」における、ドロンボー一味とヤッターマンを観ているかのようだった。 さてそんな「まじめにふまじめ」を行うZOKUのメンバーは、黒幕の黒古葉善蔵にロミ・品川、ケン・十河、バーブ・斉藤で構成されており、プライベートジェットを根城としている。 一方「ふまじめをまじめ」に阻止しようとするTAIは白い機関車を基地にしており、木曽川大安を所長に、揖斐純弥、永良野乃、庄内承子が主要メンバーである。 木曽川と黒古葉はお互い実に親しい幼馴染でいがみ合っていない。寧ろ顔を合わせた時にはお互い談笑する仲だ。昔から悪戯好きだった黒古葉とそれを真面目な木曽川が少年時代から尻ぬぐいしてきた仲である。つまりこれは2人の大富豪が日本全国を舞台に繰り広げる壮大なお遊びなのだ。 一大財を成し、遊ぶお金と自由な時間を手に入れた2人が始めたのは日本全国を巻き込んだ正義と悪の対決ごっこ。こんなワンアイデアから生まれた本書は稚気に満ちていて実に愉しい読書の時間を提供してくれた。 そして作中に出てきたZOKUの数々の悪戯は恐らく森氏が日ごろから想像している「やってみたら面白い事」の数々であるに違いない。大人になって出来なくなったこれらの悪戯、いや大人にならないとできないが実際やれば逮捕されてしまうから出来ない悪戯を森氏はZOKUの面々に託したのだろう。 幸いにしてこの後もシリーズは続き、この憎めない輩たちと再会する機会があるようだ。次作を愉しみに待つとしよう。 |
No.31 | 7点 | 虚空の逆マトリクス- 森博嗣 | 2019/01/20 22:31 |
---|---|---|---|
私は遅れてきた森作品の読者だが、逆に今だからこそ書かれている内容が理解できるものがある。そう、森作品に盛り込まれているIT技術は刊行当時最先端のものだからだ。
それが電脳世界を舞台にした1作目の「トロイの木馬」。 この作品は島田荘司氏が21世紀初頭に当時生え抜きのミステリ作家たち数名に新たな世界の本格ミステリ作品を著すとの呼びかけにて編まれたアンソロジー『21世紀本格』に収録された作品で、システムエンジニアを主人公とした物語だが、一読、これが2002年に書かれたものであることに驚愕を覚えた。 ここに書かれている在宅勤務による電脳世界―この用語ももはや死語と化しているが―を介しての仕事、ネットワークトラップである「トロイの木馬」のこと、更には小型端末と表現されたモバイル機器と16年後の今読んでも全く違和感を覚えない現代性がある。いやむしろ発表当時に読んでも全く何を書いているのか解らなかったのかもしれない。IT社会として情報化が進み、タブレットやスマートフォンが流布した現代だからこそ理解できる内容だ。 長編が非常にクールかつドライで一定の距離感を持った、理系人間が書く論文めいた作風であるのに対し、短編は幻想的かつ抒情的でセンチメンタリズムを感じさせる、文学趣味が横溢した作風と趣が異なっているのが特徴だ。 長編が左脳で書かれた作品とすれば短編は右脳で書かれた作品とでも云おうか。そしてどこか非常に森氏の日常や感情が短編には多く投影されているように思える。いわゆる森氏の人間的エキスが色濃く反映されているように思えるのだ。 またどこまで本気なのか解らないが内容にそぐわないタイトルである「ゲームの国」は『今夜はパラシュート博物館へ』にも同題の物があり、それは森作品のタイトルのアナグラムが横溢していた。 そして今回は回文。つまりタイトルのゲームの国とは恐らく言葉のゲームに親しむ作者自身の稚気を優先した作品世界そのものを指しているようだ。 そして何よりもボーナストラックとも云うべきはS&Mシリーズの「いつ入れ替わった?」だ。 本作では引っ付いては離れ、または平行線を辿るかと思えば、接近していくが寸前のところで決して接しない反比例の双曲線とX軸、Y軸のような2人の関係に進展が、それも大きな進展が見られる。 シリーズ本編の最終作で肩透かしを食らった感のある読者は本作を必ず読むことをお勧めする。 さて本書のベストを挙げるとすれば「赤いドレスのメアリィ」となるか。何とも云えない抒情性を私は森氏の短編に期待しているが、それに見事に応えてくれた作品である。 人を待つ。何ともシンプルな行為だが、これほど孤独を感じさせる行為もない。しかもその行為が長ければ長いほど人はその人の待ち人に対する思いの深さを思い知らされる。数多あるこの種の作品がいつも胸を打つのは待っている人の想いの深さが計り知れないがゆえに感銘を打つからだ。そして本作もまた同じだ。 やがて人に忘れられる町の片隅の神話。そんな物語だ。 恐らくはシリーズファンにしてみれば「いつ入れ替わった?」は渇望感を満たす1編になるだろうが、やはり私は西之園萌絵にそれほど好意的ではないのでベストとまでには至らない。 しかし全てを明かさないスタイルは本書も健在。 読者はただ単純に読んでいると本書に隠された謎や真意、真相が見えなくなっている。もしかしたら私がまだ気づいていない仕掛けがあるのかもしれない。作者のこの不親切さはある意味ミステリを読む姿勢が正される思いがして、うかうか気が抜けない。 読者もまた試されている。そういう意味では森氏の短編集は問題集のようなものになるかもしれない。 |
No.30 | 7点 | ナ・バ・テア- 森博嗣 | 2018/08/03 23:50 |
---|---|---|---|
この『スカイ・クロラシリーズ』、前作同様、端的な描写と独特の浮遊感を湛えた文章で紡がれる。それはクサナギの一人称を通じた戦闘機乗りの、そしてキルドレという特殊な人間の思いだ。その思いは断片的で、実に恣意的だ。つまりこのシリーズはミステリではなく、ジャンル的には純文学に近い。
中心となって描かれるのはクサナギが任務に就いている時の戦闘シーン。短文と改行を多用し、極力無駄を配したリズミカルな文章で紡がれるそれは、数ページに亘り、ページの上部のみに文字が集約され、そして短文であるがために下部が白紙であることで、さながら文章自体が空の雲と空を飛ぶ様子を表しているような感覚を与え、読者が実際に空を飛び、そしてクサナギの感じるGすらも体感するように思える。 また戦闘機乗りの独特の死生観も実に興味深い。 彼らは相手と戦うために飛ぶ。そして実際に相手を撃墜して還ってくる。そのまた逆も然り。 しかしそれが彼らの仕事であり、人生であると悟っている。命を賭けた仕事という重い職責を負いながらも死と生とは切り離し、純粋に飛行機に乗って戦うことをゲームのように楽しんでいる。ゲームに敗れて死ぬことは任務を、与えられた人生を全うしたことであり、だから飛行機に乗らない人たちになぜ死ぬかもしれないのに戦闘機に乗るのか、怖くないのか、なぜ戦うのか、相手を撃墜することに躊躇いはないのかと、いわゆる一般的な生殺与奪の観点で職務について問い質されること、そして撃墜した死んだことに対して可哀想だと同情されることを嫌う。 自分たちはやるべきことをやって死んだのだからこれほど幸せなことはないと誇りを持っているのだ。唯一残る悔いは相手よりも自分が未熟であったという事実を突きつけられること。命を賭けた勝負の世界に生きる戦闘機乗りの心情とは本当にこのような物なのだろう。 時間軸で云えば2作目の本書は過去へと向かっている。ミステリが既に起きてしまった事柄の謎を探る、つまり過去に遡る物語であることを考えれば、第1作は序章だ。 私は文庫版で読んだがその橙一色に染め上げられた表紙は恐らく黄昏時の空を示しているのかもしれない。恐らく草薙水素が絶望に暮れる夜に至る前の物語だという意味が込められての色なのか。 夕暮れ時はどこか切なく哀しい思いにさせられるが、本書の中の草薙水素はまだ元気だ。None but Air。空以外何もない。今日も草薙水素は空を飛ぶ。絶望に明け暮れるその日が来るまで。 |
No.29 | 7点 | 赤緑黒白- 森博嗣 | 2018/07/15 23:25 |
---|---|---|---|
&Mシリーズでもシリーズ1作目の犯人が最終作で再登場したように、このVシリーズでも同様の趣向が採られている。
保呂草潤平に成りすました殺人鬼、秋野秀和が拘置所の中で瀬在丸紅子と面談するのだ。この辺は『羊たちの沈黙』のレクター博士とクラリスの面会シーンを思わせる。 私は今回の真犯人は予測していたので特に驚かなかった。しかしそれでもあの文字トリックには気付かなかった。この辺の文字トリックは森氏は実に巧い。 この犯行動機、ミステリならば納得のいかない物だろう。しかしこの現代社会においては実に多い動機だ。 誰でもいいから殺したかった。 むしゃくしゃしていたから誰か殺そうと思った。 人を殺して驚かせてやろうと思った。 昨今の犯罪の動機は上のような稚拙の動機がいかに多い事か。何度もこのような理不尽な理由で殺人が行われている報道を耳にする。ストレス社会と云われる現代社会の闇。逆にこのドライさ、単純さ、無邪気さを森作品ではミステリに敢えて取り込んでいるように思う。 ミステリのようにいつも理由があって、意外な動機があって人を殺すわけでなく、案外人を殺すのは至極単純な理由でしょ?そんな風に森氏が片目をつぶってニヤリとする顔が目に浮かぶようである。 本書でも保呂草による関根朔太の初期の作品≪幼い友人≫の盗難事件がサイドストーリーとして出てくる。その方法はサイドストーリーというほどには勿体ないくらい凝っており、むしろメインの殺人事件よりも緻密である。 また本書は人を殺す、罪を犯すことについてそれぞれの人物が深い考えを述べているのもまた興味深かった。 さて哀しいかな、瀬在丸紅子、保呂草潤平、小鳥遊練無、香具山紫子ら楽しい面々ともこれでお別れである。S&Mシリーズでもそうだったがシリーズの幕切れとは思えないほどただの延長線上に過ぎないような締め括りであるが、一応それぞれの関係に終わりはある。 保呂草は自分の紅子への思いを清算するため、潔く紅子の許を離れる意味でもあった。最後に彼は紅子にかしづき、手に口づけをするが、これはまさに『カリオストロの城』でのルパンとクラリスを思わせ、ニヤリとしてしまった(そういえば上に挙げた『羊たちの沈黙』のヒロインの名前もクラリスだった。森氏はこの名前に、いやこの2人のヒロインに何か特別な思い入れがあるのだろうか?)。 しかし最後に謎の人物も登場したりと逆に謎が深まる様相を呈している。 新たな謎を残してVシリーズ、これにて閉幕。 |
No.28 | 8点 | 朽ちる散る落ちる- 森博嗣 | 2018/06/12 21:23 |
---|---|---|---|
シリーズのセミファイナルとなる本書では7作目に舞台となった土井超音波研究所が再び物語の舞台となる。従って付された平面図は『六人の超音波科学者』同様、土井超音波研究所のそれとなっている。2作で同じ平面図を使うミステリは私にとっては初めての経験だ。
今回の謎は飛び切りである。 まず研究所の地下室に二重に施錠された部屋から死体が見つかる。どちらも船室で使われる密閉性の高い中央にハンドルのついた重厚な鉄扉で、最初の扉は内側からフックのついた鎖で止められ、外側からは解錠できないようになっている。次の扉は床にあり、開けると昇降設備がなく、梯子か何か上り下りできるものがないと降りられず、更に入る部屋からしか閉めることが出来ない。その床下の部屋に白骨化した死体が横たわり、その死体は何か強い衝撃で叩きのめされたかのように周囲には血が飛び散っている。 さらに1年4ヶ月前にNASAの人工衛星の中で男女4人が殺される密室殺人が起きる。男3人は小型の矢のような物で無数に刺され、女性は絞殺されていた。 しかもこの人工衛星の密室殺人事件と研究所の地下の密室事件には関係があるという、島田荘司氏ばりの奇想が繰り広げられる。 起伏が激しく、そして謎めいた物語。それぞれの謎はある意味解かれ、ある意味解かれないままに終わる。 更に私が感嘆したのは前々作『六人の超音波科学者』の舞台となった土井超音波研究所が本書のトリックに実に有効に働いていることだ。いやはや同じ館で異なる事件を扱うなんて、森氏の発想は我々の斜め上を行っている。 そしてシリーズの過去作に纏わると云えば小鳥遊練無が初登場したVシリーズ幕開け前の短編「気さくなお人形、19歳」でのエピソードを忘れてはならない。『六人の超音波科学者』も纐纈老人との交流が元でパーティに小鳥遊練無は招待されたが、本書では更に纐纈老人との交流が物語の背景として密接に絡んでくる。読んだ当時はただの典型的な人生の皮肉のような話のように思えたが、練無が代役を務めた纐纈苑子、即ち藤井苑子が本書でテロリストのシンパで妻となって登場することで全くこの短編の帯びる色合いが変わってくる。もう一度読むと当時は気付かなかった不穏さに気付くかもしれない。 本書では奇跡的な偶然が示唆されている。それはやはり小鳥遊練無が纐纈苑子に酷似していたことだ。彼女と彼が似ていたからこそ、全ては始まったのだ。シリーズが始まる前のエピソードから全てが始まったのだ。 さてとうとうVシリーズも残り1作となった。S&Mシリーズの時には全く感じなかったのだが、このシリーズに登場する面々は実に愛らしく、別れ難い。もっと続いてほしいくらいだ。 |
No.27 | 7点 | 迷宮百年の睡魔- 森博嗣 | 2018/02/27 23:40 |
---|---|---|---|
エンジニアリング・ライタのサエバ・ミチルと相棒のウォーカロン、ロイディの2人がルナティック・シティに続いて訪れるのは周囲を海に囲まれた巨大な建造物からなる島イル・サン・ジャック。そう、もうお分かりであろう、フランスのモン・サン・ミシェルをモデルにした島が物語の舞台である。
本書の時代設定は2114年。前作は2113年だったからルナティック・シティの事件から1年後の話となる。既にクロン技術も確立され、ウォーカロンというアンドロイドが一般的に導入され、労働力にもなっている森氏による近未来ファンタジー小説の意匠を纏ったミステリである本書はその世界そのものに謎が多く散りばめられている。 以下大いにネタバレ! 永遠の生を与えることが最大の奉仕と思っていた女王。しかし与えられたものは感じたのは永遠の命を持っていることの恐ろしさ。その恐怖が彼を死を魅力的だと思うようになった。従って彼は死を選び、その瞬間、なんとも云い難い爽快感を得た。それは永遠の命という鎖から解き放たれた解放感と云えるだろう。人は押しなべて永遠に生きることを選ぶとは限らないのだ。 この生き方、死に様から本書はサルトルの「実存主義」について語ったミステリであると云えるだろう。作り物の躰を借りて頭脳だけの存在になった物は果たして存在していると云えるのだろうか?本来人間は実存が先にあり、そして本質を自分の手で選び取っていかなければならないとされていたのに、実存さえもないのに、本質を自分の手で選び取っていくのは果たしてどこに存在があるというのか? 存在しながらも非在であるというジレンマがここにはある。 それは既に人間というデータであり存在ではない。しかしウォーカロンという器で現実世界に存在している。それは今や貨幣からウェブ上での数字でやり取りされる金銭と同じような感覚である。お金として存在はするのに実存せずとも数字というデータで取引が出来、そして実際に現物が手に入る。この電脳空間で実物性がない中で実物が手元に入る感覚の不思議さを森氏はこのシリーズで投げ掛けているように思える。 金銭でさえもはや数字というデータでやり取りされ、成立するならばもはや人間も頭脳さえ維持されれば個人の意識というデータで生き、そして躰はウォーカロンという器でいくらでも取り換えが利くようになる。それは人間が手に入れた永遠だ。しかしそこに存在はあるのか。その人は実在しているのか?そのジレンマを象徴しているのがサエバ・ミチルであり、そして本書の登場したイル・サン・ジャックの人々なのだ。 2018年現在、人工知能の開発はかなりの進展をしており、かつては人間が勝っていた人工知能と将棋の対戦も人間側が勝てなくなっている。そして人間型ロボットの開発もかなり進歩しており、見た目には人間と変わらない物も出てきている。更に人工知能の発達により今後10~20年で人間の仕事の約半分は機械に取って代わられると予見されている。 2003年に発表された本書は既に15年後の未来を見据えた内容、描写が見受けられ、読みながらハッとするところが多々あった。特に本書に登場する警察は人間の警官はカイリス1人であり、その他の部下はウォーカロンである。このようにいつもながら森氏の先見性には驚かされる。 そしてこの世界ではもはや人間は働く必要はないほどエネルギーは充足している。つまりもはや人間の存在意義や価値はないといっていいだろう。永遠なる退屈と虚無を手に入れた人間は果たしてどこに向かうのか?ユートピアを描きながらもその実ディストピアである未来の空虚さをこのシリーズでは語っている。 森氏の著作に『夢・出逢い・魔性』というのがある。これは即ち「夢で逢いましょう」を文字ったタイトルでもある。また日本の歌にはこのような歌詞のあるものもある。 “夢でもし逢えたら素敵なことね。貴方に逢えるまで眠りに就きたい” メグツシュカが作り出したイル・サン・ジャックに住まう人々は永い夢の中で生きる人々なのかもしれない。彼らはそんな夢の中で永遠の安息と変わりない日々、つまりは安定を得て、日々を暮らし、そこに充足を感じている。それがメグツシュカが描いた理想のコミュニティであれば、なんと平和とは退屈なものなのだろうか。 無敵と化した人間の実存性を手に入れた代償が永遠なる退屈と虚無であり、そしてそのことを悟った人間の選択が自殺であったという実に皮肉な真相だった。 |
No.26 | 7点 | 捩れ屋敷の利鈍- 森博嗣 | 2018/01/25 22:52 |
---|---|---|---|
Vシリーズもいよいよ終盤に差し掛かり、とうとうS&Mシリーズの西之園萌絵と国枝桃子が登場する、2つのシリーズが一堂に会することになった。その記念的作品が第8作の本書。そしてこのVシリーズに仕掛けられた大きな謎について仄めかされる、森氏としても大いに踏み込んだ作品だ。
本書で最も目を惹くのはなんといってもメビウスの輪を巨大なコンクリート構造物として作った棙れ屋敷だろう。36の4メートルの部屋で区切られた全長150メートルにも及ぶ棙れ屋敷。しかもそれぞれ部屋は傾いて作られ、折り返し地点の部屋は床が左の壁となる90度傾いた構造となっている。更にそれらはドアで繋がっており、入ってきたドアが施錠されると他方のドアが解錠される仕組み、つまり必ず1つのドアが各々の部屋で施錠されている状態になる。そんなパズルめいた趣向を凝らした屋敷で事件が起こらぬはずがない。 そしてもう1つは何の変哲もないログハウスでの密室殺人。しかもそこで殺された熊野御堂譲氏は「この謎を解いてみろ」と発見者に挑戦状を叩きつけているくらいだ。 しかし色々と惑わせてくれる森氏である。この保呂草潤平が今回偽る名前は1作目に保呂草潤平と称して登場した殺人犯の名前である。そして近くの刑務所から殺人犯が脱走したことがニュースで報じられている。冒頭の保呂草による独白めいたプロローグが無ければ今回の保呂草はいつもの保呂草なのかそれとも1作目の保呂草、秋野秀和なのか、惑わされてしまう。これもシリーズに隠されたある謎を知らなければ素直に保呂草の茶目っ気と受け止めるのだが、知っていることが逆に不穏さを誘うのだ。特に今回の保呂草の行動が案外いかがわしく、そして危険な香りを漂わせているだけに。 しかしこうやって読み終わってみると森氏にとって密室トリックや犯人やらは本当に些末なことであることが解る。エンジェル・マヌーヴァ掠奪の顛末は実にスリリングだが、柱に埋め込まれた美術品の持ち出し方法は案外拍子抜けするほどの内容だ。 つまり本書で語りたかった、もしくは読者に仕掛けたかった、もしくは明かしたかった謎は別のところにあるのだ。 たった250ページ強のシリーズ中最も短い長編である本書を最後まで読んだ時、森氏がこのシリーズに仕掛けられた大きな謎について大いに踏み込んだことが解る。 実は私は既読者によってネタバレされているのでその驚愕を味わえない不幸な人間なのだが―頼むから森博嗣ファンの方々、そういうネタバレは止めましょうね―、逆にそれを知っていることで本書が実に注意深く書かれていることに思わずほくそ笑んでしまった。 まずこの棙れ屋敷が愛知県警管轄外の岐阜県にあること。 今回なぜ小鳥遊練無と香具山紫子たちは出ずに保呂草と瀬在丸紅子だけなのか? そしてなぜ瀬在丸紅子は西之園萌絵を知っているのか、いや西之園家を知っているのか? それはあと残り2作となったシリーズ作で明らかにされることだろう。保呂草によって綴られたエピローグに書かれた驚愕の事実。それが解るのももうすぐである―だからネタバレは止めようね、森博嗣ファンの方々―。 |
No.25 | 2点 | 工学部・水柿助教授の日常- 森博嗣 | 2017/12/20 23:58 |
---|---|---|---|
5話を通じて思うのは本書は森氏による、ちょっとしたミステリ風味を加えた自伝的小説なのか(これは反語表現である)。某国立大学工学部建築学科の水柿助教授はそのまま森氏に当て嵌まりそうな人物像である。
何しろ専門が建築材料であり、模型工作を趣味とし、読書とイラストを趣味にしている奥さん須磨子さんがおり、更に後々ミステリ作家になってデビューすることまでが1話目から語られるのだ。これほど作者自身と類似した設定の人物は他にないのではないか。そして話が進むごとにミステリ風味も薄まり、どんどん水柿君と森氏が同化していく。 つまり本書は自分の教授生活の周囲で起きる出来事や見聞きしたエピソードの類を盛り込み、時々それらのエピソードに日常の謎系ミステリの味付けを加えた小説なのだ。 しかしその内容は、思いつくまま気の向くまま、取り留めのない日々雑感と云った趣で、建築学科の助教授水柿君の日常に起こっていることにミステリの種は結構あるんじゃないの?と書き連ねている体の話である。 しかしその傾向は正直第2話までで、第3話からはどんどん内容が水柿君の内側に、過去のエピソードに潜っていく。それらはミステリでは無くなり、本当に水柿助教授の日常話になってくるのだ。それは作者も確信的で最終話ではミステリィと見せかけてどんどんミステリィ風味を薄めていく、そういう「どんでん返し」を仕掛けていると述べている。 そして作中作者は事あるごとに「これは小説だ」、「これはフィクションだ」と述べているが、嘘つきが「嘘はついていない」というのと同様の信憑性しかない(と作者自身も書いていたような)。つまり本当のことを語りつつ、それらの中には未だ事項になっていない軽犯罪、微罪、そして重犯罪になり得る危うさを孕んでいるからこそ、そのように作り話だと主張しているようにも取れる。その割に固有名詞が多く、イニシャルもほとんど本当の場所が特定できるほど安易な物であるのだが。そのあまりの自由闊達ぶりに正直苦情など来ていないのだろうかと思ったり。特に津市に関する記述はここまでこき下ろして大丈夫なのだろうかと無用の心配すらしてしまう。 やはりこれは水柿君の日常としながら、これらは全て同じN大学の建築学科の教授である作者自身が経験した助手、助教授時代に経験した大学生活の思い出話、エピソード集なのだろう。従って水柿君の日常は「すべてが森になる」のだ。 |
No.24 | 7点 | 六人の超音波科学者- 森博嗣 | 2017/08/07 23:27 |
---|---|---|---|
Vシリーズ7作目の舞台は奥深い山中にある怪しい研究所。しかもそこにアクセスする橋は何者かによって爆破され、電話線も断ち切られ、外部への連絡も遮断された状態となる、まさに陸の孤島物ミステリ。更にその研究所の創設者は不治の病に侵され、仮面を被り、車椅子に乗ってそこにあるボタンでコミュニケーションを交わす老人と本格ミステリのガジェットに包まれた作品だ。そして例によって例の如くそんな閉鎖された空間で起きる殺人事件にお馴染みの瀬在丸紅子と保呂草潤平、小鳥遊練無と香具山紫子の面々が挑む。
ところで本書に読んでいるとある違和感に気付く人がいるのではないかと思われる。本書はある意味シリーズ全体に仕掛けられた仕組みが暗に仄めかされていることで実はマストリードの1冊なのかもしれない。 今にして思えばこの土井超音波研究所はデビュー作で登場する真賀田研究所の原型だったのかもしれない。共に自分たちの研究に没頭する科学者たちの楽園であるが、前者は相続という実に詰まらない問題でそれを手放さなければならなくなった砂上の楼閣であったのに対し、後者は大天才真賀田四季によって潤沢な資金によって支えられた理想の楽園となった。 超音波の分野で天才の名を恣にした土井博士は真賀田四季のプロトタイプだったと考えてもおかしくはないだろう。 なぜならプロローグで保呂草は次のように結んでいる。 未来は過去を映す鏡だ。 心配する者はいつか後悔するだろう。 自分が生まれ変わるなんて信じている奴にかぎって、ちっとも死なない。 もしかしたら土井博士は真賀田四季の××かもしれない。そんな想像をして愉しむのもまた森ミステリの醍醐味の1つだろう。 |
No.23 | 7点 | スカイ・クロラ- 森博嗣 | 2017/07/12 23:13 |
---|---|---|---|
何処とも知れない、しかし世界のどこかであることは間違いない場所でいつの頃なのかも解らない時代を舞台にいつも以上に仄めかしが多い文章で、世界観を理解する説明めいた文章はなく、主人公カンナミ・ユーヒチの一人称叙述で物語は断片的に淡々と進んでいく。
その内容はまさに空を飛んでいるかのように掴みどころがない。それぞれが何か秘密を抱えているようだが、カンナミ・ユーヒチの一人称叙述で進むこの作品では全てが雲を掴んでいるかのようになかなか手応えが感じられない。それは主人公のカンナミをはじめ各登場人物たちがあまり人に関心を持たない性格だからだ。戦時下の前線にいるパイロットや整備士などにとって今いる仲間はいつ死んでもおかしくない、つまり今日は逢えても明日は逢えるか解らない境遇であるため、他人と距離を置き、ほどほどに付き合う程度の人間関係を構築しないからだろう。だからカンナミが色々質問しても「それを知って何になる?」と云わんばかりに沈黙で応える。しかし日数が経つと次第に打ち解けて断片的に自分のことや他人のこと、そして過去のことが断片的に語られていく。まあ、現代の人間関係と非常に似通っていてある意味リアルでもあるのだが。 そんな独特の浮遊感を持ちながら進む作品はしかし、カンナミたちが飛行機に乗って空を飛ぶとたちまち澄み渡る空の青さと雲の白さとそして眩しい太陽の日差しの下で自由闊達に躍動する飛行機たちの姿とカンナミ・ユーヒチが機体と一体になって空を飛ぶ描写が瑞々しいほど色鮮やかに浮かび上がる。そして敵と相見える空中戦ではコンマ秒単位に研ぎ澄まされた時間と空間把握能力が研ぎ澄まされた皮膚感覚を通じて語られる。それは人の生き死にを扱っているのになんとも美しく、空中でのオペラを奏でているようだ。飛行機乗りでしか表現できないようなこの解放感と無敵感をなぜ森氏がこれほどまでに鮮やかに描写できるのか、不思議でならない。 淡々と進む物語は随所にそんな美しい飛行戦をアクセントに挟みながら、カンナミ・ユーヒチの日常と彼の仲間たちの日常、そして変化が語られ、そして徐々に物語が形を表していく。 カンナミの前任者クリタ・ジンロウは果たして本当に上司の草薙水素が殺したのか?カンナミ、そして草薙が属するキルドレとは一体何なのか? 地面から5センチほど宙に浮いたような感覚で読み進めた本書だったが、最後になってどうにかその世界へと着陸することが叶った。森氏が開いた新たな物語世界。次作からじっくり読み進めていくことにしよう。 |
No.22 | 7点 | 恋恋蓮歩の演習- 森博嗣 | 2017/06/12 00:55 |
---|---|---|---|
豪華客船の上で起こる密室での人間消失と絵画盗難。ただ人間消失事件は正直必要か?と思った次第。
以下大いにネタバレ。 まず絵の所有者を部屋から出すためならば話があると持ち掛けさせてカフェテリアで拘束してもらうなどすればいいだけである。スキャンダルについても目的の男を呼び出したら自室で襲われたと見せかけるなどの他の方法もあったはずだ。 何しろ殺人事件となれば警察が介入して事が大事になるのにもかかわらず絵画の略奪を計画しているところにわざわざ警察を介入させる意味が解らない。絵が盗まれただけであれば警察もわざわざヘリコプターまで投入せずに次の停泊地である宮崎で警察が乗り込んでくるだけだろう。事を荒立てずにスマートに盗みを済ませてほしいと依頼した割には逆に大騒ぎになるような略奪計画である。実際船内は人が落ちたことで大騒ぎしているし。 また海に注意を向けるためにわざわざ海に落とすというのも詭弁である。船の中で人が見つからない、もしくは物が見つからないとなるとすぐに海に落ちた、落としたのではと思いつくのは当然である。海に何かが落ちなかったら船の中だけで考えると云うのはかなり無理な論理ではないだろうか。 さて今回は今まで道化役でしかなかった香具山紫子にスポットが当てられる。しかしてっきり香具山紫子のシンデレラ・ストーリーになるかと思いきや、さにあらず、やはり小鳥遊練無と瀬在丸紅子のマイペースに翻弄されて結局いつも役割に。「マイ・フェア・レディ」になり損ねた紫子が報われる日はいつ来るのか。それともずっとこのままなのだろうか。「わたしの人生っていったいなんやろ」と一人気落ちせずに頑張れ、紫子! ミステリとしては標準並みの謎の難易度で全てではなくとも謎の一部は私にも途中で解ってしまうほどの物だったが、今回は事件の謎よりも物語の謎、いや保呂草という男の行動こそがメインの謎だったように思う。 この考えの読めない探偵兼泥棒の、常に客観的に物事を冷静に見つめ、目的のためには人を利用することも全く厭わない(その最たる犠牲者が香具山紫子なのだが)、あまり好感の持てない人物だが、彼の信念というか、信条が本書では意外な形で明らかになる。 常に計画的打算的に行動する保呂草自身の本当の心情は不明だが、恐らく本書でそれまで保呂草嫌いだった読者の彼に対する評価はそれまでよりも大なり小なり好感を増したのではないだろうか。実際私はそうなのだが。 ところで題名『恋恋蓮歩の演習』とはどういった意味だろうか?まず目につくのは「演習」の文字。これは前作で保呂草が盗み出すように依頼された幻の美術品「エンジェル・マヌーヴァ(天使の演習)」から想起されるのは当然だし、登場人物も各務亜樹良と関根朔太と共通していることからも繋がりを連想させる。 一方「恋恋蓮歩」という四文字。これは森氏独特のフレーズで造語かと思ったら実は「恋恋」は「思いを断ち切れず執着すること」、「恋い慕って思い切れない様」、「執着して未練がましい様」という意味で、一方の「蓮歩」は「美人の艶やかな歩み」という意味らしい。 この2つの単語を繋げたのは森氏の言葉に対する独特のセンスなのだが、つまり「恋恋蓮歩の演習」は「恋い慕って思いが募る女性が行う艶やかな歩く練習」ということになる。う~ん、そうなるとこれはやはり大笛梨絵、瀬在丸紅子ではなく、今回保呂草の計画に一役買った香具山紫子を表した題名になるのだろうか。 しかし一方で英題“A Sea Of Deceit”は“偽りの海”という意味。邦題と英題を兼ね合わせる人物はとなると大笛梨絵になるだろうか。いずれにしても色んな解釈ができる題名ではある。 最後に読み終わった後に保呂草自身のプロローグに戻ると、文字に書かれた時点で現実から乖離し、全ては虚構となる、そして全てが書かれているわけではなく、敢えて書かないで隠された事実もあるし、今回はその時点における意識をそのままの形で記述することを避けるとも謳われている。森作品、特にこのシリーズにおいてこの「書かれていること全てが本当とは限らない」というメッセージが通底しているように思われる。それはやはり保呂草潤平という謎多き人物がメインを務めているからかもしれない。 それはつまり、自分の直感を信じて読めばおのずと真実が見えてくるとも告げているように思える。ただ読むだけでなく、頭を使いなさい、と。だからこそ森ミステリには敢えて答えを云わない謎が散りばめられているのかもしれない。それこそが現実なのだからだ、と。 |
No.21 | 2点 | 墜ちていく僕たち- 森博嗣 | 2016/12/23 23:53 |
---|---|---|---|
連作短編集のような体裁を持った短編集だが、共通しているのは食べると性別が入れ替わるという不思議な効用のあるインスタントラーメンというアイテムだけだ。ただだからといって男女のジェンダーの在り様とかそもそも男とは?女とは?といった大上段に構えたような性差論が繰り広げられるわけではなく、全て当事者の一人称叙述で森氏独特のくだらない独り言のような話し方で物語の顛末が語られる。
正直なんだかよく解らないと云うのが率直な感想だ。 なんだかよく解らないと云うのは結末はあるもののそこにオチが特段あるわけではない。ヤマ無し、オチ無し、意味無しの三拍子揃った「やおい本」なのだ。 中で一つ気になったのは「どうしようもない私たち」の最後の一行だ。これは全国の和子さんに失礼だろう。謝罪すべきだ。 これをまた商業ベースで出した集英社もまたスゴイ。ということはそれを買った私もまたスゴイということか。 タイトル同様、墜ちきるところまで墜ちたのが本書なのか。ここまで墜ちれば、後は浮上するのみである。次作以降に期待しよう。 |
No.20 | 4点 | 今夜はパラシュート博物館へ- 森博嗣 | 2016/11/30 23:45 |
---|---|---|---|
第1、第2短編集では長編では見られない抒情性が豊かで実に私好みの話が多く、俄然期待値が高まったこの第3短編集の内容はしかし抒情性は薄まり、どちらかというと解る人以外には全く解らないミステリの仕掛けが尖鋭化してきているようだ。
物語のメインの謎よりも聡い読者しか気づかない仕掛けに力点が一層置かれており、ますます森氏独特のミステリ趣味が特化してきており、気づかない読者は置いてけぼりを食らってしまうのだ。 それらについては後に述べるとして、私の期待に応えてくれたのが「卒業文集」であり、「素敵な模型屋さん」だ。 「素敵な模型屋さん」は趣味を持つ者が誰しも抱く願望を描いた美しい作品。最後に夢のような模型屋に出くわした少年自身が模型屋の老主人になるところは実に心温まる。 また小学生の作文で構成された実験的な作品である「卒業文集」がなかったら本書の評価はかなり下がっただろう。素朴でかつサプライズに満ちたこの作品がなかったらもっと評価は下がっていた。 以下、蛇足めいたネタバレ。 例えば小鳥遊練無が登場する「ぶるぶる人形にうってつけの夜」では3つの大学棟の平面図が付されているが、これが実はアルファベットになっており、それを繋げると…。 個人的に最も嫌いな「ゲームの国」は虫暮部さんご指摘のように各所にアナグラムが隠されている。 さらに「恋之坂ナイトグライド」は出逢ったばかりの男女の夜中のランデヴーのお話のように思えるが、実は主人公たちは鳥だったというオチ。 これらはウェブで調べれば識者が教えてくれるが、本書では全く明かされず、解らない人は未来永劫そのままだろう。 このような仕掛けを面白いと思うか否かは読者次第だろうが、私はそこまで付き合っていられないので、次の短編集への期待が下がってしまった。 |
No.19 | 7点 | 魔剣天翔- 森博嗣 | 2016/11/22 23:46 |
---|---|---|---|
正体不明の美術専門窃盗犯であった保呂草潤平に危機が訪れるのが面白い。
また本書ではサブストーリーとして小鳥遊練無の恋にも触れられている。 今回は女装をせずに物語に登場する。憧れの存在の前では逆にその行為が恥ずかしくてできないということなのだろうかと思っていたが、最後にやはりそれは彼女に成長した自分を見せたかったこと、そして冒頭の会話のシーンから察するとやはり彼女の前では一人の男でありたかった、関根杏奈を恋人として迎える一人前の男になったことを見せたかったのだろう。 物語後半で明かされる関根朔太と西崎勇輝、そして関根杏奈出生の秘密は非常にオーソドックスな真相だろう。 名もない女性の持つ人生の覚悟の前に保呂草は屈する。 関根杏奈がスカイ・ボルトは人の命を奪うほど価値があるものなのかという祖父江七夏の問いに対して頷き、その後にこのように云う。 「人の命なんて、大したものではない。命をかけるものが、あるからこそ、人は生きているんです」 この言葉はそのまま彼女の母親の生き様に繋がる。自身の人生を捨て、命を関根朔太の作品を描き続けることが彼女にとって自分の命よりも大事だったことなのだ。奇しくも2人は同じ覚悟を持って人生を生きていることに気付かされる。ここに2人の強い絆を感じた。 そんな背景が明らかになっていく本書の全く不可思議な事件の真相は航空ショーのように実にアクロバティックだった。たった2人しか入ることの出来ない飛行機のコクピットという極限的に狭い密室殺人でこのようなすっきりとした解答が得られる森氏のミステリスピリットは非常に素晴らしいと思うのだが、また今回も犯人の動機が不明なまま終わるのが不完全燃焼でがっかりである。 多分森氏が「人が人を殺す理由は他人には到底わかるものではないから敢えて書かない」というスタンスを崩さない限り、私は彼の作品を高く評価することはしないだろう。前にも書いたがそれは我々が生きる社会の中では至極当たり前であるが、せめて作り物の物語の中くらいははっきり答えが出てもいいではないかと思うからだ。割り切れない世の中を生きているからこそ答えのある世界を欲しているのだ。 さて本書の隠されたテーマは全ての章題に付せられた「形」というキーワードか。森氏はエッセイでも述べているように無類の飛行機好きでその形に機能美を超えた美しさを感じているようだ。その心情は本書のプロローグで遺憾なく開陳されているが、本書では飛行機の形だけでなく、家族の形、過去の形、友人たちの形と人と人を繋いで形成されるものを指しているのではないだろうか。保呂草が冒頭に述べる多少の演出を交えた形が本書の物語であり、最後に瀬在丸紅子の笑顔を求める形と述べている。つまりそれらの形がその人の生き様を、人生を作る。即ち人生とは形の集合体であるということだろうか。 そうであるならばまだ形は変わっていく。今回の形はこの事件が起きた時の形だ。シリーズが最終作に至る時、どんな形を描くのだろうか。その形こそがこのシリーズの最大のミステリなのかもしれない。 |
No.18 | 7点 | 夢・出逢い・魔性- 森博嗣 | 2016/09/28 23:51 |
---|---|---|---|
舞台がテレビ局というのも非日常的であり、一行が那古野を離れて東京で事件に携わるのも新味があり、なかなか面白い。彼らが宿泊するビジネスホテルの描写など何気ないところに妙にリアルな雰囲気があって、共感してしまう。
しかし物語の展開にはかなり違和感を覚えた。特に事件に乗り出す警視庁の人間が紅子に色々と事件の内容を明かすことが実におかしい。紅子が人の警戒心を解く笑顔を武器に色々と話を聞くのだが、捜査上の秘密を素人にペラペラと話さないことは今では一般読者でも知っていることだろう。そこを作者は「紅子に対面すると男性は妙に素直になる傾向にある」と全く説得力のない答弁で逃げている。 更に事件の関係者であり最有力の容疑者である立花亜裕美が小鳥遊練無と共に車で建物から出るのを知っていながら見過ごしていることも実におかしい。普通ならば血眼になって2人の行方を捜すのではないか。そういう緊迫感が警察の口調からは感じられない。この傾向はずっと続き、さらにエスカレートして紅子が望むままに事件関係者たちに逢わせたりと非現実的な昔の推理小説を読んでいるかのような錯覚を受ける。 それはそのまま踏襲され、警察一同集めての推理シーンまでもが演出されるのだが、その謎解きシーンはいつになく派手だ。なんとクイズ番組収録中に真相に辿り着いた紅子がそのまま犯人まで明かすのだ。そこから出演者、司会者、テレビスタッフ、そして刑事の前で紅子の推理が開陳される。 かつて川柳に「名探偵 みなを集めて さてと云い」というほど事件関係者を集めて推理を披露するのは本格ミステリでは定番なのだが、本書では実に聴衆の多い謎解きシーンとなった。番組出演者が32名だから、少なくとも50人近くはいることになる。またこのような場で推理を臆面もなく披露する紅子もらしいと云えば実にらしい。 しかし今回の物語は実にシンプルというか森氏にしては真っ当なミステリであった。小鳥遊練無が容疑者と失踪し、そしてそのために犯人に狙われるというツイストはあったものの、メインの殺人事件が本編の謎の中心であった構成は実に珍しい。なぜならば森ミステリではメインの事件よりもサブとなる謎の方に大きなサプライズがあるからだ。例えば本書では保呂草の他に稲沢真澄という探偵が出てくる。このダブル探偵という設定ゆえに何かサプライズがあるのではないかと思っていたが、実に普通であった。いや実際は叙述トリックを色々仕掛けていたのだが。 そうそう、副産物として今回初めて瀬在丸紅子のイニシャルが明かされる。このシリーズがなぜVシリーズなのかが初めて明らかになる。 さて本書のタイトルは『封印再度 Who Inside』に次いで日本語と英語の読み方が同一のタイトルである。しかし『封印再度』とは異なり、あまりダブルミーニングの妙は本書では感じられなかった。確かに題名の通り夢とショーで殺されるという趣向は含まれているのだが、あまりインパクトがなかったように感じた。 しかし今回は阿漕荘メンバー東京出張編ということもあって紅子と犬猿の仲である祖父江七夏と元婚約者で刑事の林が登場しなかったこともあり、男女の痴情のもつれというドロドロした一面がなかったのがよかった。それ故に瀬在丸紅子、小鳥遊練無、香具山紫子、保呂草潤平たちの活躍に余計な騒音がなくて愉しめた。特に小鳥遊練無は大活躍である。そして最後に美味しいところは瀬在丸紅子がかっさらっていく。可哀想なのは香具山紫子だ。今回も三枚目に甘んじている。彼女が一番凡人であるがゆえにどうにか報われてほしいと思うのだが。 |
No.17 | 4点 | 女王の百年密室- 森博嗣 | 2016/08/08 00:01 |
---|---|---|---|
森氏独特の価値観が横溢したルナティック・シティの文化や価値観は我々の社会とは一線を画し、非常に興味深いものがある。
この、完全に支配されたシステムを敢えて壊したくなるという衝動は一連の森ミステリの共通項だろう。先に読んだ『そして二人だけになった』も全く同じ動機だった。完璧だからこそ壊し甲斐があり、また完璧の物が壊れる姿もまた完璧に美しいものだと思っていたのかもしれない。 思えば森氏は閉鎖された特殊空間で起きる事件を主に扱っていた。デビュー作の『すべてはFになる』然り、またその作品から始まるS&Mシリーズでも大学の研究室や実験室というこれもまたいわばそれを研究する者にとって恣意的に作られた空間である。 『有限と微小のパン』に出てくるユーロパークもまたそうであり、さらに『そして二人だけになった』のアンカレイジもそうだろう。しかしそれらはまだどこか現代と地続きであったのだが、とうとう本書では2113年という未来を設定し、中国とチベットの辺りにある完全に秩序化されたルナティック・シティという世界を作り上げてミステリに仕上げた。これぞ森氏が望んでいた箱庭だったのだろう。そしてこのルナティック・シティはまだまだこれから出てくる森氏が神として作り出した世界のほんの足掛かりに過ぎないことだろう。 『笑わない数学者』で犀川が「人類史上最大のトリック……?(それは、人々に神がいると信じさせたことだ)」と呟いたが、まさしく森氏は自身が神になることで最大のトリックを考案しようとしたのではないだろうか。 閉鎖空間、秩序、システム、そして崩壊が森ミステリの共通キーワードと云えよう。 あとはそれに読者がフィットするか否か。私はややピースとして当て嵌まらないようだった。しかしそれもまた慣れるかもしれない。次の作品に期待しよう。 |
No.16 | 3点 | そして二人だけになった- 森博嗣 | 2016/07/26 23:35 |
---|---|---|---|
閉鎖空間で1人、また1人と殺される、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』に代表される典型的な“嵐の山荘物”だ。
しかも登場人物は主人公を含め、たった6人。しかも主人公2人以外は全536ページ中327ページ辺りで殺害されるという展開の速さ。正直残り200ぺージも残してどんな展開になるのかと変な心配をしたくらいだ。 そしてさらに388ページ目で外界への脱出に成功する。正直ここからの展開は全く以て読者の予想のつかないところに物語は進む。 橋という両岸を繋ぐ構造物の特性に着眼したトリックを読んだときは「おっ!」と思ったものの、それだけの労力を費やすことに疑問を持ち、さらに意外な真相が明らかになるにつれて、どんどん評価が下がっていった作品だ。 とにかく矛盾だらけだし、今までの話はいったい何だったんだと腹を立ててしまった。 また死体の手に握られていた木、粘土、煉瓦、モルタル、金属、そして金と銀で作られたボールに込められたミッシング・リンクも気を持たせた割には正直「それで?」といったものであるし。 全てがすっきり解決しないのが森ミステリの特徴であるが、動機、真相ともに実にすっきりしない作品だったことは非常に残念。他の作品で森氏はミステリを舐めていると痛烈に批判する感想を目にしたが、本書はとうとう私にそう感じさせた作品として苦く記憶に残るものとなった。 |
No.15 | 7点 | 月は幽咽のデバイス- 森博嗣 | 2016/06/22 00:46 |
---|---|---|---|
またもや事件は密室殺人(ホント好きだねぇ)。鍵の掛けられた部オーディオ・ルームでの殺人である。
このオーディオ・ルームが周囲の建物と構造が切り離されているのが通常の密室と違うところだ。音の振動を壁に伝えない、つまり完全に防音するために別構造としているのだが、建築に携わる私は解るものの、素人にこの内容が十分伝わっているだろうか?簡単な図解があれば理解がしやすいと思うのだが。 本書では物語のガジェットとして月夜のヴァンパイアやオオカミ男が現れる屋敷といったオカルティックな噂がかけられているものの、物語のテイストは全くそのような雰囲気とは無縁でいつもの雰囲気。決しておどろおどろしいものではない。読中は正直何のためのガジェットなのか解らなかったが、真相を読むとこれこそが森氏なりのミスリードであることが解る。 このオーディオ・ルームのトリックはいわゆる密室物で禁じ手とされる抜け穴や隠し通路と同じで個人的にはいただけない。建築の分野では確かに実現されているのだろうが、非常に特殊な構造であり、一般的でないし、そこにロジックは介在しない。森氏はあまり事件とは直接的に関係のない零れた水を上下する部屋の手掛かりとして示したのかもしれないが、かえって目くらましになったようだ。 作者のエッセイを読むと解るがいわゆる熱心な本格ミステリファンではない。 従って彼はいわゆる本格ミステリのお約束事に頓着せず、自身の専門分野の視点からミステリを考える。そして殺人の動機に頓着しないのも、結局人の心なんて解らないし、人間の行動や事象全てのことに意味を持たせることが愚かであると自覚的であるからだ。 それは確かに私も同感なのだが、現実社会がそうであるからこそ、ロジックで物語が収まるべくところに収まる美しさをせめてミステリの世界で読みたいのだ。それが読書の愉悦であるというのが持論なのだが、森氏はどうもそこに創作の目的を持たないようだ。 従って本書でもいくつかの疑問は不明のまま物語は終わる。また大きな獣の正体もはっきりと読者には示されない。そしてオオカミ男の真相は明らかにされたものの、冒頭に出た月夜のヴァンパイアについても不明である。ミステリとしては片手落ちも甚だしい幕引きである。 さらに加えていただけないのは小鳥遊練無達一行が飲酒運転をするシーンだ。これは今ならば校正で一発で撥ねられるだろう。理由として非常事態、すなわち「小事にこだわりて大事を怠るな」と云っているが、作中人物とはいえ、こういうことをさせる作者の倫理観に大いに問題がある。またこのまま内容を修正せずに出版した講談社の倫理観もいかがなものかと甚だ疑問である。版を重ねる際はぜひとも修正願いたい。 |
No.14 | 7点 | 人形式モナリザ- 森博嗣 | 2016/05/24 12:32 |
---|---|---|---|
ちょびっとネタバレ気味です。
メインの殺人事件の真犯人は思った通りだった。もはや王道のミスディレクションが今回の事件のトリックで非常に解りやすい(まあ、最後の一行もあるが)。 しかし森ミステリのもはや定番ともいうべきか、本筋の殺人事件の真相には驚きがなく、むしろサブストーリーの謎やガジェットの真相の方に実は大きなサプライズがあるが、本書も例外ではなかった。 なんとシリーズ2作目でもこんな仕掛けを用意しているとは思わず、窃盗犯の正体にはひっくりコケてしまった。 あと最後のモナリザについては解ってしまったが、このような仕掛けの写真が出回っている今だからこそなのかもしれず、当時としては斬新だったのかもしれない。 さてこのVシリーズ、S&Mシリーズと違い、男女の恋のもつれ合いが前面に押し出されている。前シリーズでは西之園萌絵が准教授の犀川にアピールするものの、犀川が知らぬふりをしてさらりとかわす一方で、萌絵のピンチになると命を擲ってでも彼女を救おうとするギャップがファンには受けていたが、このシリーズでは主人公の瀬在丸紅子に離婚歴があり、その元夫林は愛知県警の刑事でダンディーな風貌で女性にもて、結婚中に部下の女性刑事と愛人関係にあったというドロドロとした愛憎劇が底流に含まれている。 かてて加えて本書の登場人物の岩崎家も乙女文楽の創始者岩崎雅代の夫の家族と彼女が愛人だった彫刻家江尻駿火との間に生まれた子供たちの家族とが混在している奇妙な関係性がある。つまり通常の家族の形とは違ういびつな関係の人々が物語を形成しているのだ。 瀬在丸紅子というどこか浮世離れしたシングルマザーという特異なキャラクターに、謎めいた探偵保呂草潤平に紅子の元夫で刑事の林とどこか善人とは云いきれない怪しい魅力に満ちた登場人物が主役であることで実際何が起こるか解らないミステリアスな雰囲気に満ちている。それを中和するのが小鳥遊練無と香具山紫子のコミカルな2人。実に面白いバランスで成り立っている。 あらゆる意味で先行きが興味津々なこのシリーズ。次作も非常に愉しみだ。 |