皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
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猫サーカスさん |
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平均点: 6.19点 | 書評数: 419件 |
No.339 | 5点 | 魔王- 伊坂幸太郎 | 2023/01/09 18:29 |
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念じたことを他人に喋らせることが出来る、という特殊な能力を身につけた兄が語り手である表題作「魔王」、弟の恋人が語り手である「呼吸」、そのどちらにも一貫して、憲法第九条の改正や、ファシズムについての議論が繰り返し出てくるが、あとがきには「それはテーマではない」と作者自身が明記している。確かにこの小説は、そうした物事への問題提起に終始しているわけではない。何かもっと大きなものに向かって開かれているし、憲法改正が是か非かというような単純な小説ではない。警告でもないし、社会批判でもない。作者は憲法改正や国民投票と真正面に向き合いながら、この国に生きていること、それがどういうことであるのかを誠実に切り取ったのだろう。時代は少しずつ変化している。私たちはその変化に気づかずにそれに順応していく。この小説に登場する兄も弟も、それに全身で抵抗しているように思える。気づかぬうちに順応されてたまるかと。得体の知れない不気味さを味あわせつつ、抜けるような澄んだ空をも垣間見せる不思議な小説。 |
No.338 | 5点 | 出署せず- 安東能明 | 2023/01/09 18:29 |
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警官の不正行為「折れた刃」、ひき逃げ事件の真相「逃亡者」、保護司が犯した殺人の深淵「息子殺し」、証拠の保管問題を巡る「夜の王」、五年前の女性店員失踪事件の再捜査「出署せず」の五編が収録されている。表題作は、二百ページを超える長さで、別の事件を重ね予想外の展開をたどる。物語の興趣が深いのは、刑事たちの使命と矜持と職務が絡まり、複雑な倫理があらわになるからだ。柴崎は警視庁で出世の階段をのぼっていたが、部下の拳銃自殺の責任を取る形で綾瀬署に左遷された。しかも今度は、年下の三十六歳の女性官僚・坂元真紀が署長に着任し、情け容赦のない決定を下す。反発を覚える現場の刑事たち。両者の要請に応え、刑務課課長代理の柴崎は悩みながら捜査をする。地味だが力強く読ませる。大きなどんでん返しはないが、小さな意外性と捻りがある。男の困難な職務が充分に描かれ、感情移入を優しくしてくれる。 |
No.337 | 6点 | 特捜部Q アサドの祈り- ユッシ・エーズラ・オールスン | 2022/12/16 18:37 |
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デンマークのコペンハーゲン警察に設置された特捜部Qは、未解決の重大事件を専門に扱う部署。シリーズの特色は、デンマーク社会の暗部や暗い過去が投影された事件、その割に重苦しくない雰囲気、非常にスピーディーな捜査の進行と事件の解決、脇役の活躍と彼らと取り巻く謎などにある。本作では脇役のアサドが実質的な主人公となる。アサドとはいったい何者なのかという疑問はずっと続いてきたが、ついに本作ではその謎が明らかになる。キプロスで遭難したシリア難民の写真が報道されたことを契機にアサド自身の壮絶な過去をめぐる戦い、離れ離れとなっていた家族を守る戦いが始まる。同時並行的に進行する別の殺人予告事件の捜査とアサド対テロリストの戦いが交錯しながら、すさまじいスピードで物語は進行する。本シリーズに活劇場面は珍しくないが、本作終盤のそれは圧巻だあろう。 |
No.336 | 5点 | 博士を殺した数式- ノヴァ・ジェイコブス | 2022/12/16 18:37 |
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主人公の自殺した祖父である天才数学者が遺した「最後の方程式」を探し求める暗号謎解きミステリ。殺人が起こり、犯人も見つかり、動機も明かされる。そういう意味では確かにミステリの様式には従っているが、あくまで本作の主眼は「方程式」を探すこと。すなわち数学の世界を舞台にした「宝探し」である。宝探しの過程で主人公やセヴリー家の人々のコンプレックスやわだかまりが解消されていき、宝物の発見と同時に自分の人生において本当に大事なものを発見する。作者が用意した偉大すぎる祖父の最後の贈り物の形はチャーミングだ。 |
No.335 | 8点 | 天国への階段- 白川道 | 2022/11/28 18:44 |
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美しい牧場、恋人、家族、何もかも失った主人公が、暗い闇の中でつかんだ金銭を武器に復讐するといったストーリー。普通こうした復讐のミステリは、その動機や復讐の手段は、どちらかが隠されているものだが、この作品は最初から両方分かってしまう。この作品の牽引力は別のところにある。主人公が埋没しそうなほど、重要な登場人物がみるみる増えていくのも異様。ページをめくるにしたがって、この数多い人物たちが実はそれぞれ自分たち個々の復讐のために生きていることが分かる。Aの知っていることはBは知らない、Bの知っていることはCは知らない、その代わりCはAの知らないことを知っている。ここから生まれるサスペンスがストーリーの牽引力となっている。登場人物が皆、バージョンアップして人生の高いところに昇っていく。この感覚がこのミステリをとても気持ちの良いものにしている。 |
No.334 | 5点 | 誰か Somebody- 宮部みゆき | 2022/11/11 18:40 |
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今多コンツェルン会長の個人運転手・梶田が不慮の死を遂げた。犯人を見つけたいと願う梶田の娘たちは、父親の一代記を出版し、世間の注目を集めようとする。編集者の杉村は、義父である今多会長の依頼により、彼女たちに協力することに。しかし姉娘の聡美は、父親の過去を掘り起こすことで、忌まわしい事実が明らかになるのではとおびえていた。彼女を安心させるためにも、杉村は梶田の過去の調査を開始するのだが。本書はかなり地味な印象であり、特に前半の展開は淡々としている。杉村の立場は決して特殊なものではない。良かれと思ってやったことが、かえって非難の的となった経験は、たぶん誰にでもあるに違いない。本書のラストはそんな普遍性がある。真実を知ろうとする探索が、平穏な見せかけの裏に隠されていた醜いものを暴きたててしまう場合もある。最終的に明かされる作品のテーマ自体は、そんなに目新しくはない。しかし、古典的なテーマをいかに巧みにさばくかが作家の腕の見せ所なのだということを改めて教えてくれる。 |
No.333 | 8点 | 永遠の仔- 天童荒太 | 2022/10/30 18:15 |
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霧に包まれた霧峰を一人の少女が登ってゆくところから始まる。少女には、まるでそれを守護するように二人の少年が付き添っている。三人はアダルト・チルドレン、親の虐待を受けて心を病んだ子供たちである。三人は少女の父親を殺そうとしているのだ。十七年後、三人はそれぞれ看護師、弁護士、刑事となって再会する。そしてあたかも審判のように事件が起こる。本当に父を殺したのか、なぜ父を殺そうとしたのか、これから起こるすべてを破滅させる雷火のような事件とは何か。少年と少女たちが収容されている「動物園」と呼ばれる治療施設での生活と十七年後をカットバックしながら、現代の地獄めぐりのストーリーは圧倒的な力で迫ってくる。それは人間がどうしてもそこから逃れられない親子・兄弟姉妹の絆という根源的なものが小説の強固な軸となっているからだ。救済はないが、素晴らしく感動的な個所がいくつもある。 |
No.332 | 5点 | N- 道尾秀介 | 2022/10/13 18:04 |
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全六章で構成された物語の最初には、奇妙な注意書きが置かれている。このページをめくると、各章の冒頭部分だけが書かれています。そこから読みたい章へと自由に移動し、読み終わったら一覧に戻り、再び次に読む章を選んでくださいと。順番は実に720通りもある。文章が逆向きに印刷されているのは奇数章。本を上下逆さに持つことになり、少し戸惑う。野球少年、ペット探偵、警察官、退職した元教師。舞台はやがて日本の港町からアイルランドに移り、喪失の痛みを抱える者たちの人生が交錯していく。「日本の港町からアイルランドへと移り」と書いたが、読む順番によっては「アイルランドから日本の港町へと移り」となる。ある人物の秘密が後に明かされる展開もきっと、順番によっては意外な人物が脇役として再登場する展開に変じる。物語を読むとは本来、能動的な営みだ。物語は人が読むときにだけ立ち上がり、そこで描かれた風景や語られた言葉をどう解釈するのかは、全て読み手に委ねられている。だからこそ、作者と読者の密やかで豊かなコミュニケーションが生じ得る。そんな読書の本質に、はたと思い至る。たどり着く先にあるのは光あふれる希望か、ほの暗い後悔か。立ち現れてくる自分だけの物語を味わえる。 |
No.331 | 6点 | 本と鍵の季節- 米澤穂信 | 2022/10/13 18:04 |
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主人公の堀川次郎は高校二年生の図書委員。相棒は同じく図書委員で皮肉屋の松倉詩門。利用者の少ない図書室で暇を持て余す二人のもとに舞い込む厄介事や頼まれた事が、連作短編の形で綴られる。この謎解きが実に多彩で、開かずの金庫に挑戦する「913」は暗号ミステリ。美容師の一言から思わぬ事実が導き出される「ロックオンロッカー」。テスト問題を盗んだ疑いを掛けられた生徒を助ける「金曜に彼は何をしたのか」はアリバイもの。自殺した先輩が最後に読んだ本を知りたいという「ない本」は、証言から真相に到達する安楽椅子探偵もの。収録されている謎解きは趣向こそ違えど、第二話以外はすべて何かを「探す」話である。それは高校生という、何かを探して足搔く年頃のメタファのように思える。本書は、今の自分では出せない結論を、それでも懸命に探す若者の物語なのだ。若い世代にはもちろん、幅広い世代の人たちに読んでいただきたいほろ苦い青春ミステリ。 |
No.330 | 5点 | 化物園- 恒川光太郎 | 2022/09/28 18:34 |
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この世界には何やら得体のしれぬモノがいて、それに出会ってしまった人間たちの物語ではある。とはいえ、そのことがいわゆる共通した世界観としてあからさまに全作を貫いているのかと問われれば、どこか違和感がある。例えば前半の三篇は、私たちの暮らす「今」を舞台としたホラー作品としてとりあえずは読める。なにせ、空き巣に目覚めた女やひきこもりの男、新興住宅地の「異人」の物語が続くのだ。だが、残酷酷薄な描写にコミカルな味を漂わせたりと、いささかオフビートに「読み」をさらりとかわす。そうした「読み」の違和感をてこに、続く四編で、ここではないどこかへと見事に蹴り飛ばして見せる。戦後だろうか、ある屋敷のお手伝いとして雇われた女の物語があれば、幕末のある村に端を発する物語、あるいはいにしえのアジアを舞台とする物語があり、ちょっとSF的なファンタジックな物語もある。あれよあれよと迷宮じみた異界の夢幻へと連れ去って、そしてそこにはえもいわれぬ通奏低音として「ケショウ」という怪異の存在がある。 |
No.329 | 6点 | 犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎- コニー・ウィリス | 2022/09/16 18:41 |
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タイムトラベルもののSFミステリ。ではあるが、血涌き肉躍る活劇があるわけではない。二〇五七年の英国が舞台。死亡率の極めて高い新型インフルエンザが世界的に大流行して人口は激減し、文明は停滞しているという設定。第二次大戦の空襲で焼失した大聖堂の復元計画があり、それに欠かせないのが聖堂内にあったはずの花瓶なのだが、行方が知れない。主人公のオックスフォード史学科大学院生は、花瓶を求めタイムマシンで十九世紀へと旅する。大半はこのヴィクトリア朝を舞台としたお話に割かれていて、だからどこか歴史小説の趣もある。読んで爽やかなのは、おおらかで落ち着いた時代を、ゆったりとした筆致で描いたことにあるのだろう。恋模様一つとっても、品がよく優しい。もちろん筋書きもなかなかに巧みで楽しめる。 |
No.328 | 5点 | 謎解きはディナーのあとで- 東川篤哉 | 2022/09/01 18:22 |
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世界的大企業の令嬢・宝生麗子に付き従う執事兼運転手の影山が探偵役。収録された六編では、奇妙な死体、密室、ダイイング・メッセージなど、本格ミステリのお約束ともいえる謎が扱われている。ある意味、見慣れたトリックだが、それぞれのトリックに独自のアレンジを加え、ミステリに慣れた読者にも楽しめるように手堅く仕上げている。また、トリックの解明がすぐさま犯人の特定に結び付く話は少ない。むしろ、トリックが判明した後で、影山が別の手掛かりを指摘し、そこから犯人が割り出されていくという流れになることが多い。その際に用いられる手掛かりは、ギャグに見える部分にさりげなく仕込まれており、場合によっては風祭警部の迷惑発言によって引き出されることもある。重要な手掛かりをギャグでカモフラージュしながら、ぬけぬけと提示する手法は作者の真骨頂でしょう。 |
No.327 | 6点 | 原因において自由な物語- 五十嵐律人 | 2022/08/17 18:47 |
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現在から数年先が舞台で、顔の良さを数値化した顔面偏差値を高精度で測定するアプリが存在する世界。本書の重要人物の佐藤琢也は、その数値が低いことを糸口として、学校でいじめられていた。追い詰められた彼は、五階建ての廃病院から飛び降りることを決意する。もう一人の重要人物、二階堂紡季は、人気作家だが、作家生命を左右しかねない重大な秘密を抱えていた。琢也の決意の謎に紡季の秘密が想定外のかたちで融合する。まずはその展開に圧倒される。各自の苦悩に引き寄せられ、それぞれのストーリーが紡季の恋人である弁護士を介して融合する構図に驚愕し、結びついたことで新たに浮かび上がる謎にからめ捕られる。そのうえで、ともすれば不可解に思える行動に走る登場人物たちの心の奥底にある痛みや切なさを知って震撼するとともに、かなり苦い味わいだが、紡季の小説家としての決断を通して、物語という存在の重さ、強さ、そして可能性の大きさを、改めて認識することになる。 |
No.326 | 9点 | 六人の嘘つきな大学生- 浅倉秋成 | 2022/07/31 19:02 |
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就職活動という状況の心理戦と、その先にある意外な真相を描いている。若者に人気のIT企業スピラリンクスの新卒採用、その最終選考に残った六人は、一ヶ月後の選考日に協力して課題に挑むことになると告げられた。内容次第では全員に内定が出される可能性がある。それが一転、採用枠が変更され、内定は一人だけに。そして不穏な告発文が持ち込まれ、議論は不信と不破の渦巻く展開に。六人のチーム形成から選考当日までの間で、徐々にそれぞれの人物像が浮かび上がる。そして密室での心理戦から、歳月が過ぎた後の真相解明の過程が語られる。その中で人物像にさらに意外な側面が加わって、物語そのものが鮮やかな反転を見せる。一人の人間を知ることの難しさというテーマが、就職活動という状況と結びつく。人の心という謎を、精緻なミステリに仕立てている。 |
No.325 | 7点 | ベルリンは晴れているか- 深緑野分 | 2022/07/18 18:25 |
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第二次大戦下のドイツ、つまり「ナチスの時代」をテーマにしたミステリ。戦中戦後の荒廃したベルリンの市街と、そこで必死に生き抜く人々の描写に圧倒的な迫力と臨場感がある。クリストフ殺害の容疑者としてソ連のNKVDの取り調べを受けたアウグステは、捜査を担当する大尉の命令で行方不明になった被害者の甥を捜すことになる。なぜか陽気な泥棒男を道連れに瓦礫の街を奔走する彼女の前に、次々に危険で困難な壁が立ちふさがる。この作品の主たるテーマが、孤独な少女の人捜しと殺人事件の謎の解明にあることは確かだが、読みどころはそれだけにとどまらない。NKVDの大尉はなぜ彼女に人捜しを命じたのか、陽気な泥棒男の正体は何者か、そもそもクリストフは本当に殺されたのか。様々な謎が複雑に交錯して、物語の興趣は最後まで尽きることがない。 |
No.324 | 6点 | 山狩- 笹本稜平 | 2022/07/05 19:10 |
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千葉県の伊予ケ岳という標高336メートルの頂上付近で23歳の女性が転落死する。状況に不審な点があるものの所轄警察署の刑事課は、これを山岳事故として処理した。しかし被害者は以前に、ある男からのストーカー被害を生活安全課に訴え出ていた。県警本部生活安全捜査隊は、ストーカーに起因する殺人事件とにらむが、それでもなお刑事部は事件性を否定する。殺人犯を生安部と妨害する刑事部という図式の中での激しい対立。単なる事件ミステリではなく、生安VS刑事という警察内部の激突は読ませる。生安刑事の会話の中で警察の捜査ミスの例として何度か飛び出す「桶川ストーカー殺人事件」。激しいストーカー被害を受けた女子大生が、「このままでは殺されます。助けてください」と埼玉県警に告訴し、救いを求めたが警察はこれを放置。その結果殺害されてしまったという不祥事だ。当時取材に関わった者として、その教訓が小説の中では生かされているようで感銘を受けた。 |
No.323 | 6点 | ジバク- 山田宗樹 | 2022/06/19 18:43 |
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作者のヒット作「嫌われ松子の一生」の男性版である。主人公は、四十二歳のファンドマネージャー麻生貴志。前作は昭和の女の流転譚だったが、こちらは平成の男の転落譚である。転落のきっかけは同窓会だった。十八の時、自分を振ったミチルと再会したのだ。離婚してスナックを経営する彼女は、店の改装が夢だと言う。貴志は勝ち組である今の自分の力を誇示したい気持ちもあり、夢をかなえてやろうと思いつく。これが自縄自爆の罠となる。脅迫、暴行、離婚、失職、闇社会、潜伏、殺人未遂。普通なら気が滅入るが、ページをめくる手が止まらない。心理描写を排して、出来事で物語を前に進める書き方がいい。出来事には対処するしかなく、対処法には実利がある。本書は珍種の冒険小説だろう。刻一刻と自爆に向かう流され型冒険小説。一見救いがなさそうな最後の一行に共感する。夢中で筋を追わせる直球の魅力。これぞエンタメ小説。 |
No.322 | 5点 | 化け物心中- 蝉谷めぐ実 | 2022/05/29 18:52 |
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六人の役者が台本の前読みに集まった夜。一人が鬼に食われたが、誰が食われたのかは分からない。鬼が役者の誰かに成り代わっているのだ。足を失ったかつての名女形・魚之介と足代わりとなる鳥屋・藤九郎のコンビが隠れた鬼を探り出す。芸に全てを投じる役者たちの執念と弱さ。舞台に立つことのできない魚之助の心中に渦巻く情念。鬼探しを通じて、平凡な生き方からはみ出した者たちの心情が描かれる。鬼の正体を突き止めた先にも異形としての役者の壮絶な生き方が浮かび上がる。鬼気迫る語り口に圧倒される、精神を激しく揺さぶられる物語。 |
No.321 | 6点 | ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ- A・J・フィン | 2022/05/13 18:12 |
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主人公のアナは精神分析医だが、広場恐怖症により外出できなくなり、10カ月も家に引きこもっている。しかも、窓から見える近所の住人を観察し、彼らの出自をネットで調べるというストーカーじみた行動に走っているのだ。ある日、彼女はレンズ越しに向かいの家での殺人を目撃する。ウィリアム・アイリッシュの短編小説を原作とするアルフレッド・ヒッチコック監督の名作「裏窓」を踏まえた設定であることは明らかだ。アナの証言を他の人々は誰も信用しないのだが、アルコール依存症でもある彼女は読者から見ても「信用できない語り手」なので、本当に殺人が起きたのか、それとも彼女の幻覚なのか、容易には判断できない。上巻の後半になってからようやく本格的に事件が起きるので、いくらなんでも気を持たせすぎという印象は否めないものの、現実と妄想の境界線が崩落してゆく後半の展開は、足元にあるはずの地面が崩れ去るような不安に満ちている。「裏窓」を踏まえていることを意識しつつ読めば、真相についてはいくつかの可能性が思い浮かぶだろう。だが、それらの予想を片っ端からなぎ倒すような結末の意外性は衝撃的だ。 |
No.320 | 7点 | 知能犯之罠- 紫金陳 | 2022/05/04 18:24 |
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数理論理学の天才であり、犯罪心理学を修めたアメリカ帰りの男、徐策。彼は今、街路の防犯カメラを欺き、逮捕を免れるはずの「完璧な殺人」のために二週間以上を調査に費やした。犯人は予め明示されている倒叙ミステリのスタイルで、その殺人動機も早い段階で提示されるため、どうやって中国の防犯カメラネットワーク「天網」を欺いたのか、というハウダニットへの興味が物語を牽引することになる。トリック自体は種を明かされれば目新しいものではないが、徐策の壮大な完全犯罪の仕掛けは、中国という国家を舞台にしているからこそ、実現し得るもので非常に興味深い。本作は二〇一二年にネット上の掲示板に連載された作品だが、中国政府の検閲で削除されていないというのが不思議なほど挑発的な作品だ。中国政府の推進する天網を含むAIによる監視システムをいかにして無力化するかという物語であり、かつ公安官僚は悪役として描かれ、彼らの利権に目ざとく保身的な思考回路が描かれている。徐策の殺人動機、そして事件の結末さえも現代の中国の秩序を脅かす挑戦的に思えるのだ。結末を通して見える景色は、中国式とでも言うべき恐るべき物語に仕上がっている。 |