皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
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tider-tigerさん |
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平均点: 6.71点 | 書評数: 369件 |
No.15 | 7点 | リコ兄弟- ジョルジュ・シムノン | 2017/02/24 11:12 |
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作中では組織やらギャングやらと遠回しな表現が使われておりますが、要するにマフィアのオメルタ(沈黙の掟)にまつわる話です。
マフィアのメンバーである三兄弟。うち末弟トニィに裏切りの疑いが持ち上がり、長兄エディは苦悩しつつも組織の命ずるままにトニィを捜す。 ただそれだけの話です。派手な展開はありません。 空さんが本作について以下のように仰っていました。 ~この人(シムノン)、こんな小説も書いていたのかと驚いたことを覚えています。~ ~書き方はいかにもシムノン。~ シムノンには以下のような発言(評者が要約)があります。 『私はまず、こんなことが起こったら、この人物の人生はどうなるのだろうか? と考える。それを見つけるために第一章を書きはじめる。主導権を握るのは登場人物で、私(シムノン)ではない。書いている間はストーリーではなく、登場人物に注意を集中する。ストーリーには興味がない』 シムノンのこうした発言がそのまま体現された作品のように思います。 シムノンの異色作でありながら、同時に典型的なシムノンともいえる面白い(興味深い)作品。 エディがトニィの行方を訊きだすため母親に会いに行く場面がかなり印象的でした。腹を探り合うようなことになってしまった親子の会話には真冬の便座に腰掛ける時のような緊張感があります。母親との場面は以下の文章で締めくくられます。 ~彼には母親の投げた最後の眼差が気になった。~ どんな眼差しであり、なにがどう気になるのかをシムノンははっきり書きません。 本作は抑制された筆致で描かれ、なおかつエンタメ的な盛り上がりに乏しいため、淡々と進んであっさり終わったなと感じる方もいらっしゃるでしょう。ですが、行間に滲む緊張、哀しみ、重苦しさに読んでいてだんだん辛くなってくる、胃が痛くなってくるという方もいらっしゃると思われます。これはもう好みの問題でしょうが、この書き過ぎずに醸す緊張感と悲哀を私は評価します。 次兄の絡ませ方もいい。 掟に縛られたマフィアの一構成員の哀しい人生の断片に焦点を当てた本作とマフィアの世界を壮大なファミリーサーガに仕立てた最上のエンタメ小説『ゴッドファーザー』を読み比べてみるのも面白いかもしれません。私はどちらも素晴らしい作品だと思っておりますが、本サイトでの評価は『ゴッドファーザー』に軍配を上げることにします。 ポケミス版 裏表紙の内容紹介がちょっとピントがずれているように感じました。『非情なギャングの世界で骨肉相喰む三兄弟』などとありましたが、この謳い文句には非常に違和感あります。 |
No.14 | 8点 | ちびの聖者- ジョルジュ・シムノン | 2016/12/18 16:48 |
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私の小説観に照らせば、これぞ小説と言いたくなるような傑作です。
人物描写は名人芸でしょう。少ない言葉で鮮やかに描く。その人をその人たらしめる要素の抽出。シムノンの最高の美点の一つです。 ただ、残念なことに本作はミステリではありません。 本書の大半は貧しい母子家庭の様子が描かれます。この家の末っ子であるルイが主人公であり視点人物です。彼は後に画家になります。 画家になるといっても、天才というわけではなく、いわゆるサクセスストーリーではありません。読者が期待するような筋運びとは言えませんし、一貫したストーリーすらありません。 シムノンは読者ではなく登場人物の意向に気を配りながら書く作家です。 ルイの一家はみんなバラバラで非常に問題のある家庭に思える。けして良い母親とはいえない母親、善人でも悪人でもないが、奔放な女性です。 以下の会話が妙に感動的でした。 「おまえは笑わないね。幸せかい、ルイ?」 「とても幸せだよ、ママ」 「他の家に生まれたほうがよかったんじゃないのか? 足りないものは何もないのかい?」 「ぼくにはママがいる」 彼女はびっくり仰天してルイを見つめたが、その目は輝いている。 「本当に母さんが好きなのかい?」 他の子供たち(他に四人います)の描き分けもいい。 いわゆるいい子はルイくらいで、そのルイにしてもいい子だが、かなり変わった子供です。 ルイは『見る』子供です。その視点は個性的です。野心も欲望もない、ただ周囲をぼんやりと眺めている、頭が悪いのではないかと誤解されてしまうような、そんなルイは才能の有無はともかくとして、性向や興味の方向を考えれば、画家は天職だと納得です。 おそらくシムノンも周囲で起きていることを『よく見ている人』だったのでしょう。彼は画家ではなく、作家になりましたが。 読者が望むような天才エピソードも劇的な展開もありません。 ラストも、え? これでおしまい? って感じ。やはり主人公が画家であるロバート・ネイサンの『ジェニィの肖像』もカタルシスのない話でしたが、まだストーリーはありました。本作は根幹となるストーリーすらない。 それでも、芸術家を描いた作品としてモームの『月と六ペンス』にも比肩しうる傑作だと思っています。ミステリではないので8点としておきます。 ミステリ以外の小説もよく読む方なら本作でシムノンを知るというのもいいかもしれません。 |
No.13 | 6点 | メグレ激怒する- ジョルジュ・シムノン | 2016/10/01 11:48 |
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メグレシリーズ第三期の開始作とのことですが、本作ではメグレは退職して田舎に引っ込んでいます。新たなシリーズの開始作が退職後のメグレ? 当時の読者はどう思ったのでしょうか。
まあそんな状況ですから、メグレは夫人と野菜につく虫のことで口論などしながら呑気に日々を過ごしています。そんなところに一週間前に溺死した孫娘の死を納得できないでいる老婦人がやって来ます。 メグレが「お昼は済ませましたか」と問えば、「食べることばかり考えている人は嫌いです」と返し、メグレの腹をジロッと見る。こういう老婦人です。 メグレ夫人はこの老婦人を「頭のおかしいおばあさん」などと形容しますが、私の言葉に直せば「高慢ちきなクソばばあ」です。ただ、なにかありそうなクソばばあではあります。メグレもなにかを感じたのでしょうか、クソばばあの求めに応じて、というよりは従って、彼女の家に調査に出向きます。すると、なんとしたことか、クソばばあ一族の家長はメグレがあまり好いてはいなかったかつての同級生だったのです。 とある上流家庭のどろどろとした秘密をメグレが探っていくというか、知ってしまう話です。 家族の秘密はかなり暗鬱としたものではありますが、真相を知ったところでメグレにはどうすることもできない性質のものです。法律的に言えば、違法性はあっても(常識的見地から悪いことのように思えても)、構成要件に該当しない(そうした行為を取り締まるための法律がない)。 普通のミステリであれば、孫の死の真相を軸に話が展開しそうなものですが、メグレはそのための捜査をする気はあまりないように見えます。孫娘の死は(シムノンが)メグレをお家騒動の渦中に引っ張りこむための切っ掛けとして使ったように思えます。ただ、捜査はろくにして貰えなかったものの、この孫娘は妙な存在感があります。シムノンは自分の本当の娘をモデルにしているんじゃなかろうかと感じました。 ※解説によれば、この作品が書かれた当時はまだシムノンに娘は生まれていなかったそうです。 なにかが起こる予感がする、ものすごくする、それを見届けるのが今回のメグレの役目です(けっこう嘴を突っ込んでみたりもします)。 サスペンスに分類されておりますが、確かにこれはサスペンスですね。 メグレが呑気に構えているので、サラッと読んでいると緊迫しているようには思えないのですが、再読してその緊迫感に気付いた珍しい作品です。 タイトルの「メグレ激怒する」が、自分にはあまりピンときませんでした。 個人的なハイライトシーン 老婦人がラストでメグレに妙な告白をします。登場人物の一人について自分の本音を告げるのですが、話の脈絡からいってその言葉は唐突であり、プロット上はなんら意味を感じられません。 ただ、この一言で老婦人の人間観というか価値観がくっきりと浮かび上がります。 プロット的には少々不可解なセリフなのですが、この老婦人ならそうであろうと私は非常に納得がいきました。 老婦人に乾杯! くそばばあとか言ってしまってゴメンなさい。 ※私にとってメグレ警視シリーズは「人さまにお薦めできる大好きな作品」と「人さまにはあまりお薦めしないけど大好きな作品」の二種類しかありません。今更ですが、あまり採点する資格のない人間といえましょう。 ただ、いちおうルールとして人さまにお薦めできるものは7点以上、人さまには敢えてお薦めしないものは6点以下にしています。7点以上と6点以下の区分けに関しては可能な限り客観的に、自分の好みは考慮しないようにしております。 なぜこんなことを書いたのかというと、この作品が大好きだからです。すみません。 |
No.12 | 5点 | メグレ間違う- ジョルジュ・シムノン | 2016/06/19 10:27 |
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空さんの仰るとおり、教授が強烈。強烈とはいっても漫画的な誇張などはなく、淡々と描いた結果、強烈になってしまったという風。ぜんぜん好きにはなれない人間ですが、言っていることはあながち間違ってはいないような気もします。作中、献身についてこの人物が意見を述べる場面がありますが、かなり痛烈。本当に頭の良い人っていうのはこんな感じなのかもしれませんね。
タイトルの「間違う」が何を意味するかは読む人によって意見が分かれそうですが、私見では、とある登場人物の行動についてメグレが読み違え、教授に「それみたことか」と嘲笑われる場面のことを指しているのかなという気がしました。 メグレはこの教授にささやかな抵抗を見せますが、今回ばかりは負け犬の遠吠えのように聞こえてしまう。おろおろとするメグレを見ることができる珍しい作品。 個人的にはこの教授に会えただけで一読の価値ありと思いましたが、あえてお薦めはしません。 6/26追記 「俺、間違う」 本作は記憶に頼っての書評でしたので、間違いがありました。 教授が献身についてウンヌンと書きましたが、あれは教授の意見ではなく、教授だったらそんな風に考えるだろうというメグレの想像でした。ただ、確かにあの教授だったら献身についてそんな風に考えるだろうなと思えます。 |
No.11 | 8点 | メグレと殺人者たち- ジョルジュ・シムノン | 2016/06/19 10:26 |
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メグレに電話をかけてきた男は何者かに尾行されていると切羽詰まった口調で助けを求めてきます。メグレは手を差し伸べようとしますが、結局……。彼は誰なのか、どこで殺されたのか、男の正体を明らかにしていく過程はいかにもメグレですが、メグレのちょっとした推理が披露されてミステリっぽさもあります。
被害者の身元や殺害現場が明らかになると、メグレは犯人をおびき寄せるため?にとあることを部下に命じます。日本の警察では、ちょっと考えられないような作戦です(メグレの行動に犯罪行為が含まれているような)。だがしかし、とても楽しそうであります。そして、事件は急展開を見せます。 これ、全体としては少々いびつな感じもありますが(作品の色合いが見えにくい)、個人的にはかなりいい作品だと思っています。メグレものの良さとエンタメ小説の楽しさが同居しております。序盤はいつもの通りゆったり進みますが、事件の構図が見えてくるにつれて展開が早まり、見せ場の多い作品。 派手も地味も含めていい場面がたくさんあるのですが、個人的には犯人が犯行現場に戻って探そうとしていた品物の正体が、なんというか、印象深かった。 また、被害者と妻の関係、夢物語ではなく、妙に現実的で切ない関係が心に残りました。こういうところがメグレものの良さだと自分は思っています。 加害者側、被害者側ともに印象深い人物がいて、宿屋のおっさんのすっとぼけぶりは笑え、ラストも感慨深い(メグレのとある提案に引っかかりを覚える方もいるかも)。 |
No.10 | 6点 | メグレと妻を寝とられた男- ジョルジュ・シムノン | 2016/05/03 11:21 |
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妻と間男を殺してしまいたいとメグレに告白するレオナール・プランション。メグレは彼をなだめて、自分に毎日電話をするよう約束させる。その電話が来なくなって……。
なんというか、もう居たたまれなくなる話です。今まで読んだメグレものの中でもトップクラスの憐れな男。それにしても、メグレものは男を盗られる女の話よりも女を盗られる男の話がやたらと多いように感じるのは気のせいでしょうか。 プランション、妻、娘、間男、従業員と彼らの関係が言葉少なく巧みに綴られていくさまはさすがです。事件はメグレものにしてはわりと手が込んではいますが、まあいつもの通り、読みどころはそこではありません。 事件が決着し、裁判でメグレは証人として法廷に立ちます。 ここでのメグレの発言により、司法関係者の意識の中で事件の構図ががらりと変わってしまいます。事件の本質はそこではないと思いながらも、メグレは自分の役割を放棄することはできません。 人が人を裁くことの難しさをシムノンはいくつかの作品で書いておりますが、この作品にもそうした片鱗が見られます。 「これだから法廷に立つのはイヤなんだ」というメグレの苦み切った呟きが聞こえて来るようなそんな結末でした。 |
No.9 | 6点 | メグレ警視のクリスマス- ジョルジュ・シムノン | 2015/12/25 07:36 |
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もういくつ寝ると、お正月~あれ? 待てよ……そんなわけでお二方の後に続けさせて頂きます。
三篇が収録された独自の編集版とのことですが、私の評価は良い中編と短編(メグレ警視のクリスマス、メグレのパイプ)にまあまあが一つ(溺死人の宿)といったところでしょうか。 メグレ警視のクリスマスについて クリスマスイブ、わけあって叔父夫婦の元に引き取られている少女コレットの部屋にサンタクロースが忍び込んで来て人形をくれます。サンタクロースは人形をくれただけではなく、なにやら怪しい動きも。コレットの養母は事を荒立てたくはないのに話を聞いた近所のおばさんが騒ぎ立てたばかりにとある事件が浮かび上がってきます。 さらに、本作には事件のせいでメグレ夫人の憧憬が掻き立てられるというサイドストーリーも用意されています。 導入部にメグレのこんな心理描写があります。読み直して、さすがだなあと思いました。 ~クリスマスの日には慎重にしなければいけない、言葉に気をつけなければいけない。というのは、メグレ夫人もクリスマスにはいつもより神経過敏であったからだ。 しっ! そのことを考えてはいけない。面倒なことは何も言ってはいけない。これから子供たちが歩道に玩具を持ってあらわれるだろうから、通りをあまり見てはいけない。~ 本作は素晴らしいプレゼントを貰い損なったメグレ夫妻のほろ苦いクリスマスストーリーでもあります。 空さん、miniさんともに子供の印象が薄いと仰ってます。 確かにそうなんですよね。でも、シムノンが子供を描けないなんてことはないと思うのです。「メグレと田舎教師」で子供の心中を息苦しいほどに描いていたりしますし。ただ、シムノンの作品の中でいわゆる子供らしい子供はあまり見たことがないかもしれません。 本作のコレットはユゴーの「ああ無情」に出てくるコゼットを思わせるところがあります。主要人物なのに印象がいまいち薄く、どこか辛気臭いところや境遇など重なるものがあります。 |
No.8 | 8点 | メグレ罠を張る- ジョルジュ・シムノン | 2015/12/09 18:09 |
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女ばかりを狙った連続殺人鬼のせいでパリは恐怖に包まれていた。すでに五人の女が犠牲になっている。メグレは己の進退を賭けて大量の人員を動員、大掛かりな罠を張った。
ハヤカワで文庫化されていたこともあって比較的入手し易かった(現在は?)作品。メグレものの名作の一つだと思います。 ただ、序盤が読みづらいんですよね。 出来ごとを時系列に並べると、連続殺人事件の発生、メグレが犯人像を推測して罠を張ることを漠然と考える、とある精神科医との会話によりメグレが罠を張ることを決意する、罠を張るための下準備をする、となりますが、物語は時系列を崩して罠を張るための下準備の場面から始まります。事件概要の説明からではなく、人物を動かしながら物語に入りたかったのでしょうが、なにが起こっているのかわかりづらいのですよ。 しかも、読者が状況を飲み込んで、さあ、どうなるのかなと思いはじめた矢先に容疑者確保。 臣さんが仰るとおり、もっと内容を厚くして本格的な推理物にすることも可能だったであろう作品ですが、やはりシムノン、読者が期待するような方向には舵を取りません。通常のミステリなら罠を張って犯人を捕らえるまでの過程に重点を置くでしょうに、そこは駆け足で済ませてしまい、メグレが罠を張ろうと決意する切っ掛けやその下準備、犯人を捕らえた後のメグレの独走というか独創というか、などに多く筆を割きます。 精神科医と犯人像について推測し合う場面は興味深く、逮捕した人物と相対して根拠もろくになさそうな推察をぶつけていく場面は非常にスリリング。 作戦が大掛かりなだけに片腕のリュカ、可愛がっているジャンヴィエ、息子のようなラポワント、直属の部下ではないものの目をかけていると同時に扱いにひどく気を遣っているロニョンと、メグレと各々の関係が鮮明に見えるのも面白い。 最後に関係者が集められて火花を散らしますが、犯人が自分の犯行だったと宣言(自白とはニュアンスが異なる)した瞬間、寒気がしました。名場面だと思います。 ※この名場面、グラナダ版ではメグレが発言を促すかのようにその人物を見て、それに呼応してその人物は問題のセリフを吐きました。ところが、原作(日本語訳)では『そのとき沈黙を破って●●の声がした』となっています(原文がどうなっているのか気になりますが)。 つまり、メグレは言葉を発した人間を見ていなかったし、この発言を予期してもいなかったのではないでしょうか。細かいことですが、セリフの意味、ニュアンスが若干変わってしまいます。自分は断然原作を支持します。 一つ気になった点を。 メグレは容疑者に「おまえは法で裁かれることはない。精神病院で残る人生を送ることになる」と断言していますが、この犯人は狭義の精神病(統合失調症や躁鬱病)ではなさそう。だとすると日本だったら心神喪失(無罪)は認められず、せいぜい心神耗弱(有罪)、減刑となるのみではないかと思われます。フランスではどうなんでしょうか。 |
No.7 | 7点 | メグレと深夜の十字路- ジョルジュ・シムノン | 2015/11/30 21:25 |
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メグレが容疑者を尋問しているシーンから物語は始まります。
保険屋のミショネは車を買い換えたばかりでウキウキ。――ウキウキは勝手な想像です――。ところが、その日車庫を覗くと、新車は消えており、代わりに近所に住むデンマーク人カール・アナセンのおんぼろ自動車がそっと置かれていたのです。 ――ミショネは激怒した。―― その頃、おんぼろ自動車の持ち主であるカール・アナセンは逃亡を図っていました。アナセンの車庫には死体入りの新車が置かれています。 そんなわけで、アナセンはすぐに取り押さえられ、冒頭の尋問シーンとなったのです。 ところが、このアナセンが只者ではない。海千山千のアナセンというわけでもなさそうなのに、厳しい尋問にもへこたれず、上品な態度を決して崩さないのです。 メグレはいったんアナセンを釈放することに。 アナ「ありがとう、警視さん」 メグ「いや、どういたしまして」 アナ「私は無実であることを誓います」 メグ「何も誓ってもらわなくてもいいさ!」 謎があり、アクションがあり、意外性もあり、エンタメとしてなかなかの秀作。そのうえ人物造型も非常に良く、シムノンらしさをしっかり保持している。好きな作品です。有名作であり、比較的入手し易いこともあってかシムノン(メグレシリーズ)入門に『男の首』を選ぶ方が多いようですが、個人的にはあれは入門向きではないと思います。じゃあなにが一番いいのかと問われると困りますが、『メグレと深夜の十字路』から入るのも悪くないのでは。 「シムノンは三十を過ぎたら読むといい」なんて言われているようですが、私に関しては当たっていました。 学生時代に読んだ時は「つまらん」と思いました。 三十ちょい前に再挑戦しました。「別に面白くないけど、ちょっといいかも」 さらに数冊読みました。「やっぱりそれほど面白いとは思えないけど、なんか癖になるな」 ついに古本屋で二十冊まとめ買い(絶版だったので古本なのに一冊千円くらいしました)。「これは一粒千円の宝石だ!」と確信、今に至ります。何度読んでも面白い。このサイトで高評価をつけづらい面白さなのが悩ましいのです。 |
No.6 | 6点 | メグレと火曜の朝の訪問者- ジョルジュ・シムノン | 2015/09/26 13:02 |
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とある夫婦が個別にメグレの元を訪れます。
夫は「妻が自分を殺そうとしている」と主張し、妻は「夫は頭がおかしい」と主張します。奇妙なことに二人ともメグレに警護やらなにやらを頼んだりはしない。だが、メグレは一抹の不安を感じて彼らの周辺を調べさせるのだが……事件は本当に起きるのか、どのような事件が起きるのか、意外というほどのことは起こりませんが、なかなかよく考えられている話だと思いました。 ちなみに夫の方がタイトルにある火曜の朝の訪問者であります。 シムノンは精神医学や精神分析にかなり関心があったようで、そうした知識を織り込んだ作品がいくつかあります(『メグレ罠を張る』など)。これもその中の一編です。精神異常者には精神異常者の論理に則った考え方があり、また、彼らは自分の考えを滅多なことでは変えない。 ただ、シムノンは精神医学に興味はあっても、そこにどっぷりと浸かりはしないでうまく距離を保っていたように思われます。 二人の女性が登場しますが、自分はそのうちの一人が大嫌いです。もっとも嫌いなタイプの女性かもしれません。 チャンドラーの『湖中の女』に登場した女性を想起させられました。 彼女らに対するメグレとマーロウの対応の違いが面白い。 「あんたみたいな冷たい女には会ったことがない」(自分の記憶ではこんなセリフでした)マーロウは本人にはっきりこう言いますが、メグレは大人なのでそういうことは言いません。 若い頃はマーロウに拍手したくなりましたが、年を取ったせいか今はメグレの対応の方が正解かなと感じます。まあ、メグレもかなり熱くなっておりましたが。 この冷たい女と対照させるべく もう一人の女性は温かい女?なわけですが、彼女にしても、温かい女というだけで終わらせないあたりはさすがシムノン。 主要登場人物のうち、誰か一人でももう少し違った性格であったり、行動を取っていたならば、もっと幸せな解決があったと思われ、それだけに酷く悲しい事件でした。 ラポワントは本当にメグレを尊敬しているのだなと感じさせて貰えたのが救いか。 |
No.5 | 8点 | 猫- ジョルジュ・シムノン | 2015/08/01 09:08 |
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ミステリでもエンタメでもありませんが、凄い作品でした。こんなつまらない話をここまで読ませる小説に仕上げるなんて。
老境に達してから結婚した夫婦(お互い再婚)が猫を切っ掛けに口をまったく利かなくなり、それでいて相手を支配しようと競い合い、いがみ合いつつも互いに依存している、そんな関係を描いた作品です。 そんな馬鹿なと思えるような登場人物の行動の数々がシムノンの人生経験や洞察力に基づいた巧みな心理描写によってすべて納得させられてしまう。 どこか不気味な緊張感が全編を支配しているのですが、喜劇的な要素を嗅ぎ当てる人もいらっしゃるかもしれません。 シムノンは老人を描くのがうまい。とりわけ老人特有のある種の子供っぽさを描くのが好きみたいですね。メグレシリーズでも印象的な老人が多数登場します――特に『メグレ激怒する』に登場した老婦人は素晴らしかった――。そんなシムノン老人趣味の集大成的な作品です。 |
No.4 | 6点 | メグレと優雅な泥棒- ジョルジュ・シムノン | 2015/02/21 13:47 |
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ブローニュの森で早朝発見された死体はメグレがお世話をしたことのある窃盗犯、キュアンデだった。この変わり者の泥棒の死にメグレはある種の喪失感を覚える。
シムノンお得意の被害者の人間像を掘り下げていく話です。 昔は良かったーと感傷に浸っているおっさん警視が殺害された職人気質の犯罪者に必要以上に感情移入してしまい、(優先するべき強盗事件をおざなりにしてまで)泥棒殺しの犯人を探そうとする話ともいえます。 『とにかく旧知の仲の人間だったみたいに、彼(メグレ)はキュアンデを殺したやつらを個人的に憎んでいた』 この件を読んだとき、へえ珍しいなと思いました。メグレが「犯人を憎んだ」などと明記された作品はあまりないように思います。 空さんの書評にあるとおり、二つの事件が同時進行しますが、その扱いは巧みとはいえません。二つの話が同時進行するのなら、それらがいつしか絡み合って両者にさらなる深みを与えるのが鉄則ですが、この作品では二つの物語は赤の他人のまま。 それから、警察が(メグレが見つけ出した)あの人物の存在に気付いていなかったというのはちょっと無理があるのではないかと思いました。 プロットにしても大した話ではありません。 ですが、シムノンの人物描写はやはり一流です。 他の作家が類型的な人物を配置して流してしまうようなチョイ役にも魅力がある。チョイ役を丁寧に描きこんでいるのではなく、その人をその人たらしめている要素を抽出するのが抜群にうまいので、活き活きとした人物を簡潔に描くことができます。 この作品でいうとキュアンデの母親、娼婦のオルガなど実に味わい深い。 オルガがメグレに「うまくやりなよ!」と言った時に自分は思わず微笑んでしまいました。 キュアンデとあの人物に知り合えて良かったとこの作品を読んで自分は思いました。自分はこの作品は好きです。 とはいっても、これはメグレシリーズの中でもダメな部類ではないかと思うのです。作品の客観的な完成度、ミステリとしての出来など考慮して点数は辛めにしておきます。 |
No.3 | 5点 | メグレの途中下車- ジョルジュ・シムノン | 2014/06/01 13:55 |
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連続殺人や町人同士の対立があったりして異様な雰囲気が醸し出され、ミステリ的な趣があります。が、やはり人間心理や村社会の独特の環境を描くことが主眼のように思えます。
空さんへ もしこれをお読みになるようでしたら、大変感謝していることを伝えたく思います。 >>第6章の最後あたりで「おれはおそろしい」というメグレの台詞が出てくるのですが、これはむしろ「おれは心配だ」ぐらいに訳した方がよさそうです。 これ、メグレがなにを怖がっているのかが長い間わかりませんでした。「おれは心配だ」なら、しっくりときます。すっきりしました! |
No.2 | 5点 | 重罪裁判所のメグレ- ジョルジュ・シムノン | 2014/06/01 13:31 |
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この作品は自分がメグレ警視シリーズをはじめとするシムノンの作品を好きになる切っ掛けとなった作品です。
小説としては7点をつけたい、が、ミステリとしては3点か4点。大好きな作家だけに切ない……。 容疑者はガストン・ムーラン。伯母とその養女(のようなもの。洒落ではなくまだ幼女)を殺害したとして告発されます。 そして、いったん釈放されたムーランはメグレ警視が自分を泳がせていると信じています。自分に食ってかかるムーランにメグレはこんなことを言います。 「私は(君が殺人を犯したのかどうかは)知らんよ。だが、きみがやったのではないとは確信している」 ※この「私は知らない、が、~と信じている」という物言いはメグレ警視の十八番です。 ムーランが犯行を成し遂げるにあたって、子供を巻き添えにする必然性はなかった。ムーランは子供を理由もなく殺すような人間ではない。メグレはこのように考えたのです。 何頁かを割いて二人のやり取りが展開されます。交わされる言葉は平凡ですが、実は奥深く味わい深い。私は魅了されました。 「おまえは子供を殺すような人間ではない、だから、おまえは犯人じゃない」ミステリを期待して読まれた方には???な論理だと思います。メグレはあまり推理はしません。アリバイを崩したりトリックを見破ったりもしません。経験と洞察をもって被害者や加害者の人物像を組み立てていきます。その過程がたまらなく面白いのです。が、これはミステリを読む愉しみとは少し違うかなあと。 シムノンは素晴らしい作家だと思いますが、ミステリとして売るのは間違っているような気がします。 |
No.1 | 7点 | メグレと若い女の死- ジョルジュ・シムノン | 2014/05/26 16:17 |
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パリで若い女性が殺害されます。この女性はどこの誰なんだろう?
こんな風に物語は始まります。 正直なところ、ミステリとして評価するのならこの作品は5点くらいではないかと思っています。ただし、小説としての評価は9点です。なので中間をとって7点とさせて貰いました。 この作品は被害者がどんな人物なのかをメグレ警視が探っていく物語です。犯人はまったく重要視されない奇妙なミステリです。 都会に出てきた若い女性が非業の死を遂げるまでの人生が複数の視点から断片的に語られ、メグレ警視はそれらを取捨選択しながら彼女の人物像を組み立てていきます。そうした作業を一緒に楽しめる方なら、この小説に深い感銘を受けるのではないかと思います。 これは警察小説という枠を利用して描かれた人間の物語です。哀切極まりない物語です。 |