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ミステリの祭典

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Tetchyさんの登録情報
平均点:6.73点 書評数:1603件

プロフィール| 書評

No.1463 8点 罪責の神々
マイクル・コナリー
(2019/08/12 00:41登録)
今回ハラーが扱う事件はアンドレ・ラコースというデジタルポン引きの殺人容疑の弁護で、奇妙なことに彼は殺害された娼婦当人からハラーが優秀な弁護士だと勧められたという。そしてその娼婦の名はジゼル・デリンジャー。
ハラーは全く心当たりがなかったが調べていくうちにかつての依頼人グローリー・デイズことグロリア・デイトンであることが判明する。

コナリーの作品の特徴の大きな1つとして過去の作品の因果が新たな事件に大きな要因として作用してくることが挙げられるが、今回もまたその例に漏れない。
上に書いたようにグロリアの初登場シーンは麻薬所持で起訴をされそうになったところをハラーに助けを求めるシーンだ。つまりグロリアは既に麻薬取締局の手先になっていたことが仄めかされている。この何気ないエピソードの1つでこのような壮大な物語を描くコナリーの着想にまたもや唸らされた。

そればかりでなく、今回は原点回帰であるかのように第1作の登場人物がやたらと出てくる。

一方でこれまでのシリーズで新たに加わったメンバーも更にキャラクターが濃くなり、シリーズとしての醍醐味も増してきた。

そして今回初登場のデイヴィッド・“リーガル”・シーゲルを忘れてはならない。
彼はハラーの父親の弁護士事務所の共同経営者で弁護の戦略を立てていた人物であり、またハラーの弁護士としての師匠でもあった。50年近いキャリアを持つ彼はまさに生きる伝説の弁護士であり、あらゆる手法に精通した人物だ。『スター・ウォーズ』で云うところのヨーダ的存在だ。
老人ホームでチューブを鼻に繋がれ酸素を供給されている状態なので正直彼が今後のシリーズに登場するかは解らないが、ぜひとも次作にも出てほしいキャラクターだ。

コナリーの作品には以前も書いたが3つの大きな要素がある。
1つは警察やその他捜査機関の連中が決して清廉潔白な人物ではなく、彼らもまた犯罪者になりうると謳っていること。
もう1つは娼婦が関わる事件が多い事。
そして最後の1つは過去の作品の因果が大きく作用していることだ。

やはり特徴的なのは1つ目と2つ目だ。
1つ目はこの要素を作品に持ち込んだことでコナリーはいつも我々に驚きと何とも云えない荒廃感漂う読後感を与え続けていることだ。
パターンと云えばパターンだが、これがまた不思議と盲点となり、そして常に苦い気持ちを抱かせてくれる。

もう1つの娼婦についてはボッシュが娼婦の息子であると云う設定から事あるごとに物語に登場する職業だと云っていいだろう。この頻度の高さは正直異常である。
前にも書いたかもしれないが、娼婦という職業を選ばざるを得なかった生活に貧窮した女性たちを描くことと、そんな社会の底辺でも逞しく強かに生きていく彼女たちを描くことでアメリカ社会の現実を知らしめようとしているようにも取れる。

しかし裁判も恐ろしいものだ。
本来悪を罰するために行われる裁きが、弁護士、検事の口八丁手八丁で歪められていく様、また証拠不十分であれば罰せられない現実から、証拠を捏造して狙った獲物を刑務所に送り込もうとする捜査官も存在する。

またそれを隠匿するために麻薬を無実の人の家に忍ばせ、不当逮捕を企む。更には裁判で敗色が濃厚になると他の服役囚に襲わせ、無効化させようとする。

罪を裁くために行われる裁判が高等なロジックの上に成り立ち、また公平さを重んじるあまり、法律や規則にがんじがらめになって罰せられるべき者が罰せられず、無実の人が罪を着せられ、刑務所に送られるようになる。手段が目的となっており、悪を征するために正義が悪を成すと云う本末転倒な社会に、システムになり、そしてそんな危険な思想が横行している。それが現代社会なのだ。

世の中全てが正しく解決されることは限らない。寧ろ現実世界はうやむやになって人々の記憶から忘れ去られる事件ばかりだ。そんな世の中だからこそ我々は答えが出るミステリを読むわけだが、コナリーは実に現実のシビアさを突きつける。
まあ、今日はこれくらいで良しとしようといった具合にはカタルシスを与えるかのように。

さてリンカーン弁護士という非常に特徴的なキャラクター設定で登場したミッキー・ハラーを通じてコナリーは時に弁護士側、検事側、刑事裁判に民事裁判と多面的にアメリカの法曹界を描いてきたが、ここに来てようやくシリーズの本流を刑事裁判に絞ることに決めたようだ。
本書の結びにはかつてのように刑事裁判を続けることへのハラーの疑問や悪を裁く側の検事長への立候補するなどと云った意外な展開、悪く云えばハラーの心情のブレがない。それはやはり本書で初めて無実の人間を救ったことが大きな要因だろう。
そして悪人を釈放することで遠ざかっていた娘の愛情も今回の事件で取り戻し、ハラーは自分の進むべき道を見定めた感がある。最後の決意表明はボッシュ同様に弁護士としての使命感に溢れ、まさに決意表明と云った感がある。

次作はまたボッシュと組んで事件に取り組むようだ。色んな犠牲の上に今の自分があると悟ったハラーの次の活躍が非常に愉しみだ。


No.1462 3点 トミーノッカーズ
スティーヴン・キング
(2019/08/11 00:30登録)
数々のホラー作品、近未来小説、ダークファンタジーを書いてきたキングが今回手を伸ばしたのはSF。なんと地下に埋まっていた空飛ぶ円盤が掘り起こされたことで町が侵略されていく話だ。

しかし題名のトミーノッカーズはそんなSF敵設定とは程遠い内容だ。
キングの前書きによればその名の“トミー”がイギリスの昔の兵士の糧食を指す俗語であることからイギリスの兵卒を指す言葉となっており、トミーノッカーズはそこから食料と救助を求めて壁を叩き続けながら餓死した坑夫の亡霊を指すようだ。その他トンネル掘りの人喰い鬼といった意味もあるようで、いわゆる幽霊とか化け物に類いする怪物を指す言葉であり、空飛ぶ円盤とは全く真逆の物だ。

一方でキングが本書で語るのは宇宙から来た存在が徐々にアメリカの田舎町の住民たちの頭の中に侵入し、意のままに操っていく侵略の恐ろしさだ。

この得体のしれない未知の存在を人々は古来から伝わる亡霊トミーノッ
カーズと名付けた。

SFと亡霊譚という全く真逆なものを結び付けたことがキングのアイデアだろう。

またトミーノッカーズが町の人たちに憑依するとそれぞれの思考が読み取れるようになる。つまりテレパシーで会話が出来るようになる。更にはなぜか次々と歯が抜けていく。彼らはそれを“進化”の過程だと告げる。
人々は抜けた歯を見せるように笑顔を見せる。歯の抜けた人が笑うとき、我々はどこかその人が白痴のように見えてしまう。そしてそれはどこか狂人めいた感じも受ける。この何気ない設定が街の人々が徐々に侵略され、狂人へと変わっていく様子を如実に描いているように思われる。こういう何気ない設定を持ち込むのがキングは抜群に上手い。

やがてヘイヴンの町の人々はお互いの考えが読み取れるようになり、“進化”を阻もうとする町民たちを排除しようとする。
それはさながらウイルスの蔓延のように急激に広がっていく。いやある意味、カルト宗教の信者のように実に排他的になり、トミーノッカーズを受け入れない者たちを粛正するのも厭わなくなる。

都会よりも田舎の町の方が恐ろしいと云う。
それは1人の権力者によって牛耳られ、そこに独自の法が成り立ち、町民たちはそれに従わざるを得なくなる。その権力者が町民たちを恐怖で縛る場合と、絶大な信頼を得て確固たる支持を得て権力の座を維持する場合の二通りがあるが、厄介なのは後者の方だ。
なぜならその場合は町民からの反発がない。つまり反抗勢力が生まれず、その権力者が外部にとって敵であったも町民たちにとっては外部からの圧力を退ける英雄としか映らない。
トミーノッカーズの侵略はまさに後者に当て嵌るだろう。彼らはボビ・アンダーソンという1人のリーダーの許に来たるべき“進化”を成し遂げるために他を排除しようとする。この異変に気付いた者は懐柔されようとするか、異分子として排除されるかいずれかだ。前半の治安官ルース・マッコースランドの抵抗はこの田舎の町の集団意識の恐ろしさをむざむざと知らしめている。

私は本書における宇宙船の登場により、人々が“進化”と呼ぶ変化が訪れる諸々の事象はどこか既視感を覚えた。
即ち歯が突然ポロポロと抜け出すこと、目から出てくる血の涙、耳から血が出る、主人公の1人でヘイヴンの異変に取り込まれず、頭の中を読まれることなく、抵抗できる外から来た人物ジム・ガードナーがしかし嘔吐物の中に血が混じっていること、髪の毛が抜けだすなどの描写から連想されるのはボビ・アンダーソンが掘り出した宇宙船とは即ち放射能漏れを起こす原子力発電所のメタファーである。
つまり原子力発電所こそは人間が手を出してはいけないパンドラの箱なのだという作者のメッセージが読み取れる。

上に書いた異常現象はそのまま被爆者の症状に繋がる。そして目に見えないが確実に人々に蔓延っているトミーノッカーズは放射能その物のようだ。

更にヘイヴンの町に訪れる人たちが一様に頭痛を訴え、身体の各所に異変を覚える。さながら原発事故が起きたチェルノブイリのように。

つまりキングの本書におけるテーマとは核の、原発の恐ろしさを訴えているのだ。

そしてキングは物語の終盤で明らさまに臨界、チェルノブイリという原子力に纏わる用語を使っている。やはりこの推察は正しかったのだ。

この救いの無い、メイン州の田舎町ヘイヴンの壊滅していく様を描いた本書は、まさに臨界事故によって死の町となったチェルノブイリのメタファーだ。
残されたトミーノッカーズたちが宇宙船が飛び立った後、“障壁”が取り除かれ、町へ侵入することができた軍隊によって次々と排除されていくのは、当時キングが頭で描いていた被曝者たちへの旧ソ連の対応を表しているかに思え、何とも不快だ。

本書で唯一の救いはエピソードの最後で兄のマジックによってアルテア4という異世界に連れ去れたデイヴィッド・ブラウンがガードナーの努力により、無事帰還するところだ。そしてそんな仕打ちをした兄に対して弟は何も覚えてなく、以前のように兄を慕い、添い寝する。
これがなかったら、本書はただ虚しいだけに終わっただろう。

しかしこの上下巻併せて1,240ページにも及ぶ大著である本書は、それまでの大作と異なり、やはりかなり困難を感じた読書になった。
先に書いたようにキングが本書でやりたかったこと、訴えたかったメッセージは判るものの、それがスムーズに物語に結実していなく、また鬱病患者特有の長々とした説教めいた、狂人の主張が折々に挟まれていることでバランスを欠き、物語としてなんともギクシャクとした印象を受けるのだ。

恐らくは、私も記憶しているがチェルノブイリ原発事故は未曽有の危機だった。原子力という未知のエネルギーが及ぼす影響を、恐ろしさを初めて知った事故だった。そしてまだ事故の収束が見えなく、被害が拡大し、我々の生活にどのような影響があるのかも見えない刊行当時、作者自身も今まで経験したことのない不安と恐怖を覚えたことだろう。その動揺が本書には垣間見れる。だからこそ纏まりに書けるのかもしれない。

キングはとにかく書かなければならなかったのだろう。
この未知なる恐怖を克服するためにも。とにかく書くこと、いや作中にガードナーがボビに云うように彼は何かによって書かされたのかもしれない。天から降ってきたアイデアによって。そんな衝動と動揺の産物が本書なのかもしれない。

今は2019年。
チェルノブイリ原発事故や東海村の臨界事故、1999年のノストラダムスの大予言、それらを経験しながらも我々は今、世紀末を乗り越え、ここにいる。

しかし1987年に刊行された本書は世界の終わりを感じたキングの絶望と恐怖が如実に表れた作品となった。

あの事故が起きた時、人々はどう思ったのか。

そんな歴史の足跡の、証言として本書を捉えるとまた違って見えるが、しかしキングの名を冠するのであれば、やはり改稿して再刊すべきではとの思いが拭えない、そんな思いを抱いた作品であった。


No.1461 7点 四季
森博嗣
(2019/08/07 23:40登録)
真賀田四季という不世出の天才が登場したのは本書刊行までではS&Mシリーズの『すべてがFになる』と『有限と微小のパン』のみ。後はVシリーズの『赤緑黒白』にカメオ出演した程度だが、それは四季としてではなかった。
正直たったこれだけの作品の出演では真賀田四季の天才性については断片的にしか描かれず、私の中ではさも天才であるかのように描かれているという認識でしかなかった。

しかしこの4部作で森氏が彼女の本当の天才性を描くことをテーマにしたことで彼女が真の天才であることが徐々に解ってきた。

そうはいっても3歳で辞書を読み、数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で大学の学術書を読み耽り、6歳で物を作り出すといったエピソードで彼女が天才であると思ったわけではない。
そんなものは言葉であるからどうとでも書けるのだ。例えば仏陀なんかは生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を差し、左手で地を差して「天上天下唯我独尊」と叫んだと云われているから、こちらの方がよほど天才だ。つまりこれもまた仏陀が天才であったと誇張するエピソードに過ぎなく、これもまた想像力を働かせばどうとでも強調できるのだ。

では真賀田四季が天才であると感じるのはやはり彼女の思考のミステリアスな部分とそれから想起させられる頭の回転の速さを見事に森氏が描いているからだ。
常に感情を乱さず、もう1人の人格を他者に会話させながら、書物を読み、そして相手もしたりするところやそれらの台詞が示す洞察力の深さなどが彼女を天才であると認識させる。最も驚いたのは最後の方で実の兄真賀田其志雄が自殺しているのを見て、兄の代わりになる才能を明日中にリストアップしましょうと各務亜樹良に提案する冷静さだ。事態を把握した時には既にその数時間先、いや数日も数週間も、数年先も思考は及んでいるのだ。こういったことを書ける森氏の発想が凄いのである。

天才を書けるのは天才を真に知る者とすれば、森氏の周りにそのような天才がいるのか、もしくは森氏自身が天才なのか。
これまでの森作品と今に至ってなお新作で森ファンを驚喜させるの壮大な構想力を考えるとやはり後者であると思わざるにはいられない。

春は出逢いと別れの季節である。真賀田四季は2人の其志雄と別れ、そして瀬在丸紅子と西之園萌絵と出逢った。いやそれ以外の人物ともまた。

続く夏は情熱の恋の季節と云う。
例えば先に書いた各務亜樹良は本書で退場するが、その理由は南米へ飛んだ保呂草潤平の後を追うためだ。彼女はもう自分に正直であろうと決意し、保呂草の許へと飛ぶのだ。この謎めいた女が実は心の奥底に斯くも情熱的な想いを抱いていたことを知るだけでも読む価値はある。

そして類稀なる天才少女真賀田四季もまた例外なく思春期を迎え、そして恋に落ちる。それは冷静でありながらもどこか破滅的、そして天才らしく冷ややかに情熱的な恋だった。

幼き頃からその天才性ゆえに全てにおいて誰よりも早い彼女は恋に落ちた途端にすぐに愛を交わし、そして妊娠を経験する。彼女の相手は叔父の新藤清二。彼女は大学教授の両親の遺伝子を持っていながら医師である叔父の遺伝子を持っていないことで、その全てを備えた子供を作るために彼と寝たのだ。しかしそれはそんな打算だけではない。彼女は新藤に恋をし、彼を欲しいと思ったのだ。

また四季が子供を欲しいと思ったきっかけが瀬在丸紅子であった。
彼女が認めた天才の一人、瀬在丸紅子は子供を産んだことで全ての精神をリセットしたと四季は理解した。彼女は今まで出逢った人の中で瀬在丸紅子こそが自分によく似ていると感じていた。しかし彼女は紅子のように自分はリセット出来ないだろうと考えてはいたが、何かを忘れるという行為に憧れていた。そして紅子と同じように好きな人の子供を作れば何かが変わると思ったのだ。

四季が新藤と愛を交わしている時、エクスタシーに達する瞬間、彼女の中の全ての意識が、思考が全て停止するのを体験した。

しかし彼女はやはり情よりも理で生きる女性だった。妊娠をする、子供を産むという行為は本来であれば祝福されるべきなのにそれにショックを受ける両親が理解できない。ひたすら憤り、そして堕胎を促す両親に対して、四季は自らの手で彼らに引導を渡す。第1作『すべてがFになる』で語られていた少女時代の殺人が夏に描かれる。

春では兄が伯母を殺害し、夏では四季自身がとうとう両親に手を下す。そして彼女は近親者の子供を宿す。考えるだにおぞましい人生だ。
しかしその理路整然とした思考と態度ゆえに、森氏の渇いた、無駄を省いた理性的な文体も相まってその存在は血の色よりも純白に近い白、いや何ものにも染まらない透明さを思わせ、澄み切っている。

そして両親を殺害した四季は自分もまた新藤清二と共に自分の子供によって殺されることを認識する。そうすることで真賀田四季と云う存在をアップデートするかのように。
我が子という新しい生と両親の死という誕生と消滅の両方を経験した真賀田四季。
彼女は平気で死について語る。それはまさにコンピュータで使われる二進法、0と1しかない世界のように実に淡白だ。生と死の間に介在する人の情に対して彼女は全く頓着しない。必要であるか否かのみ、彼女の中で選択され、そして判断が下される。

次の秋は森作品ファンへの出血大サービスの1作。
それまでと異なり、なかなか真賀田四季本人が登場せず、寧ろ犀川創平と西之園萌絵とのやり取りと保呂草潤平と各務亜樹良の再会とそれ以降が中心に語られ、S&Mシリーズの延長戦もしくはVシリーズのスピンオフといった趣向で、主人公である真賀田四季は全283ページ中たった10ページしか登場しない。

さて秋はやはり実りの秋と呼ばれる収穫の季節だ。まさにその季節が示す通り、収穫の多い作品となった。
前作で保呂草の許に飛んだと思われた各務は逆に保呂草に捕まり、その秘めたる恋を始まらせる。
西之園萌絵の収穫はやはり犀川との婚約だろう。そして彼の母親瀬在丸紅子との会談で得られた人生訓もまた大きな収穫だ。
犀川創平は妃真賀島の事件に隠された真賀田四季の動機がようやく明かされた。
まさに収穫の1冊である。

最後の冬は遥かな未来に向けての物語か。
冬では一旦『秋』でそれまでのシリーズとの結び付きを語ったことでリセットされ、これからの物語のための序章というべき作品として位置づけられるようだ。
従って今まで本書までに刊行されてきた森作品を読んだ私でさえ、本書に描かれている内容は曖昧模糊としか理解できていない。本書が刊行されて15年経った今だからこそ上に書いたシリーズへと繋がっていくことが解るのだが、刊行当初は読者は全く何を書いているのか戸惑いを覚えたことだろう、今の私のように。

冬は眠りの季節。ほとんどの動物が冬眠に入り、春の訪れを待つ。本書もまた新たなシリーズの幕開けを待つ前の休憩といったことか。英題「Black Winter」は眠るための消灯を意味しているように私は思えた。

そして真賀田四季。『四季 春』で生を受けたこの天才はしかし以前のような無機質な天才ではなくなっている。いっぱいやらなくてはならないことがあるために人への関与・興味をほとんど持たなかった天才少女は娘を生み、外の世界に飛び出して自分で生活をしたことで感受性、母性が備わり、慈愛に満ちた表情を見せるようになっている。
頭の中の演算処理が上手く行っている時にしか笑わなかった彼女が人の死に可哀想と思い、花を見て綺麗と感じ、空を見て色が美しいと思うようになっている。

物語の最後、犀川は四季に問う。「人間がお好きですか」と。そして四季は「ええ……」と答える。綺麗な矛盾を備えているからと。論理的であることを常に好む彼女が行き着いたのは愛すべき矛盾の存在。それこそが人だったのだ。

真賀田四季はまだその生命を、いや存在を残してまだまだ色々とやることがあるようだ。但しその彼女は今までの彼女ではなく、人への興味を持ち、そして自らにその人格を取り込んで生きている。もはや時間を、空間をも超越し、終わりなき思弁を重ねる1人の類稀なる天才が神へとなるプロセスを描いたのがこのシリーズなのだ。そしてそれはまだ途上に過ぎない。

但し解るのはそこまでだ。それは仕様がない。なぜなら私のような凡人には天才の考えることは解らないのだから。

今後のシリーズで『四季』で生れた数々の疑問が解かれていくのだろう。その時またこの作品に戻り、意味を理解する。ある意味『冬』が全森作品の行き着く先なのかもしれない。


No.1460 7点 美神解体
篠田節子
(2019/07/10 23:38登録)
登場人物はわずかに2人というまさにぜい肉をそぎ落とした作品で僅か220ページにも満たない中編とも云える作品だが、なかなか読み応えがあった。

まず主人公の名は麗子。苗字はない。幼い頃から器量が悪いために恋人はおろか、実の親からも疎まれてきた女性。
そんな誰からも相手にされず、相手にされても常に見下されていた存在だった彼女は一念発起して大整形に踏み切り、完璧な美人顔を獲得する。
しかしそれがあまりに完璧すぎたため、人間味がなく、逆に畏怖と困惑の表情で迎えられてきた。とにかく何をしても裏目に出てしまう幸運に恵まれない女性、それが麗子だ。

その麗子を初めてまともに見てその美しさを礼讃したのが平田一向。新進気鋭の若手デザイナーで世間の注目を集めている彼は医学部を中退し、工学部に入り直し、在学中にイタリアのデザインコンクールで入選したことをきっかけに工学部も中退してデザイン事務所に就職し、今は独立して仕事を直接受けている。
彼はしかし完璧な美を愛でる男性だが、彼にはそこに生命の美しさを求めない。彼にとって人間の血や涙と云ったものは汚らわしいものであるため、即物的な美を常に求めるのだ。それには幼い頃に伯父がベネチアで買ってきた『解体できるヴィーナス』と呼ばれる完璧な美女を模した医学用の人体模型に魅せられたからだ。

はっきり云って平田は大いなる矛盾を抱えた存在である。完璧な美を追求し、そんな人間を見つけて興味を覚え、その中身を見たいと熱望するが、そうすることで人体から出血し、生臭い臓物が出て、しかも食べた物が発する悪臭を最も嫌悪するのだから。
それはつまり好きな物は欲しくて、好きなことはやりたいが、汚れるのはいやという実に子供じみた我儘と大差ないと云える。
一方麗子もただ屈辱に甘んじていた女性ではない。そう麗子もまた独占欲の強い人間なのだ。彼女は自分の手に入らないと思ったら嘘を平気でつき、更に運命と思えた男を手中に入れるためにはどんな手を使ってでも自分の方に目を向けさせるために罠を企むことをする。
それは彼女が平田一向との出逢いに運命を感じ、彼を最初で最後の男性だと強く思っているからだ。従って彼と世を捨てて2人だけで暮すことや、もしくはこのまま雪の中の山荘で2人で死ぬことも厭わない女性だ。つまり彼女もまた盲目的に1人の男性を愛してしまう、ストーカー気質の危ない女性であるのだ。

ところで不気味の谷というのを御存じだろうか。
人型ロボットやCGアニメなどの技術が発展し、より人間に近い造形にしていくと人は徐々に好感を増していくが、あるところに達すると嫌悪感を覚えるようになる。その領域のことを不気味の谷と云うが、麗子の容姿はまさにその不気味の谷に位置する領域にあった。
それは彼女が単に外面的な美しさに囚われ、内面を磨かなかったからだ。いつも劣等感を抱き、時に強い嫉妬を抱いて復讐行為をする彼女は云わば心の無い人形に過ぎなかった。

しかし彼女は最後平田一向の自分への行為が愛ではなく、歪んだ欲望であることに気付き、自分が抱いていた平田への一途な愛という呪縛から解き放たれる。彼女が抱いていた平田の愛は幻想であり、この人のためなら死ねると感じた決意も実は一時期の物であったと気付き、彼女は生きることを選択する。つまりようやく彼女は嫌悪していた自分自身を愛することができ、そして外面と内面が一致する。麗子が持っていた不気味の谷はこの外面と内面との間に大きく隔たっていた溝だったのかもしれない。

人は見た目が9割だと云う。そして現実に美人の方が得するようになっている。従って人は自分の容姿をできるだけよく見せることに努力をする。恵まれた容姿を持つ人の、自分の容姿に対する思いは様々だが、容姿に恵まれない人の思いは常に一緒で、より美しく、より端正になりたいと願う。だからこそ美容産業は衰退せず、今なお隆盛であり、毎年新たな化粧テクが生まれ、今や男性用の化粧品も市場が拡大してきていると聞く。

毎年世界各所ではミスコンテストが行われ、美を競い合う。また芸能界でも次から次へその世代を代表する美しい女性たちが現れ、世を魅了する。歴史の中でも1人の美人によって滅んだ国や美人によって身持ちを崩した偉人も数多くいる。

美の追求、それは永遠に終わらない世の理だ。ただ幸いにして私は自分の人生を擲ってでも一緒にいたいと思った美人に逢ったことがない。それこそが幸せなことなのかもしれない。それほどまでに美は人を狂わせるのだから。


No.1459 10点 ブラックボックス
マイクル・コナリー
(2019/07/09 23:41登録)
コナリー25作目である本書は作家デビュー20年目という節目の作品となった。
それを意識してか、内容も20年前にボッシュが関わったロス暴動に巻き込まれた女性外国人記者殺害事件の再捜査になっている。
しかしそこはコナリー、物語はそれだけに留まらない。20年目の25作目と作品数も数を重ねているにも関わらず、その精緻なプロットには全く以て舌を巻いてしまった。
いつもながら物語の発端はシンプルながら、事件の捜査が進むうちに判明してくるプロットは複雑で実に混み入っているが、謎が謎を呼ぶ展開は全く以て飽きさせない。

注目したいのが事件の動機が湾岸戦争へと繋がっていくことだ。
ボッシュシリーズの幕開けはヴェトナム戦争時代の戦友の一人ウィリアム・メドーズ殺害事件だった。つまりそれはハリー・ボッシュという男がヴェトナム戦争のトンネル兵をしていた帰還兵であることを強く意識した幕開けであり、その後もこの元ヴェトナム従軍兵という過去はボッシュの中のトラウマでありつつ、闇を見つめ続ける宿命として描かれる。
そしてこの20年目の作品で再び扱われるのは戦争に纏わる忌まわしい過去。
しかし既に21世紀になった今、戦争はもはやヴェトナム戦争ではなく湾岸戦争なのだ。この20世紀末に起きた湾岸戦争に従軍したある一隊、カリフォルニア州兵部隊が起こしたスキャンダルが事件の正体なのだ。それはやはり20年目の25作目という節目を意識した原点回帰的作品ことの証左でもある。

さて私が本書のタイトルを刊行予定で見た瞬間に思ったのは、久々にコナリー作品のタイトルに「ブラック」の文字が躍ったということだ。
初期のコナリー3作品は原題、邦題それぞれに意識してこの「ブラック」が使われていた。
1作目の『ナイトホークス』の原題が“The Black Echo”、2作目が邦題、原題ともに『ブラック・アイス』、3作目は邦題が『ブラック・ハート』と、原作者、訳者ともにボッシュの持つ、ヴェトナム戦争帰還兵という経歴に由来する、心の奥に蟠る暗い情念を意図してこの「ブラック」が使われていた。
そしてそれから18年(原書では19年)を経て久々にこの「ブラック」の文字を冠したのは勿論作者としても意識的だったことは間違いない。
なぜなら本書は作家生活20年目の集大成的な作品の趣を備えたオールスターキャスト登場と上に書いたようにボッシュの原点回帰的な内容になっているからだ。

そしてもはやシリーズのオアシス的エピソードとなっているのがボッシュと娘マデリンとのやり取りである。親子の少し不器用で子煩悩なボッシュとのやり取りが実に面白い。
このエピソードが胸に心地よく響くのは娘マデリンがボッシュを父親として好いていることが解るからだ。
今回囚われの身となったボッシュが処刑されるのを覚悟した時に頭に思い浮かべるのは娘の車の運転練習をした時のエピソードでその時彼女が自分も警察官になりたいと云ったと描かれている。野獣のようだったボッシュにとってマデリンはこの上もなく大切な存在であり、そしてマデリンも父親を一人の刑事として尊敬していることが更に物語に厚みをもたらしたように思える。

コナリーの作品が面白いのは過去の因果がボッシュの現在に及ぼしていることだ。それはつまり過去にこそ作品の種は蒔かれており、それを忘れずにコナリーは育つのを待ち、そして時が来た時に刈り取っているからだ。そうすることで物語と作品の世界に厚みが生まれ、そしてハリー・ボッシュを、登場人物たちに血肉を与えることに繋がっている。それがシリーズに濃いドラマを生み出し、そして常に傑作レベルの水準を保っているように思える。
こう書くとコナリーと同じようにすれば誰もが傑作を掛けるのかと勘違いしてしまうが、そうではない。そういう眼を持っているからこそ、このコナリーという作家は優れているのだろう。

また遅まきながら25作目において今回痛烈に気付いたのはボッシュが相手にしているのは法ではなくあくまで人だということだ。
無慈悲なまでに殺された人がいる。自分の都合で人を殺した奴がいる。その人が殺されたことで哀しむ人がいる。そんな人達を目の当たりにし、相手にしてきたからこそ、ボッシュは正義に燃えるのだ。
彼は悪に対して異常なまで憎悪する。悪事を働きのうのうと生きている輩に対して鉄槌を落とすことを心から願っている。従って犯人を捕まえるためには多少のルール違反も厭わない。そうしないと捕まえることのできない悪人がこの世にいるからだ。

ボッシュは事件を解決する。それは犯人が解らないまま事件が葬り去られる遺族の無念を晴らすためであると同時に悪がのさばっている現実を良くしようとするためだ。
しかし犯人が逮捕されても被害者遺族の無念は続いたままであることをボッシュはその都度思い知らされるのだ。
それでも彼が犯人を追う。“それが私たちのしていること”という信念に従って。

その被害者の北米人特有の色の白さから白雪姫事件と名付けられた今回の事件。
事件は解決したが童話のように幸せな結末とはならなかった。無念が、犯人への怒りが遺族とボッシュ自身にも残ったままだった。
これがコナリー版白雪姫。
殺人事件にハッピーエンドはないと痛烈に突き付けられた思いがした。


No.1458 7点 地軸変更計画
ジュール・ヴェルヌ
(2019/07/04 23:49登録)
なんという奇妙なタイトルだろう。
地軸変更計画。
今までアフリカや世界一周といった未開の地への冒険、地底や海底に世界の空、はたまた月世界へと舞台を広げていったヴェルヌの創造力はとうとう地球そのものへまで発展した。

彼が今回選んだテーマは北極。
本書発表当時まだ人類は北極点まで達していなかった。これが現実となるのは本書発表の1889年から37年後の1926年にアメリカのリチャード・バードの飛行機による往復飛行まで待つことになる(因みにが徒歩による北極点到達は1969年のイギリスの探検家ウォリー・ハーバートによってようやくなされる。なんと80年後だ)。
しかし今回の話はいつものように前人未到の地に行くと云う単純なものではない。今度はその地そのものを動かす。いや正確には地球そのものを動かそうと云う話だ。
傾いた地軸を変更し、北極を極寒の地から温暖な地へと変えることで行きやすくし、北極の地を手中にするという実に壮大なトンデモ科学系小説なのである。

さて本書で登場するのはあの『月世界旅行』、『月世界へ行く』に登場した、大きな大砲で月世界到達を目指したインペイ・バービケインを会長に掲げる大砲クラブの面々である。
なんと3度目の登場である。よほどヴェルヌはこの陽気で破天荒な一行がお気に召したらしい。


そんな彼らが何かをしでかすのはやはり大砲。
今回計画した地球の地軸を変更するのも巨大の大砲を地球に対して水平に発射し、その反動で地球を動かそうというもの。作中でも語られているがいわゆるビリヤードで球を曲げる時に表面をかすめるように打つのと同じような方法を用いるのである。

そしてこの発表に世界は騒然となる。地軸の傾きを変更することで海の水位が変化し、高低差は最大で8,415メートル変化すると予想され、つまり海抜3,000メートル未満の地域が水没すると推定されている。
こういうディテールがきちんと書かれるのがヴェルヌ作品の面白さだ。

それよりも私は地軸の変化による異常気象の発生の方が大いに気になる。つまり太陽との距離が近くなることで地表に覆われていた氷が解け、それが逆に地球全体を冷気が覆うことになり、逆に世界の大半が氷の世界に覆われることになることのではないか。映画『デイ・アフター・トゥモロー』の世界である。

物語の最終局面で明らかになる彼らのこの途轍もない大砲の正体はなかなか面白いものである。

さて物語の冒頭のメインである北極の地を競売にかけるのに参加する国々の代表者の面々もお国柄を色濃く反映していて面白い。
オランダ代表のジャック・ヤンセン、デンマーク代表のエリック・バルデナック、スウェーデン=ノルウェー代表のヤン・ハラルド、ロシア代表ボリス・カルコフ、最後のイギリス代表ドネラン少佐たちは、一度は得体のしれないアメリカ相手に5ヶ国共同戦線を張ろうと企むがそれぞれの国のプライドが邪魔をしてご破算となる辺りも当時の欧米情勢が反映されていて面白い。

しかしなぜここにヴェルヌの母国フランスが入っていないのだろうか。一応作中ではこのような北極を売り買いするような計画に携わることを良しとせずに事態としたとある。いわゆる“クールでない”ことに興味を示さないというフランス人気質を著したのかもしれない。

そしてやはり特徴的なのはいきなり北極の所有権を競売にかけると提案したアメリカの独善性である。
まさにこれこそが当時の各国のパワーバランスを示しているように思える。かつて世界中に植民地を持っていたヨーロッパ諸国もアメリカという巨大な新興国の勢いに押され、世界での地位が衰退しつつあることが本書で窺える。つまりこの国の勢いそのものをヴェルヌは北極実用化協会こと大砲クラブに託したのではないか。

後に宇宙開発にいち早く乗り出すのがソ連とアメリカだった。ヴェルヌは勢いのあるアメリカがいつかは自分が描いた宇宙へ乗り出すことを期待していたのではないだろうか。
つまりこの大砲クラブは即ちヴェルヌが想像した将来のNASAの姿であり、大砲を宇宙と置き換えて考えれば、失敗しても挫けずに挑戦するアメリカへのエールではないか。

しかし一方で最後に登場していいところをかっさらうのがフランス人の数学者アルシッド・ピエルドゥーであるところにヴェルヌのフランス人としての自負が感じられるのである。まだまだ若造アメリカには負けんわいとでも云っているかのように。

まあ、そういう意味では本書はフランス人特有のエスプリに満ちた作品と云えるかもしれない。
私には片目をつぶって舌を出しているヴェルヌのお茶目な顔が見えたような気がした。


No.1457 10点 ミザリー
スティーヴン・キング
(2019/06/18 23:39登録)
私も映画化作品を観たこともあり、またガーディアン紙が読むべき1000冊の1作に選ばれた、数あるキング作品の中でも1,2を争うほど有名な作品。映画も怖かったが、やはり小説はもっと怖かった。
説明不要のサイコパスによる監禁物であるが、驚かされるのが作品のほとんどが監禁状態で語られることだ。しかも物語の舞台は95%以上が狂信的なファン、アニー・ウィルクスの家で繰り広げられている。
限られたスペースで物語が繰り広げられるキング作品は先に書かれた『クージョ』が想起されるが、あの作品もメインの舞台となる車の中での監禁状態に至るまでの話があった。しかし本書は始まって5ページ目には既にアニー・ウィルクスの部屋にいるのである。文庫本にして500ページもの分量をたった1つの部屋で繰り広げるキングの筆力にまず驚かされる。

とにかく主人公ポール・シェルダンを監禁し、自分だけの新作を書かせる熱狂的なファン、アニー・ウィルクスが怖い。
このアニー、とにかく自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起す女性だ。
これほどまでに人に執着し、自分の思い通りにならないことに癇癪を立てる人がいただろうか。いや、いるのだ、実際この世には。

愛。それは何ものにも代え難い感情で困難に打ち克つ力として愛をテーマに人は物語を書き、詩を書いて歌にする。人が誰かと一緒になるのも愛あればこそだ。
しかしこの強い感情が実は最も人間の怖さを発揮することになることを本書は知らしめる。
アニー・ウィルクスはポール・シェルダンの書くミザリーシリーズという小説が大好きで大好きで次作が出るのを待ち遠しくしていたのに作者がこの主人公を殺してしまったから、それが許せなかった。自分の好きな作品を返してほしい。そして彼女にはそれが出来た。なぜならその作者が満身創痍の状態で自分の家にいたからだ。
彼女は献身的に重傷の作者を介護し、自分に逆らうとどういう目に遭うかを知らしめるために彼を支配した。彼が自分の手中から逃れようとしたら彼の足を切断し、自分の思い通りの話を書こうとしなかったから拇指を切断した。
彼の行方を尋ねに来た警官を殺害した。
それもこれも自分の大好きなミザリーシリーズの、自分のためだけに作者が書いてくれる続きを読みたかったからだ。
ファンというものは有難いものだが、一方で恐怖の存在にもなりうる。そしてこれはただの作り話ではない。キングが遭遇したある狂信的なファンの姿なのだ。

これがもしキング自身が抱いたトラウマだったら、彼は本書を著すことでトラウマを克服し、解消しようとしたのではないか。つまり彼は自分の紡ぐキング・ワールドに狂信的なファンの幻影を封じ込めようとしたのではないか。
そう、忘れてはならないのは本書がサイコパスによる監禁ホラー物だけの作品ではなく、小説家という職業の業や性を如実に描いた作品でもあることだ。

上述したように本書は95%がアニー・ウィルクスの家で繰り広げられるが、この長丁場を限られた空間で読ませるのは狂えるアニーのエスカレートするポールへの仕打ちとそれに対抗するポールの生への執着だけではなく、ポール・シェルダンという作家を通じて小説家の異様なまでの創作意欲、ならびに創作秘話が語られることも忘れてはならない。
最初はどうにか助かりたいと思って苦痛を抑えるために屈辱的なことも敢えて行った彼が次第に回復するにつれ、自分の命を繋ぎ留めるミザリーの新作に次第にのめり込んでいく。今までファンのためだけに書き、自身では早く終わらせたくて仕方がなかったミザリーがアニーという狂信者によって続編を書くことを強要され、文字通りその身を削って命懸けで案を練るうちに彼の中に今までになく充実したミザリーの物語が展開するのだ。それはさながら極限状態から生まれたアイデアこそが傑作になりうるといった趣さえある。
一度始めた物語は最後まで書きあげたい、自分の頭にある物語を形あるものとして残したい。満身創痍の中、必死に『ミザリーの生還』に取り組むポールはキングそのもの。

狂信的なファンによる監禁ホラーというシンプルな構造の本書は上に書いたようにファン心理の怖さ、そして自己愛が強すぎる者の異常さと執念深さのみならず、小説家という人間の業、更に物語が人から人へと広がっていくマジックなど、非常に多面的な内容を孕んでいたが、それだけに実は終始しない。
実はここに書かれていることが現実となるのである。

交通事故に遭い、満身創痍になったポール・シェルダンは本書を著した12年後のキング自身の姿である。彼自身も車に撥ねられ、重傷を負い、そして片脚に障害を負う。
この作品が他のキング作品と異なる怖さを秘めているのは、そんな現実とのリンクが―しかも未来を暗示していた!―あるからこそなのかもしれない。
キングは本書をフィクションとしてキング・ワールドに封じ込めたのではなく、実はキング・ワールドが現実にまで侵食してしまったのだ。
一人の作家が描いた世界がとうとう現実世界へ波及した稀有な作品として本書は今後私の中で忘れらない作品となるだろう。


No.1456 4点 夏と冬の奏鳴曲
麻耶雄嵩
(2019/06/09 23:49登録)
読後の今、正直なんと評したらよいか解らない。物語のゲシュタルト崩壊とも云うべき結末に大きな戸惑いを覚えている。一旦これは整理して受け入れるべきものは受け入れて物語を再構築していかなくてはならないだろう。

この規格外の本格ミステリに通底するテーマは偶像崇拝ということになるだろうか。ただ1作の主演映画を遺して若くして夭折した女優、真宮和音。彼女に心酔した6人の若者がとある島に渡り、1年間の共同生活をした後、女優の死によってそのコミュニティは解散となるが、20年後に再び同窓会という形で再会する。彼ら及び彼女はこの真宮和音のために1編の主演映画『春と秋の奏鳴曲』を作った仲間たちで、ファン以上に彼女を慕い、そして崇拝していたのだった。
彼らにとって真宮和音は“神”に近い存在、いや“神”そのものだった。今でもネットでカリスマ性のあるアイドルや女優に対して“神”と呼ぶ風潮があるが、まさにそれと同じようなものだ。というか26年前と今でもさほどこの偶像崇拝という趣向は変わっていないようだ。

とにかく色んなテーマを孕んだ作品であることは理解できるが上述したように混乱が先に立ち、上手く整理が出来ない。
実存主義、偶像崇拝、時空を超えたシンクロニシティ、ドッペルゲンガー、虚像と実像、運命論、因果応報、そんなものがふんだんに盛り込まれていることは頭にあるのだが、作品としてミステリとして考えた場合、これらは破綻しているが幻想小説として読めば本書の理解は更に深まり、また変わってくるだろう。

想像上の理想の女性が実際に現れた時、人はどうするのかというのがそもそも本書が内包するテーマであると思う。夢で見た女性、常に頭に描いている女性の理想像。それをどうにか具現化するために1年間共同生活を送った彼らが20年後にその存在に出くわした時、どうするだろうか。
やはりそれは独り占めにしよう、他の誰にも触られたくない自分のためだけの唯一無二の存在にしたいと思うのではないか。
ただしかし麻耶氏は最後の最後でこの解釈をも覆す。島から戻った如月烏有を訪ねるのは銘探偵メルカトル鮎。

『春と秋の奏鳴曲』に出てくる如月烏有に当たる主人公の名はヌル、つまりNullであり、それは無を意味する。まだ何も持たない無の状態の彼に役割を与えたのかもしれない。
また本書の英題は“Parzival”となっており、これはワーグナーの楽劇“パルツィファル”に出てくる英雄の名前だ。“汚れを知らぬ愚か者”の騎士と称される。しかしその純真さと無智ゆえに彼は敵の誘惑を乗り越え、使命を全うする。つまり取り立てて取り柄の無い如月烏有を指しているのだ。それを遣わせた者こそが真宮和音その人だった。

うーん、真と偽のスパイラル。この物語の決着はまだまだ着きそうにない。当分私の頭を悩ませそうだ。どこかで辻褄を合わそうとするとどこかが合わなくなる。それはこの一見直線的に見えながら歪んでいる本書の舞台和音館そのもののようだ。


No.1455 8点 ミステリ十二か月
事典・ガイド
(2019/06/02 23:16登録)
本書は北村薫版『夜明けの睡魔』とも云うべきガイドブックだ。あくまでミステリの初心者、特にミステリを読んだことのない子供たちがミステリに触れることを想定して書かれたガイドブックであるのが特徴的だ。

本書の構成は全部で4部構成となっている。
まず1年間読売新聞に掲載された毎週1編のミステリを紹介するエッセイが載せられており、それが第1部で次にその選定の裏側を語ったのが第2部、そして第3部では挿絵を担当した版画家の大野隆司氏との対談。最後に北村氏の朋友の1人、有栖川有栖氏との今回ピックアップした作品に関して存分に語る対談となっている。
つまり新聞掲載のエッセイを俎上に挙げて存分にミステリについて語ったエッセイであり、それがゆえに私は本書を北村薫版『夜明けの睡魔』と呼ぶのである。

さてまず第1部だが、ミステリの初心者への紹介ということであれば、巷間に流布する数多のガイドブック同様に江戸川乱歩氏の少年探偵団シリーズ、アルセーヌ・ルパンシリーズ、シャーロック・ホームズシリーズ、エラリー・クイーンにヴァン・ダイン、ルルーの『黄色い部屋の謎』―私はいまだにこの作品を名作として必ず紹介されるのが腑に落ちないでいるのだが―、カーに、クリスティーにアイリッシュに、と定番の、お約束の作品が紹介されているのは同様だが、随所に北村氏らしさが挿入されているのがミソ。
それは一番最初に絵本の『きょうはなんのひ?』を挙げられていることからも解る。子供たちが一番最初に触れる本とは即ち絵本だ。それならばその時点でミステリ風味の絵本を紹介したらどうだろうかという発想から選ばれている。
更に北村氏のオリジナリティを感じさせるのが新書の『白菜のなぞ』。これはノンフィクションであるのだが、この誰もが口にしている白菜の歴史には壮大な謎が隠されいたというものらしい。これも俄然興味が沸いた。

そして第2部ではこのエッセイの舞台裏が語られる。北村氏がこのエッセイの依頼を受け、引き受けた契機となったこと、連載終了後にこのエッセイを1冊の本にどうやってまとめるか、その構成などが語られる。この第2部は選書の経緯が存分に語られており、本当はこれを紹介したかったが、初心者対象ということで泣く泣く落とした。他にあれもあればこれもあるとアンソロジストの楽しくも取捨選択の苦しみが存分に書かれている。逆にディープなミステリ読者はこの第2部の方が本編よりも愉しめるかもしれない。つまり第1部からページを読み進むにつれて北村氏のミステリ愛は濃くなっていくのである。

私は第3部が意外だった。挿絵を担当した大野氏との対談は逆にこのエッセイ自体がミステリの仕掛けに満ちていることを教えてくれたからだ。この大野氏、なんと茶目っ気のある人物だろうか。まさか各編に付せられた挿絵に隠れメッセージが潜んでいたとは。この第3部ではそのネタバレが開陳されているが、それを読みながらまた第1部に後戻りして読み、新たな発見が出来るのである。いやあ、これには参ったし、楽しませてくれた。
そして最後の第4部は西のミステリの雄有栖川有栖氏との対談だ。お互いの読書歴とミステリの知識を総動員しているかの如く、次々とそれぞれのお気に入りの作品、ミステリ観が語られるこの対談が実に熱い!そして面白い!
特にエッセイで取り上げた作品について有栖川氏があの作家ならば私はこの作品を挙げるなあと云えば、それについて同意しながらも北村氏は自論を展開する。また北村氏がこき下ろす作品を有栖川氏は褒め、それぞれのミステリ観の違いを示唆する。

しかし毎回思うが北村氏の読書量には恐れ入る。なんせ小学生の高学年から文庫本に手を出したという早熟ぶりだ。
そしてその北村氏と対等に話の出来る有栖川氏の読書量と記憶力もまた並大抵のものではない。そしてこの2人だからこそ辿り着ける境地もある。紙面では読み取れない次元で彼ら2人が我々市井のミステリ読者の想像の上を行く領域でミステリに耽溺し、語らう悦楽を貪っているかと思うと羨ましくも嫉妬に駆られる自分がいる。

私もこれからどれくらい本が読めるか解らないが、これからも本は読み続けていこうという決意を新たにした。この2人の博識ぶりには到底敵わないが、本は絶対読むのを止めずに読んでいこう。死ぬまで読書を信条に。


No.1454 7点 惨劇のヴェール
ルース・レンデル
(2019/05/31 23:11登録)
事件自体はショッピング・センターの駐車場で見つかったごく普通の夫人の絞殺死体の犯人を巡る地味なものだが、なんとウェクスフォードは途中で爆弾事故に巻き込まれて重傷を負うという派手な展開を迎える。
しかもそれが女優である次女のシーラのポルシェに仕掛けられていた爆弾だったことから一転して不穏な空気に包まれる。
さらにその後も彼女に手紙爆弾が送られ、更に不穏な空気は募る。

しかし爆発に巻き込まれながらも—というよりほとんど直撃と云ってもいいくらいだが—ウェクスフォードはタフな不死身ぶりを見せる。なんとその週の週末には退院して仕事復帰しているのだ。ページ数にして僅か80ページ。いやはやどれだけ頑丈なんだ。

そしてもう1つ大きなエピソードがあり、それは遺体の第一発見者でありながら、警察に通報せずに現場から逃走したクリフォード・サンダースと彼を容疑者とみなすマイク・バーデンの捜査を巡るうちに異様な方向へと向かう意外な展開だ。このバーデンのクリフォードに対する執着は初めてウェクスフォードとの対立を生み出す。

さて本書の原題“The Veiled One”は作中に出てくる容疑者の1人クリフォードの心理療法士サージ・オールスンが話す“ヴェールで顔を隠した人”、≪エンケカリムメノスの虚偽≫というエピソードに由来する。即ちいつも見ている人物もヴェール1枚包めばその人と認識できない別人になるという意味だ。
カーテンを掛けられた遺体はそれを発見した親子はそれぞれそれが母親だと思い、息子だと思ったと述べる。
人は皆仮面を被って生活している。いやここは本書のタイトルに合わせてヴェールを被っていると表現しよう。

外向けの貌と内向けの貌。外向けの顔が虚構に彩られたさながらヴェールを被った貌は自宅に戻るとそのヴェールをはぎ取り、本当の貌をさらけ出す。いや、さらに秘密を持つ者は自宅においても他の家人たちに外向けのヴェールの下にもう一枚被ったヴェールのまま、相対する。これはそんな物語だ。
そして本書でそんな虚飾の下に隠された秘密をさらけ出すアイテムとして使われるのが雑誌に投稿される人生相談。驚くことに自分が抱える悩みを率直にさらけ出す人生相談は匿名ばかりでなく本名での投稿も多い事が明かされる。そしてそんな他人の秘密を取り扱う仕事に携わる人間の中に軽率な人間がもしいたら、というのが事件のトリガーだ。
最近、企業の持つ顧客の個人情報の流出が問題となり、それが誰もが知り、利用者数の多い会社の物となれば大きな社会問題に発展している。その原因がハッカー、クラッカーと云ったサイバーテロリストによる、いわば外部から脅威だけに留まらず、金欲しさに流出した内部による犯行も増えている。本書はまさにこの情報化社会を先取りした犯行に起因する殺人事件と考えることも出来るだろう。

レンデルの紡ぎ出す物語はさながら様々な因果律が描くタペストリーのようだと今回も感じ入った。それぞれの人物が糸のように絡み合い、編み物のように丹念に織り込まれながら、惨劇という大きなタペストリーを見せるのだ。

ショッピング・センターの駐車場で起きた1人の婦人の死。
そこは様々な種類の店が並んだ複合施設。いわば複数の店という糸が寄り集まって出来たタペストリーだ。
そこにはいろんな店があるがゆえに色んな人も集まっていく。
そこにはゴシップ好きの婦人がおり、その婦人と親しく話していた若い女性がいた。
そこには毎週木曜日に買い物に来ては心理療法士のカウンセリングを受けた息子が迎えに来る婦人もいた。
更には当世風な、慣習に囚われない結婚をしたことで、単純な偏見で見られ、まともに子供なんか授かりっこないとまでそのゴシップ好きな婦人に云われた若い女性もいた。

それらの人たちが糸のように寄り集まり、やがて駐車場での絞殺死体へと収束する。
そしてその場に居合わせた人たちにはそれぞれ隠している過去があり、秘密がある。ヴェールを被って外に出ながら、そのヴェールを無理矢理剥がそうという人がいる。それが被害者のグウェン・ロブスンだった。
そしてそれらの過去や秘密によって新たな因果律が生まれ、惨劇へと発展していく。
この事件の容疑者について426ページからウェクスフォードが様々な事件関係者を容疑者に見立てて開陳する推理は誰もが動機があったことを思い知らされる。因果律の応酬だ。

壊れた物はまた元に戻せばいい。過去の失敗はまた取り戻せばいい。全てにやり直しが利くのだ。
しかし失敗を恐れ、自分自身のみの必然性に従ったために起きたのが今回の事件だ。いや、事件とは押しなべてそのように起きるものなのだが、レンデルの筆致はその当たり前のことを鮮烈に思い知らされる。それだけ登場人物たちが息づいているからだろう。

ああ、やはりレンデルは読ませる。まだまだ未読の作品があり、そして未訳の作品がある。人生劇場とも云えるレンデル=ヴァインの諸作がいつの日かまた復刊され、訳出されることを願う。


No.1453 10点 転落の街
マイクル・コナリー
(2019/05/23 23:35登録)
またしても過去がボッシュを苛む。今回ボッシュが担当するのは彼の宿敵で目の上のタンコブだったアーヴィン・アーヴィングの息子の墜落事件。しかもアーヴィングが強権を発動してボッシュを捜査担当に指名する。
この水と油の関係の2人。これほどシリーズを重ねながらもアーヴィングの影はなかなか消えない。振り子のようにボッシュとアーヴィングはお互い離れ近づきを繰り返す。
相変わらずだが、アーヴィングという男は何を考えているか解らない男だ。唯一解っているのは自分の得になるためだったらどんなことでもやる男だ。その行動原理は独特で、実に政治家に向いていると云えるだろう。微笑と寛容で近づいてきたかと思えば次の時点では冷徹なまでに突き放し、もしくは職さえも奪おうとする。己の考えが全て正しいと思っている、何ともイヤなヤツなのだ。

そしてボッシュはもう1つ事件を担当する。いや本来ならばそちらが担当する事件だったのをアーヴィングによって強引にねじ込まれたのだが。
1989年に起きた未成年女性強姦殺人事件に残された血痕のDNAがヒットし、クレイトン・ペルという男が浮上したが、なんと事件当時彼は8歳に過ぎなかった。この鑑定が担当刑事の証拠取り扱い不注意によって生じた結果なのか、それとも本当にそれがクレイトン・ペルの物であるのか、そして彼が事件の犯人なのかを探るのがボッシュの任務だ。

さて今回の原題“The Drop”は色んな意味を含んでいる。
最初のDROPはボッシュが申請を認められる定年延長選択制度(DROP)の略称だ。つまりボッシュは定年を迎えながら更に刑事を続けることが出来るようになる。但し彼が申請したのは遡らずに5年であったが、遡っての4年。即ち定年を9カ月過ぎてからの承認であり、残り39ヶ月がボッシュの刑事人生となることが明示される。
次のDROPはボッシュとチューが担当することになったコールドケース、リリー・プライスという女性強姦殺人事件だ。彼女の首に付着していた滴下血痕(DROP)のDNA鑑定により、クレイトン・ペルという性犯罪者が浮上するが、事件当時彼はたったの8歳だった。
第3のDROPはそのものズバリでボッシュが図らずも担当することになるアーヴィン・アーヴィングの息子ジョージの墜落事件だ。アーヴィン直接指名での担当となることでその事件を担当していたハリウッド分署の刑事からも白い目で見られる。そして一見自殺と思われた墜落死が調べていくうちに他殺の線が濃くなる。しかもそれが警察関係者である線も濃厚になっていく。
つまりまたもボッシュは警察同士の軋轢に巻き込まれるのだ。まさにアーヴィン・アーヴィングはボッシュの人生にとってのジョーカーのようだ。
そしてもっと大きなDROPがある。それはこの感想に最後に述べよう。

さて私がシリーズ継続に当たって懸念していたマデリンとの関係はどうにか上手く行っているようだ。本書ではボッシュなりの娘との関わり合い、いやボッシュ流子育てが垣間見れる。
つまりリトル・ボッシュを着々と育てているようだ。それは即ち自分が以前のように事件に没頭できる環境を整える意味もある。
そしてマデリンもまたボッシュ並の刑事としての才能の片鱗を覗かせる。
この二人のやり取りは実に微笑ましく、ボッシュの娘に対する愛情と、そして娘のボッシュに対する親愛の情を十二分に感じさせる。
しかもこのマデリン、実に大人びているのだ。ボッシュが刑事を辞めるのを最初に切り出す相手がマデリンならば、父親に適切な回答をするのもまた彼女なのだ。その内容はボッシュをしてとても15歳の少女を相手に話しているとは信じがたいと思わせているが、まさにその通り。私の懸念は見事に吹っ飛び、マデリンはこのシリーズにとってなくてはならない存在までになった。

ヒエロニムス・ボッシュ。まさに彼こそ人生の全てを刑事という職業に捧げた、全身刑事ともいうべき存在だろう。
彼の娘マデリンが将来ボッシュみたいな刑事になりたいと云ってから彼は娘を刑事の訓練を行うが、それは第二のボッシュを育てるというよりも、彼亡き後も悪を罰する使命を娘に託しているのだろう。ボッシュサーガはこのハリー・ボッシュという男の刑事の血を継いでいく物語になる、そんな一大叙事詩のように感じた。

色々なエピソードも含め、今回強く感じたのはハリー・ボッシュシリーズとは刑事・警察の生き方を描いた物語であることだ。
刑事を続けることの能力の限界を悟り、一度はその職を辞しようと揺るいだボッシュの心を繋ぎ留めたのはキズミンが放った怪物たちを捕まえ、止めることこそが気高い我々の仕事なのだという言葉。「これこそ、わたしたちがやっていることの理由」を見出したボッシュは猟奇殺人犯が自身で記録した膨大な写真とビデオテープ、DVDの中から、彼らが担当したリリー・プライスが写っている証拠を探すのは自分たちだとして、他の刑事からの援助を断る。それがボッシュの刑事としての生き様なのだ。
そしてそんな暗鬱な作業の実態を敢えて省かず書いたコナリーの仕事もまた見事だ。彼は警察とは、刑事とはこういう人たちなのだと示したかったからこそこの場面を敢えて詳細に書いたのだ。
大きな正義に小さな正義、そして法を超えた正義。それぞれの立場で異なる正義が主張し、そして実行される。その渦中にいるのがハリー・ボッシュという男だ。

物語の最後は実に苦い。
そう、本書に掲げられたタイトル、転落の街、即ちThe Dropに隠されたもう1つの意味はこのロス市警の正義を意味しているのではないか。それはアーヴィン・アーヴィングの落選(DROP)を期待する堕ちたロス市警そのもの。自分たちの利益のために、一人の刑事と一人の男の死を利用したロス市警はボッシュにとって唾棄すべき存在へと堕ちてしまった。

それでもボッシュは刑事を続ける。キズミン・ライダーが彼に投げ掛けた言葉、「これこそ、あたしたちがやっていることの理由」を心の支えにしながら。

見事だ、コナリー。またも心に染み入る仕事をしてくれた。またもやハードルが高くなったが次もまたそれを越えてくれるだろう。我々の期待以上に。


No.1452 7点 ダーク・タワーⅡ-運命の三人-
スティーヴン・キング
(2019/05/15 23:55登録)
この物語はどこか我々の世界との共通項を持つ不思議な世界を舞台、特に西部劇に触発されただけに西部開拓時代のアメリカを彷彿とさせるファンタジー色が強かったが、本書ではなんと我々の住む現実世界へガンスリンガーは現れる。
彼の前に立ち塞がる黒衣の男ことウォルター・オディム、またの名を魔導師マーテン。この敵に立ち向かうために3人の仲間を集める。なんというベタな展開か。少年バトルマンガの王道とも云うべきプロットである。
しかしそこはキング。この仲間が非常に個性的。いや通常の物語ならば恐らくは厄介過ぎて仲間になんかしたくない、清廉潔白とは程遠い素性の人物ばかりが登場する。

ヘロイン中毒者でヤクの運び屋、両足を失くした二重人格の黒人女性、そして社会的に成功したシリアルキラー。
どう考えても旅の仲間にはふさわしくない、いや寧ろ避けたいか、敵の配下にいるような人物たちがローランドが我々現代世界から選び出すことのできる仲間なのだ。
こんなことを考えつくのがキングが凡百の作家を凌駕する、突出した才能の持ち主であることの証左であるのだが、果たしてこんなまとまりのないメンバーを伴にしてどうやってこの先長大な作品を描くのかと読んでいる最中はモヤモヤさせられた。

しかしキングはこのあり得ない仲間たちを引き入れる結末を実に鮮やかに結ぶ。

このなんとも扱いにくい輩、もとい仲間たちの引き入れ方が実に変わっている。
ガンスリンガーの旅路の途中に現れるドア。そこにはそれぞれ対象の人物を象徴する言葉が刻まれている。エディ・ディーンのドアには<囚われ人>、オデッタ・ホームズのそれには<影の女>、最後は<押し屋>と書かれたジャック・モートのそれ。
そのドアを開けるとガンスリンガーは我々の住む現実世界で対象となっている人物の意識へと入り込むことができ、さらには現実世界で手に入れたものを彼の世界へ持ち込むことが出来る。
そして意識に入り込んだ人物をドアに引き込んで現実世界から消すこともできれば、2人で同時にドアを開けて仲間と共にガンスリンガーが現実世界に姿を現すことが出来るのである。
これはかつてキングがストラウヴと共作した『タリスマン』の世界に似ている。

この現実世界の対象人物たちがガンスリンガーの仲間になっていくそれぞれのエピソードがまた実に濃い。
三者三様の毛色の異なる短編が収められたような内容はまさに自由奔放なファンタジー。どんな方向へ物語が進むのか全く予断を許さない。キングは頭の中に浮かぶ物語を思いつくままに紙面に書き落としているかのようだ。そしてそれを見事に<暗黒の塔>という大きな幹を持つ物語へと繋げる。

冒頭私はこのダークタワーシリーズを少年バトルマンガの王道のような作品だと述べた。しかし読後の今はそのコメントがいかに浅はかなものだったと気付かされた。
この何ともミスマッチな仲間が最終的に強い絆を備えた3人の仲間へと着陸する物語運びには脱帽。これがキングであり、やはり並の作家ではなく、少年バトルマンガの王道と断じようとした私の想像を遥かに超えてくれた。
そしてそれは人それぞれに生きている意味や役割があることを示しているようにも感じた。

1巻目はイントロダクションとも云うべき内容で正直このダークタワーの世界の片鱗の中の片鱗が垣間見れただけで正直展開が想像もつかなかったが、本書においてようやくその世界観や道筋が見えてきた。そうなるとやはりキングが描くダークファンタジーは実に面白い。

危うさを秘めた3人の旅はようやく始まったばかりだ。


No.1451 7点 ダウン・ツ・ヘヴン
森博嗣
(2019/05/10 23:45登録)
『スカイ・クロラ』シリーズ第3作。時系列的には『ナ・バ・テア』の後日譚であり、『スカイ・クロラ』の前日譚である。まだシリーズは残っているのでそれらがどの位置に来るのかは不明だが。

草薙が本書で辿る道筋は我々社会人、いや大人全てに当て嵌ることだ。
夢を抱いてやりたいことを実現するために入社し、最初は上司の許で手法を学び、社会人として成長していく。そしてめでたく頭角を現し、上層部から注目を浴びるようになると上に立つ立場の人間へと押しやられる。しかしそこは会社の経営や政治的な仕事が多くなり、次第に本来やりたかった仕事からは遠ざけられ、相手との折衝や腹の探り合いなどの毎日が続く。

理想と現実のギャップ。本書における草薙水素はまさに大多数の社会人が抱く、いつしか夢を喪失し、現実に直面せざるを得なくなった社会人たちの姿だ。
恐らくこれは森氏の心情そのものなのだろう。
建築を学びたいと大学に入り、そして更にその道を究めたいとそのまま大学で研究を続け、その成果が認められて助教授になるが、やることは学生たちや後進への指導と会議ばかり。なかなか研究に没頭できなくなる。

何かをやりたいというのは子供の頃から持つ願望だ。だからこそ森氏は本書においてキルドレという永遠の子供を設定したのではないか。

本書の中でも草薙水素が吐露する心情の中に、「もう子供ではないのだから」という理由で搾取されてきた数々の想いや物が述べられる。
楽しいだけで過ごす毎日が子供の時代でそれを終えるのが大人の時代の始まり。子供の小さい世界が大人になるにつれて大きく広がっていくのに逆にやりたいことや出来ることは狭まっていく。

子供の頃、「それは大人になってからね」と云い聞かされ、大人になったら色んな事が出来るのだ、早く大人になりたいと願いながら、実際に大人になってみると周囲に合わせ、自我を通そうとすると疎んじられ、望まれもしないことを出来るから、挑戦だという理由でやらされ、やりたいことが出来なくなり、やらなければならないことばかりが増えていく、この大いなる矛盾。

しかしでは永遠の子供キルドレは純然たる自由を愉しんでいるのかと云えばそうではない。子供でありながら、大人の世界に生きる彼らは次第に純粋さを奪われていく。
草薙水素のようにただ飛行機に乗り、敵と戦い、勝つことだけが楽しくて続けてきたキルドレ達もやがてこの単純なサイクルに嫌気が差してくるようだ。来る日も来る日もやりたいことを続けるのもまた苦痛であるらしい。不死の存在でありながら命のやり取りである空中戦に望む彼ら彼女らはその無限のサイクルを止めるために無謀な戦いに挑み、そして散っていく。
そうすることしかそれを止められないからだ。

大人になることの不自由さを謳いつつ、一方で子供であり続けることの絶望も描く。
そのどちらも備えた草薙水素はなんと可哀想な存在なのだろうか。前作では人生の苦みと空に飛ぶことの愉しさを知った草薙が本書で第1作に繋がる絶望への足掛かりを付けるのが何とも痛々しい。

そして本書では第1作の主人公カンナミ・ユーヒチと草薙水素の邂逅が語られる。この2人のシーンは実に意味深でしかもまた官能的でもある。
それは草薙水素の産んだ子こそがこのカンナミ・ユーヒチだからではないか。草薙はカンナミに妙な繋がりを感じ、思わず口づけをするが、それは男と女という感情ではなく、親が子を愛する慈しみの感情、母性ゆえだからだろう。

また本書では上司の甲斐の心情も大いに語られる。前作の後半で出てきた彼女は草薙の精神的支柱となっている。
若い女性でありながら本社の上層部との調整役を担っている彼女は男性社会の中で女性というハンディを感じ、悔しい思いを抱きながら、今に見ていろの精神でのし上がってきたことを述べる。そしてエースパイロットとして徐々に一介の戦闘機乗りから指揮官への道を歩まされる草薙に対し同じ女性として良き理解者であろうとする。
ティーチャとの戦闘が不満足に終わり、怒りに明け暮れている草薙を甲斐は悔しかったら人より高いところに上がるしかないと諭す。そしてやりたくないことを強いられた連中を見返してやればいい、と。
これはある意味真実で、ある意味誤りだ。なぜなら草薙は逆に上に上がりたくなく、このままずっと戦闘機に乗り、戦いたいのだから。会社の中で上に上がることを諭した甲斐は草薙から自由を奪っていくことを促したのとさえ云えるだろう。大人と子供の世界の齟齬がここには表れている。

また私がいつも不思議だと思うのはどうして飛行機乗りでもないこの作家がこれほどまでに戦闘機乗りの心情や飛行シーンをパイロットの皮膚感覚で描写できるのかということだ。
よほど綿密な取材をされたのか、はたまた知り合いに自衛隊のパイロットがいるのか解らないが、まさに“それ”を知っているものでないと書けない叙述だ。

そして最たるのは飛行シーン、戦闘シーン。それらの描写で短文と改行を多用し、ページの上半分のみを文字で埋めた書き方だ。
前作、前々作の感想でも述べているがそれがまさに読んでいるこちらが主人公と共に戦闘機に乗っている感覚が得られる。しかもその内容は実に専門的で実際のところ、どんな技術が行われ、どんな風に飛んでいるのかはマニア含め、その道に通じている者にしか十分に理解できないはずなのに、なぜか頭の中にその一部始終が映像として浮かぶのだ。この筆致はまさに稀有。

Down To Heaven。
天は上るものであるのに草薙水素にとって天は墜ちていく先に辿り着くところであるらしい。本書の表紙の色グレイは草薙が墜ちていく空の雲の色を指す。戦闘機乗りの草薙が死ぬべきところは地上ではなく空。空に墜ちて死ぬことこそが本望。
しかしその時の空は雲に覆われた灰色の空で希望はない。希望が無くなった時に墜ちる空は灰色。空を泳ぎ(スカイ・クロラ)、全き空の只中(ナ・バ・テア)に辿り着き、そしてそこへと墜ちていく(ダウン・ツ・ヘヴン)。
草薙水素が絶望に明け暮れる序章の巻。その時が訪れるまで草薙水素よ、ただただ楽しく飛び続けてほしい。


No.1450 7点 ひげのある男たち
結城昌治
(2019/05/09 23:45登録)
直木賞作家でハードボイルドの先駆者と呼ばれながら、数々のジャンルで傑作を物にしている昭和を代表する作家の1人、結城昌治氏。その彼のデビュー長編である本書は意外にもユーモアミステリであった。
しかも本書は数少ない結城作品の中でも貴重なシリーズキャラクター、郷原刑事が登場する1編なのである。郷原刑事物は本書を含めて3作あるとのこと。
デビュー長編に登場した刑事を主人公に書き継いだというのが結果かもしれないが、本書における郷原刑事は立派なひげを蓄えた名刑事として名の知られている事や家に拾ってきた野良犬を17匹飼っているといった特徴づけがなされていることから当初からシリーズ化する意向はあったのだろう。

さてユーモアミステリと云っても扱っているのは殺人事件であり、多数の刑事が登場する警察小説でもある。
しかし名刑事と呼ばれている主人公の郷原刑事の、ところどころに挟まれる吐露する心情などが非常に人間臭いところ、そして何よりも捜査の対象となる独身女性殺人事件の容疑者がおしなべてひげを生やしているという妙味にある。そして上述のように捜査を担当する郷原刑事もまたひげを蓄えた刑事であり、とにかくひげ尽くしのミステリとなっているのだ。

さてこのひげ、男性にあって女性にないものの1つである。
最近私は平成における男性がひげを生やすことに対する意識の変化について書かれたウェブ記事を偶然ながら読むことができた。そこにはおおむね次のように書かれていた。
戦国武将の時代ではその威光を示すために生やしたとされるひげは高度経済成長を迎え、サラリーマン社会となった昭和では身だしなみを整えなければならないという観点から男性はひげを剃り、常に清潔であることを強要された。しかし平成になり、無精ひげを生やしても清潔感が滲み出るタレントが多く出たことからひげを生やすことに抵抗がなくなり、無精ひげも違和感なく受け入れられるようになったという。
しかし最近では男性も女性のように美しくあることを求めるようになり、再びひげを剃る風潮になってきたが、以前と異なるのはひげを剃る道具類に美肌効果やひげが生えにくくなる成分が加味され、常につるつるの美しい肌をキープできるのが若者の間で流行っている、といった内容だった。
まあ、この記事の内容の是非についてはそれぞれ異論はあろうが、だいたいの流れは掴んでいると考えられる。従って本書においてひげを生やした男がいやに強調されるのは上の記事でも語られているように、男にひげを剃ることが求められていた時代だからこそ、事件の関係者・容疑者がひげのある男たちであるところが面白いのであろう。
また男はひげに対して特別な思いを抱きがちだ。例えばスポーツ選手は調子がいい時はそれが続くことを願ってわざとひげを剃らないでいるし、また逆も然りで調子が悪いとトレードマークと云われるまでに伸ばしていたを心機一転とばかりにばっさりと剃る者もいる。
また出世して要職に就くと威厳と自身の心構えを変えるためにひげを蓄える人もいれば、ひげがあることで男ぶりが上がるのでわざとひげを生やす人もいる。またある人は相手から表情を読み取りにくくするためにひげを生やすことを選択する。
本書もその例に漏れず、ひげを生やす人物は転職をして心機一転する者やチンピラの親分となって若いながらに威厳を保つために生やす者など出てくるし、出所して新生活のために逆にそれまで生やしたひげを剃る人物も出てくる。
さてひげ、ひげ、ひげと自分で書いていてもしつこくなってきたので本書の感想に戻ろう。

(以下大いにネタバレ)

結城氏が本書の犯人を検事に選んだことが興味深い。というのも結城氏は作家になる前は東京地方検察庁に事務官として働いていた経験があるからだ。従って本書に描かれる郷原刑事たち捜査陣たちがやけに人間臭く感じるのは、それを目の当たりにした経験が存分に活かされているのだろう。
そして事務官として検事の傍にいた結城氏がデビュー長編で検事を犯人にしたのは、検事もまた人であることを強く認識させられたからではないか?
これについてはあまり深く書くと憶測が憶測を生むだけなので敢えて留めておくが、物語の最後に登場人物が呟く、警察を信頼しなかったものが悪いのか、それとも信頼されなかった警察が悪いのかという問いかけが十分な回答であるように思える。

実は本書は名刑事郷原刑事シリーズの1作でありながら事件を解くのは容疑者の1人、私立探偵の香月栗介なのである。
この常に不遜な態度を取り、郷原刑事に苦虫を噛み潰したような顔をさせる探偵が攪乱される捜査陣を尻目に事件の本質を見抜き、犯人へと導くのだ。これもまた事件に携わる仕事を前職に持つ結城氏が敢えてこのような手法を選んだことを考えると、作者の警察・検察に対する不信感の深さを思い知らされるのだ。
特に捜査会議にマスクをした身元不明の人物が紛れながら、警察側、検察側それぞれがどちらかの関係者だろうとして放置するシーンは今までのミステリでも前例のない奇妙な展開でありながら、妙なリアルさを感じる。ちなみにその正体は探偵の香月栗介だったわけだが、当時の警察の一風景を切り取った珍エピソードではないだろうか。
しかし昭和を代表するミステリ作家結城氏もさすがにデビュー作はまだまだ粗さが目立った。ひげのある男たちが登場しながら、もう少しひげについてガジェットを豊富にしてほしかったし、郷原刑事の猫好きもあまり物語に寄与しているとは思えない。

そして最たるものは延々25ページに亘って香月栗介による事件解明の講釈が書かれていることである。しかも見開き目いっぱいに文字が埋め尽くされ、ずっと事件の発端から犯人断定に至るまでの推理の道筋が続くのである。これは今では作品を応募する新人でもしないことだろう。大作家も人の子であったと思わされた場面であった。

さて令和最初の読書はなんと平成でもなく昭和34年に書かれた昭和を代表する作家の1人のデビュー長編となった。しかも意図してこの作品を選んだものではなく、たまたま読む順番にこの本が巡ってきたのだ。

元号昭和と同じ漢字が使われた新元号令和の1冊目に本書を読むことになったのは何かの啓示だろうか?私も50に近づいたことだし、まずはひげでも生やしてみようか。


No.1449 7点 赤い砂塵
デイヴィッド・マレル
(2019/05/08 23:47登録)
2000年発表の本書はあの怪作『ダブルイメージ』の後に書かれた作品であったので、こちらも変な捻りが加えられた作品かと思ったが、さにあらず、絶大な力を持つ悪の首領に囚われの身となった美貌の姫を救いに悪の巣窟へ乗り込む、昔ながらの英雄譚をモチーフにした潜入及び脱出行の物語だ。

デリク・ベラサーという武器商人をCIAが挙げるべく、かつて軍のヘリコプター操縦士で名の知れた画家であるチェイス・マローンがその巣窟に潜り込み、彼が依頼された肖像画のモデル、ベラサーの妻シェンナを救出する。しかしそこからは絶大な権力を持つ男からの男女2人の果てしない逃亡が繰り広げられる。

このデリク・ベラサーという男が実に強烈だ。
圧倒的な威圧感を持ち、先祖代々からの武器商人で決して足を出さず、世界中にコネクションを持ち、武器を売りさばいて戦争を起こしている男。そして自分の欲望を満たすためには手段を選ばない。妻の肖像画作製の依頼をマローンが断ると、家と土地を買い取り、彼のお気に入りのレストランも買い取り、更に彼の作品を扱う画商も作品ごと丸ごと買い取り、マローンの作品を世に出さぬために倉庫に入れようとする。
更に彼が異常なのは美しいものに異常な執着を持ち、妻が年齢によって美貌の衰えを見出すと肖像画と裸体画を残して事故死を装って殺害し、新たな美しい妻を手に入れる。まさに現代の青ひげである。

そしてもう1人鮮烈な印象を残すのはその妻シェンナだ。本書の原題“Burnt Shenna”は彼女の肌の色、赤褐色を指す。
このマローンをして、今まで見た中で最も美しいと称されるこの妻はかつてはトップモデルであったが、その境遇は不遇だ。
イタリア系アメリカ人の両親の許で生れた彼女はイリノイ州にいたが12歳で両親を亡くし、引き取られた叔父のところではセックスを強要され、ある日それが嫌で家を飛び出し、シカゴでモデル学校に入り、モデルの仕事を始め、一躍トップモデルになる。
暴力を振るうボーイフレンドとコカインでボロボロのところをベラサーに引き取られ、病院で手当てを受けた後、結婚したが、初夜でベラサーが上手く行かなかったときから、彼女は単なる彼にとっての威光と商談をまとめるためのマスコットに成り下がった。一人で外出は許されず、ベラサーとのみ外出が出来る、まさに城に囚われた美しき姫君だ。

そして主人公のチェイス・マローン。元軍用ヘリコプターの操縦士で、小さい頃から絵を描いていたことから退役後画家になり、その独特な生命力溢れる風景画はたちまち世間の耳目を集め、作品が高額で取引されるようになり、絶大なファンも生まれ、その1人クリント・ブラドックは彼の逃亡のために気前よく100万ドルを貸し与える。
元軍人であるから銃火器の扱いにも長け、また格闘術も心得ている、まさに絵に描いたようなヒーローなのだが、人に利用されたり、人から命令されたりすることが嫌いで、CIAの作戦協力のみならずベラサーと、とりわけその部下アレクサンダー・ポッターとも常に反目する。
この辺はいわゆる聖人君子ではない男をヒーローにする作者のキャラクター造形だろうが、いちいち素直に話を聞かない、指示に従わない彼の姿にいささか辟易させられた。

またマレルは彼を設定上の画家にせず、彼の作風や創作風景を丹念に描いている。私はそこが実に興味深く読めた。
人の絵を描くことはそれ自身無言の対話だ。画家は絵筆に対象の内面を描こうとまるで心の中まで見透かすかのようにじっと見つめる。一方モデルはたった1人の男にそれまで経験したことがないほどじっと見つめられる。今まで隠していた心の在り様すらも見られるかのように。
それはいわば直接的接触のないセックスに似ているのではないか。純粋に対象を見つめ合い、お互いを理解し合う、この絵を描くという行為は精神的に最も深く愛情を感じるひと時なのかもしれない。

なんとも目まぐるしい展開だ。いや寧ろこのような展開こそが今の小説には必要なのかもしれない。
マレルの描く冒険小説は上に書いたように昔からよくある英雄による美しき姫君の救出劇であり、悪人は現代の青ひげとも云える精神異常者なのだ。この古来からある設定に冒険活劇と起伏あるストーリー展開を肉付けした、純然たる冒険小説と云えるだろう。

少年ジャンプの三原則は友情、努力、勝利だったが、このマレルの作品はまさにこの三原則に沿って書かれた物語だ。友情は即ちマローンをCIAの作戦に誘った元副操縦士で戦友のジェブ・ウェインライトだ。彼はどんな時もジェブを見捨てず、最後はCIAの身分を離れてマローンの一私兵としてベラサー殲滅に協力する。最後にマローンの許を訪れるのも彼だ。
そしてこの三原則に大人の読み物であるので、ここに男女の愛情が加わるわけだが、実はこの愛情こそが本書では最も濃い。

物語のクライマックスでマローンによって追い詰められたベラサーはシェンナに自分が開発した新種の天然痘を感染させる。
見事ベラサーを討ち果たしたマローンは必死の看護で彼女をこの病気から救うことに成功する。しかし彼女が望んだ祖先の地イタリアのシエナで隠遁生活を送る時、マローンは毎日シェンナの肖像画を描いて暮らす日々を送る。どこにも行かず、誰も訪れないその家でただひたすら2人で時間を過ごすことを愉しむかの如く。
ただシェンナは人が訪れるとその姿を見られたくないとばかりにすぐに隠れる。それは例えば天然痘の後遺症で肌に染みが残ったため、かつて美しかった自分が醜く見られるのを厭うためか、もしくはその美しさゆえに、自分を我が物にしたい男たちによって暴力を振るわれたり、人として扱われなかったことを恐れるためなのか、解らない。
物語はマローンの絵の中の彼女が飛びきり美しいことに言及し、彼女が病気に罹ったために身を隠しているように結んでいるが、私はマローンがシェンナに云った、自分の美しさゆえに哀しみ、そして傷ついているのではないかという問いかけが答えと考え、後者として受け取りたい。
題名に冠せられたシェンナの美しさはただマローン一人だけのもの、そしてその美しさは、ベラサーが30歳で期限を切ったが、マローンにとって永遠なのだ。

本書が平成最後に読み終わった本となった。
典型的な冒険活劇の中にちょっぴり苦く切ない男女の恋の結末が含まれていたのが収穫だった。


No.1448 8点 死のカルテット
ルース・レンデル
(2019/05/05 22:22登録)
いつものように出社し、その日もいつもように仕事を終え、家に帰って家族といつものように変わらぬ会話と小言を繰り返し、寝床に就いてまた同じような朝を迎える。そんな日常が繰り広げられるはずだったところに突然転機となる事件が起こったら、貴方はどうするだろうか?
レンデルのノンシリーズ作品となる本書はそんな日常から突如切り離された4人の男女の話だ。銀行強盗がきっかけで人生が変わりいく男女4人の人生の転機の物語だ。

イギリスで一番小さい銀行支店で働く、1人の妻とその義父、不動産会社に勤める息子と15歳なのに夜な夜な出歩いては、しかしきちんと門限の10時半に戻ってくる娘を持つ38歳の男アラン・グルームブリッジ。アングリア・ヴィクトリア銀行のチルトン支店に勤める銀行員。
もう一人の銀行員は20歳のジョイス・M・カルヴァという女性。どちらかと云えば自由気ままな毎日だが、それは退屈の裏返しでもある。
その銀行の話をあるきっかけで知り、銀行強盗を企てるのはマーティ・フォスターとナイジル・サクスビイの2人。
この2人の行き当たりばったりの銀行強盗が4人の人生を変える。

強盗2人はジョイスを人質に取り、警察に通報されるのを恐れて監禁生活を余儀なくされる。

ごくごく平凡な男だったアラン・グルームブリッジは手元にあった3千ポンドを持ち出し、名を変え、新たな人生を歩むことを決意する。そして彼は下宿先のユーナと恋に落ちるのだ。
私はこのユーナ・イングストランドという女性のことを思うとどうしても切なくなってくる。けなげに生きながらもなぜか幸福に恵まれない女性がいる。ユーナ・イングストランドはそんな女性だ。
原題“Make Death Love Me”、「死神が私に惚れるほどに」という題名は実は主要人物4人を指すのではなく、このユーナの心情を指すのではないか。彼女が辿り着いた心の叫びのように聞こえてならない。
そしてまたユーナをこのような状況に招いたアラン・グルームブリッジがまた悪い人間ではなく、いい人だから困ったものだ。

人生に“もし”はないが、本書はその“もし”の連続の物語だ。
“もし”アランの娘が夜遊び好きでなかったら?
“もし”その娘の友達が悪人でなかったら?
“もし”アランがここではないどこかへ行きたいと思わなかったら?
“もし”アランが別の女性と付き合っていたら?
“もし”ジョイスが銃を弄ばずにこっそりと脱出していたら?
この“もし”の選択肢の中で我々は生きている。本書はその選択肢の1つを選び間違えたが故の歩むべきでなかった人生の道筋の物語。平凡な毎日は選択を一歩間違えばこんな悲劇が待っている。心にずっと痛みが残るような出来事はちょっとしたタイミングや心に差す魔によって起こるのだ。
実にレンデルらしい皮肉に満ちた作品だ。最後にある有名な曲の一節を引いてこの感想を終えよう。
「誠実さ、なんて寂しい言葉なんだろう」


No.1447 10点 証言拒否
マイクル・コナリー
(2019/05/01 22:59登録)
このシリーズが連続して刊行されたのは本書が初めて。よほどコナリーの中で弁護士を主人公とした取り扱いたいテーマがあったのか、はたまた『ナイン・ドラゴンズ』以降、娘を引き取ることになったボッシュの動かし方を模索している最中なのか、いずれにせよコナリーにとってこのミッキー・ハラーシリーズはもはや作家として新たな地平に立つために必要なシリーズとなったようだ。

それを証明するかのように本書では刑事弁護士であるミッキーが民事も扱うようになる。当時世間を騒がしたサブプライムローン問題で住宅ローンが支払えなくなり、多くの差し押さえが発生したこの事件にミッキーはビジネスチャンスを嗅ぎ取り、差し押さえ訴訟を多数扱うようになる。
これまでと違い、不当な差し押さえ案件を扱うことで不当に虐げられ、不利な立場を強いられている人々を救うことになり、救世主的な存在となっていることがハラーの中で今まで刑事裁判を扱っていた時の疚しさを和らげていることがハラーにとっても救いとなっている。それは娘のヘイリーから母親が犯罪者を刑務所に送る検事であるのに対し、本来は無実の人を冤罪から救うための正義の使途であるはずの弁護士が犯罪者の味方をする職業のように見られていたことからも改善する一助なっていることが多分に大きいのだろう。

このヘイリーの想いはそのまま私の想いにも繋がる。ミッキー・ハラーの物語を読むといつもこう思うのだ。一体正義とは何なのだろうか、と。

今回ハラーの“事務所”は1人の新人を雇っている。ブロックスことジェニファー・アーロンスン。
アメリカの裁判にまだ浸っていないアーロンスンは恐らく全ての弁護士がかつてそうであった、正義を重んじ、あらぬ罪を掛けられた依頼人を護る正義の使途としての純粋さを持ったルーキーで、事あるごとにハラーのやり方に疑問を挟む。
なぜ依頼人の話を聞かないのか?単に目くらましだけで他の容疑者を召喚するのか?なぜ証人を誤魔化すためにありもしなかったことを訊くのか?実際に起こってないかもしれないのに陪審員の注意をそらせるために偶然かもしれないことを利用するのか?
ハラーと調査員のシスコがその都度アーロンスンを諭す。我々は弁護の手段を模索し、依頼人に最良の弁護を施す方策を、戦略を作るのだ、と。
このアーロンスンとハラーのやり取りはそのまま今のアメリカの裁判が抱えている、いや世界の裁判が抱えている正義を成すことに対する矛盾を見事に示唆している。我々一般人が常に弁護士や検察官たちが下す判定に違和感を覚えることをこの新人とベテランのやり取りを通じて教えてくれる。アーロンスンがまだ感情というものに寄りかかっている我々に近い立場の人間であり、ハラーたちは徹底して論理を追及する法律を扱う側の人間である。ここにかなり大きな溝があることを知らしめされるのだ。

そしてそれは訴追する検事側も同様だ。やり手の女性検事アンドレア・フリーマンは次から次へと奇手を繰り出してハラーを翻弄する。物的証拠を二度に亘って裁判の大事な局面の直前に提出し、ハラーに検証する余地を与えようとしない。フェアであるべき裁判はいかに相手を出し抜くかのゲームに終始するのだ。アングラな場所で行われる違法な高額で行われるポーカーゲームと大差がないほどに。

こういった裁判の実情を思い知らされるとボッシュが正しいことが為されるべきとして自ら制裁を加えたくなる衝動に駆られるのも無理もない、むしろそちらの方が正しいのではないかと思わされてしまう。

今回驚いたのがハラーがハリウッド・エージェントと契約していることだった。これまでコナリーは作中で自作の映画化について登場人物に語らせており、本書の中でも第1作の『リンカーン弁護士』が映画化されていることが触れられているが、話題性のある裁判が映画化され、ヒットする可能性を秘めていることからハラーは単にその裁判の弁護を務めるだけでなく、映画化の際に映画会社にその権利を売ることができ、しかも本を書いて売ることも出来るようになっている(ところでコナリーは映画でミッキー・ハラー役を務めたマシュー・マコノヒーがよほど気に入ったようで本書のみならず何度も引き合いに出しているのが面白い)。
リサ・トランメルの裁判の映画化権を巡るハリウッド・ゴロと呼ばれるハーバート・ダールとの丁々発止のやり取りもこの裁判に掛かる副次的な戦いとして描かれており、もはや弁護士は単に裁判の弁護や法律相談役といった法的関係の仕事のみでなく、メディア関係にも手を伸ばして多角経営をしないと生き残れないのかと感じ入った。
裁判はもはやショーであり、法廷の中にドラマがあるのだ。

あとやはり触れておかねばならないのはSNSが犯罪に利用されやすいということだ。
まさに現代のIT社会が招く恐ろしさを本書では扱っている。私がこのFacebookのみならずLINEやインスタグラムをしないのは、そのネタのために話題作りをしたり、まめにアップするのが煩わしいからもあるが、自分の行動を他者に伝えることで自ら禍を招くことを恐れてのことでもある。今回の事件はまさに私の懸案が扱われたものとして興味深く思った。

そしてこのリンカーン弁護士シリーズの結末はいつも苦い。
ボッシュシリーズが彼が悪と信じる人間をとことん追求し、そして捕えるまでを描くため、そこでいかなる形にせよ終止符が打たれるのに対し、このシリーズはそこから売容疑者が捕まり、それが果たして本当の犯人なのかを証明する物語であるが、もはや法廷が無実を証明する場所でなく、無罪か有罪かを勝ち取るゲームになっているからだ。裁判とは証拠に基づいて裁かれることで、一抹の割り切れなさを残して終わるものとなり、それが決して万人を満足させるものになっていないのだ。

そこに正義はない。あるのは有罪であると証明できるか否かしかない。たとえ被告人が犯罪者であろうがなかろうが。
正しいことが出来なくなってきているこの複雑になり過ぎた社会の苦さを痛感させられる物語だった。


No.1446 7点 屋上の道化たち
島田荘司
(2019/04/28 23:17登録)
御手洗シリーズ第50作目にしてもその奇想度が全く衰えない。今回は曰く付きの盆栽が置かれた屋上から突然人が飛び下りる不思議な事件を解決する。
いやはやよくもまあこんな話を思い付いたものだと感心した。先の山口氏のキッド・ピストルズの短編集の感想で私は偶然や予想外の出来事が起こることで不可能的状況が生まれるインプロビゼーションの妙が面白いと評したが、流石は巨匠島田氏、そんな山口氏の作品を遥かに凌駕する想像を超えた偶然をこれでもかとばかりに導入し、我々読者を上に書いた不可解事の世界へと誘うのだ。

しかも本書は久々の、実に久々の読者への挑戦状が付いており、今回はそこで作者自身(語り手の石岡自身?)が述べているように、事件の背景となったそれぞれの登場人物の背景について語られており、今までの挑戦状付き作品よりも推理する材料は与えられていると感じた。従って私もこの挑戦状を読み流さず、敢えて受けて立つことにした。
さてその真相は90%合っていたと云っていいだろう。豪腕島田ならではの、アクロバティックな事件の真相は本書でも健在。「疾走する死者」や『暗闇坂の人喰いの木』、吉敷物の『北の夕鶴2/3の殺人』の系譜となる物理トリックだ。

しかし本書では文庫版の表紙が全てを物語っている。
かなり意匠化されたその内容は事件の舞台となるU銀行と作中何度も出てくるグリコならぬプルコの大型看板の位置関係、そして放物線と数式が描かれているそれがこの真相を解く、実に有用なヒントになっている。
というよりほとんどネタバレかもしれないが、私は物語を読まないとその内容が理解できないこの表紙を実に素晴らしいと思った。読み進めるうちにこの表紙も絵解き物として理解が増してくるのだ。

また重箱の隅をつつくようで恐縮だが、以下の2点について触れておこう。
本書は短編集『御手洗潔のメロディ』所収の短編「SIVAD SELIM」の後の事件、つまり1991年の1月ごろの話となっている。しかしその時代だと、例えば田辺信一郎のエピソード“苦行者”の章で彼がY家電に入社し、労働省が「過労死ライン」を設定し、通達したとあるが、この通達は2001年12月に行われており、1991年の時点ではそれがなされていないため、時制が異なるのだ。
またプルコの看板を点検する際に御手洗が小鳥遊刑事にクレーンを呼ばせて道路を一部通行止めにするが、この場合は事前に警察に道路使用許可を申請して許可を得なければならないので、本書に書かれているようにはできないので注意が必要だ。

この原点回帰のような健筆ぶりは評価したいが、特定の企業をモデルにしたエピソードが正直事件に寄与しているとは云い難く、作品の怪異性、もしくは読者の興味を他へ逸らすためのミスリードのために盛り込まれているようにしか感じられないのは正直不満だ。
書かれている内容は決して好意的な物でないため、実在する企業に対してそれは失礼であろう。

また元々の題名『屋上の道化たち』から『屋上』と非常に素っ気ないタイトルに変更したのも気になるところだ。

島田流本格ミステリが味わえるのは大歓迎だが、上に書いたような些末なミスや創作作法にいささか不満が残った。特に上に書いたような時代考証の齟齬や公共機関への届け出の不備などは校閲の段階で指摘すべき点であろう。それは寧ろ出版社の務めだ。

島田氏が巨匠になり過ぎたために意見できないようになったのか。もしそうならばそれはそれで出版界も衰退していくだけだろう。本作品は単行本からノベルスを経て既に3度目の刊行でありながらこのようなミスが見られるのは何とも情けない限りだ。


No.1445 7点 キッド・ピストルズの冒瀆
山口雅也
(2019/04/24 23:45登録)
全4編が収録されたキッド・ピストルズシリーズ第1作はそれぞれ毒殺、ダイイング・メッセージ、見立て殺人、密室殺人と本格ミステリの本質的なテーマを扱っている。
そしてそれぞれの短編には古典ミステリをパロディにしたネタが放り込まれており、ミステリに造詣が深ければ深いほど愉しめる内容となっている。

そんなパラレル・ワールドの英国を舞台にしたキッド・ピストルズシリーズ。
警察が堕落し、腐敗したその世界では民間の私立探偵が活躍し、<探偵士>なる称号が設立され警察より優先的に捜査を行使できるその世界は一見破天荒に思えるが実はこのパラレル・ワールドを設定することで山口氏は本格ミステリに付きまとうある不自然さを見事にクリアしているのだ。

本格ミステリにおいて最も不自然なこととはいったい何だろうか?

密室殺人?人智を超えた不可能犯罪?まだるこしいほどに手の込んだアリバイトリック?

確かにそれは不自然さを感じるだろうが、世の中には色んな人がおり、また予想もつかないことが起きるのが世の常であることを考えれば、上に挙げた内容も許容範囲だ。

では最も不自然なものとは何か?
それは探偵が捜査に介入することだ。

この本格ミステリでは当たり前に起きている素人探偵や私立探偵が殺人事件を始めとする刑事事件の捜査に介入することは現実世界においてまず、ない。

従って世のミステリ作家たちは自ら創案した探偵たちを捜査に関わらせるために様々な工夫をして不自然を自然に見せることに腐心している。

難航した事件を偶々事件に関係した探偵が解決した。

警察の上層部が父親、もしくは親戚である。

警察の相談役となり、既に捜査に携わることを認められている、などなど。

しかし本書では無効化した警察の代わりに探偵士が捜査を行うという世界を設定することでその不自然さを見事にクリアしているのだ。

しかも事件を解決するのはそれら探偵士でなく、堕落した警官であるキッド・ピストルズであるというパラドックス。

つまり本来事件を解決すべき警察が、探偵が登場する本格ミステリにおいて道化役もしくは物語の進行役になっている不自然さを更に本書では探偵士ではなく道化役であるはずの警察が事件の謎を解くというあるべき姿になっているところに妙味がある。
あり得ない世界を設定したことであるべき捜査の在り方を描く。
パラドックスに満ちながら、実は正統な事件の解き方を描くことになっていることが非常に面白い。

デビュー作では死者が甦る世界における殺人事件の意義を問い、そして本書では探偵が警察よりも権威を持つパラレル英国を舞台に、しかも作者自身のあとがきによれば世界初のマザーグース・ミステリ連作シリーズを著した山口氏。
誰も書いたことのないミステリを、もしくは自分だけが想像する世界におけるミステリを書く、孤高のミステリ作家山口雅也氏は極北のミステリを目指しているが、それが結果的に純粋に本格ミステリにおいて探偵の存在を不自然にならないようになっている。

そして探偵の存在を肯定しながらその実、事件を警察に解決させるこのシリーズは山口氏独特のパラドックスに満ちた作品であると云えよう。

本格ミステリの異端児が放つミステリは異端な世界を描くことで実は至極真っ当な世界を描く、つまり―(マイナス)に―(マイナス)を掛けると+(プラス)になることを証明した作品なのだ。

かつて山口氏は本格ミステリの巨匠島田荘司氏を本格ミステリ界のボブ・ディランと称した。
それに倣って私は山口氏を本格ミステリ界のなんと称しようか。それはもうしばらく氏の作品を読んでから判断することにしよう。


No.1444 8点 スキン・コレクター
ジェフリー・ディーヴァー
(2019/04/23 23:42登録)
10作目という節目を終え、新たなシリーズの幕開けを意識したのか、本書は題名からも解るように1作目の『ボーン・コレクター』を意識しており、内容も同じくボーン・コレクター事件の影響を受けた犯人との戦いを描いている。まさに原点回帰の1作だ。
ボーン・コレクターは骨への執着が強い犯罪者だった。かつて楳図かずおのマンガでも嫌らしいのは骨の上についている肉で骨こそ美しいと述べていたが、本書のスキン・コレクターはその皮膚に執着する犯罪者だ。

さて今回の敵スキン・コレクターはなんと犯罪実話集でリンカーン・ライムについて語られたボーン・コレクター事件の項目を読み、ライムのことを熟知した敵だ。従って彼はライムが行うであろうことを想定して常にそれを出し抜く。自らの痕跡を完全に消し去るのは無論の事ながら、アメリアがするであろう証拠品の検めを想定して毒入りの針を仕込むという罠を仕掛けたりもする。更に大胆にもライムのアパートメントに忍び込み、毒入りのウィスキーを置いて、ライムに意図的に飲ませようとする。またロン・セリットーは消防士に成りすました犯人によって配られたヒ素入りコーヒーを飲んで意識不明の重体に陥ってしまう。そう、今回ライムチーム自身もまたこのスキン・コレクターの標的になっているのだ。

更に本書のテーマは毒殺である。とにかくこのスキン・コレクター、色んな毒を駆使して被害者に襲い掛かる。
毒殺はジョン・ディクスン・カーなどが良く好んで使っていた殺害方法でつまり黄金時代のミステリの主要な殺人方法だったが。現代では廃れてしまっている。犯人がわざわざ毒殺に固執することにライム自身疑問を呈すが、私は逆にこの古典的な殺害方法を本書で用いたことで改めてディーヴァーが現代のシャーロック・ホームズシリーズと呼ばれているリンカーン・ライムシリーズの原点に回帰したことを示しているメッセージだと受け取った。

またスキン・コレクターが遺体に施す、もしくは施そうとしたメッセージもまた意味深だ。“the second”から始まり、その後“forty”、“17th”、“the six hundredth”と続く。それらは全て数を意味しているが、全くその関連性が見えない。ダイイングメッセージならぬ犯行声明であるが、これに加えて今回は各犯行現場の平面図が本書にはきちんと挿入されており、これらの趣向が本格ミステリ志向ど真ん中なのである。

相変わらず怒濤のようにサプライズを仕掛けるディーヴァー。それはあまりに突飛すぎて、その場面に直面した瞬間は頭に「?」が飛び交い、理解に少々時間を要してしまう。そしてそれが本当に成り立っているのか、どうしても後でその場面を振り返る必要に駆られる。

さて今回も非常に複雑に入り組んだストーリー展開を我々読者にディーヴァーは提供してくれた。しかも2015年発表の本書では上に書いたようにかつての黄金時代のミステリを彷彿とさせる、暗号を思わせる犯罪者からのメッセージ、各種取り揃えた毒による毒殺という古典的な殺害方法といった本格ミステリ風味が前面に押し出されている。
更に昔から都市伝説のように云われていたNYの地下に網の目のように張り巡らされた地下通路を犯罪者スキン・コレクターが暗躍し、マスコミからアンダーグラウンド・マンと名付けられ、原題に甦ったオペラ座の怪人のような様相を呈している。
そしてこの“アンダーグラウンド”が民間武装組織といった米国内に数多あるテロ組織を暗示しており、彼らが掲げる白人原理主義は現在のトランプ大統領が掲げているメキシコとの国境の壁建設やイスラム教徒の入国制限といったような選民主義的主張を象徴しているようで現代に通じるものを感じる。

とまあ、本書もまたいつもの、いやそれ以上に様々な仕掛けを施し、読者の頭をそれこそ作者ディーヴァーが両手で掴んで前後左右へぐるぐる回しているかのような目まぐるしい展開を見せるのだが、エンタテインメントに徹しすぎて深みに欠けるように感じてしまう。
特に今私が連続して読んでいるコナリー作品に比べると、各登場人物が抱く心情に深みを感じないのだ。ボッシュの異常なまでの悪に対する執着、ハラーの何が何でも裁判に勝つためのがむしゃらさといったような灰汁の強さや登場人物たちがその選択をした、せざるを得なくなった性や背負った業というものを感じないのだ。
確かにディーヴァーの描くプロットは最後見事なまでに整然としたロジックの美しさを感じさせる。特に本書は全てが繋がり、最後の一滴まで飲み干せる美酒のようなそつのなさを感じさせるが、そこにコクを感じないのだ。

これは全く以て私のディーヴァー作品を読む姿勢が間違っていると云えよう。ディーヴァー作品を読むには彼の作風を想定してそれに自分の頭を切り替えて読むべきなのだろう。だからディーヴァーにはディーヴァー作品の、コナリーにはコナリー作品の読み方をしないとこのような読後感に陥ってしまうのだ。

しかし『このミス』1位の作品は危険だ。どうしても期待値が高くなってしまい、感想も辛めになってしまう。もっと純粋に物語を愉しめるよう初心に戻った読み方をしなければと反省した次第だ。いや、面白かったんですよ、ホントに。

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