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ミステリの祭典

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Tetchyさんの登録情報
平均点:6.73点 書評数:1603件

プロフィール| 書評

No.1523 7点 ニードフル・シングス
スティーヴン・キング
(2021/08/22 23:41登録)
『図書館警察』所収の中編「サン・ドッグ」でも触れられていたように本書は長らくキングの数々の物語の舞台となったキャッスルロック終末の物語である。
キングがどうしてこの町を葬ろうとしたかは解らないが、『デッド・ゾーン』に『クージョ』、『スタンド・バイ・ミー』など名作とされる物語の舞台だっただけにその終焉は感慨深いものがある。

ニードフル・シングス(Needful Things)、つまり「必要なもの」とか「必需品」を指す言葉だが、本書における意味はそれぞれの客にとって「無くてはならない物」、もしくは「喉から手が出るほど欲しいもの」である。
リーランド・ゴーントの店は客が集めている物や興味を持っている物、更には小さい頃に欲しくて手に入らなかった物などが置いてあり、客がそれに触れると物に宿った記憶が呼び起こされ、頭の中に映像として浮かび上がる。そしてそれが客の所有欲を掻き立て、欲しくてほしくて堪らない衝動に陥るのだ。何もかも犠牲にしても構わないほどに。
そんな激しいまでの欲望をゴーントは利用し、客にそれを買わせる。相場よりも破格に安い値段と足らない分を町の住民への悪戯との引き換えに。

それらはやがて持ち主の心を支配する。欲しい物、ようやく手に入れた宝物は持ち主の執着心を煽り、やがてそこから聞こえる声に従うようになる。それはリーランド・ゴーントの声で、彼は物に囚われた人たちの心を操るように約束した悪戯をするよう促すのだ。
つまり彼らの手に入れたニードフル・シングはリーランド・ゴーントの依り代であるのだ。
従って物語の終盤では彼らの手に入れた品々がゴーントによるまやかしによって信じさせられたものであることが次々と判明していく。

しかしよくまあキングは人の欲望について様々な視点から語るものだと感心した。
喉から手が出るほど欲しい物とは人それぞれによって様々だ。
例えば蒐集家は長らく探し求めていたレア物を目にしてどうしても欲しくなるだろうし、子供の頃の思い出の品を見つけると同様に欲しくなるだろう。
また大ファンのアーティスト関連のグッズもまた垂涎の的であろう。
一方で自分の人生が崩壊しようとしているまさにその時にその状況を打開できるものが現れれば、何を差し置いても手に入れるだろう。
また長年悩まされる病の苦痛を少しでも和らげてくれるアイテムがあれば最初は半信半疑だったとしても実際にその効用を感じれば、もう手放せなくなるだろう。

これら町の人が欲しがるもの、望むものを売る謎の骨董屋≪ニードフル・シングス≫の店主リーランド・ゴーントの正体はいわゆる“尋常ならざる者”だ。
そんなゴーントの特殊能力を見抜く力を持った者がいる。その一人が保安官のアラン・パングボーンだ。

誰しも近隣住民との間に何らかの不平不満を抱いているものだ。それは性格的に合わない、生理的に受け付けないといった本能から由来するものでいわゆる苦手意識から来るものだったり、表層化したいざこざや諍いが今に至って尾を引いていたりと、大小様々だ。
人はそんな負の感情を仮面に隠して世間に向き合い、近所付合いを続けている。しかし自分に何か不利益なことや謂れのない悪戯といった害を被るとそれが引き金となって潜在下で押し留められていた不平不満が鎌首をもたげたかの如く、頭をよぎり、そして証拠もないのに犯人だと確信に変わる。
もしくは相思相愛だと思っていた関係もたった1枚の写真と手紙で愛から憎しみへと変わる。
または隠しておきたい背徳的な趣味嗜好を明らかにされることで怒りが生まれる。
我々の住む生活圏とはこんな些細な異物で狂う歯車のような微妙なバランスの上で成り立っているのだ。
キングはこの人間たちが持つ感情の機微を実に的確に捉えるのが非常に上手い。

やがてそんな悪戯が町の住民たちの猜疑心を生み、そして町の崩壊まで至るようになる。
これは即ち暴動の始まりである。アメリカで、中国で起きている警察に対する、政府に対する暴動はそれぞれが小さな発端から市を、州を、国中を、そして世界中を巻き込む抗議活動に発展し、そして暴動へとエスカレートしていった。
本書ではキャッスルロックという小さな町の住民間の小さな諍いが肥大し、やがて町を滅ぼすまでの暴動に発展する様を描いた作品なのだ。

そして『スタンド・バイ・ミー』に登場したキャッスルロック一の不良エース・メリルも物語の中盤になって現れる。既に齢四十八となったエースのキャッスルロックを離れ、戻ってくるまでの物語も11ページ費やされる。
つまりキングがキャッスルロック最期の話に選んだ主役はその住民たちだったのだ。彼ら彼女らはそれぞれそこで生まれ、育った者もいれば、他所から来た者もいる。そして彼ら彼女らは一様に何の問題もなく、それまで生きてきたわけではない。
人は皆物語の主人公だという言葉があるが、キングは本書でまさにその言葉通りに皆が主人公の物語を紡いだのだ。

キングが本書で描いたのはほんの些細なことで人は不可侵領域に押し入り、そして諍いが起きて社会が崩れ去る様だ。我々の共同体とはなんとも脆い楼閣であるのか。
そして物語とは云え、その一部始終を上下巻1,300ページ強を費やしてじっくりとねっとりと見せつけられる後ではやはり人は心底信じあえることはできないのだと痛烈に嘲笑している作者の姿が目に浮かぶようだ。

さて私は本書に対して思うところがある。それは本書はキングにとって作家生命の再生の物語でもあったのではないかということだ。
思えばなかなか作家としてデビューが適わなかった彼がボツにした原稿を妻のタビサが見出して投稿したところ、見事デビューとなり、そしてその後映画化もされ、破格の扱いとなった作品『キャリー』もまた町が崩壊する物語だ。念動力の能力を持つ超能力少女キャリーがプロムパーティーで屈辱的な扱いを受け、怒りに駆られてその力を発動して町1つを壊滅に追い込む物語がキングのデビュー作であり、ベストセラー作家としての第一歩を踏み出すことになった。
この長らく親しんできたキングが生み出した架空の町キャッスルロックを崩壊させるこの物語はつまり当時スランプに悩んでいたキングが再生を図るための破壊の物語であったのではないだろうか。
キングのキャッスルロック・サーガを意識的に取り上げ、そしてそれらを無に葬り去るのが本書だ。そうすることでデビュー作と同様の栄光を掴み、作家として更なるステップアップを望んだのではないだろうか?

破壊と再生を繰り返す作家キング。彼がなぜ2010年代に再び傑作群を発表するようになったのか、本書以降からそれまでの作品の変化を追う興味が湧いてきた。

物語の最後、ゴーントが去る馬車の腹には次のような一文が書かれていた。
“すべては買い手の責任”
何かを手に入れれば何かを喪う。欲望に駆られて衝動的に買い物をすればそれには大きな代償を支払うことになる。本書は物欲主義に陥った資本主義に対する警告を促す作品か。それとも単に何でも欲しがる子供たちに向けての説教のための物語なのだろうか。
ともあれ何かを買うときは慎重に考えることにしよう。でないととんでもない代償を払わされることになる。それも家族や町が崩壊するほどに。


No.1522 1点 ラベンダー・ドラゴン
イーデン・フィルポッツ
(2021/08/14 00:06登録)
フィルポッツによるファンタジー小説という非常に珍しい作品である本書はしかしその予想を大きく裏切る内容である。
題名に示すように登場するのはラベンダー・ドラゴンという美しい鱗に覆われた巨大な古竜でラベンダーの香りを放つことからその名がついた。物語は武者修行中の若き騎士ジャスパー卿が最後に出くわしたこの竜との戦いを描くかと思えば、その予想は大きく裏切られる。

辿り着いたのはドラゴンが創った理想郷とも云える村。そしてそこにはドラゴンに食われたと思われた人々が実に愉しく暮らしていた。
そこから繰り広げられるのはその理想郷に暮すようになったジャスパー卿とその従者の結婚とラベンダー・ドラゴン、即ちL・Dの長ったらしい講釈の数々だ。
それは理想的な街づくりの話であったり、理想の生き方や思想、教育論など様々だ。
それはさながら仏教の教えのような様相も呈してくる。即ち万物の命は皆尊いとか謙遜の心が足らない―これは逆に日本人特有の精神だからドラゴンが西洋人に諭すのには思わず苦笑いをしてしまうのだが―、人の非難をする、取り壊すことは容易だが、建設的な話をする方を好む、などなど道徳論や人の道を説くのだ。

巨大で人間以上の知識を持ち、人語も話すが、その気になれば人間などは簡単に殺すほどの力を持ったドラゴン。そんな畏怖すべき存在が穏やかな性格で人間たちの住みよい街を与え、そして人間たちが図りしえない長い年月を生きてきたことで学んだ考えを諭す。これは当時61歳となったフィルポッツ自身を投影した姿ではないだろうか。彼が蓄積した知識と思想をラベンダー・ドラゴンを介して語っているように思える。
しかしその内容は正直長い説教でしかなく、非常に退屈極まりない。そしてエンタテインメントとしての体を成していない。全知全能の存在であるドラゴンをフィルポッツは人間たちが到底敵わないような強大な存在として描かず、人智を超えた経験値を得た、仙人のような存在として描く。

本書はファンタジーの意匠を借りたフィルポッツの理想論を書いた作品だとするのが正しいだろう。そしてそれは物語の姿を借りずにノンフィクションで出してほしい。


No.1521 9点 凍氷
ジェイムズ・トンプソン
(2021/08/10 23:58登録)
カリ・ヴァーラ警部シリーズ2作目の本書では舞台はキッティラからヘルシンキに移り、カリも署長から深夜勤務の新人と組む新参刑事となっている。

今回カリ・ヴァーラが主に扱う事件は2件。1つは夜勤明け直前に出くわした不倫中カップルの女性の拷問殺人事件。もう1つは国家警察長官ユリ・イヴァロ直々の命令によるフィンランドの公安警察ヴァルポの生き残りでフィンランドの英雄であるアルヴィド・ラファティネンが第二次大戦時にユダヤ人の虐殺に関わっていたとの容疑でドイツが引き渡しを求めているのを阻止することだ。
通常の殺人事件の捜査とフィンランドの歴史の暗部を探る壮大な事件。しかし通常の殺人事件も被害者の夫が富裕層で国家警察長官ユリ・イヴァロとも親交がある事からコネを使って捜査を妨害するという権力の壁に阻まれる。
そしてその事件の被害者の夫がやがて容疑者である可能性が濃くなっていく。

まずこの妻殺しの殺人事件は何とも陰惨なものだ。愛人とのセックス中に夫が忍び込んで相手を昏倒させ、なんと夫は妻をティーザー銃を使って身動きさせなくし、そして自分の愛人を連れ込んで浮気相手の乗馬鞭で拷問しながらセックスに興じるという性倒錯者の側面が浮かび上がってくる。

もう一方の任務、アルヴィド・ラファティネンの無罪を証明する仕事は、最初は自身の祖父が同じ収容所に勤務していたことを糸口に懐に入ろうとするが、彼がドイツ政府に告発される原因となった暴露本を書いた作者からアルヴィドに関する資料を見せてもらったところ、カリの祖父が同じ時期に彼と同じ収容所に勤めていたどころか、祖父をヴァルポに加えるよう取り計らってもいることからアルヴィドが嘘をついたことが判明する。そして逆に自分の祖父もまた彼と同じように捕虜を射殺していたことを知らされ、カリはショックを受ける。そして彼はフィンランドの英雄と謳われるマンネルハイムなどの人物がドイツに協力して3000人のユダヤ人の戦争捕虜を引き渡していたことを知らされる。そしてこれらの事実を自分をドイツ政府から護らねば暴露すると云ってフィンランド政府を脅すと云うのだった。

この2つの事件は実に見事な形で終息する。この見事な結末の付け方に作者の構成力はもとより、歴史の荒波を生き抜いた老人の老獪さを思い知らされた。

さて1作目では日本人には馴染みの薄いフィンランドの国が抱える暗い社会問題が氷点下40度の極寒の地で起きた殺人事件の暗欝と共にやたらに語られていたが、本書では一転してカリの妻ケイトの妊娠のタイミングに合わせて来訪した弟と妹へのガイドの側面もあるのか、フィンランドの文化紹介となっており、トーンとしては明るい。

1作目が陰ならば2作目は陽とも云える。
それはケイトの心情がそのまま作品に投影されているかのようだ。

つまり同じアメリカ人でフィンランドに移住した作者はケイトに自身の心情を映し出し、それが作風にも表れているように思えるのだ。
しかしとはいえ、このシリーズの色調は基本的には暗い。アメリカから遊びに来るケイトの弟ジョンや妹のメアリは様々な問題を引き起こし、ケイトは母親が亡くなった後に彼らの母親代わりとして世話をしてきたが、その変貌ぶりに思い悩むようになる。

業の深い人間たち。どこか精神の箍が外れた人間たち。そして幼い頃の父親からの虐待に幼き妹の死から始まった事件のみならず自分を取り巻く人々の死。それらを目の当たりにしながら極寒の地で正しくあろうと奮闘するカリ・ヴァーラ。

しかし彼にとうとう非合法の特殊部隊という権力が与えられるようになった。正しいことをするために必要ならば殺人をも辞さないチームを持った彼がどのように変貌するのか。

これからのカリ・ヴァーラは更に過激さを増しそうで期待よりも不安が勝ってしまうのは単に私の杞憂に過ぎないのだろうか。
とにかく次作を楽しみにすることにしよう。


No.1520 8点 メインテーマは殺人
アンソニー・ホロヴィッツ
(2021/08/09 00:29登録)
2018年の海外ミステリランキングを総なめにした『カササギ殺人事件』はフロックではなかったことを証明したのが本書である。本書もまた2019年の海外ミステリランキングで4冠を達成した(因みに『カササギ殺人事件』は7冠)。

本書の最たる特徴は作者アンソニー・ホロヴィッツ本人が登場することだ。しかもカメオ出演などではない。作者と同姓同名の探偵などでもない。ホロヴィッツが作者自身として登場するのだ。従って読んでいるうちに奇妙な感覚に囚われていく。
果たしてこれはドキュメントなのかフィクションなのか、と。

スティーヴン・スピルバーグがプロデューサーとなり、ピーター・ジャクソンが監督で『タンタンの冒険2』の企画が進行しており、ホロヴィッツがその脚本家に抜擢されて打合せしたりする。
しかもその打合せの場にホーソーンが乱入して、ホロヴィッツを被害者の葬儀に駆り出す。

このように作家自身が登場し、更に自身が手掛けたドラマのアドバイザーの元刑事と共に事件を追う本書はそんな現実とも創作とも判断の着かない世界の狭間を行ったり来たりするような感じで物語は進んでいく。これが読者に実話なのかもと錯覚を引き起こさせるのだ。
特に作者が死体を目の当たりにするシーンなどは実にリアルだ。例えば殺されたばかりの死体が死後硬直が進むにつれて声帯も硬直し出して呻き声のような音を発するといった描写は実に生々しいし、実際に見てきたかのような迫真性がある。
従って本書の探偵役を務める元ロンドン警視庁の刑事で今は顧問をしているダニエル・ホーソーンも実在しているのか、もしくは作者による創作なのか、終始曖昧なままで進む。
何しろホーソーンと知り合ったのはホロヴィッツが脚本を手掛けたドラマ『インジャスティス』のアドバイザーになった時だ。このドラマは実在するため、ホーソーンも果たして実在するのか?
そしてこのホーソーンは一言で云うならば、マイペースなイヤなヤツだ。正直云って自ら進んで関わり合いたいと思わない人物だ。ホーソーンと共に行動する主人公の作家ホロヴィッツの心の動きが面白い。

そしてホロヴィッツはこう考えることにする。この決して人好きのしない元刑事の為人を観察して理解しようと。つまり探偵自身を探偵することを決意するのだ。
私は『カササギ殺人事件』を「ミステリ小説をミステリするミステリ小説」と評したが、やはりその観点は間違っていなかったとこの一文を読んだ時に確信した。
ホロヴィッツはミステリそのものに興味を持っているのだ。つまりミステリ自身が持つ謎を。だからこそそれ自身について探偵するのだ。『カササギ殺人事件』がミステリ小説そのものに対してであるのに対し、本書は探偵役そのものに対して。

後半からはとにかく伏線回収の応酬だ。
ホーソーンに救出されて入院しているホロヴィッツの許を訪れたホーソーンが語る事件解決に至るまでの彼の推理で作者が周到に犯人を示唆する伏線と手掛かりを散りばめていたことが明らかになる。
この回収は『カササギ殺人事件』でも見られたが、毎度のことながら、よくもまあここまでと感心させられるし、読者が伏線・手掛かりと気付かないほどそれらはさりげなく物語に記述されているのが解る。

特に感心したのは10年前のクーパー夫人の轢き逃げ事故の判事を務めたナイジェル・ウェストン弁護士の家が法科に遭った原因が作者にあるとホーソーンが云った理由がただの腹いせではなくて、彼が犯人のコーンウォリスに10年前の事故についても調べていると語ったことが起因していたことだ。それを聞いたコーンウォリスがホーソーンたちをミスリードするために犯したのだった。
他にもクーパー夫人のショートメッセージのスペル自動修正機能のために誤った情報が息子ダミアンに伝わり、しかもそれが偶然にも轢き逃げ事件の被害者を仄めかしてしまった件などは本格ミステリのケレン味を感じさせ、感嘆させられた。
またダイアナ・クーパーが自分の葬儀の手配を自ら行った理由が度重なるトラブルに厭気が差して自殺しようと思っていたことやコーンウォリスの葬儀屋の息子として生まれたことの苦悩など、登場人物の陰影などもしっかり描き込まれており、余韻を残す。

私が本書を読み終わった時、正直年間ランキング2年連続1位獲得するほどの作品とは思わなかった。
確かに上に書いたように最後に畳み掛けるように明かされる伏線回収の美しさは海外ミステリ作家には珍しいほど本格ミステリの端正さを感じさせるし、ホーソーンとホロヴィッツが苦手意識を持ちながらも時に親近感を持ちながらやり取りし、事件解決に向けて関係者を渡り歩く様など昔ながらのホームズ&ワトソンコンビのような妙味もある。
しかしこのホームズシリーズの手法に則った本書だが作者自身が語り手を務めることに対して何か仕掛けがあるのではないかと思っていただけに、案外すんなりと物語が閉じられたことになんだか肩透かしを食らったような感覚を覚えてしまったのだ。

先にも書いたが本書は作者本人がワトソン役を務め、探偵を探偵するミステリである。つまりダニエル・ホーソーンとは一体何者なのかを明かすミステリでもある。

しかしそれだけでは何ともこの小説が年間ランキング1位を獲るだけのインパクトには欠ける。なぜ本書が斯くも賞賛を持って迎えられたのか?

それはやはり日本の書評家たちが自分たちの住まう世界の話が好きだからではないか。
『カササギ殺人事件』も英国のミステリ作家の世界を描いた作品である。実在の人物まで出演して物語に関わってくるし、そして何よりもクリスティ作品の良きオマージュとも云えるアティカス・ピュントシリーズ最終作が丸々1冊入っていること、そしてそれ自体が物語のトリックにもなっている事など実に精緻を極めた作品だった。
本書は英国ミステリ作家ホロヴィッツ自身が語り手を務めることで英国ミステリ文壇の内輪話や作家の創作方法や心情について生々しいまでに吐露されている。こういう作家稼業の内輪ネタが日本の書評家には堪らなく面白いのだろう。それが本書が称賛を以て迎えられた大きな理由ではないだろうか。

私がその中で一番印象に残っているのは2つ。
まずはホロヴィッツが本書を自身の一人称叙述にしてしまったことを後悔していると述べている件だ。本書でホロヴィッツは犯人に薬を盛られて全身麻痺になり、メスを突き立てられて殺されそうになるが、私はどうせ助かるものだとあまりスリルを感じなかった。なぜなら作者自身が述べているようにこれは作者の一人称叙述なので彼が助かっているからこそこの物語を我々が読めることを知っているからだ。
あとは最後の件だ。彼は自分がホーソーンが妻を利用して彼の本を書くことを仕組まれた事に気付いて彼に本など書かないと捨て台詞を吐いて後にするが、他人に自分のことを書かれるのは我慢がならないとして結局書いたのが本書であると結ばれる。この辺のメタな感覚が一ミステリ読者として面白く感じた。

しかし本書の一番の魅力はやはりこの一言に尽きるだろう。

この話、どこまで本当なの?

ホロヴィッツがこの質問をされた時、恐らくはニヤリと笑ってこう答えるのではないだろうか?
「それはみなさんの想像にお任せします。なんせ本書の『メインテーマは殺人』なのですから」


No.1519 2点 どきどきフェノメノン
森博嗣
(2021/08/01 00:38登録)
リケジョの恋の仕方教えます!
そんなキャッチフレーズが似合いそうな森博嗣流理系女子ラヴ・コメディーが本書。しかしここでいう「恋の仕方」とは恋の指南書という意味ではなく、理系女子はこんな感じに恋をしているのだと森氏独特の文体と思考で語られる。

窪居佳那は24歳のとある大学の博士課程の1年。別に男は欲しいと思わないのだが、容姿がいいのか、研究室のM1の後輩鷹野史哉と水谷浩樹の2人は何かと彼女に絡んでくる。それぞれアプローチの仕方は違うのだが。

そんなリケジョの日常と恋、そして思考と妄想が語られる本書の内容は彼女の日常で起きるちょっとした事件や出来事が取り留めもなく起こって進む。
また恋の話は主人公の窪居佳那だけでない。彼女の友人藤木美保の恋バナも語られるのだ。
合コンで知り合った猪俣と矢崎という男性2人のアプローチを後輩の水谷を使って逃れる件にその事件をきっかけに美保が水谷に好意を抱き、剣道の相手をさせて、情熱的なラヴシーンに発展したりする―このシーンは傑作!―。

また森氏は大学をよく舞台にしているが、私自身も理系学生であったので所々にノスタルジイを感じてしまった。特に夜の研究室に美保を伴って訪れて、そこで佳那と美保、そして後輩の水谷と鷹野の4人で酒宴が催されるシーンなどは、自分も学祭で同じようなことがあっただけに胸に迫るものがあった。

と読んでいて覚えた既視感があった。
これはもしかして森博嗣版ちびまる子ちゃんではないか?

そして読み進むにつれてこの窪居佳那という女性を私は次第に嫌いになっていった。
なぜなら彼女は自分勝手で大した能力もないのに先輩面をし、そして非常に鈍感である。

彼女は自分の身に起きた事象について沈思黙考するのだが、これが非常に長い。長すぎる。
この非常に長い思考は例えば『東京大学物語』の主人公村上直樹のそれを彷彿とさせるが、森氏独特のダジャレがふんだんに盛り込まれており、単なる作者の悪乗りにしか思えない―中には「鯉の病」といった爆笑ネタもあったが―。

そして彼女が考える謎は一般人である我々にしてみれば簡単に解る事なのに、恋愛慣れ、世間ずれしていない彼女はその当たり前のことが解らないため、延々と思考し続けるのだ。読者はとうに答えが解っているのに、この窪居佳那という鈍感女のしょうもなくも不必要なまでに長い思考に付き合わされるもどかしさを何度も何度も強いられる。
特に志保と水谷の剣道シーンに隠された真相は正直終ってからすぐに解るのに、延々「水谷はどうして研究室に自分より早く戻ってくることができたか」と最後まで引っ張る。

どうでもいい女の、どうでもいい勘違いとどうでもいい恋バナを読まされた。そんな読後感が残る作品だった。
この頃の森氏は本当に何を書いても許されたのだなぁ。


No.1518 8点 星降り山荘の殺人
倉知淳
(2021/07/13 23:50登録)
倉知淳氏の数ある作品の中でも名作と呼ばれている本書はいわゆる典型的な“嵐の山荘物”である。

実にオーソドックスな本格ミステリである。まさに新本格のお手本のような本格ミステリだ。
更に登場する面々も実にオーソドックスなキャラクター付がなされている。

本書の最たる特徴は各章の冒頭に作者からの注意書きが付されていることだ。そこにはミステリを解く上でのヒントが書かれている。
例えば冒頭では「探偵役と助手は犯人ではない」と明言されており、更には「不自然なトリックは使われていない」とほとんど推理の幅を狭めるような核心を突いたものまで登場する。つまり本書はミスディレクションを極力排した形で物語が展開するのだ。

この究極的なまでにフェアである本書はその反面、究極的なまでにミスディレクションに満ちていた本格ミステリだった。
いやはやすっかり騙されてしまった。久々に犯人が明かされた時に「えっ!?」と声を挙げてしまった。そして作者の周到な仕掛けに初めて気づかされ、驚かされるのだ。
してやられた、と。

しかしなんという犯人だ。これまでのミステリで最も卑劣な探偵役かつ犯人ではなかろうか。

とにもかくにもまだ本格ミステリにはこのような手が残っていたのかと素直に驚かされ、感心した次第だ。
そしてこの手法は本書唯一無二の物ではないか。もうこの手は誰も使えないのではないか。

実にフェアで独創的かつ斬新な本格ミステリであった。これは確かに末永く読まれるべき本格ミステリである。

本当に普通の本格ミステリなのである、読んでいる最中は。
しかし「普通である事が一番難しい」とはよく別の意味で使われるが、本書もある意味普通であるがゆえに真相を暴くには難しいミステリであろう。綺麗に騙され、そしてスカッとする、本格ミステリならではのカタルシスを感じさせる作品であった。

いやあ、嬉しいね。何が嬉しいかって、この仕掛けを今までネタバレに遭わずに読めたことだ。本書を既に読んだ読者諸氏のフェアな感想に改めて感謝したい。
本格ミステリはまだ可能性を秘めている。そんなことを清々しいまでに思わされた作品であった。


No.1517 7点 知りすぎた男
G・K・チェスタトン
(2021/06/26 00:42登録)
数あるチェスタトンのシリーズキャラクターにまた1人奇妙な人物が加わった―というよりも彼の描くシリーズキャラクターは全て奇妙奇天烈なのだが―。ホーン・フィッシャー。通称“知りすぎた男”。本書は彼の登場と退場までを描いた連作短編集だ。

彼はかつて当選しながらも一度も国会に行かなかった国会議員であった男であり、彼の親戚一同は政界に進出した上流階級の人物であった。実の兄ハリーは陰の政治家の私設秘書でもう一人の兄アシュトンはインド駐在の高官、陸軍大臣と財務長官を従兄弟に持ち、文部大臣を又従兄弟に持ち、労働大臣は義理の兄弟で、伝道と道徳向上大臣は義理の叔父であり、首相は父親の友人で外務大臣は姉の夫というまさに政治家一族である。そして数々の事件を解決しながらも決して彼は司法の手に犯人を委ねない。彼は真相を知るだけでそれ以上のことをしないのだ。
それは過去数多の名探偵に見られた傾向であり、いわゆる謎さえ解ければ満足なのだという自己中心的な探偵の1人に思えるが、実は彼は大局観で以って物事を捉える。

しかし彼のいわゆる大局観には現代の日本人の常識からみても首を傾げてしまうものもある。
例えば最後の短編「彫像の復讐」でハロルド・マーチがホーン・フィッシャーの忠告に従って彼らの悪行を見逃していたら、いつの間にかイギリス政府はとんでもない輩たちの巣窟になってしまったと云って、数々の悪い噂を並べる。
財務長官は金貸しの云いなりになっている。
首相は石油の契約で商売をしていた。
外務大臣は酒と麻薬でボロボロだ。
これらは正直今の時代では政治家生命を失うほどのスキャンダルだが、フィッシャーはそんな噂を持つ彼らを誇りに思うと云う。そんなことをやってまでも頑張っているからだと。
この発言は眉を潜めざるを得ない。我々は彼らを糾弾しようとする友人の新聞記者ハロルド・マーチ側に立つ人間だ。

有識者によれば本書執筆時のチェスタトンは当時の英国政治に不信感と不満を抱いており、その葛藤がフィッシャーとマーチ2人に現れているとのこと。つまり悪を認めながら必要悪として断じないフィッシャーの諦観とマーチが抱く義憤はそのままチェスタトンが内包していた思いなのだろう。

そして本書はまた1つ別の側面を持っている。それはこのハロルド・マーチという新聞記者の成長譚でもあることだ。
新進気鋭の新聞記者として第1作に登場し、ホーン・フィッシャーと出遭って友人となった彼はフィッシャーの人脈を利用して他の記者では得られない政治家の情報を次から次とスクープし、最後の短編では当代一流の政治記者と云われ、自由な裁量権を与えられた大新聞を預かるまでになる。彼はいわばフィッシャーによって育てられた、そしてフィッシャーの唯一の友人にまでなった男にまで成長するのだ。

しかし覚悟はしていたが、やはりチェスタトンの紡ぐ物語は衒学趣味に溢れ、なかなか本筋を追うのが難しく、一読目で状況を理解するのは困難で、粗筋を書くために読み直して初めて物語の筋とそして彼が散りばめた含みある言葉の数々が解ってくるし、こうやって感想を書くことで再び本書を紐解き、再構成していくことでこの連作群に込められた作者の意図が見えてくる。
本当の内容を知るために本書はまさに“二度読み必至”な作品なのだ。

そして久々のチェスタトンの短編集はやはり逆説に満ちていた。
見当違いの的に当てる射撃の下手な人物は名手だからこそ見当違いの的に当てることができた。
人の注目を浴びないように敢えて平凡で戯画化した風貌を選んだ。
そこにあるから逆に調べない。
明白な動機があるがゆえに犯人ではない。

また色んな警句にも満ちている。
人は人の話を聞いただけでそれが真実であると信じ、決して疑って自分で調べない。そしていつの間にかその誤った情報や言い伝えが真実となる。
自分は誰にも迷惑かけずに自立して生活していると主張する者ほど他人に依存している部分で大きな迷惑を掛けている。
それらの言葉の数々はこの令和の時代でも色褪せない機知に富んだ味わいがある。

本書はそれまでのチェスタトン作品を読んでいるとミステリとしての謎としては簡単な部類に入るだろう。しかし真相に隠された犯人の真意やフィッシャーの意図は深みに溢れている。

本書は、彼は知りすぎているがゆえに自分の知らないことに興味を覚えるとホーン・フィッシャーの特徴が紹介されている。
しかし彼は知りすぎたがゆえに大局が見えたが、それを伝えるには時間がなかった。知りすぎたがゆえに自ら行動せざるを得なかったのだ。
そして周囲は彼の理解力に追いつかなかったゆえに彼の真意が解らなかった。

ホーン・フィッシャー。彼はチェスタトン作品の中で最も哀しい探偵であった。


No.1516 7点 極夜 カーモス
ジェイムズ・トンプソン
(2021/06/24 00:04登録)
2010年代のミステリ界の最大の収穫の1つとして質の高い北欧ミステリが次々と刊行されてきたことが挙げられる。
そして私もとうとうこのジャンルに手を出すこととなった。しかし本書が他の北欧ミステリと一線を画すのはフィンランドを舞台にしながら作者はアメリカ人であることだ。
ジェイムズ・トンプソン。彼はフィンランドの妻を持つヘルシンキ在住のアメリカ人作家。数ある北欧ミステリの書き手の中でも異色の存在だ。

まず本書の目新しさはなんといってもそれまで日本人には馴染みの薄いフィンランドを舞台にしており、その風土や気候、文化に国民性が詳しく書かれていることだ。
人口は約550万人だが、暴力犯罪は多く、一人当たりの殺人件数はアメリカの大都市とほぼ同じで近親者による犯行が多い。殺人事件の検挙率95%とかなり高く、犯罪は多いのに死刑制度はない。そのくせ100年以上の中で有罪になった連続殺人犯はたった1人しかいない。
隠れ人種差別者で声高に明らさまに差別用語をまくし立てることはせず、暗黙的に差別する。わざと昇進させず、無関心を装い、蔑視する。そしてアメリカ人ほど政治について語らない割には投票率は80%と関心は高い。

本書の主人公カリ・ヴァーラはフィンランド人で妻のケイトはアメリカ人でスキーリゾートの経営者をしていたが、フィンランドの会社にスカウトされ、<レヴィセンター>の総支配人となった。そしてそこで出会った警察署長カリと結婚したのだ。そして今彼女は双子の赤ん坊を身ごもっている。
翻って作者ジェイムズ・トンプソンはアメリカ人でフィンランド人の妻を持ち、ヘルシンキに住んでいる。つまり本書の主人公夫婦と作者は表裏一体なのだ。
そしてケイトのフィンランドについてのイメージギャップは我々日本人の読者が抱くものと同じだろう。

さて黒人映画女優の死を発端にした本書は彼女の死を巡り色んなテーマが立ち上ってくる。
例えば本書メインの事件であるソマリア人の黒人映画女優スーフィア・エルミの目を覆うばかりにひどく拷問された死体はアメリカのエリザベス・ショートという娼婦が惨殺された事件、通称“ブラック・ダリア”事件を擬えていることでフィンランドの“ブラック・ダリア”としてマスコミに報道されることになる。
もしかしたら作者はこのカリ・ヴァーラシリーズをエルロイの「暗黒のLAシリーズ」に擬えて猟奇的殺人事件を扱った「暗黒のフィンランドシリーズ」にしようとしているのではないかと思った。

極寒の氷点下の土地では人が凍死するのは珍しくない。つまり彼らにとって死は珍しいものではなく、ありふれたものなのだ。
おまけに日が差さない極夜は人の心を凍てつかせる。話せば吐息が凍り付くので自然沈黙が多くなる。彼らは察することでコミュニケーションをとるが、それでは十分ではなく、話さないからこそ鬱憤も溜まり、そして死も身近であることから暴力が起き、そして人が死ぬ。
本書の悲劇は終わりなき夜、極夜が招いた悲劇なのだ。

そんな鬱屈した町キッティラ、いやフィンランドを舞台にカリ・ヴァーラとケイト夫婦は今後どうなるのか?
49歳という若さで夭折したトンプソンの描くヴァーラ・サーガはわずかに4作。この4作でこの夫妻と彼らを取り巻くフィンランドの事件は何を我々に語るのか。
じっくり味わっていこうではないか。


No.1515 10点 カササギ殺人事件
アンソニー・ホロヴィッツ
(2021/06/22 23:52登録)
開巻して数行読むなり、これは傑作だと直感する作品があるが、本書はまさにそれだった。
まず開巻して作中作『カササギ殺人事件』について編集者が賛辞している前書きが載せられているが、これが今思えば日本のミステリ界における本書の高評価を予見しているように読めるのだ。
曰く、“この本は、わたしの人生を変えた”
まさにこの一文は作家ホロヴィッツ自身に当て嵌るだろう。

読書通の胸を躍らせる遊び心に満ちた本書は云うなれば“ミステリ小説をミステリするミステリ小説だ”。この謎めいた評価も本書を読めば実に腑に落ちることだろう。とにかくとことんミステリに淫しているのだ。
上巻と下巻の配分が絶妙に読者の読書欲をそそらせる、実に心憎い演出となっているのだ。さらにそれに加え、読書通を、ミステリ読者を身悶えさせつつも先へ先へと気になる展開が待ち受けている。

恐らく下巻に書かれている作品のモデルとなった作家アラン・コンウェイの取り巻く世界は実際の作家でよくあることなのだろう。
私がいつも不思議に思うのは、なぜ作家というのは1つの人生しかないのに、これほどまでに色んな登場人物の人生を、まるで見てきてかのように、経験したかのように書けるのかということだ。
頭で描く他人の人生はどうしても想像の域を出なく、嘘っぽく感じるが、プロの作家は恰もそういう人がいたとでもいう風に写実的に描くところに感心させられる。
本書はその答えの1つを見つけることになった。

実際作中作の『カササギ殺人事件』は典型的なクリスティの作風を模したコージー・ミステリであるが、上に書いたようにそれぞれの登場人物の背景が詳細に描かれており、1人として無駄な登場人物は存在しない。
それほどまでに実在感を伴った人物が描けるのは作者の周辺にモデルとなる人物がいたからだ。
つまり文書の捜索が人の死の真相の捜査へと変わっていくのだ。

しかしアンソニー・ホロヴィッツ、本当に器用な作家だ。ドイル財団から依頼され、シャーロック・ホームズの正典の続編を、見事なドイル作品の高い再現率で著し、その後『モリアーティ』という異色のホームズ譚を発表した後、次はイアン・フレミング財団から007シリーズの“新作”を依頼され、現代ではなく、興盛時の1950年代を舞台にして忠実に007を再現した。
そのどちらにも共通するのはマニアであればあるほど琴線に触れるであろう、本家ネタの多種多様な引用で、それらはまさに“解る人なら解る。解る人のみ解る”ような一般的な内容とディープな内容がほどよくブレンドされている。
しかし本書を読むとそれらパスティーシュの習作は本書を書くための大いなる準備に過ぎなかったのではないかとまで思わされるほど、それまでのホロヴィッツ作品を凌駕した出来栄えである。
それまでの作品は本家の表現や雰囲気を忠実に再現し、尚且つ正典の登場人物や事件などのネタをふんだんに盛り込んだファン及び読書通を唸らす作品であった。それだけでも本来ならば十分なのだが、本書はそれに加え、クリスティの作風の雰囲気と思考までをも上手く再現した作品をまるまる1つ作中に盛り込み、尚且つその作品を俯瞰する、もう1つの創作者、出版社、読者の側でのミステリを加味した多重構造になっているからだ。
つまり読者は作中作である『カササギ殺人事件』という名探偵アティカス・ピュントが登場するミステリと、その失われた結末と作者アラン・コンウェイの死の謎を追う編集者スーザン・ライランドの物語という2つのミステリを愉しむことができるのだ。まさに一粒で二度美味しいミステリなのである。
そしてその2つのミステリの同化は物語が進むにつれてどんどん加速していく。それはつまりミステリという創作物の中の世界は実は作者を取り巻く環境をヒントにしており、つまり現実世界とは地続きであるのだということを悟らされるかのようだ。

このようにいわゆる出版業界並びに小説そのものの魅力がふんだんに盛り込まれた本書はやがて作家だけのみが知るミステリへと展開していく。
それはアラン・コンウェイというミステリ作家そのものの謎だ。
人気シリーズを持つミステリ作家の中には寧ろそのシリーズキャラクターに嫌悪を、憎悪を抱く作家もいるという。コナン・ドイルがシャーロック・ホームズシリーズを終わらせたくてホームズを死なせようとしたのは有名な話だし、ジェイムズ・ボンドシリーズで有名なイアン・フレミングもまたそうらしい。またルース・レンデルもウェクスフォード警部シリーズは書きたくないが商業的に成功しているので書いているに過ぎないと公言している。私はアラン・コンウェイの真の心情を知った時に彼女のことが頭に過ぎった。これら作家の抱く感情は人気シリーズの役を務めることでイメージが固定されることを嫌った俳優―ジェイムズ・ボンドを演じたショーン・コネリーが特に有名だ―が抱く心情と同じなのだろう。

そして私が本書を素晴らしいと思うのは通常本書のように小説が現実を侵食していく、つまり虚構と現実の境が曖昧になっていく作品はホラーや幻想小説のような展開を見せるが、本書はミステリに徹しているところだ。きちんとどちらも結末が描かれ、そして腑に落ちる。これぞミステリの醍醐味だろう。
とにかく感想がいくらでも書ける作品だ。読んだ人と色んな話をして感想を分かち合いたくなる作品だ。
作中作である『カササギ殺人事件』はきちんと結末が着けられ、その内容は黄金期の本格ミステリ、即ちクリスティが生きていた時代のミステリとしても内容・質ともに遜色ない。しかしこの作品をいつものようにアティカス・ピュントをポワロにしてポワロシリーズの続編として書いたなら、いつものホロヴィッツの巧みな仕事として終わっただろう。
しかし本書はクリスティの意匠を借りつつ、架空のアティカス・ピュントシリーズを創作し、そこで水準以上の本格ミステリを紡ぎながら、更にそのミステリ小説をミステリの題材として別のミステリを著し、有機的に密接に繋いだことでそれまでのホロヴィッツ作品よりも一段高いレベルの作品を生み出すことに成功したのだ。つまりホロヴィッツは確実に本書で一皮剥けた、所謂“化けた”のだ。

21世紀も20年以上が経ったとしている中、こんなミステリマインドに溢れた本格ミステリど真ん中の、いやそれらを土台にした新しい本格ミステリが読めること自体が幸せだ。
歴史は繰り返す。
もしかしたらこれからは21世紀の本格ミステリの黄金期が始まるのかもしれない。ホロヴィッツの本書はそんな楽しい予感さえも彷彿させる極上のミステリであった。


No.1514 5点 クレィドゥ・ザ・スカイ
森博嗣
(2021/06/19 00:36登録)
スカイ・クロラシリーズ第5作目にして最終巻の本書は飛ばないキルドレの話だ。主人公僕の第一人称で語られる本書は病院から脱け出した僕の逃避行が主に語られ、本書の専売特許である空中戦はなかなか出てこない。

さて今までこのシリーズの文庫版の表紙は単色で飾られており、その色を実際の空の色に擬えてそれぞれの作品への思いを馳せてきたが、本書の表紙の色は黄土色だ。
これは即ち空ではなく、土の色だ。上に書いたように本書は空ではなく、大地を駆けるキルドレがずっと描かれている。つまり飛ばない、いや飛べないキルドレの物語だった。従って本書は今まで空を飛んできたキルドレが長く移動してきた大地の色に擬えているのだろうと思う。

そして題名の“Cradle the sky”。ここで使われるCradleは通常ならば「ゆりかご」という名詞として使われるが、skyという目的語があるため、動詞扱いになる。従って直訳すれば「空をあやす」となろうか。
しかしそれは何ともおかしい。やはり「空のゆりかご」と訳す方が正しいのだろう。
薬によって記憶が曖昧になった主人公の僕は散香に乗って空に飛び立ち、再び戦闘機乗りとなって復活する。つまり空に飛び立つことで彼はまた生まれ変わったのだ。本来の戦闘機乗りのキルドレとして。つまり空こそ彼が生まれ変わるゆりかごであった、そう捉えるのが妥当だろう。

そしてこの永遠の子供であるキルドレという設定をなぜ作者が盛り込んだのか。その理由を垣間見えるエピソードがある。
早く大人になりなさいと云われる常識は即ち大人こそが人間の完成形のように云われているが、それは大人にとって子供が目障りな存在だからだ。子供は大人の大事にしている原則を覆すからだという件だ。
これは恐らく今なお趣味に没頭する子供のような作者自身の思いを反映したエピソードだろう。なぜ子供っぽくてはいけないのだと抗議しているように思える。

また興味深かったのが年を取るにつれて忘れっぽくなることについて述べられた部分だ。
それは単純に脳が退化しているのではなく、同じルーチンが増え、無意識に処理するようになり、脳を介さずに短絡的に処理しているから記憶に残らないのだ、と。
つまり朝を起きたら顔を洗う、ご飯を食べる、歯を磨くなどが無意識で行っていることで記憶されず、時にあれ、顔洗ったっけ、ご飯食べたっけと思い出せなくなるというのだ。
これはかなり納得した。正直このように思うことが多々あるからだ。次のことや他の事を考えて行動するから、寧ろそのことを意識せずに他のことを考えながらルーチンが出来るからこそ忘れてしまうのだ。
いやあ、この考えは面白い。いつかどこかで使いたい論理である。

さて本書はスカイ・クロラシリーズの最終巻であるが、1冊だけ実は残されている。短編集の『スカイ・イクリプス』だ。それは恐らく外伝的な内容かと思われるが、そのような短編集は本編では語られなかったエピソードである傾向が強く、従って本編を補完する内容であると思われる。
本書で抱いた謎について補完されることを期待して、正真正銘の最後の1冊に臨むことにしよう。


No.1513 7点 天使に見捨てられた夜
桐野夏生
(2021/06/12 00:20登録)
最近でもAVに騙されて出演させられるレイプ被害が問題になっているが、本書はなんと26年前にその問題を扱った作品である。四半世紀以前に既に問題視されていたのは寡聞にして知らなかった。
AVも多々あり、普通AV女優が出ているものから、素人ナンパ物、そして特殊な趣味嗜好に特化した企画ものまで様々だ。その裾野は幅広く、全てを網羅するのは困難だろう。従って星の数だけAVがあれば星の数ほどAV女優もおり、そして1作のみで終わる女優未満のモデルもゴマンといる。本書に登場する一色リナもそんな泡沫モデルの1人である。

さて本書を一言で表すならばそれは“今を生きようと足掻く女たちの物語”だったことだ。
本書に出てくる女性たちは様々で主人公の村野ミロはじめ、依頼人の渡辺房江、彼女がレイプ被害を訴えるための神輿としようと考えているAVモデルの一色リナ。そして渡辺の活動を陰ながら支援するセレブの料理研究家八田牧子。
四者四様の女性たちの生き様がミロの捜査で語られる。そして彼女たちの印象はミロの捜査の成り行きでガラリと変わってくる。

依頼人を反故にして男と寝る女性探偵に自身の身体を傷つけることでしか金を稼げない女性からサイコパスへと転ずる失踪人。これは今までになかった新しい女性探偵小説かもしれない。しかしこれらの設定からは主人公含め一切共感を生まないことも凄いが。

女と男の因果が絡み合った事件を地道に紐解いていく村野ミロ。しかし12年ぶりに再会した彼女に対して、私は当時抱いていた主人公ミロに対する嫌悪感は結局変わらなかった。
女性探偵という物に私がか弱き女性が魑魅魍魎の社会の暗部で孤軍奮闘する姿を先入観として持っているのかもしれないが、この村野ミロは男に対する警戒心が弱いのがどうしても腑に落ちないのだ。
例え敵であっても女は相手が魅力的であれば寝る、それが女という生き物なの、という村野ミロの倫理観、もしくは作者のメッセージが私には気に食わない。大人の女の不思議さを演出しているようだが、逆に村野ミロという女性の安っぽさを感じてしまうのだ。私ならば強がっていても女性は男には弱いことを出すならば、生理的には嫌だが、ミロが求めるのではなく、レイプされる方を選ぶ。そしてレイプされて心が折れそうになっても、それが男の世界で生きていくことを選んだリスクであると立ち直る、そういう女性探偵の方がよほど共感できるのだが。
最悪なのはミロが依頼人の要求を無視して自分の欲望を満たし、挙句の果てに依頼人を死なせてしまうことだ。

私は女性探偵物をあまり読んだことないのだが、こんなひどい探偵はいないのではないか?これではただの男日照りの淫乱女である。そしてその事実を警察と実の父親にも知られ、ミロは更に深い自己嫌悪に陥るのだ。

登場人物の1人、レンタルビデオの店主がこんなことを云う。
アダルトビデオとは人の不幸を笑う物なんだと。
つまり本書は男たちの欲望で女たちの人生が蹂躙されていると暗に訴えているように思える。
“天使に見捨てられた夜”とは即ち男たちの欲望に蹂躙された女たちの夜だ。西洋では赤ん坊は天使によって連れられるイメージが描かれているが、なるほど望まぬして得た赤ん坊はまさに天使に見捨てられた存在なのかもしれない。

しかし男と女がいる限り、この“天使に見捨てられた夜”は必ずある。判っちゃいるけど、止められないのよ。それが男と女なのだから。


No.1512 7点 素敵な日本人
東野圭吾
(2021/06/09 23:34登録)
2020年、東野氏は作家キャリア35年目を迎える。本書は2017年に刊行された短編集だが、雑誌掲載された短編を集めた物。最も古い収録作は1作目の「正月の決意」で2011年の作品で最も新しいのは「壊れた時計」で2016年の作品。
この事実を知って驚かされるのはそれぞれの作品のレベルが水準もしくはそれ以上の出来栄えであることだ。このことについてはまた後ほど語ることにしよう。

季節の行事を絡めた4編と異色のミステリ短編5編を収録。
本書の背表紙の紹介文では季節の行事をテーマにした短編が収められていると書かれている。この季節の行事を扱った作品は「正月の決意」、「十年目のバレンタインデー」、「今夜は一人で雛祭り」、「クリスマスミステリ」の4編。
これらのうち前の3作はそれぞれ1月、2月、3月の行事をテーマにしていることから当初は各月の行事を扱ったミステリを書こうとしたのではないだろうか。しかしさほどアイデアも固まらず、その後一気に12月の行事クリスマスをテーマにしたことからも察せられるように途中から行事に固執しない自由なテーマを扱った内容にスイッチしたのかもしれない。
その自由なテーマとは合コン、疑似家族、闇サイト、猫のブリーダー、俳優志願の男と様々でまたジャンルもミステリに特化せず、日常の謎系、倒叙物、SFからハートウォーミングと様々だ。
そしてそれぞれの作品には小技が効いており、話の内容に無理を感じさせない―いや中には感じるものもあるが―。

本書のベストを挙げるとなると、「レンタルベビー」と最後の収録された「水晶の数珠」になるか。
前者は未来の育児のための予行練習として精巧な赤ん坊ロボットをレンタルするビジネスがあり、それを利用するカップルの子育て奮闘ぶりが描かれるが、これ自体はさほど目新しさを感じない設定である。独身女性が一人の赤ん坊に翻弄されるというのはよくある話なのだが、東野氏が優れているのはそんなありきたりな設定に二重三重にサプライズを仕掛けていることだ。あまり育児に協力的でない彼氏の正体というサプライズに更に主人公の女性自身にサプライズがある。上にも書いたがこれは星新一氏の切れ味鋭いショートショートに似た読みごたえを感じた。
後者は東野氏お得意のハートウォーミングSFだ。名家の長男が代々引き継ぐ水晶の数珠の秘密は一度だけ時を戻せるという物。しかしこれも今ではよくある秘密であるが、そこに“いつ父親がその力を使ったのか”という謎を見事親子の愛に繋げる東野氏の憎らしいまでのテクニックに唸らされるのだ。まさに本書のタイトル“素敵な日本人”のお話なのだ。

やはり東野氏は短編も上手いと改めて感じた。ウェブ上では東野作品は短編よりも長編が好きという感想が多く見られるが決してそんなことはない。短い中にも予定調和に終わらないツイストが盛り込まれており、最後にアッと云わされた。
通常ならば作家のキャリアも30年を過ぎればアイデアが枯渇し、いわゆる物語や結末に切れ味が無くなっていく。いや一流のベテラン作家ともなると凡百のアイデアをそれまで培った小説技法で上手く料理し、水準作ぐらいには仕上げるだろう。
しかし東野氏はどうだ。本書に収められた作品の数々はいまだに読者の想定を超えたサプライズに満ちている。
作家キャリア26年目から31年目の5年間という発表年月の幅があるが、そのどれもが水準作もしくはそれ以上の出来栄えである事に驚かされる。

つまり今、日本のベストセラー作品を35年目の作家が叩き出していることが凄いのである。

我々は本当に幸せな時代に生れたと感謝すべきだろう。なぜなら私たちには東野圭吾氏がいるからだ。


No.1511 8点 天国への階段
白川道
(2021/06/05 00:11登録)
上中下巻全1,411ページ。過去を追いかけ、そして過去に追いかけられる男の物語。白川版『砂の器』とも云うべき大作だ。

これだけのページが割かれるのはそれぞれの登場人物が語るからだ。そう、白川作品の登場人物は語る、饒舌なまでに語る。

時に他者と自分の人生とを重ね合わせてその為人を語る。
または溜めていた思いを一気に吐き出すように語る。
自分の勘と感受性を信じて感じたことを知らせたいと思いに駆られて語る。
刑事は能弁なほどに捜査の過程で自分の直感によって感じた関係者の人物像と心の移り変わり様を説教師のように語る。
命を捧げるとまで部下は社長に心酔し、社長はその思いに応えるためにお互いの小指を傷つけて血の指切りを交わし、来世でも共に歩むことを誓う。

それらは我々の日常生活では少し気恥ずかしさを覚えるほどロマンティックであり、そしてセンチメンタルだ。
それでもこれだけの長さを誇りながらも全く無駄を感じさせない物語の密度の濃さ。復讐物語であり、かつての恋が再燃する恋愛物語でもあり、そして緻密な捜査に尽力する警察物語でもある。私は本書を読む最中、至福の時を味わった。

また自身が人生の苦汁を舐めてきただけに白川道氏の小説には復讐譚が多い。
しかしそれらは情念とか怨念といったどす黒い感情をむき出しにした獣のようなそれではなく、やられたからやり返す、いわば筋を通すといった類の芯の通ったそれだ。仁義を通すとでも云おうか。
それは恐らく作者自身の人生経験に裏打ちされた一種の美学から来ているのかもしれない。

しかしその美学はあまりに身勝手だ。それが顕著に本書の主人公柏木圭一に現れている。
色んな人を、特に女性をないがしろにして今の地位を築いた柏木圭一像が浮かび上がってくるうちに彼に同情できない自分がいた。それが私には残念でならなかった。

これが白川流ロマンチシズムとでもいうのだろうか。確かに濃密な読書体験だった。しかしこの自己陶酔振りにやりきれなさが残ってしまった。
自らの信ずる道を進んだ時、そのエゴのために色んなことや人が犠牲になる。本書はかつての自分を柏木圭一に重ねた作者の悔恨の書なのかもしれない。そして柏木圭一の死は作者にとっての過去への懺悔だったのだろうか。


No.1510 7点 あすなろの詩
鯨統一郎
(2021/06/03 23:50登録)
東京都にある星城大学に所属する文学好きが集まり、文芸部を立ち上げ、かつて名声を馳せた同人誌『あすなろの詩』復活を目指す学生たちの青春群像劇。集まった6人の若者たちの間で同人誌復活に至る道のりには文学談義のみならず、恋あり、自分の文才を信じた鍔迫り合いありといった文芸青春グラフィティが繰り広げられる。但し鯨氏のこと、そこには平成のトレンディドラマを彷彿させるような華やかさはなく、どちらかと云えば昭和臭が漂う。

この6人の男女は単に文学に対する鑑識眼の優劣を競い合うのではなく、男女の恋の縺れも発生する。
男女6人が週に1回集まっては既存作品の合評会を行ったり、自作の合評会を行っては最後はいつも行きつけの飲み屋で飲み会をして語り合う。典型的な大学生ライフの模様が繰り広げられる。

それらに加えて「あすなろの詩」第1号の発刊に向けて、創作活動に励み、資金集めに東奔西走しながら、とうとう彼らは刊行にこぎつける。そして約束通りに北海道合宿へと臨む。
とここまでが前半。
しかし後半になると物語はガラッと様相を変える。

無事『あすなろの詩』創刊号を発行した「星城文学」の一行は高熱で自宅療養せざるを得なくなった甲斐京四郎を除いて、大牟田の別荘へ合宿に行く。そしてそこで連続殺人事件に巻き込まれるのだ。電話が通じず、外は嵐で町へも下りれない、典型的な“嵐の山荘物”ミステリの状況下で般若の面を被った犯人に次々と殺される。夜中に一晩につき1人ずつ殺されては離れで首吊り死体のように吊るされ、陳列されていく。

伏線が十分に張られていたことが甲斐の推理によって開陳される。
私はどちらかと云えば鯨氏のミステリはダジャレや言葉遊びのような強引な印象を持っていただけにこの端正さは意外だった。しかしよくよく考えるとあの歴史ミステリ『邪馬台国はどこですか?』でデビューした作家なのだから、論理的ミステリに長けた作家ではあるのだ。

この真相に対して、そんな馬鹿な、あり得ないと若い頃の私なら一笑に付していただろう。しかし今、例えばコロナウイルスの影響で外出自粛や宴会の禁止などの制約下の中でストレスを感じているからこそ、この動機は案外腑に落ちた。

しかしこんな特殊な状況でなかったら理解しなかったかと云えば、ある程度人生経験を重ねてきた今なら、周囲の環境や人の言動、そして物に宿るバックストーリーが人の心に作用し、思いも寄らぬ言動を招くことは十分理解できるので受け入れやすくはある。

また一方でこの大牟田の別荘はスティーヴン・キングが云うところのサイキック・バッテリーでもあったとも考えられる。「星城文学」の部員の面々は人殺しの過去があるこの別荘の孕む因縁に囚われたのだ。そして最初の殺人がそれぞれが内に秘めていた嫉みや妬み、劣等感などの負の感情を刺激し、精神の歯止めを緩められ、そして因縁を持つ般若の面が後押しし、それぞれが殺人行為にまでエスカレートしてしまったのだろう。

これはやはり上に書いたようにコロナウイルスの影響下である事、そしてこの本を読むまでにキングの作品を読んでいたことと、それを論じた北村薫氏のエッセイを読んでいたというそれまでの読書遍歴があったことなどが重なったために理解は深まったといえよう。私はまた本に呼ばれたのだ。

鯨氏の作品には博識ゆえの作者特有のお遊びが散りばめられているのが特徴だが、本書も同様。特に新本格ミステリを題材にしたものが多く、ニヤリとさせられる。

大学時代、ワセダミステリクラブや慶応義塾大学推理小説同好会といった文芸サークルがなかった私にとって文芸部「星城文学」の活動はなかなか面白く読めた。SNSやブログに小説投稿サイトなど電子化での創作活動が進んでいる昨今、彼らのようにスポンサーを集め、同人誌を刊行すると云った活動がされているのかは不明だが、だからこそ昭和の香りを感じさせるノスタルジイを本書はどこか感じさせる。

もしかしたらこれは作者自身の青春グラフィティなのかもしれない。明日は作家になろうと常に思いながら創作に励んでいた作者の思い出がタイトルと同人誌に込められているのではないだろうか。
そして「星城文学」の面々全てが亡くなる結末は失われた過去への、もう戻れぬあの頃の思い出への作者なりの決着なのかもしれない。


No.1509 7点 θは遊んでくれたよ
森博嗣
(2021/06/01 23:33登録)
Gシリーズ2作目で今度のギリシア文字はθ。
θといえばサイン、コサイン、タンジェントでお馴染み三角関数で使われる変数θと、英語の“th”の発音記号を想起させるなど、色々想像を巡らして読んでみた。

このθ。時にカタカナでシータと評される今回のギリシア文字は作中それぞれの犠牲者で様々な意味合いを以って示される。

やはり森ミステリには色んな疑問がどうしても残ってしまう。
例えば第2、3の自殺者の動機が不明だ。なぜ彼女そして彼は自殺したのか?そのような節もなく、唐突に。
そして第1の自殺者も引っ越したばかりのマンションから飛び降りているのも腑に落ちない。但し彼の場合はシータというサイトのAIとの対話によって自殺を促されたような節がある。

そして犀川の存在は更に神格化されつつある。犀川は海月が気付く前に事件について彼と同様の結論に達していた。どうも森氏は犀川を御手洗潔張りの超天才に仕立て上げようとしているようだ。

御手洗潔と云えば本書刊行の約11年後に同じく連続飛び降り自殺事件を扱った『屋上の道化たち』―その後『屋上』と改題―を上梓している。そして連続自殺事件と云えばジョン・ディクスン・カーの『連続殺人事件』を想起させ―実はこの作品の原題は『連続自殺事件』が正しい―、その作品も高所からの落下がメインの謎であった。
しかしなぜかこの飛び降り事件物は傑作が生まれていない。どれも真相には微妙な感じが残ってしまう。その呪縛からは本書も逃れられなかった。

しかし第1作に続き、本書もまたその真相にはモヤモヤとしたものが残る結末となった。いや、海月の事件に関する推理の内容は第1作に比べれば格段に納得できるものではあるのだが、上に書いたようにその他諸々については説明もないため、モヤモヤ感を抱いてしまうのだ。

また正直加部谷、山吹、海月らメインキャラクターの個性もまだ感じられず、キャラ小説としての妙味を感じないでいる。加部谷は森作品にありがちな、とにかく口を出したがる女性キャラ、狂言回し的な役割に過ぎない。個人的にはVシリーズの登場人物たち同等の愛着を感じたいのだが。
また西之園萌絵に続き、本書では彼女の友人でもあった金子の恋人反町愛も登場し、S&Mシリーズ後日譚めいてきた。ただそんな趣向では私は騙されない。過去は過去として新たなキャラクター達がキャラ立ちしてこその新シリーズなのだ。


No.1508 7点 少年船長の冒険
ジュール・ヴェルヌ
(2021/05/31 23:37登録)
1878年に書かれた本書はヴェルヌ作品の中期に当たる作品で2部構成となっている。

前半の第1部はニュージーランドからアメリカに向けて出港した捕鯨船が途中で出くわしたナガスクジラとの漁で船長と船員を亡くし、たった1人の船員となった弱冠15歳の少年が船長となって未知なる海域を航海する冒険譚となっているが、後半の第2部は打って変わって奴隷売買の商人に騙されてアフリカに漂着した一行が奴隷商人たちの追手から逃れつつ、コンゴ川の河口のポルトガル人の町エンボマを目指す手に汗握る逃避行が語られる。

本書は『インド王妃の遺産』の前年に発表されている。従って少年船長という、後の『十五少年漂流記』を彷彿とさせる夢のある題材でありながら、後半は人間の卑しさが前面に押し出された暗欝な展開を見せるのはどこか厭世観に浸っていた頃だからだろうか。

タイトルから想起するには実にシビアな内容で少年少女の読み物とするには残酷な描写が多く、思わず二の足を踏んでしまう。
私が特に考えさせられたのが自分たちを奴隷商人たちに囚われることになった原因を主人公の少年船長ディックが悪党を撃ち殺さなかったからだと自分を責めるシーンだ。弱冠15歳の少年が悪人とはいえ、人殺しを躊躇したことを悔やむのである。
今では少年に将来まで人を殺めさせて十字架を背負うことをどうにか食い止めようとするだけに時代の苛酷さを感じた。

また囚われの身となった一行のアフリカでの道中を綴ったディックのノートの抜粋がまた実にシビアだ。黒人の集落を襲い、十数人もの人が死ぬ。川を渡ればワニに襲われ子供を抱いた女性が子供もろともワニに食われる。天然痘に罹って幾人死んだ。とても15歳の少年が絶えられるような出来事ではない。

その後も敵味方の死が続々と描かれる。この死の呆気なさは環境の苛酷さゆえにアフリカでは人の死が普通であると語っているようにも思える。とにかく人が死んでいく。しかも容易に死んでいく。

本書の終わり方を読んだ時に私はある有名な映画を想起した。そう、『猿の惑星』である。このあまりにも有名過ぎてセンセーショナルな結末がもはや公然にネタバレになっている映画の最後のシーン、主人公が猿が支配する惑星に不時着したかと思っていたのが、最後倒壊した自由の女神像を見つけるに至って、地球に戻っていたことをショッキングに悟るシーンと重なる。『猿の惑星』の作者は本書を読んでいたのではないかと思うのは勘繰りだろうか。

しかしヴェルヌの描写はいつも見てきたかのような正確さがあるが、今回はクジラ漁の描写が実に真に迫っていて思わず手に汗握ってしまった。メルヴィルの『白鯨』の影響を大いに受けたかのような細かい描写と迫力に満ちている。これだけ事細かに捕鯨の仕方を書いた小説があったのだろうか。

またヴェルヌ作品の特徴の1つに専門的な内容の説明がふんだんに盛り込まれていることが挙げられるが、本書では特に16世紀から始まったヨーロッパ諸国のアフリカ各地の植民地化の流れとそれに伴う奴隷売買の成り立ちについて筆が割かれている。
奴隷売買が始まったのがスペインを追われてアフリカに渡ったイスラム人たちに起因する。彼らが当時アフリカ沿岸地方に住んでいたポルトガル人たちに捕まり、一族が代わりにアフリカ土人―現在なら差別用語になるが原文を踏襲する―を奴隷に差し出したことから一大奴隷マーケットが始まる。温暖低湿な気候になれたヨーロッパ人にとって暑くて湿度の高いアフリカの開発は苛酷であったので、彼らを労働力として金で買うことで代わりに開拓させたのだ。

本書の物語の時代の19世紀後半にはアメリカの南北戦争も決着が着いて奴隷制度の廃止の傾向にあったがアフリカ奥地ではまだ横行しており、本書の登場人物たちはまさにその渦中に巻き込まれる。従って彼らにとってアフリカ上陸はこの人身売買のメッカであり、更には人喰い人種もいたり、猛獣も跋扈する地でありまさに恐怖以外何物でもない。

しかしだからと云って黒人奴隷に対する白人の上位主義が消えているわけではない。これまでのヴェルヌ作品でも所々で見られたように黒人の人権の低さを感じさせる描写が少なくない。

とまあ、ある意味ヴェルヌの明るい部分と暗い部分が同居した実に珍しい作品である。そしてこのディックの活躍が後期の傑作『十五少年漂流記』に繋がると云われているがあながち誇張でもないだろう。

最後の結末はちょっと駆け足で取ってつけたようなハッピーエンドとも思わなくもないが、本書は復刊するに値する冒険小説だと感じた。特に当時未開の地であったアフリカに白人が迷い込んだ場合の恐怖とそんな苦難に立ち向かう15歳ながらも苛酷な運命を背負ったディック・サンドの冒険は少年少女向けではなく、寧ろ大人向けの内容で今でも読まれるべきだろう。

夢と過酷な現実の入り混じった冒険譚。大人になった読者は当時15歳の自分とディック・サンドを重ねてみてはいかがだろうか。


No.1507 7点 007 逆襲のトリガー
アンソニー・ホロヴィッツ
(2021/05/27 23:30登録)
ホロヴィッツが手掛けたのはイアン・フレミング原作の、世界でもっとも有名なスパイ小説007シリーズだ。
しかもホームズ作品同様にイアン・フレミング財団直々に007シリーズの新作依頼がされたとのこと。007シリーズの続編はこれまでもジョン・ガードナーやジェフリー・ディーヴァーなど錚々たる作家が書いており、ホロヴィッツもそのメンバーに名を連ねるようになった。

私が今回感心したのは物語の舞台を現代ではなく、過去、つまりイアン・フレミングが現役で新作を紡いでいた時代に設定しているところだ。しかも時代としてはボンドがプッシー・ガロアと共に組織を壊滅に追い込んだ『ゴールドフィンガー』の直後、つまり1950年代となっている。

ディーヴァーの007シリーズは物語の舞台を現代にし、またボンドも若者に設定しており、スマートフォンのアプリを駆使してスパイ活動する実に若々しい内容になっていた。それはそれで作者としての特色も出ており、興味深い物であったが、どうしても往年の007シリーズを映画でも見ている当方にしてみればどこか違和感を覚えたのは正直なところだった。

しかし本書は当時の時代設定でまだ携帯電話すらない時代だ。逆にそれが007シリーズならではの雰囲気を演出しており、私個人的には映画の007シリーズの世界に一気に引き込まれるような錯覚を抱いて、物語世界に没入することができた。

しかし読書というのはどうしてこうも私を導くのか。
ボンドがレースに挑むドイツのレース場ニュルブルクリンクは実在するレース場でしかも世界でも最も難易度の高いレース場として知られており、本書に書かれている様々な悪条件は決して誇張ではない。
そしてそれを私はつい先週に観たF1レーサー、ニキ・ラウダとジェームズ・ハントの伝記映画『ラッシュ/プライドと友情』で知ったばかりだ。ニキ・ラウダが全身大火傷を負う大事故を起こしたのがこのニュルブルクリンクだったのだ。まさに本書を読むに最高のタイミングだったと云えよう。

物語冒頭のドイツから亡命した一ロケット開発技術者であるトーマス・ケラーがロシアのスパイ行為に加担して、アメリカの宇宙ロケットのエンジンに細工して空中爆発を起こさせる装置―この自爆装置の名を“トリガー・モーティス”、つまり「死の引き金」と呼び、これが本書の原題となっている―を仕込み、多額の報酬を受けるが、その報酬と全ての貯金と有価証券を持ち出して不相応に若い妻に殺害され、その妻が使っていた紙幣が偽札であったことが発覚し、その偽札事件にシン・ジェソンが絡んでいるとのことでジェパディー・レーンとボンドが結び付くのである。なかなか入り組んだプロットである。

このシン・ジェソン、なかなかの手強い相手でボンドは何度も窮地に陥る。最初は彼の偽装ロケット基地にジェパディーとの潜入作戦で敢えなく捕まり、ボンドは大きな樽のような棺に入れられ、生き埋めにされる。
ところでこのボンドの生き埋めから脱出する件は何とも手に汗握る迫真性に満ちている。なんと9ページもの紙幅を費やして生き埋めから脱出までのプロセスが実に詳細に描かれる。それは実際に生き埋めから生還した者しか解らないほど鬼気迫った内容で読みごたえを感じるシーンの1つとなっている。

そしてそのボンドの内面についても描かれるのが興味深い。
私はフレミングの作品を読んだことがなく、映画でしか見たことないのだが、そのスーパーヒーロー然としたキャラクターはタフさが強調され、繊細さが描かれるようには感じられなかった。しかし本書ではボンドがスーパースパイであると同時に1人の人間としての弱さを備えていることも描かれる。

彼が色んな女性と色恋を繰り広げられるのは1人の女性と長く暮すことに苦痛を覚えるからで、一時の情熱にほだされるが長くは続かないことが吐露される。

またそれまでの任務が数限りなく悪の手下どもを抹殺してきたことに思いを馳せる。絶大な権力を持つボスに家族や自身の命を盾にして好むと好まざるとに関わらず悪事に加担し、従わざるを得なかった、それまで普通の暮らしをしていた者もいるだろう、家族もいるだろう手下たちを殺してきた自分は果たして正しかったのかと自問する。
“殺しのライセンス”を持つボンドは決して殺人機械ではないと自らを納得させることに成功する。生き埋め地獄から生還したことで命の大切さを知り、手下を殺さずに気絶させるに留まる。ノグンリでの虐殺事件で人間の心を失ったシン・ジェソンとの違いを見出した彼は悪を斃すことへの躊躇を振り払うのだ。

しかし毎回思うのだが、ジェームズ・ボンドはスメルシュやスペクター、またCIAやKGBにつとに知られた名前、コードネームだろう。しかし彼はいつも他の職業に扮してもその名を名乗るのだが、なぜ偽名を使わないのだろうか。恰もスパイが来ましたと名乗り出ているようなものではないか。よほどその名前に誇りを持っているのか。

常々述べてきたがホロヴィッツは本当に器用な作家だと今回も痛感した。先に述べたように時代設定を敢えて007シリーズがリアルに執筆されてきた1960年代にすることでシリーズ特有の雰囲気を味わえるし、また正典のキャラクターやエピソードもふんだんに盛り込まれ、地続き感が味わえた。


No.1506 7点 女ともだち
ルース・レンデル
(2021/05/26 23:27登録)
レンデルの第3集目となる短編集は1985年に本国イギリスで刊行された物で、バーバラ・ヴァイン名義であるの第1作『死との抱擁』が発表される前年に当たる。
ヴァイン名義の作品は犯罪を扱いながらも純文学に寄り添った作風であるのが特徴だが、その志向が滲み出ているせいか、本書収録の作品も純文学に寄り掛かったミステリが多いように思える。内容的には人間の心が思いもかけない行動を起こす物が多いように感じるのだ。

それは各編が男と女の関係の纏わる皮肉な結末を扱っているからだ。

特殊な不倫関係、別れた妻との再会を望む男、出征中の夫を持つ妻の不倫、曰く付きの家を購入した夫婦、父親の敵の浮気現場を見つけた息子、家主に隠れてセックスを交わす若い男女、40を超えたカップルと息子離れしない母親、価値観の違う夫婦、綺麗になった妻に子供と一緒に逃げられやしないかと恐れる夫。
そして内容は自分を変えたと錯覚したがゆえに陥った過ちだったり、幼い頃のトラウマとなったことが年月を経て判明した事実で自分の抱いた推測が確信に変わったり、噂だと一笑していたのにいつの間にかそれに取り込まれてしまったり、プライドを護ろうとしたことが相手に格の違いを見せつけられ、卑しき虚言者に陥る者や相手の寛容さを利用して金を騙し取ろうとしたが逆に罠に嵌る者もいる。

その中でも最も変わったのが「狼のように」に出てくるコリンとその母親だ。獣の被り物をして獣ごっこに興じる性癖がいつの間にか模倣が心の中で真実味を帯び、行動のみならず心理も獣と同化し、潜在的に疎ましく思っていた人物に襲い掛かる。

後半に行くと更に真相は曖昧になる。
例えば「フェン・ホール」では口論の絶えない夫婦が共同作業で事故に遭い、妻を亡くすが、それは果たして事故だったのか、故意だったのか不明のままだ。「父の日」でも妻が他の男と駆け落ちして出て行ったと云いながら、人が落ちる危険のある崖にある特徴的な傷を掌に負っていたことから果たして妻は本当に出て行ったのか、それとも夫が殺したのか不明のままだ。

収録作品中男女の情愛はないのは「時計は苛む」と「ケファンダへの緑の道」だ。前者は仲の良い老人仲間の話でそこにしかしそこには長らく築いた友好関係が存在するのだが、微罪によってそれが崩壊し、そして痴呆症が始まる、実に皮肉な様が描かれている。
この「ケファンダへの緑の道」は本短編集の中の個人的ベストだ。

全ての作品に共通するのは錯覚であれ、疑問であれ、懸念であれ、それらは最初はほんの些細な火種に過ぎない事だ。
それがしかし各人の心の中で肥大し、暴走し、そして取り返しのつかないほどまで成長する。そしてそれが過ちへと繋がる。それは我々一般読者でも抱くような小さな火種で決して他人事ではない。つまり日常と非日常の境は斯くも薄い壁で遮られているのだということ思い知らされるのだ。

しかし各編ページは少ないながらもなかなか入り込むのに手間取った感がある。長い物でも30ページ前後でほとんどが20ページ前後と実にコンパクトだ。
しかしそれでも読むのに時間がかかったのはレンデルの創作作法にある。

導入部がいきなり渦中から始まるため、各登場人物の設定やシチュエーションが頭に入ってこず、把握するのに何度も読み返す必要があったからだ。しかも案外各編の設定は特殊なため、なかなかその世界に入り込むのに苦労した。きちんと状況は書かれているが、数ページしてようやく設定が判ってくるため、それまでの地の文などに書かれた時間軸や場所、更に登場人物の相関関係、果ては性別までもが後からついてくる形となり、結構手こずった。

しかしそんな困難さが逆に物語の味わいを深めるのも確か。特に最後に収録された「ケファンダへの緑の道」を読むと主人公の口から小説をいかに読むかを示唆され、また悪意ある書評に対する作者への非難も行間から読み取れ、レンデルが目の前で訓辞を垂れているかのような錯覚までに陥る。

そしてこの作品の結びのように作者の思いが読者に届くことこそ小説家の本望だろう。私にはその思いは確かに届いた。

しかし作者の思いが届くには物語が読み継がれなければならない。レンデルの死後、彼女の作品の大半が絶版状態で読めなくなっている。英国女流ミステリ作家の大御所だった彼女でさえ、そんな悲惨な状況だ。

今なお未訳作品も多いレンデル=ヴァイン。是非ともジョン・ディクスン・カーのようにいつか全作翻訳され、そして新訳復刊されるようになってほしい。


No.1505 8点 哀しきギャロウグラス
バーバラ・ヴァイン
(2021/05/22 01:03登録)
ヴァイン名義の作品はミステリ要素よりも人間心理をメインにしたミステリ要素の薄い、どちらかと云えば純文学寄りのものが多いが、本書は今でいうBL小説だ。
列車への飛び込み自殺をすんでのことで止められた鬱病の青年ジョーとそれを止めたモラトリアムな青年シャンドーがそれをきっかけに同居生活を始め、やがて富豪の妻の誘拐計画を企てる。
ただそれだけではなく、彼ら2人がターゲットとしている富豪の妻側にも恋物語がある。離婚し、娘を男手1つで育てるシングルファーザーのお抱え運転手ポールと富豪の妻ニーナがやがて心通わせ、恋に落ちる。
片や同性愛片や身分違いの道ならぬ恋と、90年代初頭ではまだ前衛的な恋愛と恋愛小説の王道がないまぜになった作品である。

誘拐を企てる者と誘拐されようとする者。この2つの相反するグループには奇妙な符号が見える。
題名のギャロウグラスは作中の登場人物シャンドーの話ではアイルランドとスコットランドの西高地で使われていた言葉で族長に仕える家来のことを指す。これは富豪アプソランドの妻の誘拐を企てるシャンドーが命を救った鬱病の青年ジョー・ハーバートがこのギャロウグラスになるが、実はもう1人ギャロウグラスがいる。それはアプソランドの運転手ポール=ガーネットだ。
更にシャンドーとジョーのコンビに新メンバーとしてジョーの姉ティリーが加わるが、このティリーとシャンドーがお互い求め合う関係になる。そしてジョーは一旦蚊帳の外に置かれる。
しかしこの三角関係は堅牢なものでなく、ジョーを要としてそれぞれが自分の立ち位置を誇示するかのように、つまりシャンドーとティリーは我こそがリーダーであると自らの賢さを誇示するかのようにマウンティングが応酬されるのだ。

ジョー・ハーバートといい、シャンドーといい、ポール=ガーネットといい、そしてニーナの夫アプソランドも加え、総じて本書に登場する男は大人としての未熟さをどこかしら備えている。対照的に登場する女性陣、ニーナ、ティリー、そしてポールの娘ジェシカまでもが達観した考えを持っている。やる時にはやる、そんな覚悟を備えた人たちなのだ。いやあ、女性は強い。

やがてニーナの誘拐をどうにか成し遂げた後、我々は本書に書かれた真のギャロウグラスが誰だったのかを知る。
それはシャンドーだったのだ。
彼はかつてイタリア人と組んでニーナを誘拐した際に彼女に惚れてしまったのだ。その時に交わした再会の約束こそがシャンドーの生きる原動力となった。彼のそれ以降の人生はニーナと再会して結ばれることだけに捧げたものだった。
しかしニーナはその時シャンドーの自分に対する恋心に気付き、それを利用して自分を解放させただけだった。従って再会の約束など反故にし、その後何通も送られてきた手紙も全て捨ててしまっていた。彼女にとってシャンドーへの思いは自分が助かるためだけの手段にしか過ぎなかった。
それを思い知らされ、シャンドーは絶望のあまり、急行列車に投身自殺する。ああ、彼こそはまさしくニーナというプリンセスにその身を捧げた哀しきギャロウグラスだったのだ。
そしてそのニーナにも運命の皮肉が待っていた。

ヴァイン=レンデルの運命の皮肉がここに繰り広げられた。困難を乗り越え、新たな人生を掴もうとした矢先に訪れる悲劇。男を手玉に取った女性には真の幸せなど訪れないということなのか。

人は誰かを必要とし、そして誰かに必要とされて生きている。そう思って生きている。
ジョー・ハーバートはシャンドーに必要とされて生きていると思っていたし、ティリーは金を必要とし、そのためにシャンドーを必要とした。しかしシャンドーは実はプリンセスを手に入れるためだけに彼らが必要であり、プリンセスだけを必要としていたのだ。
そしてシャンドーに必要とされたプリンセスはポール=ガーネットを必要とした。シャンドーは単に自己生存のための道具にしか過ぎなかった。

誰しも誰かのギャロウグラスなのだ。それを生き甲斐にしている。しかし本当に誰かのギャロウグラスなのかを知ることは実は生き甲斐を奪う危うさを孕んでいることを本書はまざまざと見せつけたのである。

貴方には必要とされる人はいるだろうか?
そしてその人は本当に貴方を必要としているのだろうか?
それを知ることは止めた方がいい。それはとても恐ろしい事だから。


No.1504 7点 モリアーティ
アンソニー・ホロヴィッツ
(2021/05/16 00:39登録)
大胆不敵にもホロヴィッツはホームズとワトソンを一切登場させず、脇役であり道化役でもあったスコットランド・ヤードの一警部アセルニー・ジョーンズとアメリカから来たピンカートン探偵社の調査員フレデリック・チェイスを物語の主人公に据えた。
前作『絹の家』はホームズとワトソンによる真っ当なホームズ譚であったが、本書はホームズがモリアーティ教授と格闘の末にライヘンバッハの滝に落ちた直後から始まる。

本書ではホームズの世界観をバックに2人の主人公が縦横無尽に活躍する内容になっている。
とはいえ登場するのは正典に所縁のある人物ばかりで、本書で主役の1人を務めるアセルニー・ジョーンズは『四つの署名』に登場したスコットランド・ヤードの警部である。
本書では親切なことに訳者による本書で登場するスコットランド・ヤードの面々が正典のどの作品に出たか詳しいリストがついている。

このアセルニー・ジョーンズ、実は正典では無能ぶりが強調された警部として描かれているようだが、本書では実に緻密な観察眼と推理力を持つ、おおよそ正典では存在しえない優秀な捜査官ぶりを発揮する。
私は当初彼は滝に落ちて亡くなったと見せかけたホームズが成りすました人物だと思っていた。というのもその推理振りはホームズのそれを想起させるものであり、更に足が悪くて休み休みでないと歩けないという描写があることから、怪我がまだ治り切れないホームズであると思われ、更に彼の台詞「たとえそれがどんなにありそうにないことでも、問題の本質として充分考慮しなければならない」はホームズのあの有名な台詞を彷彿とさせるからだ。

しかし彼が妻による夕食をチェイスに招待する段になってその確信が崩れてしまう。そしてその妻エルスぺスがチェイスに語る、彼が正典で被った屈辱から徹底的にホームズを研究して彼に比肩する頭脳明晰な捜査官になろうとしていることが明かされる。
つまりは本書においてのホームズはかつてその名探偵とその助手によってコテンパンに揶揄われることに一念発起して切磋琢磨したスコットランド・ヤードの警部である。いわば彼はホームズシリーズにおける「しくじり先生」なのだ。
更にスコットランド・ヤードの警察官たちの中にはホームズの推理に疑問を持つ者をいることが描かれる。曰く、筆跡から書いた者の年齢まで解るものだろうか、歩幅で身長を本当に推定できるのだろうかと云い、今になると彼の推理は何の科学的根拠もない荒唐無稽な代物だとまでこき下ろす。
更には今までさんざんバカにされてきたことに腹を立てたりもする。
つまりホームズに頼ってきたスコットランド・ヤードの警部が物語の中心になることで警官たちのこれまでホームズという奇人に対して募ってきた本音が描かれるのである。

これは緻密な頭脳を持つ犯罪者モリアーティの恐ろしさを知らしめる物語であると同時にホームズに憧れ、ホームズになろうとし、なれなかった男の物語でもあるのだ。

本書はホロヴィッツが一ミステリ作家としてのオリジナリティを発揮することを試みた野心的な作品であることは想像に難くない。
しかしそれは実にチャレンジングな内容であった。
この結末の遣る瀬無さを世の中のシャーロッキアンやホームズ読者がどのように捉えたのか。それが今なお彼が次のパスティーシュ作品を書いていない(書けてない?)答えのように思えてならない。

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