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[ SF/ファンタジー ] 月蝕島の魔物 ヴィクトリア朝怪奇冒険譚シリーズ |
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田中芳樹 | 出版月: 2011年07月 | 平均: 7.00点 | 書評数: 1件 |
東京創元社 2011年07月 |
東京創元社 2020年11月 |
No.1 | 7点 | Tetchy | 2022/03/26 00:21 |
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最近では老境に入ったこともあり、それまでずっと棚上げされてきたシリーズの完結に勤しんでいる田中氏だが、本書はその前に書かれた19世紀のヨーロッパを舞台にした、実在の人物を登場させた冒険活劇が描かれていたが、本書もそのうちの1つ。
作者あとがきによればこの後『髑髏城の花嫁』、『水晶宮の死神』と続き、全部で三部作となるようだ。 で、私はこの田中氏の19世紀のヨーロッパを舞台にした冒険活劇は実に楽しみにしている作品である。なんせこの前に読んだ『ラインの虜囚』が無類に面白く、久々に胸躍る童心に帰って冒険活劇の躍動感に胸躍らせたからだ。 さてそんな期待を抱きながら繙いた本書もまた『ラインの虜囚』とまでもいかないまでも実に楽しい冒険小説となっている。 まず本書にはあの有名な文豪チャールズ・ディケンズと童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが登場する。デンマークの作家アンデルセンがディケンズの許に遊びに来ているという設定で、なんとこれは作者自身のあとがきによれば史実のようだ。 その2人の冒険に巻き込まれるのは語り手であるエドモンド・ニーダムとその姪メープル・コンウェイの2人だ。 ニーダムはクリミア戦争からの帰還兵で元々ジャーナリストであったが帰還後、彼の勤めていた会社は既に倒産しており、幸いにしてその社長が紹介してくれた貸本会社ミューザー良書倶楽部の社員に姪と一緒に雇われることになる。この2人が実在の人物であるかは不明である。 そんな2人が社長の命でディケンズの世話をすることになり、そしてディケンズのスコットランドのアバディーンへの旅行に随伴することになる。そしてその地でディケンズと因縁深いゴードン大佐と再会し、彼の所有する月蝕島に行くことになる。そしてそこで彼ら街の権力者であるゴードン大佐とその息子クリストルと対決することになるのだ。 まず貸本屋が当時一大産業として成り立っていたというのに驚く。主人公2人が就職するミューザー良書倶楽部は会員制の貸本屋で客層は上流階級で会員費で潤沢な資金を得て話題のある、内容的にも評価の高い本を扱っていた。19世紀当時はまだ本は買うものではなく借りる物だったのだ。 従って作家連中は自作を貸本屋に置いてもらわないと死活問題であったため、貸本屋は売れる本を書くよう作家に指示できる立場であったのだ。いわば編集者も兼ねていたとのことだ。 また逆に売れる作家に対しては将来への投資として旅行費の立替なども行い、まさに今の出版会社と変わらぬ役割を果たしていたようだ。 さて今回ニーダム一行が月蝕島を訪れるきっかけとなったのは新聞で氷山に包まれたスペインの帆船が流れ着いたというニュースが入ったからだ。しかもその帆船は16世紀にイギリスに攻め入って返り討ちに遭い、帰国の途中に行方知れずとなったスペインの無敵艦隊の1隻だともっぱらの、しかし確度の高い噂が流れていたからだ。 ここでまた田中氏によってこのスペインの無敵艦隊について蘊蓄が語られるわけだが、イギリス侵略に失敗したスペインの無敵艦隊は西方の英仏海峡にイングランド艦隊が待ち受けていた関係でなんと東からグレートブリテン島を北上し、アイルランドへ回って帰還するしかなかったと述べられている。そしてそれほどの距離を航行する予定ではなかったため、食糧が尽き、おまけに北の暴風と嵐に巻き込まれて130隻中67隻が帰還し、残りの63隻のうち35隻が行方不明のままだったとのこと。 つまり田中氏はこの史実に基づいて氷山に包まれたスペインの無敵艦隊が200年の時を経てスコットランド沖の月蝕島に流れ着くという実に劇的なシーンを演出する。 そしてこの月蝕島の成り立ちがまたすごい。この島の領主リチャード・ポール・ゴードン大佐は暴君とも云える存在で財力に物を云わせ、農民から土地を巻き上げ、借地料や借金を払えない農民たちを強制移住させて追い出していた。さらに安い賃金で雇い長時間労働をさせて過労で次々と死なせていた。また月蝕島を買い取ると島民たちが生業にしていたガラスの材料となる海藻取りを、海の中まで自分の土地だと宣言して禁じ、貧困にあえがせていた。それは彼の目的のためだった。彼は月蝕島から島民を追い出し、囚人の流刑地にするつもりだったのだ。しかも1万人もの囚人を送り込み、そこで飢餓と寒さに晒すことで自然死させ、そして再び1万人の囚人を送り込んでは死なせを繰り返してイギリスから悪党を一掃しようと企んでいたのだった。 やはり都会よりも歪んだ思想を持つ権力者が幅を利かせる田舎の方が怖いというがまさにゴードン大佐の支配するその街はその典型だ。 ちなみに私は昔からイギリスの小説で大佐という肩書の登場人物が出ることに違和感を覚えていたが、今回の田中氏の説明でその疑問が解消できた。 貴族や爵位の持たないが、広大な土地を所有する大地主などを「郷紳(ジェントリー)」と呼ぶらしく、そしてそういう身分の人物が軽傷で呼ばれたいときに使うのがコロネルという位であり、これを「大佐」と訳していたわけだ。つまり大佐とは決して軍人の階級を示すわけではないのだ。しかしこれは今回初めて知ったが、やはり大佐という肩書は軍人を想起させるので解ったと云えど違和感は当分払拭できそうにないだろう。 またこの悪辣な親にして子もまた同じく心底悪党である。 次男のクリストルは長身でハンサムだがプライドが高く、またすぐに女性が自分になびくものだと思っており、メープルに対して異様な執着を持つ。さらに剣の名手であり、力量の劣る敵を自らの剣で思う存分傷つけ、嬲り殺そうとする異常な性格の持ち主だ。さらに彼は過去自分になびかず兄を好きになったメイドに腹を立て、その報復として身分違いの恋を父親にリークして親と共に兄のラルフを月蝕島の断崖からメイドと共に突き落として殺害した過去を持つ。さらには気に入った女性を島まで連れて行ってはお気に入りの服を着させてもてあそび、飽きてしまえば殺してはまた新しい女性を物色して連れてくるを繰り返していた卑劣漢だ。 またその犠牲となったラルフは運よく生き残ったが恋人のメイドは死んでしまい、彼は身分を変え、新聞記者マクミランとなり、父親と弟への復讐を企てる。彼がディケンズ一行に同行したのはその目的のためだった。 しかし彼もまた歪んだ性格の持ち主で、父親への復讐は彼をひと思いに殺さず、有名人であるディケンズとアンデルセンを殺し、その罪を父親と弟に着せ、一笑殺人犯の烙印を背負って生きさせるためだった。つまり彼も自分の復讐のためにニーダム達一行の命を利用しようとしていたのだ。 そんな悪党親子と立ち向かうディケンズ一行の面々もまた個性的だ。 ディケンズは貧しい家庭の出であることにコンプレックスを抱いているが、情に厚く、自分が気に入った者たちへの支援を怠らない人物だ。 翻ってアンデルセンは大人になって子供で少しのことで狼狽え、嘆き、そして喜ぶ。ちょっとした知的障碍者のように描かれている。 そしてメープル・コンウェイはおじのニーダムに憧れ、将来ジャーナリスト志望の若き娘で作家の悪筆を見事に読み取る能力があり、それを買われてミューザー良書倶楽部に雇われる。そして女性の地位向上、識字率向上に努力を惜しまず、また悪党クリストルにも一歩も引かない気の強さを見せつける。 そして主人公のニーダムは案外深みのあるキャラクターであることが次第にわかってくる。彼は戦争から帰還後貸本屋の従業員として雇われ、また姪に対して気の良い兄的存在のいわば“いいお兄さん”的存在なのだが、クリミア戦争の後遺症で神経症を患っていることが明かされる。 桂冠詩人アルフレッド・テニスンの、彼が従軍したクリミア戦争のバラクラーヴァの会戦をテーマにした詩吟を聴いている最中に戦争の血生臭い死線の中を生きるためだけに潜り抜けた忌まわしい記憶が想起され、気を喪ってしまう。それは600騎中生き残ったたった195騎の中の1人であった彼の壮絶な記憶だった。そしてそれは彼に類稀なる戦闘術を与えることになり、腱の名手のクリストルとの一騎討ちで見事相手を打ち負かせてしまう。 とまあ、ヒーローとヒロイン、ボス的な存在であるディケンズと道化役のアンデルセンと冒険仲間としては典型的でありながらも申し分ない面々以外にも『カラブー内親王事件』の張本人メアリー・ベイカーも加わる。さらに周辺では先に述べた桂冠詩人アルフレッド・テニスンや『月長石』の作者ウィルキー・コリンズなど実在の人物が登場するのもこの田中氏の19世紀冒険活劇の特徴である。 そしてタイトルにある「月蝕島の魔物」とは悪辣な領主ゴードン大佐を指すものではなく、漂着した氷山の中に閉じ込められていた6つの目を持ち、海藻の塊のような風貌で口から一気に生物を凍結させる冷気を吐く、グリーンランドの先住民の間で伝わるキワコウ・ヌークシワエという怪物だ。そしてクライマックスはこの怪物との対決だ。 とまあ、実在する人物が実にのびのびと動き、さらに胸をむかむかさせる悪党が登場し、意外な人物の正体が明かされながら、なじみのない西洋の近代史の蘊蓄も散りばめられ、さらに最後は怪物の対決とエンタテインメントてんこ盛りの作品だ。 そして本書の隠れたテーマとはやはり教科書で学んだ歴史の裏側や教えられない当時の人々の生活やイギリスの社会や風習などを事細かく盛り込み、そしてその時代の人々に命を与えることだろう。 例えばゴードン大佐は急速に発展したイギリスの産業革命によって生み出された、一大財を成し、その資金力を己のエゴのためだけに使ってきた悪魔のような権力者であり、社会の高度経済成長の暗部でもある。 また教科書では決して学ばない当時の人々の生活様式や風習を書き残すことで読者が興味を持ち、次世代の歴史小説家が生まれることを期待しているのではないだろうか。 本書を書いた当時、作者田中氏は59歳。そしてこれが三部作の第1作目であることを考えると、やはり後続のまだ見ぬ作家の卵たちに向けた花束ではないだろうか。 本書の巻末には本書の登場人物が生まれる1789年から1907年の年表と数えきれないほど膨大な量に上る参考文献が載っている。やはりこのことからも田中氏が自分の趣味だけでこのシリーズを書いているわけではないことが判るというものだ。 |