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[ SF/ファンタジー ]
渚にて
人類最後の日
ネビル・シュート 出版月: 1958年01月 平均: 7.50点 書評数: 2件

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文藝春秋新社
1958年01月

東京創元新社
1965年01月

東京創元社
1965年09月

篠崎書林
1988年01月

東京創元社
2009年04月

No.2 7点 糸色女少 2024/03/06 21:17
全面核戦争により北半球は一瞬で滅亡、無事だった南半球にも放射能が南下していく。数ケ月後、オーストラリア南端にも最後の荷が迫っていた。
夢だったカーレースに挑む科学者、ギリギリまで現実から目を背け庭作りに勤しむ女、亡くなった家族への土産を探すアメリカ人艦長。
SFとしては動きがないが、今読んでもなお、核戦争の恐怖を身近に感じさせる。

No.1 8点 斎藤警部 2020/09/25 19:56
9月になれば、すべてが終わる。。。。。。。。。 絶望を希望がやさしく受け入れる僅かな時間に、平和が訪れた。希望光放つ所に、争い鎮まるいとま無し。 コバルト爆弾飛び交う第三次世界大戦なる蛮行の果て、救世主ジギー・スターダスト光臨の奇蹟もなく、ザ・ビートルズがアメリカで大ブレイクを果たして間もなく、人類とほとんどの生物の命が地上から絶えてしまう(音楽業界はチャンスを逃した)。 北半球は爆撃で全滅。激甚な放射線は赤道を越えて南半球を侵食し始め、今や残るはオーストラリア南部の更に南部だけ(大都市ではメルボルンのみ)。

“写真の縁の中から、シャロンが、よくわかっている、そうだと言わんばかりに、モイラを眺めていた。”

放射性物質や放射能に関する考証の危うさはともかく、これは心をつかんで揺さぶり感情を呼び起こす、ニール・ヤングの同名曲ほどうらぶれていない、強く静かな物語でございます。 99.99%無人の筈の北半球から送られてくるモールス信号の謎には、ちょっとしたミステリ的興味と冒険が絡みます。 小説そのものも、登場人物たちの人生も、避けられない終わりがすぐそこまで訪れているのに、どこかしら特別感を帯びながらも通常運転の生活が慌ただしく過ぎて行く。 しかし、諸々そうきれいに行くのかな。。 行かせたいものだ。 本作はきれいに行かせた人々を主役級に据えている。 そうは行かなかった人々も、暗示的に描写される。 
終末ならではお約束のユーモアは、ブラック過ぎて切ない。だがすぐ爽やかな位相に転じる。更に一周回って大笑い。最後やっぱり切なさと爽やかさへの二重収束。 そこへ来てドワイト艦長不器用ゆえのホワイトユーモアも頻発して、、素敵です。

「しかし、この土曜日は、多くの人たちにとっては、健康で過ごせる最後の週末になるかも知れません」 「あなたも、いまにりっぱな腕前のタイピストになれるわけですね」 「犬がどうなるか、ひどく気に病んでいるのです」 「しかし、わたしは、最後までまちがったことをしたくないのです。命令があれば、それに従います。わたしは、そのように教育されてきたので、いまさら、それを変えようとは思いません。」

落ち着いたストーリー展開の中に突如、悪魔の宴の如く炎を衝き立てる、犠牲者が異様に多いカーレースのシーン、そんな死の愉楽に興じる者たち。主役級の一人もその中にいるが、普段は冷静な科学者で、彼の下す状況への冷徹な専門家判断は、仏のようにありがたい諦観を恵んでくれる。 最後ほんの数十ページには号泣の機会が群発。 個人的にはオズボーンの母の死が最も心に残ります。 それよりずっと前の頁だが、ラルフとの別れのシーンもたまらんな。。 ホームズの食欲増進とか、妙にユーモラスなエピソードのアタックも密かに泣かせます。 それにしても、きっかけは1960年代前半のアルバニアか。。現代で言うと、どこの国だってんですか。。。

「どういたしまして。世界の終わりなんかじゃありません。ただ、われわれの終わりです。世界は相変わらずつづいているでしょう。ただ、われわれが、そこにいないだけです。われわれがいなくても、世界はけっこうやっていきますよ」

舞台は南半球オーストラリアですから、9月と言っても冬が終わり春が始まる時節。 ユーミンの「最後の春休み」と「9月には帰らない」が、いつも以上の切実さで頭をよぎります。 冒頭エリオットの詩も最高に効いているな。。 ある意味ソフトスカトロ的なシーンも最後のほう、ありますw。 だけどこれがまた、刺さるのよ。(色んな意味で、とかふざけちゃいかん)

“いっそう賢明な居住者が、不当な遅滞なく、また住めるようにするためには、その前に人類を一掃して、世界を清潔にしなくてはならなかったのだ。さよう、こんどの出来事は、おそらくは、そこに意味があるのかもしれない。”

これで最後かも、と思うこと、歳を取ると増えますね。 あれが最後だった、と思うこと、歳を本当に取ると増えるのでしょう。
ラストシーンは ”ウォールスィング・マティルダ” を、主役級以外含めた数人で歌いながらフレームアウトかと思ったら、、違った。。。。

「わたしは、あなたが、わたしにとって、つらい時期となったかもしれないものを、楽しい時間にかえてくだすったことを話します。また、あなたは、そもそものはじめから、なにひとつ、あなたのためにはならないことを知っていて。そうされたことを話します。わたしが、いままでどおりのわたしで、飲んだくれのやくざものにならないで、シャロンのもとに帰れたのは、あなたのおかげだということを話します。あなたはわたしが、シャロンにたいして忠実であることを容易にしてくだすったこと、そのために、あなたが、どれだけの犠牲を払われたか、そのことを話します」

終盤は、まるで本当に残された命を惜しむように、じっくり読まずにはいられませんでした。 まだ生きていてよかった。


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ネビル・シュート
2002年02月
パイド・パイパー―自由への越境
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1958年01月
渚にて
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