Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.73点 | 書評数:1603件 |
No.1503 | 7点 | サハラ砂漠の秘密 ジュール・ヴェルヌ |
(2021/05/11 00:05登録) ヴェルヌ最後の作品とされる本書は未完成の2作品『調査旅行』と『サハラ砂漠の都市』を息子ミシェルが合わせて完結させて、ジュール・ヴェルヌ名義で刊行したと云われている。 ヴェルヌのデビュー作『気球に乗って五週間』もアフリカへの空の旅だったから、彼の創作活動はアフリカに始まりアフリカに終わることとなった。偶然なのか意図したことのなのかは今ではもう解らないことだが。 本書は先に述べたように2つの作品を1つに纏められた作品であるため、前半と後半とでガラリと様相が変わってくる。 前半は兄の汚名を雪ぐべく、当時未開の地だったニジェール川の中流、≪ニジェール川の湾曲部≫にあるクーボの村まで麗しき勇敢な女性が間抜けな年上の甥と共にフランスの調査団と共に向かう探検譚となっているのに対し、後半はサハラ砂漠の一角に無法者によって作られた都市に囚われた調査団たちの戦いの物語となる。 未開の地への冒険と見知らぬ独立国家との遭遇。そのどちらもヴェルヌ作品の大きな特徴であるため、ウィキペディアの情報がなければヴェルヌが晩年にこれまでの作風の全てを注ぎ込んだ最後の大作と思ったことだろう。 そしてジェーン・バクストン達一行が囚われるブラックランドはご丁寧にイラスト付きでその都市構成が語られる。それは中心にレッド・リバーなる大河を湛えた、周囲に城壁を備えた城塞都市で、私はこのイラストを見た瞬間、マンガ『進撃の巨人』の3重の壁を持つ人類地区を想起した。 最新科学の知識に基づいた奔放な創造力による発明の数々、特徴あるキャラクター達、そして未開の地での意表を突く食糧事情など、これまでのヴェルヌ作品のエッセンスを十二分に備えた作品となっている。 そしてこのヴェルヌ最後の物語は最後の最後まで我々現代に多大なる影響を及ぼしていたことが解る。例えば今回の物語はフランシス・コッポラ監督の名作『地獄の黙示録』、もしくはその原作『闇の奥』にその影響が見られる。いやそれだけでなく未開の地で誰も知らない近代技術の粋を集めた王国を築き上げる首領という設定は007シリーズやその他数多のヒーロー物にも影響を与えている。本書の影響を受けて作られたそれらの物語の数々が今なお現代でも脈々と引き継がれているのである。 またこれほどたくさんの作品を著し、その都度最新科学の技術と知識を盛り込んできたヴェルヌに私は幾度となくその先進性に驚かされたが、それが最終作となる本書においてもまだ驚きをもたらしてくれることに素直に驚いた。 そして何よりも本書ではその物語性に関しても完成度が高いことに驚きを禁じ得なかった。 本書は2つの作品をヴェルヌの死後、息子ミシェルが編集して完成させたとされているが、それが実に見事な出来栄えであることに驚かされた。通常名作家の晩年の作品はアイデアの枯渇が見られ、質の低下が露見して概ね残念な出来栄えに終わるのが常だが、この息子の成果はSFの開祖として名を馳せた父ジュール・ヴェルヌの名を辱めない、いや寧ろ最後の最後までヴェルヌの名を高らしめた仕事として評価されることだろう。 人の幸せやより豊かな生活のために発展してきた科学技術や未開の地を切り拓いて国を作るフロンティア精神も悪意の下では兵器にもなり、そして悪の巣窟になることを解く。後期ヴェルヌは科学の万能さで夢を描いた前期から一転してこのような人間の過ちを描くことが実に多かった。 しかしながら本書はそれでも巨匠ヴェルヌの幕引きに相応しい大著であることは間違いない。息子の最大の親孝行が本書という形になって残ったのはヴェルヌの魂も浮かばれることだろう。だからこそ本書は絶版などせずにこれからも残り続けてほしいと強く願うばかりだ。 |
No.1502 | 7点 | フラッタ・リンツ・ライフ 森博嗣 |
(2021/05/09 23:51登録) スカイ・クロラシリーズ4作目の本書での語り手はクリタ・ジンロウ。そう、1作目では既に戦死しており、その機体を引き継いだのがカンナミ・ユーヒチだった。1作目では明かされなかったクリタ・ジンロウの死と草薙の絶望についてようやくこの4作目で語られるのかという思いでページを捲った。 予想できたことだが、草薙水素は前作にも増して絶望している。彼女は会社のロールモデルとして生きることを強いられ、死と隣り合わせの空中戦闘に参加させられないことにフラストレーションをため込んでいる。 戦闘機のパイロットは常に死と隣り合わせだ。出発前に元気だったからと云ってそのまま基地に還ってくるとは限らない。しかしそれでもなお彼ら戦闘機のパイロットは空を飛ぶことを止めない。その理由が本書には思う存分書かれている。 それは彼らが到達する天上は鳥さえも飛ぶことができない不可侵領域だからだ。その空と宇宙との間の澄み切った世界に入れるのは彼らパイロットの特権だからだ。 彼らが飛ぶのは敵と戦うためだが、そこに命のやり取りという意識はない。彼らは存分に彼らしか到達できない世界で自由に飛んで戦うことを愉しむことができるからこそ飛ぶのだ。 そこで彼らは地球の重力からも解放され、全き自由が得られるのだ。この自由、そして不可侵の空にいることの無敵感こそが彼らに至上のエクスタシーをもたらす。 その純粋さは恐らく新雪のゲレンデを一番乗りで滑るスノーボーダー達が感じる喜びの数百倍に匹敵するのではないだろうか。 だから彼らは命を亡くすかもしれない戦闘機パイロットの職を辞めない。 例え敵に撃墜され、命を喪うことになっても、何物にも代え難い空での自由の前では死すらも安く感じるのではないか。 もしくは永遠の命を持つキルドレは普通に生活していれば無縁の命の危機をパイロットとなって戦闘に関わることで死を意識するスリルを味わうことができる。 あるいは長らく生きていることでもはや死を望んだ彼らが永遠の眠りを手に入れるために敢えて死地として空を選んだ者もいるだろう。 戦闘機乗りは地上では穏やかだが、空に出ると戦闘的になる者が多いと作中には書かれている。戦うことが礼儀だからだと語り手のクリタは述べる。 つまり彼らは命の駆け引きなしで空を飛ぶことに満足できなくなっているようだ。 敵を撃墜すると気分はハイになるとも書かれている。人の命を奪ったのに彼らに残るのは“人を殺した”という罪悪感ではなく、敵を撃ち落としたという即物的な喜びだ。 一方で仲間が撃墜されるとその喪失感でしばし呆然となる。そんな時の食堂は閑散としているが、パイロットたちは彼らの死を偲ぶのではなく、寧ろ新しい人員がいつ補充されるかを考えているだけだとクリタは述べる。それはやはり自身も戦闘機に乘る駒の1つに過ぎないと思っているからだろう。 Flutter Into Life、“生への羽ばたき”とでも訳そうか。 戦闘機乗り達は自分たちの生を実感するために命を喪うかもしれない空の戦場へと向かう。この大いなる矛盾はもはや理屈ではなく、戦闘機乗り達が持っている共通項なのだろう。 命を賭けてまで辿り着きたい場所がある。その場所でしか味わえない自由がある。 草薙水素もクリタ・ジンロウも、そして黒猫こと元ティーチャも生きるために死地へ向かい、飛びたがっている。生きている限り、彼らは飛び続けたいのだ。 ハリケーンや台風が訪れる前後の夕焼けは紫色に染まるという。本書の表紙が紫色なのはクリタ・ジンロウと草薙水素に大いなる人生の転換という嵐が、空を飛べなくなった災難が訪れたからだろうか。 願わくば草薙水素をもう一度空へと飛ばしてほしい。しかしもはや残された空の色は哀しい色しかないのだろうか。 |
No.1501 | 8点 | レイトショー マイクル・コナリー |
(2021/05/09 00:21登録) コナリーの新しいシリーズの幕開けで新キャラクター、レネイ・バラードの初お目見えとなった。 ハワイ生まれのまだ独身の女性刑事はかつての上司を告発したことでその上司からハリウッド分署に飛ばされ、そして深夜勤担当になった。 また彼女は深夜勤担当に追いやられても決して腐ってはいない。寧ろ一刑事として事件を最初から最後まで追いかけたいと強く願う女性刑事だ。 そしてかつてロス市警時代のレネイの相棒ケン・チャステインは上昇志向の持ち主。ちなみに彼はボッシュシリーズの『エンジェルズ・フライト』で殉職したジョン・チャステインの息子だ。 このチャステインを筆頭にロス市警を舞台にしているだけあってハリー・ボッシュシリーズとのリンクがそこここに見られる。 『死角 オーバールック』と『ナイン・ドラゴンズ』でボッシュの上司を務めたラリー・ギャンドルがロス市警の強盗殺人課指揮官として登場し、物語の後半ではバラードが関わった事件で起こったことに対するカウンセリングを、ボッシュのカウンセラーでもあるイノーホスが受け持つ。 正直に告白すれば待ちわびたコナリーの新作ということで期待が高まったのと、新シリーズの幕開けということでの不安が入り混じった中での開巻となり、最初はボッシュシリーズで馴染んだハリウッド分署とロス市警を舞台にしながらもいつもと異なる登場人物たちに戸惑い、なかなか物語に入り込めなかったが、流石に物語の中盤に差し掛かり、レネイの追う事件の容疑者が判明し、さらに蚊帳の外に追いやられている<ダンサーズ>銃殺事件でかつての相棒チャステインが殺害されてからの疾走感はコナリーならではのリーダビリティーをもたらしてくれた。 特に物語の中盤を過ぎた頃の、男娼暴行事件の容疑者トーマス・トレントに拉致され、全裸で監禁された時の決死の抵抗は鬼気迫るものがあった。満身創痍の中、全身全霊を傾けて犯人に打ち克つ姿は身の震える思いがした。 そこからはもうレネイがボッシュでなくともそこまでにコナリーの描写も相まって逆境にも挫けない女性刑事の肖像が立ち上り、いつの間にか彼女を応援する自分がいた。少しルールを逸脱してまでも自分の欲するものを手に入れようとする、朝になれば昼勤刑事に手掛けた事件を引き継がなければならない、つまり自分の事件を最後まで全うできない宿命にある“レイトショー”の刑事レネイ・バラードのタフさは読んでて気持ちいいものを感じた。 ボッシュ同様、部下に持つと苦労させられる刑事ではあるが。 またもやコナリーは現代アメリカの警察小説のトップランナーに恥じぬ仕事をした。出すたびにベストセラーランキングに躍り出て、そして傑作を書き続けるという高いハードルを越えて見せた。それもレネイ・バラードという魅力的なヒロインを引っ提げて。 いやはやコナリーの筆は衰えるどころか魅力ある女性刑事を主人公に添えることで今まで男臭い刑事の物語に涼風を与えることに見事に成功した。 新しいシリーズキャラクターを迎える不安は最後のページを閉じる時には次作への大いなる期待に変わっていた。まだコナリーを読む喜びはしばらく続きそうだ。 |
No.1500 | 3点 | Φは壊れたね 森博嗣 |
(2021/05/06 23:56登録) 新しいシリーズ、即ちGシリーズの開幕である。Gは恐らくギリシャ文字がタイトルに冠せられているからGreekのGの意味か。しばらく退場していた西之園萌絵と犀川創平が再登場しているのでこのシリーズでは主役を務めるらしいと思いきや、探偵役は別の人物だった。 物語の中心人物はN大の生徒ではなく、国枝桃子が助教授として勤めているC大学の学生で国枝の研究室に入っている大学院生の山吹早月と同じ大学の2年生で加部谷恵美と海月及介の3名が務める。このうち、加部谷恵美が西之園萌絵と繋がりがある。確かS&Mシリーズの『幻惑の死と使途』にちらっと登場していたように記憶している。調べてみたらその時はまだ中学生だった。 西之園萌絵は彼らが遭遇する密室殺人事件にいつものように興味本位から関わるが、実際に探偵役を務めるのではない。彼女は愛知県警との太いパイプを活かし、これまた再登場の鵜飼と近藤、三浦たち捜査官から捜査状況を提供してもらい、それを要求に応じてこの3人に提供する。そしてその中の1人である海月及介が真相を解き明かす。 この3名の役割は山吹早月(因みに男性)が語り手を務め、加部谷恵美はコメディエンヌとしてこの3人の中で色々な推理を開陳しつつ、袖にされながらもめげずに2人についていく。Vシリーズでの香具山紫子のような位置づけで、少々ウザい。 そして探偵役である海月及介は大学2年生でありながら、実は山吹の中学時代の同級生である。2年ほど世界を旅していた後に大学に入学した変わり種。いつも本を読んでおり、必要以上のことはしゃべらず、また頷くといったジェスチャーもそれと気付かないほど小さな男でとにかく無駄を極限的に排除する性格の持ち主。周りが事件のことを話していても積極的に関わったりしない反面、必要なことは聞いており、真相を看破する。つまり常に頭は思考でいっぱいという人物だ。西之園萌絵曰く、犀川創平に似ているとの評。 さてそんな彼らが初めて遭遇する事件は森博嗣ミステリではお馴染みとなった密室殺人事件だ。マンションの一室で広げた両手を紐で吊らされて、作り物の翼を身に着けた状態でナイフを胸に刺されて殺されたN芸大学生の他殺事件だ。マンションは鍵が掛かっており、しかも管理人代理をしていた山吹が鍵を開けると立て掛けて積み上げられていた箱が倒れてきたのでそこからの脱出は不可能。そしてその他の出入り口として考えられるベランダも鍵が掛けられた状態という完全なる密室。しかし両手を吊るされた被害者は自分の胸を刺すことは出来ないため、明らかに他殺としか考えられない。 しかもマンションの鍵は電子ロックで簡単に合鍵が作れず、居住者の被害者が持っている2つの鍵は両方とも室内にあった。 そして奇妙なことに室内にはビデオカメラが据えられており、被害者発見時の様子が録画されていた。そしてそのテープには「Φは壊れたね」という奇妙なタイトルが付けられていた。 以上が今回の事件だが、真相を読めば何とも思わせぶりだけで終わったミステリだったというのが正直な感想である。 事件の真相はもはや森ミステリ定番となったように全てが明かされることはない。 そして山吹が事件の真相を解明した海月と話していた時に駅のフォームから犯人によって突き落とされたのは正直蛇足でしかないだろう。山吹が事件の真相を見抜いたわけでないし、また突き落とされたのが海月だったとしても犀川創平が真相を見抜いていたようなので犯行が明るみに出るのも時間の問題だ。 彼らを排除することで事件の真相を分からなくしたようだが、全く何の意味もなさない。恐らくは素人が殺人事件に関わることの危うさをアクセントとして加えたのかもしれないが。 そして真相を踏まえて遺体発見時の様子を読んでみると、やはりアンフェア感は否めない。 また最たるものは作品のタイトル「Φは壊れたね」の意味が全く明かされないことだ。 これは芸術作品のタイトルというのはそもそも思わせぶりで中身がない物が多いという森氏なりの皮肉なのか? 因みにΦに似た記号で数学に空集合を示す記号∅があると作中で言及されるが、そういう意味で捉えれば空集合、即ち要素を一切持たない集合、即ち中身のない集合が壊れた、つまり町田、戸川、白金、岸野たちは元々中身のない関係だった、それが今回壊れたという風に強引に解釈すべきなのだろうか。 そんなモヤモヤとした気分で読み終えた本書だが、この森ミステリ特有のスッキリしない感は海月の台詞に垣間見られる。これが森氏のミステリに対するスタンスであると私は感じた。 ミステリに登場する素人探偵は警察に頼まれずに勝手に推理して事件をさも解明したかのように振る舞うが、それは推論であり、事件を直接解決したことにはならない。それはあくまでその人本人による解釈であり、1つの予測、予感に過ぎない。そして犯人を指摘することは極めて原始的で一種の犯罪であると考えても間違いないだろう。 つまり素人探偵が解き明かす真相というのはあくまで1つの解釈に過ぎない。それを真相だとするのはおかしいし、暴論であり、それが元で犯人が捕まるなんてことは現実問題としてあり得ない。証拠があり、証人がいて初めて事実が犯人を決定するのだということだ。 そしてそんな本当のことなど解りはしないのだというのが森氏のミステリ観なのだろう。 しかしそれはあまりに現実的な話だ。現実社会で何か事件が起こり、もしくは納得のいかないことがあってもそれが数学のようにきちんと割り切れた形で終わるのはごくごく少数に過ぎない。大半はうやむやな形で幕引きされる。誰も責任を取りたがらないからだ。 しかしだからこそ物語の世界ではきちんと割り切れてほしいのだ。決着が着き、結論が出てほしいのだ。 モヤモヤした思いが残った新シリーズの幕開け。果たして彼ら3人はかつてのシリーズキャラを超える活躍を見せてくれるのだろうか。 |
No.1499 | 7点 | 新しい十五匹のネズミのフライ 島田荘司 |
(2021/04/24 00:50登録) 2015年、私が最も驚いたのは御大島田荘司氏がホームズ物のパスティーシュを著したことだ。彼のホームズ物のパスティーシュと云えば直木賞候補にもなった『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』が有名だが、それが発表されたのが1984年。そう、実に30年以上の時を経て再び島田氏がホームズ物のパスティーシュを発表したのだ。 なぜ今に至って御手洗潔シリーズのモデルとも云える彼の原点であるホームズ物のパスティーシュを著したのかが私にとって不思議でならなかったが、BBCドラマの『シャーロック』の放映をきっかけに昨今ホームズ物のパスティーシュが映画、ドラマのみならず国内外で発表されており、そのいずれもが正典をリスペクトした上質なミステリになっていることがもしかしたら御大のホームズ熱を触発して書かれたのかもしれない。 そして私はホロヴィッツのドイル財団公認の“正式な”ホームズシリーズ続編である『絹の家』に続けてホームズ物を読むことになった偶然にまたもや運命の意図を感じてしまった。 さて今回島田氏が紡いだパスティーシュはなんとあの有名な「赤毛組合」の事件がホームズを誤った推理に導くように画策された事件だったというもの。その裏側では更に別の犯罪計画が潜んでいたという、まことに大胆不敵な内容だ。 今までホームズのパスティーシュは数多書かれているが、それらは正典の中から登場人物やら事件やらをエピソードとして語るに過ぎなかったが、短編そのものをミスディレクションに使用した作品はなかっただろう。 島田作品の長編には本筋に関係したサブストーリーが結構な分量で収められているのが特徴だが、上に書いたように今回はそのサブストーリーがなんと「赤毛組合」1編がまるまる収められている。ドイルの生み出したシャーロック・ホームズとワトソンから御手洗潔と石岡和己のコンビの着想を得た島田氏がとうとう師匠の作品を下地に更なる高みを目指した本格ミステリを生み出すに至ったことに私は感慨深いものを覚えてしまった。 また先に読んだ『絹の家』でもそうだが、ホームズ物のパスティーシュには正典からのネタが織り込まれているのが常道だが、本書もその例に洩れず、いや洩れないどころか島田荘司氏の奔放な想像力で読者が予想もしていなかった使い方をしている。 さて本書の最大の謎はタイトルにも冠されている「新しい十五匹のネズミのフライ」が何を意味するのか、そしてどうやって詐欺グループは難攻不落と云われる刑務所から脱獄できたのかの2つだが、この真相はなかなか面白かった。 いやはや作者は当時御年65歳だが、まだまだこんなミステリネタを案出する柔軟な頭を持っていることに驚かされる。 本書が島田氏にとってどんな位置づけの作品なのかは解らないが幸いにして発表当時本書は『このミス』に久々にランクインを果たした。 恐らくこの島田荘司という作家は死ぬまで本格ミステリのことを考え、新しい力を支援し、そしてそれに負けじと自らも作品を発表し続けるに違いない。まだまだこんな作品が書ける島田氏をこれからも私はその作品を買い続け、そして読み続けるつもりだ。 |
No.1498 | 4点 | 世界の支配者 ジュール・ヴェルヌ |
(2021/04/22 23:37登録) 前作で<あほうどり>号と名付けられた時速200キロで飛行する最新の飛行機械を駆って世界中を飛び回った謎の人物ロビュールが今度は目にも止まらぬ速さで走行する自動車、船、潜水艦、そして飛行機械へと変形する<エプヴァント>号を操ってアメリカ全土に神出鬼没の如く現れる。前回の<あほうどり>号の速さも驚異的だったが、本書の<エプヴァント>号は更にスケールアップした最先端の技術の粋を結集して作られた移動機械である。それもそのはずで21世紀の今でもこのように陸海空を航行する4つの機能を備えた移動機械は存在していない。ロビュールはとうとう現代の我々の技術をも凌駕してしまったのだ。 既に前作においてロビュールの心には自分の技術力が世界一である自負が強大化し、空を制する自分こそが世界の支配者であるという傲慢さが宿っていたが、本書では更にそれを前面に押し出し、世界中の列国に対してケンカを売るまでになっている。 世界の自動車会社が参加するレースに参加してぶっちぎりの勝利を見せたかと思えば消え去り、海上では他の船を嘲笑うかのように追いかけようとする船から余裕綽々で逃げ切り、アメリカの湖では漁業を営む漁師たちの船を脅かすが如く、潜水艇で湖中を自由自在に行き来し、更には羽根を生やすが如き飛行機になって追ってくる駆逐艦を尻目にナイアガラの瀑布を飛び越える。 それらの行為はただ単純に自分の技術力の高さを見せつけるためだけに行われたもので、そんな高度な技術を垂涎の的のように我が国の物としようとオファーを与える列強各国たちに対して傲岸不遜のように断り、そして我こそは世界の支配者だと明言する。 そんな超高速の機械の動力は作り出す電気だとヴェルヌは説く。ヴェルヌはどうも電気という新しい動力に無限の可能性を感じていたようで『海底二万里』の無敵潜水艦ノーチラス号も海水から電気を作り出して動力にしているとし、更に今回も空気中から電気を生み出すという21世紀の現代でも実現できていない技術を打ち出す。 そして21世紀の今ガソリン車に勝る電気自動車がまだできていないことを考えるとさすがに先見性を誇るヴェルヌであっても見抜けなかった進歩だと思ってしまう。 そんな「世界の支配者」の物語はなんとも呆気ないものだ。 私はこの何とも云いようのない物語にヴェルヌはどのようなメッセージを込めたのかと考えざるを得ない。 世界を支配し得る技術力を持った発明家の愚かな末路を示しているのだろうか。 もし誰も比肩しえない技術を人が持った時、人は自然をも凌駕しようとするが、それは天に唾吐く行為であり、結局大いなる自然現象の前にはどんな科学も無力であるという科学者、技術者たちへの警告なのだろうか。 本書はヴェルヌ最晩年の作品である。それまで科学の素晴らしさと無限の可能性をテーマに胸躍る冒険と荒唐無稽な挑戦を描き、夢溢れる物語を見せてくれた彼が最後には科学技術にうぬぼれて自滅する人物ロビュールを描いたのは何とも哀しい事実だ。 そこには世捨て人の如き、科学の亡者の姿があった。自分の技術の粋を結集して造った空中船を破壊された男の、世間に対する復讐心でのみ生きている姿があった。 ロビュールはヴェルヌが誰を投影して創った人物なのだろうか。 そしてこの作品が著された1904年からわずか10年後に第1次世界大戦が勃発する。それは初めて戦闘機が登場した戦争で人間は最先端の科学技術を愚かな戦争に用いてしまう。ヴェルヌは既にそんな世界の風潮を予見していたのかもしれない。 そういう風に考えると何もなしえなかったロビュールの一連の無意味な行動の意味が逆に立ち上ってくるような気がする。 結局何がしたかったのか? それはこの物語を読んだ直後に抱いた感想であると同時にヴェルヌが日々進歩する科学技術を誤った方向に利用しようとしている当時の風潮に対しての訴えのように思えてならない。 |
No.1497 | 7点 | シャーロック・ホームズ絹の家 アンソニー・ホロヴィッツ |
(2021/04/22 00:01登録) 日本人というのはなぜかホームズのパスティーシュ作品に目がないようで、いわゆるシャーロッキアンと呼ばれるホームズマニアが多くおり、日本シャーロック・ホームズ・クラブなるものまである。 そしてそういう方たちの中には自らホームズのパスティーシュ作品を手掛ける者もおり、本書の解説をしている北原尚彦氏はその第一人者である。彼の作品はまさに正典を読んでいるかのように忠実にシリーズの文脈や雰囲気を再現しているが、本書もまた同様に正典を読んでいるかのような錯覚に陥るほどの出来栄えだ。 それもそのはずで実は本書は通常のパスティーシュに留まるものではなく、コナン・ドイル財団から正典60編に続く61編目のホームズ作品として公式認定された続編なのだ。そんな大業のためにホロヴィッツは自ら本書を書くに当たり、10箇条を設定し、その中の1つに19世紀らしい文章表現をすることを課していたのだ。 ホロヴィッツはそれまでのホームズ物にない、ベイカー街別動隊の仲間の死と“絹の家(ハウス・オブ・シルク)”の謎が英国政府機関からも口止めされるほどの機密事項であることから彼の兄マイクロフトの助けさえも借りられなくなるという大きな試練を与えている。 そしてこのベイカー街別動隊の一員の死がその後作品でベイカー街別動隊が登場しない理由となっている。即ち子供を事件捜査に携わらせて危険な目に遭わせることをホームズは禁じたのだ。恐らく正典ではアクセントとして登場していたに過ぎないであろうベイカー街別動隊の登場について上手く理由づけまでするのだ。 またワトスンの妻メアリの死の前兆などにも触れられていたりと、こんな風に本書ではそこここにシャーロッキアンをくすぐるような演出や情報が取り込まれている。 そしてワトスンによる序文にこの事件が今まで語られなかったのはホームズの名声を傷つける恐れがあることとあまりにおぞましく、身の毛のよだつ事件であったこととある。往々にしてこのような話は読者の気を惹きつけるために煽情的に書かれ、実際はさほどと云ったものが多いが、本書はその言葉が示すように確かに今までのホームズ譚にはなかった、刺激的で痛烈な真相が暴かれる。 蓋を開けてみればイギリスの政界がひっくり返るような大スキャンダルと執念深いアメリカ・マフィアの意外な正体、更に依頼人自身も性倒錯者で犯罪者だったという、登場人物皆が悪人だったという痛烈な真相であった。 まさにホームズ生前では語るのを躊躇われる悍ましい事件だった。 しかしホロヴィッツ、実に器用な作家である。 複雑怪奇な事件を案出し、更にそこここに正典で語られる事件のネタを放り込みつつ、更に今回の時制がホームズが亡くなって1年後という回顧録の体裁を取っていることで、リアルタイムでホームズの活躍を綴っていた時には語れなかったワトスンの心情が思い切り吐露されており、それがまた実に面白い。まさに「今だからこそ云える」話が盛り込まれている。 そして彼が単に器用な作家に留まらず、センス・オブ・ワンダーを持っている作家であることが今回よく解った。 物語の序盤でホームズがカーステアーズ邸を訪ねた時にキャサリンと逢った後に「ところで彼女は泳げるんだろうか」とそれまでの文脈からは全くそぐわない台詞が飛び出る。これが実に深い洞察力を示した台詞であったことが最後に判明する。 この辺の突飛さは島田荘司氏の御手洗潔のエキセントリックさに通ずるものがある。正直私は島田氏の作品を読んでいるかのような錯覚を覚えた。 まさに続編と呼ぶに相応しいホームズ作品だった。そしてそんな大仕事を見事にこなしたホロヴィッツはまさにミステリの職人である。こんなミステリマインドを持った作家が日本ではなく、英国に今いることが驚きだ。 さてこの職人、次はどんな仕事を見せてくれるのか、愉しみだ。 |
No.1496 | 7点 | 家族狩り 天童荒太 |
(2021/04/18 23:59登録) 天童荒太氏の名を世に知らしめたのが3作目の『永遠の仔』であることに論を俟たないが、そのブレイクへの大いなる助走となったのが、家族全員を陰惨な方法で殺害する、何とも陰鬱な事件を扱った本書だ。 本書で扱われる事件はタイトルから想起されるそのものズバリの一家惨殺事件だが、その内容は愛に不器用な者たちの痛々しいまでの物語だ。心から血を吐くほどに狂おしいまでにそれは痛々しい。 本書で扱われる一家惨殺事件について触れよう。とにかくその内容は想像を超える凄惨さを極めた残酷ショーだ。 こんな常軌を逸した凄惨な事件を捜査するのが杉並署の刑事馬見原光毅。かつては捜査一課のエース的存在だったが、今は所轄署の書類仕事専門の閑職に就いているこの男もまた家族が壊れた男だった。 おおよそ読者の共感を得られない、警察官としてでなく、親、そして夫失格、いや人間として失格な人物なのだ。 そして芳沢亜衣。親の期待と自分のことを理解されない、愛がほしいのにどうして抱き締めてくれないのかと心の中で叫びながら、表面では口汚い言葉で周囲の人間を罵り、部屋を無茶苦茶にし、自傷行為も行い、どんどん荒んでいく女子高生。 正直私はこの登場人物が一番理解できなかった。周りがとにかく気に食わないから蔑み、罵倒し、ありもしないレイプの事実をでっち上げ、人を犯罪者に仕立て上げようとする。そしてどんどん心は荒み、夜毎起きては冷蔵庫の前で獣のように食料を漁っては食べ、それらを全て吐き出すことを繰り返す。 本書は1995年の作品。つまり25年も前の小説である。まだファミコンが人気を博し、携帯電話は普及しておらず、ポケベルが出先での連絡手段だった頃の時代の話だ。 しかし本書に描かれる家庭内暴力、児童虐待の痛ましいエピソードの数々は20世紀から21世紀になった今でも、平成から令和になった今でも全く変わらない。寧ろ改善されるどころか、毎日児童虐待による幼い命が奪われる哀しいニュースが流れる始末。また本書に登場する教育者で悩み相談を受け持つ大野夫妻が自己防衛のためにやむなく自ら我が子を手に掛けるが、これもつい最近農水省の元官僚が息子の暴力に身の危険を感じて殺害するといった同様の事件が起きたばかりだ。 この世は全く変わっていない。四半世紀を経ても児童の教育は色々な変化を行ったが、親子の抱える問題はいささかも解消されない。いやもしかしたらそれまで報道されずにいただけであって、最近の高度情報化社会で一億総情報提供者となった現代だからこそ今まで隠蔽されていた事件の数々が明るみに出るようになったのか。 ある人物が「狂ってる」と呟く。 そう、本書の登場人物はどこかみな狂っている。いつの間にか子供が親に従わず、暴力を平気で振るうようになり、我が子に怯える家庭に、そんな家族を惨たらしい方法で拷問するように殺害する犯人、その事件を追う刑事もかつて自分も厳しく育てた息子を自殺行為の事故で亡くし、その責任を妻に負わせ、狂わせた男だ。 そして理解されず愛情に飢えながらも耳を覆いたくなるような罵詈雑言を浴びせ、事実無根のレイプをでっち上げ、教師一人を辞職に追い込みながらも獣のように足掻き苦しむ女子高生。刑事の夫になかなか向き合ってもらえないから動物を殺して幸せそうな家の前に捨てる事件を起こして犯人である自分を捕まえるために駆け付けさせようとする妻。 誰一人まともな人間はいない。社会に適合しようと振る舞いながら、自らの感情をむき出しにして衝動的な怒りと不満、エゴをぶつけ合う人々たちばかりだ。 しかし彼らもまた虐待をされてきた人間だったのだ。因果は巡る。親の云うことが絶対だった日本に根付く厳しい家父長制度。云うことを聞かなければ殴る、蹴るが当たり前の時代。それが今なお親から子に引き継がれ、暴力を家庭から拭い去ることができなくなっているのだ。 愛が欲しい、自分の方へ向いてと叫ぶ一方でどうして自分の思い通りにしないのかと突き上げられる憤怒と衝動を抑えきれず、思わず暴力を振るいながらも誰かこんな自分を止めてほしいと願う人々がいる。 普通であることの難しさ、幸せを維持することの難しさ、そして我が子を育てることの難しさが本書には凝縮している。 しかし最も恐ろしいのはそれら登場人物の中に自らの影が見いだせることだ。 でも私の家族はまだこれほどひどくないと安堵して本を閉じながらも、いやもしかしたら近い将来…と不安になりもする。何とも魂に刺さる物語である。人生が苦痛と苦難を伴うものだと見せつけ、それでも生きていくことの難しさを刻み込まれる。 今度家に帰ったら子供たちを抱きしめてあげたい。そうする衝動に駆られる心が痛む物語であった。 児童虐待、家庭内暴力。 これらが撲滅されるまで我々人類はどのくらいの時間があと必要なのか? いや過去に暴力を受けた大人たちがいる限り、この負の連鎖は無くならないのではと令和になった今でも思わざるを得ない。 その証拠に今日もまたそんな虚しくも哀しいニュースが流れてきたではないか。 |
No.1495 | 7点 | 四つの兇器 ジョン・ディクスン・カー |
(2021/04/15 23:52登録) カー初期のシリーズ探偵アンリ・バンコランのシリーズ最終作が本書。悪魔的な風貌と犯罪者に対して容赦ない仕打ちを行う冷酷非情振りに皆が恐れた予審判事も本書では既に引退した身であり、温厚な性格になり、しかも洒落者とまで云われた服装は鳴りを潜めてくたびれた服を着ている。 しかし名探偵の最終巻とはなぜこのように似通っているのだろうか。 私は引退し、かつての切れ味鋭さが鳴りを潜めてくたびれた隠居然―地元警官からは「かかし」のような男とまで呼ばれる―としたアンリ・バンコランの描写を読んでホームズやドルリー・レーンを想起した。それらに共通するのは全盛期ほどのオーラは感じられないものの、腐っても鯛とも云うべき明敏さが残っている。つまり老いてなお名探偵健在を知らしめるための演出なのだろうか。 さて死んだ高級娼婦は短剣で刺殺されたはずなのに、事件現場には短剣以外にもカミソリ、ピストル、睡眠薬と3つの異なる凶器が残されている。本書はその題名からもこの奇妙な状況が取り沙汰されているが、もちろん本書の謎はそれだけではない。殺害された高級娼婦を取り巻く人々や背景事情も複雑に絡んでいるのだ。 さてそんな1人の遺体の周囲に4つもの異なる凶器が転がる不可解な状況の真相はまさにカーの特徴であるインプロヴィゼーションの極致とも云うべきアクロバティックな内容だった。 そしてネタバレになるが、本書の皮肉は凶器が多すぎるのに本当の凶器は現場になかったこと。これこそカーが本書でやりたかったことなのだろう。 そしてこんな偶然と即興の産物による奇妙な状況をバンコランが名探偵とは解き明かすのはいささか無理を感じずにはいられない。ほとんど神の領域の全知全能ぶりである。 そんな複雑な事件を考案したことを誇らしげに語り、そして作品として発表するカーの当時の本格ミステリ作家としての矜持と野心と、そして気負いぶりが行間からにじみ出ている。 |
No.1494 | 7点 | アヤツジ・ユキト 1987-1995 評論・エッセイ |
(2021/04/14 23:38登録) 本格ミステリ作家綾辻行人がデビューした1987年から1995年にかけてあらゆる所で著した雑文を網羅したのが本書。その範囲は自身の作品のあとがき、他書の解説はもとより、推薦した作品の帯の惹句から文庫に挟まれる小さな冊子めいたチラシのほんの数行の文章まで本当に多岐に亘る。 本書のような本が編まれる目的はやはりいわゆる“新本格”という名称を世に根付かせた『十角館の殺人』を発表した綾辻行人の道程を記録として遺していくことを一義にしていることは明確だが、果たしてこれは作者自身にとって有意義であったかは甚だ疑問だ。 もし私が綾辻氏ならばこのような記録は某所で書き散らした雑文として記録に残さないことを選ぶだろう。なぜならそれらは年を取って振り返った時に実に恥ずかしい思いを抱くからだ。従ってこの綾辻氏の決断は正直無謀とも思える勇気を感じた。 それが証拠に書かれている内容は若気の至りとも云える内容が非常に多い。TVゲームに対する愛情だったり、アーティストに寄稿した歌詞だったりとそれらは夜興奮した時に一気呵成に勢いで書いてしまった、翌朝読むと実に恥ずかしいラヴレターに似た思いを抱くからだ。 従ってよくもまあ臆面もなく発表したものだと感心するやらあきれるやらと思ってしまった。 さてこの頃は1年に1作のペースで自作を刊行しておりながら、後半になると出版社に強要される、いわゆる「カンヅメ」を強いられなければ作品を物にできない遅筆ぶりをとめどめなく綴っているため、現在に至る数年に1冊の刊行ペースの萌芽が垣間見えて、現在の綾辻氏が抱える更なる遅筆ぶりの弁明文になっているところが興味深い。 さて内容についてはここでは敢えて触れないでおこう。これは新本格黎明期に残された歴史的文書なのだから。 しかしこのような本はある意味罪である。本書では綾辻氏が監修に携わって見事にコケたゲームソフト『YAKATA』に携わる直前で終わっているため、その後の展開が非常に愉しみに思えてならない。 まあこのように思う私自身が捻くれ者であるのだけど。 |
No.1493 | 7点 | スケルトンキー アンソニー・ホロヴィッツ |
(2021/04/14 00:03登録) シリーズ第3作目の舞台はウィンブルドンからコーンウォール、マイアミにキューバ、そしてロシアへと目まぐるしく移り変わる。巻を重ねるごとにそのスケールも本家007シリーズ並みに大きくなってきているようだ。 さらに今回はスパイ小説でお馴染みの共産圏への潜入任務なのだ。弱冠14歳の少年にとってかなりハードな任務である。 そしてアレックスは今回拷問に掛けられ、敵から執拗な訊問を受ける。 CIAが潜入してきた目的についてコンラッドから問われるが、通常のスパイならば任務のために命を落とすことを選ぶがさすがに14歳のアレックスにそれを求めるのは酷だ。14歳の未熟さゆえに、やりたくもない仕事をやらされている恨みつらみがぶり返し、彼はスパイとしては失格である任務の詳細を嘘偽りなく明かすのだ。 この辺は大人の私から見れば14歳の少年スパイらしい展開だが、少年少女がこのアレックスの行動についてどのように思うかが逆に気になるところだ。 そんなアレックスが挑む相手アレクセイ・サロフの陰謀とはかつてのソ連軍が所有していた原子力潜水艦が無造作に廃棄されているムルマンスクに核爆弾を落として、連鎖爆発を起こさせ、死の灰をロシア、北欧を含むヨーロッパ諸国に降らせ、警鐘を鳴らし、更には現大統領を失脚させ、自らが新生ロシアの大統領となって現在の堕落したロシアを立て直すと云うものだった。 私がこの件を読んで慄然としたのはもしこのサロフが云うムルマンスクに無数の―本書によれば100隻―原子力潜水艦が遺棄されており、最も古い物で40年前―本書の原書刊行時2002年時点―の老朽化した、いつ放射能漏れが起きてもおかしくない潜水艦もあるということだ。 もしこれが本当ならば世界は大変なことになるだろう。そしてそれが真実ならばロシアはチェルノブイリの悲劇から何も学んでいないことになる。 またこれらは冷戦時代の遺物であり、いわば負の遺産だ。そしてこれらをきちんと処分するのが国の務めであり、そして世界の務めであるのだ。 このアレックス・ライダーシリーズはジャンルとしては少年少女向けの読み物だが、本書に含まれた世界の危機は大人たちも是非とも知っておくべき事実であろう。 また第1作ではクォッド・バイクでのチェイス、前作がスキーでの雪山チェイスと本家007風味を盛り込んできたこのシリーズだが本書では出るべくして出た海でのスキューバダイビングでの潜入行、そしてお約束通りのホオジロザメとの格闘とやはり期待を裏切らない展開が待ち受けている。 さて文庫派の私にとって本書がアレックスシリーズ最終作となる。 ただまだまだ助走状態。少年向け007シリーズの域を脱していない本書を以てホロヴィッツの真価を評することはできないだろう。 次からが私のホロヴィッツ本体験となるのは必定。さてどんなミステリマインドを見せてくれるのか、非常に愉しみである。 |
No.1492 | 7点 | 図書館警察 スティーヴン・キング |
(2021/03/20 00:15登録) 中編集“Four Past Midnight”を二分冊化して刊行されたうちの後半部が本書である。世間の評判は1冊目の『ランゴリアーズ』の方が高く、同書は97年版の『このミス』で18位にランクインしているのに対し、本書は圏外にも入っていない。私はその題名から『ランゴリアーズ』よりも本書の方への興味が高かったが、今回読んでみて世間の評判が正しいことに残念ながら気付いてしまった。 それはやはり「図書館警察」に対して期待値が高すぎたことによるだろう。 正直に云えば図書館警察という題材から想像した物語がこんな話になるとは思わなかったのだ。もっと図書館の大切さを、必要性を絡めたホラーとなることを期待したのだが、結局は怪物と少年の痛ましい虐待の記憶との戦いというキング特有の物語に落ち着いたのがつくづく残念でならない。 それは恐らくこの題名から私は有川浩氏の『図書館戦争』のような物語を創造してしまっていたのだと思う。そちらは図書館を護る自衛隊のような存在、図書隊がメディア良化法という悪法を強要する同委員会が送る軍との戦いを描いた作品だが、それと同じように図書館のルールを取り締まる警察の話だと思ってしまったからだった。 もう1つは最初に主人公のサム・ピープルズが図書館を訪れた時に、図書館の雰囲気に恐怖し、一刻も離れたい場所だと称したことだ。それはつまりサイキック・バッテリーとしての建物というキングがよく用いる題材として図書館自身が恐怖の舞台であるかのように思ってしまったのも一因だ。確かに最後の対決の舞台は図書館であるが、図書館が異形の者を生み出した、呼び寄せたのではなく、この作品はあくまでアーデリア・ローツという怪物の物語であった。そこが最後まで違和感を拭えなかったのである。 次の「サン・ドッグ」を読んですぐに想起したのはつい最近刊行されたキングの息子ジョー・ヒルの中編集『怪奇日和』に収録された「スナップショット」だ。記憶を奪うポラロイドカメラを持った男が女性に付きまとう物語だが、「サン・ドッグ」は目の前にない物が写るポラロイドカメラを持った少年の話だ。 両者に共通するのはキングの妻であり、ヒルの母であるタビサがポラロイドカメラを購入したことだ。そこにそれぞれがこのカメラに対してインスピレーションを得て、ポラロイドカメラをモチーフにしながら異なる作品を描いたことに興味を覚えた。 この作品も今振り返ればキングが初期から題材にしている“意志ある機械”の怪異譚である。この異界を写すポラロイドカメラがやがて使い手の心を侵食し、そして異界から怪物を呼び出させる。しかしカメラが写し出す風景に関する逸話については触れられない。ただ巨大な犬が近づき、やがてその犬が怪物へと変容していく様、そしてこのままいけば撮影者は間違いなく殺されるだろうことがカウントダウン的に語られる。シンプルな話ほど怖いと云うが、それ故に色んな説明の長さが目立った。単純な話を余計なぜい肉で太らせたような作品になったのはつくづく残念である。 あと本書で見られる他作品とのリンクはまず「図書館警察」では『ミザリー』の主人公の作家ポール・シェリダンがナオミ・ヒギンズが図書館で借りる本の作家の1人の名前として登場する。 もう1つ「サン・ドッグ」はキャッスルロックが舞台とあって逆にリンクを意識的に盛り込んでいるようだ。まずこの作品での悪役となるポップ・メリルの甥は中編「スタンド・バイ・ミー」に登場する不良のエース・メリルであり―彼がその後強盗を行い、ショーシャンク刑務所に4年服役していたことも明かされる―、更には『クージョ』の話もエピソードとして出たりもする。しかしこのキャッスルロックも次作で幕が閉じられるとのことだ。なんだか勿体ない思いがする。 あとなぜかキングでは玉蜀黍畑が不安を掻き立てる場所として登場する。玉蜀黍畑を舞台としたアンファンテリブル物、その名もズバリの「トウモロコシ畑の子供たち」から「秘密の窓、秘密の庭」でも作中で登場する盗作疑惑の小説で登場するのが玉蜀黍畑。そして本書「図書館警察」でもデイヴがアーデリア・ローツに誘われ、かくれんぼをして魅了されてしまうのが玉蜀黍畑だ。それはまさに彼が踏み入ってはならない領域の入口として書かれている。 これからのキングは恐らくどんどん話が長くなっていくのだろう。それは創作の設定材料としてノートに書かれるメモの内容のほとんどを作品に盛り込んでいるからではないか。 私は1冊の本に登場する人物に対してこれほどまでに緻密な性格設定と生活設定を考えているのだと誇示しているかのようにも見える。 しかしそれは作家として読者に語るべきではない裏方作業のことだ。この創作の裏側まで書かれていることに興味を覚えるか、逆にそこまで語らなくてもいいのにと幻滅するかがキングのファンとしてのバロメータとも云える。 今現在の私はここまで書く必要はあるのかと疑問を覚える方なのだが、これが物語の妙味として、もしくはこれぞキングだとキング節として味わえるようになるのかが今後変わっていくのかが私のキング作品に対する評価のカギとなることだろう。 |
No.1491 | 7点 | ポイントブランク アンソニー・ホロヴィッツ |
(2021/03/17 23:30登録) 今回のアレックスの任務はある実業家の息子に成りすまして、世界有数のエレクトロニクス会社々長と元KGB将軍2人の不審死の謎を探ることだ。 他人の息子に成りすまして謎多き寄宿学校に潜入するというホロヴィッツは今回もこの14歳の少年スパイという特殊設定を存分に活かしたストーリーを用意したというわけだ。 そしてエンタテインメント・ジュヴナイル小説として実に王道を行く内容でそこここに少年少女をくすぐるようなアイテムが織り込まれている。 更には007の本歌取りは今回も踏襲されており、上に書いたようにアレックスが渡されるアイテムの中にスキー・スーツがある時点でお馴染みの雪山でのアクションがお約束通り繰り広げられる。スノーモービルを操る警護兵にアレックスがスキーではなく手製のスノーボードで逃げるのは現代風だ。 更にはヘリコプターで逃げるグリーフ博士も007シリーズではもはや定番と云っていいだろう。それを阻止するためにアレックスがジャンプ台を利用してスノーモービルを逃げようとするヘリコプターにぶつけて爆破するのも007のみならず多数のアクション映画で観たシーンであり、この辺りはあまりに定型的すぎるとは感じたが。 さて今回の敵ヒューゴー・グリーフ博士の野望、ジェミニ計画とは各国の権力者、実業家、大富豪の不肖の息子達に成り代わって更生した息子達としてそれら息子達瓜二つに整形した自らのクローンを送り込んで、将来彼ら両親の跡を継いで世界の実権を握ると云うものだった。 この計画は本当に上手く行ったのだろうかと疑問がある。さすがに親ならば顔や姿形が瓜二つであっても違いには気付くだろう。ポイントブランク・アカデミーで預かる子供たちの年齢が14歳であるのは2,3年で親元を離れ、大学生活を送ることを想定してのことだろうか?つまり違和感を覚えても24時間一緒に暮らすのはせいぜい2,3年だから発覚しないだろうと云う思惑があってのことだろうか。いやそれでもしかし計画に無理があると感じずにはいられない。 また007のオマージュと云えばジョーズとかオッド・ジョブやニック・ナックといった個性的な怪人が現れるが、本書ではポイントブランク・アカデミーの女性副校長エバ・シュテレンボッシュ女史がそれにあたる。なんせ女性でありながら風貌はゴリラそのもので5年連続南アフリカの重量挙げチャンピオンである怪力を誇る。つまり通常の男性は格闘では歯が立たず、アレックスもまた手も足も出ないほどに叩きのめされる。 またアレックスのいわば目の上のタンコブ的存在のMI6局長アラン・ブラントが相変わらずスパイに対して非情な態度を示すのに対して―アレックスがSOSを送ってもしばらく様子を見ようとして、半ば見捨てるような発言をする―、秘書のジョウンズ夫人がアレックスに同情を示すようになったのが大きな変化だ。今後ジョウンズ夫人がアレックスの隠れた支援者としてどのように関わってくるのかも気になるところだ。 冒頭の麻薬売人の派手な捕物シーン、他人への成りすましのための訓練とそこで出遭ったお嬢さまとの恋愛ニアミス、そして悪の巣窟への潜入捜査、そこからの脱出に巣窟への襲撃と囚われの息子達の救出と敵たちとの戦いと殲滅。更に意外なところで再び現れた敵との戦いと頭から尻尾までぎっしりと餡子が詰まったエンタメ小説。本当にホロヴィッツは本家007を忠実に擬えてこのアレックス・ライダーの物語を綴っている。 読書好き、アクション映画好きの少年少女たちがこのアレックス・ライダーシリーズが思い出の作品になっているのかは不明だが、彼ら彼女らを愉しませようと計算して作られているのは解る。しかしその教科書通りの展開は水準ではあるが突出した何かを残すものではないのが残念だ。 スパイという身分を偽り、時には非情な判断を下す稼業を14歳という若さで就くことになったアレックス・ライダーがいつまでその実直さを保てるのか。死と隣り合わせのスパイという職業をカッコいいだけでなく、道具のように扱う上司もあしらうことで大人の世界の汚さも見せるこの作品はある意味思春期の少年少女達の大人への通過儀礼の意味合いもあるかもしれない。 いややはりそれは考え過ぎだろう。この明らさまなまでにエンタテインメントに徹したアレックスの活躍をただただ愉しむのが吉だ。 純なスパイ、アレックスの次回の活躍を愉しみにしていよう。 |
No.1490 | 7点 | 黒衣の花嫁 コーネル・ウールリッチ |
(2021/03/15 23:32登録) ウールリッチお得意のファム・ファタール物のサスペンス。謎の美女による連続殺人事件を描いた作品だ。 被害者はそれぞれ株式仲買人に年金暮らしのホテル住まいの男、そして普通の会社員、画家に作家とそれぞれバラバラだが、殺人犯のジュリーとだけ名前の判明した女性には彼らが持つある共通項に基づいて殺害を行っている。 それぞれの被害者と謎めいた女性殺人者ジュリーとのエピソードはまさにそれ自体が短編のような読み応えで、これぞまさにウールリッチ・タッチだと存分に堪能した。 ある時は金髪の黒衣の女性、またある時は赤毛の理想の美人、またある時は赤みがかった金髪の化粧っ気のない幼稚園の先生、またある時は黒髪の画家のモデル、そしてある時は白髪交じりの髪をした中年の婦人に扮して標的となる男たちの前に姿を現す美と知性と度胸を兼ね備えた稀代の悪女ジュリー。 しかし彼女は決して自分の復讐に他者を巻き込ませようとしない。 自分の殺人に責任をもって行っている、気高さすら感じる公平さを持っている。 ジュリーの行った復讐は全く関係のないものだったことが最後に判明する。 愛する男のために姿を変え、危険を承知で近づき、そして復讐を果たす。しかし決して被害者周囲の関係のない者達には迷惑を掛けずに、時に自分が殺人を犯したことさえ話して現場から追い払い、または冤罪を掛けられそうになった者を救うために匿名で電話さえもする。 そこまで自分を律し、2年もかけた復讐が無意味なものになった時、女は、ジュリーは何を思ったのか? 正直事の真相を知ると、ジュリーを取り巻く人間関係が狭すぎ、そして状況は偶然すぎるように思えるだろう。 そして現在社会ではこのジュリーの犯行は計画的に見えてかなり危ない橋を渡ったもので、顔も隠していないどころか複数の目撃者もおり、逮捕されるのも時間の問題のように思えてならないだろう。 しかしウールリッチの抒情的かつ幻想的な語り口がそんな偶然性、現実性を霧散させ、まるで復讐を遂げようとするか弱き美女の死の魔法が成功する様を酔うが如く堪能するような作りになっている。 愛ゆえの女性の復讐譚である本書が女性がまだ男から軽んじられている時代に書かれたことを我々は知らなければならない。 作中でもプレイボーイの男がジュリーにあしらわれたのを根に持ち、憤慨する様に刑事は同情し、好感さえ覚える、そんな時代だ。 そんな時代に女性の強さを強調した本書は母親と一緒に暮らしていた作者だからこそ書けたのだろう。それでもこの徒労感漂わせる結末は何とも遣る瀬無い。冬の寒さが身に染みる夜だけにこの女性の虚しさが一層胸に迫った。 |
No.1489 | 10点 | 恋のゴンドラ 東野圭吾 |
(2021/03/11 23:34登録) 本書は雪山を舞台にした連作短編集だが、ミステリというよりもシチュエーションコメディといった方が適切な、笑いに満ちた内容になっている。 そしてメインとなるのは日田栄介と同じホテルで働く遊び仲間水城直也、木元秋菜、月村春紀、土屋麻穂たちのエピソードと並行してリフォーム会社に勤める浮気男広太の話だ。 さてこの日田栄介という男、風貌については描写がないが、いいヤツだと皆が口を揃えて云うが、女性から見ると結婚の対象としては考えにくい存在と評される、私も含め読者の身の回りに実際のモデルが思いつく男である。 そんな彼を応援するのがプレイボーイの水城直也はじめ、後輩の月村春紀と収録作の中で彼と結婚する土屋麻穂ら、同じシティホテルで働くスノボ仲間たちだ。 また忘れてならないのは各編に登場する人物が共通してスノボの愉しさを満喫していることだ。可愛い女の子と二人で滑るスノボ、職場の親しい仲間たちと滑るスノボ、ゲレンデでスノボを愉しみながらの合コンまで登場する。 そんな中で繰り広げられる各短編は非常に読みやすく、また愉しめるものばかりだ。 婚約者に隠して浮気相手とスノボ旅行に行く男が待ち受けていた意外な展開。 スノボ仲間たちのそれぞれの思惑と意外な関係。 モテない男のために仕掛けるプロポーズ大作戦の意外な結末。これは哀しい結末と幸せな結末2編が収録されている。 ゲレンデ合コン、通称ゲレコンで出逢った男女の恋の行方。 生粋のスキー好き、スノボ嫌いである結婚した相手の父親にスノボを趣味とすることを認めさせるための作戦。 ゲレンデで出逢った美人と思わぬ再会を果たし、結婚しているにも関わらず食事を一緒にする、懲りない男の話。 なかなか付き合う決意が固まらない女性が、相手と向き合うために参加したスノボ旅行で偶然にしては悪戯すぎる元カレ(?)の再会。 とこのように我々読者の周りにネタとして語られるような男女の恋愛に纏わる、どこにでもありそうな話が東野氏に掛かると非常に面白い読み物に仕上がっているのだ。 日田栄介という男。典型的な同性にはモテるが異性にはモテない男だ。いやあ、この男のダメっぷりが実に面白い。 同じ話を繰り返す芸の無さ、雰囲気や秘密を平気でぶち壊す空気が読めない感、そしてファッションセンスの無さ。仕事の時は女性が惚れ惚れするほどの洗練さを見せるのにプライベートではとことんダサい男。 しかしこのモテない男は逆に女性がリードすることで変われることを気付いた桃実は実にエライ!というよりもこの日田という男を創造した東野氏がやっぱり偉いのだ。 いや寧ろ容姿も悪くなく、仕事もできるのになぜか長らく独身な男はこの日田栄介のエピソードを読んで自らを振り返ると、自分が結婚でない理由が解るのかもしれない。 果たしてこの作品のネットでの評価はどのようなものなのかは解らないが、私は非常に楽しく読めた。いやこういう話が私が好きなのだ。 このスキー場シリーズはスノボ好きの東野氏が集客数が減退しつつあるスキー場に少しでもお客さんが多く来るようにとそれまでスキーやスノボをやったことのない人、もしくは長らくそれらから離れている人たちにその面白さを伝えるために広い範囲の読者に読まれるよう、ミステリ色を抑え、あくまでエンタテインメントに徹し、更にキャラクター達におかしみを持たせた非常に読みやすい作品ばかりが揃っている。 とにかく本書は面白かった。上に書いたようにミステリというよりもシチュエーションコメディ的な作品集だが、そこは東野氏、ミステリ風味も加味され、サプライズも用意されているし、またスノボ愛を筆頭としたウィンタースポーツへの愛情も織り込まれている。 東野圭吾読みたいんだけど、どれから読んだらいいと訊かれたら、その人があまり本を読まない人であれば間違いなく本書を勧めたい。本書はそれほどとっつきやすく、また思わずにやけてしまう面白さと人間模様が詰まった作品集だ。 しかし東野氏が帯で述べているように、男とはこういう生き物なのだ、とは思われたくないなぁ。 |
No.1488 | 7点 | ランゴリアーズ スティーヴン・キング |
(2021/03/06 00:31登録) キングの中編集“Four Past Midnight”に納められた4編の内、2編を収めた作品集。 本書に付された序文によれば『恐怖の四季』がそれまでに思いつくままに綴った作品を収録した物であったのに対し、本書はキングが不調で引退したと思われていた2年間に書かれたホラーであることが異なっている。 余談だが、映画『スタンド・バイ・ミー』が大ヒットした映画監督のロブ・ライナーは自分の設立したプロダクションを<キャッスルロック・プロダクション>と名付けたらしい。 また本書では各編に創作ノートが付けられているのも特徴だ。そこにはキングはそれぞれの物語の着想を得た時の状況やあるアイデアから物語が膨らみ、各編へと至った経緯が語られており、興味深い。 特に私が驚いたのはキングが「アイディア・ノート」を一切作っていないこと。彼は良いアイディアはすぐには忘れられるものではないとし、自然消滅するようなアイディアはつまらないものだと思っている。そしてよいアイディアは折に触れ頭に浮かび上がり、次第に形になっていくものだと述べている。 「ランゴリアーズ」では旅客機の隔壁の亀裂を必死に抑え込んでいる女性のイメージが浮かび、ベッドに就いている時にその女性が亡霊であることに「気付き」、そこから物語が出来ていったそうだ。 このようなエピソードを読むとやっぱりキングは全身小説家とも云うべき常に物語が頭にある稀有な作家なのだと思い知らされる。 そんなキングが生み出した本書2編に私は作者の作家としての苦悩と恐怖を感じた。 本書の表題作である「ランゴリアーズ」。 ランゴリアーズという黒い球体のような物体が何兆もの夥しい数で現れ、大きな口を開けて世界を食べていく。ランゴリアーズが噛んだ後は何も残らない暗闇、即ち無になる。球体で大きな口と云えばパックマンを思い浮かべるが、恐らくキングもそれからイメージを喚起したのかもしれないが、キング版パックマンであるランゴリアーズは何とも恐ろしい。彼らが食べる後にはそれこそ何も残らない。登場人物の1人が云うように奴らは永遠の虚無を掘り起こしているのだ。 そしてこの迫りくる虚無。全てを無にしてしまうランゴリアーズはキングの潜在的な恐怖を具現化したもののように思える。それは忘却だ。 本書の中編が書かれたのは序文にもあるように世間で引退したと思われていた時期の2年間に書かれている。つまりキングがスランプ状態に陥った時の作品だが、この『ランゴリアーズ』はその時のキングの心情が色濃く表れているように思われる。 それまでのキングはその頭の中からどんどん湧き出す物語があり、それを紙面に落として数々の作品を生み出していたわけだが、その彼が急にスランプになり、書けなくなった。そうすると世間では彼が引退したとみなし、もう過去の作家だと思われているのではないかとキング自身が忘れ去られようとしていると思い込み、その恐怖がランゴリアーズを生み出したのではないか。 登場人物の1人パイロットのブライアンが呟く。ランゴリアーズに食い尽くされた大地にあるのは真っ暗闇の無、虚空。飛行機の燃料が尽きる時、そこには激突は出来ず、ただ墜ちるしかない。虚空に向かってどれだけ墜ちていくことができるのだろう、と。それはまさにひたすらスランプに陥ったキングがこのままどこまで堕ちていくのかと想像を絶する不安を抱えていたことを暗示しているかのようだ。 この作品で狂える銀行重役クレイグ・トゥーミーこそ当時の作者の醜い部分を表した人物であるように思える。ランゴリアーズの襲来を恐れるあまり、盲目の少女の胸にナイフを突き立て、重傷を負わせ、1人の死者を出し、ボストン行きに固執する彼はキングの焦燥感をそのまま写した鏡のようなキャラクターと捉えるのは間違いだろうか。 そして異世界に迷い込んでしまった彼らが生還するには知らぬ間に潜り抜けてしまった“時間の裂け目(タイム・リップ)”という彼らの住む世界とランゴリアーズの蔓延る世界の境界に空いた裂け目を再び潜り抜けるしかないと考える。それはLA発ボストン行きのフライトの途中にあると思われ、彼らはそれを逆に辿ることにする。つまり出発点に戻る、過去に戻るために。 何とも象徴的な作品だ。ランゴリアーズの住む世界はキングが恐れた、自分がスランプを脱せずにこのまま忘れ去られようとしている暗鬱な未来を象徴し、このスランプから逃れるために原点に戻ろうとする、当時のキングそのものの心境、覚悟が行間からにじみ出ているかのようだ。 そして彼らは見事“時間の裂け目(タイム・リップ)”を見つけ、1人の乗客を犠牲にして生還する。しかしその生還も単純ではない。彼らは過去に戻りながら、その過去の時点の未来に戻ったのだ。そして現在が追いかけてきて同調し、元の世界に戻る。しかし戻った彼らは他の人々とは少し違って、なんだか輝いて見える。登場人物の1人ローレルが、新しい人間になったようだと云うが、これもまさにキングの心情そのものではないか。 キングは本書を『恐怖の四季』とは異なり、全てホラーを書いたと述べた。しかし本書は確かに異世界に迷い込み、そこで発狂する人間が登場し、それによって殺人が起こり、尚且つランゴリアーズという全てを無にする怪物が登場するパニック・ホラーではあるが、結末は何とも清々しい。 つまりこの「ランゴリアーズ」という作品そのものがスランプを脱し、再びモダンホラーの世界に戻りながらも、それまでの作品とは違った風合いを持った作品を放つ新生キングの誕生の声高の宣言書のように読み取れるのだ。 しかし一方次の「秘密の窓、秘密の庭」は逆に小説家という職業に付きまとう根源的な恐怖を描いている。自分が紡ぎ、世に送り出した小説が実は今まで自分が読んだ他者の小説の影響を潜在意識下で受け、模倣、剽窃したのではないかという恐れだ。 スランプに陥り、新たな出発を誓いつつ、その一方で今から書くものは本当に自分のオリジナルなのだろうかと自らを苛むキングの姿が見えるようだ。 従ってある日知らない人が訪ねてきて、「あなた、私の作品、真似したでしょ!」と糾弾され、次第に狂っていくモート・レイニーの姿はキングの根源的な恐怖の象徴なのかもしれない。 またこの作品では映画化される予定の作品が昔の作品に類似していることから頓挫したエピソードが出てくるが、これもまた作者の実体験のように思われる。人間が生まれてそれほど数えきれない数の物語が語られ、書かれてきた現在、完全なオリジナルの作品は皆無と云えるだろう。同じパターンの話を設定と語り口を変えてヴァリエーションを増やして生み出しているというのが現状だ。例えばこの「秘密の窓、秘密の庭」の話自体、今やそれほど驚かされる話ではない。しかしこの作品が映画化までされたのはそこに作家キングの影や彼自身が抱く潜在的な恐怖が滲み出ているからだ。 この時期のキング作品には彼自身の創作意欲が放つエネルギーがもはや虚構に留まらず、現実世界にまで及んでいると感じさせられるほどの凄みがある。 |
No.1487 | 7点 | 地獄の湖 ルース・レンデル |
(2021/03/02 23:16登録) この何とも云えない気持ち、読後感。レンデルのミステリを、物語を読むといつもそんな気持ちにさせられる。 さてこの思いをどうやって言葉に綴ろうかと。 殺人衝動を持つ男フィンと独身の会計士マーティン・アーバンの話が並行して語られる本書は最初どのような方向に話が進むのか皆目見当がつかなかった。 この全く交じり合わないであろう2人がマーティンの母親の言葉で交錯し、そしてフランチェスカとティム・セイジに騙されていたマーティンにフィンが関わりいくその様はまさに詰め将棋を観ているような美しさを感じた。 しかしそれはロジックの美しさに感動する類ではなく、運命の皮肉がカッチリ嵌り過ぎて怖くなる物語としての美しさだ。寒気が背中に走るほどの。 これぞレンデル。この容赦なさこそレンデルだ。よくもまあここまで運命の皮肉という詰め将棋を思い付いたものだ。 ほんの悪戯心と些細な復讐心から起きた詐欺が思わぬ効果を上げたかと思えば、そのビッグディールがまさに目の前で手元からすり抜けていく。全く思いもかけない方向から。 悪事が大きくなればなるほど払う代償もまた大きくなる。悪事と代償の作用反作用の法則、もしくは等価交換の原理をまざまざと見せつけられたかのような思いがした。 最後の最後の最後までレンデルの残酷劇場は止まらない。こんな物語を読まされた後では、もはやありきたりな運命の皮肉という言葉ばかりが浮かんでしまう。しかし私が今抱いているのはそんな5文字には収まらない何とも云えない感情なのだ。 全てを明かし、マーティンと格闘したティムが彼の純真さに呆れて笑う。 そう、もはやこの世は純真では生きていけないのだ。人を騙す、人を利用する強かさを備えていないと生きていけないほど世界は汚れてしまっているのだ。 新聞記者のティムの強かさは世間の汚さを代表した、いや世間を生き抜く人そのもの、我々こそがティムなのかもしれない。 その彼が云う。「新聞記事なんて人間が書くものさ。正真正銘の真実を伝えているわけではない」 人の書くものはその人に意思が宿る。それが公に出て、そして売れていく。このティムの言葉の新聞記事を小説に置き換えると、レンデルの言葉そのままにならないだろうか。 これは小説さ。人間が書くものさ。正真正銘の真実を伝えているわけではない。 つまりここに書かれている悲劇は人の書いたものだから、そんなに世を悲観するのではないよと読者に向けた慰めの言葉なのではないか。 だからこそ彼女は数々の皮肉を書く。人が救われない、報われない物語を書くのは正真正銘の真実を伝えているわけではないのよ、と云いながら。 本書のタイトル『地獄の湖』は殺人を犯すフィンが隠れる街灯の光が届かない暗闇を指している。原題も“The Lake Of Darkness”とほぼそのままだ。 それはつまりこの世はこの地獄の湖ばかりであるという風に取れるのである。そしてその湖こそがレンデルが覗く闇であり、描く人の闇なのだ。 たった286ページに凝縮された残酷劇場。またもレンデルにはやられてしまった。 年を取るとレンデル作品はかなり面白い。 |
No.1486 | 7点 | 北村薫のミステリびっくり箱 評論・エッセイ |
(2021/02/28 23:42登録) ≪日本推理作家協会≫の前身≪探偵作家クラブ≫の頃から会報は継続して発行されており、昭和35年までの185号までの記事を読むと当時の作家たちは他の業界の方々を交えて色んなイベントをしていたことが判明した。それを見つけた北村薫氏が今ではそれほど活況ではなくなった異文化交流とも云うべき他業界の人々を交えて座談会を行うことを企画した。まさにミステリに耽溺して止まない北村氏ならではの企画である。昔の会報を読んで自分も同じことをやってみたいなんて、ほとんど子供の好奇心と変わらないが、それをまた実現させるのも北村氏のネームバリューゆえか。 さて過去の会報の中から選ばれたのはまさに千差万別。それぞれの題材はミステリとは縁浅からぬもので構成されており、将棋や手品、映画、落語などはまあ、ごく普通の題材だが、変わり種では忍者、女探偵、嘘発見機といったものもあり、これらは非常に興味深く読んだ。 やはりその道の専門家の話は含蓄に溢れていると気付かされた。ミステリを含む小説や物語を読むことで我々読者はそこで語られていることをその道の人々が実際にやっているものだと思い込んでしまうものだが、実際は違うことがはっきりと判った。特に嘘発見機の使い方や女探偵の本来の探偵の仕事が全く小説と異なっているのは蒙が啓かれる思いがした。 あとやはりこのような記録は電子化してアーカイヴするべきである。この故きを温ねて新しきを知る企画本そのものも現在絶版の状態である。しかも電子書籍化もされていないらしい。 こうやって歴史は廃れ、やがて忘れられていくのだ。しかも昭和よりも平成の創作物の方がそのペースが速い。極端な話をすれば昨年刊行された書物が翌年手に入るかさえも怪しいほど、出版界は変化が速くなってきている。それは出版界や書店自体が今大きな局面を迎えており、余剰在庫を抱える経費を十分に取れない状況にあるからだ。 しかしこのように隠れざる歴史を掘り起こすのはやはり大事だ。本書はいわば大人のごっこ遊びと最初は思ったが、その業界に触れることで日本のミステリ界が知見を広め、そして刺激をお互いに与えあい、高めあった蜜月の日々があったことを教えてくれた。 ミステリをとことん愉しむ、体験する。北村氏の好奇心こそが今我々に必要な稚気なのかもしれない。 |
No.1485 | 8点 | 煽動者 ジェフリー・ディーヴァー |
(2021/02/27 00:06登録) キャサリン・ダンスシリーズ第4作の本書はいきなりダンスのミスで容疑者を盗り逃すシーンから始まり、その責任を負って民事部へと左遷させられるというショッキングな幕開けで始まる。 このダンス左遷の原因となった<グズマン・コネクション>の捜査と悪戯に騒ぎを起こして死傷者が発生する煽動者の事件、そしてダンスの息子と娘たちのエピソードの3つが並行して語られる。 本書の脅威は暴動、いやパニックと化した集団だ。 正気を失い、パニックとなった人々はそれが恰も大きな1つの生き物のように動き出す。しかしそれは決して秩序だったものではなく、我先にと自分の命を、安全を確保するためならば他人の命をも、文字通り踏みにじってまで助かろうとする執着心が、理性を奪い、人間から獣へと変えさせる。DNAに刻み込まれた生存本能が人を変えるのだ。 そして更に人は自分の命を脅かした存在を知るとそれを排除しようとして、いや寧ろそんな危険に目に遭わせた仕返しをしようとして、再び理性を失い、攻撃性が高まる。やらずには済ませない、子供の頃に芽生えた感情が復活し、本性がむき出しになる。 しかもそれはたった数分のことに過ぎない。人間が理性を失うのが危険を察知し、スイッチが入るのもすぐならば、そのスイッチが切れるのも、例えばパトカーの回転灯が見えた、そんなことで人は理性を取り戻し、人間性を取り戻す。この僅か数分、人間が暴徒と化すだけで多くの犠牲者が生まれる。 そして今回ダンスが対峙する敵は人間の群集心理を利用してパニックを引き起こして不特定多数の人間を死に至らしめる、一生背負う疵を負わせることに喜びを見出している者だ。本書のタイトル「煽動者」はそこから来ている。 それらは全てイベントという非日常で起きた悲劇だ。その日を、その雰囲気を楽しみに来ていたいわばハレの場が惨状に変わるパニックの恐ろしさを思い知らされる。 またキャサリン・ダンスといえばボディ・ランゲージから相手の嘘を見抜くキネシクスが専売特許だが、本書でもそれに関する色々な知識が開陳される。 ただリンカーン・ライムシリーズでは快刀乱麻を断つが如くダンスのキネシクスが大いに活躍するが、なぜかダンス本人が主人公のシリーズになるとほとんどこれが機能しなくなる。これがとても違和感を覚えてしまうのだ。 今回最もキネシクスのダンスが盲目になるのは自分の子供たちに対して隠し事を全く見抜けないことだ。 娘のマギーが学校の発表会で『アナと雪の女王』の主題歌“レット・イット・ゴー”を歌う大役を下りたくなった心境もそうだし―本書ではこの主題歌のタイトルがキャサリンの心を切り替えるための合言葉としてやたらと出てくる。 キャサリン・ダンスシリーズはリンカーン・ライムシリーズよりも家族や恋愛面に筆が割かれているのが特徴的だ。それはダンスが優秀な捜査官でありながら二児の母親であり、更に夫を亡くした寡婦であることが大きな理由だが、それが私にしてみれば物語のいいアクセントになっていると感じている。 連続的に犯行を起こす犯人を追いつつもその捜査の中で家族のイベントや男女関係に揺れる心情が挟まっており、理のみならず情の部分についても触れられ、それが読み物として私にとって読み応えを感じている。 またダンスがかつてミュージシャンを志した過去が明らかになる。プロの道を目指してかなりの努力をしたが、アマチュアとプロの壁を越えることができなかったため、キネシクスを学び、今に至ったとのこと。これはまさにディーヴァ―そのものではないか。彼もまたかつてはフォークミュージシャンを目指したが、大成せず、ミステリ作家になってベストセラー作家になった。 さて今回のようにハッピーエンドを迎えるとシリーズも大団円を迎えたように感じるが、私は再び彼女の活躍が見たいのである。彼女のキネシクスを存分に活かしたシリーズの集大成とも云える作品にはまだ逢っていないと思っているのだから、これで終わりにはしないでほしい。 しかしそれも“レット・ヒム・ゴー”。ディーヴァーに任せるしかないのだが。 |
No.1484 | 7点 | 危険なビーナス 東野圭吾 |
(2021/02/20 00:07登録) 疎遠になっている弟の妻と名乗る女性から連絡があり、夫が失踪したと知らされる。しかしその妻は積極的に夫を捜すわけではなく、本来夫がすべき親族の紹介をする手伝いをするようになる。そして自分が縁を切った金満家の矢神家に関わるうちに、次第に亡くなった母親の見知らぬ一面に接し、謎が深まっていく。 弟の妻と名乗る女性が突然現れる。このウールリッチの諸作を思わせる展開は実情を知らなくてもその対象となる人物のことをネットなどでリサーチすれば成りすませることが可能となる昨今だからこそ妙にリアルに感じる設定だ。 そして不思議なのは夫矢神明人が失踪したのにも関わらず、積極的なのは夫の捜索ではなく、矢神家の過去や因縁を探ろうとする妻楓の存在だ。彼女は夫が相続することになっている矢神家の全財産を不在の明人に代わって宣言し、既に家族の縁を切って疎遠となっている手島伯朗をパートナーにしてどんどん矢神家の過去へ迫ろうとする。 特に殺人事件が起こるわけでもなく、失踪した異父弟の新妻のために行動し、そして少しばかり複雑な事情の自分の親族たちと向き合うという地味な話なのになんと読ませるのだろう。 複雑に入り混じった親族の、しかも矢神家という伏魔殿の如きプライド高い名家の軋轢に伯朗が惑わされる、いわば東野版『渡る世間は鬼ばかり』とも云うべき作品だ。 しかし伯朗を見下すそんな名家の人々が出てきながらも読んでいる最中はさほど不快感を抱かない。 それは矢神楓という女性の存在が際立っているからだ。美人で元JALのCAをしていた彼女は臨機応変に物事を対処する機転の持ち主(ただ真の正体は最後に明らかになるのだが)。そして自分の容貌が武器になることを理解して、男たちに媚を売って籠絡させることを全く厭わない。十分に強かな女性なのだが、陽気かつ親しみやすさを感じる性格ゆえに嫌味を感じない。最も女性の目からは憧れの存在だった明人を独り占めした女性という敵のように映る一方で、海千山千の人物を見てきたクラブのママを務める矢神佐代からは只者ではないと感じさせる。 一方そんな彼女に翻弄される手島伯朗の人物像が次第に何とも頼りない男に見えてくる。一緒に行動するうちに楓のことが気になって仕方なくなり、笑顔を見せられたり、同情されたりすると気分が良くなり、彼女に頼られたいと思うようになる。その思いは次第にエスカレートし出し、終いには逐一行動をチェックするようになる。弟の妻であることを半ば忘れて、自分の恋人のように彼女が他の男と仲良く談笑するのを、自分ではなく他の男性と一緒に過ごすのが我慢ならなくなってくるのだ。 そんな彼の本質を彼の動物病院の事務員蔭山元美からズバリ指摘される。彼は実に惚れっぽい性格なのだ。美人が好きで蔭山元美を採用したのも彼女が美人だったからだ。そして独身であるのは単に女性に対して免疫がないだけで彼自身は気のある素振りを見せていないと思っているが、実は周囲には気のあることがバレバレという不器用な男だ。一方で女心についてはかなり鈍感だ。蔭山元美が矢神楓の出現からジーンズ履きからスカート履き、しかもミニスカート履きが増えたのも彼女が手島に楓ではなく自分に目を向けさせるためのセックスアピールであろう。つまり蔭山元美もそんな不器用な伯朗を少なからず悪く思っていないのだが、彼はそんな彼女の気持ちに気付きもしない。 機転の利く矢神楓と鈍感男の手島伯朗2人が辿る今や没落の一途を辿りつつある名家矢神家の面々と過去の因縁が謎が謎を呼ぶ展開を見せ、ページを繰る手を止まらせない。 またトリビアだが、本書の登場人物の1人、矢神家の異母弟の矢神牧雄は泰鵬大学医学部の神経生理学科で研究をしているが、この泰鵬大学、実は東野作品ではやたらとここの関係者が登場し、実はかなり微妙なリンクがあることに気付く。 『疾走ロンド』で新型病原菌K-55を盗まれたのが泰鵬大学医科学研究所で、次は短編集『マスカレード・イブ』の中の1編である表題作の被害者岡島孝雄は泰鵬大学理工学部教授、そして『ラプラスの魔女』の主人公青江も泰鵬大学教授だ。これほど泰鵬大学を持ち出すのは東野氏が読者に描く作品の微妙なリンクに気付いているかどうかを試しているのか、もしくはこの泰鵬大学を東野ワールドの支点にしようとして今後もっと扱いを大きくしようとしているのか、解らないが、この大学の名前は常に念頭に置いておこうと思う。 しかし題名『危険なビーナス』はちょっと浅薄でピント外れな印象を受ける。題名が示すビーナスは矢神楓のことだろうが、彼女は確かに口頭では目的のためには女を武器にして籠絡させると公言したが、それでも危険な香りはしない。寧ろ彼女の魅力に主人公手島伯朗が勝手に魅了され、そして翻弄されただけなのだ。そう、危険だったのは伯朗の惚れっぽい性格なのだ。 しかし開巻時からは思いもかけない着地点を見せつけてくれた。そして獣医界のエピソードや『ウラムの螺旋』といった数学の不思議と新たな知識も与えてくれた東野氏。まだまだ当分彼の作品の水準は下がりそうにない。 まさに品質保証の東野印。ベストセラー作家として数々の読者の財布を緩ます東野作品こそ危険な魅力に満ちている。 |