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ミステリの祭典

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ジェラルドのゲーム

作家 スティーヴン・キング
出版日1997年09月
平均点4.00点
書評数1人

No.1 4点 Tetchy
(2021/09/23 00:08登録)
もはや監禁物はキングの数ある作品群の中で1つのジャンルを形成したと云えるだろう。
『クージョ』、『ミザリー』に続き、キングが用意したシチュエーションは子供のいない弁護士と元教師の夫婦が別荘で拘束プレイに興じようとして、抵抗した挙句に夫が心臓発作で亡くなってしまい、一人ベッドに手錠につながれた状態で取り残された妻の話だ。まあ、何とも苦笑を禁じ得ない状況であるが、直面した当人にとっては生死にかかわる大問題である。

正直シチュエーションはこれだけだ。これだけのシチュエーションでキングはなんと約500ページを費やす。妻ジェシーが夫に抵抗して心臓発作を起こして亡くなってしまうのが30ページ目。つまり残りの470ページを使って拘束された妻の必死の脱出劇を語るのだ。しかしよくこんなことを小説にしようとしたものだ。

この実に動きのない状況の中にもかかわらず、それだけのページを費やしているのはやはりキングの豊富な想像力によって生み出される次から次へと降りかかる危難、困難の数々と拘束されたジェシーの頭の中で巻き起こる妄想や回想の数々だ。

喉の渇きを覚えたジェシーが夫がセックスの前にベッドの棚に置いた氷の入った水のコップを取り、そして口に運ぶのも大いなる苦行となる。手錠に繋がれたまま、コップに手を伸ばし、棚を傾けさせて自分の方に引き寄せて取るまでに16ページを費やし、そしてコップを手にしたものの、今度は手錠の鎖のために口にまで持って行けないため、落ちていたDMを拾ってそれを丸めてストロー代わりにして飲むまでに18ページを費やす。このコントでもありそうな様子がジェシーにとっては生きるか死ぬかの死活問題なのだ。

窮地に次ぐ窮地の中、ジェシーはとんでもない秘策に出る。それは自身の血を潤滑剤にして手首を抜き出すことだ。傷をつけるのは水を飲み干したガラスコップ。
いやあ、私はこの着想を読んだとき、キングという作家はなんとも頭がいい作家だと感心するとともに旋律を覚えた。何と悪魔的な手法を思い付くものだと。
そこからの手錠との格闘は読んでいるこちらが痛みを覚えるほど凄惨だ。

本書でキングが描いた、もしくは描きたかったのは次の2点なのではないだろうか。

まずはたった1人で取り残された状況で人の思考はいろんな方面に及び、そして過去を掘り返す。それは封印していた忌まわしい記憶でさえも。本書ではその忌まわしい記憶が主人公を窮地から救う手立てを与えるヒントになっているのが皮肉だが。いやむしろ思い出したくない記憶にこそ、ヒントがあり、それを乗り越えたからこそこれからも窮地に直面しても乗り越えられるという意味だろうか。

もう1つは自分1人しかいないはずの家の中で誰かがいる気配を感じることはないだろうか。よくあるのは一人暮らしの部屋でシャンプーしているときに誰かが後ろに立っていると感じるというあの感覚。
主人公ジェシーも同様に奇妙な男の存在を感じる。しかし彼女が気を喪って目が覚めると誰もいなくなっており、しかも自分に害が及んでいないことから気のせいだと思い出すが、最後の最後で実際にいたことが判る。
つまり自分1人しかいないはずの部屋に誰かがいるという錯覚を覚えながら、実際に誰かがいたという恐怖だ。しかもその人物は何をするわけでもなく、ただそこにいたのだ。この何とも云えない気持ち悪さがしこりとして残り、そしてジェシーはたびたびその幻影に惑わされる。
その幻影を振り払うのに必要なのはその人物に逢いに行き、確かめることだった。そしてそれは叶い、確かに彼がジェシーと逢っていたことを認める。そしてジェシーはその男の顔に唾を吐きかけ、仕返しをしたのだった。

つまり忌まわしい過去や記憶、そして付きまとう幻影を振り払うには目を背けず、なかったことにせずに対峙するしかないとキングは訴えているのか。

本書は1963年7月20日に起きた皆既日食を軸にしたもう1作『ドロレス・クレイボーン』と対になる物語らしい。つまり本書に散りばめられ、謎のままに終わった部分についてはそっちで判明するのだろうか。

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