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ミステリの祭典

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汚名
ハリー・ボッシュシリーズ

作家 マイクル・コナリー
出版日2020年08月
平均点9.00点
書評数1人

No.1 9点 Tetchy
(2021/09/30 23:42登録)
御年65歳のボッシュが相手にするのは過去。彼が30年前に逮捕した強姦犯が最近のDNA調査により他の強姦犯の精液だったことが判明し、逆にボッシュが損害賠償請求の的になる恐れが生じる。その金額は7桁にも上る見込みで大学に進学中のマデリンを養うボッシュにとって破産宣告とも云える仕打ちが待ち受ける。
いやはや65歳と云えば日本では定年延長も終える年だ。長年働き、社会に尽くしてきた終末の時に逆に自分の仕事で訴えられ、そして余生を生きることもできなくなるような多額の賠償金を背負わされそうになるとは作者コナリーはボッシュを年老いてもなお窮地に陥れる筆を緩めない。

そんなボッシュの許に知らされるのはショッピングモールにある薬局で起きた経営者親子殺害事件。今まで過去の未解決事件ばかりを捜査してきたサンフェルナンド市警にとって久々の殺人事件だ。
さてまずボッシュにいきなり災厄が降りかかる。30年前に逮捕した強姦犯プレストン・ボーダーズの有罪がひっくり返されることで、ボーダーズ違法拘束の申し立ての審理が行われ、和解交渉中だが、それが決裂すれば当時ボーダーズを逮捕し、ムショに送ったボッシュを訴追でき、彼は7桁の賠償金を支払う羽目に陥る。通常ならば市法務局が糾弾される一個人を保護しようとするが、ボッシュはロサンジェルス市と不当退職の訴訟を起こして莫大な賠償金をせしめたことでそんなことはありそうになかった。そうまたもボッシュは自身の行った正義のために自縄自縛状態になる。

そしてショッピングモールの薬局で起きた経営者親子殺害事件は捜査が進むにつれて次第にスケールが大きくなっていき、その捜査の過程でかつての相棒ジェリー・エドガーと再会する。彼は薬事犯罪の現状を調査するMBCの職員に転職しており、ボッシュとそのパートナー、ルルデスに事件の背後に潜むアメリカ全土に亘る一大薬物犯罪の実情について説明し、サポートする。

しかしいつの間にボッシュシリーズはディック・フランシスの競馬シリーズのような題名をつけるようになったのだろうか。
前作『訣別』に引き続き、本書は『汚名』である。これは今回ボッシュが直面する30年前の事件が冤罪の疑いがあり、ボッシュがその件で訴追される恐れがあることを示しているのだろう。
原題は“Two Kinds Of Truth”と実にかけ離れた邦題である。
これは作中に出てくる2種類の真実を意味する。1つは人の人生と使命の変わらぬ基盤となる真実、もう1つは政治屋やペテン師、悪徳弁護士とその依頼人たちが目の前にある目的に合うよう曲げたり型にはめたりしている可塑性のある真実を指す。つまり前者はありのままの真実であり、後者は全てを明らかにせず都合のいい真実だけを並べた恣意性の高い真実、つまり「嘘は云っていない」類の真実だ。
こうやって考えるとやはり本書の題名は原題に即してせめて『それぞれの真実』とか『真実の別の顔』とかにならなかったのだろうか。まあ、後者はシドニー・シェルダンの小説の題名みたいだが。

しかし今まで古今東西の薬物事件を読んできたが、とうとうアメリカはここまで来たかという思いを抱いた。
引退間際の老医師もしくは患者が来なくなったヤブ医者をターゲットに処方箋を書くことで月2万ドル稼げると甘言を囁いて、鎮痛剤数千個分の処方箋を次々と発行し、そしてそれを薬局に持って行って手に入れた後、中毒者に売りさばくというシステムだ。しかも患者は鎮痛剤中毒者を使い、彼らを指定のクリニックに行かせて、医者はろくに診察もせずに何十錠もの鎮痛剤の処方箋をそれぞれに発行して患者たちは薬局でそれを受け取り、セキュリティはおろか飛行計画や乗客リストの提出さえも必要としない場末の飛行場で専用のセスナに乗せて他の地区に行っては同様の行為を行って1日に何百錠もの鎮痛剤を獲得し、そしてそれをずっと繰り返す。
そして彼らによってばら撒かれた鎮痛剤で5万5千人もの人が亡くなっているのだ。人を治す薬も一歩間違えば依存症を巻き起こす薬物へと転じる。

特にフライトプランをチェックせず、乗員お確認もせずに車から飛行機までのドア・トゥ・ドアで滑走路に出て飛び立てる安直さ。9・11で多くの無辜の命が奪われたのにも関わらず、またも同じ過ちを繰り返そうとしているアメリカの愚かさを垣間見た。

しかしウィンズロウに引き続き、本書もまた薬物を扱っている。ウィンズロウは社会に蔓延する麻薬を売りさばく側を描いているのに対し、コナリーは薬物を売りさばく方に利用され、廃人にさせられていく薬物中毒者を色濃く描いている。特にボッシュ自身を囮にして詳細にシステムの一部始終を描いている件は迫真性があり、本書の中盤のクライマックスシーンと云えるだろう。

齢65歳にして八面六臂の大活躍を見せるボッシュ。そして今度ボッシュはかつての相棒ルシアと共に薬物転売シンジケートの潜入捜査で知り合った薬物依存者エリザベス・クレイトンの娘殺害の未解決事件の犯人を追う。
ボッシュに定年退職はあっても引退はなく、一生刑事であり、そして昼夜を問わず寝食も頓着しない全身刑事であり続けるだろう。

そしてボッシュは今回それらの事件で数々の世の中の不条理に直面する。
親のすねを齧ってさほど苦労をせずにいつかは大役を手に入れようとする俳優の卵が生き長らえ、ウェイトレスの仕事で日銭を稼ぎながらも数々のオーディションを受けていつか日の当たる場所に出ようと努力する端役女優が命を奪われる。
信念に基づいて強姦犯を突き止め、有罪にもこぎつけたにも関わらず、己の私欲のために証拠を捏造して誤認逮捕の汚名を着せられる世の中。
それは強姦犯を世に放ってまで富と名声に目がくらんだ悪徳弁護士の姿があった。
医師としての道理と理念をもはや捨て去り、私利私欲のために薬局を巻き込んで築かれた一大薬物転売システムを独自で調べて馬鹿正直に警告したがために殺された被害者。
そして最後は15年前に起きた未解決事件、赤ん坊を置いて失踪した若妻の行方を、半ばもう死んでいると思いながらも捜査を続けていたら、なんと本人は暴力夫の支配から逃れるために赤ん坊を置いて逃亡し、名前を変えて生きていた。母親は夫が赤ん坊を自分一人では育てられないために施設に入れるだろうと見込んで自らの保身のために幼きわが子を置き去りにし、そして今は平穏な生活を送っている。
一方でドラッグに溺れ、家出した娘を拉致され、強姦された上に殺された母親は悔恨の念に囚われ、自ら鎮痛剤中毒になり、依存症になり、鎮痛剤の受け子に墜ちてシンジケートの輩の慰み者になっている。
わが子を捨てた母親が平穏な生活を手に入れ、わが子を想う母親が底辺の生活を強いられている不条理。

人生は皮肉に満ちている。これまで刑事として数々の割り切れなさ、遣り切れなさを経験しながらもボッシュは改めて人間というものの恐ろしさ、そしてそれぞれの欲望が招いた業の深さを思い知る。
本来生きるべき者が死に、また報われていい働きをした者が謗られる世の中の不条理。企業が嘘をつき、大統領までもが嘘をつく今のアメリカ。そんな不条理の中で未だに己の正義に愚直に生きる気高きヒーローのためにボッシュはまだ戦う決意を固める。

本書はコナリー31作目の作品である。これほどの冊数を出しながらもこのハイクオリティ。そしてさらにそのクオリティを次も凌駕しようと魅力的なアイデアを放り込んでくるコナリーの創作意欲の高さと構成力の確かさにはファン読者になったことへの喜びを常に感じさせてくれる。
あとは訳出が途切れぬよう一読者として願うばかりだ。彼の作品を読み続けるためなら身銭を払って買うだけの価値があり、見返りはある。
ボッシュが一生刑事なら私も一生コナリーファンであり続け、彼の作品を買い続けよう。

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