文学少女対数学少女 |
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作家 | 陸秋槎 |
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出版日 | 2020年12月 |
平均点 | 6.00点 |
書評数 | 5人 |
No.5 | 7点 | レッドキング | |
(2025/08/10 22:02登録) 数学の天才女子高生と、校内誌編集長女子高生の、ミステリを「めぐる」、ミステリに「関する」、作中作付き短編集。 「連続体仮説」 たとえば、「もしAが犯人ならばAはXを行う必要がある(ない)」てなロジックだが、Aが「必要」という価値判断に従うか否かを決定する公理はない。さらに、どう見ても「無意味」な行為Yや、己に不利となる行為Zを、「Aが行うはずがない」という合理的判断さえ、それを保証する公理はない。名作「シャム双生児の謎」や「スイス時計の謎」、青崎有吾はじめ我が国の若手ロジック名手達も、結局のところ、そうである様に、ミステリ小説(=公理体系)における最終結論は、作者次第=言ったもん(書いたもん)勝ち。で、「数学は自由である・・」 8点。 「フェルマー最期の事件」 結論が正解ならば、そこに至る証明手順に瑕疵があっても "That’s OK、It’s OK "。もしかして、ファイロ・ヴァンスの「現象学的本質直観(ハイデガー言うところの ” 己自身を現す者を、それ自身の方から語らしめる ”)」の方が、クイーン以下ロジックによる論証より「手堅い」のかもしれん・・ほんとか? ※その結論の証明の完成を、遥か数世紀後に委託して、数学はそれで良いとして、ミステリ小説は、作者=神が作中でお墨付きを与えて、なお良いとして、これを、現実の犯罪に当てはめた場合、近代司法の証拠と論証による裁判より、江戸奉行おかっぴきの「勘と見込みと拷問」の方が「手堅い」てな結論に(;゚д゚)・・・ 5点。 「不動点定理」 ん? 結果の存在は証明できても、そこに至る過程は証明不能て・・・採点不能。 「グランディ級数」 探偵の数以上に「正解」のあるミステリテキスト。なんちゅう「メルカトルかく語りき」 8点。 ※この作家、中国では理系育ちだったんかな(たしか、古典文献学畑だった様な)。「メルカトルと美袋のための殺人」「メルカトルかく語りき」を継承させたら、結局こういう事にならざるを得んよなぁ。もしかしたら、理系(て言うより「数学系」)の人には書かせない方が良いのかもしれん、ミステリ小説。(ワルいな、麻耶) |
No.4 | 5点 | 雨兎耳須 | |
(2025/05/29 15:40登録) キャラ小説として読めば普通に面白いです。試みは面白いですが、ミステリとしては凡庸です。。 |
No.3 | 6点 | ボナンザ | |
(2021/09/14 21:34登録) タイトルと設定から漂う麻耶臭だが、翻訳のためか本編からはそこまで近いものを感じない。 |
No.2 | 7点 | 虫暮部 | |
(2021/02/03 11:55登録) 作中作の粗探しによるミステリ論。いいねいいね親近感を覚えちゃうね。うだうだ悩む語り手も正しい青春て感じ。人名から性別が全くイメージ出来ないのが難点(作品に責任は一切無い)。 2話目、ドアの錠が“人を監禁出来る”設定だけどいいのか……? |
No.1 | 5点 | nukkam | |
(2020/12/25 21:09登録) (ネタバレなしです) 2019年に発表された本書は推理小説を書いている文学少女の陸秋槎(作者と同じ名前ですね。作者は男性ですけど)と数学の天才少女の韓采蘆の2人の女子高生が活躍する4つの中編を収めた短編集です。どの作品もボリューム以上の複雑な内容を感じさせます。「連続体仮設」は秋槎の書いたミステリーを読んで采蘆が犯人を当てて作品の出来栄えを評価するというもの。謎解きよりも本格派推理小説のあるべき姿の議論に重きを置いてます。「フェルマー最後の事件」では今度は采蘆が書いたミステリーを秋槎が読むことになります。作中作の謎解きがまだ終わってないところへ現実の事件が起きる展開には意表を突かれました。伝統的な本格派推理小説でありながら「推理の過程の間違いは、結論の正しさの妨げにはならない」とか「解の存在は証明できるけど方程式は解けてない」とかどこか前衛的な要素が混じっていて微妙なもやもや感を覚えました。余談ですが私の読んだハヤカワ文庫版では登場人物リストは書物の中には記載されず、別紙の形で(栞のように)挿入されてました。なくしちゃうよ! |