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ミステリの祭典

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一九八四年

作家 ジョージ・オーウェル
出版日1950年01月
平均点7.00点
書評数5人

No.5 4点 みりん
(2023/05/25 20:42登録)
たぶんこれは高評価しないと恥ずかしいレベルの名著なんだけど、楽しめなかった。確かにこれぞディストピアって感じ(というか元祖?)で1984年に影響を受けたであろう作品(特に漫画)がいくつも思いついた。しかし、世界の不条理さの説明や思想に関する問答が大半で、話の展開が冗長で退屈。文学的素養がないとこの作品のテーマを深くまで読み解くことはできず、あまり楽しめないのだと思う。

主人公が協力者や恋人を得てディトピアに抗うストーリーなのかと期待していたらそんなどっかに転がってるような甘い話ではなかった。そして、クリスティ再読様の書評を読んでこの作品の楽しみ方を学べた気がする。

No.4 6点 虫暮部
(2022/04/23 12:46登録)
 作者は訴える “こういう社会はひどいね!”。
 私は応える “そんなの判っとるわ!”。

 普遍的な価値観に則った小説は、しばしばその価値観に過剰に寄り掛かっている気がしない? いや、必ずしも “普遍的” ではないのかな。現代日本の或る程度標準的な立ち位置で読む限りに於いて、と言うことで。
 大雑把な言い方だが、社会の悪い部分なんて似通っているものだから、それを描けば、あとはちょっとした運次第でタイムレスな作品として高評価されるのではないか。
 意地悪く言えば、それは作家にとって “楽な道” だと私は思ってしまうのだ。

 本作は、ディストピア小説としてはあまり飛躍が無くて普通(アングッドな意味で)。作者の物凄い想像力による予言の書、とか言う感じではない。
 途中で長々と挿入されるゴールドスタイン哲学の妙な説得力には要注目。統治して転向させる為の様々な手法もアナログで楽しい。あれじゃ責める側も大変だ。

No.3 8点 蟷螂の斧
(2020/03/09 23:21登録)
裏表紙より~『“ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…』~
1949年の作品。2002年「史上最高の文学100」に選出された。2017年には米国でベストセラーに。その理由は、トランプ大統領就任式の参加者数がオバマ前大統領のときより明らかに少ないにもかかわらず、報道官が過去最高と発言。この発言を大統領顧問が「オルタナティブ・ファクト」(もう1つの事実)と正当化。本書に似たようなことが現実に起こっているとして読まれたようです。
「権力を求めるのは権力のため」という言葉が恐ろしい。結局、権力があれば、共産、資本主義の体制に係わらず何でもできるということ。ミステリーではないのでジャンル分けは難しい。「洗脳」の物語であると思います。なお、「われら」(ザミャーチン.1921年)の影響は甚大。

No.2 7点 弾十六
(2018/11/24 14:00登録)
この作品自体は素晴らしいと思います。(ロンドンの鐘の音と、ネズミが心に深く残っています)
私が気に食わないのは、日本ではザミャーチンの「われら」との関連が抹殺されてることなんです… 事実を無かったことにする、その行為自体が1984的な世界だと思うのです。まあ一度「われら」(岩波文庫で入手可能)を読んでいただければ、私の言いたいことがわかっていただけるのではないか、と思います。
WikiのZamyatin “We”の項目より引用。
Orwell began “Nineteen Eighty-Four”(1949) some eight months after he read Zamyatin's “We”(1921) in a French translation and wrote a review of it.

<誤解を与えそうなので、追記>
パクリ云々の話(全ての芸術はパクリである)ではなく「われらを読んで強い印象を受けたものと思われ、その設定を発展させ1984年を執筆した」と何故素直に書けないのか?ということです。(パクリアレルギーの人っていますよね…)
英Wikiでも上記の文章は1984の項には書かれていません… (日本Wikiの「われら」の項目が特に気持ち悪い。躍起になって1984年を褒め称えています)
オーウェルの書評 E・I・ザミャーチン著「われら」(Tribune 1946-1-4)がWEB上で読めるんですね… 最後の文はオーウェルの犯行予告です。
This is a book to look out for when an English version appears.

No.1 10点 クリスティ再読
(2018/06/13 10:01登録)
「ティンカー、テイラー...」「ヒューマン・ファクター」と本作を比較して読む企画の締めはディストピアSFの名作「一九八四年」である。うん、評者の狙いは本作をSFというよりもスパイ小説として読むことである。
本作の主人公ウィンストン・スミスはイングソックの下級党員として、イデオロギーに従う義務を持っている。だから「職業スパイに近い存在」と見ることができるわけだが、ウィンストンは自らの「記憶」に忠実であろうとして、イングソックのイデオロギーを裏切り、同様な反抗者であるジュリアを見出して愛を交わし、イングソックに抵抗する地下組織と連絡を取ろうとする...ウィンストンは「二重スパイ」であり、これスパイ小説以外の何ものでもないと評者は思う。違うかい?
もちろん本作を全体主義批判として読むのが正当な読み方なんだろうけども、今回は「二重スパイは何を愛し、何を裏切るか?」ということに絞って見ていこうと思う。そういう意味では本作は「ヒューマン・ファクター」と非常に近い位置にある小説である。イングソックが抑圧するのはまさに「プライヴェート」である。「ヒューマン・ファクター」で主人公の「プライヴェート」が丁寧に描かれるのと照応して、本作では主人公ウィンストンのプライヴェートはすでに「奪われたもの」であって、それは「記憶」の中にしかないし、イングソックに隠れてジュリアと交わす愛によってそれを取り戻そうとする時間なのである。
本作が残酷なのは、その「記憶」すらも「過去は改変可能である」というイングソックの原則に従って、ウィンストン本人によって汚され否認されることだ。「記憶」の中に後退するすることさえ、国家は許しはしないのだ...最後にウィンストンとジュリアが再会するするアンチ・クライマックスが、無残極まりない。二重スパイは無限の裏切りを強制されて、矛盾撞着する非自我をかろうじて生き延びる。愛を後悔することさえも、もはや許されない。これを「ヒューマン・ファクター」の甘さを否定して、無残な荒廃として描いたスパイの内面のドキュメントと、評者は呼びたいな。1948年に書かれた本作が、究極のスパイ小説をすでに達成していたと思うのだ。愛の対象の一冊なので10点。

もちろん、このディストピアを未到来の悪夢だと思えばSFとして読むのも結構だし、このトバ口に立っていると見れば警世の書として読むのも結構。この悪夢を今と捉えて「自分がどう抵抗するか」を考えればスパイ小説になる...と切り口によって読みが変わる間口の広い空前の傑作である。次の一節は、あれ、今の国会の状況を正確に論評していない?

過去とは党が自由自在に造り上げられるものだということになる

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