カラマーゾフの兄弟 |
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作家 | フョードル・ドストエフスキー |
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出版日 | 1948年01月 |
平均点 | 7.40点 |
書評数 | 5人 |
No.5 | 6点 | ボナンザ | |
(2023/09/18 17:47登録) こちらも亀山訳で再読。格段に読みやすい。 |
No.4 | 8点 | ◇・・ | |
(2022/06/30 19:04登録) ここには愛と憎しみ、淫蕩と純潔、金銭欲と殺人、悪と恥辱、無神論と信仰、人間の低劣さと高潔さが詰まっており、その作品世界ははるか後に生きる私たちさえも射程に入れているのだ。 この小説には、生と死の根源的な問題を、ぐっと鷲摑みして読者を虜にしたら離さない力が備わっている。価値のよりどころが曖昧なまま、生活を送る者がこれ読めば、頭を殴られたような衝撃を覚えるに違いない。 |
No.3 | 4点 | あびびび | |
(2018/01/24 01:12登録) 世界的な文豪が命を削って書いた物語を読むのが苦痛だった。この分野の本を読む素養がないのははっきりしていたが、全巻読むのに、2年かかった。だいたいが、宗教に興味がない。世界一の名作を貶める気持ちはまったくなく、素直な気持ちである。自分の無知をさらけ出しただけのことで、投稿しなければ良かったのかな? 「罪と罰」はどうなんだろうか? |
No.2 | 9点 | 蟷螂の斧 | |
(2018/01/15 18:14登録) (ネタバレあり)「罪と罰」はアメリカではミステリーとしても読まれています。アメリカ探偵作家クラブが選んだミステリベスト100の24位にランクイン。高野史緒氏の「ミステリとしての『カラマーゾフの兄弟』」「カラマーゾフの妹」を読むと「罪と罰」よりも本作の方がミステリー度は数段上ということがわかります。今回、サイトに登録されたのを機にミステリー面(犯人は誰か)を中心に拝読。高野史緒氏は○○を真犯人としています。さて、どうなのか?・・・。なんとなんと、推理するまでもなく序文にて○○が主人公であると著者は明言しているではありませんか。本作(第一部)では○○は決して主人公ではありません。よって第二部(本作の13年後)で○○が主人公となり全貌が明らかにされることになるわけです。つまり、必然的に○○が犯人となる?。ところが、著者が死亡し、第二部は書かれることはなかった。もし完成すればミステリー的には「倒叙式の完全犯罪」ものとなったのかも?。一般的に、犯人は△△の暗黙の指示で●●が実行したという解釈のようです。しかし、著者はその点非常に曖昧にしています。当然です!○○が犯人なのですから(笑)。その点の検証。犯行時、ドアが開いていたか否かが論点。逮捕された◇◇(冤罪)は「窓は開いており、生きている父を見た。ドアは閉じていた」部屋に入っても殺してもいないと主張。その後、現場から逃げる◇◇を見た召使「窓は開いており、ドアも開いていた」。両者とも嘘をつく必然性はない。よって、アリバイのない○○がドアを開けた可能性がある。●●は自分が犯人と告白し自殺する。犯行時、●●は癲癇を起こし寝ていた。仮病というが、犯行後わざわざうめき声を立て看護人を起こす必要はない。ドアは被害者に開けてもらったというが、時間的経過の観点からドアは開いていたという証言と矛盾。凶器の処理、返り血がないなどの不審点。遺書に自分が殺したと書いていない。現金が封筒に入っているのを知っているので、封筒を破り金をとりだす必要もない。等々●●が犯人とする根拠は乏しい。一方、○○が犯人とする根拠。○○のアリバイはない。2日前○○は”闘士”になったと明言。父が母の話をすると、眼が燃え唇が震えだし癇癪を起した。このあたりが動機となるような気がする。第二部の題名が「偉大なる罪人の生涯」?も気になる。一番関心を持った記述は「母屋は中二階のある平屋建てで、隠し部屋があり、思いがけない階段もある」という点です。どんな意図があってこんなのことを書いたのか?。犯人が隠れていたとの大伏線では???などと妄想が膨らみました。 |
No.1 | 10点 | 斎藤警部 | |
(2017/12/22 00:35登録) 「陽気にやってらっしゃい、泣くんじゃないのよ」「明日は修道院に入る身でも、今日は踊りましょう」「あたしたちは汚れた身でもこの世は素敵だわ」「一人のろくでなしだけでポーランドが成り立ってるわけじゃないんだ」「今すぐ、カラマーゾフ流の強引さで、みんなのために。。。」 冒頭数十行で10点超えが確定しました。奇蹟のハイパーテンション持続の底には悪魔の吹き込んだ命が跳躍しています。夥しい数の面倒臭い人々が跋扈する極太の大河イヤミスであり、言うまでもなく推理小説枠に収まり切らない大怪物ではありますが、と言うかもちろん推理小説のつもりで書いたのではないのだろうし、だが結果的に大ミステリと呼びたくて仕方のない作品に仕上がっているわけで..「罪と罰」をミステリとするのは牽強付会に感じますが、本作は充分にミステリと呼べるブツでしょう.. 日常の心理トリック拗(こじ)らせ玉虫模様は襲来するわ、手記の壮大すぎる配置の妙に舐め尽されるわ、長い長い伏線の妙味に搦め取られるわ、ある種の叙述欺瞞のインスパイア元になってそうな気配が点在するわ、もちろん、これは多岐に渉る犯罪的人間関係の紛糾と、ギラギラとモニュメンタルな或る殺人事件の謎とその解明を巡る物語であり、、、、、、、 「二つの深淵をいっぺんに見つめることができるのです!」「それは、父親を殺さなかったからなのです!」「話している時の様子が変ですよ」「ところでトルコ人は甘いものが好きだそうだ」「頭の中で考えて、憶えてしまったんだ」「もう一度言っておくが、すべては大洋にひとしい」「これもまた小説ではないでしょうか!?」「これでもキリスト教徒ですからね」「そんなのはローマです!」 かの『大審問官』の暴虐馬鹿力もさる事ながら、ミステリとして延々と濃密過ぎる裁判シーン。。。。しかもその章の名が「誤審」と来た!(ここで観られる論告合戦みたいなサッカーの試合はいいですね) ”総和による暗示”。。。 情緒的可能性の証明。。。 ”永遠の調和の瞬間”。。。。 作者の命が追い付かず実作されなかった続編で明かされる逆転真犯人、がいるのだろうか。。 (まさか、アノひとが。。) 「虚無への供物」が前半だけで乱歩賞に応募されたのは、後半執筆を待たずして作者が逝ったとする本作への、手の込んだオマージュではないのか。。。。 パンの耳。。雀たち。。 たとえ未完にしても、世に出版されたラストシーンは実に鮮烈、哀しくも眩しい希望に輝いているじゃないか!! だけどやっぱり哀しいよ! 全ロシア! 全日本! 全忍耐! 全歳月! 頑張ろう!! 頑張りたいじゃないか!!! ああベートーヴェンが聴きたくなる。 邦題は「カラマーゾフ」と「兄弟」の間に『の』が入るのが断然いいですね。 深みが違います。 |