皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
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tider-tigerさん |
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平均点: 6.71点 | 書評数: 369件 |
No.8 | 6点 | かわいい女- レイモンド・チャンドラー | 2018/07/11 00:00 |
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~小石をはめこんだような模様のガラスのドアにはげかかった黒ペンキで、「フィリップ・マーロウ……探偵調査」としるしてある。~
シナリオ調の書き出しで物語は幕を開ける。 この事務所でマーロウは~私は蠅叩きを持って、青蠅を叩き落そうと、身構えていた。~ そこへ今回の依頼人オファメイ・クエストより電話が入る。数頁読んで「またマール(高い窓)のようなキャラを使うのか」と思った。あのキャラは一度でいいだろうと。ところがどっこい。 邦題の「かわいい女」はちょっとどうなのかと疑問を持つ人も多いと思う。村上春樹氏は「リトルシスター」と改題した。まあこれが無難かもしれない。でも、個人的には皮肉たっぷりの「かわいい女」がけっこう気に入っている。アリス(ミュージシャンです)の「チャンピオン」みたいなものだと思えば。いや、それは違うか……。 とにかく、チャンドラー作品に登場する女性でもっとも印象的だったのは高い窓のマールと本作のオファメイなのであります。 本作は一般的な評価は低いようで、作者自身も不満を漏らしていた作品。 筋を錯綜させるのはいいが、こんがらがった結び目を解く作業がいい加減なのでなにが起こっているのか非常にわかりづらい。正直私も理解できているのかどうか疑わしい。それから、理解し難い理由で人物が動く。 次々にひっくり返される展開、意外な真相などなどきちんと書けばなかなか面白い作品になったのではないかと思う。 では、チャンドラーはどうしてこの作品が嫌いなのか。本作は出来が悪いとチャンドラー自身も言及していたことがあるらしいが……。 本作は当時の状況などからチャンドラーの個人的な感情が色濃く反映された作品のようだ。それはもちろんハリウッドへの思い。どのような思いなのか。 たとえばこんな場面がある。 愛犬家の映画会社社長が池に葉巻を捨てるのを見たマーロウが「金魚によくないのでは」と言う。 「わしはボクサー(犬種)を育ててるんです。金魚などはどうでもよろしい」 確かにハリウッドの醜悪さを描いているのだろう。この場面は印象的だし、いかにもハリウッドならありそうなことである。だが、チャンドラーの筆にはまだいくばくかの客観性があり、冷静さがあるように思える。ハリウッドを描いているように見える部分はわりと表面的で、さらに奇妙なのは物語がさほどハリウッドと密着してはいないように思える点。もっともっとハリウッドに寄せたものが書けたのではなかろうか。 むしろ一読ハリウッドとは関係のなさそうな部分こそがチャンドラーのハリウッドへの心情のように思えてしまう。チャンドラーはハリウッドでの仕事に魅了され、恋に落ちた。だが、しかし。 ~電話が鳴ってくれ。頼む。誰か電話をかけて、私を人類の仲間に戻してくれ。~中略~この凍った星から降りたいのだ。~ このマーロウの独白は作品の中ではハリウッドと関係がない。だが、チャンドラーがハリウッドの仕事をしていた頃、痛切に感じたことなのではなかろうか。人類の仲間に戻りたい、凍った星から離れたい。 さらに言うと、チャンドラーにとってハリウッドを体現しているのは作中の二人の女優ではなく、むしろオファメイ・クエストではないだろうか。 本作においてマーロウは時にチャンドラーであり、オファメイはハリウッドなのではなかろうか。 本作でもっとも印象に残っているのは33章の最後の数頁~芝居は終わった。私は空になった劇場にすわっていた。~で始まるマーロウのモノローグである。ネチネチとした皮肉、嫌味には静かな怒りが満ち満ちている。 オファメイを皮肉っているのだが、これはそのままチャンドラーのハリウッドへの感情としても読めないものだろうか。 こうした負の感情はしばしば自己嫌悪の原因となる。チャンドラーが本作を嫌うのは作品の出来ウンヌンもあるのだろうが、そうした己の負の感情、弱さのようなものを作品に反映させすぎたことを嫌ったのではないだろうか。 だが、読者にとっては作者の負の感情こそが面白かったりする。 この章の最後がちょっと奇妙に感じられた。マーロウは~イギリス人が虎狩りから帰ってきたときのように悠々と階下へ降りて行った~のである。 なんか急に自信にあふれてきた。悪口言いまくってスッキリしたということか。(チャンドラーは)とにかくこの作品を書き上げて、次へいこうと吹っ切れたのか。 「かわいい女」は理解し難い作品だった。なぜこれを書いたのか。 チャンドラーの書きたかったものはやはりミステリなんだと思っている。うまく説明できないので簡単にいうとリアリティのある文学的なミステリ。 「大いなる眠り」から「湖中の女」までの変遷は理解できる。自分の書きたいものにだんだん近づいていたんだろうなあと思える。読みやすさも増して小説技術も上がってきているように思えた。 ※作品の評価、好き嫌いとは別問題です。 そして「湖中の女」の次が「長いお別れ」なら腑に落ちる。なぜに「かわいい女」のようなものを書いたのか。「高い窓」「湖中の女」と積み上げてきたものを卓袱台返しして「さらば愛しき女よ」のあたりまで退行しているように思えた。 そういう意味では最後の「プレイバック」も理解し難い作品だったが、これは先行き考えず好き勝手にやった遺書のようなものだと思っております。 チャンドラーは不器用な作家で、作家としての総合的な能力はけして高くはないと思う。自分が目指した水準の作品を書くことができなかった作家であり、チャンドラーの作品は好きだが、それほど高く評価していない。 ただし、作家レイモンド・チャンドラーのことは非常に高く評価している。作家性とでもいうのだろうか。彼ほど真似をされる作家はなかなかいない。真似しやすいというのもあるが。 ※クリスティ再読さんが「前衛小説」なることを書評で言及されていたが、その点はまさに同感です。人気があるのも確かに不思議です。 チャンドラーが本当に書きたかったもの、理想としていた類の作品はまだ地球上に存在していないのではないかと思う。それに近づいたものもほとんどない。そもそもこの理想形なるものを書くのは不可能ではないかと。目標が現実離れしていた哀しい人だったのではないかと妄想してしまいます。 チャンドラー長編、最後の書評にしていつにも増して妄想過多になってしまいました。 ややネタバレ 33章のモノローグの中に、マーロウからオファメイの雇い主であるザグスミス医師に向けてこんなメッセージがある。 ――オファメイ・クエストに何か要求されたら、断ってはいけません。~中略~いつでもあの娘のいうことを聞いておやりなさい。そして、尖ったものをそのへんにほうりだしておかないことです。―― 初読時これを読んで、尖ったもの=氷かき(アイスピック)が当然想起された。氷かきを使った殺人はオファメイの仕業だったのか、と思った。 ところが、そういうわけではないようだ。 チャンドラーはどういうつもりでこのようなことを書いたのだろう? オファメイが氷かき殺人をやりかねない女だとマーロウは言及していたが、それにしたって紛らわしい。 長いお別れのネタバレあり 次作の「長いお別れ」でチャンドラーは理想とした作品にもっとも近づけたとは思う。そういう意味では最高傑作だと思う。 長いお別れでチャンドラーが書きたかったことはたくさんあったのだろうが、ミステリ作家として、マーロウのセリフ↓で 「もちろん知らない。二人とも彼女が殺したんだ」 読者に死ぬほど驚いて欲しかったのではないかと。 私はかなり驚いた。だがしかし、ディープなミステリ読みにとってはどうなのだろう。 |
No.7 | 7点 | 長いお別れ- レイモンド・チャンドラー | 2018/05/11 22:07 |
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もちろん好きな作品です。が、特にこれが好きというわけでもない作品。
とりあえず導入~序盤はすごくいい。チャンドラー作品の中でいちばん好きかも。マーロウはなぜレノックスに魅かれたのか。これはもうその人が持つ天性の愛嬌とでもいうしかないでしょう。なぜかわからんけど好きになってしまうような人間。 そして、レノックスと別れ、次の事件が起こる。これがサボテンを桜に接ぎ木したみたいに不細工。初読時はわけがわからなくなって苦労しました。読解力のなさもあったのでしょうが、二冊の本を同時に読まされているような違和感。相変わらずの麻薬を処方する医者。ですが、まあこんなのはチャンドラーにはよくあることです。 本作にあまり夢中になれない最大の原因は、テリー・レノックスが好きになれないからです。意志の弱さというのか、なんというのか。あの人物が本当に勇気を出して戦友を救ったのか? 「おばあさんが狙っているのは本当に~?」は笑いました。チャンドラー作品で一番笑ったセリフはこれかもしれません。 それから、村上訳で大きな収穫が一つありました。 清水訳では「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」となっていたこの一文。名文とされていますが、正直なところ私にはどこがいいのかさっぱりわからない文章でした。いい悪い以前に意味がよくわからなかったのです。 ※再会を予期しての言葉なら理解できるのですが、文脈的にそんな風ではなかったため。 ですが↓ 村上訳「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」 これでようやく合点がいきました。近親者が亡くなったときなど「片腕をもがれたような悲しみ」なんて表現することがありますが、それに近いニュアンスの言葉だったんですね。むろんこの部分に関しては村上訳を推します。 清水訳は、この一文に関しては誤訳といっていいレベルだと思います。 チャンドラーについてよく言われていることに対する私見 「チャンドラーは普通の小説を書きたがっていた」 本当にそうなのか? 私はチャンドラーはミステリが書きたくて書きたくてたまらなかった(けど書けなかった)人だと思っています。 ※チャンドラーの評伝などは読んだことありません。あくまで作品を読んでの憶測に過ぎません。 「大人のための読み物」 本当かなあ。もちろん子供にはわからないと思いますが、そうかといって完全に成熟した大人が楽しめるのかというとそれも疑問なのです。 ※makomakoさんが本作の書評で仰っていたことは理解できます。本当にその通りだと思います。 文章表現の面白さなどは除外して、フィリップ・マーロウにどの程度感情移入できるか、彼を理解できるのかという観点で見ると、むしろある種の子供っぽさを残した人の方が愉しめるのではないかと思うのです。青臭い理想主義、青臭い反抗心、融通の利かなさ、若さゆえの潔癖、こうしたものを大人になっても抱えている人こそがチャンドラーに向いているのではないかと。チャンドラーがわからない人は子供なのではなく、むしろ大人なのではないかと。 そんなわけで、私にはまだフィリップ・マーロウにさよならを言う方法がみつかっておりません。 2018/05/12 訂正及び追記 |
No.6 | 8点 | 高い窓- レイモンド・チャンドラー | 2017/01/26 16:03 |
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『さらば愛しき女よ』とともに私がもっとも好きなチャンドラー作品であり、褒めどころを必死に探さなくてはならない『さらば愛しき女よ』とは違って、チャンドラーの長編三作目にして初の成功作(完成度が高い)だと思っています。
ただ、タイトルが地味で内容も地味なんですよね。謎の核心を端的に象徴したいいタイトルだと思うし、内容もちゃんとしているのにイマイチ盛り上がらない作品。ミステリ要素はあってもエンタメ成分が希薄。序盤から中盤は淡々と進行し、盛り上がりが終盤に集中している。 やはり、文章、雰囲気、場面、人物を味わうのがチャンドラーの愉しみなのでしょうか。しかし、敢えてマーロウの感情の動きを味わうともいってみたい。ハードボイルドで感情を味わう? ハードボイルドは登場人物の内面や感情を描写せず、行動を描く手法だと聞いたことがありますが……本作の依頼人との顔合わせのシーン。好きだの嫌いだのの直接的な描写はこの場面の最後まで出てきません。でも、マーロウの依頼人への嫌悪感は最初から疑問の余地なく読者に伝わる。 ~彼女は顔を赤かぶのようにまっか(真っ赤)に~します。薔薇のように真っ赤ではないのです。 依頼人の亡夫である『じいさん』は地域社会に尽力し、毎年命日は新聞に写真が掲載され、『彼の生涯は奉仕であった』という献辞がつく(笑)そうです。 シニカルな視線で依頼人や邸宅の様子が描写されていきます。依頼人は喘息もちらしいのですが、~私は片方の脚を膝の上で組んだ。そのために喘息がひどくなるということはあるまい。~と、マーロウ。その場のイヤな空気が歴然としています。 当初の依頼は金貨の盗難事件です。この件の真相はよく考えられています。ところが、どうもそこに焦点がいかない。物語はぜんぜん違う方向に進み、真相が徐々に判明するにつれてマーロウの義憤がどんどんヒートアップ、マーロウの気持が直接的に語られる終盤の会話、言葉自体は淡々としていますが、非常に強い感情がこもっています。ここで読者はカタルシスを得られます。 「あなたはこわくない。あなたをこわがる女の人なんて、いるはずないわ」 若い頃よりも、なぜか今の方が泣けてしまうのですよ。 とにかく、地味で動きの少ない小説を愉しめる人には一押しの作品です。 気になる点。 1マーロウが事件の真相を長々と説明する構成がちと不細工。 2トラウマ。記憶を改竄、喪失させるというトラウマ。 喪失した記憶を取り戻すことによって、心の傷が癒えていくという。 こういう設定は数多の小説で目にするも、本当にそんなことが起こるのか? 近代小説に最も大きな影響を与えた人物はドストエフスキーやヘミングウェイではなく、ジグムント・フロイトではないかと。半ば冗談、半ば本気でそんなことを思うわけであります。 さて、残るはもっとも印象の薄い作品と言われがちな『かわいい女』と、最高傑作とされる『長いお別れ』 かわいい女(けっこう好き)の褒めどころを探しつつ、長いお別れ(もちろん好きだけど世評ほどに好きではない)は弱点を見つけ出そうと、そういう方向になりそうです。 ※『湖中の女』『高い窓』田中訳も読んでみたいですね。クリスティ精読さんが引用した部分に関しては、田中訳の圧勝ですな。 村上訳は『ロング・グッドバイ』を購入済みなのですが、なんか読む気になれない。 村上氏のチャンドラー長編翻訳計画は『湖中の女』を残すのみになりましたが、なんか湖中は村上氏好みの作品ではないような気がするのです。むしろ、氏があとがきで「実はわたしはこの湖中の女はあまり好きな作品ではない」とかなんとかと、もっとも入門に向いている作品をディスったりしないだろうかと危惧しております。 |
No.5 | 7点 | プレイバック- レイモンド・チャンドラー | 2016/09/19 12:51 |
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マーロウは同じところを行ったり来たりで話がちっとも進展しない。前半はグダグダ。チャンドラーの筆力があるから楽しく読めるけど、内容がストーリーしかないタイプの作家の作品だったら投げてます。ようやく面白くなってきたなあと思ったら(P140あたりから)駆け足でラストへ。なんか不完全燃焼です。
はっきり言わせて貰えば失敗作だと思います。 前半のグダグダは一人称マーロウ視点に固執したせいです(本サイト内にある『過去ある女 プレイバック』の拙書評も参照してみて下さい)。マーロウのいないところで起こることを書くために回りくどくなったり聴診器を使ったりする羽目に陥ったんです(聴診器を持ち出して隣室の会話を盗み聞きとか、個人的にはマーロウにそんなことをして欲しくない)。三人称多視点であればもっとコンパクトにわかりやすく書くことが可能だったはずです。 ただ、小説としては失敗作だとしても、それが好き嫌いと直結しないのがチャンドラーの不思議なところです。私はこの作品もけっこう好きなんです。 特に以下の二点が好きなところ。 一点目はラストでマーロウが寂しい人ではなくなるかもしれないと期待できた点。よかったな、マーロウと素直に嬉しかったわけです。そんなわけでプードルは怖くて未読です。 ※Tetchyさんの書評を拝読して、今はちょっと読んでみようかなという気持ちになっております。 もう一点は大好きな場面(会話)があるからです。 れいのセリフも好きですが、私の一押しは本作の主たる舞台となったホテルの副支配人ジャヴォーネンとの会話です。 マーロウを胡散臭く思い、調査に協力的ではなかったジャヴォーネンでしたが、最後に「私のことを嫌な奴だと思っているだろう?」とマーロウにこぼします。意外と可愛い奴です。マーロウはこう答えます。 「思わない。あんたには職務がある。ぼくには仕事がある。あんたはぼくの仕事が気に食わない。ぼくを信用しなかった。それだからといって、あんたはいやな人間と思うのはまちがってる」 このあと二言三言言葉を交わしますが、マーロウの以下のセリフが最高でした。 「あんたは諜報機関の少佐だった。収賄の機会がいくらでもあったろう。なのに、まだ働いている」 調査に協力してくれなかったことを恨むどころか、「立場の違いのせいで反目することにはなったが、私は高潔で実直なあなたの人柄に敬意を表している」と、とてもスマートな言い回しで相手に伝えたわけです。かっこよすぎ。 このやり取りを読めただけで私は満足でした。 ※どうでもいいけど、本作のラストは……マーロウは『長いお別れ』のラストでウソを吐いてませんか? 以下 ネタバレというか、元ネタの映画シナリオ(過去ある女 プレイバック)と比較して内容について少し突っ込んだことを書きつつ、プレイバックというタイトルが「意味不明」となってしまった原因を明らかにしたいと思います。 ※タイトルの意味、巷で流布している説の方がロマンチックだったり面白かったりするかもしれません。夢を毀してしまったら申し訳ありません。 シナリオ『過去ある女 プレイバック』(以下、シナリオとします)では主人公のベティは夫殺しの嫌疑をかけられ、僥倖としかいいようのない幸運で無罪を勝ち取ります(真相はシナリオ内で明記されていないが、おそらくベティは白)。ところが、新たな人生を送ろうとやって来たカナダで再び殺人の嫌疑をかけられることになります。殺人の嫌疑がかかる、このとんでもない体験が繰り返される、すなわちプレイバックです。 次に小説『プレイバック』(以下小説とします)です。 ※私もシナリオを読む前は最終章がタイトルの謎を解くカギだと考えていました。そのような解釈をする人は多いと思います。 シナリオではベティの過去の秘密は早めに明かされます。 ベティの部屋で射殺体が発見され、ベティは容疑者筆頭です。 「またですか……」苦悩するベティの心情がプロットの中心に居座り、プレイバックの意味は歴然です。 これが小説では以下のように改変されます。 『マーロウの尾行相手(ベティ)の秘密はなにか、消えた死体は本当にあったのか(本当に殺人事件はあったのか)』 小説はこの二点を主たる謎として読者を引っ張る構造になっています。そう。この二点を謎として読者に隠してしまったことがプレイバックというタイトルの意味をぼやかしてしまったのです。 過去の秘密は不明、殺人もあったのかなかったのかわからない。読者にとってはなにも繰り返されていないわけです。 かなり後半になってから謎は明らかになるのですが、肝腎な部分が駆け足で流されてしまい、繰り返し(プレイバック)に注意がいかないんです。ベティの苦悩についても読者はよくわからない(三人称多視点にしておけばなあ……)。 これはチャンドラーの書き方に問題ありだと思います。 シナリオではベティの夫殺しに関する法廷シーンがあって、臨場感、緊迫感ありました。しかし、小説では法廷シーンは書けません(三人称多視点にしておけばなあ……)。出来のいい法廷シーンの代わりにベティの義父がマーロウにやっつけ仕事的な説明をします。ところが、セリフがいかにも説明的で真に迫るものがない。しかも、マーロウらがこの義父を適当にあしらってしまうので(これはこれで場面としては面白いのですが)、読者には夫殺し疑いの件は大したことではないように思えてしまうのです。チャンドラーがシナリオをマーロウの一人称小説に変更するにあたって、探偵小説らしい謎を設定したことが裏目に出たわけです。小説として面白くしようと努力した結果、内容がタイトルから遠のいていってしまったわけです。 チャンドラーに言いたいことは二つ。 死体を消したりせずに普通にフーダニットを謎とすればよかったのではないでしょうか。 ベティの過去をもう少し早く明らかにしてもよかったのではないでしょうか。 こうすれば、小説版もプレイバックの意味がもっと明瞭になったと思われます。 ただ、タイトルのために作品があるわけではありませんからねえ。チャンドラーが内容を優先して、タイトルと内容との関連についてはあまり注意を払わなかったとしても仕方のないことかもしれません。 最後に一つ。本作執筆時、チャンドラーは己の死を意識していたと思います。 では、小説とシナリオの読み比べ、他にもいろいろ発見がありますのでチャンドラーファンの方は是非! |
No.4 | 7点 | 過去ある女 プレイバック - レイモンド・チャンドラー | 2016/09/16 15:11 |
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アメリカからカナダに逃げ出して来て早々に変な男につきまとわれるベティ・メイフィールド。しかも、その男がホテルの自分の部屋で射殺された。ヤケッパチになりかけたベティだったが、彼女に同情的な警視や彼女を救おうとしてくれる紳士もいる。しかし、ついに彼女には逮捕状が出されてしまったのだった。
暗い過去を振り払おうとアメリカからカナダへやって来たベティ・メイフィールドだったが、ここでも過去起きたことが繰り返されるのであった。 小説ではなく映画のシナリオです。 諸事情あって映画化されず、お蔵入りになっていたチャンドラーのシナリオが発掘され、翻訳出版の運びになったようです。こんなものまで日本語で読めるなんて、日本人が英語が苦手なのはこういう恵まれた環境も理由の一つなんでしょうね。 まあそれはさておき、このシナリオ、けっこう面白いです。 シナリオですからチャンドラーの文章に浸るというわけにはいきませんし、人物造型も深みや説得力に欠ける部分あり、そうした物足りなさはありますが、チャンドラーにしてはプロットは上出来、会話の切れは相変わらず。映画で完成形を見たかった。 ただ、余計な修飾がない分、チャンドラーの文章力を別の角度から再確認できるというマニアックなお楽しみもあります。 基本的には簡潔明快な文章で綴られておりますが、なかには『水夫の踊りっぷりの優雅さは犀にひけをとらない』こんなサービスもありました。こんなん言われても役者はどんな演技をすればいいのか悩みますわ。 これ、実は副題のとおりチャンドラーの七作目の長編『プレイバック』の原型だそうです。ところが、小説版プレイバックにおいて、シナリオはその原型を留めていません。 チャンドラー大金貰ってシナリオ書く→自信作だったのに映画化されず→怒った(かどうかは不明)チャンドラー得意の自作再生利用癖を大いに発揮して小説化。と、このような流れだったそうです。でも、これ、かなり大きな問題があります。 その1 主人公は女性であり、マーロウは不在。 その2 どう考えても三人称多視点で小説化すべき作品。 これをチャンドラーは意地でもマーロウ視点の一人称小説に仕上げるべく努力しましたが、45回転のレコードを33回転で回すようなもんです。「プレイバックは奇妙な作品」というような評を目にしましたが、こうした歪みにもその原因がありそうです。 チャンドラーファンならこの強引な小説化の過程に想いを馳せるというマニアックな愉しみ方も可能でしょう。 それにしても、自信のあったプロットなわけです。なぜそれを活かすような書き方をしなかったのでしょうか。なぜ、そこまでマーロウに拘ったのでしょうか。頑固頑迷こうしたチャンドラーのメンタリティがそのままフィリップ・マーロウのメンタリティと直結しているように思えてなりません。 チャンドラーは一人称へらず口文体が得意でしたが、実は生み出すプロットは三人称多視点向きで、こういうところが超一流の文体……文体に一流も二流もないですね……超一流の文章と二流のプロットという落差に繋がったのではないかと、そんなことまで考えてしまいました。 察しの良い方はお気づきかもしれませんが、『プレイバック』の謎の一つとされていたタイトルの意味、本作を読めば疑問は氷解します。 私が持っているサンケイ文庫版にはロバート・B・パーカーの解説が収録されておりましたが、残念ながら数年前に出た小学館版には収録されていないようです。 入手借り受け可能ならサンケイ文庫版をお薦めします。 |
No.3 | 7点 | 大いなる眠り- レイモンド・チャンドラー | 2016/09/10 13:10 |
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初読時は途中で読むのを断念しました。
「モチ」でイヤ~な気持になり、「うふう」でズッコケ、「承知之助」で投げたような気がします。他の作品をすべて読んでから再読したのですが、やはり当時はどうにも乗れませんでした。 高校時代の私は今よりもユーモアに理解なく、他者に厳しかったのかもしれません。若さゆえの潔癖とでも申しましょうか。 それはともかく、他の作品とは読み味がかなり違うなあと思いました。訳者の違いが大きいとは思いますが、行く先々に死体が転がっているプロット、やけに元気なマーロウ(拳銃を手にする機会がやけに多く、使う気マンマンという風に見えたし、実際に使った)という具合に実際に他の作品とは異なる肌触りがあります。これは訳文のせいだけではないと思います。あとがきにはハメットの影響ウンヌンということが書いてありましたが、当時の私は平行して読んでいたミッキー・スピレインに近いような気がしました。 ※小学生の頃に読んだ名探偵に挑戦だかなんだかという本に探偵紹介のコーナー(銭形平次が名探偵という扱いでした!)があったのですが、「マイク・ハマーの登場で『こんな殺し屋みたいな奴が探偵なんて、推理小説もおしまいだ』などと嘆く人もあった(うろ覚え)」との記載ありました。子供心にマイク・ハマーってどんな人なんだろうと好奇心を持ちました。高校生になってから実際に読んでみて、この人のどこが殺し屋みたいなのかと首をひねりましたが。 私はやはり清水訳に思い入れがありますね。ただ、今回再読してみてこの訳もけして悪くはないくらいの意識改革はできました。ただ、こういうプロットはあまり好みではないかも。それから思い入れのある登場人物があまりいないなあ。6点と思ったのですが、彼女の正体が……昨今では手垢にまみれた人物設定ではありますが、物語の閉め方としては本作が一番好きです。大いなる眠り、そういうことだったのね。そんなわけで、7点にします。 なんだかんだチャンドラーは好きですし。 ちなみに私は妹の方が好きです。『マール、じゃなかった、カーメンは愚かでいささか病的だが、可愛いところがある。だがしかし……』 運転手を殺した真犯人がどうしてもわからず、自分が物語をきちんと理解できていないのだと思って再読、再再読してみましたが、結局わからず。自分の読解力の無さに絶望したのはいい思い出です。 |
No.2 | 8点 | さらば愛しき女よ- レイモンド・チャンドラー | 2016/08/24 12:38 |
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最初の頁にこんな一文があります。
『彼(大鹿マロイ)は自由の女神をはじめて見る移民のように、汚い窓を熱心に見つめていた』 いささか大袈裟に思える比喩です。 日本人にはピンと来ませんが、移民がはじめて自由の女神を見るのは祖国からの長い船旅の末、ようやっとアメリカに到着した時でしょう。 ケインとアベルやゴッドファーザーなどなど、映画で何度か見たことがあります。 長旅の疲れのせいか気怠さの蔓延している移民船、だが、霧の向こうに自由の女神が見えた瞬間、移民たちは食い入るようにその像を見つめるのです――そして、大騒ぎです――。これはアメリカ人にとっては原風景とでも言うべきものではないでしょうか。 このような切実な移民の姿がマロイの喩えに使われている。ところが、マロイが熱心に見ているものは『汚い窓』このギャップには滑稽味すらあります。が、マロイにとっては笑いごとでもなんでもない。 そう、読後に改めてこの一文を読むと、この比喩は大仰でも滑稽でもなくなります。読者の胸に哀しみが沁み入ってくるような一文なのです。 私の認識では恐るべき失敗作です。愛すべき失敗作でもあります。 読んでいてなんの話なのかよくわからなくなってきます。モグラの掘った穴につまづいたら目の前にお金が落ちていたというくらいの僥倖、マーロウの恐るべき勘、これらに頼って構成されたプロットに多くの読者が振り落とされていくことでしょう。「なぜ貴様がここにいる?」「何を根拠におまえはそう思うのだ?」そんな疑問の連続です。存在理由のよくわからない人物や場面も多い。 プロットだけで採点するなら5点以下。ミステリとしても5点以下。 チャンドラーの文章が好きな人、あるいはフィリップ・マーロウのファンにしかお薦めはできません。 ただ、文章のノリや雰囲気は本作が最もいいと感じます。チャンドラーって読むのに時間がかかる印象ですが、文章そのものはキビキビしていてテンポがいいんですよね。個人的には好きな作品です。 「どんな話でもこいつが書くとなんか読まされちゃうんだよなあ」 これは私の思うところでは作家の理想形であります。 (もちろん話も面白いに越したことはないのですが) ヴェルマを探すため、マーロウは彼女の働いていた酒場のオーナーを探そうとします。こういう聞き込みは会話を書くのが下手な作家はさらっと流してしまいがちです。読者は読み進めるための情報を得るのみ。こういう場面であってもチャンドラーは妙な情感を読者に与えます。情感の方に気を取られて情報はどうでもよくなってしまう。 ジェイムズ・エルロイはチャンドラーを読んで小説の書き方を学んだと言っておりました。チャンドラーからなにを学んだらあんな小説が出来上がるのだ? おそらくウイットのある会話、地味な場面を楽しく読ませる技術などを学んだのでしょう。 本作にはヘミングウェイを使ってマーロウが警官をからかう場面がありますが、エルロイはシャーロック・ホームズを使って同じようなことをしております(ブラックダリアにて)。 マーロウとは何者なのか。 小学生の時に買って貰った架空人名事典には、アメリカを代表する人物はワシントンでもリンカーンでもケネディでもなく、フィリップ・マーロウだという説もあるくらいだ、との記載がありました。 高校時代に自分が感じたのは、マーロウはとても寂しい人だということ。かっこいいとは思ったが、ヒーローとは思えなかった。どこかしょぼくれた感じがする。 当時の私がそうした寂しさを感じた理由をこのように考えています。マーロウには生き方の指針としての信念はあっても、肝腎な人生の目的がない。さらに悪いことにマーロウは頭が良くて有能です。こういう人物が人生を無為に過ごしている姿は痛ましい。 幾人かの方が言及されているマーロウは生意気な口を利くあんちゃんという説。私は清水訳にどっぷりと浸っていた口ですが、議論の余地は大いにあると思います。 疑問としてまず思い浮かんだのは、こういうあんちゃんがシェイクスピアを引用したり、軽口にヘミングウェイなど登場させたりするだろうかという点。マーロウが不良っぽいあんちゃんであるにしても、チャンドラーの自意識がかなり流れ込んでいると思われます。 |
No.1 | 7点 | 湖中の女- レイモンド・チャンドラー | 2016/08/18 01:00 |
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会社社長より一ヶ月前から行方がわからなくなっている妻を探し出して欲しいと頼まれたマーロウはいくばくかの調査の後、湖の近くにある彼女の別荘を訪れた。そこでマーロウは別荘の管理人と共に湖に沈んでいた女の死体を発見する。その遺体は管理人の妻ミュリエルのものであった。
中学の終わり頃でしょうか。ミステリというのはかなり不自然だなと強く感じはじめました。いわゆるリアリティの欠如というやつです。そこで、当時の語彙でいえば自然なミステリが必ずあるはずだと探しはじめて、チャンドラーに行き当たりました(別の意味でチャンドラーにも不自然さが多々あるのですが)。当時の私には意味の良くわからない会話や文章がけっこうありましたが、それでも懸命に読んでいました。ガキは暇があって金はない。ゆえに、なけなしの金をはたいて買ってしまったからには理解できるまで諦めないのであります。 そんな風にチャンドラーの作品を読破していったのですが、高校生の頃は本作が一番読みやすくて面白いのではないかと感じていました。ミステリファンだがハードボイルド(この言葉の定義が未だによくわからない)には馴染みがないという人にはまず本作を薦めます(ミステリに拘りのない人には「高い窓」を薦めます)。 無駄な場面はないし、存在意義のよくわからない登場人物もいない。話の展開が早く、すっきりとわかりやすい。そして、素晴らしい出来映えとまではいかないものの、ミステリとしてもまあまあよくできている。 大鹿マロイほどのインパクトはありませんが、徐々に変化していく犯人の人物像は非常に印象的であり、マーロウやパットンが細やかな同情を寄せたことも理解できます。 ラストの対決シーンなどなど、読者サービス旺盛なある意味チャンドラーらしくない作品ですが、エンタメとしてはこれが一番お薦めです。読みやすく、プロットを破綻させることなく書かれた『さらば愛しき女よ』ではないでしょうか。この路線を突き詰めていけばミステリと文学の融合として最高峰のものが出来上がったのではないかと思います。ところが、残念なことにチャンドラーには本格ミステリを書く才能はなかった、と私は考えています。シムノンも同じく。 ※チャンドラーもシムノンも大好きですが、両者ともにあくまでミステリの変種であって、ミステリかくあるべきとは微塵にも思っておりません。むしろ本道になってはいけないとさえ思います。ちなみに現在はいわゆる不自然なミステリに対する反感はまったくありません。 以下 ネタバレ気味 前半で依頼人の妻が奔放でだらしのない女であることが強調されております。この妻とマーロウが初めて相対する場面。 『女は足首を交差させ、頭を椅子の背にもたれさせて、長い睫毛の下から私を見た。眉毛は細く、アーチをえがいていて、髪の色とおなじ褐色だった。静かな、秘密をふくんだ顔だった。むだな動きをする女の顔には見えなかった』 最後の『むだな動きをする女の顔には見えなかった』初対面の女性の描写にしては非常に違和感あります。なぜわざわざこんなことを書いたのか? まさに無駄な描写では。 と、思いきや、数ページ後に彼女はこんなことを言います。「たいていの人間はこういう場合は理性をなくす。でも、わたしは無くさない。その方が安全だから(抜粋ではなく私の要約です)」 読者はもうここではっきりと二人の女の違いに気づくでしょう。安全のためには理性を無くさない。こういう人は無駄な行動を厭うものです。そして、それは奔放とは対極にあるメンタリティでしょう。 こういう細かい部分をネチネチと読み解いていく楽しみのある作家は大好きなのです。 ※この女性はシムノンの「メグレと火曜の朝の訪問者」に登場した女性とそっくりなメンタリティだと思います。 ※安全といえば、東野圭吾の「白夜行」の主人公雪穂ですが、彼女は上昇志向が強いのではなく、極度に安全を求める女性なのだと私は考えております。自国の安全を守るためには太平洋全域を掌中に収めておかないと不安で不安で仕方のないアメリカみたいな感じでしょうか。 |