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フーコーの振り子 |
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ウンベルト・エーコ | 出版月: 1993年02月 | 平均: 8.00点 | 書評数: 1件 |
画像がありません。 文藝春秋 1993年02月 |
No.1 | 8点 | クリスティ再読 | 2020/05/26 17:54 |
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「薔薇の名前」よりも長くてヘヴィだから、落ち着いて読める時期に..とは思ってたけど、頑張って再読。これも出てすぐに買った本。
主人公の「わたし」はテンプル騎士団についての学位論文を書いているときに、インテリが集まるバーで編集者のタルボと知り合う。タルボはテンプル騎士団を扱った持ち込み原稿の扱いに、主人公を顧問として協力を求める。原稿の主はオカルトに狂った「猟奇魔」の畸人で、出版社は固い学術出版社のウラに、自費出版を営んでおり、「原稿を預かる」という名目で、自費出版に誘導するのが狙いだった....しかし、その原稿の主は殺人を疑われる状況のもとに姿を消した。真相が不明のまま、卒業した主人公はブラジルに渡り、そこでサンジェルマン伯爵を連想させる紳士と知り合う。ミラノに舞い戻った主人公は、その出版社でタルボたちと一緒に働くようになるが、その出版社では頻繁に持ち込まれるオカルト原稿にヒントを受けて、自社でオカルト書籍シリーズを出すことを検討していた。サンジェルマンを思わせるアッリエ侯爵も、その顧問に加わることになるが、主人公とタルボ、ユダヤ人でカバリストのディオッターレヴィの三人組は、失踪した男が「テンプル騎士団の秘密を記したメモ」とする暗号文書から、ありとあらゆるオカルトを一まとめにしたような、西洋史を貫く大陰謀「計画」を冗談半分にでっちあげて、世の中の鼻を明かそうとたくらんでいた。 この「計画」を女をめぐる張り合いで、タルボがアッリエ侯爵に漏らしたことから、ただならぬ事件が動き出す.... うん、まあこういう話。本書の10のパートがカバラのセフィロトの木になぞらえて作られているとか、三人組の一人がカバリストで、カバラ用語が頻出するとか、読むにあたって西洋史というか宗教・オカルトあたりに一定の知識があった方がいいと思う。カバラだったらショーレムの「カバラとその象徴表現」とか、薔薇十字ならイェイツの「薔薇十字の覚醒」とかマトモな本を読んでおくといいんじゃないかな。まあインテリ向けのエンタメだから、意味が解らなくて流して読んでもそうそう困りはしないんだが。 で、作者は記号学者のエーコである。評者も80~90年代あたりの記号学の流行りの中で少しくらいはかじったか。この記号学、「記号には隠された意味などまったくない」というのが、大前提というのか信条というのか、そういうモノなんだ。記号学というのは、オカルトの反対の極にあるものになる。だから本書は「記号学の大家による、反=記号学の遊戯」みたいなもの。オカルト=象徴表現というのは、「表面的に現れた意味の背後に、隠された意味があって、その隠された意味に到達するのが【奥義】」ということだから、記号学はオカルトの悪魔祓いの役回りなんだよ。「表層以外は何も信じない」80年代スタイルvs「表面的な意味は完全無視」なオカルトだから、そもそも正反対。 まあエーコは当然ここらを百も承知の上で、オカルトと戯れてみせているわけだ。実際、オカルトって本当に引き写しばっかりで極めて創造性を欠いたジャンルのようなんだよな...しかし、三人組はテキトーに類推からありとあらゆるオカルトを蒐集し、勝手に関連付け、架空の大陰謀を編集的に「創造」してしまう。そうすると、それが「ウソ」ではなくなって...というのが終盤の展開になってくる。自らの嘘に復讐されるわけだ。主人公の妻のリアはウソにのめりこむ夫の姿を見て、出発点のテンプル騎士団の秘密メモが、花屋の配達伝票に過ぎないのを暴露するけど、もう遅すぎる。 「神の書」の文字を調合するためには、それ相応の慈悲を覚悟しないといけないが、僕らにはそれがなかった。どの本も神の名で編まれているのに、僕らの場合は、祈りもせずにすべての物語をアナグラムにして変換してしまった。 この報いを得て、カバリストのディオッターレヴィは「僕の細胞は他の誰のものでもない自分だけの話を作り上げ」る病気である、ガンで死ぬことになる。まあ、本書はマジメというよりも、アイロニカルでシニカルなコメディみたいに読むものではあるんだけどね。だからさ、同じくテンプル騎士団のオカルトを扱っても、例の「ダ・ヴィンチ・コード」とかとは全然レベルの違う話。本書読んでりゃ、いかに「ダ・ヴィンチ・コード」の創造性が皆無なのかが、分かろうというものだ。 最後に本書の主人公が「知のサム・スペード」を気取るのは、これはこれでウラの意味があってね、要するに「マルタの鷹」は、最後には宝物が模造品で一文の価値もないことが判明する、という本書の先達みたいな話なんだ。逆に言えば、宝物とか秘密とか陰謀とか奥義とか、こんなのはヒチコック流に言えば「マクガフィン」であって、球技で奪い合うためのボールに過ぎないものなので、どんな無価値なものでも「宝物の奪い合い」の宝物になる、という「ゲームの規則」を示しているだけなのさ。 |