ゲッタウェイ |
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作家 | ジム・トンプスン |
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出版日 | 1973年01月 |
平均点 | 6.00点 |
書評数 | 3人 |
No.3 | 6点 | クリスティ再読 | |
(2024/05/01 16:38登録) 懐かしの北京派。スローモーションで弾着の血しぶきが上がって、撃ち手と細かくカットバックされるあれ。その原作小説。 男女二人組のギャングが逃亡する話だから、映画の企画は早い話ニューシネマとしての「俺たちに明日はない」の後追い。本作はペキンパーでも名作評価、というほどでもないが、それでもある意味「有名作」なのは、ハリウッドのメジャー映画として初めて「勧善懲悪」を明白に踏みにじったことである。映画のラストではオンボロトラックを譲り受けて、車が遠ざかっていく....「逃亡(ゲッタウェイ)」成功、というわけだ。 評者原作は初読。このイメージがあるために、原作の例のミョウチクリンなラストシーンに唖然。いや実は原作は「勧善懲悪」だったのを、映画で「勧悪懲善」に変更した映画製作陣のナイス判断と呼ぶべきだろう。原作さあ、キャロルが悪女と言うよりも甘えた浮気女風なところが、カッコよくない。心理描写したがる小説の悪いところだろう。映画は熱愛中のマックィーンとマッグローというわけで、ラブラブ光線がスクリーンから飛びまくっている。原作の中途半端な採用が映画の出来を押し下げたような印象かな。 ノワールだったら小説はわりと以前から勧善懲悪でなくてもいいんだけども、映画はヘイズコードの昔から倫理が厳しかったからね。そんな矛盾と相克が作品の中でもネジれているのに感慨。 悪党パーカーはハードボイルドだけど、トンプスンだとノワール、なんだなあ。 |
No.2 | 6点 | tider-tiger | |
(2019/10/09 21:06登録) 1959年アメリカ。自分は昭和四十八年十二月三十日発行の三刷を所有。こちらはamazonに登録なし。購入したのは二十年以上前。最後のページの上部に「絶500」と書かれている。一時期は古書価格が五千円くらいにまで上がっていてシメシメと思っていたのだが、今は九百円くらい……残念。 息苦しくなるような男女の心理描写はいかにもトンプスンだが、プロットは意外にもまっとうなエンタメ作品。いささか古めかしいが、ひねりもあって、まあまあ面白い。トンプスンもついに売れ線狙いできたのかななんて思わせてしまうような展開(個人的にはとある恐怖症があるせいで、とある場面が非常にきつかった)。 ところがである。 最後の章がそれまでの筋と断絶してしまっているように感じた。トンプスンは一筋縄ではいかない作家ではあるが、いつもはやばい予感ぐらいはあるのだ。だが、本作は悪い意味でポカーン。 人並さんでさえ困惑されるような展開であるから、これは大抵の人が同じ反応を示すと思う。 人並さん曰く『渇きの果てに泥水を呑まされたような後味』まったく同感。書評も新しく付け加えるようなことがあまりなくて、申し訳ない感じがする。 スウィフトの影響とかも言われているが、いやそれにしたってこれは毒を盛り過ぎだし、継ぎ目がはっきり見えてしまうというのは小説としてはダメなんじゃないかと感じる。この継ぎ目を塞いでしまうようなレビューをどなたかが書いて下されば非常に嬉しい。 ただ、この最後の章は、これ単体でみると悪くない。いや、とてもいいんじゃないかと。今読んでも感情を、本能を揺さぶるなにかがある。 結論 変な小説である。けっこう好きだが、完成度には難あり。 トンプスンを最初に読んだのは再評価がはじまって何年か経ってからで90年代はじめだと思う。御多分にもれず初読みは河出版の『内なる殺人者』。リアルな異常者の造型とラストシーンの素晴らしさに打ちのめされて、ポツポツと読んでいった。 |
No.1 | 6点 | 人並由真 | |
(2018/10/12 13:24登録) (ネタバレなし) 保釈で4年振りに刑務所から出所したばかりの40歳のプロ犯罪者、カーター(ドク)・マッコイは銀行強盗計画を立案し、襲撃の実動を「パイヘッド」ルディ・トレントたち仕事仲間に任せる。25万ドルを得た一味だが、想定内のダマし合いと収穫の奪い合いを経て、ドクは27歳の若い美人妻キャロルとともに大金を抱えたまま逃亡を図った。目的地は、金さえ払えば犯罪者に安住の場を用意するという闇社会の大物エル・レイの領地。だが大事なく行ったはずのドクとキャロルの計画の行方は……。 1959年のアメリカ作品。ジム・トンプスン、例によって本は何冊か買ってあるが、評者がまともに一冊読み終えるのはこれが初めて。今回は当家の蔵書の中から見つかった1973年の角川文庫の元版(初版)で読了。同書は1972年の映画版(スティーヴ・マックイーン主演)が日本で73年3月16日に公開されたのに合わせて、同73年3月1日に刊行されている(作者名はジム・トンプソン表記)。 1994年の角川文庫の新版は旧版と同じ高見浩の翻訳で、細部に手は入れてあるが基本は同じ訳文を使っているらしい。これはwebの噂からの類推。 しかしこの旧版『ゲッタウェイ』が翻訳された70年代そして80年代半ばまではトンプスンは日本ではまったく単発作家の扱いで、現在のようにここまでカルト的な人気作家になるとは思わなかった。ちなみに名作と名高い映画の方もまだ観ていない(汗)。 本作がノワール+夫婦逃亡行ものの新古典という大雑把な予備知識はあったものの、文体の妙があちこちで評価されているらしい作家だから、その分この作品もプロットはシンプル、文章の方に独特の個性があるのだろうと勝手に予期していた。ところが実作を読むと、お話の方も主人公コンビの逃亡中のサスペンスを打ち出しながら二転三転するわ、思わぬところで窮地に陥るわ、盲点的な敵が追ってくるわ……と、ストーリー的にもギミックが盛りだくさんで面白い。原書はシグネットブックのペーパーバックオリジナルだったみたいで、まずは娯楽読み物としての足固めにも余念がなかったのだろう。 登場人物の描写も互いを信じたい一方、裏切られるのではないかと警戒しあう主人公夫婦や、スレた知略やしたたかな打算と欲望を動員して彼らに絡んでくる有象無象の脇役など、それぞれ鮮烈な存在感があって飽かせない。大半の登場人物のひとりひとりの動きや立ち位置がテンションを呼ぶので、細かいことはここではあまり言わないでおく。 それでショックだったのは終盤の展開で、物語がこういう方向に行き、決着するのかとかなり大きな衝撃を覚えた。物語の世界観もそれまでの血と硝煙、埃にまみれた空気が一転し、ある種の別次元の悪夢のなかに突き落とされたような気分がある。なんというか、志水辰夫か谷恒生の骨太な初期作品を読んでいたら、最後の最後でいきなり西村寿行の中期作品に転じてしまったような……。 webでざっと調べると、映画でこの原作のラストをまんまなぞるのはマックイーンが反対したそうで、映画版にはこの結末は採用されてないという。そりゃそうだろう。このクロージングそのままだったら、21世紀の現在でも映像ソフトの新版が出るたびに新しい観客が大騒ぎだと思う。 ただ思うのは、このあと数年後に同じ角川文庫の某翻訳ミステリ(それなりの話題作)で本作と類例のショッキングさをはらんだ一冊が刊行されて相応の反響を呼んだのだが、「そっち」とこっちを結びつけて語ったミステリファンや文章はまだ見たことがない。まあ互いにネタバレになることを配慮して言いよどんでいる人もいたかもしれんが、一方で同時にこの原作版『ゲッタウェイ』はその時点では、やはりまだ知る人ぞのみ知る、読む人のみ読んでいた一冊だったのかなあとも思う。ミステリファンとしての自分の見識が乏しくどっかのミステリ愛好家のサークルとかでカルト的に評価されていた可能性もあるが、寡聞にして当方はそういう話は今まで聞いていなかった。 トンプスンは今年もドバドバ未訳作の発掘新訳がされているみたいだし、また読むこともあると思うが、今度はいっそう警戒しながら手に取るわ。 でもって今回の本作の評点は、ラストの、渇きの果てに泥水を呑まされたような後味を重視してこの数字。人によっては評価はもっと上がるだろう下がるだろう。たぶんトンプスン作品への素養いかんによっても変わるだろう。 |