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ミステリの祭典

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異邦人

作家 アルベール・カミュ
出版日1952年01月
平均点8.00点
書評数3人

No.3 7点 虫暮部
(2021/08/19 11:53登録)
 巻末解説では否定的だったが、私には“フランツ・カフカをポップにしたもの”に思えた。相手にとって“私”はただの通りすがり? ちょっと撃ち抜いてみただけで違法じゃん。
 語り手が自らの母親を固有名詞の如く一貫して“ママン”と呼ぶのがあまりにも強烈。原文を当たったわけではないが(仏語なのでどうせ読めないが)これは日本語訳独特の効果なのだろうか?
 主人公の行動からは母親に対する執着など感じられないが、それにそぐわない“ママン”と言う(“ママ”よりも)甘えたような呼称のせいで、“本人無自覚な依存がありママンの死をきっかけに決壊した”みたいにも読める(と、敢えて曲解)。
 裁判の場面は抑制の効いた諧謔が光る。結末も『審判』みたいだ。純文学的な“解釈”抜きでエンタテインメントとして読んでも面白い。
 ところで、第一部の2まで、記述者の性別が判らなかった(服装は絶対的な基準ではないとして)。叙述トリック?

No.2 9点 猫サーカス
(2018/11/14 18:41登録)
「今日母さんが死んだ」。青年ムルソーは母を預けた老人養護施設に向かう。埋葬に立ち会った翌日、女と海水浴と映画を楽しみ、夜には男女の関係を結ぶ。数日後、友人の女性関係に絡み一人の男を銃殺。刑事裁判の被告になった彼は、動機について「太陽のせい」と答える。ムルソーの殺害場面の「偶然」性、法廷での息詰まる心理劇、彼が裁判所を出て郷愁と安らぎに包まれる夏の夕べの匂いなどが、迫真性をもった巧みなタッチで描かれる。妥協しない時代の証言者でもあり、世の不条理から目をそらさないカミュ自身のまなざしまでもが感じられるようだ。

No.1 8点 クリスティ再読
(2017/09/04 00:01登録)
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」をやったからには、「郵便配達」に影響を受けた本作をしたいよね。20世紀で一番有名な「人殺しの小説」の一つが本作なんだから、本サイトに登場していけないわけではなかろうよ。19世紀代表の人殺し小説というと「罪と罰」だけど、8人も評を書いてるじゃん。
実際「郵便配達」を読んだ直後に本作を読むと、本作が「郵便配達」の一種のリライトであることがわかる。「郵便配達」がフランクとコーラの情欲が、社会のコードにうまく適合せずに逸脱し続けてある時は犯罪と解釈され或る時は無罪となる話だったように、「異邦人」はムルソー個人の在り方が、社会のコードとズレていることが、その殺人行為以上に有罪(ほぼカフカ的というか思想警察的にというか)とされるという説話と読める。男女の情欲が重なりつつズレるダイナミズムが「郵便配達」の原動力なんだけど、「異邦人」はというと、一種の思想小説なのでずいぶんとスタティックだ。
実際ハードボイルド小説をいろいろと読み漁っていると、「異邦人」の文体ってハードボイルド以外の何物でもないよ。フランス人によるハードボイルド受容っていろいろな面で面白くて評者はたびたび取り上げているわけだが、純文学の極みみたいな本作でも、実は文章が本当にハードボイルドの影響が絶大なだけでなく、ムルソーの心理造形自体、ある意味ハードボイルドの極み、なんだよね。

実際、あの男には魂というものは一かけらもない。人間らしいものは何一つない。人間の心を守る道徳原理は一つとしてあの男には受け入れられなかった。

....これぞ、ハードボイルド、と感じないかな。この告発だったらフランク&コーラにも当てはまるわけで、ムルソーに結実する非情なキャラ造形は、それこそコンチネンタルオプからスペードからポパイからスリムから流れ込んできた「アメリカ」的モダニズムなのだ。内面が反転して「全き外面」であるような新しい人間のイメージは、映画とハードボイルドによって形成され、それが改めて純文学の対象として採用されたメルクマールが「異邦人」というわけだ。
ちなみに本作の文芸評論で有名なロラン・バルトの「零度のエクリチュール」ってのがあるんだけど、要するにこの「零度」はこういうハードボイルドによる「内面のゼロ」のことなんだよ。バルト、いい着目点をしたんだよね。

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