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おっさんさん |
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平均点: 6.35点 | 書評数: 221件 |
No.9 | 6点 | シャーロック・ホームズの事件簿- アーサー・コナン・ドイル | 2014/03/27 11:52 |
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私的シリーズ企画「光文社文庫の日暮雅通・個人全訳で読み返すホームズ譚」、その最終回。
収録作は―― ①マザリンの宝石 ②ソア橋の難問 ③這う男 ④サセックスの吸血鬼 ⑤三人のガリデブ ⑥高名な依頼人 ⑦三破風館 ⑧白面の兵士 ⑨ライオンのたてがみ ⑩隠居した画材屋 ⑪ヴェールの下宿人 ⑫ショスコム荘 シリーズ後日談にあたる「最後の挨拶」で、事実上ホームズものの幕を引いたドイルが、それでも晩年の1921年から27年までの間に、『ストランド』誌に発表してくれた、こぼれ話の集成です。 原作の The Case-Book of Sherlock Holmes(1927)では、収録作の、雑誌発表順と単行本の掲載順に異同がありますが、この光文社文庫の<新訳シャーロック・ホームズ全集>では、編集方針として、雑誌の発表順を採用しています。 さて。 とき、まさに探偵小説の黄金時代。 「多くの人々は、昔どおりホームズに敬意を表しながらも、彼はもはや時代遅れの人物と思わないわけにはいかなかった」(ロアルド・ピアソール『シャーロック・ホームズの生れた家』)という声があります。 確かに、ミステリ短編として、作者のキャリアに光彩を添える出来なのは、実話を下敷きに、トリッキーな趣向をカッチリまとめた「ソア橋の難問」一作だけといっていいでしょうが(次点を挙げるなら、物語としてのカタルシスは乏しいものの、状況のもたらす怪奇な謎を合理的に反転させる、「サセックスの吸血鬼」かな)、まあここまでくると、作品集自体、エキシビションのようなものですからw 「三人のガリデブ」に見られる作者の“お家芸”、その再演に暖かい拍手を送り、「這う男」のごときトンデモ系や、ホームズが慣れない一人称で記述する、「白面の兵士」「ライオンのたてがみ」のような残念な代物も、“ヴァラエティ”として寛容な精神で楽しむのが吉です。 そのテの異色作のなかでは、ドイルが自作の舞台用台本を小説化した、全篇、三人称記述の「マザリンの宝石」なんか、じつは筆者は大好きだったりします。まるで『マルタの鷹』みたいw あの“仕掛け”って、ワトスンの一人称だと成立しないんですよね。でも、人気者ワトスンを欠かすわけにはいかない、どうするか? そのへんの作者の苦心も読みどころwww さてさて。 足かけ三年にわたり続けてきた、読み返しの旅も、これにて終了。 全体の感想は――やっぱり面白かった、の一言に尽きます。 ポオの創造した謎解き小説のフォーマットを、名探偵ヒーローの冒険譚に換骨奪胎したドイルの、ストーリーテラーとしての底力は、やはり凄い。 そんな古典を、なめらかな訳文でクイクイ読むことの喜びを堪能しました。訳者の日暮氏による解説も簡にして要を得、これは、入門用としても広く推薦できる<全集>です。 |
No.8 | 6点 | シャーロック・ホームズ最後の挨拶- アーサー・コナン・ドイル | 2013/05/03 18:06 |
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1908年から1917年まで、散発的に発表された作品をまとめた第四短編集 His Last Bow(1917)を、恒例の、光文社文庫<新訳シャーロック・ホームズ全集>(日暮雅通訳)で読み返してみました。
収録作は――①ウィステリア荘 ②ブルース・パーティントン型設計書 ③悪魔の足 ④赤い輪団 ⑤レディ・フランシス・カーファクスの失踪 ⑥瀕死の探偵 ⑦最後の挨拶――シャーロック・ホームズのエピローグ―― 本書に関しては、原作の単行本は、なぜか雑誌掲載時と作品の配列を変えていますが、この<全集>版では、それをもとの順番に戻しています。 そしてその、雑誌掲載順という編集方針から、1893年発表の旧作「ボール箱」は、本来の“位置”である『シャーロック・ホームズの回想』に編入されているため(同作については、『回想』のレヴューをご参照ください)、本書には入っていません。 さて。 訳者の「解説」で指摘されているように、「長年の努力(?)がやっと実り、ここへ来てようやく、ドイルはホームズものに追いまくられずに執筆活動をすることができるようになった」わけですが・・・ その反動か、どうもホームズ譚が片手間仕事になってしまったような、ひさしぶりに昔なじみのキャラクターでご機嫌をうかがいました――的な、ゆるさが感じられる作品集になってしまっているように思います。 ホームズ、ワトスンのキャラクター小説としての面白さに特化した「瀕死の探偵」などは、ファンでない読者が読んだら、なんだこりゃ? でしょう。 “日常の謎”に介入したホームズの動向が、最終的にアメリカのピンカートン探偵社の悪漢追跡行と交錯し、事件のほうは勝手に終息する「赤い輪団」(1911)なども、筆者には『恐怖の谷』(1914-15)の前哨戦的興味から楽しめましたが、おおかたの読者には腰くだけもいいところでしょう。 ただ、ドイルのミステリ作家としてのアイデアが枯渇しかけていたとは、筆者は考えません。 たとえば、計画の途中で「犯人」がアクシデントにあい、結果、不思議な謎が生まれるという、「ウィステリア荘」の着想自体は、まことにすぐれたものです。 また、トンデモ系のトリックの陰に隠れがちですが(筆者も今回の再読まで忘れていたのですがw)、「悪魔の足」の、よく似た趣向の事件A、Bの連続性をめぐるパターンの先見性には、オヤッと思わせるものがあります。 先見性といえば、「レディ・フランシス・カーファクスの失踪」あたりも、正規の“死亡診断書”を利用するくだりなど、そこだけ抜き出せば、なかなか面白い。 問題は、そうした妙味のあるアイデアを充分練り込まず、お手のもののストーリーテリングでチャッチャッとまとめてしまっていることでしょう。 時代は移り、すでにソーンダイク博士シリーズのR・オースティン・フリーマンや、ブラウン神父もののG・K・チェスタトンのような、単なる後追いではない、真の実力者が探偵小説のフィールドには現われている。ドイルには、彼らを視野に入れて、負けるものかとファイトを燃やして欲しかったんですが・・・ さてさて。 集中では、“本格”むきのユニークな発想を、水と油のようなエスピオナージふうの背景に落とし込んだミスマッチが、逆に物語を忘れ難いものにしている「ブルース・パーティントン型設計書」が、やはりベストだと思います。何気ない風景描写に思えた書き出しも、真相を知って振り返ると、ミステリとして見事な逆算の結果であったことがわかります。 ラストを飾る「最後の挨拶」は、作中年代が第一次世界大戦前夜に設定された、ホームズ・シリーズの時系列では最後にあたる、まさに副題どおりの“エピローグ”。 ホームズ譚には、これまでにも、上記「ブルース・パーティントン型設計書」のように、国家機密を外国のスパイから守るという、エスピオナージふうの作品が見られたわけですが、これはもう、“ふう”ではなく、純度100パーセントのスパイものになっています。 作品の効果を考えて、ワトスンの一人称ではなく三人称を採用しているという点でも異色作で、その仕掛けはミステリ的には(ミエミエとはいえ)『恐怖の谷』、その第二部の延長線ですかね。 お伽噺の主人公が“現実”に降臨したような、そんな衝撃を当時(大戦中)の読者は感じたことでしょうが・・・ 大河(キャラクター)小説のエピローグとして、理解は出来るものの、個人的には、名探偵のこういう“最後の挨拶”は寂しいなあ。あと一冊、拾遺集があることで、良しとしましょう。 |
No.7 | 9点 | 恐怖の谷- アーサー・コナン・ドイル | 2013/02/22 11:53 |
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筆者的不定期連載w光文社文庫の<新訳シャーロック・ホームズ全集>を読む、その第七回にあたるわけですが――今回は、遅まきながら、昨2012年11月に逝去された「石上三登志氏追悼エッセイ」のスタイルを採らせていただきます。
石上さん、一度もお目にかかることはできませんでしたが、ご著書をとおして、エンタテインメント小説や映画の楽しみかたを教えていただいた者の一人です。 出会いは「家にはなぜ顔があるのか」(『別冊幻影城』1976年11月号、掲載)でした。横溝正史とロス・マクドナルドが並べて論じられているのを読んだときの、あの衝撃は忘れられません。 そしてもうひとつ、とりわけ感銘の大きかった石上さんの文章に、「緋色と赤の距離」(東京創元社『名探偵たちのユートピア』――2007年刊――所収)があります。 コナン・ドイルの『恐怖の谷』(1914-1915)の第二部が「まるでハメット・ハードボイルドの具体的な出発点じゃあないのか?」と指摘されたうえで、ドイルとハメットの作家的姿勢、その意外な共通性を浮き彫りにする論調には、「家にはなぜ顔があるのか」以来の、一見、相反するジャンルのアレとコレが“読み”で結びつく快感をおぼえました。 本サイトの Tetchy さん、空さん、E-BANKER さんの『恐怖の谷』評などを見ても、今後は同作が、そうした視点から新しい読者に再評価されていくであろうことは、間違いないと思います。 ただ。 私見では、ドイルのそうした先見性と二部構成の成功・不成功とはまた別問題で、つまるところ面白いふたつの中編を並べただけ、という不満はぬぐえないのではないでしょうか? あの狙いを“長編”として効果的なものとするには、現在パート(ワトスンの手記)と過去パート(某作中人物の「ひと束の原稿」をもとに、ワトスンないし出版代理人のドイルが小説化)を章ごとに切り替え、そのふたつがどう結びつくかを謎とする、のちのビル・S・バリンジャー式の小説技法が必要だったはずです。 そしてフェアプレイをたもつためには、過去パートの主人公の内面描写を完全に排した、それこそ『マルタの鷹』形式にする必要も。 かくいう小生も、『恐怖の谷』を高く評価する一人ですが、その理由は、「第一部」の謎解きが、ドイル流本格ミステリの達成点だということにあります。 そして石上さんが、その部分を比較的あっさり流されていたのが、個人的には大いに不満なのです。 散弾銃で撃たれ(深夜、脱出を困難にするリスクの大きい、そんな凶器でコトに及んだ犯人の意図は?)書斎に転がった死体の指からは、結婚指輪が消えていた――という“負の手掛り”とその解釈の見事さ。ダンベルをめぐる、ホームズの心憎い暗示。真相を知って読み返すと、“不倫カップル”の言動の意味が一変する、まさに本格ものならではの小説作法。 そのあたりの魅力を中心に、いずれは小生がそちらにお邪魔したとき、もしお話させていただく機会があれば、くわしく申し述べたいと思っています。 あ、あともうひとつだけw 「緋色と赤の距離」で石上さんは、『恐怖の谷』にドイルが犯罪王モリアーティを持ち出した意味を、「現実」的に解釈されていますが・・・ 本格ミステリ読みの観点からは、あれはもう、完全にミスディレクションなんですよ。 導入部で暗号文が提示され、それをホームズが解読する。浮かび上がる、巨悪と狙われた被害者の存在。直後にもたらされる、事件発生の一報・・・どうです、ストーリーが動き出すまえに、仕掛けてきているじゃありませんか? え、牽強付会ですか? でもですね・・・ああ、早くそちらで続きを語り合いたい。いましばらくお待ちくださいwww |
No.6 | 9点 | シャーロック・ホームズの帰還- アーサー・コナン・ドイル | 2012/03/04 11:50 |
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ホームズもの第3短編集 The Return of Sherlock Holmes (1905)の翻訳です。
筆者が読み返しに使っている、光文社文庫の<全集>版では、訳題が『シャーロック・ホームズの生還』なのですが、レヴューにあたっては、本サイトの登録題名にならいました。 英国の月刊誌『ストランド』(と米国の週刊誌『コリアーズ』Collier's Weekly 他)に、1903年から04年にかけて読み切り連載された(約一年かけて、ホームズ短編を集中的に発表する、という試みとしては、これがドイルの最後の成果となった)13篇をまとめた、待望の、名探偵復活篇です。 巻頭の「空き家の冒険」で明かされる、ホームズ“生還”の種明かしは、さっと読んであまり考えないことw 「初期の短編にあったホームズの分析的推理の面白さが影をひそめ、劇的な要素が中心になってきたことにより、読者が違和感をおぼえ始めた」(日暮雅通氏の「訳者あとがき」より)という指摘もありますが・・・ う~ん、でも面白いですよ、この本。 ノスタルジックなムードを醸成し(舞台を“現代”ではなく、19世紀末からの近過去に設定し)、そこから繰り出すドイルのストーリーテリングは、円熟の域に達しています。 たとえば、前段のゆったりした探索行から、後段、俄然緊迫の展開へ移行する、「美しき自転車乗り」や「プライアリ・スクール」のチェンジ・オブ・ペース。 たしかに、「踊る人形」の暗号解読パートなどを見ると、“分析的推理”の弱さ(ポオの「黄金虫」との対比。二番煎じが駄目なのではなく、「ご存じのとおり、英語のアルファベットのなかでいちばんよく使われるのがEで(・・・)」に始まる、検証なしの押しつけが安易)を痛感させられたりはしますが・・・ もともと初期のホームズ譚ですら、その傑作性は、謎・サスペンス・意外性の、トータルな演出力の勝利であって、推理自体が鮮やかな印象を残すのは、「名馬シルヴァー・ブレイズ」(『回想』所収)や「技師の親指」(『冒険』所収)といった少数の作にとどまりますからね。 それに本集でも、「六つのナポレオン像」と「金縁の鼻眼鏡」の二篇に関しては、謎解きに着目しても一級品だと思います。 前者において、次々に同一モチーフの石膏像をたたき壊す犯人の目的は? というホワイダニットを創造するにあたって、リスクを犯して×××場所まで運び出すという行為をまぎれこませることで、ストレートなサイコ犯の可能性を排除する論理構成は見事。 フェアプレイに裏打ちされた謎解きの収束と言う点では、後者はさらに整然としており、トリッキーさで人気がある(ものの、逆にトリック部分の弱さで大幅減点される)「ノーウッドの建築業者」などに比べて知名度はイマイチでも、これは筆者の考える本巻のベストです。 “理”と“情”を兼ね備えた、「三人の学生」や「アビィ屋敷」の決着も美しく、ミステリとしては凡作でも、ドイルが義弟ホーナングのラッフルズものを意識したような異色作「恐喝王ミルヴァートン」(ホームズとワトスン、強盗を試みるの巻)のエンディングの鮮やかさは、心に残ります。 じつは、あらかじめ今回は、バランスを考えて少しキツめに採点しようか、などと考えていたのですが、いざ読み返してみたら、やっぱりモノが違うw ブランクを感じさせない、コナン・ドイル、貫禄の横綱相撲でありました。 |
No.5 | 9点 | バスカヴィル家の犬- アーサー・コナン・ドイル | 2012/01/10 15:10 |
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光文社文庫の<新訳シャーロック・ホームズ全集>を読む、その第五回。
犯罪王モリアーティとホームズの対決を描いた「最後の事件」から8年――名探偵を封印したドイルがついにその沈黙を破り(ただし事件発生年を「最後の事件」以前に設定して)、『ストランド』の1901年8月号から1902年4月号にかけて連載した、ホラー・テイストの傑作サスペンスです。 悪漢の正体暴露が早すぎる点(全体の3/4ほどで明かし、残り1/4が、クライマックスの見せ場を含む、長い大団円)が、子供の頃は不満だったのですが・・・ あらためて読み、よくよく考えてみれば、これは、 主人公がカゲでこっそり調査して犯人の目星をつけるも、物証が無いため、わざと犯人に被害者を襲わせ、トリックを押さえて現行犯逮捕を狙う(終盤、警察官のレストレードが招聘されるのはそのため) そんなお話なのですよね。 およそ、「モルグ街の殺人」「マリー・ロジェの謎」「盗まれた手紙」に端を発する、論理による「謎解き型」小説の風上にも置けないわけでw ズバリ「本格」ではありません。 でも。 種明かしをともなった「サスペンス型」として見れば(前記のデュパンものよりは、ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』や横溝正史の『八つ墓村』と肩を並べるほうが、ふさわしいと思うわけで)、これはもう、無類に面白い。 全体を通して、「名探偵」ヒーローの威厳を損なうことなく事件解決を引き延ばす、ドイルの一世一代の語りの妙技と、これはもう、文句なしに素晴らしい、ムードの盛り上げを、素直に楽しむべきでしょう。 あ、「サスペンス型」と断じましたが、例によって、知的興味を喚起するエピソードの挿入はうまく、“片方だけ紛失する靴の問題”は、オカルト要素を排除するための伏線としても出色です。 また個人的に興味深いのは、作中の、ある人間関係の欺瞞。ホワイの部分の説得力はもうひとつですが、この、見た目と違う曖昧な関係は、ミステリ界における、のちのアガサ・クリスティー的(あるいはロス・マクドナルド的)騙しの戦術への道を開くものです。 それでも事件の解決が大味すぎて・・・とおっしゃる向きは、本作を補完する意味で、ピエール・バイヤールの『シャーロック・ホームズの誤謬――『バスカヴィル家の犬』再考』(東京創元社)を読むと良いかもしれません。「ホームズの推理は間違っていた」として、より合理的な別解が提示されています(これは、なかなか刺激的な本で、その別解自体より、それを踏まえた最終的な着地が美しい――いっぽ間違えると、松竹映画の『八つ墓村』ですがw――のは好印象)。 最後に。 この文庫版全集には、各巻ごとに、訳者の日暮雅通氏による解説とは別に、「私のホームズ」なるゲスト・エッセイが収録されていて、本書でそれを担当しているのが、島田荘司氏です。 「バスカヴィル家の犬と、忘れられた、バートラム・フレッチャー・ロビンソン」と題されたその文章は、本作成立の裏話(秘話)を、まるで目撃者の証言のように綴った、まことに面白い内容なのですが・・・ でもそれって、ひとつの「説」にすぎませんよね? なぜ出典を明示しないのですか? またそれを「事実」として紹介する前に、複数の資料にあたって、信憑性を吟味する作業をされたのでしょうか? 等、突っ込みどころが満載なあたり、やはり島荘だよなあw まあ、日暮氏の公正な文章が、その前に置かれているので、比較しながら、いかにも「作家」らしい主観的エッセイとして、おおらかに楽しめばいいのでしょうがね。 |
No.4 | 9点 | シャーロック・ホームズの回想- アーサー・コナン・ドイル | 2011/09/27 11:44 |
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ホームズ譚のターニング・ポイント(第一期 完)となった『回想』(1893)を、光文社文庫<新訳シャーロック・ホームズ全集>で読み返しました。
前作『冒険』の収録作に続いて、『ストランド』誌に発表された十二篇が収められています。え、十一篇じゃないの? とおっしゃるアナタは鋭い。 連載再開後の二作目「ボール箱」は、不道徳な内容になったと反省したドイルの意向により『回想』から省かれ(米版の同書初版にのみ収録)、1917年になって、ようやく第四短編集『最後の挨拶』に再録されたという、いわくがあり、それを本来の発表順に戻して『回想』で読めるようにしたのが、光文社文庫版なのです。 そして、筆者はこのカタチを支持します。 作品数が、『冒険』と対になって美しい、というのが、まずあります。そして何より、作品を順に並べることで、○を許せなかった男の悲劇である「ボール箱」(眼目は、シリアスな「犯人の物語」ですが、ミステリとしては、××の取り違えの趣向が面白い)のあとに、○を許す感動的なエンディングの「黄色い顔」(ホームズの思い込みが外れる、プレ・アントニイ・バークリーのような側面も興味深い)が来る、対照の妙が素晴らしい、というのが最大の理由です。 『回想』をあるべき姿に復元した、訳者の日暮氏に感謝するゆえんです。 さて。 筆者はホームズ譚の本質を、「名探偵」というヒーローの活躍を描く冒険譚と考えます。小説形式はほぼ一定でも、演出上の力点をどこに置くかで、それが謎解き型になったり、サスペンス型になったり、クライム・ストーリー型(「犯人の物語」に主眼がある場合ですね)に変化すると思うわけです。 そんなホームズものの、では短編ベストは何か? と聞かれたら・・・悩ましい問いではありますが、筆者は謎解き型、つまり「本格」大好き人間なので、答はこうなります。 『回想』の巻頭作だよ。 そう、「名馬シルヴァー・ブレイズ」です(個人的には、「白銀号事件」ないし「銀星号事件」という訳題に愛着がありますが・・・競走馬の名前ですからね、カタカナ表記は妥当でしょう)。 「犯人」の計画の破綻からスタートする事件の組み立て、混在するふたつのベクトルを、それぞれ「足」と「頭」で整理するホームズ像、そして解明のためのデータ提出のうまさ(○をめぐる有名なセリフのやりとり、その前提となるのは別々なふたつのデータなのですが、その最初のデータの出しかたには舌を巻きます)――トリック重視の「黄金時代」を飛び越え、かの都筑道夫が提唱したモダーン・ディテクティヴ・ストーリイの萌芽すらもった、傑作です。 中盤、「グロリア・スコット号」「マスグレイヴ家の儀式書」と、ある意図をもって若き日のホームズの肖像を描出した作者は、「ギリシャ語通訳」でホームズの兄を登場させるという布石を打って、ラストに「最後の事件」を持ってきます。 シリーズの商業的な成功にもかかわらず、文学的な観点からもっと野心的な作品を書きたいと考えたドイルは、過度の思い入れもなく、淡々とホームズ譚を閉幕させました。その素っ気ないくらいの筆致が、逆に、言葉に尽くせないワトスンの無限の悲しみを感じさせる――とまで言うのは、まあ、いくらなんでも贔屓の引き倒しですねw 「赤毛組合」や「まだらの紐」といった、問答無用の代表作を配した『冒険』にくらべれば、やや華に欠けるとは言えますが、極彩色ばかりが全てじゃない。 モノトーンで統一された本書も、殿堂入りたるにふさわしい、永遠の書です。 |
No.3 | 10点 | シャーロック・ホームズの冒険- アーサー・コナン・ドイル | 2011/08/22 13:46 |
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光文社文庫の日暮雅通・個人全訳で読み返すホームズ譚、その第三回は、シリーズ(そして作者)を一気にブレイクさせたファースト短編集です。創刊されたばかりの新雑誌『ストランド』の1891年7月号から、翌年6月号まで、毎月、読み切り連載された――最初は6篇の契約だったのが、圧倒的な好評に、急遽あと6篇の追加が決定された――黄金の1ダースです。
日暮氏の訳文は、たとえば旧来“ジプシー”と訳されていた人々が“ロマ”とされているように、アップツーデートなもので、古典らしい格調には欠けますが、読みやすさは一品。19世紀のお話が、新作の時代小説のように読めます(平易な注釈が巻末にまとめられているのも良し)。 中味のほうは――けっして緻密に構想された作品群ではなく、ある意味、ストーリーテラーが馬車馬のように商売に徹した成果なわけですが、縛られた形式のなかで変化を考えていくことで、イマジネーションと話術が高まり、ドイルの探偵作家としてのセンスが開花していきます。 巻頭の「ボヘミアの醜聞〔スキャンダル〕」を見てみましょう。 ポオの「盗まれた手紙」を換骨奪胎した、貴重な写真の奪回作戦。 ゴージャスな依頼人、ヒーローV.S.ヒロイン、加速するストーリー、変装とアクション、初回にして予想外の決着・・・いや面白い。こりゃ人気がでるわけですわ。 「きみならどうやって探すんだい?」 「探したりはしない」 「じゃあ、どうするんだ?」 「本人に場所を教えさせるのさ」 これこれ、このやり取り。この謎かけからクライマックスへ一気にもっていくのがドイル流。隠し場所は(ちょっと分かりにくい場所なら)別にどこでもいいw 「魅力的な謎」と「意外な解決」のあいだ、小説の構造上、どうしてもダレがちなところをどう面白くつなぐか、その技術において、ドイルは卓越しています。 つまるところ、ポオのデュパンもので中核に置かれていた推論行程を継承せず、探偵の身体的活動、“冒険”の興味で引っ張るわけですが、先の引用でわかるように、ポイントでは知的興奮を喚起することを忘れません。 「すると道を訊ねたりしたのはあの男を見るためだったのかい」 「あいつを見るためじゃない」 「じゃあ、何を?」 「あいつのズボンの膝さ」(「赤毛組合」) 「でもね、ようやく解決への鍵をつかんだんだ」 「その鍵はどこにあるんだい?」 「浴室さ」(「唇のねじれた男」) とはいえ一篇一篇を取り上げればムラもありますし、あるいは最上の作品といえど、プロットを批判的に分析したら論外となるかもしれません。たとえば――アレはそんなふうに飼育できないの、非科学的じゃん!!! なるほど。でもね、人間がアレに対する生理的嫌悪感を無くさない限り、あのお話は、そのショックと悪夢のようなリアリティを失わず、読み継がれると思うんだよね。 そう、いにしえのお伽話のように。 よくある“完成度が高い”といったレヴェルをはるかに超え、探偵小説の神話的イメージを封じ込めた本書のような作品を評するには、やはりこの一言がふさわしいと思います。 曰く、偉大。 |
No.2 | 6点 | 四つの署名- アーサー・コナン・ドイル | 2011/06/13 17:32 |
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英米で同時に発売されていた、Lippincott's Monthly Magazine の1890年2月号に掲載された、ホームズ譚の第二作を、引き続き光文社文庫版(日暮雅通訳)で読み返してみました。
『緋色の研究』が、犯人を罠にかけて急転直下の解決をみせたのち、作者が事件の背景(於アメリカ)をじっくり語り、ホームズの謎解きで一瀉千里に締めたのに対し、本作は、話の推移とともに段階的に推理が開陳され、やがて興味は追跡劇へと移行し、逮捕後に犯人の口から事件の背景(於インド)がざっと語られて幕となります。 「犯人の物語」の混ぜ込みかたは、このほうがスッキリしているとも言えますが、力点の置き方が冒険小説寄りで(クライマックスは水上のチェイス)、「探偵の物語」としては、最後にもうひとつ、何かサプライズが欲しい。 事件の性質も、前作が、ある種の都市型犯罪であったのに比べ、こちらは『月長石』(東洋の、盗まれた宝石の因果噺)と「モルグ街の殺人」(“抜け穴”から、とんでもないものが闖入してくる密室もどき)のちゃんぽんのような古風さで・・・。 個人的に、アチラの小説には珍しい、“屋根裏”のエピソードは好きなんですがね。足跡発見のくだりとか、乱歩が大正14年(1925)に例の短編を書いたとき、潜在意識下には、本作があったと思うのですよ。 あとまあ、『四つの署名』のウリといえば、ワトスンの恋か。なんか、とってつけたようなロマンスで、どうでもいい――とこれまで思ってきたんですが、じつは今回、オシマイ近くのワトスンのセリフが、はじめてストンと胸に落ちました。 「これで、ぼくらのちょっとした芝居の幕もおりたわけか。 きみの方法を研究するのも、この事件が最後になるかもしれないよ。(以下略)」 なんだドイル、これを言わせたかったのか。つまりはこれ、ホームズ終了のフラグ。記録者が○○していなくなるから、続きはもう出ませんという、ミステリ史上前代未聞のケース! うん、ドイルはやっぱり、マジメな歴史小説のほうにいきたかったんだなあw 『ストランド』誌にホームズ短編の読み切り連載を始めるのは、この一年後。その心境の変化をアレコレ考えるのも一興です。 |
No.1 | 7点 | 緋色の研究- アーサー・コナン・ドイル | 2011/06/05 18:03 |
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ポオに続いてドイルを読み返そうシリーズw に着手します。
ホームズ譚は、わが心の古里。繰り返し読んだ、延原謙訳の新潮文庫版に愛着がありますが、今回は、光文社文庫の<新訳シャーロック・ホームズ全集>をテクストにします。積ん読本の消化が狙いw ただし、この日暮雅通訳は、短編集と長編の配列が変則的なため、原作の刊行順に整理して、読みなおしていきます。 というわけで、まず1887年に Beeton's Christmas Annual に掲載された本作。 傷痍軍人のワトスンが変わりもののホームズと出会い、ベイカー街221B で共同の下宿生活をスタートさせるが、相手の職業が、警察のコンサルタントも務める「諮問探偵」であったことから、たまたま発生した空家の怪死事件(外傷のないアメリカ人の死体、壁に残された謎の血文字)に関与していくことになる――という、おなじみの一席。 謎を解き犯人逮捕にいたる、ロンドン篇の第一部(ワトスンの回想録)と、一転してゴールド・ラッシュ以前のアメリカ西部を舞台に、モルモン教徒による王国建設を背景にした、サスペンス調ウエスタンになる第二部(第三者――出版代理人のドイル?――による物語化で、最後にまたワトスンの回想録で締めくくられる)で構成されているのも、ご存じの通り。 ポオ(バディ視点で探偵キャラを描く黄金パターン)とガボリオ(謎解きに「犯人の物語」を付与することで長編サイズをもたせるプロッティング)のブレンドで、オリジナリティはありませんし、構成、推理、フェアプレイ、もろもろの面で前近代的。 しかし、簡潔な文章と的確な人物スケッチ、そして力強いストーリーテリングは、小説全体に活気を与えており、お話の流れを承知していても、読み返すのがじつに楽しかった(日暮氏の訳文も、きわめてクリアな印象を受けます)。 思わず、不朽の名作とか言ってみたくなりますよ。 そんな自分を戒めるためにw 幾つか気になった点を書きとめておきましょう(露骨なネタバラシはしませんが、万一、未読の向きは、以下、スルーされたほうが良からん)。 第一部では――犯人の正体が、あなた誰? 的な“群衆の人”であることは、最初の殺人が、大都会における“職業利用の犯罪”として描かれているだけに、必ずしも欠点ではありませんが、その趣向が次の殺人に活かされていないのは不満(それを改良したのが、エラリー・クイーンの1932年のあの名作か)。 そして何より、犯人がベイカー街221B に誘い出されて逮捕されるプロセスが不自然。だって、以前に新聞広告による罠(仲間の「女装」のエピソードを想起されよ)が実施された、同じ場所なんですから・・・。 第二部のほうは――根本的な問題として、モルモン教という実在の宗教の描き方があります。当初、いろいろ問題のあった宗教にせよ、ここまで邪教(“正統的”キリスト教徒の偏見がコワイ)あつかいするのであれば、名前は変えましょうよ。指導者も、ブリガム・ヤングではなく、ブリガム・キングにするとか。 あと、邪教の神秘を匂わす「密室」の謎が、放置されたままなのは、いかがなものか。そう、カウントダウンする警告の数字の問題です。誰がどうやって出入りして、メッセージを残したのか? つまらなくてもいいから、なんらかの合理的な説明は欲しいですよ(内部の使用人の手引によるものかな・・・とは思いますが、さて?)。 でも。 採点は、なんだかんだいって、エバーグリーンの魅力には勝てずw 7点からのスタートとなります。 |