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ミステリの祭典

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一人だけの軍隊
ランボーシリーズ

作家 デイヴィッド・マレル
出版日1975年01月
平均点7.00点
書評数2人

No.2 7点 クリスティ再読
(2019/08/23 21:42登録)
原作は初読だが、映画は何か懐かしい。1982/3年の年末・お正月番組で大本命「E.T.」のライバルに配給の東宝東和が祭り上げたんだった。もちろん興収は「E.T.」に敵うわけなくても善戦し、そこらも単身で軍隊に挑むランボーらしさみたいなものがあったなあ。
で原作は映画とは結構別物。ランボーはベトナム従軍で「壊れた」男で、ケンタッキーの田舎町で不当な扱いを受けたことで「スイッチ」が入ってしまい、田舎町の警察と州兵を敵に回すことになる。最初から破滅上等で、殺る気マンマン。このランボーの殺気にアテられて、朝鮮戦争に従軍した警察署長ティーズルも「スイッチ」が入ってしまって、本気の殺し合いになる...結果、田舎町がほぼ壊滅。闘争本能ムキ出しで地獄に落ちる、それこそ「Hellsing」があたりに近い話だ。
だから映画でのスタローンの本意じゃなくて、身に降りかかる火の粉を払うために闘争に巻き込まれていくみたいな、甘ったるいことはない。ベトナム後遺症で自ら望んで地獄に飛び込む話で、巻き添えを喰らう周囲は大迷惑にも程がある。まあもともと、映画だって「ディア・ハンター」とか「帰郷」とか「地獄の黙示録」みたいな70年代の「悪夢なベトナム」の一連のテーマに沿ったベトナム後遺症ネタ娯楽作品、というかたちで元々は紹介されていたわけで、映画でも「投降しない」バージョンが撮影されたそうだしね(映像特典に付いてくるらしい)。
映画シリーズはタダのウヨクなヒーロー物にどんどんなっていくが、理屈のつかない原作の理不尽さはまさに地獄絵図。ランボーもティーズルも馬鹿馬鹿しいくらいに悲惨な戦いを止めない(止めようともしない)のが、いい。原作の方がずっと優れている。

No.1 7点 Tetchy
(2012/05/26 22:15登録)
一読して驚いたのはランボーの敵役の警察署長ティーズルがいわゆる田舎町を牛耳る悪徳署長などではないことだ。
ランボーを町から追い出そうとしたのも身元不明で怪しい身なりの人物が町をうろつくことで住民が不安を覚え、治安が乱れるのを防ぐためだし、またランボーを追うことになったのも彼が目の前で自分の部下を殺したからだ。また彼は朝鮮戦争を経験した後に警察署長としてマディソンに戻ってき、警察機構として機能していなかった署の改善に尽力してきた人物でもある。つまり至極まっとうな人物なのだ。
片やランボーはヴェトナム戦争で捕虜になり、そこから生還した元グリーンベレー。名誉勲章も得たが捕虜になった時の経験で心が壊れた状態になっている。
従って署に運ばれた時に髪を切り、ひげを剃られる時に捕虜で受けた拷問を思い出し、とうとう耐え切れなくなり警官から剃刀を奪って殺害し、逃亡してしまうのだ。そこからはグリーンベレー時代のことを思い出し、人を殺すことへの罪悪感も薄らぎ、逆に追ってくるティーズルら一味を皆殺しにすることを決意する。
そう、通常の物語構造から云えばランボーは元グリーンベレーでヴェトナム戦争の時に抱えたトラウマでおかしくなった殺戮マシーンであり、それを追い出そうとする警察署長ティーズルらは彼のターゲットとなり、善と悪で云えばティーズルが善、ランボーが悪なのだ。これは映画の構造と全く逆で驚いた。まさに価値観の転換である。

これはランボーとティーズル2人の物語なのだ。あまりにも有名になってしまった映画のためにこの作品の本質は多くの人間が誤解を招いてしまっているように感じる。

しかし映画と小説は別物だという主張もある。ハリウッドはこの作品の設定を借りて映画史に残るアクションムーヴィーを作り、成功した。作者の意図や希望がそれに合致したかどうかは寡聞にして知らないが、それもまた良作故の功罪か。

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