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ミステリの祭典

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ジェニーの肖像
別題『ジェニイの肖像』

作家 ロバート・ネイサン
出版日1950年01月
平均点6.50点
書評数2人

No.2 7点 弾十六
(2019/01/26 03:34登録)
1940年出版。初出は月刊誌Redbook Magazine1939-10〜12、三回分載。創元文庫2005年で読みました。
どー考えても変な設定ですが、みんなが憧れる芸術家の世界を詩情あふれる文章で描いているので、なにもかも許せそうです。世界をまるごと受け入れなければならない子供の感性で読みはじめるべき作品だと思いました。(だんだん作品に引き込まれ変な設定は気にならなくなります) 情景描写が素晴らしく、冒頭の寒そうな冬景色は、札幌が現在マイナス7度なので、とても身体に響きました。(今、結構金欠なので貧乏描写も身につまされます)
25ドルは消費者物価指数基準1938/2019で17.82倍、現在価値49485円。
最後の日付の意味がよくわかりません… (原文のコピーライトは1940年。ということは手直し、ということではなく、最初から、そーゆー設定だったんですね。あの時は若かった、というような記述もありますから…)

(追記) 歌が二つ。
p16 Where I come from Nobody knows; And where I’m going Everything goes. The wind blows, The sea flows — And nobody knows.(多分Nathanのオリジナル)
p139 I dream of Jeannie with the light brown hair(Stephen Foster 1854)

(追記2019-1-27)
p14 ハマースタイン ミュージック ホールは何年も前、ぼくが子どものころに取りこわされたんだ。(Hammerstein Music Hall had been torn down years ago, when I was a boy.): 実在のHammerstein’s Olympia Theaterのことなら1895年開業、1898年にハマースタインが手放し、建物は二つの劇場に別れた。1935年取り壊し。子どものころ、は作者4歳のとき、ということか。(主人公は20代なので合わない)

併載の「それゆえに愛は戻る」(初出Saturday Evening Post 1958-9-13〜9-27、三回分載)は今読む気が全くしないので、読んだら追記します。

(追記: 他の方の書評は後で見るたちです)
映画化されてたんですね! ぜひ見たい。ツタ●にあるかなぁ。(どうやら品切れ絶版のようですね)

No.1 6点 人並由真
(2018/07/24 06:48登録)
(ネタバレなし)
 1938年冬のニューヨーク。27~28歳の貧しい無名画家イーベン・アダムスは、セントラル・パークで古めかしい服飾の黒髪の美少女ジェニー・アップルトンに出合う。まだ子供ながらどこか人を引きつける魅力のジェニーとはそれきりの出会いだったが、彼女をモデルにイーベンは肖像画を描き、それはなじみの画商ヘンリー・マシウズの評価を得た。勢いづいたイーベンは、友人でユダヤ人のタクシー運転手ガス・メイヤーなどの応援を受けながら画業に励み、やがて彼は自分に好機を授けてくれた少女ジェニーと再会する。だが彼女の言動はどこか奇異な印象があり、そしてその容姿は前回に比して不思議なほどの成長を見せていた。

 1939年に原書が刊行された、今さら説明の要もない時間&恋愛ファンタジーの名作。
 ジェニファー・ジョーンズとジョゼフ・コットン主演の映画も大昔に観て泣いた、それよりはるか昔に本作を下敷きにした石ノ森(石森)章太郎の少女漫画の大傑作短編『昨日(きのう)はもうこない だが (明日)あすもまた……』にも魂を揺さぶられた。しかし肝心の原作はようやっと、昨日読んだ。

 正直、大筋はもうわかりきっている作品なので、細部を賞味することが今回の読書の実動になるのだが、きわめて当たり前のことながら、すべての原点のこのオリジナルの小説にはまた独自の良さがある。イーベンの借家兼アトリエを訪ねたジェニー(3段階目になるのか?)が自分から掃除を買って出てすすだらけになる、本当に刹那ながら小さな幸福の、萌え描写とかなんとか。
 あと、Wikipediaを観ると映画ではジェニーの姿はイーベンにしか見えず、大家のジークス夫人や友人のガスには視認できないという潤色がされてたそうだが’(そうだったっけ)、小説ではイーベンのみならず彼の周囲の面々とジェニーとの相関もちゃんと書かれている。ただしジェニーとは、ジークス夫人から見てあくまで「イーベンの元に来るモデルで恋人らしき娘」であり、ガスから見てもまぎれもなく「友人イーベンの彼女」なのだ。主体として関わり合える人間は結局はイーベンのみ。そこまで読み取ったとき、映画の脚色が当を得ていることはわかる。
 
 小説版の独自の輝きで、イーベンの友人ガスの描写が妙に心に残った。イーベンはジェニーへの恋心を自覚して、その思いの熱量を画家の才能の開花に変えていくのだが、そのとき、今までは本当にちょっとだけタクシー稼業での儲けがあってイーベンに食事をおごり、時には仕事を世話して、貧しいが才能のある友人を支えてきていたガスは居場所を失う。もう友人に自分は必要ないという心の痛みを感じ、そして友人が世の中に浮かび上がっていくなかで、自分だけ置いていかれるんだという切ない寂寞感にも捕らわれる。ガスの心情は、イーベンとジェニーの物語の本筋には関係ない。でもこういう部分にちゃんと、あるいはいつのまにか? 筆を費やしてしまうネイサンの作法ってなんかいい。

 石森作品、映画版、そして小説という順番で接してきた自分は、もしかしたらとても幸福だったのかしらん。時間はかなりかかったけれど(苦笑)。

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