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ミステリの祭典

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悪童日記
双子

作家 アゴタ・クリストフ
出版日1991年01月
平均点6.50点
書評数2人

No.2 5点 メルカトル
(2024/11/20 22:25登録)
相変わらずAmazonの評価の高さが信じられない作品の一つ。おそらく私の感性が本作と合わなかったか、或いは自身の読解力の無さに起因すると思われますが。
物語は第二次世界大戦の影が色濃く感じられるヨーロッパのどこかの国が舞台。一切固有名詞が使われていないので、これは解説からの受け売りです。父親を知らず祖母に預けられた幼い兄弟が主人公で、一人称はぼくら。つまり双子のうちどちらでも良いわけで、これが又感情を殺した筆致で描かれ、喜怒哀楽が全く見えません。何を考えているのかは解らない訳ではないですが、どう感じているのかは全く書く気がないのか、故意にそうする事で何かをぼやかそうとしているのか、私には理解出来ません。

一方、双子をこき使い乱暴な言葉で叱責したりするおばあちゃんは実によく描かれています。この人の魅力で支えられている部分が大きく、その意味では準主役と言って良いでしょう。
しかし、私には一つだけ腑に落ちない謎が残されていて、それが気になって仕方ありません。何故なんだと、どうしてなんだと。まあ書かれていないのだからどうしようもありません。最後の章は面白かったです。と言っても各章が2ページくらいですけど。

No.1 8点 tider-tiger
(2020/01/04 02:09登録)
~ぼくらはお母さんと離れて、おばあちゃんと一緒に暮らすことになった。おばあちゃんはぼくらを「牝犬の子」と呼んで、あまりかまってくれない。だから、ぼくらは生きる術を自分たちで学ばなくてはいけない。~

1986年フランス。亡命ハンガリー人故アゴタ・クリストフ女史の双子三部作の一作目です。続編『ふたりの証拠』『第三の嘘』と読み進めていくとミステリ的な要素が顔をのぞかせますが、ここではあくまで『悪童日記』を単体で書評します。内容にはあまり触れません。
第二次大戦末期、オーストリアの国境に近いハンガリーの田舎村が舞台のようです。この背景だけでも双子の前途が多難であることが予想されます。双子はここで己を律し、鍛錬し、生きる術を学び、日々の出来事を『大きなノートブック※後述』に綴っていきます。
少年たちのサバイバル小説であり、ハードボイルドに分類してもそれほど大間違いではないように感じてしまった作品です。

この『悪童日記』なる作品がいったいなんなのか未だによくわかっておりません。面白いということだけはわかっておりますが。
とりあえず書き出しで特異な点その1に気付きます。
~ぼくらは、<大きな町>からやって来た。一晩じゅう、旅して来た。~
そう。一人称複数視点(ぼくら)で書かれています。一人称複数視点の歌詞はしばしば見かけますが、小説ではあまり見ない形式です。視点が「ぼくら」では物語が進むにつれて不都合が生じそうなものですが、そんなことはありません。なぜなら、作中この双子は区別されないのです。
さらに読み進めると、即物的で幼稚な文章、心理描写の徹底排除にイヤでも気付かされます。この点について、双子は『大きなノートブック』の中で言及しております。
すなわち、~ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。たとえば、「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことは禁じられている。しかし、「人々はおばあちゃんを<魔女>と呼ぶ」と書くことは許されている。~ということだそうです。前者「魔女に似ている」は主観が多く混じっているが、後者「<魔女>と呼ぶ」は紛れもない事実であるからです。

本作の原題は『Le Grand Cahier』直訳すると『大きなノートブック』だそうです。悪という言葉は曖昧であり、双子が悪童かどうかは事実なのかわからない。本作で語り手が自分に課したルールとは相容れない邦題だということは指摘しておきたいです。
ただ、作者自身このルールをどれほど突き詰めて考えていたのか疑問も残ります。
『大きなノートブック』という表現も厳密にいえば主観が混じっています。
例えば「先生は怒った」という文章があります。これは以下のように書くべきです。
→先生は辞書を机に叩きつけて『大きな』音を立てた。
大きな音というのはあなたの主観で他の生徒はさほど大きな音だとは思わなかったかもしれない。先生はそんなに大きな音がするとは想定していなかったかもしれない。以下のように直しましょう。
→先生は辞書を机に叩きつけた。
叩きつけたというのは、あくまであなたの目ではそのように見えただけであって先生はただ置いただけのつもりだったのかも……キリがねえぞ。やめだやめだ。
新聞は事実だけを伝えるべきだと簡単に言う人がいるし、私もそれはそう思うのですが、事実だけを淡々と述べるのは実は非常に難しいのです。
なぜアゴタ・クリストフはこのような書き方を選んだのか。
亡命者である彼女はフランス語がまだまだ未熟だったので、複雑な文章を書くことができなかったからだと述べているそうです。
一人称複数視点もそうなのですが、なんかこう、場当たり的な感じなんです。
真に悲惨な出来事は事実のみを述べればそれで充分に感化的であり、興味深い話は淡々とそれを書くだけで充分に面白い。そのことが如実に表れている作品です。どこまで計算が働いていたのかよくわかりません。
そんなわけで本作は非常に優れたエンターテイメントであります。文学的な技法が存在しないことで逆に高度な文学性を備えているようにも映ります。
しかも、私の中ではハードボイルドになってしまいました。
そんな不思議な作品です。

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