皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
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[ 社会派 ] キリストの石 改題『女と検事』 |
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九鬼紫郎 | 出版月: 1960年12月 | 平均: 4.00点 | 書評数: 1件 |
日本週報社 1960年12月 |
新流社 1963年01月 |
No.1 | 4点 | 積まずに読もう! | 2024/09/04 13:40 |
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あらすじ】
(できるだけ今後の読書の興を削がないように要約したつもりですが、嫌な人は注意してください) 地方を経て東京地方検察庁に任官した若手検事、安西光男は熱海在住の八代家の援助を得て大学を卒業し、司法試験に合格した。朝子と友子の姉妹とも家族のように扱われたが、やがて八代家は経済的に困窮し、5年前に当主は亡くなった。それら事情もあり、姉の朝子は親子ほども歳の違う、二流ではあるが鉄鋼商社を実質支配する関口功介に嫁ぎ、友子は関口の経済的な恩恵にもと、関口の息子一郎やその取り巻きとともに享楽的に暮らしている。 ある日朝子に呼び出された光男は友子が光男のことを愛しており、結婚を望んでいることを告げられる。友子にせがまれて仕方なく伝えに来たという朝子と自分は当分の間妻帯するつもりはないとその話を即座に断る光男。二人の微妙な駆け引きは一旦棚上げされるが、それとは別に、朝子は光男にある奇妙な依頼をする。朝子は明言しないが、ある人物が朝子を脅迫していることを光男は察知する。 一方検事としての光男は22歳の日高月江をどのような形で起訴するか迷っていた。胆振(いぶり)郡白老村から室蘭を経て東京に出てきた月江は、大学生に騙されて生まれた子供を殺害遺棄し、友人から指輪や時計を窃盗していたが、情状酌量の余地があった。量刑を上席検事である永田に相談したところ、クリスチャンである永田は「汝らのうちに罪なきもの 石をもてこの女を打て」というキリストの言葉の下に、なぜか光男の想定よりはるかに軽い量刑を主張する……。 【感想】 (出来るだけ配慮していますが、ネタバレが嫌な人は注意してください) 甲賀三郎の弟子筋で、雑誌『ぷろふいる』編集長であった九鬼紫郎は戦前戦後創作活動も行っていましたが、時代小説を除いてその作風、キャリアは推理小説作家、というよりやはり探偵小説作家と呼ばれるのにふさわしいのではないかと思われます。年配の方とお話しすると、昭和50年代初期に刊行された『探偵小説百科』をガイドにしてミステリにハマったという人が結構多いです。九鬼の著作で比較的入手しやすい『大怪盗』や幻影城掲載の『ファイル1の事件』を読む限り、両作とも本人はシリーズ化を目論んでいたように見受けられますが、着想は良いものの、未整理な部分や説明不足の個所、描写があいまいでイメージがし難い小説という印象があり、「回顧されることはない」だろうな、と思っていました。 たまに市場に出ると眼が飛び出るほど高値で売り出される『キリストの石』ですが、いわゆる清張以後の昭和35年に出版されたものであるだけに、探偵小説的ではなく推理小説的に物語は結構されています。そういう意味で極めて日本的な「本格ミステリ」は期待しないほうがいいです。ただ戦前派のひとりである九鬼が、いままでの通俗的な二流スリラーから脱却し、社会派の手法や人間性をテーマに「推理小説」を書こうとした、意欲的な作品であることだけは間違いないと思われます。 ただその「意欲」が実を結んでいるかと問われると、なかなか難しいものがあります。本作は数年後『女と検事』と改題されて再刊されているようですが、そもそも作者が目指した(であろう)司法官僚ゆえの検察官の苦悩、というものが本当に薄っぺらにしか描かれていません。確かに彼らは悩みつつ行動しますが、それらは全く個人的、利己的な理由であり、読む者を共感させてくれる部分が全くありません。検察官としての行動のリアリティもかなり薄いです。このネタがミステリとしての謎やテーマに効果的に作用していればまだ納得できるのですが、これも今一つです。 今一つといえば、この小説のもう一つの社会的テーマについても、その扱いははなはだ疑問です。ストーリーにあえてこのセンシティブな問題を取り入れるなら、もう少し掘り下げて、物語に対して密接に結びつけることができるのではないかと思われます。この小説においてこの主題は「悲しい」「哀れ」の記号としてしか作用していません。今の感心させどころ、泣かせどころで読者を煽りまくる作家群と比較してはならない、という声も聞こえてきそうですが、この当時既に松本清張、土屋隆夫は無論、結城昌治、笹沢佐保もデビューしています。数年後高木彬光が同様のテーマで謎解きもストーリーもこってり堪能させてくれる(ちょっと暑苦しいが)、『検事 霧島三郎』を著しましたが、やはり発表された当時においてもこの作品は古びたものではなかったでしょうか? ミステリとしての謎構成も、頑張っているのですが全て見通しがついてしまいます。 この作品は新東宝系の俳優を使って(なぜか大映配給)『嫉妬』という題名で映画化されていて、Amazonプライムで無料だった時期に見ましたが、1時間ちょっとの典型的なプログラムピクチャーながら、かなり原作に忠実で新東宝のスタッフが作ったとは思えない(失礼!)、端正な内容となっています。前述の『霧島三郎』も後年映画化されましたが、主役が両方とも宇津井健であるところはご愛敬です。 |