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ミステリの祭典

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マンハッタン英雄未満
ベートーヴェン&土方歳三 シリーズ番外編

作家 森雅裕
出版日1994年05月
平均点6.00点
書評数1人

No.1 6点
(2020/04/17 07:08登録)
 一九九三年九月×日、ニューヨーク。ジュリアード音楽院卒のガチクラシック畑からロックの泥沼に転向した日伊混血兼バツイチの青江珠音(ジュネ・アオエ)は、同境遇の黒人ローター・ブラウナーと共に、聖ジョン大聖堂のスープ・サーヴィス行列に混じっていた。ブラウナーの話では前衛芸術家を後援する大聖堂(ビッグ・ジョン)が、ジュネと話したがっているのだという。だが七つの礼拝堂の地下で責任者のマウザー司教とカルメット司祭が語る話は驚くべきものだった。
 まもなく五歳になる男の子、密かに教会内で育てられていたメシア、世界を救う救世主が何者かにさらわれたのだ。さらったのはおそらく悪魔たちで、彼らの狙いはその抹殺。だが不滅の存在であるメシアには、何者も手を触れることはできない。
 いきなりのオカルト談義に早々に辞去しかけるジュネだが、「誘拐されたのは君の子供だ」との司教の言葉に彼女は立ち止まる。生まれたばかりのメシアは死産と偽りジュネから引き離され、教会の手で育てられていたのだ。彼は私立探偵フィリップ・マーロウに因み〈フィル〉と名付けられていた。
 通常の手段では殺せないメシア。だがその魂が汚されれば、彼は死ぬ。メシアでなくすること、汚すこと。それができるのは母親の血。つまり、次に悪魔たちが狙ってくるのはジュネなのだ。
 悪魔の魂を倒すことができるのは聖なる音楽、悪魔の肉体を倒すことができるのは聖なる剣のみ。ヴァチカンはジュネを守護し救世主フィルを奪還するべく時空の彼方に回路を開き、一八〇二年のオーストリアから楽聖ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンを、明治二(1872)年の函館から元新撰組副長・土方歳三を現世に呼び出す。果たして彼らに聖母ジュネを加えた混成チームは、悪魔の手からフィルを取り戻せるのか?
 1994年に新潮社から刊行された、『流星刀の女たち』の流れを汲むアクション編、というか凸凹トリオのビッグアップル珍道中記。ミステリ的な"敵か味方か"要素も一応含んでいますが、ベートーヴェンシリーズの番外編的な位置付けで分かるとおり、陰険漫才を縦横に駆使した田中芳樹的ファンタジー。『会津斬鉄風』など森氏のもう一つの顔である刀剣ものとも一部クロスする作品であります。

 その男は、後世の人間が思い描く姿よりはまだ若く(中略)、黒づくめで、シルクハットまでかぶっていた。脱走した囚人に間違えられぬほどにはお洒落だった。
 だが、不気味という意味では脱獄犯に負けなかった(中略)。人生は素晴らしい、などとわめいているのでないことは確かだった。彷徨い続けたこの半日、沼地に片足を突っ込むこと一回、転ぶこと二回、鳥の糞を頭上へ受けること一回、連れとはぐれることは現在進行形だ。弟子が一緒だったのだが、振り返った時にはいなくなっていた。

 冒頭でかように描写されるベートーヴェン氏が陰険なほどに慎重な土方歳三とコンビを組み(まんまパタリロとバンコラン)、カルチャーショックに目眩を起こしながら聖母を守り悪魔たちと戦うことに。「ずるいぞ、ジュネ! 土地勘も濡れた服の着替えもない私たちが、お前についていく以外に道なんかあるか!」という言葉の通り、まあ他に選択の余地なんぞ無いのですが。
 とはいえ苦楽を共にしせっぱつまった危機を切り抜けるうちに、なんだかんだと離れ難くなるのが世の常人の常。ヤンキースタジアムでの別れ際には結構しみじみします。笑って読めて、魔夜峰央氏の表紙絵もピッタリくる作品。問答無用の「俺はエイズだ!」も結構ウケました。

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