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ミステリの祭典

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ジェニー・ブライス事件

作家 M・R・ラインハート
出版日2005年04月
平均点5.50点
書評数2人

No.2 5点 人並由真
(2019/03/21 02:31登録)
(ネタバレなし)
 1912年。ピッツバーグのアレゲーニー川の下流周辺で下宿屋を営む「私」こと、エリザベス・マリー・ピットマン夫人(仮名)は、今年も恒例の洪水の災害に悩まされていた。そんなピットマン夫人は5年前、同じような洪水のさなかに起きた、下宿人の美人女優ジェニー・ブライスが行方不明となり、その殺人嫌疑がやはり間借り人のジェニーの夫フィリップ・ラドリーにかけられた事件のことを思い出す…。

 1913年のアメリカ作品。今年翻訳されたばかりの同じラインハートの新刊『大いなる過失』はまだ未読だが、そっちは解説込みで450ページ近くある大冊のようである。それに比べてこっちは巻末の訳者あとがきまで含めて全185ページ。しかも本文の級数が大きめな分1ページごとの文字数も少なそうで、もし二段組みのポケミスで出したらあのスピレインの『明日よ、さらば』より薄くなるんじゃないか、という感じである。

 とはいえ巻頭の解説(この時期の論創の翻訳ミステリは今と違って、巻頭に少なめの分量の解説「読書の栞」が付記されていた)を読むと本作は<殺人事件らしいがなかなか死体が見つからない><死体の発見後もそれが該当の人物か確認困難>という絞り込んだネタのパズラーらしい。だったら紙幅が短い分、焦点の定まった謎解き作品が期待できるかも…との思いで読んでみた。
 ちなみにこのレビュー内のあらすじで、主人公(物語の語り役)のピットマン夫人に「(仮名)」とついているのは、作品本文中で同人が本名ではないが、この物語の中では便宜的にその名を使う、という主旨のことを言っているからである。なんかこの辺のいきなりのメタ的なギミックの導入も、面白くなりそうだな、と思ったんだけど……。

 結果からいうと物語に起伏もなく、さしたるサプライズも用意されず、かといってそんな大きな創意があるわけでもなく、正直、ソコソコの出来。
 いや一応、当時の(あるいは19世紀の末からっぽい)ミステリらしいトリックも用意されているんだけど、これって作中のリアリティを考えると絶対に(中略)。
 大雑把に言えば、洪水、失踪、当人かどうか確定困難の死体、そして……といろんなネタを盛り合わせた作劇は悪くなかったんだけれど、演出で面白く見せられなかった印象。作品内の随所では、ミステリらしいワクワクは感じないでもないのだが。
 
 まあ、評者がこれまで読んできたラインハート作品にしても『黄色の間』みたいに結構イケるのもあれば『レティシア・カーベリーの事件簿』みたいにひたすら眠くなるものもあったから、この作者の著作は玉石混交っぽい面もある。それを考えれば本作はまあまあ、ではあった。

No.1 6点 mini
(2014/01/31 10:04登録)
先日23日に論創社からA・K・グリーン「霧の中の館」とM・R・ラインハート「レティシア・カーベリーの事件簿」の2冊が同時刊行された、グリーンの方は刊行前から当サイトに登録されたがラインハートの方はサスペンス小説だからなのか無視されていますが(苦笑)
論創がHIBK派の巨匠ラインハートを手掛けるのはこれが初めてではなく以前にも1冊出していた、ついでにHIBK派のもう1人の巨匠ミニオン・G・エバハートも1冊出しており、う~ん論創社手抜かりねえなぁ

さてそのラインハートの過去に出した1冊が「ジェニー・ブライス事件」である、これは以前に書評済だが一旦削除して再登録
ラインハートと言えばHIBK派を代表する作として有名な「螺旋階段」や作者の最高傑作の1つと言われる「ドアは語る」といった知名度のある作が有る
それらに比べて「ジェニー・ブライス事件」は論創で紹介されて初めて知った作だ
HIBK(もしも私が知っていたら)派については「螺旋階段」書評でも述べたが、古典的なサスペンス小説のテクニックの1つであり、何かと言うと目の敵にして悪者扱いする風潮は止めた方がいいと思う、大体そう言う人に限ってHIBK派を1冊も読んでなかったりするんだよな
ラインハートはサスペンス小説と割り切って読むなら一流の作家ですよ
ところがこの作が刊行された当時の評価は、やれ証拠や証言が後出しだとか、関係者がもっと早く話していれば無駄な紆余曲折は無かっただのと散々
こうした批評に共通しているのは明らかに視点が”本格としてどうか”という視点なんだな、それは見方が悪い
今時ウールリッチや今だとディーヴァーとかを本格視点で見る人は少ないでしょ、サスペンス小説とは要するに途中の紆余曲折こそが読ませ所なんだよな、無駄な紆余曲折じゃないんだよな
ところがどうやら海外古典マニアって人種は何でも本格派ばかりを求める風潮が強くてなぁ、現代作家だとサスペンス作家は本格とは違うと割り切って解釈するくせに、古典時代の作家だと全てを本格派として解釈しようとする
古典時代の作家・作品にもサスペンスやスリラー系統などいくらでもあるのに
考えて見ると、J・S・フレッチャー、エドガー・ウォーレス、サッパー、オップンハイムといった作家達は翻訳状況が不遇だが、従来の海外古典マニアはこうした作家達を全く求めてなかったんだよなぁ
論創社の今後のラインナップを見ると、今まで不当に無視されていたこれらの分野に目を付け始めている感じなので心強い、企画・編集者の一部が社内で人が変わったんでしょうか?

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