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ミステリの祭典

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テロルの決算

作家 沢木耕太郎
出版日1978年09月
平均点8.00点
書評数2人

No.2 8点 クリスティ再読
(2019/05/28 14:16登録)
沢木耕太郎というと、一定の世代のある種の人々にとって、「青春のカリスマ」というか「青春の教祖」みたいな存在だった。本作はというと、作者の出世作で大宅賞受賞のノンフィクションの名作である以上に、作者の20代をかけて取り組んだ「青春の決算」なのである。
本作が扱うのは、1960年に起きた社会党委員長浅沼稲次郎の暗殺事件である。これをテロを行った17歳の少年山口二矢と、当時61歳で社会党委員長となり安保闘争の一方の旗頭だった浅沼の経歴を丹念に綴って、この二人が交錯する一瞬を描いている。本作のキーワードはやはり「青春」である...というと、17歳の二矢はともかく、61歳の浅沼が?となるのだろうけども、「青春」が本作を読み解く最大のポイントなのである。
実際、この二人はそのストイシズムで似通っている。二矢はまったく逮捕を恐れずに安保デモに突っ込むし、浅沼も「いざとなったら寝ればいい」とその巨躯を活かして「人間バリケード」のように抵抗して何度も逮捕されている。我が身を顧みない捨て身の闘争者として共通するのだ。

コケイな議論理屈をこねる者は革命を毒するものだと知れ。モウ議論や理論は必要ではない。この後理屈をこねる者は敵と見做すぞ。何よりも実行が大切だ。

と書いたのはテロを行った二矢ではなく、浅沼自身なのである。
しかし、浅沼の革命は裏切られ、浅沼自身も身を汚す。浅沼が兄貴分と慕った麻生久は、左翼的な社会改造の手段として、近衛新体制を利用しようと考え、率先して戦時体制づくりに協力した。浅沼も麻生に同調して活動するのだったが、頼みの麻生はすぐに急死し、浅沼は自らの心情と立場の矛盾に苦しむ....この苦衷が戦後の浅沼の滅私奉公的な活動の駆動力であると、作者は見ている。
「行動」とはそれ自体として見たら空虚なものなのだ。まさにその空虚を埋めるためにさらに行動に駆り立てられ、過激化していくようなものなのだ。17歳にしてテロルを実行した二矢にも理論はなく、ただただ「行動」だけがある。この空虚はいかにしても埋められない....
浅沼は中国訪問によって、ユートピア的ビジョンを得るが、それを笑うことができようか。それは遅ればせながらの青春、悔恨に満ちた青春の狂い咲きのような蘇りを浅沼は見ていたのだ。その中国訪問の高揚の中で発した言葉は、右翼人士の憤激を買って浅沼は狙われる....それゆえ二人は「青春の昏い翳り」の中で交錯するのだ。

(評者そういえば文藝春秋に載ってた初回を読んだ記憶があるんだよ....高校生だったと思う。青春の空虚さの真っ只中)

No.1 8点 ZAto
(2009/11/02 23:13登録)
ミステリのサイトにルポルタージュをアップする大反則を敢えて冒したのは、戦前、戦後と時代の洗礼を浴び続けた社会主義の旗頭と、無垢で一途に生き急ぐ愛国少年という、立場も人生の経験もまるで違う両者が錆びついた短刀で瞬間的に交差する運命的な力学があって、そこに見え隠れする通俗的に出来過ぎたエピソードが十分にミステリのカタルシスだと思ったからだ。

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