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ミステリの祭典

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ノー・ネーム

作家 ウィルキー・コリンズ
出版日1999年04月
平均点9.00点
書評数1人

No.1 9点 shimizu31
(2022/08/14 00:26登録)
イギリスの裕福な上流階級ヴァンストン家の美しい令嬢姉妹ノラとマグダレンは愛情あふれる両親とともに幸せな家庭生活を送っていたがある日突然全ての財産と姓を失い(ノー・ネーム)自力で生活しなければならない境遇に転落してしまう。内向的で穏やかな姉のノラはそれを受け入れるが外交的で気性の激しい妹のマクダレンは我慢できず、詐欺師を自称する遠い親戚のラッグ大尉と手を組み失われた財産を取り戻すべく大胆不敵な陰謀を企てる。相手すべき敵は、プライドが高く狭量で世間知らずのノエルとその母親的な役割で長年仕えてきた狡猾なレカウント夫人。ラッグ大尉とレカウント夫人との騙し合いやバートラム海軍少将が隠し持つ秘密文書を巡る攻防の果てに最後の試練がマグダレンを待ち受ける…

臨川書店のウィルキー・コリンズ傑作選3(上巻)、4(中巻)、5(下巻)を読んだが、1頁上下2段組で3巻全部で667頁の大作である。上巻前半まではやや冗長であるがその後は次の展開が気になって下巻の最後まで一気に読めた。全体的にはゆったりとした進行で時間を贅沢に使っている感じであるが伏線もわかりやすく生き生きとした会話や手紙などにより各人物の心理や感情がきめ細かく描かれていく。陰謀を巡る推理も色々な可能性を一つずつ吟味していくといった本格的な謎解きの醍醐味がある。中巻まではゲーム感覚のようなやや深みに欠けるイメージがあったが下巻に入ってから特にバートラム海軍少将の屋敷での出来事のあたりからはユーモラスの中にも切迫感や重厚感があり見事な出来栄えとなっている。最後の謎も事前に伏線が描かれておりそれが最後の試練につながるという展開も格調高い。ロマンスに関してはやや安直な感じもするが読者へのサービスという面もあったのであろうか。

下巻の末尾にある「著者の序文」に「…この本は、善と悪という二つの相反する力の葛藤に苦しむ一人物の物語である」とあるように、名誉回復のための卑劣な行為への決意とそれに対する良心の呵責の間でもがき苦しむ主人公マクダレンの姿が濃密に描かれていく。また悪の面が強いラッグ大尉、ノエル、レカウント夫人についても善の部分が描かれる。善の代表ともいうべき老嬢の家庭教師ガース先生についても、ノラから「マグダレンはいつも先生のお気に入りだったのですから」と言われ自分の今までに疑念を抱き「まあ!わたし、この年齢になりながら、自分の弱さと卑怯さに今日まで気づかなかったのだわ!」(上巻p127-129)と言わせている。上記テーマの前触れとも考えられるこの場面は人間の苦悩の深さという点で感銘を受けた。

脇役陣も個性的な面々がそろっている。下宿の家賃も払えぬほど落ちぶれた状態で登場するラッグ大尉は「詐欺師とは…人間の同情という土地を耕す人」(上巻p189)と堂々と宣言する。善も悪も結局は似たようなものとするこの考え方は上記テーマの対極にあるといえよう。金儲けにドライに徹するプロではあるがホロリとさせるところもある。このラッグ大尉が「手ごわい邪魔もの」(中巻p17)と予言したのがレカウント夫人である。その登場シーンはなかなか印象的である。「…会ってみると、穏やかな人当たりのよい態度の婦人だとわかった。服装は最高に趣味がよく、きちんとした、質素な主婦に相応しい。顔つきは年齢に打ち勝って若さを保っているように思わせる。もし実際の年齢よりも十五か十六サバを読み、三十八歳だと言ったとしても、それを疑う者は男なら千人に一人、女なら百人に一人しかいなかったろう…」(中巻p35-36)という表現はユーモアを交えながらも凄みを感じさせるものがありこれからの展開を期待させる。このレカウント夫人とラッグ大尉との知恵比べが中巻のメインとなるが推理やサスペンスの点でミステリとして最も読み応えがある部分といえよう。

ラッグ大尉の妻のラッグ夫人は若干の知的障害を持つ身長190センチ近い巨人で、いつも周囲に迷惑をかけてしまって謝ってばかりいるという可哀そうな役どころであるが、マグダレンから「許して、ですって!あなたみたいな罪のない人はこの世に…」(中巻p65)と言われるほど善側の性格である。しかし本人は自分が悪いと思い込んでいるわけでここにも上記テーマのバリエーションがある。また駄々っ子のように買物に行きたがりラッグ大尉から怒鳴られて泣き出した後にマグダレンから慰められて涙をふく場面のセリフ「ありがと。あたしのハンカチを見ないでね。とっても、ちっこいんだから!…」(上巻p211)は哀れを誘いラッグ夫人の性格が鮮やかに浮かび上がる見事な表現である。

傲慢なノエルは自分は賢いとうぬぼれているが実際には簡単に騙されてしまうという愚かな役どころであるが、虚栄心の裏側にある劣等感や繊細なこわれやすい性格はレカウント夫人との会話劇の中で見事に表現されていく。時々レカウント夫人を思いやる態度も見せ、ここにも悪と善の混然一体といった上記テーマのバリエーションが感じられる。

飲んだくれのメイジー爺さんはバートラム海軍少将の忠実な部下で屋敷の裏庭で舩の模型を作ったり手入れをしたりしている。その神出鬼没ぶりや「残念じゃのう」(下巻p149,155)を繰り返すあたりはもしかしたら作者は神の視点を象徴させているのではなかろうか。もしそうであればここにも上記テーマのバリエーションがあるといえよう。

1862年出版の本作は長大のため1930年代の本格推理小説と比べると冗長という感もあるが、事件の謎の解決が中心テーマではなく上記のような善と悪という主題を軸にして織りなす様々な人間模様を描きそれを味わうことが主眼となっていると思われる。各登場人物の細かい心理や言動のそれぞれが謎解きの対象でありそういう意味ではミステリとしても最高峰の完成度を誇るといえるのではなかろうか。

本書には登場人物一覧がなかったので以下に補足しておくことにする。

<上巻>
アンドルー・ヴァンストン:イギリスの裕福な上流階級でクーム・レイブン邸の主人。
ノラ・ヴァンストン(ヴァンストン夫人):アンドルーの妻
ノラ:アンドルーの長女(26歳)
マグダレン:アンドルーの次女(18歳)
ハリエット・ガース(ガース先生):住み込みの家庭教師
トマス:従僕
クレア:隣に住むアンドルーの友人
フランシス・クレア(フランク):クレアの長男
マラブル夫妻:ブリストル市の商人でアンドルーの知人。エヴァグリーン・ロッジ邸の主人。
ハクスタブル:演劇公演のマネージャで俳優
ホレイショ・ラッグ(ラッグ大尉):ヴァンストン夫人の遠い親戚
マチルダ・ラッグ(ラッグ夫人):ラッグ大尉の妻。ダーチ食堂の元ウェトレス。
ウィリアム・ペンドリル:アンドルーの弁護士
マイケル・ヴァンストン:アンドルーの兄
セリーナ・ヴァンストン:アンドルーの姉(故人)
ノエル・ヴァンストン:マイケルの息子
ジョージ・バートラム:ノエルの従兄。セリーナの息子。

<中巻>
ヴルジニー・ルコント(レカウント夫人):マイケル、ノエル親子に長年仕える召使頭。
ルコント教授:レカウント夫人の夫(故人)。有名なスイスの自然科学者。
アーサー・エヴァラード・バートラム(バートラム海軍少将):ジョージ・バートラムの伯父。マイケルの友人。セント・クラックス邸の主人
ウィリアム・ストリックランド:教区牧師
リジー・ストリックランド(ストリックランド夫人):その妻
ロバート・カーク:商船船長。リジーの兄。
トーマス・バイグレーブ:ラッグ大尉の変名
ジュリア・バイグレーブ:その妻。ラッグ夫人の変名
スーザン・バイグレーブ:その姪。マグダレンの変名
ルイザ:小間使

<下巻>
ティレル家:ノラの家庭教師としての勤め先
ジョン・ロスコム:ノエルの弁護士
アルフレ・ド・ブレリオ:私立探偵所長
ガードルストーン夫人:ジョージ・バートラムの姉。セリーナ・ヴァンストンの娘。
アッドウッド夫人:ロスコム弁護士事務所の召使頭
ソフィア・ドレイク(ドレイク夫人):バートラム海軍少将の召使頭
メイジー爺さん:バートラム海軍少将の忠実な部下。セント・クラックス邸に住む。
ブルータス:バートラム海軍少将のラブラドル犬(鼻が黒)
カシアス :バートラム海軍少将のラブラドル犬(鼻が白)
サー・フランクリン・ブロック:バートラム海軍少将の旧友
トマス・ネイグル:靴屋
ドークス:バートラム海軍少将の農場管理人の部下
キャサリン・ラドック(ラドック夫人):ロンドンのセント・ジョンズ・ウッドの下宿の女主人
メリック:医師

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